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明治29年大洪水 琵琶湖の本当の面積

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明治29年大洪水 琵琶湖の本当の面積
トピック6-2
明治29年大洪水
琵琶湖には多くの河川が流入するが、流
れ出る自然の河川は瀬田川のみである。従
って、大雨が降り、一旦水位が上昇すると、元
に戻るのに長期間を要する。このため、琵琶
湖周辺の人々は、古くから琵琶湖の浸水被
害に悩まされてきた。江戸時代には、何度も
瀬田川の浚渫を幕府に願い出たが、下流域
の反対や軍事上の理由などにより、容易に
は認められず、しじみ取りにことよせて川浚
いをするというような大変な苦労があった。
琵琶湖流域において記録に残る過去最
大の洪水は、明治29年(1896年)9月の大洪
水である。このとき琵琶湖水位は+3.76m
を記録した。当時の琵琶湖水位は、常水位(
通常の水位)が現在よりも高く、+0.83mで
あったが、それを考慮しても相当な水位上
昇である。
この年は非常に雨の多い年であり、
1月か
ら8月までに1,637mmと平年の1年分に相当
する雨が降っていた。8月30日時点では+
1.42mと、常水位を60cm上回る高水位の状
態であったが、そこへ台風が近畿地方を北
上し、また、9月4日からは、低気圧が通過す
るとともに寒冷前線が停滞し、長期間にわ
たる降雨となった。特に7日には低気圧と南
方海上にある台風の影響で前線の活動が
非常に活発となり、滋賀県を中心とする豪雨
となった。
7日は、早朝より雷を伴った豪雨となり、彦
根では日雨量597mm、24時間最大雨量は
という驚異的な
684mm(7日6時∼8日6時)
雨量を記録した。このときの様子を、元彦根
「雨の降り方の強烈
測候所長関和男氏は、
なことは、丁度ロープのような太さの雨で、
その上雷雨を伴い、実に凄惨な光景であっ
た。」と述べている。その後も、8日162mm、
9日81mm、10日107mmと降雨が続いた。
この雨により琵琶湖水位は急上昇し、7日
6時には+1.68mであったのが、同18時には
+1.98m、8日6時には+2.68m、同18時に
は+2.91m、
9日6時には+3.10mと、遂に3
mを越え、11日6時には+3.53mとなった。
さらに、11日夜には台風が近畿地方に上
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陸し、その影響で、午後11時に+4.09mを記
録している。
(記録としては、最高水位は+
3.76mとされているが、時間単位で見ると、
実際にはこうした水位に到達している。)
琵琶湖周辺の稲田はすべて湖水となり、村
落は水に没し、市街は舟を浮かべて航行し
ていた。
この洪水による滋賀県内の被害は、
「滋
賀県災害誌」によると、死者29人、行方不明
5人、流出家屋1,749棟、全壊家屋1,251棟、
半壊家屋6,136棟、破損家屋26,365棟、
浸水家屋(床上・床下)58,391棟、浸水
田約30万反という甚大なものとなった。
この洪水による被害のため、多くの人
々が海外に移住することを余儀なくされ
ている。また、この洪水を機会として、
「琵琶湖治水会」が組織され、その後琵
琶湖治水の推進のため様々な活動が行わ
れた。
この明治29年大洪水は、琵琶湖において
、度重なる洪水がいかに甚大な被害を招く
かということを如実にものがたっている
。また、この洪水が起きる直前の明治29
年3月に、淀川水系の抜本的治水対策とし
て淀川改良工事の計画が決定されていた
。この洪水は、その計画が想定していた
洪水の規模を超えるものであったが、計
画の見直しの動きはないまま施行され、
明治38年に南郷洗堰が設置、明治44年に
淀川改良工事は終了した。
<参考文献:滋賀県災害誌>
(水政課
トピック6-3
琵琶湖の
琵琶湖
の本当の面積
写真T6-2-1 当時の近江八幡市内の光景
琵琶湖の面積は、内湖の面積を繰り入れ
るかどうかによって、
また測定時の琵琶湖水
位によっても大きく変わる。琵琶湖水位が
大きく低下する以前では、内湖を含む琵琶
湖面積は721.46(滋賀水試)∼717.2km(
、内湖を除く面積は694.3(神戸地
内務省)
1924)∼684.7km(内務省)
と推
方気象台,
定されている。
一方、瀬田川洗堰が1905(明治38)年に
設置されて以降、琵琶湖水位は長期的に低
下傾向にある。琵琶湖の平均水位は、100
年間で約90cm低下したが、90cmの低下に
相当する面積減少は約6kmとなる。
1961(昭和36)年以降、
日本の湖の面積
が国土地理院から毎年公表されるようにな
り、琵 琶 湖 面 積 は 1 9 6 0( 昭 和 3 5 )年 の
694.5km から2006年の670.25kmまで40
数年間で24km以上も減少した。おもな理由
は1943∼1971年にかけて内湖を干拓し
たためで、干拓の総面積は25.2kmにのぼっ
た 。また 平 成 元 年 から は、西 の 湖 の 面 積
2.19km が琵琶湖面積とは別に表示される
ようになり、琵琶湖の面積はさらに減少し
た。大津市や守山市の市街地の形成、湖岸
堤の建設などによる埋め立てによっても琵
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写真T6-2-2
行)付図
琵琶湖治水沿革誌(琵琶湖治水会発
琶湖面積は減少し、記録に残るかぎりでも1
km 以上が埋め立てられた。 河川改修工事
により流入河川から運ばれる土砂量が減少
したり、台風や季節風による波浪の影響で、
湖岸の形状が変化することによっても、琵
琶湖の面積は変わってくる。したがって、琵
琶湖の面積はこれからも多少変化し、おそ
らく減少方向に向かうと思われる。
なお北湖および南湖の面積はそれぞれ
1983)
とされてい
621.6km、57.9km(北村,
る。これは湖岸の埋め立てがほとんど行わ
れていなかった1955年の値をもとにしてい
る。そのため南湖について1998年の地形
図をもとに再計算が行わ れ、南湖面積 は
54.5km、矢橋人工島などを除く水面面積は
51.5kmと修正された(芳賀,
2006)。
ところで、琵琶湖は近畿1400万人の水資
源として重要な役割を果たしている。水の
管理という観点からは、政策的に一貫した
数値の面積が求められる。そのため琵琶湖
の 面積 は、今後も政策的 な数値としての
674kmと、それぞれの時点での推定値とが
併用されることとなるだろう。
(琵琶湖・環境科学研究センター
西野麻知子)
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