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Page 1 北海道教育大学学術リポジトリ hue磐北海道教育大学
Title 本居宣長が抱いたことば遊びへの関心 Author(s) 吉見, 孝夫 Citation 札幌国語研究, 15: 39-51 Issue Date 2010 URL http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/2530 Rights Hokkaido University of Education 吉 見 夫 末尾に﹁十四−513﹂ のように、漢数字で巻を、算用数字で なお、筑摩書房版﹃本居宣長全集﹄からの引用に当たっては、 にことば遊びのジャンル別に具体的に見ていく。 布かれたのは十人歳から二十七歳という青年期である。以下 ﹁在京日記﹂ ︵一七五六年︶︰落首、大小、狂歌 ﹁和歌の浦 四﹂ ︵一七五四年頃︶︰折旬、落首 本属宣長が抱いたことば遊びへの関心 はじめに 本居宣長は若い頃からことば遊びに深い関心を抱いていた。 例えば十九歳頃の執筆と推定される﹁寓覚﹂に﹁なぞづくし﹂ 写している。また六十歳頃には門人たちとなぞなぞを創作し ページを示す。 と称して、なぞなぞ本からいわゆる二段なぞ、三段なぞを引き 合っている。自作の和歌からは、折句、物名歌、狂歌などを相 当数見つけだすこともできる。筆者は、こうした宣長のことば 遊びへの関心、遊戯的な自作和歌について、いくつかの論考を 注 引用した﹁仁和御製﹂ のように、各句の初めと終わり計十の仮 で沓冠に言及している。通常、沓冠というと、次の折旬の項で ﹁和歌の浦 ごの﹁或秘書に記す所なり﹂と頭記した箇所 沓冠 遊びに関わる記述を捜し出し、宣長の関心の在りようを探って 名に、ある語句を詠み込む歌をいうが、ここでは歌の初めと終 この小論では、宣長の書き留めた随筆、日記煩から、ことば 公にした。 て指摘すると次のようになる。 ○らの字の沓冠ヽらちのうちにくらふる駒のかちまけはの わりの仮名が一致する歌を指していっている。 みたい。そういった記述を宣長の残した記録から時間軸に沿っ 物名、落首 ﹁和歌の浦 ご︵一七四七、四八年︶︰沓冠、析旬、回文、 39 れる男のむちのうちから ︵﹁和歌の浦一﹂十四−513︶ この歌は ﹃悦自抄﹄ にある。宣長は﹁和歌の浦 三﹂で F悦 目抄﹄を抜き書きしている。後述するように、﹁或秘帯﹂は﹃悦 目抄﹄ に極めて近い歌学書と推定される。﹃悦目抄﹄ の沓冠の 箇所を引用しておく。 一又初の一字と終の一字を沓冠に読む事あり。それもた、 の歌はやすけれども、らりるれろの五字は大事なり。誹語 より外はよまれぬ物也。其証歌によめる、 ら らちの内に競ふる駒の勝負は乗れる男の鞭の打から B まなん桧は見よかしへてはちるとや︻コトタマヘナリ︼返 知すなよゆめ ︻コトハナシナリ︼ し、﹁ことのははとこなつかしみはなせるとなへての人に ︵﹁和歌の浦一﹂十四−514︶ ︵﹁和歌の浦 四﹂十四−557︶ 析句︻五字ある物を毎句の上におく︼沓冠折句歌︻十字あ るを毎旬の上下におく︼ Aは前項の沓冠と同じく﹁或秘筈に記す所﹂である。前項同 よめる歌、 上にすゑてよめる也。小野小町が人に琴をかりにやるとて 一折旬の歌と云ものあり。五文字あるもの、名を、五旬の 様に¶悦目抄﹄を引用する。 るりの色に咲る朝顔露置てはかなき程そ思ひ知るゝ ことの菓もときはなるをはたのまなん 40 り りんだうの花を手向るき法師の経読声は尊かりけり ろかいたて湊も知らぬ夕闇に船漕出す夜半の月しろ れいの又空頼めする人故に心つくして得れこそすれ かへし まつは見よかしへては散るやと ことの葉はとこなつかしみはなせると 是もさせる事もなけれとも沓冠しるすついでに注す。この よきも侍れとも此沓冠はらりるれろ大事におほゆ。おほく 体のよりほかによきるまじき物なり。たゞの沓冠はやすく 琴はなしと、同し句の上におきてかへしたる也。 是は琴給へと云五文字を、句の上におきたる也。返事には なべての人にしらすなよゆめ 淫二 はよまれぬ也。 ︵﹃悦目抄﹄︶ ︵﹃悦目抄﹄︶ O折句は、五文字ある物を、句ごとの上におく也、小野の の五、六番目を記したものである。﹃奥儀抄﹄ の該当箇所を引 和歌六体 ︵長歌、短歌、旋頭歌、混本歌、折旬、沓冠析句歌︶ Bは﹁和歌の六体︻清輔奥儀抄一﹂として﹃奥儀抄﹄ の示す 小町、琴かりにやるとて、﹁言の葉もときはなるをはたの 折句には二カ所で言及している。 析句 A ろ れ る 用する。 五折旬歌 五字あることを毎旬のかみにおくなり。小町が ︵﹁和歌の浦一﹂十四−514︶ は小論尼か歌也。 一廻文歌とは頭よりも下よりも同しやうによまるゝ也。是 これも ﹃悦日抄﹄ の該当箇所を引用しておく。 ことのはも ときはなるをば たのまなむ まつはみよか にさくらむ むらくさにくさのなはもしそなはらはなそしもはなのさく 人にことある歌云、 ことたまへとおけり。 是は沓冠ともいふべし。此歌の体大事也。よむ人もあれど もとめしを をしめともついにいつもとゆくはるはくゆともついにいつ し へてはちるやと 六沓冠析句歌 十字あることを毎旬の上下におくなり。 若以古歌欺。︺ あり。いろはに日、 もはか′〃しーしきもなし。朝夕に詠べき事にあらず。口伝に ︹此歌在村上御集、広幡御息所許也。而載喜撰式。尤不審。 仁和御製 うかう るとる ゐくゐ をしを われわ いはい ろくろ はらは にしに ほくほ へをへ とか むかむ ぬかぬ きなばかへさじ あふさかも はてはゆき、の 関もゐず たづねてとひこ らくら りあり と なつな ちまち あはせたきものすこしとおけり。 ね かすか よるよ たつた れわれ そまそ つきつ ねか 性﹂、 ︵﹃奥儀抄﹄︶ 巳上出喜撰式。 のちの おくお くとく やとや まやま けふけ ふたふ こみ こ えたえ て、つて あのあ さきさ きしき ゆるゆ ○廻文歌は、頭よりも下よりも同じやうによまるゝ体也、 是体也。是秘が中の秘事也。可秘々々。 せ すくす ツモトメシヲ ○隠題は、むねとよむへきをは上にあらはさて、下にかく これも﹁或秘書に記す所﹂としてある箇所の〓即である。 ︵﹃悦目抄﹄︶ めすめ みかみ しるし ゑてゑ ひゑひ ものも せこ 回文に関する箇所も﹁或秘書に記す所﹂である。 同文 物名 ﹁ヲシメトモツイニイツモトユクハルハクユトモツイニイ 読やうのかなくはりこいはひ。ろくろ。にしに。をしを。 し。ものも。すくす。此等の類也、秘か中の秘事と或書∴ われは。かすか。たつた。なつな。くとく。みかみ。しる 侍り、 41 ︵﹁和歌の浦 ご十四−514︶ すなり、ひちりきをかくしたる歌に、﹁おと、しも去年も ヒチリキ かわらで咲花をその日ちりきとしる人そなき これも ﹃悦呂抄﹄を引用する。 は挙げなかった六項目の両者の記述もよく一致すると言える。 落首 また項目の順番もほぼ合致している。 宣長は﹁和歌の浦 四﹂において ﹃北畠物語﹄から八項目を ● ﹃北畠物語﹄ 抜き書きしている。﹃北畠物語﹄ とは戦国時代の伊勢での戦闘 一かくし題とは、むねといふべき事をばうへにあらはさで、 したによみかくすなり。 を措いた軍記である。 宣長が引用したのはいずれも和歌を含む箇所である。八項目 ひちりきをかくしたる歌に、 のうち、二項目の和歌に落首の要素が強い。 をと年もこぞも変らで咲花を其ひちりきと知人ぞなき あらふねのみやしろをかくしたる歌、 ﹃北畠物語﹄ は元禄七年、宝永二年の刊本があるだけで、筆 ︵﹁和歌の浦 四﹂十四−627︶ はりまなる三木赤松を切すてて羽柴そ山の大木となる の臣白子木工左衛門彼方へゆきて、 O天正五年、羽柴秀吉播州を拝領し給ひける時、神戸信孝 ︵﹁和歌の浦 四L十四−627︶ 赤堀の探きをしらてはかなくも浅みをせ、る波瀬の御所哉 せて利なく引けるに、城中より、 ○勢州にて、波瀬の御所といふが赤堀の城をせむるに、よ ハゼ A ︵﹃悦目抄﹄︶ B 茎も菜も皆緑なりふか芹はあらふねのみやしろく見ゆらん 以上﹁和歌の浦﹂から引用したものは、折旬のBを除いては みな﹁是より以下、或秘書に記す所也﹂とした二十項目に亘る 抜き寮きの内の四項目である。この秘書が何か、歌学に疎い筆 者には特定できない。しかし、それが ﹃悦目抄﹄ に近いとは言 えそうである。 ﹁或秘書﹂からの抜き雷き二十項目の中には﹃悦目抄﹄ には 見られない項目が十項じほどある。従って﹁或秘書Lは ¶悦日 抄﹄ ではない。しかし、共通する十項目の記述は極めて類似し ている。それは上に引用した﹁和歌の浦﹂と ﹃悦目抄bとを比 で右の二首を確認しておく。 一赤堀城攻撃事 此時南方渡瀬御所。同与力矢川下野守阿 者はまだ目賭していない。同時期の伊勢を概った [勢州軍記﹄ 曽弾正忠以下。推寄赤堀城攻之。赤堀家集一族。高宮以下 較すれば容易に看取できよう。例えば引用歌は一致するし、回 ハ順に並ぶのを、順番もそのままに適宜拾った形になっている。 文の項の﹁いはひ﹂﹁ろくろ﹂などの語句は、﹃悦日抄﹄ にイロ 共通する十項目のうち、ことば遊びには関係しないのでここに 42 之軍兵。励武威防戦。故波蘭家不能攻落之。空引取其勢也。 此時自城中対敵軍落昏日 ︵﹃勢州軍記﹄︶ 赤堀ノ堀ノ探サヲ知スシテ浅ミヲセ、ル渡瀬ノ御所哉 渡瀬御所は北畠氏の一族。赤堀氏は伊勢の有力な武家。波瀬 八十宮の関係者にまつわる不祥事に﹁在京日記﹂で二度ほど ●八十冨一件 A 触れている。そこに四首の落首を書きとどめている。 八十宮の御内の御事は、去年よりいたう下さま迄言さはく ヽヽヽ ヽヽヽ ヽヽヽヽ こと也、いとけしからぬたくみなりけらし、落首あり ヽヽヽ 御所方が赤堀城を攻めあぐねて兵を引く際の、赤堀方からの落 それやその宮の山子も有栖川浪のあはちや心ときは木 ヽヽヽヽ 首である。﹁波瀬﹂ に魚の﹁はぜ﹂を掛けている。音衰引用の かねかりてかへさぬきでは有まいが年のわかさが心もとな 今の所司代をよめる ヽヽヽ ノ堀ノ探サ﹂は﹁堀﹂が重複し、﹁知 ︵ら︶ スシテ﹂では漢文 は、かくいへる也 またとしわかくなんおはしける、わかさの小浜の城主なれ し 一神戸信孝事 其頃神戸三七信孝亦於神戸城建五重之殿守 ︵﹁在京日記﹂宝暦六年正月八目 十六−49︶ やりく‖′・了︰/Jナガ 八雲たついつもびんぼう爪長にやりくりしたる其やりくり 又去年の冬、上使いつもの殿の上り給へるをよめる を 弘之於天下。又付梨子論禅宗有無之儀。又論浄土念仏之儀。 也。此信孝文武達人。而用文学好歌道。故白子木工右衛門 訓読調であり、和歌としては前者を採るべきであろう。 落首と ﹃勢州軍記﹄ のとでは若干の語句の遠いがある。﹁赤堀 B 尉等出頭也。被白子者兼文武之士也。先白子作不断桜之謡。 早物語二作而数唾等。到今世吟之也。文意天正五年。羽柴 家播州拝領之時。白子往彼方臼。 播磨ナル三木赤松ヲ斬捨テ羽柴ヲ山ノ大木トナル 此中旬、かの八十宮の御内の御車もすみ侍る、かの御上膿 くわしくはしらす、所司代酒井氏は、江戸にてことの外不 と御家老とはころされ侍る、妙門主の坊官菅谷式部卿は追 秀吉褒美之云々。 首尾のよし、落首に 邦にて、五ケ国の御かまひ、其外軽重の罪科有しとかや、 下にあった。織田信長の三男、神戸信孝の家臣、白子木工左衛 物の名も所によりてかはるなり京てかり金江戸て贋の間 ︵﹃勢州軍記﹄︶ 門が播磨の秀舌のご機嫌を伺い、褒美にあずかったという。宣 ﹁三木﹂は播磨の≡木。三木城は赤松氏の一族別所氏の支配 長引用と﹁勢州軍記﹂とでは白子の名に食い違いがあるが、い 関東の殿中にて、雁の間のかくはあしきにや、それになら ガンマ ずれが正しいのか明らかにできない。 43 ﹃広橋兼胤公武御用日記﹄ には、宝暦六年二月ころは﹁八十 岐守へ通達之儀被相頼に付﹂などの記述がしばしば見られ禁裏 宮一件之儀に付、有栖川宮・妙法院宮より事軽く相済候に、讃 れける、この度は、大坂の御城代松平右京大夫、所司代に 仰せつけらる、に走りぬとかや、これは、上州高崎の城主 八十宮は霊元天皇第十≡皇女、吉子内親王。第七代将軍徳川 谷式部卿儀、於奉行所相尋候処、申披難相立不将に相聞え候趣 かがえる。しかし﹁有楢川富御内藤木淡路守・妙法院宮御内菅 側からさかんにことを穏便に済ませるよう働きかける様子がう 注六 也、禄は七万石なり 家継と婚約するが、家継早世のため降嫁は成らなかったことで も有之間、揚り屋え差遣置﹂と関係者を入牢のうえ吟味するこ ︵﹁在京日記﹂宝暦六年五月十二日 十六−65︶ 知られる。霊元天皇第十七皇子有栖川宮職仁親王は同母の兄で 宣長﹁在京日記L のBは体裁上は五月十二日の記事である。 認できていない。 ﹁細事別記有之﹂とあるがどこにどのように記したのかは確 痙七 ︵﹃妙法院宮日次記 第十三﹄宝暦六年五月十八日︶ 十八目落着也、細事別記有之 抑去年十一月己来、八十宮様御内御吟味筋有之候処、今日 ととなり、﹃妙法院日次記﹄によれば五月に入って決着する。 この事件は有楢川富の御内、淡路守藤木成寿と式部卿菅谷英 ある。 洪が処罰され、京都所司代酒井讃岐守忠用が更迭され代わって 右京大夫松平輝高が就くことで決着する。 Aの落首には事件関係者に関連する語が詠みこまれている。 ﹁ときは木﹂がどう関わるのかは不明。﹁またとしわかくなん おはしける﹂とあるが、酒井忠用は享保七年︵一七二二︶ の生 る。﹁在京日記﹂の十二日の次の日付は二十三日と飛んでいる。 十八日に落着したことが十二日に書かれているのは不審であ Bには﹁此中旬﹂とあるが、中旬になったばかりの十t一日にこ まれだから宝暦六年 ︵一七五六︶ には三十五歳である。﹁上使 ﹁八雲立つ﹂ の歌はいうまでもなく﹃古事記﹄ の﹁八雲立つ出 いつもの殿﹂は当時従五位出雲守であった若年寄大岡忠光か。 のであろうが、日付を明記しなかった故に十二日の記事のよう う書くのは不自然でもある。恐らくBの記事は十八日以降のも ●江戸火事の落首 に見えてしまったのであろう。 雲八重垣妻ごみに八重垣作るその八重垣を﹂ のパロディーであ 酒井忠用は罷免された後は無役ゆえに、江戸城雁の問詰めと る。 なる。Bの落首はそれを椰冷しているがAの歌に﹁かねかりて﹂ うだん 大学がもうしわけない火をだしてきんしちうやうろんごだ 林学士の宅より火出ける故なり、きんしちうやうとは、今 とあることからわかるようにBの﹁かり金﹂は﹁雁がね﹂と﹁借 七年には隠居する。 金﹂とを掛けている。因みに忠用は三十代にも拘わらず翌宝暦 44 ズト云。 ヨリ築地ヲ云。終こシメラズトハ、大学ノ火ノ、丸ノ内二 知クリ赴タリトハ、隣家ヲ云。焼タリ飛タリトハ、丸ノ内 江戸のはやりことば也とそ、いかなることかしらす、 ︵﹁在京日記﹂宝暦六年間十一月四日 十六−89︶ 落 首 止ラザルヲ云。 大学が孟子わけなき火を出して 注八 宝暦六年 ︵一七五六︶ 十一月二十三日払暁に江戸八代洲河岸 の林大学頭邸から失火し、大名屋敷数十軒が焼亡するという大 の人々の恰好の餌食となった。例えば次のような落書、落首が 火が出来した。この火事は落書という形で批判、風刺する江戸 論語同断珍事中庸 ﹃江戸時代落首類宋楽 下巻﹄にもこの火事にまつわる落書、 ︵﹃江戸時代落首類架 上巻﹄︶ 現れた。 ○儒者失火 り、謡曲﹁鉢木﹂ のパロディーや大黒舞をもじった﹁大学灰﹂ 落首が追加されている。落首だけでも二十三首が記録されてお 宝暦六年丙子十一月二十三日暁、八代州河岸林大学頭邸内 より失火、諸侯藩邸数字焼亡、山下町・加賀町・惣十郎町・ 火元は大学、所は八代巣、顔子大名孔子江焼抜け、御子路 想像される。下巻から一つだけ引用しておこう。 などの狂文もある。当時相当に世間を賑わした事件であったと 尾張町辺、出雲町・金六町辺、汐留■木挽町三十間堀・伊 達奥平両藩邸迄延焼す。 出火笑止 詩経天命のつき、丸之内は礼記こはい諸家中の春秋は丸焼 迄大騒ぎ。何れも大手江子貢。 ﹁大 学﹂ 諸弟子日、大学公儀之儒者、而初人達災之門也、於能町見 注九 その落首の一つが京にも伝播したようで、在京中の宣長がそ ︵﹃江戸時代落首類宋 下巻﹄︶ け。北風は史記りに吹、飛火は数寄屋橋御文選。 諸人為囲次第者、独依近辺之損、貧樟次之、借金必依之栴、 則庶其不払。 大学之災在暁迷戒心。在騒民。在止御成。 れを記録したわけである。ここには﹁大学﹂﹁孟子﹂﹁中庸﹂﹁論 ﹁大 学﹂ 大学ノ火ハ大名ヲ焼ニアリ。町へ出ルニアリ。火ヲ出ス君 んじちゆうよう︵珍事中天︶﹂が正しい。﹁論語同断﹂と﹁珍事 宣長の聞き間違いであって、﹃江戸時代落書類衆﹄が伝える﹁ち ﹁きんしちうやう﹂とあるが、これは誤って伝えられたか、 語﹂と四書がすべて読み込まれている。 アリ。 子アリ。フッタリグワンクリ、焼タリ迦タリ、火出ス君子 同 知タリ迩タリ焼タリ飛タリ。火出ス君子有り。終ニシメラ 45 中天﹂ の順も両者では逆である。 ﹁珍事中天﹂は本来﹁予期しない災難﹂をいい、この意味で は﹃義経記﹄にも用例があり、﹁江戸のはやりことば﹂ではない。 それが転じて﹁珍しいこと、とんでもないこと﹂を強調する語 r東海道中腰栗毛﹄ の例を挙げておこう。弥二郎がすっぽんに として江戸で使われ出した。宝暦より五十年ほど後になるが、 食いつかれた場面である。 イヤはや、奇妙希代希有けれつ、ちんじちうやう言語同断 なことであった 痙十 ︵﹃東海道中膝栗毛﹄ 二編上︶ A= B 何故書、何事説、柳眉栴唇倶開裂 柳四明のつくれる大小 又 飽読書酔弄桐、何曽歓楽譲王公 又大小、誹譜師春雄の作れる すむは小ず川のばゝ、にごるは大王、じごくでもぜ ︵﹁在京日記﹂宝暦六年正月八日 十六−50︶ ゞしだいでらく 来年の大小 大小は中をしをりて丑のとし順にかそへておとる三八 この落首と ﹃東海道中膝栗毛﹄ の例でもわかるように、﹁珍 事中天﹂は﹁言語道断﹂とペアで使われることが多い。宣長の 又、人さし指と小指とを小として、おやゆひより順にかそ ︵図略︶ 此歌をもて、手にてしかたある也、その図をしるし侍る る。 記録はこれが上方では使われていなかったことを証明してい なお、当時の大学頭は林相同であり、この火事の半年後の宝 ︵図略︶ へ行也 右二ッは、いとあたらしく興あるゆへ、しるしをき侍る、 には残している。隠居、逝去と失火との関係は筆者の力では明 其外も多かれと、めつらしからす 暦七年六月に家督を子の鳳谷に譲り、さらに翌宝暦八年十一月 らかに出来ない。 十七日の夜は、山田周蔵、横間斎なとと、有賀氏へまかり て、歳暮の歌よみ侍る、いと夜更てかへりぬ 陰暦では月の大小が毎年変わる。また年によっては閏月が 大小 あった。閏月の有無や月の大小を知っておくことは生活上の必 にごらるゝ字大にて、にごられぬ字小なり、いとむつかし、 つるはちよかめははんせい 又大小 を知るための工夫がいろいろに施されている。宝暦六年 ︵一七 要事であった。江戸時代には大小暦が毎年多く出版され、大小 五﹂ハ︶ の ﹁在京日記﹂ の二カ所で大小に触れている。 46 類あること也 ︵﹁在京日記﹂宝暦六年十二月十五日・十七日 十六−9 1・92︶ 柳四明は上柳四明で、漢名らしくしたもの。﹃平安人物志﹄ 柳 美啓射相即町刷へ入町 上柳治兵衛 明和五年版には以下のように載っている。 痛十一 ︵﹃平安人物志﹄ 明和五年版︶ 安永四年版、天明二年版には﹁綾小路室町西へ入町﹂とある。 誹許師春雄は杉本春雄。¶誹家大系図﹄ 天保九年版に以下の 春雄畔昭雄胴帰棚㌫叫謀謂叫鞘㍍町。佳ス よ、つにある。 注十二 ︵﹃誹家大系図﹄天保九年版︶ ﹁没年詳ナラス﹂とあるが、同じ﹃誹家大系図﹄天保九年版 に春雄の師の隆志は﹁明和元年甲申歳九月六日没齢七十﹂とあ り、また門人の鼠公は﹁明和七年庚貴人月二十五目没享年四十 五十代かと推定される。 四﹂とあるので両者に挟まれた世代ならば、宝暦六年当時は四、 宣長の師、堀景山の住居は﹁綾小路室町西町南方﹂ ︵﹁在京日 たがって﹁小ず川のば、﹂は脱衣婆。﹁小ず川﹂と表記したの ﹁じごくでもぜゞしだいでらく﹂ のうち、清音仮名は小の月、 は無論小の月を示すため。﹁大王﹂は閻魔大王で、大の月を示す。 濁音仮名は大の月となり、一月から﹁大大小大小大大小大小大 があるからである。この年は、一、二、四、六、七、九、十一 小小﹂ の順となる。十三あるのはこの年、宝暦六年は閏十一月 の月が大で、三、五、八、十、閏十一、十二の月が小であった。 柳四明作の二つはいずれも十三字であるから、各字が各月を 確かに春雄作の示すとおりである。 はずである。そこで各漢字をこの結果にあてはめると次のよう 示すのであろう。同一年であるから春雄作と同一の結果となる になる。 火 大 小 大 小 大 人 小 人 小 大 小 小 大 火 小 犬 小 犬 大 小 大 小 大 小 小 何故喜何事説柳眉梅唇倶開裂 飽講評酔弄桐何曽歓楽譲王公 何故何説柳梅倶−大 まとめると 書事眉唇開裂−小 この二首の工夫は同じである。各漢字の構成をよく見ればわ 害弄曽楽王公−小 飽読酔桐何歓譲−大 は不明だが、右に引用した通りだとすると、三者の住居は数百 かるように、偏のある字が大、偏のない字が小を示す。偏の有 記﹂十六−29︶ である。柳四明、春雄の宝暦六年当時の住所 メートルの範囲にある。宣長はAの大小を直接に四明、春稚か 年の﹁奉転読大般若経延命守護処﹂である。四明のはその二年 にも多くが挙げられている。しかし同書で最も古い例は宝暦八 無で大小を区別する暦は、珍しくはない。長谷部言人r大小暦﹄ わかりやすい春雄作から説明しよう。﹁小ず川﹂は三途の川。 ら聞いたのであろう。 ﹁ソーズカワ﹂から転じて﹁ショーズガワ﹂とも呼ばれた。し 47 のかは今のところは不明というしかない。 前であり、大小暦の歴史のうえでも貴重である。このアイデア 侍ると、とひをこせけれは、京なる人の返事に 有馬に侍る人の、京なる人のもとへ、京はさむさはいかゝ て、ひかんも七日つ、まへに成ぬるよし、さるへきにや、 ﹁去年より暦のあらたまりて﹂とあるとおり宝暦五年に改暦 ︵﹁在京日記﹂宝暦六年二月十七日 十大−54︶ とかやいひやりけるとそ、いとおかし もせす京 有馬にもさむさはさのみかはらねと炭のたかさにえひ が四明の独創なのか、あるいは既に何か拠るべきものがあった ﹁つるはちよかめははんせい ︵鶴は千代、亀は万歳︶﹂は、 濁音になり得ない ﹁る■よ・め・ん・い﹂は小の月を示す。大 濁音になり得る仮名﹁つ・は・ち・か・は・は・せ﹂は大の月、 小大大小大小大大小大小の順となる。確かに来年、宝暦七年の ﹃大小暦﹄ には﹁ス、、三ゴリの大小、スムは大二ゴル小など、 暦はこの通りである。清濁で大小を区別するのも類例は多い。 て此比は、しのきかたくそある﹂というから炭の需要がふえ侶 も高くなったのであろう。いろは歌を取り込んだ﹁えひもせすL が実施されている。﹁ことしは、はてしもなくひえ侍る、わき ごられぬかなを大とすることもあ聖﹂とある。この﹁にごら は﹁え火も為ず﹂か。あるいは可能表現が二重になるが﹁え火 .rr■一 れぬかなを大とする﹂というのと大小が逆であるのが﹁つるは ろを、副詞﹁え﹂故に宣長は意図的に﹁えひもせす﹂と帯き写 燃せずLか。いろは歌ならば誰でも﹁ゑひもせす﹂と記すとこ 題し、宝暦に多いが、明和以後には少い。清小濁大とし、又に ちよ⋮⋮﹂ の工夫である。当時の流行に従った例の一つに過ぎ る。 二 一致しない。江戸期のいろは歌はしばしば末尾に﹁京﹂を添え したか。ただし宝暦六年頃の宣長の表記は歴史的仮名遣いとは ないのかもしれないが、管見に入った限りではこれよりも古い 類例はない。 なお、引用したところにあるように、宣長は手、指で識別す る大小を書き留めているが、ことば遊びの範囲外なので、ここ では引用に留めておく。 狂歌 十七日、けふよりひかんとかや聞侍る、さむさもひかん迄 ここでは簡単にだけ触れておこう。以下、宣長の作歌は大小歌 映しているか。宣長は多くのことば遊び和歌を残している。そ 往卜四 れについては別に稲を公にしているので、詳細はそれに譲り、 右に見た若い時期の宣長の関心は、どう宣長の後の活動に反 とこそき、しに、ことしは、はてしもなくひえ侍る、わき を除いては、適宜表記をわかりやすく変えて引用する。 ﹁在京日記﹂宝暦六年二月の記事中に狂歌を書きとどめてい る。 て此比は、しのきかたくそある、去年より暦のあらたまり 48 沓冠 ﹁石上稿﹂に﹁父走利の忌日に追福のため南無阿弥陀仏を沓 ﹁深見草﹂を詠み込んだものである。 回文 中通る岡も野も萩繁く咲く景色は物も薫る程かな 同時に三首の回文歌を一七七〇年に作っている。 稽こそは莫屋軒荒るれこの本も残れる秋の山はそことや 何よりもただ有り難し本願を深く頼みて浅く思ふな 冠にをきて釈教の心を﹂と詞書を付けて六首の歌が載っている。 君宿るこの軒浅く咲く花はくさぐさ秋の残るとや見き ︵﹁石上稿L十五−214︶ 今はしか住み荒らしても道経えね中を頼みに待つは苦しき は以下の歌である。 一年までの三十九首がこれに相当する。最初の一七五五年の例 ない歌を狂歌とすると、筆者の調査では一七五五年から一人〇 遊戯性が認めらるが沓冠、析旬、回文、物名などに分類でき 狂歌 三年の作である。﹁霞・紅葉∴松葉﹂を詠んでいる。 残している。次に載せたのは、確認された中では最初の一七五 一七五三年から晩年の一七九八年までに六十六首の物名歌を ︵﹁石上稿﹂十五−329︶ 無始よりも作りし罪の悉く消ゆるは弥陀の誓ひなるらむ 物名 浅からぬ罪は有りとも助かると思ひて頼め深き哲ひを 弥陀仏の国は命も量り無く苦しみ無くて楽しめるのみ 大慈悲の探き願ひも成就して今は西方正覚の弥陀 仏法の教へは数多多けれど類は有らじ南無阿弥陀仏 ︵﹁石上稿﹂十五−181︶ 第三首は正確には歌の首尾が一致していない。第六首は仮名 ではなく漢字で首尾が一致している。これは一七四八年、宣長 十人歳の時であり、﹁和歌の浦一﹂ で沓冠歌を書きとどめたの また沓冠折句を一七五九年に一首作っている。 とほぼ同時期である。 年のうちは暫しぞ凍るのどかにを春立たば今手に汲まん水 ︵﹁石上箱﹂十五−251︶ 句頭を、次に句末を順にたどれば﹁としのはてはるをまつ︵年 あやなき あやなきと言ふあゃなきはあやなきにあやなしと見る人ぞ ︵1石上稿﹂十五−225︶ の果て春を待つ︶﹂となる。 をそのまま引用する。 宣長は月の大小を示す歌を自ら二首作っている。﹁石上稿﹂ 大小 折旬 一七五四年から一七七四の間に十二首の折旬が確認できる。 故郷の神の園生の道しるべ曇りなき世の様や見すらん 一七五四年のだけを挙げる。 ︵﹁石上稿﹂十五−218︶ 49 今年大小 0正ムヒ しはなく 〇h 大そらはむつきとみえていつLかもはななきさともことり 二凹 小さ、はらにしにむかへるやまもとのくま︿になをのこ 統的な和歌技法のみならず、いろは歌、大小歌にまで手を染め るこの幅広さ。和歌を離れて見ると、なぞなぞ ︵いわゆる二段 なぞ︶ を自作し、狂文めいた文章も物している。一種のカルタ 庄十七 まで創案している。 は幾人でもいるだろう。しかしこれほど多様にことばで遊ぶ者 狂歌師ならば、宣長以上に数多くの遊戯的な和歌を残したの ︵﹁石上稿﹂十五−272︶ る朝 を宣長以外に挙げることができるだろうか。人は宣長を知の巨 の巨人がことばの遊戯性に目覚めた跡をたどることができたな 人と呼ぶが、ことば遊びに限っても十分に巨人であるのだ。そ ﹁大空は睦月と見えていつしかも花無き畳も小鳥しば鳴く﹂ という歌で大の月を、﹁小笹原西に向かへる山本のくまぐまに ぞづくし﹂ ︵﹃札幌国語研究﹄第七号 二〇〇二年六月︶ ︰吉見孝夫︵二〇〇二C︶ 本居宣長﹃萬覚﹄中の二種の﹁な 略解 ︵﹃語学文学﹄第四十号 二〇〇二年三月︶ ・吉見孝夫︵二〇〇二b︶﹃本居宣長全集﹄中の﹁なぞなぞ﹂ 第十八号 二〇〇二年二月︶ 集﹄所収の﹁なぞなぞ﹂の基礎的研究−︵﹃鈴屋学会報﹄ ・士‖見孝夫︵二〇〇二a︶鈴屋門の言語遊戯−﹃本居宣長全 一関達する筆者の論考には以下のものがある。 主 ヽヽ/ らばこの小論の目的は連せられる。 尚残る朝霜﹂で小の月を示す。確かにこの年宝暦十三年は、正 月、≡月、五月、七月、十月、十二月が大の月で、二月、四月、 六月、八月、九月、十一月が小の月である。宣長がこの年以外 にも大小歌を作ったのかどうかは不明だが、このころ大小暦が 嘘十五 江戸錦絵、昔は殊の外亀末也、宝暦の頃、大小はやり、見 流行ったことが知られている。 事なる絵の摺物出る、 ︵﹃続飛鳥川﹄︶ 宣長が暦に深い関心を抱いていたことは ¶真暦考﹄という著 を持つことでもわかる。 おわりに 二〇〇五年一月︶ 論−﹁呉雪﹂・成立・評語1︵﹃鈴屋学会報﹄第二十一号 ・書見孝夫 三〇〇五︶ ﹃本居宣長全集﹄ の﹁なぞなぞ﹂再 首一長は生涯に数多くの和歌を残している。そのうち遊戯性の 仕卜六 認められるのは、筆者の調査では百五十首ほどである。ここに ・吉見孝夫︵二〇〇七︶本居宣長のことば進び和歌一覧︵﹃札 取り上げた以外にも、いろは歌同様に四十七の仮名をすべて一 度ずつ使った歌も知られている。折句、物名、沓冠といった伝 50 幌国語研究﹄第十二号 二〇〇七隼人月︶ び方︵﹃札幌国語研究﹄第十四号 二〇〇九年七月︶ ■書見孝夫︵二〇〇九︶ 本居宣長考案﹁名勝地名箋式﹂ の遊 二 ﹃日本歌学全書 第十二編﹄︵博文鯖一八九二年︶による。 による。 による。 十二 ﹃近世人名録集成 第二巻﹄︵勉誠社出版一九七六年︶ 渓書舎一九八八年︶ による。 十三 長谷部言人﹃大小暦﹄︵宝雲社一九四三年︶。復刻版︵龍 十四 書見孝夫 ︵二〇〇七︶ 以下﹃悦目抄﹄ の引用は同じ。 三 ﹃日本歌学大系 第一巻﹄︵風間蕎房一九五七年︶による。 十五 ﹃新燕石十種 第一巻﹄ ︵中央公論社一九八〇年︶ に 十六 書見孝夫 ︵二〇〇七︶ よる。 四 ﹃国史大辞典﹄ には以下のように記述されている。 七巻七冊。成立年も未詳だが、記事は天正十四年 ︵一五 十七 書見孝夫 ︵二〇〇九︶ 伊勢国司の北畠氏を中心とした軍記物語。著者未詳。 八六︶ の北畠具親死去で終り、寛永五年 ︵一六二八︶ 書 写の奥害をもつ。したがってこの間の成立である。 九二三年︶ による。以下﹃勢州軍記﹄ の引用は同じ。 五 ﹃続群書類従 第二十一軒上﹄ ︵続群書類従完成会一 六 大日本近世史科 ﹃広橋兼胤公武御用日記六﹄ ︵東京大学 出版会 二〇〇一年︶ による。 一九九七︶ による。 七 史料募集 ﹃妙法院日次記 第十三叫 ︵続群書類従完成会 による。 八 ﹃江戸時代落首類東 上巻﹄ ︵東京堂出版一九八四年︶ による。 九 1江戸時代落首類宋 下巻﹄ ︵東京堂出版一九八五年︶ による。 十 日本古典文学全集﹃東海道中腰栗毛﹄︵小学館 山九七五年︶ 十一 ﹃近世人名録集成 第一巻﹄︵勉誠社出版一九七六年︶ 51