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ユネスコ 60 周年を迎えて思うこと - ACCU | 公益財団法人ユネスコ
1 1Ìi`Ê - "Ê/ÊÈä >ÌÃÊ`ÕV>Ì>]Ê-ViÌvVÊ>`Ê ÕÌÕÀ>Ê"À}>â>ÌÊ1 ÊÌÃÊÈäÌ Ê>ÛiÀÃ>ÀÞ - "® ਡ੫ᇦਗ࣋ߔݨۋဦ ) ࠲࡙ݛʾʥʑʋ *!71 ୈ༃ ユネスコ 60 周年を迎えて思うこと 松浦 晃一郎 ユネスコ事務局長 本年11月16日、ユネスコ本 ろんなところで起こっており、こ 部においてユネスコ設立60周 れからも引き続き起こる懸念が 年の行事を盛大に行うことに あります。したがって、60年前、 しています。ユネスコ憲章が 第二次大戦直後に先人達が考 採択されたのが、ちょうど60年 えたユネスコの精神を世界に広 前の1945年11月16日です。採 め戦争を防ぐということは、21 択された場所はロンドンで開 世 紀 初 頭の現 在においても当 かれたユネスコ設立総会の場 てはまります。最近の状況に鑑 においてです。実際にユネス み、大規模なテロ行為を防ぐこ コが20か国の批准を得て発足 ともこの中に入れなければなら したのは、ほぼ1年後の194 6 ないと思います。このような状況 年11月4日ですが、ユネスコで は伝統的に、ユネスコ憲章採 下で、改めてユネスコ憲章の前 10月に行われた第33回ユネスコ総会で松浦氏(中)事務局長再選が決まる。 右は総会の議長 M.ハッサン氏(オマーン) © UNESCO/D.Bijeljac 文を皆でかみしめる必要があり 択の日に設立記念行事を行うことにしてい したユネスコ憲章の前文の文言の後に、 ます。 ます。ユネスコ憲章の前文に「戦争は人の 次のような文言があります。「相互の風習 21世紀初頭にあたって日本の皆さんに 心の中で生まれるものであるから、人の心 と生活を知らないことは、人類の歴史を通 是非お願いしたいことは、ユネスコの進め の中に平和の砦を築かなければならない」 じて世界の諸人民の間に疑惑と不信を起 る教育、文化、科学、コミュニケーションの という文言があります。これはまさにユネ こした共通の原因であり、この疑惑と不信 各分野での国際交流にしっかり参加し、 スコ設立の原点をなしています。 のために諸人民の不一致があまりにもし これらを通じて戦争の原因となる疑惑と 第二次大戦の終わる前から国連と抱き ばしば戦争となった。そのためにユネスコ 不審の根絶に向けて努力してほしいとい 合わせでユネスコ設立運動が起こってお では教育、文化、科学、コミュニケーション うことです。文化や教育の分野における り、国連はヨーロッパでの戦争が終わった での交流を進めて各国の国民の相互理解 ACCUの更なる貢献に期待しています。 直後の1945年6月26日に、アメリカのサン を深 め、戦 争 の原 フランシスコで設立総会が開かれ国連憲 因となる疑 惑と不 章が採択されています。創立者たちの考え 信を根絶しよう」。 方は、国連は政治軍事を扱い、これを通じ これがまさにユネス て第二次大戦のような惨禍を未然に防い コの精神です。 で世界の平和を築こう、またユネスコにつ この6 0 年を顧み いては、直接担当するのは教育、文化、科 て、第三 次 世界大 学、コミュニケーションですが、広く言えば 戦は幸い 起こりま 国連そのものが扱う政治軍事以外の非政 せんでしたが、地域 治、非軍事面での協力を通じて国際平和 紛 争、大 規 模な内 を築くということでした。さきほど引用しま 戦は残 念ながらい 2 ACCUニュース No.352 2005.11 ɘȾȠɣ!ȭȠȞȻɧȠ 1937年山口県出身。59年東 京 大学法学 部中退。61年米国ハヴァフォード大学経済 学部卒。外務省入省後、経済協力局長、北 米局長、外務審議官を経て94年より駐仏 大使、99年11月アジアからの初のユネス コ事務局長(第8代)に就任。2005年11月 から2期目。 2005年5月ナイジェリアのオバサンジョ大 統領のユネスコ本部訪問時、大統領から贈 られた民族衣装を着て談笑する松浦事務局 長(パリユネスコ本部にて)。パリ・ユネスコ 本部を訪れる世界各国からの要人(元首、首 相、大臣、専門機関の責任者、アーティスト 等)の数は多い時で年間300件以上に及ぶこ ともある。 1 1Ìi`Ê - "Ê/ÊÈä >ÌÃÊ`ÕV>Ì>]Ê-ViÌvVÊ>`Ê ÕÌÕÀ>Ê"À}>â>ÌÊ1 ÊÌÃÊÈäÌ Ê>ÛiÀÃ>ÀÞ - "® ユネスコと私 東洋のドンキホーテ物語 千葉 杲弘 国際基督教大学 COE 客員教授 ユネスコと自分について語ることは自 夢が叶う目当てもなく、た 分の人生を語るにも等しい。初めてユネス だひたすらユネスコ勤務の実 コについて耳にしたのは、確か中学の1年 現を祈った第1期は、貧乏で、 のときであった。小学校6年生の夏に終戦 苦しい時代ではあったが、目 を迎え、戦争のない時代がきた喜びに浸 標を持った意義ある時期であ っていたときで、ユネスコの理想はあまり った。まさに若きドンキホー にも新鮮で、また崇高で、子供ながらに感 テであった。この経験をもと 動したことを覚えている。中学2年のとき に、若い人には夢を持ちなさ には、既に仙台をはじめ各地でユネスコ いと言う。夢を持ち、その夢 協会が誕生し、日本のユネスコ加盟に向 を追いかける姿は美しいと。 けた動きが加速していた。多くの国民が 1 9 6 1年から3 1年 間 のユ 路頭に迷い、食糧難、社会不安、自信喪失 ネスコ勤 務 時 代は、世界 の といった大混乱の時代にこのような崇高 Basic education(基礎教育) な動きが始まったことはすばらしいことで の拡充に全力投 球をした時 あった。ある新聞は、日本のユネスコ運動 期であった。19 8 0 年までに を、風車に立ち向かうドンキホーテの猪突 初等教育の就学率を100 %に 猛進ぶりにたとえて揶揄したが、それでも しようとしたカラチプラン、そ 声援してくれた。 の後誕生したアペイド※1とア 今、自分の人 生を振り返る時、自分の ピール※2、ジョムティアン会議 アフガニスタンのバーミヤーンでの視察(2004) (上)野天教室の初等教育のクラス。生徒の年齢はさまざま (下)学校の前で。前列右から2人目が筆者 姿もまさにドンキホーテのイメージに重な という一連の国際的な基礎教育の展開に 多くの学生達がドンキホーテの意志を継 ることが多い。全く歯が立たないと知りつ 直接携わり、また多くの国際舞台で活躍 いで、世界の第一線で活躍するようになっ つ、巨大な目標に向かって突進しては打ち したドンキホーテの面目躍如たる時代であ た。ACCUの識字教育国際協力, 日ユ協の のめされ無力感に陥り、しかし懲りずにま った。大きな目標に立ち向かった躍動感 世界寺子屋運動、ユネスコやJICAのノン・ た立ち上がる自分の生き方は、傍から見る と充足感を満喫した。しかし、世界の全て フォーマル教育等のパートナーとの協力は と滑稽かも知れないが、本人は大真面目 の人に基礎教育を提供しようとする壮大 第3期のドンキホーテの生き甲斐である。 なのである。 な目標はあまりにも大きすぎた。この第2 自分とユネスコとの関わりを3期に分け 期は、世界がこのドンキホーテと同じ夢を ることができる。第1期は、ユネスコに憧 見た時代で、ACCU、日本ユネスコ協会連 れ、必死でユネスコにたどり着く道を模索 盟(日ユ協)、国立教育研究所等の日本 していた時代、第2期は、ユネスコ事務局 の諸機関から貴重な御協力を頂いた。 に勤務した31年間、そして第3期は1991年 東洋のドンキホーテは、老いても平和と から現在に至るユネスコ引退後の人生で EFAの夢を追い続けている。第3期は多く ある。 の若い人材と接した喜びに満ちた時期で、 ȻɊ!ȜȧɌɧ 1957年ICU社会科学科卒、 同大学院教育学研究科修士 課程修了。1961年から31年 間のユネスコ(パリ、バンコ ク)勤務を経て、1991年から 2004年までICU教育学科教 授。現在客員教授。 ※1 アジア太平洋地域教育開発教育 ※2 アジア太平洋地域万人のための教育事業 ACCUニュース No.352 2005.11 3 1 1Ìi`Ê - "Ê/ÊÈä >ÌÃÊ`ÕV>Ì>]Ê-ViÌvVÊ>`Ê ÕÌÕÀ>Ê"À}>â>ÌÊ1 ÊÌÃÊÈäÌ Ê>ÛiÀÃ>ÀÞ - "® ユネスコと私 人類共通の文化遺産の保護は国際社会の任務 愛川 フォール 紀子 ユネスコ文化局顧問 来る11月16日ユネスコ憲章が発効して から60年目を迎えるが、私が1972年にユ ので、ユネスコの2つの役割を同時に達成 無形文化遺産保護の活動を19 92年から させる事ができる。 再興し、条約作成を1999年から採択まで ネスコ本部の職員になってから、30年間ス 私がユネスコに入った年、1972年の総 ※1 担当していたが、執行委員会や総会で加 タッフとして、また2003年以降は文化局顧 会では「世界遺産条約」 が満場一致で 盟国の強い抵抗に遭い、しばしば勇気を 問としてユネスコとの絆を保ってきた。そ 採択された。以降この条約を基盤として 挫かれる思いをした。松浦事務局長の強 の間私は4人の事務局長に仕えた。ユネス 発展した「世界遺産」はユネスコの活動 力な支持と日本政府の資金協力を得て、 コには、知識の進歩や世界共通の問題解 のf l a g sh ipとなった。この条約で最も画 この概念が少しずつ加盟国に受け入れら 決を目的として加盟国が知識や経験を交 期的な点は、 「顕著で普遍的価値を有す れていったのは、国連2005年ワールドサミ 換し合う「国際知的協力」と、 途上国に る文化遺産および自然遺産を人類共通の ットの結果に例を見るように、人権擁護が 対して経済支援や技術援助を与える「国 遺産とみなし、その保護に参加する事は 国家レベルを超えて国際社会の責任とみ 際技術協力」の二つの役割がある。各事 なすことが受け入れられ始めたことに共 務局長はこの二つの役割のバランスに、 通点を見る。 其々の時代背景と各自のbackgroundを反 21世紀のユネスコに期待することは、 映させてきた。R. マウー氏(1962-74)は前 引き続き活 動の焦 点を途 上国に絞り、 者を重視し、A. M. ムボウ氏(1974-87)は 「国際知的協力」の場を提供しながら、 後者を重視した。 F. マヨール氏(1987-99) 「国際技術協力」の触発的役割を果たす は前任者が余りにも国際技術協力に重点 ことである。特にユネスコ主導で中国、イ を置き過ぎた事からバランスを取り戻そう ンド等先進国に移行しつつある国も含め と試みた上に「平和の文化」の構築を唱え て、 「寛容」や「非暴力」等の道徳的価値 を世界中に広めるキャンペーンを張った。 2002年8月第16回パルニュ・ドキュメンタリー・ フィルム・フェスティバルの表彰式にて(エストニア) た途上国間の知識の交流や共通の問題 国際社会の任務」 とし、 1954年のハーグ条 進する事。先進国途上国間の協力では、 ※2 解決を目指して「知的技術的協力」を促 これは私には宗教色すら感じられた。優 約 を機に培われた「人類共通の文化遺 ユネスコは先進国の知識や技術や経済力 れたバランス感覚の持ち主として知られる 産」の概念を更に一歩踏み込んだ「国際 を動員して、その技術協力や資金援助が 現事務局長の松浦氏(1999 -)は条約や勧 協力体制」 を確立した事であろう。 新植民地主義に陥ることなく、最も有効 告等の国際法規作成に力を入れた。2005 この時点で無形文化遺産が条約に含ま 年第33回総会で採択された「文化の多様 れず、その保護条約作成作業は1973年に 性」や「反ドーピング」に関する条約を含 始まったにもかかわらず採択を2003年ま めて10の国際法規が松浦事務局長第一期 で待たなければならなかったのは、民族 中に採択された。国際法規作成は作成の のidentityのシンボルを形成している無形 準備過程で行われる意見交換や国際専門 文化遺産は、多民族国家である大多数の 家会議を通して「国際知的協力」が促進 ユネスコ加盟国の場合、国際社会がその され、法規が発効された後は法規を実施 保護保存に乗り出して来ることに抵抗が するために「国際技術協力」が強化される 感じられたことに因すると思われる。私は に途上国に伝達されるように導くことで あろう。 ※1 世界の文化遺産および自然遺産の保護に関する条約 ※2 武力紛争の際の文化財の保護のための条約 4 ACCUニュース No.352 2005.11 ȜȞȥɩ!ɏȣĜɥ!Ɉɤȭ 1972年から2002年にかけて ユネスコ本部文化局勤務。無 形文化遺産保護課初代課長、 後に担当部長として、無形遺 産の保護 活動を発展させ条 約作成に主導的役割を果た す。現在、神田外語大学国際 言 語文化 学 科 教 授。政 策研 究大学院大学客員教授。 1 1Ìi`Ê - "Ê/ÊÈä >ÌÃÊ`ÕV>Ì>]Ê-ViÌvVÊ>`Ê ÕÌÕÀ>Ê"À}>â>ÌÊ1 ÊÌÃÊÈäÌ Ê>ÛiÀÃ>ÀÞ - "® ユネスコと私 「万人のための教育」のさらなる推進を T. M. Sakya ネパール学校外教育リソースセンター代表 19 4 5 年の成立以来、今も におけるその分野はしばしば なお発展途上国の教育はユ 無視されてきた。このことの理 ネスコの重要な仕事のひとつ 解は開発途 上国の基 礎 教育 である。1990年タイのジョム を考えるとき不可欠である。 ティアンで、2000年セネガル 2003年の教育省のレポート のダカールで 他の国 際的 機 によるとネパールでの初等教 関と共に開催した「万人のた 育就学率は83%に達するが、1 めの教育」(EFA)世界会議で 年生のうち50.8%のみが2年生 中心的役割を担い、EFAを重 に進 み、5 年 生で卒 業するも 視している。しかし、残念な のの割合はさらにその5 0 %に がらEFAプログラムは期待通 1986年ユネスコ代表として会議に参加(タイ) りには進んでいない。 すぎない。このようにして育つ の財源をとりあう問題もある。別々に考え 多くの子どもたちは読み書きを習得しな ユネスコの統計によると、1990年、世界 ると子どもたちを両親やコミュニティから いまま成人になる。ネパール教育省も国 には8億2200万の非識字者と1億500万人 引き離してしまいかねない。このままでは 際機関、世界銀行もこのことへの関心が の学校に行っていない子どもたちがいた。 結果としてどちらのプログラムも成功は難 低い。 2000年でも依然として8億6200万人の非 しいと思われる。 識字者と1億30 0 0万人の子どもたちがい EFAと教育の民主化は同一のことであ 私が教育分野でユネスコに期待するの ※ はパリ本部、バンコクやネパールのオフィ る。その多くは女性と発展途上国のスラム る。ローサ・マリア・トレス は、発展途上 スはこの現状についての意識を提起して や山岳地帯や島などに住む人々である。 国のEFAプログラムを評価した後で、こう ほしい、スタッフもコンサルタントも一丸と 現在、 世界銀行がFa s t Tr a c k P r o - 述べている。 「教育の民主化は、良質の教 なってこれまで以上にE FAに取り組み、 gram、 国連開発計画(U NDP)がMille- 育とトレーニング、最低限の生活状況を確 的確に状況を伝えてほしいということであ nnium Development Goalsを開始してい 保すること、また人がいろいろな形で学ぶ る。そして、そのことがマクロ、ミクロの両 る。どちらもE FAよりも学校の初等教育 環境、関係、実践を高めることを含む。」 方のレベルで、国内の現実のデータや事 を優先させている。私には彼らが、子ども そして、 「 E FAは年齢に関係なく、全ての 例の活用につながると信じている。 が未来であるなら若者と大人は発展途上 人々、子ども、青年、成人への幅広い視野 国の現在であるということを認めていない を持つべきである。」と明言する。 ように思える。彼らは、貧困の軽減を目標 私は1977年から95年までユネスコで働 としているが、人々が自分たちの力で生活 き、A PPE A Lのコーディネーターとして勤 を改善することができない限り、貧困の軽 務した。いわゆる南北の差は大きく、私の 減は不可能である。貧困、無学、搾取の 経験から言うと、教育分野の調査と発展 悪循環から解放される為には自分たちで の仕事は常に北側、特に英語を話す国々 行動を起こさなければならない。また、子 が主導していた。自分たちの母語で経験 どもの教育と成人の教育が限られた国家 や成果を発表してきたにも関わらず、南側 (訳ACCU) U/!N/!ʍʅʼ ユネスコのアジア太平洋地域 中央事務所(PROAP)で教育 アドバイザーを務め、その間 19 8 7年から実 施された「ア ジア太平洋地域万人のための 教育事業(APPEAL)」の初代 コーディネーター。ユネスコ 退職後ネパール学校外教育リ ソースセンター(NR C-NF E) を設立した。 ※ エクアドルの教育・文化大臣(2003) ACCUニュース No.352 2005.11 5