Comments
Description
Transcript
ここ - 東北大学経済学研究科
東独出国運動の評価(2) ―ベルリンの壁開放の担い手についての謬論批判― 青 木 國 彦 う集団的目的の上に置かれた」と非難する。彼 目 次 が言うには,出国派は独立グループと異なって 「社会的責任を引き受ける用意」がなく,前者は 1.はじめに:状況と課題設定 2.類型論争 3.討論会: 「反体制派か,裏切り者か?」(以上前号) 4.Pollack:出国派は「国家に不忠の利己主義者」 (以 下本号) 5.Fricke の右顧左眄と Neubert 6.Rink や Jesse, Raschka ほかによる筋違いの評価 7.Eisenfeld の卓見と問題点 8.おわりに 「私的に行動し」 ,後者は「政治的に行動した」 。 これもまことにおかしな的外れの議論であ る。出国申請提出は,すぐに許可される少数の 場合は別として,申請動機が政治的,宗教的, 家族的,経済的その他何であれ,東独内での当 局との,投獄覚悟の闘いの開始を意味した。東 独国籍法や内相指示の枠(青木 2009 参照)を 越える申請は闘争宣言であり,Pollack の非難 とは逆に,申請者にとって「出国申請の提出に 4.Pollack:出国派は 「国家に不忠の利己主義者」 よって DDR は自己の行動の場」となった。「自 己の行動の場」は市町村役場や街頭,広場,教 会,自宅や乗用車の窓,西側からの来訪者の多 以上は当事者であった活動家の間の議論であ いライプチッヒ国際見本市など多様であった。 るが,以下では主な研究を取り上げる。既述の 逃亡者は「DDR を自己の行動の場としては放 ように Hirschman(1995)についてはすでに青 棄」し「私的に」,密かに脱出したが,出国申 木(2007)において批判したので,ここではま 請者は国内でことを公共化し,相互に提携して ずハーシュマンが高く評価した Pollack(1990; 出国許可を要求する行動に立ち上がり,国際人 1990a) の そ の 後 の 研 究 を 取 り 上 げ よ う。 彼 権規約と CSCE 文書の履行を声高に求めた。 自身はハーシュマン理論の東独適用に反対で 申請者の目的は自分の出国許可獲得であっ あ る。 て,出国許可を獲得すれば出て行くのであっ Pollack(2000: 193f.)は,「出国申請はまさ て,人権要求が制度として実現されるまで東独 に抗議の 1 つの形態であり,しかもそれは非常 内で闘い続けるわけではないという意味では, に効果的であり,おそらく政治的オータナティ 動機の如何を問わず,その行動は個人的性格を ブグループ〔=独立グループ〕の抗議よりも 持っていた。だが,人権としての出国権実現と 効果的であった」ことを認めるが, 「しかし出 いう要求は社会的・政治的内容であり,先行者 国申請の提出によって DDR は自己の行動の場 の出国実現は次の出国申請を刺激・促進し,出 としては放棄され,個人的目的が社会変革とい 国権実現要求の闘争は残る申請者や新たな申請 ̶ 16 ̶ 東京国際大学論叢 経済学部編 第 45 号 2011 年 9 月 者によって次々とリレー的に受け継がれ,出国 欠勤率が高かった,等々。隔離と抑圧の体制が 派全体としては 1970 年代半ばから 1989 年まで なくなったら,一気にドイツ統一要求が噴出し 闘いを継続し,その輪は急速に拡大し,前述の たことも内心の不忠の証拠である。 ようにすでに 1988 年には当時としては画期的 党幹部や党内改革派はその地位ゆえに集団的 な成果をあげ,その成果がさらに出国運動を強 かつ忠誠と観念されるが,支配党ゆえ利己的出 め,1989 年についに出国自由化という体制変 世主義者が多かったはずである。 「幹部」以外 革を勝ち取った。それは,本人たちの直接の動 の党員が表 1 にないのはなぜだろう。「反体制 機が何であれ,まさに集団的政治運動であり, 派」 〔独立グループを指す〕は集団的であって しかも,独裁と隔離の体制と真っ向から闘い, も,必ずしも不忠ではなかった。Pollack 自身 それに勝利した闘争であった。個々人としては も書いている(例えば S. 59)ように,彼らは 「社会的責任」意識の高い者も低い者もいたが, 当時の統一党支配体制には不忠であっても,社 客観的には「出国権実現」という社会的責任を 会主義に忠誠であり,東独存続を願っていた。 担い,結果としても窒息社会打破という大きな 出国希望者のうちの多くは,既述のように,私 社会的役割を果たした。 的と片付けることはできず,また東独という国 他方,独立グループは一見社会的ではあって 家にも社会主義にも不忠であっても,統一ドイ も,その社会主義ないし共産主義の東独へのこ ツ国家に忠誠であった。教会が忠誠と不忠の中 だわりはアナクロニズムであり,かつ国民から 間となっているが, 「社会主義の中の教会」(こ 遊離し,個々の分野で問題提起としての貢献も の意味は青木 2009: 脚注 7)という路線を取っ あったが,全体としてはわずかな社会的役割し たことや,現に統一党政権からは圧力と同時に か果たさなかった。 特典(例えば教会ビジネス(青木 2009 参照)) Pollack は,「国家への忠誠度」(「忠誠」と「不 を享受し,他方出国派を含む反体制派に便宜を 忠」に二分)と,「政治化度」(「私的」と「集団的」 図ったことからすれば,国家と社会主義にはほ に二分)によって東独国民を分類した(表 1)。 ぼ忠誠,統一党政権にはケース・バイ・ケース この分類は表面的,観念的であり,実態にそぐ であった。 わない。住民の多くは確かに私的〔な領域への Pollack(2000: 196)は,「“出国希望者と反 閉じこもり〕であったが,忠誠であったのは表 体制派との広範な組織された提携”が存在し 面であって(例えば選挙において当局が用意す た と の Neubert(1997〔 = 1998〕: 671) の 主 張 る候補者リストに信任投票をした),内心の不 は間違っている」と言う。Pollack が言うには, 忠度は低くなかった。誰もが西独の豊かさと自 出国希望者と協力した反体制グループはあった 由,その象徴としての西独通貨(D-Mark)に (例えばライプチッヒの正義活動グループ,連 あこがれ,家では殆ど専ら西のテレビ番組を 帯する教会,生命イニシアチブ,東ベルリンの 見,東独を追放されたビアマンの歌に喝采を送 箱舟や隔離の実践と原則の拒否イニシアチブ) り,機会があればヤミ両替に手を出し,職場の が,「政治的オータナティブグループの多数は 表 1 Pollack による東独住民グループ区分 出国希望者との緊密すぎる協力に反対し,彼ら の統合に留保を表明した(Poppe 1995: 264)」。 これは誇張である。彼は環境図書館など「ベル リンの若干のグループは〔独立〕ローザ ・ デモ の経験ゆえに」出国希望者との協力の「決定的 な反対者」となったことを強調するが,強調す べきは,独立ローザ ・ デモ関連の弾圧への抗議 (出所)Pollack, 2000: 206. 運動の盛り上がりの中で従来に比べて両者の提 東独出国運動の評価(2) ̶ 17 ̶ 携が広がったことである。このことは当時の西 実は出国は反体制派のうちの出国派に頼る独 側報道や諸文献によって明らかである。 立グループの弱体化ではあっても,次の出国運 Neubert は正確には,「1987 年から東独の殆 動を促進したので,反体制運動の主力たる出国 どいたるところで人権という基礎上で出国希望 派は強化されたし,その一部は新たに独立グ 者と反体制派との広く組織された提携が生じ ループに加わりそれを補強した。 た」と述べた。これは特段の誇張ではない。こ 彼女はおそらくアンビバレントであり,彼女 の年国籍法活動グループが結成され,当初は有 の仲間の一部が出国理由によって出国の良否を 力な独立グループの 1 つ環境図書館から場所提 区分けしようとしたのも両感情の反映だっただ 供を受けた。前年結成の「隔離の実践と原則へ ろう。そうした複雑な心境をのぞかせつつも, の拒否イニシアチブ」の提案がこの年福音教 しかし Poppe(1995: 262ff.)は,独立グループ 会会議で議論されるに至った。これらを考える に比べた出国派の高い発信力と行動力を賞賛し と,1987 年に大きな進展があったことは事実 た(青木,2009: 121)。 であるし,独立ローザ ・ デモ弾圧は出国派のみ 上記のシュルトは出国運動に対し殆ど 100% ならず独立グループにも及んだので,抗議運動 反感に満ちていたが,南部出身の Neubert はお において東ベルリンでさえ両者は葛藤を抱えつ そらく共感優勢だっただろう(但し出国運動の つも提携を広げた(青木 2008)。Neubert は両 評価には後述のように問題がある)。いずれに 者の葛藤も記述している。 せよ Poppe は Pollack の議論の根拠とならない。 東独福音教会管区総監督クルシェ(G. Krusche, Pollack(2000,S.193ff.)は出国派への独立 1931 ∼)は,1988 年 1 月 13 日の政府教会問題 グループの反発ないし躊躇の主な理由を 4 つ挙 担当者との会談において, 「現在ではもはやい げた:①出国派は出国という個人的目的を東 ろいろなグループ間の明確な分化過程が確認さ 独改革という社会的目的の上に置き,私的に れえない。これらの勢力は最近の発展の影響の 行動している,②出国は批判勢力の縮小(「間 もとで明らかに相互に連帯した」ことを指摘し 引き」),独立グループとの連帯の解消となる, た(SAPMO-BArch., DY 30/IV B2/14/19, Bl.2)。 ③ 独立グループは法律の枠内での行動に努め この会談は独立ローザ・デモ直前のことであり, ていたので,出国要求の非合法性に躊躇した, 「最近の発展」はあきらかに 1987 年を指す。彼 ④独立グループと異なり出国派の殆どが東独内 の言う「連帯」が独立ローザ・デ弾圧への抗議 において「よりよい地位にある住民階層」に属 行動において一層広がったことは大方の認める していたことである。これらは,Pollack 自身 ところである。 の上記の出国派評価と似通っており,彼が寄っ Pollack が上記引用において典拠とした Poppe て立つ所を示している。 (1995: 264) に は 数 字 な ど の 根 拠 は な く, 留 ①は,前述のように,間違いであって,出国 まった者かつ東ベルリンの独立グループの活動 動機が個人的であっても出国権要求は「社会的 家(出身は北部)としての彼女の実感が記述さ 目的」であったし,出国派の行動は私的ではな れているだけである。Poppe(1995: 262ff.)に く公的であった。②は一面の事実であるが,他 よれば,彼女ら独立グループにとって「出国運 方で上記の「平和工房」に限らず出国派の参加 動とのむずかしい関係」は,一方で出国権を基 によって独立グループの活動は人数も活動力も 本的人権として認めねばならないという共感 増強され,独立グループによる出国権支持が広 と,他方で出国は体制批判勢力の「間引き」で がり,独立グループからの出国申請者も多かっ あるし,出国派の独立グループ活動参加も出国 た。③に言う出国要求の非合法性は東独当局の への「踏み台」にすぎないという反感とに由来 言い分であって,出国派の言い分では東独が批 した。 准した国際文書と東独憲法によって出国要求が ̶ 18 ̶ 東京国際大学論叢 経済学部編 第 45 号 2011 年 9 月 合法,当局による出国拒否が非合法であった 両派には対立と協力,相互浸透の複雑な関係 し,独立グループも,Poppe(1995: 262ff.)が が地域差を伴って存在した。地域差の例は上述 言うように,出国(権)要求自体は支持したの のように東ベルリンとライプチッヒの間の違い であって非合法として拒否したわけではない。 である。ただ,いずれの地域にせよ,1980 年 ④は Neubert(1998: 672)を典拠としたが,そ 代には,出国運動最初の持続的集団街頭行動で こには何の根拠も示されていない。 あったイェーナの白い円陣(1983 年)とその 出国が大量となった 1989 年には出国者の西 波及, 「出国の波」(1984 年),「隔離の実践と 独での一時収容所に西独企業からの求人が殺到 原則への拒否イニシアチブ」結成(1986 年), した(Hilmer, 1995: 324 & 329)のだから,労 「国籍法活動グループ」結成(1987 年),独立 働力としての評価は高かったと考えられるが, ローザ ・ デモ事件(1988 年)と 88 年外国旅行 東独内で彼ら全体が「より良い地位」を得てい 政令など,出国絡みの大きな事件が相次ぎ,出 たわけではない。 国派の活動が一層活発化し,独立グループや教 そもそも,出国派が独立グループの活動に参 会スタッフからも出国申請者が多数出たし,独 加しただけではなく,後者のメンバーも多く出 立グループの活動に参加する申請者も増え(相 国申請したのだから,両者には相互浸透があっ 互浸透) ,出国問題は社会的焦点となった。この た。Pollack(2000: 12 & 194f.)も両者の対立面 ような出国運動の発展は彼の議論に出てこない。 だけではなく補完面,特に出国派による独立グ ところで,彼はハーシュマン・テーゼを再論 ループ強化の側面も強調する: 「もはや失うも し,「移住バリア」強化は「体制内抗議」の強 のがなかった」出国派の「抗議活動はしばしば 化にも弱体化にもなり得たし, 「移住バリア」 反体制派よりもラディカルかつ非妥協的であっ 弱体化も同様であって, 「従ってどちらの効果 た」し,それによって「彼らは政治的オータナ が生じるかは理論としてはオープンである。… ティブグループを鼓舞し,彼らの抗議をラディ 自由な経済関係を前提とするハーシュマン ・ モ カル化するように刺激した」,と。さらに, 「出 デルを DDR に適用することの問題点は,まさ 国の可能性は留まろうとする者全員にとって一 にここにある」とした。彼の結論は,「退出と 種の頼みの綱を提供した」 。つまり,反体制的 告発の…関連には両オプションのコストの高さ 活動には抑圧があるが,抑圧に耐えられない時 が影響」し, 「移住コストが高く告発コストが は出国申請〔あるいは自由買い〕という脱出路 低いなら,プレイヤーは告発に傾くだろう。逆 があるので,独立グループの活動にもある種の なら逆である。それに対して,DDR のように 安心感があった。 両方のコストが高いなら,最もあり得る行動バ 「従って移住の可能性はアンビバレントに作 リアントは適した運動が無いこと」 (S. 195)で 用し」,一方では,「出国は潜在的抗議力を小 あった。 さくした」が,他方では,「移住可能性が…抗 しかし東独の特徴は,隔離政策のため移住コ 議力強化に作用した」と彼は言う。ここに言う ストは高かったが,壁の外に同じ「言語・文化 抗議力はいずれも独立グループのそれでしかな 圏」の西独が存在したので,ソ連東欧諸国民 い。しかし出国許可要求こそが体制への最大最 よりも「立ち去る際の敷居は DDR ではより低 強の「抗議力」であり,その潜在力も大きく, かった」 (Poppe, 1995: 264)し,「ドイツ国籍」 出国とそのための運動はその潜在力の一層の顕 に基づき西独での受け入れ態勢があって難民不 在化となった。このことを無視して彼は,前述 認定リスクは事実上ゼロであった。それどころ のように,出国運動を「私的」だの「行動の場」 か,被抑圧者は西独による自由買いの確率が 放棄だのと罵る。彼が残留者であったせいかも 非常に高かった。Pollack 自身が上記のように, しれない。 独立グループにとってさえ出国可能性が「頼み 東独出国運動の評価(2) ̶ 19 ̶ の綱」となっていたと言うほどである。加えて Pollack などその後の大多数の議論の原型であ 重要なことは,一方で CSCE プロセスや西独政 る。しかし,Fricke(1984)は一転して出国運 府の政策などが退出の自由要求を後押しし,他 動に明確な反体制闘争を見た。 方で東独政府も CSCE や西独の圧力と国内圧力 と こ ろ が,1989年 の 出 来 事 を 論 じ たFricke への対処として退出許可を増発したことであ (1990)は元に戻った。それは,どうしたことか, る。そのため,退出のための告発(出国権要求) 反体制派としては「80 年代初め以来強まり始 に成功する可能性はそれ以外の告発に成功する めた」人権・平和・環境グループ(=独立グルー 可能性よりも高かった。つまり,コストだけで プ)のみを挙げ,これらのグループと逃亡のみ はなくパフォーマンス(成功可能性)の高低も を変革貢献者として評価した。 考慮されるべきである。 すなわち,約160グループに達した独立グルー 従って,第 1 に,Scott(1986: 274)がキュー プ(数の根拠はシュタジ ZAIG 情報 Nr. 150/89) バ奴隷解放の事例から提唱した退出のための告 の「体制批判と反体制」の声は「あらゆる抑圧 発という概念を導入すること,第 2 に,退出と 措置にもかかわらずもはや抑えられず,逆に, 告発のコスト比較だけではなく,退出と告発そ 支配層が DDR 刷新の必要に耳を貸さなければ れぞれの成功可能性(パフォーマンス)も顧慮 貸さないほど,政治的反対勢力はそれだけより することが必要である。ハーシュマン流に言え 断固として挑戦した。…ソ連における改革に励 ば,東独の批判・不満勢力の主力(出国派)が まされたのでなおさらであった」 ,加えて,選 選んだ道は,「退出を求める告発」であった(青 挙不正疑惑という「支配層の無分別が抗議や反 木 2007: 44)。 対を誘発しただけではなく…何十万人もに」脱 対照的に,北朝鮮の場合は告発コストも退出 コストも極端に高い上に,告発も退出のための 告発も成功可能性ははなはだ小さく,ただ退出 (逃亡や密輸)の成功可能性がやや高い。 出を決心させてしまった(「足による投票」), 「“足による投票”と抗議・反体制運動の強化と が一緒に,DDR における革命的危機の政治的 促進剤として作用した」,と(S. 257)。 長年の出国運動の内容と経緯はもちろん, 5.Fricke の右顧左眄と Neubert 1989 年前半には出国申請者が 12 万人余に達し フリッケ(Karl Wilhelm Fricke, 1929 ∼)は ZAIG 報告)にも彼は全く言及しなかった。こ 著名な東独ウォッチャーであり,理不尽な東独 れらなしに 1989 年夏・秋の大脱出はなかった 権力の犠牲者でもあった。父は東独バルトハイ のみならず,出国運動は 1989 年秋の大規模波 ム裁判で有罪・獄死,本人は 1955 年シュタジ 状デモに対しても直接・間接に大きく寄与し によって西ベルリンから拉致され,「スパイ罪」 た 18)。しかし彼は「支配層の無分別」 (地方選 た こ と(Mitter 1990: Dok. 15 所 収 の シ ュ タ ジ 名目で 4 年の刑となった(Veen, 2000: 140)。こ 挙不正)が「何十万人も」の脱出を生み, 「“足 のことはクライン(1987)にも紹介されている。 による投票”と抗議・反体制運動の強化とが一 彼の出国運動評価は,なぜか右顧左眄した。 緒に,DDR における革命的危機の政治的促進 そのうち Fricke(1976)と同(1984)について 剤として作用した」と言い,1989 年秋の舞台 はすでに青木(2009: 119)において検討した。 を作り出した出国運動には全く触れない。 ここでは,その際にごく簡単にしか触れなかっ これは,Fricke(1984)の「出国申請による た Fricke(1990)を主に取り上げたい。 投票」論(申請実現闘争を含む)から Fricke(1976) Fricke(1976)は出国運動を,逃亡同様に, 同様の「足による投票」論への回帰であった。 「政治的変化」つまり改革への努力の放棄ゆえ すなわち申請実現闘争を無視し,申請による出 に反体制と見るべきでないと断じた。これが 国を逃亡と同一視した。そもそも当局の選挙不 ̶ 20 ̶ 東京国際大学論叢 経済学部編 第 45 号 2011 年 9 月 正だけであれほどの大量脱出が生じるわけがな 訪 れ,1987 年 に は 380 万,1988 年 に は 670 万 い。大量の出国決意者(=申請者や申請準備者) 人に達し,子や孫に西の様子を伝え,孫に頼 がいたからこその大量脱出であった。 まれたみやげを持ち帰ったりした。年金年令 1989 年秋の大規模デモについて彼は,当初 未満者の西独訪問(慶弔など緊急家族案件名 は「我々は出て行きたい」という出国要求が主 目)は 1985 年まで年間数万人だったが,1986 であったことを認める。しかしそれが,東独に 年 24 万,1987 年 120 万,1988 年 110 万人となっ 留まって「DDR の民主的改革」を要求するデ た( 詳 細 数 字 は Enquete-Kommission, 1995, モへと「質的…変化を成し遂げた」にもかか Bd. 5-3: 2024f.)。これらの数字は延べ人数だ わらず, 「ベルリンの壁開放によって誘発され が,年金年令未満者の場合には単年度の複数回 た世論の急転換」を反映して「11 月 13 日のラ はあり得なかったので,実人数になる。人口 イプチッヒ月曜デモにおいて新しい政治的な質 1,600 万人の国でこれだけの数字である。わざ が明らかになった。この時以後はもはやより良 わざ西に行かなくても,他の共産圏同様に東独 い DDR のためにではなく,ドイツ統一のため も外貨ショップ(Intershop)を各地に作り西 にデモがなされた」と言う。出国要求→東独残 側製品を展示販売したから,電気製品であれ化 留・民主化要求→東独否定の両独統一要求とい 粧品,衣類等々であれ国産品との格差を誰もが う変遷が強調された。 知っていた。マツダを含む多数の西側乗用車も 両独統一要求の街頭登場は「新しい政治的な 輸入され,路上には西独ナンバーの乗用車があ 質」ではあっても,「世論の急転換」ではない。 ふれていたから,それらと,トラバントやヴァ 急転換した人もいるだろうが,出国運動の,い ルトブルクといった国産車やソ連製,ルーマニ や,より広範な「世論」の根底(内心)にあっ ア製乗用車とのあまりの違いを知らない者はい た再統一(西独への合流)要求がようやく表に なかった。私が接した市民ランナーも陸上部学 出たにすぎない。「急転換」ではなく,露呈で 生も誰でもアディダスやアシックスを知ってお あり,延長上の展開であった。上記のように医 り,それらをのどから手が出るほど欲しがり, 師グンダーマンに患者が統一願望の伝言を頼ん 私が使うそれらは羨望の的であった。祖母が西 だことを紹介したのは Fricke(1984)であった 独でもらった西独マルクを私に預けて西ベルリ ではないか。出国運動の影のテーマは再統一問 ンでアディダスを買ってきてくれと頼む者もい 題であったのであり,壁開放によってそれが表 た。19)赤ちゃんでさえパンパースに比べた国産 に出たにすぎない。 紙おむつの「みじめさ」を肌で感じ取っていた。 Fricke(1990: 261)は,壁開放によって西へ テレビや自分と親族の目で自国のみじめさを 行った東独人が「西の現実」を確かめ,「自分 感じても,壁がある間は壁をなんとかすること たちの生活のみじめさ」に狼狽して,体制内の が先決であって,統一を叫んでも空砲に終わる 「民主化要求」から東独自体の「克服」つまり だけだった。しかし壁が開けば,我慢して西と 両独統一の要求へと変ったと言う。 の別居を続ける理由はなく,統一要求が表に出 これも全くおかしな話しである。西に比べた たのは全く当然のことであった。20) 東の「生活のみじめさ」は誰もが知っていた。 大著 Neubert(1998: 25ff.)は,Fricke(1990) ほぼ全土で視聴可能な西独テレビを毎日見てい とは論旨に差異があるが,独立グループ過大評 たし(地域別受信可能性は青木 2009: 137),西 価は共通である。彼も体制転覆にとっての出国 に親戚を持ち交流する者も多かった上に,壁 運動の意義を見ない。Fricke(1990)と同様に, 開放以前にも何百万人もの東独人が自分の目 彼によれば,統一党政権打倒の主役は独立グ で「西の現実」を確かめていた。年金生活者 ループ(彼の用語では「社会倫理的諸グループ」) は 1965 年以降常に年間 100 万人以上が西独を の転化組織,すなわち彼の区分では反体制④で 東独出国運動の評価(2) ̶ 21 ̶ あり(前号第 2 節参照),出国運動は脇役にす 出国希望者のうち「体制親和的」態度を示し ぎなかった。 たのは,東独法の枠内でさえ合法であった出国 一方では, 「逃亡者や出国申請者は大きなリ 希望者や,逃亡を準備する者の表面の繕いで スクをかけ,精力的で想像力に富んだ行動に あって,殆どの出国申請者は敵対的態度であっ よってその逃亡を始めるか,あるいはその出国 た。内務係への集団押しかけ,種々の街頭行 を強引に認めさせようと試みた。最小限の合法 動・集会,出国希望を示す白いリボンの着用, 性に依存していた政治的反体制派とは…利益と 自宅や乗用車の窓に西独を示す「D」や出て行 戦略の対立があったけれども出国申請者の一部 くことを示す「A」を表示する,自宅の窓にろ は反体制派〔=独立グループ〕や教会との結び うそくを灯す等々が実行された。だからこそ, つきを作り得たし,諸グループに参加し,その シュタジは彼らの行動を「出国許可強奪」と言 願望の正当性を強調し,それにより反体制派に い,全国的連携に神経を尖らせ,現場で彼らに 接近した」と言い(S. 32)((a)とする),出 対面する内務係は極度の緊張を強いられ辞職も 国運動を評価するかのごとくである。 相次いだ。 しかし同時に彼は,Jesse(1995: 999)が「逃 彼自身も,出国運動を「DDR からの出国強 亡と出国申請者を〔体制の〕敵対者として高く 奪 行 動 」 と 呼 ん だ(Veen, 2000: 18)。「 強 奪 」 評価した」ことに対して, 「それでは出国希望 が「体制親和的」行動であるはずがない。彼は 者と DDR に留まる反体制派との間の利害対立 やはり出国という結果のみに目を奪われ, 「強 が理解されない。その上,DDR を去った者は 奪」過程,すなわち出国のための体制改革闘争 逃亡または出国申請の時点まではしばしば体制 の存在とその意義を見なかった。シュタジは 親和的な行動様式を示した」 (S. 28)とも言う ((b)とする)。 「強奪」過程に最大の関心を払っていた。 独立グループやその転化組織(新フォーラム (a)と(b)を,反体制④を主役とする彼の など)は,出国運動が切り開き実現しつつあっ 評価との関連において,合わせて考えると,出 た体制崩壊と両独統一への道に第 3 の道を対置 国運動は,統一党支配打倒の主役たる反体制④ して急遽対応したが,結局は時流になれず押し ないしその前身組織である独立グループに接近 流されたにすぎなかった。彼らが権力を倒した した限りにおいて反体制的意義を持った(a)が, わけではない。彼らは政権崩壊過程に西側メ 全体としては体制親和的であった(b),と彼は ディアに露出したり,円卓会議に出かけるなど 見なした。彼の言う反体制④が, 「1989 年夏に したが,結局は両独統一と資本主義化を目の当 出番」となり, 「多くの政治的弱点にもかかわ たりにして「こんなはずではなかった」と挫折 らず…住民の利益を代表し,大衆的抵抗の組織 し,一部は西独政党の傘下に入った。 にふかく関与し,統一党とその陰謀機関シュタ ジからの権力奪取の主要負担を担った」と彼は 言う(S. 30f.)。 6.Rink や Jesse, Raschka ほかによる 筋違いの評価 「1989 年夏」の舞台を作ったのは誰か,その 舞台の主役は誰だったかが全く考慮されていな Rink(Pollack, 1997: 54ff.)は,出国を東独内 い。しかも独立グループは「住民の利益を代表」 反体制・抵抗勢力への打撃とする見解が「流布 したわけではない。独立グループは,先に引用 している」 (代表例を Knabe, 1992: 14 とした) した taz の当時の記事が示すように,弱小かつ が,しかし,1989 年秋の大衆行動の「レパー 周辺の存在でしかなかったことは大方が認める トリーと形態(特にライプチッヒの月曜デモ) ところである上に,国民から遊離したアナクロ を作り出したのは〔出国〕申請者と出国者であっ ニズムにひたっていた。 た」し,さらに「彼らは〔両独〕統一運動の先 ̶ 22 ̶ 東京国際大学論叢 経済学部編 第 45 号 2011 年 9 月 駆者」でもあり,今や,出国を「抵抗や反体制 アンケートはドレスデン工科大学ハンナ ・ の行動のスペクトル」の中に位置づけるべきだ アーレント全体主義研究所の企画であり,ホー とした。 ネッカー政権(1971 ∼ 1989 年)下の「政治的 これは出国運動を正当に評価したかに見え 被迫害者」約 3,800 人に 60 項目からなる質問用 る が,Rink が 出 国 派 評 価 転 換 の 功 労 者 と し 紙(個人的状況,東独国家への態度,シュタジ て Eisenfeld(1995) だ け で は な く Hirschman による抑圧,出国問題,未決勾留の期間,裁判 (1992)や Jesse(1995)も挙げたことによって, と判決など)を送るという形で実施され,22)637 彼の見方の不適切さが見えてくる。Hirschman 人から回答を得,576 人分が集計された(残り (1992)は,1989 年春以後の大量逃亡(退出) はホーネッカー政権期外として除外)。うち出 が党内文化人を刺激して,あるいは偶然に,同 国者が 248 人で,そのうち 177 人は,申請提出 年秋の大量街頭行動を引き起こしたと言うので ゆえに政治的迫害を受けたと回答した。 「従っ あって,彼の見方では 1989 年の出来事には前 て,〔彼らは〕出国した元政治犯とかあるいは 史がなく,長年の出国運動は登場しない(青木 移住要請をした反体制派ではなく,出国者グ 2007)。逃亡を含む出国全体が体制に打撃を与 ループ,つまり主としてあるいは専ら統一党国 えはしたが,反体制の政治行動と言いうるのは 家への拒否を出国申請によって表明した人々で 出国運動による出国であり,それが量的にも圧 ある」とみなされた(S. 259)。 倒的であり,独裁と隔離の体制を崩した主力部 独立グループと出国(申請)の関係としては, 隊であった。 独立グループ活動開始後に出国(申請)した者 Rink は,Eisenfeld(1995) に つ い て も 出 国 と出国申請後に独立グループに加わった者がい 者の吸引作用(出国申請への誘い)を強調して た。上記の「移住要請をした反体制派〔=独立 引用し,吸引作用のみを取り上げた。それも重 グループ〕」は前者を指す。Raschka にとって 要ではあるが,二次的なことであって,出て は独立グループのみが「倫理的,道徳的」であ 行った者もそれに吸引される者も,出て行く前 り反体制であるので,その一部が,非「道徳的」 に東独内部で出国権承認を求めて当局と闘った であるところの「出国者グループ」に入ってい こと,そしてそのような闘争としての出国運動 ると,アンケートの有効性に傷がつくと彼には の担い手の出国は,運動の次の担い手を拡大再 思われたのであろう。現実には前者にも仲間か 生産したことこそが重要である。こうしたこと ら裏切り者,詐欺師呼ばわりされた者もいた。 を如実に示すのが,Eisenfeld も多く示してい 後述のように,彼のこのような論旨は全く観念 る統一党やシュタジなどの文書であった。繰り 的,先験的な空論である。そもそも東独法規の 返すが,それは隠密裏の逃亡でも消極的な抵抗 狭い枠をはみだす出国申請とその実現要求自体 でもなく国内での積極的な反体制改革闘争,体 が反体制行動であった。その上,彼らの多くは 制の根幹を突いたそれ,勝利したそれであった 申請後も,当局による「説得」や迫害の中,出 ことに着目すべきである。 国実現のための種々の行動をした。その結果当 Rink や Hirschmann 同様,Jesse(1995: 999f.) 局に屈した少数の者もいたが,多くは要求を貫 も出国運動を無視し,1989 年夏・秋の出来事(大 いた。 量逃亡と街頭行動)のみに着目した。 このアンケートは出国者の「自己主張」とそ Raschka(1998, S. 257ff.)が紹介する大がか れについての評価を目的とした。それは,「逃 りなアンケート調査は自由記述欄に重きを置い 亡と出国」の政権転覆への貢献度の「測定器は たので,動機や自己・相手評価の多様な証言集 本質的には政権の行動ではなく当該人物たちの という有意義な面もある 21) が,アンケート項 目にも彼の論旨にも問題がある。 証言」であり,また,逃亡と出国では出国が「70 年代・80 年代には 60 ∼ 75%を占めた」23)から 東独出国運動の評価(2) ̶ 23 ̶ だと言う。 かったと言う。 「出国運動は独裁に対する政治 ところが出国者の出国動機について, 「彼ら 的敵対の概念性の枠内では抵抗でも反体制でも の証言がまず記述されるべき」だが, 「しかし なく,逃れることによるレジスタンスと呼ばれ 出国申請者の申し立て」は「動機をあまりに肯 ねばならない。DDR を離れることによって逃 定的に評価する危険」 (つまり,回答者が実際 れるということは,その作用から見ると拒否の には経済的動機であっても,高評価の政治的動 断固とした形態であった。DDR 市民のレジス 機を装う(S. 270))を持つので, 「出国者の自 タンスのこの形態が決定的な様式で統一党支配 己主張は DDR に留まった政権批判者がこれら の制限と最後にはその崩壊に寄与したというこ の人物グループに対して持ったイメージによっ とが決定的である」と結論する。これらの大仰 て調整」することにし,そのために,自分を な文言はまるで的はずれである。 「DDR に留まるつもりだった反体制派」とした 抵抗とレジスタンスのこのような区分は,ナ 144 回答が集計に含まれた(S. 259)。 チズム関連で形成された「抵抗」の「厳密な定 これは,出国者自身の証言が貢献の測定器で 義」によると言う。行動の「動機,その倫理的・ あると言いつつも,証言の信頼度が低いので, 道徳的推進理由」を「決定的基準」とする定義 残留派の観察証言によって出国者証言を相対化 と,「個人の動機を無視し,拒否や抗議の行動 するということであり,本人証言重視という自 も考慮に入れ」て概念を「かなり拡大」する定 らの方法の弱さを自ら示している。 義があり,彼は前者を採用し,後者による拡大 残留派は,ある回答(S. 271)が語るように, 部分を Broszat(1987)のように「レジスタンス」 出国を「純粋に経済的な動機による」と見る傾 とした(S. 261f.)。 向が強く,またそのように見ないと自らの立つ 彼の論旨は「要するに」体制崩壊に「決定的」 瀬がなかった。従って,Raschka の方法なら, に寄与したのは「逃れること」だったというこ 残留派の証言も出国派の観察によって薄められ とである。これも「足による投票」には着目す るべきであった。その必要は前述のハッテンハ るが,出国運動には目が向かない。「足による ウアーが如実に物語っている。さらに,両者の 投票」の調査なら,たとえ比重が小さくても, 証言をシュタジなど東独当局の文書証言によっ 逃亡者も調査対象とすべきであったし,マスコ ても検証すれば,もっとよかった。 ミの注目度が高かった西側大使館逃げ込みも考 これらの回答が出国派と独立グループの 慮すべきであったが,そうはしなかった。彼の 当時の傾向を代表できるかどうかについて, 議論も,単に「逃れること」と出国権のために Raschka(1998: 259f.)は,出国派については 闘うことの違いを認識できないところの,全く Hilmer(1995) や Pratsch(1985) が 紹 介 す る 筋違いの評価である。「決定的」であったのは, 1984 年・1989 年インフラテストによるアンケー 出国そのものでも出国動機でもなく,出国申請 ト調査と年齢や学歴の構成が近似するので代表 から出国までの間の出来事,つまり出国運動と 24) 性があるとし, 独立グループについては母集 その体制打撃力である。 団の構成が不明だが,回答数が相対的に多いの 出国運動を最も有効であった反体制行動とみ で代表性があると見なした。 なすべきとの私見からすると,申請者が出国許 彼は, 「逃亡と出国が統一党支配の除去に本 可実現のために何年間どのように行動したか, 質的な貢献をしたということは疑い得ない」が, それに対する当局の対応,抑圧や差別がどうで 出国申請は「わずかな例外を別として…道徳的 あったか,出国運動への残留派の対応などの調 に非難すべき政権を転覆させるという意図」か 査が加えられるべきであったが,残念ながら, らではなく,出国後も多くは東独変革に協力し そうはされなかった。これらの調査をすれば, なかったので,出国は抵抗でも反体制でもな 彼の論旨も変わっただろう。 ̶ 24 ̶ 東京国際大学論叢 経済学部編 第 45 号 2011 年 9 月 抵抗や反体制の要件は道徳的な動機と出国後 東独当局により「抵抗」,「統一党国家への最も の行動だという見解への批判は前述した。出国 鋭い脅し」と見なされ, 「撲滅」対象とされた 後に国外(西独)から何らかの支援をしても, ことを,当局の資料を引きながら,認めている 国内(東独)で応じる者がいなければ体制への (S. 265)し,またそのことを重視した議論を 打撃にはならない。最初の動機が何であれ,国 展開した Eisenfeld(1995)の所説を紹介しつ 内で出国権のために闘うことが最も有効な反体 つも,特段の反論なしにナチズム抵抗論の援用 制であり,闘いによる出国実現は出国申請者を で済ませてしまった。 さらに増やした。彼の抵抗・反体制・レジスタ Mayer(2002)は,多くの研究者を批判しな ンスの区分は,東独の現実の分析には役に立た がら,「逃亡と出国」を反体制行動と位置づけ, ない砂上の楼閣であった。 また多数の有益な資料を収録した労作である。 出国動機について Raschka は真っ当なこと しかし,彼が高く評価する Fricke や Eisenfeld, に,独裁と統制経済の下で「純粋に経済的な動 Kowalchuk の論旨の検討・批判が十分ではない 機」がありうるかを問い,東独のような「国家 ことに加え,本書の一番の問題は,「逃亡と出 的な中央計画経済を特徴とし,経済秩序が政治 25) 国」のうち「大使館占拠」 , とりわけプラハ 秩序と不可分に結びついていた社会秩序」にお の西独大使館のそれ(1984 年)と東ベルリン いては「政治的動機と経済的動機の明確な区分」 のデンマーク大使館のそれ(1988 年,著者が は「殆ど不可能だと思われる」と言う。それ その首謀者)を「政治的に最も有効」とか,「共 は,「キャリアルート」の限定および「階級所 産主義政権に外交上も内政上も最も重大な打撃 属」や「政治的態度」による教育差別などのも を与えた」と結論する(S. 463)ことである。 とでは「独自の人生の道の個人的形成への固執 確かに大使館逃げ込みは西側で大きく報道さ は安易には経済的動機として評価され得ない」 れ,それは東独全域で視聴されたのだから,強 (S. 267)ということだけではない。仮に「純 い社会的刺激であった。ましてや上記のうちプ 粋に経済的な動機」あるいは家族問題のような ラハでは東独首相の姪が絡んだのだからなおさ 「個人的」動機から出国申請をしても,当局が らである。しかし大使館逃げ込みはいわば単発 拒否と抑圧で答えたために,当局への人権要求 の打ち上げ花火であって,もし東独内に出国運 に転化し政治的動機が添加されることになった 動がなければ,一過性の出来事でしかなかっ ということでもあった。反体制意識がなかった た。逆に,大使館逃げ込みなしでも出国運動は 申請者が当局の対応のせいで反体制化するとい 急成長し,体制を追い込むことができた。現に うことはシュタジ自身も認めていた(例えば青 1984 年の大使館逃げ込みは,すでに発生して 木 2006: 36 37)。 いた「出国の波」の最中(2 月)であった。 だとすれば,Raschka ら調査グループは,当 1988 年までに東独市民が視聴した西側報道 時も今も存在する「経済的動機は利己的だから のうち最大の刺激はやはり 1984 年の「出国の 政治的動機よりも“悪く”かつ低く評価される 波」であろう。少数の大使館逃げ込みではな べきとの暗黙の価値判断」を問題とする(S. 267) く,合計 3 万人以上もの出国行列を見せつけら だけではなく, 「動機」を基準とする反体制分 れた。東独内部で当局と対峙した草の根の出国 類の意義そのものを反省すべきであった。 運動とその成果こそが,国際情勢の有利な展開 この調査は出国者の主観に重きを置いたが, を背景に,燎原の火となって,1989 年の出来 Eisenfeld(1995)および私見では,体制への 事を生み出しつつ体制の土台を焼き尽くした。 打撃効果の測定には「当該人物たちの証言」も なお,私見と異なり,Fricke は Mayer(2002) 重要ではあるが,体制側(当局)の証言が決定 の主な問題点として, 「左翼志向の市民権活動 的重要性を持つ。実は Raschka も,出国運動が 家」〔=独立グループ〕批判の行き過ぎを挙げ 東独出国運動の評価(2) ̶ 25 ̶ た。26)Mayer は,「左翼志向の市民権活動家は るヤーンやハッテンハウアー,コバシュの発言 DDR の変革期にも変革後も殆ど役割を果たさ くらいである。 なかった」し, 「住民の 1%さえ代表していな アイゼンフェルト(Bernd Eisenfeld, 1941 ∼) かった」と言う(S. 133)。1%かどうかはとも は, 両 独 統 一 後 に シ ュ タ ジ 文 書 を 管 理 す る かく,確かに彼らは世論(壁開放以前は内心の BStU 研究員となったが,旧東独時代には兵役 それ)の大勢に背を向けた少数の周辺存在で 代替措置たる「建設兵士」入隊の際の宣誓拒 あった。 否などにより国立銀行を「職業禁止」となり, 以上は出国運動を反体制に位置づけるかに記 1968 年にはハレでソ連軍等のチェコスロバキ 述しながら,実は位置づけ得ていない事例であ ア侵攻反対ビラ約 100 枚を配布して 2 年半の有 るが,まるで評価しない事例も少なくない。例 罪となり,刑期満了出所後,出国申請を繰り返 えば,Gieseke(2001: 172ff.)は逃亡と出国を し,1972 年には国連に訴えの文書を送り,壁 一括しつつ, 「逃亡と出国は…抵抗あるいは反 撤去とドイツ統一,民主化を訴える活動をし 体制の行動ではなく…DDR という国家と関係 た。出国運動の先駆者の一人である。1975 年 を持ちたくない人々の“静かな”逃避行動であっ に西ベルリンに移住した(Veen, 2000: 113)。 た」し, 「体制にとってよりわずかな挑戦でし このような経歴が彼の出国運動論に影響した かなかった」と片付ける。しかし 1989 年夏 ・ 秋 だろう。東独出身の研究者には,かつて反体制 の出来事があるから, 「東側ブロックの国境に 派であったかどうかを問わず,東独内残留者が 穴があいた時,この出国の動きと,申請してい 多いし,ドイツ統一に反対であった者も多い。 ないが似たように考え感じた多くの人々とが内 そうした背景が,出国運動への彼らの否定的評 部崩壊の決定的なエンジンに突然変異した」と, 価に影響しているように感じられる。 ハーシュマンに学んだかのような突然変異説で Eisenfeld(1995: 198f.)は,ナチズムと共産 糊塗する。すでに公刊されている旧機密文書を 党の間には違いがあるので,前者の場合の反独 多少とも読めば, 「静かな逃避」では全くない 27) 裁カテゴリーを当てはめることはできず, ま 出国運動が長年存在し,急拡大していたことは た厳密な独自分類をする研究段階にはないとし すぐに分かるはずである。彼はシュタジ文書館 て,「抵抗的行動」という包括概念を提起し, (BStU)の研究員なのだから,それら文書を研 その適用基準は,行動の動機ではなく,「本質 究すべきであった。 的な客観的性質」 ,つまり行動が独裁を「制限 邦訳があるのでついでに言及すると,Knopp または掘り崩すかどうか」であり,その判定に (1990: 邦訳 207)は「無血革命への伏流」とし は独裁当局の認定が「豊富な示唆」を提供する てハーベマンやバーロ,独立平和運動などを挙 とした。彼のこうした考え方はその後も変わら げたあと,末尾に「他に無視できない要因とし ず,私見とも共通である。 て,東ドイツを去りたがっていた市民があげら 「豊富な示唆」の一例として彼は次の事実を れる」ことも追加した。しかし彼らは単なる出 挙げる。シュタジは,「〔体制〕転覆活動の最 国申請者としか書かれておらず,彼らの闘いと も危険な現象形態の 1 つ」を「政治的地下活 その意義については触れられていない。 動」と呼び,その「予備軍」を「否定的な政治 的・イデオロギー的基本態度,反社会的・反体 7.Eisenfeld の卓見と問題点 制的・敵対的 – 否定的な態度,および,実践的 – 政治的帰結と発展傾向において政治的地下活 出国派と出国運動の評価について同調できる 動との現実の結びつきを持ちこれに転化し得る の は,Eisenfeld(1995; Veen, 2000: 58ff. な ど ) ところの行動」と定義した。この「予備軍」の と Fricke(1984),そして上述の討論会におけ 1 つが,「一定の分野,地域における度重なる ̶ 26 ̶ 東京国際大学論叢 経済学部編 第 45 号 2011 年 9 月 BRD・西ベルリンへの違法な移住要請」であっ (2009)で取り上げたが,大規模な調査はない。 た。そのうち, 「特に,この要請が主として政 手元にある小規模なアンケート調査によると, 治的に動機付けられ,その内容によれば挑発的 全 71 回答のうち,初申請から出国までの所要 であり脅しと結びつけられている場合や,同じ 期間を記したのは 45 回答であった。残りは記 敵対的・否定的議論〔東独が批准した国際文書 入なしが 20,逃亡が 3,その他 3 回答であった。 や東独憲法を根拠に出国許可を求める議論を指 申請許可による出国者 44 人の所要期間は 6 週間 す〕が繰り返し登場し理由付けの仕方が申請者 から 14 年までと多様であるが,1 年未満 6 人, が自分で書いたのではなく別の人物によって鼓 1 年以上 2 年未満 5 人,2 年以上 3 年未満 9 人,3 舞され支援を得ていると推論される場合」を重 年以上 4 年未満 10 人,4 年以上 5 年未満 4 人,5 視した(Suckut, 1996: 377ff.)。 ここに言う「別 ∼ 7 年 7 人,10 年 以 上 4 人 で あ っ た(Bertam, の人物」,つまり出国運動のリーダーの先駆事 2003: 84f. の一覧表から計算) 。出国希望者の多 例は「リーザ市民権イニシアチブ」(1976 年) くが国内法の枠外であり,初申請から出国まで 指導者ニチュケであった(青木 2009: 141)。西 の間,出国運動の担い手となったと考えられる。 独側も,この引用文中にある「根拠」の宣伝に 出国者のうちどの位が出国運動をしたか 努めた。 に つ い て も 大 規 模 調 査 は な い が,Raschka 28) Eisenfeld(1995: 200)は,シュタジが政治的 (1998: 257)のアンケートでは,出国者 248 人 地下活動の「現象形態」として綱領作成・配布 のうち 177 人が出国申請による政治的迫害を受 や人的結合,世論への訴えと人々の動員を重視 けたと回答した。少なくとも彼らは運動の担い しつつも,国民が西のテレビを見ることや家族 手であったと考えられる。71%である。事情不 内で何を話すか,内心どう思っているかは問題 明の残り 71 人の中にも運動に加わった者がい にしなかったことから, 「私的領域を越えて公 るだろう。この調査はサンプルが少なすぎる 然と発言ないし行動する」ことが政治的行動な が,年金生活者を別にすれば,東独法令が認め いしその予備軍として重視されていたとする。 る許可枠は極めて狭かった(青木 2009:第 3 節 そのとおりであり,大多数の論者の論難と異な 参照)ので,出国申請者のうちの殆どがその枠 り,出国申請者の行動は「私的領域」を越えた 外であり,その殆どが出国運動を構成したと考 公共領域での政治活動であった。 えられる。 彼は出国希望者を 2 つのグループに区別し Eisenfeld(1995a: 162)は,「抵抗的行動」の た(S. 200)。第 1 は,東独法令の枠内の出国申 規模についてシュタジによる「作戦案件(OV)」 請者で, 「外国人との婚姻を別にして,その数 と「作戦的人物コントロール(OPK)」,捜査手 は 1980 年代には年間約 1,000 件」(1983 年から 続きの対象人数( 「戻り接触」関連も含む)か 1989 年 6 月末までに約 8,600 件,うち約 25%が ら,「1985 ∼ 88 年には年間 2 ∼ 2.5 万人の DDR 18 歳未満〔の家族合流〕)と,多くなかった。 市民が積極的な抵抗的行動を示した」との推計 この数字に検討の余地があると思うが,いずれ を提示した。この数字には出国運動以外も含ま にせよこのグループはごく少数であった。第 2 れ,他方,これらの手続きに入らない周辺的行 は,東独当局の言う「違法な申請者」であり, 動が含まれていないと考えられる。詳細は別稿 「抵抗的行動」の担い手であった。この区分自 で検討したい。 体は妥当であるが,第 1 グループでも当局との 出国希望者の「抵抗的行動」の特徴として 軋轢が少なくなく,そこに「抵抗的行動」が生 Eisenfeld が挙げるのは,(1)「大衆運動」 :当 じる場合もあった。 局がこれを阻止しようとしたが阻止できず,逆 では,出国者は出国前にどのくらいの期間 に申請を受け付ける内務係員の 15%が辞意を 闘ったのだろうか。若干の個別ケースは青木 29) 示すなど当局が追い込まれた, (2)「公然と 東独出国運動の評価(2) ̶ 27 ̶ 表 2 請願ないし不服申し立て(単位:千件) (出所)Eisenfeld, 1995: 206. 原資料:Jahresanalysen der ZKG. (注)1988 年以後の集計数字は見つかっていないと言う. した性格」,(3)当局に対する「請願」(請願法 を利用)や不服申し立ての広がり(表 2 参照) , 現象形態と判定」すべきであるし,また出国 や追放による「DDR 内の反体制ポテンシャル」 (4)示威行動,(5)提携とグループ化であった の弱体化という「しばしば主張される見解」は (S. 201ff.)。 成り立たず, Eisenfeld(1995: 222f.)は当局の対応も紹介 ⑥出国許可獲得は弁護士フォーゲルと西独政 した上で,大略次のような結論を示した(番号 府のおかげだとの「今日まだ流布している見解 は青木): の修正が必要」であり,西独政府による自由買 ①出国運動は東独内に「不断に紛争の火種を いを別にすれば, 「多くの申請者は連邦共和国 形成,増大」させ,「人権問題を議事日程に載 や西ベルリンへの道を自分で切り開いた」。そ せ」,「申請者の規模と自然発生性,示威行動へ の証拠として彼は,シュタジの言う「政治的・ の不屈の用意」が当局を「袋小路」に追い込み, 作戦的理由」によって出国許可を得た申請者が 国外旅行と移住の制限緩和を実現させ, 1984 ∼ 1988 年だけで 3.6 万人にのぼることを ②出国者による「戻り接触」が出国運動を拡 挙げた。 大し, このような彼の見解に概ね賛成である。ま ③「申請者,特に被追放者」は両独間の「ク た,④に言われることが,出国運動についての リップ」の役割を果たしたのみならず,西独内 今日の多くの研究者の謬論の基盤となっている に 1970 年代半ば以後形成された東独への友好 し,体制内外の多くの東独出自の知識人に染み と統一否定のムードに歯止めをかけ, 込んでいると思われる。 ④東独当局は出国運動自体の抑圧に加えて, 彼の議論にも不足と思われることがある。彼 「市民の自主決定権を得ようとするすべての勢 は成果の 1 つとして国外旅行・移住の制限緩和 力の共同行動」の阻止のために,出国派を「無 を挙げる(上記の①)が,その中でも最も重要 責任で利己的かつ西側に目のくらんだ市民」と な成果,すなわち 88 年外国旅行政令とその制 非難する戦略を取り, 「多くの教会の委員会や 定経過が語られていない。この政令は隔離体制 執務室並びに反資本主義の反体制グループにお に風穴をあけただけではなく,当局の決定への いてはこの戦略は完全に実を結んだ。そのた 異議申し立て裁判に道を開いたという意味で独 め,とりわけ,独裁の生命基盤に対して自主決 裁にも風穴を開けたのであり,独立グループに 定という民主主義の基本原理を対置した申請者 はなし得なかった国内改革上の最も大きな成 の政治的有効性が,DDR の中でも連邦共和国 果であった(青木 2008)。しかも,この政令へ でも広く見誤られることになった」, の出国希望者の反応こそが,その後の内外情 ⑤「全体として見れば,客観的には出国運動 勢(CSCE ウィーン会議,ハンガリー国境開放, と申請者を DDR における抵抗的行動の 1 つの 東独地方選挙不正露呈など)と相まって,1989 ̶ 28 ̶ 東京国際大学論叢 経済学部編 第 45 号 2011 年 9 月 年の出来事の最も直接的な引き金となり,体制 評価する見方と結びつく傾向にある。後者の意 崩壊をもたらした。 見は,出国行動の社会的,政治的,反体制的意 また,⑥において彼は自由買いを例外とした 義を強調する傾向にある。私見は後者である。 が,自由買いされた者の多くは出国運動をして (E)(論点 D に関連して)出国申請の主要な 逮捕され有罪とされた者であり,自由買いへの 動機を経済的,利己的,個人的と見るか,政治 道を「自分で切り開いた」のだから,例外扱い 的と見るか。前者の主張は,論点 D における前 の必要はない。 者を取る研究と結びつく傾向にある。後者は, 動機の政治性を根拠に出国や出国運動の反体制 8.お わ り に 的意義を強調する。私見は,両者ともに動機を 評価基準とする点で間違いとし,また独裁下で 以上に見てきた議論の主要な論点とそれらに は経済的動機が政治化し,政治的動機が経済的 ついての私見は,以下のとおりである: 考慮を伴わざるを得ないなど,独裁下の反体制 (A)1989 年夏・秋の出来事(東独市民の東 動機の複合性を重視する。 欧経由大量逃亡と東独内の大規模街頭行動)を, (F)出国運動評価には出国申請者の主観的 ハーシュマン風に前史のない突発事態と見なす 意図ないし自己主張を重視すべきか,体制側 か,それとも 1970 年代半ば以来急成長した出 (党やシュタジなど当局)の認識・位置づけを 国運動がもたらした大団円であったと見るか。 重視すべきか。私見では,総合的考察が必要で 私見は後者である。 はあるが,出国運動が体制崩壊にどのような役 (B)出国についてその意義を出国という結 割を果たしたかを知るためには,申請者の主観 果(いわゆる足による投票)のみに見いだし逃 よりも申請者の実際の行動およびそれについて 亡と同一視するのか,出国申請から出国に至る の体制側の認識が重要である。大方のケースは までの申請者の行動に着目して,それが人権と 次のように経過した。東独法令の狭い許可枠に しての出国権の実現を東独当局に要求した行動 合致しない申請者が,何か理由を挙げ,多くの であり,国内での改革要求運動でもあり,実際 煩雑な文書を添えて, 「出国許可をいただきた に国内改革の成果を挙げたこと(=出国運動) い」と申請する。初期(70 年代半ば)には内 を重視するのか。私見は後者である 務係がそのような申請者を罵った上で,申請書 (C)(論点 B に関連して)出国運動を反体制 類を申請者の目の前で破り捨てることもあった 運動と見なすか,それとも改革努力を放棄した が,その後は当局は受け取りはしても多くの場 利己主義的行動と見なすか。後者の考えは同時 合に許可を出さなかった。そこで許可を要求す に独立グループのみを反体制と見なす。私見で る運動を始める。それは体制の根幹(独裁と隔 は,独立グループの基本的立場は反体制であっ 離)に触れるから当局は反体制行動としてつぶ ても社会主義擁護のアナクロニズムであり,出 しにかかる。すると運動は政治化する。 国運動は,申請者個々人の動機の如何に関わり (G)出国申請者の出国後の行動は出国運動 なく,人権思想と隔離打破という国民願望とに の評価にとって重要かどうか。出国後に独立グ 合致し,独立グループよりもはるかに強い打撃 ループを支援した出国者が少なかったので,出 力を持った反体制運動であった。 国者は利己的,非政治的であり,反体制ではな (D)出国運動評価は主として出国者の直接 かったと見る意見が多いが,私見では,出国後 の申請動機によるべきか,主として申請者たち の行動は東独内での出国運動の評価に関係しな の行動の目標・形態・効果によるべきか。前者 い。出国者は出国後も多くの「戻り接触」など の意見(多数見解)は,論点 C と関連して,出 によって出国運動を促進したが,出国者の反体 国行動を個人的・利己的行動や改革放棄などと 制性についての評価の中心は,彼らが東独内に 東独出国運動の評価(2) ̶ 29 ̶ おいて何をしたか,出国権実現のための運動に デモ事件により大きく展開し,1988 年春には 参加したかどうかである。 当局を追い詰め,88 年外国旅行政令という当 (H)(論点 B に関連)出国について逃亡者と 局の妥協を獲得するまでになった。それなしに 当局への申請による出国者を一括して考察す 1989 年夏・秋の出来事はなかった。こうした るべきか,分けて考えるべきか。私見は後者で 明白な事実がなぜドイツの大部分の研究者から ある。関連して,出国現象は私的な隠密裏の現 正当な位置づけを与えられないのか,不思議で 象か,公共的性格を持ったか。私見では,申請 ならない。 方式は後者である。逃亡は非合法経路を隠密裏 もしそれは,Eisenfeld が言うように,東独 に,静かに立ち去るのであり,西側大使館への 当局の宣伝が教会幹部やマスコミ,知識人など 逃げ込みも逃げ込むまでは隠密裏であり,社会 に効いた結果が今も存続しているとすれば,ま への刺激とはなり得るが,それ自体は個人的行 ことに残念である。 動であって,社会運動ではなかった。当局に出 出国運動は東独が批准した国際人権規約ほか 国許可を申請して許可を得るために闘争し許可 に明記された出国権の実現を東独当局に要求 を得て出国するか,または闘争ゆえに逮捕され し,隔離体制を打破しようとしたのだから,国 自由買いされて出国する者こそが,出国運動を 内において体制を改革する努力でもあった。独 担った。彼らは,静かに隠密裏に行動したので 裁維持のための隔離は隔離維持のための独裁を はなく,当局と対峙して自らを組織化し,内務 伴い,隔離反対は,当局の恣意への反対,つま 係の面前や役所前の広場など公共の場で大声を り独裁反対でもあった。彼らの闘争こそが壁開 あげたり, 「沈黙散歩」などの声なき集団的公 放を実現し,それが体制崩壊となった。旧共産 然行動をしたり,それと分かる目印を衣服やか 圏において反体制運動が体制の根幹に関わる具 ばん,自宅窓に表示するなどした。だからこそ 体的な要求を実現させた例は殆どない。ポーラ それは社会運動,しかも体制の急所を変革する ンド「連帯」は別格の例外であるが,東独出国 運動であった。 運動も,88 年外国旅行政令という体制内部分 ほかに合法主義かどうかや,動機をめぐる論 改革と 1989 年壁開放を実現させたことにより, 争など,ここに挙げていない論点も記述した。 例外に属する。 東独における出国運動は, 「リーザ市民権イ ニシアチブ」やガンジー主義に則った街頭行 付記 本稿(前号掲載分を含む)は文科省科学 動「イェーナの白い円陣」(1983 年)とそれに 研究費補助金(基盤研究 C,研究代表者青木國 続く全国的な白いシャツや白い目印を示す運動 彦,課題番号 20520631)および本学研究費に などによって発展し,1987 年国籍法活動グルー よる研究の成果の一部である。記して感謝の印 プ結成と彼らによる 1988 年初めの独立ローザ・ としたい。 注 18) 1989 年秋の情勢の緊張点の 1 つ 10 月 8 日ドレ スデン街頭集会(いわゆる 20 人グループ誕 生の場)が「拍手で承認」した「人民(das Volk)の最初の要求リスト」の筆頭は「旅 行の自由」であった(ほかに報道の自由や 自 由 選 挙, 政 治 犯 釈 放 等 々) (Hildebrandt, 1990: 102,邦訳 167).東独はソ連と異なり国 内旅行は基本的に自由であったので,ここに 言う旅行は国外(移住を含む)を指す. 19) 東独で展開されたスポーツ・シューズ改善を 求める署名運動については青木(1991:187) 参照. 20) 私は日本経済新聞の求めに応じて壁開放の翌 日 1989 年 11 月 10 日夕刊(夕刊のない仙台で は翌日朝刊)に,壁開放は「最終的には両独 再統一に向けた大きな一歩といえよう」との コメントを載せた.政権が国家存続のため に「壁」を必要としてきた事情はなくなって ̶ 30 ̶ 東京国際大学論叢 経済学部編 第 45 号 2011 年 9 月 いなかったのだから, 「壁」開放が国家存続 を危うくするのは当然であったし,そのこと は東独で庶民と接した経験のある者には自明 であった.翌 11 日の朝日新聞朝刊には永井 清彦の「壁の撤去…はドイツ再統一への一歩 でなく,良い隣人同士の関係への一歩と見る のが正しい」という長いコメントが載ってい た.これが前日日経夕刊のコメントを知って のことかどうかは知らないが,私見によくか み合った反対議論であった.しかし,両独は とっくに,提携して米ソに多少は抵抗するほ ど,悪くない隣人関係であったし,その後の 事実経過は周知の通りである.すでにその直 後 13 日のライプチッヒ・デモの横断幕には上 段に自由選挙要求を書き,その下に統一ドイ ツと銘記したものも現れた(テレビニュース 映像)が,日本のマスコミは気付かなかった ので日経の記者に注意を喚起した.しかし, 朝日新聞 1990 年 2 月 2 日付の年表などのよう に,1989 年 11 月 20 日を東独での再統一要求 デモの起点にすることがあるが,遅くとも 13 日からである(青木 1991:57).シェワルナ ゼ(1991:205; 2+4 Archiv, 01. Jan. 1986) は ソ連外相辞任後に「ドイツ統一が不可避だと 結論したのはいつか」とのゲンシャー(当時 ドイツ外相)の質問に対して,1986 年であり ソ連のドイツ専門家との話しの際に「統一問 題がすぐに浮上するだろう」と述べた,と答 えた.諸証言から考えると,これは問題がド イツから浮上するというよりも,すでに冷戦 終結を決意していた(青木 2004)ソ連が,自 国の窮状打開のためにこの問題を浮上させ, 東独をできるだけ高く西独に売りつけるとい う意味であったかもしれない. 21) この調査にある諸証言も,結局のところ,出 国派も残留独立グループもその行動動機は政 治的・経済的・個人的動機の複合であること を示している. 22) 用紙送付の宛先は種々の東独政治的迫害犠牲 者団体(旧政治犯基金,スターリン主義犠牲 者協会,スターリン主義被迫害者同盟など) やハーベマン協会の協力によって入手し,さ らに団体雑誌や東ドイツ地域の日刊紙にも協 力の呼びかけを掲載した(S. 259).なお,本 調査における出国動機集計については青木 (2009:注 11)参照. 23)「70 年代・80 年代」の出国・逃亡数について 彼が典拠とした Wendt(1991)を子細に見る と,特殊性の強い 1989 年を除く 1970 ∼ 88 年 の合法移住(東独当局に恒久的出国を申請し 許可を得た者や当局の言う「住所変更」 ,年 金生活者の移住)の比重は,平均 68.6%(最 大 1984 年 85.4%,最小 1973 年 57.1%)であっ た.しかし,Wendt の数字では自由買いが逃 亡に含められている.自由買いは逃亡ではな く,両独間の取引によるという特殊性はある が,合法出国である.逃亡は両独国境または 他国経由で非合法出国した者ないしは合法的 な一時出国者のうちの非帰国者である.自由 買いの対象者の多くは出国運動を含む反体制 派であるから,ここでの文脈からは自由買い を含む合法出国の比重を見るべきである.そ れは 1970 ∼ 1988 年平均 77.8%(うち約 1 割が 自由買い) ,逃亡者 22.2%であった.これは青 木(1991,表 1)から計算したが,この表の「買 取り他」の列は,Schumann(1995: 2399)の 数字から判断すると「自由買い」のみの数字 である.これら 3 つの表の数字は大部分一致 するが,ごく一部にわずかな違いがある.な お,これらの西独統計とは異なる東独側の統 計がある(青木 2009:表 1). 24) ちなみに,ここに引用された Hilmer(1989) (1995)は,Raschka のような「調整」をする ことなく,青木(2006:39)が紹介した表な どに基づき,1989 年には経済的理由が増加し たが,1984 年も 1989 年も「移住者にとって決 定的であったのは政治的動機であった」と結 論した(1995:325). 25) マスコミでもこの表現が多いが,逃げ込んだ のであって,「占拠」したわけではない. 26) http://odem.org/informationsfreiheit/forumview_3485-3485.html(2007 年 8 月 4 日採取). 27) ナチズムと共産党の両独裁の違いとして彼 は,テロの規模,イデオロギー,期間,住民 による認知度,戦争の有無,外部事情などを 挙げた(S. 198). 28) こ れ は Eisenfeld(1995: 199) に も 引 用 さ れ ているが,本稿は本書の BStU 版によるため, 指示ページが異なる. 29) Liebernickel(2000: 22f.) は, 出 国 申 請 は 郡 役場などの内務省の出先に出すが,実質決定 権はシュタジの中央調整グループ(ZKG)と その県レベルの出先(BKG)にあったと言 う.しかし規定によれば,正確には,シュタ ジは特別ケースには決定権を,通常は内務省 への干渉権を持っていた.つまり,内務省 東独出国運動の評価(2) とその出先の決定案に対してシュタジが異議 申し立て権をもっていたし(シュタジ職務指 示 2/83;同 2/88),または「重点とされた郡」 にはシュタジの「特別投入将校」が内務係 ̶ 31 ̶ 員に派遣され(Lochen, 1992: 14),内相規則 175/89 は出国申請対策のために郡内務係長の もとに内務係・郡人民警察署・シュタジ郡支 所の代表からなる「作業グループ」を設置した. 引用文献 青木國彦(1991)『壁を開いたのは誰か』化学工業 日報社. ―(2004)「ポーランド危機と冷戦の終わり の始まり」東北大学『研究年報経済学』66 2. ―(2004a)「<プラハの春>の東独波及と ポーランドからチェコへの連帯クーリエ:ヘ ルシンキ宣言からベルリンの壁開放へ(1)」 『カオスとロゴス』26. ―(2005)「東独脱出(合法非合法移住) : ヘルシンキ宣言からベルリンの壁開放へ (2)」,『カオスとロゴス』27 ―(2006)「東独脱出動機論争」比較経済体 制学会『比較経済研究』43 2. ―(2007)「東独出国運動とハーシュマン理 論」ロシア東欧学会『ロシア東欧研究』35. ―(2008)「東独 1988 年 4 月“中央決定”の 意味と文脈」比較経済体制学会『比較経済研 究』45 1. ―(2009)「東独出国運動の発生:逃亡の時 は過ぎ,闘うべき時が来た」東北大学『研究 年報経済学』70 2. クライン孝子(1987)『自由買い』文藝春秋. 桑原草子(1993)『シュタージの犯罪』中央公論社. 佐藤昇編(1968)『社会主義の新展開』 (現代人の 思想 18)平凡社. シェワルナゼ , E.A.(朝日新聞外報部訳)(1991) 『希望』朝日新聞社. ルクセンブルク,ローザ(野村修ほか訳) (1970) 『ローザ・ルクセンブルク選集』 (新装版)現 代思潮社. レーニン,V.I.(マルクス = レーニン主義研究所訳) (1953–1968)『レーニン全集』大月書店. 2+4 Chronik, in: http://www.2plus4.de/ Althaus, D. (2004) Der Anfang vom Ende (Rede zur Veranstaltung der Konrad-AdenauerStiftung zur DDR-Kommunalwahl vom 7. Mai 1989, Berlin, am 12.05.2004), in: http://www. thueringen.de/ Bahr, E. (1990) Sieben Tage im Oktober: Aufbruch in Dresden, Forum. Bahrmann, H./ Ch. Links (1994) Chronik der Wende, Ch. Links. Baumann, U./H. Kury (Hg.) (1998) Politisch motivierte Verfolgung: Opfer von SEDUnrecht, Freiburg i. Br. Bertram, A. et al. (2003) Wein mit zuviel Wermut, Bürgerbüro E.V. Bickhardt, S. (Hg.) (1988) Recht ströme wie Wasser: Christen in der DDR für Absage an Praxis und Prinzip der Abgrenzung, Wichern-Verlag. Broszat, M./E. Fröhlich (1987) Alltag und Widerstand: Bayern im National sozialismus, Piper. Eckert, R. (1995) Die Vergleichbarkeit des Unvergleichbaren. Die Widerstandsforschung über die NS-Zeit als methodisches Beispiel., in: Poppe (1995). ― (1996)Widerstand und Opposition in der DDR. Siebzehn Thesen, in: Zeitschrift für Geschichtswissenschaft, H.1. ― (2001) Widerstand und Opposition: Umstrittene Begriffe der deutschen Diktaturgeschichte, in: Neubert (2001). Eisenfeld, B. (1995) Die Ausreisebewegung, in Poppe (1995). ― (1995a) Widerständiges Verhalten im Spiegel von Statistiken und Analysen des MfS, in: Henke (1995). Engelmann, R./Grossboelting, T./Wentker, H. (Hg.) (2008) Kommunismus in der Krise: Die Entstalinisierung 1956 und die Folgen, Vandenhoeck Enquete-Kommission (1995) Aufarbeitung von Geschichte und Fogen der SED-Diktatur in Deutschland, Suhrkamp. Fischbeck (1995) Das Mauersyndrom: die Rückwirkung des Grenzregimes auf Bevölkerung der DDR, in: Enquete-Kommission (1995) Bd. 5 2. Fricke, K.W. (1976) Zwischen Resignation und Selbstbehauptung: DDR-Bürger fordern Recht auf Freizügigkeit, in: Deutschaland Archiv, ̶ 32 ̶ 東京国際大学論叢 経済学部編 第 45 号 2011 年 9 月 H. 11. ― (1984) Oppositon und Widerstand in der DDR, Verlag Wissenschaft und Politik. ― (1990) Die Wende zur Einheit, in: Politische Studien, Nr.311. GBl: Gesetzblatt der DDR. Gieseke, J. (2001) Mielke-Konzern: Die Geschichte der Stasi 1945-1990, Deutsche Verlags-Anstalt. Henke, K.-D./Engelmann (Hg.) (1995) Aktenlage: Die Bedeutung der Unterlagen des Staatssicheheitsdienstes für die Zeitgeschichtsforschung, Ch. Links. Hildebrandt, J./G. Thomas (Hg.) (1990) Unser Glaube mischt sich ein: Evangelische Kirche in der DDR 1989: Berichte, Fragen, Verdeutlichungen, Evangelische Verlagsanstalt. ヒルデブラント・トーマス編,渡辺満訳 『非暴力革命への道:東ドイツキリスト者の 証言』教文館,1992. Hilmer, R./A. Köhler (1989) Der DDR läuft die Zukunft davon, in: Deutschland Archiv, H.12. Hilmer, R. (1995) Motive und Hintergründe von Flucht und Ausreise, in: Enquete-Kommission (1995) Bd. 7-1. Hirschman, A. O. (1970) Exit, voice, and loyalty, Harvard UP. 三浦隆之訳『組織社会の論理構 造:退出告発ロイヤルティ』ミネルヴァ書房, 1975. ― (1992) Abwanderung, Widerspruch und das Schicksal der DDR, in: Leviathan: Zeitschrift für Sozialwissenschaft 20. ― (1995) A Propensity to Self-subversion, Harvard UP., 1995. ハーシュマン(田中秀夫 訳) 『方法としての自己破壊』法政大学出版 局,2004. Jander, M. (1995) Die besondere Rolle des politischen Selbstverständnisses bei der Herausbildung einer politischen Opposition in der DDR außerhalb der SED und ihrer Massenorganisationen seit den siebziger Jahren, in: Enquete-Kommission (1995) Bd. 7 1. Jeschonnek, G. (1995) Die Selbstorganisation von Ausreiseantragstellern in den achtziger Jahren in der DDR (Vortrag), in: Enquete-Kommission (1995) Bd. 7 1. Jesse, E. (1995) Artikulationsformen und Zielsetzungen von widerständigem Verhalten in der Deutschen Demokratischen Republik, in: Enquete-Kom- mission (1995) Bd. 7 1. Joppke, Ch. (1995) East German Dissidents and the Revolution of 1989, Macmillan. Kleinschmid, H. (1988) “Symptome eines Syndroms”: Dresden am 13. Februar 1988, in: Deutschaland Archiv, H.3. Kleßmann, Ch. (1995) Die Opposition in der DDR vom Beginn der Ära Honecker bis zur polnischen Revolution 1980/81, in: EnqueteKommission (1995, Bd.7 2). Knabe, H. (1992) Opposition in einem halben Land, in: Forschungsjournal Neue Soziale Bewegungen, H. 1 ― (1996) Was war die »DDR-Opposition«? Zur Typologie des politischen Widerspruchs in Ostdeutschland, in: Deutschland Archiv, H. 2. Knopp, G./E. Kuhn (1990) Die deutsche Einheit: Traum und Wirklichkeit, Dr. Dietmer Straube. 望月幸男監訳『ドイツ統一:夢と現 実』晃洋書房,1991. Kowalczuk, I.-S. (1995) Von der Freiheit, Ich zu sagen: Widerständiges Verhalten in der DDR, in: Poppe (1995). ― (1995a) Artikulationsformen und Zielsetzungen von widerständigem Verhalten in verschiedenen Bereichen der Gesellschaft, in: Enquete-Kommission (1995) Bd. 7 2. ― (1999) DDR-Opposition, in: Weidenfeld (1999). ― /T. Sello (Hg.) (2006) Für ein freies Land mit freien Menschen: Opposition und Widerstand in Biographien und Fotos, Robert-Havemann-Gesellschaft e.V. Kuhrt, E. et al.(Hg.) (1999) Opposition in der DDR von den 70er Jahren bis zum Zusammenbruch der SED-Herrschaft, Leske+Budrich. Lange, H. und U. Matthes (1990) Ein Jahr danach: Auf der Suche nach Fragen und Antworten zur Wende in der DDR, in: Deutschland Archiv H. 11. Liebernickel, M. (2000) Erpressung ausreisewilliger DDR-Bürger: die strafrechtliche Bewertung staatlichen Zwangs zur Grundstücksveräußerung zur Erlangung der Ausreise aus der DDR, Nomos. Lochen, H.-H./Ch. Meyer-Seitz (Hg.) (1992) Die geheimen Anweisungen zur Diskriminierung Ausreisewilliger: Dokumente der Stasi und 東独出国運動の評価(2) des Ministeriums des Innern, Bundesanzeiger. Löwenthal, R./von zur Mühlen, P. (Hg.) (1982) Widerstand und Verweigerung in Deutschland 1933 bis 1945, Dietz. Luxemburg, R. (1979) Gesammlte Werke, Bd. 4, 2. Aufl. ( 初版 1974), Dietz Verlag Berlin. 引用は Zur russischen Revolution (Ein unvollendetes Manuskript) (1918) から. Mayer, W. (2002) Flucht und Ausreise: Botschaftsbesetzungen als Form des Widerstands Gegen die Politische Verfolgung in der DDR, Anita Tykve. Mitter, A./Wolle, S. (Hg.)(1990) Ich liebe euch doch alle!, BasisDruck. ― (1993) Untergang auf Raten: Unbekannte Kapitel der DDR-Geschichte, C. Bertelsmann. Müller-Enbergs, H.; J. Wielgohs; D. Hoffmann (Hg.) (2006) Wer war wer in der DDR?, Aktual. u. erw. neu Aufl. 2 Bde., Ch. Links. Neubert, E. (1998) Geschichte der Opposition in der DDR 1949-1989, 2. Aufl. (1. Aufl. 1997), Ch. Links. ― (2000) Typen politischer Gegnerschaft, in: Veen (2000). ―/ Eisenfeld, B. (2001) Macht-Ohnmacht -Gegenmacht: Grundfragen zur politischen Gegner- schaft in der DDR, Edition Temmen. ―(2008) Systemgegnerschaft und systemimmanente Opposition: ein Paradigmenwechsel 1956?, in: Engelmann (2008). Pollack, D. (1990) Das Ende einer Organisationsgesellschaft, in: Zeitschrift für Soziologie, Jg. 19, H. 4. ―(1990a) Außenseiter oder Repräsentanten?, in: Deutschland Archiv, H. 8. ― (Hg.) (1990b) Die Legitimität der Freiheit, P. Lang. ― (1994) Kirche in der Organisationsgesellschaft: Zum Wandel der gesellschaftlichen Lage der evangelischen Kirchen in der DDR, W. Kohlhammer. ― /D. Rink (Hg.) (1997) Zwischen Verweigerung und Opposition: Politischer Protest in der DDR 1970-1989, Campus. ̶ 33 ̶ hauptung und Anpassung, Ch. Links. Pratsch, K./V. Ronge (1985) „So einer wartet nicht auf das Arbeitsamt“: Die Integration der DDRÜbersiedler in die westdeutsche Gesellschaft, in: Deutschland Archiv, H. 2. Raschka, J. (1998) Die Ausreisebewegung: eine Form von Widerstand gegen das SED-Regime, in: Baumann (1998). Rein, G. (1990) Die Protestantische Revolution 1987-1990: ein deutsches Lesebuch, Wichern. Rüddenklau, W. (1992) Störenfried: DDROpposition 1986-1989: Mit Texten aus den “Umweltblättern”, BasisDruck. SAPMO-BArch.: Stiftung Archiv der Parteien und Massenorganisationen der DDR im Bundesarchiv. Schumann, K.F. (1995) Flucht und Ausreise aus der DDR insbesondere im Jahrzehnt ihres Unterganges, in: Enquete-Kommission (1995) Bd. 5 3. Schwabe, U./R. Eckert (Hg.) (2003) Von Deutschland Ost nach Deutschland West: Oppositionelle oder Verräter?, Forum Verlag Leipzig. Scott R.J. (1986) Dismantling Repressive Systems, in: Foxley, A. et al. (eds.), Development, Democracy and the Art of Trespassing: Essays in Honor of A. O. Hirschman, UP Notre Dame. Spittmann, I. (1988) Der 17. Januar und die Folgen, in: Deutschland Archiv, H.3. Steinbach, P. (1995) Widerstand und Opposition in deutschen Diktaturen, in: Poppe (1995). Stiftung Haus der Geschichte der BRD/ Zeitgeschichtliches Forum Leipzig (Hg.) (2001) Einsichten: Diktatur und Widerstand in der DDR, Reclam Leipzig. Suckut, S. (Hg.) (1996) Das Wörterbuch der Staatssicherheit: Definitionen zur “politischoperativen Arbeit”, 2., durchgesehene Aufl., Ch. Links. taz: die tageszeitung. Veen, H.-J. et al..(Hg.) (2000) Lexikon Opposition und Widerstand in der SED-Diktatur, ― (2000) Politischer Protest: Politisch alternative Gruppen in der DDR, Leske + Propyläen. Vinke, H. (2008) Die DDR: Eine Dokumentation mit zahlreichen Biografien und Abbildungen, Budrich. Poppe, U. et al., (Hg.) (1995) Zwischen Selbstbe- Ravensburger Buchverlag. Weidenfeld, W./ K.-R. Korte (Hg.) (1999) Handbuch ̶ 34 ̶ 東京国際大学論叢 経済学部編 第 45 号 2011 年 9 月 zur deutschen Einheit 1949-1989-1999, Innenansicht aus Stasiakten, Elefanten Press. Campus Wendt, H. (1991) “Die deutsch-deutschen Wanderungen”, in: Deutschland-Archiv, H. 4 Wollenberger, V. (1992) Virus der Heuchler: Ziemer, Ch. (1995) Der konziliare Prozeß in den Farben der DDR, in: Enquete-Kommission (1995) Bd. 4-2.