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中間言言吾と しての古文の現代語言

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中間言言吾と しての古文の現代語言
中間言 語 と しての 古 文 の 現 代 語訳
一一『徒然草』を例として一―
鈴
木
義
昭
キーワー ド
の
中間言語 古文 現代語訳 徒然草 高校生 外国人学生
1.
は じめ に
「翻訳文体Jと い う言 い方 があ る。 これは西洋語 を翻訳 す る際、専 ら用 い ら
れる術語である。翻 って、 日本 の古典語 を現代語 に改 め る時 に も、 こ うした翻
訳文体 に も似 た構造 を採 る ことが ある。西洋語 を翻訳す る際、欧文直訳派 と漢
文直訳派 が あ った よ うに、古文 (=原 文 )と 現代 日本語 の 中間 に在 って、そ の
橋渡 しをす る文体 の ことで あ る。必ず しも純粋 な 日本語 で はない とい う意味 に
お い て、それは一種 の「 中間言語」 と言 つて よいであろ う。す なわち、原文 の
文法 的構造 を留 めなが ら、それ に対応す る現代語 で忠 実 に書 かれてい るか らで
あ る。
中国語 の原文 を日本語 の文法構造 に合 わせ て読 んだ漢文訓読文体 も、 こ う し
た意味 にお いては、同 じ構造体 である と思 われるが、本稿 で は、主 として原文
で あ る 日本 語 の古文 と現代 日本 語 との 中間言語 と して の現代 語訳 につい て、
『徒然草』 の注釈書等 を例 に採 りなが ら、 い くつ かの特徴 を挙 げてみ たい。
2.和 文脈
(― )
吉 田兼好作 と伝 え られ る『徒然草』 は、 日本文学 の古典 と して、永 い 間読 み
継 が れて きた。注釈 書 の類 も数多 く、現代 語訳 も多 くの 学者 ・教育者 の 手 に
よってな されて きた。全編 を対 象 にす る ものか ら、所謂学習参考書 の類 まで多
岐 を極 め て い る。本稿 で は、読者 の 目に最 も触 れ易 い もの をラ ン ダムに選 ん
―- 33 -―
で、その中の文体、古文翻訳の際に起 こる問題 を第二言語 のそれとして扱 うこ
とにする。
例 えば、『徒然草』第一段 には、
いでや、 このどにうまれ ては、原 は ιかるべ き事 こそ多かめれ。
とい う個所がある。 これに対 して、① ∼⑩ のような現代語訳がなされている
(ア
ンダーラインは筆者)。
① いやもう、 (人 間たるものは)こ の世に生まれて来たからには、 (あ ああ
りたい、 こうありたい と)当 然願わしく思うであろう事 こそ多 くあるよ
うだ。 (松 尾聡 ・『徒然草全釈』1989清 水書院)
② さてまあ、此の世に生まれたからには、当然誰 しもああもあ りたい、 こ
うもあ りたい と望ましく思うはずの事が沢山あるようである。 (三 谷栄
一 ・文法設問『徒然草』解釈 と鑑賞 1993有 精堂)
③ さてまあ、 (人 間 として)こ の世に生まれたからには、 (こ うあってほし
いと)願 うべ きことが多 くあるようだ。 (小 出光 『文法全解 徒然草』旺
文社
1996)
④ いやどうも、 (人 は)こ の世に生まれてきたからには、人間として当然
願わしく思 うような事 は、まことに多いであろう。 (秋 末一郎 『文法詳
解 徒然草』中道館
1998)
⑤ さてまあ、この世に生まれたからには、(誰 しも)当 然 願わしい事がま
ことに多いようだ。 (吉 沢貞人 『古典新釈 徒然草』中道館 2004)
⑥ いやもう、この世に生まれたからには、 (こ うありたい と)願 うにちが
いないことは、実に多いようである。 (新 明解古典シリーズ・桑原博史
『徒然草』三省堂
2005)
⑦ さてもう、この世に生まれたからにはこうありたい と願うことが、ほん
とうに多いようである。 第一学習社版 〉高等学校 『古典 古文編
I章 )』 準拠 朋友出版 出版年記載なし)
(〈
(第
③ いやもう、この世に生まれたからは、誰でも当然 こうあ りたいと思うこ
上 がいろいろと多い ようである。 (対 訳古典 シリーズ所収 ・安良岡康作
訳注 『徒然草』 旺文社
2002)
⑨ さてさて、この世に生をうけたからには、誰でも、願わしい と思 うこと
一- 34 -―
が、あれや これや と、 どつさ りあ る もの の よ うだ。 (完 訳 『日本 の古
典』所収 ・永積安明 『方丈記 徒然草』旺文社 2002)
⑩ さて、人が この世に生まれて きたか らには、当然 だれで も願 うことがい
ろいろあるようだ。 (三 木紀人 『徒然草』 (一 )全 訳注 講談社学術文庫
2005)(出 版年 は、本稿 で よつた諸本 の出版年 である。また、以下、書
名 は、執筆者名 十 『徒然草』の形 で簡称す ることにす る)
それぞれのアンダーライ ンの個所 を見れば分か るとお り、中高生や外国人がそ
れを読む際、当該個所 に違和感 を覚えるのではないだろうか。各者各様、表現
の違 いはあるが、 これこそが筆者 の言 う、「中間言語」 であ り、古文 を現代語
に改める時、 よく表れる文体 と言 つてよいであろう。以下、詳 しく見てみるこ
とにする。
まず、① ∼⑥ は、所謂「学習参考書」 における現代語訳 であ り、⑦ は、教科
書準拠 の参考書、③ ∼⑩ が一般書 による現代語訳 である。学習参考書を多 く引
いたのは、古文学習者 としての読者が多いこと、 しか も読者 の年齢が圧倒的に
若 く、感受性が鋭 く、影響 された り、反発 した りす ることも多 いと推察 される
か らである。
ここでは、「願 はし」、「べ し」、「こそ」、「め り」 の各語 の取 り扱 いが問題 に
なるであ ろ う。「願 はしJと い う形容詞 は、「願ふ」 の形容詞形 であ り、現代語
では、「望 ましい」 とい う形容詞形 の他、「願 わ しく思 う」 のように、「形容詞
十動詞Jの 方が一般的 になっている。形容詞単独 で用 い られず、動詞が併用 さ
れるものには、感情 を表す古典形容詞 にその傾向が高いように思われる。例 え
ば、「あへ な し」、「あやなしJ、 「思 は じ」、「慕 は し」、「 目覚 ましJ、 「をか しJ
、
「′
を惹かれる」、「 (打 消
し
等 があって、「張 り合 いがないJ、 「道理 に合わない」、
しを伴 って)考 えどお りに運 ばない」、「 目に余 る」、「趣がある」等 の意 とされ
る。
助動詞 「べ しJは 、現代語 では、
○ 今す ぐにでも医者 に見せるべ きだ。
のように、連体形で用 い られることが多い。あ るいはまた、
○ 無用 の者、立ち入るべ からず。
のように、古文 の言い回しを残す文章にしか用 いられな くなってい る。そのた
―- 35 -―
め、「当然 ∼すべ きだJの よ うに、助動詞 自体が持 つ「当然」 の意味 を補 うた
めに、副詞「当然」 を付け加えざるを得な くなって くる。あたか も、漢文訓読
文 で「当に∼すべ し」 と分けて読むのと似た操作を行 ってい るのである。 これ
を本稿では、「再読型翻訳Jと 名付けてお くことにする。
また、係 り助詞の「こそJも ある一定 の言 い方以外は、用 い られることはそ
れほど多 くない。例えば、
○
これこそ私が待ち望んだことだ。
○ 早 く来 たからこそ こんなにいい席 にすわれたのだ。
○ 今 でこそ普通の小父 さんだが、昔は野球の選手 として鳴 らした もの
だ。
のような「特立J、 「強調」の時に用 い られる以外には、それほど多用 されるこ
とはない。係助詞「 こそ」 が相呼応する己然形 を導 いて、文末を指示する働 き
を してい ると考 えるならば、大げさな強意 とする必要はな くなる。② の「沢
山」、③ o④ ・⑤ の「まことにJ、 ⑥ の「実にJ、 ⑦ の「ほんとうにJ、 ③ ・⑩ の
「い ろいろ とJ、 ⑨ の「どっ さりJ等 のよ うな、原文にはない語 を使 って、敢
えて不 自然な強調 をする必要はないであろう。実を言えば、 こうしたものは、
いずれ も副詞であって、漢文訓読文体 の特徴的表現法 と言えるのではないか と
思われるが、後稿 に待 つ。
文末 にある助動詞 ・現在推量 の「め りJは 、古典語だけに残 り、現代語で
は、 ほとんど用 い られな くな ってい る。「∼のようだ」、「∼ らしい」、「∼の よ
「∼のように思われる」 と訳 されて、間接化、婉曲化 の作用 を持
うに見える」、
つ とされる。その中で、④ の「であろ 」 だけは、単純な推量であって、婉曲
立
い
われてい
化が行
な 意味で、十分意 を尽 くしてい る とは言 えな い感 じ (誤
訳 ?)を 抱かせるのであろう。なお、「め りJが 漢文訓読文には用 い られない
との説 もあって、当該文が和文であることが傍証 されて興味深 い。
3.和 文脈
(二 )
また同 じく、『徒然草』第九段「女は髪 のめでた らんこそJを 例 に採 ってみ
たい。
女ぼグのめでたから4こ そ、スのど立つべか めれ。
―- 36 -―
とあるのを、
⑪女 は髪 の りつぱであろうことこそ
あ るようだ。 (松 尾 『全釈』
(一 番)人 の注 目を得 るはずの ことで
)
⑫女 は、髪 の美 しいようなひとこそ、人が 目をつ けるもののようだ。 (永
)
積 『徒然草』
つ
⑬女性 とい うものは、髪 の立派なのが、最 も、他人の 目をひき けるよう
であるが、……。 (安 良岡 『徒然草』
)
『
⑭女 は、髪 の立派 なのが、人の 目を引 くようである。 (三 木 徒然草』)
ベ
と訳 して いる。 ここで も助動詞 の婉 曲 ・推量 「ん (む )」 、助動詞 の推量 「
しJ十 助動詞 の婉曲・推量 「め り」 の訳 し方、「 りつぱであろうことJ、 「美 し
いような」、「はずのことであるようだ」 に違和感 を覚 えるであろ う。 これも本
稿 で言 う中間言語 =古 文翻訳文体 の一つである と言えよう。
∼
古文 の意志 ・推量 の助動詞 「ん (む )Jの 意味 は、現代語 では、「∼ うJ、 「
ようだ」 に移 っている。例 えば、
思 はむ子 を法師になしたら立 こそ、心苦 しけれ。 (『 枕草子』第 *段 )
とある文 を、
かわい く思 うような子供を僧侶 にしたとしたら、それ こそ
(親 が)気 の毒
なものだ。 (『 全訳 古語例解辞典』
)
のように、「ようなJを 入れて訳す わけであるが、「む」 と「む」が呼応 して、
仮定 「∼た ら」 に収束 して い るため、「よ うなJは 、屋 上屋 を架す類 となっ
て、違和感 のあ る訳 し方 となっている。 もっとも、
可愛 が りたいなァって子 をさ、お坊 さんに しちやうつて発想 ってい うの
は、ホ ン ト、胸 が痛 くなっちゃうよね ェ。 (橋 本治 『桃尻語訳 枕草子』
)
のような訳 がないわけでもないが、一般的ではない。
また、一説 によると、婉曲 。例示 を示す機能 とも言 う。 こうい う意味 では、
こ
前者 は婉曲の機能 を喪失 している。 ここで、前述 の「主題化」 を表す「 そJ
とともに用 いるのは、言語 の経済性 の原理 に反するであろう。よつて、
つ
⑬女性 とい うものは、髪の立派なのが 、最 も他人の 目をひき けるようで
あるが、……・。 (安 良岡 『徒然草』
)
『
⑭女 は、髪 の立派 なのが、人の 目を引 くようである。 (三 木 徒然草』)
―- 37 -―
の訳 し方が現代語 としては、穏当のように思われる。
助動詞「べ か 。めれ」 は、⑦ は「べ し」 の「当然」 の意味 を強調 した もので
あるが、ここでは、前述のように、「当然」 を補 った形 で、漢文訓読型の再読
文字風 に「当然、注 目を集めるもののようだ」 くらい に してお くのが穏当であ
ろ うが、当然の意はな くてもよいのではなかろ うか。⑩では、副詞 「最 も」 を
挿入す ることによって、「例外が少ない」、「道理にかなっている」 =「 当然」
の合意を加えたものと思われる。 また、「∼ もののようだ」 は、「∼ ものだ」 と
「∼の よ うだJの 複合 したものであろ う。「 ものだJと い う「一般性」 を
表す
表現に、それを直裁に言 うのを避けて、婉曲味を加えているわけである。
4.敬 語
ここでは、所謂「敬語Jの 表現が問題 になる。敬語 は 日本人の中高校生 に
とって、習得途上の事項 であ り、外国人学生にとって、習得困難な事項 の一つ
でもある。
『徒然草』第三十二段 に、
光ガ ″′の頃、或 るス に誘 771れ 奉 クて、ガ ぐるまでガ月 あ クぐ事庁 クι
だ、ぷ ι出る/7fあ クで、案内 させてス クを ひぬ。
とい う個所がある。これに対 して、
⑮ (陰 暦 の)九 月廿 日のころ、ある
(高
い身分 の)方 にお誘 われ 申 し上
ビて、夜が明けるまで月を見て歩きまわることがございましたが、(途
中で、その方 は、ふ と)お 思 い 出 しになる家が あ って、従者 に取 り次 ぎ
を申 し入 れ させ て、お はい りにな って しまった。 (松 尾 『全 釈』)
⑩九月廿 日の頃、ある人におさそわれ 申して夜があけるまで月を見てあ
ちらこちら歩きまわることがございましたが、その方がふと思い出され
登所 があ り、取 り次 ぎをたのんでそこへ お入 りにな りました。 (三 谷
『徒然草』解釈 と鑑賞)
⑫月二十日のころ、ある人のお誘いをお受けして、夜の明けるまで月を見
て歩 きまわったことがありましたが、 (そ の人は途中で)お 思い出し な
さる所があって、 (供 の者に)取 つ ぎをこわせて
になった。 (小 出『二色刷 り徒然草』
)
―- 38 -―
(そ
の家に)お はい り
⑬九月二十日のころ、ある方のお誘いをこうむって、夜の明けるまで、月
を見て歩 くことがございましたが、その方がお思い出し
│こ
なら れる家
があって、取次 を乞 わせておはい りにな って しまった。 (永 積 『徒然
草』
)
⑩ 九月二十 日ごろ、ある方 のお誘 い をこうむって、夜 の明けるまで、月 を
見 て歩 きまわったことがございましたが、その途中で、その方が思 い出
された所があつて、そ こへ行 き、私 に家 の 中の様子 をうかがわせてか
ら、室内にお入 り
│こ
なった。 (安 良岡康作 『徒然草』
)
⑩ 九月二十 日のころ、あ る人にお誘 い をいただいて、夜明けまで月見 をし
て歩いたことがあった。その方 は、ふ と思い出された所 に立ち寄 って、
取次 ぎを請わせてお入 りになった。 (三 木 『徒然草』
)
等 の現代語訳がある。本文 の方では、補助動詞 「奉 る」 (謙 譲)、 補助動詞 「侍
り」 (謙 譲)、 動詞 「思
(お
ぼ)す 」 (尊 敬)、 補助動詞 「給 ふ」 (尊 敬 )が 使 わ
れてい る。それ に対 して、現代語訳⑪ では、「お∼るJ(尊 敬)、 「 申 し上げるJ
(謙 譲)、
「ござる+ま すJ(丁 寧 ・丁寧)、 助動詞 「 ます」 (丁 寧 )(或 いは「ご
ざい ますJで 、丁寧)、 連語 「お ∼ になる」 (尊 敬)が 使 われている。補助動
詞 ・謙譲 「奉 る」 に対 して、尊敬連語 「お ∼る」 は疑間の残 るところである。
また、⑫ で も、「奉 る」 に尊敬「る」 を用 い てお り、違和感 を覚 える。⑬ で
は、美化語 「お誘い」、尊敬 「お受けする」 と処理する点、⑭、⑮ では、美化
語 「お誘 い」、受身・尊敬 「∼ をこうむる」 (語 彙 による受身)を 用 いて処理を
する。そ こまで複雑な言 い方をせずに、筆者 による、
④ 九月二十 日の頃、あるお方に誘われ申し上げて、夜が明けるまで月見を
しなが ら歩 いたことがあ りましたが、 (そ の方 は)思 い 出される ところ
があって、案内させて
(と
ある家に)お 入 りになって しまい ました。
くらいの訳 でよいのではないだろ うか。
5.直 訳 と意訳
これまで述べ てきたように、さまざまな出自を持 つている諸語 だけに、その
現代語訳には難 しい点があ る。そのため、 ここで引いた参考書 では、以下のよ
うに直訳 とか意訳 とい う語 を用 いて断わ りを入れている。
―- 39 -―
「口訳Jは 、で きるだけ語法 を正確 に理解 させるために、はなはだ し
○
く不 自然な感 じを覚 えさせないかぎりにおいて、 きびしく直訳体 をとっ
た。 (松 尾 『徒然草』
)
下段 には日語訳 を掲げたが、つ とめて原文 に即 した直訳体 とし、原文
○
の語脈 がわかるようにし、……。 (三 谷 『徒然草』解釈 と鑑賞)
通釈 は語学的な正確 さと口語 としての 自然 さ、わか りやすさの二点に
○
留意 し、……。 (小 出 『文法全解 徒然草』
)
口語訳はで きるだけ直訳 を旨とし、本文にない補 いの語句 はだいたい
○
( )で くくる ようにした。 (桑 原 『徒然草』
)
通釈 は、逐語訳 の方法 をとり、意訳はさけました。 これは拙 い ようで
○
も読者 に対 しかえって親切 で、着実な行 き方 と考 えたか らです。 (吉 沢
『徒然草』)
○
通釈 は、で きるだけ原文 に忠実 な逐語訳 としました。 (秋 末 『文法詳
解 徒然草』
)
○
大意 によって大づかみ した内容 をもとに、ここでは一文 ごとに理解 で
きるようにしてあ ります。 (高 等学校 『古典 古文編』準拠
○
)
口訳は、本文 の表現 に即 して、平易 なものにしようとして、極端な意
訳 を避け、かつ、本文 となるべ く対照 できるようにした。 (安 良岡 『徒
然草』
)
○
現代語訳 は、なるべ く原文に即 したものとしたが、国語文 として独立
に通読 で きるように、多少 の意訳 を試 みたところがある。 (永 積 『徒然
草』
)
○ 現代語訳 は、原文に忠実 であるようつ とめたが、あまりに長文 で文意
が取 りに くい部分な どは、必要に応 じて文を切 って訳 した。 (三 木 『徒
然草』
)
の よ うに、「直訳体J、 「国語 としての 自然 さJ、 「直訳」、「意訳 は避 けた=直 訳
を採 った」、「逐語訳」、「一文 ごとに理解 で きるようにしたJ、 「多少 の意訳 を試
みた」 =「 大部分 は直訳」、「原文に忠実」等 の断 りが入っている。学習参考書
としては、助動詞等 の働 き、意味が分かるような工夫をしてい ると言 い、一般
書 としては、原文 の味 を残 しなが ら、極端な意訳 は避け、多少は意訳 をしたと
―- 40 -―
言 うのである。注訳者たちの意識 の中にあるのかないのかは不明であるが、こ
うした訳文が中間言語 であること、すなわち、訳文 の言 い回 しに不 自然な とこ
ろのある点 を告白す ることになる。 しか し、そうした意訳 と現代語 との違 いが
語釈等 で説明されることがない点が、問題 となるであろう。すなわち、中間言
語 をどのようにしてそ こに在 る現代語に置 き換えたらいいのかが説明されない
からである。
6.漢 文訓読文体
こうした、助動詞 ・補助動詞等が多用 された文がある一方 で、漢文訓読 によ
る簡潔な文があるの も『徒然草』の特徴 である。第三十八段 「名利につかはれ
て」 などもその好例であろう。
名 X//に つかばれ て、斎 かなる いとまな く、 一生 を吉 ιむことこそF//1な
れ。″ 多けれ/ご 身 をf る にまどι。事を買 ひ素 を〃 ぐなかだ ちな ク。
この文 に、助動詞 は二語 しか使われていない。その現代語訳 は、
②名誉利益 に使役 されて心静かな暇 もなく、一生を苦 しめることこそ、ば
か らしいことである。 (ま ず利欲 について考 えてみるのに)財 産が多い
と、自分 の身 を守 る上 に欠ける点がある。 (財 産 は)わ ざわざ危害 を招
き、面倒 を招 く媒介物 である
(か
らである)。 (松 尾 『全釈』
)
④名誉 や利益 といった欲望 に使役 されて、心静かにしてい るひまもな く、
一生あ くせ くと、わが身 を苦 しめるのは、 と りわけ愚かなわざである。
財産が多ければ、身を守る ことがおろそかになる。また財産が多いと、
わが身 を守 りにくくなる。それ はまた、害を受け苦労 を招 くなかだちと
なるものである。 (永 積 『徒然草』
)
などとな り、違和感 のない、 ご く自然な文 となっている。 また、『徒然草』第
百三十一段 は、
資 ιき者 }ま財 をるでアιとし、老 いたる者助
をるでア
ιとす。ごカラ をタ ク
で、及 ばさ%け は、速やかにやひを智 といふべ ι。
とあ り、
⑩貧乏 な人は、人に財貨 を贈 ることをもって礼儀 と心得、老人は人のため
に筋肉 の力 を出すの をもって礼儀 だ と,とヽ
得 てい る。 (し か し、 これは
-41-
誤 った考 えかたである)。 自分 の身のほどを知 って、 (そ の事が)と うて
い 自分 の力 に及 ばない事 である ときは、早 くやめるのを賢いや り方 だと
い うべ きである。 (松 尾 『全釈』)
⑩貧 しい ものは財物 を贈る ことを礼儀 とし、年老 いた者 は
力仕事 をすることを礼儀 だと思っている
(し
(人 のために)
か しこれは供に間違 った考
えである)。 自分 の身のほどを知 つて、自分 の及 ばない時 はただちにや
め るの を賢明なや り方 と言 うことがで きる。 (三 谷 ・文法設問 『徒然
草』
)
④貧 しい者 は、財貨を人にお くることを礼儀 と心得、年老 いた者 は、体力
をもってするのを謝礼だと′
い得 てい る。自分の限界 を知って、 とて もで
きない ときは、す ぐさまやめて しまうのが、知恵のある生 き方 といつて
よい。 (永 積 『徒然草』
)
②貧 しい人 は、財貨を人に贈 ることを謝礼す る事 と思い、老人 は、力仕事
をしてやることで謝ネLを 果 たす ことと思 っている。 しか し、これは身の
程 を心得 ていないための誤 りであ って、自分 の身の程 を知って、 とても
能力 の及 ばない時 は、す ぐにやめて しまうのが、賢 いゆき方 といってよ
い。 (安 良岡 『徒然草』
)
ヽ
亡
得、老 いた者 は、その体力
④貧 しい者 は、財貨を人に贈 ることを礼儀 と′
ヽ
を貸す ことを礼儀 と′
ι
得 るものだ。 しか し、自分の身の程 を知って、力
の及 ばない ときはす ぐにやめるのを知恵 と言 うべ きである。 (三 木 『徒
然草』三
)
とある。 こう した文中にも取 り立てて問題 とする個所 はないと言 ってよいであ
ろ う。や は り、助動詞が使 われていない文章ゆえ、語義そのままを現代語 に移
し変えることがで きるからであると思われる。序でなが ら言えば、現代 日本語
の出自は、漢文訓読文体 に負 うところ大 であること、筆者 の しばしば言及 して
いるところである。
7.お わりに
高等学校 の国語 の時間には、 日本文学 の古典 =古 文の授業があ り、古文が教
えられてい る。中学校 で も現代語訳 を中心 とした形で、古文の入門を行 つてい
―- 42 -―
る。高等学校 のある古文 の教科書準拠参考書 (所 謂 「虎 の巻J)で は、「学習の
めあて」、「大意」、「品詞分解」、「通釈」、「語句 の研究」、「問」等 の項 目が設け
られてい る。先 にも挙げた 『徒然草』第一段 「いでや、 この世に生 まれてはJ
について、「通釈」では、
さてもう、 この世に生 まれたからには こうあ りたい と願 うことが、 ほんと
うに多 い ようである。
と書 かれる。「語句 の研究」 では、
いでや 文頭に使 われた場合、「いやもう。 さて」
この世に生 まれては 「この世」 には「人 間 として、この世の生を受けた
か らには」 とい う意味が含 まれている。
願 は しかるべ きこと 「願 は し」 は望む ところを乞 い願 う状態 を表す言
葉。「べ きJは 当然の意。
多 かめれ 「多かるJが 撥音便 になって、「多かん」 となり、「んJが 表記
されない形になっている。
とあるが、 これだけの説明で、通釈 の段階の理解に到達で きるのであろうか。
また、通釈 も中間言語であつて、完全な現代語になっていないとすれば、生徒
は教師の言 つたことや参考書 にある説明を鵜呑みにして覚えるしか方法がない
ことになる。 自分の思考による解釈な ど、思 い もつかないであろ う。教科書 に
は、
□ 作者が 「願 はし」「あらまほしJ「 あ りたし」 と言葉 を変えて述べ てい
る願望の対象 を整理 してみよう。
国 兼好が最 も望 ましいことと しているのは何か。ま とめてみよう。
□、回 は省略。
のような問題が付け られてい るが、自分な りの解釈がで きない うちにこうした
問いが解けるのかは疑間である。教師たちは、い きおい文学史的 な知識を振 り
かざして、生徒 たちを煙に巻 くのが落ちであろう。
一方、第二言語を含 んだ日本語 を外国人学生に教える時の問題 も小 さくない
であろ う。現在、中国の 日本語専攻の学科では、 日本語の古典を教えるように
なっているとのことである。その多 くが 日本人教師によって、日本 の高等学校
の、古文 の教科書によって行 われてい るとも聞いている。その際に、どのよう
―- 43 -―
な方法 を用 い て教 えて い るのか は現在 の ところ、未調査 で ある。
筆者 は、 中国で編集 された 『 日本古典文学読本』 (浙 江古籍 出版社 2002)の
編集 に加 わ った ことが あ る。 この本 では、上部 に原典 を挙 げ、下部 に現代 日本
語訳 を置 き、注釈 を施 した ものである。巻 末 には中国語訳 も置 い てあ り、私 な
どは、 日本人のや り方 としては、万全 の方法 を取 った もの と思 っていた。 とこ
ろが 、中国人 の あ る教 師 か ら、「 日本語 の古典語 を初 めて学習す る学生 には難
しいです。 もっ と文法項 目を充実 させ て くれた らよか ったです ね」 と言 われて
しまった。本稿 で述 べ て きた よ うな中間言語 をその まま用 い て い るので あれ
ば、学習者 の混乱 は必至 であ ろ う。古文嫌 い を生み出 し続 け てい くこ とにな ら
ない であろ うか。少 な くとも、現代語 として普通 に使 われてい る言葉 による現
代語訳 を提供 したい もので ある。将来、大学等 の各教育機 関 で 日本語 の古文 が
教 え られる よ うにな った時 のため に、一定 のパ ースペ クテ イブを持 ってお くべ
きであろ う。
(完 )
参考文献
浅野敏彦 『国語史のなかの漢語』 (1998年 2月 和泉書院
池上禎造 『漢語研究の構想』 (1984年 7月 岩波書店)
佐藤喜代治編 『漢字講座』第三巻 『漢字 と日本語』 (1987年 11月 明治書院
佐藤喜代治編 『講座国語史』第 6巻 『文体史 言語生活史』 (1972年 2月 大修館書店)
佐藤喜代治 『漢語漢字の研究』 (1988年 5月 明治書院
佐藤喜代治編 『漢字講座』第 9巻 『近代文学 と漢字』 (1988年 6月 明治書院)
林巨樹 『近代文章史研究』一一文章表現の諸相―― (1978年 3月 明治書院
林四郎 『漢字 ・語彙・文章の研究へ』 (1988年 2月 明治書院
中沢希男 『漢字 ・漢語概説』 (1978年 教育出版
山田孝雄 『漢文の訓讀によりて偉へ られたる語法』 (1935年 5月 宝文館出版)
山田孝雄 『国語の中に於ける漢語の研究』 (1940年 4月 宝文館出版)
山本正英 『近代文体発生の史的研究』 (1965年 7月 岩波書店
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