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Page 1 近代中國におけるバイロン受容をめぐって [ ] 義和園事件は、清末

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Page 1 近代中國におけるバイロン受容をめぐって [ ] 義和園事件は、清末
近 代 中 國 に お け る バ イ ロ ン受 容 を め ぐ って
省
三
立 憲 派 の論 理的 破 産 であ る。 彼 ら は清 朝 を 推 し た て る こと に より、 ア
義 和 團事 件 は、 清 末 思 想 界 に大 き な 影 響 を與 え た 。 第 一に康 有爲 ら
縮 圖 と も いう べき 大 家 族 の中 で成 長 し た彼 は、 章 の如 く 國粹 を素 直 に
す 。 問 いを 發 し た若 い世 代 の 一人 に魯 迅 が い る。 清 末 の澱 ん だ中 國 の
章 炳 麟 の主 體 性論 は、 必 然 的 に 主 體自 體 への問 い直 し を 呼 び お こ
章炳麟 ・魯 迅 ・蘇曼 殊 の場合 1
井
ヘ ン戰爭 以來 の亡 國 の危 機 を 切 り拔 け よう と し て い たが 、 事 件 によ り
信 じ る に は、 餘 り に民 族 の暗 黒部 を感 し と って い た。 彼 が 求 め る 圭體
1
藤
り、 いわば 方法 と し て の國粹 を梃 子 と し た民 族 革 命 主 體 性 論 と い う こ
こ の征 服 王朝 の抵 抗 の軸 と な る に は餘 り に無 能 な 現 實 が、 暴 露 され た
的 個 の原動 力 は、 近 代 西 歐 の科 學 者 と詩 人 の精 紳 であ り、 そ の像 は バ
と が でき る 。
ので あ る。 衣 に、 中 國人 民 に は抵 抗 の精 騨 が 最 早 存 せ ぬ、 と いう危 機
︹ 一︺
感 が高 ま った こ と を擧 げ られ よう 。 日 本 軍 の天 津 入 城 に際 し て、 民 衆
一方 魯 迅 と同 世 代 者 の蘇 曼 殊 は、 主 體 を 根 源 的 に問 い直 す 過 程 で、
イ ロ ンに お い て結 晶 し て いる 。
個 的 世 界 とも 評 す べ きも のを 發 見 す る。 彼 の新 し いバ イ ロ ン觀 は、 辛
は ﹁大 日本 順民 ﹂ の旗 を掲 げ て これ を 迎 え た 。 こ のよ う な事 態 を革 命
派 は ﹁漢 民 族 が まず 滿 洲 に反 抗 し 奴 隷 か ら 脱 脚 し な いかぎ り、 外 國 帝
亥 革 命 が そ の後 中 國 に準 備 し た新 たな 文 學 の誕 生 を 告げ て い る の であ
ω
國 圭 義 に抵 抗 す る こ と は 不可 能 だ﹂ と 認 識 し た 。
る。
本 稿 は 、 章 炳 麟 の革 命 思 想 から 出 發 した 若 き 魯 迅 と蘇 曼 殊 が 、 近 代
光復 會 を組 織 し、 中 國 革 命 同 盟 會 では 理 論 面 を 擔 當 し て、 孫 文 ・黄
興 と 共 に革 命 の 三尊 と稱 され た章 炳 麟 (
字 は 太 炎) の主 體 性論 は、 こ
文 學 の地 夲 を 切 り 開 いて いく 過 程 を 、 ハイ ロソ受 容 を軸 と し て考 察 せ
惆
の状 況 下 で生 まれ た の であ る。 彼 の革 命 論 は ﹁今 日事 を成 す ﹂ に は情
ん とす るも の であ る 。
二二七
中 國 に初 め て バイ 卩ンを紹 介 し た の は梁 啓 超 であ る。 彼 は 一九 〇 二
︹二 ︺
念 こ そが 重 要 であ り 、 これ を 個 に喚 起 す る には佛 激 に よ る道 徳 の進 歩
と 共 に ﹁國 粹 に よ って民 族 意 識 を 搖 り 動 か し て、愛 國 の熱 情 を増 す ﹂
べ き だ、 と要 約 でき よう 。 個 の自 意 識 の源 泉 と し て國粹 を と ら え ると
同 時 に、 國 粹 の喚 起 す る民 族 愛 を 革 命 の原 動 力 に し よう と いう の であ
近 代 中 國 にお け る バ イ ロ ソ受容 を めぐ って
日本 中 國 學 會 報
第 三 十 二集
二 一一八
は大 規 模 な 反 英 鬪爭 が展 開さ れ てお り、 指 導 者 テ ィラ ク は鬪 爭勢 力 の
章 炳麟 の場 合 は ど う か 。彼 には 直 接、
バイ ロンを 論じ た文 章 はなく 、
㈲
結 合 原 理 と し て 民族 的 共 感 に注 目 し 、 ヒ ン ス: の民族 的 英 雄 ゾパ ジ 王
革 命 論爭 中 二 ・三度 觸 れ て い るだ け であ る。 そ の 一つは イ ソト問題 を
ハイ ロ ソは自 由 主義 を最 も 愛 し、 それ と共 に文 學精 紳 に お い てギ
を 祭 る 運 動 を は じ め て いた。 これ は 一九 〇 五 年 以來 日 本 に も 傳 え ら
順 を 舞 臺 にと った こ の 小 読 第 四 章 で、 彼 は バイ ロン ︿ギ リ シ ア の島
リ シ アと ま る で因 縁 が あ った か の よ う だ。 のち に はギ リ シ ア獨 立 の
れ 、 七 年 四 月 二十 日 には 五十 餘 名 の在 日 イ ント 人 留 學 生が 發 起 人 と な
年 雜 誌 ︿新 小詭 ﹀ に ︿新 中 國 未 來 記 ﹀ を 發 表 し た。 ロ シ ア占 領 下 の旅
た め に、 な ん と從 軍 し て死 んだ のだ 。 まさ に文界 筆 頭 の大 豪 傑 と 言
り ﹁清 國 公 使 を 始 め逼 羅 、 比律 賓 の東 洋 人 は 勿 論 歐米 紳 士淑 女 等﹂ 多
めぐ る 大 隈 重 信 の發 言 を批 到 した 文 章 に表 わ れ て い る。 當 時 イ ンド で
え る 。彼 の この詩 は、 ギ リ シ ア人 を 勵 ます た め に作 った のだ が、 今
數 の參會 を得 て、東 京 シ バジ祭 が 盛 大 に催 さ れ た 。 日 印協 會 々長 であ
々﹀ 第 一 ・三 兩章 を譯 し た のち、 主 人公 に次 の如 く語 ら せ て いる。
目 ほく た ち がき く と、 ま る で中 國 の爲 に歌 ったか のよ う だ 。
った大 隈 は、 そ の場 でイ ント人 の心 を 踏 み に じ る 如 き 發言 を し た。 曰
お
バ イ ロソ の詩 的表 出 は全 く 梁 の 眼中 に な い。 ﹁ギ リ シ ア人 を 勵 ま す
く 、 生存 競 爭 に堪 え ぬ結 果 と し てイ ソト は 亡 國 と な り、 自 由 寛 大 な優
爲 に作 った ﹂ と いう 言 葉 は、 同 じ く <新 小 説 ﹀ に發 表 し た 論文 ︿小 説
に努 力 す べ き で、 ス ワ テ シ運 動 の如 く竹 槍 で鐡 砲 に 立 ち 向 か っても何
働
と 政 治 の關 係 に つい て﹀ て、 新 瓧 會 建 設 、 新 人 格 形 成 に お け る小 説 の
等 民族 英 國 人 の 下 で統 一され た か ら に は カ ナ タ の如 く 自治 を得 るよ う
の盆 も な い、 と 。 こ の發 言 が、 朝 鮮 を 植 民 地 と し た 新 興帝 國 圭義 國 日
囚
實 用 性 を 論 し た梁 の面 目 躍 如 た る と こ ろ であ る。
︿ギ リ シ ア の島 々﹀ を梁 は 二章 譯 し た だけ であ った が、 そ の全譯 を
分 け す る な らば 、 二 人 は 壓 倒 的 に後 者 に注 目 し て い た の であ る。 自 由
め た彼 の心 的世 界 と そ の表 現 さ れ た結 果 と し て の政 治 性 と の 一一つに腑
ハイ 卩 ンが 詩 作 と政 治 行 動 に よ って成 し た 全表 現 を 、 そ れ を 表 現 せし
ンは 何 よ り も ギ リ シア を助 け た義 狹 で あ った。 單 純 化 を 恐 れず 、 假 に
動 派 と、 朝 ・越諸 民 族 の獨 立運 動 家 と 共 に 結成 し た 亞 洲 和 親 會 解 體
な って はな ら ぬ﹂ と い うも の であ る。 幸 徳 秋 水等 目本 瓧 會 圭 義 直接 行
キ リ シア獨 立 を助 け たが 、 我 々も實 行 でき ぬ と し ても そ の心 だ け は失
大 であ り、 そ の關 係 はあ た かも 歐州 と ギ リ シア の如 く だ 。 バ イ ロンは
展 開 さ れ て い る。 そ の論 旨 は ﹁中 目兩 國 は文 化 的 は イ ソト に負 う こと
であ る。 そ し て こ の時 同 じ 被 抑 壓民 族 の 一人 と し て大 隈 を批 難 し た の
⑬
鋤
か章 炳 麟 であ った。 そ の批 剣 は ︿印 度 シバジ 王 紀 念 會 の事 を 記 す﹀ で
ω
完 成 し て ︿新 小説 ﹀ に發 表 し た の は馬 君武 であ る。 ま た彼 は ユーゴ ー
本 の立 場 を 反 映 し て いる こと は、 當 時 の新 聞 論 評 を 見 て も 明 か で あ
伺
と ハイ ロソを 論 じ た ︿十 九 世 紀 二大 文 豪 ﹀ を 、 梁 の主 宰 す る ︿新 民叢
る。
こ の よう な 日本 の國 情 が、 イ ソト人 の失 望 と 反 感 を 買 った のは當 然
㈲
報﹀ (一九 〇 三年 三月) に 發 表 し て いる 。 そ の 中 で彼 は バイ ロンを 、
圭 義 と い い義侠 心 と い い ハイ 冒ソの皮 相 を語 って い る に過 ぎ な い。 例
後 、 こ の民 族 的 共感 こそ が更 に中 印 兩 民族 の連 帶 を深 め て い った ので
キ リ シ ア獨 立戰 爭 に參 加 中 病 死 し た義 侠 に し て文 學 者 であ った と 評 し
え ば 、 西 歐 並 び に バ イ ロン自 身 にお け る 古 典 ギ リ シ ア の 重 み に つ い
て いる 。牛 植 民 地状 態 の中 國 を憂 う梁 ・馬 兩 人 にと って、 詩 人 バ イ ロ
て 、 二人 は 殆 ん ど氣 つ いて いな い の であ る 。
あ る。
︿摩 羅 詩 力 説 ﹀ (一九 〇 八)は、 こう した 問 題意 識 の下 で執 筆 さ れ た の
か、 と いえ よう 。 ハイ ロソ ・シ エリ ー及 び束 歐 ロマ ソ派 詩 人 を 論 じ た
を擔 ってき た圭 體 的 個 のあ り方 を西 洋 から 中 國 が いか に 受 容 す べ き
言 に ま と めれ ば、 現 象 であ る物 質 文 明 の背 後 に存 在 す る糟 瀞 と 、 そ れ
洋 に羇 し ても つ文 化 的意 義が 存 在 し て い る 。R ・F ・グ レ ソク ナ ー は、
であ る。 論 旨 は 次 のよ う に要 約 でき よう 。 詩 人 の聲 は人 の心 に逆 ら う
と こ ろ でバ イ ロ ンが キ リ シ ア獨 立 に 加 わ る背 景 に は、 ギ リ シ アが 西
の世 界 苦 であ る と解 釋 し 、 そ のキ リ シ ア觀 は 人 類 が エデ ンの状 態 に最
バ イ ロ ン詩 の主 題 に つい て樂 園 を喪 失 し た こ の世 の地獄 に おけ る 人 間
の關 係 を、 章 は ︿シ バジ 王會 ﹀ で粗 略 な が ら も 的 確 に 理解 し て いた 。
と 、 グ レ ソク ナ ー の指 摘 す る 形 而 上 的 不 安 か ら 生 じ た ギ リ シ ア憧 憬 と
も 近 づ き え た傳 説 の國 であ った と 論 じ て いる。 バ イ ロ ンの英 雄 的 行 爲
に進 み つ つあ る ロシ ア ・東 歐 も 詩 人 の聲 によ って文 明 の基 本 であ る 精
十 九世 紀 のバ イ ロンら ロ マン派 詩 人 の ﹃新 聲﹄ であ り、 野 蠻 から 文 明
も のであ る故 に革 命 の前衞 た り う る。 現 代 西 歐 文 明 の中 心 をな す のは
㈲
彼 は論 じ る。 ﹁中 國 日 本 兩國 は、 印 度 の佛 激 を 奉 じ て自 ら の道 徳 を 高
は、 こ の詩 人 の聲 が絶 え た爲 であ る。 中 國 を新 しく 文 明化 し て救 う に
紳 が振 い起 こさ れ た。 イ ソド ・エジプ トな ど古 い文 明 國 が 亡 び た の
こ の論 理構 造 は そ のま ま 西歐 科 學 史 を 論 じ た ︿科 學 史 教 篇 ﹀ (
同年)
は、 ロマ ン派 の精 瀞 に 學 ぶ べき だ。
め てき た。 これ は 丁度 近 代歐 洲 と キ リ シ ア の關 係 と 同じ であ る 。 ギ リ
シ アが 亡 べば 、 英國 詩 人 バイ ロン はそ の獨 立 を 助 け る のだ 。
﹂ 梁啓超
の單 純 な バ イ 卩 ン觀 を は る か に拔 く 文 化 の契機 を 含有 した 有 機 的 理 解
つま り、 民 族 の危 機 にお いて 人 を 行爲 に驅 り た てる 文化 "國 粹 の、 個
ら の詩 人 は、 フラ ン ス大 革 命 の科 學 者 モ ンジ ェにそ れ ぞ れ 野 應 す る も
ル トに、 租 國 解 放 の爲 に詩 と命 を捧 げ る ミ ッキ ェヴ ィ チ ・ペ テ ー フィ
への反 抗 を 唱 う バ イ ロンは、 近 代 科 學 の基 礎 を築 いた へー コン ・デ カ
に對 す る絶 對 的 關 係 を 前 提 と し て いた ので あ る 。 し か し逆 に個 の文 化
のであ る。 ︿摩 羅 詩 力 親﹀ と は ︿科 學 史 教 篇 ﹀ が 科 學 論 であ る と 同 じ
に移 し變 え う る。 詩 人 と沚 會 は、 科 學 者 と 肚會 の關 係 に置 換 でき 、 祚
への ア イ テ ンテ ィテ ィを 大前 提 と し た革 命 論 の爲 に、 バ イ ロ ンを し て
意 味 合 に お いて のみ ﹁文 學 論 ﹂ た りう る にす ぎ な い。 ︿文 化 偏 至 論 ﹀
は、 な せ章 に お い て始 め て可 能 であ った のか 。 そ れ は彼 が 、 國 粹 を 人
ギ リ シ アを 憧 憬 せし めた 個的 世 界 の問 題 であ る世 界 苦 は、 章 の眼 に は
等 一連 の論 文 と同 樣 そ れ はあ く ま でも 、 沒 主體 的 改 良 論 革 命 論 への反
が 民 族 的 抵 抗 に 立 ちあ が ると き の原 動 力 と 自覺 し て いた から であ る 。
映 らな か った。 H ・G ・ソ ェン クは 西 洋 のバ イ ロ ン受 容 に つい て ﹁そ
駁 と し て か かれ た の であ る。
ったが 、仙 を母 と し て育 てられ た と いう 。 詳 し い傳 記 は 他書 に讓 るが 、
魯 迅 に遲 れ る こ と 三年 、 一八 八 四年 九月 に、 蘇 曼 殊 は横 濱 の茶商 人
れ ぞ れ の國 民 が バ イ ロソ の作 品 のう ち で い ちば んぴ った り す る部 分 を
飼
選 び と った ﹂ と 述 べて い るが 、 そ れ は ﹁そ れ ぞ れ の個 ﹂ に お いて も 同
蘇 傑 生 の子 と し て生 ま れ た。 生 母 は 父 の日本 人 妾 河 合 仙 の妹 お 若 であ
本 稿 で は 一九〇 二年 留 日學 生 の革 命 團 體青 年 會 に加 わ った 頃 の彼 の詩
二十 歳 の魯 迅 が 日 本 に留 學 し た の は、 一九 〇 二年 の こと で あ る 。 仙
樣 であ ろう 。
臺 醫 專 入 學 前 の混 沌 か ら同 校 中 退 後 、 初 期 思 想 の中 核 と も いえ る も の
・論 文 の特 徴 に つい て、 一 ・二觸 れ ておき た い。 ︿詩 と 晝 に よ っ て 湯
働
二二九
ボ 形 成 さ れ る過 程 は 、す で に幾 度 か論 じ ら れ て い る。 そ れ を敢 え て 一
近 代 中 國 にお け る バ イ ロ ン受 容 を めぐ って
國頓 に留 別す る﹀ (一九 〇 三)二首 が愛 國的 ヒ ロイズ ムに滿 ち て い る 一
テ ィラ ク と並 ぶ指 導 者 であ った オ : ロピ ンド ・コー シ ュ と 推 定 さ れ
界 を舞 臺 に し て反 英 鬪 爭 を描 い た小 読 であ るが 、 そ の原作 者 は、 當 時
二三〇
方、 ︿鳴 呼 、 廣 東 人 ﹀ は、 故 郷 の廣 東 人 の多 數 が 買 辧 と な って帝 國 主
る。 ︿バ ンデ ・マタ ラ ム (母 國萬 歳)﹀ は、 B ・チ ャテ ルジ ー の反 ムカ
第 三十 二集
義 に 兄弟 を賣 る と批 剣 す る と共 に、 飜 案 小 諡 ︿慘 肚 會 ﹀ (ユゴ ー原 作
ー ル鬪 爭 を描 い た小 説 中 の詩 であ るが 、 ベ ンカ ル鬪爭 中 に コー シ ュに
日本中國學會報
︿レ ・ミ ゼ ラ フ ル﹀) は 金 錢 欲 の固 ま り と し て中 國 人 を 嫌 惡 し て いる 。
よ って革 命 歌 と し て取 上 けら れ イ ント中 で唱 わ れ た 。 こ の 詩 の 英 譯
を、 曼 殊 は ま た自 ら の譯詩 集 ︿潮 音 ﹀ に收 め て いる 。 こ の よう に彼 が
母 國 への矛 盾 し た感 情 は、 翌 年 康 有 爲暗 殺 が頓 挫 し た のち、 シ ャ ム ・
セイ ロ ンに南 游 し梵 文 に沒 頭 し て いく こと とも 關 係 が深 い と考 え られ
現 實 の イ ンド 鬪 爭 と關 わ り を持 つよう にな った 背 後 にも、 ﹁亞 洲 和 親
㈱
る。
章 炳麟 と の親 交 は、 曼 殊 が 一九 〇 七年 に來 日 し た折 、 民 報 瓧 で章 と
ス ・ミ ュラ ー の弟 子 南 條 文 雄 を頼 って眞 宗 大 學 (現 大 谷 大 學) に 入學
章 に鼓 舞 さ れ た こ とも あ って か、 曼 殊 は 一九 〇 八年 正 月 に は マ ック
ので あ る 。
の局 ﹂ に おけ る梵 語 の重 要性 を強 調 し た章 の革 命 理 論 が存 在 し て い る
歳 の差 が あ る 二人 を 固 く 結 び つけ た のであ る。 但 し章 が 圭 に佛 歡 に關
し て梵 文 研究 に專 念 す る つも り であ った。 し か し 四月 に 南 條 が京 都 本
同居 した こと に始 ま って い る。 そ し てイ ント文 明 へ の憧 憬 が 、 十 六も
心 を抱 き 、 そ れ を 己 の思 想 的 糧 とし てい た のに封 し て、 曼 殊 は極 め て
た のは こ の頃 で あ った 。
﹁心 中 の無念 ﹂ を噛 み し めねば な ら な い。 彼 が ハイ ロソを 耽 讀 し 始 め
願 寺 に移 って し ま い、 ﹁人事 は定 め難 く 、 濁 世 は亂 れ る この とき ﹂ に
鋤
文 學 的 に イ ント に傾 倒 し て いた 。 七年 に は陳 獨秀 が買 與 え た マ ノク ス
・ミ ュラ ー等 の書 を下 敷 と し て ︿梵 文 典﹀ を著 し、 九年 に は 章が 主催
し た と思 われ る ﹁梵 學 會 ﹂ の講 師 ミ スラ と、 カ ーリダ ー サ ︿雲 の使
い﹀ 共 譯 を 試 み て い る。 ま た ︿シ ャ ク ン タ ラ ー﹀ にも 興 味 を 示 し 反譯
し て い た曼 殊 か、 再 び 革 命 運動 に囘 歸 す る に は、章 の影響 力 が大 い に
一九 〇 四年 、 革 命 に挺 身 す る志 が頓 挫 し た のち、 梵 文 の世 界 に沒 頭
曼 殊 譯 ︿擧 o Hω冨巳 ﹀ の 一節 が 收 めら れ て いる のみ であ る。 ︿文 學 因
ンは 章 炳 麟 の高 弟 黄侃 の譯 詩 く護 ρ昼 oh︾窪 o器 ℃国﹃o≦、
o団鋤旨V と、
載 って いる。 ゲ ー テ ︿シ ャク ン タ ラー に題 し て﹀ 等 に混 って、 バ イ 卩
最 初 の譯詩 集 ︿文 學 因 縁﹀ の廣 告 は、 ︿天 義 V 一九 〇 八年 一月 號 に
與 か って い る と思 われ る。 曼 殊 が ︿民報 ﹀ 八年 四月 號 に發 表 し た ︿嶺
縁 ﹀ 自 序 は、 梁 馬兩 人 の譯 業 を 例 にと り反 譯 の難 しさ を述 べ る に際 し
を幾 度 も 計 晝 し て い た。
海 幽 光 録﹀ は、 明 末 中 國 人 の清 朝 に野 す る凄 慘 な抵 抗 を オ ム ニバ ス形
と の關 わ り を ﹁現 在中 國 は末 世 にし て廊 の如 く 亂 れ てお り 、 文事 も 衰
て、 僅 か に バ イ ロンに觸 れ て いる だ け であ る。 但 し母 國 の衰 亡 と 文 學
った。 曼 殊 の梵 文 に關 す る學 識 は、 中 印 民 族 圭義 の國際 連 帶 に お い て
え て 久 し い。 大 漢 の天聲 は眞 に絶 え てし ま った のか。﹂ と 述 べ て いる
式 で描 い たも の であ る 。 これ は章 の設 く 方 法 と し て の國 粹 の實 踐 であ
發 揮 さ れ る 。 先 に彼 は東 京 シ バジ祭 の爲 に來 日 し たプ ラダ ンに ︿江 干
點 に注 目 し た い 。 天聲 絶 え な ん と す る 母 國 を憂 う心 情 は 、 同 年 九 月 に
バイ質!
蕭 寺 圖 ﹀ 一幅 を 贈 別 し てお り 、 八年 七月 に は ︿民 報 ﹀ に梵 語 に關 す る
出版 さ れ た く拜 輪 詩 選自 序 V に至 って明確 にバ イ ロ ンにお い て像 を 結
㈲
譯 注 多 數 を 含 む ︿娑 羅 海 濱 遯 跡記 ﹀ を 發 表 し て い る。 これ は神 話 的 世
(唐代に編集された佛歡書) の版 木 は、 す で に虫 に食 わ れ て おり 、 原 本
ぶ 。 ベ ル リ ン大 學 歡綬ヲ ラ ン ケの依 頼 を う け て 探 し た ︿法 苑 珠 林 ﹀
惜 し い こ と に私 は英 語 を 解 さ ぬ の で、 みな 譯 本 で讀 ん だ 。ll中
て いる 。
中 國 はす べ てに お い て 衰 亡 し、 も は や 昔 時 ﹁天 國 ﹂ (
090ω鉱9
ろ が あ った。 譯 文 は大 變 古 めか し か ったが 、 章 太 炎 先 生 が 潤 色 し た
す﹀ 式 の詩 を か い て いな か った ので、 まだ バ イ ロ ンに つなが る と こ
略- 1 蘇 曼 殊 氏 も 數 首 譯 し て いる。 そ の こ ろ彼 は ︿箏 を彈 く人 に寄
国日 b旨o) と 稱 さ れ た面 影 はど こ にも 見 當 た ら ぬ。 イ ンド ・バ ビ ロ
爲 かも し れな い。 そ んな 譯 で全 く古 詩 の よう であ り 、 あ ま り廣 く讀
が 手 に 入ら な い。 曼 殊 は ⋮歎 く 。
ン ・エジプ ト ・ギ リ ゾ ア に續 い て亡 國 と な る のだ ろう か。 わ た し は
ま れ な か った。 の ち に彼 が 自 ら 發 行 し た緑 の地 に金 文 字 の題 が 入 っ
魯 迅 は幾 つか記 憶 違 いを し て いる が 、 と も か く も こ れ は曼 殊 が 己 と相
いた
これ を 思 う に つけ 深 い恫 み を 覺 え た 。 最 近 南京 よ り急 ぎ 母 に仕 え よ
海﹀ ︿哀 希 臘 ﹀ の三篇 を 譯 し た 。 あ あ バイ ロンは素 晴 し い ー
の であ る 。
似 した 、
バイ ロン觀 を抱 い て い たと 、 當 時彼 が認 め て いた こ とを 示 すも
図
た ︿文 學 因縁 ﹀ に收 めら れ た。
の去 國 の憂 いを 詠 い、 他 國 を 助 け 、 そ の獨 立 が 果 た さ れ た時 に は 巳
詩人
う と し て歸 ったが 胸 を 患 い、 筆 を 執 って バイ ロ ンの ︿去 國 行 ﹀ ︿大
に こ の世 を 去 って いた 。 バ イ ロ ンの名 は、 日 月 の如 く 光 輝 い て い
後 に ︿摩 羅 詩 力 説﹀ は ︿河 南 ﹀ に發 表 さ れ て いる 。前 年 に ︿新 生 ﹀編
︿拜 輪 詩 選﹀ 出版 の牛 年 前 、 丁度 曼 殊 が バ イ ロンを 耽讀 し始 めた直
失 な わ れ た ﹁天 聲﹂、 亡 國 、 バ イ ロ ン のギ リ シ ア で の死- ー 序 文 と い
を興 味 深 く 讀 ん だ ことだ ろう 。 當 時 、 周 作 人 の筆 に よ る ︿摩 羅 詩 力
集 會 議 の席 上、 魯 迅 のバ イ ロ ン論 を き いて いた と す れば 、 曼 殊 は これ
る。
う 性 格 上 飛 躍 が 大き いが 、 そ の溝 を埋 め て いく と 、 わ た し た ち に は 巳
表 さ れ た ︿河南 ﹀ も 劉 の編 集 によ る も のであ った と いう 。 劉 は ︿梵 文
い た こと は のち に述 べ るが 、 そ の周 作 人 に よ れば ︿摩 羅 詩 力 説﹀ が發
説 ﹀ に類 似 し た 諸篇 が、 劉 師 培 夫 妻 の編 集 す る ︿天 義 ﹀ に掲 載 され て
にな じ み の ︿摩 羅 詩 力 説 ﹀ の詩 人 像 が 現 われ てく る ので あ る 。
が 増 田 渉 に語 った と ころ に よれ ば 、 曼 殊 も 同 人 の 一人 で あ っ た と い
典 ﹀ に章 炳麟⋮
と 共 に序 を 寄 せ てお り、 ア ナ キ スト であ った妻 何 震 は曼
一九 〇 七 年夏 、 魯 迅 は雜 誌 ︿新 生 ﹀ の發 行 を 計 晝 し て いた 。後 年 彼
う 。 蘇 曼 殊 飜 案 ︿慘 瓧 會 ﹀ を 愛 讀 し て い た魯 迅 が 民 報 瓧 に居 た彼 に聲
殊 を 敬愛 す る あ ま り く曼 殊 晝 譜 V 出版 を 企 て、 曼 殊 の母 と 章 の序 に續
鬮
を かけ ても 不 思 議 はあ る ま い。 共 通 の友 人 陶 成 章 が 二人 を 引 合 わ せ た
け て自 ら の後序 を く天義 V 七 年 九 月 號 に發 表 し て い る。 こ の よう な親
働
の かも しれ な い。 ︿吶 喊 ﹀ 自 序 で魯 迅 は く新 生 V 流産 の 經 過 を ﹁出版
鬮
の期 限 が 近 づく と、 眞 先 に原 稿 を擔 當 す る數 名 の者 が 雲 隱 れ し てし ま
れば 、 讀 ま ぬ方 が 不 思議 であ ろう 。
友 の編 集 す る雜 誌 に バ イ ロ ン等 を 扱 った力 作 論 文 が 掲 載 さ れ た のであ
補注1
い、 續 い て出 資 者 が 逃 げ だ し﹂ た と述 べ て いる。 曼 殊 は 同 年 九 月 に上
︿拜輪詩選﹀自序 は ︿
去 國行>9ξ Z鉾署oい僧ロェ
ニ コ=
を ﹁去 國 の憂 いを詠 ﹂ ったも のと し て いるが 、 こ の解 釋 は お そら くグ
8島2彪ゲ亭
海 に渡 って おり 、 お そ ら く ﹁雲 隱 れ し た﹂ 書 き 手 の 一人 であ った のだ
ろう 。 魯 迅 はま た留 日時 代 を 囘顧 し た く雜 憶 V を か い て いる 。 ギ リ シ
ア 獨 立戰 爭 に赴 く バ イ ロンに感 激 し た 思 い出 に續 け て次 のよ う に述 べ
近 代中 國 に 湘け るバ イ ロソ受 容 を め ぐ って
いな い。彼 に お い て個 の情 念 は革 命 の方 法 と し て求 め ら れ て いる ので
二三二
レ ソク ナ ーが ﹁生 來 の國 土 と 暮 ら し を、 ﹃わが 母 な る大 地 ﹄ を、 友 と
戀人を喪失
崗
﹂ し たと 評 す ると ころ のバ イ ロ ンの 心情 と共 逋 す るも ので
は な く 、 一個 の完 結 し た世 界 、 詩 人 の生 を決 定 す る原 點 と し て存 在 し
日本中國學會報 第 三十 二集
あ ろう 。 曼 殊 にと って、 バイ ロ ソの ﹁樂 園 の廢 虚 ﹂ と は、 詩 人 の聲が
て いる の であ る 。
︹三︺
は 、 巳 に行 爲 に おけ る圭 體 性 の源 と いう 觀 點 から 個 の情 念 を捉 え て は
絶 え 亡國 に瀕 し た中 國 であ った 。
と こ ろ で こ こ で は、 一旦魯 迅 と同 質 の バ イ ロ ン觀 を 有 し た 蘇 曼 殊
が 、更 に獨 自 の理 解 を 抱 く點 に注 目 し た い。 譯 文 集 ︿潮 音 ﹀ (一九 一一
中 國 のバ イ 冒 ン受 容 に際 し て は、 當 時 く太 陽V ︿明 星 ﹀ ︿文 藝 界 ﹀ 等
で そ の紹 介 をし て いた 木 村 鷹 太 郎 が影 響 を與 え て いる と 思 わ れ る。 日
年 發行) は、 バ イ ロンと ソ ェリ ーを 論 じ た 英 文 自 序 を 收 め て い る。 本
來 これ は九 年 頃 に計 晝 し て い た ︿拜 輪 詩 選 ﹀ 再 版 の爲 に書 かれ たも の
り 、 劍 光 閃 く の下、 善 惡何 の區 別 が あ ら ん、 椹 利 義 務 亦 何 ぞ 頼 む に足
本 圭 義 を掲 げ て明 治 二十年 代 に高 山 樗 牛 ら と 共 に活 躍 し て いた木 村 の
ら ん。 人 常 に自 由 と呼 び權 利 と叫 ぶ と雖 、 彼 等 は未 自 由 を 知 ら ず 、 又
と 思 わ れ る 。魯 迅 は 二 人 を共 に世 俗 に反 抗 し 自 由 を 求 め た同 質 の詩 人
で、 更 に ﹁表 現 の樣 式 ﹂ にお いて 二 人 が 全 く 正 反 樹 であ った こと を 指
的 な 氣 高 い情 念 、 帥 ち愛 を抱 い て いた﹂ 二 詩 人 の同質 性 を 認 め た 上
槽 利 を 悟 ら ざ る な り﹂ と絶 樹 自 由 、 槽 力 への意 志 を 謳 歌 す る 木 村 は、
と考 え た。 二 人 の作 品 の圭題 は祚 の繦 對 性 を 否 定 し、 壓 制 に反 抗 す る
摘 し て いる 。 バ イ ロ ンが 熱 烈 な自 由 主義 者 と し て、 瓧 會 ・政 治 のあ ら
詩 人 の内 的 契 機 への洞 察 に缺 け てお り、 のち に美 的 生 活 論 爭 を 起 こす
ソ の海 賊 、 及 び ﹁サ タ ン﹂主 義﹀に よく 表 われ て いる 。 ﹁劍 力 は槽 利 な
ゆ る 場 にお い て自 由 を 主 張 し た の に對 し て、 シ ェリ ー は詩 的 精瀞 が 強
樗 牛 が ︿太 陽﹀ 同 號 文 藝 欄 で、 バ イ ロン流行 を悪 影 響 と し て批 難 し た
パ イ ロ ソ觀 は、 ︿太 陽 ﹀ 明 治 二十 八 年九 月號 に發 表 し た ︿詩 人 バ イ ロ
烈 な 爆發 的 表 現 と な って現 わ れ る こ と は なく 、 靜 水 に映 る月 のよ う な
のは、 こ の點 にも 關 わ って いる のであ ろ う。 梁 啓 超 ・馬 君 武 兩 人 のバ
熱 情 であ る と彼 は論 し て いる 。 一方 蘇 曼 殊 は ﹁詩 的表 現 の圭 題 に創 造
表 現 で あ った 。 ﹁シ ェリ ー は愛 に涅 槃 を 求 め たが 、 バ イ ロン は愛 の爲
イ ロン觀 は、 木 村 の解 釋 か ら權 力 へ の意 志 を創 り 、 さ し あ た って中 國
こ の 二 人 に 比 べ て、章 炳麟 は 己 の、 方 法 と し て の國 粹 に 照 ら す こと
が必 要 と す る自 由 主 義 のと ころ を 頂戴 し てき たも のな の であ る 。
のそ し て愛 に お け る 行 動 を 求 め た。﹂
︿摩 羅 詩 力 説 ﹀ と ︿潮 普﹀ 英 文 自序 の差 は、 單 に 二詩 人 を 同質 と み
る か否 か で は な い。 ま た シ ェリ ーを 反 抗 11動 の詩 人 ハイ 卩ンに近 づ け
に よ って、 バ イ ロソに お け る ギ リ シ ア憧 憬 と獨 立 戰 爭 參 加 と の關 係 を
遙 か に鋭 く 理 解 し て いた こと は 巳 に邇 べ た。 こ のバ イ ロソ觀 の構造 か
て理 解 す る か、 或 る い は愛 の哲學 家 闘靜 の詩 人 と し て別 に置 く か と い
う だ け の樹 立 でも な い。 問 題 は、 自 由 と 反 抗 と いう バ イ βソ精 紳 を 、
ら 、 そ の大 前 提 であ る 國粹 の契 機 が 缺 落 し たと き 、 魯 迅 の詩入 論が 生
れ て い る。
まれ た。 彼 の國粹 に封 す る不 信 感 は、 章 と 樹 照的 な イ ント觀 に反 映 さ
魯 迅 が そ れ 自 體 と し て とり 出 し てき た の に反 し て、 蘇 曼 殊 は そ の詩 的
愛 ﹂ の理解 に逹 し て いた と いう 點 にあ る のだ。 蘇 曼 殊 の 詩 人 論
表 出 の契機 と し て個 の内 的世 界 に存 在 す る ﹁創 作 に おけ る崇 高 な 感 情
ー
仙 臺 から 歸 京 後 、 魯 迅 は以 前 より 尊 敬 し て いた章 の元 に逋 い國學 を
題﹀ を 投 稿 し た。 ︿天義 ﹀ 肚 側 も こ の ﹁大 作 に感 銘﹂ し て、 四 ・五兩
作 人 は ﹁獨應 ﹂ の筆 名 で ︿天義 ﹀ 四號 (七年 七月) に ︿婦 女 選 擧 權 問
と は不 可 能 だ が 、 殘存 す る 八 ・九 ・ 一〇 合 併 號 、 一 一・ 一二合 併 號 掲
學 んだ 。 後 年 彼 は自 ら の死 を 目 前 にし つ つ 二 つ の追 悼 文 を 綴 って ﹁學
載 の諸 論 文 に は、︿摩 羅詩 力 説 ﹀ と共 通 す る詩 人 逹 が 登場 し、侵 略 主 義
號 に住 所 を知 ら せよ と いう 獨應 宛 の廣 告 を 載 せ て い る 。 覆 刻 版 ︿天
さ れ た と いう 囘 顧 を み ても 想 像 でき よ う 。 そ し て魯 迅 の 一九 〇 七 ・八
義 ﹀ に は缺 號 が 多 く、 そ の後 も 寄 せら れ た周 作 人 論文 の全 貌 を 掴 む こ
年 の論 文 に は、 昇 官 發 財 主 義 への批 剣 、 佛 數 への好 意 的 評價 、 ア ナキ
を 内 に含 む ﹁獣 性 の愛 國 ﹂ を 戒 め るな ど、 そ の主 題も 多 く 一致 す る。
る傾 倒 ぶ り は、 章 の編 集 す る ︿民 報﹀ を愛 讀す る あ ま り 文 體 ま で影 響
スト への批 剣 等 、 章 と 共 逋 す る論 旨 が多 く見 ら れ る 。 し か し イ ント觀
︿讀 書 雜 拾 団︾ と いう 論 文 は、 ペ テ ー フ ィ ・ミ ソキ ェヴ ィチ、 ブ ラ ン
問 のあ る革 命 家 ﹂ への敬 慕 の念 を 披 瀝 し て いる 。若 き 魯 迅 の章 に對 す
は決 定 的 に 異 な って いた 。 章 はイ ソト を ア ジ ア文 明 の源 と考 え 、 テ ィ
い。 魯 迅 が 八 年 に 發表 し た 一連 の論 文 は、 ︿新 生 ﹀ の た め に用 意 さ れ
デ スに言 及 し てい るが 、 そ のe で はバ イ ロンを 論じ た の か も し れ な
た のだ が 、 ︿新 生 ﹀ が 流産 し た 七年 夏 以 後 に は、 周 作 人 が ︿天 義﹀ に
ラ クら の國 粹 主 義 に共 感 し逋 帶 し た。 ま さ に ﹁イ ンド への親 近 感 、 そ
これ に反 し て、 魯 迅 は留 日 當初 から 一貫 し て 否定 的 イ ント觀 を 抱 い
︿摩 羅 詩 力 読 ﹀ の材 料 を 小 出 し に發表 し てい た の であ る 。 文 學 論 執筆
れ はそ のま ま、 かれ の思 想 的 原 點 の表 白 で あ った 。﹂
にあ た って最 大 の協 力 者 であ った弟 の類似 論文 を 掲 載 す る ︿天 義 ﹀
一九〇 七年 春 以後 、 ︿民 報 ﹀ ︿天 義 ﹀ に氾 濫 す る イ ンド情 報 に圍 ま れ
て い る。 ︿中 國 地質 略 論 V(一九〇三) で、 一國 の 文 明 の尺 度 と も 言 う
な が ら、 魯 迅 は頑 な に ﹁聲 なき 亡 國﹂ と いう イ ント觀 を手 放 さ な か っ
を 、 ど う し て魯迅 が 目 を 通 さ ぬ こと が あ ろう か。
を 見 て いる 。 ︿摩 羅 詩 力 説 ﹀で はポ ー ラー ドと 並 べ て イ ント を ﹁古 國 ・
た 。 し か も 東 歐 の 亡國 に獨 し て抱 い た共 感 を イ ントに 寄 せ る こ と な
に言 及 し て以 來 、 文 化 的 發 展 の巳 に止 んだ ﹁古 國﹂ と し て常 に イ ンド
亡 國 ・闇 の國 ﹂ と 呼 び 、 ︿科 學史 教 篇 ﹀ で は ﹁昔 事 を奪 ぶあ ま り 、 こ
く ・ ひ た す ら マイ ナ ス例 と し て のみ見 て い 黐・ ㍗
航 は ・章 炳麟 と テ ・
べ き 地 圖 が そ の宗 圭 國 の首 都 ロント ンの書 店 に並 ん で い る 亡國 イ ソド
の よう に自 ら を 欺 く こと を 夲 氣 です る よう にな る﹂ 古 國 の例 と し て、
觀 衆 。 こ の場 面 に邊 られ る外 國 人 の喝 采 の中 で、 こ の光 景 を見 つめ る
外 國 人 に處 刑 され る中 國 人、 そ し て彼 と同 樣 に無 力 な表 情 の中國 人
國粹民族主義 に魯迅が 共
い。 ア ナキ ス ト の劉 師培 ・何 震 夫 妻 が 東 京 で發 行 し て い た ︿天 義﹀
的 状 況 を 在 日 中 國 人 に傅 え て いた の は、 な にも ︿民 報 ﹀ ば かり では な
一人 の中 國 人1
感 でき な か った こと の傍 證 と いえ よう 。
ラク派を心から蓮帶 せしめた革命 の方 法-
イ ソ ト に英 國 人 が 水 道 を 敷 設 し た とき の逸 話 を 引 い て い る。
ベ ン カ ル分 割 反 獨 鬪 爭 は 當 時高 揚 期 を迎 え て おり 、 本 國 のみ な らず
も 、 こ の鬪 爭 を 精 力 的 に 紹 介 し て い る。 シバ ジ祭 大 隈 發 言 と 日 本 の帝
民族 へのひたむきな思 い入れ の崩壞を象徴し ている の で は あ る ま い
歐 米 でも 亡 命家 が多 數 の新 聞 雜誌 を發 行 し て い た。 こ の イ ント の革 命
國 圭義 化 を批 剣 し た 劉 の力 作 論文 ︿亞 洲 現 勢 論 ﹀ も 、 七 年 一 一月號 に
か。伊東 照雄は、章炳麟が歐米思想 の内在的批剣を缺く中華主義者 で
二三三
﹁幻 灯 事 件 ﹂ と は仙 臺 行 以 前 に魯 迅が 抱 い て いた 、
掲 載 さ れ て いた。 魯 迅 は ︿天 義 ﹀ を 必 ず 讀 ん で いた は ず であ る。 弟 周
迸 代 中 國 に お け る パ イ ロソ受 容 を め ぐ っ て
批 剣 の契 機 と し て歐 米 文 化 を と り 入れ た點 を 兩 者 の思 想 的 差 異 と し て
砌
指 掴 し て いる 。 し か し、 二人 の差 は内 在 的 云 々に あ る ので は な く 、 む
あ った爲 に無 内 容 な ア ナ ク 卩 ニズ ムに陷 った のに 反 し て、 魯 迅 が 自 己
ンテ ス の著 ︿一九 世 紀 文藝 思 潮 ﹀ に 求 め よう と し た の に獨 し て、中 島
北 岡 氏 ︿材 源 考﹀ が 魯 迅 バイ ロン論 の材 源 を十 九 世 紀 の批 評 家ブ ラ
を 要 した の であ る﹂ と 總 括 し て いる 。
で には や はり十 年 に近 い歳月 、 か れ自 身 の成 長 (?) と 時 代 の轉 換 と
二三四
し ろ民 族 と 國 粹 を信 じ え た か 否 か にあ る の で はな いだ ろ う か 。 ︿民 報 ﹀
氏 は材 源 は木 村 に據 ってお り、 論 旨 も 木 村 に 近 い と證 明 し た 譯 で あ
第三十二集
時 代 の章 は、 一連 の論 文 に お いて進 化 論 を中 心 と す る 舶 來 の公 理 主 義
鶴
と 血 みど ろ の ﹁羇 決﹂ を し て いた ので あ る。 後 年 彼 の國 粹 論 が ﹁無 内
契 機 を 缺 い て いる 。 し かし、 果 し て ﹁反 逆 を身 を も って書 ﹂ い たも の
日本中國學會 報
容 化 ・ア ナ ク ロ化﹂ し た のは、 辛 亥革 命 後 の腴 況 が 最 早 個 を 無 條 件 に
が 、 こ の書 に は皆 無 な のだ ろう か。 魯 迅 に構 力 への意 志 の象 徴 であ る
そ れ から の文 學 に 血肉 を賦 し た﹂ と 位 置 づ け て い る。 ︿摩 羅 詩 力 説 ﹀
載 中 の北 岡 正 子 は、 こ の論 文 を ﹁﹃民 族 主 義 ﹄ を 以 て出 發 し た 魯 迅 の
れ な か った。 現在 、 雜 誌 ︿野 草﹀ に ︿摩 羅詩 力 説 材 源 考 ノー ト﹀ を 連
木 村 鷹 太 郎 の説 に乘 じ た 梁 啓 超 ら の バイ ロン觀 に後 退 す る こと も 許 さ
章 の バ イ ロ ン理解 の支 柱 で あ る 國粹 の契 機 を 失 った魯 迅 にお い て、
迅 な り の取 捨 選 擇 は當 然 行 な われ て いた ので あ る 。バ イ ロンの死 を 木
は ︿摩 羅 詩 力 読 ﹀ バイ ロ ン部 分 の七 割 を カ バ ー す る種 本 であ るが 、 魯
い るが 、 こ の箇 所 は ま る で魯 迅 の 眼中 にな か った 。 ︿文 界 之 大 魔 王﹀
け て世 間 無 限 の苦 痛 を 受 ﹂ げ る ﹁人 生 の室 な る こと﹂ を彼 は張 調 し て
の人 と し て の苦 惱 を 全 く 看過 し て いた 譯 で は な い。﹁偶 然 に人 生 を 禀
惡 魔 を 激 え た の は、 中 島 氏 の指 摘 通 り 木 村 で あ る が、 木 村 と て カイ ン
る。 確 か に ︿摩 羅 詩 力説 ﹀ は、 そ の後 の魯 迅 の文 學論 た る に は、 個的
働
民 族 に包 含 さ せる樂 觀 論 を 許 容 し な か った爲 な の であ る。
と 辛 亥 革 命 後 の魯 迅 文 學 と を直 結 す る北 岡氏 の見 解 は 、 直 ち に反 論 を
太 郎 ︿文 界 之大 魔 王﹀ に據 って い る こ とを 朋 ら か に し た 。 これ は 先 に
は、 眞 卒 、純 潔 な る 熱 涙 を流 し たり 。 彼 の周 圍 に は 或 は英 語 、 或 は
く 、 涙 を 流 す も のも な し と雖 、 偉 大 な る 心 情 を 有 せ る 憂 國 の 志 士
や 異 郷 の軍 中 に死 す 。 優 しき 女 子 の、 傍 に在 り て 看 護 す る も の な
鳴 呼 ト ン、 フ ァ ンた り、 又 た サ ル タ ナ パ ルスた り し バ イ ロ ン、今
㈲
呼 んだ 。 北 岡 氏 ︿材 源 考 ﹀ の遺 漏 を補 って中 島 長 文 は ︿藍 本 ﹁摩 羅 詩
村 は次 の よう に描 い て い る。
木 村 が ︿太 陽﹀ ︿明 星﹀ 等 に 發 表 し た 論 文 に 加筆 し て明 治 三十 五 年 に
佛語 、 或 は イ タ リ ア語 、或 はグ レ シ ア語 を語 る 人 々の み に し て、 互
力 の説 ﹂第 四 ・五章 ﹀ を 編 輯 し、 魯 迅 の バイ ロ ン論 の七 割 が 、 木 村鷹
を 論 し る とき 、 魯 迅 は ﹁苦 惱 し つ つ不 毛 の地 を さ ま よ う﹂ カ イ ンに で
バ イ ロン死 せり 。 ミ ソ ロ ンギ の人 民 の悲 哀 は 直 に歐 洲 に擴 まり た
に言 語 通 ぜ ず 、 た 黛眼 と 眼 とを 見 合 せて悲 哀 の情 を語 る あ る のみ 。
出 版 し た書 であ る。 中 島 氏 は輯 者 引 言 で、 バイ ロ ンの詩 劇 ︿カ イ ン﹀
は なく 、 ﹁壓 制 と 反 抗 と 、 兼 ぬ る に 一人 を 以 つ て﹂ す る 悪魔 に 共感 し
る英 名 は其 身 邊 に光輝 を放 ち、 一度 其 強 力 な る 天 才 の觸 る ﹄に於 て
囘 顧 す れば 曩 にバ イ ロンのグ レシ アに來 る や 、威 風堂 々、 赫 々た
り。
て いる點 を指 摘 し て いる 。 そ し て こ の よう な 魯 迅 の。
ハイ 卩ソ觀 は ﹁は
る か に わが 鷹 太 郎 茂 のそ れ に近 い﹂ と斷 言 し 、 ﹁魯 迅 は こ こ で キ リ ス
ト数 的 禪 への反 逆 を 書 い て い る のだ が 、 かれ 自身 が 生き て い た 肚會 の
支 配 觀 念 た る孔 歡 の綱 常 倫 理 への反 逆 を 身 を も って書 く こ と に な る ま
こ のよ う な 英 雄 觀 には、 ﹁ミ ソ ロ ンギ 、 熱 病 の猖 獗 す る 濕 地、 惧 れ て
こ と に よ り、 惡魔 像 に彼 自 身 の感 慨 を 託 し た の であ る。 上 に樹 し て は
く 離 れ た魯 迅 は、 こ の ﹁陰 慘 な 謀 略 の情 念﹂ を よ り抽 象 的 にと ら え る
劇 の 主題 を見 てい る のだ が、 ナポ レオ ン後 の歐 洲 から 時 代 も 世 界 も遠
絶 望 し た自 由 圭 義者 の抱 い た陰 慘 な 謀 略 の情 念 で あ る と考 え て い る。
涙 を 流 す 召 使 い の圍 む 臨終 の床 、 死 の瞬 間 に轟 く 雷 鳴 ﹁ ー あ の最 後 の
反 抗 、 下 に野 し ては壓 制 ー 1 民 衆 に獨 し て 二律背 反 の關 係 にあ る惡魔
は、 成功 必す 可 し と信 ぜら れ し に、 凡 て皆 な 一夜 の夢 と 淌 え 去 り た
場 面 に出 會 う と 苛 立 ち と 當 惑 を件 う 失 望 ﹂ を我 々も 感 じ ざ る を 得 な
像 は、 ロマ ン派 詩人 を總 括 す る最 繆 章 の次 の件 り にも 投 影 さ れ て い
彼 は こ の現 實 味 を帶 ひ た惡 魔 像 よ り も 、 カイ ン の人 と し て の苦 惱 に詩
い。 魯 迅 は木 村 の通 俗 的 描寫 をす べ て省 き 、 最 後 の 一段 を 採 った のみ
り。
であ る。
る。
(
詩 人 逹 は) そ の爲 そ の 一生 も 酷 似 し て お り、 ほ と ん どが 武 器 を
今 に し て昔 を ふり 返 ってみ れば 、 バ イ ロンは無 限 の才 能 によ って
ギ リ シ アを 古 代 の榮 譽 に歸 ら せ る こと かでき 、 自 ら腕 を振 って 一聲
執 って 血 を流 し て いる 。 丁度 劍 鬪 士が 觀 衆 の面 前 でぐ るぐ ると 立 囘
る。 そ れ故 群 衆 の面 前 で血 が 流 れ な い のは、 そ の人 々にと って覦 で
呼 び かけ れ ば 、 人 は必 ず これ に向 か って さ っと な びく だ ろう 、 と い
こ の文 章 にわ たし たち が 魯 迅 の感 し と ってい た英 雄 の孤 獨 を 垣 間 見 る
ん で彼 を 殺 し てし ま う の であ れ ば 、 人 々に と って い よ い よ渦 と な り
あ る。 たと え 劍鬪 士が い ても 、 群 衆 が これ を 正靦 せす 、 あ る いは進
り、 戰 慄 と 快感 を 與 え てそ の死 鬪 を 見 物 さ せ て い る よう なも の であ
思 いが す る の は、 十 五年 後 の ︿吶 賊﹀ 自序 で、 ︿新 生 V 流 産 にふ れ て
う 大 望 を抱 い て や って來 た のだ 。
彼 が再 び ﹁つまり 私 は、 腕 を 一振 り し て 呼 び か けれ ば 應 し る者 が 雲 集
喚 聲 の中 で、 とき に は目 も く れ ぬ群 衆 の中 で死 鬪 せね ば な ら ぬ劍鬪 士
救 いが た いも のと な る の であ る。
︿カ イ ン﹀ に お い て梅 力 への意 志 と し て の惡 魔 を見 出 し た の は木 村 で
す る英 雄 で は決 し てな い の た﹂ と述 べ て いる爲 ば か り て はな い。 詩 劇
臨 絡 の場 面 に戻 って論 じ れ ば 、 木 村 が 不 蓮 な英 雄 の死 と そ れ を 歎 く人
-
々と いう 、 詩 人 と群 衆 の調 和 し た 逋 俗的 關係 を書 い て い る の に 反 し
詩 人 の生 と は魯 迅 にと ってか く も 孤 獨 なも の であ った 。 バイ ロン
は全 く 異 質 な も の を含 ん で いる。 彼 は悪 魔 を次 のよ う に描 いた 。 こ の
あ り 、 ま た魯 迅 も こ の悪 魔 に最 も曳 か れ た のであ るが 、 魯 迅 の惡 魔 像
箇 所 は中 島 氏 の藍 本 と の羯 照表 を み ても 明 ら か な よ う に、 ︿文 界 之 大
て、 魯 迅 は抵 抗 と壓 制 に破 れ て死 ん で いく孤 獨 な 詩 人 の姿 を 描 いて い
先 に ふれ た よう に章 炳 麟 の革 命 理 論ー 1 方 法 と し て の國 粹 と は、 個
た ので あ る。
魔 王﹀ に は存 在 せ ぬ、 全 く 魯 迅自 身 の見 解 であ る と 思 われ る 。
上 に野 し て は力 に よ って帥 に抗 い、 下 に羇 し て はや はり 力 に よ っ
これ よ りも 矛 盾 し た行 爲 は な い。 し か し、 民
的 主 體 性 の原動 力 を 國 粹 が 個 の情 念 に對 し ても つ魔 力 に求 める も ので
て民 衆 を壓 制 す るー
衆 を壓 制 す る の は抵 抗 の爲 な のだ。 も し民 衆 が 共 に 抵 抗 す る な ら
あ った。 彼 は清 末 革 命 思 想 を 民 族 と 個 の二極 に止 揚 し 、 こ の兩 極 を主
二三五
體 性 と これ を喚 起 す べ き 國 粹 で繋 いだ のであ る。 し か し 國 粹 を信 じえ
ば 、 ど う し て これ を 壓 制 す る 必 要 があ ろ う か。
フラ ンデ ス は、 ﹁惡魔 ﹂ の表 現 す る も のを 一八 二 一年 の歐 洲 に お い て
近 代 中國 に おけ る パ イ ロ ソ受 容 を め ぐ って
日本中國學會報
第 三十二集
二 三六
ぬ魯 迅 は、 こ の構 圖 を そ のま ま繼 承す る こと は でき な か った 。 留 日 當
って いな い。 民 族 と の アイ デ ン テ ィ テ ィを失 った孤 獨 な 個 が、 敢 え て
の位 置 に、 敢 え て 立と う とす る の は何 故 か 、 ︿摩 羅 詩 力 説 ﹀ は何 も 語
﹁一、 最 も 理想 的 人 間 性 と は 何 か 。 二、 中 國 の國 民 性 に最 も 缺 け て い
初 、 彼 は親 友 と 三 つ の相 關 わ る問 題 に つい て幾 度 も 話 合 った と いう 。
に問 お う と す る とき 、 國 民 性 を負 な るも のと し て捉 え て い た 魯 迅 に
キ ス ト に切 り 込 ん だ 文章 であ る。 ﹁惡 聲 ﹂ を 破 り え た も の の、 彼 の新
性 論 を ひ っさ げ た 若 き 魯迅 が、 章 炳 麟 と論 爭 を し て いた 保 皇 派 ・ア ナ
一九 〇 八 年 の 一連 の論文 の最後 を飾 る ︿破 惡 聲 論 ﹀ は、 新 た な 圭 體
再 び 民 族 と 關 わ ろ う と す る契 機 を 缺 落 し た ま まな の であ る 。
は、 章 の方 法 と し て の國 粹 に共 感 す る こと は 不可 能 であ った。 ﹁最も
る の は何 か 。 三、 そ の病 根 は何 か 。﹂ 個 の質 と し て の人 間 性 を 根 源 的
缺 け て い る のは何 か﹂ と いう 設問 は、 そ の間 の事 情 を よ く 示 し て い
界 の存 在 を豫 言 し て い る。 廿世 紀 初 頭 の中 國 に お い て、 こ の問 題 に逸
若 き 日 の魯 迅が 到逹 した 内發 的 主 體 性 論 は、 そ れ が 生 起 す る 個的 世
た な る 主 體 性 論 は 展 開 され ぬま ま、 ︿河 南 ﹀ の休 刊 と 共 に未 完 で放 置
補注2
された。
る。
個 に樹 し て先 驗 的 に存 在 す る國 粹 と いう 章 の思 想 的 枠 組 に對 し て、
魯 迅 は、 反 抗 に よ って民 族 の精 祚 を 呼 び 醒 ま す詩 人 の聲 と い う、 文 學
承 け て、 カ イ ンに で は な く 惡 魔 に注 目 し た。 し か しそ れ は清 末 革 命 思
魔 像 を 、 最 早魯 迅 は受 け 入 れ る こと は でき な い。 彼 は木 村 .
バイ ロ ンを
と 民 族 の關 係 が 不 分 明 な 梁 啓 超 流 の英 雄像 や、 木 村 鷹 太郎 の輕 薄 な 悪
せ た の であ る 。 章 の文 化 11國 粹 論 的 バ イ ロン像 のあ と で は、 個 の情 念
れ を 救 濟 せ んと す る主 體 的個 、 方 法 と し て の國粹 ー ー章 の描 いた こ の
の苦 惱 を 革 命 と いう 大 状 況 と結 び つけ た の であ る 。 衰 亡 し た民 族 、 そ
と し て存 在 し て い た。 清 末 と いう 時 代 が 、 自 己 存 在 の證 を求 め る曼 殊
た。 たが 、 彼 に と って 國粹 は アイ デ ンテ ィテ ィの封 象 、郎 ち美 的 世 界
枠 組 を逆 轉 さ せ た魯 迅 よりも 、 曼 殊 は遙 か に章 と 親 し い 關 係 に あ っ
速 く 光 を あ て た の が蘇 曼 殊 であ った。 皮 肉 な こと に、 章 炳麟 の思 想 的
想 史 の展 開 を踏 ま え て考 え る時 、 中 島 氏 の如 く ﹁ア ジ アが ま だ 歐 米帝
った 。 彼 にお い ても 、章 の描 いた 民 族 と 個 の位置 關係 は逆 轉 し て いた
革 命 理 論 の構 圖 を は み出 す形 で、 曼 殊 に は原 點 と し て存 在 の不 安 が あ
の より 根 源 的 な 役 割 を 導 入 す る こと に よ り、 民族 と 個 の位 置 を逆 轉 さ
國 主 義勢 力 と 西洋 文 明 に獨 し て まだ 共 通 の基 盤 を 失 って いな か った 時
ママ
代 の、 文 學 への や や遅 れ て の反 映 ﹂ と 結 論 す る こと は でき な い。 魯迅
の であ る 。 日中 混 血 と いう 彼 の身 上 と時 代状 況が 、 相 互 に増 幅 作 用 し
あ
が描 く、 民 衆 の解 放 の爲 に叫 ぶ の にも か か わ らず 當 の民 衆 に拒 絶 され
て いた の であ ろ う 。 魯 迅 ︿摩 羅 詩 力 説﹀ を 踏 臺 と し て、 逆 轉 し た 方 法
ヵ
て蓮 帶 でき ぬ惡 魔 11詩 人 の孤 獨 と は、 國粹 除去 に よ って自 立 し た 個 の
と し て の國粹 か ら 内 發的 主體 性 を 腑 分 け し た曼 殊 は、 ︿潮 一
音﹀ 英 文 自
カ
内 發 性 が そ れ 自 身 を 生 み出 す べ き 個 的 契機 を未 だ缺 いて いる が爲 に生
し
じ たも のな の であ る。 新 た に魯 迅 が獲 得 し た 個 の民 族 に對 す る内 發 的
の存 在 を 提 示 し た 。 こ の世 界 を 貫 く 論 理 と し て彼 が 掴 んだ も のが ﹁創
己 の行 爲 の始源 を問 う て く る。 し か
序 にお い て、 そ れ 自 體 で完 結 し 己 の生 のあ り 方 を も 決定 す る個 的 世 界
に對 し て新 聲 を喚 げ る のか1
蘇 曼 殊 の個的 世 界 が作 品と し て完 結 す る に は、 な お辛 亥 革命 を 俟 た
作 にお け る崇 高 な感 情ー ﹂ 愛 ﹂ であ った 。
圭 體 性 は、 個が 民族 と 關 わ る こと の個 に お げ る意 味 l l 何 故 人 は民 族
し、 人 間 に恐れ られ つ つも彼 ら の奴隷 状 態 を見 て默 し て おら れ ぬ惡 魔
呼 び 捨 て て訪 問す る こと を拒 絶 し、 革 命 を見 ず し て病 死 し た趙 伯 先 の
て い た友 人章 炳麟 は、 革 命 を横 取 り し た 袁世 凱 の幕 下 に入 ろう と し て
㈹
い た の であ る 。 一二年 上海 發 の書簡 で、 彼 は章 炳 麟 を ﹁太 炎 ﹂ と 字 で
還 俗 し て某黨 某 會 に 入 った と いう噂 ま で 流れ て い た。 そ の上 、 畏 敬 し
が 續 い て いた 上海 で は、 以前 出 家 し て時 折僣 服 を 着 け て い た曼 殊 が 、
が 見 た も のは、 無 殘 な ﹁革 命 ﹂ の正體 であ った。 革 命 後 醜 い利 權 爭 い
ねば な ら な い。 一九 = 一
年 革 命 の報 を ジ ャワ で受 け 、 急 ぎ 歸 國 し た 彼
す る こ とも でき な か った 。 後 に、 劉 牛 農 は曼 殊 と の上 海 で の對 面 を 追
され た蘇 曼 殊 は、 さ り と て西 歐 の象 徴 主 義 者 の如 く 、 個 的 世 界 に安 住
た。 し か し、 魯 迅 に ﹁.
バイ ロンに つな が る と こ ろ﹂ が な く な った と評
か み し め られ るべ き 經 驗 へと﹂ 變 え た の は、 辛 亥 後 の 蘇 曼 殊 で あ っ
廿世 紀 初 頭 の西 歐 で は、 象 徴 主義 ・世 紀 末 文 學 が 開 花 し て久 し か っ
る べき 經 驗 へと 、 完 全 に 一變 さ せ る であ ろ う。
的 なも の へ、 肚 會 と と も にす る經 驗 から 孤 獨 に お い て かみ し め られ
は、 絡 局的 に は l I中 略- 1 文 學 の領 域 を、 客觀 的 なも の から 主觀
憶 し た詩 の中 で・
次 の よう な 彼 の言葉 を記 し て い る。 ﹁牛 農 君、 こんな
た。 近 代 中 國 に お い て ﹁文 學 の領域 を 圭觀 的 な も の へ、 孤 獨 にお いて
であ れ、 袁世 凱 の幕 下 に 入 る か つて の革 命 家 は、 曼 殊 の眼 には さ だ め
墓 前 で自 筆 の晝 を焼 いて供 養 と し た いと逋 べ て い る。 章 の主 觀 はど う
し 醜 く 映 った こ と だ ろ う。 生き て袁 の幕 客 と な る 章 を 訪 れ ず 、 死 んだ
時 に君 は未 だ 詩 だ の學 問 だ のと言 って い る の か! ﹂ こん な時 と は、 袁
章炳麟の生涯、思想 のうち本稿 てはテー マに關わる最少限のも のに觸
近藤邦康 く辛亥革命V紀伊國屋書店、 一九七二。
な ら な か った ので あ る。
れ る ﹁肚 會 生 活 か ら孤 立 し た私 的 想像 力 の世 界﹂ に 一度 身 を 沈 め ねば
記 ﹀ に至 る爲 には 、 魯 迅 は ︿域 外 小 説 集﹀ ア ン ト レ エフ飜 譯 に象 徴 さ
近 代 中 國 文 學 の行 方 を 暗 示 し て い る か の よう で あ る。 但 し ︿狂 人 日
世 界 に沈 ん で い った蘇 曼 殊 の死 と 、 ︿狂 人 日記 V の出 現 は、 そ の後 の
解 を 出 す べく <新 青 年﹀ に ︿狂 人 日 記 ﹀ を 發表 し て い る。 象 徴 ま 義 の
これ と 時 を 同 じ く し て魯 迅 は ︿摩 羅 詩 力 読﹀ 以來 の課 題 に、 一つの
しば 漸 進 的 自 殺 で あ った と指 摘 され て い る。
殊 は 上海 フラ ン ス租 界 の病 院 で沒 す る。 享 年 三十 五。 そ の死 は、 しば
であ ろう 。 一九 一八 年 五 月、 病 弱 の身 を 顧 み ぬ奇 行 と 漂 泊 の末 、 蘇 曼
世 凱 の横 暴 に よ って混 迷 の度 を いよ い よ増 す 中 國革 命 を 指 し て いた の
この曼殊 の言葉は、挫折した革命
志士 の墓 に晝 を捧げ て筆を斷 つー
への挽 歌 であ った。
こ の ころ署 わ し た小 説 が ︿斷 鴻 零 雁 記 ﹀ であ る。 これ は ユ ング 心 理
學 の いう と ころ のア ニ マを求 め て、 海 陸 に よ って象 徴 さ れ る聖 と 俗 の
いセ
世 界 を 彷 徨 す る少 年 を描 いた幻 想 物 語 であ る。 ︿拜 輪 詩 選 ﹀ 自 序 、 ︿娑
羅 海 濱 遯 跡記 ﹀ 等 で 必ず 亡 國 を憂 え る表 現 と し て使 用 さ れ て い た ﹁恫
み ﹂ と いう言 葉 が 、 こ の小 読 で 始 め て ﹁身 世 言 い難 き の恫 み ﹂ と いう
句 と な って彼 の個 的 世 界 に存 在 す る悲 劇 の表 現 に轉 じ て いる 。
米 國 の文藝 批 評 家 E ・ウ ィ ル ソ ンは、 象 徴 圭 義 を ロ マン主 義 の産 物
であ る と 位置 づ け た 上 で次 のよ う に兩 者 を比 べて いる 。
ロ マン派 が 、 そ の個人 主 義 の立 場 から 、 す わ り ご こち の惡 い沚 會
象 徴 派 は肚 會 から 距 離 を おき 、 肚 會 に樹 す る 無 關 心 を 養 う 。 象 徴 派
注ω
と いう も のに反 抗 あ る いは挑 戰 す る のが 通 例 で あ った の に對 し て、
はそ の獨自 の個人 的 感 性 を、 卩マ ン派 が 練 磨 し た 點 以 上 に練 磨 す る
二三七
れ るにとどめ、全般 に ついては衣 の諸文獻 に讓 る。近藤邦康 舎 〒
炳麟 に
②
であ ろう が、 そ の個 人的 意 志 を 圭張 し たり はし な いだ ろ う 。 象 徴 派
近 代 中 國 にお け る バイ ロン受 容 を めぐ って
第 三十 二集
二三 八
、
新 聞 会ロ臼ρロ ω090写唱q・◇ の論 文 は 、 そ の後 幾 度 も く民 報 V に譯載 さ
日本中國學會報
お け る 革 命 思 想 の形成 ﹀ 東 洋 文 化 研 究 所 紀 要 、 第 二 八册 、 一九 七 二。 小
閃o︿o一
9δロ拶ユ$ き ﹃8 P HO8 ∼ 露鱒﹀
野 川秀 美 ︿清 末 政 治 思 想 研 究 ﹀ 東 洋 史 研 究 會 、 一九 六〇 。
一方 、 (︾・O・国oωo ︿冒 臼畧
れ る。 當 時 シ ャ マジ に倣 って東 京 青 山 にイ ンデ ィア ・ ハゥ スを 設 立 す る
切げ胃彗 "国冨 霎帥目噂℃畧冨 層HOコ ・
) 幸 徳 秋 水 ・大 杉 榮 ・山 川 均 ら と 交 流
︿飮 氷 室 合 集 ﹀ 中 華 書 局 、 一九 三 二、 専 集 之 八 九所 收 。
注 ③ と 同 じ。 文 集 第 四研 所 收 。
③
④
し、 直 接 行 動 派 肚會 主義 者 の組 織 す る ﹁金曜 講 演 會 ﹂ で演 説 を し て いた
注⑬を見よ。
8 印 窪 o 肉鼠皀 oh 国 旨忌。。o﹀ ↓冨 宣 旨。。 口o宴 昌o 国 $ ω
贐
︿響
︿天義 ﹀ 四號 グ ラビ ア。
い。
(︿乘 燭談 ﹀ 上海 北新 害 局 、 一九 三〇 、 實 用書 局 一九 七 二年 重 印 ) に 詳 し
・周 作 人 兄 弟 に案 内 状 を 途 った こと は 、 周作 人 ︿記 太 炎 先 生 學 梵 文 事﹀
一九 〇 九年 四 月劉 三宛 書 信 。 な お 章 炳麟 か梵 語 講 習 會 を 開 い て、 魯 迅
五 ) に ょ る。
蘇 曼殊 の作 品 は、 文 公 直 編 ︿曼 殊 大師 全集 ﹀ (香 港 文 淵 書 店 、 一九 五
Z.網8 O認 )・飯 塚朗 譯 ︿斷 鴻 零 雁 記﹀ (
夲 凡 瓧 、 一九 七 二) に 詳 し い。
傳 記 は b旨 ≦ゴ占ゴ (柳 無 忌)︿ωβ 窰 蝉口 q。
げロ﹀(↓≦曽矯口o 国 げぽ8 貸oP
以 下 魯 迅 の著 作 は、 同 全 集 篇 名 によ る 。
︿魯 迅全 集 ﹀ 人 民 文 學 出版 肚 一九 五 六! 五 八、 ︿墳 ﹀ 所 收 。
統﹀ 勁 草 書房 、 一九 六七 。
伊 藤 虎 丸 ︿魯 迅 と終 末 論 ﹀ 龍 溪 書 舍 、 一九 七 五。 今 村 與 志 雄 ︿魯 迅 と 傳
文 、 譯 註 な ら び に解 題 O ⇔︾ 日本 大 學 文 理學 部 研 究 年 報 一五、 一七 號 。
丸 山 昇 ︿魯 迅﹀ 罕 凡肚 、 一九 六 五。 伊 東 昭雄 く魯 迅 ﹁科 學 史 歡 篇 ﹂ 譯
五。
︿ロ マン主 義 の精瀞 ﹀ 生松 敬 三、 塚 本 明 子譯 、 みす ず 書 房 、 一七 九
OαS
⑭
㈲
㈲
⑳
⑳
⑱ ・⑲ ・鱒
⑳
⑯
⑮
こ と であ ろ う か 。
人 物 か いた 。 も う 一名 のボ ! スと は、 この ス レ ンド ラ モ ハン ・ボ ー ス の
胡 適 ︿去 國 集 ﹀ (
︿嘗 試 集 V 亞 束 圖 書 館 、 一九 二 〇 、 所 收 ) は ︿新 文
小 谷 汪 之 ︿ア ジ ア近 現 代史 にお け る民 族 と 民 圭 圭 義﹀。 ︿歴 史 學 研 究 ﹀
も のら し い。
馬 は の ち に は ︿民 報﹀ 派 と な る か 、 こ の時 期 に は 梁 とも 交 流 が あ った
學 ﹀ と し て い るが 、 ︿新 小 説﹀ の誤 り と 思 わ れ る。
⑤
⑥
⑦
一七 世 紀 西 イ ンド て 、 牛 と國 土 の保 護 を 標 語 と し て ムガ ル帝 國 に抵 抗
別 册 特 集 、 一九 七 二 ・一 一に 收 録。
し た マラ ー タ の王 。
︿東 京 朝 日 新 聞﹀ 明 治 四〇 年 四月 二 二日 ︿大 隈 伯 と 印 度 人﹀。
⑧
⑨
注 ⑨ と 同 じ 。 ︿大 隈 伯演 説 集 ﹀ (一九〇 七年 ) 等 にも 講 演 記録 か 收 め ら
︿印 度 人 プ ラダ ソ ・ボ ー ス兩 君 を 途 る序 ﹀ に よ ると 、 紀 念 會 に先 立 って
︿民 報 ﹀ 七 年 五 月號 章 炳 麟⋮
の記 事 ︿印 度 シバ ジ王 紀 念 會 の事 を 記 す﹀
< O匡8 一︿一
昌臼国 自口吋Ooo
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﹀ 竃o
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言 口 俸 09 這 HO
︿東 京 日日 新 聞 V明 治 四〇 年 四月 二〇 日 く大 隈 伯 のイ ンド觀 V。
れ て いる 。
⑩
⑪
⑫
⑬
ロソド ソ ﹁イ ンデ ィア ・ ハウ ス﹂を 設 立 し た イ ソ ド 人 革 命 家 シ ャ マジ
二人 の イ ンド 人 か民 報 肚 を 訪 れ 、 章 ら を 招 待 し たと いう 。 プ ラダ ンは 、
(ω冨 已2鱒国ロ。陰
ゲ昌錚く実 日9) の奬 學 制 度 によ って歐 米 に 留學 し て い た人
四 月 一= 日號 は ﹁あ る 著 名 な イ ンド人 紳 士 か 設 立 し た 獎 學
物 で 、 日 本 に は そ の歸 途 に寄 ったも のと 思 わ れ る。 (
︿崔 o 蜜 や群 ︾争
く2潯属o¢
閑コω
ゴ 僧話 日帥﹀ 冖国犀。。
げヨ凶皆 匡 8け
δ昌。・噛曽 日げ"団 這αOを 參
制 度 に よ って 留 學 し た﹂ と述 べ て い る。 シ ャ マ ジ に つ い て は 網僧U
口涛
︿ω冨 ヨ謦
照 した。
) 彼 か橋 渡 し を し た の か、 シ ャ マジが ロ ソド ン て發 行 し て い た
へ
㈲
︿
民 報 ﹀ 二 二號 に は、 ﹁南 印度 Oずαoずp 著 ﹂、 二 三號 に は ﹁南 印 度 瞿
増 田 渉 ︿魯 迅 の印 象 ﹀ 講談 杜 、 一九 四 八 。
であ ろう 。
る の て、 この 曼殊 自序 も 入年 九 月 に は 執 筆 さ れ て い た と考 え る のが 愛當
周 啓 明 ︿魯 迅的 青 年 時 代﹀ 中 國青 年 出 版 肚 、 一九 五 七。 な お 周啓 明 と
沙 著 ﹂ とあ る 。 オ ー ロビ ソド ・ゴ ー シ ュの存 在 は申 國 革 命 派 にも よく 知
られていたとみえて、
章 炳 麟 も 彼 に言 及 し て いる (
︿民 報﹀ 一七 號 )。 な お
㈲
に寄 せる﹀ と いう 二 つの詩 題 を 混 同 し たも の であ り、 ︿文 學 因 縁﹀ は バ
︿箏 を彈 く 人 に寄 せる ﹀ と は ︿箏 を調 ぺ る人 の繪 に﹀ ︿箏 を 調 べ る 人
︿墳 ﹀所 收 。
は 周 作 人 の筆 名 。
勧
劔
⑳
一九 七 二年 に發 行 さ れ た 全 三 〇卷 の全集 合 ユ ︾霞 oげ置画o切暮 ずOo暮 o・
︾口見Oげ皀卩昌O ︾ω
げ旨 一
R卩↓﹁口ωけ℃OH
卩
良O﹃O月 ﹃りHO認)
には收 録 され て いな い 。
黠 昌 =げ量 娼 ﹀ (
望
章嫡 麟 く蘇 子 穀 に輿 え る書 V ︿甲寅 雜 誌 ﹀ 民 國 四年 八月 號 。
イ ロン詩を 二首 收 め て いる のみ で、 む し ろ く拜輪 詩 選 V を 擧 げ る べき だ
⑳
ろ う 。 曼殊 譯 詩 は結 構 蟄 ま れ た と見 え て、 張 定瑛 、 馮 至、 郁 逹 夫 ら は後
南 條 は英 國 に 留 學 し て M ・ミ ュラ ーに師 事 し た。 當 地 で は清 末 佛 教 改
革 家楊 仁山 と も 親 し く し て い た Q田 鬢 o一
畠 く↓げo 国塁& ぽ。・
け器 虐く9
⑳
旨 O冒ロ"V 出即署 畦 島ζ曰く.牢 o器 臼08 )。 な お 曼 殊 は M ・ミ ュラ ー の著
年 高 い評價 を與 え て おり 、 國會 圖書 館 所 藏 の ︿拜輪 詩 選﹀ 奥 付 に よ れ
︿知 堂 囘想 録 ﹀ 第 八 日章 、愛 育 圖 書 文 具公 司 、 一九 七 〇 。
ば 、 一九 一四年 ま で に 三度版 を 重 ね て い る。
⑳
を く梵 文 典 V の 下 數 と し て お り、 一九 〇 八年 に は 楊 の開 いた 佛 價 學校 祗
︿南 條 先 生 遺 芳 ﹀ 大 谷 大 學 。 昭 和 一七年 。
桓 精 舎 で英 語 を ⋮
敏え て い る (
注 ㈹ を 參 照 )。
冖
⑳
︿國粹 學 報 ﹀ 一九 〇 八年 七 月號 。
注 ⑮ と 同 じ。
鱒
劬 ・劔
これ は、 曼 殊 が 牟 年 後 ︿民 報 ﹀ に發 表 し た ︿沙 羅 海 濱 遯 跡 記﹀ 冒 頭 に
引 用 され て い る。 恐 らく 譯 業 の過 程 で めぐ り 會 った こ の詩 を 、先 に譯詩
㈲
序 が ︿潮 一
音﹀ に 再録 さ れ た とき 、こ の 日付 の ﹁光緒 三 十 二年 ﹂ は戊 申 (一
あ る た め、 文 公 直 は 六年 説 を 圭張 し て いる (前 掲 ︿曼殊 大師 全集 ﹀)。 自
た 日付 が ﹁光 緒 三 十 二年 (H九〇 六) 佛 か 仞 利 天 よ り 天 下 に 還 る 日 ﹂ と
自 序 の 執筆 時 期 を 九年 九 月前 後 と し て いる (
晶
剛椙
繝 くgo蔭 護 曽口。
ωげ属﹀)。 ま
校 祗桓 精 舍 て英 語 講 師 を勤 め て いた の か、 八年 秋 であ る た め 、柳 無 忌 は
精 舍 で私 に會 わ れ た ﹂
■と記 さ れ て い る。 曼 殊 か 楊 仁 山 に請 わ れ 、 佛 僣 學
る 。自 序 に ﹁去秋 ペ ルリ ン大 學教 授 フラ ン ケ居 士 は南 京 に立 寄 り 、 砥 桓
¢◎ 同書 に は英 國 の外 交官 てあ り、 中 國 學 者 ても あ った W ・J ・B ・フ レ
ヅチ ャ ー の英 文 序 (日付 は 一九〇 七 ・ 一〇 ・六 ) と 曼 殊 の漢 文 自 序 が あ
や は り 九年 の再 版 時 にか かれ た が、 柳 の推 測 す る よ う に フ レ ッチ ャー序
九 年 一〇月 と記 さ れ て いる フ レ ッチ ャ ー序 が 入り 、 ︿潮 膏V 英 夊 自 序 も
は 、 八年 九月 初 版 時 に く拜輪 詩 選 V自 序 が か かれ 、 再 版 か 三版 のと き に
時 期 に 一定 の時 間 の經 過 があ った こと を 示 唆 し て い る と 思 わ れ る 。 私
同 じ 年 にか かれ た こと にな って しま う 。 二 つの序 の質 的 差 は、 そ の執 筆
が 、 柳 説 の骨 組 だ け を 採 って も く拜 輸 詩 選 V自 序 と ︿潮 言﹀ 英 文 自 序 が
言 帥口あげβ﹀)。 ︿拜 輪 詩 選 Vが 八年 九 月 に出 版 さ れ た こと は注 eΦ で述 べ た
入 れ 、 自序 は ︿潮 晋 ﹀ 出 版 の際 に復 活 し た、 と推 定 し て いる (
前掲 合 揖
を 受 け 取 った た め同 じ分 量 の英 文 自 序 を 拔 き 、 代 わ り に フ レチ ャー序 を
本 の 印 刷準 備 が 完 了 し た 一九〇 九年 一〇 月 に、 フ レ ノチ ャーよ り英 文 序
柳 無 忌 は、 曼 殊 は これ を く拜 輪 詩 鸛▽ の序 にす る つも り であ ったが 、
集 に收 め たも の と 思 わ れ る 。
㈲
九 〇 八年 ) に改 め られ て い る の で、 六年 説 は誤 り で あ る 。 ま た國 會 圖書
に紙 幅 を讓 った のだ と考 え た い。 も っと も く拜 輪 詩 選 V 再版 は 、 何 か の
二三九
館 の所 藏 す る く拜 輪詩 選 V の奥 付 に は ﹁戊 申 九 月 十 五 日 初版 發行 ﹂ とあ
近 代 中 國 にお け る バ イ ロ ン受 容 を めぐ って
⑩
㈲
㈲
㈲
㈲
㈲
㈲
日本中國學會報
第三十二集
都 合 で 壬 子 (一九 一二年) 五 月 三日 ま で 延 期 され た のだ が。
3
中 國革
︿太 炎 先 生 に 關す る 二、 三 の事 ﹀ ︿太 炎 先 生 の こと で想 い 出 さ れ る 二、
三 の事﹀ 共 に ︿且 介亭 雜 文 末 編 ﹀ 所 收 。
倉 ◇ 題記。
山 田 慶 皃 ︿可能 性 と し て の中 國 革 命 ﹀。 ︿現代 革 命 の思 想
命﹀ 筑 摩 書 房 一九 七 〇 、 に 收 録 。
︿集 外 集 拾 遺﹀ 所 收 。
大 安 版 は、 一 ・一一・四 ・七 ・ 一三 ・ 一四 各號 を 缺 く 。 但 し プ ラ ハ東 洋
研 究 所 が 第 四號 を 所藏 し て い る 。
﹁獸 性 の愛 國 ﹂ と い う 言葉 自體 は 、 ︿破 惡聲 論 V にみ ら れ る 。 中 國 人
二 四〇
= お 二〇q耳 篳冒 9 Z●団6 一も 口鳥o口 切箋 昌冨 日 =05 0日 m
5 口 犀 戯・H§
・
︿バ イ ロ ン ・文 界 之大 魔 王﹀ 明 治 三 十 五年 九 月 再版 、 大 學 館 。
旨●耄 "言 ︿目﹃O 響 吋6ゴ h
O曦 一
昏O
口寓蔓﹀● ︿切煢 o口 ︾ Oo昌09δ昌 oh
㈹ ・鯣
Oコけ
8旨 国器曙 呂 巴 ●び団 戸 宅 婁 '津 o口自8 ・
国筥♂ 冒 p'国口oq竃類o&
鱒
︿新 青 年﹀ 第 五卷 (一九 一八)、 ︿悼 曼殊 ﹀。
︿ア ク セ ル の城 ﹀ 土 岐 恒 二譯 、 筑 摩書 房 、 一九 七 二。
一九 一二年 三月 蕭 公 宛書 簡 。
許 壽 裳 ︿亡 友 魯 迅 印象 記﹀ 人 民 夊 學 出版 瓧、 一九 五 五。
注㈹と同じ。
Ω 岸 。。り乞.匂● 8 ω に 收録 。
働
㈲
︿魔 羅 詩 力 説 ﹀ を 收 め た ︿河 南﹀ 第 二、 三兩 期 、 獨 應 く論 文 章 之
注劒と同じ。
か イ ンド .ポ ー ラ ンド を奴 隷 と罵 倒 す る事 欠摩 羅 詩 力 韓
補注 1
一章 )等 ︿獸
性 の愛 國 ﹀ と 類 似 し た話 題 も ま た。 周作 人 論文 に含 ま れ て いる 。
ジ には 、 そ れ ぞ れ蘇 曼殊 晝 ︿洛 陽 白 馬 寺﹀ ハ關潼 ﹀ ︿天 津 橋 聽 鵑 圖 ﹀ が 印
劉 増 杰 氏 の指 摘 によ る と、 馮 自 由 ︿革命 逸 史﹀ に ︿河 南 ﹀ が 十期
ま で出 版 さ れ た と 記 さ れ て い る と の こと であ る 。(
︿漫 話魯 迅與 河 南 ﹀︿河
補注 2
刷 され て いる 。
意 義 曁 其 使 命 因 及 中 國 近來 論 文 之 失 V を收 めた 同第 四期 の グ ラピ ア ペ ー
世 の中 の愛 國 者 の聲 を 聞き そ の國 の事 情 を 調 べ てみ た い
林 洪 亮 ︿魯 迅 と 、
ミツキ ェヴ ィ チ﹀ (
︿文籤 論叢 第 二輯 V 上 海 文 藝 出 版 瓧
﹁そ の こ ろ
一九 七 八所 收 ) は 、新 發見 の魯 迅 ︿隨 感録 ﹀ の文 章 を 引 用 し て い る 。
と 切 望 し て いた 。 ポ ーラ ンド 、 イ ンド ・ ・
こ れら に言 及 し た 中 國 人 は 多
一∼ 九 期 を 藏 し て いる 。
南 師 大 學 報 ﹀ 肚 會 科 學 版 一九 七 九年 五期) な お、 上海 復 且大 學 は同 誌 第
か った か、 私 も非 常 に早 く か ら注 目 し て い た 。﹂ こ の 言 葉 は、 ︿破 惡 聲
論 ﹀ の ﹁古國 の 亡國 の民 はi l 中 略 ーー 今 や みな 自 覺 を 持 つ に至 り 心 情
亀
を 吐 露 し て叫 び をあ げ て い る 。 そ の聲 は輝 き に滿 ち精 帥 は高 揚 し て 、 強
暴 な 彈 壓 や 僞 り の術 に よ る支 配 に負 け ぬ よ う にな ってき た 。﹂ に 對 應 す
六 ・二 二 號
る も のて あ ろ う 。 し か し ︿破 悪 聲 論 ﹀ が 發 表 さ れ た のは 、 イ ンド革 命 が
諭 じ ら れ て 巳 に 久 し い 一九 〇 八年 一二月 の こと てあ る 。
く倶 分 進 化 論 V ︿五無 論 ﹀ ︿四惑 論 V (
各
︿章 太 炎 の革 命 思 想 と辛 亥 革 命 ﹀ ︿現 代 中 國 ﹀ 三七 號 。
︿民 報 ﹀ 七 二
㈲
︿髯 臥ロ 9 器 "富 言 嵳 βoけ
8 昌匪 Og 建 煢 ζ 富蕁 g 冨﹀ 害 巳 俸
へ飃 風 ﹀ 五號 。
等。
鶴
㈲
㊨Φ
Fly UP