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地方公益企業の乗取失敗と関与銀行家の苦悩 −篠山軽便鉄道を事例
嵐ぱトートーーーーーーーー 地 方 公益企 業 の乗取失敗 と 関与銀行家 の苦悩 ― 篠 山軽使鉄道 を 事例 として 一 ノ Jヽ 功 I は じめに 資本力 の相対 的 に乏 しい地域社 会 の 中で鉄道や電灯 といった相対 的に巨額 の 資本 を必 要 とす る社会資本が どの ような性格 の資金 によって整備 されたか,そ の過程 で資 金の伸介者 である地域 の銀行 な り,銀 行家等 が どの ような役割 を果 1) したかは,興 味深 い テーマ の一 つ である。た とえば本稿 で地域社会 の好例 とし て取 上 げ た兵庫県多紀郡篠 山町 は大都市圏 との距離 が さほ ど離 れてい ない にも かかわ らず ,交 通網 の整備 の遅れ もあ って,地 元固有 の企 業 た とえば銀行 ,鉄 道 ,電 灯,新 聞等 が独 立 的 に存在 し,小 規模 なが らも地元資本家 の緊密 な連携 活動 の集積 の場 としての地元財界 を形成 してい た。 と りわけ銀行 は 『 多紀郡誌』 に 「 明治二十七八 年戦勝後 ノ事業勃興熱 ニ テ急 二増 シテ十五行 トナル。其内ニ ハ名ハ銀行 ニ テ実ハ 質屋 同様 ノモノア リ」 とある ように,小 さな地域社会 の割 に多 くの銀行 が乱立 してい た。 そ して大正 ・昭和初期 に活躍 した数人 の代表的 3) な人物 はいずれも商人であ り,共 通す る役職 として,公 職 。名誉職等を除 くと 銀行役員 と篠山電灯 (篠電)役 員 とい う顔 を持 っていた。篠電 は外部資本 ・才 1)最 近の研究では例えば赤坂義浩 「 大正期民営軽便鉄道の資金調達 一一京都府福知山北丹 鉄道 の事例 ―一」 (F経営史学』30巻3号 ,平 成 7年 10月)な どがある。 2)私 立多紀郡教育会編 『 多紀郡誌』M44,p47 3)代 表的な経済人 としては① 「 篠山町 に於ける第一の富豪」 (多p369)西 阪熊太郎 (醤油 醸造業 ,大 地主 ,137B頭 取,篠 電社長),② 「 篠山町で西阪氏 と肩 を並べ る」 (多p417) 樋 口達兵衛 (金物商,137B専 ,篠 電取 ,尼 崎城内土地取),③ 小西竹次郎 (篠銀取,篠 電 監),④ 「 代 々庄屋 を勤 め篠山藩の御用達」 (現p21)斎 藤幸之助 (種油製造,篠 銀頭 ,13 7B監,篠 電監,篠 山興信取),⑤ 米村文吉 (古物商,郡 議 ,町 議,商 銀専,篠 電取 ,篠 鉄 専, 日置銀行監)な どがあげられよう。 86 滋 賀大学創立5 0 周年記念論文集 ( 第3 2 1 号) 4) 賀電機商会 との提携 ・合弁 とい う形態 で 出発 してまもな く,提 携先 の破綻 に見 舞 われるな ど,多 少 の混乱 はあ ったが,持 株 が地元篠 山の銀行 関係者 によって 構成 される一種 のイ ンナー ・サ ー クル によって継承 され,そ の後 は資本系統 , 経営 ともに比較的安定 し,銀 行 主導 でほぼ安定的 に社会資本整備が継続 された。 その後 も業績 は大正12年上期 ∼大正 14年下期 は配当率 13%,大 正15年上期 14%, 大正15年下期 ∼12%で 比較的安定 してい た。 (電20回p961) これに対 して篠電 との共通役員 も多 く,株 主総会 も篠電本社 で開催す るの を 常 とした,篠 電 (資本 金60万円)に 次 ぐ規模 の地元公益企 業 である篠 山軽便鉄 道 (以下篠鉄 と略)(資 本 金30万円)の 場合 はか な り様相 を異 に してい た。篠 電 と多 くの共通点 を持 つ篠鉄 は当初外部資本主導 で設立 されたが ,よ うや く地 元資本 に回帰 した直後 に,播 州鉄道 (播鉄)の 主宰者 たる伊藤英 一 (以下伊藤 と略)と い う 「 兵庫県 の鉄道王」 によって株式 をほ とん ど買 占め られ,か つ当 の乗取 り主体 が破綻 ・失脚す る とい う異常事態 に遭遇 ,持 株 を引取 り運営 の主 体 とな った地元銀行 もその後 に整理 ,破 綻 を余儀 な くされるな ど,そ の株主構 成 は幾多 の変動 を経 たか らである。戦前期発行 の地元紙 や紳士録 の類 を除けば 資料 も乏 しい 中小規模 の私鉄 であ る篠鉄 に関 しては幸 い 中川浩 一氏 ,安 保彰夫 5) 氏 による先行研究 で現物資産 の詳細 な情報 を得 る ことが出来 , 『鉄道省文書』 等 の 関覧 でお世話 にな った交通博物館 の佐藤豊彦氏 , 車 両 メー カー に関 して ご 教示 を得 た沢井実氏 , 篠 山市立本郷図書館 ともども厚 く御礼 申 し上 げたい。本 稿 の一部分 は平成 1 1 年3 月 2 7 日鉄道史学会例会で報告 した もので, 伊 藤 の本拠 とした播鉄等 の破綻 に関 しては別稿 を予定 してい る。なお本稿 では紙面 の制約 上 , 対 象時期 の大正の年号, 対 象地 の兵庫県 ・多紀郡 の県郡名 は原則省略 し, 頻 出資料 ・社名 ・役職名等 は略号 で本文中 に示 した。 4)才 賀電機商会 に関 しては拙稿 「 明治末期 ,大 正初期 における生保 の財務活動 一― 電灯, 電鉄事業へ の関与を中心 として一―」『 生命保険経営』第48巻5号 ,昭 和55年9月 ,p86 5)中 川浩一 「 失 われた鉄道 ・軌道 を調べ るには」『 鉄道 ビク トリアル』140号,安 保彰夫 「 篠山鉄道始末記」① ∼③ 『 鉄道 ファン』249∼251号 6)『 鉄道省文書』 (交通博物館所蔵)… ・ 文,F営 業報告書』…・ 営 ,「株主総会議事録」等… 総,日 銀総裁宛神戸支店長報告 ,『日本金融史資料 昭 和続編』付録第三巻… 日銀 (う/ 地方公益企 業 の乗取失敗 と関与銀行家 の苦悩 87 Ⅱ 篠 山軽便鉄道の略史 篠鉄 の借方項 目 (資産復J)の 詳細 な分析 は両氏 の研究 に委 ね,本 稿 では もっ ぱ ら先行研究が言及 されなかった貸方項 目 (負債 ・資本側)に 着 目するが ,最 低限度 の略史 だけ を押 さえてお きたい。篠鉄 は 「 電灯 と姉妹 の関係 を以て軽使 鉄道を敷設せん」 (T4.9。 15S)と した篠電 を出 し抜 き,「坊 ケ内安治郎外六氏 発起人 とな り資本金八万円を以て篠山町 よ り篠山停車場に達する二哩四十鎖間 に軽便敷設」 (44.2.18R)を計画 し,明 治44年2月 出願,44年 6月 12日免許, 大正 2年 4月 27日設立, 4年 9月 12日 (旧)篠 山町 (乾新町)∼ 弁天 (味間村 大沢 に所在す る院線篠山駅)2哩 4分 (その後 (新)篠 山町まで延長 し3哩 11 鎖4.9キロ)を 軌間 3吹 6吋 ,蒸 気 (S10より瓦斯倫動力併用),全 線単線,軌 重28封度で新規開業 した。工事中の 3年 時点の資本金 は8万 円 (1600株 ),未 は13,755円 払込株金 ,社 長 は弘道輔1専 高田虎五郎 (M39は阪鶴相野駅長,国 M38蒸 p298),取小山捨吉 (岡野村,名 誉職助役,村 議,酒 造業,営 業税51円20 銭,所 得税150円78銭,工 T3,ホ p60),坊 ケ内安治郎 (有馬郡長尾村,発 起人 総代),西 阪熊太郎 (前出),監 樋 口達兵衛 (前出),小 田中菊蔵 (兵庫 ,T5.9 \ ち,「篠 山商工銀行 ノ窮状」 …・ 窮状),『日本銀行調査 月報』 (『日本金融 史資料 ・明治大正 ・ 編』第21巻)・・ 月,F本 邦銀行変遷史 』Hll… 遷 ,『大 日本銀行会社 沿革史』T8… 沿 ,日 中 宗幸 『 現代多紀郡人物史 完 』T5… 現 ,畑 貞 一 F多紀氷上人名鑑』篠 山新 聞社 ,S8・…多, 『 篠 山町七十五年史 』 …・ 篠,F日 本鉄道史』 …・ 鉄 ,『帝国鉄道要鑑』 …・ 国 ,『帝国鉄道年鑑』 …方,逓 信省電気局編 S3…道 ,F地 方鉄道軌道 一 覧』 …・ 軌,『地方鉄道軌道営 業年鑑』S4・ 『 電気事業要覧 』電気協 会,各 年度 … 電 ,「全 国株 主 要覧』,ダ イヤ モ ン ド社 …株 ,F銀 行 会社要録 』東京興信所 …銀,F日 本全 国商工 人名録 全 』 …・ 工 ,F日 本紳士録』交詢社 …紳, F帝国銀行会社 要録』帝国興信 所 …帝,F日 本全 国諸会社役員録 』 …・ 諸 ,『人事果信 録』 …・ 人 ,木 内英雄蔵版 『 兵庫県管 内紳士録 』 M39… 管 ,『兵庫 県人名鑑』Sll…庫 ,本 郷直彦 ・ 『 神戸権勢史』T2… 権 ,山 内清渓 『 兵庫 県 人物 列伝』T3・・ 列,寺 沢鎮 『 人物論 ・神戸 の … ・ 異彩 』T9… 果 ,『兵庫県銘鑑』神戸又朝 日報社 ,S2・…銘 ,『4 4山 新聞』 S,『 神戸新 聞』 … K,F鉄 道時報 』 …・ R,F大 阪銀行通信録 』 …・ 0,『 神戸銀行 史』S33年…行 ,篠 山軽便 鉄道 ・篠 山鉄道 …篠鉄 ,篠 山電灯 …篠電,播 州鉄道 …播鉄,播 州水力電気鉄道 …播水 ,篠 山商工 銀行 … 商銀 ,湊 西銀行 …湊西 ,百 三十七 銀行 … 137B,篠 山銀行 …篠銀 ,頭 取 …頭 , 事務 …専 ,常 務 …常,取 締役 …取,監 査役 …監 ,支 配人 …支 7)弘 道輔 は大阪市東区 ,M32は 阪鶴鉄道常 ,31年 所得税 15.1円紳 5版 p1008,M38は 阪鶴 取 (国M38職 p87),東 京芝区今里町77,大 阪船渠取 ,京 城商会取 (銀Tll下 p200) 88 滋 賀大学創立50周年記念論文集 (第321号 ) 50株)で あ った告 社長 の弘 は阪鶴鉄 篠鉄 70株),尾 鼻作太郎 (兵庫 ,T5。94 4鉄 道創立以来国有化 まで一貫 して重役 の座 にあ り,専 の高 田虎五郎 は阪鶴職員 で あ ったか ら,紳 士録 ・役員録等 には見 当 た らない郡外重役 もおそ ら く阪鶴人脈 に繋 が る人物 で もあろ うか。地元発起人 の小 山捨吉 は土 地 の 「 人が至難 として 危 みたる4 4山 軽鉄 には 自 ら其渦中 に投 じて苦心惨塘」,「東奔 西走以て三月末創 立総会 を開 くに臨み ては其取締役 に挙 げ られ,爾 来同社 の事務 を執 り,漸 くに して大 正四年九 月十 一 日開通式 を挙行す るに至 らしめた…功績実 に偉大 な り」 (多p181)と 賞賛 されて い る。小 山 は地元 の老舗 中核企業 の篠 山魚市場 の統 合 に も関与 した人物 だか ら,f 4山魚市場社長 の小 山竹次郎 らを計画 に巻込 んだ と考 えられる。 有馬郡有志者連 中はまず利権 目当 てに沿線 の見込 みある候補路線 の免許 を確保 15S)と したの を引受 けた小 山 らが元阪 し「 其後敷設権 を売 り付 け ん」 (T4.9。 鶴実務者 に相談 したので あろ う。阪鶴着工 時 に も篠 山周辺 では 「 土地買収 に際 し,一 部 に反対 の声強 く」 (篠p67)苦 労 した土地柄 なので ,沿 線有力者 の小 山 らと阪鶴実務者 は頻繁 に接触 した ことには間違 いなかろ う。篠鉄が地元 にとっ て 「降 って湧 い た様 に計画 された」 との印象 を与 えたのはかかる創 立の経緯 に 基づい てい る。 5年 9月 (次節 の伊藤 による買 占直前)の 篠鉄資本金 は 8万 円 (払込済 ),借 入金 。当座借越金36,679円,総 株数 1,600株,株 主数 182名,20 株 以上 の大株主 は小 山捨吉 (前出)141(8.8%),樋 口達兵衛 115(7.2%),西 阪熊太郎 110(6。9%)で ,上 位 3株 主 の合計 は366(22.9%)で ,以 下西阪源 三郎80,米 村文吉76,小 日中菊蔵70,富 永亀吉60,堂 本栞50,尾 鼻作太郎50, 奥谷浅太郎50,小 西竹次郎50,楠 本政治郎35,斉 藤幸之助33,酒 井玄三郎32, 山川庸之助 (大阪)30,中 川辰次郎 (大阪)25,山 本淳吉 (大阪)20で あ った。 (7営 T5.9)役 員 は社長西阪熊太郎 ,専 米村文吉 ,取 小 山捨吉 ,樋 口達 兵衛 , 小西竹次郎 ,監 小 日中菊蔵,斉 藤幸之助 とな り,総 辞職 した前重役 のあ とを引 続 い だ地元銀行 ・篠電関係者 で 占め られた。 (帝T5p79) F 鉄道電気事業要覧』T 3 , 鉄 道通信社 , 軽 鉄p 1 0 0 『 篠山町商工会発足八十年』平成 3 年 , p 3 1 所 収 地方公益企業 の乗取失敗 と関与銀行家 の苦悩 田 伊 藤英一一派 による買占と経営の変化 鉄道事業 に対す る関心が非常 に強 く,播 州 における民営鉄道網の完 伊藤 は 「 成をめざし…その後,播 州地区を中心 とした数多 くの電鉄,軽 便鉄道の事業計 )し 神戸 の異彩』 は伊藤の猪突猛進ぶ りの実例 と 画 にも参画」 たが,彼 の評伝 『 )を して 「 「 新宮電車の買収」 (T5/上 期 から6/上 期 にか 篠山軽鉄 の乗取 り」 け播鉄系 で大量 に買占め)の 次 ,「高野電車 を陥れ,鬼 怒川水電 を攻略」 (T6, 12.27伊藤鬼怒電取就任)の 前 に掲げる。決算期 日ギリギリの 6年 9月25∼30 日の篠鉄小 田中監 ,小 山取 (創立功労者)辞 任 (9営 T6.9p2)も伊藤側へ全 一 一 持株売却 による役員資格喪失 だと解すれば,「篠山軽鉄 …伊藤英 氏外 名 に 対 し売 去,」 (T6.2.lS)か と速報 された買 占の仕 上 げ時期 は 6年 9月 頃 と見 ら れる。買 占直後 の 6/9期 の株 主 数 はT5/9期 182名か ら152名に30名も減少 し た。10株超株主 (8営 T6.9p15)は 高見栄治 (印南郡 上荘村 ,国 包銀行専 ,五 成社監 ,龍 野電気鉄道監)319(19。 9%),米 村文吉 (専)150(9.4%),岸 本 ー 信次 (兵庫 ,T8.11鬼 怒電 1,000株,T9.5鬼 怒電 500株,伊 藤 のダ ミ か) 132(8.3%),岡 田元 三郎 (町議 ,商 銀取,篠 山魚市場取 ,篠 園 自動車社長, 篠 山製実用達取,後 に篠電取)95(5。 9%),伊 藤孝次 (伊藤長男)63,富 永亀 吉60,松 井新次郎 (尼崎,伊 藤製鉄取,朝 日屋商店取)55と 上位 7株 主で過半 数 を握 っている。以 下 は小西竹次郎 50,本 岡武助 (伊藤 の腹心的存在 の証券業 者)50,末 正盛治占0,斉 藤幸之助33,酒 井玄三郎32,土 肥又次 (加東米穀取引 所仲買人1社 銀行監,小 田銀行監)30,服 部金夫 (大阪)25,伊 藤英 三郎 (伊 10)『 山陽電気鉄道65年史』昭和 47年,p57 11)前 掲 『 人物論 ・神戸 の異彩』p93 12)西 阪熊太郎 に代 って 8年 5月 伊藤系 を代 表 して篠鉄社長 に就任 した末 正盛治は末正久左 衛 門次男 で 湊西専 ,「金 穀物件 土地建物貸付」 (帝T8p120)を 目的 とす る末 正合資 (後の 六 ノ坪合資)代 表,篠 電社長 ,神 戸発動機社長,神 戸取引所常監,伊 藤 の親威筋 で ,「末 正 一 門 の柱 石 たるべ き人物」 (庫p225)と 評 された。末 正の父 ・末正久左衛 門 は質商,大 末 正 家 一 門 を中 財 産家 ,地 主で ,明 治37年 7月 24日湊西代取 に就任 (行p249),同 行 は 「 心 に経営 され」 (行p247)て い た。 京都 の 山科伯爵家 とも姻戚 関係 があるほ ど,末 正家 は 「 神戸市西部 に於 ける累代 の名望家」 (列p547)で ,昭 和 3年 10月設立 の長久佛 には山科 家言が取 に加 わって い る。 (S4銀p19) 90 滋 賀大学創立5 0 周年記念論文集 ( 第3 2 1 号 ) 藤次男)21,中 西万次郎19,今 村勘造 15,酒 井新太郎 (町議 ,眼 科医)13,稲 川正雄12,羽 田初太郎 (篠山町立 町,金 貸業,煙 草売捌業 ,篠 銀取 ,丹 陽社監) 11であ った。実 は 1株 株主 中 に も稲 岡猪之助 (播鉄支),堀 増治 (縮銀行取 を 経 て西伊藤銀行 取 ,播 州煉瓦監 ),武 田忠三郎 (播州物産社長,加 古川化学工 業専 ,鮮 満木材車両監),黒 田辛 五 (働尾野商店取 ,播 州物産取 ,龍 野電気鉄 道取 ,播 州煉瓦取 ,播 州石材取 ,赤 穂鉄道取 )な ど伊藤配下 の主要人物が含 ま れる。 6/9期 (半年 間)の 株式名義書換 は133件851株 (1件 平均 6.4件)で ,実 に 総株数1600株の53%が 動 い たに もかかわ らず株主減 は意外 に少 ないのは 1株 株 主 に も伊藤 関係者 を配 して特定株主 に集 中させ なか ったためで ある。買 占を内 密 に進 めたい伊藤 らが ダ ミー株 主 を利用 したため と推定 される。 5/9期 との 対比 では持株 を増や した米村文苦 (76→150),不 変 の富永亀吉60,小 西竹次郎 50,役 員資格 のみ維持 した西 阪熊太郎 (150→50)以 外 は小 山捨吉 141,樋 口達 兵衛 115,西 阪源 三郎 80,小 田中菊蔵 50,堂 本栞50,尾 鼻作太郎 50,奥 谷浅太 郎 50らは全持株 を売却 した。 伊藤 の買 占後 ,篠 鉄 は以 下 に述べ るような積極策 に転 じて,ま ず資本金 8万 円 (払込済)を 一旦 6万 円減資 した上 ,新 線計画等 にあわせ 「 更 ラニ資本金 二 十八万円 ヲ増加 シ…三十万 円 卜改 メ新株 五 千六百株 ヲ募集」 (9営 p14)し た。 「 増資株金 … は全 部伊藤英 一氏 一派 に於 て引 き受 け」 (T6.11,16S),伊 藤 の長 男孝次 が新株 5600株の72.5%:4060株 ,残 りも末正 (社長),本 岡武助 ,米 村 文書 (専務)の 3名 で500株づつ 引受 けた。 (13営T8.9p13)伊 藤孝次 はダ ミー 等 に分散 してい た旧株 の名義 を 自己 に集 中させ , 8/9期 には総株数 の68.6% を握 り,篠 鉄 を完全支配 した。 篠鉄 は 6年 時点 では 「 未 開業哩ナ シ」 「 兼業ナ シ」 (国T7p44)と 極 めて消極 的経営 で あ ったが ,伊 藤 による買 占後 には定款 を変更 して兼業 として 「 電気器 具製造販売 ,農 産加 工 製造売買 ,信 託倉庫,土 地建物賃貸借売買 ,林 業 ,製 材 業」 (軌S7p129,道 S3p398)な ど,幅 広 く営 めるよ うに改 正 した。やた らと広 13)F日 韓商工人名録上』M41,実 業興信所,p96 地方公益企 業 の乗取失敗 と関与銀行家 の苦悩 91 範囲な営業科目を羅列 している所 など,あ きらかに伊藤流の播鉄多角経営 に範 1 4 ) を取 った もの と見 られる。 また 「 現在 の営業路線 は貨客取扱上不便 多 きを以て,起 点 よ り約 二十五鎖 の 線路 を県道 の南方 に変更 し,起 点駅 を篠 山町 の 中部 に設置」 (国T7p44)す る こ ととしてlo年2月 15日篠 山町の 中心部 たる東新町 に (新)篠 山町駅 を設けて 乗入 れた。株 主の伊藤定次 は後年 「回顧 ス レバ 当初此鉄道ハ 岡野村迄開業 シテ 業績不振悲境 二陥 ッタノデア リマス。此時末正社長 ガ入社サ レテ現在 ノ篠山町 中央 二乗入工 事 ヲ完成 サ レ」 (S18。 12.30総,文 )た と回顧 して い る。乗入 の 前提 として,さ らに定款第 2条 の 目的を 「 福知山線篠 山駅 ヨリ山陰線亀 岡駅間 二敷設」 (9営 p14)す るこ とに拡大す る とと もに,亀 岡 までの うちまず福住 村 までの福住線敷設 を10年 5月 18日 申請 (20営p2)し ,12年 2月 17日篠 山町 ∼福住村8.16キロ (蒸気, 3吹 6吋 ,建 設費90万円)の 免許 を得 たと なお篠 山 軽便鉄道 は14年11月18日 (26日登記 )社 名 を篠 山鉄道 に改称 した。 伊藤が政府補助金 を受 けなが らも長 ら く無配 を余儀 な くされてい たほ ど,収 益性 の乏 しい篠鉄 を支配 した メ リッ トとしては,世 人が彼 を して前述 の 「 兵庫 ー の鉄道王」 と呼ぶの を幾分 か促進 した こ と,彼 の傘下 にあ った鉄道車両 メ カー の伊藤鉄工所 が最低限度 1両 の蒸気動車 を篠鉄 に納入 させ た程度 か と思 われる。 伊藤鉄工所 は 7年 2月 に設立 され,50馬 力 の電動機 3台 を持 ち,大 阪桜 島の本 社工場 のほか,播 鉄 の所在す る加古川 に も分工場 を有 してい た4篠 鉄 の保有車 両 は蒸機 1,客 車 7,貨 車 5,計 13両 (道S3p398)末 期 で も蒸機 2,客 車 6, 貨車 5,計 13両程度 にす ぎず ,そ の受注 メ リッ トは知れ てい る。 14)た だ しT14∼S3の 間 には 「 土地建 物賃貸借売買」 の兼業 のための 「 所有土地建物」勘定 を毎期 4.8万円計上す る も,兼 業成果 の収入 は雑収入1,200円前後 しか見当 た らない 。 15)『 鉄道統計 年報』Tll監 督p5。軌 S7p129では篠 山町 ∼ 日置 村 6.0キロ に短縮 ,建 設費 も 48万円 に減額 ,S10年 版 で も不変 (p122) 16)中 川浩 一氏 に よって 「 篠 山軽便鉄道 は大正 7年 度 に蒸気動車 を購 入」 (中川浩 一 前掲稿 p75)し た とされた車両 に該 当 し,安 保彰夫氏 の調査 によれば篠鉄 の 自社発注 の蒸気動車 の形式 図 には 「 製造所名伊藤鉄工所 ,製 造年 月大正七年十 一 月」 (安保前掲稿① pl16)と 明記 されて い る。 17)工 業之 日本社編 F日本工業要鑑 』 10版T8,機 械pl(沢 井実氏 の ご教示 による) 92 滋 賀大学創立50周 年記念論文集 (第321号 ) Ⅳ 伊 藤英 一破綻 と湊西銀行 10年 4月 30日姉妹 関係 にある播州水力電気鉄道 (播水)の 定時総会 には実 に 奇妙 な議案 「 第三号議案篠 山軽便鉄道買収 の件」 が付議 された。議長 の伊藤播 水社長 は 「 当社株券 ヲ以 テ買収 スル コ トトシ,価 格及時期 ハ取締役会 ニー任 ノ コ ト」 (T10.4.30決,文 )と 説明 した。播水新株 2950株株 主 の町口昇 (伊藤商 事 監 ,総 会直後 の10年 5月 11日播水取就任登記 T10上 営p3)は 「 原案 ヲ左 ノ 通 り修 正 セ ンコ トヲ動議」 (同上 )し たが ,修 正 動議 の 内容 は 「当社株券十分 ノ五 及社債十分 ノ五 ヲ以 テ買収 スル コ トトシ,価 格及時期方法ハ取締役会 ニー 任 ノ コ ト。但 シ社債又 ハ株券交付歩合 ノ変更 ヲ為 ス場合 モ取締役会 ニー任 ス。 尚買収 ノ暁ハ 末正盛 治氏及米村文吉氏 ノニ名 ヲ重役 二選任 スル コ ト」 (決議録) であ り,「修 正案 二満場意義 ナク可決」 (決議録)し た。す でに伊藤 一派が買 占 めて支配 してい る篠鉄 をおな じ伊藤系 とはい え,地 理的に隔絶 した播水 が買収 す る意味が判然 としないが ,グ ル ー プ相 互 間で大 きな資産 を架空売買 して売却 “ "行 益 を計 上 す る 飛 ば し 為 か と推測 される。播水 には現実 に播鉄名義 の九州 1 8 ) の新延炭坑 ( 廃坑 同然 で実質無価値 ) を も売付 け よ う と画策 してお り, 資 金 繰 りに窮 し関係会社 を巻込 んだ粉飾決算 に狂奔 してい た伊藤 の断末魔状態 の現 れ と も理解 される。1 4 年に末正 は神戸取引所 の監 として 「 今頃 は伊藤氏関係 の多 くの会社 の其 れの如 く当取引所 は必ずや回復すべ か らざる哀れむべ き災禍 に見 舞 われて, 株 主諸君 と共 に之れが善後策 に腐心 せねば な らない羽 目に陥 ったで 1 9 ) あ ろ う」と篠鉄 ,播 水 の よ うな 「 伊藤氏 関係 の多 くの会社」が 「 之れが善後策 に腐心 せねば な らない羽 目に陥 った」事実 を明 らかに してい る。 伊藤英 一破綻 の 「 善後策」 の一 環 と して篠鉄 は13年 5月 28日の 定時総会 で 「 貸借対照表 中仮 出金 二計 上セシ所有土地建物 (鉄道用地以外分)二 関 シ,時 価 ヲ相当 二評価 シ,其 差益金 ヲ以 テ預金 回収不能金 ヲ相殺為 スル コ トヲ専務取 1 8 ) 新 延炭坑 の権利 関係 の変動 に関 しては荻野喜弘 , 新 鞍拓生両氏 の ご教示 による。 1 9 ) 「 演説原稿」 F 岸本家文書 』 2 6 0 0 番、布 川弘 「 実業家岸本恒太郎 の功績」桑 田優編 F 播 州高砂岸本家 の研 究』平成元年 , p l 1 4 所収 ■■■■日︱口FElill 地方公益企業の乗取失敗と関与銀行家の苦悩 93 締役米村文書 ヨリ詳細説明 セシエ満場異議無 ク之 レヲ承認」 (T13.5.28決 ,文 ) した。 この点 に関 して 『 実用鉄道会計』 の著者 として高度 な専 門知識 を有す る こ とで も知 られる鉄道省監督局業務課佐藤雄能は次 の よ うな付箋 を欄外 の上 に 添付 して注意 を喚起 してい る。 「 下記土地ハ 大正八年頃伊 藤英 一氏 力私財 ヲ以 テ篠 山軽便鉄道 ノ名義 ヲ以テ購入 シ置 キ タルモノナ リ。預金回収不 能 ノモノハ 同 シク同氏 ノ経営 二係 ル銀行 二対 スルモノナ リ。前記回収不能 卜称 スル預金 は [二万円内外]彼 是仮 出金 トシテ計 上セル土 地 [卜匹敵 セル ヲ以テ該土地 ヲ]返 還 スル コ トトセハ債権債務 ハ 大部分相殺 セ ラルル コ トナルモ,会 社 ハ将来 ノ発 展 ヲ予期 シ土地処分 ヲ欲 セスタ其侭 之 ヲ所有 シテ整理 セ ン トスルモノナ リ。何 レエスルモ本件 ハ 地方鉄道会計規程 第九条 二抵触 スル フ以テ不可ナ リ」 篠鉄提 出 の決算書明細 によれば12/9期 の預金27,166円は全 額末正の湊西宛 となってお り,確 か に同行相談役 たる伊藤 との関係 は深 いが,単 純 に 「同氏 ノ 経営 二係 ル銀行 二対 スルモノ」 とはいえない。 しか し何 らかの複雑な事情が介 在 して,篠 鉄 としては湊西から回収で きない (または湊西専務 たる末正の立場 では篠鉄 に払戻 しした くない)込 み入 った事情があった ものと推察される。鉄 道省 の意向に逆 らってまで も,篠 鉄が評価益 を計上 =湊 西からの預金回収の断 念せ ざるを得 ない事情があった ものと思われ,末 正の本業である湊西の伊藤関 係 の不良債権 の処理 と密接 に絡 んでいた ことは間違 いなかろ う。 (たとえば湊 西が伊藤に上記の土地購入 を貸出した際 に,篠 鉄が手形の裏書,預 金証書の担 保差入等なんらかの保証行為をなしたなど)仮 出金中の 「 鉄道用地以外土地」 は21,178円であったが,こ の点 に関 して鉄道省 の担当官 は 「 大正十二年七月… 土地建物評価額計上 ヲナス コ トヲ得サル旨通牒 アルニ拘ハ ラズ之ヲ計上セルハ 如何」 と付箋を付 している。このため12年5月 18日の定時総会で定款 の 目的に 土地建物 ノ賃貸借及売買業」 (T12上営)を 追加 した上で仮出金から 「 「 所有 土地建物」勘定 を分離独立 させ,14/3期 にはこれを27,166円の雑損 (回収不 能預金)と 同額 の土地評価益 を計上 して相殺 している。 「 伊藤氏 と姻戚関係 に在 る」 (Tll.12.lK)末 正の篠鉄持株がT8/9期 565 株 から10/9期 110に増加 したのは,時 期的な対応から支配株主の伊藤孝次持株 94 滋 賀大学創立5 0 周年記念論文集 ( 第3 2 1 号 ) (T8/9期 の4115株か ら10/9期 1580株に激減 )か らの移転 の一部 と考 え られ る。古川俊 (兵庫)が 同時期 に1000株の新規株主 に踊 り出たの も,仮 に末正の 湊西 の ダ ミー (S5取 に昇格 した古川厳副支 の 関係者)と 想定すれば,伊 藤 の 放 出分 を末 正 関係 で引取 った こ とになる。 このT8/9期 か らT10/9期 までの 時期 は伊藤 ・孝次父子が失脚す る時期 に当 り,伊 藤へ の融資銀行等 は先 を争 っ て債権確保 に動 き,担 保 の代物弁済 による取得,財 産差押 ,訴 訟等が相次 いだ。 篠鉄4115株処分 にもこ うした各債権者 の複雑 な利害が絡 んでいた と考 えられる。 湊西 は主 要 な持株 としては15年では営業上 緊密 な関係 にあった三十四銀行200 株 (主T15p275)し かな く,非 上場 で銀行 の営業 エ リア (神戸市内 のみ に本支 店)か らも隔絶 した篠鉄株式 の大量取得 は湊西 にとって もいかに異例 で,不 本 意 な ものであ ったか を推測 し得 るで あ ろ う。 問題 は末正 ・湊西側がなぜ魅力 の乏 しい篠鉄株を押 さえたであるが,可 能性 としては①湊西が従来から末正が社長を引受けていた関係 から篠鉄株 を担保 と して伊藤に融資 していた,② 「 伊藤氏 と姻戚関係に在る」末正 としては他行 の ような素早い債権確保が出来ず,優 良担保確保に出遅れた結果,流 通性の乏 し い篠鉄株あた りしか残 らなかった,③ 篠鉄株 を担保 とす る地元行 の商銀あた り が共同経営 を依頼 したなどが考 えられる。恐 ら く篠山の地元行以外 の一般行 は 篠鉄株 など見向きもしない中で, もともと篠電役員 として篠山 とは何 らかの地 縁関係ある末正が,や むな く個人的 に引取 ったのであろうが,そ の資金は当然 に一族で経営す る湊西から出す以外に策がなかったと考 えられる。湊西の立場 から言 えば営業区域を遠 く食み出 した篠鉄 に深 く関与す ることは甚だ好 ましく な く,世 間体 も悪 い との判断があ り,引 取 った篠鉄株 は一部末正名義 とす るす るほかは極カ ダミー株主 を使 って名義 を分散 してものと推定 される。T12/3 20)大 正 8年 4月 篠電社長末正盛治が 「 社務 一切 を主 宰」 (T8.4.26S)した結果,同 一 地域 の電灯 ・電鉄 を一挙 に系列化 して,電 灯会社 による電鉄会社 へ の売電 による稼働率 ア ップ をメ リッ トとした旧才賀電機商会 の よ うに,篠 電 ・篠鉄 へ の末正 ・伊藤系 の 同時浸透 には 「 軽鉄 プラス電灯 エ クオ ー ル篠 山電鉄 の発現 も近 き」 (同上 )と の地元 の期待 もあったが , む しろ過 少 設備 で 出発 した篠 電 は 「 営 業 を開始 し以 来成 績 良好 にて」 (『 電気 大観 』T5 p130)「供給戸 数 の増加 と共 に電 力 に不足 を告 げ るに至 ったので ,大 正五 年十 一 月 … 〈他 よ り〉 受電」 (篠p79)す るな ど,電 灯 ・電鉄 同時系列化 のメ リッ トは想 定 しに くい。 地方公益企業の乗取失敗 と関与銀行家の苦悩 期 に登場す る50株ち ょう どの無名株主 ,S2/3期 95 に登場する100株ち ょう どの 無名株主 はこ う した湊西 (ない し商銀等 の地元行)関 係者 であ る可能性 を秘 め てい る。そ う した 日でみる と100株主の沢村浅江 は湊西 の沢村 虎造支店主任代 理 ,50株 主の小 島金之助 は小 島荘兵衛取 との類似性がある。その他六 ノ坪合資 (旧末正合資)社 員 の内藤茂 も末 正紀 ,末 正 治 ら一族 とと もに篠鉄 1株 株 主 に 登場 してい る。 こ うした両行 の名義借用株 な らびに関係がある程 度判明 した篠 鉄株主 は [表-1]の 通 り。湊西 の抱 え込 んだ と想像 される伊藤関連 の不良債 権 が どの程度 の ものか を推測 させ る資料 は乏 しいので,そ の後 の同行 の動向か ら窺 うほかは ない。末正系 が篠鉄株主 に登場 した11年頃,兵 庫県 の銀行界 では 合併 の気運 が高 ま り,「社銀行並 二西伊藤銀行先 ツ合併 ヲ実行 スル コ トトナ リ シカ,其 後合併 ハ其範囲 ヲ拡大 シ湊西銀行 モ之 二加 ハ ル事 二殆 卜決定 シ,更 ニ 東播銀行行 モ近 ク湊西銀行 卜同一 ノ態度 二出ツルカ如 キ形勢 ナル由 (神戸新)」 (Tll.4月 p467所収)と 伝 え られた通 り,伊 藤英 一 の機 関銀行 と見 られる西 伊藤銀行 を,や は り伊藤系企 業 に関 わ りの深 い社銀行が救 済合併 した。実現 は しなかった ものの,こ の構想 に 「 湊西銀行 モ之 二加ハ ル事」 が 「 殆 卜決定」 し た背景 には伊藤関連企 業 の破綻 が尾 を引 い てい る と しか思 われない。神戸市内 の湊西 と東播地方 の郡部銀行 との合併 は地理的な必 然性が感 じられないか らで ある。 この合併構想が流れた後 の14年8月 「 資産状態 を堅実 にするため」 (T14. 80)湊 西 は100万円 の資本金 (払込 52万円)を 50万円 に減資 した。 しか し減 資後 のBSで も312.6万円の預金規模 に対 して,有 価証券33.6万円,営 業用 以外 不動産25.4万円 を抱 えてお り,さ らに諸貸付 138.8万円 (S4銀 p5)の 中 に篠 鉄株式等 を担保 とす る末正 一族へ の貸付等 を含 んでい る とす る と,決 して健全 な内容 とは言 えまい。14年 8月 「 頭取末正 久左衛 門氏 <末 正繁太郎 が襲名 >… 常務末正盛治氏両名 力無償提供」 (T14.8月 )し ,こ とさらに株式会社 と して は異例 な,末 正 家以外 の 「 他 ノ株 主 ニハ 異動 ヲ及 ホササル方法」 (同上 )に よ る変則 的減資 を敢行 せ ざるを得 なか った背景 には,末 正兄弟 (繁太郎 ,盛 治) が伊藤 の密接 なパ ー トナー として活動 した とい う負 い 目か らではなかったか。 伊藤 は最盛期 には末正 家 の本拠 たる湊西 に対 して も9年 時点 で筆頭株 主末正繁 96 滋 賀大学創 立50周 年記念論文集 (第321号 ) 表 -1 篠 株主名 (属 山軽便鉄道 の主要株主の推移 性 ) T8.9 T10.9 Tll,9 T12.3 T14 川瑞へ) 末 正へ) 21 0 51 5 8 01580 ↓1 1 0 10 63 4 1 1 ↓ 1 50 319 砂1 0 0)0 0 0 1000 515 5 1 5 515 0 ( * 印へ│漱 ? ) ?) ( X 印へ│) 散 0 132 0 55 30 53 30 53 30 53 30 0 15 15 550 550 0 5 0 5 50 0 2 4 孝次⇒) 孝次⇒) 0 0 0 0 0 ︲ 100 50 50 50 15 50 100 0 5 0 15 302 50 0 5 30 380 30 0 5 50 0 5 0 50 906 1000 1050 砂 2 0 ︲ 0 0 ︲ 0 5 0 0 2 2 末正盛治 末正 紀 末正 治 内藤茂 ( 六 ノ坪合資) 末正合資 小西間三 ( S 1 5 湊 西監 , 篠 電取) 古川俊 ( 兵 ) ( 古 川厳湊西副支関係 ? ) 沢村浅江 ク ( 沢村虎造湊西主任関係 ? ) 小島金之助 ク ( 小島荘兵衛湊西取関係 ? ) 稲次浜太郎 三枝清太郎 金井要 合田貞一 岡野辰蔵 橋本武夫 T6.9 0 0 1 商銀専) 米村文吉 川端伊之助 商銀取,投 機家,鬼 電 180株) 高田九兵衛 商銀 ,薬 商) 森本精 一郎 商銀監,呉 服商) 中道於兎次 商銀取 ,郵 便局長) / 1林ヤ ヽ 台三郎 商銀監 ,篠 山土地建物監) 岡田元三郎 商銀取,魚 市場取) 小西竹次郎 篠銀取) 斉藤幸之助 篠銀取) 鈴木平次郎 篠銀専) 西阪熊太郎 137B頭取) 坂部啓之助 篠 山商事取,神 取30株) 4 4山 自動車 植村新之助 篠 山自動車常務 ,篠 山電鉄発) < 末 正 ・湊西系 と未詳株主 > T5,9 ド伴し怜区︱︱︱ 1 に ド 取 取 ︲← <伊 藤系株主 > 伊藤英三郎 (伊藤英 一の三男) 伊藤孝次 (伊 藤英 一の次男) 塩 田半次郎 (兵庫) 木沢勝次 (神 戸市,神 取60株) 本 岡武助 (親 密証券業者) 高見栄治 (国 包銀行専務) 岸本信次 (鬼 怒電 1,000株主) 松井新次郎 (伊藤製鉄取,朝 日屋取) 土肥又次 (仲 買人,小 田銀行監) 藤井慎 二 (西 伊藤銀行監) < 商 銀 ・地テ系株 主 > 0 50 0 565 1100 1100 1100 1100 0 1 1 0 1 1 0 1 1 0 50 0 孝次↓) 0 1000 1000 0 50 50 1000 300 100 0 50 0 100 100 0 0 100 0 100 0 100 0 100 第七回営業報告書』 ( 大正 5 年 9 月 ) ∼ 『 第二十八回営業報告書』 ( 昭和 2 年 3 月 ) ( 資料) 篠 山軽便鉄道 『 ( 交通博物館所蔵) , 田 中宗孝 F 現代多紀郡人物史 完 』 ( 大正五年) , 畑 貞一 『 多紀氷上人名鑑J 篠山新聞社 ( 昭和 8 年 ) , F 篠 山町七十五年史』等により作成 地方公益企業の乗 取失敗 と関与銀行家 の苦悩 太郎 (湊西頭 )9130株 (総株数 2万 株 の45.65%)に 次 いで,5000株 (25%) を出資 し,末 正久左衛門 (先代)と 並 んで相談役 に就任 してい た。 (T9銀 p9) こ う した因縁 か ら末正 は神戸取引所 の株 主総会で 「自分 は友人 として伊藤氏 に 善意 の辞任勧告」 (Tll,12.24K)を 行 った と述べ ,11年 12月 5日 発足 した 「 坪 田,草 鹿 ,藤 尾 ,末 正 な どと云ふ友人知己」 (Tll.12.6K)に よる窮地 にある 伊藤 を支援す る会 に も加 わってい る。 篠鉄 の他 に も播鉄,新 宮軽便鉄道,兵 庫電気軌道 ,伊 藤製鉄 ,伊 藤商事 ,伊 藤鉄工所 な どの数多 くの伊藤 の関係事業 に重役 ・大株主 として深 くかかわって, 同系 へ の投融資 な ど,「堅実」 でない不良資産 を発 生 させたため,伊 藤 の 関係 事業 の破綻 ・整理が一段落 した14年 8月 とい う時期 に,同 行 の 「 資産状態 を堅 “ " 実 にす るため」,「全 部 同行経営者 たる末正家」 が 破綻銀行重役 の私財提供 なみ に極 めて厳格 な経営責任 をとる ことを,自 ら他 の株 主 に明 らかにせ ざるを 得 なか ったためではなかろ うか。 この 「 他 ノ株 主 ニハ異動 ヲ及 ホササル方法」 による減資 の結果, 9年 時点 の上位株主 (末正繁太郎9130,伊 藤5000,末 正1400 株)の 中で 1万 株 を償却 した後 も,昭 和 3年 末 で末正 久 (長久働取,S18年 湊 西取就任)1500,末 正盛 治 1000,末 正照子 1000の一族 3名 でなお3500株350/0を 占めた。 (S4銀 p5)こ う した末 正 の け じめの一環 として,昭 和 2年 3月 末正 は一旦f 4鉄 社長 を辞 し,取 も退任 ,相 談役 に退 い た。 2年 3月 末 の役員 は専米 村文吉 ,取 小西竹次郎 ,川 瑞伊之助,監 斉藤幸之助 ,岡 田元三郎 ,相 談役末正 盛治 となった。 (28営S2.3) V 篠 山商工銀行 の放漫融資 と破綻 の地元行 の うち,篠 鉄 に関 して湊西 と同様 な利害関係 に立 った4 4山 f 4山 商工 銀行 (商銀)は 篠 山郊外 の多紀郡城北村 ノ内沢 田村 に明治30年12月16日城北農 業銀行 として設立 され (遷p359),大 正 8年 時点 では頭藤井善 三郎 ,専 小林亀 治郎 (篠鉄用 地買収 に尽力),取 倉 垣 幸 之進 ,稲 川市松 ,多 幡治助,監 安井 五 郎右衛 門,竹 内熊之助 ,井 元鶴之助 ,倉 垣永 吉 (元城北村長,後 に商銀監)で あ り,資 本 金 は 3万 円 (払込済)で あ った。 (沿T8pl18)9年 10月篠 山商工 98 滋 賀大学創立5 0 周年記念論文集 ( 第3 2 1 号 ) 銀行 (商銀)と 改称,同 時 に所在地 を城北村 から中心部の篠山町立町に移転, 12年12月24日城西銀行 (M30.6設立,本 店多紀郡北河内村)を 合併 して宮 田支 店 とし, 4万 円増資 した。 (帝T13p9)さ らに昭和 3年 6月 には日置銀行 (多 紀郡 日置村)を 買収 して日置支店 とす るなど,外 観上は積極拡大の一途 を辿 っ ている。 しか し改称時 に主導権 を握 った川端伊之助 は辰馬酒造への杜氏稼業か ら認められて台湾辰馬商会支 にまで登 り詰めたが,台 湾時代 に土地投機で財 を 成 し,さ らに大戦期 に砂糖 を買占め,「一躍数十万の富 を握 って帰郷,篠 山商 工銀行 の設立 されるに及び,多 額 の出資 をな し,遂 にその頭取 に推 さ」 (多 p379)れ た人物 と伝 えられる。また商銀常 の高田九兵衛 (篠鉄取 ,篠 山実業 三十年経済界の変調 よ り株式場裡 に自旗 を揚げて,一 時 協会第二代会頭)も 「 大阪 に奔 り,両 替商及仲買業 を兼営 した」 (現p36)と され,伊 藤の播水200株 主 としても登場す る。大正バ ブルのまさに崩壊せんとす る時期 に,バ ブルで稼 いだ資金を元手 に,破 綻 した農業銀行から商工銀行への一大変身 を目論 んだの が商銀であったともいえよう。こうした改革路線 を疾走 した商銀 には当然の帰 結 として篠鉄株式等 を担保 とす る伊藤関係者への大 口融資 も発生 したと推定 さ れる。佐藤雄能 メモにあった 「 大正八年頃伊藤英一氏 力私財 ヲ以テ篠山軽便鉄 に添付 の付箋,文 )「貸借対照 道 ノ名義 ヲ以テ購入 シ置 キタル」 (T13.5.28総 会社ハ将来 表中仮出金二計上セシ所有土地建物 (鉄道用地以外分)」を篠鉄 「 ノ発展 ヲ予期 シ土地処分 ヲ欲 セス,其 侭之ヲ所有」 (同上)し 続けた事実から, 次 の諸点が推測可能であろ う。① 8年 頃には遠 く篠山地区にまで,阪 神間の上 地熱が波及 し,② 現実 に伊藤 らの地域外 の投資家が土地購 入に走 り,③ 伊藤ヘ の名義貸 にもせ よ,篠 鉄 自身も当事者 として関与 し,④ 鉄道 と商銀 との トップ を兼ねる米村文吉 らは土地購入 を是認 し,⑤ 13年時点でもなお 「 将来 ノ発展 ヲ 土地処分 ヲ欲 セス」 との不良債権問題 予期 シ」続け,⑥ 大 きな売却損 を出す 「 の先送 りをはかったなどである。 伊藤が篠鉄 を買 い 占めた際 に米村文吉 だ けが残留 した ことは, 伊 藤 に抵抗 し た とい うよ り, 「他郡 人 の力 を借 り」 ( T 6 . 1 1 . 2 1 S ) たことを意味 しよ う。す な わち伊藤 の買 い 占め行為等 に対 して, 株 式 の売切 りでな く, 商 銀 は当該株式 を 地方公益企業の乗取失敗 と関与銀行家の苦悩 99 担保 に とって 関係 者 に融資 をす る とい う協 力 の 方針 を とった と考 え られ る。 そ の状 況 証拠 の 一 つ と してT l 1 / 1 1 期 の 鬼 怒 川水 力 電気 の 株 主 名 簿 に兵庫 県 の 川 端伊 之助 ( 商銀 取 ) が 1 8 0 株主 と して , 1 3 年 3 月 末現 在 の播 水 の株 主 名 簿 に兵 庫 県 の 高 田九 兵衛 ( 商銀 常 , 篠 鉄株 取 ) が 2 0 0 株主 と して登 場 す るの は , 岡 田 元三郎が商銀 「 放漫経営」 (S7.10,20S)の元兇 と非難す る川端や高田らが伊 藤系の鬼怒電,播 水 とい う,銀 行 のエ リアとは無関係 な仕手株投資 に関係 した り,遠 隔地不振私鉄 の株式 まで,掻 集めて担保 にしていたことを暗示するもの と見 られる。後 に商銀 の実情が暴露 されるが,同 業者の137B専の団野源三郎 は 日銀当局の聴取 に対 して 「自分 ノ見ル所 ニテハ同行<商 銀 >ノ 債権中ニハ到 底優良ナルモノナク,強 制処分デモナサザ レバ換価 シ得ザルモノ」 (窮状S4. 11.1, 日銀p366)と 商銀 の貸出債権 の中身 を酷評 している。 日銀で も商銀 に 対 してはかなり以前から 「 予 テ内容良シカラス,業 績不振 ニ シテ屡々他行ヘ ノ 合併 モ噂 二上 リタル コ トアル」 (窮状S4.10。23)た め 「同行 ノ内容不良ナル コ トハ既 二久敷 クー般的二知 レ渡 り居 ル コ ト」 (窮状S4.11.1)と の厳 しい 見方 をとっていた。商銀の貸出債権 の中身を類推 させる一例 として篠山土地建 物 を挙げてお きたい。土地ブーム も過 ぎ去 ったはずの11年4月 とい う第二次反 動恐慌 の最中に地元行関係者 によって,篠 山土地建物 (資本金 5万 円)が 篠山 町ノ内東新町に設立 された。役員構成 は商銀 7名 (*印 ),篠 銀 2名 (×印), 137B4名 (#印 )(商 銀 を後盾 とす る篠鉄兼務者 (&印 )も 7名 )で あるが, 社長,専 を出 した商銀 に主導権があった。両支配人の経歴から,直 前 に破綻解 散 した篠山演芸 など興業 ・娯楽関連の不動産抵当債権 のなんらかの受皿かと推 定 される。同社の主導権 を握 った商銀 こそが 3行 中で最 も設立の必要性が高かっ 2 1 ) 社 長 * & 米 村文吉 ( 商銀専 , 篠 電取 , 篠 鉄専) , 専 * & 高 田九兵衛 ( 商銀常, 篠 電取 , 播水 2 0 0 株主 ) , 取 # 西 阪熊太郎 ( 1 3 7 B 頭, 篠 電取) , * & 川 端伊之助 ( 商銀取, 篠 鉄取 , T l 1 / 1 1 期鬼怒電 1 8 0 株) , # 団 野源 三郎 ( 1 3 7 B 専) , × # & 斉 藤幸之助 ( 篠銀頭 , 1 3 7 B 監 , 篠電監 , 篠 鉄監) , # 樋 口達兵衛 ( 1 3 7 B 専, 篠 電取) , * 中 道於 兎次 ( 大山村 , 商 銀取 , 大 山郵便局長) , 支 槙 田久吉 ( 篠山演芸清算人) , 岡 田東三郎 ( 同) , * & 岡 田元三郎 ( 岡 田商 店 主 , 商 銀取 , 篠 鉄取 , 篠 山魚市場取 , 篠 園 自動車会長) , 監 ×& 小 西竹次郎 ( 篠銀 取 , 篠 電監 , 篠 鉄取) , * & 小 林 治 三郎 ( 商銀 監 , 篠 鉄取 , 篠 園 自動車専) , 小 西記 一郎 ( 菓子商 ・洋服 ・小西商店主) , * 倉 垣永吉 ( 城北村 , 元 村長, 商 銀取) ( 帝 T 1 3 p 9 8 ) 100 滋 賀大学創立5 0 周年記念論文集 ( 第3 2 1 号 ) た とす れ ば , 大 戦景気 中 に放 漫 な不 動 産担保 金融 に走 った とがめが 出 た とも考 え られ る。 実 は1 3 7 B 専で , 同 社 取 の 団野 源 三 郎 は 昭和 4 年 1 1 月 1 日 日銀 神 戸 支店長 に対 して 「 商エ ニ対 シテハ数年前同行 ノ債権 ヲ見返 リエ重役個人保 f 4山 証 ヲ取 リテ十万 円計 リノ融通 ヲナシ,其 残高現在 尚四万円 ヲ存 セ リ」 (窮状 S 4.11.1付 日銀p366)と 報告 して い る。大 正 末期 に既 に137Bが同業者 の商銀 の資 金 難救済 のため,「同行 ノ債権 ヲ見返 リエ…融通 ヲナ シ」 た先 が ,こ の篠 山土地建物 だ と仮定す る と,11年 4月 とい う時期 の設 立 ,商 銀主導 で137Bも お 目付 役 と して役 員 を出 した理 由が よ く説 明 で きそ うで あ る。 なお篠 銀 と 137Bとは 「 両行 間ニハ ニ三重役共通 ノ関係 モ ア リテ,其 ノ内容良 ク判 り居 り」 (S5。 2.10付 日銀p366)と の親密 な間柄で最後 は両行 は合併 したほ どであ っ たか ら,篠 銀 も参加 した もので あろ うか。篠 山土地建物 は昭和 5年 時点 で も 「 篠 山町東新 町,資 本 金五万円,電 話四〇」 として土 地建物売買業 を営業 して い たが ,商 銀解散後 の10年時点 では該当がない。 同 じ伊 藤 の取引金融機 関の 中で も,上 場銘柄 の鬼怒電 ,神 戸取引所等 の一流 株 を担保 に してい た増 田銀行 ,神 戸取引信託 らは漸次売却 し,資 金化で きた。 湊西 と商銀 の両行 だけが伊藤 か ら篠鉄株式 を引取 り,役 職員 らの名義 に替 えて, 流通性 の乏 しい株式 とい う好 ま しか らざる資産 を不本意 なが ら長期 間抱 か ざる の配当率 は政府補助金 のあ った13年の を得 ない状態 を続 けた と思 われる。4 4鉄 8%を ピー クに,15/3期 6%,15/9期 5%,S2/3期 以 降 3%と 漸減 して い る。それ まで超低空飛行 なが ら低率配当 をなん とか捻 出 して して来 た篠鉄 も 昭和 6年 には15.3万円の借入金 と12,204円の欠損 を抱 え無配 に苦 しみ,4 4鉄株 を実質的 に長期 間抱 え込 んだ関係銀行 にとって,お そ ら く支払預金利子 に経費 を加算 した資金 コス トに比 し逆鞘 を発 生 させ る結果 になった もの と考 えられる。 商銀 は昭和 2年 末時点 で資本金54万円,払 込高41万2500円,支 店数 5(日 置, 2 2 ) 城南 , 宮 田, 河 原 町 , 古 佐 ) , 代 表者 川端伊之助 で あ った。 町史 では商銀 は 「昭和 五 年 頃 よ り次第 に営業不振 に陥 り, 整 理 中」 ( 篠p 6 0 ) と す るが , 現 実 には もっ と早 く, 既 に 3 年 5 月 2 6 日には 「 臨時総会 を開 き, 資 本金 を二十七万 22)『 銀行総覧』34回S2p272,280 地方公益企業の乗取失敗 と関与銀行家の音悩 101 円 に半減 して不 良資産 を鉛却 し, 更 に二 十三万円 に増資 して其総額 を五十万円 とし, 同 時 に重役 の改選 を行 った」 ( S 3 . 6 0 p 9 6 ) と して 「 新頭取 に大和 曲川 の 大素封家堀楢熊」 ( S 3 . 6 , l S ) 就任 が報 じられてい る。不 良資産 の 内訳 は末詳 なが ら, 少 な くと も商銀 は減資額相当の償却損 を抱 え, 表 面上 の不良債権額 は 数十万円規模 に も達 してい た ことが判明す る。 4 年 1 0 月時点 では 「同行 ハ既 ニ 半バ 睡眠状態 ノモ ノナ レハ資金 卜見 ルヘ キモノ殆 トナク, 重 役 中ニハ相当資産 家 アルモ寧 口逃腰 ヲ構 へ居 ル為 メ念 々行詰 り, 二 十 三 日重役会 二於 テ休業 モ亦 己ム ヲ得 サル 旨決議」 (窮状S4.10.24)し た。そ して 5年 4月 に日銀 は 「同 行預金ハ五割程度 ノ価格 ヲ以テ売買セラレ銀行 二対 スル債務 卜相紋 セラレ居 ル 為 メ… 自然清算 ノ歩 ヲ進 メツツアリテ結局解散」 (窮状S5。 4.26)す るもの と判断 した。 5年 8月 和議申立, 6年 2月 5日 和議確定 したが, 7年 7月 29日 の総会で,な ぜか遠距離の川辺郡伊丹町の伊丹銀行 (S2時 ″ 点で資本金50万円, 払込高20万円,支 店 なし,代 表者武内利右衛門)と の合併がほぼ決定 したが, 「 極 めて一部 の株 主 と債権者 の同意 を得 る ことが出来ず,遂 に不調 とな り」 (篠p60), 8年 7月 26日の臨時総会 で解散 を決議 し, 9月 30日任意解散 が認 可された。 (遷p298)篠 鉄社長 を兼 ねていた米村文書商銀専 は4年 10月29日日 <商 銀 >重 役ハ今 日迄二銀行 ノ為 二相当ノ犠牲 ヲ払 ヒタル 銀 に呼 ばれた際 に 「 コ トナ レバ此上私財 ヲ提供スル コ トニ就 テハ歩調一致セズ,到 底纏マル見込ナ ク中ニハ銀行解散説 ヲ唱 フル重役 モ有 ル位ナリ」 (窮状S4.11.1)と 苦渋 の 昭和六年実業界 を引退 して閑地 に 胸中 を告白 したが,『多紀氷上人名鑑』が 「 つ く」 (多p262)と 敢 えて穏便 に表現 したの もこの商銀破綻事件 の反映であろ 信用組合 ノ預金二万円二対 シ…予 テ個人保証 ヲナシ居 リ う。同様 に北河内村 「 シ」 (窮状S4.10。24)商 銀常 の北山繁太郎 (信用組合長を兼職)も ,「同組合 ニテハ銀行 ノ内容不良ナル コ トヲ知 り之 力払戻 ヲ要求 シタ」 (同上)た めか, 兼務 していた村議 を4年 引退, 7年 郷里 を出て大阪へ移住す るなど,引 責辞任 したと見 られる。 こうした商銀破綻 を受け,篠 鉄 でも社長米村文吉が引責辞任 した。 伊藤破綻 の影響 は商銀 だけでな く,篠 鉄ではあまり表面化 しなかった篠銀, 102 滋 賀大学創立50周年記念論文集 (第321号) 137Bにも当然に波及 したと見 られる。かって日露戦争後にも篠山で 「 投機熱」 が沸騰 したことがあ り,「電信 ヲ利用 シテ相場二加ハ リ,一 村内ニシテ数万円 一援千金ノ投機心ノ勃 ヲ失 ヒ資産家ノ急二倒産セン トスルモ少ナカラズ」 と 「 果 シテ蔓廷」(同上)し たと報告されている。大戦景気の際には狭い篠山町に 「 公市社債及諸株式売買金銭貸借並信託業」(T9銀p61)を 目的とする篠山商 2 4 ) 事 なる証券業者 も存在 し, 1 3 7 B 専 の樋 口達 兵衛 も遠 く, 尼 崎城 内土地取 な ど を兼務 した こと も, こ の時期篠 山町の投資 ブームの反映 と考 えられる。 1 3 7 B はT 1 0 / 9 期 ロー カル銘柄 な播鉄 の2 , 0 0 0 株もの大株主 ( 篠銀 も1 , 4 0 0 株) として登場す るが , 9 年 時点 の1 3 7 B の持株 ( 勧銀 1 0 0 , 興 銀 1 8 7 , 朝 鮮殖産銀 行4 5 0 , 百 三 十銀行 1 8 0 , 合 計 9 1 7 株, 株 T 9 ) か ら窺 える持株方針 との断絶 が 顕著 で ある。 さらに播鉄 の再建 のために, 債 務 の株式化手法 を駆使 して新設 さ れた播丹鉄道 で も1 4 / 3 期 1 3 7 B が1 8 0 0 株で1 2 位の大株主 となっている。 篠銀 に至 っては よ り投資適格性 を欠 く播水 9 0 0 株をも所有 したか ら1 3 7 B , 篠 銀 も播鉄 , 播 水株等 を担保 に伊藤 らに融資 し, 伊 藤 の破綻 によ り代物弁済 で担 保株 を取得 した もの と推定 される。篠銀 はその後, 「郡部小銀行 トシテハ 内容 左程悪 シカラザ ルモ…篠 山商工銀行 ノ窮状世間二知 レ渡 リシ結果一般預金者 ニ 多少不安 ノ念 ヲ与 へ」 ( S 5 。2 . 1 0 付 日銀 ) た ため 「 前途 に不安 を感ず るに至」 は 6年 1月 「 ( 同上 ) っ た4 4 銀 債権債務 を百 三十七銀行 に譲渡 し」 ( 行p 2 4 2 ) , 有馬郡 の営業 を譲渡 ( 行p 2 3 8 ) し た。 この際 に篠銀 は 「 其他 ノ資産負債 ハ 整 理会社 ヲ設 立 シテ之 二譲 り」 ( S 6 . 2 . 2 5 付 日銀 ) , 「整 理会社設立 後 ハ右貸付 金 ヲ肩替 リセ シメ, 極 力 回収 ヲ計 ル予定」 ( 同上 ) だ ったのが , 篠 山興信 と考 え られる。4 4 山 興信側 ( 名義人 は取斉藤幸之助 = 篠 銀頭) は 8 年 3 月 末 1 4 7 0 株 の播丹株 主 ( 1 3 7 B も1 8 0 0 株) と なってい る。清算 のための整理会社 で あ りな が ら, 播 丹持株 が永 く同数 で推移す る とい うことは, 株 式 に市場性 が乏 しく, 売 ろ う として も容易 に売 れなかった こ とを意味 しよ う。 しか し播丹 よ りさらに 規模 が小 さ く, 市 場性 が皆無 に近 い篠鉄株 では大軌 の ような買手 も期待薄 で, 前掲 『 多紀郡誌』p200 資本金 5万 円,本 社篠山町 ノ内河原町,取 坂部啓之助 (神取30株、S2/3篠鉄50株主) 地方公益企業の乗取失敗 と関与銀行家の苦悩 103 播 丹鉄 道株 の処分 以上 に困難 で あ った と思 われ る。 数少 な い篠鉄株 式 の 引取先 2 6 ) として注 目され るのは篠 山 自動車2 2 0 株, 植 村新之助5 0 株らのグル ー プであ る。 植村 は福住村, 村 雲村 な ど, 園 部方面へ の交通整備 に熱心 で, 篠 山電気鉄道却 下後 の1 4 年7 月 2 6 日城東 自動車 と福住商事 自動車部 を統合 して篠 山自動車 を設 立 したが , 昭 和 2 年 9 月 直営 バ ス を開業す る篠鉄へ の何 らかの意 図 を込 めた経 営参加 で あ ろ う。 篠 山 の諸行 の うち最後 に残 った1 3 7 B も1 7 年4 月 丹和銀行 ( 現京都銀行) と 神戸銀行 に京都府下, 兵 庫県下 の店舗 を分割譲渡 して解散 した。 ( 行p 2 3 8 ) Ⅵ む すび にかえて 4年 12月15日再 び前社長 の末正が相 談役 か ら現役社長 に復帰 して陣頭指揮 を は じめ,以 後 も一時退任 した時期 もあったが結局会社解散 まで トップの座 にあっ た。 この末 正復帰 の背景 にはやは り湊西 と並 んで篠鉄 の後盾 であ った商銀 が破 綻 したため,没 落傾 向 にあ る商銀系統株主 の篠鉄株式 を末正系 で再度買戻す事 態 も回避で きなか った と思 われる。篠鉄株 の相当数が篠鉄解散直前 で も末正 な い し湊西系 によって保有 されてい た ことを示す次 の ような状況証拠 がある。 15年 5月 時点 の篠鉄役員 は社長末 正 ,専 梅谷昇 三 ,取 柏木頴治 (S2湊西 入 行,S9湊 西常任監就任 ),細 見浩 三 (S8は篠電庶務主任 ,S15。6.22付役員選任 2 7 ) 届),18年 12月時点 の監 は末正栄蔵,古 川厳 (T9は湊西副支,S5湊 西常 )で あ っ た。18年12月30日,19年 3月 27日の篠電株 主総会 は東尻池 2丁 目20番地 2の 湊 25)た またま播丹では大阪電気軌道 (大軌)と い う大手のスポンサーが登場 し,播 丹 の持株 会社 である播丹証券が こうした処分 に困っていた金融筋等か ら播丹株式 を安値で買い取 る 形 を取 った。 26)福 住村 の植村新之助 は篠山電気鉄道 (資本金200万円)の 発起人総代 として,岡 田元三 郎 (商銀取 ,魚 市場取,篠 鉄 100株主)ら とともに11年12月30日省線篠山駅前 ∼園部駅前 <多 紀 >郡 東方面では交通 の不便 を痛感 21哩64鎖を出願 した。 (前掲安保稿③)こ れは 「 し,園 部,篠 山間を結 ぶ 『 園篠鉄道』 の建設 を計画」 (篠p69)し た一環 と思われる。 し か し篠鉄開業線及免許線 (失効 はT14)と の平行等 を理 由に13年8月 29日付 で却下された。 植村 らの篠鉄株取得 はT12/3期と出願中にあた り,明 らかに自己の計画線 と平行す る篠鉄 へ の経営参加 ない し牽制の意図が感 じられる。また植村 らが中心 となった篠山自動車 は高 田九兵衛 (商銀常,篠 鉄取)ら を発起人 (『 神夕 Eバ ス50年史』S54p26)として篠山電気鉄 道却下後 に発足 した。かって篠鉄 のライバ ルとして登場 した南丹 自動車 は 「 篠山軽使鉄道 会社 の強力な圧迫にあい…経営難の為完全 に行詰まった」 (篠p71)こ とがある。 104 滋 賀大学創立50周年記念論文集 (第321号 ) 3.27総,文 )さ れ,発 言 (S18,12. 西東尻池支店会議室 で開催 (S18.12.30,19。 30,総 ,文 )し た株 主 の 内藤茂 (東尻池)も ,「金銭穀類及其他物件土地建物 貸付」 の六 ノ坪合資会社 (T3.4設立 ,武 庫郡精道村)に お い て,末 正 ,末 正 治 とともに無限責任社員 (諸S10上p903)を 務 める末正一族 のパ ー トナーであ っ た。 (以上の湊西役員就任 は行p249∼251) 国鉄篠 山線篠 山口∼福住 間が 開業 した昭和 19年3月 21日に,篠 鉄 は篠 山∼篠 山町間の全線 を廃止 したが ,末 正 は最後 の社長 として全社員 との解散記念写真 (前掲安保稿② ,p96)に 収 まって篠 山を後 に した。18年の株 主総会で株 主の 伊藤定次 は 「 彼 ノ難局 ヲ処理 シ…在職実 二二十有余年 …今 日ノ盛況 ヲ呈 シマ シ タ」 (S18.12.30総,文 )と 末 正社長 へ の謝辞 を述 べ て い る。末 正 自身 は解散 を決議す る株 主総会 で議長 として 「 吾社 は…大正四年九 月十二 日竣成 開業 ヲ為 シ今 日二至 リタルガ,其 間経営上 幾多 ノ難関二道遇 シ時勢 ノ波 二漂 ヒ備サ ニ苦 汁 ヲfRメ タル モ忍耐克 ク 自重」 (S18.12.30総)し た と回顧 したが ,こ の言葉 は取 りも直 さず不本意 なが ら 「 在職実 二二十有余年」 に及 んだ篠鉄経営者 とし て よ りは,比 較的慎重 な末 正 に して時勢 に流 され投資判断 を誤 ったため一銀行 2 8 ) 家 として抱え込まざるを得なかった不良債権の重荷への総括でもあろうか。 もとよ り湊西 だけでな く破綻 した商銀でも不良債権 の明細 を解明するには至 らず,篠 鉄関連 はその一部分 にす ぎなかったか も知れない。 しか し大正バ ブル 期 の投機筋 による放漫 な投資行動 の答 めが永 く尾 を引 き,そ の後の関係銀行の 減資や整理の遠因ともな り,関 与 した銀行家達を苦 しみ悩 ませたことは間違い なかろう。 明治期 の私設鉄道の多 くは幹線 ない し亜幹線系のため関与銀行等の規模 も大 きく,『鉄道時報』等 の専門誌 の詳細 な報道 もあって,そ の鉄道 ファイナ ンス 2 9 ) も徐 々 に明 らかにな りつつ ある。篠鉄 と立 地条件 に類似性が高 い北丹鉄道 の事 30) 例 で も福知山の音 田三右衛 門家やその関係 した福知山銀行等 の被 った後遺症 が 27)末 正栄蔵 は弁護士,長 久取 ,真 野土地監 「 末正家の一族治良左衛門四男」 (銘p332) 28)安 保彰夫氏 の調査 によれば末正 「 社長が神戸から毎月 3回 , 8日 ,18日 ,28日 に篠山ヘ 来 る」 (前掲安保稿② ,p94)の が 日課で,大 正12年3月 にはそのための末正社長専用 の 二等客車 まで購入 させているとい う。 地方公益企業の乗取失敗と関与銀行家の苦悩 105 知 られているが,こ うした視点からの大正期以降の鉄道等の ローカルな社会資 本整備 と地元銀行等 との癒着事例 の研究 は資料面の制約 も多 く,緒 についたば か りの ところで,特 に明治期 の鉄道金融 との接続部分 の解明が急がれよう。 明治期 の鉄道業 に関す る総合的研究』(基 (本稿 は平成11年度科研費補助金 『 盤研究B,09430015,研 究代表者野田正穂)の 研究成果の一部である。 ) 29)拙 稿 「 明治30年代 における北浜銀行 の融資基盤 と西成 。唐津鉄道へ の大口投融資」F滋 賀大学経済学部研究年報』第 5巻 ,平 成10年12月,「明治30年代 の亜幹線鉄道の資金調達 と銀行家 一―総武,房 総,七 尾 ,徳 島鉄道 を中心に一一」『 彦根論叢』第316号,平 成11年 2月 ,同 「 明治後期 の不振私鉄 のファイナ ンスーー 金辺鉄道破綻 と債務の株式化事例 ―一」 『 彦根論叢』第319号,平 成11年6月 等参照 30)赤 坂義浩前掲稿p74,吉 国家 に関 しては宇佐美英機 「 幕末期城下町の商家 と奉公人」 社会科学』43号,平 成元年)参 照 (同志社人文研 『