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■第十二章 苦しみの考察 表題となっている「苦しみ」とは、ブッダが説いた仏教の基本教義である四つの聖なる 真実のうちの最初の定理でその存在を主張されるものであり、輪廻の世界にある我々の生 は根本的に苦しみだということである。この四つの聖なる真実は第二十四章で詳しく触れ ることになるが、ここでは苦しみについて、それが実体ではないということが論証されて いる。ブッダの教えは仏教徒には絶対であろうが、その教えの核をなしている「真に苦し みが存在する」という教えについてでさえ、その苦しみは絶対ではない。 1. ある者は、苦しみが自己生ӑ的self-producedだとうかもしれない あるいは何か他のものから、もしくはその両方の仕方で生じたとうかもしれない あるいはそれが原因なしに生じるとうかもしれない それは生じさせられるような性ݵのものではないのである 1.意訳 (四つの聖なる真実でう)苦しみのϺ釈には色々あり、ある者はそれが何か他の原因か ら生まれるものではなく、自らを原因として生じたものだとうだろう。また別の者は、 苦しみが苦しみ自体ではない何か他の(実体的)存在から生じてくるとうだろう。ある いは苦しみは原因なしに生じるとう者もいるかもしれない。その場合、苦しみはそもそ も生じるような性ݵのものではないのである。(因果関係という法則を用いずに、我々は 生じるということを理Ϻできないからである。) ここでは苦しみの生じ方についての誤った見方が列挙されている。以下の݃でその各々 が検討されるのである。 2. もし苦しみがそれ自身から現れるものなら それは依存的に生じるのではないだろう 集合体(蘊)というものが その集合体に依存して生じることになるからである 117 2.意訳 もし苦しみが自らを根拠として、それ自身の中から生じてくるようなものなら、そうし た苦しみは依存的に生じたものではない実体的なものだということになる。(四つの聖な る真実では、カルマ〔業〕の法則により、自己や世界への執着、欲望を原因として人間は 輪廻の世界へと生まれてくるのであり、その人間のあり方自体がそのまま苦しみだと説明 しているが、もし苦しみが苦しみ自体から生じるとうなら、)人間の心身(集合体) が、当の人間の心身自体に依存して生じるとっていることになってしまうであろう。 (したがって四つの聖なる真実を受け入れるなら、苦しみがそれ自身で存在する実体だと うことはできない。) 3. もしあれらのものが、これらのものとは異なっているのなら あるいは、もしこれらのものが、あれらのものとは異なっているのなら 苦しみは、それ以外のものから生じるかもしれない これらのものは、あれらの別のものから生じる得るだろう 3.意訳 (苦しみは苦しみ以外の別の実体から生じてくると主張する者についてはどうであろう か。)もし個々の存在が完全に別々のものであるという、実体的な差異というものの存在 を想定するならば、苦しみは、それ自体とはまったく別の独立した実体から生じてくると えるかもしれない。個々の存在は、それ以外の別の存在から生じ得ることだろう。 4. もし苦しみが人間自身から引きӑこされるというならば その者によって苦しみが引きӑこされる当の人間とは−− どういう存在なのだろうか−− どんな者が苦しみとは別個に存在するのだろうか 4.意訳 (この考えは、苦しみが、苦しみ自体以外のもの−−要するに苦しんでいる人間から引き ӑこされると主張する場合であろう。しかし、)もし苦しみが、(実体として苦しみとは 別個に存在している)苦しんでいる人間から引きӑこされるというならば、その人間とは 118 どういう種ะの存在なのであろうか。(苦しんでいる苦しみが「৵か」の苦しみであるな らば、その苦しみの原因となる実体としての人間とは、その৵か以外の者であり、つまり 別の時間における当人か、あるいは全然別人であるかのどちらかだということになる。) 苦しんでいる人間が、苦しみとは独立して、完全に別個のものとして存在しているとう つもりだろうか。 5. もし苦しみが他の人間からもたらされるなら その人間とは৵なのだろうか−− 苦しみが他のものからもたらされるとき−− どんな者が苦しみから区別されたものとして存在しているのだろうか 5.意訳 (カルマ〔業〕の法則によれば、苦しみは、苦しんでいる当人が過去に行った行為の結果 として生じてきているのである。しかしそうではなく、)もし苦しみが、(苦しんでいる 当人のカルマからではなく)৵か他の人間からもたらされると主張するつもりならば、そ の他人である人間とはどんな人間なのだろうか。苦しみが、苦しみ以外の他のものから生 じると主張するならば、(それは苦しみが、苦しんでいる当人以外の他人からもたらされ るとっていることになるが、)どんな者が苦しみとは別のものとして(、つまり苦しん でいない者として)存在していられるのだろうか。(輪廻の中に生まれてきた者ならば、 すべて苦しんでいるはずである。) この場合の他人とは、別人のことであるか、あるいは当人ではあるが、別の時間の自分 であるかである。後者の場合、瞬間瞬間ごとに人間は別の実体になっているという考えに 基づいていることになり、時間幅を持って存続する人間の同一性の問題を検討する必要に せまられるだろう。もし一瞬前の自分が原因で、それとは別の自分が、苦しんでいるとい う性ݵを持った状態で生じているのならば、一瞬前の自分はそれとは同一の性ݵを持って いないから別の自分であるわけで、つまり苦しんでいない性ݵを持った自分でなければな らないだろう。したがってこう考えてみても、苦しまないで輪廻の中に生きている存在と いうものを仮定しなければならないことになる。それはブッダの教えに反する。 119 6. もし別の人間が苦しみを引きӑこすならば その他者とはどんな者だろうか 苦しみから隔たった৵が その苦しみを与えたのだろうか 6.意訳 もし苦しんでいる当人とは別の人間が、その苦しみを引きӑこしているならば、その場 合の別の人間とはどんな者なのだろうか。苦しんでいないような৵かがいて、その苦しん でいない他人が、当人に苦しみを与えたのだろうか。 ここでは前の݃の内容が繰りಮされており、苦しんでいない人間はいないという四つの 聖なる真実の原則が強されている。 7. 自己生ӑself-causedというものが確立されないとき 苦しみはどのように他者によって引きӑこされるのだろうか 他者の苦しみを引きӑこした者は৵であれ その者自身の苦しみをもすでに引きӑこしていなければならない 7.意訳 苦しみがそれ自体から生じてくるということがえないからといって、苦しみが他者か ら引きӑこされるとえるだろうか。(他者であるということは、苦しみではないという ことであり、苦しんでいない他者だということであろう。しかし、)苦しんでいる者の苦 しみを引きӑこした他者が、その者自身は苦しんでいないなどということは考えられない のである。その者自身の苦しみをもすでに引きӑこしているはずである。 8. 自己生ӑself-causedされた苦しみというものは存在しない 何ものもそれ自身からは生じない 他者が自己−創造self-madeでないならば どのように苦しみが他者から引きӑこされ得るのだろうか 120 8.意訳 苦しみがそれ自体から生じるなどということはあり得ないのである。どんなものも、そ れ自身を原因として、それ自身から生じたりはしない。それ自身から生じるということが あり得ないなら、ここで問題となっている他者−−苦しみをもたらす原因であり、自らも 苦しんでいる他者−−も、その他者自身から生じたわけではないのである。それならば、 その他者の苦しみはどこから来たのだろうか。 9. もし苦しみが各々のものによって引きӑこされるならば 苦しみは両方によっても引きӑこされ得るだろう 自己によっても、あるいは他者によっても引きӑこされないならば どうやって苦しみは原因なく生じ得るのだろうか 9.意訳 もし苦しみが、苦しみ自体とそれ以外の他者によってそれぞれ引きӑこされるとえる なら、苦しみ自体とそれ以外の他者の両方にӑ因しても引きӑこされ得るだろう。(しか しそのようなことがないのは今まで検討してきた通りである。)苦しみが苦しみ自体や苦 しむ者自身を原因にしても引きӑこされず、それ以外の他者を原因としても引きӑこされ ないなら、原因のないものである苦しみが、どうやって生じることができるだろうか。 10. 四つのあり方fourfoldwaysのうちのどれかのあり方での: 苦しみが存在しないだけではなく 四つのあり方のうちのどれかのあり方での: 外なる実在も存在しない 10.意訳 (それ自身を原因として生じる苦しみ、他の存在を原因として生じる苦しみ、それ自身と 他の存在の両方を原因として生じる苦しみ、原因に依存しないで生じる苦しみ、という四 つを今まで問題にしてきたが、この)四つの分析のあり方のどの一つとしても、そのよう な原因のあり方で生じる苦しみは存在しなかったわけである。そしてそれだけでなく、こ の四つの分析に現れるどれ一つとして、そのような苦しみの根拠となる実体−−苦しみの 121 外に独立して実在するような実体は存在しないのである。 苦しみは実体ではなく、その原因となるものも実体ではないとっている。この意味で 存在しないと主張することは、現象的な意味では存在しているということであるので、苦 しみがまったく存在しないとっているのだという具合に誤Ϻしてはならない。四つの聖 なる真実で説かれる苦しみは確かに存在している。しかし絶対的な存在ではない。そして そうであるからこそ、苦しみから開放される可能性があるのである。もし苦しみが実体で あるなら、それは変化せず、永遠に存在するであろう。また、実体として存在し続けてい るのであるから、それと排斥関係にある、苦しみが存在していない状態は永遠にやって来 ないことになり、救いはまったくあり得ないことになる。ブッダの教えである四つの聖な る真実の第三は、「苦しみの真の消滅は可能である」であるが、それは苦しみが実体でな いから可能なのである。 122