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松 村 武 阻 - 日本宗教学会
神話の説明性の問題 紳話の説明性の間越 に於て、 松 村 武 阻 HistOrica−筐eロCe︶の となし、︵1︶ジェー・フィスク︵lObnFi浄e︶が、その著﹃神話及び紳話作者﹄︵My旨sa已My苧Mak慧︶ 木事の、承認せられた説明である。﹄ 持し、 ﹃神話は、或る自然現象、忘れられ若くは知られざる人間的起原の或る事物、又は持 ル・ゴム︵G・L・GOmme︶がその著﹃歴史科撃としての民俗畢﹄︵.2k・−OreaSan 見解の喰蓬ひの産物に過ぎないからである。神話は本質的に説明的なものであるとする見方−例へばジー・エ ∵ 宗教畢・神話畢界で餞りに疎渾に且つイージー・ゴーイングに取扱はれ過ぎてゐる問 明性の問題がある。この間題は主として竺一つの考察封象を含んでゐる。﹃神話に於け 一であり、﹃説明性の意味・性質﹄がその二である。 ﹃神話に於ける説明性の有無﹄の問題は、自分にはあ妄り興味がない。なぜならこれ JOOJ 神話の説明性の問題 二 ﹃神話は、その起原に於て、非文化的心意にょる或る自然現象の説明である。それは誓喩雷で.もなければ、容 儀的象徴でもない。⋮︰・それは一の詮明である。﹄ となし、︵2︶更にエフ・ピー・ジュグォンズ︵F・B・JeくOnS︶が、氏は茸に神話に於ける説明性をその本質と敬 する鐸々たる畢徒の一人であると云へるが、その著﹃早期宗教に於ける紳の観念﹄︵TheIdeaOfG乱iロEar−y Re−i乳OnS︶に於て、 ﹃神話は、何故に紳がしか属したところを為したかの理由として、共通意識によつて見出され且つ採持された 理由から成り立つてゐる。若くは本原的にさうした理由から成り立ってゐた。この意味に於て神話は推原論 的︵aetiO−○乳ca−︶なものである。﹄ となし、また、 ﹃神話は推原論的である。その目的は、蟹民にとつて説明を要求するやうに思はれるすべてのものに理由を輿 へ起原を説明するところに存してゐる。﹄ Re−i腎ロ︶に於て、神話の本質に詮明 が、その著﹃テミス=希粗末教の社食的起原の となした如き見方も二3︶はた之と封眈的に、神話の本質に閲する限りに於ては詮明性の存在を否定する見方− −例へばジェー・1−・ハリスン女史︵JaneE−−enHa鼠s。n︶ 研究﹄︵Themis、ASt已yOfthe許cia−Ori乳nsOfGrrek ることを強く拒否して、 ﹃御嵩は推原論駒であることに鵜まるものでも怒く、また磯原簡約であることを必要とするものでもない。耐 JOOβ 話の目的は最初に或る理由を輿へることではない。さうした観念は、究明に傾倒し記ruヨCO習OSC巧eCau sasに生きてゐる有閑にしーて執芯な探究者を原始人に見たところのかの古い合理主義者の迷誤の一部であ る。﹄︵4︶ 神話の説明性の間遁 ria︶から 説してゐる。氏はブラウ・スミス 自分はこの問題を擦過して、専ら﹃神話に於ける説 ︵Emst GrO∽紹︶ は、その著﹃垂術 ︵Bl・〇亡gh・Smyth︶の﹃ヴィクトリアの原任士族﹄︵TheAbOrigins Ofくi の始原﹄︵DieA已旨駕d巧K亡ヒ玩t︶に於て、これに類同した見解を披涯して、神話に於ける詮明の科挙性を力 ォンズの見方の如きは、その一例である。︵も︶更にエルンスト・グローセ が、その想像は、決して政志なものではない。まさに科挙的想像と呼び得るところのものであるとなしたジュグ 畢徒の多くは、神話に於ける詮明性を﹃料率的﹄であると見なしてゐる。神話の詮明は想像に基くものである 界は認識不足のために平然として之を各ヒ或る一視角からのみ眺めて、それで満足してゐるのが茸情である。 神話に於ける説明性の意味・本質の問題は、説明性の有無の問題と異って太だ複雑多義である。が、従来の畢 〓 明性の意味・本質﹄を考察問題として採り上げる。 ﹃特定範噂﹄と﹃垂範噂﹄との混同の産果に過ぎぬ。かく 性を喪失するといふに過ぎない。神話に於ける詮明性の有無に関する見解の封舵性は、畢寛するに神話に於ける となした如き見方も、神話を或る範噴に限定する限りに於ては正しく、而して同時に該筋噴を超えたときに安首 JO〃β 神託の誼明性の問題 ﹃最初ペリカン鳥はすべて黒色をしてゐた。が、或る日一羽のペサカンが女のために欺かれたのを怒って、人 間と決闘しょうと決心した。その準備として饉を白く塗り始めたが、︵オーストラリアの土人は戟岡に出か けるに発つて饅を塗彩する賓修む有する.。︶.塗彩年ばにして、他のペリカン鳥が訪ねて釆た。そし七草白牛 黒の姿を見て怪鳥と思ひ誤り、瞬の一撃でこれを殺してしまつた。今まではすべてのペリカン鳥ほ眞異な色 をしてゐたが、それ以来黒と白との交雑した羽色な有するやうになつた。﹄ といふ説話を奉げて、︵6︶ ﹃これは茸に原始的及動物畢上の説明に他ならぬ。一照準術的説明の特色は、その原因の未だ知られてゐない 或るノ一現象を、その原周の眈に知られてゐる現象や或る種目に組み入れることである。而して七わオー一スー ラリアの説話は精確に此の原理に合致してゐる。﹄︵7︶ となし、更にまたブッシュマン族の一個の星辰神話−ブッシュマン族の組先である一人の女性が、人々をして彼 等の家族を見出すてとの出来るやうな光を作らうと思って、輝いてゐる熱衣を茎中に投げ上げると、その火の粉 が星となつたといふ紳話を塞げて、 ﹃ブッシュマン族が此の子供らしい説話を案出した観想の過程は、その以後の時代に於て極めて重大な諸費見 及び深刻な洞察に人類を誘導したところのものと、原則に於ては同一である。﹄︵$︶ となし、Lれ等の神話を単に客想的と断じ去るのは、高級文化民族が、﹃茎想的﹄なる概念が異なつた民族の間に 於てその意味の廣狭の太だしく異ってゐる革質を忘却tてゐるために過ぎす、この種の説話は寧ろ科挙的である JO∂4 と主張してゐる。 ﹃固よりこの談話は野蟹人としては程度の高い方の観想を代表するもので、未閑人の問では普通に見出されな 慧と力とを輿へたのであらうかと云つた。ベットはこの事茸を奉げて、 うして出来るかを知らない。昨日まで辛が無かった野原が今日はもう青々としてゐるq誰が大地にものを産む智 誰が雲を逢ったか。⋮:■誰が風を吹かせたり荒れ廻らせたりして自分たちを苦しめるのか。・自分はまだ樹果がど に起る様々の疑問を解かうとして未だそれが出来ないでゐる。誰が星を造ったか。何が星を支へてゐるか。︰⋮ 利加の次行者アルブルーセに語って、−1自分は十二年が聞家畜を飼ってゐるが、日暮れに岩の上に坐つて心中 づけとして、一旗行者tヵフィル族との聞に行はれた問答を鮎出してゐる。カフィル族のセケサといふ男が阿弗 がおのれを繰る自然現象を訟表説明するために働かした幻奇な想像の産物であるとなし、而して這般の見解の基 ヘンサイ﹂べッ、ト︵He胃y謬tt︶はその著N亡r琵yRhymesandTa−esの申で﹂自然神話を目して原始人 否定することは出来ないであらう.。 紳串の詮明性の性質・意味に関するかうした見方が∵詮鳴性の一部を把捏してゐるといふことは、何人も之を 如ゐ い思索的・懐疑的な熊度である。然し敬遠の初期段階に於てかうした探求心があらゆる謎を解くために怪奇 な説明を企てることは明かである。﹄ と主張してゐる。︵9︶吾人は自然民族の心性が高度の神秘性から成や立つこ上を力詮するレゲィ・ブリエールの 見解に賞せすして、︵空この見解を排挺し、自然民族が可な牒の程度にcaトsa吉に瀾心上理解とを有するこ 紳話の説明性の問題 ≡瓦 神話の説明性の問題 六 とを主張するダブリユー・シュミットの見解に賛同するものである。︵11﹀賓際自然民族の茸生活を注疏するもの 然民族がよく経験する心理である。だから神話に於ける説明に若干程度の知 は、彼等がcausa−ityに思惟.・行動の基礎を置いてゐるととを誇示する幾多の事例を見出す。ベットが奉げた事 例の如きは、程度の差こそあれ、自l 力的探求に基づく科挙性を認めることは、決して事茸を裏切るものではない。 然しかうした見方は、或る保件の下にのみ安常であるに過ぎぬ。而してジエグォンズやグロ−セは、その﹃或 る保件﹄の存在を見逃してゐる。そこに吾人の不満があり、同時に問題の未解決的部分が凍る。 問題を或る範噂の神話に局限してもい神話に於ける詮明性は必すしも知力的探求の性質を帝ひた科学的たもの であるとは限らない。自然界・人界の事象は決していつも常態を持繚するものではない。時には異常の形相を呈 する。而してさうした異襲的事象によつて刺衝せられるものは、民衆の知力ではなくて感情である。彼等は這般 の異轡に封しては、落ちつき沸つた心的紫慶で知的にその謎を解かうと試みる傲裕はない。彼等は恐怖し狼狽し、 自ら奈何ともすることが出来ないで、何等の拶助を求めようとする。援助の求められるところは、多くの場合祀 倉集囲の尋常一般の成員以上に力能を有すと信ぜられた巫人でなくてはならぬ。而して巫人はさうした場合神懸 りの状態に入つて、這般の異欒の原因・起原を民衆に俸へる。そこにも亦神話聾生の大きな一因がある。 ジュグォンズはかうした事情を全く見近してゐる。氏は言ふ、もし民衆の注意を据へる事象が、社食集囲の成 員に行動を強ゆるものでなくて、その好奇心を刺衝し思考をそそるものである場合には、その疑問に封して思考 酌科挙約な説明の性質を帯びた答が生れる。それが即ち神話である。之に反して若し属衆の注意を捉へるものが JOOβ 一 これは一見聴明な見解のやうに 或る災厄であり、救済を要求するものである場合には、武舎集圏は所躊と供犠とを以て紳に近づく。その日的は 葺際的であつて思考的ではない。かくてこの場合には神話は教生しないと。︵響 事茸である。 宗教的行焉に出づる前に先づ巫人に趨る必要がある。これは吾人の畢な推測ではない。蜜際に行はれた厳然たる に琴つくに先立って、いかなる和が這般の災厄を降したかを知らなくてはならぬ。かくして彼等は所稽や供犠の るところむ見出さなくては、﹃新宿と供犠とを以て紳に近づく﹄ことすら不可能である場合が少くない。彼等は紳 た民衆は塵とその原因を探り出すことにょつて通常の封策を講じょヶと考へる。いな、先づその災厄の由つて来 ば、這般の異常事は、勿論神話聾生の機縁とはならぬであらう。しかし路は他にも通じてゐる。災厄に愕き恐れ の考へたやうに一本路ではない。もしそれが﹃所躊と供犠とを以て紳に近づく﹄といふ一本路であるとするなら はなくて行動であらう。神話的思考ではなくて呪術宗教的行馬で挙らう。しかし這般の行焉が何であるかは、氏 何等かの救済を要する底の災厄である場合、民衆が焉すところは、なるほどジェヴオンズが云ふやうに、思考で 思はれてゝ賓は低い文化階督に於ける重要な或る集囲心理の饅動を見落してゐる。民衆の注意を捉へる事象が、 JOO7 古代日本民族の如きも、彼等自身の知力で測り得ない具欒が起ると、いつも巫女にもたれかかつた。小商い丘 − ク●シ が晋を立て始めると、巫女は神懸りして舞ひ狂ひながら紳の託宣を聾し、而して審 _7 カムダテ に設けられた紳館に坐した巫女に、神秘的力能が潜むと信ぜられた酒が輿へられ、精婁が潜むと考へられた様 の楽器Ⅰ琴・槽・臼等 ニハ 刊者がその意を判定して民衆に之を俸へるのであつた。︵讐 紳託の説明性の問題 七 神話の説明世の問題 八 アイヌの間に於ても、さうした巫女へのもたれかかりが茸際に行はれてゐた。彼等は天災地欒が起る毎に巫女 ウス の許に趨る。と、巫女が所謂﹃紳降し﹄を行うて、さうした具欒の因つて来るところを告げる。嘗て有珠 が山焼けして多くの死人を出した時、アイヌ人が惇き慣れて巫人の許に行くと、.巫人は神懸りの状態に入って 丁・;ル モロコカムイ 有珠の人々が外海の方の村々から、紳の喜ばぬ歌を俸へて、日夜之を歌ひつづけるため、眠 紳 死す、蕃つて人々を重殺しょうとしたのであると告げた。︵14︶而して巫女のかうしたロ占は疑もなく一の神話で ある。更に山津浪が起った際、人々が巫女に走ってその理由を知らうと求めた時に、巫女の口にかかつた託宣の 詞書−1﹃我、姉に育てられてあ旦茶々、豊川の上流に、大鮫が国土を壊さんとするより、我赴きて、その大紋 を退治し鮭へて、勇猛な足踏雄々しく湖岸を往きつ戻りつ言奉げする勢に、湖水が撼れ動いて、湖岸を溢れ、溢 れた山水が、ひたくと一方は十勝川へ、一方は日高の砂流川へ、堕ちて流れて大山水となつた云ふ﹄の如きも 正しく紛れもない神話でなくてはならぬ。︵讐 ところで、かうした神話に於ける説明の性質は、ジュヴォンズやグローセ等が神話に見出した説明の性質に封 反し、第二種の説明は突蟄的 して頗るデリケートな鮎で毅然と自己を直別してゐる。考察の便宜上借りに後者を第一種の説明とし、前者を第 二種の説明とするならば、 ノ ・欒態的硯象に封する驚異感情の産物である。 m第一瞳の説明が、自然界若くは人文界の持繚的現象に封する知力的探求から追出された科挙的説明であるに ㈲第一径の説明は、意識的であることを特徴としてゐる。或る事象の成立経由を解明することが心的活動の目 JOOβ 的であることが、之を試みる者にはつきりと意識せられてゐる。之に反して第二種の説明は、牛意識的若く って、民衆は始めて巫人の言ふところの何であるかを悟了する。そ七てその時に於て始めてロ占−紳語1 即ち詮明としての用をなす誅明となる場合が少くない。 ︳ヽヽ ヽヽ ㈱従って第一種の詮明は、動かぬ説明であり、第二種の詮明は、動く説明若ぐは動き得る可能性を内在さ e眉lanatiOn︶たるに過ぎす、或る者の示詮を通して後に始めて顕在的説明︵tbemanif邑e眉−anatiOn︶ てゐる。之に反して第二種の詮明は、巫人の口から出たままの神話に於ては、一の潜在的説明︵thelatent ㈲第一種の詮明は、神話を生む者の初めからの意識的な狙ひ所であるが故に、神話の成り立つ瞬間から顧在し −即ち神話に内在する説明が明かになる。 カムゴト られる。巫人の口占はそれ自らに於ては往々にして意味不明であり、審紳者がその口占を解繹することを待 意識してゐ空ことは、かうした神懸りに塵と新鮮計が重大な役割を演する事葺によつても、容易に窺ひ知 若くは殆んど快漏してゐる。巫人は受身である。紳の言葉の殆んど器械的な停達者に過ぎぬ。彼等が詮明を 意識してゐるに蓬ひないが、よりかかられた巫人そのものに於ては、説明の意識は膜ろであるに過ぎないか は無意識的であることをその本質としてゐる。巫人によりかかる民衆は事象の解明を欲してゐることを自ら J(フ0ク に於ける説明は、一定の、他にとりやうのない意味だけを持つ。之に反して第二種の説明にあつ 説明である。第一隆の詮明は、その説明を試みる者の自意識的進程内のものであるが故に、成り立つ舟神話 カムゴト −神話を口にするものは、l詮明を意識せす、他の解繹者がその神話に或る説明をよみ取ることにょつて詮 訓話の説明性の問題 九 押詰の詮明性の聞直 一〇 明が成り立つが故に、成り立つべき説明そのものは、解樺のいかんによつて自ら異り得る。 かう考へて来ると、神話の説明性は、決してジュグォンズやグローセ等が思つたやうに、しかく単純なもので はないことが決る。 三 ヽ︳ ヽヽヽ 神話の説明性に閲するジェヴォンズやグローセの見解は、今云ったやうに動かぬ詮明のみを認めて、更にその ヽヽ 他に動く説明の存することを見落したところに、大きな認識の不足を露出してゐるが、更に一歩を進めると,さ うした見解は問題の詮明性に関して、またより重要な性質をも見近してゐる。 これ等の畢徒は、神話の詮明を目してそれ白身が貴経の目的であると観じてゐる。或る事象の起原・成立等が 解樺された時、解繹の常事者は、それですつかhリ、おのれが企てた説明の目的を達成したと考へると観じてゐる しかしかうした見方は、少くとも或る部分の神話に関しては、決して安常ではない。 低級文化民族の思惟に従へば、﹃知ること﹄は単なる.﹃知ること﹄ではなかつた。﹃知ること﹄は﹃知られたる ものを自己の意欲のままにすること﹄であつた。多くの民族の言語はさうした観念信仰の存在を明白に琴不して ゐる。アングロ・サクソン語に於ては、能力を表す語群can︵c召︶と﹃知る﹄を意味する語群cunnanとは、 共に同根から出てゐる。同一の関係は、和蘭語にも見出され︵K∈men−Kan︶、古代猫逸語にも見出され︵K巨・ これ等の言語にあつては、いづれも﹃知 nan・Kan︶、苗代諾成語にも見出され︵K仁コロa、Kam︶、ゴート語にも見出される。︵K亡呂an、Kann︶︵空近 代礪逸語に於けるKennenとK許nenとの関係も亦これである。17︶ JOJO pO∽汚 乱撃01浄αが﹃知る﹄を意味すると共に、﹃制命する、﹄﹃裁定する﹄を る﹄を意味する語群は、同時にまた﹃肉髄的若くは心的に或る能力を持つ﹄を意味した。経典語の この雨義が含まれてゐる。更に希臓語の 意味するのも、決して偶然ではない。︵讐我が国の古語﹃しらす﹄が﹃統治する、﹄﹃支配する﹄一の義であること にも は、﹃古事記、﹄﹃月本書紀﹄等に於ける幾多の用例にょつて明白であり、而して﹃しらす﹄は尊貴するに﹃しる﹄ ︵知る︶といふ語群の定言・敬語に他ならぬ。 かうした言語的事茸は、或る過去の文化期に於て、民衆が﹃知ること﹄は﹃力能を獲得すること﹄一であると信 じてゐたことを示唆する。かくて﹃物知り﹄は、蜃モすぐれた力能の所有者や、超自然的霊威と其通する力㌢持 つ者を意味した。日のことを知るものとしての﹃ヒジサ﹄即ち﹃日知り﹄に聖の字が首てられたのも、さうした 観想に基くと思はれるし、また平田篤胤は龍田風神祭祀詞に見ゆる﹃物知人﹄を解して、紳砥の状態を知り明せ る人となしてゐる。︵空琉球では今日でも﹃物知り﹄は巫覿を指表する特定語として留つてゐる。︿如〓 拙稿﹃神話及び俸詑﹄に於て指摘したやうに、低級文化民族が自然界や人文界の事象の解繹詑明を企七る心理 は、高級文化民族のそれでは律し切れない或るものむ含んでゐる。神話の説明性は、低級文化民族に於けるこの ﹃或るもの﹄を考の中に入れなくては、充分に把捉することは出来ぬ。なるほど或る種の神話に於ては、その詮 明は、グローセ其の他の畢徒が考へたやうに、後代の厳正科挙に働いてゐる心理と同じく、原因の未だ知られな い現象の、原因の眈に知られてゐる現象の範噂への組込みであらう。その限りに於ては、グローセの云ふ如く. 神話の説明は科挙的説明であり、或はまたジュヴォンズが云ふ如く、∴神話的想像は科挙的想像であらう。しかし 紳話の説明性の問題 JOJ∫ 紳話の証明性の問題 一二 ﹃知ること﹄は﹃力能を獲得すること﹄であると信じた古代人並びに自然民族にとつては、さうした詮明を試み ることは、決して単なる説明に満足するためではなかつた場合が多いこと計1忘れてはならぬ。彼等にとつては、 神話の説明は、多くの場合単に詮明せんがための説明ではなかつた。そこに束がつかなかつたところに亦ジエグ ォンズやグローセの認識不足がある。高級文化民族にとつては、科挙的説明はそれ自身が目的であるが、低級文 化民族は、塵モおのれが解絆し説明するこ.とをその俸に目的としないで、之を或る他の目的への手段とする。切 言すれば、事象の原因・成立起原を解明すること払よつてー一郎ちそれを﹃知る﹄ことによつて、該事象を左右 し支配せんとする欲求を持ってゐる。彼等にとつては、事象を知ることは、その上に制命する一の呪力を接待す ることである。論よ.り澄壕、苗代バビロニア人は、歯痛といふ現象の解繹説明として、 ﹃アヌ紳が天容を造ったとき、天基は大地を造少、.大地は河川を造り、河川は濠を造り、濠は沼地を造り、沼 地は轟を造った。轟は泣きながらエア紳の前に来て、﹁御身はわが飲食物として何を輿へ給ふか﹂と尋ねる と、紳は﹁熟したる無花果と甘き柘相とを輿へん﹂と答へた。と、轟は之−牢拒んで、﹁われを取上げて人間 の歯と顎との問に住ましめ給へ。われ歯の血を吸ひ顎の根を敬はむ﹂と云つた。﹄ といふ神話を生み出してゐる。しかし彼等は単に一個の説明的物語とし七之を生み出したのではない。かくして 息の名菓を知ることによつて之を厭勝する力能を獲得することを欲したのであつた。彼等は歯痛の際この神話を 唱へて、晶の書力を阻止するのであつた。︵21︶更にフィン族は、農作物に封する霜の威力を抑へつけるために、 霜の起原を詮明した神話を歌唱するのを常とした。 惑よ、汝が起原をわれは歌はむ、 汝が意の血統をわれは告げむ。 汝が恵性をば、われは熟知す。 氷の岡の割目に、楊柳の間より汝は生れぬ。 荒腰は汝が父、不名替は汝が母ぞ。 毒手もて汝が親は不姫の乳房を汝に含ませ、 北風は汝をゆすりて熟睡に入らしめ、 解けぬ楊柳の沼、意の河遼に汝が稀藍を柘がしっ。. 慈しく生れ慈しく蕃はれたれば、 心も魂もみな恵なるぞ。︵讐 ● この神話の説明にょつて﹃霜﹄の起原を知ったフィン族は、之にょつて﹃霜﹄を歴伏する力能を桂得したと信 じ、神話の説明するところを﹃茄﹄に聞かせてその威力を抑止する賓修を行うのであつた。 観じてここに到るとき、吾人は、神話の説明性がその意味・性質に於て意外に複雑であることを知了し、従つ て同時に、ジュグォンズやグローセを始め従来の諸垂徒の見解の如きは、畢発するにその一部を把捉してゐるに 過ぎないことむ見出す。 四 押詰の説明性の関越 JOJβ 紳話の改明性の尚越・ 一円. 神話の詮明性に蹄する従釆の見方は、これを一の自己充足的な存在となすに留つた。説明が向けられるところ ● の事象・の蟄生若くは存在が解梓し塞されると、詮明の職能がそこに終結するといふのが、従来の見方にょる﹃軸 話の説明﹄の性質で、ある。 かうした見方は、少くとも低暦文化民族の封神話的態度の重要な一条而に全く気がつかぬことを示してゐ、る。 に封する説明。 ヽヽ 已然民族は神話の閲すろ限りに於ては、這般の見解の抱持者が思料した以上にょり著しい費用主義者であり功利 主義者で−ぁる。彼等にとつては、神話の説明は二重の職分を有してゐ■る。 mそれを核心とし.て神話が生れるところの自然界若くは人文界の事象に封する詮明。 倒さうした神話の生誕以後の杜合集囲が経験し若くは所有するさまざまのc旨ura=raits がこれである旬即ち自然民族は、神話に於て﹃前向きの誼呪﹄む説明と認めると共に、また﹃後向きの説明﹄を も説明と認めてゐるのである。然るに従来の学徒は、神話の説明性に於けるかうした二面的性質の存在に束がつ かす∵阻に﹃前向きの説明﹄のみむ認めて、之を以て神話の説明性の全的内容を包楽し塞してゐるとなしてゐる。 そこに亦吾人の大きな不満がある。 幸にして近頃になつて﹃後向きの説明﹄が、﹂二の畢徒の認識にのぼつて来た。ピー・マリノウスキー︵Br? となし、従来車界が気ぁつか nis−aw富a−inOWSg町如きは、その最も有力な一人である。氏はその著﹃原始的心理に於ける神話﹄.︵Myth inPri計iti完PsycbO−○喝︶に於て、神話を目して一の文化力︵c已tura−pOWer︶ なかつた新しい職能を神話に見出してゐる。氏は祝しく自らfei−dwOrkを試みたニューギアナの東北に横ろト JOJ4 ロ・プリアンド諸島の土民たちが、説話の三つの範疇についてそれぞれ異なる心的態度を示す事葦 − 即ち該士族 聞で、お伽噺が倉合の際に興味を添へるために語られる二種のactOfsOCiabi−ityとせられ、侍誰が民衆にょつ て経験せられた異常な事象として成員たちのsOCia−aヨbitiOnを満足せしめるために語られるに封し、神話が祀 紳話の説明性の関越 でもなければ、知力的説明でもない。それは社食袋囲の文化生活上のさまざまの事 その生活の指針を輿へる数々の神話を構成し.てゐるもので、アイヌは此に準療して日々の生活を迭かもし、 碍を排する所詞の述べ方とか、沖で難破しかかつた時に船室に云ふべき所稽の起原とその準へ方とか、一々 .あるとか、老狐を獲物として食む謂はれとか、風邪の時に、風邪の原因を成す障りの紳を明かにしてその障 火・地震・海哺・暴風雨・悪疫・惚饉・不意の災嗣等に関する説明、その他、熊を山の紳と崇める謂はれで ﹃宗教的信仰の此ハ披、祭紳の由来、行事起原、災秋の桐囚などに係る説明説話であり:⋮・また口蝕・洪水・噴 に役へば、アイヌの神話である﹃紳のユーカラ﹄は、 マリノウキキーと殆んど同一の見解をとつてゐる我が国の蓼徒として金田〓鱒助博士がある。氏の云ふところ 儀鰻などが、その正常さの是認を要求されるとき、その 合宜性を薬害することに 象の保謬であり.Ch㌢erである。それは祀合薬園が古くから有してゐるところの祀合制度・道徳的規定・風習 い。はた墾術的なimagery その文化力の性質が詳示性に顕現してゐることを力説した。氏に従へば、神話は決して閑散的興味の道具ではな ・倉的律法・道徳律・祭儀等の正常さを琴不するために語られる事賓を根撮として、面詰が文化力であり、そし ヱOJ占 神話の説明性の問題 一六 叉疑義を質しもし、争議の裁きも非違の戒鋏も、みな此の説話を先例とし、出典とし、縄墨とする針のであ る。﹄ めであつた。︷別︶ だから ﹃うつかり部落の隅習を改めしめト弓などと閲渉がましいことを云ふ客が、あべこべに、神々のユーカラの一 章などを歌って抗荏されることが蜃モあつた。﹄︵讐 ・のである。古き世の日本民族も、やはりかうした誇示力を神話に認めてゐた。拙稿﹃神話及び倖詮﹄に於て撃不 したやうに、︵讐伊勢大神宮の簡約使が、天平賓字以来小田氏の猫専すかところとなつたのを憤慨した忌部氏が 大同元年に中臣氏と評論を起して朝廷に訴へ出た時、朝廷は﹃日本書紀﹄神代巻の神話を紳砥令と共に裁断の掠 りどころとした。更にまた内膳司奉膵に預る家門としての高橋氏及び安曇氏が、奉陪の前後を謡うセ時にも、そ の何れを正しいとするかの裁決の重要資料となつたものは、﹃日大書紀﹄六雁の神話であつた。︵27︶ かくして神話は、その草生を刺衝する題材の起原・成立等を示詮する﹃前向きの説明﹄であるばかりでたく、 更にまたおのれの誕生以後永い時代に五つて存在し若くは生起するさまざまの事象の合宜性の有無を判定するた めに、﹃後向きの説明﹄をなす役割を背負はされてゐる。切言すれば、紳話は、その生誕そのものが、或る特定の 自然的若くは人文的事象に関する説明者としての運命を以てなされるだけでなく、生誕後もまたおのれの後生因 となつた以外のさまざまの事象に閲する説明者である運命に置かれてゐる。神託の説明性はかくして先天的であ ると共にまた後天的でもある。 JOJβ 然らば、神話が生誕以後に持つ説明力は、都連にその濾泉を有するであらうか。一見した 詮明性は神話の成立と共に完了するやうに思へる。aなる事象が資産し、而して其事象に注意を牽かれた民衆が いかにしてaが草生し成立したかを一の民疲的説話の形式に於て解樺したとき、神話は説明者としての役目を完 神託の詑明性の問題 等の文化的諸現象を生起せしめた其の原因であるピ と信ぜられた。︵讐もし神話にしてかうした性質のもので 界と人類との運命に作用してゐると信ぜられる生きた茸在である。かくて現在社食に存在す 慣習・祭儀等は、紳諸に記述された太初的世界の諸々の事象の、それぞれの後期的産果であ る・記述ではなくて、即ち単なる物語︵naヨti議︶ではなくて生きた茸在−太初に生起してその後堰績的に世 とも自然民族にとつては、茸にかうした意味に於ける太初的茸在世界に関する記述であり、 チフを輿へ、また這般の行動をいかに行ふべきかの指園を輿へると信ぜられてゐる。﹃神話 マリノウスキーの見るところに従へば、自然氏族の心には、自己が現に生活しつつある茸 一の太初的な賓在世界の春鹿が堅く信ぜられてゐる。而して此の太初的賓在世界は、明現在 運命を追⋮し供給したものであり、㈲その世界を知ることが、現在の祀合に於ける諸々の祀 る0 族の心に存してゐなくてはならぬ。この疑問に答へた畢徒として、マリノウスキーやレゲィ 了したやうに息はれる。それが葦際にはさうでなくて、神話の説明力がいつまでもあとをひ 信ぜられるためには、そこに何等か我々高級文化人にとつて思料の外に置かれてゐる特殊の JOJ7 画商の説明性の関越 ぁるとするならば・、その説明性が神話の成立と共に完了終結しないで、いつまでも一つの功とtて生きつづけ.る . 一入 のは、まことに月然でなくてはなちぬ。 に於て主張するところに従へば、低耕文化民族は、野蟹な野 レゲィ・ブサエールの見解は、マリノウスキーのそれに比して、更に濃厚に紳秘的な色調を帯びてゐる その著﹃原始神話﹄︵LaMythO−Ogie守imiti完︶ affecti謡dusumat亡邑が働き始める。だから低級文化民族 pui欝nCeS弓nature−−e︶が活動してゐると考へる。かくて亡nCOmp−e諾ぎ0− 草着で也なく、はた物理畢着でも博物学着でもない。従って事象の尋常普通の経過堰起に勤しては心的反 さない。異常の現象に連接して始めてさうした反射を示すのみである。そして這般の異常な現象に接し 彼等は或る超自黙約力能︵une 官ロne−が直ちに彼等の心計占め、︻いcat紆。rie にあつては、いはゆる﹃詮明するこよは、知力的探究心の満足ではない。それは不可見でしかも厳存す 自然的なもの﹄が経験の常道に介入し干渉することを、一種紳秘的な方法で感知し認識すろことに他たら れわれ高和文化人の見方では、因果的説明はintranat亡ramになされぬばならぬのに反して、原始的心性は 讐宅コ﹂コどr賀.に因果関係を求めようとする。低級文化民族は、異常な現象に於て超自然的世界わ力能の存在 及び活動を感得し、直ちに二者む関係づける心的状態に入↓てかくして和語に於ける説明は、知的好奇 imi−a−iOロ・p呈icipa−iOnに呼びかけることに他なら 科挙的詮明ではない。それは神話的複需の神話的原型に封する関係、若くは木原的なものに封すろ絹表現 ▲▼ む示詮す一じことである。三‖にして悉すなら、それはlの ぬ。﹂29.自然民族の信するところでは、彼等が賛際に経験するところのすべての存在及び物象は、神話期に於て ね蕗 垂生しもしくは存在したそれ等の・reprOきcti2S である。従って神話的世界に於て生起したものは、永遠に亙、 って軍資の世界の.それにcO亘月e80ndする事象を決定してゐる。︵訓︶かうした概念信仰藍円定するならば、神 といふ理由で、その客観的安常性に疑を抱く着であり であるに過ぎない。 ㈲葺は、高級文化民中の知識人の心性と低級文化民一般の心性とむ比較したとき見出される封立的関係の誇張 るやうに、高級文化民一般の心性と低級文化民一般の心性とに賓際に見頂される封立的関係ではなくて、 働賛際の事茸に徹すると、氏が開明し得たと考へてゐる是等二系列の民族の心性の封立的紺係は、氏が信じた れを贋的に峻別する誼を、次の理由で、即ち、 .感應共享﹄などに飽満してゐる。而して自分は、かうした詮1−高級文化民一般の心性から低級文化民一般のそ レゲィ∴ブリエールの見解は、この場合に於ても、原始心性に関する氏の猫異の誼−1﹃前論理性﹄、崩秘的 話が後代の出来事に封して持つとされる動かし難い説明力・琴不力は、白から埋骨されるとしがくてはならぬ。 JOJク ト∴研話の誼弧性の開国 の行き方を可なり歪ん東方向に適用し過ぎてゐるの感がある。︵聖 固より自分聖神話の稔明竺.種の力の蕗在を認めたい。後代の事象に封する神話の琴不性を、畢に前以て取 む無傑件の賛同を赦して難い束がする。 これに比べると ヽヽ マリノウスキーわ見解は、自然民族あ心理の賓際にょり近いやチに思はれる。しかし自分としてはこれに封して はゆる。t01hinkb−ack; の﹃神話の説明﹄に於ける神秘的力能性詮に疑を挟むものである。氏の見方は、イー・エス・ハートランドのい ● 神話の説明性の問題 ニ○ って置いた詑文がものを云ふのであるとばかりは解したくない。また単に民衆の歴史査重心から来てゐるとも考 へたくない。神話が、のちのちまで社命生活上の様々の事象の合宜性の有無に封するchar︵erになり得るのは、 ( ′■ヽ F・B・le召nS−Th2Hdea Of GOd leくOnS、Op.CitこP.∽〇. in SOCia−OriginsOf Re−igiOnS一P︰∽? the Eaユy l・E・HarriUJOn−Themis一A StudyOf 民族文華捨所載︶ igiOn︵H・1.ROSe課︶P.−N↓.−N¢,−∽A.N00∽参照 le言nS.〇p.CitこP.∽︼. 拙稿﹃民族文拳﹄第四文︵改造祉﹃日本文華講座﹄ 金田一京助氏﹃巫女の和語から叙事文挙の誕生へ﹄︵﹃民俗索術﹄第二巻解三躯所載︺ 金田一京助氏﹃アイヌの民族的故事詩﹄第二入京 ︵﹃文孝﹄第三巻第十一紙併載︶ F.K−uge−Das etymO−Ogiscbe Re−igiOn.P.∽NP Wd 腎e te ben deS rprache∴.Kennen。の條参照。 ur tb su cch New Eng−ish DictiOロary、こnan。の條参照。 JOgO ( ( ( ( ︵11︶ このことに就いては、W・Sc’midt﹀Die守山prungderG。tteSidee、邑.Ⅰ及びTheOriginandGr ti諾を見られたし。 ︵10︶ このことに就いては、Lかくy・Brub−,LesFOnCtiOnSmen邑esdans−esSOCi小誌s已買e亡reS︰La ︵9︶ H●B迂、Nursery Rhymes and Ta−es︸P.−↓. ︵7︶︵8︶ E・GrOSSe,崇e Anf鉄nge dmr只unst、Kap.こ舛. ︵6︶ 甲Ough・Smyth−The AbOriginsOf・VictOria、く○−.ごP.焉∞. ( Greek そこに何等かの力の観念信仰がまつはつてゐろからであると考へる一人であるが、しかしその力がどんなもので あるかに関しては、現在の自分には何等明確な考も纏ってゐないことを昔日せざるを得ない。 ) ︵2︶ 1.Fiske−Myths and Myth・Makers︸P.N−. 熊︵1︶ G・L・GOmヨe︼FO︼k−Ore aSan誓stOrica−Science−PJNp ( ′■−ヽ 5 4 3 ) ) 171615141312 \J ) \J ) \J ) ( ′■ヽ ( ( ′■ヽ ′■ヽ ( / ̄ヽ ( ( ( ( ( ( ) \J \_ノ ) ) \J \_ノ ヽJ ) ) \J \ノ ) 3130292827262524232221201918 ) TheC−ass︰cGreekロictiOnaコ√。gign訝kα。の條参照。 平田篤胤﹃玉醸﹄。 伊波普献氏﹃おもろさうし邁樺﹄第四七貢。 E・L許nrOt︸LOitsurunOja申の一呪歓。 S・H.HOOke.Myth and Ritua−、P.票. B・Ma−首OWSki−My−hinPrim⋮ti完Psy旨○−Ogy一pp●N∽一∽い● 金田一氏﹃アイヌの民族的叙事詩﹄第五貢。 金田一氏向上策五、大貫。 拙稿﹃神話及び停誼﹄第一六貢︵岩放論座﹃世界文拳﹄所載︶ Ma︼inO宅Sk叫︸Op.Citこpp.N−㍍戸 顛粟国史、本朝月令所引高橋氏文。 rか童1Bl.uきMytFO︼OgiePrimitiくe.P.ごぶー一声 E・S・Ha昌a阜RitualandB2−⋮ef中のLearningtO。Think望ack.。参照。 亡どy・Br邑已,Op.Cit.一pp.−雪L已. 神話の説明性の関越 JOgJ 思 唯識思想と純密秋 唯 識 想 と 純 密 教 神 林 隆 浄 秘矯俳教の中で、謂ゆる綿密教と稀せられる部分は、婆羅門致・印度致並に原始彿教の各要素をも取り入れて 居るが、中に於て最も特色付けられて居る所は、大乗教の思想を糠取して居る鮎である。今は主として唯識思想 が、綿密敦に於て如何やうに硯はれて居るか、而して如何なる役目を果して居るかに就て、観察を下して見やう と思ふ。 大乗沸教の晦色は般若経の容観と華厳経の唯心思想とである。客観が緯と成少、唯心思想が経と成って縛り出 された錦織が、即ち大乗敦の絢爛の美を見せて居るのである。 壷観と唯心思想とは、大乗敦の一方の旗暇を表はし、両者相封立して居るのではなく、唯心思想の裏面に重税 があ少、峯観の弛の年面に於て唯心思想が件在して居る。この両者を組合せた所に、大乗教の眞相が潜んで居る のである。 雑務教が大乗教の一部である研から客観と唯心思想とを、その教理の中に巧に混化し綜合して居ることは.金 俄雨部の大経を一諌する者の易く観取し得る所である。今は客観の側を取り除いて、専ら唯心の方面だけに注意 を向けることとする。唯心思想は華厳経から聾して居るか、今は無著・世親の教系に直接間接に関係ある経論に JOgg 硯はれるた唯識思想の側を主として探求することとする。 −、蘇の阿頼耶 大日経任心品に於て 観ご琴窺阿根耶ぺ って、始て四智の名群が峯ひられたことが解るからである。即ち 彿陀易多澤の巻下には、 如鏡、鶴見、作事情持智、白衣事、梓ゴ廻隷陰一故。 唯識思想と純密教 ︵正戒、一入、三、b︶ 二三 ︵正戒、三一、一一〇、b︶ が、此の四智の名稀は、無著菩薩の棒大粟諭に瑞む聾して居る。その理由は、棒大粟論三諾の中で、玄非諸に至 焉すものは、周智であると見て居る。謂ゆる四智とは大間鏡智﹂平等性智、妙間察智、成所作智を指すのである 大乗彿教に於ては、凡夫の位にありて、精神作用を為すものは、八識であり、俳陀の位にありて、精神作用を 〓、四智説と五智説 耶﹂の一句であつたことを、故に自白する。 ら牽達して釆たのであると論断した積りである。筆者をして此の鮎に着眼せしめたものは、質に今の﹁礁の阿兢 其れに譲ることとする。この一論文の要旨は、五縫中の識薙が即ち阿頬耶識で有って、頼耶縁起詮は、五経説か と阿扱耶誠﹂と云ふ題にて、先年本誌に︵第九巻第四耽︶於て、愚見の一端を述べた積りであるから、本問題は と云ふ一句に逢着する。殊に注意す可きは、﹁薙の阿根耶﹂と云ふ字句に就てであるが、之れに関しては﹁五菰 ヱOgβ 唯識思想と純密談 虞許諾巻下には 期了・平等・廻翫・作事智、自在由レ特二識陰依一故。 ︵同、三一〇、C︶ ︵同、一四九、a︶ とあるが、これ等雨文では、四智を意味するか否や、殆んど了解に苦しむ程である。然るに玄非諾の巻下には 、由二間鏡・平等・観察・成所智↓自在由レ持二瓢菰依一故。 と記してあるから、前南澤も、此の諸に照して、始て四智を明してあることが解る。 この四智は、大乗教に於て、重要なる意義を持って居るのであるが、純碑教に於て殊に重要性が著しく成つて ある。この四智の名稀は、今の引文では完全でないが、唐の披薙頗蜜多羅繹の大乗荘厳論第三︵戒正、三、六〇 六︶、並に玄非詩の棒大乗諭繹第九巻︵正癖、三、三七二、a︶。に於て、今日一般に通用されて居る四智の名稲が 硯はれてある。 モの四智は、十地の中の初地の菩薩に至って、その一部分が獲得せられ、併発の位に至つて、始て四智を具備 する。古来から﹁妙観・平等、初地分得、閲鏡、成事、唯俳光起﹂と言はれて居る。即ち十地の菩薩は初地に於 妙観察智と平等性智との一部分を樟待し、第二地・第三地と地々上昇するに随って、濃度を加へ、俳果を待んと するに至って、この二智の全分を饅得すると同時に、大凧鏡智と平等性智とを、頓に獲得すると言はれて居る。 此等の四智は如何にして餞得せられるのであるかと言へば、凡夫心の作用は、識即ち分別の方面が勝れて居り ︵正寂、四三、五九九、b︶ 聖者たる悌陀は、智即ち決断簡樺の働が優れて居ると見倣され、成唯識論連記第十末には、 識是分別、有漏位強、智革決断↓無漏付膠。 JOg4 と説かれてあ.る。煩悩罪障む断除して、凡夫が俳陀と成るときには、識の作用は止つて、智の作用が盛んに成 ウて来る。之を轄識得智と稀する。即ち識を轄給して智を特待する意である。 眞賓自牌、無始時禾、自性清掃、具出足種々過十方界、微塵敵性相功徳叫無生無滅、猶如二虚竺遁二一切準一切 清浄法界者、謂離三切煩悩・桝知、客襲障垢、一切有馬無償等準無倒茸性、一切竪琴生長依因、一切如来、 中には見常らない。観光菩薩は僻地群論第三巻に詮明して、 て居ることは明かである。而も通俳教に於ては、﹁清浄法界﹂をば、智慣の名稀と見倣して居る場合が、諸経論 今の文中の﹁清浮法界﹂は大風鏡智等と相並べて五経として数へられてあるから、四智と同種のものと目され ′−−− 知、南浮港界者、撃如二虚空錐レ遁二諸色種々相中可而不レ可レ詮、有二種々相↓照唯一昧。︵正毅、一六、七三、a︶ 有二五種準〓攣大覚地可何等薦レ五、所レ謂清浄法界、大園鏡智、平等性智、妙観察智、成所作智、妙生、常レ の五智詮は、その瑞む僻地脛に聾して居る。かの経に 加へて、五智詮を立つることに成ってある。この五智誰は、一般の大乗数では説かないのであるが、而も純密教 つて、別に取り立てて説く必要も無い程のものではあるが、純常数では、此等四智の外に、法界慣性智の一智を 成所作智を特待すと言はれて居る。︵大乗許巌諭第三、正薪、≡、六〇六、C︶。この四智詮は、大乗教の通説で有 し、第七末郵識を轄給して、平等性智を輔得し、第六意識を樽給して、妙観察智を特待し、前五識を挿絵して、 輯識得智は、初地以上の菩薩にして、始て属し能ふ所であつて、第八阿頼耶織女結婚して、大園鏡智を特待 JOg∫ 有情、平等共有、輿二一切準不レ一不レ異、非レ有非レ無、離二一切相、一切分別、一切名言骨不レ能レ得、唯是清浮 唯誠忠想と純密致 ● 唯感想と純密教 敦智所琴二重無我、研頼長如、撃共自性↓諸聖分詳、諸俳風謬、如レ是、名望韓揮淡界叫 二六 ︵正成、二六、三〇 二、。︶と誼て店られるが、之れに依れば、二基無我を符悟する時に、顕現して来る虞如を指して居ることに成 る。虞如は桝許の理で有って、能謬の智ではない。所琵の眞如と能詑の智とを仰せて五種として本控に於て取扱 って居るとは思はれない。恨りに虞如の理を、四智の所位牌と見撤すとしても、能依の四智と、桝依の眞如とむ、 同一に取扱って五種とすることは、出来ないやうに思はれるから、本綬に於て眈に五種法として呼んである以上 は、南緯法界は、清掃法界智として解す可きである。然るに聾者は観光菩磋の俳地経論に魅せられて、清渾法界 ・むば、眞如の理と見倣して、之を法界智とは解さなかつたのである。本経のままに正直に解した軋らば、清渾法 界とは、法界智、即ち純密教で言ふ研の法界慣性智と栴す可きものである。此の如く考ふる時は、法界智は俳地 饉に於て眈に誇示せられて居るものと見るのが、寧ろ至常であらうと思はれる。之れに依って考ふるは、五智説 軋、純矯教の特別の詮で、除数に於て骨ては.、誇示されて無い詮であるが如くに見ゆるけれども、その衰、眈に 彿地控に於て五智詮が唱へられてゐることが明かであるから、純矯数の五智思想は、唯識の思想系統中に故に茄 芽を賛して盾たことが解る。 三、四智と偶身との関係 図鏡と平等と妙観と成桝との閃智中で・は、大同鏡智が基本的のものと考へられ、平等以下の三智は同鏡智を囚 詮二是大智赦一 ・餞身及飴智 像硯従け此起。 ︵正赦、二二、六〇七、a︶ L隠し、桝依碓として、其の上に現はれる差別智であると見倣されて居る。大乗荘厳論第三に . 鏡智諸智囚 70g♂ とは、即ち此の意を示したものである。 唯識思想と純密欽 との稀が奉げてある。食身とは、具には法食身と云ひ、一般には受用身と稀せられて居る。 ︵同、六〇七、b︶ 女に成唯識論第十には ︵正戒、三二五六、C︶ 能過失ツ雨二大法雨去きとあるから、受用身中の自受用身と他受用身とに常ることは想像するに難くない。 いとすれば、妙親密智からは、受 無い。然るに、大井厳論第三には、﹁此観智郎食身﹂と詮てあるから、成唯識論と大井巌論との誼は異なりが からは、建化身が硯はれる意が、示されて居るが、妙観察智からは、如何なる彿身が硯はれて来るが明示され とあい、之れに依れば、大風鏡智からは、自受用身が硯はれ、平等性智からは、他受用身が硯はれ、成所作 楽有情叫 受用身、浄土相↓成事智品、能硯二攣化身、・及土相↓観察智品、観ゴ察自他功能過失↓雨二大法雨↓破二諸 止四心晶、雄三皆遍能縁二一切準両用有レ異、謂鏡智品、硯二自受用身、将士相↓持二無漏種↓平等智品、硯 の︰働が勝れて居ると云ふ意味が見えて居る。 と詮てある。之れに依れば、食身如ち受.用身には、妙観察智の用が勝れて居り、化身には、作事智即ち成所作智 ︰此観智郎是食身⋮:・此作事智、郎是化身。 而して同諭の繹に、 身 ︵Nir爪音aキ︶ 釆に同論忙は、一切諸俳に三種の身ありとして、自性身︵Sくabhplくa・k首a︶と、食身︵Sa召bhOga・k.︶と、化 J〃g7 唯識思想と純密教 上記の詮を要約すれ甘、 第一園 ←化身 ⋮捌⋮閻⋮⋮∨食身 成所作智 となる。之れに依れば自性身・食身・化身の中で、四智に関係する彿身は、食身と化身とに限られて、自性身は ︵正薪、≡、六〇六、b︶ とあるは、即ち此の意味を示したものであ 全然四智には紺係が無いことに成つてある。然るに自性身は此の食身と化身との所依止と見られて居る。即ち大 赦厳論第三は自性身夢衰身・化身依止叫 る。随つて自性身が、若しも或る智から出現す可きものとすれば、其は法界智から硯はる可きであると云ふは、 蓋し常然わ踪結である。 又大荘厳諭第三に﹁鏡智諸智因﹂︵正薪、三、六〇七、a︶と誼てある。即ち、平等・妙観・成所の三智は、園 鏡智を因として、其折から草生したものであると見撤して居るのであるから、此の見地からすれば、左の如き固 JOj好 を引くことが出来る。 成妙手 ′ →ヽ 折鶴等 作祭性 智智智 ヽ 困−大同鏡智 兼 所親等圃 化 息はれるが、兎に角、純席数の五智五俳の思想が、唯識系統の其れから、基本的の資料を得て居ることだけは、 香定し得ぎる事茸である。 金剛頂変位脛に ︵正戒、一入、二八八、b︶ 風塵遷都俳、於二内心二軍得自受用四賀大l瑚鏡智、平等性智、妙観察智、成所作智、外令二†十地満足菩薩他↓ 重用上故、従二四智中↓流コ侶四彿珂 四俳とは不動如来、賛生如来、観自在王如来、不基成就如来である。此等四俳が大日如来の周智から流川すと 唯識思想と純密教 JOg∂ 右の岡に於て現はれて居るが如くに、大同鏡智闇下の四智が食身︵受用身︶と化身とに限られるとすれば、自 性身の所有する智は、果して何んで有らう。苛も自性身と食身と化身との三身の別あることを明示して居る以上 は、他の二身には其れ忙相應する智は有るが、自性身には、其れに相應する智が無いとは言はれまい。叉同一の 食身の中に困と果との二面に亘るものがある具合に成って、甚だ面白くないことになる。故に唯識教系の不備の 鮎が暴露されて居る。此の不備を補ふて港界饅性智の一智を加へて、自己の教義の根揚としたのが、純席数の徴 折伏−人法界饉性智︶−自性身 − 脚W食身 作察性鏡 智 身 ・義を組織した組師の態度で有った。之を固に表はせば 第三国 1 「 ′ この唯識思想から、耗矯教の五智五俳の思想にまでの移り行きには、そこに伺幾多思想の欒連が有ったものと 成妙手大 唯誠忠想と純密数 ・あるから、大罪厳論の謂ゆる四智から、食身と化身とが出生したとの誼に暗合する。智は本来俳身に具有されて 居る可きものである。然るに今は其の反封に、智から彿身が流出して居ると説かれてあるが、その謂ゆる四種身 は、.大日如来の四智から流現して来・るのであつて、この桝に純密教の特色が硯はれて居る。而して其の特色が大 乗荘厳論に於て、眈に硯はれて屠ることは、殊に注意す可き鮎である。紺席数では、三世の諸俳諸菩優等は、皆 悉く大日如来の加持身にして、大日如来を本質身とすれば、飴の諸今は悉く其の影像に外ならないことに成る。 嘘つて十方三世の諸彿諸尊は、大日如来の一身は蹄入し、叉大日如来ゐ一身から流過すと見られて居る。而して 此の傾向が唯識思想巾に、眈に其の筋芽の存して居ることは、純密教の淵源の深きを示すものである。 四、五智と唯識思想 八識を前捷として、故に四智が成立して居る。然るに純概数に於ては四智よりも、更に 一歩を進めて五智を建 立することに成ってある。五智を樹つる馬には、九誠を前提としなければならない。即ち八識の外に何一識の存 在む認めなければ、第五柾の智を設定することが山木ない。然るに此の節五智は港身大口如来そのものであらね ばならないから、純密教としては、必要放く可らざるものである。而してその第五智をば、港界智即ち法界照性 智と純矯教では呼んで居るのである。大間鏡智には、第八阿顆耶誠がその原型と成つてあるが如くに、法界慣性 智の原型と見倣す可き誠が無くてはならない。この誠を純矯教では、第八識其の他の誠に封して、第九識と呼ぶ ︵正薪、一六、五六五、b︶ ととに成ってある。而して九識の存在を認めて居るものは、元魂の草根留支諜の入稗伽粁第九である。かの文に 八九種々識、如二水中諸波↓依レ垂㌻種子法↓常堅固縛レ身。 JOβ∂ とあり、厨の許叉難陀諾わ大乗入枕伽粁第六には 由二虚妄分別”是別布二識生可八九識種々、如二海衆波浪ペ 現に同三蔵繹の十八宗論には、 阿摩羅識、是自性清浄心。 と言はれてある。又決定賂論巻上に、 唯誠忠想と純密教 ︵同、六二五、a︶ ︵正毅、三九、四九八、。︶ れたのに相違ない。楊伽控の謂ゆる第九識が、果して無垢識五指して居るか否や、経の本文の上だけでは固よぉ る。併し共れは識の中に於ては、無垢清浄心で有っても、智に封する時には、幾分の遜色があるものと見て店ら と詮てある。これ等の例に徴して、阿摩認識は、その名稀の示すが如くに、清浄無垢の放であることが明かであ ︵正毅、三〇、一〇二二、a︶ 諸世俗法、阿薙耶瓢、悉軍政本↓出世間者、阿摩薙識、悉箪薩本可 ︵正叔、三一、八六三、b︶ この阿摩薙識釦ち無垢諏の名栴は、筆者の気付いて居る所では、眞諦三蔵の頃から見えて居るやうに思はれる。 も見懲らない。恐らく注梼伽経の作者の暗記の失ではあるまいか。 と誼てあるが、唐代の地婆詞羅並に不客の南澤の密巌経の中には、﹁以二第九識∵琴南浮琴也﹂との文句も義 文言二九識一着、即密厳経、以二第九識”笹森浮詠一也。 汲を阿摩薙︵ama−a︶識、即ち無垢放であると云ふことに成った。末代の賛臣蓬の注大乗入楊伽控第九には、 稀のものであるかは明指して店ない。然るに何れの時代に何人が最初に言ひ出したのか明かでないが、此の第九 とあるから、梯伽紅に於て、九識の布衣む認めて居ったことが解る。而も同檻には、其の第九識が、如何なる名 JOJJ 唯講思想と純密数 明かで無いが、誇大粟粒論の通念から推量する時に、その謂ゆる第九散は、此の無垢識であらねばたら に成る。然るに同経では此の第九識即ち無垢識をば虚妄分別の相であると見撤して居る。眈に無垢識が の相であるとすれば、彿果に至る馬には、その識を特給して、或る智を鱒得しなければならたい。純密 は・此の第九無垢識を轄給して、港界牌性智を得ることに成って居る。而も其の第九放とか無垢識とか 泉豆か云ふ概念は、殆んど皆な唯織教系の経論から、提供されて居ることを想ふ時に、純解散が此の教 に伐て成長したものであることが解る。但し無垢識を輯給すとは、楊伽控並に純布教だけの特別の考で 唯識教系の一般的の思想でないことは、次の例許に照して明である。 成唯放論の作者は第八識の異名として、種々の名を列記して居る。即ちその第三巻に、 或名レ心、由二種々彗重㌻習稜子↓閉二積習一故、或名二阿陀那↓執ゴ韓種子及諸色棍べ令レ不レ壊 能輿二染渾研知諸襲撃依止一故、戒名二種子撃能適任誌世刑世間諸種子一故、此等諸名、通二一切位可 或名二阿械耶”撃殺一切難染品彗令レ不レ失故、我見愛等執赦、以レ撃自内我一故、此名唯字典生有 ︵正毅、三一、一三、C︶ とありて、心と阿陀邪︵註ぎa︶と、所知伐と種子放との名は、凡聖何れの者にも通用し得るものである意を述 べ、次に凡夫にだけ通用して聖人には適用づれない名として阿根耶︵苧ya︶の稀が奉げてある、次に異生即ち 凡夫と啓甲繚覚の二乗の人と、請書薩とにだげ通用して、如来には通用されない名として、異熟識の稀 女に如来にだけ専用される稀として、無垢識む挙げてある。即ち、 JOβg ︵同、一三、C︶ 戒名二無垢識”最極清浄、諸無漏淡、桝休止故、此名賓如来地有”菩薩・二乗・及異生位、持二有漏種↓可レ受二 重警未レ得二幸浮第八識可 とあり、錬垢織をば、羊蹄第八識と呼んで居ることが推定せられる。之れに伐て耽るに、第八識に雑染品の法 解二晩一切障一 風鏡智相應。 ︵同、一三、C︶ を挿赦して居る場合を阿頼耶と呼び、善浮薮保持して居る場合を、無垢識と呼ぶことに成つて居ることが解る。 是浮無漏界 且つ此の無垢識は大園鏡智に相應すろ意を述べて、 如来無垢識、 と云ひ、且つ糞煩悩の結晶である異熟織を拾離することはあるが、無垢識む拾離することは㊦絶封に無いこと を説て、 ︵同、一三、C︶ 阿椒耶名、過失重故、最初拾故、此中偏詮、異熟識饉、菩薩将レ得二菩撃時給、聾聞・猫覚、入二無飴依浬撃 時冷、無垢識嘘、無レ有二輪時↓利︰﹂柴有情↓無二泰時一故。 とあり、阿頼耶は自の内我としての稀である。随て着我の妄執が無ぐなると同時に、阿輯耶の摘も無/、なるの であるが、過去の貴国の異熱誠牒は、着我の妄執が無くなつても、荷稲摸して唇㌔菩薩は菩提の特依㌃待する 時に、此の異熟談牒を拾離し、拳闘と練覚Lの二乗の人は解脱道に於て、無詮依達衰に入る時に、その異熱識健 を拾離するのである。然るに如来の大慈悲心は、贋大深遠にして、有情を利柴せんとする念願が、常に盛大であ るから、如来ゐ生命は無量詩である。而して其の錬量諒訪韓摸する精神力が、即ち此の無垢識である。この無垢 識は、即ち如来の心識であるか㌢永劫捨離する時はないことに成る。 唯誠忠想と純密欽 JOβぎ 唯識思想と純密教 天親書醸造で、後魂の般若流支繹の唯識論に、 ︵正戒、二二、六凹、b︶ 心有二二種↓何等篤レ二、一着相應心、二者不相應心、相應心者、所レ謂一切煩悩・結使・受想行等、諸心相應、 不相應心者、所レ謂第一義諦、常任不要、自性清浄心故。 と詮かれてある。此の﹁心﹂をば第八誠と仮定すれば、この第八識に煩悩等と相應する所の相膣心と、煩悩等 二無漏位、唯菩性 と相應しない研の不應心との二位あることが、今の諭に明して届る。而してその不相應心とは、即ち自性清浄心 であると明かれてある。この唯識論の謂はゆる自性清浄心は﹂ て自性清浄心は、園成資性の虞如港界に外ならないのである。 成唯識論第三に、 ︵正薪、三二一四、a︶ 然第八識、線有二二位↓一有漏位、無記性樺、唯輿二偶等五準相應、但練二前詮執受虔境↓ 棟。 とある中の第八識の無漏位の稀が、即ち無垢識で有つて、天親菩薩の謂ゆる.不相應心に常て屠る。第八識の有 漏位を阿頼耶識と稀し、この第八識が無漏位に進んだ時に、無垢識と呼ばれるので有つた、二識に別の牌がある のではなく、その止任する位に依って、名稀を異にして居るだ万のことで、本と別の心髄を名指して居るのでな いと云ふのが、唯識教系の一般思想である。 純密教が此の唯識敦系の思想を取れ入れて居ることは、一鮎の疑ふ可き詮地は無いのであるが、扁も其れに封 する見方が精モ異つて居ることは、菩無畏二森澤の俳頂告勝心破地獄儀軌に、 ヱ0β4 阿摩羅識、鰭、阿梨耶訊、用。 ハ正毅、一入、九一三、C︶ と詮てある所に徹して明かである。即ち浮心の無垢識を髄と為し、内我の迷安心である所の阿枝耶を用と見撤し 、.. て居る所は、大日如来の下特踊化門の立場に在って・、詮を属して居ることが想像される。魯叉左の文に偲り、九 識餞別の見地に立って居ることも想像される。 ︵同前︶ ︵正裁、一入、九一三、C︶ 一波陀郊︵pad呂pご郎六識、二阿陀郵︵監訂忘︶識、郎七識、三阿梨耶︵巴aya︶識、郎八識也、今第四、加二 阿摩耗︵むma−a︶無垢渾識↓普レ革九重心月輪撃也。 叉次に九重の心月輪とは、胎織虔茶薙の八菓中藁尊なる意む述べて、 九重月給、奉入菓九食べ と詮てある。而して此の八菓九尊は、五智周明の饅と見られて居る。その謂ゆる五智は四智の外に.、港界優性む 唯敢思想と純密教 化であを鼻茶薙が、唯識教系の思想に負ふ所大なるものあることが許墟立てられたことと思ふ。︵畢︶ 幹と成つて居るものであることは、今更桁するまでもない。之れに依て考ふるに、純概数の教養並 智から顕現して葬る.ものであり、その五智は八識九放から由来するものであり、而して其の八識は唯識思想の根 怖が金胎両部の虔英雄の中心尊格として重きを属して居ることはー改て言ふまでも無い研である。 一智を加へたもので、その法界牌性とは、彿地控の﹁清浄港空から由来したものであることが明 JO3占 票数偉播に於ける地理的制約 宿 1キリスト教を中心として観光る1 宗教停播に於ける地理的制約 五 垣 了 三六 俊 次に吾々は基督敦がヨ一口ッ。ハの何虞から入り込み、叉如何なるコースを辿ってヨ一口ッ。ハの内部に侵入倖播 して行つたか、叉如何にしてそうせぬばならなかつたかに就いて考察しょう。 亜に吾々は基督教の北進次いで西漸の跡を辿って途にそれが亜細亜の西端に迄到達したのを見た。ここに於い て吾人は亜細虚に於ける基督教西漸の足場を蟄見し得たと信する。即ちその一はシリヤ殊にアンチオキヤであり 他の一は小亜細亜の西海岸特にエ。ヘリこれである。而してこのアンチオキヤとエペソに於いて基督教はその西漸 の強制力を最も強烈に感じたのであつた。然るにこの強制力の強度が交通頻繁の度に比例してゐるとすれば、今 アンチオキヤ及びモヘソと最も頻繁な交通を保つてゐた場所を蔑見することに依って、吾人は基督教がこの東洋 の二大都市に於いて果して如何なる地方へ西漸すべく強制されてゐたかを具饅的に把握することが出来ると信す る。 JOJβ JOβ7 轟に吾々は海岸線の豪速と海川に上る梅と奥地との聯絡こそ、港常襲達の二大地理的持徴である事を指摘して 置いたが、これを手懸りとすろことに依って今吾々の目的とするアンチオキヤとエペソと最も頻繁な交通を保つ てゐた場所を襲見することが出来ると思ふ。 だが吾々はここで暫く河川の性質及び機能に就いて一考する必要がある。 元木河川はその性質上、多くの遣った国々、種々な地方を貫流するが薦めに、各地を連絡結合する働きむ有す る。叉多くの大河は海に注ぐ薦めに、それの貫流する奥地とそれの注ぎ込む海とを結びつける重要な機能をも有 する。されば瀬川は陸と陸との問、及び陸と海との問を聯結する自然的媒介者であるといふことが出来る。殊に 舟棉の便ある大河の河口は、陛と海との聯結鮎として交通上特に重要な役割む演じてゐる。 さて吾々の目的としてゐるのは、基督教がヨーロッパの何磨から入り込み叉如何なるコースを辿つて進んだか 乗数健棒に於ける地理的制約 既に述べた如く河川は陸と海とを連結する最も重要な地理的特徴であるが、しかもこれ程自然的な媒介者は他 ならない。 線の襲達した港薦でも之に河川による内地との聯格闘係がないならば、今の場合之は問題の外に置かれなくては 聯終関係のある地理的特徴のある庭でなくてはならないといふ事に限定されて来るわけである。従って若し海岸 番が幾分限定された事を知るのである。即ち吾々の求めてゐる地方、交通の頻繁な港潜は、河川にょつて内地と たかを考見する事が先決間題となつてゐたのであつた。虚が今河川の性質と機能とを考察することに依って、同 といふ事であつたが、順序としてさしあたり、束洋の二大都市と最も頻繁な交通を保ってゐる場所は何虞であつ ● 宗敬樽柿に於ける地理的制約 にはないのであるが、かかる重要な機能を有する河川もー亦その機能の一部を負揺する河口も、それの注ぎ込む 海の地理的柾置に従って、その低値が憮限.に相違して来るのを免がれない。 然るに羅馬時代に於ける地中海の関襲に就いては吾々の再三述べ来つ・た虞であ.つて、今改めて終々を用しない。 若し然らば、地中海に注ぐ幾多の河川及びそれ等の河口が、.未だ暗黒の裡に侵してゐた大西洋岸及び北海岸に注 ぐ河川とは、恐らく比較することの出来ない程の意義と慣位とを有⊥てゐた事は、直ちに想像し得る艇である。 は世界で最も重要な河であり、その河口は世界交通の幾らか指滝的た軍要 ︵l− R・Heロnigは言ってゐる。﹁絶ゆる文化が地中海の周囲の圃々に於いて集積されてゐた時代にあつては、Ni︼e, PO、RhOne、付文DOna∈Dnjepr な交叉鮎であつた﹂と。更に叉彼は﹁三千年の昔、地中海の沿岸地方にのみ相普な文化が後生し、爾飴の全欧薙 一 巴は未だ野市状態に留まつてゐた歴史最古の時代に於いて、R.占ne、DOnau,恐らく叉Dnjeprは、全く僅かな ︵2︶ 陸路、例へばB記nロerの通路、と共にフェ土キヤ及びエトルりヤ少し過れてギリシャの商寛が、未開ではある が探索働硬から見て極めて慣他の多い、内部歓羅巴に侵入する唯一の門戸であつた﹂とも述べてゐる。Hennig の言は、基督教が何靡に入口を蔑見しで、如何なるコースを辿って欧羅巴の内部に侵入したかの吾々の疑.間に極 めて意義深い示唆を投げかけてゐる。なぜならば、基督教に取ってもそれが溶から奥地へ入り込む焉めの通路と して、河川以上にょり自然的な砲路が草見出来ない以上、ヘンニッヒの拳げてゐる如き地中海に輯ぐ軟羅巴の紹 大河は、基督教に取っても亦鉄雄巴内部砿侵入する唯一の門戸でなくてはならないからである。 ニー二 然しここに特に注意すべきは地中海に注ぐ欧羅巴の大河が線ぶて吾々の目的に合する性質のものではないとい J〃ββ 〓 ヱ03ク ふ事である。若し然らすとするならば、ポウ河も吾々の目的に合すべき筆である。然るにへンニッヒも明かにP −ヌ河、ドナウ河、伶叉ド一一エプル河のみが政雄巴内部に侵入する希猟その他の商業の唯一の門戸であつたとな し、然かも黒海に注いでゐるドナウ河ド一三プル河とに就いて述べる纏あつて、地中海に注いでゐるポウ河に就 いては何等述べる魔のないのは何の.薦めであるか。 宗紋停措に於ける地理的制約 あるが、それは又上述のアルプス山脈なる地理的特徴の存在によるのである。 低値の牒い理由がある。之に反して七−ヌ河とドナウ河︷は上述の意味に於いて範大なる慣倦を有してゐるので 恨令この搭谷を沸るとも内部欧羅巴に遷する事は不可能である。ここにポウ河の交通路として、前二者に比して ナウ河を潮るか、執れかの道を選ばねばならない。然るに轟に奉げたポウ河はこの障壁の南部に終始するを以て ︵4こ ルプス越をせない以上、希楓文明の如くこの防壁の左端を迂同してローヌ河を湖るか、それとも右端を同つてド 史の前面に立つ事が出来なかつた程である。されば若し地中海方面から内部歓薙巴に這入らんとするならば、ア ︵3︶ は全然中断され切り離されてゐる。従つ.て文中央歓羅巴は地中海文化からも永く切り離されて、中世に至る迄歴 西に走ってゐるこのアルプス山脈に依って占められてゐる。従って之の障壁の鴬めに中央歓轟巴.と南部歓羅巴と 南欧羅巴の地理的特徴は言ふ迄もなくアルプス山脈の存在であつて、南欧の大部分はBi琵y輝から黒海迄瀧 れなければならなかつたかの疑問に就いても、重要な解決の鍵せなるからである。 理的特徴こそ、この間題解決の鍵であると同時に、叉何故にドナウ河とローヌ河とが特に唯一の門戸として選ば 吾々はここで今暫く南部欺薙巴の地理的特徴に就いて考察を試みなければならない。なぜならば南欧羅巴の地 ▲▼ 宋教樽柿に於ける地規約制約 以上吾人は、基督致が内部歓羅巴に這入るに雷って如何なるコースが選ばれなければならなかつたかに就いて en5.rOnヨeロt一p.∽∽N Weltくerkeぎs−−讐∽一p.∽ 自然地理的推論を試みたのであるが、史章は果してこれを裏書きしてゐるであらうか。 R.Hnn致g︰Die Hauptw品e des Henn好こbid.p.笥 Semp︼eこbid.p.∽∽N E.C.Seヨp−eこnf︼uence Of geOgrapbic 六 南欧羅巴の地理的特徴は、地中海方面から欧羅巴内部に侵入せんとする基督教に封して、僅かに二三の門戸を 開放してゐるに過ぎないことが、轟の自然地理的考察から推論され得たと信する。然しその門戸もそれぞれの地 理的特徴に應じて、之を通過する上に自然難易の相違あるは勢の然からしある虔であるが、基督教の倦播に取っ ても之が焉めの掛からぬ反映あるべきは容易に察知し得る庭である。 さてローヌ河、ドナウ河が基督教北進の唯一の自然的門戸であらうことは、前述の所論に依って推測され得る が、然し基督教は果して険難なアルプスの障壁を乗越へ踏越へて前進出来なかつたであらうか。 Adige河 にかこまれ、しかもポウ河はアルプス山脈と同一方向に流れてゐる薦めに、アル 次にこのアルプス越方面に就いて考察しょう。亜に一寸倒れた如く、ポウ河流域はアドリヤ海沿岸と共にアル プス山脈に依ってC已・紆訪aC プス越するには殆ど役立たぬと言ってよい。然るにここに唯一つ、束アルプスから直ちに商流し来る JO鱒 ( ′ヽ / ̄ヽ ′ ̄ヽ lP■ ∽ N トJ \J \J ヽJ \_′ は、プレンネル学監芸て山向ふのどn ︵l︶ には1帝人の侵入に備 が北方からポウ流域に侵入した時の壇路は、このプレン 河と連試され、.古凍このコースは最も多く使用された極めて重要た交 遍路を構成してゐる。例へば紀元前一〇二年Cimbri NOユcum・Raeti師 ︵2︶ もこの駐屯雫植民群の中には多数の基督教徒が混じてゐたといふ事は、幾多の殉教悲史から疑ひ得ない虞であ へる薦め雑損の駐屯軍、殖氏群が多数造られたが、彼等の通った通路はやはりこのプレンネル地であつた。然か ・ネル地であつた。虔が薙馬皇帝Au習StuS以来上流ドナウ河地方の ヱ04J 票数樽柿に於ける地理的制約 も相箇してゐるがドナウ河も右同磯、香それ以上の特性を備へてゐる。従ってドナウ河の上流は、河口の黒海か ︵3︶ . て釆てゐないことである。例へばポウ河の上流は、その河口から距ること、PnOa潜からの距離の三倍以上に ヒ注意すべきはドナウ河がポウ河と同様、その流れの方向の薦めにその上流に於いても、決して海から遠く離れ つめられて以来、黒海の海上交通が頗る頻繁を極めて釆たことに就いては、今こ1で詳述するを要しない。只特 ら北進せんとする基督教にほ何等の門戸をも埴供せないかの様に見える。然し黒海沿岸が希臓の植民地を以て哩 次に吾々はドナウ河流域の基督教に就いて論及しよう。勿論ドナウ河は黒海に注いでゐるが馬めに、地中海か たかといふ疑問を喚起して置けば充分である。 邁ばれたことを認放すると共に、アルプスを越へて進んだことそれ自身が如何に大きなハンディキャップであつ は特別な事情によるとは言へ、基督教がアルプスを越へて北進したこと、然かもそれには最も自然的たコースが に何虚迄侍播して行つたかといふ事に就いては、ドナウ河流域を考察する機倉に合せ考へるとしよう。唯ここで つて、この地方の基督教がかかる人達の努力に負ふ庭極めて大たるは勿論である。然かしこの基督教が何時頃迄 ー 詫数停播に於ける地理的制約 竺山 ら極めて遠いにも拘らず・地中海方面との拒りは頗る僅かに過ぎないといふ一種特別な現象を呈 ばドナウ河上流地方に於いては地中海方面から内部欧薙巴に入る門戸が自然地理的には絶無と言 から僅かに北進の道む見出さねばならなかつたのである らす、香絶無であるが薦めにこそ前述するが如き峻瞼なアルプスむ乗越へて基督教は北進せねば ︵4︶ であるが、叉ギリシャ商人の如くアドリヤ海のIs告a が、それでもこれ等の基督教徒に依って多大の影響む蔑ろてゐるのである。従ってドナウ河の下 ︵6二 希眠から基督教の俸播を被ったのであるが、その上流地方は地中海方面即ち上部伊大利から其督 セと言へるのであつて、﹁ドナウ河の上流と下流に於いては、中流に於けるよりも早く前の虞理 ︵6︺ め得たと述べる﹂一革督数史家の言賢しく貰に中つてゐる。然しこれは勿論大醗論で雪て個々的に具琵 には東部からと南部からとの影響が極めて錯雑してゐる。殊に東部即ち下流から上流への俸播は はれたと想像されるのであつて、潟めに或る地方に於いては両方面からのコースが交錯して複雑 ゐる。今便宜上こり交錯せる二三の例を馨げて見よう。 北伊太利の東部には多くの修正管匿が存在したが、それ等の後代に於いて取る軍度なり付置か 力への侍道は羅広からとは考へ難く、寧ろバルカン牛島即ちSirmium−S邑ica−Te監−Onich方面からであら ぅと察せられる。虞が迫々政治的事情の髪動に伴れて、薙馬の教倉が次第にこの地方の町に影響 ︵7︶ つたとハルナックは述べてゐる。叉S・Bige−mairも次の如く言つてゐる。ローマから北伊太利への路は博通路 ︵8︶一 ではなかつた。恐らくこの地方の基督致は甫からではなも、束からやつて来たと。吾々はここにドナウ河の倍道 JO4g 路としての甚大なる役割.を痛感せざるを得ないぐ又NO計u月に就いてⅧ同様の現象が蔑見されるがS・Hauck は之に就いて次の如く述べてゐる。伊太利に近いことと、エトルリヤ時代に始まるこの地方との清澄な商業は、 塞督教が伊太利からノリクムに初期に侵入して乗たことを推論せしめる。然し東方からも多くの信仰の種子はこ ︵9︶ のアルプス地方に蘭されたであらう。なぜならばシリヤの商人は、ガリヤの町を尊兄した様に、ノりクムの町を も捜し目したからであると。殊にノりクムの教食管宙が首府Aqui互aに壊してゐたことは、明かにこの方面か ﹁四11七紀に於けるMO乱aは東西の思 へ10︶ らの侍道の指標と看倣すことが出来る。更に叉ドナウ河に沿ふて下流から上流への基督教の侍播があり得た如く ︵11︶h 上流から下流への侍播もあつたものと考へなければならない。この事は 想的交換の大部分が教禽に於いて成し遂げられた州である﹂と言ふハルナックの言某から覗ふことが円木るが、 の教倉は更に潮つて上流のノりクムや 琵欲樽柿に於ける地理的制約 くinde−icia,Raetia へ11︶ にも紳の発光を倖へて行つたと 吾々は今迄始めから基暦数がドナウ河に沿ふて俸拝したものと決めてかかつて論述して釆たが、果してドナウ 一々跡づけることは殆ど不可能に近いと言はぬばならない。 以上の如くドナウ河流域は、束と南から或は東と西から倖遺されてゐるのであつて、従ってその俸遺コースむ 庸方からの倍道を物語ってゐろ。 考へられる。虞がくinde︼icia及びR完iaの恰正管笹は共にMai−呂dに廃してゐたのであつて、これは明かに ︵13︶ ノウクムのLOrCh に撒かれて行った﹂と述べてゐる虚からも認めることが出来る。然るにドナウ河畔最初の教含と考へられるこの ︵H︶ 叉羅岳の檜正Agapiニーが﹁信仰の恩寵は打綬く牧師連の努力に依ってLOrChから上下二つのPannOnia州 JO4β 宗教樽柿に於ける地理的制約 旨iOpO−is−TOmi.NO碁dunumに基督教徒の居つたことが知れるが、叉同じM。乱aのNai芦Sは恐らく 多くの殉教錬の報する虜にょれば、ニケヤの宗教合議以前既にMO乱aに於いてはSin乳dunu声DurOSt02 河に滑うて倖播したか香か一應吟味する必要がある。 芦 ︵沌︶ ︼修正管画であつたらしい。別にニケヤ宗教合議の署名からSardicaのDardaniaには二倍正が居り、黒海滑 摩のMarcianOpO−isにも一倍正の居た事が認められる。 次にPannOniaに於いては如何といふに、殉教録はSimium、Ciba−is−BOnOnia−Si邑a㍍ear まaに基督教徒の居た事む報じてゐる。更に﹂く巴en修正がM亡rSaの伶正になつたのはやはりニケヤの宗教付議 ︵16︶ 以前であつた。伺叉造か遠方に任するPOet。riO︵Pettau︶にすら三百年には一倍正が住んでゐた。 かく見来る時、モエシア及び。ハンノ。アを通じて基督教徒が四世紀初頭迄に据でゐたと報ぜられる地方は、 Perintb 呉港胞岸を除けば殆ど総べてドナウ搭谷に滑ふてある事を蔑見するのである。これは明かに基督教がドナウ河流 域を軌道として侍播して行つたことを物語るに充分である。 .然しここで忘れてはならぬことは、かくドナウ河を河口の黒海から沸って来る基督敦俸播のコースの他に、更に .ハルカン牛島の南棟から牛島を北進して遽にドナウ河のコースに合流する俸播のコースが別にあることであろ♪ 由ちBithy2.aからByzantiumの鉄雄巴の地に足を柁入れた基督教が、海岸俸ひに薙馬の軍道を に至りここより軍道に■従つて西北進する道がある。このコースは一方Mari打a河口の↓rajanOpO−isから聾し ′て、マルツオ河に滑ふて北進して来たコースにA註anOpO訂に於いて合流して、更にこの河を潮つて西北進す 〟拍媒 る。 真数倖播に於ける地理的制約 の外更にマルツオ河に滑ふてゐるアド∴リヤノポリ はサルデカの宗教合議に‖席したノりクムの修正連に就いて述べる虞があると言って のみが古い修正管置として認められる要求権 聖Ma軋mi−ianが崇拝されてゐるSatzb弓gにはニケヤ宗教合議以前の確賓な許櫨は何等見出されないとも ︵19︶ を最も多く持ってゐるに過ぎたい。 崇敬合議以前に於いてはLOrCh以外にはたい。僅かにTeurnia 然しノりクムに於ける修正管霞及び基督教徒に就いて浅かの確資性を以て云々することの出来るのは、ニケヤ ︵18︶ ゐる。 三四三年にAthanasius るが如く三百年に既に修正が住んでゐたことから崩かに立野される.とハルナックは言ってゐる。叉彼に依れば 督敦が倭人した事は、殉教錬によつて認められる虚であるが、伶ノリクムの閣境に近接するPe雷uには前述す 密教徒が住んでゐたが、これは上述の地理的特徴から初めて理解出来るものと信する。 ■▼ 更にドナウ河を潮れば三百年には全然羅馬化されてゐたノウクムに達するが、ここへニケヤ宗教合議以前に基 ︵け︶ ス、Pbi−i署OpO−i∽、サルデカ、パルグル河のStObi−Scupi更にモラバ河の︰Zaissusには既に四世紀初頭迄に 致してゐる。さればByzantium︸Perinthus−Th窃Sa−○ロice との二つ紆コースはバルカン半島の地理的特徴に最も適合した重要な交通路であつて、羅馬の道路もこれと略一 ・の一文流MOra宅a河を更に西北に下つて、.マルツオ河のコースと合し遂にドナウ河本流のコースと合牌する。 叉別にWardar河口のTh鎗00巴Oniceから敬したコースはこの河に滑ふて梢西北上し、Scupiからドナウ河 JOJ古 ︵20︶ 宗教播停に於ける地理的制約 八ナ.ックルは言つてゐる。 更にドナウ河の上流RaetiPに就いて言へば、ここへ基督教の侵入したのは確かにノりクムよりは過れてゐる と見られるが、ニケヤ宗教合議以前に基督敦圏牌の存在してゐたといふ静援のあるものは、僅かにAugsb弓g ︷22︶ ︵21︶ のみに過ぎないのであつて、Regensburgにもニケヤ宗教合議以前に於ける基督致の存在を許嫁だてるものがな い。 以上述ぶるが如くノリクムとレチアに於いては、基督教の倖播のコースを決定すべき確賓な静櫨に頗る乏しい のを憾とするが、然しこれ等の僅かな史賓も庸基督教最初の俸播が、ドナウ河に滑ふて行はれたものなる事を推 測せしめるに足る重要な一史料たるを失はたい。 然しこ1に注意すべきは、この地方に於ける基督教の変質がかくの如く乏しいといふそのことである。このこ とは一面明かにこの地方に於ける基督数界雷時の一般情勢を物語ってゐると看ることが机来るからである。然か もこのノりクム及びレチアの地方は、地中海方面から北進する基督教が主として侍播して行つた地方である事は 眈に上述の塵論で明かである。こLに吾々は南畝羅巴の地理的特徴が基督敦の北進に取って如何に大きなハンデ ィキャップであつたかが物語られてゐることを洞察せぬばならない。なぜならば同じく地中海からローヌ河む北 上した基督敦がニケヤの宗教合議迄に既にフランスの各地に倖播し、更に遠く英園迄及んでゐる事寛があるから enま1.〇nment一p.ひ諺 JO4β せある。 ︵−︶ E.C.Semp︼eこnf−neuces Of geOgraphic ▲ ︵N︶ ︵か︶ ︵∽︶ C.G.B−umbardt㌔d∴く∼rSuCheiロ2r Harnackこbid.p.禦岩 B−じmhardt一ed∴ibid.p.N苫 Hnkこbid.p.00芝nOte N Harnack ed.こbid.p.遥∽nOte B−umFardt ed∴ibid.p.Ng al−g2mein川nMissiOnSgeSCbichte N∽∽−Harnack⋮Die MissiOn und Ausbreitung des Cbristentums−p●霊道 K.DOくe︰AごgemeineくerkehrsgルOgrapEe︸p●∽− ︵の︶ ■︵∽︶ ︵可︶ Harnackこbid.p.遥∽nOte− ∵姐崩鼎Harnackこbid.p.∞3nOte ︵¢︶ B−umbardt ed∴ibib.p.N謎 Harロankこbid.p.遥UI 00︶ Harnackこbid.p.遥∽nOte ︵−N︶ Harnack︰ibid.p.00∞中ロOte B−umFardt ed.こbid.p.N諾 ︵〓︶ ︵−ひ︶ Hnk︰ibid.pp.遥∽・道中 ︵−血こ ︵−巴 Hnkこbid.pU.遥−・遥︼ Hnkこbid.p.遥∽ Hnkこbid.p.霊道 ︵−00︶ Hnkこbid.p.霊石 Hロkこbid.p.遥∽ ︵−e ︵−e ︵−3 ︵NO︶ ︵NN︶ ︵NC Hnkこbid.pp.監申垂芯 票数停播に於ける地理的制約 derKirCbeCbri JOき7 柔軟俸播に於ける地理的制約 七 吾々は集に。−ヌ河がドナウ河以外に何もう二つの内部欧薙巴に通する通路であるととに一寸濁れて置いた。 。−ヌ河の交通路として持つ重要性は、上述する如き河そのものの持つ本来の慣値の外に、アルプス山脈が地 中海方面と内部欧薙巴との交通を遮断する障壁を構成してゐる上に、ローヌ河以外には地中海方面から欧確巴内 部に通する如き長大な河川が他に存在せないとと、及びローヌ河がドナウ河と同株舟行可能な河である事によ てゐる。然かも更にローヌ河がドナウ河に比して遠かに交通路としての重要性を持ってゐるのは、一方は黒海 経いでゐるに反し一方は地中海に河口を有してゐること、及びローヌ河が地中海の河口から眞直ぐに北に延びて ゐること、この二つの性質に負ふてゐると考へられる。さればローヌ河の持つ文化史的意義は、か1る地理的特 彼の考察を保って初めて完全に理解され得るのである。而してローヌ河口に近いMar紹≡灰がナイル河口のA− e誓rdriaと並んで世界交通史上幾世紀にも渡って王座を占めるに至った理由も、この地理的特徴に負ふてゐる ことを知らねばならない。今かくの如き地理的特徴にょつて招来されたこのローヌ河畔地方の通商貿易が果し 如何なるものであつたかに就いてモンゼンの名著難馬史にきいて見よう。 彼モンゼンはケーザルが来る十年以前にものせられたガリヤに就いての或る捕鳥の中に次の如き言葉があると 述べてゐる。﹁ガリヤ州は商人で一杯であつた。そとには薙馬の市民が群が.つてゐた。如何たるガリヤ人も羅麗人 め仲介なしには営業が川来ない。ガリヤに於いては人の辛から手に渡る一ペニーの金も、薙馬の市民しの合計 ヱ0っ好、ゝ ︵l︶ 迫って来る﹂と以て如何にこわ地方が薙馬商人の活動舞婁であつたかを想像することが出奔る。更にガリヤと海 馬lの貿易が如何に清菊に富んで満たかは′・ケルト地溝の最も頑強な一種族が、.個々の猫逸民族の、薙馬人上の ︵2︶ 通商貿易に封して蚤布した禁令なるものに依っても充分窺ふことが出来る。然かもこの清澄な通商貿易の中心が ローヌ河畔の都邑であること虻今改めて経々を要しない。従ってロ.−ヌ河の地理的特徴に基づくこの流域に於け る通商貿易の蟄連は、やがて来るべき基督敬の倖播コースをここに明示してゐると看ることが出来る。若し果し て基督教の内部歓羅巴への侵入も、この道が選ばれなければならなかつたとすれば、それ濾明かに地理的制約か ■ ら自由であるこ.上の仰木なかつたことを立辞する滝のである。 然し上述するが如きガリヤと羅馬との密接な関係は、このガリヤに於ける基礎教世最初恐らく薙馬から訝らさ れたもので思らうとの推測を裏書するものであるかの如く見える。然し事贋は然らざることを教へる。なぜなら ばガリヤの基督教は希臓、小童細雫シりヤ等の東方から遅くとも二世紀の ︵3︶ 。−ヌ河を潮つて北上して行つ潔からで遜る。この上とは一面南ガリヤと上述の凍音譜闊との地中海交通の極め て繁頻なるを聖叶ると共に、南ガリヤた於けるこれ等諸国の影響の掛からざるものある 就いてハルナッ 票数樽柿に於ける地理的制約 〓︶ Tt MOBヨSen︰ROmische Geschicbte、gekロ儲teAu品abe一p.遥N 責i亡S焉mprjnciaなる表現に伐つ七解消される如きものではない﹂.と。 ︵4︶, 問により多く使用されてゐたに相違ない。HarbOnenSisに於ける希臓的要素の力強さは、こHarbOneロSis:ta−ia ね如 環故停播に於ける地理的制約 E・Laゴ.SSe︰HistOire de France−p●鼻 MOmmSenこbid..p.遥∽ 五〇 HarロaCk︰DieMissiOnundAusbei−ungdesChris−en−亡mS−p●∞N↓●nOte∽ 灰、①rang2・くie2寓√卜yOn−くiまers、くa−eローia等のP−ヌ河の本流に滑ふた都邑が饅見される。甲﹂n外にロ 次に三二五年迄に基督教徒のゐ東南ガリヤの都邑を列聾するならば、先づ河口のMar邑辞を始としてAr− ︵4︶ る必然的締結である。ハルナツクも亦、若しマルセイユに於いて希岨的基督教が果し 伊太利の建設にかかる本来薙馬的の町であえ了リヨンに於ける基督教徒が希臓的で漂 能てあらうと述べてゐる。 セィ.ユに、希臓的蕃教の霊差さ悉といふ事は殆ど不可能の事に屠する。これは明かに地理的制約の教ふ ぬとする琶ば、吾々はローヌ河口に収するマルセイユ、殊に陸と海との結合鮎たる商 ャの基督敦が希晩方面から釆てローヌ屑を潮つてくienneや1yOnに到達したといふことを許さなければならー ︵3︶ にマ・ルセィユの基督教に就小ては何等の確許もなく、僅かに推測して満足してゐなければならない。然し南ガリ ︵l︶︵2︶ 迫害に就いて、アジヤ及びフ芸ヤの兄弟達に暮雪.蛋翰及びそ一の他の事贋から察知吉ことが出警.。廃る 及び.Ly。nに希晩朋基督教が存在してゐたことに就いては、七の地の基督教周腰が一七七年のMarcAu邑の 次に吾乍は史茸の方面から基督教のこの方面に於骨る俸播のコースを辿る事としよう。二世紀の年頃・くienne ( ( ′ヽ Jゝ (カ N ) ) ) 押印 ーヌ河以束のくaisOローDie・Apt−G尋。穿等にも基督教絡がゐたことは、ニケヤ及びAr−es ︵5︶ 席した人名にょつて浮揚立てられてゐる。然るに之に反してヌ河の西方は全然趣を異にし、かくの如き都邑の 票数停措に於ける地坪的制約 b∽河に滑ふて東北進す虎ば、その極まる虞にぎsges山脈と冒a山脈とが南北から迫り乗ってゐるのを発見 の宗教合議に酎 更に吾々はリヨンからSa。ロe河に滑ふて北上して見よう。Cha−OnSの北に於い七本流ソーヌ河と分れてDOu するD弓anCeこ紹reの如き支流に比して、P−ヌ河が交通上極めて重要な意義を持ってゐることが察せられるP すればローヌ河本流を潮航すれば、アルプスの向側に出られるといふことである。この鮎ア らぬことは、。−ヌ河がアルプスの北側から聾し、そしてその西北部を迂廻して商流してゐることである。換言 てリヨンに於いてSaOne河と別れて、右折して梢東北に向つて潮つて行かぬばならない。ここに注意せねばな 、今ローヌ河を河口から上流に沸るならば、直ちに東方からD岳nCeこ給r2等の支流の合し来るを見るがやが き問題である。吾々はここでも例によつてローヌ河上流の地理的特徴を考求する庭がなくて さてP−ヌ河を北上して行った基督教は、次に如何なるコースを辿るべく像定されてゐたかゞ書芸考察すべ た喜っても、基督教がローヌ河口から上流の都邑に順次根を下して行つたといふ意味ではな のコースとは一コースの順次的俸播のことではないことに静意せねばならぬ。 徹してもローヌ河を潮つて倖播した事が明かにされるのであるが、ここに注意すべきはロー 近くCeくだnneS高塞が雀へて支流の大なるもの一つとして存在せぬが薦めである。かくの如く基督教は史茸に 聾見されないのは明かにローヌ河の支流が殆ど観べて造か東方と北方とから流入してゐるに JO揖 票数樽柿に於ける地規約制約 要一 する。然かしここにかの有名なBeきユ越、所謂B弓gundiangateが横って、今潮つて釆たヅー河とその反封 例のRhein河とを結合して交通上極めて重大な役割を演じてゐる。Semp−e女史もベルフォート越はローヌ、 ︵6︶ ソ†ヌ、及びラインの三つの河流を結合するが薦めに西欧薙巴に於ける最大の歴史的門戸であると述べてゐる。 更にヅー河を引かへしてソーヌ河を沸りその上流を極めるならば、MO邑e,Me尭爾河の上流がここに待か まへて更に北進すべきコースを約束して呉れてゐる・。 以上吾々は。−ヌ河の本流及び支流の主なるもののコースを跡づけたわけであるが、かかる河川の方向は、基 督教俸播の上に重大な制約を及ぼさすには措かなかつたであらう。 即ちマルセイユから聾してローヌ河を北上し行つた最初の基督教は、≦βne,LyOnに至り一部はりヨンから 右折して束北進し、訂neくa湖畔に到琴﹂こから更に上P−ヌ又はその他に澹ふて進み、常時He−くe昏nの居住地 に挟立つて行ったと考へられる。勿論ニケヤ宗教合議以前に於いて之を立野する確たる史寛がないのが球念であ るが、然しこのヲースを辿って釆たことを想像せしめる二三の例琵は蟄見することが即来る。例へばジュネーブ aC DiuロySiOfundata−≦e冒enSib亡.汎Epi閂upisミから一基督数史家の言へる如く 同書館に今尚建つてゐる羊皮紙の聖書の末尾に蔑見される文句こGene謡nSisEcc︼esia抄discipu−isA¶OStO 声ParacOdO その附近の地方は常時その首府がくien諸であつたA−−ObrOg袋の地に廃してゐたことから推して、くieロneの この二人の恰正が二世紀の後年最初の使徒としてジュネーブ地方に基督敦を節し、ここに軟骨の基磯を据へたと ︵7︶ いふ事は、恐らく事賓として認めねばなちぬであらう。 J∂よさ が所絹テーべの軍隊は全然基督教徒であつたと言つてゐる如く、彼等の中に多数の基 ︵8︶ 叉。−マの移住者やTb2bai∽の軍隊は右の如きコースを辿ってヘルベチアンの地にやつて釆たものであるが ︵9︶ てゐる虞である。 以上の難から基督教はP−ヌ河を沸ってヘルべチアシの西方から内部に侵入したと考へられるが、一基督教史 家の富もこれを裏書きしてゐる。彼に依れぽ基督教は西端Sequaneニandの方面から甘−ヌ河を沸って 討しょう。 紳の碍晋の炬火を鮎じてガザヤを輝かした薦めにガリヤの光と呼ばれるワニコンの修正Iren賢s , ..こ二. 宗教倦播に於ける地理的制約 唱﹀ :ニ︰...︰. ■ ︵ご れ得る。文事葺この時分からB琵琶n.・はサ㌻の修正管霞に隷属してゐるが、恐らくと・1から基督教卓初の 二人の宣教師は三﹂年間厭くことなく神国建設に努力したといふ史的侍詮があるが、これは確茸な事案と看徹さ ル ︵世紀一八〇年︶に門弟二人を謬∽an召n︵≦sOロtiO︶に派遣しこの地方に基督教の眞理を停へしめた虞、この が就職第三年 次に吾々は棒じて、ワヨンからリーヌ河、ヅー河と翻りベルフォート越を過ぎてライン河に通するコースを検 てゐると考へられる。 ︵11︶ べてゐる。然かも訂想定はCO邑an−inus大帝以後に於望この地方の基督教聾展の経路が充分これ豊許し ︵伊︶ an湖畔にその永住の居を打撃壷にG邑から漸次Waad−−Uecht−a阜Ergnの方面に境だつて行つたと述 訂m 教迫害の薦めに、ガリヤから多勢の教徒がこの地に亡命し、ここで基督教を横めたといふ事も一般的に認めら 督教徒のゐたことは殉教錬にょつて認められる。その上二世紀の後年から三世紀の始にかけて狛狭を極めた基督 サヨンの修正Euc訂rius J〃∂∫ 票数停播に於ける地理的制約 萌芽がBN邑の地方に植付けられて行つたらしい。而してこの推論にして若し誤ないとするならば、基督教は バーゼルから更にライン河を上流から下流へと俸播して行つたことも認めぬばならないが、吾々は之を論評する ︵14︶ 史賓を放いでゐる。然しHreロaeuSの詳言に依ればゲルマニヤ最大の薙馬都市に於いては故に一八五年に恰正の ︵15︶ ゐる基督教圏饉が存在してゐたと言ひ得るが、このゲルマニ・ヤの薙馬都市は下ゲルマニヤのみに制限さるべきで って、之は叉上述の推論を裏書きしてゐる様に見へる。 雨河 はなくして、リヨンに近接する上ゲルマニヤにも適用さるべきであるとするハルナックの見解は極めて穏皆であ 最後にもう一つ残されたコース即ちリーヌ河の上流を極め、更にそこから賛するMeu指及び買C邑−e に澹ふて下流に下つて行く道があるが、吾々は今これをフィン河の下流と合せ考察するを必要とする。なぜなら ︵16︶ ばモーゼル河はライン河の支流であつて、ライン河との関係の深い事は勿論であるが殊に、マース河とライン河 とはシェルト河と共にその河口近くに於いて、河系の迷宮を構成し極めて碑按な関係を持ってゐるからである。 Mai己及びS首a拐bu 前述せる如くイレネウスはゲルマテヤ最大の薙馬都市には、眈に一八五年に恰正のゐる基督数囲膿が存在し∪ ︵17︶ ゐたと述べてゐるが、ハルナックはこの最大の裸馬都市として先づK望nを馨げ次ぎに ︵18︶ rgを奉げてゐる。虚でマース河流域のTOngemの最初の恰正としてケルンの恰正Materusが恐らく三世紀末 ︵19︶ 以後に就任してゐる事案、更にモーゼル河流域のTrierの恰正管慣は三≠紀の後年、MaterロuSの協働者 Euc harius及びくa−eriusに依って基礎が置かれた事茸、これ等は明かにマース河及びモーゼル河の下流地方に於け るライン河方面からの基督教庵播の跡を物語ってゐる。 JOさ≠ ︵即︶ ︵21︶ には基督教徒のゐたこと、倍マース河 然るに之に反しマース及びモーゼル雨河の上流から下流への基督数倍播のコースを想定せしめる材料が極めて 僅かではあるがある。 先づマース河に就いて見るに、三二五年以前マース河上流の宕rd呂 ランスの西部地方に就いて一瞥しょう。 先ぜフランスの河川を見るに上述のローヌ河やその支流を始めとして、西部フランスを貫流する 票数俸播に於ける地理的制約 ると共にその倖播のコースを見分け易からしめる。 間の蹄係の少いてとは結局各地に萬遁なく河川を行き渡らせる事にもなるがこれが又宗教を早く披く倍播せしめ 水量の多いことは舟行の便を輿へ、︵b︶の垂直な流の方向は通商交通上重大な役割を演ぜしめ、︵C︶の諸川相互 口から垂直に近い事、︵C︶従って諸川の相互的関係が極めて薄い事、この三大特質む具へてゐる。この巾ニa︶の e一GarOnneの諸川は絶べて洋々たる大河であつて︵a︶水量の極めて多いこと、︵b︶その流れの方向が殆ど河 Seine、LOir の現象は明かにこの雨河のライン河に封する地理的関係から説明され得ると信する。次に吾人は方向を特じてフ 以上の如くマース及びモーゼル雨河に於ける基替歌は二つの方面から侍播されて釆た事を知るのであるが、こ と共にBe−gicaの唯一の伶正の任所であつたこと等から推測することが出来る。 に基督教徒の居花こと、更にモーゼル河流域は哲lgicaに廃し然かも上述せる如くリヨンが一時Lロgd亡nenSis ︵22︶ し得ると考へられる。次にモーゼル河に就いて見るにニケヤ宗教合議以前モーゼル河上流のTO已、Metzには眈 上流は謬直caに廃し、リヨンは一時Lu乳uロeロSisとBelgicaとの唯一の修正の任所であつた事等から推蹄 ヱ05∂ 菜数停滞に強ける地理的制約 空ハ ︵封︶ ▲さて上述する如く基督敦はローヌ河を翻つて肌ニコンから更にリーヌ河を北上してシャワンに到達したが、 シヤ。ンからCCted百を越へれば西部フランスに通ナる.道、が開けてゐること里心れてはならない。即ちとこ にはセーヌ河と。アール河の上流が内部ガリヤに通する造を捷示してゐる。重々は基督教が右に示した如きコ スを辿ってセーヌ河、ロアール河を下つ、て停播して行つたと想俸せぎるを緒ない。なぜならばセーヌ河とロ ル河流域の都市に些二二五年迄に基督教徒が存在してゐた事が明かにされてゐるからセある。先づセーヌ河に いて見るに、セーヌ河本流に臨むゴCyeS一Pa計ROuenその支流MarneのLangr寧C蔓OnS.YO ︵ね︶ Au諸⊇㌣紆nsには四世紀初頭既に基督教徒が住んでゐたのである。 にも同年迄に基督教徒が住んでゎた事 次に。アール河に日を持すれば、基督教想Autuロを通ってロアールに出でこれより下つて行つたと考へられ る。.即ちAutunを始めとしてPアール河のOr−仙ans﹀A首ers−Nant窃 ︵25︶ が明かにされてゐる。而してかかる西部フラγスへの基督教の侵入が前述せる如くソーヌ河のシャロン附近から Cuted、Orを超へて進んだと想定きれる理由は、︰セーヌ河とロアール河の水路からも求めることが銅来る。なぜ の高 ならばセーヌl河の水路を見るにその本流は勿論、多くの大支流は源を殆ど線べてコートドール附近から聾してゐ る。然るに。アール河はセーヌ河の遠か南方に任し多くの支流と共にその瀕をC望enn串及びAぎer習e 嘉に聾してゐる。従つて若し基督敦がシャロン附近から西部フランスへ進出したとすれば、セーヌ河は.ロアール 河に比して遠かによい基督教倖播の通路を提供してゐたと言はなくてはならない。而して三二五年迄の基督教 播の史箕は明かに之を裏書してぁるのであつて、セーヌ河流域に於ける基督教倖播の茸績はPアール河のそれに J∂占∂ 此して遠かに倭れてゐる事は明かである。 乗数停滞に於ける地理的制約 Ceくe た現象が行はれたと想像することは強ち不嘗ではなからケ。若しこの想像が許されるとするならばCe・√勇n汲及 塵がアルプス山脈とは比較にならない位の障壁に過ぎな違を考へるならば、jに於いてもアルプス越と同様 合政治的事件と結合して行はれ身のであつたが、然し否定する事の出来ない事賓である。吾々は今Ce左meS高 だが眈に述べた如くアルプス山脈を越へて内部欧薙巴へ侵入した基督教の俸播コースがないではない。多くの場 地方に出る方面には、最も早く基督教徒が存在してゐな歴然たる事寛が畿見されてゐるからであろ。 m訝高萎、Au∃g完高婁を右に迂回して、ローヌ河を沸りセーヌ河を辿る地方と、之を左に迂回してガロン河 もガロンヌ河を辿るかその執れかの途を選ばねばならなかつたからである。即ちマルセイユを起鮎として 前途せる虞を綜合すれば、Ce雇員窃及びA弓巧習e雨商量の薦めに之を迂回してローヌ河を沸るか、それと を蔑見することが出来転事茸を想起せぎるを得ない。なぜならば西部フランスへ基督教の侵入して行つたのも、 ここで吾々はアルプスの障壁の篤めに基督教が中央欧薙巴に直ちに入ることが出来ナ、之を迂同して漸く進路 測することが出来る。 河口のNarbOnne、ガロンヌ河のT邑Ou翠Ag芦BOrda辰に竺二五年迄に基督教徒がゐ霊草欝略推 てゐるからである。従って基督教はこの方面からガロンヌ流域を侍って行ったと考へられるのであつて、Aude Ce完nneS高萎の薦めにローヌ河との直接的関係を範たれてゐるが、Aude河流域に依って地中海と閲係を保っ 次にガロンヌ河の基密教に就いては吾々は別の方面から考察せなくてはならない。なぜならばガロンヌ河は、 JO■ゴア 琉敦倖播に於ける地政的制約 ぴAuくergne繭商茎の間に介在する Mendeには三高年宣店の宗教合議に出席したDiakOnが居つねと 宝艶容易に理学ることが墨るのではなるまいか。 忘 忘∵こぶ石∵岩 石 E3 E;−q)1∝)一→ Hnkこbid.pp.讐∽・讐00 Hnkこbid.p.00謡 Hnkこbid.p.00記 Laまsseこbid.pp.∽ふ pp・?−−E・Renan︰Lぶgris2Chr宗tieロロe−p.会↓ ︵こ Ha⊇a許∴ロieMnissiOuきdAusb違−旨gdesChris−2n−ums−p・3−E●La喜seいHistO ′ヽ ( 「\′− ′ヽ ( {\′\( ′ヽ ′{\{ ′ヽ B−umbardted∴ib声p.N冨 Bどmhard−ed∴ibid●p●N笥 B−umhard−ed∴ibi>pp.N烏・N畠 Blumhard−2d∴ibid●p.N諾 喜n−ハニb声p.笠− B︼umhard−ed∴ibid●p●望山 耳nkこbid.p.0000N Sem廿︼e︰ibid.p.∽∽∽ 冥nkこbid.p.00巴 Hnkこ虞d.p.監N−B︼umhardt.ed∴ibid.pp.望?∽−O Hnk︰ibid・pp.∞遥・∞讐−Blumbar声ed∴ibid.pp∴岩申由遂 10占♂ J・Wa−腎scbeidいDeu−scbeHei宕e一eineGesnhisch−edesReichesiBLebendeutsch B−umharat・2d∴くだrSuChein2ral官m旨沌nMIs告nsgeschicF−ederRircbeChristi一ぎ −悪声p一−∽ Semp−eこnfluencesOfgeOgraphicen喜rOnmen−・p・∽㌫−H・S−egemannこerKa ′ヽ/ヽ ( ′ヽ ′ヽ の ひl腐−1い〉 tヾ \J ) \J \J \J ) \J \ノ \J \J ヽJ ヽノ しノ \J しノ しノ \J \J ′へ\′ヽ ′ヽ ′ヽ ′ヽ ′「 ′ヽ ′ヽ Hnkいibid.p.00↓の 笥nkこbid.p.∞謎 Hnkこ豆d.p.00↓∞ Ramp︷um ︸Ink⋮ibid.pp.00ヨt00遥 H.Stegemann︰Der Hnk⋮ibid.pp.00ヨ・00遥 Hnk︰ib己.pp.00ヨ・加↓00 Hnk︰ibid.p.00↓ヾ 九 deロRheいn、p.︻ひ JO.う〟 某欽俸措に於ける地理的制約 かく内部歓羅巴への基督教の侵入はアルプス山脈の障害の薦めに、之を迂回してマルセイユからp−ヌ河を潮 である。 時間的に早いことむ意味するものでもない事を﹂吾々は以上の如き基密教倖播の事葺から如賓に教へられたから のでもなく、叉反封に地理的に土地が相接近してゐることは直ち底面者の師係の深いこと、及びその閑係成立の 速く離れてゐることは何等その両者間の関係の稀薄なこと、叉その関係成立の時間的に遅れることを意味するも 見し得たことを思ふ時吾々は地理的制約の不思議な現象に思ひを致さざるを得ない。なぜならば地理的に土地か して然かも果さず、途に羅馬帝国に於ける最も遠隔の地たるマルセイユに至るに及んで始めてその一大門戸を蟄 さてパレスチナの地に聾して北進次いで西漸を授けて来た基督教が、各地に於いて内部欧羅巴侵入の門戸を探 N N N N N N N l\) 、1 の UI A ∽ N ト▲ ⊂〉 \J \J ) ) ・J \ノ ) ) 宗教樽柿に於ける地理的制約 六〇 らねばならなかつたのであるが、之の迂回の薦めに中央欧薙巴に任するトイツが西部に位するフランスを通して 縫って叉フランスよりも遅れて基督敦を受け入れなければならなつた事に注意せなくてはならない。即ち基督教 ぽフランスには二世紀の年に眈に這入つてゐる。然るにドイツには四世紀を待たなくては基替歌の存在した明瞭 ︵l︶ な染野を襲見することが出来ない。この事はドイツのそれ以前に於ける基督教徒が極めて僅少であつたことを物 ︵2︶ 議るものであると言へる。更に叉基督教は大陸を越へて英閲に眈に二世紀宋若くは二面紀初頭に倦播してゐるの であつて、之をドイツの場合と比較するならば、宗教倖播の地理的制約といふ鮎から見て極めて興味ある現象と 青はなくてはならない。 尚もうーつ注意すべきは、今ドイツと言つてもそれは.Germania5.野iOr及び訂rmぎiasupe旨r と呼ば れてゐた地方を指すのであつて、之は結局ライン河の流域地方に過ぎないのである。而して基督教はこのライン 何の流域のみを意味するドイツに最初俸播したに過ぎないが、反之フランスに於いては多くの大河に滑ふて停播 した禿めに、基督教は各地に廉く然かも極めて早く凍まつて行つたのであつた。れかる現象も基督教がア、ルブス 山脆を迂回して、フランスから侵入せらねばならなかつた随伴的現象であると見ることが出来る。 侍吾人は上述の方法に従ってスペイン、アフリカ殊にナイル河流域に於ける基督教俸播の跡を地理的にトレー スすることが出来ると信するがこれに就いては別の横倉に護らねばならなレ。 ︵N︶ Hnkこbid.p.監の ︵−︶ Hnkこbid.p.笠−、00B・ JαFO 井 了 穏 二五・五−一〇。習俗として物語らるゝものは﹃創世 誓約中此の婚が法規として視る1ものは﹃申命記﹄ 松 イスラエル民族のレヰラ婚と其の宗教性 近東諸族及びイスラエル族のレギラ婚に就いては且 ︵l︶ ての後家があるが、其の後の考察によつて多少の修正 ゼの捷として解る1箇所がある︵﹃馬太﹄二二・ニ三1 を施すと同時に、其の宗教的性質の存否について意見 記﹄三八と、﹃路得記﹄全饉であり、栢青書中にもモー を述べて見たい。 右暫約に視る1三ケの資料中、成立年代よりすれば 四〇︶。 三三、﹃馬可﹄一二・一入1二七、﹃路加﹄二〇・二七− レギ一㌢婚とは、其の本来の語義よりすれば極めて狭 義のものとなるが、術語としてのそれは単にレギルの 婚に限らす、それと類似若くは同一系統の婚を指し、 l史料である﹃創﹄最も古く、﹃申﹄、﹃路﹄と次第する ソロラ婚と封立し、時にこれを包含する。然し、花山約 映せり、と考へらる1節が多い。故に必すしも各害の成 には習俗としてのソロラ婚なく、本来のレヰラ婚より が、﹃路﹄の記述には却って﹃申﹄以上に裾臼い苗俗を反 はや1廣義の、けれども最も普通の意味でのそれが現 れてゐる。但し生見の掃厳に関しては印度のニヨガの 立年代の順序にしたがって其の欒化襲展を述べる諸に 説明することゝする。 六一 法と近似の特異鮎が含まれ、従つ七婚の目的に就いて はゆかない。今はこれらを綜合して、左の諸項につき 集教性の有無が問題となつて乗る。 イス一丁エル民族のレヰラ折と其の宗教性 JOβJ イスラエル民族のレザラ婚と其の宗教性 六二 一、該婚俗の淵汝、二、婚の傑件と横合、三、婚のりも造かに遼遠の古に潮ることむ示す。即ちイスラエ こ 婚の保件及び横倉 はその遊牧期にあつたこと殆んど疑ひない。 常事者、四、婚の拘束性と同避の可能、五、生見の ルに於ける此の俗の襲現は、明かに先史時代、恐らく 踪屠、六、婚の目的。 ︼ 該婚俗の淵源 レヰラ婦俗がこれを法規した申法に先つものたるこ 亡夫に遺子無き時たることは三富に共通する。然し 弟をy詳h抑m︵即ちーeまr︶、これと婚する鶉姉を︰㌔ 令遺女ある場合にも、養弟は婚の賓務を負はなければ その男性なるを示してゐる。即ち申法に於いては、恨 とは勿論であるが、此の港には婚の茸務捨常者たる義 申法のみは此の遺児をば明かに息︵ben︶ と限定し、 bb回ヨ辞なる語を以て表現し、かくの如き婚を行ふこ とを、夫を立場として、yibbh笹mてふ庸語を以て表 ならぬ。然るに七十人謂、ゲルガタ及びジョゼファス してゐる・。yibbb抑mとはy詳h抑mたるの茸を果等 す は、時流に従ひ、此の膵規を和げ、女子の柿利を比 た。邦繹は此の諸法に従って﹁子﹂としてゐる。﹃路 こと、即ち夫を失ひたる捜と婚して弟の責務を全うす較的尊重する立場より、﹁息﹂を改めて﹁兄﹂と胡じ るの意味である。﹃路得記﹄は遠き喝業者︵gO直︶関係 であ石故に此の語は見出されないが、申法と近似する得﹄が此の鮎如何なる制限を附せるや不明なれども、 通じ、チ一般であつて、娘を除外せりと断すろ閉山れ ﹃創﹄の記述には同様の名詞働詞が用ゐられてゐる。 ﹃創﹄は畢に子種︵温raJとする。N腎a.は両性に ﹃創﹄の此の箇所は1に属し、紀元前第九世紀のもの たること明かである。婚の普尊者及び婚の賓行が如是 肘ないが、申法の、法規として厳密なる表現の要求せ. く術語化せられてあることは、その俗の淵源がそれよ らるゝとは典り、物語なるが故に、漠然たる文勢的衣 JOβ2 ので、如此き習俗が耳。路得﹄の過去に於いて盛行し、昔 も亦同株に、yebh騨lm抑hたるクマルの義弟シェラは、 規にょつたのかも知れぬ、此の瓢は立言を軽へるのが 相中法には兄弟関係を更に限定して、﹁兄弟倍に居 幼少なれども通例ならばyibbh騨mすべきであつたと 時亦絶無でなかつた趣を暗示してゐる。﹃創﹄に於いて らむに其の中の一人死し﹂云々といふ。兄弟僧に居る の口吻が盟かに湛えられてゐる︵什詣︶。これらの朗 寧ろ穏賞である。 とは同一地方に住み、家領を共通にし、同一家族を梼 俸は、此の婚俗が、より古き時代に於いては、﹃申﹄、 ﹃創﹄に現るゝ沌のよりも、遠かに強い拘束力を有し ︵2︶ 成する成員たるの謂であり、此の未亡人がそれと婚を 禁ぜらるゝ﹁他人﹂︵、”sh2腎︶とは、これとは異る他 ︵8︶ 囁共闘係︵ge己−ah︶ に在るものならば、同一氏族の 倍夫たるべきもの吼、﹃路得﹄では、兄弟に限らす、 てゐたことを推定せしむるものである。 わ家族の男子一般を指すものに外ならなぃ。 三 婚の普事者 然し隔青書より反見する時、長幼次第したであらうこ 上にて、単に兄弟の一人といひ順位を示してをらぬ。 が、且ては法の規定以上遠か贋き範囲に亙るものであ き行為であると飴勢する如き、確かに此の婚の常客者 に、亡夫の父によつて亡夫に子を得ることすらが正し 遠縁の者と雉、之れに懲り得るLとを示し、﹃創﹄は更 とは想像に難からす、﹃創﹄もこれを傍辞する。但し、 ったことを暗示してゐる。恐らくレギラ婚は、ルイ・ 弟と蚊を原則とする。申法は前項の制限を附したる 療則として長幼逆倒したる場合もあり得たであらうこ であり、義弟は単に第一のg〇.dであつた上に、事茸 ︵4︶ とは否定し得ない。﹃路得﹄の敦ゆるところにょるに、娩 ゼルマン・レギも云ふ如く、笥ピーーah の特殊の場合 が未生の胎見たる義弟の出生を待ち、その成人に及ん 上、最も婚に通する地化にゐたが焉めに遂に狭養の蹟 六三 でこれと婚することも放て不可でない︵一・一一Ⅰ〓ニ︶ イスラヱル民族のレヰラ烙と其の素数性 JO(7J 六四 永く﹁除鞋者の家﹂と噴笑せられぬばならぬ︵十節︶ 面に唾せられ、妓によつて鞋を促せしめられ︵九節︶、 弄とは絶大のものである。彼れは長老の前で、捜よ少 と.して制度化され港規さへさる侮辱と、.その家族が永遠に亙つて忍ばねばならぬ嘲 イスラエル民族のレザラ婚と其の票数性 凌なる意味の︼2くirat2 るゝに至ったと見得るのである。 四 婚の拘束性 道徳上の善行、淳風良俗の経緯者として稀揚されてゐ るポアズが婦ルツ並にその夫の財を唄ひたるも、箪に 徴的行鴬にょり責務を薙れてをり、より遠き関係にあ 者たる無名の近親者も、形式的に自ら﹁舵軒﹂てふ象 ては、最も稀薄たる拘束力を示せるに過ぎない。噴業 の鬼をすら一度び問題としつ1も、金牌の構成に於い 封的のものではない。﹃路得﹄は、前項の如く、胎盤中 加之y。bh抑m抑Fとして亡夫に子を得るを絶大の義務 口して舅ユダのこれを己れに妾合すむ逝くるを怨み、 死し、桁クマルは、オナンの弟シェラの年少なるに薄 単にOnaロismを行ふに留りしが故に、神罰に慣れて その生子の兄に廃すべきを忌み、yil︶bh抑mせすして 更に﹃創﹄に至ると、オナンは娘を要るに於いて、 は未だ生々しい、寮質的な刑罰の臭が甚だ濃厚である。 的に堕せるを示せるに︵四・七1入︶、﹃申﹄のそれに のである。舵鞋俗の比較に於いても、﹃路得﹄は純形式 るに過ぎぬ。被れのルツとの婚は同情と愛より出で、 と感じ、策を以て舅と耕して子を得てをり、しかもか 婚は拘束性を有する。然し聖書の常面では何れも絶 脊自己の噴業者たるを知りて、その地位を公明に幸栢 ゝる行焉が、合法にして、常然の、寧ろ賞すべき行焉 あり、クルムードがすa−冴抑h と名けたところの儀式 然るに申法の拘束力は、比較的ながら、より偉大で り、群を設けて年少シエラをタマルに封して回避し乍 に不可なのではなく、ユダは親としての愛情と打算よ の如く説かれてゐる。然し此の場合にも、回避は範封 ︵5︶ に利用したるに外ならない。 的回避手段により、婚を拒否し得るも、その際に受く JOβ4 ■ 解したるが如くで、敢て犯行に封する吐合的刑罰の如 ら、轟も罰せFJれす、オナンの死も、自然死を神罰と あるに敬して察知し得る。﹃申法﹄は、反之、厳に生見 ヽヽ を亡夫の蜃とし、そを長子、而も長男に限ってゐる。 ダに生みたるベレヅの家の如くなるに至れ﹂︵糾二︶と ﹃創﹄が先夫の屠とせることは、ユダがオナンに厳命し ヽヽ けれども第三項の所論と併せ考ふる時、時代を遡る て、﹁汝の兄の妻と共棲し、これにyibbh笹mし、汝の くではない。 に従って拘束力の逓増したるべきことは竜も疑ひを有 兄弟に種を得せしめよ﹂︵八節︶と云へること、及び次 節のオナン同避の理由にょつて明かであるが、申法と ヽヽ 同様に長男に限りしか香かは明かでない。ロッヅ氏は せぬところである。 l玉 生見の蹄腐 ところは全く同致のものと見られる。けれども、これ 其の虔の門に絶えざらしめんためなり。︵十節︶﹂とある 五、一〇︶。﹁これかの死ぬる者の名を其の兄弟の中と、 於いても、﹁死ねる者の名を其の産業に残すべし﹂︵四・ ︵紅六︶と記されてあるところより見れば、レヰラ婚の て姫みたるを知るや、﹁再びこれと交らなかつた﹂ が其の棟内にあるに拘らす、一度び彼女が被れにょつ は却って此の仮説の反封を示すと云ひ、ユダはクマル 故人の息tし見倣さる﹂と云へるを批評して、﹃創﹄三八 ︵6︶ グリユナイゼン氏が﹁レギラ的結合にょる凡ての見は は単に文言上、苗俗の飴勢の残存と見倣し得るか、少 責務は、寡婦に一男の輿へられた剃郊に充足された諾 生兄は新夫に廃せすして習夫に踪屠する。﹃路得﹄に くとも不自然なる擬制が、自然の要求に屈従する過程 であると断じてゐる。然し、此の場合は未だ生るべき 六五 像見せられない場合であつて、従って氏の固持するL ものゝ性が不明であり、それの出生と生育との可能が\ ︵7こ 途上のものと見得べく、そのことは次下に﹁願はくは イスラエル民族のレギラ婿と其の宗教性 に賜はらんところの子にょル、汝の家かのクマルがユ ヤーウエーが此の若き婦︵ルツ︶′よりして汝︵ボアス︶ ヽヽ︳ ヽヽヽヽ︳ヽヽヽヽ︳ ヽ ヱ0鋸 イスラエル民族のレヰラ婚と其の宗教性 六六 ころの、婚が組党案丼の俵稽の永存を目的とするてふ妄の長男が死者に屠す.るかゞ詮明されぬ。このこと等 詑と大いに矛盾するし、且つは、ユダが再び交らなか よりして、スターデ、シュワリl、フラッシュ、ロッ ったのも氏の詮くが如き理由のためであつたか香かはヅ、マルゴリユース以下の面々け、組先崇拝詮を取る。 退かに断じ難いと思ふ。けれども、これを以て申港の だが、生見の凡て、或は特に長男が、故人の子と擬制 て硯る1同様の法は、明かに粗宴に判する俵碓の存瞑 然なる光術宗教的信仰よりも結果し得る。印度に於い た現象なりとは断言するを得す、時としては、より白 限定と矛盾するものと見るのも早計であることは云ふ せらるればとて、そは必ずしも悉ぐ組党崇拝と閲係し までもなからう。 夫 婦の目的 レギル婚の起原や目的に関しては、古くはマック・ を目的とするものなること疑ひないが、イスラエルに レナンやモルガンの、多夫制若くは囲婚制の穣物語が於小ては、許嫁の徹すべきもの殆んど絶無なるに庶幾 ぁり、又ウエルハウゼンやロバートソン・スミスの如 い。婚の目的とし.て明言さる1ところは.亡夫に嗣を 竣し﹂、﹁兄弟の中と、其の艇の■門に絶えざらしむるた く、鰐巧奔婚等の結果、婦が夫の所有財と認められ、 ヽヽヽ 得ることにより、﹃路得﹄に於いては﹁その名を産菓に 夫は郎持主︵即ちba或︶と見倣された苗代の思想や 習俗の下に、邁産相綬者は、飴他の財と共に、婦をも め﹂であり、﹃申﹄に於いては﹁初子を以て死にたる兄 相続したのであるとの見方もある、クルムードも硯に、 弟に加はらしめ、その名をイスラエルの中に紀えざら ︵9︶ しては、ロッヅ氏も批評する如く、何故に生見、就中 しィスラ土ル︵や印度︶に関する限り、此の見解より へ8︶ ﹁レヰラ婚と相綬とは相閲的事項に廃す﹂と云ふ。然 あ上に通産の永樟が加はり、前者は寧ろ後者の上に依 子孫を得るといふに養きる。﹃路得﹄の目的は名の永綬 しむべし﹂︵二五・六︶、﹃創﹄は故人の薦めに子種即ち JOββ ヽ の制度が最初より名を永存せしめんとの願ひの他に、 は立言すらくは、﹁全く有理的に想像し得る様に、此 らうこと疑ひない。か1る想定よりマルゴリユース氏 永綬てふ目的も、﹃路得﹄以前に古くより存在したであ 入は﹃路得﹄北始ると見ることを得す、従って遺産の る。然る時はクルヴェイエ氏も云ふ如く、gO直の介 姉弟関係の婚以上に嘆美関係の婚の夙在を想像せしめ 財に関係するところあるべく、第二項所論の如く、義 の一である。名を侍ふべき子のなき時には、アブサロ が、系譜︵Tかー。dhOth︶の尊重の如きもその顕著な現れ であつた。その誇跡は聖書の到るところに存してゐる をはかるは、イスラエル人の何よりも切望するところ 賓的に肉の相続にょり、これに伴ふ名、即ち霧の永存 その存繚は墨の存績、その中断は整の断滅である。現 一極の して、此の奇異なる俗の目的を解樺し得る。即ちそは 吾々は文麒の語るところより散り冒険的に飛躍せす 更にイスラエル的レヰラ婚に於いて、如此き立言がし 遺産相綬の法と密接な闊聯を有してゐたとすれば、死 ムの如く、生前これを表桂に記し永綬を計つた︵アブ 存する如くである。此のことは他の琶には明記されぬ 者崇拝の観念を全然除去することは不可能である。何 サロムの碑、﹃撒母h後書一八二八︶。如此きはイスラ かく容易に試みられ得るものなりや否や。 となれば、如此くして死者のために、その財の桐緯者 エル人が常時有した唯一の が、﹃申﹄に﹁兄弟共に居らむに﹂と限定せるは恐らく として描けられたる息若くは息達は、モーゼ時代己前 あるが、ImmOrta−ity 六七 や。訝ふに﹃路得﹄等後代に於いては明かに然か断言し 然らば擬制的な生見蹄魔の制は眞の擬制なりや否 の信仰必すしも組婁崇拝と相 HmmOrta−ityの信仰では ︵12︶ lmmOrtユtyの観念であつて、名は婁であり の宗教概念の下に於いては、死者に封し通常なる食糧 即せす、又直接に結びつくものでもない。 ︵10︶ を、しかして更に聖供をも亦、供するの任に雷ったと ︻11︶ 考ふべきであるから﹂と。或はさもありしならむ。さ れど此の単なる推定む立讃する積極的詐墟は如何ん。 イスラエル民族のレヰラ婚と其の寛政性 ヱ0β7 イスラエル民族のレヰラ姫と其の宗教性 六八 、 かしそれのみでは未だ組先崇拝と固定するには がし 聖母信仰費生の母胎であり、冗術宗教的意義を有する の寛子と信ぜられたのではなからうか。カーチスの報 速いといけねばならぬ。荒し組先崇拝とは、孤塁の存 得るが、太古に於いては必ずしもさうでなく、眞に故人 普にょれば、現在に於いても、シリア人は死者の靂に して、興味多き類似の事例を報じてゐる。イスラエル 問は、亡夫によつて嫉む能力ありと認められてゐると ぜられてをり、シワァ人の寡婦は、其の死後九ケ月の 組先崇祥は其の誇跡の徴すべきもの全くないからであ あるが、イスラエルに於いては、か1る意味に於ける 的なる定期的儀祀の繰り返しが件はぬばならないので けでは足りす、必ずやこれに向つてする、比較的永机 生殖力あり、jiロnは性交することが可能であると信 在の認識や、これに封する人間の或種の感情的関係だ に於いて、レヰル婚よりする生見の鐸罵が、如何にし る。 ︵い︶ て死者の側に在ると信ぜられたか、殊にその長子が如 −○通津︶ A1月Syriens一︵Reくue Cruくeilh訂r−La CheN−eUJ 聖戦憲 還蛍∽童 cheN−es H算reu只 BibHe︶ Bib−iq亡e一〇ct.−¢ 匹↓8累計蛸符置かか勺ヾヾuⅥ障呈∼叫>8舘 p.N00リ G●A.Snユh、DeuterOnOヨy︵Caヨ首idge N∽︶−p.︺. L仙まrat き†‖澤耳か置茶寮8通硬け匝補宍可㌫㌣ パ﹄︵謡串牙悔裂報、芸曽∽個の通常︶−囲q﹃鵡 睾罰﹃鱒華甲声望野鼠慧雷習㌫慧∴遠誌言毎号 綻 ︵∽︶ ︵N︶ ︵−︶ 何にして明白に然か信ぜられたかの理由は、カーチス の報する如きこのセム的信仰に基けて解群すろことが 可能であり、又その結英を生むものが兄弟と韮姉妹を 第一とするこL√は、極めて自然的な感情であつて、放 て理由を追求する程のことでもないのではなからう か。レギラ婚は、・イスラエルに於いては、かくの如く 自然的なる感情と、一樺の錯誤的な叩几術宗教的信仰よ り生れ、次いで文化的制約によつて次第に人名的な擬 制に迄畿展したのであるかも知れぬ。蛋による娠みは JJβ♂ and the Bible. Schei︼、Reしue︰−de−Ois assyrienne小−︻也N−. BartOnA 一 rchaeO−○喝y in Hitti打 and Assyri呂Laws︵The Orienta−Studiesde■ Price−S?Ca宕d L2くirate Marriage dicated tO Paui Haup叶︶. tかisra笠te.p.−笥. ︵〇 LOi肌・G2rmainLかき1afa邑−edanこ、antiqui・ tOricai SUCiOざgy﹀p.−票. ︵∽︶ Cr。SS、TheHebrew Faヨi−y−Ast亡dyinHis. ︵H・E・R・Eこく○−﹂こp.怠苫︶. Cf・MaTg。li。u声AncestOrWOrShip︵He官ew︶− iOn israe−s一S.NNN. ︵3 Gr旨eisen−DerAhneロkuぎsundd首Urre霹▲ ( ( ( ( ) ) ) ) ( ( ( ) イスラエル民族のレヰラ婚と其の宗故性 LOds、Op・Citこp.遥. −害N、pp.−−ひ−uP Cur−iss−Pr計i−首S2ヨ藷icRe−igiOn→?dayヽ Cf・LO亡isGermainLぎゴOp●Citこp.−芦 MargO−iOutF ditt〇. Cru完i︼bier、Op●Cit■︼p●P LOds−Op.Citこp.記. TalmudY Yebamぎb−−↓b. 烹braぷue−p.べN−nOte∽. ︵O L。ds嶋Lacu︼tedesancぎesdans︼▼antiquitか 岩 E;[:岩D ∝ ) Jのββ 初期彿博文厳に於ける菩薩の世間親祭説話に就いて 初期傭博文戯に於ける 等 七〇 通 ︵J町ta訂︶誼話が成立し、彿博文献にも本生話及び俳 るとの思想が蔑達し、その具照的の現れとして本生話 って来るのでなく、過去世の長き修道に依つたのであ 勃興するに伴って、俳陀の偉大は現在の修行にのみょ 菩薩の世間観察説話に就いて −菩薩の兜奉天に於ける世間観察 大部分の彿侍文献は併陀が菩薩として兜率天︵Tu朝・ ita︶に在任する問に、誕生に常つて世間観察︵Aくa−? 併在≠の時代に於て信じられてゐ挺閉は、之む田づる 領王・摩耶夫人を父母として誕生したことのみである 事茸は彿陀が紀元前五、六世紀頃迦尾羅城に繹迦種将 父偲等を観察し、撰持したと記してゐる。元来歴史的 化したと考へられるのである。 耶夫人に決定したとし、その構想も亦次箪に複雑詳細 くかくの数多の特相ある故に、迦艮羅城・浮飯王・摩 く兜奉天に於て降生せんと決心して世間を観察し、か 陀の生国等についても単に卓越すると記するのみでな kJ︶即ち下天降誕すべき時・場所・園城・陀階 ・修 種業族 の級 前≠ 思想が取り入れられ、大乗的になり、俳 ことさして多く無かったと思ふ。然るに俳陀を去るこ の贅達の程度に従って整理し、分類して考察して見た 今俳俸文献凡てに就いて、この世問嗣察の有無.そ んだ生圃・父母は別して卓越してゐたとの修飾化が生 いと思ふ。 と遮去かろに従って、彿陀を尊貴する飴り、俳陀を生 じたに相違たい。更に紀元前後より大乗の発達思想が JO7() 但し仰倖文献中此虞に必然的に論及されるものは、 臍迦薄利閉菓群・十二が経であつて、仰作文献に準す 彿陀誕生の記述を有するものに限らるべきである。中 るものとしては滞謬律織の畳無徳部四分梯・弼抄葬部 部尼村耶︵Majjhima・nik晋a︶の二十六控・三十六 和経 醸五分律である。 均一尾村耶へAnguttara・nik裾ya︶の三撃二十八経は菩 長部尼村耶十六の大本控、漢詩後楽伽陀耶令共竺俳 薩が自ら追憶的に、無常を感じ刑家する遼より粗朴に 念繹俳詮長阿含絆第一分和犬本控︵四一二−四一三年︶ は成道後の停遺躊躇等 tamaJuddha︶の夫々の誕生・出家・成遣・頼政輸等 語り、降誕等の部分は記さない。律赦、︵≦naya・pi号 は極めて粗朴な彿倖であつて、過去六彿と裡真価︵gc・ ︵l︶ 多分に俳陀詮法の分子が含まれてゐると息はれるが、 馬波羅奈閻に赴く記事より書き起してゐる。従って之 この≠関税察のことは記してゐない。俳は七仰の階級 繹︵二〇七︶の中本起控も韓法輪品に初り、樽法輪の より初り、成遺前を記述しない。後漠の位兼共庚孟群 を新型的に仰陀の金口として語ってゐる。この控には ka︶中の大品︵Mah誓.蒜ga︶ ヱ0アブ 族︵gOtta︶・人語︵ぞuppaヨ晋a︶・草根樹・弟 の場合世界は隈々まで明るく、四天王が四方㌃護り、 常法︵dhaヨmat抑︶を記すのみである。即ち芋練降誕 子数−父母・都城等を記した後に仰の降誕と俳母との 等の彿博文献は原則としてこの論究より除かるべきも ︵j畏︶ のである。 こ 第一期、世間観察を記述せざるもの 俳侍史献にて誕生記述を有し、兜奉天に於ける世間 彿母は五戒を持ち、愛欲に耽らす、節操を守り、五感 ︵2︶ 観察を記さないものは、長部尼村耶︵口叫ghanikざa︶ より生す一わ悦びの内に生活してゐるとする。而して在 初期彿悌文献に於ける菩薩の世間胱寮説話に就いて 七一 して死ぬのが常法だとしてゐる。大本控は阿合致典中 十舟ハの大本控︵Mah壱.adトロaSut︹aロta︶・鴇鳴︵A晋a胎 ・ 時の心理・状態を記して、俳母は菩薩降誕後七日に 色さ芯︶ の彿所行讃︵﹁彿陀の生涯﹂Buddhacarita︶ ● 初期彿博文猷に於ける菩薩の世間戟察説話に就いて では七仰の生班を類型的に記述する等、比較的新しい 成立のものであらうが、俳博文献としては形式が纏つ 二3一 たものとしては種々の理由から最・初のものと思はれる との初期彿博文献大本控に世間観察の記述がないこと は、極めて初期の俳侍構想にはこの説法が存在しなか った一詮左となると思ふ? 七二 粗朴、何等の修飾・虚飾の無い鮎から托して、到底世 間観察の如き構想を知って居たが、之を除却したのだ とは思はれない。こ、の諸控によつては初期彿俸電厳に は世間閏察の構想なしと論断することは出来たいが、 その一の傍託とは焉し得ると思ふ。 ︵5︶ 馬喰の仰所行讃︵浮ddhacarita︶北涼の果無識︵四 前述の中部尼村耶中の二十六経︵Ari︶1a・pariyesan 一a 二−四二一年漢詩︶は失しい韻文を以て迦用堀城、 将領王︵、Sudd一占daコa︶は地上の讃王の頑として礫頂 Sutta︶・三十六控︵mah抑s呂Ca・Sutta︶・均一尼村 ︵耶 K三 a・旦aくaStu︶が美しく賛石で荘厳され、富み柴え、 ︵4︶ 三十八控は極めて粗朴に古色ある文字で俳陀金口とし され、勝れた王にて脊族あり、心寛くして偶倣た抱か あり、敵を打放って錆服せ㌧め、人民に伐るべき道を R抑maputtaす ︶訪 ・主にして正見に任し、性優しくして大なる威厳 、問君 て追憶の形で菩薩としての青年時代・出家・阿冤藍 ︵A−首ak巴抑ma︶・欝頭︵Uddaka 尼連渾河苦行・成道・博通躊躇・放凡天︵Br巴ヨ品Sa・ にょつて導 は人々の革に心む用払、長 之は単に迦属羅城の非麗繁発と王・王妃の血越を美し って彼女の胎に入つ誓丁三−一九了一記してゐる。 った。殴も勝れた菩薩は兜奉天︵Tu笠a︶の群から降 上に仕へ、勝れた女紳にして性行は明月の如く明るか いた。王妃摩耶︵M肯豊 hampati︶御請・把者撰搾・優姿迦︵Upakレ︶との禽 示し、法・射・愛︵Dharm腎thak抑ヨa︶ 遇・五比丘への初韓怯輪を記してゐるが、彿陀誕生の 部分を記述しない。之はこの控が主として俳陀の宗教 生活を記す焉に之を除却したので蓼つて、との経を世 間観察についての考詑の資料とすることは出来ない・。 然しながらこの控の記述の一般が極めて原始的にして JO7才 \ く嘗くに止り、之等が卓越するが故に、菩薩が降紳し 的均制む得る焉なしたと見るべきであらう。一 故なら、俳所行蛮より梢与遅れて成立したと思はれる 倖の諸種の構想は眈に大鰐成立してゐた笥である。何 かであるから、俳滅後四、五世紀を控過して居り、俳 俳所行讃の製作は紀元一世経であることは、略ヒ確 でありながら彿侍記述は簡革で、教理の記述に努めて 天に於けるせ間観察を記さない。然し、この控は仰倖 ない。俳陀降紳の記述の場合にも同様であつて、兜率 象朗に説明し、俳侍中の重大事をも具鰐的には記述し 俳倖文献としては特種のものであつて、沸教徳目を抽 ︵7︶ 之に極めて類似する仰木行控は進んだせ問観察論詰を ゐる鮎、思想は明かに大乗的である鮎から考へれば、 恰伽誰利研集控︵伶伽扶躇三八四又は蹄相関五年︶は 有する。然し俳所行蛮が迦艮羅城・父母等の卓越のみ この㌍の成立は後せであつて、世間観察の構想は眈に たとは記さない。 む記し、喧越するが故に、都天中に扶持して決定した 成立してゐたが、之を採用しなかつたと考ふ可きであ ▲6︶ とは言はない。最初の俳俸構想としては、菩薩は迦戌 ︵8︶ 俳説十二遊経︵迦紺陀伽三九三年繹︶は極めて小さ らちノ0 てゐたと記す方が順雷であつて、之だけでは軍純な塾 な俳付文献で、仰の系譜と仰陀の生涯を極めて簡箪に 藤城渾餅王・摩耶夫人の子として生れ、之等は卓越し 術的宗教的修飾化に止つて、形而上的理想化、合理化 編年史的に記述するものである。 に之の世間闘察を除外しても、之等三控は初期彿博文 其故、この三控に関する限り、他の俳侍諦構想と共, とは言へない。 彿所行讃が比較的史的事資に近い原始的構想を取っ たのは、柳川行滋が初期製作の俳博文撃で.俳樽柿想 厳にして、常時この構想なくして記述し.なかったと論 ︵K㌣ が進歩してゐなかつたといふより、寧ろ宮廷詩 断することは出来ない。むしろ之等は思想的に後世ゐ 七三 くya︶ として修飾に申痛を得、誇大冗長を避け、蛮術 初期俳俸文献に於ける菩薩の世間観察成語忙就いて JO7β 初期彿博文撤に於ける菩薩の世間観察説話に就いて 彿侍であつて、特別の理由によつて敢てこの記述を除 木ない。 七円 繹種系譜を記述した後に、挽弼檀の子は菩薩と名け、 はない。が、第三十一巻受戒腱庭中に俳侍を記述し、 虻無徳部四分律︵彿陀耶合肘〇八諜︶は俳博文献で ば、之等俳博文献には彿所行讃・伶伽誰刺桝紫綬・十二 は世間観察なしと論定することは出来ない。何故たら て之等の文献は初期彿博文厳にして、初期彿博文献に ないことは事茸である。然し、さらばとて更に立入つ 組じて之等の諸彿倖関係の文献が≠間観察を記述し 綿棒子は生産・豪族・父母虞正にして、衆相異足して 遊控の如き畿連彿悼も含まれてゐる。然しながら、俳 外したと考ふ可きである。 ゐると説くのみで、単に卓越を記述すると認むべきで 博文献でないが、比較的原始的俳侍記述を有する四分 ︵9︶ ある。 陀計盛げるのみで、≠間観察のみでなく、卓越むさへ 彿降誕については薄儀王に二子ありとして、菩薩と難 第十五巻受戒法に彿停を記すが、繹迦系譜を記述し、 摘沙基部和醸五分律︵俳陀什四二三年謂︶も同様に この構想たし、と推定するには不十分の嫌ひがあろ。然 之等の俳博文厳によつて文戯的資料のみから、茸初は・ 中部尼村耶二十六控二二十六控等も亦之を有したい。 文献と目される大木控は明かに世間観察豆記述したい 律・五分律は≠問観察の記述を有しない。最初の仰倍 ︵10 記してゐない。 彿博文献としては原始的な極めて初期のものと考へら のであつて、仰降誕以外の記述も極めて簡軍であつて は推測出来るのである。先づ.比較的歴史的事賛に近い と思はれ、初期彿樽柿想には≠悶糀察のことがたいと の前世修造思想−を預想し、この思想に基いて成立した しながら常識的に考へて、俳停車≠冊槻察は軍法伽致 れる。唯彿侍記述が岡本の主目的でないために、我々 太子の誕生の説話が一般に信ぜられ、次いで迦毘維城 この二律本の彿佃記述は元来粗朴にして原始的なも は初期彿仲女廠正は≠聞親祭なしと論断することは川 ヱ〃7=‘ 数の俳俸文献成立の場合にはこの世間観察の俳倖構想 の構想が生じたと考へるのが順序であらう。但し大多 父母等の卓越の修飾化が起り、更に進展して≠間観察 度るを得す、いぶかつた所、梵志師は﹃一女は三十二 かも時に五首梵志皆五和通あり、飛んで宮殿む過ぎ、 只の閉生の生母なり∪就いて生るべし。﹄と言つた。し て沐浴中、菩薩は之を見て、手を奉げて﹃是れ吾が≠ 太子瑞謄本起控︵英文二二二−二二八年諜︶巻上は この地に生れたと記してゐる。 tu︶は三千日月萬二千天地の中央で、過去以釆諸仰が 至り、迎へて妻と鴬した。而して湘夷城︵Kapi−aくaS・ の聾は天下に普く聞え、日揮王は歓喜踊躍して生家に 紳であつて、耐力を失はしめた﹄と説明してゐる。そ 相の大人を生み、一女は三十和の人を生むべく、これ威 は眈に成立してゐたと考へるが安富であらう。 三 第二期、世間観察記述を有するもの 一、相棒観察詑を取るもの。 菩薩わ兜率天に於ける≠問観察記述を有するもの1 内、最も簡単なるものは修行本題経と太子瑞應本起経 とである。 ︵11︶ 修行本起経と殆んど逐字的に一致する前置きの後に、 補鹿に在つて、期運至り、俳に成らうとして、兜率天 け、聴叡仁賢、夫人は妙︵M晋抑︶ くaStu︶に生を託し、父王を日揮︵、suddhOdana︶と名 期道至り、下つて俳と作り、天竺迦維羅衛圃︵Kapi−a・ を行ひ、十地行に通じ、一生 に於て四種観を興し、土地・父母を観硯し、何園に於 迦維薙衛些二千日月萬二千天地の中央である。仰の威 七五 に二女有り、後閑の他傾 に斜を焉す故、其の中に腱少、周く十方を化する。往 と日ひ、節義渦良 て教化し、誰を慶すべきかむ観察した。而して白樺王 ︵K笥triya︶ 初用彿博文厳に於ける菩薩の世間搬案説話に就いて ya︶ の利禰利 紳O は宇至尊重重であつて、遼地に生すべきでたく、地は ︵K JO7占 ︵﹀Suddhcdana︶を異≠桝生の父とした。拘利 六度無極 ︵P彗.amit抑︶ 能仁菩薩は九十一班に於て道徳を修し、俳意を畢び、 修行本起脛︵竺大力一九七年頃課︶上硯攣品第一では ■ 初期価博文献に於ける菩薩の世間親祭説話に就いて 七六 よつて一女を姿ったとしてゐる。簡駈素朴である。但 母に撰ばれた二女の上を飛行する五百梵志が紳通を失 舌の諸俳の興るも、皆此に机づるとしてゐる。 之には四種観察として奉げてゐたい。 ったとの記述け、同じ事作が菩薩︵太子︶が幼時閣浮 樹下坐渾中に起ったと記述する仰伯父献梵文普曜経十 ︵13︶ 太子瑞應本起経と同系統である典旧著藤本起経︵轟 遣些二一三−三一六年諜︶は兜率天よわ迦緋羅相国に 一︵一二九︶・方贋大荘厳㌍槻農招‖M第十一・普曜控硯 ▲15︶ 生れた、迦群雄衛圃は天地の中央であつて、俳生るには 音晶弟七・仰木行集控遊献親嘱口⋮第十二もあり、一の ︵14︶ 遽土飴囲にて之が番地が傾倒であつてはたらないとし 神話的修飾であつて、韓意すべきである。 太子瑞應檻は之に反し、国名・王名・妃名とその卓 ︵12︶ 迦維薙衛国王は人と鴬り仁賢である、としてゐる。こ の経では菩薩研生の地・父母の卓越に解れてゐるが、 港は自問自答、即ち内心の思惟の形になつてゐる。生 父母・教化の囲と人とである。而してその﹁観硯﹂の方 起経は略と同一系統に属し、観察項目は四種即ち土地 之等の彿倖文敵中に於て修行本起経及び太子瑞應本 的政治的状勢としては迦毘誰城は寧ろ近地にある錮少 背景に俳身蘭を薇想するものである。軍資蕾時の地理 でて、之は仰の威碓に出≠地が相應するを要するとの、 出他に適し、過去諸俳も故に興るとする記述は共に出 雨粒が迦夷城又は迦緋薙街が≠界の中央にあり、休 越を明確に記し、より馨ってゐる。 国・父母に於て卓越するが故、之む挟んだとするが、 図であるのに拘らす、かく申開にて俳日生にょしと記 内種観としては出でてゐない。 後の俳侍文献の如く他の諸国謂姓を奉げて批判・比較 述するのは、形而上畢的理想化と見撤すべきである。 ● てゐるが、閃種観としては刑でてゐない。最も素朴で 異出菩薩本起経は菩薩研生の地・父母の卓越に慣れ tてはゐない。修行本起経に於ては母の名を奉げす、 剃帝利の二女の一人とし、しかが日揮王は芋薩に父と して撰ばれたのみでなく、梵志が紳通を失った奇瑞に 才078 乾王の後であり、白渾王︵.SuddhOd邑じの過去因縁 鱒寿命修短にて太子を懐抱し、十月を を観じて、夫妻が眞正にて父母と焉るに嘩へ、叉摩耶 夫人︵M轡抑︶ 満足して太子生れ、生れて七日にてその母の命終ると 観じたとナる。 この記述は修行本起控等の前三粒よりも詳しく衆生 運至り、下つて俳に成らうとして五革む観じたとする 生補虔に在り、一切種智に近づき、兜率天に生れ、時 怨第一で鱒薯慧菩薩は功行満足し、位十地に登り、一 過去硯在因果紅︵宋求邦銀陀羅四四囲−四五三年諜︶ 定行動とし、しかも短命が菩薩の母として適するとす 産後の日立ち悲しくして死んだのであらうが、之を改 を要する。母后が太子出生後七日にして死んだのは、 して死すことむ母として適するとしてゐるのは、注意 過去現在因基経で摩耶夫人が詩命短く、生れて七日に JO77 ある。 之筆二控は共に種族の系統︵日種・甘庶・繹迦種族 等︶をこの部分に記さない。 之等の三控は十地・六波薙賓二生神慮の大乗術語 を用ひ、俳倦記述は必ずしも畿達してゐないが、大乗 的彿俸と言へるであらう。 lは衆生の熟と未熟、二け時至ると来室と、三は諮問 るのは、一種の神話的修飾化甘ある。本控は又繹迦族 時・囲・族・父母の五番を拳げ、複雑化されてゐる。 土の何固が申に廃るか、四は諸種鮫の何扱が黄盛であ が第一甘庶笛裔聖王の後と記してゐる。本控は修行木 二、五種観察誼を取るもの。 るか、五は過去因縁は詐が毅も眞正にして父母たる 起控等の前三綻より一段進み、且整ってゐると認めら ︵18︶ べきか、である。自ら思惟して初畿心以来成熟する者 れる。 ︵19︶ が清揮妙法を受けるに堪へ、此の三千大千世界中、聞 七七 は稗迦族系譜を記述した後に、繹迦菩醗は兜率天官に 浮掟︵lambudく︰pa︶蓮見羅飾兜囲︵Kapi−a宕Stu︶が 彿誼衆許摩詞帝控︵法賢九七三−一〇〇一繹︶第二 最も申に廃ると属し、諸族種姓中樺迦が第一甘庶苗裔 初期彿悌文献に於ける菩薩の世間税務説話に就いて ● 七人 菩薩は下生せんとして五大事を相経いて観察してゐる するものは、巴利語因縁謬︵Nid㌧nak貧h抑︶である。 種姓を観じ、菩薩は波雄門・吠合・首陀は種姓中上で 如ち時︵K巴a︶桝︵akhsa︶・家族︵Ku訂︶・母の詩命 初期仇博文厳に於ける菩薩の世間観察説話に就いて ● ︵釦︶ 在り、人間に生れんとし、五種の軌察を作した。一に なく、生るる桝でない。彼わ時人は官吏転重じ、下生 許王の後で子孫相場ぎ、輯輪王族で、往いて生を受く する。四に上族を観じ、揮飯王は過去≠成劫の初、衆 百哉は五濁に近いが∵楳姉猛利機器成熟なる故に下生 情の根鈍く智丹心愚劣にて法器と焉さぬ放生ぜす、減劫 E比羅城の名を旧さす︶。三に時分は糖助八萬哉、時は有 大勝囚を修する故、毀富む恐れて近地に生じない。︵迦 よく賽り、貧乞闘許なきむ中間と言ひ、菩薩は過去に に生るべしとした。第二に国土は最上殊勝にして五穀 四大洲中、他の三洲に俳陀は生れす、閉浮洲こambu・ 期が釆たと見た。桝︵ak訝a︶ 又は百哉以上の折が適時である。故に菩薩は降誕わ時 あつて、罪怒の人は数誠に耐へられない。人語一茂蔵 て救済も無い。人詩百年の折も適時でない。怒が盛で しても.聞きもせす、信じもしたい。合得たく、従っ 俳陀が諸行の無常・悲苦の〃在・我の迷について説法 に生老死あるを知らない故、俳陀の救済の説法も鮎州い 萬蔵以上の時は適時ではない。この時湖にほ人は衆生 を観察して﹁人語十 べきである。之には母身を観じ、是の女人は智慧甚探 dipa︶に生れる。かくてこの洲に決した。地方む観衷 ︵肯u︶である。先づ時︵k巴a︶ にして碍徳無量にて諸相端厳・持戒清潔にて、過去詔 して、閣浮洲は大きいが、その内の中国︵ヨ畳hima・ を重ぜぬ故に衆生を柿化し、掃依せしめる焉に利帝利 俳同じく記む授けた。摩耶夫人はこの上功徳を具し、 desa︶に生れ.共靡に迦毘羅城︵Ka旦aくatthuka︶と いふ町あり、共庭に生るべしと決心した。豪族 む観察して島に回れた 玉楼にて、彼に生ぜんとした、とする。 この謹も亦五種親祭詮を取ってゐる。 ︼a︶を観察して、彿陀は吠合︵くessヤぎーa︶又は首陀 ︵ku・ 之等の五事世間観察詑を取るものの内、原典の現存 JO7♂ ∫0アβ 羅∴Sudda・どーa︶に隼るべきでなく、婆森門族︵Br㌣ ける説法の適否を説く説が生じ、人詩百歳が彿港を諒 ケmaや㍗古2−a︶利帝利族・︵khattiyaku−a︶が現在卓越す 解するに最・適であるとの思想が成立した馬、之に伴っ る故之に生るべきで、﹁浄飯王︵、Suddbcdanar巴巴 ては俳陀が人詩百蔵の折に桐生したのは、その折の衆生 が生じたのであらう。之は俳倖を合理化したので、形 父︵Pitar︶たるべし﹂と決した。母︵m抑tar︶に就い が無常を観じ易き故に、特にこの期む選んだとの梢想 て観察し、俳陀の母は多淫でなく、飲酒せす、十筒歳 而上撃的理想化であると思ふ。 四の階級の内、勿論婆羅門が最高であるが、同線謬 は十月と七日︵dasannaヨ 衆許摩討帝控は常時重ぜられた故、菩薩は利帝利を挟 が相厳しく、母たるべしとし 波羅蜜む行ひ、誕生後五戒む破らぎるを要し、摩耶夫 人 ︵Mah抑mぎadeま︶ た。而して母の詩命︵首u︶ が利帝利であつたに過ぎないが、かく剃帝利を選んで なりと観 たと 。してゐる。勿論史的事賓としては偶然稗尊の族 んじだ この説話は前山の過去現在閃果控・衆許摩討帝経の 生れたと言ふのは宗教的合理化である。一画叉この説 s裟tadiくaS困ni︶ 詭謡と酷似し、この二経は因縁笛に依ると断定机爽ぬ 話乃至この文献成立常時は漸く婆羅門族より剃帝利が m抑s叫nam upari 迄も、同系統の経典であると思ふ。衆許摩討帝経と因 有力になりつゝあつたこ.とが伺はれる。 この三経の説話と殆んど逐字的に一致する説話が漢 縁許に於ては、入幕八萬蔵乃至十高裁は生老死を感ぜ す、法器でなく、人寄百歳がよいとして挟んだとの説 根本誼一切布部毘奈耶破何事︵養浄七〇〇1七一二 詩律赦申に存在する。 幕百歳の時に降誕したと考ふ可きである。然し後世阿 詳︶第二舶計壷は都史多天︵Tu昔︶に在り、五法に 話が出てゐる。然し、之は常識的には繹尊は偶然に人 毘達磨論等の世界観に於て、かくの如くに各幼により つき世間を軌察した。五法とは生靡・国土・時節・極 七九 て人寿を分ち、末世に従って短くなるとし、各劫に於 初期彿博文献に於ける菩薩の世間視察説話に就いて ● 初期彿倖文献に於ける葦匪の世間観察説話に就いて 八〇 鮫・所生の父母である。菩薩は過去の菩薩が何庭に生 炊が諾する者無ければ、彼に生ぜんとし、繹迦は清浄 計受けたかを見、彼等軽薄行婆羅門家・剰帝利費種家奇貨なろ極輪王種にて川現すべきに哩へるとした。菩 に生れたが、今は利帝利が隼き故利帝利に生れること薩が下賎の宏に生れれば、有帖は誹諦を生すろ故、菩 とした。貧下の家に生れれば、来≠の衆生が我む誹諦薩は無量助来自非力わ得て、意に従って生する。第五 する故に、自在稲力により被に生れるとする。第二に は生母であろ。過去芋醸は如何たる胎臓む受けたかを 闘士を観・質し、廿舵米葬牛等が充満し、乞食し易く観 、じ 十、彼の女人の七≠稗族は悉く清澤にして炸汚なく 恵たく多く十善む修する敵中天竺を思惟し、是等が悉 形貌輪厳にて善く戒〓⋮む修し、菩薩む十月其の胎に接 く具足すろ故に中天竺む跳び、遼地に生れれば我む誹 するに堪へ、此の女人の往来進止は障擬が無い。大幻 諾する故に、稲穂力む以て此虜に生れることとする。.化夫人︵M首巴 は過去諾彿に於て無上願む覆し、来 って詔の菩薩は衆生が何故菩薩は無相の女人の胎中よ 第三に時節む観察し、過去軍蔭は衆生の上詩八常態下 生桝生の子は稀畳を成すろむ得しめんーこした。是に由 詔乃至百蔵に其の団に来生したのを見た。長詩八萬 歳以上の時は愁苦なく、愚痴・頑飾∵情慢にて柴に著 り≠に州づるかと訪一言む作すを恐れ、無始己釆種々の 拗濁︶の滞日重き故である。悪世に他に別現すれば、外 の時は諸の衆生は五濁︵命濁・煩悩濁・有情濁・見濁・ を夫々に決定したのは、過去の菩薩に慣ひ、叉後世わ 合理化乃至典型化は更に明確になつてゐる。即ち五法 この龍一切石部毘奈耶破檜事でほ左程撰搾・観察の し、正法の器でなく、化を受け難い。人短詩百蔵以下善根む種へ、悉く成就したげである﹂と記してゐる。 道多く誹諾し、五濁増長する故、憩世にH≠しない。 諸仰の研漁は正接にして虚過でない故、時節む観察す 誹誘を受けす、教化に易からん焉であるとする。顕著 るわである。第四に穐姓た弼察した。先世以来内外親 な形而上堅的理想化である。 拍紬 に大建花王あり、法を以て世人を化し、人民俄盛安穏 では簡潔に記して、菩薩は観取天官に在った。王合城 根本誰一切石部毘奈耶難事巻第二十︵轟浮四一〇繹︶ ふべきである。 間観察の構想は預想してゐる如くで、之む落したと考 世間観察の内.容には関れてゐない。然し、之は五事世 於て乃ち大書夢を推し机たと記してゐる。この棟木は t畑こ 聖楽にて盗賊たく、窒羅伐城︵、Sr腎NSti︶に梵授王、 は一は速組を観じ、二は時節を観じ、三に方闊を観じ 薩は天官に在って五種事を以て世間を観察した。五と あり、此等四王は皆港王で、法を以て世た化した。菩 構想として可成有力なものであつたと考へられろ。更 観察思想は之等の諸控律本成立常時州骨⋮流行し、彿俸 事観察た記述する前三経と同一系統に魔し、この先事 系統に屠するものと思はれる。同時にこの三律木は五 この二律本の彿俸は誼一切布部艮奈耶破檜事と同一 四に近族を観じ、五に母氏を執するのである。六欲諸 に之の≠m観察は後世の襲達彿侍文献に至ると構想が 岬誓椙城に大輪王、矯閃盈城︵Kau計mbi︶に百軍王 天は三たび母隙を停め、摩耶夫人は寝にあつて夢に六 複雑多様のものとたる。その間に我々は菩薩降生の一 註 ︵9︶ ︵l︶ and E.Carpenter︰↓heロig訂nik抑・ 八一 yaく○−.戸−ff.LOnd昌∵蔓芦大正大赦経巻一 R.Daまds ff.Mabぎagga、LOndOジー¢Nつ. H.〇︰denberg︰Theノぎaya・P蕾kaくC〓▲−● 辿れて、興味深きものを感する。︵二四九八品∵二五︶ が推移欒化し、俳生涯を複新化し理想化して行′、跡が 事に閲し、俳身思想の畿連に作って、彿侍作家の構想 牙の白象の腹中に来迎するを見たとする。 之は閻浮捷の諸城諸王を記すに詳しぐ、五事の世間 観察の記述は極めて簡単である。 根本詮一切布部尾奈耶出家事︵養浮四〇〇−四一〇 −㍑︶ 繹︶巻第一は前者と殆んど全く同じで、同様の前置き の後に菩薩は観史天官に在って≠界を観察し、五事具 慶有少、下生せんと欲した。時に六欲諸天は耕すべき 閉を排じ、迦稚薙衛園関頭檀家三洋摩耶夫人の胎中に 初期彿博文厳に於ける菩薩の世間親祭説話に就いて 〃射 初期俳博文猷に於ける菩薩の世間取察改話に就いて ーff. ( P﹂∽−〓b・ /′■ヽ ( ′ヽ ( ) ) しノ \ノ \ノ R・Daく⋮ds︰DialOgue ef the Buddha.111.−○ −〓.LOndOn−−讐〇. ︼∽?⊥烏合=−†州。 ● ︵3︶ 平等通昭著﹁党文仇偉文拳の研究﹂ ) ヽJ ) ) \一lヽJ \J ) しノ \J LOrd Chalmers︰Furtl−er −雷ff.︵Nの.Ariya p≒iyesanasuttam︶ ︵∽P Mah師saccaka suttam︶ ddha﹀LOndOn−−浩の一口∽ff−−岩ff. 〇已Ord、−Sめ由. 大赦経iぺ.伸餅行訳〓f. 平等通帽課﹁焚詩邦訂彿陀の生泥↑昭和四。大正 平等通昭﹁先文体博文畢の衝究﹂p.謡1警.参照 彿説十二遊経、大正就潅Hく.−た笥. 借伽羅刹祈集経、大正姫経︻く.−一ごf特にーNP 五分律、大正減経国舛lH.−○−.・ 四分辞、大正赦経H舛く.∃¢B 修行本超経、大正舜経ⅠⅠⅠ島∽AB. 異出苦節本起経、大正就経lII.のー00A. 大子瑞應本起経、大正蕨経ⅠⅠ:. 誓笥ff. Of 八二 仰本行集経、大正減経ii1.冥串A甲 普曜紐、大正戚緩ll:.怠¢B. 衆評摩討帝経、大正減軽:iI.苫∽BC. 過去現在因果絆、大元戒経岩.のN∽AB. Ed.p.−会−∽. B山rth StOries、LOロdO Fausba−−︰J阿ta札aく○=.畠ff−LOndOデー奴挙 New −○ほOC. 根本訟一切有部毘奈耶出家串、大正弼経国舛lく. べc. 板木説一切布部柁奈耶酢事、大正政経︶罠lく.述 BC. 根本詑一切布部毘奈耶吸付事、大正戒律出雲く. −琵P R.Daまds︰Buddhist I ︵23︶ −OG Bu・ ︵31︶ ︵盟︶ Oia−Ogue Lefmanヨ.La琵a5Stara.−遥f.Hal−e.−¢吉. 方應大井厳経、大正威経−i1.∽窒B. JO♂g 20191817】6 ︵4︶ く.Tヽennkner︰The Majj−︼ima・ロkぎaくOr ( ′‘ヽ ′ ̄ヽ ( ( ′ ̄ヽ ′ヽ ′ ̄\/ ̄ヽ ′‘■ヽ ︵5︶ COWe〓︰Buddhacari︻a Of A㌦くaghO芯p.∽. 151413121110 9 8 7 6 へ ラ ク レ スを魂はもつてゐる。﹄︵fr.缶︶ イト ス 井 の人簡解揮 土 虎 賀 諒 ヽヽヽヽ︳︳ 聾者の兎もすれば陥り易い抽象的思索を見せす、問題 Hef[−所載にかゝるエル・の ビ具 ン倦的展望左明榔に自覚して炭質に生きた人間畢の ﹀Die とはり ﹃塊の限界を探し出すことは諸君に不可能である。如何なる通を諸悪が騒けめぐらうとも 舛l ここに紹介せられた論文はイェゲル編輯の AntikeハBand スワンゲルの論文である。原筆者はDr.med−Chef・ 道を開拓したものである。人聞の資葦的研覚、人間の 在託論 a−1Nt d2rK弓anS■︰ユ野−−eくue、Kre美−in顎n存と せ的研究、人間のロゴス的研究、換言すれば人間 に閲する現代的、近代的.古代的研究 この三つの られてゐるから精神病単著であるらしい。彼はこの論 人間挙が相互媒介的に扱はれようとしてゐろのであつ ヽヽヽヽ ヽヽ 私は本質的な部分に於ては逐語澤に近い息葦さをも − 文に於て精神病撃の問題を人間撃といふ基礎的な地盤 て単に人間撃方法論の見地から見ても充分に示唆的な \■ に具開化することにょつてハイデッゲルの哲単に自ら 文献であるといはなければなら兼い。 ヽヽヽ を媒介させ、更にこの現代野草の主流をなす人間畢の 歴史的梶原に遡ってへラクレイトスの哲単に到達しょ ってこの研究を跡づけた。それ程私はこの研究の内容 ︳ヽ うとしたのである。このやうなモティーフとこのやう 及びその叙述に傾列したのであるが、併しこの研究の 八三 なペルスべクティーフをもつこの論文は、専門的な智 へラグレイトスの人間解鐸 ヱβgJ ヽヽヽ︳ へラクレイトスの人間解繹 ︳ヽヽヽヽヽヽ 八四 やう.にへラクレイトスの表現形式即ち言語様式に具腿 題は他の横倉に謀る・として今この論女に閲すろ限りに ヽヽヽヽヽヽ ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ 化された理論、云はゞ肉づけられたロゴス 於を て究 特明 にし 講た 者の注意−、竺妥求したいことは、ヘラクレイ トスに於ける[自然への傾把﹄及び﹃紳的叡知の分有﹄ ︵dOgmatisch︶ ものにあつては必然的に逐語的移植が要求せられてゐ ヽ︳ヽヽ 即ち宇宙論的環及び紳畢的環が猫断的 ヽヽヽヽヽ ろといはなければならない。 の人の主張が極めて弱められた印象をしか残さない。 他の研究者が博引傍許せられてゐるため一に、原筆者そ い。著しい第一の紋瓢は形式的に見ても、散りに多く デッゲル的抽象性であつて、この二つの環の成立こそ 二者︼忙猫断的と批判せざるを得ざらしめたものはハイ 的珪の三現によつて組経せられてゐるト語りつつ、.前 ラクレイトスの哲挙が紳畢的環、宇田論的環、人佃mナ として性格づけられ批判せられてぁることである。ヘ 虞茸なる研究を特色づける研究的情熱の根強さ、自ら 古典哲撃一般の特異性を意味するものでなければなら 勿論この研究も決して完全たものであるとは言ひ難 竺モティーフをぐんぐん押し切つて串象の板碑且に攻め ない。これを喝断的であるとして批議するのは批試す ヽヽヽヽ ヽヽヽ 寄せる迫力が稀薄であることは遺憾の極みである。 古典研究にあてはまるものであつて、例へばステンツ 性を導いてゐる。このことは一般に現代猫逸に於ける ハイデッゲルのもつ紬象性がそのま1この論文の抽象 ッゲルの眼を以づてへラクレイトスに向つてゐる結果 なくしては人間存在がその本質に於て破壊せられると 世界Ⅰ存在﹄︵首Tder・We−TSeiロ︶であり、世界的緒蓮 柵象的な賠姉である。人間存在の本質的構造が﹃内− 抑々ハイデッゲルの哲畢は希臓幣m∵−L猫逸耕︰撃との って古山ハ常襲の具濃的偉大さむ語義してゐるのである 第二には内容的に云つて原筆者咋本質的にはハ ろイ もデの自身の抽象的一面性を自ら語り削だすことにょ ェルの如き最も代表的な大家の研究さへ散りに無批判 いふ彼の基礎存在論は、明らかに希隠た性格づける﹁世 ヽヽヽヽヽ にハイデッゲルの支配をうけすぎてゐる一般的な間 JOg4 ● 的把捉であり、その限り希臓に向つて方位決定せられ であるが、希隠に於ける被投性即ち運命は﹃悲劇の誕 訂it︶は賓に容易に﹃投企﹄︵Entwurf︶せられ得るの ︵くerwO且en・ てゐる。併し彼に於ける﹃世界﹄吼.﹃人間存在がそれ 生﹄に到らざるを得ない深刻な必然性をもつてゐる。 ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ る。哲畢の眞理態はこの近代覇逸的内在睨む古代希岨 ヽ ヽ ヽ ヽ 八五 ヽ ヽ ヽ ヽヽ︳ ヽ JOβ占 明畢 日に物語る。故に彼の所謂﹃被投性﹄ 界に向つてゐること﹄︵We芋N亡geWand旨eit︶の哲 に向つて超越するもの﹄、香﹃人間存在の硯質的乗り越 ︳ヽヽヽヽヽヽ −か1る本質をもつハイデッゲル的内在哲垂がへラク ヽヽヽ︳ヽ ヽ 解刑釆ないで猫断的と語らざるむ得ないのほ常然であ え﹄そのものである。彼の﹃世界﹄は人間存在から見 ヽ ヽ レイトスに於ける﹃字輔諭的珪﹄及び﹃両撃的場史を理 ヽヽヽ ヽ ヽ られた超越即ち内在面から理解せられた超越でしかな ヽ 的超越翫に媒介して超越−内在的立場を築き上げるこ ヽ セルの超越的ノエマが意識に向つて方位決定せられ、 とになければならない。私はか1る立場について多少 ヽ い。換言すれば﹃世兇あ超越性﹄が人間を中心とし、 意識の志向に外ならぬと同断である。然るに希臓にあ 立ち入った研究を努めつつあるもので計る︵﹃西川哲撃 人間に向つて方位決定せられてゐる。それは恰もフツ っては徹底的に﹃宇宙に向つて方位決定﹄せられてゐ の周遊的影響﹄﹁思想﹂一月耽以下参照︶。この研究に ︳ 於ける俳教僻絆についても問題があると思ふけれども ヽヽヽヽヽ る。超越面が内在面む決定してゐる。プラトンのイデ ﹃コリスキス﹄はそ ヽ ア及びアリストテレスの紳のもつ ヽ それは他の横倉にゆづらう。兎にかく色々映鮎はある ヽヽヽ ヽ のことを物語る。ハイヂッゲルは人間存在を世界的に ヽ にしろこの論文の意義は相偉大きく許惜していゝと思 ヽ 考へる限り希臓的であるが、その世界を人間存在から ︳ ふ。特に私と同じく若い畢従にして、これからへラク ︳ 見てゐる限り猫逸的である。彼がカントに結びつかう レイトスへ上らうとする道に出で立つ人々には充分有 ヽ とするチアィーフ及び彼の人間存在が自覚的木原性に 益であることを信じてこ∼・に紹介したのである。・・・・・・L ヽ 於て㌧﹃無世界的﹄となるモ一rィーフ・は非希臓的性格訂 へラクレイトスの人間押隠 ● 現代の精神病畢は、簡単的心理畢的な返しい遺産1 在に係はる哲撃的問題の地平線に於て基礎的に解かれ 食詰の梢造、共1存在の構造は、布衣一般及び人間存 八六 1即ちたゞ思ひついた大家をだけ列馨しても例へばグ なければならないのである。 へテクレイトスの人間僻秤 リヂンゲル、ウェルニケ、クレペサン、ブロイレル、 即ちそれは精神病或は神経病と診断される人間存在の それはまた全く斬ろしい課題に常面してゐるのであ牒 務を負ふ.ものである。けれどもそれ丈けでは足りない 九二五年のことである。それ以来人間存在の抑=畢的究 不充分な知故をしかもつてゐない、と。これは茸に一 呼ばれるものが抑々何ものであるかについては極めて に於てシュラーは次の如く語った。− ﹃知識の諸形式と教養について﹄と遺せられた純淡 語形式をその人間畢的構造に於て見且つ記述する要求 明について絶えざる努力がなされた、−−−嘗∵上サ布の フロイトの如きから譲り渡された遺産を蚤展させる任 をもつ。この新らしい課題は精神病的現象に脱する倫 基礎存在論的分析といふ媒介むとつて︵ハイデッゲル︶ 吾々は人間と 理的庇偶の色合をもつ言葉を純粋に自然科挙的な内葺 或は茸存哲畢的自己解明といふ方法に於て︵ヤスペル ヽヽ ダサイ●一 に特換する要求と閲聯して、一般に精神病挙が本来的 ス︶。これらの努力を貴く一つの著しい特徴は、哲畢 r結びつくことである。かくの如く人間とは何であるか ユキ・システ,′ツ な人間性の問題、即ち宗教、哲畢、道徳、垂術、歴史 的問題及び偉大なる哲学的開通提出者の歴史に緊密に −シンプトム 教番、天才、日面等の問題とつたがることなくしては ヽヽヽヽヽヽヽ 成り立ち得ないことを意味する。例へば精神病の徴候 一 合話 きであるならば、この間ひとその答へとが哲挙的大綱 ヽ︳ の巨 大g きい間ひがその間ひそのものの隆史から畢ばるべ が眈に理解された事茸Tats呂l露derくerstぎdig である外ないのを見れば、現代の精神病挙が に於て始めて企てむれた歴史的梶原に遡られなければ ヽヽヽ の構蓬、共−布衣の構造及びその色々な様態を見透す ならないことは自然であるといはねばたらぬ。扱て仲 プロg6 ● ることなくして成り立たないことが分る。而してこの 甘 ヽ︳ ヽ︳ヽヽ ヽヽヽヽ ヽヽヽ は≠界硯象なくしては成り立たない。たとへ帥病者 が世界襲失否更に世界渡落り状態に於て、或は一つの の放棄の下に絶封者への直観的寄依を教へ 欒へるに伴って単に世界経験のみならす全く同時に自 るのである。何となれば内1世界1存在がその様態を 卜一丁 エロβ7 ・しこの歴史的梶原は東洋にあつては本質上不可能であ った。勿論決して東洋人が人間的個性、個性化の原理 他の世界に住み、或は高斤世界の断片を控除するに過 ヽヽヽ︳ヽ ヽヽヽヽ をt香、人格を、我と世界、主観客観、我と汝の封立 ぎない場合に於ても、否か1る場合にこそ吾々は世界 、といふ現象に絶えざる闊聯を待たせて始めてこれらの ヽヽ 等を見極め克かつたが故にさうなのではない。香、ま さしくその逆に於てである、即ち東洋人がこれらのす 病的鰻験様態及び存在様態の構造む見透すことが出来 は人間性を脱却して人間的主観の背後、人格の背後世 己そのものが欒態するのである。世界が逃げ去らうと ヽヽ︳ヽ 間と≠間的任務の彼岸、社食、運命、香あらゆる封立 するやうになれ■ば自己そのものが亦逃げ去らうとす 八七 って到達せられる存在への超越性でなくて、世界的超 ︳︳ヽ 1絶封的な、あらゆる人間性を抹殺することにょ て人間の眼をうつたものは超越性といふ問題である。 ヽヽヽ をへラクレイトスが占めてゐるのである。この際始め 史的業績はギリシャ人のものであり、而してその嶺き れを判明なる畢的概念をもつて規定した最初の世尭藤 定を得るに到る。世界といふ現象を畢的に鞘びそ ヽヽ る。自己そのものが再び安定を憐復すれば世界も亦安 の彼岸に向つたが放である︵印度︶。か1る態度は非 人間的であると呼ばれなければならない、何となれば ヽヽ︳ヽヽ ︵存在の純粋理論的把捏の可能性 人間存在の原理的構造即ち内−世界−存在が、或はそ の本質的特徴の一つ ヽヽ 即ち理性︶に於て肢話せられ︵道教︶或は自己反嵯的 幻想として全餞的に止揚せられねばならぬと信ぜられ たからである︵印度︶。それ故東洋に於ては塔者及び心 ヽヽヽヽ 理技術者を出現せしめはしたけれども、畢的心理畢、 ヽヽヽヽ −′ 人間の畢は不可能でなければならなかつた。人間の畢 ヘラクレイトスの人間解梓 ● ︵道教︶或 べてに封して非人間的熊慶をとつたが故である。理性 ヽ 八八 主義が意識一般と対象一般との封立を超え一ご﹂とが山 ヽヽヽヽ 越性即ち人間的存在が硯寛にあるところの乗り越え、 来す、それ故に個性的歴史性即ち現在的に規定された ヽ︳ヽヽヽ へテクレイトスの人間解櫻 規正的な世界性そのもの︵ハイヂッゲル︶である。こ 一同性及び統一性に於ける心生清−忙理解川釆ないこと ヽヽ︳︳ヽヽヽヽヽ のことはギリシャびとがいつも世界に向つてゐたこと になれば問題の展望は更に一新される。心理拳は人間 ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ の哲畢的表明であるといはなければならない。 見出すことを理解Ⅲ来るのであるが、若し吾々が更に らも理解出来ないのであつて︵何となればこれら即分 決して主観∵客観の分裂からも、我と世界との対立か 的存在そのものを問題にするものである。人間存在は それと碑接につながる心理畢及び心理畢の歴史を坂下 裂乃至封立はその成立の根底に於て眈に人間存在を前 現代の精神病挙がかくしてへラクレイトスに通路を 返るならば一歩進められた通路がひらかれる。心理学 提してゐるのであるから︶、たゞ円Ⅰ世界−存在そむ 自らを﹁生命機能と が・−自らの本質を見失って ものの柿遥からのみ始めて把握される。心理革む歴史 − しての心の畢﹂として或は﹁心の生活の自然科挙﹂と そのものが始められたのは汽にⅠ人間存在が硯賓に ヽヽヽ 規定するとすれば、それはその歴史を遡ってアリスト モクⅥソー﹁スに踪りゆくであらう︵感覚的元子論的であ の母胎的地盤に向つて反省する道、及び心理学の雁史 ちへラクレイトスに於てである。ふくて精神病畢をそ ある原本的構造に始めて革的限が向けられた瞬間、即 ヽヽ る限り︶。併し心理挙が心的なるものを主観的と規定 への反省の造、この二つの道はイオニヤに、基前五世 テレスに締り︵生物畢的有機畢的である限り︶、或はデ するならば、それはプロタゴラスに辟るであらう。然 吾々がこれ程にも直接的にへラクレイトスからの喚 紀のイオニヤに向つてゐることを知るのである。−1 み解かれ得ると考ヘムれるに到れば︵ナトルブ︶、昔然 びかけを感するのはその閉使お彼の言壌に、て語的感 るにまた主観性の問題が主観−客観の埜閲性に於ての にプラトンのチアイチトスにゆくであらう。この桃久闊 JOβ.9 結にもつのである。極めて技巧的であると人は彼の文 動し﹂旋律とに、破れ丈宣形成と文茸技巧の金石文的凝 こに表出せられた思想もまた永遠の現資性を生きぬい に高まりゆくポサケネの響背である︵ローヂ︶ るように それは貨に返しい刺子をもつていやまし 登楼式を批判し、言葉の遊戯、封照、貧喩への愛好を た。第一線にたつてヘーゲルが炬火をかざし、シュラ ー 拇摘した、併しまた彼の文茸の驚くべき充賓と緊張も イエルマッヘルは愛情をこめてそれを守った。ツェレ 判が始められて来たー一字宙から、自然常襲から、物 ヽ そ 承認せられ、ヘラクレイトスの言語天才が語られてゐ ルの希臓折=撃史に於て兎に角畢的考察が向けられ、ゴ − る︵ケ・ラインハルト︶。一.古語様式はしかし思惟様式か ムベルツの﹁ギリシャ思想家﹂に於て世紀末に於ける ヽヽ ら、思惟株式はまた人間の生活様式から切り離され得 まとつた宇宙論認識論紳撃としてのへラクレイトス像 ヽヽヽヽヽ︳ヽヽヽ 、ないのであるから、1暑理解すろに困難な、あれ程に みの ス撃貢語の特典性に於て吾々に喚びかけるものはまた 理箪から人間へのへラクレイトス的椅換を強調し、か が明らめられた時、同時に驚くべく覚りゆたかなる批 彼の思惟の木原性であり、自らの意志に貫かれた恨倍 くしてミレトスの先駆者どもから鋭い距離を笹切りと ヽヽ なき人格の峻厳性でなければならない。人格、思想、 って。眈にウインデルバントは彼の人間畢的問題への ︳ヽ 音譜 − 三者はこ1に稀なる一鰐に形式せられる。彼 関心を注意し、ディルスはへラクレイトスが人間の心 高く語りそしてあれ程に鋭く適確に㌍くへラクレイト はm心想を手記に書き止め、そしてこ〃手記をディ7ナ から宇宙の憲を抑理しょうとし、彼があらゆるギリシ ヽヽ の神殿に捧げた、彼の思想は生活の支柱であつたが故 ャ人の中にあらてプラトンと共に人類の哲嬰的牽尿に ヽヽヽヽヽ に彼はそれを女紳に奉ったのだ︵キ 於て最も重要な人であつたことむ強調した。ミッシュ ︳︳ヽヽヽヽ ヽヽ︳ヽ クレイトスの言語があらゆる畢的分析と批判に抗して はへラクレイトス哲畢の心理畢的探さを見、− 八九 封象 殆んど二†正百年彼の今空で硯寮に準き且つ語ってゐ へラクレイトスの人間解種 ヱOj妙 いての﹃説解﹄として解した。ラインハルトのこの解 ヂイオンを、人間の自己自らについて並びに世界につ クレイトスの叫㌣c竃である。彼はへラクレイトスのイ インハルトの解樺にあつて注意せらるべきものはへラ が最.も完全に宇宙単に健紺してゐる 佑ひする心理畢む蔑見し、ヘラクレイトスの全心理挙 鋭く指摘した。ケ・ラインハルトはこゝに始めて名に 寛碓的不欒性が破壊されなければならなかつたことを の自己同一性のために、それ故人格の自主性のために 畢的な心がその血族性の故に永遠に生きる火をもつて トスが賢場したのはこ1に於てで潜る。併しながら暫 くその宇宙的な袖に措く人間解絆をもつてへラクレイ ませた宗教意誠に封して結晶鮎を指示した。人聞む全 ィそ示教が魂と紳との本質的血族の信仰にょつてめざ ヽヽ デイケ た存在の側を扱ったのであるけれども、自然哲畢的な だ宗教問題をあらはには掟机せす専ら人間に背をむけ ての眼を閃く要求がかかげられた。古代自然野草は未 が問題であり、死ぬべきものに向つて自己自らについ 九〇 稗は 一 本来へラクレイトスにあつては人間の自己理 紳的叡知を認識し、それを自らのうちに拾ふものであ ヘラクレイトスの人間解程 解が問題であり、人間と呼ばれるものが本来何として る限り、オルフィクの婁魂宗教はこ1に高められた攣 ヽ︳ヽヽヽ JJ、 ヽヽヽヽヽ ヽ︳ヽヽヽヽヽ 宇宙の思想及び宇宙を支配する正義の思想は、オルフ ヽヽヽヽヽヽヽ 理解せらるべきか、叉如何にしてそれが理解されそこ 形をなしたと語られなければならない。ミレトスの字 ヽヽヽ なふかといふ太古的にして永遠に新鮮な問題が中心課 苗思想が眈に吾々の自然法則よりもむしろ≠界規範を ヽヽ 題であつたといふ地平線に於てのみ可能なのである。 意味してゐるやうに、ヘラクレイトスはこの性格を彼 ヽヽ この見解を最新なるへラクレイトス像に彫み上げる の紳的ノモスに於て宇宙宗教に高め、≠界ノモスのな ヽヽヽ 作業はこれをイェゲルに負ふのである。ヘラクレイト かに常襲的人間の生活ノモスの基礎を置いた。ヘラク ヽヽ︳ヽヽヽヽヽヽ︳ スけ今や最初の哲畢的人間単著として先行思想家に封 レイトスは人間撃即ち人聞の自己理解の地般で﹂足場を ヽヽ・ヽヽヽ 立する。彼にあつてはその全存在に於ける人間の解繹 J∂∂0 まはされた。換言すれば人間の心臓は、宇宙のあらゆる に宇宙蓼的設が宇宙挙的珪のめぐりに紳畢的改がひき 宇宙撃並びに神輿■に置き、従って人間拳的拐のめぐり 的倖拭から浮び上がらせたのである。 由持換にょつ音1ェゲルはヘテクレイトス像を哲畢史 又その法則に組ち入れる時に成り立つ。﹄ ヤ的人相の自由−1は自らを一員としてポリスの傘醍に、 力はロゴスに由来する。彼に於て生活に封する創造的 か打ち破らるべきことむ教へ、吾々の問題に関しては 績は極めて大きい。即ちそれは詩と散文との問の限界 ヽヽ︳ヽ ギリシャ的人間の形成に紺するこの最初の研究の功 このポリス 力線が桁榛する感動的にして活動的な中心鮎でなけれ ばなちたい。而して紳的叡知を認識する人間的心の能 認識の意養が明らかに語られた。ロゴスは新らしい白 ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ ヽヽ︳■︳ヽ 覚的生活む可能にする、即ち北ハ同的意紬 ンの詩作に於ける倫理的ポリス的及び宗教的労作が正 眈にアルキロコス以釆の栽喪詩叙情詩に於ける又ソロ を 託生せしめる。ヘラクレイトス的ロゴスのこの祀合的 に形成されつつある哲学的兄索の理解にとつて不可放 ︵㌢∑キ︶ 共同性は決して単なる論理的普遍安常性と解されては であることを明らめたのである。人問の木質ノモスの ヽヽヽヽ ならたい。共同性はポリス倫理のもつ最高羊であり、 自覚1−⊥兇洋的に主観的自我を裸にして了ふのでなく ヽヽヽ 仰濃の特殊存在をうちに吸収するものである。イェゲ て・1−これがギリシャ人の特異性でなければたらない ヽヽヽ ルの解絆は次の如き彼の言葉に集約せられる.。﹃ヘラ 人間のノモス的理解への絶えざろ努力は単にあらゆる ヽヽヽヽ クレイトスの人間は宇宙の一部である、人掛はそのも 思惟労作に於てのみたらす賛にまたあらゆる詩的象形 ヽヽヽ︳ のとしては学績の他の部分と同じ′、全醍の法則に隷廃 に於て働きつつあるのである。ギリシャ人があらゆる ヽヽヽヽヽ ヽヽヽヽヽ する。併しながら人間が自らに桐有たる稀袖にょつて 民族のうちで本来的に人間彫塑家であるならば、ギり 九一 香﹂生命の永遠なる法則を自覚的に自らのうらに櫓ふ ヘラグレイトスの人聞解樺. シャ的ロゴスは人間彫塑畢を代表し、あらゆる攣態攣 ■ 時、披は紳的法則の菅知なる垂向叡知に興る。ギリシ . JOβJ 九二 の存在との接偶が典昭性を見川し、彼の思想の意味が へラグレイトスの人間僻稗 械肇則現象をも含めて凡ての人間的様相を原理的に取 吾々の自己存在と相入するといはれなければたらぬ。 ヘラクレイトス軒畢の三つの環を円面的に結ぶもの ヽヽヽヽ は硯賓存在論的闊心である。宗教的精紳的ポリス的非 り扱はうとしたのである。−・ ヘラクレイトスに関する言語草的、哲撃取的、文化 史的、解繹畢的文献の最近に於けるおびたゞしさと桐 の位置を軍ひ、人間が外的安定保謹む奪はれてなほ内 常時の重砲湖に際して、即ち東西の推力と文化とがそ 見域された新らしい問題について語る柿利を奪はれる 的郷土を見川し待ないせ紀末に際して、この哲学こそ 限とに驚嘆せしめられる吾々は、ヘラクレトスに於て ヽヽヽヽ 併しこ1に於てもまた彼の言語が吾々に展望むきりひ は しさへの疑問はいよいユ向まりゆく喚び整の前には辟 防ぎ切れないのであぇ。ヘラクレイトスに関する新ら 遠に吾々の存在に於て直接喚びかけむ感得することを トスの思想のあらゆる分析と批判とは決して吾々が永 ある。﹂人類歴史の開闘以来最初に現存衣の軍配性 生活控除及び内的菊藤の岬=穣と迫力とを思ひ縛るので 突けから充分にこの﹃精油の帝王的隠遁者﹄に於ける 上げる資料は恵まれてゐない。併し乍ら断片的な記録 吾々はこの照準者の生涯につ.いて完全な侍記を書き ヽヽ らく。ヘラクレイトスの言語様式に関する理論的分析 たものに威しつつもート感動的な硯葦春木的責任負澹 息せざるを桔ない。永遠に宜つて喚びかける彼との直 について贅言上才人、即ち﹃私は私自らを探し求め藍 あらゆるギリシャ神殿のうち毅善に保護せられ と批判とを以つてしても彼の言語が、聖返に新らしく吾・ のまがふかたなき記録に外なら 線的交渉に於て、吾々は最早や安郁を保ち待すして何 ︵frJO−Die−s︶ − 々に喚びかけることを妨げ得ないやうに、ヘラクレイ ヽヽヽヽヽ 等かの創法的態度に促されるので挙㌢.更に進んで閃 イトスは珊粗い的省察に﹃敢も近きと ■ といふ言葉を現した人を。ヘラクレ ひ、吏に朝らしく語り出すことに於でのみこの哲単著 JO∂g し同時に彼は知ってゐた、1草々にかくも﹃最も近 衣のうちに硯賓存在を追求した最初の人でぁった。併 ない、軸的能力丈けがそれをもつからである︵ざ詔︶ にある。何とな爪ば人間的能力は虞寛たる明察をもた ふ道に於てこひ目標を呪茸になし得ると考へたところ みサづか 於てのみ﹃理解﹄され得るところ、即ち身自らの 即現 ち存 紳的叡智と紳的虞理に興り、それを分有するとい き﹄各自自らの現存在、即ち我自らは吾々の日常的な 求める過程に於て、− 併し乍ら、紳的明察む分有するといふことそのことが ヽヽヽヽヽヽ も遠いところに求められねばならぬことを。何となれ られなければならないのであるから、現存在は何纏ま 適の上には見出せない、それ故決して造作なく蔑見出 ば、ヘラクレイトスが明確に認諭してゐたやうに、吾 ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ 々は最も卑近に叉毅も多くの場合に吾々自らの現存在 でも歴史的であるといはぬばならぬ。勿論自ら白身を 決して人間の括藍のなかで起るのでなくて、我自らを から離れてゐるのみなら、ず、吾々自らの現存在む多角 知る可能性はあらゆる人間に輿へられ凄まれてはゐる ヽ︳ヽヽヽヽヽ 来るものでなく、努作と努力をもつて日常的な眼に最 的に放漫させて生きてゐるからである。この放漫のた けれども︵fr・ue、多くの人間はたまたまか1る槙 に﹃我自らを求める﹄といふ常襲的思索そのものの積 もののうちに求めなければならないのである。それ故 の統一、即ち﹃我自ら﹄を から隔絶されてゐるもの﹄︵註て冒て琵琶雪盲恥tごてfり. ﹃一なる叡智﹄︵芋Tかq毒㌻fr.諾︶、﹃あらゆるもの てさへも理解が川来たい︵fr﹂ご。放て紳的叡智即ち 倉にぶつつかつても全くその意味が分らす、教へられ ヽ︳ヽ でなくたゞたゞこの世に生キ抜くことによつて接待せ 而もこの世を通り過ぎてから ゞなかから吾々は吾々自らに於ける統一、吾々自らと 寒に於てへラクレイトスは決して近代哲撃と異ってゐ −○00︶にあつては吾々がそれについて知る︵コマeq賀こ ー我自らの形成過程その ない。ヘラクレイトスを原理的に匿切るものは、思索 には先づ第一に信じなければたらないと語られる 九三 的に想定せられ猫断的に軍不せられた超越的な世界、 ヘラクレイトスの人間僻樺 JO王)β り、−−⊥即ちプロネシスの概念が虞理、﹃自然﹄及び自 九四 ︵已ヨへへ.賢司へq↓訂fr.芸︶。か1る紳的叡智を分有する 然に随へる行動への絶へざる注疏を以って我自らを形 ヘラクレイトスの人間解樺 遺に封してへラクレイトスは創めて一っの概念む導入 成すること皇百ひ硯はすものである限り、吾々は決し らかに傾辞し、安らかに省慮ある行動をする在り方へ しい放漫さから出て虞理を安らかに省慮し、自然を安 nenbeit︶として諾すべきである。人間は現存在の騒が ︵謬sOn・ したのであるが、これは希臓哲学に於て、特にプラト 帥ちプロネシ て単にこれを﹁思惟﹂としてでなく、省慮 − ン及びアリストテレスに於て猶ほあれ程大きい役割を 潰すべき使命を負はされてゐたもの ス ︵空買い㍗︶ の概念に外ならない。 ブロネシスは普遍には思惟と課される。併しへラク 自らを集中する場合に丈けプロネシスの状態に於てあ そして叉この﹃安らひ﹄に於てのみ自主的存在 自己のうちから生れる生活が可能なのである。ヘラク − を聾言すること及び﹃傾推しっつ﹄自然に随つて行動 レイトスは如何なる在り方 る することと解するのであるから、それが決して少くと れば1如何なる生成︵Werden︶ レイトスはプロネシスを直ちにソフィア ︵qO鼠色 ヽヽ の名を以つて呼ぶのであるから︵fr﹂−陀︶、即ち眞理 ヽヽ も直ぐには論理的思惟として考へらるべきでなく更に 全人問性即ち至上徳︵gのT料忘こqぷfr.〓N︶が見ら のし方に本来的な ヘラクレイトス的に語 遠かに複雑なものであることは明らかである。ブロネ れ.るかについては決定的に語ってゐる。それは﹃高貴 のは﹃衆くの⊥転がら﹄︵︵∼営ゝ=fr・ド]石一隻︶﹃数 ︵誉へq3へ︶の在り方で、それに封立するも − シスがソフィアとの聯閲に於て云はば﹁外へ﹂を示す なるもの﹄ ︳ヽ︳ヽ とすれば、それは自己認識との連結に於て云はば﹁内 へ﹂を示してゐる︵fr・−−のこr.〓∽︶。かくしてプロ へ切れぬものども﹄ である。 ネシスが一方では虞理の襲言及び自然への傾諏として ﹃ホイ・ポロイ﹄は、キエルケゴルにあつて﹁群﹂ ︵︵∼上官へQへF金︶ のソフィアに、他方にあつては自己認識につらなる限 ヱβ∂よ ︵Meロ笥︶ と呼ばれ、ヤスペルスにあつて﹁群集﹂ ︵F−○ご、彼等の最も悪しき徴表はヒエブリス即ち ことを知らないから︵fr・−乏︶。大衆としてわ人間は 衆くのとも如らが戴く、たゞ限られた人々丈けが良い 信仰し、教師としては恋慕を選ぶ、何となれば彼等は ︵fr∵r柑:P−ゴm革二岩∵冠︶。道行く艶歌師を彼等は ない、でゐて而も如拙あるものの如く思ひ込んでゐる 何どとを 理解せす、拳ばす、考へす、知らず又把え 見えるかを示さうとして飽くことを知らない。大衆は が如何なる在り方むもつか、彼等にとつて何が重大に イトスは不断に新らしい表現を用ゐて、か1る﹁大衆﹂ も適確且つ充全に言ひ硯はす希隠語である。ヘラクレ と呼ばれてゐるところの自らを放押せるものどもを最 1へラクレイトスは人間の思想を﹃児戯﹄と呼んだと スは更に叉小兄及び動物との比較から輿へてゐる︵− ﹁大衆﹂の存在に関する存在論的規定をへラクレイト より良くなつたことを意味しないであらう﹄︶。 のあらゆる願望が充たされることがあつても、少しも スとのつながりを見る﹃彼等にとつては、よしや彼等 らない!﹄︵﹁断片﹂一一〇にあつても吾々はヒエブリ ﹃決して早急に最大重要事について断定し去ってはな あるから﹁断片﹂一七の瞥骨はここに開聯する それ程屡々、それ程劇烈には表現せられてゐないので ヒユブリスは昔から今まで﹃早急な判断﹄に於てほど も先に消し止掛られねばならぬ︵fr.畠︶、併し大衆の ︵Ma∽托︶、ハイデツゲルにあつて.﹁世人﹂︵Man・Sein︶ 激越心或は璧蒜である、それ故これは娼の怒りより 脚くすべも話すサべも知らない︵fr∴忘︶、彼等は﹃居 俸へられてゐる︶。動物との此較に於て人間存在む規 九五 動物は何等の疑問な ー t れども居らす﹄といふ格言の如く聾者である︵fr.∽舎、 定することは今日でも極めて有力な方法である。人間 はかうでなければならない、− ︳ 限に見える物の知放につぃてさへも彼等は自らを最も ヽ 存在が単なる生命以上であると語られる時この﹁以上﹂ ︳ヽヽ ヽ よきものだと思ひこんでゐる︵許諾︶、それ故限と耳 、 −、、、− 、 −、 、− 、、、 、、 ヽ ヽ ︳ ヽ は未開な魂をもてる人間どもには患しき詳しである へラクレイトスの人間解辟 J〃クJ へテクレイトスの人間解樺 を選持し形成し或は否定して生命閏を破つてゐる。人 を動いてゐるに反して、人間はこの単なる生命的春在 く本能的確資性をもつて自然から輿へられた生命圏内 間規定を吾々は既にへラクレイトスに於て見川すので ることが如来ない︵シュラー︶。これらの現代哲畢的人 的慣倍.︵名草、品柾の如き︶を低い慣佑よりも選びと 決して或る特定の財物から切り離された慣値即ち精神 九六 間が人間たる所以は単なる生命的存在に閉じこめられ ある。﹃高貴なるものども鼠〓ざ§支が他の凡てより ヽヽ てゐないで自らが自らに向つて身がまへをすることに も選びとる一つのものがある、即ち彼等は名聾を、永 合に於てさへ彼は決して動物ではない。即ち粗野な場 ため又は精神病のために動物の段階に沈捜してゐる場 ら自らを理解してゐる︵ハイデツゲル︶。人間が粗野な 自らであることも亦ないことも川東ろ自らの可能性か ならない。人間は常に自らの存在から、 なく硯賓を受けとり、選びとることも棄て去ることも の明察即ち くあることの故に大衆には偶値及び人間存在の段階へ に食ひ飽きてうづくまつてゐる﹄︵守∴謎︶。動物の如 くのともがら﹂ 遠的なるものを滅びるものから選びとる、然るに﹁衆 ●ヽヽヽ ょって自らの本質を自ら築き上げるところにたければ 合人間は動物より以下である、﹃何となれば絶望によ ほちは 帥ち己れ って動輔せる存在は動物に固有なろ本能的力と確資性 のものは悉く紳の等を以つて牧場へ迫ひやられる﹄ qqミ熊 ︳ヽ が奪はれてゐる。動物の如く疑問 なくたゞ口腹を充たせセ足りてゐる。﹃腹闇へる限り ﹃雄鳥は切藁を黄金の前に選ぶ﹄︵fr.¢︶。﹃犬は知らな − を快いてゐるからである﹄︵ヤスペルス︶。精神病者に ︵fr・−∽︶。﹃肉碓の快感に草稿が宿るとすれば弼豆にあ の生命圏内に於て例へば戎ろ食呵を他の食叫よりも、 小ものに向づて吠えたてる﹄︵F笥︶。−︵未完︶− ヽ︳ c∼既望ゝゝ︵∼は愛すべき家畜のやう あつては動物より以上である、何となればそれは人間 りついた牡牛鳩車栢だと呼ばれねぼなるまい≡r・e。 或る行動を他の行動よりも選び取ることはあつても、 Jβクβ ヽヽ 存在の﹁くるい﹂に外ならないからである。動物はそ _ ■ ロの神秘主義﹄ 佐野膵也教授の畢位論文を或睨む丁−1 ﹃使徒パウ − 三 枝 義 夫 原始キリスト教を研究するに雷って、我々の最も正 いざ知らず、原始キリスト教の狗創的研究を成就しや 確な研究封象となり得るところの人物は、いふまでも ぅとした者は、すべて。ハウロの思想人物の深い研究洞 たく使徒パウロである。然したがら、使徒パウロは単察から出費して居ることは、決して偶然ではないので にその生涯わ輪廓が判然として居る唯一の歴史的人物ある。クリスティアン・バウルが。ハウロ研究から、輝 としてのみ重要醍されるのではない。むしろ常時の如かしい批判研究の瑞緒を開いたことは、既に周知の事 何なる人物とも比較して最もすぐれたキリスト教硯瞼 賓であるし、現に各地において公刊される。ハウロの研 者として、俸道者として、そして信仰の組織者として、 究書が、常に新約研究著書の大年を占めて居るのも、 最大の人物であり、キリスト教の正統信仰はこのパウ かうした事茸に由来して居る常然の硯象なのである。 ロに聾するといふ鮎から、彼を除外しては原始キリス新約研究で単位を得た本邦最初の畢仰論文としての柴 ト教の研究は全然不可能どなるといふ厳然たる事茸に替を拾ふ本署が、また使徒。ハウロめ研究であつたこと ょるものなのである。いはゞ。ハウロ研究は、原始キは リ、博士の原始キリスト教研究に封する猫創的虞蟄な スト教研究の、衆初のそして確茸た研究足場である。畢 従的態度を窺ふに足るものであり、同時に本書の内容 九七 って、従来の研究成果にのみ追従しやうとするものはに封する我々の期待の甚だ大なる所以でもある。 使徒。ハウ′ロの紳秘豊義 JOク7 使徒パウロの紳継室義 九八 使徒。ハサロの研究は、かく最初になされなけれ向ば にな 立って:ハウロの神秘思想から、パウロの全貌を らないものであるが、然しながら、これは決して容 明易 かにしやうと試みたものである。 なことではない。何となれば、。ハウロの信仰内容は 神、 秘通 思想のうちに、パウロの全精神生活を明かにし 常の理解力を以てしては到達し得ない高さにあると ゃ同 ぅとする試みは、勿論、神秘思想のみで。ハウロの全 時に、それは決して簡単な単一な要素から成って居 貌る を明かにし得ると信することを、誤りとして拒否す ものではないからで奉る。民族的俸統信念の外に、 る彼 けれども、少くともパウロのキリスト教信念の根底 が生長したギヮシヤ・ローマの精神を多分に取入れ を、 流れるところの大きな一つの思想を明かにすること とれらの諸要素が。ハウロにおいて有機的に結合統 に一 役さ 立つことは否定されない。博士の言葉を借りてい れて、パウロ狗自の深遠なキリスト教信念が作り上へ げば﹁パウロの紳轡主義について語ることは、結局。ハ られて居るのである。かくして。ハウロの研究は、 ウ原 ロ始 のキ 全精神生活の刑襲鮎について語ることに外なら リスト教研究における不可欠な、而も最も難解な課な題 い﹂︵五貢︶ことである。道徳思想をもつて、パウロ として取上げられなければならなくなつたのである の。 中心思想とする一二の反封諭はあつたにしても、我 来、及び、これは最も重要にして難解、従って多種多 而して、これは難解な課題・であるだけ、多方面か 々ら はの 結局前者の立場を採用せざるむ得ないのである。 種々雑多な解決法が提案された。パウロに著しい、 然而 しながら、パウロにおける神秘思想の特質、その由 も彼猫自の神秘思想に前日して、こ1から使徒パウロ の眞相を明かにしやうとする試みは、挽近のパウロ 様研 に解されるが、パウロの全キリスト教信念において 究の一つの特色ある傾向として日立つところのもの占で むべきその付置.意表といふやうな謂鮎む明かにし ある。博士は、本書において、かういふ挽近の研究こ傾 れに明快た解答を輿へる.ことは、決して容易たこと JOβざ 力に向けられて行つたが、然し、その詳細な鮎におい 瞼を通してのキりスト数的本質を放り糾さうとする努 いて認めると同時に、他方において叉。ハサロ猪自の慣 次第に。ハサロに輿へたこれら諸宗教の影響を一方にお との比較研究から鮎火された、この宗教史的興味は、 ではない。ヘレニズム諸宗教における多様な紳髄思想 る多くの音調が基礎となつてゐる。密儀宗教、ストア ある。それを構成すろためには、多くの柴器から覆す ﹁パウロの神秘主益は、云はゞ一個のオーケストラで のである。 士はこの問題について次のやうた研究結論に到達した 斯界のために萬陸の感謝の意を表せぎるを得ない。博 って博士が、パウロ濫おけを紳秘思想を研究箱目とし きものの形をとるまでには到って盾ないのである。従 ぎ次ぎに提出され、決して同定された定説ともいふべ 多様な、或時にはむしろ相封立するやうな解繹が、次 れは、ギリシャ的常儀宗教の神秘主義でもなければ、 く、揮然たる統一櫻となり、協和音となつてゐる。そ 素が、偶々喝立に彼の精神中に存在してゐるのではな 個の協和音が成立して屠る。⋮︰・従って、それらの要 のものが、パウロの人格において融合され、ここに一 ては、これが現在の中心問題であるに相臆しいやうに、 的思想、ユダヤ思想、それらの互に相異なつたところ て韓び取ったことは、誠に常を得たこと1して敬服に 束澤の密儀宗教、ギリシャの神秘思想、ユダヤ思想 ︵二九〇1二九一 終末観的神秘主巷でもない。パウロの紳轡三重は、飽 くまでもパウロの神秘主義である﹂ 得る者は、恐らく、さう多数は布衣しないであらう。 等の多方面からの影響にょつて、パウロの神秘思想が 貢︶ 博士がその適任者として問題を適切に虞理したことは 九九 成立したことむ認めながら、同時に。ハウロの神秘思想 鹿徒パウロの紳秘主義 本邦キリスト教畢界の水準を遠かに高めたものとして 題目をとり上げ、これを純科挙的操作を以つて虚理し 恐らく本邦キリスト教拳界において、かういふ研究 堪えない次第である。 JO∂ク 解されなければなるまい。博士の全研究を一貫して居 一〇〇 が、これらの神秘思想と同一ではなく、.ハウロ猫自の る学的立場は、いふまでもなく、﹁知的理解﹂として 使徒パウロの紳相室義 神秘思想であるといふ結論に到達して居.ることは、極 解﹂として、梧許法紳畢的理解を適時に適用して居る めて穏健にして安常な結論であるとして、誰しも反封 の歴史的批判的研究態度であり、これに﹁愛による理 するものはないであらうと確信する。 先づ第一茸においては、資料の閃層を取扱つて居る さて私は、次に本書の構成を逐次紹介して、私の諌 といふことである。 後感を記さして頂きたいと思ふ。 序文において、博士は、博士猫自の研究態度と方法 が、しかしこれは極めて軽く取扱はれて居る。恐らく とを述べられて居る。博士は宗教史学派でも、宗教心本文を理解する焉の預備として軽い意味で附加へられ 琴撃躾でもなく、。ハウロの時代環境の中に飛込み、直 たものであらう。主として英のモファットに披り、現 接虞のパウロを理解しやうとするものであるから、こ 代畢界の定説を承認採用して居る。ここでもし私の軽 物の著作年代の推定について、博士は諸単著の具視を の立場は本質を直観せんとする現象学涯の立場と一致 い希望を述べることが許して頂けるならば、。ハウロ書 .するし、叉パウロと現代との問に存する時間の障壁を 取除いて、直接パウロを聞かんとするところの梧詳法表にして示されたが、私は更に、これに、何故かくの 紳堅の態度とも一致すると言はれて居る。この言葉の 如き推定年代の相違が生じたか、その根本を、恐らく 眞意は歴史上の人物としての。ハウロを虞に理解しやう 絶封年代を何腱に求めるかによつて相違する、その相 とする為には、飽くまで正しき知的理解にょらなけれ違の根本を示して頂けたなちば、更に益されるところ ばならないが、何これに愛による理解を必要とすると多かつたではなかつたかと思ふのであ乙。 いふ、結論において述べられてゐる言葉と連関して理 第二葺から第四覚までは、パウロの前年生について JJOO は出来ない。 強い銃さが遺憾なく硯はれて居ることを、見遁すこと た鮎︵八三頁以下︶などに、特に博士の批判研究の力 買以下︶、ロマ書七童を内的煩悶の表はれとして解し 賓の叙述︵六四頁以下︶、迫害活動の舞養の吟味︵七二 強調して置かなければならない。。ハウロのユダヤ的教 士の最近に至る詳細な研究の傾到されて居ることを、 はこのパウロの前年生における細部の叙述に、殊に博 リスト教徒迫害を理解しやうとしたものであつた。私 然性を論評し、この内的苦悩の外的畿硯として彼のキ 指摘し、ここからパリサイ教徒パウロの内的苦悩の必 。ハウロにおけるギリシャ的教養と、ユダヤ的教委とを 青少年時代を造った。ハウPの生活思想状態む吟味し、 の常時の文化一般を明かにし、かかる文化の中にその の叙述である。.ハウロの活動舞養たる地中海沿岸地方 ﹁以上のパウロの言葉を要約すれば、次の如くなろで た鳥映して、次のやうに述べて居る。 し、次いでパウロの神秘思想を摘出し、更にその全貌 ワイツェル、ゼエムス、レーマンの諸説について吟味 おいて.一般紳秘主義といはれるものの内容を、シュ ︵一一二貢︶といふのである。そこで博士は第六茸に 活を鱒丁刊蚤鮎となつたところにたければならなご 硯験の意義は、キリストを礁験し、キリスト中心の生 なしたといふ鮎において意養を有する。﹁ダマスコの 鯉験は、やがて次第に確立されたキリスト偶の基礎を 発展し確立されたものであるといふのである。同心の の時に確立されたものではなく、むしろやがて次第に した﹂ものではあるが、。ハウロの神秘碓験はこの同心 の硯瞼は﹁キリスト彼の内に在りて生きるとの経験を 教徒となつた時の鯉瞼に川覆するとなした。即ち同心 あらう。 我々はバブテスマにt依って、キリスト・イエスと結 第五章以下が、本書の主要部分を構成して居るとこ ろである。先づ第五童﹁両秘的醒鹸の出費鮎﹂におい 合し、キリスト・イエスと運命を同じくする。即ち、 一〇一 て.、博士は、。ハウロの神秘牒瞼は、同心してキリスト 使徒パウロの紳秘軍拳 JJOJ に宿する。かくして我々は、キリストと一腰となり、 依って、キリス†・イエスの重、及び紳の婁を我が中 と共に復活する。換言すれば、我々は、バブテスマに 彼と共に罪の身を十字架につけ、彼と共に葬られ、彼 秘主義﹂﹁信愛望﹂といふ五茸の中に、随時に明快に ワシヤ的神秘主義上パウロの神秘主養﹂﹁現糟此ハと神 のではなくて、﹁主キリスト﹂﹁信仰の神秘主筆一﹁ギ かういふ四つの問題町間の形において答へられて居る 義の特徴を明かにすることが出来るとしセが、これは 一〇ニ 罪と肉の怖とを十字架につけて殺し、蔓において新し 解決され、到る庭博士の猫創的見解キ示して居るので 使徒パウロの刺繍寅義 く生き、キリスト・イエスに在りて新しき被造物とな 允づ博士は﹁主キリスト﹂において、所謂﹁ブツセ あろ0 すべて、キリスト・イエスに在りて同胞であり、あら ットの恨誼﹂として著名な、ブッセットの畢詑の吟味 る。即ち紳の子となる。此の新しき人としての我々は ゆる民族的笹別も、祀倉的階級も、男女の性別も取去 から始めた。即ち、。ハウロ以前の異教的キリスト教囲 するといふ形式のうちに盛られて居る榊秘思想を吟味 において行はれて居つた、イエスを﹁主﹂として崇拝 られる。﹂︵一二五貢︶ こ1から博士は、パウロの神秘思想の問題として、 次の四つの問題を取上げた。 ふことの意味。第四、新しき被造物となり、紳のチと キリスト並びにキリストと共に死に共に復活するとい てキリストと一膿となつたといふことの意養。第三、 って、垂向鮎に到達したのである。。ハウロにょれば、 によつて義とされる﹂といふ﹁信仰の神秘主養﹂に至 崇拝の中に育て養はれた。ハウロの紳秘思想は、﹁信仰 猛床を、こ.の﹁主﹂崇拝の中に求めた。この神秘的﹁主﹂ して、それを確かめ、。ハウロの神秘思想の茸際の穫生 なつたといふことの意味の四つである。博士は、との キリストとは﹁蔓﹂であり、藁は神秘的な力であり、 第一、バブテスマの意義。第二、バブテスマによつ 四つの開腹を解決するこ■とによつて︰ハウロわ神秘主 JJOβ 格と、キサスト教徒の人格とが結合するのである。か を目的とするものである。信仰にょつてキリストの人 トを信するとは、キリストの蚤を自己の中に宿すこと 仰も亦、紳秘的内容を持つものであり、従ってキリス 要素であるから、か1る﹁主﹂たる婁た対象とする信 要なものとして取上げて頂きたかつたと思ふ。 ストと結合するといふ神秘思想も亦。ハウロにとつて重 この外に、イエスの悩みを僧に悩むことによつてキリ 然し、こ1でも私の小さな希望が許されるならば、倍 餐式む盤げて居る。これは極めて愛常な見附甘あらう。 は﹁ギリシャ的神秘主義とパウロの神秘主義﹂とを比 く。ハウロの信仰の神秘思想を明かにして、ここで博士 秘思想の影響む受けて、ギリシャの神秘思想が全く個 ヤ的思想が指摘されて居る。∴ハウロはこのユダヤ的神 最後にパウロの神秘思想の特色の一つとして、ユダ と人間との合一牢王張し、硯賓世界において、人間が 紳に化することが出来るとしたに封して、後者は紳と の神秘主義は﹁神秘家の神秘主薬ではなくして、寮際 思想となるに至ったのであるといふ。要するにパウロ 。ハウロにおける信仰と愛と希望の虞相を明かにした。 人間とが神秘的に交ることを主張し、両者の交りが将 更に博士は、パウロの神秘思想む示すものとして決 もし私の理解に誤りないとすれば、本書の内容は以 家の神秘主轟であつた﹂︵二六五貢︶と博士は規定し、 して表徴的ではなく、規賓的に、人間の罪の鰻をイエ 上のやうな構想を待った大著であるといふことが招来 来において完成されると見る鮎において相違すること スと共に十字架上に殺し、イエスと共に延らせ、かく る。本書を通讃して、特に感じたことは、賓に多数聾 こゝからパウロの道徳的努力精進の意養を考察して、 して新しい人とさせて﹁キリストを着﹂させるバブデ 一〇三 者の諸誇を参照指摘し、これに蕨密な検討を加へて、 位徒。ハウ/ロの神秘主義 スマと、キリストの肉と血とを食ひ且つ飲むといふ空 を指摘して居る。 人的、神話的であるに反して、囲牌的、手箱論的神秘 較し、両者は多くの鮎で類似しながら、而も前者が紳 JJ¢β 使徒パウロの紳秘主義 一〇四 ここに博士自身の猫自の見解・虻展開させるといふ方を 針挿入し、これに説明訂加へられて居ることも、諜者 にょつて終始一貫されて居るといふ鮎である。多くの の理解を助くる適切な方法として、博士の親切心を多 畢詮は、博士の中に混然と取入れられて居る。就中ブ くの清音に代って謝し度い。 い一大金字塔である。撃界は本書の出1現にょつて一段 ッセット、ダイスマン、シュワイツエルの有力な、然 とまれ本書は、本邦キリスト教畢界における輝かし し一面的な見解は.博士において融然たる一牒となり 高く揚棄されて居ることを見過すことは川東たい。同 とその水準む高めることが出来、本書にょつて教へら 心の解樺、希望は信仰の将来性を、愛はその現在性をれるところ極めて甚大なところがあるであらう。畢界 謝して止まないものである。 示し、従って﹁信仰は希望や愛よりも包括的﹂である のために衷心より私は本書の公刊を称び、且つ深く感 とする鮎︵二七八重以下︶、天上に拳げられた超越的 紳的イエスと地上に生活した歴史上のイエスとを、同 一存在者の両方面と見た鮎︵一六七貢山下︶などに、 博士の猫創的見解が最も明瞭に示されて居るやうに思 はれる。而も部分的論鮎においては、到る桝、鋭い、 そして深い論議を加へて居ることと、これら難解な論 議が、すべて流暢な文章によつて綴られて居ることと は、本書の最もすぐれた特色として、特に強調して置 かなければならない。附鋒に﹁原始キリスト教の宗教 史的研究﹂を収録されたことも、遠宜に裏展二十m﹁葉 JJα4 ﹁上野隆誠氏著宗教心理学﹂ の要綱 正 範 見し、もしそれらの過程の中に特殊的なものが蔑見さ 淵 上野隆誠氏の新著宗教心理撃の要綱を紹介すれば れ1ば其の問に蔑見せられた法則にょつて説明せんと 田 第一茸宗教の心理的研究︵一貢−二七貢︶には最近 の各国に於ける宗教心理撃の襲連過程と夫々研究方放 することである。然して一般経験にもあるが特に宗教 於ける如く全然解るゝ事が田楽ないのでその虞慣の如 と畢の傾向とが各単著とその著書を指摘して要領よく 繹験の同心新橋等に多くある心理飛躍は一般心理単に 纏めてある。第二章宗教心理の研究法︵二七−四三︶ 第三茸宗教の心理的意義︵四三−五七︶は、宗教心 きは宗教心理撃の問題とすべきものでないと云ふ。 二、俸記的方法︵ジェームス︶三、歴史的方法︵スト 理の特質を知的経験、︵マックスシエラー、スペンサー・ は、一、畿開港︵スターバック、コー・リユーバ等︶ ラットン︶四、比較襲生的方法︵エームス、トロック へ コ ー︶五、茸験的方法︵コー︶の各々に就て長所と紋隋 が示され、扱て著者の研究法は蚤聞方法侍記的方法歴 作用︵カント︶個人的硯象、︵スターバック、ジェーム 史的方法に依って宗教控験を菟果し、一般心理畢の港 ズ︶吐合的現象、︵エームス、ライト、プラツト、 一〇五 儀は、一、人間以上の力との間に結ばる1開係感、両 則を欄ひて、此ら宗教経験、宗教意識の心理的過程を ー︶せして定義することは不充分である。祭ろ宗教盛 記述上線括し、説明して、その間に一定の法則を儲 上野陰謀氏若菜放心理餐の要調 ● JJα8 一、宗教の個人性として生理的遺倖に依る本能︵マク 教的経験に於ける個人性と社食性︵五七−八五︶では、 あると共に社食的経験であると言つでゐる。第四章宗 知情意の作用を綜合した心理状態、三、個人的経験で 達の上から見て人格神を要求するのが自然である。二、 して力なる封象は人格的と非人格的とあるが、宗教襲 はれてゐる﹂︵七七貢︶と云ってゐる。次に群得心理を まれてゐるので、云はゞ慣習は一つの習性となつて行 は、各人の神経系統の中に宗教信仰よりも深く締り込 模倣せられて無意織に行はれてゐる。即ち宗教的行焉 教的慣習♪行儀は宗教的信仰よりも何人にも幼見から るかを明瞭にすべきであつて、それは即ち﹁第一、宗 何なる心理的理由を経て社食集囲的に思考し行動され 一〇六 ヅガル、ジェームズ、ホッキング︶情緒︵リボー︶等 以つて宗教某国の現象を説明してゐる。 上野隆誠氏著宗歓心埋畢の要綱 に廃する内的諸鐙験を奉げ、これらの経験は配合的影 入園式、キリスト教の同心、新宿.神秘経験、苦行、 性の過程と見たい。未開配合の桑園の宗教生活、儀祀、 もそれが茸在するには政令的環境に於て生育する個人 的心理でそれは特に少青年に著しい。次でサウレス、 ライト︶俸承作用は暗示と同情と模倣の三つの無批判 要素堅一大要素となし︵サウレス、プラツト、コー、 定する心理要素として、一、俸承的要素、二、情緒的 第五童宗教信仰の心理︵八五−九八︶は、信仰を決 各宗教の開組、雅言者、宗教的苦行の礪身、孤猫、断 スターバック、ジェームズ、シャンド、マクヅガル、 煙を受けて具碍的に意識せられる。哲畢上の自我意蝕 食等は完教の個人性を説明する事茸である。二、次に ライト、ブラットの指摘する情緒の宗教的意益を明か ︳ 弟六茸宗教と本能との関係︵九八−一l九︶は、本 はなく、情緒的充足感であると決めてゐる。 .にし、垂するに信仰の心理は慣値や意義.と呼ぶもので 宗教的茸在は、個人を宗教的に拘束する統合、薬園的 表象等そのものであると云へるデュルケム、レヰィブ リニー等の統合性を大饅承認し、ではあるが然し、儀 祓、慣習、信仰等の祀倉的倖承は、それが榊人よ欄如 Jプロβ 外的刺戟に依って始めて表はる1五つの︵項目省略す︶ 能に二種の見解を立て1本能の機械的静的立場として 争的薬園の暗示とのために人をして所魔の宗教集困の サウレスを奉げて、群集本能は人間の暗示的傾向と政 ャンドの﹁情緒とは肉饅的活動乃至本能等の心理的生 第七童宗教と情緒との関係︵一一九1一三三︶はシ ふ。 特質ある本能を示し、本能の動的説明として本能を生 信仰から免れることの出来ない様に結合してゐると云 命の動力的なものとして三つの特質ある本能を示し て、︵一、力乃至金一に封する動力、二、性的満足に 封する動力、三、華柑な生活槽綴に封する動力︶リブ 上野匪誠氏著宗教心埋輿の妥鯛 は本能的諸傾向と 第八茸宗教と情操との関係︵一三三1一四六︶は、 ︵Re−i乳OuSSen︷iment︶ 一〇七 する動力は、勿論宗教的願求である。叉トロックー、 るうち、本能や情緒が習慣的に喚起せられた結果、漸 等は性的本能の昇聾されたもの、三、車幅な生命に封 扁renCe︶ などが中心である。情操は封象に接してゐ ホールに於て明かなる如く、宗教的情操、貪潔、孤猫 情緒との複合牌であつて愛︵−○完︶怜︵hate︶敬︵r? の最有力な要素であり、二、ユング、スターバック、 宗教帖換 ることが机来る。一、力乃至金一に増する動力は宗教 いので説明日東ないが、動的説明は宗教経験を誰明すは常に基礎心理として保績されてゐると認めてゐる。 宗教経験は本能の静的見解では五つの保件に合致しな て、宗教経験からは同心の如き飛躍があつて鳩、情緒 皆この作用であるとしてサウレスを奉げてゐる。放て された儀穏の如き特殊な行動を伴ふものである。斯く られるもので即ち宗教その他人間の心理畿展の匿史は情緒に於ては強烈な掩我的興奮とか神秘主義とか統制 以つて現はれる。即ちこれ通常本能の昇華作用と稀せ が宗教に於ける情緒の基本的なものとなし、特に宗教 るゝことはない。習慣に依って修飾されて種々の形をを定義し、シャンドやマクヅガルの示せる幾多の情緒 ーズの本能詮を紹介し、而して本能はそのまゝに表は理的傾向を加へた心的状態である。﹂の説に従つて情緒 ヱJO7 次kこ形成せられたるもので一種の召性、慣習である。 したときそれを自己感情、自己意識が教生したと認定 てゆくうちに、その本能的傾向が不適合な段階た識別 一〇八 只所謂慣習とは異つて破壌欒化が困難にして不攣的な し、同時に宗教も襲生したと認定する。斯の如き符号 上野隆誠氏著宗教心珊撃の宴相 人格を代表するものである。宗教的情操は紳俳を中心 00すatiOnの本能的段階の至り極まれるものを叡知ln・ キリスト教⋮⋮紳、 として川東てゐる。︵封象の例 Ael−igenceと云ふ。此の不適合な段階は想像的投影、 − キリスト、バイブル、教合、蟄牌など。︶宗教的怖挽の るが一般愛の情操はこの四項の他に.﹁自己主張﹂ であ.つて、この不安状態の心理は各々 な部分が残されることがある。人はこのとき不安状態 ﹁怖れ﹁愛情﹂であ 想像的思惟に依って調和されるが、それでも翻不調和 の﹂二要素が加はるので霞別が出来る。宗教的怖換と With今aw巴を表はして環境を安定ならしめんとして ﹁自卑﹂ 一般敬の情操との笹別は封象が超人聞的茸在であるの ﹁未知なもの﹂潅﹁神秘的なもの﹂に識別して了ふ。 怖緒の内容は﹁不思議﹂ と人間であるのとに依って分別されるとなし、以上マ 此れが宗教的反應である。その心理は想像的歪曲であ ラワ﹂の宗教意識畿生が相常詳細に紹介されてある。 は眈成宗教の椎威は此のf2S︷ratiOロ中の不安を救済 化し軍産化しっ1前方に進めてゆく。かくてフラワー ﹁怒 クヅガル、シャンド、ライト、ストラットンの畢詮を り幻想的思惟に他ならぬ。然して近代科挙や哲学の進 ReactiOnby 通用してゐる。 てフワーは封象に宗教性を識別するのほ人間の本能的 する鮎に於いて茸在しでゐる・と認める。第十貴兄童期 歩は右の適合作用に加はり込んでfrus年a、iOnを眈知 ノ 諸傾向の中にて宗教の心理的後生を規定することの出 と宗教︵一六二−一八二︶は、コー、ウィルスン、ド 第九茸宗教の心理的基礎︵一四七−一六一︶は、フ 来る様な作用が見雷ると申してゐる。本能が情緒と共 に環境に封して段階的にf2StratiOnむ生じて進化 ーし ソン、ライト、セルピー等む適用して兄竜意撒の研 JJ∂J 究法︵一、観察法、二、蟄開港、三、同想港︶と特質 ︵未分化の素撲的宗教︶及び兄童宗教意識の環境︵著 者は環境を重税して約詮原理を排棄す︶と素地︵鬼童 .意識の強弱難易に在るを示す。コ1の同心諭、﹁一、 観念的に過去の経験が突聾して来ること。二、感覚的 要素、即ち教役者の聾、音楽、讃歌、信者の信仰骨白、 道場の森厳等が同心控除者を刺戟するため三、群集本 の心理には宗教は未分化のものとして内在してゐる 感。 謝の言葉、懐悔に伴ふためいき、身震、すl▲hリ泣、 環境の刺戟に依つて育成せしめらる。︶と畿連︵宗教教 能、服従本能、性的本能が硯はれて同心に到ること。 四、以上の諸要素が一暗示、二、潜在意識三、習慣構 育淡を略述してゐる︶に就いて論じてある。 第十一章青年期と宗教︵一八lニー二〇五︶はブラツ ト、スターバックを適用して青年期の心理的特質を 成奉 等の各々に依って猫特の方港で結合すること。﹂を詳 げ、スターバックの同心、自然的覚醒、宗教心畿達 解の し、コーの考察はスターバック、ジェームズの考察 時期、原因、型を略説し、此れに﹁環境﹂の方面かをら 躇襲した観あるが然し、コーが同心諭に社食的珪境 ーレ、タイラーの詮、社食詮を唱へるトーイ、エーム 宗教の諸儀祀の蟄生はアニミズム観に依るとするティ 第十三茸宗教的儀鰻の心理︵二二四−二五一︶は、 注意を加へ、叉性的本能を宗教的意識襲達の有力なの影 影響を重税したのを注目すべきであると見てゐる。 − 審と見て主要原因と見るべきでないと云つてゐる。 第十二童宗教的同心論︵二〇六−二二三︶スターバ ックの同心論﹁悲哀、落臍ト1同心鮎︵自己屈服︶ 平和、菩悦﹂を詳解し、同心は其意識的自然過程でス、 、キング、デュルケームの詮を紹介し、而して著者 能働型の同心も潜在意識の期視であること。ジェーはム 社食詮が宗教に於ける個人性を閑却した鮎に不満を ズの回心翰﹁白我の分裂と統一の作用﹂を詳解し、 唱意 へてゐる。即ちゴールデンワイザーは﹁吾々が現代 一〇九 志的同心と自己屈服的同心の相違に及んで、共に潜人在 古代人未開人と親しむならば、此等の人々が自然硯 上野隆誠氏著宗教心規準の委細 ヱJOク 上野陛誠氏著宗教心理拳の要綱 一一C 第十四貴所稽の心理︵二五二−二七三︶フレーザー、 的観念に賓在観を受け宗教的情緒を強烈にせられる。 寧ろ無規定な非人格的な力、即ちオーストラワァのイ マレット・ヴソト等の呪術の新穂に先行する心理要因 象から輿へられる印象に封して極めて感受的であつた ンティチエマの儀櫓の中に存するマナに封する感情で 望示教的封象の中には人間を助ける力が存在してゐる 宗教的情緒は垂術的感情と共通なる故に美的形式の表 あり、且つこの力は即ち運命の決定者、事栢の支配者 こと、叉それに依つてこの封象に接近しその加護を受 事、またか1る印象が彼等の心にさながらの宗教的情 換言すれば凡ゆる力の源泉と考へらる1ものである﹂ けんとする要求から敬してゐること等である旨を述べ 現となる。十字架や碑名や経文の譲諭は宗教的黎術的 と云へるのに同意を表はしてゐる。儀祓の心理的基礎 著者は両者が年代的前後あるものでなく、有機的に混 換の形式を取らしめた事は疑を容れない﹂と云ひ、ブ とは一、菜園の宗教信仰が一皮確立さるればそれは反 在してゐる特異機能である旨を述べ、次でプラットの 情緒の象徴であり、更にこれら感情は強化されて紳の 抗することの出来ない一つの力となつて各人の上にの カトリックの弼撒の聖膿の如く新橋者が宗教的封象に ラットが﹁宗教とは最高の祀含的意識ばかりでなく運 しか1つてゐること。二、トロックーの 合一せんとする客観的所躊と、新教の所稽の如く紳を 概念すら破壊されて終にヴントの云へる如く宗教的感 マレット等の自己表現に封する衝動即ち情緒の衝動的 普遍的道徳的情操俄に求める主観的所稽との二種を紹 命の決定者に封する吾々の態度である。⋮⋮未開社食 行動が儀祀化する等の鮎であ・つて、一方儀絶に依つて 介し、次でナンシー学派のボードアン教授の所穏の心 情そのもの瓜一つの象徴になる。 崇拝者は封象に接解して封象に封して彼等の信仰の直 理、即ち、自然的の自己暗示と反省的の自己暗示とに に於ける宇宙観は決定した精軍の信仰ではなくして、 接性と具鰻性を輿へる一方、この封象から自己の宗教 JJJO 依って﹁潜在意識が露出﹂し、﹁不動状態﹂となる過 づ鱒系的に黎列せる努力と共に認むべきものがある。 て且つ著者白身の畢的意固が個人と社命の両者間に介 中就スターバックとプラツトが本書組立の中心をなし 以上は畏友上野隆誠氏の宗教心理畢の要綱であるが 在する宗教の猫自的機能の考察にあつたからである。 程を明かにし、所稽の客観的意味は注目すべきである 恩ふに海外には研究甚だ盛んであるにも不拘、我畢界 ジェームズが宗教意識の特色ある礪自性を鮮明せん てゐるのも雨着が宗教心理畢の一つは個人宗教心理の に於て研究者少く、殆ど峯備せる著書もない宗教心理 として、宗教者が正常心理外に歪曲されたのに鑑み、 が現在英米宗教心理聾者の着眼鮎は主観的討究にある 拳を多年縦横に研究して、斯くも充茸せる宗教心理撃 ジェームズに多大の関心示唆を有せる著者は、宗教の 創始者、一つは綜合的宗教心理の整備者の立役に在つ を概詮的に我闊に紹介せる著者の虞面目な好撃心を人 意識群一切を心理一般の■ものに規定せんと努力したの と結んでゐる。 々は必ず多とする.に逮ひない。 宗教心理の解繹に興味ある探入組立の有力な一示唆を 心理畢着たる著者の批判的態度が斯単著に此の困難な の内容が充分に観取され、同時に此を畢べる本邦宗教 られた宗教意識群の一般心理要素に封する宗教意識の る宗教意識の前提附と、及び心理一般内に規定解樺せ 法途行上の是非が論ぜられるなら、此の規定上に横は 固に照して正⊥い。而して、若し本署に封する翠の方 は著者が宗教を一般心理拳連行の一課題と前提せる意 輿へてゐることが観取される。叉木昔が石橋博士の序 個標的保存の問題と、及び論者の宗教の合目的々な批 本書に於いて特にアメリカ、イギ㌻ス.に於ける斯拳 文にもある如く宗教の客観的心理事象と宗教の主観的 一一一 円の他の何を内省し批判することに依って﹁宗教心理﹂ ︳ 心理主饉との何れの一方にも唾液しない様に研究に苦 00 判に封し、此の機械的非合目的な自然心理要素が心理 00000000000 心した鮎も、本書が宗教心理撃としての研究項目を先 上野隆誠氏著宗教心理撃の要鯛 JJJJ 上野隆誠氏著宗教心埋草の要綱 一一二 が畿生し蟄達してゆくかと云ふ鮎である。此れは此書探究が相殺矛盾せざる介在的或は契機的な考琴の方港 のみならす日下賛連の途上にある英米原場の宗教心理を組立することにある。新心理畢の人々、殊にタンス 単著にも通する捷題ではあるが。心理聾者ヴソトやジ レー、フラワー等が複合的状態、錯綜的聾展、聯合関 ェームズが心理挙が直接経験の撃とは云へ、而して彼係、想像過程、合成的環境の如きを好んで用ひてゐる 寒が相雷精練を誇り得る彼等猫自の心理畢一般の領域 が以上の要領に於て相常の進歩は認むるも完全とは云 を認識せる用意に於てとは云へ倍宗教心理研究の資料 へない。何故なら、宗教が意味の文化的結合関係を基 然し、挽近宗教心理畢の紹介せんとするのは意味の と方法とに於ては此れに猫自的な色を特定したこと。 饉とせる自然的事態であるとした場合には。 それにも不拘、研究結果の宗教心理は尚書人の畢的濠 定には一山隔たれるものであつたことは周知の如くで文化的結合閲係に基づく宗教の白然態を究明する準備 して直接に内観内省の作用に関係なし。︶機能心理畢の の意固と︵即ち此の結果は心理は客観的自然措定物と と客観的自然態とに就て一般心理に即して分析内省し 教の認識ではなく、なべて.の宗教を、宗教者の生理饅 畢の諸法別の精練な適用、即ち宗教嘱自内に即する宗 ある。本書に於てのみならす構成心理畢の要素的分析 工作として、生塩的行動的宗教の自然事態に一般心理 女化的有機的目的連行の控除と︵即ち此の結果は心理 は単なる自然現象としての精神ではなく内観内省者の此れを綜合する目的は一般構成的な心理過程との調和 を規定せんとするのが主なる仕事で、本書にては第二 意味に規定せられた精神の客観的個牒が保存せられて を見、更に基本的一般意識の襲展過程内に宗教の意味 ゐる︶が文化的心理蟄生の経過を解繹する場合多くの 此種心理聾者に併用されてゐるが、現代の斯学の討究 童に著者が明白に前提してゐる方l港である。此の方法 鮨は此の相反する然しながら用ひぎるを得ない二面の に基づく克命な労作として意鵡探き著述と思ふ。 JJJg 一 及 駄 本 高山寺法鼓毒所薇宋版章疏大観 本 高山寺所蔵鳥本 附、寓 第三節 一冊 ︵承前︶ 常 盤 大 定 ︳ 高山寺完本中に、珍本が交って居る。版本のあるものは之を省筆して、他に類のないか、又は少いものを抜草 して見る。 般若心控註並序 高山寺法戟菱餅減宋版章疏大取 ベきものである。 げてないが、興隆の﹁俳典疏砂目録﹂の中に載せてあるから、直ちに之を否定する事は出来ぬ。研究の資料と られるが、特に﹁心軽﹂に証した事は言ってない。叉﹁養天錬﹂にも﹁東城錬﹂にも、息国師の﹁心控読﹂を挙 に、金頼に日くとして、般若無知而無不知の語を以て図師を賛してあるから、般若彿教の饅現着であつた事は 唐息園師の撰耽を有する。唐息図師といふは、慧息であらう。宋﹁高恰侍﹂巻九の唐均洲武常山慧息倖を見る JJJJ 高山寺法鼓英断顧来版章疏大赦 般若波轟蜜多心経疏 一巻 一乗法界固記一巻 一乗法界園章 南北朝時代為 珍 養 常 想 連 造 唐津赦述。結成痙中には収められぬが、縮赦中に収められてある。 一乗法界園一帖 高山寺目録に、右の如く三種あるが、前二者は曹目録にあり、第三は現存日録に載せられてある。この第三は 焉本で、外に版本ありと附記してある。附記の版本とは、前二者であると思はれる。前二者は現存してないが、 附記のあな研から見れば、その散逸は近代の事であらう。一帖の﹁法界固﹂は、緯蔵痙所収の養湘挟﹁華厳一乗 法界画﹂と同じであつた様に記憶する。緯赦本には挟競がなくて、終りに﹁建暦二年三月三日、子始、於二高山 寺叫以二港勝寺全本二校﹂とあるから、津勝寺の金本に封校せられた高山寺本なるものは、無撰競の完本であつ たらう。もし前二者のいづれかならば、義湘か珍嵩の揆競が加へらるべきである。綾織者がこれに義湘の撰披を 加へたのは、諸種の目録から推定したものであらう。薫義湘の摸せるものは﹁一乗法界固﹂とせらる1もあり、 又は﹁一粛法界国章﹂ともせられてあり、珍寓挟は之に加へた記である。 さて﹁養天錬﹂に﹁法界圃﹂を以て義想述と属してあるに開はらす、﹁束域俸燈錬﹂は、恐らくは説記であら JJJ4 ぅが、﹁華厳一乗法界固﹂一雀を港赦揆と焉し、而して上に掲げた洪赦撰の二十部等の次に入るべきであ ぁるが、幣宿は之に結してT南都本云、・私云兼湘撰也﹂と言つて屠る。驚宿は綾織撰を否定して、南都本に経っ 高山寺法鼓菱餅歳末版章疏大観 るとの事であるから、此の焉本はその采版からせられたものであらう。﹁養天日鋒中﹂に﹁修門人書﹂姦 と、少しく文字を異にする研がある。宗教大畢保管故島田蕃概論所蔵本に、高山寺背痛紹輿十四年版のも 終りに重刊に関する浮照の紹輿十四年九忠言題の識語がある。横尾西明寺にも完本があつて、高山寺の 圭峰定薯絆師造寮清涼国師菩 一冊 金澤文庫に赦せらるゝ﹁問記﹂は、この珍鴬撰を克得したものであらうと思ふ。 を得ぬが、之が管見の記憶は綬赦所載本と同じものであつた様に思ふから、今も法蔵撰を否定し濃く事と 斯くの如く、若し法赦に﹁一乗法界固﹂ありとせば、高山寺の焉本一帖は、之匡諸富せすやの疑問が起 なる性格の然らしむる所、而して之を載録せるは、﹁東城鋒﹂の記事に徒つたものに相違ない。 を、更に復活し来れるは、すべてを捨て去らすして、何等かの形に於て包容せんとせるもので、これ凝然 のゝ中に、港織並の﹁一乗港界園﹂一巻を出して居る。記録に併せ考へ来る時は、一たび否定せねばなら る。﹁凝然錬﹂は全く誰順の記せるものに同じでが、その外に本邦に俸はらざるか或は倖はつても行はれ 想述に話して、﹁拝東城撃沈赦撰義軍語録並云二義想二といひ、而してその外に珍蔵挟の﹁固記﹂む出し て義湘揆と推察したのである。南都本は必ずや﹁詐順鋒﹂に従ったものであらう。誰順は﹁港界固茸﹂一 ヱJJ占 高山寺法鼓菱餅蘇宋版章疏犬貌 〓六 峰上清涼なるものあり、﹁凝然目録﹂の中に、﹁豊山書﹂一撃﹁清涼海︵詩Aこ答﹂一巻なるものがあるが、この圭 峰清涼の師資に閲する往復菩であるに相違ない。 績歳痙所収﹁園党略疏﹂の終りに、この往復書を附してあるが、それには紹興十四年の識語がない。莞揮照が 紹輿十四年に重刊しためは、この﹁略疏﹂に附せるものを定本としたものであつて、重刊といふのは﹁略疏﹂の 閑版に封して言つたものと思はる。 般若心経略疏連珠記 授戒中には収められないが、縮赦中に牧められてある。二審、采師曾述である。 華厳経談玄決持 遼鮮濱述。巻一.と撃二の最後を炊いて居り、而して巻一一の終りに次の如き識認がある。 撃一、焉本記云、高麗囲大興王寺寿昌二年丙千歳、奉宜離造。大来園崇呉古寺、宜和五年英卯歳梓安仁倖克、 淳脛蔵次己酉、繹科鮎、重看、組燈眼疾也、莫罪片々。 按赦本には次の識語があるが、高山寺本には之を快いて居る。 撃ニ、組燈七十二也、紳疲限昏、鮎科力一時、重璧之意慮有多不是、幸勿罪之、痔昔友虞。辛未同三月一日、 於大栄囲一.交了 巷四、大栄成淳第七草未歳、春中月下七日、於来朝湖州恩渓法賓碑寺、借得行在南山高整数寺之秘本、謹以克 JJJβ . 留之畢。執筆抄門桝智。 以て浮浪の任せし高窓寺即ち慧田寺の秘本を為したものたるを知る事が出来る。義天将来の高鷲所倖本の一であ らちノ0 横痺脛には六巻とし、巻一を快く事は、高山寺本に同じく、猶第三の初十六行年を炊いて居る。然るに金澤 文庫の完本には、巻一を存して居り、岡本は弘安八年商山寺本から為したものであるから、高山寺に、もと 一巻 巻一を有して居た事は明白である。 詫同数問答 文表逃。末代の希辿や善意と同時代の人であると想はれる。縛痺中に収められてない。凝然の﹁華厳宗経論童 疏目録﹂の中には、尊書の﹁註同数問答﹂の次に掲げてあり、誰順の﹁増補諸宗章疏錬﹂の中には師倉の﹁焚薪﹂、 一軸 希辿の﹁同数一乗策﹂と相並べて之を出し、﹁上三部、出二義鏡こと註して居る。 大乗起信諭一心二門大意 大唐園天台伶廣修記、智耀抄とあるから、虞修の填であらう。久寧一年︵一三五︶の寛本である。繚頼経に之 高山寺法鼓菱餅腋宍版章疏大敵 隆の﹁彿典疏砂日録﹂の中に﹁起信論大意﹂一巻、智悼述としてあるのみ。凝然の﹁華厳宗経論章疏目録﹂の中 を牧めて、陳智悼作としてあるが、これには問題がある。此書は、﹁義天錬﹂にも﹁東城錬﹂陀も掲げられす、興 JJJ7 高山寺法渋茶断裁宋版章疏大観 には、﹁起信一心二門大意﹂一巻、智耀述としてある。 大日本俳教全書編纂者は、興隆錬に徒ひ、之に考を附して、﹁耀晋作惜欺﹂と註し、綬痺控編纂者も、同じく興 隆に従ひ、智憬述としたが、然し凝然が智耀述とせるは、高山寺所侍の智耀抄なる完本を貴地に検案しての記載 であると思はれる。凝然は更に﹁l心二門大意﹂なるものを出して、之を日本撰述とするらしいが、詭順けこの 事を記録してない。斯くて此書の撰者に智悼、智耀の問題があるが、予は天台宗廣修記に主鮎を置きて、贋修を 以て撰者とし、智耀む以て書焉者と見たい。廣修は﹁正観港門要﹂を記せる末代の一天台聾者であつた。斯くて 予は智恒の名を削りて、廣修を以て之に代へんを主張する。 華厳俸音義 沙門遁辞撰である。遁辞はその郷貫も年代も共に知られサバ従ってその撰者は、調査するに従って混乱の中に 陥る。盲人も亦然りしを知る事が出来る。即ち﹁東城鋒﹂に唐津戒撰の﹁華厳俸音義﹂む出し、﹁圃趨囁﹂には、 日本撰述として慧叡述とし、其下に﹁按二束域錬去二道浮こと註してあるが、﹁東城錬﹂は前掲の如く法蔵撰とし て居る。更に凝然の華厳宗目録には此書聖二所に出して居る。即ち一は揆兢なくして采浮源の前に出してあるも ので、末代の撰たるを察せしめる。二は賢首撰の中に列して、本邦に俸はらぬか又は行はれざりしとするもの。 三は意叡述として日本撰述の中に出してあるもの。斯くてその撰者に港赦と藩叡と道婚の差があつて、或は少く も二本あつたかと思はる1が、いづれにせよ現存するものは道辞撰である。これは天平時代に本邦に渡来せる道 ム‖欄 環律師で雷うか。律師は﹁梵網経﹂に通じて居たといふ。澄観撰﹁華厳経疏﹂の 助成せる乎江府の遁辞なるものが、采紹興十八年篭ったが、この道辞はその人で 律師であらう。目録に慧叡又は意叡としてあるのは、恐らくは2を賓見せぬからであり、港銀塊とするは﹁華厳 慈恩法師排出家旗 清涼図師十大願 一紙 一葉 一紙 俸﹂からの類推で、これは素より誤謬であると田還れる。 達磨和伺秘察偽 是等の三等は、諸目録の中に見られぬ。唯斯るもの1ある事だけを奉げて置く。 天竺往生瞼記 華厳経五教止観一帖 南北朝 建久五年需 高山寺法教養所耕来版章疏大敵 潅界翫一帖 天親書醸造、晃什三赦諾とし、﹁天竺往生瞼記瑞苔﹂、﹁隼疑問決集﹂と窒部合本で、徳川時代の克本で誓。醍 ∵ 醐三賛院には、元線七年梓の版本があつた。諸目録に見えぬもので、恐らくは本邦の偽造であらう。 一 JJJク 華厳経旨蹄一帖 鎌倉初期 建久二年、 高山寺法鼓菱餅寂宍版章疏大脱 華厳経遊心法界記一帖 建久八年 達暦三年、建仁二年 華厳経章、三賓童以下 十地論義記 弘長元年 寛文十年 起信論内外略探記一帖 仁平三年、久霹二年 清涼図師祓讃文一冊 十二門諭義記.二帖 貪應二年 四帖 菩薩戒表記︵天台︶二帖 賀菩二年 静居 梵網控記︵倖奥︶二帖 大周経玄義一巻 以上は既に綬赦又は大正液中に牧められ、特に言ふべきものでもないから、唯日録のみに止める。 以上にょつて、現存慕粧の重要革ものは、概ね之を掲載し得た。その外に之に追加したいものが、二個ある。 一は﹁唐本大赦経日録﹂であり、二は﹁東城俸燈錬﹂である。﹁唐本大赦控目録﹂は明恵上人の筆であり、﹁東城儀 は日本撰述であるが、共に研究資料として必須のものであるから、こ1に附属せしめる。 JJど/ノ 唐本一切柾目錬上下 常寺任伶事 勤果 菩海 定眞 行桝 二帖 性茸 信慶 奔る。両州本が完成してから、三十年も経ぬ間の事である。梅尾上人御記とは次の文書である。 之に達仁之此入来と註して居る事によつて、建仁年代︵一ニ〇一−一ニ〇三︺に入宋して之を請来せる事が推定出 に墨書してあるものが、之を語って居る。即ち梅尾上人御記云として﹁行耕港師凌萬里之波藩﹂の語句を引き、 義せられて居るのである。是等二大赦が何人にょつていつ渡来せられたかといふに、深版﹁御託園覚経﹂の終り 常時高山寺には二偶の宋版大赦があつた。一は栢州本、二は湖州本であつて、上人は之を比較して其出入を精 これ両州束縛寺本の賓数である。 論﹂等一合十三撃﹁慈悲懐﹂一合十巻が追記せられてあるから、之を絶計する時は、六千四百八十二審となる。 若経﹂より践土競わ﹁俸法正宗記﹂に至るまで、都全ハ千三百三十九局とせられ、其外に﹁合諭﹂百廿巻、﹁決疑 人が之む湖州本と封照した事は明白である。この﹁唐本一切経﹂なる庵のは、両州束縛寺本で、天地競の﹁大般 筆力雄健、而も謹厳に記されてある。朱筆にて或は﹁湖州本在之﹂或は﹁湖州本無之﹂と追記してあるので、上 唐本といふのは、常時支部本の意味で、時代別の唐ではなく、采版大赦経の日録である。明惑上人の自筆で、 JJβJ 此七人中六人者、高尾寺昔久住着地。其内婁典港師、殊営二常寺立木之功、寧諸人止任之計富海港師、守二護 一 三一 正敬一習二拳法文萄藷人之導師富寺人法俳法之繁昌、偏依二戚m人之功攣也。行耕法師、凌高里之波藩壷− 高山寺法鼓葛餅叔宋版章疏大観 ● 高山寺法鼓毒所耕宋版章疏大敵 一二二 六千飴巷之経璧此事汝起レ自二信慶法師之大野如二丈珠大智普賢行麒遥七人於高専一.止任牛深、功努日新。仇 以二畢頭寺主之式別壷レ指二定之蕗二浦専修持之大事扁二七人同心之加護ペ愚身老病相傍、身弱眼暗′仇一同閑 居別所持、終焉馬レ事。諸衆皆可レ令レ守二此旨趣一也。 建長六年十月十一日書之了 明憲上人は、覚書四年︵一三七︺に寂せられたら、この文書は上人筆のものを建長六年︵一二三巴に苦したも のである事が知られる。行耕法師は観梅院浮見上人であ少、信農法師竺一尊院園道上人である。是等の人の努力 一帖 にょつて、高山寺に移しき俳典が請来せられたのであつた。 東城俸燈目録 これは興栢寺沙門永興の集で、寛治八年︵一〇九四︶の日本撰述である。支部にては宋の哲宗の紹輿元年に懲り、 ● 盛んに栢州本大嵐控が閑版せられつゝあつた時である。この目鋒に幾多の島本があるけれども、これ程 菅日銀にあり、現在関本たるもの 少いものは竿、殊に問題の遁倫は二つとして遁倫がなく、悉く紗倫となつて居るのは喜ばしい。これは別に 研究することゝする。 帯四箭﹁ 左の如き典締は、葡日録にその名む止めて居るが、現今は倖へられてない。惜しい事である。是等の JJβg 憲光 怨旨踪﹂は、金棒文庫にその需本を赦し、﹁読梯伽L﹁華厳翰﹂の一部分が−霧歳中に収められて屠る。 華厳経疏四巻 元院 義天・束域・圃超・興隆・の諸目録に見えて居る。﹁凝然鋒﹂の中には不倖又は不行のものゝ申に録して居る。 華厳経疏十巻 港業 JJgβ 元暁 高山寺法鼓菱餅萩宍版章疏大概 梯伽控宗要一巻 るが、驚岡本であつて、必ずや高山寺本を寛待したものであらう。 あつて、巻下に三蕨俳陀撰、文名港業、就法明二伸之名としてある。凝然は俳陀三痺撰と港業建とを別として居 叉、不倖又は不行の中に﹁花厳控指蹄﹂l雇、彿陀三赦述を出して居る。金澤文庫に﹁華厳経両巻旨踪﹂二巻が ﹁圃超鋒﹂には﹁華厳旨鐸﹂二巻、束晋南林港発途としてある。凝然は﹁華厳経指蹄﹂二巻、束晋法糞述とし、 ﹁義天錬﹂には俳陀三蔵述としてある。俳陀とは彿陀故陀薙の略であらう。﹁東城鋒﹂には璽裕撰としてある。 繭巻旨蹄一巻 義天・東城凰超・興隆・凝然の語録に見えて居る。 ● 高山寺法鼓菱餅威宋版章疏大脱 元喋 ﹁東城錬﹂には﹁宗要論﹂として居る。誅順、興隆の二錬にも見える。 金剛控疏三巻 大愛敬寺智傭 ﹁東城鋒﹂には二巻とし、圃超、興隆、凝然の諸鋒にも見えて居る。 註拐伽経七巻 ﹁義天鋒﹂には智償述とし、﹁東城錬﹂には大敬愛寺沙門智厳託とし、﹁興隆鋒﹂には愛敬専管條述とし居る。授 露桝 赦中に撃一、五等の竣第が牧められてある。 牽厳論六十五寒 ﹁義天錬﹂にほ一首巻とし、﹁東城鋒﹂には見行上︵止!︶五十巷とし、﹁園超錬﹂には見行止五十巻とし、﹁興 隆鋒﹂には百巻とし、﹁凝然錬﹁には現行不具としてある。高山寺の膏目録には、六十五巻とせるが、新しき日 元醍 銀には、一軸とし文一冊としてある。それは巻十で、頼政中に収められてある。 三諭宗要一巻 義天・東城・鳳超・興隆の諸錬に見えて居る。 JJgJ 賓性論料簡一巻 六巻 元醗 元暁 藤宜︵宜一作窒︶とし、﹁圃超錬﹂にも見えてある○ 靖邁 東城・誰順・凝然め諸錬に見えてある。 俳地論疏 二巻 ﹁東城鋒﹂には撰披を靖邁 十門和評論 書籍 義天・東城・園超・興隆・凝然の諸目録に見える。 五数百門一巻 法赦 ﹁凝然錬﹂に撰耽を菩聴述としてある。 十玄茸 高山寺法鼓某所減宋版章疏大観 は、至相の﹁一乗十玄門﹂の外に、溶液の﹁十玄章﹂を録し、高山専管日録にもこの外に智倣の﹁十玄門Lを録 義天・東城の両鋒に智傭述﹁十玄茸﹂なるものあり、﹁凝然鋒﹂は智償の﹁十玄門﹂のみを鋳せるが、﹁興隆錬﹂に JJgぶ 港赦 高山寺単発薬餌減宍版輩疏大敬 して居る。 笈量記一巻 一l〓ハ∴ ﹁義天鋒﹂に五笹慧苑述とし、﹁興隆鋒﹂に十巻慧苑述とし、﹁凝然鋒﹂に五巻賢首創袋恵苑治定としてある。 畏敬膵師撫養燈記一巻 三谷 道舞 虞敬とは元の清了碓師の事であらう。此苔は他の鋒に見えぬ。明歴二年の焉で ある。 集註芋蔭寂疲 ﹁東城鋒﹂に﹁註梵網控﹂三谷、遣溶師、於二日本一撰レ之とし、﹁興隆鋒﹂に﹁集梵網控﹂三巻、贋造疎通とし、 ﹁諌順銀﹂に﹁梵網袋試﹂三谷.遺疎通、出二束城−として、日本撰述の部に‖してあるから、挟者蛙唐人である 閲澄 けれども、ロ本に於て撰述したのである。 梵網控料簡一巻 平安朝時代幻 ﹁諌帽鋒﹂及び﹁興隆録﹂の中に、牛偏述としてあるものでなからうか。然らば日本釈述である。 大南抑制#龍寺碑文一帖 華厳三組侍一巻 ﹁凝然録﹂の中に﹁清涼図師祀誤文﹂の次、遥拝述﹁註梵網経﹂三巻の前に掲げらる。侍は彼地に成つたのであ 一巻 一帖 一巻 一巻 平安朝時代焉 るが、之を抜草したのは日本に於てゞあらう。 十六羅漢記 眞諦俺 達法師行状 季長者事跡 善導和佃潰言 賛志和佃倖 以上はいづれも日本に於て按聾したものであらうと思はる。 立組義一巻 至理論一巻 如何なるものであるか、内容は不明であるが、恐らくは支部撰述で無からう。 高山寺法鼓箋所減朱版輩疏大観 J.Jg7 高山寺法鼓某所耕宋版章疏大椒 華厳法界観一巻 華厳大疏 二十巻 華厳俸記一巻 法界品十八開答一巻 評註金銀一巻 申論遊恵一巻 法織 同 一乗法界国章 斥謬一巻 入梯伽心玄記一巻 元暁 一乗成俳妙義 華厳方軌 五巻 港華経宗要一巻 元暁 勧敬啓捷心支 閏宗文類 本末十巻 智傭 k豊富であつだかを示すのみに止める。 一l一入 は大正大赦中に収録せれらてあるから、こゝには単に目録のみに止め、唯高山寺が如何に俳典特に華厳宗の茸疏 以上の如きもの1外に、次に掲ぐるが如きまでの多数の典頼を有したのであつたが、是等はいづれも綬頼経又 散逸したのは明治時代であつたと思はる。惜しい事である。 以上の如く可なりに珍らしいものが、高山寺に倖来せられて近世に至ったのであるが、最近に散逸したらしい。 ● ︼巻 休 登 裔 想 天 薫 親 書 点元痙疏十蓋観謂桶抽雛詑㌍摘語りそ 上生経宗要一巻 宗密 J!gβ 園記一巻 金剛経纂要 二聡 袈 見 珍 義 義 幸 澄 菩 碩 桝非集一巻 風発桝疑慎一巻 止靴一巻 捏梨脛疏 十八巻 高山寺法穀墓所薪宋版章疏大観 六粗壁経 五巻 二審 天台大師頚願文一巻 梵網控疏 顧密画通成彿心要一巻 る畢恩を謝し、遠く明憲上人の芳燭を仰ぐ事としたのである。︵末叙︶ くのである。然し二同の調査によつて、一應は相首のまとまりを得たと息ふので、之を公表して、高山寺に封す に基いて考察するのであるから、疑問がそれからそれと綬起し、幾同となく見直さねば満足し得られぬ事に束づ 以上は、限られたる時日を以て、二同高山寺に於て審理した成事をまとめたものである。勿々に調査したもの 天 智 釈 尊 台 詞 復 書 〃即 レゲィ博士の死を悼む シルケンレゲイ博士の死を悼む シルブン 高 楠 順 〓ニ0 次 郎 レゲィ博士は今では殆んど世界一といつてよいほどの彿教単著である。十九世紀の後年に巴里に生れた人で、 フランスの天才教育が生んだ語畢の天才であるが、一般の天才と遣ってきわめて静かで、猶大系の人であつた。 その単位論文からして薙旬語で書かれてをるり語学の興味は漸次東洋の方面に向つたが、単に語学のための語学 では紅く宗教や思想の方南に向つてゆき、遼に彿教の研究に隻注せられるに至り、彿教を中心として必要た語草 は梵、巴、戚、漠悉くその研究の領域に入つたのであつた。その間氏は又彿園単著の実射とむいふべき共同研究 を軍規し、そのためには層藍の単著がその共同戦線に立ち、支那語に於ては先には斯道の碩学、シャブンヌ博士 があり、後には中央探見で有名なべⅥ′ヨ博士があつた。西蔵語に於てはギメ一博物館のアカン博士の如きがある。 博士は本職としてはコレジ・ド・フランスの梵語教授であつたが粂ねてソルポンヌ大挙にも関係して前後多く の畢才を蕃つた。凡そ我国の東洋単に関する単著にして巴里を訪れ各ものは先づ博士の執稿あふるる沌額に接す るを以て第一の目標としたのである。殊に近時我国の簡単生にして巴里に遊ぶもの漸く多きを加ふるに至ったの は、一は博士の吸引力にもとづくものであつた。博七は俳開亜細亜協合長として東洋串の促進に力を致し、碩洋 殊化牒漆庭働語法漸放物塊廃藩塵㌣新枕鹿塵、文化本港の顆舵心て博士の脚せせるものは殆ど無いといつて先安 〟細 へないと思ふ。叉博士は狗太民族復興の事業にも関係して恒に相常の努力む惜しまなかつた。 シルブンレブイ博士の死を悼む 錬道を離れて、山籠にのり七日間雪山に向つて進むのである。今は随分自動革の便も開けたが昔は玄非三赦も此 博士の最大の功練は雪山遊園、尼波薙に於ける取経ごある。博士は前後二同属波薙に遊んだ。尼波薙は印度の 面には命ほ博士の研究に保つものが多かつたのであるが惜しむべきことであつた。 悉く迦浪禰羅政府に保存せられて居るのであるが、博士はその一部を調査して世に報告した事もあつた。此の方 で一束を取り上げて見ると樹皮に書いた梵本である、而も数百束が存在して居った。そこで是は散逸しない様に 羊の男が誤って地中に陥つて驚き乍ら見廻はすと、隋つたのは一つの大きな部屋で、何か樺山積み重ねてあるの 園王が自民と祝したのも意味があるのではなからうかと思ふ︶。最近のこととしては西城のキルギス地方に於て牧 教の大組とも言ふ可き鳩摩薙什三蔵の拇られた塵である。此虞は紀元前から唐代まで白人の任地であつたらしい▼。 が帝国大挙に於て特にクッチャ語の講義を嘱託し全学年に亘つて精しく講義したのであつた。︵クッチャは支那仰 に詮明して、そのイタロ・1ケルティツク系なる事を明示したのであつた。そこで博士が我が国に木蓮した時は我 ク系に廃し、何れも文字は梵字を用ひて居る。この確立図譜はレゲィ博士が夙に研究しその文怯、語彙をも精細 語で他は干開園の語である。干閲図譜は波斯系の言語であるが、確故国語は西収系の言語でイタロ・−ケルティッ 見せられた。何れも悌教に関係ある地方の言語で、此の二語は沙漠をさし挟んで相封して居た。一つは拍敢闘の 近時中央亜細亜の探見程多くの資料を東洋史上に提供したものは無いひである。ここに二つの未知の閉語が蟄 博士の研究は範囲が甚だ廉いので全般に亘つて述べ嘉すことは招来ないが、一二の例を拳げるに止めよ、う。 JJJヱ シル.ワンレゲイ博士の死を悼む 一室一h 靡には行か.なかつた。王玄策が始めて此の地に遊んだのであ、る。我が国では河口慧海君、長谷部隆諦君と私とが 同地に遊び多くの梵本も得たが博士は同園宰相チャンドラ・シャム・セー.ル氏と親交を結び特殊の便宜を得て重 要な梵本を蔑見した。無芳書薩の脛荘厳論、安慧の唯攣一十頒論、世親の唯識二十頒諭、安慧の塀中速論 しい要書が見出されたのである。これのみでもわが彿教畢界は博士に封して深く感謝せぬばならぬ。 博士は蓼術に多大の趣味を有してをつた。且って梵語の戯曲に閲する名著もあつたほどである。日本に らは特に彿敬重術、俳教の青紫について特殊の注意を彿ってをつた。その蹄路には安甫、東甫塞、遥準緬旬− 尼波薙に於て現存音楽のレコードをつく少、日本の舞楽を中心として、朝鮮の古楽をも併せ研究する希望 たことがある。そのために博士の産別に因みて、宮内省椎柴寮の演奏を増上寺で行つたわであつた。その 於ける博士の日本舞架の研究は精しく﹃港賓義林﹄に出てをる。 博士の生涯の功績に於て日本彿数字雫﹃法貨養林﹄のことを逸してはならぬ。この名前も博士の白状で 大正八九年の交であつたらう、世界大戦後額逸を疎外して聯合畢士院をつくるといふ評議倉が巴異に行は 小野塚博士とともに命によつて彿囲に趣いたが、・その時畢士院長セナール氏とレゲィ博士と蜃々命合し 数字富の編輯について協議した。その前年柿崎博士はこの件につきリス・デゲィツ、レゲィ、トマス等の 能動で協議せられたことであつたが、この時の私の主張は少しもてあまされた。俳数字筈といへば俳教が しても畢間としても生きてゐるところの国語を土基とせぬばならぬ。.生きてゐても小乗に局限せられて大乗はわ からないやうでは困る。研究上最も襲達してをる口本譜む主として最後に梵語、巴利語、支那語、西成語 JJ3g 引むつければ宜敷いといふのであつた。セナール氏も遂にこれに賛同はしたものの、日大語を主として字書を シルケンレブイ博士の死を悼む 享年七十一か二か、まことに世界の蓼界のために惜しみても散りあることである。 は、博士は推されて同大畢の東洋学の建て直しをなし、大いにその面目をあらためたこともあつた。 究を伸展せしむるにつとめて居た。文一面経営の才にも富み俳蘭西がストラスブルグ大挙を彿蘭西大草とした 轍ほ博士の風格として忘れられぬことは弟子に封する態度で、まことに親切町嘩を極め、常に要書を輿へて研 ット博士とレゲィ博士と二人のみである。同じ時に動二等他日茸に叙せられた。 我帝国畢士院は博士の畢界に封する功績に封して第一の外囲合貞に推蘭した。外国人は後に推された英のエリ の時から殊に日本との交渉が多くなつたのである。我国に来遊した時には朝野の軟迎は一方ならぬ光景であつ にあつて、我国のために活動し支援せられたことがある。このことは我々が厚く感謝したところであつたが、 てをつた。常時は彿囲は露俳同盟の闊係もあつて何事も思ふやうにゆかなかつたが、博士は常に直接開接に裏 今一つ我々が忘れてならないことがある。それは末椅子碍が日露戦争常時無名の使節として英俳の問に浸遊し 一博物館のアカン氏が博士の後任として﹃法要養林﹄の管理をなすこととなつた。 二冊及び附鋒を蟄行した。今は巴里でその事葉を確緯してをる。今後は多分遺言にょるものと思はれるが、ギ とし日本で編輯することもー時に決定し、富士山麓柴山荘に於て編輯の刑蚤をなすこととなつたのである。第 となつたが、来朝の上博士の熱心は途に大谷尊由氏、和田久左衛門氏を動かし資金を得るに至り、日本語を土 くるとしては資金を得るに困り果てるのであつた。そのうちにレゲィ博士が日蝕合館の主幹として来朝するこ 〃朗 シV.ハンレビ氏の追憶 シ ル.ハ ン レ ビ氏の追憶 妨 崎 正 治 三十年の交友、叉畢界の先輩で、パヮと東京とに五つて、事を共にしたレビ氏を今は故人として語らぎ なくなつた。今年の夏は四度パヮに出入したが、最後九月の時には、氏がまだ田舎に居られたので倉は た。その前、六月には、ソルポヌでの浄衣には紹介の離を述べられ、七月の時には、日本研究者の倉合 拳骨、ギメ一博物館記念日など、串間上の隼昏の外に、氏の宅で一族の人々をも袋めて午餐して別れた 此が最後の別れになつた。日本研究者命合での撃青ば筆記が残って居るが、研究材料の問題について氏 は単著としての注意が伺はれる。アジヤ拳骨ごは、氏が先に公にした、印度侍詮に於けるナレキサンダ 影に聯絡して、その中にある女人囲の事が論題の一であつた。ギメ一博物館では、此も亦レビ氏の指導 出た東洋音楽についての講養や賓演があつた。。ハリに於ける囁洋研究.が、この三十飴年間、如何に.レビ氏を中軸 として動いてゐたかといふ事賓の一端が、この七月の遭遇に現れ、午餐の後にはマウ氏もやつて釆て、 t の十月舵が発いた 自分が蹄朝して二日目の新聞は、氏の長逝を報じた。七月には何等病束のしるしもなかったに、後三月で亡く 上の話しに時の過ぎるも忘れた。 なつた。その後の報で見ると全く突然の死であつた。共から年ケ牒職で難詰Franneせ苫n JJJ≠ ヽ が、その中にレビ氏の短文がある。此が印刷しての文寛の最後であらう。その文に、氏が‖木と仰敢とに興味を 惹起した始の事を記してあるのを見ると、その撃風と共に性格情味が如何にもよく掛れてゐる。日く、 シルバンレビ氏の追憶 根砥があつたと思ふ、即ちCO−1首deFraロCe の俸枕精神であつた。此鮎は、十六年前、自分がコレヂで講義 新進の畢徒に封する人情親切心の選りであつた。これがレビ氏の人格を表するは勿論元がら、共には叉其以上の は虞理の探求、草間の研究は、一人一代の仕事でなく、前後左右の協同聯絡で大成すべきだといふ信念と共に、 ある。而して此は叉氏の人帖に鴨いといふ性格から出た事であつて、氏が後進の誘液に熱心であつたのは、一つ と、是れレビ氏の畢風であつて、その大を成した所以は要するに畢間が人間人生といふ見地を離れなかつた焉で この様にして、古典研究の中に活きた意義を畿挿し、一つの端緒を得れば、其をたどつて全般の把捏に進むこ 門人たる二人の彿恰の刺激から田聾した事であつた。 るが、レビ氏が俳敦研究者として世界に一頭地を拙いてゐた漢文、赦文等の知識は、此の如くにして、云はゞ共 而して倍ほ、藤島が十二宗綱要をフランス文にするのを助ける焉に段々漢字にも親む様になつた事を記してあ 活きた意義を見、哲撃的抽象でなく、生活と行動との資力たる事を感じ始めた。 だ。そのお蔭で、過去の古典は死文字でなくなり、その信仰を懐いてゐる二人の青年俳恰に接しては、古山ハに 自分の将来左定めるに重要の痩日を潰じてくれた。彼等の要求に應する薦、自分は特に俳教の研究に力草任い が講違に列して来た。共は藤島了應と藤枝揮過とで、西本願寺の留畢生として釆た着であつたが、此二人は、 一入八八年、先輩の長逝の薦に、青年の自分が梵語を教授すべき重要賛任を負持した時二一人の日本人畢生 ユノJJ シルバンレビ氏の追憶 一三六 をするに常つて、.多少其の歴史や畢風を知らうと思って、講書と共にレビ氏との談話で知り得た事であるが、そ の倖統精神の好代表は茸にレビ氏英人であ少、叉CheNy始めBurnOuf−R恥musat−S小nartを一貫した畢風 つた。 古典の中にも活きた人間精神を蟄揮せうとする、此が人文主義の精神であつて、一般に云はゞ畢閉に於ける人 情味である。然しその人情味は単に人情でなくぺ、叉賓に理智の光に照らされた人生といふ理想の畿現である。 畢間上の業蹟や、叉氏が如何にフランスの東洋単に中軸となつて、同輩と協同し後進を刺激誘導したかといふ 事は、今一々こゝに述べない。只一つ最後に加ふべきは氏が畢生特に日本畢生に封する親切で、専門方面の畢生 は勿論、その他でも日本畢生の多数は種々の鮎でレビ氏の世話になつた。而して氏が青年畢生に封する親愛は 多くはmO串ami又はmOne已antと呼んでゐた一事でも知られる。七月最後に別れた午餐の席でも、俳教研 究の談と共に、日本の畢界に封する希望や、証文、叉友人に封する倖言など、今は氏の遺言となつ努。而して之 を源らし踪つた者として、.自分は日本の畢界にレビ氏の精神が益モ襲揚せられんことを祈る。 附言、レビ氏の名を日本字で書くにシルバン・レビと便法む用ひ、むつかしく原音を克さうとしないのは氏が 日併合館長として来られた時、相談してきめた事で、氏自らの記名法である。 JJ∫グ 山 故シルブン・レギ教授学績の一端を偲ぶ 故シル.ワンレギ教授拳績の一端を偲ぶ 女大粟井厳経論を訴ぜられた、その講蓮に列したに由る。常時極めて貧しい梵語西赦語の知識を有 I私が故恩師について始めて知ったのは、大正九年十年頃、京大文畢部に於いて榊博士がレギ教授校訂=1版の水仙 畢縫に閲し、教授に縁故のある夫々の専門聾者から、各々の横合に於て聞き及びたいものであると想ふて居る。 印度単に関する殆ど凡ての部門を包挿するものであるから、それらの労作の一々の内容に解れて政教授の畢風・ そこには印度を中心として歴史、文学、考古撃、地理畢、言語畢、俳教、原典畢、印度思想に関する研究など、 ヂン・レゲイ博士の面影﹂に列記せられた教授の著書及び主要論文によつて、教授の業績が略察知せらるゝが、 が完ふせられねばならぬのであらう。去月二十六日レギ教授追悼談話倉で国際彿教協食から輿へられた﹁故シル 文の如きは山田龍城氏始め故教授に師事された同拳の諸氏によりて訂正補充せられ、以て恩師の畢績を偲ぶ此拳 の情を以て語られたことは、何私の記憶に明らかであるから、故き恩師の撃風やその拳練を偲ぶについても此拙 る所でないと想ふて居る。教授に師事した我々同率の問に於ても、山田龍城氏の事について教授が塵モ深い親愛 恩師シルグン・レヰ教授の畢風やその畢績については、私の如き狭い部門の研究に従事する者の能く云々し得 JJβ7 故シルケンレヰ教授牽琉の一端を偲ぶ 一三八 伸典を封照関係つけることなく、漢詩俳典に封しては撃林流の訓話詫樺にょり、梵西語典はそれを別物の如く辛 ふじて請解して居た私には、レヰ教授の原本並びに俳誇大粟井厳経論による榊博士の講述にょつて、梵赦準二本 の封照研究による大乗俳教撃此ハ籍研究の黎明を得たのであつた。特にその俳澤木に於ける稔伽論筆陣地と非厳経 論との品名の封照、兢摸封照の術語ま異などは、二十五年前の印度彿敢畢界に送り出されたその書の成果として 常時に於ては誠に注目すべき項目であつたのである一。 越えて大正十一年頃、故佐々木月樵帥が欧米の宗教々育事情醍察の際、俳克巳里に於ける該地の俳教研究事情 .を音信せらる1や、フランス東洋学は梵漢蔵等俳典の封照研究をなし居る旨を報じ、日本に於断る印度彿教撃も 溌つその方法を癒礎とすべき事む告げちれたのであつたが、これは恐らくは、レギ教授による先の大飛躍巌経論 の研究や、一九一二年同教授がアジア協倉誌に獲表せられ、梵巴赦漢本による精細な研究経過の見らるゝアブラ マーダ・ブルガ ︵Apram註aくarga︶.の研究や、同一九一五年の同誌上﹁マハーマーユリ一に於けるヤクシヤの 地理的目録﹂︵LeCata−Oguegか○唱apbiqued鎗YOksadans−aMah抑mど己ユ︶たどに刺戟せられての報常 かつたかと覚えろ。佐々木帥錨朝後私は帥と共に聴講二十諭の曲技封照木む刊行した︵大正十二年︶のであつた が、常時はレヰ教授による唯琴一十論二二十論・箕㍊粋梵本川版の準備時期であつたからであらう。唯識二十論の 西蔵謹及びその外諾は一九一二年ルイ・ド・ラブレ・プーサン教授によつて出版されてあつたのであるが、レヰ教 授は更に我々の漢赦封照本を求められたのであつた。それはその時以前眈に日本に来朝して日本に於ける彿教の 倖経とそれを素地し﹂して帖班しっ1あつた‖本仰数単新鹿状勢を熟知して、排謂テキストを加へた仰の封照本む JJJg 一作せんとせられたものであらう。 即ち一九二二年レヰ教授が再度ネパール囲に滞留の際、政教授は、玄英意思の法相唯準示養の紳介にょりて断 片的に伺はれて居た安諜唯識の始めての鰻系として安寧二十唯識論繹、及び唯識二十諭の梵本を蔑見せられ、一 九二五年此れが刊行を見るや、唯識拳研究の上に異常の精気を呈し、ド・ラ・ブレ・プーサン教授は彿諸本唯識論 の証にその梵本を参照引用して成唯識論巾引用の安慧単語を論評し、その他梵本にょる放課多き詫を輿へ、我国 に於てもその梵本を中心として稔伽唯識董に封する批判的研究が力強く開始せらる1に至つた。レギ教授が一九 二六年H仰食餌々長として三度来朝せらる1や高楠博士と共に安慧三十唯識論の研究が始められて部課として先 つ高楠博士の試諜が試みられ、次いで荻原博士また西絨繹その他唯識単語との厳碑なる封照にょつて完諾一部を 憲まれ、寺本教授にょる安票三十唯識簡赦諜の刊行も亦三十唯識論絆梵本研究の系諭としての囲係にあるものと 見ぬばならない。レヰ教授におかれては、また自らそれの研究が進捗せられて居たので、私が春彿中レヰ教授は それ以前またそれ以後に連年連講して居られたクウチャ語の講義に代ふるに巴里大撃高等攻究院に於いて唯誠二 十二二十諭梵本を誹ぜられたのであつた。l九三二年﹁唯識鰐系研究資料﹂と超して刊行せられた件の梵本に対 する刹課研究はその頃の講義が黎理せられたものと想ふ。その梵本によりて日本の畢界に行はれた数多の研究糞 縫については今それを述べることを略する。それよりも我々が故に注意せねばならぬことは、その﹁唯散開系研 究資料﹂の序論に於て、故島地大等師の岡澤大蔵経成唯識論序論が、ドミヱギル氏にょりて俳繹掲報せられてあ ることである。かくの如くレヰ教授によつては、俳教思想が按去すべからざる侍放としての素地に立つ日本沸教 故シル.ワンレギ教授準績の二覇を偲ぶ 故シル.ワンレギ教授畢績の一端を偲ぶ 一四〇 皐の成練を常に顧慮せられたことであり、正しく教授が此.日本俳敦畢をそのま1泰西の畢界へ移しと一円された具牒 的な試みは、高楠博士の不断なる麓憑によりて遽に高楠博士との共同監修として具現せる法賓義林の刊行であり 巴異に於ける日俳員数研究所の設立である。それらの賓際的な畢事工作が如何に進展せられつ1あるかは私これ を審にせぬのであるが、今後日本彿教畢の業緩は、レヰ教授の指示によつて親しく漢詩俳典を中心とせる日本 敦研究の賓状を見聞組察したドミヱギル氏や、今は俳教を中心とする日本文化が研究の封象となれる畢友ラーデ ル氏等にょりて逐次泰西の畢界へ紹介せられてゆくことであらう。 ﹁唯識櫻系研究資料﹂︵一九三二年︶と共にレヰ教授晩年の大作はそれと同年に出版せられた﹁大業分別及び業分 別優婆接合﹂であつて、一九二二年ネパール滞在の際蔑見せられた梵本が、琴巴、戒、漠及びクウチャ語の同類 本と共に研究せられ、制課せられたもので教授が焉本襲見後十数年の間特に関心せられた沸教文畢上叉俳教原 車上注目すべき不朽の業績である。教授が特に細心せられた漢詩彿典と梵赦巴諸原典との封照研究になる、フラ ンス東洋畢特典なかゝる部門は、多少その研究の範囲と系統とを異にするやうであるが、共に同じく口本の東 単著との共同労作に専心するジュアン・ピチルスキー教授によりて棉承せられてゆくのでないか。同教授はド・ ラブレ・ブーサン教授との親交深く、西藤語の助手としてマルセル・ラルー女史が常に共力する。 恩師レヰ教授が一九二八年日本より踪彿の途琴ネパールに於て蔑見せられた安慧連中遼分別諭鐸疏桃隻焉本に ついては、恩師弘罷の恩情によりて私これが桐版の委嘱を受け、昨年冬第一雀としてその梵木を刊わし、いま 日ならすして第二巻としてその邦諜及び研究的詫繹を上梓する道となつて居る。恩師の訃が報せられたのは正 〃劇 く第二巻の緒言を草せし日であつた。恩師の畢風を偲ぶ此稀に於て私情を述べることは申請の短いこトであるが 故シル.ワンレギ教授拳績の一端を偲ぶ の上にそれの補訂的労作をものせられたことで る。而してレヰ教授にょる大乗荘厳経論梵本の蔑見川版と云ひ、安慧三十唯識論綽と云ひ、膵文中速分別梓疏、 厳に精細なる註秤を施せる跡より見るに安慧諭師の唯識義は三性門唯識の解樺にその特徴の見出されるやうであ なし、棒大粟諭の所知︵j訂ya、應知︶も世親樺論の云ふ如く、三性であ少、安慧論師が件の中速分別や大乗荘 如く法法性分別、大乗荘厳控、申達分別など初期の稔伽唯識曹の思想は、寧ろ三性門唯談義が常にその根底を 長い倖統を有するその方を畢召することに慣れたものであるが、去口人が安悪道申達分別諭繹疏講読に於て諭する 論師を相承すると云ふ玄英慈恩の法相唯識畢は前者によりて正依の論本が構成せられ、我々も亦唯識撃と云へば 頒の後年に雷る部分の襲展解樺せられ聖二性門中心の唯識詮の述作あることは誠に興味深い事柄でないか。護法 あつた。世親論師の著述の上に、所謂心意識の分別解樺に大学の毒された唯識三十頒のあると共に、云は三二十 はそれに撮りて支那沸教雑記︵Mかーang訂cbinOisbOudhiq亡わ彷︶ ね世親造三性論偶のあつたことは、華ひ本誌昭和六年度の巻に掲載せる如くである。ド・ラ・ブレ・プーサン教授 一九一一八年レヰ教授ネパール滞在の牧穫として、是叉教授のノートより筆焉を許され、その研究を悠潰せられ 止み難い哀惜の情の中に一棋の心安さの赦されるを覚ゆる。 虐師の序を先として昨冬その梵本を刊行し、本年二月レヰ教授から刊行慶賀の音信を受けてあつたことは、いま に語ったことであつた。完本たるの域には固より遼遠な憾を有ちながら、 尭文校訂の頃から何とはなしに悲報が濠感せられて矢鱈その出版を急ぐ心地にあつたことを私は先輩の一二の方 JJ▲ヱ 故シルブンレヰ教授畢績の一端を偲ぶ 一凹二 三性諭偶など、それらは何れも如上述べる如く三性門唯識詮が着るしい特徴として観取出来るものなのであるか ら、三性門唯識即ち稔伽唯識詮の原始的形態に封する本格的な研究は、我がレギ教授をその本源とするものと云 はねばならぬ。 佃硯日本俳教挙が特記せねばならない最近の事茸は、漢繹頼経中未擁の禰勤の規約荘厳論が獅子賢の註と共に 荻原博士によつて最近その校訂州版の完成せられたと云ふことであ去。本論詫については一九三二年テユツチ氏 によるガヱクワード東方叢書よりの校訂川版本のあることではあるが、荻原博士がその序に托意せらる1如きデ ュツチ氏出版本の彩多の誤謬と、また般若経託としての規約井厳論及び註の糾版形式とから言って.荻原博士に よる出版本が該本の完成と稀せねばならないものである。硯親許厳諭の研究にとつては先に荻原博士が彿教撃協 昏年報初年度に掲載せられた論文とオバーミラー氏が一九三二年のアクタオリニンクリアに発表せし﹁弼勒の現 親許厳諭中断詮の般若波雑費の教理﹂並びに、一九三三年カルカッタ東方叢書中にその第一分冊の刊行せられた ﹁.硯親許厳諭の分解﹂とが重要な業績であるが、その中観的立場に従っての浬奥行道の特殊教理を包擁する硯観 森厳諭が、所謂稔伽唯識の組師としての弼勒の衰述であることは、故にも、時あつて稔伽唯識と云へば般若中既 に相封立する別な流派の如く抽象局分せられんとする摘勤系稔伽行派の研究に封して、別な角度からその教系の 再認識せられねばならない事の論ぜらる1横倉が存する。而して荻原博士による硯軌非厳論の完本は、その原質 本がまた我がレヰ教授にょりて畿見せられ、荻原博士は、レヰ教授からそれを借用して此刑版を完成せられた由 来を以て、その完成せるテキストをレヰ数疫ヘデデイヱせられる。かくして先に脚課せる安慧系三他門唯散鵡に JJゴg 踊する新研究部門、並びに此現閑雅膝諭、換言すれば盈伽行派研究の新部門は賓にレヰ教授を春野として洗ⅢHせ るものなのである。又今や荻原博士によつて完成の域に近づきつ1ある倶合研究の焉の重賓、稲友梵丈許秤も、 故シルケンレギ数挿畢綬の一端を偲ぶ 新研究部門の進展に多大の障碍を聯らすこと1ならないであらうか。 に絵柄の誰梓の付せられた が将来愈々展開せられて行くべきであつたであらうに、ネパール王朝と親交の厚かつた教授逝去の後は、か1る たが、かゝる種類の貴重な岩本が蟄見せらるゝに従ひ、それの研究によつて教授む中心として彿教研究の新部門 レヰ教授の書信の一に於いて教授は﹁棒大粟諭﹂梵本の蔑見もあながち裸想川釆ないではなからうと述べられ れても、それ虻因明畢上多大な貢献をなすことであらう。 チユツチ氏も亦例の如くネパールに於てそれを別焉本したと云ふことであり、何れによつてその出版が遂行せら フシヱクハラ・ブハッタチャルヤ氏とバクチ氏との共同労作にエりて刑版せんこと鞋勧説せられた由であるが、 原究本が蔑見せられ、その焉虞がマハーラジャよりレヰ教授に侶けられ、教授はこれをサンチエケタンのヰドゥ 書信を披くと、その少し以前にネパールに於いて陳郡の量大疏︵Pram首a忌rtika︶ 有する漢詩諸法要葉控等と封照研究すれば意義のあるものであらう。伸一九三一年の冬、枚数授から寄せられた 尊者集﹁諸法要集控﹂に相督するDharmasaヨ計cayaがあり、教授の焦摘心せられしま1に、私は此れを筆焉所 一九二五年アジア協倉誌﹁印度雑記﹂に記さる1如くレヰ教授がネパール蔑見の梵文男本には、漢諜の観無畏 を注意せねばならぬ。 一九一八年彿教文庫に於ける第一分冊の旧版はチヱパルスキー氏との共同労作としてレギ教授の集結にあること JJJJ 故シルブンレギ教授学績のl端を偲ぷ 一四凹 ︰中央集椎の着るしいフランスに於てはその束洋撃も、ハノイの極束畢院をその系として、巴埋大挙中心であり、 巴里が地理的にも欧米固際の関係の重要地鮎たる関係上、レヰ教授の許には不断に諸外囲の印度単著が来訪して 畢界に於ける新らしい多くの記録が持ちこまれ、私の水仙常時開設せられたソルポンヌ大挙内印度文化研究窒は その後益々内外畢者の訪れで賑ふて居たことであらう。山田龍城氏の諸になれるレヰ教授の著﹁印度と世界﹂な る題名は、レヰ教授の人格内容そのものを具現するやうである。そして教授が俳教に封する執扁∵−私は一九二 八−二九年のコレジユ・ド・フランスの講義にルイ・ルヌウ氏等と共に稚講した際、ビュルヌフの婆興控につい て述べられたとき特にそれにょつて感動させられた印象を有つものであるがーは、﹁印度と世界﹂が﹁俳数人 女主養﹂として表はされねばならねばならなかつた所以む示すものでないか。 俳数人文主義が彰はす教授の畢風と業綴とに封して、散りにも偏執の替ある文柄を草する自分の蔑畢不徳を慨 塊しつ1故き恩師シルブン・レギ教授追憶の微意を表はすことである。︵昭和十年十二月二十日︶ JJイj 語、奔挽物語とかの稚、、なる株式は、キリスト崇姦∵Lいふ僚 しゃぅといふ試みの下になさ⊥‖”たものであり、轟音啓に令室 れて屠るイエスの教訓とか、喘請とかイエスに関する受難物 の株式の歴史的教壇経過の研究によつて、鱒官尊はその成立 始数園の基本的生活によつて規定されたものであるから、こ 以前の事情を明かにされることが出水るといふのであって、 ︵SitNiヨLeben︶ の中に見て行かうとした 新約文献の特質を敢闘生活との密接な関係の中に、所謂﹁賓 も何等労りがない。この研究方法は、一それが提唱されて以爽 のであつて、最近ではデイベリウス ことはいふまでもない。これは新傾向中最も期待さるべきも eくange課chenTraditiOロ・N・AufL−¢u∽.が、その輝かしい pibelius︰EOrmgeSChicbt とブルトマ は特に、文献研究の領域忙その主力を用ひ、この方面では眈 ン ︵Dibe−ius︶ Eくange−ium.N.Auf︼.−浩∽⋮Bu−tmann︰Geschicbte 如何に連用し、乃至はこれに射して如何なる態度をとるかと 醜近の新約研究の傾向とは、この歴史的・批判的研究方法を 翻って文献研究の領域においても、一つの最近の傾向とも 運用したもの、この研究方法の一段と贅厳した傾向のものと 第一に、この歴史的・批列的研究方法を、更に綿密正確に ロサイ菩、エペソ昔をパウロの書劫として疑はしいものとし M 晰e 片t のh 挿?入と認められた文献も︵例へばテサロニケ後菩、コ 傾向である。一時、批剣術究によつて偶育とされ、統一なき といひ得るならば、これは文献研究の結論忙おける保守化の いふべきものが看取されるのである。これをもし第二の傾向 して ﹁株式歴史的研究方法﹂︵FOrmgeSChicht−iche 達し得なかつた分野を開拓したものであつて、両青書を文型 へ・られた如き著者の員笹とし、統一ある菩として見やぅとす コリント後書中に多数の音翰の挿入を見た等最近は次第に停 一四五 史的に取扱ふことによつて、嘩昔昔成立以前の事情を明かに de︶を箪げなければならない。これは従衆の文献研究では到 ある。 いふ鮎に現はれた種ミなる相連を示すことに外ならないので 脾爽を漱想させて居る。 ︵Bu−tmam︶の再版本 の挙誼をまとめ上げて襲展の極致に到達したかのやうである ことは、こ歴史的・批列的研究方法の一つの敬展せる形である 生活中の座り﹂ 〃鱒 に新約研究に文字通りの劉期的な輝かしい業踏を遺し、一定 新約研究の根幹が、歴史的・批列的研究にあることは、今 一報近新約研究の諸傾向 官〓〓且 望 一四六 我々のそれに封する開示性に感じ、同時に我々をして晰乎決 展 る傾向が著しく日立つのである。勿論これは結論に示された いふ新約の解樺を﹁薬的託稗﹂︵Pneuヨatische 断せしめるものであるといふのである。ブルトマンは、かう E駕geSe︶ んど一般的傾向として、又注目されなければならない鮎であ 傾向ではあるが、この保守化、停統承認への傾向は最近の殆 憩度を明かにしたのである。この立場に立つ労作としては、 あるといって、所謂法紳革の立場からする科牽的新約研究の と科し、これは人間の箕存を所詮法において考察することで 第三の傾向は、邦語法紳拳乃至は存在論的哲畢の影響の下 る。 に新約を新たに理解しやうとする傾向である。しかしかうい lesus●︻¢NのいPaulus.in 、\ ふ特定な紳塑的或は哲奉的原理の下に理解しやうとするにも れ他日を期して論じて見たいと思って屑る。 集G−aubenundくerstehenこ誤∽ がある。その詳細は何 RGG・.Bd.1く.−¢︺○︰の外に論文 は決して歴史的・批列的研究方法にとつて代る新しい方法で 係らず、それが撃的慣借を要求しやうとして居る限り、これ の口調を分析して著者を確臥やうとする特殊な試みであって 動として起った﹁音調分析﹂︵Scbaごana−yse︺ 存在可能の中に把捉しなければならないとするのである。こ については粕常の論戦も試みられたけれども、これを支持す 葉を峻別するなど、驚くべき結論を示して閉るが、この方法 である。原文 は、充分に留意しなければならない。只新約の如き人間の輝 その結果にょれば、イエス、。ヘテロ、ヨハネ等の言葉を鱒音 第四の傾向は、むしろ歴史的・批判的研究方法に封する反 い宗教健鹸を吐露して解るが如き文献は、それを正しく理解 書の中から抽出し、パウロ菩強の中から、。ハウロの眞賓の言 ないことを、特にこの傾向にある者が枚力主張して罷ること あつてはならない。むしろ人間を歴史的な存在、質存として する鰐には、決して人間を単なる自然物として取故ふことで の傾向に立つ者として、特に取上げられなければならないの Ursprung derくier エレ、、、アスのロer る者は、未だ輿界一部分にのみとどまつて尻る。ヨハンネス・ apOStO︼ische は、前記のブルトマンである。ここではハイデッガーの存在 何新約研究の新傾向として、原始キリスト教研究の詳細な gelien−−諾N.などが、最も最近の力作であらう。 ければならない。そのためには我々は談めそれについてこの ユダヤ思想の影準を強調しやうとする一般傾向などについて 関越の上に示されて居るもの、例へぼギリシャ思想に封する その思想を理解する偶には、先づ我々自身の貿存を理解しな 論哲畢の根本思想が中心となつて屠る。新約における人間と 辣備知識を持って尉なければならないのである。かく竣備知 も論及する必婁があるが、今は概括的傾向を廃盤したにとど 識竺通して、初めて我々は一丁ツキストの言はんとす至言某を 菅定し歪定しながら珊僻することが山水るのである。理解は 汀畑 Eくan・ める。︵三秩義夫︺ 新 刊紹 秋 山 範 二者 道元 の研究 サ 一九三五年 東京 岩波菩店 道元イズムの哲挙的構成を西門=田連的椒念擁護法の立場 から︵といつても多分の客観性を有つ︶究明した力作で、多 相封との合一の経験﹂である。 終らねば窄ひであらう。囚に著者の解する宗教とは﹁絶対と 強烈な個性主義、飽くなき精進、形式への反抗、非妥協性、 鈴き知性、﹁白米符度先度佗﹂に見る如き一種の祀骨性、これ にも味方にも一讃の僧侶がある。︵佐木︺ 二著 修 澤 論 東京 三 笠 らの鮎で道元が一部に強い憧憬を復析せしめてゐる今日、敵 秋 細 一九三五年 に屈す。無神論の成立と敬展、宗教の起源と 触州 ﹁唯物論仝集﹂ 教展の二部に分つ。第一部ではマルクスレーニン主義撫刷諭 教﹂は、都合の悪い部分を切捨てた抽象の産物である。しか に過ぎない、帥ちアニ、、、ズム的表象から純化された﹁板木俳 紳諭の問題を取上げ、これは結局﹁パラドキシカルな手品﹂ リア無細論との関係、差異を明かにしてゐる。特に価数的無 年の欺々たる努力に負ふ二一葉踵の構造﹂に取払んで同イズム を史的および内容的に紹介し、ブルジョア無榊諭とプロレタ の整理に寄興すること霊恩義は大きい。 略停を付し、他の宗教、道徳鰹糸に封する彼の立場を紹介 れは有の根嬢としての絶封無としての意味であると。貸践に もそれは観念論で、かゝる無細論は徹底し待ない。一腰﹁無 し、本橋を存在論と貿踵諭とに別つ。存在の根嬢は心だがこ は只管打座を説くが、一般忙は生清帥彿法である。この立場 に伴ふ民族的種族的票数の動揺に際して、アジア的停滞性の への飛躍や俗生活と無所得の理想とのギャ 紳諭﹂ の色彩が目立つのは、民族的共同健の内部崩壊の進行 ップやは、現代人に理解の行くようには説明きれてゐない。 から﹁諸悪美作﹂ そこで著者は僚諭の﹁綾香﹂に於いて、矛盾に悩みつゝも人 たところの彿敦が、汎納諭的、反バラモン的要素を含まぎる 故に生産から遊離し腐敗した貴族の観想的自慰として現はれ 一四七 間の一義的首的は宗教である、と逃げてある。雷撃の地遮に 新 刊■紹.介 け好 新 刊 紹 介 を得なかつたことから爽てゐるので一般の宗敦として機能す る瞬間から、有紳諭的妥協的要素が曝露した、と。彿数の二 東京 − 岩波書店 重性の解剖のためには、更に方便論の追窮が有効であらう。 ︵佐木︺ 掴醐録音著 古代悌像の人類学的研究 一九三五年 伊像の史的研究に人類畢的方法を應用して好著。飛鳥 平安朝期の像約七〇健を計測し、彿像に合まれるガンダラ美 田 押 亮 氏著 聾 概 一閃八 論 の制限などに就いても、充分の注意が柳はれてある。︵佐木︶ 黒 心 本署は一昨年﹁勘の研究﹂を襲表して東洋思想の心現学的 研究に新らしい方向を見出された著者が.更に大審の講義を 主としてメツサーによつたと言って居る通りで、束洋心理 底本として書かれた概論である。 にお に関する著者猫自の研究は、本書が概論である丈けに、僚り 梱れて居ない。此の方面の研究は寧ろ前著﹁勘の研究﹂ 理畢を並べて、偶数の惧合や唯誠に説く各穐の心肝法を研究 本署は最初に練瞼心理畢の聾展として箕輪心理撃と純粋心 ふ研が大である。 する東洋心理の必要を述べ、第二章では心理塑の対象として 術の停統と東洋人的要素との滑長随係を、単なるかんによら ずに、数字的に明らかにした。ゲルマン 我々の雛鹸一般を白澤と呼び、これに璧と識とを含めて閉り ︵ガンダラ︶塑は前 珊肉草多、斬の正面と側面とが丸昧のある角を成すことその 讃の黍要な部分を占めるものを指して閉る。第二葦では心理 誠とは通常の意識を指し、餐とは青舐と質的忙興って而も白 向直立の姿勢、水平な限、ニ重瞼、椚限、三角鼻、渾盾、上 衆、糾限、厚磨その他に現はれる。飛鳥期忙は六朝株式を経 他に東洋人塑は関節弛緩前屈の姿勢、斜眼、一重瞼と蒙首級 たゲルマン塑が最も濃く、白鳳は唐風鳥繋が優れ、天平から 平安に至れば日本人の人和解徴はずつと多くなる。 との相互餉係を見出すものであるとして、その方法を畢げて 分離の関係に立つ内外世界を分析して、これと牌験そのもの 瞼の憐分を鍵げて、前六舐、節七未那請、節八阿粗銅純を連 居る。第四章の健瞼の荘分に於いては、沸教心珊澤に詑く堆 畢の課題が単に健鹸の記述に止るのではなくして牌鹸と不可 計測法に関する初歩的なお明、時代別けの注意なども含ま なほ仲條に必然k伴ふ置露解約概念的要素、彫刻材料から れ、小朋子ながら感を梓て、岡版も旦㍍。 〟揮 通常の心理拳概論と同じく感農、知螢竿の各論になつて居る。 ぺ、又心王心併の隅係を心理拳的に見て依る。節五寒以下は ない。内容kついてはとくに原始彿数を中軸とし、そしてこ ない。先づこの鮎に本背の滑脱の避義を見出きなけれぼなら 村 山 の意固で、この人の活眼のうま味を書きあらはすに 腎 順 著 朝鮮の類似宗教 朝鮮線督府 本音は朝鮮絶督府調査贅料第四十二輯として刊行されたも を可成りの洗面を果して詳細に叙述してゐる。 夫等各々の教組の立数た至る迄の略停、敬慕、故陶の沿革等 崇紳系、儒教系、系統不明等の六つの系統に分類して考察し 著者は、大健之等類似諜教を、姐塑系、畔蜂系、彿致系、 の類似宗教を祈死の対象としてゐる。 のであつて、李朝中期以後今日に至る牛島に族生した六十七 耐︳ 充分成功してをる。︵右枠︶ 係数諭﹂ あらうが、本書のねらひはそこにあるのではなく、﹁新らしい ってゆき方等尊門研究書としては必ずしも充分でない部分も 著者牒身が謙遜に語るやうに材料のつきこみ方平間超の特 その現代との時代的適應性を強調する。 とに宗教としての偶数のいはゞ合理的側面を選び出して凍て 理 想 要するに本書が通常の心理畢昔と異なる鮎は、今迄心理拳 的方面から手のつけられなかつた束洋心理の軒先に一指針を 典へて居る串であり、従って科拳的研究方法の見出せなかつ 園︶ 著 論 東京 た東洋心理の研究者に輝かしい光明を輿へたものである。︵竹 政 埠 谷 文 雄 彿 ▲一 偶数を時代の関心につなぎ合せる、といふこと曙久しい間 の要望であつた。だが、その巣蹟は必ずしも多くはあげられ この輿へられた課題に答へることは、単に歴史的に偶数を てゐなかつたのが貸借である。 い。とくに時代意識との連関、時代思潮との顧膿に於てなき みることでも久既成数理の遺産をそのま←たどることでもな れなければならぬことである。 著者は専攻の宗教畢を背景としてその準の教へる宗教の諸 殊に、之等宗囲の分布と数勢の附長を説明するに常っては 要素、諸侯件から宗教としての偶数を分析し強調しょうとす 二宮健在を饗して、地方別、年次別に分って、教徒の数を統 一.四九 る。宗教としての偶数を畢的に扱ふといふことは笛然のこと 介 であつて、しか斗米だその折究業蹟のまとまつたもゐは多く 新 刊 紹 ● 〟脚 新 刊 紹 介 計的に示してゐるのは、一見無味乾燥さを感ぜさせないでも ないが、郵似宗数滴長の跡を直ちに知る一つの便宜にはなる であらう。 本音は、類似詫故に封する理論的研究の昔といふよりも、 寧ろ諮嘉数の附長の革質の歴史的研究書である。 従つて、此の意味に於いて本書は、朝鮮民間諸宗教を概徹 識者に硯つために編されたものであろ︶ 一五〇 先づ例によつて進化論的民族塑の唯物軍義を攻撃して所謂 て待た最古民族文化の梨書的道徳性を強調する蓮り、彼禁息 文化史的民族準の掃紳科挙的性質を高揚し、∴﹂の方法忙よつ 園を明かにして解るが、終りにこの揮派の最近の資展として 先史撃との関係に於いて石詐時代文化と民族塑的文化甲この 本編に於けるこの方法の日本への適用は間正雄氏の訝作を 間Ⅵ並行関係を設定し得るに至った鮎は注目すべきであらう。 素材として試みられて解るが、日本のみを封象とした場合果 殊に全道に亘って、各派の組織状態、信徒の数、入教の勧 せんとする者にとつては好仰の昔といはなくてはならぬ。 卵、入欽の目的、信受継憩、除数の動機等を巨細洩さず統計 が、日本文化に関する民俗革乃至民族畢的研究が方法論的顧 してシユ、、、ツト的方法が妥常性を有するか石かは疑問である ともあれ、先に同じ著者に依って公にされた﹁朝鮮の巫碗﹂ 的に調査せられた著者の努背は感謝さる可きものであらう。 店 であらう。︵中野︶ 族 書 慮に於いて慎重でない現状に射してlつの道を示唆するもの 民 波 符ぬ著作である。︵池上︶ 本 東京人頻拳骨前 日 岩 東京人類拳骨創立五十年記念として出版されたものである。 東京 と共に、朝鮮民間信仰を研究せすとする者にとつては見逃し ブイルヘルム・シュミット連 関 正 雄課 日本の民族学的地位探求への新しき途 国際文化振興骨駒 東京人類拳骨及び国際文化振興骨の共同主催の下に六月二十 間的に囁分して各々をその道の専門家に番いて貰ってゐる。 証明せんとし、饅質人類塑、民族拳、考音義二∵一▲部門を最も睾 書は題名にある如く日本民族を人顛畢全般から口収も机織的に 論文集としては論題を著贅の遅澤に任せるものが多いが、本 二日東京丸ノ内明治座命講堂に於いて催された博士の講演骨 木朋子は昨春シユ、、、ソト博士来朝に際して、日本民族拳骨 に於ける講釈内容の経線を、振興留の手によつて躍く内外の J柁0 との証文である。斯くて本音一巻を開けば親木に於ける日本 殆かも内容はその部分の今日の革間状態一般を概説する珠に 馬族の人類拳的研究が一目折然と分ると云ふ仕組である。 他は略し民族埜関係に就てのみ述べれば、氏族畢を細分し て、民族峯的研究、配食草的研究、宗教牽的研究、言語畢的 の根本信傭の僻樺、説明に外ならぬ。傭しそれだけ故鶉準は 的思想を装ふ。殊に、近世に於ては信條が枯渦的に考へられ 時代性を尊びることが著しい。帥ちその時代の哲解約、刺肇 教骨の柵の隅に置かれて、紳単著は相常に大臍に、帥信條的 準的研究は宇野鳳空博士によつて書かれてゐる。考官準、民 仰の収本的なものがその底にあることは、それらが基骨級数 なる変速をみせてゐる。尤もこの信條に凝解された基督数信 に興昧を示し、叉創造諭、碁督諭、復活論などに於ても秤々 であるよりも、もつと信仰心宍改心といふやぅなものの本質 族準、苗代研究及び、日本周閏民族の研究結果を材料として 義塑である以上は否定されぬ。けれども最近に到って、紳準 研究に分ち、各々その道の大家によつて書かれてゐる。宗教 日本の初期農耕文化に於ける宗教的特徴を論じてある。日本 思想の轍同と共に、基督数倍仰の般本が瑚たに力弧く人心に −−基督数的信仰に注意を向けた時、再びこの信僚が深く顧 目怖め、凡ての挟郷物を除いて最も純粋な、最も端的な信仰 票数史の出資鮎として意味深いものである。︵杉浦︶ BartF Kar− im AnscEu拐andas −豊∽ − バルトのこの昔 のものであり、見附鋒忙きれた質凝應答は、教義準に関連す は、百五十六の小冊ではあるが、彼の紳輿思想を見るに好適 して、こ1に信仰の泉を汲まうとする。 みられるに到った。こゝに於ては、信條はもはや枯渦したも apOStO−ische のではなく、最もカに満ちた、端的に信仰を象徴するものと HauptprOb−emderDOgmStik darg験te−−t C詣d〇・Die MGnchen− G−aubensbekenntnis. 本書は一九三五年二月から三月に且つてウトレヒト大草で BOWer−W.C.乱、、 T打eChurch at 一五一 ︵木下︶ −嘘∽∽ in︷hemOdem惑10r− Cbicag〇. WOrk なされた十六同の講演である。副題に示きれるやうに、使徒信 る重要問題に就て、簡明な埋陥を興へてくれるものである。 繹に即して教義畢の主要問題を解明せんとしたものである。 といふ夙に、使徒信認の各句を項Hとしてその意義を開明せ 即ち一、先づ﹁我信ず﹂、﹁紳を﹂、﹁全能の父﹂、﹁天地の創造主﹂ 介 の本質を凝結、集約したものであり、教範準とは要するにこ んとしてゐる。この信仰告白、即ち﹁我信ず﹂鱒基督数倍仰 新 刊 紹 〟封 新 刊 紹 介 宗教は野草矧にある。過去からの博耗を所有する数骨はこ・ 1に大きな轡勅期に直面㌻るを僚儀なくせしめられてゐる。 過去のものとしての教骨は不幸にして現代のものではない。 そのイデオロギー忙就て、テクニックに就て婦久離骨的な琴 割に放て、教骨は再思されねばならない。数骨は動きつ1あ Pa玖小ng Of Ca−くertOn﹀く.F. ↓he 一志二 YCrk▼ Gcds. New the −¢∽中 小ポ故に封する自由主義者︵例へば前舵紹介のマツケーブ︺ やマルクシス斗の批列分析が不充分だとし、人顛準的恥骨畢 る祀骨の情勢に印してゐなければならないからである。シカ ゴ大草のパウア一によつて編せられたる本書はかゝる問題元 的方法によつて紋を祁はうとしたもの。一流評論家の健築で 小不敬は起源的には物質的利益の追求に常って未開人が自信 生彩に富む。 就てシカゴをLP心とする単著の諭誼を集めてゐる。 我が国にも官くから知られてゐるエイムス、コー、ケイス、 を獲程するために酢骨的につくり出した︵今日クリスチャン マンユウズ、等を中心とするシカゴ大畢の宗教研究は生物心 てゐる。特にこの大聾の特色とする析甘動いてゐる問題に放 理撃的な祉骨的な機能主義に立って拳界に特典な畢風を示し サイエンスが何人に闘病の自信を輿へる如く︶もので、その COmpulsiくe︶は自然の科塑的取教法の進歩を机#した。票数 ︵re音iOuS 後もこの機能が結けられたが、一方宗教的覗制 E.S. て健削たる論陣を張る事であつてこの鮎は確かに一つの倖裡 である。本書も亦此の事をよく示してゐる。執雅語は AヨeS−A.G.Baker.S.1.Case−W.E.GarrisO改 n革 、、 C農 .T 民. 織畢た常つても、必要な配骨改革に票数は自信を HO−ヨan−S.C.只inche−Oe,Shai︼er の諸氏であるがへ エた イが ム、一方では、酢骨の科準的把握を中途年端にした。 興 自然料率絢襲達し、酢食も科挙的に把握し得るに至った今日 には有益な青物であらう。又執輩者が各テーマに就て語った 深いと息ふバともあれ軟骨清動の賓際に関心を布せられる士 とは別物である。マルクシズムは正しくともマルクシストは 秘的なもの﹂とは薮術的1人間的なもので、宗教に云ふ神秘 では、宗教はもはや反動的である。アインシュタイン等の﹁神 ズの票数儀鯉に就ての所論、散骨の教育的機能等、特に興味 各章の終りに該問題に就て必要なる参考書を十傲づつ蓼げて ﹁類似∵景教こそ本来の嘉敦で これを宗教化して失敗した、と。 あり、﹁厳正﹂宗数は架は人間性の名で美化きれた鹿穿の公然 この見地からは現に流行の ゐるのは周到な編者の親切として感謝さるべきものである。 ︵棚淑︶ 1J占g たる摺翰入粗稚で.ある。︵佐*︶ ﹁eロnert、RudO−f Die Re−i乳OnStheOrie Ma舛Webe声 の第二輯、さきに Stuttgart− −¢∽∽ 本書は.ワッハの監修する﹁琵致と歴史﹂ ライブツイヒ大挙に投出された拳倣請無論文である。 られてゐることには、.ワッハの絹導はいふまでもないが、恐 れ宛った僚糸的宗政敵食草が、こ1に改めて注意深く攻上げ たと思はれる。︵小口︶ −器∽ らく夫人マリアンネ・ゴーベルの教示するところ多大であっ LOWtNky一F Wien. Kierkegaard 詫教練鹸の意味を圭鰹化的方面に於て考へる、つまり票数 SOeren 取扱ったものであり、いはゆる宗教祀骨挙を直接問題の封照 ことが考へられてよい問題である。意味を求めるといふ鮎に を求める事情の意味を心境なり環境なりから瀬推するといふ 音名が一ホすやうに、.エーベルの宗教理論をその基礎に於て しろ草間諭の構造を成してゐる。その鮎、フォン・シェルテ としてはゐない。従つて、配骨鮮済史的なものではなく、む るであらう。 といふものを場何として考へるといふことは常然のことで、 ィングの ﹁マックス・ゴーベルの草間諭﹂に似てゐるといへ 於て盟に心理的な仕方では探れないが、その人の人格的心放 ン7エルスやデイルダイ一派の心理準的傾向、乃至とくに最 の研究等がこの間題に頗る大きな そこから外への連関をさぐるのである。ミュラー・フライエ ﹁状況﹂ 鉄建は、︵一︶歴史的認識の理論、︵二︶ゴーベルの宗教配食 近のヤスペルスの 草的穿作に於ける宗数的者の概念、︵三︶理解の所在、︵四︶結 語の四部に分かれ、ゴーベル宗教酔骨塑の基礎構造をその特 暗示を典へてをる。 とし、久そのための試論を吐いた人としてキエルケゴールは 紳を求め、紳に躍入するといふ圭倦化的方向を徹底しょう 殊概念の分析と批列に依って明瞭にしようとしてをり、そし 意義が諭ぜられるとゝもに、形式的・園式的な概念構成の妖 七特に、ゴーベルに於ける歴史、即ちこの場合では宗教史の 一五三 をものが、本書で.はことに柵榊分析準的に彼の所論をトレー みるといふ試みはすでに最近われわれⅥメールポールの好著 通常な人である。彼の所論に印して、琵数への方向の形相を 介 .ェーべ・ルの宗教理論を全面的に取扱ひ、しかも徒死看過さ 及してゐる。結滞するところ、著者の意酎はゴー 陥にまで言 ベル畢誼に於けるデイルタイ暫準の意義を強調する尤ある。 新 刊 紹 〃爵 一五四 理性が人間離伊においては正常に主張さるべきでないことを 介 ヌしようとする。直接右にあげた問題の解答といふわけには いはんとする所にあり、著者はこれを文化諸領域における宗 新 刊 紹 於てよい参考になる。 ゆかないが、一つのはつきりした前提から見通してをる鮎に 擢の絶封性に立脚する宗教を常に克服し、それがやがて人知 教と科挙との衝突において、自由思想を代表する科挙が、故 著者はキュルケゴールの思想の緒開の基礎を彼の母、母性 根接を愛の粕勉に出資するものとしてをる。具健的に彼の敬 てをる。彼の思想のうちで重要な意味をもつパラドックスの 及び更に彼と花嫁との間に彼が感じた人間愛の葛藤等から見 確信により、彼等に反射する科挙者を迫斉し、その言論の自 をもつて一打新嘉数形態とみなし、彼等がその絶封不可誤の ある。然し更に赴んで、著者はナチ、サケエト等の弼裁政埋 としての母と妻としての母、耐親の夫婦関係或は父親の不信、 稲祉の埼進に貢献してきた奉賀によつて詔明せんとするので 展を一つの立場からではあるが、彼の心暗に還元し身逮の問 LOndOn. −情茄∽ Christian.及びHas 2冨nchen −¢∽“ Re只 −ai giOn tbO︼i00Che Wi−・tSChaftsethik Scbi−−ing﹀OttO として興味ある韻物たるは失はない。︵諸戸︶ 本書は最も新しい科挙腎識を持つ合珊主義者の宗教教義批列 生活そのものの意義にまでは深く立入ってゐない。ともあれ 準的なる鮎を強調せるものであるが、背撃者として、宗教的 本書におい七は素数的思桝のOrie㌢atienが板本的に非科 由を歴迫する鮎を詰る諷刺的な一文をもつて柿諭とする。 題と相関せしめて問題を説いてをる鮎に興味がかけられる。 副題に﹁圭鯉的健勝と宗教的啓示﹂としるされてをる。︵石津︶ Ru籍−−一︶Bertrand︵ a Re−igiOn and Science− 暴に WbyIaヨnOt Frage; 等の脊を猫はし、カトリックの立場から鰍 食間舶を瞼討してぁる。カlr・Ⅵリッタの革老として、摩的吟味 SONi巴e の泰斗である。既に以前=KathO訂c訂SO軋alethik。︰Die 著書はチュービングン大挙数枚、紳畢博士であり又聞家撃 ヨade us川fu−COntributiOnStO Ci昌iNatiOn可等を著はし、 合理主義者として、かなり烈しい笹致をもつて宗教を攻撃し し、その華鉾をや1絞め、完数的生前の意義を認めつ1も、キ その文化史的意義を否定したラッセルが、今また本書を公に サスト数々栽を批判してその非科挙性を楯梢するに至った。 本書の避附する併ば、席数的歌姫が甘美婆守る絶射的展 JJぶJ の上忙散骨同属に鱒∼芳恩号彿し本磯は、慮れとはやゞ権 きを典にし、敬虫ピサス十一世の同敷、﹁クワドラジェシモ・ アンノ﹂ の許婚な解繹、証榊とみられるものである。勿論前 著に於ても、その嫌って立づところに労りはないが、本書はと くにこの同牧の示すところを開明する馬に努力されてゐる。 の敬布四十年の この同敷は、かの有名なレオ十三世の労働問題、靴骨問題に 対して輿へた回赦﹁レールム・ノブールム﹂ 記念に際し、その後の経済問題、労働問題の歩蓮に應じて一 九三一年にピウス教皇にょって出されたるものである。何れ もカトリックに於て、労働問題の大藩章、祀曾問題僻決の鍵 として尊重きれるものであり、信仰と変の光に照らされた人 間の健全なる棺抑に根ざす改革案として重要観きれるもので ある。著者は本書に於ては敢て単的討論を意閲しない。先.つ 級洒倫理、証骨倫理に関する諸問題を呈出し、その根本原理 を詳明し、現代に於ける諸要素、諸現象を分析、批判して同 数の精細に添ひつゝその解決を輿へやうとする。その日指す の詳細な分析批評に於て更に数へられるところ多いであら ところ、解答の根本ば既に同故に示されたものであるが、そ う。勿論この菩の解明が正しいか、その教骨的指導精神が現 代の難問題せ解く唯一の道であるか、否かに就ては輿論を汲 恕されるにしても、カトリック的立場に於ける絆済倫理の圭 介 轟を知るには最も好便なものであり、一茂に催する。︵木下︶ 新 刊 紹 貞訂すb ↓he C−eヨent HistOrica−E−eヨentS and in Re−igiOn and Human L Life Re−igiOn GrOu︺theOr Tndiまdua−及び の著者として或は PersOna︼ity the PersOna≡y Ciくine クレメントウェブが優れた聾者である事は周知であらう。 我国にもつとに and Re−ig︰On GOd Of isヨの著者として何かと引用もせられてゐるが′我々は久こ 1に紹介する﹁宗教に於ける歴史的要素﹂なる新著を手にし 宗教に於ける歴史的要素はそれを人が意識すると否とに鯛 た。 はらず黍妥である。歴史は、取りわけ宗教に宗て旦に過去のも のとしてあるのでなく現在の我々のものとして生きてゐる。 そうした歴史的要素の宗教たおける性質、地位、過程、許便 ウェブの他の著書に比しては小さいものであり、久研究的 意義、等につき著者一流の傾賠すべき講述をなしてゐる。 ストルの大草でなされた講義をそれに封する質問に答へる一 態度でなされてゐるものでもないが、それは本音が昨年ブリ 軍ど附して出版したものである事を思へば埋解出猟ることで のでは決してない。︵柳瀬︶ ある。然しこの事は本書のアトラクティブな題目を傷けるも 一五五 〟郎 ー一雄 配Tl− △久しく中絶してをつた骨員名簿を骨員諸氏に御造りする。 △名簿作製に因み新に官僚の新骨員を待て編輯経常ともにょり確 賓な基礎を待た。同慶にたへぬ次第である。 △次に、このたび、次渋から宗教垂並びに印暫、焚文準の繭研究 室の副手諸氏によつて、編韓が主宰されることになり、編輯陣 に活況を呈する。仰ほ私は穐く頼期間これに関係せねばならぬ ことたなつた。 △今岡、土井虎賀寿氏︵京大哲興和詩価︶からはじめて論文をい たゞいた。紳林、中等、三枚諸氏からも久々に玉原職せいたゞ いた。 △高柿、郷晴雨博士及び山口教授から、レビ博士追悼の文をいた ︵石 津︶ ゞいた。日本の準界ととくに関係深い碩拳の業績を今更らに偲 びたいものである。 囲謬一切療全重宝槍玉巻 七年の歳月を閲し偶数撃界大十〓名家が、心血を注いで 国詳し更に註揮、解題を加へたる撃界空前の大出版成る。 阿宮部十巻、本綾部十巷、般若部大食、法毒部一巻、華厳部四番、辛積部七巻、 表本配審査並 す量迭第次越中キガノ、喜 等裁埋容内仝の親切一章 毒 るかわてし目一てべす ∃ 折二︶ ⋮⋮注⋮憲︰⋮・ 眞理の殿堂草間の線府は開かれ、世界の畢 下さい。 ます、少しも早く御申込 出衆ると少し手間がとれ す。従って品切れの部が 横線申込殺到してゐま 目下全巻申込及休課者の rlllllllllltll111111tlll11111111111111111111占 年秋刊行 五園の簸 大集部六番、経集部十六巻、密教部玉食、律部廿六番、澤経論部九巻、度量部升 萱青田拾五囲 本見容内 一〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓l〓 lllllllIllllI1111111】lllllI‖llllIltlltltl−」 一筆中敷部三寒、愉伽部十二軍論集部七驚︵総索引計計 ︻時梯 毎月二 式固苑︵ 宛 配 〓同梯 七拾四囲苑 三岡梯 五拾 固 宛 毎月梯 費二五入 十一年一月配本を以て完了につき向後の分は 刊行毎に造ります。 掟種風刺架 界はこれ陀よつて一大躍進を蓮ぐ。 私版出来大讐禦空所行蓉 書一七四九一京書響穣 書六−・・−ニ芝缶t −. ■‥ ■■ − 供賓の十廿曹 申込送金次第相常する巻数を即時蚤逢し 餞鳳要し 五は分 彿教現代の根幹は机 十一朝・但