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『天 界 の 一般 自 然 史 と 理論』
1 カント・研究 覚書1−a 占⋮ 『天界の一般自然史と理論』 一カント哲学の原 明 珍 昭 改 序 を判断しなければならない.カントの哲学的名声 く1> 哲学は,実在としての世界で遂行される 人間の知的営為である.哲学者は,世界の中にあ って,全体的かつ根源的に現実を把握しようとす る.世界真理を解読し,宇宙における自己の位置 を確認し,みずからの思惟と行動の軌跡を確認す ること,哲学の仕事はそれに尽きる.世界の諸現 ライデン 象に直面したとき,人間は理性的に受苦する.世 界を解釈する必要に迫られて苦しみを感受するが を決定的にした『純粋理性批判」 (1781年)の成 ライデンシヤフトリツヒ 立を境界にして,カント哲学Q発展系譜は,通常 批判期と前批判期に分けられている.この前批判 期は,更に三つに区分される.すなわち,1746年 にケーニヒスベルク大学を卒業してから1750年代 いっぱいまでの第一期.1760年代の第二期.次い で1770年『感性界および可想界の形式と原理につ いて』から『純粋理性批判』が公刊されるまでの 熱の昇華形象にほかならない. 第三期である。このうちの第三期は,批判哲学の 準備に費やされた沈黙の10年であり,批判哲学へ 哲学は,具体的なものを,全体的連関の中で, の傾斜を示すものとして,・前批判期からはずすこ ゆえに,まさしく情熱的になる.哲学は,この情 思考を通じて生産する.具体的現実は,直観され ともできる。本稿(1−a,b)が取扱う第一期 表象される.哲学は,その直観と表象に概念的加 には, 『活力の真の測定に、ついての考察』 (1747 工をほどこす.具体的現実をその論理的連関にお 年), 『地軸回転論』 (1754年),『天界の一般自 いて解明したとき,哲学は,世界を精神的に生産 然史と理論』 (1755年), 『火について』(1755 したことになる.いかなる哲学も,’このような精 年), 『地震論1,n,皿』 (1756年), 『物理学 神的生産に従事してきた・その意味で・哲学史は, 的単子論』(1756年), 『風の理論説明新注』(1756 さまざまの哲学者による精神的世界生産のアγソ 年)『運動と静止の新説』(1758年)などの自然学 ・ジーである.カントに限ってみても,彼の全著 関係論文が書かれている.この時期の純粋形而上 学論文としては,僅かに1755年のr形而上学的認 識の第一原理の新解釈』と題する就職論文が見い だされるにすぎない.この自然学論文の多産期に 作過程は,,それ自身がいわば世界の精神的再生産 の工程であった(1). <2> カントの哲学は,自然の研究をもつゼ開 始され,自然の問題で終結した.彼の処女論文は 『活力の真の測定についての考察』であった.晩 年には, 「自然科学の形而上学的始源から物理学 への推移」として一括される『遺稿』を書いた. 彼の理論的興味と関心は,生涯を通じて,自然の 問題に集中されていたように思われる.従って, カントの精神的世界生産の過程を追跡しようとす あっても,とりわけ『天界の一般自然史と理論』 (以下,略して’『天界自然史』と書く)はカント の自然研究の最大の成果であったように思われ る.差当り,本稿(1−a)は, 『夫界自然史』 にカγト研究の手がかりを求めることにする. <3> カントは,現代の理論的自然科学がそれ を欠いては前進できなかった仮説,すなわちラ.プ ラースに帰せられていた太陽系の成立に関する学 れば,初期の自然学研究の成果を先ず検討する必 要があろう.自然こそ,カγト哲学のアルファで 説の創案者であることが知られて以来,(自然科学 ありオメガであった. 者から相応の尊敬を受けてきた.その仮説は, r そこで私は,カントの自然学関係の論文を検索 天界自然史』に記されていたものである.しかし し,.カγト研究の手がかりをどこに求めるべきか 私がこの論文に研究の端緒を求めたのは,.そのよ 2 福島大学教育学部論集 1969−11 うな自然科学史的事情とは別のものに動機づけら 期のカγトの思想的酵母の役割を果たしていたの れてのことである.その動機とは,次のようなもの ではないか・ 『天界盲然史』に呈示さ』れた自然・ である.『天界自然史』の中には,批判的カント 神・人間に関する諸命題は,その後に吟味され改 の思考主題がすでに萌芽の形で存在し,この自然 学論文には批判期思想の形成契機が内包されてい 訂と洗練を受け,転向.または発展させられること があったにせよ』カント哲学め思想的原点の役割 るのではないだろうか.批判的カントにおける自 を十分に果たしているように思われる. 然・神・人間に関する諸命題の源泉は, r天界自 カント哲学のアンソロジーは,この思想的原点 から始められた精神的世界生産の成果であった, 然史』にあるのではないか.この書は,単なる自 然研究の域を越え,自然・神・人間の問題を荒削 カγトは, 『天界自然史』において,単に自然的 りではあるが包括的に論じた点で,前批判期にお 宇宙を論じたのではなかった.宇宙の普遍的合法 ける記念碑的意味をもっている.勿論,批判期力 則性の根拠としての神をも見いだした.更にまた γトの一切の命題の萌芽をこの書に見いだす試み は,挫折するかも知れない.しかし, 『天界自然 無限の空漠における創造の森羅万象が結合されて 一つの体系に纏めあげられたとき,その中での人 史』は,カントの精神的世界生産過程における一 つの大きな里程標であり,その後の思想の原点を 成しているように思われる.カントの世界解釈と 間の位置も独自のものとして割当てられていた。 、 自然・神・人間がカント哲学の主要テーマである とすれば, 『天界自然史』は,その内容構成から 神がどう結びついているのか,自然的存在として の人間が如何にして自然からの自律性を獲得して みて,批判期カントのあらゆる主題を包摂してい 理性的・道徳的存在になるのか.本稿(1−a, b)の関心は,その問いに向けられている・『天 <5> 哲学は,すべての認識分野に触覚をのば 界自然史』は,その関心の重みに十分耐え得るも のと判断された.私は,自然・神・人間に関する る.哲学的精神は,直観や想像力を自分と無縁の ものとして軽蔑してはなるまい.むしろこのよう たのである. し,あらゆる精神能力を伸長させることを要求す カントの諸命題を発生史的に追求する.そのため な力能を十分に開展させ,それを判断や推理の能 に,本稿は,先ずアリアドネの糸を『天界自然 力と均衡させなければならないのである・・そのよ 史』に求めるのである. うな調和の中から,はじめて哲学体系の包括性と <4> カントは,『天界自然史』において, 『純粋理性批判』におけるような知的禁欲から遥 完結性が生みだされるのである.『天界自然史』 は,哲学的青春の書として,・想像力に満ち思弁的 かに遠のいていた.不知論のかげりは,この書の 傾向も随所に散見される.しかし,その形而上学 どこの片隅にもない.彼は,ニュートγから学び とった一切のものを使って,宇宙を巨大な知的統 一の体系へと構築する雄壮な野心に燃えていた. 不毛の思弁ではなく,宇宙についての生産的で創 造的ななイメージを生みだしたのである、該博な 天体から一匹の毛虫にいたるまで,一切を結合し て一つの体系たらしめているものを発見し,諸天 体の形成や配置を,自然の原初的状態からニュー トγの力学的原理を駆使して演繹してみせたので ある.カγトは,批判論的逡巡に時を費やすこと もなく,認識論的懐疑に思い悩むこともなかっ た.彼は,自分の自然学的構想を「危険な旅行」 的探究は,不毛に終始したのではない.空想的な 科学的知識0〕を典拠とする哲学的構想力で綴ら れていたがゆえに,創造性に富麗だ「天才的発見 ω」 をもたらしたのである.そして更に,今や 天界の認識は,天文学という単に相対的で非自立 的な一学問分野に止まらなかった.形而上学的自 然探究が推進される過程で,一貫した論理が貫徹 され,神と人間の然るべき座標が宇宙の中に与え と呼んではいたが,一方では,すでに哲学的新天 られたからである.『天界自然史』は,「ニュート 地の岬を瞥見するコロγブスの気概を示してい γの諸原則に従って論じられた全宇宙構璋の体制 と力学的起源についての試論ω」を副題として持 た.この新天地に足を踏み入れ,この土地にみず から命名する喜びを持つ,と彼は誇らしげに語っ ていたω.『天界自然史』は,カγトが三十一才 の時の作品であった.しかし,その書はまさしく っていた.しかし,それは神の不在においては語 れらず,人間も,自然の一部として座標を規定さ れている限りでは,宇宙の機械論的合法則性の支 哲学的青春のものであり,春秋に富む未来の思想 配のもとで例外者ではあり得ないのである・かく を多角的に暗示するものであった.それは,批判 して,この書は,綿密な力学的合法則性の必然的 明珍:カント研究 覚書1−a 連関の中で,自然・神・人間を論じた.r天界自 3 カント形而上学に固有の任務であった. 然史』は,その意味で,批判期のカントの研究の 主題を含んでおり,彼の思想的原点の位置を占め このような自然科学に基づく包括的宇宙論にお いて,カントがすぐれた先輩を持たなかったわけ ていたのである. ではない.数学的普遍主義による自然研究が,すで く6> 勿論,r天界自然史』において,神はと にデカルトによって試みられていた.スコラ自然 学に代わるべきものをデカルトが構想したとき, もかく,人間への関心は外部自然の研究に対して は従属的であった,とする異議が申立てられよ う.確かに,人間論は,その書の第三篇に「付 録」として追加的な体裁をとってはいる.従って 人間研究は,自然研究の裏側にネガティブなもの として付随しているに過ぎないかに見えるのも事 実であろう.人間は,自然の類比に基づいて考慮 されたに過ぎず,本格的議論の外におかれていた 彼は次のように言った, 「私は,自然学における 原理として,幾何学あるいは抽象的数学における とは違った原理を承認もせず要請もしない.なぜ なら,そのような仕方であらゆる自然現象は説明 できるし,それらについての確かな証明も与えら れるからであるくΩ.」彼はこの宣言を忠実に履行 した.彼は,数学的認識を原型とし,延長物(物 ように思えるのである.しかし,私は,こう考え た.確かに, r天界自然史』における人間は,自 体)と運動という幾何学も前提とする少数の明晰 かつ判明な定義や公理から世界を演繹し,少数の 然の一構成部分として,’自然秩序との連関の中で 最高原理から具体的世界の総体に関する理論を構 考察されるに過ぎない.人間は,徹頭徹尾,全体 としての自然秩序の斉一性の中に吸収されてしま 成した.世界は,三次元の延長体であり,延長ある っている.その意味では,批判期のように, 「現 象および物自体としての人間くの」は登場しない. しかし,まさにそのゆえにこそ,自然からの自律 性をかちとって理性的・道徳的存在へと改訂・洗 練されてゆく直前の人間の原初像が,その書にな 限り物質が存在する・物質の存在しない真空(空 虚)はあり得ない.空虚の存在は,無が存るとい うのと同様に矛盾である.次に,この充実した延 長には,延長の諸部分相互の場所の移動としての 運動が本質的なものとされた.このように,デカ ルトにおいては,客観的世界構成の原理は,延長 まなましく描写されていることを確認しなければ と運動であった.延長と運動,ならびにそれらの ならないのだ,と. 保存を規定する基本法則を前提に,宇宙の生成と ともあれ, 『天界自然史』において,荒削りで 存在が演繹的に説明されたのである. はあるが雄大で神学的形而上学のかげりを宿した 宇宙論構築の野心と規模の雄大さにおいて, 『 世界像が構築された.そこから更に,よどみなき 天界自然史』は,デカルトの宇宙論に優るとも決 論理に脈絡づけられた人間像が呈示された.初期 カントにおける世界像と人間像がその後いかに琢 して劣るものではなかった.しかし,野心と規模 の雄大さの類似は,方法と内容の継承と意味する 磨されて行ったかを知るために,r天界自然史』 ものではなかった. における自然・神・人間に関する諸命題が検討さ カントは,ニュートγ物理学を導きの糸にして れなければならない・本稿(1−a)は,批判期 いたから,抽象的・普遍的原理から具体的・個別的 哲学の問題史的溯及ないし命題発生史的研究のた なものを演繹するものをやめ,経験的帰納法を採 った.デカルトの場合,思惟が依拠する数学的原 めに,差当り初期カントにおける傑作たる『天界 自然史{71』 に焦点を合わせるのである. 理の明証性が,自然の全域にわたり思惟を確実に 案内していた・そこには,完結した演繹の連鎖が 第一節 宇宙への飛翔 <1> 『天界自然史』は,単なる天文学書では あった・自然現象の最も普遍的な第一原因から始 まって,自然のあらゆる法則や個別的な事実の錯 綜した結果にいたるまで,演繹の体系に軽み入れ なしに,自然哲学書として書かれた・この書物は られていた.言うなれば,幾何学が物理学の主人 天界の起源と運動を,科学的原理を縦横に駆使し 公であった。幾何学は,物体世界の性状を厳密な 定義で表現し,絶え間のない思惟の連鎖をたどれ て解明する.そこでは,ニュートンの力学的原理 は,太陽系宇宙への局限性から解放された.機械 論的合法則性を太陽系の局地性から解放し,全宇 宙の最大の普遍的統一にまでに高めることこそ, ば,個別的・具体的な事実の規定に到達できたの である.これに対してカγトは,太陽系の生成と 構造を機械論的必然性に解消させ,その理論を段 4 福島大学教育学部論集 1969−11 階的に銀河系および他の銀河系に及ぼし,宇宙全 像力とアナ.ロギーに基づく推論を駆使し,普遍的 体を統一的に説明しようとする.これは,個別的 ・具体的なものから出発して普遍的なものへ到達 かつ統一的な宇宙認識を志向することによって, みずからの形而上学的要求にも併せ応えようとし する推論の手続きである・勿論,この手続きは, たのである。 数学の場合と全く異なり,認識の普遍性と確実性 否できないという困難がある、従って,宇宙現象 という事実連関を帰納法の手続きで処理するこの <2> とは言っても,理性の特殊な運命が要求 する包括的統一的宇宙認識は,その可能性に関し て素朴な疑問にさらされる.一本の草が力学的法 則によって生みだされる自然的原因ですら明確で ないのに,巨大な宇宙系の起源の解明を試みるの は,理性の僣越ではないのか.感覚に日常的に卑 種の論文に関する限り, r最大の幾何学的厳密性 近に見られる極めて些細な物に関してさえ全面的 や数学的無謬性を期待することはでぎない(3)・」 な知識が得られてないのに,まだ世界が存在する かくして,宇宙論におけるデカルトとカントの手 法の違いは決定的であるが,それに伴う困難をカ 以前に自然界に生じたことを発見する努力は,空 しい焦燥感をもたらすだけではないのか・この単 γトが十分に克服しなければならなかったのも確 純素朴な問いが,天界自然史叙述の構想のアキレ を端的には保証されない・このような宇宙論にあ っては「悟性にとって明確な論証の糸が欠けてい る‘2)」から,証明不可能という非難を十分には拒 かであった. ス腱を射るのではないか. カントは,厳密な意味での「天文学者」の名を 自分には断念する.「天空の観測者(o」の低い地 しかし,カγトに言わせれば,巨大なものの驚 歎すべきものの方が,小さいものより把握し易い 位に甘じんようとする.しかし,その謙虚さは, のである.遊星を軌道に乗せる力の原因.は,一個 形而上学的に宇宙を記述する権利の留保を意味す の雪片の形成より竃遥かに明確に理解でぎる.雪 るものであ・つた.なぜなら,彼は,ニュートγに 片の星形の幾何学正確さは,遊星の軌道のカーブ よってもたらされた太陽系の科学的事実の低地か ら,宇宙の普遍的統一への思惟飛躍を試みたから よりも精密に見える.天体は円い塊であり,物体 が持ち得る最も単純な形態を成し,その運動も純 である・その際カントは,幾何学の論証に代るべ 粋である.その運動は,一度与えられた振動の自 きものとして,観測事実に固執する天文学者の思 惟硬直を越える「想像力(5)」,およびニュート・ン 由な継続であり,その振動は,中心点における物 体の引力と結合して円形となる・世界体系の整備 による太陽系の真理の「アナ・ギー(の」 を哲学 に寄与した諸原因は,科学的に十分知られている. 的方法として開発した.それは,消極的には自然 科学的方法への補助的手段とみなされようが,積 一個の物体が球形に達するのに必要なもの,球が 極的には,自然科学主義が世界像構築に当って封 じ込められている硬直した思考の枠を突ぎ破る方 動方向の一致,離心率などは,すべて最も単純な 法でもあった・カントは,機械論的な力学に基づ 十分確信できるものである・従って,デカルト流 に「私に物質を与えよ.私は,それから世界をつ くって差上げよう」と言うことも,何ら不遜では いて解明された太陽系の存在の真理から,他の宇 宙と全宇宙の生成・存在へとアナ・ギーによる推 円形運動を呈する原因,円軌道相互間の位置,運 力学的原因に基づいており,その発見は科学的に 論をラィデカルに遂行した.天体観測によっても たらされる実証的科学主義の制限は,アナロギー ない,とカントは言う.勿論,「私に物質を与え に基づく理性的推論の方法によって,形而上学的 を諸君に示そう」という構想の実現は,まだ科学 宇宙論へ止揚されることになる.悪しき空想を忌 避し虚構を排するところの節度ある想像力は,い の射程内にはないかも知れない.この場合には, よ.私は如何にして一匹の毛虫が生みだぎれるか 客体の真の内的性状,客体中の多様性の錯綜が知 わば「理性を伴う想像力(7⊃」 として,経験と観 られていないままに,一見したところ行詰りの感 察の枠を超出させる.想像力とアナロギーは,科 を呈している.しかし,一本の草や一匹の毛虫の発 学的真理を傍証とする形而上学の手段とされたの 生が力学的根拠から明瞭かつ完全に知られるより である.カントは,客観的世界を主観的思考の中 に閉じこめることなく,科学的原理によって世界 をとらえた.しかしまた,経験のみを頼って思考を も前に,太陽系の形成とその運動の原因は科学的 認識の範囲内にあり,全宇宙の起源と体制も,想 像とアナ・ギーによる推論の射程の範囲内にある 絶対的に軽蔑する悪しき科学主義を乗り越え,想 というのである.彼の宇宙論は,その意味で,オ 明珍:カント研究 覚書1−a プティミスティックな科学的自信に支えられてい た.ω かくしてカントは,宇宙構造と天体運動,とり わけその生成に関して,ニュートγの機械論的力 学原理を貫徹させようとした.宇宙の編成と運動 の起源を説明するために超越的な神を呼び出し (9), 普遍的自然法則の全宇宙への貫徹を断念す 5 彼の自然形而上学をきずきあげてゆくプロセスを 追跡してみよう.カγトの宇宙論研究は宇宙を綴 るアルファベットと基本的な文法法則に到達する こと,つまり宇宙のすべての複雑な現象をその構 成要素,すなわち究極的で単純な物質と基本的な 作用に分解することから始められる・アルファベ ットは宇宙空間の原素的微粒子であり,基本的文 るとすれば,それこそ「敬虔な顔つきをして怠惰 法は引力と斥力であった・原始的なカオスの状態 な無知を蔽いかくそうと怒める怠けものの哲学 から, 「物質は,その最も単純な状態の中で,自 {10⊃」に堕するほかはない.自然科学主義の硬直 然的な発展によって一つの最も完全な編成へと自 した思惟とあわせて,哲学的怠惰も克服せねばな 己を形成する努力を持っていた.(・2)」 アルファ らない,とカγトは考える.世界は,力学的原理 ベットが一字一字異なっているように,諸原素の によって,それ自身から説明されなければならな 種類は多様に異なってたために,元素間を支配す い.世界の生成と存在に関して,万物の創造主に るかに思われる静止状態が排され,カオスが自己 すべての責任を負わせるのは,非哲学的なのであ った.カントの『天界自然史』は,全太陽系をふ 形成を開始する.微粒子が相互に反撥し合い,引 く広大な全宇宙を,時間経過の中でみずからの機 なす運動が生じた.この斥力は,自然界の争う余 械論的合法則性によつで自己生成したものとして 地なき現象であるが,それによって,それぞれの 引力点に向かって沈下する原素が相互に入り乱れ て直線運動から側方に外れ,垂直の落下が,沈下 解明し,進化論的宇宙論をつくりあげた.伝統的 な「石化した自然観に対する最初の突破口は,自 然研究者によってではなく,一人の哲学者によっ てあけられたのである.t1D」 『天然自然史』は,カントの哲学的青春の書で ある.知的禁欲を知らず,豊かな想像力に促進され る理性的推論に導かれて,新しい自然観を構築し た.錯雑する現象の混濁の中に実在の根源を透視 しようとする形而上学的熱情のほとばしりが,そ の書物に横溢している.科学的アプローチによづ て自然の究極的根源に到達しようとする飽くこと 力との抗争によって,いわば自然の永続的生命を の中心点をめぐる円軌道運動となる.巨大な空間 の中には,中心となるべき一点があり,この点に ある元素の引力が周辺に作用するとき,全範囲に 拡散している原素粒子は,こ㊨原素に向かって沈. 下してゆく.かくして,引力の中心点に一個の物 体が形成され,引力によって周辺の物質を集めて 急速に増大する.その質量の増大に比例して,ま すます強力に周囲の粒子を結合する.この中心物 体の質量が非常に増大して,この物体が遠方にあ なき推論の連続,全自然を普遍的統一的に把握し ようとする形而上学的野心の鮮烈さが織りなす思 る粒子を引きつける速度が,粒子の弱い斥力のた めに側方に曲げられると側方運動となり,遠心力 考の疾風と怒濤が,『天界自然史』におけるカγ トの哲学的青春を物語っている.しかも,この形 によって中心物体を一つの円の中に包むようにな る.そこに,粒子の巨大な渦動現象がおきるので 而上学的野心は,該博な透徹した自然科学的知識 の堆積から発酵したものであり,彼の宇宙論建築 ある.引力の中心点にあるこの物体は,集められ 而上学の一本の赤い糸が隆『天界自然史』を貫いて た多数の物質によって惑星系の主要部分となっ た.まだ白熱光は持たないにせよ,これが太陽で ある。すべての粒子が一つの方向に向い,並行し いたとしても,それは,カントの自然研究から自 て運行する軌道をなし,支えられた跳躍力によっ の科学的作業を根底から支えるものであった.形 然発生的に生まれたものであり,たまたまその書 て中心物体を運行する状態にあっては,元素の抗 に密輸入されて息づいているのではない. 『天界 争と雑沓は消失’し,殆んど相互作用のない状態が 自然史』は,自然自身による統一の原理に自然現 象を収斂させ,機械論的合法貝[性をもって宇宙の 生まれる.太陽系に属する太陽・惑星・彗星など の宇宙的起源は,かくして全く機械論的に力学原 性質の一切を包摂しようとするものである.その 理に基づいて説明することができる.『天界自然 ことによって自然認識の学的根源性と形而上学的 統一性が獲得されることになった。 史』に描かれる自然は,眼前に存在するすべての <3> カントがニュートγ力学を傍証にしつつ 巨大な作業場であり,自然の働きは,想像上の原因 形象が生み出されるのに必要な一切を蔵している 6 福島大学教育学部論集 1969−11 ではなく,ニュートンによって実証された力学的 原理に基づくのである。力学的原理という自然の 化して適用したに過ぎない.カントは,ニュート 合法則性による自然の自己形成作業は,間断なく 続き,太陽系のみならずすべての宇宙系において, 体制と諸天体の運動法則を探究し,宇宙生成の秘 密に合理的解明の光を与えようとした.ニュート この生成と進化が永遠に持続されるのである. γの力学的原理は,太陽を越えて全宇宙へと拡延 太陽系は,灼熱する太陽を中心に,その周囲の 共通関係平面上に軌道を持つ惑星との共同の自然 秩序である.しかし,太陽系といえども,巨大な ンの理論に従って,太陽系宇宙を越えて全宇宙の された.カントは,そこでいわばニュートγを越 えたのである. カントがニュートγよりも健大であったのは, 宇宙体系にあっては,微小な一部であるにすぎな 力学的原理の適用範囲を太陽系という局地性から い・諸惑星は,太陽を中心に一つの系をなしてい るが, 「天空の観測者」カントの華麗にして壮大 解放したことに尽きるのではない.カントは,ニ ュートンから学ぶぶぎものを吸収し尽くしたと同 な類比による推論は,太陽系と無数の恒星を配置 時に,彼と訣別すべき理由も十分に認識してい する銀河系の力学原理に基づく秩序を想定させ た.ニュートンは,諸天体の運動に機械論的力学 た.そこから更に,無限の曠野に視界がおし開か 原理を貫徹させはしたものの,運動の起源そのも れ,諸銀河系の共存が推論される.そこでは,地 球も一粒の砂としてしか映ずることなき途方もな く巨大な大宇宙が描写されることになる.宇宙の 各構成部分たる諸体系は,それぞれ独立の系とし て小中心を持ちながら,無限級数的に広大な相互 の力学的連関を形成し,無数の系を包括する一大 宇宙へと編入されているのである. 「我々は,宇 宙群と体系群との益々大きく前進してゆく関係の 最初の数項を見ることができるにすぎない.この 無限級数の最初の部分がすでに,全体について我 々が何を推測すべきかを認識させる.人間の理解 力が,数学の助けによって如何に高められようと も,その一切の力が沈んでしまう真の不可測の深 淵がある.(13,」太陽系をモデルにしたアナロギ ーと想像力による精力的な推論は,カγトをし て,人間思考をも超絶するほどに壮大な宇宙を構 想させたのである.カントの科学的思考は,想像 力によって加速され,『天界自然史』を形而上的 無限の彼方へと飛翔させた.その雄大さは,カン トの哲学的青春の表現であり,知的禁欲を知らぬ 豊かな創造的想像力の形象であった. のの説明に当っては, 「神の直接の手(1‘}」をわ ずらわせていた.これに対してカγトは,宇宙史 的過程を,徹頭徹尾,物質の自己運動の過程とし てとらえ,機械論的因果律に支配されるものとし て説明した.我々の存在する形成された自然圏が 今日のような完全性に達するまでには,恐らく幾 百万年,幾億年の歳月が流れた.創造は,決して 一瞬の仕事ではない.創造は,無限の実体と物質 の産出をもって始まったのち,豊かさを増しなが ら永遠の全継起を貫いて働いている.宇宙は,時 間的にも空間的にも永遠に進化発展する「不死鳥 ⊂17⊃」である,カγトによれば,この進化する宇 宙は,機械論的に生成運動する「自己形成的自然 (嚇」である.カントは,この自己形成の論理を 自然に貫徹させることによって,ニュートンと訣 別することになった. カントの考えでは,宇宙にあるすべての物は相 互連関によって結合されており,孤立した運動は あり得ない.万物は,相互作用に.よってのみ,無 限に変化し発展する. 「実体は,他の実体と連関 を持つ限りにおいてのみ変化することができる. 実体の相互的依存関係は,それらの実体の状態の <4> r天界自然史』は,ニュートγの力学的 原理を哲学に導入したときの一つの偉大な成功を 何なる外的連関からも免れていて,従って孤立し 示すものである.かってヒュームが,「実験的方 法を精神上の主題に導入する試み(10」を行なっ は全く変化しない.しかも, 「実体間の現実的な たとき,彼は,ニュートンの仕事は物理的自然に 相互的変化を決定する.こ・・〕」実体が,単純で如 ているときには,その実体は,それ自体において 関する限り完壁だと早計に判断していたのであろ 相互関係,すなわち相互交渉は,むしろ正真正銘 の動力因に基づく0.〕」というのが,カγトの考 う.だからこそ,ニュートγの力学的原理を心的 え方であった.ライプニッツにおいては}モナド 能力と機構の研究に適用したとき,それをソクラ テス的転回と思い違いしたのであろう.‘15)ヒュ の自己運動が説かれていた.デカルトが延長を基 軸に幾何学的自然観をつくったのに対し,ライプ ームの哲学は,ニュートン力学を心理現象に矮小 ニッツの場合は,自然の自己形成性がよくとら女 明珍:カント研究 覚書1−a られていたことは確かである.しかし,モナドの 引力と斥力という自然の内在的矛盾を明瞭にとら 相互依存性や因果性は飽くまで否定されていた. えることができなかった.引力だけでは,惑星の 運動を十全に説明することは不可能である・ニュ ートンは宇宙空間におけるすべての物質が最強の モナドとモナドの間には単に対応の関係だけが想 定されるから,世界の変化と運動は,神によって 予めモナドの中に規定されている可能性が他のモ ナドとは没交渉のままに実現されてゆく過程であ った.予定調和説は,モナドの活動の究極原因と して神をおいたのである.モナドは窓なきゆえ, 相互依存はあり得ない.万物は相互に無関係であ り,仮に相互関係が事実問題としてあるにせよ, それは,共通原因たる神に媒介された対応でしか ない.これに対しカγトは,「変化は,諸決定の 継起である(2D」という命題をたてる.単純実体 の状態を決定するものには,それによって決定さ れるものが必然的に相伴う.如何なる事物も,決 定根拠なしには存在できない.決定根拠に依存し なかったものは,帰結の中に存在することは不可 引力を持つ中心物体に引きつけられるがゆえに運 動は衰微することを予告した.さればこそニュー トンは, 「研究の努力を断念して神の直接の意志 を引用して満足する」という「哲学者にとっては 悲しい決心伽)」をしたのである.彼は,運動の 発端に神の衝撃を仮定し,衰微に向かう運動の更 新のためにも,外部からの神の支援を仮定するこ とによって,神学と手を結んだのである. ニュートγは,遊星の起源・運行・軌道上の位 置について機械論的に説明することを断念し,神 の配慮に逃げ込んだ.しかし,ニュートンが機械 論的説明を断念したのは,彼の力学法則が無力で 変化は事物の決定の相互依存によってのみ生じ 現象を規則正しく秩序づけることができないから ではなかった.彼が断念した真の理由は,宇宙空 間を真空と錯覚し,真空においては遊星間の相互 る.カントは,このように事物間の決定と被決定 作用が不可能であり,従って遊星の軌道も定まら の機械論的因果関係を考え・物質的世界に力学的 ないということにあった,とカントはみる、ニュー 法則性の貫徹を見届けたのである. トンが宇宙空間の真空を仮定せず,各物体が連関 能であると考える.宇宙の到るところに見られる <5> かかる論理の貫徹するところでは,宇宙 の起源や進化についても,自然法則と物質の力に を持ち得た瞬間に相互作用が可能となり,その後 よる機械論的説明が可能であった. 「よそからの その結果が保持されてきたと知り得たならば,彼 は哲学者にふさわしい遣り方で宇宙の諸性質を一 手く”)」の援助は,もはや要請も仮定もされなか 般的な力学法則に帰属させ得たはずなのである・ った.運動は, 「自然の永続する生命(23)」であ カントは,自分の宇宙論全体が数学的力学的であ り,自然自身の力つまり物質相互間の引力と斥力 り,それはニュートγ自然学の最奥の核心から生 の矛盾対立によって,一切の運動が開始され持続 まれたものと考えた.カントにおいては,物質相 されるのである. 「根源的な運動源泉Ω4)」,「全 互間の引力と斥力の矛盾こそが物質の自己運動の 自然を貫いて支配している形成法則の力〔25⊃」は 引力である.引力は,自然の諸部分を一切の空間 機械的動力因であり,そう考えることによって, 「神の直接の配慮の手軽な引用(27)」は避けられ において結合する普遍的関係である.引力は,空 たのである. 間の全広がりにわたって果てしなく広がる自然に 固有の本質的な力である.物質相互間には,同時 このようにニュートンとの訣別が明確になった とき,宇宙進化論が決定的となる.カγトは,自 に斥力が作用する.原始宇宙の普遍的運動形態た る渦動現象も,この引力と斥力の矛盾・対立が惹 然は存在するのではなく生成し消滅するのだとい う見解に立ち,運動する物質の循環を究極的なも 起する物理的自然の力学的自然形象であった.カ ントは,引力と斥力という物質に固有の根源的存 のとして明確に意識していた.不変的に固定した 在形式を媒介とする物質の自己運動を考えた.宇 退場した. 「ニュートンが推測するように,ある 宙的過程における物質の結合・統一および特殊化 自然という硬化した体系は,『天界自然史』から 械的自己形成の運動として把握されたのである. 宇宙体系たとえば我々の太陽系が最後には全き静 止状態になることが自然の必然的な成り行きだと しても,私は,ニュートγのように神が奇蹟によ カントによれば,宇宙は,自己の内在的矛盾を ってそれを再び動かし始めなければならないとは 自己みずからの物質的過程において必然的に解決 思わない.なぜなら,太陽系が静止に達するの してゆくものである.一しかるに,ニュートγは, は,自然の必然的な成り行きだからである、そし ・多様化の現象も,それぞれ引力と斥力による機 8 福島大学教育学部論集 196住一11 て,自然が自然の本質的法則によって必然的に生 である. み出した成果は,それ自身よいものでなければな らない.太陽系の終末を惜しい損失と考える必要 カントの哲学的青春の坩堝の中で,ニュートン 的力学概念は変成する.カントの思惟圏に入ると はない.なぜなら,自然の偉大な多産性は,絶え き,その概念は,自然の根源的産出力へと変貌し ず他の天体系をつくりだすことによって,この天 体系の消滅を十分に補うことが出来ると考えられ た、ニュートンにおいては単に物理学的教説でし がなかったものが, 『天界自然史』においては, るからだ.(28)」カγトのこの言葉は,それなし 形而上学的生命力へと組み込まれて行ったのであ では現代の自然科学が成立し得ないところの運動 る.そのことを通して,カγトは,天文学的考察 と理論という所与の現実を乗り越え,新しい哲学 の不可壊性の命題を供給している.・宇宙的物質が 運動するのは,ある永遠の循環の中にあるがゆえ である.しかも,この循環過程は機械論的合法則 的創作の可能性を発明した.神と人間に関する宇 性に貫徹されたものである.自然は,如何なる外 的に考察し得る地平を切りひらいたのである. 部の力も借りずに,みずからの固有の本源的な力 で,この合法則的連関の中で自己を形成し保持す るのである.自然は,限りなく豊かな生産力をも 宙論的視点をきずき,それらの問題について哲学 第二節 聖なる神の所在 って,機械論的合法則性に貫徹されつつ,不断に く1> かつてコペルニクスは, 『天体の回転に 自己の内実を形成し更新し続けてゆくのである、 ついて』が刷りあがったとき,教会の権威に向け て臨終の床から挑戦の手袋を投げつけた。デカル 『自然天界史』は,自然を絶え間のない自己生産 過程の中においたのである.この書において,全 自然は,永遠の流れと循環の中で運動するものと 確認されたのである. トは, r天文学対話』のためにガリレイが宗教裁 判で有罪になったのを聞き,地動説を採用した 『世界論』の出版を思いとどまった。カyトもま <6> 私は,ニュートγの力学的原理に従って た, 『天界自然史』について, 「宗教上の義務に カントが如何に宇宙論を展開してきたかをみてき 関して私が確信を持つにいたるまでは,この研究 た.しかしニュートン力学という『天界自然史』 を企画するつもりはなかった」(・)と述べている。 の基本的モチーフは,たとえそれがカントの宇宙 彼は, 『天界自然史』が無神論者の弁明書になる 論にどれほど本質的かつ不可欠のものであろうと ことによって,宗教勢力から糾弾されるのを極度 も,決して彼の自然哲学の全体を尽くすものでは に恐れていた。 ない.彼の宇宙論の意味と特性を深くさぐればさ カントは,ニュートンの力学原理に基づいて自 然を解明した.しかも,宇宙の起源と運動に関し ぐるほど,『天界自然史』に表現されている新し い思惟傾向を感知せざるを得ないのである.我々 ては, 「神の直接の手」を振り切っていた.十八 は,カントの自然観がニュートンの新説を典拠と 世紀ヨーロッパの思想界において,ニュートンの するからというて,カントの独創性を否認するこ とは許されない.カγトの独創性は,彼が未知の 合理的組織の把握が,人間を神へ案内し,神学的 自然哲学が支配的権威をもっていたのは,自然の 主題を発見したことにあるのではない.在来の既 成的素材を整理し結合し,これらを論理的に組み 立て,新鮮にして雄大な世界像を構想したところ 形而上学の合理化を帰結させるからであった.し に彼の独創性がある.しかも,この世界像構築の 手法は,明らかに自然科学的操作を越えたもので 自然的結果に過ぎないとすれば,そしてまた自然 力の盲目的力学が,カオスから壮麗に展開してみ あった.カントは,ニュートγの力学的概念の核 ずから完全に到達するものとするならば,宇宙構 心に迫り,その概念を自然に関する形而上学の脈 造の美しさから神的創造者を論証する伝統的な試 絡の中で理解し解釈した.その結果,ニュートン の原理は,太陽系の真理という局地性を失ない, みは,一切が反古に帰するであろう.自然に対す る神の支配は不必要とされ,キリスト教の中にエ 全宇宙への拡延適用によづて,形而上学的宇宙論 に具体的感性的内実を付与することになった.カ るであろう.そのようなことは,カントにとって γトの自然形而上学において,自然科学的真理は 形而上学の内実を保証する傍証の役を果たしたの かるに,もし,あらゆる秩序と美から成る宇宙 が,普遍的な力学的運動法則に貫徹される物質の ピク・スが蘇り,冒漬的な哲学が信仰を揉りんす ,信仰の義務に背馳することであった. 「宗教の 法廷の前に厳粛に謝罪するω」 破目に陥ること 明珍:カント研究 覚書1−a 9 なきよう,カγトは,自然における力学的物理学 的原理の貫徹と聖なる神の存在を両立させなけれ 宇宙像そのものが,端的に神の証示とされるので ばならなかったのである. 宇宙の神秘に挑戦する科学の不遜は,いつも宗 の無限の曠野へと視界をひらき,偉大な創造者の 無限性にふさわしい考えとして,これが神の作品 教から冒漬という非難にさらされてきた.カント だという考えをもたらす.(6)」このカγトの言葉 は,自分の自然研究における科学的徹底性が,宗 は,明らかに,機械論的自然観と神存在とを接近 教の擁護を自任する「悪意の熱狂者(3)」 から不 させようとする伝統的な思想の不可抗の流れを示 すものである.しからば,神概念についてのカン 信心よばわれされぬよう,慎重に『天界自然史』 を綴らなければならなかった、その書は,原子の ある. 「我々の提出した学説は,宇宙の森羅万象 トの独自性は奈辺にあるのだろうか. 結合と分離によって宇宙の起源を説明しようとす 確かに,ニュートンも,「神の御業の完壁さに基 る点では,エピクロス,デモクリトス,ルクレテ づいて神の諸性質の偉大な賛美者となった(6)」 ィウスなどの無神論と部分的に一致さえしてい し,「自然の卓越性に対する最深の洞察と神の全能 た.自然法則の普遍性と必然性を承認し,自然自 身の法則による宇宙形成を説ぎ,自然の美と秩序 の統一ですらも,自然の事物の相互依存と関連性 の啓示に対する最大の畏敬を結びつけた人(1)」で の成果であり,神の直接的介入の余地なきものと ニュートンと訣別していた.しかし,ニュートン に訣別することは,カントが機械論的唯物論者に なることを意味しはしない.彼は,ニュートン同 されていた.カγトの自然観は,世界の偉大な配 置を一般的自然法則から説明するがゆえに,自然 の観想から美的要素を排除し,自然についての感 情と幻想の効果を抹殺する危険をはらむものであ る. 『天界自然史』は,「最高存在体の直接の御手 あった.しかるに,カントは,既にみてきたよう に,自然的物質ないし天体の運動の説明において 様,神に畏敬を捧げはするけれども,しかし異な った流儀で神を賛美するのである.ニュートンは 天体の既成の存在を考え,その初発的運動を与え て,宗教的追害を予想しなければならなかった. る神を要請した.これに対してカントは,宇宙の 自己形成・生成に関して,神の配慮を拒否し,機 械論的因果論的に説明した.従って,カントの神 自然の中に事物の普遍的合法則的連関をきびしく への賛辞は,宇宙に対する外在的超越者に対して 追求し,神の配慮を拒絶し,機械論的原理の貫徹 ではなしに,宇宙構造における卓越した秩序づけ によって自然の統一的秩序を説くカγトにとって とその諸関係の完全性そのものに呈されるのであ る.カγトの神は,擬人化されて自然に対する超 がそこに認められるべき諸結果を,自力で動く自 然に帰せしめる大胆不敵が許されたω」ものとし は,それゆえに,もし神について語る資格を得よ うとするならば,自然における機械論的必然性の 越的エトランゼとして存在するのではない.神は 方法だけが残されていることになる.ニュートン と訣別し.しかも無神論者の烙印を拒否するため には,宇宙の機械論的運動の外にではなしに,機 械論的運動そのものの中に神の存在を論証しなけ 自然の機械論的必然性を外から監視し調節するの ではない.むしろ,神は自然に内在的であり,自 然の機械論的合法則性は,神性の発現ないし自己 外化としてとらえ直されたのである・自然の普遍 的必然的法則性そのものこそ.神の外面性の証示 ればならなかったのである. と考えられたのである。 <2> 『天界自然史』においては,機械論的必 カントは,宇宙の機械論的必然性の連関を執拗 なまでに追求した.そして,彼は,宇宙構造にお 支配そのものから神の現存在を導くという逆説的 然性において世界を語ることが,神の現存在につ その測り知れぬ大きさと,また限りなき多様さと ける卓越した秩序づけと,その連関の完全性の中 に,神の確実な印を見るのである・「物質は,秩 宇宙構造のあらゆる面から輝きでる美しさとによ 序と調和をめざすこのような法則を,なぜ持たな って,名状し難いほどの驚歎を与える.他方,唯 一の普遍的法則から永遠の正しい秩序によって, ければならなかったのか.その一つ一つがそれぞ れ他から独立した本性をもつ多くの物が丁度一個 の秩序整然たる全体を生ずるように相互に規定さ いて語ることと同義と考えられた. 「宇宙構造は このような華麗さと壮大さが如何にして流れ出る ある種の法悦を覚える(5)」とカントは言う.そし れるということが,何ゆえに可能であるのか.そ して,これらの物の最初の起源は,一体いつなの て.この法悦がカントを神へと案内し,機械論的 であろうか.そこには,完全に満ち足りた最高の かを考察するとき,悟性は,またこれとは違った 1969−11 10 福島大学教育学部論集 悟性が存在するに違いないという証明があるので 帰結の連鎖の可能性を神に帰属させるQである. はなかろうか(9)」 という自然神学的な問いが機 <3> このようにカントは,単なる科学主義な 械論的自然の信奉者カントをして神の思索を独自 いし自然主義の限界を越え,神学的形而上学の領 の方向に促すことになったのである・かって,レ クレティウスやその先駆者たるエピクロス,レウ 域に自己を見いだした.それは,一種の理神論で キッポス,デモクリトスは,宇宙の力学的発生を 説明するさいに,宇宙のあらゆる秩序を,たまた ま生じた偶然から導き出した.その偶然が原子を の基礎とする時代的傾向の中に,彼も立ってはい る.しかし,彼は,もはや神を自然に対する超越 はある.ニュートγの自然哲学を神学的形而上学 幸運にも遭遇させ,一個の整然たる全体を形成し 的外在者とはみていない・自然内在的な,しかも 自然の合法則性の成立根拠としての神をとらえた たと説いていた.これに対してカントは,物質を のである.ともあれ,そのことによって,カント 一定の必然的法則に結合されたものとして見いだ した.美しい秩序だった全体は,偶然によって生 宗教的敬虔が疑問の余地なく承認されるものと自 は,『天界自然史』の意図の純正潔白さについて, じるのではなく,自然の固有性が必然的に展開し 負した. 『天界自然史』は.神を軽蔑して唯物論 た成果だと考えたのである.カントが無神論と絶 への傾斜を示すどころか.かえって神の無限の知 縁し,独自の神学的形而上学へと傾斜するのは, 恵という概念を生むとする確信が,カγトのもの まさにその点においてであった. 「あらゆる物の になった. 『天界自然史』の宇宙像そのものが, 根源的素材である物質はある法則に結合しており 神存在の典拠であり証拠である・自然の法則性そ これらの法則に自由に委ねられるとき,物質は必 のものが,神の啓示であった・カントは,自然に 然的に美しい結合を生ずる・物質は,この完全性 の計画から逸脱する自由を持たない.物質は,至 ついての科学的合理論の視座から,信仰の合理性 高の英知的意図に服しているから,物質を支配す である. る第一原因によって,必然的にこのような調和一 「宇宙組織の計画は,最高の悟性によってすで に永遠なる諸自然の本質規定の中におかれ,普遍 致の関係におかれなければならない.そして,自 を十分に根拠づけることが可能であると考えたの ロ じ ヨ ロ ヨ リ 然は,カオスの中においてさえも規則正しくかつ 秩序あるように行動するほかはないのであるから 的運動法則とされていて,この法則に基づいてそ の計画が最も完全な秩序にふさわしい仕方でおの まさにその理由によって神は存在する.(10)」 カ ずから展開したもの{12》」である.このようにカ ントにおいては,自然に秩序と美を外から与える ントは,彼の宇宙論の中で,自然の機械論的合法則 ところの聖なる超越的原因として神が考えられて 性の運動と神の宇宙計画とを統一的に把握し,機 いるのではない.自然の秩序と美は,自然みずか 械論的必然性と目的論を結合させた.自然は,そ らの必然的合法則的展開の帰結でしかない・万物 の普遍的性質たる合法則性に委ねられるとぎ,ひ の可能性の示す完全性と美への傾向は,神の知性 たすら美しく完全な実りを豊かに産出する・その の必然的な対象とみなされることはあっても,神 実りは,調和と卓越性を示すばかりでなく,人間 の利益と神の賛美によく調和する.自然の本質的 の一つの帰結とみなされたためしはなかった.カ ントは,自然法則の貫徹性そのものを,秩序と美 性質は,決して独立した必然性を持つのではな をめざす神性の活動の帰結として洞察したのであ い.むしろ,それらは,その起源を全存在の根拠 る. 「人びとは,万物の神に対する依存を,万物 ないし源泉としての神に持っている.この神にお の存在の神に対する依存に限った・その結果,ひ とは神から完全性の根拠という偉大な資格を奪う いてのみ,自然が共同の関係に立つよう計画され ことになった(11)」と,カントは歎いている。自 結合によって宇宙を形成したのではない.宇宙の 然法則の貫徹性という素質は,あらかじめ万物の 秩序の不変の根源は,最も賢明な悟性を源泉とし 中に存在していなければならず,その素質は神に て賦与された力と法則である・秩序は,この力と 基づくものである.もし,こういつた素質が神と 法則とから,僥倖によってではなしに必然的に流 無縁の根拠に基づいているとすれば,絶対者であ 出するのである.さればカントは言う,「自然が, ているのである.レクレティウスの原子は僥倖の るはずの神の権限は,大巾に縮小されてしまうか その展開において完全であればあるほど,自然の らである.かくしてカγトは,自然の合法則性に 普遍的法則がよりょく秩序と調和に導けば導くほ よる秩序と美を飽くまで神の一つの帰結と考え, ど,自然は,いよいよ確実な神性の証拠である 明珍:カγト研究 覚書1−a 11 {1の」と. て,宇宙の合理的把握を可能にした.しかし,そ カントは,全自然を奇蹟に転ぜしめることはで きなかった.自然がその調和と美のために「神の のことによって宇宙は説明されても,了解はされ ない.世界の生成・発展の必然性は,本来的には 世界の内部に可能性として定められていたものと 直接の手」を必要とすると主張するのは, 「根拠 なぎ偏見(1の」でしかない.自然がその中に普遍 的合法則的連関を持ち,みずからの成果として調 和と美を持つことこそ,そこに「一つの共同の根 源(・5)」が存在することを示している,というの がカγトの考えである.自然とその交互作用の ために諸実体に規定されている永遠の法則は,独 立の原理ではなく,神を欠いた必然的原理でもな して了解されなければならないのである.世界の 内的可能性において,万物の数学的機械論的運動 が規定されているがゆえに,万物は,機械的必然 性の運動によって,美と調和を生みだすのであ る.カントにおいて,神は,そのような世界の前 進的発展の原理的可能性の保証となる究極的源泉 であった.それゆえ,カントの神概念に即して, い・ホイヘγスが振子時計を作ったとき,彼は, 次のように言い得るであろう.天界の自然史は, 振子時計の完成を可能にした等時性の原理まで作 それ自身が原因と結果の機械的連関ではあるが, りだしたのではなかった.重力という単純な根拠 同時に目的論的連関である.神は,万物を普遍的 からそのような素晴らしい帰結が生じる可能性の 根拠は,飽くまで神にある.神こそが,自然の合 必然的連関のうちに生みだす.自然の機械論的連 関は,全目的的な力の中で行なわれる動態的生起 法則性の源泉根拠であり,自然そのものを活動さ の系列である,と. せる力である. 「自然の諸性質は,唯一至高の悟 カントにおいて,自然の形成と発展は,それ自 性のうちにその源泉を持ち,その唯一最高の悟性 身が神性の証拠であった.「養もし宇宙の編成の中 の賢明な理念が,一貫した関係を示すように自然 に秩序と美があるならば,神はある〃という推論 の諸性質を計画し,それら自身に委ねられた活動 は全く正しい.しかし,それに劣らず次の推論は 状態の中で美と秩序だけをつくりだす能力をそれ 正当である.ミその秩序が普遍的法則から生じる らに与えたのである.(16)」自然は,「永遠の盲目 ことができるならば,全自然は必然的に最高の知 的運命(17)」に翻弄されるのではない.自然の活 恵の産物である.”(19)」 もはや神は,自然に超 動と法則の究極的源泉は,宇宙の創造的主体たる 神にある,というのがカントの主張であった.こ 越した第三者として自然と人間に対するのではな い.自然の秩序と美は,自然を超越した神によっ こで我々は,スピノザの「神すなわち自然」の定 式を想起することになろう,「あらゆる現象を支 て外から思寵として与えられるのではない・神は 自然の外在的根拠ではない.神は自然の合法則的 配し決定する自然の普遍的法則は,つねに永遠な 連関の成立根拠であり,宇宙的生命の根源的主体 る真理と必然性をみずからのうちに含む神の永遠 として存在している・神は,自然の普遍的必然的 の決定以外の何ものでもない(18)」,と彼は言って 統一の究極的根拠であり,自然の合法則的連関は いた.カントの神も,いわば自然の自己原因であ り,自然に対する超越的原理ではない.宇宙の万 いわば他在における神とでも言うべぎものであ る,宇宙的生命の根源的主体たる神は,自然とそ 物の連関の普遍性と必然性の根源として,自然の の必然的統一を外化し創造する・私は,そこに, 根底に発見されたものであり,宇宙の普遍的必然 機械論的必然性と目的論が,カント独自の哲学手 的統一の究極的根拠であった. 法で結合されているのをみる. 『天界自然史』の <4> 自然のあらゆる現象は,巨大な宇宙か ら一匹の毛虫にいたるまで,ニュートγの原理に 而上学の独自の調停であった. 従って,例外なく数学的・力学的に説明される, という予想をカントは持っていたであろう.しか し,機械的作用の原珪自体は,単なる延長や形状 大きな成果の一つは,機械論的宇宙論と神学的形 自然の事象は,しばしば舞台で上演される演劇 にたとえられる.自然が絶えず事象を生みだす舞 台では,変化する光景を生み出す舞台の機械仕掛 きだ,というのがカントの考えである、なるほど けの発条を見つけることが,自然哲学者の仕事で ある.近代科学は,自然の舞台裏をのぞき,現象 カントにとって,ニュートンの力学的法則は,宇 を動かす歯車装置を見つけたのである.しかし, や運動のうちにではなく別の根源に求められるべ 宙論展開の羅針盤である・『天界自然史』は,す 自然をそのような機械仕掛けとみなした場合,論 べての現象を力学的原理に従わせることによっ 理必然的に,機械を組み立てそれに初発的運動を 1969−11 12 福島大学教育学部論集 与える神が想定されるのが常であった.しかるに 然の合法則的連関は,その可能性をみずからの根 カγトにおける自然は自己形成的自然であり,自 源たる神に負うのである. 『天界自然史』は,自 然に対して機械師として擬人化されるような神は 不必要であった.自然の機械的運動の必然性は, 本来的には,自然の内部に可能性として既定され 然の合法則的必然性の発見によって,端的に神の ていたものであり.神は,この自然における可能 性の内在的源泉であった・神は自然の必然的連関 可能性の総括者たる神の自己外化によってもたら 存在を確信したのである・自然の合法則的必然性 は自然の外なる神の恩恵ではなく,自然の一切の を内的可能性において外化する根源的実在であっ されるものであった.そこに私は,ライプニッツ 的目的論の土壌にニュートン力学に基づく機械論 た. 「無限性と独立の叡知が現存し,そこから自 が宗教的敬虔に彩られつつ見事に定着しているの 然が,さらにその可能性の上からも,諸規定の総 をみるのである、 括としての自然が,その根源をひきだすのであ 勿論,r天界自然史』は,神の存在を論理的厳 る.(20)」自然の機械論的合法則性は,神の英知 密性を追求しながら論証したものではなかった・ の目的論的展開にその根源を持つとされたのであ 「神の現存在を確信できさえすればよい・それを る. 如何に証明するかということは,さほど重要なこ <5> かくして,カントによれば,自然は,絶 え間のない自己生産過程におかれる.創造は,決 直観され確信されたものであった・この確信に論 して完結しない.創造は,開始はされたが終結す 理性を与えるためには,『神の存在論証のための唯 ることなく,つねに自己を多く登場させ,新しい 世界を生み出して行くのである.自然の本性は従 って創造されたものの領域,すなわち「所産的自 一の可能な証明根拠』(1963年)が必要であった. とではない.〔21)」『天界自然史』の神は,いわば そこでは『天界自然史』の縮約が付されたうえ, 「天界自然史』における神への確信が,「修正され た自然神学的方法」としての神証明へと定式化さ 然」にではなく,創造するものの領域,すなわち 「能産的自然」に求められている.カγトにおい れることになった. (この間の経緯については, ては,自然が神の知性の対象ではなく,神の一つ 本稿1−bが取扱う).『天界自然史』における神 の帰結であると考えられている限り,創造者と被 造物という二元論は止揚されている.自然は,単 は,神学的形而上学の遺産とニュートンの力学的 原理をモチーフにして,カントが目的論と機械論 なる被造物として,自然の外にある神の手に動か を調停しだときの所産であった.批判哲学の知的 禁欲期に入ると,この自然神学的証明は,独断的 されているのではない.むしろ,自然は,それ みずからの内側から神によって形成される.神は 形而上学の範囲にあるものとして破綻を宣告され 起動的原因として,異質の素材に干渉し外部から る. 『実践理性批判』において神が一応安定した 影響する力ではない.神ぞのものが運動のうちに 実在性を得るまでは,カントの神に関する思索の 動揺が続いた.ともあれ「カントは,単に認識批 入り込み,その中に直接的に現存する.神は,自 然に外在的な叡知者ではない.カγトの神は,自 判家であるばかりでなく,それを越えて世界解釈 然の機械論的必然的運動の内的根源的原理であっ 家であり,何よりも先ず神の探究者であった. た. (22)」すでにカントは,『天界自然史」において, 『天界自然史』は,本源的で自立的な自然の真 世界解釈と神の探究を開始していたのである. 理を登場させた.その真理は,神の言葉の中では なしに,神のつくるものの中に現われる.自然は, 第三節 宇宙における人間の座標 数学的力学的法則性によって,みずからの完全な 形式と完璧な秩序を呈示するが,カγトにおいて <1> 人間不在の哲学はない. 『天界自然史』 は,それ自身が神の真理であった。カγトは,天 界そのものが数学および力学の厳密な概念によっ て適合的に把握されることを示し,ニュートンの は,当面の対象を広大な宇宙においていたが・哲 学としての宇宙論は,当然その宇宙を追求する主 方向を更に徹底させた.特定の限局された領域だ けが規則と秩序に還元されるのではなく,全宇宙 知れ」なのである.しかも,宇宙の中にあっては じめて,人間は人間となる.カントは,人間を宇 がニュートンの原理で貫徹されたのである.しか も自然の秩序と美は,自然法則の所産であり,自 統合しなければならなかった.「すべての理論は 体たる人間自身への問いに還帰する. 「汝自身を 宙から切離しておいたが,再び人間を宇宙の中へ 明珍:カγト研究 覚書1−a 13 それが,一つの体系すなわち原理に従って秩序づ るカントの思考様式である.少くとも『天界自然 けられた認識の全体をなすと認められる場合に, 史』においては,地球の生成と存在は全く機械論 学問と称せられる(1〕」 と,カントは言う.さら 的原理に基づくものであり,他の天体に対して何 に,「哲学者にとって彼の努力に対する殆んど唯一 ら異質性を誇示し得るものではない・その地球上 に住む人間も,その生成と存在に関して,機械論 の報いは,彼が長い間かけて苦心した後でやっと る〔2〕」とも語っている.『天界自然史』が根本的 的力学的原理の例外者たり得ないはずであった. 宗教的に語り伝えられてきた地球中心主義ないし な学として存立するためには,従って,ニュート 人間至上主義は, 『天界自然史』の宇宙論的原理 ンの諸原則に従って宇宙の一切を解明することが からすれば,なじめない思想であった.人間存在 真の根本的な学問を獲得して安心し得るときであ 必要であり,少くとも自然と神についてはその作 は,飽くまで自然の一部であり,その限りにおい 業が一応終ったのである・すなわち,宇宙の生成 と存在,その絶え間なき創造的進化,宇宙の全法 て,宇宙の機械論的合法則性の異端ではあり得な 則的連関を,ニュートンの原理に基づいて華麗に は,自然の中でどう説明すればよいのか・ r天界 論じたのである.そしてその必然的な合法則的連 自然史』は,極めて重要な問題をかかえたことに いのである.だとすれば,人間の理性的自律性 関の究極的根源としての神も確信されたのであ なる. る.取残されているのは,宇宙の中での人間存在 しかし,カントは,『天界自然史』において正面 の問題ということになろう.自然なくして語られ 切って人間の自由や理性的認識の問題を深刻な面 持ちでとりあげたりはしなかった,むしろ,彼は る人間の規定は全く空虚であるから, 『天界自然 史』の中で,人間論も,正当な自然学的位置を与 自然の中の人間について楽天的な考えを抱いて, えられなければならない.本来的には,『天界自然 宇宙の中に安住していたように思われる、『天界自 史』において,「砂粒から太陽にいたるまで,原生 然史』を生んだ十八世紀は,自然に関する楽天的 動物から人間にいたるまで,永遠の発生と消滅の 中絶することなき流れの中にとらえる(3)」仕事 発展に作用していたのは,単に理論的動機や抽象 が,果たされるべきなのである.自然の真只中で 人間とは一体何なのか,この問いへの解答なくし て,天界理論は,安心すべき根本的な学問たり得 イメージの時代であった.十八世紀の自然哲学の 的思考ではなかった.芸術精神の豊かな人たちの 新しい美学的世界観が,それに劣らず重要な役割 を果たしていたω. ライプニッツの根本概念た ないはずである.かくして,『天界自然史』は,そ る調和の概念においても,理論的動機と美学的動 の叙述の最終篇で,人間を論じることになった・ 「付録」というひどく不体裁な形ではあったが, 機の相互滲透がみられよう.しかもライプニッツ は,我々の世界は,考えられる限りでの最良のも そこで描ぎだされた自然主義的人間像は,以後の のであり,神の創りだしたものは,創りだすこ カント哲学における人間思想の原点たるにふさわ とが可能である限りでの最良のものであると考え しいものであった。 ていた.この知的傾向は,カγトにおいても同様 <2> カントの人間論は,「自然のアナロギーに であった. 彼は,『天界自然史』の中にアレキサ 基づいて種々なる惑星の居住者を比較する試論」 ンダー・ホープの『人間論(5)』の詩を引用してい という標題のもとに取扱われている・カγトは, る.この詩人は,「考えられることは屡々なれど, 太陽系の地球以外の惑星上にも生物が住んでいる かく巧みには言い表わさざりしものを」という詩 ことを想定していた.この仮定は.一見したとこ 句を,余すところなく実践した人である。シャフ ろ甚だ空想じみているが,その想定に科学的根拠 ツベリなどの理神論的楽天観は,彼の詩中に巧み が皆無であるわけではない.人間の生成も,天体 に表現されていた.カントもまた,みずからの自 同様ニュートン的諸原理に従うものであり,地球 以外の惑星上にも,生物発生と進化の自然的条件 然論を託するに足る詩篇を,この詩人から借りた のである.『天界自然史』は,宇宙についての神 が存在するならば,生物の存在は十分に可能だか 秘主義的傾向を脱して,宇宙についての楽天的イ らである.ともあれ私にとって興味があるのは, メージを描いたものとみることができる. カントの人間論が「自然のアナロギー」に基づい 人間についてのカントの楽天主義は,『オプテ て展開され,自然の一部である人間をば,自然を ィミズム試論』で,十分な表現を受けた.カント 貫徹する合法則性の連関においてとらえようとす は言う,「世界が現に存在するのは,それが最も 14 福島大学教育学部論集 1969−11 賢明で最も慈悲深い神の意志によって創りだされ 同時にその真実性が十分に基礎づけられていて, たからである・…一…神は,世界を彼の知り給う あらゆる世界の中から選んだのであるから,この 世界を最も良きものと考えているに違いない.… 我々がそれを殆んど認めないわけにはいかないよ うな命題以外は引証しないく1」㍉と述べたのであ 一私は,最もすぐれた者によって企てられた最 は疑問の余地があるにしても,ひとまず,彼の呈 示した人間に関する自然的規定をみてみよう. も完全な試みにおける取るに足らない一員であ る.一個だけ取りあげれば無価値に見えるもの も,それを全体の立場から考えると立派な意味を る.カγトがこの約束を最終的にどこまで守る.か 1−惑星上の動物や植物すらがそれから形成され ている質料は,一般に,それらが太陽から遠くへ だたっていればいるほど,それに比例してますま もつ・私は,最良の計画に加わるために選ばれた という意味で,私の存在を極めて高く評価する す軽快精緻なものであるに相違なく,その繊維質 (6〕・」カントは,一切の被造物を,有限なすべて の弾力性は,それらの有利な体質と共に・ますま のもののうちで最も完全なものと考える, 「人間 す完全なものであるに相違ない(12)」とカントは は,可能な限りでの最良の世界の住人の一人であ 言う.このように,カントは,太陽からの天体の る(7⊃」とする言葉も,そこから生まれてくる。こ 距離が,諸天体上の思惟的自然(生物)の種々な の心地よい楽天主義が,いわば力学的法則に支配 される世界の地球人としての幸福であった.カン る性質に本質的な影響を与える,という科学的仮 説をたてた.しかも,惑星上の理性を賦与されて トの場合,宇宙一太陽系一地球一人間の合法則的 いる被造物の完全性は,それらが結合されている 運開に寄せるオプティミズムのゆえに,パスカル もどきに,無限の空間の永遠の沈黙に無気味さを 物質の性状という物理的条件に規定されると考え じ ロ し し じ たのである.そして更に,「諸惑星における精神界 ロ ロ ロ ロ し ロ 感じることはあり得ない(Ω.自然の荘厳な芸術品 ならびに物質界の完全性は,水星から土星にいた や神の例証の多い中で,人間は,「創造の傑作(9)」 るまで,あるいは恐らくなお土星をも越えて,そ れぞれ太陽からの距離に比例した等比級数をなし て,増大かつ前進してゆくのであるσ3).」創造 なのであった.カントの人間論に深刻で不安なか げりのないのは,そのゆえであった. <3> 既に見てきたように,カントは,宇宙の 編成と運動を神の直接の手のせいにすることを, ロ し ロ じ じ し じ ヨ し じ ロ し し ロ の中心点に生成と滞留の場所をもつ理性的存在体 は,ねばねばした不活発な物質の中に沈下し,そ 怠惰な哲学の表われとみていた.それゆえ,怠惰 のような物質は,どうにもならない慣性のうちに の無知を望まぬ哲学は,人間についても,普遍的 閉ざされていて,宇宙の印象を明瞭かつ軽快に伝 自然法則を貫徹させなければならない.自然は, えることができない.これに対し,普遍的中心か らの距離と共に,精神界の完全性が増大するので その内部に人間を包む物質界であり,人間は,自 然的存在として自然の中に組み入れられる.人間 し ヨ の じ し ある.「思惟的自然(生物)の卓越性,その諸概念 存在も,他の自然物と同様に,「ニュートンの力 の活発さ,それが外界の印象によって得る概念の 学的原理に従って」記述されなければならないの 明瞭性,加うるにそれらを綜合する能力,最後に である。人間的自然は,.宇宙的自然との統一にお また実際の行使における敏捷さ,要するに思惟的 いてのみあるゆえ,自然においては根拠十分な法 自然の完全性の程度は,太陽からのそれらの居住 則が,人間の特別な目的のために譲歩すると考え 所の距離に比例してますます優越し,ますます完 るのは不合理である,「創造の無限性は,その無尽 全になる(14).」カγトは,このように宇宙秩序の 蔵な富がもたらす一切の自然を,同等の必然性を もって,その内に含んでいる・一…一すべては, アナ・ギーから,理性的存在体の感覚的・理性的 機能についての物理的条件を設定した.このよう 自然がその原初時に付与された力の結合によって な「物理的諸関係の導きの糸(15⊃」に沿うて,自 生ぜしめられる普遍的法則によって規定される 然的存在としての人間に関する考察を進めるなら {1・)」のである.かくして,人間論にも,科学的 ぽ,理性の軌道をそれて幻想の荒野にさまよい出 に成算ある方法が必要であった. ることはないものと信じていた. カγトは,そのことを十分に承知していた.「軽 さて,宇宙における地球の座標からして,理性 的存在体を規定する物理的事情が以上のようなも 率な仕方で見栄を伴う機智の自由奔放が主張され れば,哲学の品位に傷がつく」ことを知っていた 彼は,「我々の認識の拡大に寄与することができ, のだとすれば,地球人と他の惑星上の生物体との 間には越えがたい優劣の差が運命的に生じる・カ 明珍:カント研究 覚書1−a 15 ントの推論に従えば,木星や土星は,地球よりも おかれていなかった(19).従って,唯物論には十 太陽から遠距離にあるから,そこの居住者は,理 分の距離を保ち,「理性的精神と身体の間に無限の 性的能力と行動力において人類よりもすぐれてい ることになる.水星や金星は,地球よりも太陽が 距離を見いだす(20)」のであった・しかし,『天界 ら近い距離にあるから,その生命機能は人類にく らべて劣ることになる. 「人間という自然は,存 在体の階梯の中でいわば最中央の段階を占めるも 自然史』におけるカγトは,自然とその認識をみ ずからの足で立たせ,それみずからの条件から説 明しようとした・身体と精神の問題を,力学的因 ので,完全性という面からは,その両端から等距 果性の観点から処理しようとしていた・しかもそ の際,身体と精神との間に,異質の権威が入るこ 離の真中とみられる(16).」灼熱する太陽から遠く とを認めなかったことも確かであった. へだたった天界圏の生物は,極めてすぐれた認識 カントは,地球が人間や動・植物を保持できる 能力を持ち,倫理的性状には美わしい結果がみら れ,悟性の洞察によって感性的誘惑を支配し征服 体制にいたるまでに,極めて長い年月を経ている ことを十分に認めていた.宇宙の進化論からの文 できるのである.木星あるいは土星に住む理性的 脈からすれば,それは当然のことである.だとす れば,彼は,天体のアナPギーによって,・人間存 被造物に対し,人間は嫉妬するかも知れない.し かし,金星や水星に住む下等な生物のことに思い 在の力学的起源・自然学的起源を同時に論じるべ いたれば,慰められ心やすまるだろう,とカント きであったろう.「自然が自己自身の意識ある存在 は揶揄するのである.カントは,ポープの詩に暗 に到達した脊椎動物としての人間め進化〔21)」も, 示を受けて,次のように言う・木星あるい土星の ニュートγの力学的原理に従って解明されるべぎ 住人は,ニュートγをも一匹の猿として珍重する であった.しかし,カントは,そのような解明を であろうし,金星や水星の惑星においては,ホッ 可能にする科学的状況に末だ恵まれていなかった テントヅトも一人のニュートンになるであろう, と〔1マ).カントの科学的推論から,一つの楽天的 がゆえに,すでに出来上っている人間についての 説明から始めたのである.勿論,彼の宗教的敬虔 な諧謔すら生まれたのである・ さが,人間の進化論的解明の手続きを許すかどう <4> カγトの人間論は,かくして宇宙論にお ける支配的原理たる引力と斥力という物理的条件 から演繹された.太陽からの引力の弱まりに比例 して,生物体の理性的能力・道徳的意志力・行動 力はその優秀性を保証されるのであった・人間は 自然の産物であり,自然の外にあって人間の生存 は不可能であるから,人間は,自然の法則からみず かには疑問があるにしても,『天界自然史』の論 理的文脈からすれば,当然, r人間自然史』が書 かれるべきであった.しかし,そのような悔いは 別としても,少くとも出来上った人間に関する限 り,自然のアナロギーによる人間論への自然学的 原理の浸透は,これを十分に認めることができる と思う. からを解放できないのである・カントは,我々が ところで,以上のような宇宙における座標に位 知的現象とみなすものも含めて,自然のすべての 過程,事物の物理的秩序および道徳的な全体秩序 は,物質と運動という物理的条件に規定されざる 置する人間は,どのような精神的機能を持つのか, を得ないものと考えたのである・勿論,カγトは 人間の精神の粒子が沈下しているところの物質は 立入ってカントの説明を聴くことにする・カント は,我々地球人は「粗雑な機械(22〕」だ,と言う. 「人間の内面的性質は,いまだに探究されていな 粗大であり,精神の活動が従うはずの繊維の固 い問題である」と考えていたから,『天界自然史』 さ,体液の不活発と緩慢さが,人間の本性を低下 は,「人間を,彼の道徳的性質の面からでも,また させている.人間の脳髄の神経や液体は,人間に 彼の身体の物理的組織の面からでもなく考察する 粗大で不明瞭な概念を与え,感性的刺戟に対して (1の」ものであった.つまり,『天界自然史』にお いては,人間身体の物質的性状が,理性的能力と 力強い表象を平衡させて対抗させることができな くなっている.そのために,人間は,情熱の虜に 身体的能力にどのような制限を与えるかを考察し なる.人間本性の構造における素材や組織の物理 たにすぎない.カγトは,無機的物質が如何にし て有機的物質に変化してゆくかのプロセス,有機 的・化学的・生理学的条件が,魂の能力を萎靡さ 的物質に如何にして精神的能力が生じるようにな せ無力化させる惰性の原因となっている,とカン トはみる.理性の働きは,この惰性を脱却しよう るかのプロセスを知り得る科学的状況には,まだ とする「努力的な状態(23)」である.しかし,こ 16 福島大学教育学部論集 の努力も,身体的機構の自然的条件のゆえに,直 ちに感性的受動的状態に逆戻りする危険がある、 人間の魂の力は,魂がおかれている身体の物質的 条件によって制限され抑止されざるを得ないので 1969−11 性的刺戟によって一切を規定されてしまう.理性 的普遍的認識を感性的印象から区別しようとする 「労苦の伴う困難(27〕」に耐えないならば,精神 は無力化する. 「人間の思考力のこの惰性は,粗 ある.しかも,この物質的条件の特殊な性状は, 雑で硬直した物質に依存することの結果である 太陽からの距離に応じて太陽が人間の生命機能に 与える影響度と本質的な関係を持っているのであ が,これは単に悪徳の源泉であるばかりでなく, る.このように,カントにおいて,人間の心身機 能は,地球の宇宙論的連関における物理的位置と 的刺戟の誘惑に屈するとき,人間は,自然からの そのゆえの物質的条件から,機械論的必然性をも がでぎない,カントは,感性と理性の力学的関係 を想定したが,人間の自然からの自律性は,この って説明されたのである・理性的思考能力とそれ に従う身体運動は,太陽からの距離に比例した物 質の粗雑性によって規定されている.人間の精神 迷妄の源泉でもある(28)」,とカントは言う.感性 自律性をもってみずからの尊厳性を維持すること 力学的緊張関係の中で努力によってのみかち得ら めて自然的であり,かつよく根拠づけられてお れるものであった、「感性的刺戟によって魅了さ れることが,精神の惰性にとって好ましくないと きには,精神は,それら感性的刺戟に抵抗できる り」,それは,「ニュートンの計算ならびに宇宙生 能力を放棄できない(29)」,とカントは述べてい 機能をふくめた生命機能の機械論的必然性は.「極 成論の諸根拠伽)」によって確証されるものだ, る・人間は, 「抽象的諸概念を結合し,洞見を自 とカントは主張するのである. 由に用いて情熱への傾向を支配する能力〔3。)」に <5> しからば,自然における人間の自律性 よって,情熱の虜からみずからを解放しなければ は,人間の宇宙的条件からして無に帰するのだろ うか・宇宙における機械論的合法則性の中で,人 ならない.人間にとって,自然からの自律性とは 努力によって実現される可能性でしかない.感性 的刺戟に対抗して自己を高め,感性的迷妄を判断 間の独自性ないし自然からの自律性は,全く語る 彼の魂の中に生ぜしめる印象から持つ(25).」概念 の光によって駆逐する理性の努力こそ,人間本性 の優越の証拠であり,自然的存在としての人間の 自然からの自律性を保証するものであった.カン や表象の明瞭性,それを結合し比較する能力,す トは,人間が自分の本性たる惰性と物質の抵抗を ことができないのだろうか. 「人間は,あらゆる 自分の概念と表象を,全宇宙が身体を媒介にして なわち我々が思考能力と呼ぶものは,徹頭徹尾, 圧倒的に支配し征服するところに,人間の価値を 人間身体の物質的性状に依存するものであった・ 認める・自然的存在としての人間は,物質的惰性 「人間は,宇宙が彼のうちに生ぜしめる印象と感 を克服して理性的認識を,感性的誘惑を拒否して 動を,自分の存在の可視的部分たる身体を通し 道徳的行動を確保しなければならない.宇宙にお て,また,それらの物質が,自分のうちに住む不 可視的な精神に外的対象の最初の概念を印象づけ 知と非理性との間をなす中間層であり,太陽系に るのに役立つのみでなく,内面的行為においても これらの概念を結合し,要するに思考するにも欠 おける地球の物理的位置からして感性と理性の相 克は不可避のものである.人間は,物理的性状に いて人間に与えられた座標からして,人間は,叡 くことのできない身体を通して受入れるように創 おいても道徳的性状においても, 「弱さと力の間 られているΩ。).」カントは,この言葉にみられる の危険な中間点」である. 「地球は,そして恐ら ごとく,精神と物体(身体)の二元論的系譜の中 く火星もまた,その危険な中央路に位置し,感性 的刺戟の誘惑が精神の主権に抗し,迷誤へ導く強 にありながら,力学的見地に立っていたから,精 神の身体への依存ないし理性の物質への依存の因 果性を否定できなかった.従って,彼が人間存在 の独自の意義と価値,人間の尊厳性を理性に見い い力を存しているのである(3D.」かくして人間の 自然からの自律性の証拠は,感性的衝動に理性的 精神が打ち勝つことによってのみ示されるのであ ださなければならないのは,感性と理性の相克の った. 状況においてであった. <6> 以上みてきたようにカγトは,デカルト 人間本性の物質的構造は,精神的能力の惰性を 的に心身の二元論的分離の立場に立ちはしたもの 生む.理性がこの状態に抵抗し,惰性から脱出す の,精神と身体の力学的因果論的関係に説明の比 る努力的状態が継続されないならば,人間は,感 重をかけていた、人間を身体的存在と精神的存在 明珍:カント研究 覚書1−a 17 の二義性からとらえながらも,機会原因論の方向 と人間との原契約を開示した.そこに描かれた自 をとることなく,精神の身体に対する因果論的依 然主義的人間像には,感性的一叡知的存在という 存という物理的関係が根底におかれていた・人間 人間についての原初的命題が含まれていたのであ の精神的能力が「分別ある男性的能力(32)」に到 る. 達するのは,人間の身体が完全に形成され,身体 繊維が強固性と持続性を得たときである,とする カントの説明もその間の事情を物語っている・身 体的条件は,全くのところ物質的なものであるか ら,宇宙の機械論的法則性の支配下にあり,精神 的なものは身体的なものに依存せざるを得ないゆ えに,物理的影響から全く自由ではあり得ないの である.『天界自然史』の人間像は,そのような (ローa)から(1−b)へ カント哲学の問題史的アンソ・ジーを編むにあ たり,私は,『天界自然史』を原点に選んだ.「視野 の総体的な広さ,構想の深さと透徹さにかけては, 『天界自然史』は,カγトの後期の諸著作によっ て決して凌駕されることがないほどである(1)。」 唯物論への傾斜の側面を持っていた.しかし同時 r天界自然史』は,科学的傍証に基づく理性的推 に,物質的自然からの自律性の証拠として,理性 と道徳が析出されたことも確かであった。地球人 が,身体的には「粗雑な機械」でありながら,物 論と豊かな青春期の想像力によって完成された宇 理的影響からの脱出に関して「努力的状態」にあ るものとしてとらえていたからである.生存と思 惟における感性と理性,自由と必然性という両極 宙像の書であり,「全天と全天の天(2)」について 書かれた自然哲学であった・この書は,カント哲 学における自然に関する形而上学的な体系学的統 一の信念の発生を告げる書であり, 『純粋理性批 判』における自然認識の「建築学的統一(3⊃」の萌 の往復運動は,すでに『天界自然史』の人間論で 芽を思わせるものであった. 始められていたのである. 『天界自然史』は, 「自然科学を通じて神の認 批判期のカントにおいても,人間は自然の一部 識へ上昇する方法(4)」であった.それは,伝統的 であり,自然法則に規定されるものであった,し かし同時に,「自然の最高の立法は,我々の中に, な自然神学的証明のように自然の事物の偶然性の 中に神をみるのではなく,自然の合法則的運動と すなわち我々の悟性の中にこそ存しなければなら その必然的統一の中に神の所在を解きあかすもの ない(33)」のであった.『天界自然史』が,無限に であった.この考えは,その後,カントみずから 変化し拡大されゆく宇宙を登場させたとき,存在 の手で改訂され,あるいは『純粋理性批判』にお いて論駁される悲運に遭遇したけれども,神概念 の無限性に対して人間が自己を主張し,無限への 道を開くのは理性の力のみであるということへの 主体的反省が喚起されるまでには,まだ多くの時 間が必要であった.自然界に力学的因果原理を貫 徹させるということは,自然を包括的かつ普遍的 な法則性においてとらえる認識論を要請するはず であった.そしてまた,カントが,『天界自然史』 の原点がr天界自然史』にあったことは,否定で ぎないことであった. 更に, 『天界自然史』は,この書に一貫してい る科学的思考様式によって,自然と人間の結節点 を解明しようとした.カγト哲学の主題とも言う べき感性と理性の葛藤のドラマは,すでにこの書 において「行為の責任を正義の法廷において負う 物において開幕していたのである. こ34)」ととらえていた人間を,「彼の自由の自律の 本稿(1−a)は,ほぼ以上の事柄を, 『天界 ために,神聖である道徳法則の主体である(鋤」 自然史』の中に確認してきた.(1−b)は次 と規定するまでには,なお多くの思索を必要とす る、しかし,感性的一理性的・自然的一道徳的と に, 『天界自然史』を書いた同じ年に就職論文と いう二義性の統一としての人間の原初像は,すで 解釈』の考察に進むであろう・この書は, 『天界 してものされた『形而上学的認識の第一原理の新 にr天界自然史』において,自然主義の衣をまと 自然史において確立された自然観に形而上学的洗 ってはいたが,ある程度は描かれていた・人間の 自然からの自律性は,理性と道徳に凝集されるの 錬を与えているように思われる。そして更に,心 であるが,その自律性への道は, 『天界自然史』 律性を意志の自由の面からとらえて,初期カント が予示していたとみることができる(36〕。『天界自 の人間論の内容をより明確にしてくれるように思 然史』は,ニュートンの諸原理に基づいて,自然 われる.いずれの点からみても,その論文は,『天 身問題に一応の決着をつけ,人間の自然からの自 1969−11 18 福島大学教育学部論集 界自然史』の延長線上に当然構想されるべき性質 満であるのは,言うまでもない。 VgL Jaspers, のものであった.本稿(1−b)は,これらの問 Drei Griindeτdes Philosophieτens,PipeτVerlag, 題史的事情を追跡することになるであろう・ S.185 註 本稿におけるカントの引用は,Kant’s gesammelte Schri圭ten,hrsg、v.d.Preussischen Akademie der Wissenschaftenに拠った。ローマ数字は,巻数を示す. 序への註 第一章への註 (1) Gescartes,Les Prirlcipes de la phi losophie, Seconde partie,壱64 (2) NG.d.H. 1,S.315 (3) NG.d.H.,1,S.235 (4) NG.d.H・ 1・S・248 (5)(6)NG d H.,1,S 315 (1)この工程を問題史的連関において追求することが, カントは,勝手な仮説や節度をわきまえ識臆測を絶 私の仕事である.本稿(1−a,b およびH−a, えず警戒する.これらの方法は,無際限な空間に宇宙 b)は,差当り初期力γトを取扱う予定である. 最近われわれは,浜田義文「若きカントの思想形 の消滅やカオスを追求するのには必須の方法である 成』(勁草書房)を手にすることができた・日本にお をもって,あらゆる恣意的虚構を排除した」のである けるカント研究が,い才)ゆる批判期に集中しているな (NG.d.H.,1,S.234)・カントは,常にr空 かで,この労作の独自性と内容の豊かさは,極めて高 中楼閣の建築師」になることを忌避している(丁直u− く評価されよう.私も,この書物から多くの示唆を受 meeinesGeistersehers,H, S、342). が,絶えず理性的信用を失わぬよう,「最大の慎重さ けたことに感謝する. (7)この言葉は,Mutmasslicher An{㎝g der Mensch− ちなみに,私は,「カント形而上学の問題一弁証 論をめぐって』,「カントにおける自然認識の問題』を engeschichte,(W[・S・109)から採った・そこで も,f天界自然史』と同様に,「史料の欠如を補うた 東北哲学会に報告し,本論集18号に「カント形而上学 めに,歴史の過程の中に推測をさしはさむ」ときのや への試論』を載せた. むを得ぬ方法として,理性に根をおく想像の方法がと (2)Allgemeine Naturgeschichte und Theorie des られる. Himmels(以下,NG.d.H.と略記),1,S. (8)NG.d.H.,1,S。229−230ここでは・カγ 221 トによって,無機物と有機的生命体の区別が示されて (3)カントは,この書に,ニュートンは勿論,イギリス いる.しかし,カントも,この区別を越え難い相違と の天文学者ダーラムのトマス・ライト,エドマγド・ して諦めていたわけではないと思われる.因みに,そ ハリー,オクスフォードのジェムズ・ブラッドリ,フ の後の科学の発展は,無機的自然と有機的自然の間の ラγスの天文学者モーペルテユイのほか多数の科学者 溝を次第に埋めて行った・そして特に・化学や生物学 の名前を記しており,彼が広く科学論文を渉猟してい の研究領域において,不変的に固定した有機的自然の たことを物語っている. 硬化した体系は打ち破られて行った・有機的生命体の (4) Engels・Dialektik der Natur・Diez Verlag(19 構造と運動について,カントが未知だとしていたこと 52), S.14 も,不可知を意味していたのではなかった. (5) 「天界自然史』は,1754年6月の『地軸回転論』の (9)例えば,ニュートンがそうであった.Mathemat− 末尾において,r宇宙発生論,すなわち地球の起源, ical Principles of Natural Philosophy,Book皿, 天体の形成,および天体の運動の原因を,ニュートγ み」と予告されていた. general scholiumにおける彼の発言が,そのことを 示している.彼は,デカルトの渦動説では太陽系の説 明が困難であるとし,惑星や彗星は,「確かに引力の (6)Martin,G.,Immanuel Kant,畳30 法則によって,その軌道上に持続するであろうが・し (7)ヤスパースは,カγトの前批判期の著作を,①自然 かし,そもそもの初に軌道の規則正しい位置をとるこ 科学関係のもの ②世界と人聞の認識に関するもの とは,これらの法則によってはできなかった」と述べ ③論理学的・形而上学的なものの三グループに分け る.彼は,前批判期の科学的著作が後期のr批判期思 「太陽,惑星,彗星などのこの上なく美しい組織は・ 想の基礎」となっていることを認めばするが,その具 た」と記している.この本体は,「君なる神,あるい 体的内容には全く触れていない.彼は,「天界自然 は宇宙の支配者」と呼び慣わさるべきだ・と彼は言っ 史』を①に入れているが,私が,そのような分類に不 たのである.ちなみに,ニュートンは,晩年には,ヨ の原理に従って物質の普遍的運動法則から導きだす試 知恵あり力ある本体の配慮と支配からのみ生まれ得 19 明珍:カント研究 覚書1−a 00 NG.d.H.,1,S.334 ⑪ Engels,Diale1【tik der Natur,S.14 (3)NG.d.H.1, カントにおける自然と人間についての進化論的見地 ④ NG.d.H.1, は,その後の著作においても堅持された.「人類史の (5) NG.d.H.1, 臆測的起源』が,その好例である.彼は,そこで創世 (6)NG.d.H.1, ︶ ま ま の 書 原 点 ︵ 傍 ヨ . ま われる. (2) NG.d.H.,1, 詔艶2106551727圏 3 2232322 SSSSSSSS ハネ黙示録の釈義に従事したのである. 紀を「地図」にして,大胆に哲学的「漫遊」を試みる (7×8)NG.d,H.L が・それは・宗教の衣の下で人類史の進化論的考察を (9) NG.d.H、,L 述べたものである. OO NG.d.H.1, ⑫ NG.d.H.,1,S.263 ⑳ Der e…nzig mδgliche Beweisgrund zu einer De− 物質は,外部の力によってのみ動くのではなく,そ monstration des Dasein Gottes,H,S.151 れ自身の内部に力を持ち,運動がその力の発現だとす α⇒ NG.d.H.,L S.332 る考えは,彼の処女論文以来のものである. α3 NG.d.H.L S.334 Q⇒ NG. d.H., 1, S.256 04 NG. d.H. 1,S.333 Gφ Hume,A Treatise of Human Natureの副題. ㈲ NG.d.H,1,S.225 ⑯ ヒュームは,『人性諭』の序文で次のように言う. ⑯αのNG.d.H。L S.332 r実験的方法を用いる哲学が自然の問題に適用されて 鱒Spinoza, Tractus Theologico−politicus,cap. から一世紀もおくれて,精神上の問題に適用されるよ IL sect. うになった」が,「タレスからソクラテスまでを勘定 すると,その時間のへだたりは,ベーコン卿と人間の 09 NG.d H.,1,S.346 ⑳ NG.d H.,1,S.334 学を新しい土台の上にすえる試みを始めた自分たちと カγト以前において自然を時計仕掛けとみなし,神 の間のへだたりに等しい」と.ヒュームは,ニュート を時計師に見たてる通俗的自然哲学者は多くいたらし ンの原理を精神上の主題に導入することによって,自 い.カントの神は,自然の運動を配慮するr世界建築 然から精神へと実験的方法適用の局面転回をはかっ 家」ではなしに,自然の自己原因としての「世界創造 た,と自負したのである. 者」であった. 血◎ NG.d.H.レ1,S.262,336 の Der einzig mδgliche Beweisgrund zu einer De・ なお上記註(9)参照. monstration des Dasein Gottesの結びの言葉、 ⑳ NG.d.H.,1,S.321 鱒 NG.d.H.,1,S.264,266 の Raymund Schmidt,Die drei Kritiken,S.4 ¢9 Prlncipiorum priorum cognitionis metaphysicae novadilucidatio,H,S.410 の a.a.0. S.415 釦) a.a.0.,S.411 の NG.d。H. 1,S.223,332 ㈱ NG.d.H. 1,S.265 幽NG。d.H. 1,S.308 20 NG.d。H. 1.S.338 ⑳ Der einzig mδgliche Beweisgrund zu einer De・ monstratlon des Dasein Gottes,H,S.121 翰 a. a.0., S.110 Anm, 第二章への註 7(畠中訳 岩波文庫 上123頁) 第三章への註 (1)Metaphysische Anfangsgr廿nde der Naturwissen− schaft,r『, S.467 (2) Gedanken von der wahren Sch乞tzung der le・ bendige Kr互fte,L S.31 (3) Engels,Dialektik der Natur,S.18 (4) Vgl.Cassirer, Philosophie der Aufklarung, S。111−114 (5)カントは,彼の詩をr天界自然史』の論女中に六度 も引用している,そのほかにも,スイスのアルブレヒ ト・フォン・ハラー,イギリスのジョゼフ・アディソ ンなどの詩も引用されているところがらみて,彼の文 〈1) NG.d.H.,1,S.221 キントが「天界自然史』において・無神論者ないし 学への関心のほどが知られる.「天界自然史』には・ 冒漬的哲学者として名をあげているのはデモクリトス りすら感じられるのは,そのことと無関係ではあるま やエピクロスのようなギリシャの自然学者だけであ い. 彼の宗教的敬虔主義と併せて,・マγティシズムの香 る.コペルニクスやガリレイ迫害事情には触れていな (6) Versuch e…nigeτ Betrachtungen Uber ben Opti・ いが,カントの神の真理の無謬性への確信は,彼の育 mismus,H,S.33−35 つた宗教的雰囲気からして体質的なものであったと思 (7) NG.d.H.,1,S.34 20 福島大学教育学部論集 1969−1i (8)むしろ彼は,自然に対して深い賛美の言葉を隠所に 醐NG.d.H.1,S.355 呈していた.『実践理性批判」の末尾の文を思わせる 次の一文は,やはり「天界自然史』の結びの言葉とさ ㈲虜8NG。d.H.1,S.357 ⑳ NG.d.H.1,S.366 れているものである.「晴夜の星ちりばめる天空の景 ㊦◎ NG.d.H.1,S.356 観は,ただ高貴なる心のみが感じ得るある種の悦びを ⑳ NG.d.H.L S.566 舩 NG.d.H.1,S.356 与える.自然のあまねき静けさと感能のやすらぎとの うちにあって,不死の精神の隠された認識能力は,名 鋤 Prolegomena zu einer jeden k丘nftigen Meta− 状し難き言葉を語り,ただ感ぜられはするが,しかし 述べられ難き,解し得ぬ想念を与えるのである.」 physik,W, S、319 NG.d.H.,S.318 NG.d.H.,S.354 ⑳ NG.d.H.,S.351 02 NG.d.H.,S.358 鱒 Kritik der praktischen Vemunft,V,S.87 (9) β⇒ NG.d.H。,1,S.366 鮒 カントは,哲学の問題を,次の四つの問いに帰着さ α① せた。①私は,何を知ることができるか.②私は,何 をなすべきか.③私は,何を望んだらよいか④人間と σ3 NG.d・H.,S.360(傍点原書のまま) ⑳ NG.d.H.,S.359(傍点原書のまま) は何か(VgL Logik、Einleitung,IX,S.25).ヵ ㈹ NG.d.H.,S.365 ことを指摘した.しかも,彼は,シュトイトリγ宛の ⑯ NG. d、H.,S.359 手紙の中でこの問を繰返したうえで,④については, ⑬ NG.d.H.,S.359−360 「人間学,それについて私は,二十年以上も大学で毎 カント当時の天文学の知識によれば,太陽をめぐる 年講義してきた」と述べている(Vgl.XI,S、429). 惑星は,水星,金星,地球,火星,木星,土星の六つ 本稿がいずれ更に人間の問題を追求するとき,④に答 だけであった. える人間学をカントは書かなかったという一般的通説 Oβ NG. d.H.,S.355 を斥け,彼が講義し出版した「人間学』を原理的に読 α9 無機的自然と有機的自然との間の溝が埋められるた みほぐす必要がでてくるであろう. めには,カγトが太陽系の永遠性に対する攻撃を加え たと同質の攻撃が種の不変性に加えられなけれなけれ ントはすべての問いが,最後の人聞の問題に帰着する (1−a)から(1−b)ヘ……への註 (1) Casslrer,Kants Leben und Lehre, S・34 ばならなかった.ダーウィンの進化論にいたるまで, (2) NG.d.H.,1,S.247f. 化学,生物学,解剖学,生理学の発達が必要であっ た.それらは,すべてカント以後の事件に属してい 原文ではalle Himmel und aller Himmel Him− る. (3)経験的で偶然的な意図にあって自然の多様化を秩序 ⑳ NG.d.H.,1,S.355 化するものは,「技術的統一」であり,ア・プリオリな Engels,Dialektik der Natur・S・21 ⑳ 理念によって構想される自然統一がこれである.VgL り NG.d.H.,1,S.361 Kriしik der reinen Vemunft,A833=B861 melとなっている. 偽 NG.d.H.,1,S.357 (4) Der einzig mδgliche Beweisgrund zu einer De’ ㈱ NG.d.H,.1,S.358 monstration des Dase…n Gottes,H,S.68 KANT STUDY memorand.um I−a by Shoji Myochin The main purpose of this study will be to give an outline of the problem− historical development in Kant’s philosophy. For this purpose,this paper,to begin with,will be concerned with the early Kant’s philosophy of nature. This memorandum(1−a)will discuss some problems in“Allgemeine Naturgeschichte u.Theorie des Himmels”(1755). The scientific essay contains a metaphysical description of the whole universe, God and man.Nature,God and man are the important themes in the later Kant・s philosophy・and it will be explained in this paper that the propositions on these themes in the essay make the starting point of Kant7s philosophy in his critical period.