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Title
モーリス・ラヴェルのピアノ作品《夜のガスパール》に関する一考察
: 詩との関わりからみた演奏解釈,《スカルボ》を中心に
Author(s)
川端, 英美歌
Citation
北海道教育大学紀要. 人文科学・社会科学編, 57(1): 135-150
Issue Date
2006-08
URL
http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/823
Rights
Hokkaido University of Education
北海道教育大学紀要(人文科学・社会科学編)第57巻 第1号
JournalofHokkaidoUniversityofEducation(HumanitiesandSocialSciences)Vol.57,No.1
平成18年8月
August,2006
モーリス・ラヴェルのピアノ作品≪夜のガスパール≫に関する一考察
一詩との関わりからみた演奏解釈,≪スカルボ≫を中心に−
川 端 英美歌
北海道教育大学札幌枝鍵盤楽器研究室
UneReflexionsur“GasparddelaNuit’’deMauriceRAVEL
−Uneinterpretationplanistlqueenrelationavecl’attraitdeRavel
pourlalitteraturefantastiqueえproposde“Scarbo”−
KAWABATA Emika
DepartmentofMusic,SapporoCampus,HokkaidaoUniversityofEducation
要 旨
モーリス・ラヴェル(MauriceRAVEL1875−1937)によって1908年に作曲された≪夜のガスパール≫
“GasparddelaNuit”には,≪アロイジュス・ベルトランによるピアノのための3つの詩≫“3Poeme
pourpianod’apresAloysiusBERTRAND’’という副題がついている.3つの詩とあるように3曲構成で,
1曲ごとに同名のベルトランの詩が添えられている.彼のピアノ作品の中で,曲に詩を添えるという試みを
した作品はこの≪夜のガスパール≫だけであり,ピアノ曲=「詩」と名づけたことから,ラヴェル自身がこ
の作品を詩のように捉えたか,または詩からの影響を強く受けて作曲したという意思が明らかに見て取れる
特徴的な作品となっている.ラヴェルはどのように「詩」に共感し,その美的世界を捉え,ピアノ音楽芸術
として表現したのだろうか.その関わりを考察することが,演奏をする際の大きな助けになるのではと考え
る.ここでは,演奏解釈時に不可欠な「詩」の存在に注目し,ベルトランを始めとするラヴェルが傾倒した
詩や文学作品の美学的傾向を知ることを通して,ラヴェルの創作時における音楽美学観を探り,演奏解釈及
び演奏法を考察する.特に本箱では第3曲目の≪スカルボ≫を取り上げる.
Ⅰ 散文詩『夜のガスパール』について
1.成り立ちについて
『夜のガスパール』はアロイジュス・ベルトラン(AloysiusBERTRAND1807−1841)の唯一残した散
文詩集である.フランスのデイジョン王立学校で学び,『夜のガスパール』は19歳ごろから書き始めた.新
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川 端 英美歌
聞の編集や,政治活動等も行いながらパリに出たが,日の目を見ないまま1841年,34歳の若さで貧困と結核
のため他界する.翌年の1842年に,友人で文芸評論家のサント・ブーヴらによって,ベルトランの死後彼の
枕元にあった遺稿作品の中から選出された13篇も加えたかたちで『夜のガスパール∼レンブラント カロー
風の幻想』として出版された.
その後,長い間忘れ去られていたものを,フランスの詩人ボードレールが,自身の散文詩集『巴里の憂鬱』
の序文の中で賞賛の言葉とともに取り上げたことで,注目を浴びることになった.
ベルトランの特徴は,韻文詩が全盛のロマン主義時代に,全く新しい幻想的散文詩というジャンルに挑戦
しつづけたことにある.副題の『レンブラント カロー風の幻想Fantaisiesえ1amanieredeRembrandtet
deCallot』の「fantaisie」とは,「規則にとらわれない,自由奔放な幻想的作品」を意味する.その名の通
りこの『夜のガスパール』は,まず序文自体が非常に奇異で,読む者を幻想の世界へと引き込む.第1の序
文では,芸術を追い求める詩人ベルトラン自身の彷捏が描かれており,その中で悪魔の化身「夜のガスパー
ル」氏に出会い,その「夜のガスパール」氏=悪魔自身が,第2の序文を書くという設定になっているので
ある.本編の詩には,それぞれ短い題辞(エピグラフ)が付いており,詩の内容を暗示させる役目を担って
いる.ここで『夜のガスパール』の構成を見てみたい.構成されている詩の題名の数々を見るだけでも,ベ
ルトランのその怪奇的な幻想的散文集の世界観を垣間見ることができるのではないだろうか.
2.散文詩『夜のガスパール』の構成(1)
・「序文」
夜のガスパール(レンブラント カロー風幻想),序,ヴイクトル・ユーゴー氏へ
・「フランドル派(夜のガスパールの幻想・第一の書ここに始まる)」…9篇
ハルレム,石工,ラザール隊長,尖った顎茸,チューリップ売り,五本の指,ヴィオラ・ダ・ガン
バ,錬金術師,宴への出発
・「古きパリ(夜のガスパールの幻想・第二の書ここに始まる)」・・・10篇
二人のユダヤ人,夜の乞食,角灯,ネールの塔,伊達男,夕べの祈り,セレナード,ジャン殿,真
夜中のミサ,愛書家
・「夜とその魅惑(夜のガスパールの幻想・第三の書ここに始まる)」…11篇
ゴチック部屋,スカルボ,狂者,小人,月の光,鐘楼下の輪舞,夢,我が曾祖父,オンデイーヌ,
火噺場,魔宴の時
・「年代記(夜のガスパールの幻想・第四の書ここに始まる)」…9篇
オジエ殿,ルーヴルの潜り戸,フランドル人,狩猟,ドイツ騎兵,大部隊,病者,愛書家へ
・「スペインとイタリア(夜のガスパールの幻想・第五の書ここに始まる)」…7篇
僧房,牒馬引き,アロカ侯爵,ヘンリケス,警報,教父プグナチオ,仮面の歌
・「雑詠(夜のガスパールの幻想・第六の書ここに始まる)」…7篇
わが藁家,ジャン・デ・
ティーユ,十月,シューヴルモルトの岩の上にて,いまひとたびの春,第
二の人,シャルル・ノデイエ氏へ
・「作者の草稿より抜粋したる断章」…13篇
美わしのアルカーデ,天使と妖精,雨,二人の天使,水上の宵,モンバゾン夫人,ジャン・ド・ヴイ
トーの魔法の旋律,戦いの終わった夜,ウオルガストの要塞,死んだ馬,絞首台,スカルボ,彫刻
家ダヴイッド氏へ
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モーリス・ラヴェルのピアノ作品《夜のガスパール》に関する一考察
Ⅰ ラヴェルの傾倒した美学的傾向
1.ラヴェルと散文詩『夜のガスパール』との出会い
ラヴェルと『夜のガスパール』との出会いについて,そして当時のベルトランの評価については,ラヴェ
ルの親しい友人でヴァイオリニストのエレーヌ・ジュルダン=モランジュが著作『ラヴェルと私たち』のなかで,
次のように証言している.
「ラヴェルに『夜のガスパール』を教えたのはリカルド・ヴイニュスだった.アロイジウス・ベルトラン
(本名ルイ・ベルトラン)といっても,ほとんどの音楽家はかれを知らなかった.風変わりな人物で,ロマ
ン主義が,あえて言うなら「伝説にみちたゴティツク」の悪夢の幻想をいよいよ濃くしていた時代のひとで
ある.当時のデッサンや,ヴイクトル・ユゴーのカジモドなどが,その特徴ある表現である.ラヴェルは,
エドガー・ポーのフアンであり,例の魔物めいた牧神にも魅せられていたくらいだから,この特異な苦悩の
詩人に心惹かれたのは当然だ.『レンブラントとカロー風の幻想』というのが『夜のガスパール』の副題で,
まさしくこの詩は,この二人の名版画師の銅版画を浮彫りにしている.すなわち,的確な用語で輪郭をとり,
作品の大部分に,中世の悪魔的な幻影を呼び起こして,版画の絵の感じを生じさせている(2).」
このリカルド・ヴイニュスは,ラヴェルの≪夜のガスパール≫の初演者であり,ラヴェルの作品はもとよ
り、ドビュッシー
の作品の初演なども手がけたスペイン人ピアニストである.ラヴェルとはまだ10代前半の
ころにピアノの授業で知り合い,ラヴェルの母もスペイン国境にまたがるバスク人であったことから母親同
士も親密になり,ラヴェルの幼馴染となった.ヴイニュスはあらゆる詩や文学に造詣が深く,ラヴェルの成
長期に文学的にも音楽的にも刺激を与えた重要な人物である.彼はボードレールの詩集『悪の華』の全ての
詩を暗諭して,ラヴェルや友人たちに聞かせるほどであった.二人はポーやボードレール等についての文学
談議に花を咲かせたという.その中で,ラヴェルはヴイニュスが紹介したベルトランの詩に深く関心を持っ
たのである.では,ベルトランをはじめラヴェルが傾倒した文学作品とは,一体どのような美学的な特徴を
持っていたのだろうか.ラヴェルが成長期を向かえていた19世紀末から20世紀初頭の時代,その文化的世界
を支配していた美学は,ロマン派の終焉から象徴派へと劇的に変化をとげていった.次の章では,上記のジュ
ルダン=モランジュやヴイニュスの証言などから,ラヴェルが傾倒していたエドガー・アラン・ポーからマ
ラルメまでの作家を取り上げ,その美学的傾向と関連性を探りたい.
2.ラヴェルの傾倒した詩人,作家達の美学的傾向
エドガー・アラン・ポー(EdgarAllanPOE1809−1849)はアメリカの詩人で,散文詩,怪奇幻想短編小
説の先駆者として,自国アメリカよりもフランスの象徴派の詩人達に多大な影響を与えた.代表的な詩では
『大鵜』(1845)や,奇怪短編では『黒猫』(1843)などがあるが,彼の作品の世界は,幻想狂気,悪夢,不
気味な美,悲哀感といったものを帯びている.特に,『大鵜』の中には,ベルトランの『スカルボ』と共通
する,夜の闇への恐れや悪夢といった世界観があるように思われる.彼はまた,詩作の理論と実践について
の『詩作の哲理』(1846)や『詩の原理』(1849)を書いた批評家でもあった.批評書の一つである『詩の真
の目的』(1842)の中には,次のような言葉がある.「魂が最も近く我々が説明した目標に,大井の実の創造
に達するのは,恐らく音楽の場合である(3).」この言葉を目にしたであろうラヴェルの作品は,「およそ人
工の極致をつくした詩によって絶妙な韻律を奏でた(4)」と評されるポーの詩と相通じる,人工的な美があ
るといえよう.
シャルル・ボードレール(CharlesBAUDELAIRE1821−1867)は,ポーの世界に傾倒し,自ら翻訳をし
てフランスに紹介した詩人である.代表作の詩集『悪の華』(1857)が,風俗壊乱の廉で罰金と6篇の削除
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川 端 英美歌
を命じられたことで,退廃的,悪徳,デカダンスな詩人として知られているが,精神界,感覚界,物質界の
諸事物の照応の理論を詩法として確立し,象徴派への道を開いた彼の幻想世界観は,後に続くあらゆるフラ
ンスの詩人達へ大きな影響をあたえた(5).そして,ボードレールがベルトランの『夜のガスパール』を世
に知らしめた,散文詩集『巴里の憂鬱』の序文『アルセーヌ・ウーセイに与う』の中の内容は次のとおりで
ある.「あの『夜のガスパール』(貴兄と私と,それから私達の友人の数人とによって認められた書物は,既
に有名と呼ばれるべきあらゆる資格を備えていないだろうか?)を,少なくとも20回目に読み返している時
であった,それに倣って,私もまた何事かを企てたいと初めて私が考えたのは(6).」こうして書き綴られて
いった詩は,彼の望んだ通り,音楽的で,幻想の起伏と意識の飛躍を柔軟に適用した,後に象徴派の最高の
散文詩と言われるほどの成果を成し遂げた.そしてボードレールに傾倒していたヴイニュスとラヴェルは,
ここからベルトランの『夜のガスパール』を知ったのである.
もう一人,ラヴェルに影響を与えた詩人で、ポーとボードレール,そしてベルトランに影響を受けたフラ
ンスの詩人に,ステファン・マラルメ(StephaneMALLARM丘1842−1898)がいる.マラルメはボードレー
ルと同じく,ポーの翻訳をしており,その際には「ベルトランをご覧,そこには全てがある.」と語ったと
伝えられているように,ベルトランの形式を参考にしたと言われている(7).1896年21歳の若さで,マラル
メの詩『聖女』を美しい声楽曲に仕上げたラヴェルのことを,ジュルダン=モランジュはマラルメと同類の
人間であると評した.後の1913年にも声楽曲≪ステファン・マラルメの3つの詩≫を作曲したラヴェルは,
自伝素描の中で「私はマラルメの詩想を音楽に置き換えたいと思った.とりわけ、深遠さに溢れた、あの独
特な気取り(preciositeプレシオジテ)を.」と語っている(8).「preciositeプレシオジテ」とは,表現の洗
練を目指す文学傾向を表し,古くは言葉や物腰の洗練さを競った17世紀の風潮からきており,気取りや凝り
すぎという意味である.ジュルダン=モランジュもいうように,ラヴェルの音楽は洗練されて気取っており,
凝りすぎの点でマラルメと同様である.そしてマラルメは例の魔物めいた『牧神の午後』の作者であり,そ
の詩にドビュッシーが曲をつけた≪牧神の午後への前奏曲≫は,この時代の詩や文学を含むあらゆる芸術美
学を内包する,象徴的な作品となっている.ラヴェルは,この曲をピアノ連弾用に編曲しており,自分の葬
儀にかけて欲しい曲は?という問いかけに,≪牧神の午後への前奏曲≫をと答えたともいわれている.
ポーとボードレールの美学に影響を受けた当時の作家には,ユイスマンス(Joris−KarlHUYSMANS
1848−1907)や,ヴイリエ・ド・リラダン(Villiersdel’Isle−Adam1838−1889)がいる.ラヴェルは,ユイ
スマンスの『さかしま』(1884)やヴイリエ・ド・リラダンの『未来のイヴ』(1886)についてよく話してい
たという(9).『さかしま』は,後のデカダンス文学作品全ての萌芽的作品といわれるほどであり,俗世界に
嫌気がさした主人公が,あらゆることを「さかしま=さかさまえrebours」にとらえた、退廃的かつ官能的
な幻想世界である.作品中では,ユイスマンスが傾倒していたポーやボードレールやマラルメやヴュルレー
ヌ等の作品や,ギュスターヴ・モロー等の絵画についての批評論が,随所にちりばめられている.この主人
公デ・ゼッサントは,自分の生きている19世紀末のブルジョワ民主主義と科学万能主義とを頭から軽蔑し,
日常的な現実を一切拒否し,カトリック的中世に憧れ,ひたすら感覚と趣味とを洗練させて,この世ならぬ
人工的な夢虫」の境に逃避しようとする(10).この主人公の晴好は,ラヴェルと重なる点が多い.すなわち古
典回帰や,感覚と趣味の洗練(ダンディズム),幻想と人工的な美への理想などが,逆説的に混在するラヴェ
ルの魅力である.そしてマラルメとも深く親交を持っていたリラダンの『未来のイヴ』は,人造機械人間を
通しての理想と現実の禿離の世界,つまり完全なる人工美への憧れと皮肉が描かれているのだが,ラヴェル
の機械的人工的な晴好はここからきているのではとも言われている(11)
ラヴェルの傾倒した主な詩人や作家の流れをみてきたが,これらの作家達には,ある脈々と流れる一貫性
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モーリス・ラヴェルのピアノ作品《夜のガスパール》に関する一考察
がみられる.各作家自身たちは何らかの形で美学的影響を受け,その世界観を自己の中で更に増幅し,また
影響を与え続けた.その実学的な特徴は,大きく捉えると,幻想性,逆説性,人工的な美への偏愛といった
ものといえよう.このことからも,ラヴェル自身の美学的傾向も,ある揺るぎない一連のものであったので
はないかと考えられる.
Ⅱ ピアノ作品《夜のガスパール≫の成り立ち
1.ラヴェルの作風について
≪スカルボ≫を献呈された,ルドルフ・ガンツ(12)が改訂に携わった『ピアノ音楽への手引き』の中では,
ドビュッシー
とラヴェルの作風の差異について次のように述べられている.
「ドビュッシーは奮修(しゃし)にふけり,ラヴェルは禁欲的であった.ドビュッシー
はときには“賊民悪
徒と交わる’’式の態度を示し,芸術と生活のなかでそれに耽溺したが,ラヴェルは,常に精神の貴族性を保
持した.声楽曲やピアノ曲,あるいは管弦楽曲を書くのに,かれらはまったく異なった手法を用いた.ラヴェ
ルは,ドビュッシーより形式を尊重し,ドビュッシー
はけっして≪ソナチネ≫のような曲を書くことはなかっ
た(13).」
上記のように,ラヴェルは作曲する際に,形式という枠組みを自らに課す傾向があった.新たな作品に取
り組む際には,先達から脈々と引き継がれてきた形式を使用した上で,更に進むための独自のコンセプトを
据え,最大限の芸術的表現ができるよう実験することを好んだ.ジャンケレヴイツチ(14)やコルトー(15)
は,
これをラヴェルの「賭け」といっているが,ラヴェルのその職人的ともいえる気質は,ストラヴィンスキー
をもって「スイスの時計職人」と呼ばしめたことでも有名である.初期の作品で印象派の先駆けのように言
われる≪水の戯れ≫においても,ソナタ形式という「枠」の中でまるで魔法のように新しい響きを表すこと
を試みた.このように,自らに「枠」を課すといったある意味禁欲的な作曲の試みは,彼が若い頃に傾倒し
ていたダンディズムの精神,すなわち自己抑制された物腰や,禁欲的かつ厳格的な優雅さ等と関わりがある
ともいえるのではないだろうか(16).感情や思惑に溺れ流されることは,彼の洗練された趣味に反したにち
がいない.そのことは作曲する際に,ドビュッシー
が色彩の響きを求め,形式からより解放されようと試み
たこととは逆に,ラヴェルの作風が作為的,人工的と言われる所以でもあるといえる.では,この「夜のガ
スパール」ではラヴェルは自らに何を課したのであろうか.創作時期の周辺と証言等から考察したい.
2.ピアノ作品≪夜のガスパール≫の創作
夜のガスパールと同じ1908年に作曲された≪マ・メール・ロワ≫は,お伽話を題材にした,無邪気で純粋
さを思わせる子供のためのピアノ連弾曲集である.自伝素描の中でラヴェル自身が「この曲集の中に子供時
代の詩情を呼び戻すという構想が,手法を単純化し,飾りを取り去る書法へと,自然に私を駆り立てた(17).」
と語ったように,簡潔な書法の中に夢のような美が織り込まれており,≪夜のガスパール≫とは対極に位置
する曲集となっている.しかし,この2つに共通するキーワードは幻想(ファンタジー)である.このこと
について,ラヴェルの弟子であったロラン・マニュエルはこの≪マ・メール・ロワ≫と≪夜のガスパール≫
について,「幻想的な作品であるということから離れること無く,その雰囲気だけを温度変化させたのだ.
…ペローの白魔術が,ベルトランの黒魔術へと,取って代わったのだ.」と述べている(18).このラヴェル
の表現的な対極晴好,先ほどの章で言う逆説的(さかしま)晴好は,ピアノ曲としては後年に善かれたコン
チェルト2曲にもみられる.すなわち≪ト長調のコンチェルト≫が「自」で,≪左手のためのコンチェルト≫
が「黒」といった雰囲気を持ち,やはりこちらの2曲も同時期(1930頃)に創作されているのである.
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川 端 英美歌
そして技術的手法としては,ラヴェル自身≪夜のガスパール≫の基盤となったのは「1a virtuosite名人
芸的な技術」であると語っているように(19),当時,世の中で最も技術的に困難とされていたバラキレフの
≪イスラメイ≫(20)よりも,さらに難易度の高い,超絶的な曲集を書くことを自らに課した.こうして≪マ・
メール・ロワ≫の「簡潔さ」と,≪夜のガスパール≫の「超絶技巧」という,技術的な対極性も決定したの
である.
もう一つ,白い幻想である《マ・メール・ロワ≫の対極に匹敵しうる黒い幻想に最も適した詩として,ラ
ヴェルがベルトランの『夜のガスパール』を選んだ理由には,副題の『レンブラントカロー風幻想』(21)
にもあるように思われる.
ベルトランは『夜のガスパール』の序文の中で,この副題に関してこう述べている.「芸術は常に対照的
な二つの面を持っている.言ってみれば,片面はポール・レンブラントの,もう片面はジャック・カローの
風貌を伝える,一枚のメダルのようなものである.レンブラントは自覚の哲学者,寓居にかたつむりの如く
隠遁し,瞑想と祈りに心を奪われ,目を閉じて思念に耽り,美,学問,叡智,愛の精霊と語り合い,自然の
神秘的な象徴の中に分け入って,生命を使い尽しているのである.一方カローは,ほら吹きであけっぴろげ
な雇われ兵,町の広場を気取って歩き,酒場で騒ぎ,ジプシー女を片手に抱いて,自分の剣と嘲臥(らっば)
銃しか信用せず,ただ一つの気掛かりと言えば口茸に抽を塗り込むだけの男である.」このことからも解る
ように,ベルトランは自分の詩作の中に,この二人の画家の対極的な二面性を表したかったのだといえる(22)
そして,この副題とホフマン(23)との関連性について,シュットウツケンシュミットはその著書の中で次
のように述べている.「『夜のガスパール』という標題は,直接ホフマンを暗示している.この音楽に浸った
ような『カロ風幻想曲』が出たのは1815年のことであった.ベルトランは自らの作品集を『レンブラント風,
カロ風の幻想』と名づけているのだ.そういうわけで,この詩人はふたりとも,あのジャック・カロのグロ
テスクな銅版画から出発している.カロは,いわばスペイン人フランシスコ・ゴヤのバロック時代の先駆者
といった存在で,戦争と死の恐怖を,模倣できぬようなやり方で画(え)にした人である.サント・ブーヴ
は詩人アロイジュス・ベルトランを「詩句の鍛冶屋」と名づけているが,彼の幻想による名人的に磨かれた
完全な形式はラヴェルを魅了したに違いない.この詩の宝石のような性格が,『夜のガスパール』という奇
妙なタイトルを生んだのであろう.なぜなら,ペルシア名のカスバルは他ならぬ宝守りを意味することをベ
ルトランが知っていたのは確かだからである(24).」ラヴェルは,ベルトランの『夜のガスパール』の中の
『夜とその魅惑』の辛から『オンデイーヌ(水の精)』を,そして,詩集最後に付け加えられている『作者
の草稿より抜粋したる断章』の中から『絞首台』と『スカルボ』を選び出し,3つの詩に基づく「3つのピ
アノ詩」を創ることを試みた.実は,『夜とその魅惑』の章の中で『オンデイーヌ』より前に,同じ『スカ
ルボ』という題名の詩があるが,こちらでは,「私」と「スカルボ」の対話が記されており,もともとは『死
衣』という原題であったとされている(25).しかし,ラヴェルは『作者の草稿より抜粋したる断章』の中に
ある,よりスカルボの描写性に徹した『スカルボ』の方を選んだ.そしてラヴェルが選んだ『スカルボ』の
題辞には,前記のホフマンの『夜の物語』からの一節が記されているのである.
更にラヴェルの≪夜のガスパール≫の構成は,形式的にはソナタを暗示するように,3曲のテンポが急一
横一急となっており,絶望の風景のようでもある横いテンポの≪絞首台≫を間に挟む形で,≪オンデイーヌ(水
の精)≫ =「白」と,≪スカルボ(悪の精)≫ =「黒」という,ある種対極的な構図も見て取れるのである.
こうした対極的な二面性,逆説的美学が,ラヴェルがベルトランの『夜のガスパール』を選んだひとつの
理由であり,ピアノ作品≪夜のガスパール≫創作時の,ひとつの大きな「テーマ」ともなっているのではな
いだろうか.
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モーリス・ラヴェルのピアノ作品《夜のガスパール》に関する一考察
Ⅳ 散文詩『夜のガスパール』より,『スカルボ』について
ベルトランの『夜のガスパール』の詩には,それぞれ短い題辞(エピグラフ)がついている.ここでは,『ス
カルボ』の前に付いているホフマンの題辞も含める.
1.『スカルボ』(原詩と訳)(26)
Ilregardasouslelit,danslecheminee,danslebahut;−perSOnne.
Ilneputcomprendreparodils’etaitintroduit,parO也ils’etaitevade.
HOFFMANN.“Contesnocturnes.
彼は寝台の下,暖炉の中,植(ひつ)の中を見た.一誰もいない.
それが何処から入り込み,何処から抜け出したのか解らなかった.
ホフマン『夜の物語』より
Oh!quedefoisjel’aientenduetvu,Scarbo,lorsqu’えminuitlalunebri11edans
lecielcommeun6cud’argentsurunebanni昌red’azursem6ed’abei11esd’or!
Quedefoisj’aientendubourdonnersonriredansl’ombredemonalc6ve,
etgrincersononglesurlasoiedescourtinesdemonlit!
Quedefoisjel’aivudescendreduplancher,pirouettesurunpiedetrouler
parlachambrecommelefuseautomb6delaquenoui11ed’unesorciere!
LecroyaisLjealorsevanoui?Lenaingrandissaitentrelaluneetmoicommele
Clocherd’unecathedralegothique,ungrelotd’orenbranleえsonbonnetpointu!
Maisbient6tsoncorpsbleuissait,diaphanecommelacired’unebougie,SOn
Visageblemissaitcommelacired’unlumignon,LetSOudainils’eteignait.
おお!幾度,聴き,幾度,見たことだろう,スカルボを.
金色の蜜蜂を鎮めた紺碧の旗の上で,銀色に輝く盾の如く,空に月が短く午前零時に.
幾度,耳にしたことだろう.私の閏房の暗闇の中で,低く叩きざわめく彼の嘲笑を.
寝台の絹の天幕に,爪を乳ませるあの音を.
幾度,見たことだろう.魔女の紡錘竿(つむざお)からすべり落ちた紡錘の如く,天井から跳び降りて、
爪先立ちで部屋中を廻り狂う彼の姿を.
消えた?と思ったら,その小人は,尖った帽子の先の金の鈴を揺らしながら,月と私の間を,ゴシック
大聖堂に揺れる鐘の如く,大きく膨らんでいった.
141
川 端 英美歌
しかしみるみるうちに,彼の体は蒼く,蝋の如く透き通り,顔面は燃え尽きる寸前の蝋燭の如く蒼髄め
た.−そして突然,彼は消えた.
2.『スカルボ』とは
スカルボとはいったい何なのか?過去,様々な形容がなされている.ラヴェルと親交が深く,ピアノ協奏
曲ト長調を献呈された,女性ピアニスト マルグリット・ロンは「暗闇の帝王の使者,幻想的な物語から生
まれた悪魔(27)」と言い,ジャンケレヴイツチは「シャボン玉のように破裂する意地の悪い小人(28)」,コル
トーは「地の精(グノーム)のいらだたしい悪行(29)」と言っている.スカルボとは「悪魔の化身」であり,
「夜の闇の象徴」ともいえるのではないか.不眠に悩まされつづけていたラヴェル自身が恐れ続けた,深い
闇かもしれない(30)
次の章では,ベルトランの詩から,ラヴェルがどのように『スカルボ』を表現をしたのか.そしてこの幻
想的で奇怪な≪スカルボ≫をどのように弾いたらよいのかを,演奏解釈と演奏法を交えて考察したい.その
前に,この後1915年に作曲された≪混声合唱のための3つの歌≫の中の,第3曲目≪ロンド≫の,ラヴェル
自作の詩を見てみよう.この詩は,まるでラヴェルの好みの言葉の宝箱のようである.この言葉の数珠たち
が,ラヴェルが悪魔的な黒い幻想の『スカルボ』に惹かれた理由を明確に物語っているのではないだろうか.
オルモンドの森へ行ってはいけない 若い娘たちよ,森へ行ってはいけない
森はサチュロスや,半人半馬の怪物や,意地の悪い魔法使いでいっぱいだ,
妖精、夢魔,人喰い鬼,化け物,牧神,いたずら妖精,蛇身の女神,大悪魔,中悪魔,小悪魔,
山羊脚の神,地の神,悪霊,人狼,風邪・火・地の精,一寸法師,妖術師,魔術師,吸血鬼,
幽鬼,一つ目の巨人,鬼神,小鬼,悪鬼,死霊使い,怨霊……ああ!(31)
Ⅴ ピアノ作品《夜のガスパール≫より,《スカルボ≫の演奏解釈について
1.はじまりの美学
【語例1】
邑旦崖∈退退ヨ
ホフマンによる題辞(エピグラフ)の大切なポイントキーワードは,「一誰もいない」「夜の物語」である.
そして「奴が何処から入り込み,何処から抜け糾したのか解らなかった」である.つまり誰もいない静寂の
夜の聞から,静寂へと戻る曲の始まりと終わりを左右した鍵の言葉である.そのため,この曲が始まる前の
142
モーリス・ラヴェルのピアノ作品《夜のガスパール》に関する一考察
表現として,悪魔的なスカルボ出現の予感を,数秒間の「闇の無」のような一種の真空空間として,極度の
集中と緊張感を持って創り出さなければならないであろう.必然的に,前の第2曲≪絞首台≫との間には完
全なる弛み(休息)があってはいけない.
1/ト節目【譜例1】は,「月の短く午前零時に,誰もいないはずの,閏房の暗闇の底から」這い出て,一
瞬辺りを窺っているかのようなスカルボを,ラヴェルは低音からなる3つの音と,8分休符の休止でみごと
に表現している.この最初の3つの音を,ラヴェルはペルルミュテールの楽譜に「commeuncontrebasson
コントラファゴットのように」と書き込んだ(32).始まりに関して,コントラファゴットを使用するという
手法は,「左手のための協奏曲」と同様で,不気味な幻想性を感じさせる.
2/ト節目,8分休符の後に突然,属音desの32分音符のトレモロ(連打音)が神経を逆撫でするような
不協和音とぶつかり合って現れる.この8分休符の一瞬の「間」こそ,スカルボの出現の予感に凍りつく「私」
と,スカルボの「悪」とがぶつか
る緊張の一瞬である.この32分音符はいったい何か?「bourdonner低い
振動音をたてる」スカルボの不気味な嘲笑とも考えられる.ラヴェルは直接ペルルミュテールに「comme
untambour太鼓のように」と指示をした(33).楽譜には「tresfondu,entremOlo」(とてもぼかされた,ト
レモロで)という指示があるが,Fonduは絵画でいう色合いや輪郭をぼかす技法である.ここでは,細か
く微妙なトレモロを表現するために,左手の2と3の指を鍵盤と直角に立たせ,鍵盤の中程でハーフタッチ
で痙攣させて弾くテクニック使用をすると良い.スネアのロールテクニックを彷彿とさせるもので極めて困
難だが,上手くできると素晴らしい効果をもたらす.トレモロの後は「trさslong非常に長く」の指示通り,
充分にフェルマータの休符を取り,また地から這い上がるようにスカルボの予感が現れる.
その後,非常に低い音程の3音がだんだん速度を増していき,高音域で突然ppから#の幅の耳を努くよ
うな和音のトレモロに至るのだが,この最初の始まりの1ページ目にして,ピアノの全ての音域を下から駆
け上がるという効果によって恐怖感が頂点に高まる.更にこの序奏全体il−31/ト節iを見てみると,始ま
りから一向に和声が解決しないため,演奏者にも聴衆にも31/ト節間という非常に長い緊張感を感じさせる効
果があり,詩で表されているスカルボの恐ろしさを体感させるには充分な,まるで映像のように綿密に練ら
れた序奏となっているのである.
2.主題とそれぞれの表現
第1の主題A【譜例2】i32−36/ト師,スカルボの劇的な出現を表す.同時に悪夢の恐怖による「私」の
叫びのようでもある.ここでは,左手の16分音符の3連符を一気に溢れ出る怒涛の彼のように弾ききらなけ
れば,スカルボの悪魔としての俊敏さを欠いてしまうので注意したい.また,mfから任までの幅広いクレッ
シュンドとデミヌエンドをできるだけ極端につけることで,スカルボのその非現実的な様相を表さなければ
ならない.この主題は,確かにロマン的な要素もあるが,右手をドイツロマン派のように歌いすぎて,遅く
重くなってしまうことは避けるようにと,フランスの指導者が念を押す箇所でもある.
【語例2】
lltl11日lVt伸一)
143
川 端 英美歌
【語例3】
‘‘一′
嘩
リ
♪ク
芋
第2の主題B【譜例3】i51−57/ト師,スタッカートで爪先で引掻くような緊張感ある主題であるが,こ
の主題の合間には,特徴的な点が2つ隠されている.まず54/ト節目に唐突な<>が現れるが,瞬間的にフツ
と出現するスカルボの影か,鬼火のようでもある.このような形は,その後至る所に現れるのだが,この短
いクレッシュンドデミヌエンドの盛り上がりをしっかり表現しなければ,人に恐れを抱かせるスカルボとし
ての表情が激減してしまうので注意しなければいけない.そして,主題の伴奏の形で奏される55−57/ト節で
は,ラヴェル特有の1本の指だけで2つの音を奏するテクニックが最初に使用されている.この隣りに重な
り合った2度の不協音の耳障りな響きは,続く中間部で448−476/ト節までの長いスパンで,pppの囁きか
ら徐々に速度と音量を増していき,聴く者の神経を逆撫でさせていくことに成功している【譜例4】i460/ト
節からi.この特殊なテクニックは,ラヴェル自身の手の特徴から創り出されたものである.「彼の指は長く
機敏で,非常に柔らかい手首から,先に行くほど細くなる彼の手は,まるで手品師の手のようであった.彼
の親指は,3つの音までをも同時に一緒に簡単に打つことができた.そして,これはピアニスト達にとって,
新しく取得しなければいけない習慣(新テクニック)となってしまった.(34)」ここでは,2と3の指を1
本のように捉え,親指対2と3の指として,手首から手の平の小刻みな回転を上手く利用すると弾き易い.
中間部の430/ト節からは,この主題Bの変形が,対照的にゆっくりとしたテンポで,まるで黄泉の国から
の誘いのように左手に現れる.32分音符での美しいppの薄いベールのような波は,やはり冷たい美で,第
1曲目の「オンデイーヌ」を思わせる.すなわち,ここでも最後にスカルボが消え去ることを暗示している
のではないかと考えられる.
【語例4】
J=JT。uj。..,‥。れeeJlぐー八nt
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
144
モーリス・ラヴェルのピアノ作品《夜のガスパール》に関する一考察
第3の主題C【譜例5】i94−98小i剰.スカルボの悪魔的なダンスの中に,スパニッシュなリズムを入れ
るところがやはりラヴェルらしい.このリズムの閃きは,彼がスペイン国境に近いバスク地方シブールの生
まれで,母親もバスク出身であったことと関係が深い.しかしここでは,スパニッシュなリズムといっても
光溢れる陽気さではなく,緊迫感と苦悩や辛錬さが加わった激しいものである.指を鋭く速い速度で打ちつ
けるテクニックが求められるのだが,左手が右手の下に重なり交差するため難しい.104−10糾、節のリズム
動機は,フラメンコのリズムをカスタネットか平手で打ち鳴らすように,最後まで躊蹄せずに容赦なく弾き
切らなければならない.後半では,この動機を変形させて次第にパワーアップし,左右の手でジグザグに強
烈になっていく.256/ト節からの部分では,この主題Cが更に複雑になっているにも関わらず,全てをpp
で奏さなければならないため難易度が増している.右手が低い音域の連打を打たねばならない261/ト節や263
小節目などは,右手の16分音符の第2音や第6昔日を,左手の4や5の指に置き換えることも可能である.
【語例5】
、ミこ√l
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第4の動機D【譜例6】は,伶和音から始まる2つの短い和音を,平行移動させることによって起こる独
特なリズムと,そこから長く伸びた和音の影に奏される16分音符のオクターヴのトレモロの組み合わさった
動機(モチーフ)である.この最初の引きつったような唐突なリズムは,この後もスカルボの奇怪な動きを
表す象徴的なリズムとして曲中に君臨していく.このスタッカートの和音は,ラヴェルの初期のピアノ作品
≪グロテスクなセレナード≫(1893頃)の「tresrude非常に租野で耳障りな」と指示されている始まりを思
わせる.「このつまづくような,切って奏する音の形は、ちょっとでも踏みはずしたら致命的になるだろう.
ピアニストは手の甲で鍵をさっと掃き,この音の出し方のぶっきらぼうさによってこの楽器から聞いたこと
もないような響きを引き出す(35).」という,ジャンケレヴイツチの言葉は,弾く側の気持ちをよく代弁し
ている.この和音の連打は,手の甲でリズムを感じ,素早い平行移動と同時に指をかえなければならない.
実際,この冷たく美しいオクターヴのトレモロの中で突如出現するこのスタッカートの和音を,時に鋭く,
時に皮肉的なユーモアを持って,決して重くならないように奏することは至難の業である.
145
川 端 英美歌
【語例6】
.日義−」‥パ f章⊇… 雷≡」. f∈」. ≡壬」. 至享」. 章Et/ l 1l t l】 l l ;2ユ.ネ_; l■「▼j仰 l・− 1■ l− IV √
3.異なるモチーフの複雑な絡み合いについて
ベルトランの詩の中にある「爪先立ちで部屋中を,廻り狂う…消えた?と思ったら,その小人は,月と私
の間を,大きく膨らんで…みるみるうちに,蝋燭の如く蒼髄めた」などの表現からは,スカルボが変幻自在
に瞬時に姿形を変化させ,見る者を欺く様子が見て取れる.ラヴェルは,どのように,この変幻自在さを音
楽に表したのだろうか.
先ほどの主題Bの例にあるように,1つの主題やフレーズの中に,別のモチーフが突如,唐突に現れるこ
とで表現されている.時には伴奏として影に隠れ,時には別人格のようにはっきと存在感をあらわにするこ
の別モチーフの唐突的な現れこそ,ラヴェルがスカルボの特徴として捉えた,曲中に一貫して現れる大切な
表現要素になっている.他の例をあげると,314/ト節からは,主題Aの変形+主題Cの変形が何度も絡み合っ
て,次第に緊張感を増していき,pから#の激しいクレッシュンドを得て366/ト節で頂点に達する【譜例7】.
そしてこの366/ト節でも,動機Dの変形のffと,ラヴェル自身が「commedestimbalesティンパニーのよ
うに」と指示した主題Cの後半に現れるリズム動機の変形とが組み合わさっていて,ピアノ1台でまるでオー
ケストラの様々な楽器の色合いを表現しなければいけない.同じことは,521/ト節のppから始まる「月ま
で大きく膨らんだスカルボ」を表している最後の強烈なfffの盛り上がりへと続く速いパッセージの間にも
見られる.異なるリズムのモチーフが絡み合いながら,pppからmf,fEへと何度も煽られるように執拗に
繰り返され,そしてついに一つの頂点へと到達するのである.これらをふまえてみると,結局,この「スカ
ルボ」が何故これほどまでに演奏者を苦しめる難易度を誇るかといえば,1つ1つの異なる個性的なモチー
フ(キャラクター)が,非常に短い時間軸の中で同時に絡み合って出現するために,演奏者はそれに合わせ
て異なるテクニックを瞬時に用いなければならない点にあるといえる.その曲中に一貫して存在する唐突的
な別人格性のために,演奏者は非情ともいえる集中力と緊迫感を強いられ,苦しめられ続けてきたのである.
ラヴェルが,友人のイダ・ゴデブスカに宛てた手紙の中で「≪夜のガスパール≫は悪魔の助けを借りて書
き上げられています.でもそれは驚くには当たりません.悪魔がこの詩の作者なのですから.(36)」と書い
ているが,まるで「悪魔がこの曲の作者(=ラヴェル自身)なのですから.」と言っていい程の,技巧的に
146
モーリス・ラヴェルのピアノ作品《夜のガスパール》に関する一考察
も非常に困難な恐るべき曲を創り上げた.ラヴェルはこの怪奇夢幻な『スカルボ』を使って,ピアノ曲の技
巧的な可能性の極限を突き詰めることに成功したといえる.
【語例7】
4.終わりの美学
この終わり【譜例8】の特徴は,最後にフツと姿を消す美学であるといえる.「−そして突然、かれは消
えた」.原詩のそこにラヴェルが共感し,作曲したといっても過言ではないであろう.あれほどまでに演奏
者を苦しめ,やっとのことで盛り上がり「月と私の間」ほどに巨大になったスカルボを,あっさりと消す美
学.これは単なる悪夢であったのかと聴くものを煙に巻く.この意表をつく独特な終わり方への偏愛ぶりを
見せたのは,ラヴェルがまだ19歳の頃のピアノ作品≪水の戯れ≫が始まりであった.つまり,「SanSrit.リ
タルダンド無しで」終わってしまうあのあっけなさであり,イ夢さである.美しい水の流れがそのまま空間に
溶けて消えるかのように表現されている終焉は,1901年当時としては画期的な作品であった.ここでは,一
瞬にして人を欺くかのように姿を消す「スカルボ」を表現するために,ラヴェル自身がペルルミュテールに
念を押して「sansralentir遅くしないで」と指示をしているように(37),最後までリタルダンドをしてはい
けない.そして,スカルボが蒼白くなって消えてしまった後の無になった闇を表すためにも,演奏者は数秒
間,緊張感を保つべきであろう.この終わりの美学は,第1曲≪オンデイーヌ≫,第2曲≪絞首台≫,第3曲
≪スカルボ≫と3曲通してpppで惨く消え去る点でも一放している.このことからも,3つのポエムに共
通する終わりの美学は,喪失感にあるようにも思えるのである.
【語例8】
J=J.。…。両.さ血It
川
』±
…____…___…_____…_……ニ___……___._仙●_…こ●叫_」
∬P
147
川 端 英美歌
Ⅵ おわりに
「ラヴェルの文学に対する熱意を知れば,かれの秘められた傾向をより深く洞察できるように思う.ある
種の小説,詩,あるいは脚本などを読むことによって生じた「稲妻の閃き」,これを音楽にすることをかれ
は夢みていたのである(38).」最後までラヴェルの親しい友人であった,エレーヌ・ジュルダン=モランジュ
のこの言葉は,ラヴェルの人生において,芸術文学作品が,いかに彼の人格や作品に深く影響を与えていた
かを表している.ここでは,演奏解釈に役立つことと信じて,ベルトランとともにラヴェルが傾倒していた
文学作品の美学的傾向を探ってきた.ラヴェルは,何千何万とある詩の中から,自らの感性に共鳴し,己の
創作力を駆り立てるに相応しい一篇の詩を選び取った.そして,ベルトランとラヴェルという2人の美学的
な相乗効果が,この≪スカルボ≫を,技術的にも芸術的演奏表現においても最難関のピアノ作品のひとつと
して,現在まで君臨させることに成功したといえるのではないだろうか.
使用楽譜
デュラン版(1909)DURANDS.A.EditionsMusicales.
註・引用文献
(1)題名はA・ベルトラン(1991)及川茂訳「夜のガスパール」岩波文庫を参照.ただし,この及川茂訳では「幻想曲」となっ
ているところを,本稿では「幻想」とした.
(2)E・ジェルダン=モランジュ(1968)安川加寿子・嘉乃海隆子共訳「ラヴェルと私たち」音楽之友社 p135,6
(3)E・A・ポー(1956)阿部保訳「ポー詩集」新潮文庫 p94
(4)E・A・ポー(1951)佐々木直次郎訳「黒猫・黄金虫」新潮文庫 p200
(5)浅野昇編「フランス詩集」白鳳社 p37
(6)C・ボードレール(1951)三好達治訳「巴里の憂鬱」新潮文庫 p9,10
(7)A・ベルトラン,前掲書(1),p241
(8)RAVEL,Maurice.(1938)‘‘Uneesquisseautobiographique”(自伝素描)Larevuemusicale(HommageえMaurice
Ravel).p22
(9)E・ジェルダン=モランジュ,前掲書(2),p161
(1¢)J・K・ユイスマンス(2002)溢澤龍彦訳「さかしま」河出文庫 p380
(u)BIDOU,henry.(1938)‘‘Lesfant6mesdeRavel”Larevuemusicale(HommageえMauriceRavel).p46
(12)R・ガンツ(RudolphGANZ1877−1972)アメT)カに帰化した,スイス人ピアニスト(三善晃監修「ラヴェルピアノ作品
選集1」p27).ラヴェルは《スカルボ≫を献呈する旨を、1908年9月2日付けの手紙でガンツに伝えている.“Maurice
RAVEL.Lettres,丘crits,Entretiens”(1989)Ed.FLAMMARION.p99
(13)E・ハッチェソン,R・ガンツ改訂 千蔵八郎訳「ピアノ音楽への手引き」全音楽譜出版社 p409
(14)Ⅴ・ジャンケレヴイツチ(VladimirJANK丘L丘ⅤITCH1903−1985)ロシア系,フランスの哲学者で,T)ストやフォーレ,
ラヴェル等についての音楽美学書も手掛けた.「賭け」に関しては,Ⅴ・ジャンケレヴイツチ(2002新改訂版)福田達夫訳「ラ
ヴェル」白水社 p90
(15)A・コルトー(AlfredCORTOT1877−1962)スイス系,フランスの著名ピアニスト,ラヴェルを含めたフランス音楽家
に関する著作も手掛けた.「賭け」に関しては,A・コルトー(1996)安川定男・安川加寿子共訳「フランス・ピアノ音楽2」
音楽之友社 p34
(16)ラヴェルの愛読書のrTlにはダンディ主義を定義したパルベー・ドールヴイT)−(Barbeyd’Aurevi11y1808−1889)の「ダ
ンディズムとジョージ・ブランメルについて」があり,ラヴェルの服装などに関するダンディぶりは有名である.
(17)RAVEL,Maurice.前掲書(8),p21
(18)MANUEL,Roland.(2001)‘‘RAVEL”M6moireduLivre.p75,6.《マ・メール・ロワ≫は,シャルル・ペロー(Charles
148
モーリス・ラヴェルのピアノ作品《夜のガスパール》に関する一考察
PERRAULT1628−1703)のお伽話「マザーグース」から,題名と内容も因んでいるため.
(19)RAVEL,Maurice.前掲書(8),p21
CzO)バラキレフ(MilyAlexeyvichBALAKIREV1837−1910)ロシア国民楽派「五人組」の一人.《イスラメイ(東洋的幻想
曲)≫は,1866年から69年にかけて作曲された,東洋風色彩が溢れたヴイルトウオーゾ的作品.
帥 レンブラント(HarmenszoonVanRijnREMBRANDT,またはPaulREMBRANDT1606−1669)オランダ,バロック時
代の画家.有名な作品では「夜警」があり,生涯に多くの自画像を描いた.カロー(JacquesCALLOT1592−1635)フラン
スの版画家.イタリアで修行を積み,多くの銅版画を残し,その中ではグロテスクな作風のものが特徴的である.
佃 A・ベルトラン,前掲書(1),p43(ただもちろん,このレンブラントとカローニ人の特性以外を頑なに排除したわけで
はないとも後で述べている.)
Cz3)E・T・Aホフマン(ErnstTheodorAmadeausHOFFMNN1776−1822)ドイツ後期ロマン派の作家.音楽評論等も多
く手掛け、幻想的な作風が特徴的である.フロレスタンとオイゼビウスという二面性を創り出し,その音楽の中に表したド
イツロマン派の作曲家ロベルト・シューマンが傾倒した作家としても有名.代表作は、「牡猫ムルの生涯」や「クライスレ
リアーナ」など.
糾 H・H・シュトウツケンシュミット(1983)岩淵連泊訳「モリス・ラヴェルその生涯と作品」音楽之友社 p149
㈲ A・ベルトラン,前掲書(1),p221
鍋 原詩はDurand版楽譜より参照,翻訳は川端英美歌.
627)LONG,Marguerite.(1984)“aupinoavecMauriceRavel”Ed.G6rardBILLAUDOT.p138
㈹ Ⅴ・ジャンケレヴイツチ,前掲書(14),pllO
餉 A・コルトー,前掲書(15),p33
郎)ラヴェルの不眠症に関しては、前掲書(2)p16,7他,周りの証言がある.
卯)E・ジェルダン=モランジュ,前掲書(2),p157,8.サチェロス=ギリシャ神話の半人半獣の神.
B勿・郎)E・ジェルダン=モランジュ,Ⅴ・ペルルミュテール(1970)前川幸子訳「ラヴェルのピアノ曲」音楽之友社 p46
糾)GIL−MARCHEX,Henri.(1925)‘‘Latechniquedepiano”Larevuemusicale.
㈲ Ⅴ・ジャンケレヴイツチ,前掲書(27),pl19
郎)R・ニコルス(1996改定新版)渋谷和邦訳「ラヴェル生涯と作品」泰流社 p88
郎)E・ジェルダン=モランジュ,Ⅴ・ペルルミュテール,前掲書(31),p49
㈹ E・ジェルダン=モランジュ,前掲書(2),276
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H・H・シュトウツケンシュミット(1983)岩淵達治訳「モリス・ラヴェルその生涯と作品」音楽之友社
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R・ニコルス(1996改定新版)渋谷和邦訳「ラヴェル生涯と作品」泰流社
E・ハッチェソン,R・ガンツ改訂 千蔵八郎訳「ピアノ音楽への手引き」全音楽譜出版社
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川 端 英美歌
門馬直美他監修(1981)「最新名曲解説全集16独奏曲Ⅲ」音楽之友社 p122
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J・K・ユイスマンス(2002)溢澤龍彦訳「さかしま」河田文庫
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(札幌枚講師)
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