...

朝鮮巫俗の新枕︵凍前

by user

on
Category: Documents
63

views

Report

Comments

Transcript

朝鮮巫俗の新枕︵凍前
朝鮮巫俗の新枕︵凍前︶
赤
松
城
一一﹁
智
︵四︶ 水神。上記の山神と相対して、河川や海水、湖水や非泉等の水神の主化にあるものは、支那倖来の龍神
朝鮮砿俗の刷統
︵l︶
︳
あつて、水神と山神とが故に謂はば配虎の封照をなしつつ、然もそれが屡々同一の草堂内に合祀されてゐるのも、
に跨ってゐる形相に措かれ、それは恰も前記の山紳が同様に人格神僅ではあるが、虎に乗ってゐるのと好一封で
のためにも、水遼や船中で執行されてゐる。現今苑堂に奉安されてゐる多ぐの統帥傑は、端麗な一人格納が大龍
ヨンクヨ、/グンマヂ 榊賽紳︵或は現に龍雄紳︶龍宮迎、龍王所蒔︵或は脚単に龍王︶たどゝ呼ばれ、それはヰ亮不幸なる水死者の慰墓
シンク
ヨシ や海岸地方では、これに漁独の幸を祈り、几つ靴舶と航路の安全を朗ふことが多く、か1る巫祭は地方に伐て龍
民俗にも見られるやうに朝鮮に於いても、この水和としての龍紳は放火所柄のために祭られるが、特にまた河畔
賽することもあつて、例へば鮮内の朗々にある龍渾又は龍淵の地名などはか1る龍神の空所である。而して他の
宮堂に奉祀されてゐるが、必ずしも一定の堂守はなくとも、或る河流渕悔む龍帥の任虞と信じ、共虞でこれを奉
監や鶴首大紳、また龍宮の群臣の死還としての龍宮胡鬼などの一統がある。此等の水神は普通には龍神堂又は龍
⊥小グ
?龍夫人、その女としての龍宮阿只氏︵能女︶や、龍宮の軍隊の統領としての龍将軍、その大甘としての靴官大
又は龍王である。然もそれにはかの東海西海絹拇北海の主としての桝謂囲掃龍王む始めとして、その王妃として
甘が
朝鮮巫俗の挿統
亦一奇観である。
次に輿水、還元、紳井又は供物としての浄水など一般に聖浄なる水に封する信仰が朝鮮にも靡く行はれてゐる
のは周知の事葦であつて、夫等の中にもまた龍神︵或は累蛇︶が任してゐるといふ傍詮とH念とが甚だ多く、硯
に龍非と呼ばれる名栴も所々にある。近く京城府内でも三清洞の丘腹にある星祭泉は本来はかの七崖を祭る神泉
であるが、その泉水には龍神が居て、産婦の乳に異状がある時にはこれに折ると云はれ、また路山葵水茎の一巫
ムルハ八モニムルハラボヂ
堂日月堂の傍にある葬水では、正月十四日に龍宮迎を行ふ巫俗がある。しかし水神は必すしもこの龍神の一統の
︵2︶
みではなくして、薬水や重来にはまた別に水租母と水父父と呼ばれる面相の水貢が任してゐるとも云はれ、例へ
︵L2benstrank︶
としての威力又は呪力を有するとの信念に基き、従っ
ば京城府外梯饗場の水王耐の如きそれであるが、絶じてか1る聖渾た水の信仰は或る特定の水が所謂﹁生命の水﹂
︵Lebenswasser︶若くは﹁生命の飲物﹂
て上記の水菜も龍耐も賓はこの水の威力の粕憲化進んでは人格神化に外ならぬことは、故に詳説するまでもなく
他の代休の類例に於いても同様に見出される桝である。然るに水にはかくの如く生命を輿へこれむ促進して浮隔
の観念も起ってゐる。それで朝鮮に於いてもか
をもたらす一面の力用と共に、他所にはまたこれに反して知らるる如く或る水には却て生命を亡ぼし或は水桐を
もたらす威力もあつて、従って所謂﹁死の水﹂︵Tedeswasser︶
かる水の厄椰は或はかの龍紳の怒りとして、又は水車に潜む珊鬼即ら水鬼︵溺死者の亡韮とも川心はれてゐる︶の
研〓といザられ、かくて此等ふ牢宥和せんがためにも亦た爬和が吊はれてゐる。殊にその死の水と殆ど文†通りに
スサル
平行するもむには水投の信念があつて、これは本爽は水の凶威を意味し、次いで水の悪霊︵霊感骨且t︶恕壷ふの
卯好
●
であるがlその水厄を紡ぐ光めにはl腰職郵と耕する↓種の紳竿を部落q∼嘆疇華Ⅶ≠冊冊ぞ掛率盛珊朴な*剃嘩水 珊
鳥の形をつけてゐるものもあり、或はこの水鳥むその境の壁掛の抜上に打ちつけてゐる囲もある。託しこの野趣
に富んだ水鳥は即ち水殺の厄除の象徴であつて、現に民間の信仰に於いてはそれは巌にタブーとされてゐるので
ある。
椅ほ性の水と死の水との仁念は或る民俗に於いては往々交錯し或は一虞に並立し又は封立して、故に水の威力
︵3︶ 観念の両面恵くほ輌稀代を示してゐるやうに、上述せる龍神の如きも主としては半袖であるが、それが怒った時
︵4︶
には悪紳ともなつて危宰を輿へることがあり、また現寮に生命の水である薬水の紳霞も、一定の埜忌を守らすし
てこれに近けば、却てその忌諒に解れて直ちにその神罰を蒙ると信ぜられ、立に生の水は忽ち特じて死の水とも
たる。水設の如きもまた憩室ではあるが、一部落が戒惜してこれを奉賽すれば、不時の‖水や洪水の厄難を免れ
ることができるから、その除災はやがて招隔となつて来る。かくの如く総じて一の甜菜に多少の程度を異にする
も両面の性能があることは、勿論水神には限らすして、他の紳買に於いても同様であり、またかの生と死若くは
菩と態との相反する紳憂が互に封立しながら然も並存して、例へばさきの龍神と水鬼との如く、両者が全く同一
の水中に任することもあり、或はまた聖揮な葬水の重と不浄な水没とが一部落内に仰祀されてゐることなどもあ
● って、か1る事例は固より他の場合にも多く見出されるが、故には唯だ朝鮮の水面に就いて少しくこれを例示し
たに過ぎないのである。
︵五し 石柵。須石類に封する朝鮒民間の元俗的信仰も他の民俗に於けると〓じく、怖々これを次の三軒に分けて
朝鮮巫俗の刷錠
朝鮮巫俗の紳統
四
釆の意味に於いての聖石墨岩であるが、二はそれから特じて或る人格的な紳重の任鹿又は象徴として特定の岩石
見ることができると思ふ。即ち一は或る岩石自膿が神聖視されてゐる最も原本的な場合であつて、これは全く本
ハイソゲ●スタイン
を認める事例であつて、云ふまでもなくかゝる石は所謂御紳醍であり神石である。三はこれと閲聯してぎた或る
石は何等かの紳墓若くは曳研に接解し附屠してゐるから、併せてこれをも聖化して聖石と見倣してゐる場合であ
ヒーブ●オブ●ストーシズ
る。更にまたかゝる特異な岩石はその形態特性等に伐ても種々に分類されるのであつて、例へばその石の大小や
モーリス
単複︵革石か或は石雉乱ち輿石か︶、又は自然石か加工石か、或はそれが聖渾の石か不浄の石であるかなどに依て
も置別されるであらう。それで今故には暫らく此等の分目に従って、夫々の代表的な例符を下に列馨して見よう。
第一に或る岩石自照を神聖視してこれを崇敬するものには、兜づ立岩や豆石と油稲される一類があつて、それ
は概して宜岩であり文字通りに突先として立ってゐる仰単石か或は一封の所謂大姉岩であることもある。素城の仁
王山腹にある有名な立岩は賓に最も血ハ型的な夫婦岩であつて、見を東宮れない婦人や或は自分の生見がその貫岩
の如く堅茸安全に且つ長詩ならんことを朗ふ者が、陸続としてこの立i完ハ者に多弁し研蒔してゐる。尤もこの求
子の所願はか1る夫婦岩には限らす、箪石にも亦行はれ、同じく京城郊外付り・有里の付岩の如きは著名であるが、
しかしこれは宜岩ではあるけれども立岩では克くして、寧ろ纏状の謂はば伏岩である。佃ほ後述する如くこの所
願は他の石神や石俳に向つても現に健に行はれてゐて、〓様m獅側は︺い山た仙〃民俗の小にも在れする。さて次に
.︰ソ は前の大小には拘らすその形状から見て、所謂奇根性前の獅にも敷石があつて、就中甚だ怪異なるは男根石と女
バウ 陰石如ち触解し七陰脇石止も呼ぶべ食ものが朝鮮忙鴇亦少放くないと法で偽る。政虹は患肝軸七池ぺ称ないけ
れども勿論これ粗野しても主として米子の抑傾と行事とが行はれてゐふ。今上記の署石は何れも自然石であつて
甜
また夫婦岩と女捨石の戎者とむ除けばそれは竹耶れでれろが、更に佃腔人工に情りチ\り.小γ上れ㌫∵梢ばて㌧れ
ハU
た特殊の石雅文は累石が別にあつて、それが景敬の封象及び場所とされてゐる事例も甚だ多い。かの城捏堂の森
々たる輿石はその一代表であるが、しかしこれが城陪紳の任所としてか又はこれに附址してゐるから聖化されて
ゐる場合は斬らくこれを後段に譲って、若しも今朝俳の城陛は本木は特に村里の境域む結界する意義をもつてゐ
た㌧のとすれば、その頃石は茸は元は集積せる界石又は界標︵b。undary・旨nes。ニandmarks︶として紳教
されたのではなからうか。而して若しこれを是認するならば、それはかの蒙古のオポの架石とHじく、元来は境
︵Curing・
界の神聖を標示した結界の石堆であつたのであらうと思ふ。しかし或る村里にあ牟累石の聖研止血にこれのみに
タブチヨサン
は止まらすして、その外にも地方に依り軽々の構造と異名とを以て呼ばれてゐるものがあつて、例へば堵、浮山
′サ′︼一
路祀土などゝ栴せられる特殊の石堆白醍が夫々の村里に於いて崇敬され、洞祭を行ふ柴研となつてゐるが、これ
︵5︶
は正に所謂﹁柑の石﹂︵くiuage・StOneS︶に外ならない。終りに特殊の鍍石として或る結‖m石や薬石
stOne︶ が主として治療のために尊崇されてゐる事例がまた朝鮮にもあつて、前記梯埜順の﹁山廿﹂の如きは最
も有名であるが、それは一種の結晶石であつて、現にそのまゝ納車として服川されてゐる。
第二には或る紳藁の任腱若くは象徴として、謂はば御紳鰻となつてゐる帥岩には、石城睦︵又は城陪石︶、山神
岩、洞紳岩など、夫々紳名を以て呼ばれてゐるものと、特にまた沸教的なるものには別に種々の石仰があつて、
それには摘勒の石像や仰岩が多い。城睦の累石は前述せる如く元は界石であつたとしても、一たび叛担納付が支
朝鮪巫俗の刷統
ヨ工
棚直打
六
郷から移入されてそれと習︿‖さる1や、その累石はかの城捏木と北ハに円ら城捏柵の任所ともなり、戎はその紳堂
ク.ノナントル
に附属じて聖石地ともなつてゐる。またこの城捏と略々同様の形態と性質とをもつてゐる眈逃せる北鮮地方の固
︵6︶
師堂にも石堆があり、南鮮地方の或る堂山にも堂山石と糾せられる敷石があろ。伺ほ所謂摘勒の石傑︵石弼勤と
︵7︶
も云ふ︶や彿㍍石俳に向つても、求子の所願が庭言行はれ、殊にその弼勒には男性と女性とを分けて奉祀してゐ
る研ごへあつて、踊勒は致では全く一種の性紳となり生殖紳ともなつてゐるのは願る奇怪であるが、しかし此等
は勿論本来の陰陽石に後に至つて裳まゝに弼勒や諸仰の名を血ハへて、多少これに人工を加へ彫刻むも試みたもの
に外な、hない。更にまたこの外にも精巧な彫刻を施した石俳石神や石塔などが随虞に崇敬されてゐることは云ふ
までもない。而して上乗列馨した種々の聖石や石神俳は固より皆緊浮な石であるが、唯だ上記の図師堂の石の申
に、私の賓見した研では、不浄な所謂艶械の黒石があつたことは注意に帖すると思ふ。それは成北吉川邑外里飲
の河畔にあるトルモロパウイ国師と稲せられる右堆の聖研にあるものであつて、この図師には鼎封立してゐる二
●ク・一
仰の堂があるが、左方のものほ清浄な〓石を封象としてゐるに反して、右方のものには柳樹の前に縄を以て縛り
つけた黒石を供へ、その上に藁を置いてゐる。託しこの石は巫が呪術的に悪鬼をその中に封じ込み、それが脱出
であつて、それは一方の尖つた日興⋮れでーで心がドポで
しないやうに縄でこれを緊縛したものであつて、従ってこの黒石は即ちその悪鬼の任所であり像徴でもあるから
︵ボ︶
蕨にまたタブー硯されてゐる﹁呪岨の石﹂︵Curse計tOne︶
はない。そこで聖石にもかくの如く亦刷聖の両面性が表はれてゐて、然も上述せる如く聖渾なる石は〓色で透
り、穿稜の石は組色であることは、云ふまでもなく色に監いて明白と幡恕、替と怒.浮と籠上む匿別したのであ
鵜沼
−郎雲
って、この対照は底ちに吾々にかの
鵬脚と登威一サ御との相連なも想ひ適させるのである。
第三に或ろ紳難文ほ兜川に附属してゐる瞑りに就いて教化ぺ正てゐるれは、本木は川より榊憫でJltJなくハ弄わ
朝巫偉再
召
化したのであつて、後に笹更に種々の佃誼さへそこに物語られてゐるのである。
?如きも、その形鹿から軌れば、蜜は一の石研両でもあつて、それはさきの薬水車れかぃ仰と川木箱川罪との結令
経りにかゝる岩石の聖研には冊ほ〓黙の大いなる最猫も附け加へられるであらう。例へば前記砧雅呪ぃ水‡両
が、今は畢に俸
コングエシシヨナヲイズ
参詣者が新たに小石を置く習俗が贋く行はれてゐるが、これは元は桝謂﹁供物の石﹂︵Opferstein︶であつたの
︵10︶ するやうになつて、その石は唯だ供犠を供へる食卓となつたとも云はれるであらう。佃ほその石堆には通行者や
れに附隠して変化されてゐるものである。即ち放では上述せる如き本来の現石や神石からその紳怖が謂はば分離
合にはその石堆は城陪紳や図師の聖桝を形成する一部分として、その神像や紳鰐共著とは別であるが、しかしそ
や岡帥堂にあつて、例へば城鰹木の下に堆漬され、その供物埠ともなつてゐるもの1如きそれであるが、この場
られで−ゐる。寺陀の境内にある碓食石も魚紳に食物む供する聖石噂の一種である。次に累石の場合は多く城捏堂
上に代物犠牲む突供するのは匪石であり、また特に基前にある魂遊石はその上に死者の魂脱が来遊する桝と仁ぜ
り休石や魂遊石の如きものであつて、或る紳堂帥櫻女は墳墓の前たどに置かれて、祭祀や賽紳を行ふ時に、その
少とも加工された石があつて、これにも亦他の民俗に於いて見るやうに、畢石と累石の場合とがある。前者はか
︵9︶
直接隷属してゐるから、故に暫らくこれを附記すれば、この類の聖石には先づ祭壇若くは供物噌となつてゐる多
封象でもないから、それを今甜統の中に掲げるのは誓冒はないでもあらうが、しかし前述せる諸榊小葦神山青
脚J
朝鮮逓俗の紳統
入
であり、また上述せる幾多の所子巌にもこの種の重箱に類するものが少なくない。或る洞窟の入口即ち岩戸や
の例の草木に種々の術前を懸けてゐるのを屡々見受けるのも、亦タブーされた岩窟を標示してゐるものである
またこの外にも人エの所謂石耐があつて、それは或る山腹や路傍に石を積み重ねて作った洞堂であーるが、成
城邑外蛇川谷にある国師堂の多くの石岡や、京城北岳山腹にある石堆の城隠堂の如きはそれであつて、此等は
に何れも或る家庭の奉祀する嗣堂即ち家耐として、薫祭の行はれる一聖研となつてゐる。
以上列記した紳統の外にも更に種々の神霊があつて、それには方位榊、守謹紳、人間の望芋死
霊獣、木紳と取掛、遊魂と郷鬼、地下の望貰ど数多の部類を拳げ得るが、しかし今その記述は便
の横合に譲りたい。尤もかくの如き難多の神霊や鬼魅の信仰は、勿論唯だ巫硲のみに行はれてゐ
て、それは茸は殆ど曹風の朝鮮民関大衆の信する桝であり、且つその帥統には完教壁上から翫れ
も認めることができるが、それも故には全く署略して置く。
クーマ〃コーサ
︵一︶ 例へば慶北柏項の漁民11F︼に行はれてゐる﹁漁某省拙﹂の第二節は﹁髄王﹂と呼げれ、偶は∵∴∵岬に十㍍∵﹂霊とキ疇
・りしLから ・、桝と米と一ビ批に包み、水申に㍑tて批エに仇へ絆又を前山するが、その裾文には紬※粧、龍刷結、拙
舶組隼がムろ。
︵lこ 敏年こ阿三月三日と九月九日とに舷で﹁山骨﹂を求め築水を飲む盛大なる行串がある。また津新曲山地の一首巫霜
廊夕彦
′ヽ ′■ ̄ヽ ′■ ̄ヽ /’ ̄、 ′1ヽ
rf.RCG.一tJ.Auflこく.S.−∃Of.
徒食の祭る十世の紳條の中には水裳位と稲する男紳もある。
和製降﹁熱水信仰わー河﹂︵い俗聾一の五、三一四某︶参惜。
めに寄怪なる共感的模倣的呪術行篤を行ふてゐる。
のために拡が附けた.ものであるが、小さい珊瑚化は特に桃子と呼ばれ、軒人の郎者はこれを跨いで、束子のた
く、これに反して後鶉には軒人の謂するものが多い。この弼勒像の腹加に結ばれてゐる紙を渦動楷と云ひ、それは
靭であって明かに男根石であり、それにも大小がある。前者は男子の参詣すべきものであるけれども賓客は殆どな
臍洲烏山地の郊外に東西に刑射して捕物の右傾かあるが、先方は女爛勒であつて一種の女陰石であり、四方は男摘
村山椚順﹁朝粧の鬼柵﹂ 二四七貫以下参M⋮。
Cf.
EREこく○︻.〓.∽リN.
し′ ) \J ) し‘
朝鮮瓜俗の相成
Of
Re−igiOnS﹀畑.N彗.
九
︹附記︺ 本砦は帝開封士院の補助に伐る瑚郁雄俗の研究のl部であつて、本誌三・四月米所載拙稿の総括である。
︵一〇︶ TOy.1ntrOductiOn︵O the H訪tOry
︵九︺ rf.EREこく01.Ⅰ.p∴挙葦RGGこN.Auf−こ1.S.N∽〇.
︵八︶ この黒石は私が採抜して現布は京城・竹岡大聖民俗品参考草丈ある。
七 六 五 押 二二
プッチエ
βタき
所子
h、刷〃オ性卜に低かれたる預言押勤の地下潜行に就いて
松
反動の暴座下に置かれたろ
預言遅動の地下潜行に就いて
−預言者の時代性
井
一〇
了
穏
凡そ人間の中でも完教史上に視るる所謂頂言斉左るもの程性格に於ける猫自性の色調の強烈で個性の敬遠した
者の妙いことは云ふまでもなからう。然し一面より之れを見れば被等とても畢克は時代の見であ少、背景たる時
代との閲聯を考へすしては、彼等の性格思想言動の何れをも充分に理僻するを得たい事も亦事賓である。否それ
触
が預言者であればある丈け、そり、時代との椚紬恍は他の何人に於けるよりも至大であり緊密であるのであつて、
預言者む粘性づける最も切要なる要素の随一は賓に此の瓢にたければならない。カール・マルティは其の著﹃蕾
約狸帯の︵一九数﹄に於いて預言者を定義し、
預﹁==者とけ北ハの事業が仰の伴一本に根ざし、其の〓的が洒の力わ確昔に在り、其のF投が紳淀むハ圧∴==するに在る
人の謂である
と畢者夙に失しく教えたが、然しその知有村融合し、載も附黙するととろなきかに見ゆる限定にも拘らず・時代
と預言者との必然的な連絡網係、即ち構翻的辞令的政治的非常危局が侶仰に燃ゆる特記偶人の異常に俄感
経を甚だしく刑賎し、被れをして〓い∵一〓念理想に基斗∴〓L▼︰生命小机に於い∵、芦∴時代性チ了▼〃址曾監県
っ向より批判すろに終始するの人たらしJげるといふ、関北両様の意味に於ける時代との相関関係の典昭的事既を
反拙∵∵堅陣∵∴に乱かれたチ預言叩嘲ハ柚卜声〓﹁凡∵し
昧なる、持場骨柄人の名さへ侍へられてをらない、尤伶甥的な墾■=骨運動に於いてすら名取することが出乗る。
あつて、且て論述した如く︵本誌新一〇ノ二︶、イスラエルに現れた最古の撃一=者運動、此の粗野にして狂嘆憶
l弐上の平俗な立言の安蕾性は今揖雪新しく多くの具醍的事例の撃不にょつて例許する必要もない明かな革賞で
使命を通じて其の彼方なる永遠なるものを開示額彰した人に外ならないのである。
駆使せられて、時代む徹底的に批判し、批判することにょつて復人類永遠の眞理に奉仕し、歴史的仰性と
に燃え盛るところの、しかも時代に封して極度に敏感なる魂が、正にそれがためにその絶対的な信念の力
し、後者は正しくそのことをこそその唯一埜一の使命とし存在理由とする人たる瓢に在る。預言者は宗教
る≠俗の英雄と精神的な預言者との相違は、前者が時代批判と理想の提示に於いては何の因縁ゆかりもた
ろものはないとも云へるが、然し此の詞に毅もよく適合するものは英雄と撃一日者でなければならぬ。
色彩損黒丸圧勝史的佃性である。歴史が破れをつくり被れ叉歴史をつくる。理に於いては天下何物も此の
められ、時代を誓壮批判することに不惜身命の全景的活動を集中することに於いて六大たる歴史的役割を
ある。預言者は他り何ものであるよりも先づ歴む的仰性である。時代に刺摸せられ、時代によつて感情⋮
共の中から紬象してゐること、少くとも此の意兼を其の中に色潰く浮ヰ血ぎしめてをらないことは大きな
卵慮
反動の菜揮与た静かれたる預言遅廟の地下準〃に就いて
一二
以下文献的倫理時代の預言者、アモス、ホゼア、イザヤ、ミカ等、第八せ紀の諸代表者にしても、始源湖ペリシ
テ人の雛に比すべき外患こそなけれ、ヱロボアム二世時代が野した幾たびもの戟捷と、其の結果たる国富の未曾
有なる増進及びその偏在、貧富の隔絶、祀昏々級の教生と社食悪の醍醸等々々の外的原因の理解たくしては彼等
の使命並びに活動の内容意義を掴むことが出来ないだらう。のみならす社食的政治的乃至間際的等、くさぐさの
諸関係を含む外面的情勢の感化は、替り据望一口常襲川興起の積極的原因として働く計りでなく、同時に又その
碑滅の河極的原動力の有力なる一因チとしても作川すること亦舜ひなきところであつて、紀元前十一世紀、イス
ラエル立君の前後を劃して爾来綿々絡麻紀、流れ鳩きせぬ滑河のそれにも似て、連続無窮に堰縄畿展した預言者
の運動が、何故に時として勢を線殺せられ、或は比較的良きに亘って中断するに至ったかの事由は、これを少く
も常該時代の一般的外的寄附の中に穿婁の迂を尋ぬ求むるのでなければ充分たるを得ないであらう。例へば第八
せ紀の中年前後に於いては廿ケ年にも満たぬ短日月の問に、史粟に赫々たる盛名を遺した幾多の優れ牢預言者が
筍生綬目したに拘らず、イザヤ及びミカの清躍を最後として、何故突如として、第七1−世紀の頭初以来七八十年の
久しきに亘つて滞滅し去ったか、而して該≠紀の後年中期を劃して、旦て一存び完全なる沈款に陥つた預▲一・=常の
叫びが、何故再び、猫り一二輩の口舌を通じてのみたらす、賓に八1−ヒ紀の成遺にも敢て劣らぎろ多故の偉大なる
人々によつて混褐せらるるに至ったかの串情は、素より罷に偶然の常葦と認むべきではなくして、暗里蒔代の汚
名む正常に情する専燕暴虐たる政穐に終始した沼≠数十隼に及ぶマナセ、及びこれた踏製横川したそのチアキン
常時の時代恥柿、並に此の画王の1世路七計ろげてヨシアの時代となるに及び、先王原動時代の救治が如何に努め 脚
られ一成咄東めら恕肴町雌努怒頭四uづづ=訝づ1池離≠直感鴨殉職働蘭噂溺劉仙川劇閻制覇
凋・冊嘲
言者の幣策を喚起刺棟する何等か特異の危横を住みつ?あつたのでたかつたか等、種々の外面的強面に説明の根
掠を求むることにょつて初抄てよく其の尾田を明かにすることが旧来るのである。
私は故にこれらの一般的問題を汎論することを控えて、マナセ、アモンの時代に限り、何故預言者の運動が一
時長く地上より影を答めたかの原因恕尋求すると共に、第七世紀後年中期の預言運動が、如何に常時の封外囲係
にょつて強く刺戟せられ促進せられて再起するに至ったかの事情、並びにこれに封する預言者の態度封策は如何
たる内容いむのであつたかの問題をば、現に一二の純正撃一日者のそれについて尋ねて見たいと思ふ。素より第七
≠紀末期に於いては、これらの純正預言者の外にも、魯文献的預言者として聖典中にその預言を保有せられなが
ら、しかもその内容に於いては、これと相封航する民衆阿俗の預言者として、石橋博士によりその位置を立話確
圧制い笹峠下に僅かれたる預言滞如い地†推力に北いて
への反動として、漸く意義づけFJれ得るも〃に過ぎないか、h一、日盲くこれを故に取扱ふ課題山範園外に敬遠して
輯によるものとしてよりは、外患促迫の恐怖等に催喜一れて亡国障都の畏催すべき預言を侍燈相承し来った正統適
得る節撫きに非るも、此等両者の歴史的地位は、故に述べんとする純正預言者達の如く外離それ白身の直接の刺
接に外難の影轡として解絆し得ると共に、叉虹接的にも、封外一時の形勢事情が彼等の確信を某付けたと解樺し
民衆預言者、殊に直接ヱレミヤの如き、常時の反封派に封する反慣抗寧の意味む有す︵同上請書︶坤るが故に、間
年三月競、﹃イスラエルハ小数文化上のメシア思想の攣遷﹄第四編第二部︶、此等の預言者の預言は、純正警固の反
足せられたところの、ナフーム、ハバクックの如きがあり、︵﹃背約全書解題﹄附鋒琴一、=﹃史学雑誌﹄大正九
●
反動の重鷹下に筒かれたる預言運動の地下潜行に就いて
マナセ、アモンの暗黒時代に於ける預言者の沈款
置いて支障ないと考へるのである。
こ
既に述べた如く、紀元前第八世紀のイスラエルは琴富者の最も輝かしい黄金峠代であつて、従来の墓園的であ
った預言運動が純粋に個人化せられ、或はその大部分が光法的卜占巫術的性質を帯びて殆んど先倫理的段階に止
るもの多かつたものが完全に倫理化せられ、精神化せられたのは全く此の時代に始ること多言む要しない。しか
してその初めは、アセスとべテルの祭司アマジャとの問答艇酬︵﹃アキス書﹄七二〇1一七︶に暴露せられて
ゐる通少、運動は、時運と世相の非なるむ痛感した純情篤信にして餓火の如き怖熱を懐ける偶人が、古来の葉蘭
的若くは陣業酌預言ゐ倖統雰同気とは全く紺係なく、自ら鷹倒的威力む以て迫り来る納言を衷に感得し、紀封的
尤紳の辟示を身親しく感受することにょつて、全く突蟹的に猫り立ちして開始した純乎たる個人的運動吃外なら
なかつたのである。然るに此の新しり創始的な運動も廿年朴年と相続後屁せらるる問には、その内容と精神に於
いて更に一骨進化向上を示しっつも、なほ漸く組織化せられ俸統化せらるる勢を示したのであつて、7モス、ホ
ゼヤに於ては、彼等自らの外に、これに随喜しこれを支へその精神と主張む侍政経持して後代に流通せんとする
一人の周ぶも一人の輿賞も無く、叉彼等巨11らも放てこれた求めんともしなかったにも拘左す、イザヤに空っては
その偉大なる精細的迫力は、おのづから被れい周囲にこれむ随韮︰洞仰する従を吸引するわ感化力となつて現れ.
彼れも亦此の牡を壇己の論争として、既に早ぺより琉確約に恕品軍訓l練して之の渠虹多大の裟みむ喝したものの
仰さ
●
●■●●
如くであ一句り即ち童木ザ水音﹄八・⊥⊥ハ阻
誇詞をつかね扶雑をわが弗ナのうちに対バ一一べし
といひ、続いて
● ● ● ● ● ●
●
●
●
■
●
●
●
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
、
、
、
、
、
、
、
、
、
、
、
いま面をおほひてヤコブの家をかへりみ給はすといへども、我そのヱホバを待ち、そのヱホバを望みまつら
、
ん。硯よ、われとヱホバが我にたまひたるナ発とはイスラエルのうちの預兆なり、奇しき標なり。此はシオン
の山にいます萬軍のヱホバの輿へたまふ桝なり。
と云へるものい正しくこのことを推知せしむるものでなければたらぬ。ロバートソン・スミスは此の一文及び事
案の意義を最も重税し力説高調した単利の人で、其の著﹃イスラ
﹁此の小かな共同鰹の形成は宗教史上、一ケの新しい出来事であつて、此の時まで未だ何人も、凡ゆる国民的形
願より分離せられ、儀腔の共同途行によらず、唯紳の言草に封する信仰によつてのみ結ばれた同信の朋の囲慣を
夢想した者はなかつた。誠にそれは維=約完教に封する一ケの新しき時代の誕生を告ぐるものであり、致命観念の
膚初の教生を示す望芸あらた。それは精神的宗教が政治的生活の形態より解放せらるる第一歩であつた﹂と道
破してゐるが、預言者ミカの如きも、通例、スミスの所謂紳の言に封する信仰によってイザヤと結ばれた同信の
朋の一人で奉り、イザヤによって青春された弟子の随一に外ならないものの如く想像せられて為る。事茸側是く
、
、
で思つ、たせサれば、・イザヤの此の努力と感化によつて、純正な宗教倫理化運動としての聖口者の活動は、イザヤ
の後に於いて益々急速に畿達し弼々盛んに伸張し行くべき管であるのに、イザヤとミカとの其の行方知らぬ煎親
反動の韮陛下に置かれたる頂言邦扁㌫地下野付に就いて
肋
反動の津幡下に肯かれたろ瀬音運動の地下僻村に就いて
一六
の後に咋忽ちにして︹■姦㈹散掩彗の溶け果てたるが如く、久しきに亘つて誰一人として師の精神を代表し、或は
ナモス良木の侍統を奉じて、精神的宗教を骨張し、預言者の使命を発途せんとする者のなかつたのは甚だ奇怪な
市賓でなければならぬ。殊にイザヤの生涯の終末がその中に在ったでもあらうところの王マナセの時代は、一皮
び初期の倫理的純正預言者の奮闘によつて、少くとも民族的には、ヤーウェー一紳を奉じて他紳を顧みざること
がイスラエル民族に取っての唯一の正しき途なることが確認せられ、叉これら預言者の感化の下に多少共立った
ところの先代ヒゼキヤ王が、ヱルサレム神殿の異数的たアシラ像や民の尊信厚き偶像を破壊し宗儀の改革に先梗
をつけた︵﹃列王妃﹄下一八・四−五︶直後であるにも拘らず、反動大いに至って世は再び混沌たる異教的崇拝
横溢盛行の時代へと逆縛し、王自らの宗儀的嗜好は、革に預言者の如く、辟粛な聖にして正なる紳に紀封踪命す
る反儀撒的た精神的信仰によつては到底満足せらるべくもなく、異教的な或は年異教的な宗儀の豪華複雑に心牽
かれて、再び盛んに﹁バアルのために祭壇を築き、アシラ像を作り、且つ天の衆群を井みてこれに事へ﹂、﹁その
作りしアシラの銅像を殿立て﹂、﹁エホバの家の巾に数箇の祭埠を築き﹂、その﹁二つの庭に祭壇を築き﹂て小鬼犠
牲をすら復活し、王子を火中に投じた計りでたく、占卜魔術の類を好み、口寄せ卜笠師の類を甚だ厚遇した︵﹃列
王妃﹄下二一・三−七、﹃歴代志﹄三三・三1七︶と正史に記し侍へらるる時代を現出したのであるから、殊に
王府や槽力符を痛撃批判する猪突的勇菊を、最古の時代よりの蒋も特徴的な悼締約精神として赫つキ常とした現
言者にとづては、加是き時代こ圭托に其の錐錐む現して獅ナ奮陣縦横目れに活躍すべき温も時む紹たる好借の時
代でなければたらぬ。然るを警Ei者の寮化此較的最も伸びて、其の輿裳を生じ﹂顎骨者のギルーをすら軽み特つ 伽
に至つたであらうと侶せら料乱此の時代V此の潮音骨相革新にとつで鹿も意魂あ、町†懲秒漁連砂蹄躍こそ鹿部欄
待うるべ普此の時≠に、薔綺寂とし∴華中潜め、一人い㍑止づて王か政鞘と≠態ハ堕落を痛打反正せしめんとする
に、
玩甜∴∵丹峠下にm机かれたる頂∵渾酬い柚.﹁植わ﹁就いて
軋此い事茸に眞正面より解れたものはない。比較的最も時代の接近し努ものとしては、ヱレミヤの初年の..二義
冊
ュナは記してマナセの禿めに殺害せられたと倍へてゐる︵yebam。th告b︶。けれども正史の桝侍では、三口
一醍マナセは倦誼の上では苗木、預言者の徒裳を迫害し殺致した王と侍へられてゐる。イザヤの如きも、ミシ
のではなくて、更に一骨重大にして残虐な鷹制行焉の史寅を含蓄反映せるものであらう。
と記せる程である。故に罪無き者の血を以て固都を充すとは、恐らく唯完儀としての小鬼犠牲の事茸をのみ指す
ムのこの極よりかの極にまで盈せり︵﹃列王妃﹄二一二六︶
マナセはヱホバの目の前に悪をおこなひてユダに罪を犯させたる上に、また無事者の血を多く流してヱルサレ
執政粛でユれつたことに聞達ひなく、青史も王の功即を概折許にして、
ハ熊鹿方策の外に殆んど侍ふるものがない。唯何れにしても此の王は比頸妙き横虐無道な専制の暴君であり、恵
由来マナセの時代は暗黒時代と酒精せられる時代である丈けに、その治績は、以上列記した完儀に関する被れ
重大原因のあるあつて然るのでなければ到底理解山木ない謎であ匂に相違ない。
迷仁迷行を奨励助長したといふが如き、平穏安易なる事賓に撤由するのではなくて、何等か他に一骨積極的なる
者の出でなかつたのは最も不思議な現象といふべきであらう。これは単に迷信横行、≠違非にして、王自ら此の
ヽ
反動㌫重峠下に置かれたろ瀕言運動の地下潜行に就いて
一入
ユダよ、汝の紳は汝の邑の数に同じ︰⋮汝等の創は猛き獅子の如く汝等の預言者を滅せ少︵二・二八後年−三
〇︶
とあるのが、正しく此のマナセ時代の殺教を指す批判の詞せして推定せらるるも防があるだけである。事茸ヱレ
ミヤの右の個所は、マナセ、アモンの反動時代に最も相厳しき宗教界の賞状を封象とせるものの如く想像せらる
る計りでなく、又イスラエル・ユダの歴史の上では、申命記法の桝謂﹁惰りの預言者﹂は格別として︵﹃申命記﹄
一八・二〇︶、ヤーウニーの正統琴富者が、しかも集圃的一掃的に弾麒直られ殺致せられるが如き事茸は、他に桝
倦もなく、叉考へられもしないところでもあるから、ヱレミヤの言が、道徳的な強い比喩的表現ではなくして、
何等か眈成の史茸む指摘し非難せるものとすれば、そは他の如何たる時代の事賞であるよりも、マナセ時代の反
動虐政の生み即した悲劇と見撤すのが最も眞に近い見方であらう。それは兎も角として、これらの諸の理由や諸
侍誰其の他の文誇を併せ拗ふれば、その一つ一つは置場には比較的薄弱な詳接をしか値しないにしても、それら
を絶て綜合した全牌の上では可なり有力なものに特化し、マナセ時代に取られ芦預言者の徹底的澤願は殆んど否
定し得ない事茸の如く考へられるのであり、従来・の撃者の見解に於いても亦之れを疑ふ者殆んど絶無なるに近い
状態であるのは誠に由れある事柄であると云はなければたらたい。時代の反理
些一なる活舞茎とすべき琴富者、しかも鴬政審推力肯或は俗衆の少々ハ︰迫嘗弼嘩︼]、何等彼等燭往巴県境た押ぐ
に足りL十、追富加って共〃気力わハサ倍加するた常とする預.■:=者、如是き性質を持った預言者の敷と勢力とが、イ
ザヤを中心としてl骨相加躍進tた︷僻する外なき此の時代転、イザヤの受難は且らや槽骨﹂倦詮の備ふるがや
冊
うた預言者徒旅の打倒暴投の如ヰ一大叩明大迫宰がなくぼ、彼等は断じてその矛モ収め〓敵組して沌激するもので
はないのである。
1鋸
7
マナセの斯様な宗教政策は、先王、ヒゼキヤの完儀改革の試みに対する反動として、これを嫌悲し呪岨し或は共
靡に不利益を感する反封的勢力の接頭結成と、其の若衆陰謀の成功を意味すると共に、文王の宗教的認識と其の
性格嗜好及び信仰が、自ら此の反封勢力の支持若くは使喉と合硯一致しての結果でもあらうが、叉一つには常時
の国際情勢、殊にユダの封アッシリア関係に感化刺戟せられた飴俵なき現象とも考へられるのであつて、バール
ヤアシュラの崇拝はカナーン侵入以来の苗俗習信の復興なること疑ひなきも、﹃列王妃﹄等の所謂﹁天の衆群﹂の
崇拝は明かにバビロニア、アッシリアの完俵の移植であり、﹃宿代志﹄が此の崇拝儀漕がヱルサレムの神殿境内に
杵試せられた祭壇に於いて行はれたことを記してゐる︵下三三・五︶のは恐らく﹃列王妃﹄の記載に軟けたると
ヽヽヽ︳■ ころを事茸む以て祁正したものであるに違ひない。
抑ユダの圃は、先王ヒゼキアの末年に襲ひ来ったアッシサアの大王センナケリブ︵七〇五−六八一︶の西征に
よつて重大な致命的打撃を受けた。大王の軍は七〇二年バビ。ニアを打ってメ。ダック・バラダンの軍を放り、
敵勢は吏貯西に伸びて、翌年シドン、アシケロンを初めとするフエ.ニキア、ペリシテ、パレスティナ地方の諸小
邦は破竹の勢を以て進照し来る大王の軍の前に悉く征服操潤せられ、ユダの閥亦其の領土と諸邑の大牛を荒掠せ
られて、国都ヱルサレムも亦重岡に陥り、これが陥落は単に時口の問題にして、国家王都は正に風前の燈なるか
に見えたのであつた。然るに、さしもに危よ存亡む井=げ㍗此のユダ及びヱルサレムい一躍命も∵異に偶然示可思議
夜勤の笹岬卜に擢かルたる頂∴詳勅の抽卜汀右に放いて
反動の市郎下に置か.㌣−′ろ斬言運動の地下滞けに就いて
ニ0・
たる犬砧によつて危く破滅の悲劇より救はるることが出来た。その原因は種々に臆測されてゐるが、兎に角、大
王の重岡は、何等かの理由によつて突如として解かれ、アッシリア軍は忽ちにして悉く本国に向つて引き上げて
仕舞ったのである。かくの如くにして、滅亡の一歩手前迄追ひつめられつつも、不同直読に、自力ならぬ偶然の他
力によつて一拳に好輯快復したユダの開運ではあつたが、併しそれが薦のに蒙り受けたユダの傷痍は仲々に深く、
到底再び完全に治癒さるべき横あるべしとも見えぬ大いたるものであつた。アッシワァ軍の勢威の凄じき、ユダ
の国土は殆んど靡墟と攣するまでに踏み荒され、王は放る重里見税む之れに納れなければならなかつた。此の状
態は六九五・六年の頃、ヒゼキヤに次いでユダに君臨するに至った、治世五十徐年の長きに及ぶマナそ王の時代
にも、其の依存摸した。元来此の常時のアッシリアは其の輝かしい覇樵の歴史中に於いても、潜も輝かしい極盛
期に際合してゐたのであつて、センナケリブの嗣、アサルハッドン︵六八一1六六八︶は、前後三回迄エジプト
を遠征して西方諸邦を悉く切り従へ、そのチアッシュルバニ。ハル︵六六八−六二六︶も亦、三度び填及侵略む敢
行し、その第二同日のそれ︵六六三或■竺ハ六一︶に於いては、その首轡アーべをすら陥るる程の大勝を博するこ
とが出奔たのであつた。マナセがこれらの諮王に臣従の祀を取り、多大の貢を納れなければたらなかつたことは、
und
dasA−te
Testaヨent︸SS.∽泣−・∽賀︶ので、シヤール・ジ7ンの物した﹃
聖巷にけ何等俸ふるところ無いけれども、却ってアッシリアの記録には匿然と媒されてゐる︵Schrader−Die
Ke已nschriftelJ
ハ聖班‖わ還境﹄に堺げてゐろアッシュルバニパル王の囲憶測丈の綱諸に徹しても、√大王は攻及遠征のことを記し
た後に
i軍手
紳7ッシェルと女御イシュタルは、填及及びエチオビヤへの脱が邁啓畝導き絶へ町d騰が嘩祇頑迷速虻放いで・雌
︼7一
︵mins巴▼なるものを奉
服に隷属する什へ人なる、清掃、溢中、及び陣土の≠二わ諦‡は、その軍き鳥納た献に賛し、舵の納足に接吻
せり
と誇栴しながら、廿二王の名を列饗した中、其の第二に、ヤウヅ︵laudu︶の王ミンセ
げてゐる︵C官r12S・﹃・Jean、Lemi−i211bib︼iqu2aくantI紛us・C巨st、く○︼.戸pp.∽○00ー∽Oe が
くユダ〃我がマナセ王に外たらないのである。
これ左わ記雉から推定するに、ユダがそれへ臣従隷威することを飴依なくされたところの、アッシリアの風俗
や宗儀が軽々としてユダに流れ入つたことは、そのままでも寧ろ自然な勢であるのに、加へて、王の信仰と反
復古派の好倍や志向にも適合するととろから、益其の勢を近しうするに至つたのであらうととは想像に難くない
事賓である。のみならす此の時代は箪にアッシリアとの関係丈けでは塞きず、攻及やフェニキヤ、キプルス地
の諸小国との交渉往来繁く、異園の風物の渡来と移柿とは到底これを阻止せんとするも能はぎるせ運に際合し
ゐたのであつた。マナセが、そのチにして被れに次いで王位に登つた太子に封して、嘆及の都テーベ︵ノ・アモ
ン︶の偉大なる太陽神の名を取つてアモンと命名したことは、被れの異数崇拝を喜んだ事茸を暗示するものであ
り、アモン叉、生涯其の名を吏めなかつたといふ事寒は、被れの時代が父王マナセと轍を同じうする依然たる反
動時代の相繚であつたと共に、王の仁仰が何物に繋がれてゐたかを示す顕著な一許でなければた圭扶い=
如是き混沌たるハ▲小数界の託情は反動的勢力に収って廿遠ゝ・議てあつたらうけれども、純11三甲=宵・㌫盛、及び
圧制二∵叩峠下に町田かトたス伸予=叩酬い地†宮′〓に就いT
反動の蛋駆下に置かれたる預言運動の柚下潜行に就いて
二二
その感化を受けて衷心縮かにこれがシンパを以て任じた人々にとつては、誠に悲憤憤慨に堪えざる遣る瀬なき時
代であつたに相違ない。預言者ミカ其の人の言葉には非ざるも.﹃ミカ苔﹄の終りには、多くの聾者によつて此の
時代から侍へ残された文献と推定せられてゐるところの、貴重な一握りわ記録が挿入せられてゐる︵六・一−七・
六。Weごhausen−His−OryOニsra2−andJudOhこ筆∽ら亡害イスラエル宗教文化整丸川仁夫氏諜一望
倍バ﹂トン﹃イそフエルの宗教﹄、一一六参照︶。その中に種々のおぞましき宗儀の賓践を否定し、最も純粋な
宗教を規定して、
我、ヱホバの前に何をもちゆきて高き紳を押せん。熔祭の物、および菖歳の墳をもてその前にいたるべきか。
ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ
ヱホバ数千の牡羊、百流の油を悦びたまはんか。我慾のためにわが長子社殿げんか。我霊魂の罪のために我身
の露見献げんか。人よ、被さきに善事の何たるを汝に普げたり。ヱホバの汝に安めたまふ事は、唯正義を行ひ、
憐憫を愛し、謙遜りて汝の紳とともに歩むことならすや︵六・六−八︶
と主張したのは、即ち常時の預言者的精神が、輿裳を代表して、無限に特落勅願し行く教界の浅間しき姿に封し
てなした、意味深長なる批判であゎ自己主張であると共に、又最後に
汝ら伴侶を信する勿れ、朋友む悼むなかれ。汝の懐の申に應める布にむかひても汝の口の戸を守れ。男子は父
を教組しめ、女子は母に背き、姐は他に背かん。人の敵はその家の者なるべし︵七・冗⊥ハ︶
と恐るべき予=キ吐露してゐるのは、‡の虐政圧ハわ極に通して、不義・骨爪・栗切り・密骨わ獅囲に満ち、人に代
♪U. なく、近しき対と即互に精髄瞥城の心を寸刻も忽がせにするー﹂との川東なかった俊惨極まカなきせ潤む幡落する 押
ものであり、叉以て鱒一−−=者及びその徒が、如何に埴モモの知友によつて裳切られ、肯頚億刑せらるるわ背き君臨
を持たねばならなかつたかを暗示するに足るものがあるであらう。
甘 7
世情凡そ如是くであつたが故に、仮令如何に豪気晃年なる聖一着及びその一味の者ど緋、かかる
荒しには到底正面より抗することが出来す、さればとて、それが預言者的精神と理想の上に立ち、
響の下に香はれた者であればある丈け、≠相のかかる朗動堕落、清新の窺の全く失はれた有様を見
れを獣組傍観するに忍びす、故に一方法を実刑して地下潜行の戦術に隠れ﹂預言者の心を心して理
案し、示己を後代子孫のせにまつべく、草稿を神殿の壁中に隠屡し置きたるが、後にヨシアの時代
ちれて図法として採用畿布せられた申命記法そのものであると考へられるのであつて、多くの聾者
の書き下された時代を、マナセ或はアモンの反動時代と想定するに一致してゐる。凡そ新棟た二囲
に自由寛容の博大なる理想や精紳更に無くして、低俗偏狭愚昧野班なる反動の荒しのみ時を得顔に
論は悉く弾整せられ、露はたる暴力と、隅劣なる威燃や告訴、並に怪文書の数々のみ徒らに跳梁放
拳げて無限に陰欝な客気に鎖され、鰊智と不正の暴贋下に推し拉がれて気息奄竺.民に生色たく、智者叉黙して
マナセ特向の研侍と其の検討
語らぎる何庭かの囲の悲しむべき現状と一味相通する性質がないであらうか。
三
以上はイスラエルニダの正史の資料と雷望一口著わ文献と近世に至って後見.せられ・た楔形文書の勢竺畏Ⅴむ材料L
巨拙▼︰布陣卜に許⋮かル〃る河東ル一助の地†1什■〓﹂雄いて
反動の重殿下に置かれたろ璽告澤勧の地下野付に就いて
二晩
して、マナセ、アモンの∴晰黒斥動時代わ情勢一般と、それが預言者及び預言運動の上に及ぼした教具を概観
の㌔ぁるが、因みに聖書中比較的後代の史粟であると認められてゐるところの﹃歴代志略﹄三三には、その前
に於いては大略﹃列王妃﹄の研侍を共催踏襲しっつ、其の後年に至つて︵十一節以下︶﹃列王紀﹄には全く紋如し
た新しい耶茸を俸へてゐる。即ち同書は、此の箇所に至つて、マナセ王の時代にアッシワァ軍の再びユダに未
したことと、而して王がアッシリア軍の薦めに捕へられ、釣と足械の辱しめを受けて、バビロンに造られ患難
受けたこと、及び其れが薦めにJさしもにイスラエル・ユダの紳ヤーウェ一に不信を極めたマナセも、痛く往事
む悔ひてヤークェーの正常信仰に復鐸し、囚はれの地より故国に許され踪るに及んでは、首都と地方諸邑の防
を問うした外、進んでヱルサレムの神殿及び市中より異数的神々の崇拝並びに其の祭場偶像等を清掃し、吏め
ヤーウェーの聖垣を修覆し、故に酬恩祭と感謝祭の供犠を営むと同時に、叉国民に合して、ヤーウニーを彼等
紳として奉戴信仰すべく論告したことを侍へてゐる。この数倍は、然し、﹃列王妃﹄記者の全然興り知らざり
ころのもので、如何なる資料に基いてのものであるか全く判明しない。アッシリアの記録にも此の鮎を明示し
ものもなければ一暗示したものさへ見出されないのであ▲る。一鰐アッシリア軍に捕へられたと述べながら、
送された場所をバビロン杯と記すことが、眈に場所錯誤たるのみならず叉時代錯誤でもあつて、此の記事が単
記者の筆先きで提ぬ上げられた架室な記述に過ぎす、何等生きた史葦に立脚したものでないことをそれ白り曝
するもの■でなければたらない。シニフーダーは、アッシュルバニパル王の兄弟で六四八年より六E七年に至るm
バゼけンに融王たりしシャマシュ・シュムキンが、アッシ∴リアの文鼓の停ふる如く、西方緒小邦女優凌しモアッ⋮旧叩
のであるが、これ
シェルパニ.ハルに叛かしめた際、ヤナセがこの謀戊に加つたか或は其の嫌碗を受け顆がために、王の催すところ
とた少、捕関わ地も特にバビロンとせられたかの如く解してゐる︵前掲の害三六云−〓七二︶
㈲
ぐ︰
は棍描甚だ薄射た畠左る臆詮であつて、右のアッシリアの記録にも、マナセがアッシリヤ軍に捕へられたことに
関しては何等記すところがないのである。然るにピータースは此のシ㌦ラーダーと殆んど同様た推定の上に立
ち、﹃歴代志﹄の記述を正史の事寛と認めて、マナセ王の信仰及び宗教政策の轄向について論じ乍ら、しかも王
の子アモンの時、アモソが敵裳の陰謀の血祭りとなつて就せられ、そのチョシアが代って王位に登ったことをば、
マナセの封アッシリア政策の失敗の薦め、若くは異数風を奨励復活せしめた共の本来の宗教政策に封する反感の
ために、ヤーウニーの純正預言者の感化を強く受けてゐた徒寛が、マナセの反動精神とその政策を手本としてそ
のままこれを堰承し貴行したアモンに反感を懐いて取ったところの非常手段が成功した結果であつて、ヨシアは
即ち父組両王とは反封に、純正預言者某に同情するそれの支持者であつたがためである杯と頗る穿った説明を下
して得意の風がある︵﹃ヘブル人の宗教﹄二五六︶。けれども此の説明には甚だしい矛盾が含まれてゐるので、若
し彼れの如く﹃歴代志﹄の記述払史茸と解絆すれば、マナセのヤーウニ一致への轄向復踪をも亦、勿論、事寛と
認定しなければ息らない筈であるが、兆して然らばアモンの悲惨な末路は、先王の政策をそのまま踏襲したがた
めではなくして、却りて、.被れが父王の新政寛に従はす、依然曹政策を取ったといはんよりも寧ろこれに邁拝し
たがためであると説明しなければ清浄が一貫しない。ピータースの所論の此の手落ちは、借りに笹純な言葉㌫問
題であり、詮明不足に過ぎないとしても、そのh莞刷の根底す一なす史椚〃歴史性に封する認識は、然し佃、到底展
反動の笹駆†に置かれたろ鱒﹁‖揮別の地下酢′付に就いて
反動の重腔下k置かれた†預言運動の地下潜行に就いて
二六
なりと認むるを得す、氏の推定は有理性を放くこと頗る大なるものがあると許する外はないのでぁって、.マナセ
の特向は、.﹃歴代志﹄所侍の如くば、王及びユダの名啓や照面と甚だ密接潅関係があり、引いては鴛政策に固執す
る腐鼎惹き超さるべき国家将来の運命に封する見透しと緊密に相関聯しての悔悟であり轄向であると認めざるを
得ないのでやるから、アモンに異教的信仰への再韓向があつたとすれば、そは飴程の強い確信と理由とに基く庵
のでなければならなかつた筈であるにも拘らず、﹃歴代志﹄も何等首肯するに足るべき其の問の事情を倦へす、
一
﹃列王紀﹄も亦このことに閲して少しの暗示を輿へるところなくて、却って王の政治は、.俗に於いても宗教に関
心て.も、父王の逢そのままであつたことを述べてをる︵二一二﹁○−二二︶に過ぎないのは甚だ怪訝に堪えない
Jヱろである。のみならす、常識的に判断しても、一国に於ける宗教政策の如是き目まぐるしき輯奨が、あり得
べ一き事寛一は到底認必難いところで庭なからうか。それ故以上にあげた﹃歴代志﹄の桝俸は、何等か特別な必要
と理由の下に、記者によつて創作せられた架茎の事葦であるに相違ないので、ピークの如きはこれを以下の如く
解絆してゐる。日く、﹃胚代志﹄記すところの王マナセのバビロンへの幽囚は、彼の時代に起ったユダの慶史の最
が、抑と此の筆法七以てすれば、如是き国東民族わ悲惨事
大事攣であるところのパピロ一二ノの捕囚は㍍望一口者達によつて蜃とマナセの犯した罪の報ひと批判せられ・てゐる
︵﹃列王紀﹄下二三三六ノー二七、二月・二−四等々︶
ヽヽヽヽ
を招く原因を作り〓した其の常の犯人が自うも同様にバビロンへ捕はれて悲惨径鱒命を惜博すろぃでたくては天
道甚だ公†む放き、柵の正義に反すると考へられたこtLと、二つにはマナセの如き極悪探革の般大恋人が、何等
正しき理由もなくて五十有飴年の長き叱.思って天下鱒君鰯し.▼牽ので恵、.七生竺入h蒜寄軽真言の拠︰賢﹂、こ
rJO
れには何等か特珊の青草が、甘腐の珊櫛挑珊雌y‖感珊憫繁簡借用戦慄推峨貸借灘鰯劇葡報望儒惚
瑠
]ワ・一
王の統治〃異常な良さを溝田化するた拾に、自らの無傑的刊紺㍗≠軒、化して、被れの情改遷幸上根作したわ
息らないであらう.と︵ヘスティングス﹃聖書離典﹄琴三二二九−二三〇︶。
此の詮穿ち得て最も妙。叉以て﹃歴代志﹄記者の特性の一斑をも窺知せしむるに足るものがあると許すべき
あらうか。
追記、此の小論の目的は、賓はスキダイ族の侵入が預言者に及ぼした影響について述ぶるを本旨とすうものではある・が1紙
の郡誌政策の餌めに外ならないもであつて、本論は引き絞き次の機偏に遺‖lを夏めて叙することと七度い。
数の都合にょり、今岡は、その前払としてのアナマ、アモン時代に於ける預言運動の中断の問題丈けに
した。表題は恰も弼立の論文なるかの如き健裁のものとなつてはゐるけれども、それは空言骨頂すれば
反動の賽軸下に置かれたる預言運動の地下洒直に就いて
支那僻放出刑力蝦行宮に封す・︺課題
支那偶数初期の腰若経に封ザる課題
梶
芳
光
蓮
般若経は支部に侍課された大乗経典のうちで最も早き時期に屠するものゝ一つであり、而もそれは他
て最も研究せられたものであることは最近字非教授の﹁支那併教初期の般若研究﹂として蟄表せられた
っても知られるのである。然し今此鹿に偶れようとするものは﹁般若研究﹂喜ひ換へれば専ら﹁経の内
ての研究ではなくして、侍課せられた経そのものが如何なる存在の意義を有したか即ち脛の存在に封し
る問題が課せられ、従ってそれを課題として支那例数初期に於いて如何様に展開したかと云ふ事である
れが爾後の支部俳教或は印度沸教乃至は現茸の我々に封して如何なる意味を有するものであるかをも合
せんとするに因んで、此慶に﹁支那併教初期の般若経に封する課題﹂と云ふのである。
∵
先づ第一に此磨では最も早く課された﹃道行般若経﹄の翻諸に就いて述べなければならない。何とな
の詩経者として額げられる朱士行の研究し講じたものはこの追行般荒であるが、然しそり底本に就いて
港本と云ひ或は十巻本とも耕せられてゐるからで盾る。即ち逆行緻若は天竺の抄椚監制紗那梵鉢巻忙医
︵一︶
桓帝の世に東湖し、これと前後して兼安した風発の克憂義盛認懲耶魂義勝ぺ。議牒彗苛mⅧ牒凋瑚欄Ⅶ
藁帝の≠に浦山て諾成れるもわであると云はれる。かくわ如く二人共謀と云はれ空車も、他方辟錐のとでは二人
︵二︶
が別時に︰一で一れ′川1一本づ1を諸出したとも鋒せられ、或は現代に至つては、そのうちの現存の十巻本が支識め鐸.
朝であり、他の一本は二人共諸に成るものであるとも言はれてゐる。
そのうち控錬に就いて■.=ふたらば、先づ竺朔俳が﹃道行控﹄一巻を諾し次いで支識が﹃追行品﹄として十巻を謂出
したとも、或は文識先づ諾し、次いで竺朔怖が一巻本を諾したとも云はれて、此塵にまた前Ⅲ後出の紺係が節々
としてゐる〃である。然らばその何れが前諾後出であるか、或些一人別謂でなくて共謀であるか、共謀としても
一本であるか二本であつたか、これ等の矛盾が取り去られなければならない。
それで先づ二人別刑としてその繹ル年時を見るに、硯存の﹃道安鋒﹄から些一本の諜出年時が窟はれないが、
爾後の控録に於いては一巻本と十巻本との謂出の前諾後出に就いて矛盾が存する。無論一巻本を竺朔俳とし十巻
雷光竺年十月八日義撃
霞帝時竺朔俳澤
本を支識諒とすることには相違はないが、第lに﹃出三森記集﹄に依るならば、
追行経一巻
道行品苧巻
となつてゐるから、一は漫然と墓前時に規定せられたものであつて、これによつて何れが第一出であり第二〓で
嘉中元年叩膵竺胡桃見朱士行漠録及三蔵記
あるかは明僚には看取旧来ないのである。然るに﹃歴代三貧紀﹄や﹃内典鋒﹄等には
遣行紆一怨
支那彿敏和期の般若経に封する諜飽
用l
羞二年十月八口蓋
支那彿数和知の般若経に封する課題
逆行軍容
せられてゐるから、一巻本が先づ嘉中元年︵一七l一︶に諾され、次いで十巻本が光和二年︵一七九︶に繹されたこ
とになるが、二控錬共に拳ぐる輿接としての﹃出三織記集﹄に望恭平元年とする詮は見常らない。けれども兎
光和二年十月八日〓、見控後記朱士行漢鋒恰祓録等。
二本の前後関係はこれによつて明かになつたのである。然るに﹃踊元録﹄等になれば、
逆行経一巻
光和二年七月八口出、見敏鮪二鋒。
○ハ︶
︵五︶
逆行経十巻
となつてゐる。これは.﹃貞元鋒﹄も共に同じであるから、此麿に至つて十巻本が先に諾出され、次いで一巻本
が出でたことになり、正に前の㌍錬と二本の前詳後出は逆になるのである。けれども﹃歴代三賓紀﹄以下すべて
の控錬の此ハ按となるところは﹃担二藤記集﹄であることは、皆等しく明言してゐるところであるから、これに依
って﹃坦二蔵記集﹄に潮漉して考へることが出来る。沸渡すれば十巻本は明かに光和二年十月八日であるから
﹃閃元鋒﹄、﹃貞元錬﹄等の七月八日とするは誤りとなる。然らば一巻本十巻本の二本は同年同日の諜Hとなる。
更に﹃歴代三賓紀﹄や﹃内此ハ鋒﹄の言ふ一巻本嘉中元年はその出典とする﹃出三蔵記集﹄には見苦らないとすれ
ば、朱士行漢鋒に依つたものか、然しかくの如き群銀は無論現存してゐるのではないから、不明である。従つて
−
それが
﹃開元鋒﹄等より還元して同年同日の諾出としての二木の作木となるか。旬論閃元錐等わ十日が七り遍ったの
︵七︺
ー一膝不合理l考へたなちばそれ嘉漉す葛のが自然や鬼患わ准であらう・。然しをれ鞋掲と
は七が十に識鳥され易かつたとも云はれるであ■らうが、一巻本と十巻本との二粁の同年同日の詳〓を
可能ではあらうが
,1〟
に尋ね、れくして二本とするか或は﹃藤代三茸紀﹄等の嘗ぷ東出後酢劇二嘩むず説かり何州‖琳“唱歌乱砂場載忍●
かくの如く考へるた㍉ば二木右裾いオ爪︰竺應解附されろぃでキUがた腔∴い何れに仕ろ∵きかけ決定せられ
ないのである。従ってその何れの控錬も興接を﹃些二赦記集﹄に求めてゐるのであるから、檜前に迄働漉して考
へなければならない。然らば共庭に先づ矛盾と考へられるものは道安の序及び詫を下したものが茸にこの﹃追行
控﹄一巻本であるとせられることである。典してこの序註は遺行紅一巻本に封するものであつたかどうか。先づ
㌍岨
法
︵八︶
︵九︶
序註に就いて見、それと必然的紺係に置かるゝ﹃追行繹﹄一巻本に及び、次いで﹃道術粁﹄十巻本む窺ふこと1
遣行控一巻
すー㌔第一の序託と遣行控一巻本とに就いては﹃H三蔵記集﹄には、
・
由是般若願石首尾隠者。古賢諭之、綻往石澤。仕行恥此、尋米英本、到子閻力待。
と云はれてゐるから、朱士行はこの一巻本を読みて大品を求めむとしたものと云はなければならない。これを一
巻本とすれば、それは竺朔仰が郡謂時に常つて抄出したところの控抄と老へられなければたらない。然らば、朱
士行がそのもとを諒ぬべき直接の理由はその胡本であるべきで、それから大品を求むべき必然的理由は後見せら
れない。それ政道安の﹁道行厩有首尾隠者﹂と云ふのは翻諾時に雷つて梵本から支那諸本への欄ぎの難きを言ふ
与しても、必ずしも郡諜時の控抄抄撮を意味するものではなく、寧ろ道行品が眈に九十童の抄経たることそのこ
とにも師係するのである。これは支造林の﹃大小品封此要抄序﹄中に小品を許して
支那沸教初期の般若経に射する課恩
支購伸東西期の轍差.踏に対する課題
戌取共和要、靡北ハ後致、或笠攻轟㌫、倒基首尾、戎散在群‖⋮、略撮玄要。時有此事、帝互不同。
︵一〇︶
と云ふに依っても略ミ看取せられるであらうが、更に直接の符接となる道安のその﹃道行㌍序﹄中にも朱士行の
論じた逆行品を許して、
次に序託と十巻本との関係に就いては先づその十撃二十品退行品は竺朔俳の翻諜時に必ずしも経抄とせられた
であらう。
らなかつたことを言ふのであるから、朱士行の講じたものは正しくこの十撃二十品の道行品でなければならない
ある。鼎して然らば、道安のこの序のうちに朱士行が嘗てこれを論じその滞るところ必然大品を求めなければな
いて放光品と封此して検出し、その得香を論じその抄経たる道行品が正しく九十章の抄机たる所以を論じたので
のもとである九十茸にも閲聯して来てゐるのである。それ政道安はその首尾醸るゝところのものを澤木の上に於
と云うてゐるのであるから、首尾陰るゝ者ありとするのは既に抄本たるものより漢文へ侍諾する場合の楷ぎがそ
本置抄敢増税適。
恨無放光、何由解斯控乎。永謝先哲所蒙多夫。今某所見電解句下、始況硯首経隠硯届出経見異、鈴其得否、拳
●
ものではなく、反つてその原本が眈に九十重の抄授であつたことを知らなければならない。先づ便宜のため支道
是政肘小‖⋮者、参引王統、簡儲群冒、苓域布教、標
A 大小品封比婆抄序
遣行群序
馴梶田線外博満土砂九十牽焉逆行点。凝雲之珊憫俳郁 Ⅲ
B
杯の﹃大小品対比要抄序﹄巾のものと遣安の道行控序とを比較封照して理解に便ならしむることにすろ。
■
朝由譲.止名小品†而鋲唸清約二準星璽革癒頚組雄
謂束師l謙謹文。阻本修辞†輔苛知己敬恨丑晋、丁
用
俸。自非三連、胡能二得本線故乎。由是追行頗有首
明︰小雨標其倉、致棟宏統有研於理無抗、白非至瑞
不執
加其
飾旭。黙麗眈抄撮、合成薬指。許殊俗輿、諸人〓
明夫。︵慧詔宝。︶
尾隠者。毒諭之、往碧滞︵豊謂五五。︶
このうち一は小品の存立的憤倦む認め、他漉それを寧ろ認めないのであるから、その鮎からは異るも、二者共
小品は人品わ抄出であるから、それに通達することは困難であると云ふの揉同じである。それで若しこの道行
が榔滞時の抄刑であり、控抄であるとするならば、この表に依っても明かである如く、道安が竺朔俳の礪諾を
し丁一、﹁円本順行輯音、如己敬順撃■・‖、了不加飾也﹂と云ふことは如何に解さるべきであらうか。また
黙繹既抄揖、合成童指﹂と云ふのも九十茸のうちから三十品といふ﹁童指﹂を合成したと解さるべきであらう。
更にまた﹁自非三達、胡龍一一得本縁故乎﹂と稀するも遂に本の縁故を得るために九十董にも通達すべきことを
要求するものであり、若し通達しなければこれは眈に抄経であるから、その翻諾は至難と云ふべきであゎ、三不
易の中の一不易を得ることも難いと云ふのであらう。何となればの﹃道行脛序﹄中に於ける﹁晋殊俗異、諸人口
俸﹂云々は﹃些二赦記環﹄巻第五の新薬安公証経及難経志鋒第四の最初に常つて
然方言殊音、文質従異。繹胡篤晋、出井一人。或常胡而質晋。戎菩晋両夫備胡衆控浩然難以折巾。
し﹂道安の言が述べられてあり、昔殊俗累の結鼎、胡に華くして晋に悼はらす、平に溢︰くして胡に伸はらざ
い至難村述べて控に試せざるを待ざろ循衷を、二=ふのであるから、上掲﹃遣ゎ衰にに中の﹁背殊俗輿﹂以下と粕封
支那仰豆刷朋の舵廿−j籠に対する㌦鎚
支那沸教初期の般若緩に対する課題
して考へられるものである。然しその﹃逆行控序﹄申のものが﹁或菩胡而質晋。或善晋而末備胡の如き二国語の
相違とその俸諜の至難堅言ふもののみと相封せらるべきではない。何となれば﹃道行脛序﹄中には既に﹁特音如
己敬順寧言、了不加飾也﹂と云はれてゐるからである。されば此塵に本の縁故を得るために抄控の存立的意養に
就いても通達しすべきを考へなければならないであらう。然るに恰祓は上述の如く竺朔彿諜﹃逆行経﹄一巻を畢
B
恰商錬朱士行侍
ヽヽヽ
到千閲、乃得。造詣倉垣、出番放光品。
ヽ︳ヽ
げまた朱士行侍中にも録するが、その翻課そのものの事情に就いては道安と檜縮とには可成りの相温が認められ
ヽヽヽ
る今その差異を便宜の焉め対照するならば、
A 道行脛序
彿泥日。後外囲高士抄九十童禿遺行品。桓重之世初
初天竺朔俳以漢藁帝時、出道行控。諸人〓侍戎不領
軋抄撮而過。故意義首尾願有格擬。士行嘗於洛陽講小
ヽヽヽヽ
了不加飾也。然控眈抄撮、合成童指。青殊俗臭、諸人
品。往往不通。毎款此紆大乗之嬰、而諜理不塞。誓志
ヽ
俳督詣京師、諜焉漠女。田夫・順旨。稗音如己敬順聖言
口侍。自非三連、胡能一一得本縁故乎。由是遣行厩有
捕身、遠迎㌫︵地謡蛸五五、︶
ヽヽヽヽヽ
首尾隠者。古賢論之、往往有滞。仕行恥此、希求其木
と云ふ。その道行経とは檜前線からすれば一巻本を意味するものであらう。またその小品と云へるは十準二十品
れはないであウリか。また港の道安の﹃遣わ抑圧﹄を見るに﹁敬順撃∵=、了不知飾旭﹂と云ひ、拙いて﹁然絆眈抄
を指すものとも考へしめられる。然らばこの文から何れか一本を除去しなけれげ遺.安錐に対比して混乱た束寸恐
●
振合成牽指﹂と云ふのであるから原本が﹁既に﹂抄経であつたのであるが、この略称録に凍っては﹁成不囁、吼
捏金
ヽ
無論被が道
此虞に控の二重混在と抄撮に封する重大なる誤認と訂犯してゐ
ー
抄撤而過と云ふのであるから﹁胡諸時に於ける﹂抄謹む蛍味するととになつたのである。かくの如くばL﹁蓮の通
ー
り井士ゎには大口⋮む求むべき必然的理由はなかつたと云ふべきである。然らばこの﹃檜縮鋒﹄は
安の逆行控序から引用したものであらうから
ると云はなければならないのである。
支那沸教初期の般若恕に封すろ課超
る1のであるか。これに就いて先づ後の控錬や侍記がすべて供用するところの﹃坦二赦記隼﹄を見るに、
て竺朔俳謹とすべきか。それとも二人共謀とすべきか。更に竺朔俳と云はれる。道行紆﹁一巻本﹂は如何にせら
彙に皿少げた紅鋒に依るならば支識譲となる。然るにこの道行紆序には竺Ⅶ休講としてあるから、専らこれに則っ
かくの如くして、道安の序詫を附したものは道行控一巻本ではなくして十巻本であつたとすれば、無論ネれは
れるのである。
しく﹃追行品紆﹄十巻を指すものである。従ってこの序はその﹃道行品控﹄十巻本に附屠するものであると推定さ
即ち、この﹃追行控序1コのうちに於いて﹁於三十高言、共如醍甜菜乎﹂と云ひまた﹁道行品﹂と云ふのは、正
京師諜焉渡文。︵大正減紐五五。四七井中︶
蟹亡、謂之観也。明些行於三十寓言、共如醍諸萱乎。俳泥日後、外囲高十抄九十茸焉道行品。桓重之せ竺彿斎
従始喪意逮一切静﹂曲成決著八地軸⋮染、謂之智也。故日遠離也。三眈照葬四非明石、統鑑諸法国後成川、葵病
身のうちに入って推定を下すことにする。即ち、
′
然らば道安の序註を附したものは十撃二十品と解さるべきであるかどうか、我々は更に道安の﹃逆行許序﹄自
●
支郵彿欽初期の般丸正k和する課適
支識諜
竺朔彿諾
三六
ら号﹁遣行‖⋮﹂と柄してゐることである。小に就いて述ぶるところの﹁遣行晶﹂の表題が﹁逆行控﹂であるとす
れば、遊行紆は亦造安には逆行品と同名であつたに逸ひない。−尤もその岸﹄中の邁管川柳彿繹軍妄識魚
価
れに就いて先づ考へらるべきことは道安が﹃遇わ絆﹄序を書いてゐるその衣題が﹁遣ゎ麗﹂でありつ1、そのう
もあり、亦支識諜でもなければならない。然らば竺朔俳諾とせられる﹃道行控﹄は如何に廃置せらるべきか。こ
と云はれてゐたから、竺朔仰の方も道行品となるべきである。従って、繹名の上からは﹃逆行品﹄が竺朔俳諾で
外囲高士抄九十茸焉道行品。桓靂之世朔彿膏詣京師、諾番漢文。
序中には上掲の如ぺ、
とならたければならない。然し恰紡がこの倖記を著す典接となつたものは道安鋒であり、而もその道安の道行程
二、遺 行 経
一、般若道行品
かくの如く伶祓はl一人の俸記の條下に諾出の事情を述べてゐるから、
経意。朔又以墓前光和二年、於洛陽諾出般卑二昧控。時識焉俸言、河南洛陽孟栢張蓮華受。
︵一こ
沙門竺朔俳者、天竺人也。漠桓帝時亦密造行控東通弥陽じ帥特胡馬渡、諸人時滞錐有失旨、然粟文布質、深得
︳ヽヽ
公校紘古今、精尋文醒云、似識所出。凡此語群皆恵得本旨、了不加飾。可謂善宣法要弘道之土地。後不知閉経
帝光和小学之聞、倖諜胡文、刑般若逆行品首稗厳般舟三昧等三好。叉有阿聞世王賓稜十部控。以歳久無錬、安
ヽヽヽヽヽ
支諸本月支圃人也。操行淳深仕度閃襲、棄持法戎以精勤著柄。諷諦群経、志和宣蔭。漠桓帝末遊子洛陽、以靂
.
本はハ亦應然﹂に野廃せしめて前者の準甘⋮空華後者の金本を十復と考へ得ると一耳ふれ射知れな㌢然しその
道絞高が放光=⋮に封統的に置かれてゐること、遣わ晶ね﹁敬順警口﹂云々と栴してゐること及びこの序が一巻本
に附せられたものでないこと乃至﹁支識金本﹂の全本が光全なる本の意であるかどうか等これ等の理由から異
とすることは出来ないであらうー然るに何故彼が同一の虞に於いてかく異つた名栴を以って呼んだか。これに
就いては道安自身の読経及難控志鋒が﹃出三成記集﹄申に保持せられてゐる。そのうちに
根葉放光‖⋮者云々
迫霊草ム々︵語瑠五五。︶
品。
かくの如く大小二品を封眈的に並列する時には逆行品と解したのであり
と封舵的に並べてゐることである。更に今問題となつてゐる﹃逆行紆序﹄にも上摘の如く
ヽヽヽ
外囲高士抄九十軍馬遺行品詞霧之世朔俳懇話東師、諾馬渡文⋮⋮尋求共本、到千閑乃得。造詣倉垣、出盛放
ヽ
、、、、、、、、、ヽヽヽヽヽヽヽ
ヽヽヽ
一.▲‖ふ時には道行経と栴したのである。これは道安の﹃合放光光讃略解序﹄に就いて見るも、小品と封既約に言は
ない場合は放光と云ひ光讃と解して﹁品﹂を附してゐないことに依っても窺はれるのである。
従つて道安が﹁退行粁﹂序とする所以のものは、その昔尾m現する如来を#ら遣行それ白身に就いて明すので
あって、決して放光と封択的に並べてごふのではないとする意聞に因るものであらう。かくの如く考へるなら
封批的立場に立つか、或はそれ白身の宜場に立つか何れかの立場の利達に使って一紆が何れとも栴され得るこ
丈邪㈱飲用期の堆廿γ推に仰山すろ課也
支那彿数初期の般若経に謝する課題
三八
になるのである。従って経名の上から道安の﹃退行控序﹄中に慣別は見出されない笥である。にも拘らず掛紡が
このうちから、逆行経を竺朔彿澤とし、道行品と支識詳としたと考へるならば、・道安に於ける立場の相違を誤
した結果に依るものと云はなければならないであらう。而も恰蹄は道安が立場の相違に依る名栴の相違をその健
棒用して、上掲の如く﹁逆行経一巻﹂としてそのうちに﹁道行品者云云﹂と云ふが如く借用するに至った。此靡
に道安の立場が衛別されることなく、無批判に取入れられ、それ故立場の混乱を釆たすに至ったのである。
かくの如く檜前の告げる経名に依る二人別出の控は彼の認識の根披となつた道安に踪へれば、決してそれに依
って直別せられたものではなく立場の相違に従って或は追行品と云ひ乃至道行経と稀したのであつた。而も朱士
行が嘗て講じ、道安が序詫を附したもの針﹃道行控﹄十彗一十品でなければならなかつたから、控鋒の言ふ追行
経﹁一巻﹂本には決して附せられたものではなかつたのである。従ってその一巻本は十巻本でなければならない
野T
T正郎
とすれば、桑に許した二本存廉㌫理由は失はれるのである。而も﹃檜縮鋒﹄ほかすべての控鋒は道宥絆諾出に吉
っては竺朔仰が執本して支識が倖語の役を務めたと云ふから、二人共謀にたる一本となるであらう。
果して然らば恰舐は何故この一本を開いて二本とし一を道行品として支識に踪し、他む遺行監として竺朔俳諜
としたか。先づ第一に考へられるべきものは道安の宙糾した立場の誤認である。それは眈述の如く﹃檜縮錬﹄の
到る虞に見出さるし漁乱に依って知ることが出来るのである。そして次にこの混乱む助長したものは道安が道行
晶と云ひ遺行経と種しっ1共に巻敏澤時むそLに明示しなかつたことに因る。これは﹁里。成記隼‖︶雀第三の新
集安公失鐸経線第二に
■書ヾ
■■.【.−t
安錬誠佳、兢恨太簡い注〓㌍名撮題輌字、且不明巻数。け冊相接、後人倖鳥、各部混揉
乳。
ほ粟野肇琴葦準則描
と檜紡が失語控錬を編纂するに常って長嘆息を洩してゐることより推しても知られるのである。従ってそこに一
︵一三︶
っは逆行品十巻として支識諾とし、他は逆行経一巻として竺朔俳に踪し、またそれに道安の﹃葉異性﹄L巻を附
せしめた。その﹃集異注﹄を現今も多くの畢者によつて推測されてゐる如く、単なる控の﹁注﹂或は﹁解﹂と考
ヽヽヽ
へ、亦檜祓もしかく推定したとするならば、その附注の控は必然的に一巻本でなければならなかつたであらう。
支那沸教・叫期の般若㌍に封すろ押迫
に虚は道安の註控凡そ二十数巻を奉げてゐるが、そのうち
た▲けこれは占山型二歳記集﹄所載の新築安公証控及難控志鋒に依っても明瞭に窮取され得ることである。即ち、共
然性が窺はれるものである。然るにその道安の﹃集異注﹄は決して箪なる注でなかつたことは眈逃の通りであつ
かくの如く考へるならば檜紡が一本を開いて二本とし、而もその一を道行紆一巻としなければならなかつた必
と云って集異注の異を落して序注となしてしまつたのである。
追行控一巻安公云、通行口⋮絆者般若抄也。外囲高明者所撰。安公馬之序誌
と集異注を保持しっ1も他方
遊行品者般若抄也。俳去≠後、外囲高明者撰也。節句質複、首尾五億。焉葉異注一巻
から。されば﹃倍鮪鋒﹄には一方に於いて
何となれば、序は﹁追行控﹂に附された﹁序﹂であるし、またその注は一巻で完結されたものと考へたであらう
ヽ
専、那仲秋初期の姫浩紆に対する繰越
一﹁電解﹂凡十俸 +
二﹁焉注﹂或は﹁馬什注﹂凡八巻
ヽヽヽヽ
一二﹁焉燕異注﹂凡一怨
四﹁焉錬﹂凡二雀
五﹁雑﹂凡四巻
ヽヽヽ
右のうち第三の集異注は正しく今言ふ追行控のものであり、第二の﹁鴬注﹂或は﹁焉作注﹂は陰持入控等が奉げ
牟本其亦應然﹂・の認識に撼るもわであらうじ我々は此塵に毅後の結末をつけるためにも蚊はしくはあるが、碑び 餌
_r
妓後に一巻本を聞㌧﹁一その一を一巻抄本としたければたらなかつた理由は恐らく同じ道わ紆序申囲載の﹁交誼
す↓ヱル璧を後世に葬れたものであらう。mしいかたその何れも失はれたのではあるが。
ったに相違ないのであるし、また、その葉異注一食は﹃摩討鉢薙君波薙蜜控抄﹄と相並んで大小二品の理解に封
ら放光への好一を求めたであらうから、その立場は異るとも支造林の﹃大小品封此要抄﹄にも比すべきものであ
捻出し、小品の抄たる所以を明かにして置かぬばならないのであり、幸に我が同好の士の神威を乞ふと云うて専
′\彼の集異注はその序によつて推測すれば、抄控は人を害する桝必ず多かるべければ、放光と比較してその異を
支諌諾の大明度粁初品に在る注の如きものとはまぎれもなく相違したものであることを知らねばならない。恐ら
けである。従って、十肇二十品中の追行品の如き序品の言⋮に附せらるべき性質のものではなく、況して、現存
られてゐる。然しそれ等は﹁注﹂であつて﹁集輿注﹂ではなかつたことが、表題に依っても明瞭に看取されるわ
ヽ
B
摩詞鉢羅君波羅蟹軽抄
﹃道再繕序﹄の生む掲載し﹃摩討鉢雑著波雑演繹抄﹄の文と対比してその理解に傾ならしめなけれ甘なかない。潤
A 遣わ絆序
て邪伸雄刷期の般若組に封する課飽
抄敢増慧。章我同好飾其票也︵順皿諸鐙こ
俗有易。両州稚苗以通年時、一不易也。愚智天隔聖人
然無撒疹己天平︵聖謂桔︰︶
閃一
外域之嘉禽也。於九十昔滞然、無精疑庖。帯亡之m況
通者、則英知合符、厭如復折、乃見前人之深謬、欣通
下、始況硯首捧持硯尾、出繹見異、鈴其得否、容本許也。共有方∵古節、白馬解其下地。於常首尾相違句不
光何由解斯控乎。永謝先哲研蒙多夫。今集所見焉解旬邸研探恨斎場。近田此撮、欲不離推紆言旨、唯憾失茸
地。検其桝田事本終始。狗令新保砧紋厭無際。恨無放英。若夫以詩焉煩重、以荷鴬質朴、而刑令合今、則罵
仲之至誠也。安不量未撃。庶幾斯心載詠戟玩、未墜干叉薙支越、断覧之巧者也。巧則巧英。慣薮成而混沌終
本其亦應然。何者、抄控脚別所膏必多。委本綻聖、乃 桝敢知也。前人目標、支識≠高.来待梵本難繋着地。
是、難馬場英。二家桝田足令大智換爾、間幽。支識全開墾一己、倖令知命通耳。何復嫌大匠之得失乎。是乃未
佗。苦共悉文路頭三倍。青田錬生、謝基特巧。俸諾如渉故五失控三不易、諾楚焉秦、誼可不慣乎。正常以不
千圃乃得。迭庸介垣、出番放光晶。斥重省刑、持合腕此生死人面中平浩此。畳脾不知法斎勇乎。斯三不易也
尾隈盾。宕賢論之往往有滞一任行恥此、請求共本、到迭苔、今離千年而以近意量裁、彼阿羅漢乃珪癒奈此。
俸、日非三連、胡能二得本線故乎。由是逆行頗有首 易旭。阿新出控去彿米久、尊者大迦菓令五百六通迭察
了不加飾也。然控眈抄投合成竜指。音殊俗異、詩人口匡階、乃欲以千歳之上微言、俸使合百王之下末俗、二不
彿筋詣京師、諜焉漢文。囚本順旨、特音如己敬順m望一日
仰泥〓後、外囲し伯十抄九十茸焉遺行晶。桓蛋之≠明此五矢本也。然般若経三達之心覆面閉演、聖必固時
一−
支那沸教初期の般若経に封する課題
周ニ
Aの難名機英と云ふのは恰商銀巻第十三安玄倖下や高恰偉容第一支識俸下乃至開元鉢巻第一の厳俳調の傑には
﹁世稀安侯却尉俳調三人仲諜耽焉難棉。安公栴彿調出控省而不繁全本巧妙焉﹂ともあるが、Bの﹁支識、世高審得
シト 梵有難紫着地﹂及び﹁叉薙、支越、断堅之巧者也﹂と比較し、更にAの﹁難レ馬レ相実﹂と封照して薦難噌と謹むで同
意味に解すべきであらう。またBの難紫者也は長房鋒巷第八の同五失撃二不易引用文には難碓着地とするが同じ
意味であらう。兎も角これは二家即ち追行品と放光品との澤は巧みなれども巌矯にはその諜柴の至難なることを
述べて支識に及んだのである。この支識全本其應然左上の斥重省側或は下の抄醍醐偶に封疏せしむれば支識のを
より完全本と推定せられ得るでもあらう。然しそれは封離別立場に置かれたものではなくして、上或は下の脚省
に聯関するものである。何となれば、共亦應然とも言はれてゐるのであるから。若しかくの如く考へるならば、
それは必ずしも竺朔俳の造行品のみに聯閲するものではなくて、また放光品にも開聯するものである。
然らば支識金本む如何に考ふべきか。先づ初めに道安の言ふ抄経と控抄の意味の相違から考へて行かねばなら
ない。暴に屡ご述べた如く竺朔仰の課目せる控は部課時に廿凹つて勝手にその底本たる林凡木から﹁一巻本﹂として
抄州したもの、即ちその梵本の控から抄した所謂﹁控抄﹂ではでたかつた。若し竺朔彿諾の遣行晶む檜繭が考ふ
る如く遺安も亦瑚諜時に於いての一巻本抄州と考へたならば、道安はそれを逆行晶或は道行控とは稲せす、恐ら
ヽヽ
くまた遺行抄経と旦一日はすして﹁経抄﹂と編したであらう。何となれば、遺安の命名した﹃摩詞鉢羅眉波羅蜜控
抄﹄の西春を埠へて見よ。それは放北LL尤調∵Lに対比し、り一∵い〓∵∵汀ものは更〓しなかつたのである。即ち、
典故光光読同者無折衷出也。其二許諾人析漏者﹂随共矢庭稀而正焉。共轟典不知執走者、柵併而両存之。在任
−′■■ヽ
雷誹其下。凡四巷、北二紙二紙異音冊肌璃一巻、倉控五盈融篭︶
支那彿数初期の般若経に封すろ課題
るのである一箪に遺行口⋮のみを受け、それに封航して︰一山全本たることを意味したものではない。況して追行品
本の穫ぎ難きを待とも言ふが、支敏鹿が﹁越株識所譲者辟質多胡音、輿者胴而定之﹂と録するに根しても知り得
ぁらう。更にBに於いては﹁支識、埜柚、審得梵木酢蜃東壷﹂三三て
り、また道行品、放光品が共に抄粁であつて控抄でたいたらば、支識全本もそれに封する完全本とはならないで
かくして支識全木云々を考へるならば、それも亦抄控に関するものである。それが抄経と云はるべきものであ
の意味を異にするものでたければならない。
業であると云ふのであるから、その軍灼省別の鮎に就いて抄㌍と云はれるのであらう。然らば辟抄と抄控とはそ
ぐ恨むものも生すべくまた寮む失ふに至ることもあり柑るであらう。俸繹は慣簸であるべきに、かくの如く難事
即ち、重む省き煩を去る鮎に就いては忠賞なる部課とは云はれない。忠葦なる倖詳に非ざれば混沌として蓬に深
と言つてゐる。それは共に控抄ではないから遣安の言ふ三不易に祁常するが、五失控には該常するものである。
ならないと云ひ、放光H⋮をAに於いては﹁斥菜箸州令妹便﹂と稲し、Bに来つては﹁叉薙、支越、闘整之巧者也
品も共によく瑚課せられたものと稀しっゝ、他方遣行品は既に九十童の抄撮であるから、これに三達しなければ
然らば遺安は抄控を如何なる意味に使用したであらうか。先づ彼はAの如く竺朔彿謂の遣行晶も究士行の放光
以は底本たる胡本から勝手に祁諾したものであつたからである。
と云ふのであるから、かくして出来た五巻本は明かに九十茸の抄刑であつた。而もそれむ絆抄と彼が命名した所
7靡
支那彿妖初期の杵=仁終にHする課題
のみならす、政党品たも受けるとすれば、それ等に封する完全本は如何なる控であつたであらうか。かくの如
考へるならば、﹁支識全本其亦應然﹂と云ふのは、俸謂の難きを述べ、支諸に言及し、次いで抄控の宰する閉を
説いたのであるから、抄紆の鮎に就いてそれが言及されたものであつて、その全本が道行品を受けたものでもな
く、従って、必ずしも一本を指摘したものとは言はれないであらう。
我々は斯様に一巻本十巻本を先づ諾時に就いて歴代経線から潮瀕して考へ、次いで一巻本とそれに附せられた
﹃道安鋒﹄
の認識如何に依って起ったものであつた。
序注とを考へ、最後に認識の採り虞となつた道安鋒に及び、道安の現宣布在の文献から、遊行経一巻別出の理由
を窺つたのであり、それは支識合本或はその他すべて
と推定してもゐるが、これ亦道安鉦の認識如何に係はるものと云ふべきで
くして十重二十品二人北ハ諜の一木となつたのであるが、現今もこの二人共諾を認めつゝ、他に一人諾を許して
それを ﹃摩討般若波羅蜜紗痙﹄
︵一六︶
う。︵招く︶
誼
二九頁。
氾∵一成記施巻折二。大洋戚緒五五。六文中。
境野先件氏著﹃支那沸教史の研究﹄
上。
︵一︶ 望一勅記集客第七。遺行継後記。大正戒鯉五五。四七天下。及び出三赦記集客麓二三。支識停。大正赦経五五。九大文
( ′■ヽ
( ′■ヽ (
雅代∴雅紀塔軍門。大正蔵維四九。五二■一頓下。大悟内典経巻第一。大jl三成組五五。≡一元音声。
飢匪
闘一尤楷故銀鉱彿一。大正減雛五五。円七八∬下。及び囲八二宮中。
良元新定粁敬‖錬鞋節l。大証献雛五五。七七五貫下。及び偲節ニ。七七巽中。
六 三丘 円 三三 ニ
) ヽJ ) \J )
訟め、りルて㌣∴∵ル∴二
︵七︶ 美濃鬼順氏﹁友邦般丹心珊潜史鴇︼彿故研究箪八巻箪三雄。昭和二卑七牲録行。九蘭二耳及研埠ヨ、¶憩彗㈲触∵戦闘封動い∴雄雌いHl
級五五。ニ二門︰l1中。開−几腔.秋雄巻兢二〇 大正鵡継五五。四人二H申。
︵八し ▲川∴‖粧記憶巷算二。大正政経五五。六文中。歴代三亮紀巻塙由。大平描出四九。五三天下。大糟内此ハ錬客筋l。大正蔽
︵一〇︶ 大小晶封比婆抄仔。出三症記筏鈴鹿八。大正減継五五。五六冗中下。
︵九︶ 逆行締序。氾三赦記集客第七。大正︰拙雛五五。四七H中。
︵一二︶ 出三雑記性塔彿七。道行雑役記。大正弗継五五。閂七京下。及び同巷第一三。支歳憧。大正就経五五。九大天上。
︵一一︶ 出三躍記集客隼一三。大正就組五五。九五宮下・1九六天上。
形について﹄曹操離誌。昭和七年十月枕六九文−1七〇り只。
二三︶ 林H友次郎氏﹃般若小品の請出著に舐て﹄宗教研究斯印九令姉二班。八九#−1二〇ニ天。鈴木宗巾心氏﹃般若経の原
二四︶ 出三赦記集客策五。大正搬組五五。三九冥下。
︵一五︶ 出三必記集客策八。大正戒継五五。五二訳中。
そこには何故抄経とせられねばならたいかの必然性を石する資料を元Lてをられない。
叫止
︳
︵一六︶ 境野黄洋氏著﹃支那仰教史の研究﹄二九宮には二人二課として﹃沼行経﹄と﹃般若波維蜜抄紙﹄とせられてゐるが、
王邦彿放■周期の般.・け既に帰山すろ課題
神秘も我と邪悪の問題の一考察
頑秘主義と邪惑の問題の一考察
︵特にヨーガ思想ほ於ける無明弓idyaについて︶
岸
本
四六
,
英
夫
家には理論としてのみ布衣するものでたく、寛際にわ
普通の経験の境渥である。他の一つは神秘膿験の境地
神秘家は二つの世界を知つてゐる。その一つは日常
れ等は典つた櫻験の内容を有する二つの堆界である。
の両日があるのである。即ち言葉を換へて言へば、そ
の賛謹が理論や説明より先にある鹿に、紳秘家の本来
が身に於ける照験として知られてゐるのである。膿験
である。それ等の二つは両種豪達によつて、肉の≠界
第一の≠界にのみ生きるものは、神秘餞除の昧ひを
∴
と藁の≠界、硯寛の≠尭と理想の≠界、人の≠界と紳
知らない。眼前の現象の棒鎚に心を奪はれ、小我に囚
理的た思慮を最上のものと心得て、心の作川に幽玄な
の≠界、流棒の≠界と永恒の世界、等とよばれてゐる
﹁私は、私の巾に二つの渇望のあるのを見出した。
奥行きのあることに束付かない。これは苦しみ〃生活
はれ、その限られた≠界の中で喜怒京紫しでゐる。合
その一つは創られたるものを求め、そこに扶けと力
である。化い≠血一で釣ろり紳秘宏はも、iL庇は、ミ﹂う
ジョージ、フォックスがその日叙件の中に、
とを得ようと欲した。他の一つは柵、即ち刷り主と
した境粧わ申に生n立ったのであるが、やがて其鹿に
︵︶
絡はる我執や廃熱あ艶緬短観嵩廃ろ正吾志鼠温腐かち
その手イエス、キ1′ストとむ水損た。L
と云ってゐるその二つである。そしてそれ等は﹂紳秘
那肘
離脱しょうせ努力する。
第二い≠界、即ち紳秘開始の境地は、神秘家の希求
第一の≠界か、h節二の≠界に到一石長い険し︳路を一摩
々々と穿つて行くのが、彼等の隼雄か什㍊でぁろい併
界から俄かに白の≠界に到る様な唐突の肇化ではない
し第一の世界から第二の≠界にうつることは、黒の世
する層的の地である.。長い修行の経基として共庭に到
きかづ含
ると、﹁生命の衣服ごを飲み乾して新しい生命を得れと
紳祀家は、しばく至何の帥秘境地に於ける昭鞄を
それは、色の若いた祁を縄返へし繰返へし墜披か書目
るのである。心に素質的の挺化が生じ、控除む享受す
高調する。叉、一般にも、紳準王轟と云へばこの至向の
云ひ、﹁絶封の紳の光りの流れの中に入つた﹂と云ひ、
る熊旋が招ぢて来るのであるかと思はれる。心の新し
両種照験の境地のみの閃麓、即ち第二の≠界のみに限
して、次第に純nにヰく工程の様な、長い修行ハ視程
い脱が閃ける結英、今迄の愛憎の生活とその悩み焦し
られた問題として考へられる傾きがある。併し、人と
又、﹁無限と調和﹂すると神秘豪達が云つてゐろ様な、
さとは、新らしい角度から異つた趣きをもつて眺lめら
して先づ第一の≠界に生むうけた神秘家にとつて、そ
である。数々の詫敢絆蛤や神秘照瞼は、その過程の一
れ、心の応に、融和統一した安らかさが力強く流れは
れにも・劣らす粟要な問題は、常然如何にして均質の≠
新らしい境地が開けて来る。榊の抱擁を照験し、天国
じめるのである。第一の11ヒ界に於ける合理的な思慮は
界を超えてより高き境地に到るかと云ふことである。
駒々庚をたしてゐるのである。
それを必しも否定はしないが、それはその伍にしてお
柴アウステインが、﹁汝の美にょりて汝のもとに率ゐ
い楽しみの一滴を昧ひ、叉、解脱、悟得の境地に生き
いて、それを超えたその奥に、今まで知らたかつた輝し
四七
IL欺きながら精進してわる抹に、多くの紳秘豪
られ、而して直ちに我が軍竜にょりて按より引き離さ
れ、L
︵一、︶
い超合理的㍑瞼の領域のあることを見出すのである。
紳秘家は斯様な二つの≠界を知つてゐる。り.㌣しで、
糾頼†孔と邪法の問由の一考蘇
7.り
刷祀ヰ
と悪
邪の問Ⅲ
▲ヴ
克
′とリ
・誉
四入
神秘家が聾吏椅くして説いてゐる産も、その東国する
それは、唯、存在する≠界を静的に記述しょうと一声ふ
秘県想の主要な部分をパめろ被等の世界鞘を見ても、
さればノ紳祀家の考へ方は常に目的論的である。神
庭を洞察すれげ、人々に第二の≠界のあることを告げ
のではない。それは、一面に、神秘照験により心の眼
は血のに七わ様▼咋修わの跡む、身むもつて示してゐる。
それに到るカ法を教へてゐる場合が多い。
﹁礪逸紳撃﹂︵↓hg︰OgiaGermaロica︶が致へて
のゐ
閃る
けた立場から見直した此の≠の眞の寒を説明する
﹁その優れた一院の照験の申あ只一つすら、創られた
は、神秘餞験の境地へ到達することが常人の垂向の幸
説明しようと試みてゐるのである。そしてその根抵に
と同時に、現在ある≠界と到達すべき境地との関係を
ものが創られた凍のの能力の範囲でするすべてより
稿であり、それが又萬人の意識、無意識の問の朗空で
に、
も、より勝り、より備多く、より高く、より紳を菩
あると云ふ考へ方む秘めてゐるのである。
云ふのは、共塵に最高山標密を去いて、その角度から
指しての修わ精進が、絶封的の意味を有する。抱封と
紳秘豪にとつては紳秘照瞼の境地に到達することを目
界より琴一の≠界に到るかと云ふことが、この≠に於
一つの目的に向つて集中される。如何にして第一の世
≠に於け左すべての行焉は、その境地に達すると云ふ
それ故、修行の道程にある沖縄豪にとつては、この
︵一一.ノ
ばしめる。﹂
すべての行焉や思考に封する許憎むするからである。
けス放火い関田とたろのである。
今、此の如き紳秘束の見地甘心にお曹ながら、ヨノ㌧斗
〓
此の≠に於けるすべてのもい1伯伯が新しい立場から
批判し直されるのであるりかうした結封的の立場㍗t﹂
る庖にこそ、神秘宏が紳秘宏として他のもわと障別ぺ一
るべき特徴が存するのである。
丁ガ
●
が思想申に於けろ無明︵aま︵首巴と煩悩︵kHesa蒜問
題を観察して見よナりとm心、ハむであるが、それに先立っ
ならす、その本来の性質が何であるかと云ふこLむ、
賞は明〓でない。イング氏は、別について次の如く言
て、卑つ一般の完教に於ける遺徳の問題との関係、即 つてゐる。
にそれを決定し指すにゐる。﹂
∴九︶
てむ綜合したものであるか、キリスト教紳撃は未だ
あるか、潰倖的な汚鮎であるか、それとも其等すべ
ち、邪恋、悪徳、罪、等の問題を少し考へておき庇い ﹁一倍罪とは、紋隋であるか、違犯であるか、叛逆で
と田心ふ。
鰐この邪悪等い問題は、一般の数理、又は神学に
於いても、常に難関とたつてゐるものである。例へば
キリスト教的な一神論の﹂止場からしても、これを明快 罪の根源を尋ぬてゆ.くと、結局それは箪なる破律破
に簡明すること埜ハケ敷い。竪オーガスティンが有名戒の行焉ではなく、心の申に患い性質、高慢︵pride︶
アβぶ.こ
生〓英ではつきり言つてゐる如く、邪悪の根本的な存 利己︵se−fis首ess︶、肉慾︵sensua︻ity︶等、即ち人間
在を認釣ることは必然に紳の観念聖一つの陥奔の中に の悪祇に踪することになる。併し、其厳に至っても、
更に、所謂流出詮をとる神秘家ディオニシウスに至
何れかに陥れる結果にたる。即ち邪悪が此の≠の中に その性質を適確に決定することは困難である。
#弄すろのは、
﹁紳が邪悪を廃することを欲しないか、挺することがれば、
作れしたいことである。﹂
︵・へ︺
川東たいか、どちらかである。若し彼がそれを欲し ﹁邪悲とは、悪聴の存在することではない。書き纏わ
ないのであれば、紳は菩ではたい。新し被がそれわ
と一ムつて、邪悪い根本的な#黎忙否定してゐる。例へ
二q︶
なし紹ないのであれば、紳は全能ではたい。﹂
げ、邪悪は闇の様なものであ†㌔我々は闇が襲って束
.
理論的に耶亜心の存在を肯定することが六ケ敷h︰/け
紳輔1Y北上邪∬山川〃直.考・か
‖﹁
し
〃l一ノ
●
五〇
かち一般の人空と異つて凍る故である。普通の祀合生
紳泌上武と邪滋の問題の一考察
る棟濫堵へノ
活に通用する遺徳の威力は神秘家には及び絹たu滞合
みながらも、遺徳は宗教と極めて密接な関係にある。
家にとつて絶封的?ものは油滴醗験の境地あるのみで
大きい意養を持たないのである。党に記した如く神秘
が多い。此の硯茸の生活の蕎のみの道徳律は、彼等に
ないぁぜ︰士霜ふので透るバ
道徳的の要素は文化宗教にはなくてはならぬものであ
ある。そして、神秘家にとつての畢柚溝と云ふものを
さ昔期様に、.根本に邪悪の存否と云ふ様な関越む含
る。然るに、その道徳が神秘主義わ畑に来ると、影が
若し考へるとすれば、それは面秘膿験の境地に向つて
近づくことのみである。それけ外の笥は、すべて第二
経れて見え鳶
﹁如刑なる型の完教にとつても、それに封して最も重
義的の意味を持つに過ぎない。
とイング氏も云ってゐる通り、神秘主読に遺徳はない
の陸相となろものは、すべて罪であり邪悪である1・そ
判断される。その修行の道程む乱すもの、修行の進展
秘醗験の境地に通する方法、釦五修行と云ふ用度から
そして、神秘豪の起居わ什の一切はすべて、その神
大な攻撃は、それが道徳的無紺心を助長すると云ふ
ことである。此の攻堅は、今までにしば′∼、神秘
︵し︶
と云ふこせは、しば′\繰返されてゐる。我々が常識
れ故、普涌毒意味の遺徳では邪悪とされる行ひも、著
主義に封して持ち出された。﹂
的妃凍、戒律を趨越しそれに拘泥せぬ高徳の膵檜あ存
し、それが紳秘鰻験の境地への少みを促進するもので
従つて紳秘家にとつては、人mわ持つ悪徳も、それ
でJ∴山上什ぺ﹂れろ一ごの、hウ。
あれば、神秘家にょつてその道挽注、胱奨されないま
在せ云ふ様な考へ方には慣れてゐる。
それは何故であるか。
それは、先に記した如く、帥秘宏が二つハ世雅た措
い
りて居る結英、この‖骨紅旗の≠界に封する熊度が自
7JJ
l
が悪徳で
あるmは、刷祀冊愉ハ境地への障碍になるが
故で必る。ヨーガ思想に於けム無明と傾悩とは、.怜度
さうし東意昧で興味ある賛例む示してゐるのである。
︻
ヨ﹂ガ思想にあつては、心を五つの作用に分類する
一
ノ
と概念︵首腎a︶・とに徒払、常象
︵宕S官︶が存在しないのが分別である。﹂
二..‖璧へ訂bda︶
し
と碓明されてゐるが、今日の言葉で云へば、論理的な
推理或は概念上の思考の椋な鳩のであらう。節閏の睡
眠は、心の休止と見徹さすーつの稿棉的な心の作用せ
して取扱はれ、第五の記憶は、精神統一にょる両種修
正智腰、心が正常の状態にあつて作用する場合に得ら
睡眠︵︳dr巴、記憶︵sヨ貰︶、の五つである。第一の
て、修行と舞接な関係にある心の作用む主として蓉げ
もの1杖にも思はれるが、併し、両種修行を主題とt
のである。斯様な心の分類の仕方は一見解繹に苦しむ
正智︵praヨぎa︶、似智︵5.paryaya︶、分別︵<ika首a︶
行の際何時でも問題になるもの故、此虞に加へられた
れた智で、信接するに伯するものである。それは、直
︵D二.gama︶.の三
心の作用は斯様に五つであるが、﹁心統一の菩﹂は、そ
接の認識なる硯量︵p−・atyak笥︶、推理なる比量︵anL∃・
たものと考へれば、肯けぬことはない。
甘a︶、聖典の教へる庭による聖数量
の中には悪徳にょつて蝕ばまれて
ゐるもの
つよりなる。第二の似智は、それに反して、正常を失
があると云ってゐる。そしてそれは明かに似智を指し
︵一︶
︵kご警a︶
tた心の作用による誤った智である。ヨーガ学派の原
てゐる。更に注意深く﹁心統一の書﹂を謹んで行くと、
︵八︶
典↓心統︺の苔﹂の言襲にょれば、
五一
心の作川む蝕ばんで、その正常な附きを妨げるものは
とあつて、似骨は煩憫享同じものだとしてある。即ち
↓もわの本来の性質に基かない︵atadr苫aprati禁h﹁
a煩
︶悩と云ふのは似智と云ふ意味である。﹂
︵九︶
謀った智︵m亨yajか抑コa︶が似智である▲U﹂
第三の分別とは、
紳輔主義と邪悪の閃胞と一考察
7.7J
脚秘主義と邪悪の問題ムー考察
結局煩悩である。
五二
界を、骨定し強調すると云ふ庭にある。
であり、叉他のもの1生する
であると云はれて、すべての煩悩の根
︵prasaくabh仁.mi︶
斯く心の作川な邪曲すも煩悩、即ち人の心の性質中
さて、残された第一の無明は、他のものを﹁生する
にある邪澄即ち悪徳には五つある。それ等は、無明地﹂
︵a5.dy抑︶、我見︵asmita︶、貪︵r抑ga︶、瞳︵dくe芯︶
﹁、
畑﹂︵k嵩︵ra︶
有愛︵abh⋮niくe訂︶である。これ等の中、第一の無明 源をなす根本的な嘉穂である。他の四つの煩悩は此れ
は暫く措いて、第二の我見は、神秘牒陰による直観
に的
基づくとされてゐるものである。その本質は如何に
認識と日常の控除≠界に於ける普通の認識との相異とを
云ふに、茸際は無常︵anitya︶、不浄︵a賢ci︶、苦
悟り得す、此の世界に於ける小我に囚はれてゐるも
︵の
du冨ha︶、無我︵an警maロ︶なる此の≠に於いて、
の糀念を抱くことであると、﹁心統一の苔﹂鱒説明して
である。第三の貪は、此の世の事物への愛執、第閃
常の
︵niハya︶、挿︵㌣ci︶、柴︵suEJa︶、我︵巴ヨan︶
隕は、それに封する嫌悪、第五の有愛仕1生への執着
ゐる。
に、﹁無常の現象︵anityak腎ya︶
に封して常を認
少し煩らはしいがその説く庭を逐次に浪へば、第一
である。
これ等の煩悩の働きは、
﹁これ等は流れ出でゝ、gu忘︵現象≠界構成の三要
素︶の力をますく強くする。開展︵par⋮n担Tna︶を める﹂無明と云下意味は、﹁例へ一げ、地は動かない、
を渡らせる。﹂
ふが如き、L誠づた考ヘナ牢することである。次に、咋
深間ならしめる。閃果の流れ︵k腎ya㌫ra忘SrO室
芭に於いて月と星は動かない、天人は不死であると云
︵∵﹂
と、こかはヨーガ思想一流打説明方法ではあるが、
木そ
津は、主として肉惜について言はれる。それは、﹁胎
わ恵は紳秘酷瞼の境地に封立した意味でのこの現象る≠
鹿︵sth抑na︶の故に、精チ︵bこa︶の故に、食物︵upa・
ア∫β
此の鋭賓の≠界と云ふのは﹁gu思の作川む和瓦の衝
笠ambha︶ ■り故に、分泌物︵nispanda︶の故に
︵、
s死
a召Sk曾ad与kl−a︶等があるからであり、他面には
盲idhぎa︶ の故に、肉醍は拝めを必要とするが故、
︵candram
に於て、或はプ
ルシャの磯路︵upakara.㌫︶たる心︵manas︶に於い
bhti孟n⋮
除官
︵・
bhOga︶の休する身標︵訂r首a︶
又、﹁紺碧の蓮の花びらの如く大きい眼
︵一一こ
それ等我のない塵に於いて、我む意識すること
を認識し得す.これを、常、浮、焚、我、と考へるの
斯様に、無常、不渾、苦、無我なる此の≠の眞の相
で、茂人に溜息させ
﹂明である。
がる無
︵5.諾kin︶
にとつて ﹁心統一の帯Lは、﹁敵者﹂︵ami︹ra︶
と﹁遺なき森L
︵agc竃a計︶と云ふl一つの言華を引用して、その例に
︵t首adu甘khaっ
︶と
、揖
圧苦
ハ帯的和上質的な存在であるこたむ説明してゐる。
刷沌卜蓑と邪雄心の問題い一帯隼
︵pari鼠madふkha︶、苦々
haヨeノ1aSarくam︶。それは一面には、此の世に壊苦ょって無明︵aくid︶■巴と云ふ・∵=粟が指してゐるのはも
は、此の現賓の≠界の﹁一切は苦のみである﹂︵d畠k・
に、修行を深く積んだ達識の人
信じて無益な行ひをするに至ると云ふのである。第三 る認識の不足又は錯裁とも解され得る。それに封して
とを鍔同軸倒して、善行と信じて非行をなし、有益とが鮮明である。併し、斯く説明すると、無明とは星な
a・−ekh抑︶美しい庭女﹂を見た場合の如きは、渾と不浄
程の、﹁みづノ∼しく、新月の如く鰯やかに︵訂㌣nk・
し︵h腎a・garbha−OCana︶
︵nュa・u︷p巴a・patra・せat㌣ak思︶ は、叩を含んだ日差
て、﹂
呵taをa︶、﹂
て流れ落ちて釆たかの如く
く.︵ヨadhya・m呵ta・aくayaくa・ロirmita・iくa︶
がい
割外
れ 界の物醍︵upakara′芯︶に於いて、或は控
生、
の月な
るに拘らす、﹁その四肢は蜜と甘露もてつくられた如ha・khy鎧︶のが無明である。終りに、﹁生のある又は
﹁最も厭ふべき肉惜﹂︵parama女bhatsa︼︵晋a︶でああると云ふ。斯く苦なろ≠界を﹁発と東糾する︵suk・
準徳あろものはその不渾を忘れることのない﹂様な、 突﹂︵gunaく苫i・まrOdha︶の結兼に外ならないからで
7.汀
aくi舌巴
五四.
l
は、一am首a︵敵者︶や 誤りのみがあることではたくて、常にその背後に、雷然
醐秘主義と邪悪の問題の一考察
刀それ︵即ち無明
ぞれむ一般的に云へば、惜騒がある程度までに達する
さうした誤りをたすべき心の状態があるかちであ右。︵
るもの︵くaSt訂a焉a・︶一と⊥て理解さ.るべきでやる。
と、、その深さだけ心が閃けて、それた相應した見方が
扇ぬ。竃乱a ︵道蒐き漆︶ム例の如く﹂賓際忙存在す
恰度、ami百a︵敵者︶とは已音a︵友達︶のないこ
はどうしても現はれで米たい。その意味で神秘思想と
出奔て来る。心がその境地に達しなければ、その見方
︵5.ruddha︶
とでもなく、叉、制限づきの友達︵mざam巴ra︶で
もなく、・却ってその反封に、彼に敵封
する敵者︵s甚atna︶である如く、agO召ada︵道 神秘鰐験とげ常に相伴ふものである。此庭で此の世を
な号森︶と云ふのやgO遥a]a︵牛の足跡︶のない 常渾聖我と見誤まるのは、心がさう云ふ状態にあるか
らであつて、そう見誤る様な力が心の中で楕極的に働
いてゐるのである。
無明は、さう云ふ意味で、人間の内に潜む一つの力
こ1で像め〓肯しておかねばならぬことは、この二
何なる輔佐㌢石するか。
更にそうした無明が、紳相克い二つハ世牲の仁に如
四
た煩悩が敬すのである。
でも正 である。そして、その媒本的な悪徳を基として、種々
⋮ことでもなく、又、制限を付された牛の足跡︵gO筈・
adam押
︵pramぎa︶
に事貰どして存在する虞の場所である。同校に、
a5.dy餌︵無明︶.も、正しい智
しい智のないこと︵pram賢母a唇音a︶、でもなく、
︵一四︶
かへって︰且dy抑︵明智︶と反射わ、智︵j押掛na︶と
この鮎は神秘主菜に於いて、神秘膿瞼L七神秘思想と
の閲係として童要ヰI扶問嘩であ↓0小知ト.神秘※韮的に
云つてもの1見方が謀ると.玉ふのは、.異なる衣面的な
7.T〟
封する神秘豪の解群に種々相のあるこLである。此は
日常経験の世界との相異は充分に認めながち、一両や、.
の世界を肯定する神秘主義である。.神秘慣験の境地と
第二の塑は、これに戊して、究棉に於いて此の硯摩
や躯て神秘思想の類型の問題に慣れることに及るが、
そのより高い境地から此の唯を見直すことが可能であ
っの≠界、即ち〓常緑験か≠克と神秘潤験の境地とに
極めて概括的に見て、それ些二つの型元分けて考へる
り﹂見直された≠界に神秘家は安住し得ると云一ふ立場
と老へるものである。此の≠にあつては途に最高の境
地に人−り傑作として、此の≠からの油滅を必須の傑作
の消穂と云ふものが考へられ得るわけである。例へば
場にあつては、普通の意味の遺徳の外に神秘家の特殊
国に求めす地上に求める行き方である。されば此り立
をとる。諸法茸鼎観的な神秘思想であり、紳の団を天
地に到り得ぬことを張調し、修行を重ぬた結兼は、此
ヤコブ、べーーメが道徳と稲してゐるのはそれである。
以上の二つが多少ともmル粁的哲畢的修向をとるに対
して、第三の型は智的には素朴な態度をとる。アシジ
スの詑く虞鳩、その代表的先例であるが、再度紳祓思
ニズムの流れを汲むキサスト敬神秘家のディオ一lシウ
主義︶とよばれてゐるものがこれである。ネオプラト
に封して自分の境地㍉や訂正を加へようとはせす、rそ
▼
昧はひ得るてとを爪じてゐる。輿へられた紳畢や教理
れる。而もやがて天国に於いては、更に摩れた境地む
の≠に於ける神秘鰻験た紳の瓜飴として素正に受け入
Mysticism︵否定
秘フランシスやスペインの聖テレサに見る如く、此
の榊聖
想も多ぺは‘この傾向にあつ尭と云ひ得よう。ヨーガ思
■
れはその位に受け入れて、紳秘開放そのものに只骨輿
神秘主義と邪悪の月琴の一考察
想はこの類型の一っである。
でもないとされる。眉gatiくe
此の壮は迷妄の所産か、神秘修行の苗場以上の何もの
る。従って、此の堆肥封する態度は否定的であつて、
の≠の生活を脱しょり高き無に録することを目的とす
その第一の型は、より高き世界、即ち紳秘憫験の境
ナ﹂上が出席る。
7▲一!什 ヽ ▼′−
結合を脱して、此の世と無閥係な喝立の存在となるこ
五二ハ●
味を寄せて行くのである。前二者をm心想的な型とすれ
とである。故に、硯賞の≠兎からより高い世界に入ら
−
ば、これは心理的た型と見ることも川東はぅ。修道院
うとする神秘家の努力は、此虞では、如何にして此の
神秘ヰ義と邪悪の問題の一考察
的な神秘家、又は天然を愛し大日然に侵入する白然紳
に、しば′∼見られる型で
二あ者の結合を解消せしめるかと云ふ鮎の問題とたつて
来るのである。﹁心統一の苫が次の如く云ってゐるの
はその意味である。
︵sくa︶とプルシャ︵s品min︶との力
︵訂kti︶に謝しては、結合︵sa召yOga︶がその本来
﹁プラクりティ
の境地への到達は、プルシャの礪存︵kaiくa−ya︶と云
であ
の性質
︵hetu︶
ふ形をとり、此の世から離脱したものと考へられる。
るヱ
を認識する要因
即ち根本の二元の中、プルシャによつて代表される神
籾然らば、その両者は何故に結合してゐるか。その
︵sくar者a︶
秘照瞼の境地とプラクりティによつて代表される口常
結合の原因をなしてゐるものは何か。其虎に無明が現
︵欄し.、︶
tur・aくidy裾︶。﹂
無明の#在がその結合の閃であり、無明がある故に
此の結合は解けない働であると云ふ。
﹁それ︵無明︶が有本しない結兼として、結合も存在
棚
﹁その結八=の困をなすものは無明である。︵taれyahe・
︵一正︶
経験の≠界とは、本来は全く別仰の存在であつて、両
れて来るのである。﹁心統一の苔﹂は云ふ。
1て、推言すれば、紳秘解除の、王怖が硯資の≠界とめ
クり′ティと小結分か、h脱して、遊離猫存することであ
亜秘閥給わ境適に入ろことは、即ちプルシャが、プラ
て仕舞って、人々はその存在を知らない状態にゐる。
合の紙某神秘櫻験のプルシャは硯貰の≠界の申に没し
者は各モ礪立してゐるものである。然るに、両者の結
中第一に屠するものである。修行の目的なる神秘愕瞼
さて、ヨーガ思想は、前述の如く、此の三つの型の
る0
秘家︵naturemystic︶
’
へ一ヒ︶
護
fus
︵一︶
TOueS︸p.00r
中川‖=甜課、梨アウダスティヌス機悔錬、二七一文
The
mystic
AeOpagit♪=The
and
S.WinkwON旨一
TheO−Ogia
S誉sa.
W.R.Huqeこbid.p.−u鼠.
第一章節八節
Pata巴aごYOga
第一章節九節
岡前
第二章節三節許櫻
同前
此の一段の引用は第二章節五節託提
第二章節二十四節
Hdealism
Germauica−tr.hy
︵三︺
W.R.:nge†PzrsOnal
p.P
︵ニ︶
一︶
Name。Chap︸W.
C.E.ROet一DiOロySius
ibid.p.︼3.
p.−00山.
︵四︶
二︶
六︶
努二部節二十五節
?≠J
しなくなる。それが離脱︵b則nam︶即ち見者︵融我︶
の礪存である。﹂
即ち、修行者が未だ硯茸の1Iヒ界に囚はれてゐて、神
秘稽験の境地に役人して仕舞ふことが旧来ないのは、
その根本に撫明が横ってゐるからである。見方を攣へ
れば、無明は、神秘牌験と日常普通の控除とを罷別し
︵五︶
︵一
二︶
くine
︵六︶
︵一
四︶
○︶
︵九︶
︵一
︵一
七︶
五︺ 第二章節二十三節
︵一
︵一
′’■ヽ ′ ̄ヽ
八 七
︵一
︵一
\J ヽJ
得ない様た心の状態の根底に動いてゐる力であつて、
それが棟木的た障碍となつてゐるのである。
かくて、はじめにかへって、神秘家の二つの世界と
煩悩と無明との紺係を阿る時に、我々は、神秘家は神
秘牌瞼の境地へ到達することを基本として、邪悪の決
定をすると云ふ事資を、此虞にも見出すのである。人
のもつ五つの悪徳である煩悩の棟木をなすものが無明
であると同時に、神秘硯瞼の主鯉たるプルシャと日常
紳祀上兼と邪悪の問週の一考娯
な障碍も亦、無明であるからである。、
控除の≠鬼の原理たるプラクリテーィとの分離の根本的
卜
大毘婆沙諭に引用されたる品瑚足諭に就て
し
が
き
坂
大毘婆沙諭に引用されたろ品類足諭に就て
ーは
本
五入
幸
男
晶類足諭は布部教塑上梓めて重要な地付を占むるも ら云へば、寧ろ曖るとも決して劣ることはないであら
のであるが、其鮎に閲しては暫く之む於き、今は大毘ぅと思ふ。即ち施設足論は引用された何故は多いけれ
教義畢上飴り重安でないものまで含まれてゐるに封し
ども、併し其中には≠外の相状等に関する文句の如き
婆沙諭に引用された口⋮類足諭の文句に就て論じょうと
思ふ心
抑も大用婆沙諭には六足諭申、界身足論を除く他の て、晶類足諭の文句は何れも皆阿毘達磨の特色とする
︶晶類足論︵約八十同︶喋異門足論
るが、その引川田敷といふ鮎より云へば、施
同︶.m帽となり、=⋮軸足論に施設是論に一歩旦謙るけ
れども、併し婆抄諭に射する数量的堅単性といふ鮎か
l藻・勝証い訟
許一施設諭u宵七回も引用されてゐるが、仲し〓∵文句
が再三引用されてぁることもあるから、貸際は九十九様 相
となすこと‡いあるに徹し∵←明かた叫であ∴。
俗の諒となすにmし、・1⋮相足、川トで1ネ長ぃ
依って之を訂正し、其際蟹智論を不了義”詮、膏∴は≠
計二
に不正確不充分の瓢がある場合には.口⋮軸足論の詮に
祭典門・法薙・施設・識身・晶類の五足諭が屡々引川 法義に関するだ童のみであり、且叉、塗触論の説明上
され
設足
・;㌻
.こ…
︵約二十八M︶激身旭論︵約十一ハ圃︶法纏足論︵約七
約
百
七
同
﹁阿毘頚靡諭の研究﹂
に数へ壁げ
及び三八強二九七C︶してゐるから、.撰際わ文句とし
ては六十川種となる。今これを現有の=⋮断定鉛と封m
玄非諜品類足論.
して共同異を考ふれば次の如くなる。
婆沙桝引の品類足論
無問飴心心研法戎巳生
巳生若正生及無想髭滅
心焉等無m心心研法若
心焉等無相法云何。謂
成正生及埜想定滅未定
定著巳年嘉∬生走名心
①云仰心等無間法。謂心
或巳生戎正生。︵二客七
焉等無開法。︵六番七一
無尋無相法云何。謂毒
︵六啓七一七C︶
不用應何刑應法。
推謙唯何法云何。謂章
C︶
何州臆法。︵六番七一七
宥帝石何法云何。謂尋
四b︶
b及び一一巻五ニb︶
︵四谷一九
Q云仰望宗伺法。答若
漢詩伺椚應
C︶
○云何無尋唯相法。答若
旗日相應非尋。品完二
九C︶
\
〇.㌫律卜蒜相法。答若
五九
γJ、!
となる。北一々に就ては憫認一切詔㍑東邦三に於て、渡
透粍雄氏が水村博士の
られた七十和に更に小†心努力せられて二十九毎を追加し
・九十九経とせられてゐるから参見せられたい。併し渡遽
氏の九十九稚の中節十二句と節六十四句と第九十五句と
は、之を各々一稚として数へることは通常でないと思は
れるから、渡⊥氏の九十九碓は貿に九十六稚となる詣で
∵ある。而し婆沙諭には以上の根更に﹁無有典丑従長世妹
於石偏法不動栗我或執我研或軌跡常或撥篤無或執馬蹄解
腔出離或執鶏群最勝算一或起疑惑猶預或日起愚問無知﹂
︵一八巻九一C︶﹁什此無問興生再起無名食糎研趣聴四菰
無色宥於現法巾以収用練起骨川非有﹂︵三三容六八七C︶
﹁同道路等詭同一義﹂〓九六巻九七九C︶の三種の文句が
引川されてゐるから数に於ては矢張り九十九碓となる。
託二 婆沙論一九巻九七文b及び二三巻一l八天a
〓 婆沙論桝引の晶類足論と
玄非繹品類足諭との封闇
前述の如て晶斬足論は約八十同程引用されてゐる
が、擁し其中には同一の文句が僅々引川うれたり、又
文句む引川せすして直に内容を示したり︵九器川川C
大門㌍沙論に引用きれたろ=M軸足諭に拭て
●
L
邪見云何。謂誘因訪兆
六倍七一七C︶
伺不椚肱法。
及彼桐應菩諦険過去現
過去現在見讃研断随眠
非輿有身見鴬因。謂除
断過行随眠及彼相應倶
諦亦除過去現在見某所
随眠及彼相應倶有等苦
謂除過去硯在見苦研断
\ノ
或詩作川。戒壇賢婦由
在見築研断過行院眠及
有苦諦亦除未来有身見
一ヽ
﹂ノ′し
此起黎欒慧観見。
彼相應菩諦除未来宥身
人巨1歌沙ハ・附に引月されたろ品桐畑一州﹁乱て
︵tニ巻七〇〇C︶
見相應管諦除未来看身
相應苦諦亦除未来右身
〇つ○
見及彼相應法生老任無
訪作用填葦新譜忍聖無
配見。︵八余二二九C︶
一b云何布倶有法。竺切
有漏法及宥漏法惧生無
一J⊃
有身見囚非有身見国賓
法諸相不利應。︵四谷一
宥倶有法云何。謂石漏
見生老任無常諸飴染汚
常謂徐染汚帯締︵一手
企戎有害諦宕身見場囚
九C︶
法及宥漏法供生許無漏
菩諦。︵一六塔八一C及
漏法。︵一二番五〇七a︶
巷七四五a︶
ヽヽ
縁起法云。謂有馬法三
人証性離性補特伽羅勅
無漏心及勝倣典生来箇
入正性離生補特伽羅初
鳩
○
0云何邪見。謂誘因訪英
法。︵六合七一五a︶
び一九塔九凹C
山隈云何。謂於有情作損
但し
陽云何ノ■謂於有情心懐
こは抄出
−
情意株栽封疇怜怒凶惇
︶
害作栽薙。二四奄六九
猛烈暴悪巳正骨Ⅲ隕〓疋名 両云何針酔生瞥謂一切
−
C︶
閃巳生法︰⋮・亦爾。
︰・国法︰︰︰有岡法:︰︰
ヽヽヽヽ
随心棒法云何。⋮︰・謂
︵六番七二五C︶
有馬法。︵一六容八ニa︶
一切心研法及遣倶石定
馬隕じ︵三舎七〇Cb︶
切心研法遺惧市城定倶
仕無常姓名院心棒法。
無漏心及酸鼻生定常入
非心焉囚法云何。謂已
︵大食七l四b︶
〇二ムH非心篤囚法。答已
借有戒岩心苫彼法生老
無常。︵二ハ港八一C︶
市波放心彼諸法生者佳
ヽヽヽ︳ヽ 璽玉何心惧有閑法、謂一
○
甫僅離枕骨朝雄湖心。
︵一七巻八六b︶
入韮性灘焦者未来朝無
漏心。︺六番七l四b︶
︹一九奄九四C︶
㊤一法是糞異熟而非糞。
謂命棍。︵一九巻九六C
一一八巻六一五a︶
應昔話⋮︰藷飴染汚苦
有身見焉囚非有身見者
非輿石身見焉因。除未
00
釆有身見及彼相應苦諦
諦。有身見焉因亦有身
企宕苦諦以有身基因
諸簡染汚羊蹄。或有苦
見因者謂前研除管諦。 @此二繚︵研経路・檜上
︵一三巷七四五a−b︶
︵七聡七一九b︶
一︵命棍︶是兼典熟非
業。︵一五番七五五C︶
異熟法法云何。
菩身漏法。○ハ巻七一六
C︶
謂一切法。︹七巻七一九
所縁縁及檎上線云何。
絵︶惧以一切洗馬自性
a︶
可愛可欒可吾可意。
︵二二番一﹁三a︶
名法。云何緑己生法。
六一
⋮︰・練己互︵法︶⋮亦
縁起法云何。謂有焉法
︵六合七一五C︶
縁起法云何。謂有馬法
意故。︵三春七〇二b︶
可愛故可欒故可樽故可
云何欲貪随眠随増。謂
七二一巻一〇四C︶
七b︶
平羊有漏法。︵一九容九
謂︰⋮・除未来有身見粕@蒜卦ハ計針。謂一切不
諦以有身見焉因亦輿石
身見蕎N卯研除法二
九十八随眠幾=疋過行浅
別。︵三巻七〇二C︶
六十五非過行六應分
非過行答二十七是過行 色石欲貪随眠随増・謂
七舎人六b︺
企九十八随眠中三±壷
過行六十五非過行。
︵一入碁九一b︶
一九六九七九巷C
馬法。三三巻一一七b
見所断焉開法云何。謂 @云何縁起輩。謂一切有
一切染汚法及見所断法
⑭云何見所闘焉因法。謂
一切染汚法及見所断法
具熟。︵大食七一六C︶
記有鴬及不善法。
無記焉因法云何。謂無 @云何縁起法。謂一切有
典熱。︵一九右九凹C︶
色石無記焉因法っ謂無
記有馬法及一切不書法
大毘婆沙諭に引用されたる品瀬見諭に就て
74β
爾︵六巷七一五b︶
大毘婆沙諭に引用きれたる品類足諭忙就て
謂一切有為法。︵二三巻
一一入a︶
ヽ
ヽ
六二
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
︳
覆無記天眼天耳。︵六番
七一五b︶
違法云何。謂過去末云
法。近法云仰。謂現在
○云何違法。謂過去未来
法。云付近淡。謂現在
断遍知研遍如法郎是研
應断法。此復云何。謂
及無電法。︵六爺七一大
㊥云何所断法。竺切有
馬法。云何遍知法。答
港及謂無焉。︵三二番一
ヽヽヽヽ
有漏法。︹六巷七一五C︶
a︶
及掃滅無馬。︵三二審一
a︶
ヽヽ︳ヽ
法及掃滅。○ハ塔七〓ハ
妙法云何。謂無漏有馬
六四a︶
巳知苦我巳断集我巳詮
六四a︶
養智云何。謂白過知我
一切布漏法。︵ニ九巷一
四九b︶
@云何番智。謂如茸知我
滅我巳修造由此而起智
︹云何妙淡。謂無漏法
ヽヽヽヽ
一週云何妙法。謂撃無軍法
ヽヽヽヽヽ
修道。云何無生智。謂
見明覚解慧光観皆名基
巳知苦巳断集巳詳滅巳
如茸知我己知苦不復知
︵一〇五番五四a︶︺
智。無生智云何。謂自
戒色無色外川離遠離折
離法云何。謂欲界繋書
戒及色無色外部生菩定
㊤云何出離淡。謂欲外書
乃至我巳修道不復常修
〃り
法及掃滅。非英法云何
法一
ム。何謂小切鳥
何滅。︵六番七二ハb︺
壁菩定及撃無学法井澤
︵三二雀一六四b一〇五
井撃無学搾滅無電。
光観皆名無生智。︵一巻
◎■露光法。謂一切有馬
ヽ
ヽ
ヽ
法及掃滅。云何非非法
巷五四四a︶
得作謹應謹法云何。謂
ヽ
ヽ
ヽ
︼切手法及体定研許無
六九四a︶
由此両起智見明覚解慧
適知我己知苦不復常知
乃至我巳修道不復修。
︵二九巻一五〇a一〇ニ
巻五二九a︶
画一ムH得作謹法定=∵切
替淡・︵ニー髄l六二a︺
H
謂虚容非掃滅。︵三二
謂虚峯非持滅。︵六宋七
及隼破発光名異生法洗
無知故閻昧故愚痴故。
ヽヽ
云何無明随眠随増。謂
云何宥漏。謂色無色外
緋是名欲漏。
明諾傲結締暖眠随煩悩
也云何欲漏。謂欲界除無
界繋無明諸飴色無色界
有漏云何。謂除色無色
眠随煩悩礪是名欲漏。
無明諸徐欲界繋結締随
欲漏云何。謂除欲界繋
法。︵閂五木三三C︶
︵三食七〇二b︶
除無明諸飴結縛随眠随
繋結締陸眠陸机悩纏是
︵六.容七一六a︶
生云何。謂令諾組起。老
煩悩踊是名石漏。
一六b︶
云何。謂令諾舘熟。佳
番一大六a六五巻≡ニ八
云何。謂令巳生諸行不
云何無明漏。謂三界無
a︺
何位。謂諸行生巳不壊
壊′J無常云何。謂令巳
知是名無明漏。
三九容二〇一a及びC︶
㊥云何生。謂諸行起。云
一九六C︶
謂無卸業閻愚挺。三八
④云何宗肘掛随眠随塘
云何老。謂諸行熟。云
生諸行減軽。︵一巻六九
巷二四三C四八巻二四八
④云仰結法。謂九結。云
結法云何。藷除九結詔
結法云何。謂九結。非
智。︵六告七一七b︶
無明漏云何。謂三界無
名石漏。
何無常。謂諸行生巳壊
四a︶
b︶
何非結法。謂除九結諸
六三
蔑修研断。答八十八見
此九十八随眠蔑見研断
飴法。︵六合七一五C︶
所断十修桝断。︵五一食
④九十八随眠中八十八見
像法。︵四九撃〓皿凹a︶
︵四七
紋
、⑬云何不生不住不滅法。
謂一切無鴬淡。︵三九巷
二〇三a︶
ヽヽヽヽ
傍生鬼界有情北棋慮洲
異生法法云何。謂地獄
生鬼界北根底洲・無想
人無利付有情天諸籍界虞
@云何卦ハ針掛。謂地獄傍
天。根葉破生是謂異生
大捏輩沙諭に引用されたる品数鬼諭に就て
アイ7
六四
〇二二a︶
二順欲貪襖法規在前。
欲貪随眠未闘末過知。
在前故。三者於彼庭石
故。±着順欲貪纏法規
斉欲貪随眠未断未逓知
欲貪随眠由三虞起。一
色琴玄何。謂十色腱及
三於被布非理作意。贋
非理作意敢乃至疑随眠
堕二繚故起欲貪障眠。一
法虞所痕色。︵二粂二ハ九
詮乃至起疑随眠應知亦
00
九b︶
研断十修閉闘。︵三谷ヤ
大毘婆沙諭に引用されたる品数足諭に就て
二六六C︶
一撃云何色耗。謂十色燵及
堕法庭色。︵五二碁二七
二a︶
此十二虞幾有辞幾無評
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
焉毀流英云何。謂詔頂
所有軍法己正骨⋮得。無
流兼云何。謂誰惧流英
一有馬二無焉。有馬頴
預流北云何。此石二桂
五b︶
法:︰:亦爾。︵六番七一
石蟹無記法。:⋮・順退
有罪法云何。謂不善及
二b︶
亦由三塵起。︵三舎七〇
㊤云雛軒謂有漏港。
答十有評二應分別謂意
lニC︶
石蟹無記。︵六一撃三
@宗順過法。謂不善及
爾。︵六一発二二〓ニb︶
︵五二審二七ニa︶
虞法虞。若布漏定石評
00
若無漏是如譲二︰:障界
不堕界:⋮・亦爾。︵二容
六九六C︶
④預流英宥二種。謂有馬
及無電。云何有馬預流
研知法云何。謂一切法
定智桝知随其事。︵六合
@一切法皆是智研知随共
事。︵五大巷二八八a及
有事有縁法云何。謂有
七一三C︶
㊥云何有事法。云何無事
馬法。無事無縁法云何
流状回右結断︺正骨
■l
得音調来米。.ぶ何無爪鳥
榊。姓名甑流典。︵七懲
び一九六番九八〇b︶
法。︵五六番二八入a及
謂無馬法。︵六港七一六
獣洗北。謂詮斬流共者
果。謂許預流英者於諸
ヽヽヽ
軍法巳正常得。巳絹者
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
謂過去正得者謂現在骨国
ヽヽヽヽヽ
び一九六昏八九Ob︶
a︶
ヽ
れ拍
三三七b︶
在常得謂未来。︵六五番
有筍一虹⋮焉。有焉一乗
一乗兼云何。此二怨一
者於諸結断巳正常得飴
羅漢英。謂澄阿薙漠鼎
飴如前説。云何無鴬阿
者於諸無学法己正常得
羅漢典。謂詳阿難漠典
馬及無馬。云何有馬阿
阿部港北右二稀。謂有
結断巳軍曹得是名阿羅
何。謂澄阿羅漢英所有
常得。無電阿羅漢英云
羅漢果所有無軍法巳正
阿羅漢果云何。謂置阿
極一有褒三聖篭有馬
阿羅漢灘云何。此有二
ヽヽヽヽヽヽ
/@一乗兼有二種。謂有馬
七一八C︶
及無名。云何有馬一束
果云何。謂澄一死英断
於諦紺断じ正常得。巳
果。謂認一死共著於諸
有拳法己正常得。無儀
画云何眼棋。謂四大種研
得者謂過去正得者謂硯
拳法巳正常得。傲如前
一釆尭去何。謂謹一束
造浮色能耐能見眼界眼
ヽ
説。云何無焉一乗兼。
果所有結断巳正常得是
塵限棍所蹄地獄傍生鬼
ヽ
謂澄一木兼者於諸結断
名一木果。
天人眼或復所詮中有等
ヽ
巳正常掃除如前説。
不還炎云何。此有二種
限。︵六九巷二五入b︶
ヽ ︳ ヽ
不還果有二種。謂有馬
一有馬二無名。有馬不
㊤云何虚㌢謂有虚纂
ヽ
及無名。云何有名不遇
遇兼云何。謂許不達果
障無碍色於中行周逓増
ヽ
果。謂欝不還巣窟於諸
所有堅法巳正常得。無
長。︵七五撃二八八C︶
ヽ
軍法己正常得飴、如前
名不這典云何。謂詳不
@云何初静慮。謂初静慮
ヽ
説。云何無賃不遇炎。
達此所有給断巳正常得
称華五薙。乃至。云何
六五
所鮎澤五揖=⋮・第四静
初開慮云何。謂初符慮
︵一森六九四a︶
味無擬不障色行。
虚茎云何。謂鰹茎虚冤
揮色。︵一巻六九ニC︶
眼棍云何。謂眼識研依
漢兼。︵七馨七一入C︶
謂謬不還巣窟於諸結断
是名木還某。
如前説。︵六五讐一芸b︶
巳正常得飴如前説 。
大足婆沙諭に引用されたろ‖口“赦兄訂忙放て
7∠ク
於苧環滅遺思惟苦質減
両云何念覚支。謂黎弟子
心不祁應行著名馬喜。
相應受想行識若彼所起
也云何書聖且。謂菩及喜
蹄薯五雛。︵八〇巻四l
第四静慮。謂第四称慮
集於滅思椎滅於造思惟
子等菩思惟苧於袈思惟
念等覚支云何。謂兜弟
C︶
覆無記法。︵六巻七一六
劣法云仙。謂不幸友有
腰行是名書無量。︵七容
身語業苦彼等起心木相
相應受想行識若彼等起
喜無量云何。謂喜及喜
b︶
椿事五薙。︵七令七一入
慮云何。謂第四硲慮朗
︵九大巷四九九C︶
乃至。正定廣詮亦蘭。
廣説是具知根〓一粒名正見
漢執心解除起持法乃至
廣詮是L知棍。或阿羅
患淫楽防利起拷法力至
棍。或諸学新見生死過
法乃至廣説是未知常知
苦栗城遣思惟滅遣起繹
云何正見。謂架弟子於
前説亦頗。
念党支。乃至。拾覚支
力室蘭詮是具知根是名
執心解除起能助菩提念
止等持心l境性。是名
住近任堅仕不乳不敬糠
意相應諸令心仕等位安
邦是名正見・⋮︰無漏作
察聴叡魔明慧行艮般合
了逓了近了磯鮎通達審
極簡持最痙簡搾解了等
無漏作意相膝於法簡搾
於滅惟思滅於遺児惟道
於苦思惟苦於築思惟集
正見云何。謂曳弟手等
︵七巻七ニOb−C︶
性是名拾等党支。
正直性心坪警覚寂静任
漏作意相應心平等性心
六六
退起能助菩提念乃至顔
道無漏作意刑應諸念随
正定。︵八巻七二二a−
大毘婆沙諭に引用されたる品類足論に成て
詮是未知常知媒。或諸
念別念憶念不忘不失不
a︺
無、記法。︵九五番四八五
@云何劣法。謂不善有覆
︵八一令四ニOb︶
一b︶
畢者見生死過息淫楽勝
b︶
0000
聖損得淡云何。謂若法
七一入b︶
利頼胱助彗抹念乃圭解
遇木漏不志決性心明記
00〇〇〇
性〓記名へ品等覚文二⋮・無 如云何暇架受等淡。謂楽
説是巳知椒。戎阿姉撲
?古け
受等相應。︵九九春≠二
一二a︶
一也云何業法。謂不渾汝及
柴受粕勝。︹六木七一七
a︶
適。二川一本七二八:l︶
謂昔慧。此以一切法番
所通達随其尭。○ハ巻七
一三C︶
入証性難生補特伽羅諸
未知菖知租云何。謂巳
石蟹無記法。無罪法云
巳見諦未巳硯敬老諸堅
畢票慧等楳由此諸株随
有罪法云何。謂不善及
嘉痘痕記法。
何。謂羊及雉柁無記法
慧悪税著根隆信随法行
㊤云何未知常知株。牒
云何自決。謂渾法及無
黒白法⋮⋮亦蘭。
信随法行於未現隅四聖
覆無記法。︵〓四巻五
於未現軌四聖諦能現翫
○ハ怨七一五︶
諦能硯観是名未知骨杜.知
入九b︺
順現法受葉順次生受菓
根。︵八巻七二二盲︺
企順現法箋順至芸
是名未知蕾知根。︵一五
初者謂暗算数漸次順次
五令七九〇a︶
㊤初常謂次第降順椚績連
相綬次第此厨在初。又
暇後攻受菜⋮⋮欲界一
合小数蕎執政。復次次
随入定漸次順次相続次
順後攻受業一切随眠之
第随順相続連合入諸定
六七
三界
一切随眠随増。︵九巷七
趣亦爾。天趣:
眠随檜。傍生趣鬼趣人
地獄趣二⋮・欲昇一切随
〇C︺
第此野木初。︵七雀七二
切色無色外退行及修桝
断障眠随殆。︵九巻七二
八C︶
命根云何。謂三界詔。
︵一七二食入六四C︶
企五攣切随眠之桝随増
八一五C︺
時此革初故。︹一六一巻
桝随輪。︵一一囲碁五九
四b︶
㊤云何命根。謂三塁聖
︵二巷六九四a︶
有執受法云何。謂石動
二二六番六五七C︶
@九鹿少分名石執受。
受九鍵少分除草意法虞
研通達法云何。通達者
︵六番七一五C︶
︵一三八巻七一二b︶
両面云何。謂善慧天眼耳
大毘婆沙諭は引用されたる品赦足諭に就て
7.り
也国法云何。謂一切有馬
六入
線起法云何。謂有馬法
⋮︰・国法⋮︰・亦蘭。
所通達覗云何。謂菩慧
法。︵一九六合九七九a︶
也能通達云何。謂重心。
︵大塔七一五C︶
人趣亦爾。天趣十八界
此復一切洗馬研通達随
共事。︵六番七一三C︶
桝通達云何。謂一切旗
︵一九六合九八〇C︶
右の封照に依って六十四種中、四十八種︵○剛︶は
るも文句が興り、五種︵△印︶は法相が典り、二種
文句及び法相が一致し、九種︵□印︶は法相は一致す
此十二虞茂市評幾無評
紋
三〇a︶
十二虞五薙蹄。︵七巷七
薙蹄⋮⋮傍生趣。鬼趣
地獄趣十八界十二慶五
三〇a︺
大毘婆沙諭に引用されたる品数足諭に就て
@姦拙姦十二靡十八
界。︵一七二番入六五a︶
㊨難修雷及由糞故生
浮居天乃至廣詮。︵一七
六令八八二b︶
㊥云耗翫甘。謂有漏法
︵◎印︶
ヽ 著。耽哺依川部伏︰⋮・
答十有評二應分別、謂
00⊃
ヽ
云何無味法。謂無漏法
ヽ
ふことが解る。従って、婆沙研引の品類足論は現存の
ヽ
恵庭法鹿。若有漏定石
ヽ
︵一九〇巻九四九C︶
ヽ
仰があるといふ結論に到達するのである。
C︺
應知亦爾。︵二者六九六
0
漏若無漏是無評。如有
00000
許無詳⋮︰・有昧著無味
㊥云何相称取替謂有漏
港。
ヽヽヽ︳
云何州離任珪藻。謂無
漏法。︵い丸い有九五O
a︺
婆沙諭申あ諸種の晶類足論に就て
口⋮耕足論と大惜に於て一致するも、小部分に鼎達する
三
以仁は隼に=⋮軸足と銘打へ∵引用︸−﹂JIJ∴もの㍗よつ
て、それは大醍に於て︵訊こ迦淑珊難問桝侍の品斬足
アjg
、
諭であるが、翻此外に西方尊者所論の品類足諭とし
にて
封し、後者に於∵一は﹃除未来宥身兄及破瀾應苦諦﹄
﹃九十八随眠二十七是過行六十五非過行六應分別。
と謂
あ見
りて、明かに重大な相違を示してゐる 一重大な
苦集所断無明有是過行有非過行。云何是過行謂見苦る集
理由に就ては次節に於て諭するf。而して、婆沙
りとなしてゐるが、兎に角、同じ迦濾鰯薙の品顛足論
所断非過行随眠不相應無明。云何非過行謂見苦集所諭断 ︵十七食入七貫a︶は、この後者の句を調音の謬な
非過行随眠相應無明﹄︵一入巷九一貫C︶が引用され、叉
が引用されてゐるか
はれるものが引用されてゐる場合がある。例へば、六
更に復、品類足の名を願さすして品顛足の文句と思
と及
いふ中にもその侍論者に依って多少の相違があつた
外囲諸師所謂の品類足諭として﹃云何結法。謂九結
順上分結中埠鸞云何非結法。謂除九結及順上分結ヰ
ことは之を認めなければならぬであらう。
揖拳諸飴法﹄︵四九啓二五四文b︶
ら、大別すれば斯くとも遡源摘薙・︵堅一︶西方・外囲
の三種の品類足論が婆沙論中に引用されてゐる諾で
十あ
巻三〇九貢a︶及び百九十二審︵九六〇文b︶ に各
る。併し倍厳矯に云へば、迦濾摘薙朗侍の品類足諭
々は
﹃如誼﹁云何欲有、謂諸共欲界撃取馬路能趣後生乃
一種ではなかつた。幾種類あるかを故に明日にする
こ誼﹂﹄の文句と及び﹃如︵門論︶詮﹁欲有欲界一
至廣
とは困難であるが、砂くとも次の事茸に依って二種
切類
随眠随増色有色界一切随眠随檜無色有無色界一切
一論中の二文句で、而も前者望見坤の文句であり、後
あつたことは明かであらうと思ふ。即ち婆沙論第十
随六
眠随檜﹂﹄の文句とが引用されてゐるが、これは同
巻︵封照表第九句︶と同第十七巻︵表欝十二句︺との有身
見薦困非輿有身見禿困に閲する文句は、一倶に箪に
者品
は類
門中の誼であるとト婆抄諭に指摘せられてゐる桝
足論の文として引用されてゐるものであるが、併し
のー
ものである。併し、何輪の文句であるかに就ては婆
六九
前者にありては﹃⋮三除未来有身見相應苦諦﹄とあ
沙る
論は何等語ってはゐない。然るにこれを現存のn⋮類
大艮婆沙諭に引用されたる品顛丸前に放て
7占音
︵七一七文b︶
大毘婆沙諭に引用されたる品軸足諭に就て
足諭中に求むるに、前者は同論第六巻
︹七二入貢a︶
の﹁欲有云何。謂若葉欲界紫取焉後能感常水根業異熟
是名欲有﹂の文に相常し、後者は九巻
の﹁欲有⋮︰・欲界一切随眠随檜。色石︰︰︰色界一切随
眠随増無色有:⋮・無色界一切随眠随野一の文と一致す
るから門諭とは即ち品類足諭巾の一部を指す名将であ
るといふことになるが、併し、何故特に晶顆施と言は
すして門諭と呼んだかといふ理由になると目下の研あ
きらかでない。
以上の他、百九十二巻︹九六〇正b︺の﹁如誰云何石
渡。謂一切有漏法﹂は品類足の六巻︵七二九京a︶の
﹁有漢云何。謂有漏法﹂を指すと思はれるし、更に百
七〇
れたこと、及び西方尊者所諦、外国語師所論t云っ
て、迦淑捕縄析停以外のものを引用する時は、明か
﹁云何杯法、謂九結
に之を区別してゐること、並に婆沙論四十九巻︵二
五四京︶には品頼足の託として
:・⋮﹂を拳げ、次に外国語肺肝諦として﹁云何程法・
と云って、明かに前の品知
謂九紆及順上分絆中線夢﹂を掲げ、突忙﹁開迦湛爛
見諭の所寧ど迦渥捕縄園の所緬と見てゐること等に
羅閑話師何故不如彼諦﹂
依って諭話される析である。
諸種の‖⋮顆足諭と玄非澤
が今は軒く両者を囁別して置く。
鼓l一円方と外国との同典については詳しい論叢を要する
四
Ll⋮類足論との帥係
る玄非諸口⋮軸足論中の文句との問に於いて、法相上重
次に前述の諸種の晶類足諭の文句と、それに相賞す
所作詔等に関する定養の如き、何れも晶類足論第六嚢
九十五巻︹九七六空の桝通達・所遍知・所断・桝修・
中のそれに相雷すと思ふけれども、晶顆足と銘打って
よう0
要なる同異あるもののみに就て之を攻究することにし
ゐないから立では省略することにする。
′■\
A婆沙論十六巻わ﹁或有苦締付有身且篤川井輿有身
︶
のを綿すとい・でしとに、基沙箭か劫渥弼抑で作製
見さ
爵因、謂除過去硯木見紫桝断随眠及粧剰應管師除渦
証一肌に品即制止諭し﹂.ムつJ■上川頼合、一イ〓迦淑欄拝所棚のも
7占4
な少と主張する人々の諭する品類足論と一致する仰が
ない、従って、是は、心の棋有田となるものは十開法
應供有苦諦﹂も言はす、亦﹁及彼相應法﹂とも云って
應諦除未来有身見生老任無常諸詮染汚苦諦﹂の文︵封
去硯赤見準用断過行怯眠及破調應帯締除未来有身見相
不共無明を擁せざる詮なれば、養に於いて菩なりと詐
行六應分別﹂の文を援用し乗りて、後者は過行因中に
論師は西方尊者所謂の本の﹁二十七是過行六十耳井過
﹁三十三是過行六十五非過行﹂とあるに封して、婆沙
明かに﹁及彼﹂は除かれてゐる。
︶
廊者の諮りなりと指摘した。人′之た玄非諸に徴するに
︵表節二十
膵婆抄論十九巻の過行因に関する文︵末節十三句︶に
あ竃。然るに、婆沙諭の立場は、心の侭有因となるも
取したのであ為が、今之を玄非諾の本に放するに、西
照夫第九句︶には﹁彼相應苦諦﹂とのみ言ひて﹁彼相
00
00000
のは五十四法、即ち随心持の不相應沈も世心の供有田
00000
00
となるといふことを許すから﹁惧宥﹂と﹁及破相應法﹂
叩婆沙諭三十一巻の得作記法に踊する文
方尊者桝倖の詫に革められてゐる。
︶
四句︶
とを附加して彼の文句を修正すべきであると婆沙諭師
は主張した。之を玄非諸に徴して見ると∵婆沙論の主
同じものであつたのを婆抄論が引用する際に﹁及依定
は玄非繹と著しく興るが、併し、恐らくは元来
張する如くに訂正されてゐる。
:︰:天耳﹂の部分を省略したものであらう。何となれ
ば婆沙論が晶類足諭を引用したのは、外物中の搾滅の
㈲婆抄諭十七巻の有身見番田非有身見鴬因に関する
Oe 文句︵蓑第十二句︺中には﹁除未来宥身見及彼相應苦諦﹂
可得なことを論澄せんが虜であつたから、省略された
00
とある。而してこの﹁及彼﹂の二字があることに依っ
部分迄も引用する必要がなかったし、更に叉百九十五
驚際未来に同
て、末木に同類因を許すことになる
巻︹九七六支C︶には品類足論と名指してはゐないが、
一
類困を立てた有飴師もあつたのであるが蔓。婆沙論
前後の関係から晶類足論の文と思はれる﹁所作許法云
七一
師は未来に同類因を認めないから、﹁及彼﹂とあるは
大毘婆沙諭に引用されたる品類足諭に就て
ア.;.了
大毘婆沙論に引用きれたる品類足諭に就て
七二
雄姿沙諭四十九巻の結に紺する文︵衷第二十四句︶は
りと云ってゐるが、これを復玄非諾本に級するに、故
増﹂とあるを許して、こは言勢研引の然らしむる囲な
あると言ひ、文集異門論︵但し現存の集異門足論には
結を九結に限定した蕎に、順上分結中の輯拳が結中に
に引用された集異門論の文と一致してゐる。これは婆
何。謂一切平淡及位二面鉢底研起無援無記天眼天耳﹂
鋳せられないことになつた。然るに、外囲師所論の品
抄論帥の批評した如くに修正せられそれが倖諭せらる
この文見苦らす︶に﹁順硯港受業順次生受葉順後攻受
類足諭は﹁云何結。法謂九結及順上分結中綽拳﹂とて
る問に言勢上集昇門足論の文の如く攣化したのか、そ
を引用し、而もそれが玄非諾本の得作詑應記法の定義
如上の不備を補ふてゐる。而して婆沙論師は、堆拳は
れとも始めから祭具門諭の誰の如くに修正されたのか
業欲界一切随眠色無色外遊行随眠及修研断随眠之桝随
上界に在りては結なるも、欲界に在りては結に非ざる
は明かでないが、併し、品類足論の文が一皮訂正され
と一致するからである。
︶
が故に、不決定なるを以て外囲師の所謂の如くに諭せ
たことだけは確寛である。
は玄非諸本のそれと甚だしく相違して摺って、一見全
㈲姿沙諭百四十一巻︵歪五十芸︶の通に関する文
すとて、迦渥弼羅研俸の詭を支持してゐるのである
が、今之を玄非諾の本に敬するに、矢張り婆抄論師の
主張の如く結法を九結に限定してゐるのである。
依れば、通を通達の意味に解して﹁彼︵口川瀬足諭︶詮
然興るが如き観があるけれども、併し婆沙諭の説明に
菩慧比〓名馬通以詮一切法相是糟摘連故L圭ム〓﹂ゐろ
︵
次生受柴順後攻受発一切随眠之桝随鞭﹂の文を、姿沙
円婆抄諭百十四巻︵衷節五十二句︶の﹁順硯接受繋順
諭帥は略準.伐りと許し、更に﹁順現法受業・欲界一切
から、桝者のmに紺係のあるこしトは明 かである。
描婆抄翰首七十二巻の﹁五趣一切随眠之斯陸相Lの
ヽ︼ノ
払眠之廟位相順次性七普順後考学業欲雅一切随眠色無
色輿過行防眠及修断断随眠之析随寿﹂と訂正すべ尊で
議
丈︵先帝五十八旬︺な婆沙論帥は、諦者の錆謀なりとな
し、厳に﹁門地是欲界退行及修桝断随眠随増、天地是
三界過行花修研断随眠随増﹂と訂正すべきなりと云つ
︵表節五十
てゐるが、之を玄非諸本に微するに、姿沙諭師の誰の
如く訂正されてゐるのである。
︶
り次の﹁五趣擁五薙十二虐十八界﹂の文
八句︶ は姿沙論師は之を諦者の錯謬なりとなし﹁五趣
持五誠、十二虞十八界少分﹂と修正すべきであると許
したが、有誼はそれに反して﹁彼論通説五趣脊届感五
趣葦及能防護非唯誰趣是政無過﹂とて之を脅迫する態
度に出た。今之を玄非諸本に徴するに、矢張り原の位
であつて修正されてはゐない。
以上に依って之む見るに、大鰐に於て姿沙論編纂常
時存在した諸種の晶類足論中の迦温摘羅研仲のものを
晶類足論修正の時期
いふことが出来やうと児ふ。
五
果して然らば、何時頃迦淑弼羅研侍の晶類足論が修
正されたかといふに、何等明確な文献が無いから、そ
れを知るけlもないが、玄非はA.D.父芯に大毘婆沙論
の初詣を完了し、その翌年に晶類足論を謂旧してゐる
から、その諾侶に際し、玄非が婆沙論の誼を料附 して
品類足諭に修正を加へたのではなからうかとの想像も
不可能ではないが、併し、それは置に一片の憶想に過
ぎぬものである。何となれば、前節の諸句むA.P.A
C。ひに求邦銀陀誰に依って諜出せられた品類足諭の繋謹
たる米審分阿見告諭申に求むるに、封及びの有身見
蕎因非有身見囚に関する句は省略をれてゐて知る由も
′′\
︶
ないが、いの過行囚に閲する句は第三巻︹六三七誉︶
︶、...\−′
中心として、その文句中に多少異論が存しても、佃之
を合通し得るものは鷲釆の佳として残し、法相上婆沙
結に関する旬は第開巻︵六四八東C︶に、Fの三峰莞に
ヽ,ノ\ノ
七三
・/\
︵
関する旬は第七巻︵六五九貫b︺に、H及びⅠの五趣に
に、叩の得作謬の句は第閃巻︵六四八㌘︶に、Eの
許家の諒と一致し得ざるもののみを修正し、斯くて出
来上つたものが現存する玄非諾の品類足論であらうと
大罠婆沙諭忙引用されたるロ冊類足諭に就て
7占γ
に見出され、而も何
大毘婆沙諭に引用きれたる品類足諭に就いて
閲する句は第七巻︵六六〇貢C︶
れも玄非諾の品類足論の文句と一致するので、斯くと
もA・D●忠ひ以前に晶類足諭は修正されてゐたことが
誇明されるからである。
次に、然らばそれより以前に幾く潮り得るかといふ
ことが問題となる。倶合論六巻︵三〇其C︺及び順正理
論十五巻︵四一入京C︺に依るに、有飴師が﹁心の似有
閃と焉るは十四法なり﹂と主張したわに封して、世親
及び衆賢が、心の倶有囚となるは五十四法な少と主張
し、その理由楳披を晶軸足諭の﹁或有帯締以有身見鴬因
00000
非輿石身見鴬囚除未来有身見及被相應法生岩佐無常諸
七四
法﹂は之を諭せすと有餞師が反封を唱へてゐることに
敬しても明かな研である︵快食諭六合、正規諭十五番︶。
以上に依れば、品類足論の修正は婆沙論編纂以後、
≠税関世以前、即ちA●D﹂写︰∽望頃、婆沙論帥の
︵lニ八七
批評的精細を礪承した人々の手に保てなきれたものと
推定することが出来るのである。什
品類足諭と畿智論との成立
文︺に依る。
註一世親の出世年代は宇井博士の印度暫埜史
大
の先後に就て
には既にり⋮額足諭が修正﹁れてゐたことが明かとなる
るものであるから、衆賢及び≠親常時︵A●D.∽NO−会○︺
されたものであり、又玄非諾晶類足諭の文句と一致す
抄論十六雀︵末節九句︶に於いて姿沙諭師に依って訂正
あらうと思ふ。乍併、この両論〃作製の張碓に紬して
に貴くやうであるが、恐らくこの払方は安骨⋮な坑ので
容が車然としてゐるとの理由から、同諭を濃密論の後
類足論に於て五樟の分類が始めて現れ、凡その組織内
献は飴り知られてゐないやうであぇ。近来の畢者は品
︵計一︶
晶類足諭と硬骨諭の成立の北後を明確に判定する文
のであろ。同時に、他面に於て、苦篭相木修正の‖⋮斬
は欧化婆抄論常時から昇給のある桝セある。即ち敬智
詮染汚苦諦⋮⋮﹂の文に求めてゐるが、これは即ち姿
足輪も流布してゐたのであつて、その事は﹁及彼柵麒
プ古ぶ
00 諭は輿生惟を説いて異生洗を説かす、反対に晶類足論
は異生法を説いて異生性を詮かなレ理由を婆沙論︵四
十五巻︶が説明してゐるが、其中で粛詮は品類足論の
00
前に覆智諭が造られたとの考へに立脚して、品類足論
に異生性を説かないのは、巳に蟄智論が異生性を説い
てゐるが馬であると云ひ、これに反して晶類足諭の後
に蔑智論が作製されたといふ考へに立脚せるものは、
品類足論が巳に異生港を説いてゐるから、費智諭に異
生法を説かないのであると説明してゐる。何れが正し
きかは婆沙許家の決和がないから、今速かに断定は出
来ないが、兎に角眈に婆沙論常時に於て両論の党後が
判然してゐなかつたことだけは、これに依って解るこ
とと思ふ。
社一宇井博士の印鑑哲畢史ニー九貫参照。
大昆婆沙諭に引用きれたる品類足諭に就いて
,J麟
十地経の序託に裁て.
十地経の序註に裁て
西成大蔵経、丹珠爾、控疏部の中に繹迦意阿聞梨の
月
給
七六
賢
隆
それは十地控の初めの菩薩嗅徳文を註してゐるが、
こダーナ 著述たる﹁十地鱒の序の壷﹂がある。今その
天詫
親の
の抑
論じた所には全く解れないで、被れの云はなか
繹を試みて之れを紹介すると共に、著作者繹迦意阿閣 った虞のみを解絆して居る。而してその桝繹の経文は
の十任控や、六十華厳、八十華厳とは大硯一致するが
梨の俸を考へ、且つその桝群の控を吟味しやうと思ふ 西晋竺法護諜の漸備一切智穂控には全く紋き、羅什繹
のが此一篇の企てゞある。
文と十地経とは、その鮎に留意して一致すると云へる。
先づ此﹁十地控の序詫﹂は、北京版では共第三十七 一隅慶特異な鮎があり、菩提流支の十地経論研引の経
函︵ji pa︶の第百四十二葉其の三行目から、第百四十
六其の真の六行目まで前後通算して漸く五葉に及ぶ片 Rahder氏の Da訝bhロヨika・S賢ra はその意味に於
々たる一書であるが、こゝに話された一段の経文をば て序詫の経文に一致し、歳諾の華厳経十地‖⋮は一致し
㌃
天親菩薩の十地経論にも取り扱はす、随ってその復誌 ない。而して鏡詳の十地経論は文を椚略してゐるから
さてその一憫塵時男い鮎と.ムふのは﹁二㌍鮒庖﹂か
たる日成阿蘭梨も閲誼してゐないから、印度の論師の どつちとも判らない。
詫としては、全く捻らしいものであつて、浮影キ慧速
鮫控には此文がない。伐て此一句の附加された系兢は
の十地童記や賢甘大師の搾玄記等に封比して興味ある 文の有無た指すのであつて、十什粧やふハ十、八十の華
ものである。
アβ0
菩提洗支の諸本以来のもので、而も流支の論と困
そ明
のの
赦大家として有名な人であるが、今の﹁序舐﹂の
繹とを比較するに、痺繹では屡々経文が省略さ作
れ者
、が或
若し此囚明家と同一人だとすれば、T腎an巴ha
の云ふ如く法稀の弘子か、或は帝繹天意の弟子であつ
は難波羅王︵GOp巴a票01⊇e時代に戎賢諭師等と
Subh註・
の且諷繹
な朗いか、或は西赦の翻諾官ではないか、事茸利諸官叱
と挿するもの二晩六
三名のない桝から、若しや此作者は西赦の高伶では
課十者
︵Dharmak叫r氏︶
ヰ地紋の序註に就て
が繹したる︵後三晶を︶ものを、更に復註したもので
も屯
もその諾語が一致してゐないから、やは少これは別に
博す︶と、その高弟たる稲梓天意︵De諾ロdraヨati︶と
所樺の経文は、戒諾の華厳経とも、叉痺謂の十地論と
︵Pram茸a急rttikak賢k抑︶を、接種自身︵初∩⋮
繹を
迦意と稀する人があるからなど1疑ひを以て見たが
巻あり、これは法稀論主
︵Pram晋a忌rttikatik鋸︶
を開いて居る。更に因明書として蒐大な﹁量群が
論知
離ら
繹れ
﹂て居るから暫く別として、今の序詫や株論は
したものである。而して此等の両署には共に澤腎
者H
のと名
rmadg2ba官b−○唱OSとの二人であるこせ
謂、世親の文珠閃菩提経論の復詫であつて、簡畢
にⅢ註
とが
来るであらう。量群論臍搾の謂者は
S巴ra邑蜜akaくy鎧by抑︶二巻がある。走れ漢澤に所 同時に登山したとも云はれるから﹂倍ほ少しく潮るこ
彼れの著として聖伽耶山頂控粍論︵軒yagay訟丹r朝守
就いて吾人の知れる閉は甚喪少ない。丹珠爾の従
中っ
にて
は梓迦意は西田第八世紀頃の方である。然るに或
序詫の作者搾迦意阿闇梨︵計誓.ya弥詳yamati︶に と云はれた人であるから、西暦紀元七世紀頃の方で、
と異つた経文を適宜に掲げて、うまく諭の群とて
接、
解法
し稀は西藤の蘇隆賛甘普王と同時代で、輩洋三戯
聯絡を保つて居るから、此経文は今の梵文に系統
を海
引寄蹄侍にも
の南
く或る原典から分割して課目したものと云へる。法種別蚤琴画明l
は一旬l句に分裂されてゐるのに、流支繹は従来の諾
7βJ
十地鰹の序託に就て
課されたものであつて、西蔵人が巳諸の経文を繹した
ものでないことが明かである。従って叉此諜者は少く
る。
七入
その中、﹁叉一切不退特にして﹂と云ふより下、﹁一
も華厳経の諸君たる印度のlinami︷ra、Surendr
b蔵
Oの功徳を成就し園滅して、不可視幼に相接し
切a菩薩
s紆、くairOCanarak笠
てa
絶等
えで
ずも
説な
くとも、其深奥の功徳は説き慕くすことが
こゝに諸の菩薩の殊勝なる功徳を五種に述べてある
を示したものである。
Ma訓j亡野蒜arbha−Praj卸ぎa
一い﹂と云ふに至るまでは、功徳の贋大なること
出r
来mな
dhi西藤のYe訂s
く、諭や疏の諾者
an−㌢りk書arak笠a等でもないことは想像される。
次に序詫の抑謂を掲げるのであるが、此原本は大谷
ので参照することがH釆なかつた。叉デルゲ版を見る
谷大草桝赦のナルタン版は不幸にも此映が紋けて居る
︵三︶
︵二︶
︵一︶
身菜の紳欒、
意業の紳欒、
俳枕に隣近せること、
現前に授記を得たること、
即ち
横合もなかつたので、唯北京版のみに依ったものであ
︵四︶
大挙の同書館の寺本教授の蔵本を拝見したもので、龍
る。而して此コピーは龍大の畢生高木仰山君がと少、同
語業の神変、
これである。
第一段
柑るが故に、不過博の苦醗等は、仰樟に緒俳から現前
ること1科したもので、即ち第八地に於て無生法忍を
その中﹁不退特﹂と云ふは、こゝに現前に授記を得
現前授記
︵五︶
達
じく武邑佃邦君が校合したものである。
聖十地控序誌
0
文殊帥利法‡千に掃命し奉る
繹迦意阿閣梨
●
﹁菩薩の大衆﹂と.ムふ申、大とは功徳と名聾とに依
7βg
*
冶によつて獲得したことを﹁⋮︰・を得たる﹂と云ふそ
は一切週計法の不生なることで、それを一切分別の封
の智﹂とは見知を航することである。その﹁行境﹂と
薩智の行境を得たる位に任する﹂と云ふ。﹁一切菩薩
に授記せられる。そのことを説いて﹁又すべて一切菩
ものである。
の記入は前二者に封する故に︵俳地の︶誇悟を云へる
入。三、俳地を誰悟するによる記入である。而して今
琵入。二、顆菩等の十地に於けるそれが誰悟による詳
﹁許入﹂にほ三種あ少、一、念行地に於ける念による
意莞の油痙
意莞の紳攣には五種あり。
第三段
る、そこで第八地に任せる有様をのべて斯様に云はれ
一、有情を成熟するに巧みなること。
れは何かと一志へば、即ち無生法忍のすがたの位であ
たもので、即ち不遇匝地にして授記を得たから、現前
二、願を成就するに巧みなること。
三、如意賛珠の如く一切諦趣を饉益するに巧みなる
授記と科したのである。
第二段 仲代隣近
こと〇
四、生死と淫楽とに任せぎることに巧みなること。
﹁一生囲繋﹂と云ふは、こゝに仰位に隣近すと科した
もので、彼等は将来俳仰を唯一生にして得るからであ
五、繹髭等を成就するに巧みなること。
威耐力を斯様に云へるものである。
十地経の序証に就て
七九
切趣の半枚の未だ成熟せられぬものをば、よく成熟し
作を普く示現するに巧である﹂と仰せられた。即ち
趣を成熟し調伏するに、時に應じて常に冥助の一切所
︵一︶有情を成熟するに巧なることに関しては﹁一切
之れである。その中
る。それを説いて﹁一切如来智の境に記入する相拉不
断の行境﹂と云ふ。﹁一切如来智の項﹂とは煩悩所知
の二階を遠離したる英知であつて、これ即ち悌柾であ
0
々の中﹁椚鰻不断﹂とは無著力の﹁行項﹂にして、
る。その詑とは悟ることで、それに入るのである。
O
7ββ
十地粋の序註に就て
よく成就するやうに調伏して、そのために時をたがへ
入〇
一切菩薩の幅徳と智慧とは、一切利益の加行の積衆
益を成就する故に﹁よく完具す﹂と云ふ。一切時に於
を成すべき絶醍であるから﹁一切芋薩の加行の積衆た
︵二︶ 願を成就することに巧みであることに関して
て相綬して断ぜざるが故に﹁無窮﹂と云ふ。一切趣を
す、よく成就し調伏していつも、常に冥助の果報ある
は﹁一切菩薩の願を成就するに助と時と閥と行とに於
餞註することを﹁⋮⋮し給ふ﹂と云ふ。此義を組合す
る稲穂・智慧﹂と云ふ。之れによりて一切種の他の利
て相綬不断に任する﹂と仰せられた。
るに、詔の菩薩の稲穂・智慧の積集によりて、すべて
紳力の一切の所作を示現するに巧妙なることである。
﹁一切菩薩の請願﹂とは次下に述べて居る通りで、そ
に彼の如意賛珠の如く、常時に一切衆生を餞益するこ
に関しては﹁一切菩薩の般若と方便との長陽なるを得﹂
︵四︶生死と淫楽とに任せざることに、巧みなること
とを斯様に説かれたものである。
れ等を成就するを﹁成就﹂と云ふ。
その﹁相緯不断﹂とは賢幼・星宿劫等の詔の助と、
0
未来生の相続する謂の時と、如来の〓碑を紺現する諸
仰の囲と行との相続して中断せぎること。かくの如き
と仰せられた。﹁般若﹂とは眞如を旅する智慧である。
00
の任する布様を斯様に述べられたのである。走れ願を
﹁方便﹂とはこ1では大黒悲を意味する。﹁最防﹂と
は殊勝のことで、それは勝れて居る上に尊とくあると
成就するに巧みであるから一切時、一切境、一切虞に
それ等の郎望を起すと説かれたのである。
云ふ語む入れて見るのだ。般若と方仰との両者の爵膠
なるを﹁得る﹂と云ふことである。そ.の中、般若によ
︵三︶如意賓珠の如く一切諸趣を餞註するに巧みなる
ことに関しては﹁芋薩の一切の加行の積衆たる稲穂と
りては生死に任せす、慈悲によりては浬棄にも圧せぬ。
﹁生柁と洞山喪との門主ふ〓く紺現する菩匪が榔拉不断で
智慧とむよく宣属して借りたく、一切諸趣を繹ハ批し給
ふLと仰せられた。
7/7J
0
如来の道場合に結語することを示現するとは
その中、正法の説話を生ぜん禿めとは﹁一切菩薩の
面壁力に自在を得たるが故に、任運無作に、一念の問
八一
■
ある﹂と云ふは、般若と方停との此両者の結果を示
ふし
。
十地離ハ序絆に就て
れ等に﹁遊戯す﹂と云ふ。即ちそれ等の一切の所作
れに
大乗の説法に於ける上首であるからである。依て彼
して意行の姿である。これを願はすに巧みであると
等去
は一切菩薩の紳攣力軋白布を得て焙るから、任運に
室﹂とは九次第定等。諸の﹁紳通﹂とは天眼等。﹁一
智念の問に於て、一切如来の道場合に直参することを
慧﹂とは眞如を経すること。それ等の遊戯の故に、示そ
現する。さうして彼等は説法勧請の上甘となる。‖.祉
せられた。諸の﹁渾定﹂とは初碑等である。﹁解脱
と﹂
で、その﹁力﹂とは威紳力である。それに自在なる
とは八解脱。諸の﹁三昧﹂とは虚容赦等の三昧。諮
この
と﹁
、等
それを﹁得た﹂と云ふ。それ故に任運無作に唯
﹁一切菩薩の醒定と解脱と三昧と等至と紳過と智に
慧於
とて一切如釆の道場の大倉に趣いて、説法を勧請す
の遊戯の所作を普く示硯することに巧みである﹂と
る仰
上首となる﹂と仰せられた。﹁紳愛﹂とは往詣のこ
︵五︶ 膵定等を成就するに巧みなることに関しては
相綬不断なることである。
る等のすがたが相続して絶えぬこと、叉般若にょり
まて
た正法の説話を起さん馬めと、法輪を護持する禿め
は淫楽の門を顕示する菩薩行を修起する等のすがた
との
、如来を恭敬供養する禿めとである。
行を起して善男善女の固続する中に座して普く示現す
︵一︶
門の顕示に於ける菩薩行の相接不断なること1を合明
に棋に往謂することを示現すると、二、應化身を垂跡
したもので、慈悲によりては生死の門を示現する菩示薩
硯すること1である。
たものである。﹁相続不断﹂と云ふ語は各モに係りて 第四段 身業の神変
生死の門を開示する菩薩行の相按不断と云ふこと浸奥
身の紳欒には二種ある。即ち一、一切如来の道場倉
7βj
十地緩の序註に裁て
八ニ
に関しては﹁一切法界の如くに無碍の音聾、
て、常に大乗を絶えず教示することである。その中先
二、種々の言葉と文字とを以て、普く錘遼の幼に於
﹂念の問に諸の如来の大倉に諾すて、上首となると云
ー、青書を以て普く全世界に周過すること。
ふ意である。
法輪を護持すること1、如釆を恭敬供蕃することゝ
に関しては﹁一切如来・の法輪を護持し、大いに俳
づを恭
敬供養して承任する﹂と仰せられた。一切如死の法輪
︵一︶
を護持すると、大いに恭敬供首して承仕するとは同
説表
法を以て周過せしめ、一切の三時に於て、無碍の心
切法界﹂とは虞如である。﹁その如く軽碍に﹂とは無
具語で、供養は色等に依り、恭敬は奉事等に依る。
を以て蕨大の智境に及ぼす﹂と仰せられた。件の﹁一
︵二︶ 應化身を垂跡示現することに関しては﹁一切
菩薩の事業・決心の平等性の加行によりて、一切世
著界
なることで即ち法螺である。稀讃をなす焉に﹁説法﹂
に身を示現するを得る﹂と仰せられた。一切菩薩の
す事
る。青草の説法であるから﹁青草説法﹂と云ふ。青
業﹂とは有情の利益を成就することである。その﹁
草決
の囚は法螺の換言である。それ故に﹁間遠﹂する。
心﹂とはよい誓約である。その先行としての﹁平等
普性
く一時に照す識が起る故に斯様に云ふ。外の語なら
の加行﹂とは貪染と瞳志となくして、調御と順應と
ばに
出来ることではない。
ょりてすべてを成就することである。その韮は一切﹁
の一切の三時に於て無碍の心﹂智を有する桝の彿≠尊
唯所知のみを云ふ。彼等の境は一切の堆界で、﹁一切
世界に制御と邁應との身を示現すること、即ち﹁身
彼を
等を斯様に云ふのである。意言は外に成就せぬ故に
示現することを得る﹂と云ふのである。
の世界に佃⋮碍の青草説法によりて周過するから、一切
の三時に於て無碍の心による智の一項に過沸すろLのが
●
第五段 誘発の紳欒
語其の帥優にも亦二種あり。
7r//J
十地経の序詐に就て
造
経る
■
nidぎa
b野手pa
bh担l笥a
b訂払・paとあ少、COrdier氏がそれを梵諾
此題舵は赦文ですhags・paSabnu官md?Sde官
g−e㌣gshi
s已ra
bshi
八三
扱今の序託を賢首大師の華厳経探玄記巻九の詫繹と
りを来したものであらう。
混線し、それに肇晋の類似も手樽ひて、か1る妙な誤
く前のgshiと次のb訝dとの前年後年が筆先の際に
とある。この閃は何の意味をも成さぬ窺入字で、恐ら
「ノ
7β7
﹁周遍﹂である。如来の智填たる一切の≠界に速かにや細科の番耽等は便宜上、私に附加したものである。
準晋の宣布をなすと云ふ意である。
︵二︶ 大乗をよく普く教示することに関しては﹁一
da掛abhロmi
とされた。.定めてさうであらうが、通例梵文蔵詩聖典
切菩薩の赦﹂等と仰せられた。﹁菩薩赦﹂とは大乗で して卸rya
ある。.その功徳の積集とは功徳の完全園満である。そ
の極めて園満に成就したることは、不可誼の幼に於て の定法として先づ﹁梵語では⋮﹂と梵題を掲げ、つい
相接不断に説いても診いても、かくの如き不思議な功 で﹁西赦語では二﹂と薙譲の題を上げて本文の諸に入
徳の説明、功徳の種菌は黍くることを知らぎるもので る格式とは興りて、今の序詫にはその梵名題がない。
ある等と斯様にのべられた。即ち無量劫に於ても大乗 また諾者名もないことは前にも述べた通りであるが、
︰⋮・g−eレ・gShi
の功徳の諸の教示、不可思議の功徳の説明は轟きないこれ或は作者が丙蔵人でないかと疑はしめられた鮎で
コロフヲン
あつた。荷ほその尾題には
と云ふ意味である。
かくの如く余剛毅等に廣大の栴讃をのべた。彼等は
菩薩の集合申あ上首であるから﹁彼等﹂と云ふので、 即ち聖十地控の四序の誌︵⋮Ca︷弓nid賢abh川笥a︸
繹迦意阿閣製
各々に栴讃をのべるのだと見るべきである。
聖十地控序誌
*
巳上は序詫全餞の珊澤であつて、申の科段の見出し
*
十地紋の序註に就て
比較するに、元来被れは原文を註したもの、これは漢
詮▼不レ可レ壷
八田
詩を辞したもので、場所から時代からすべての状勢
とが
結歎してあるから一往尤もな分科と云へる。而して
異つて居るのだから、・比較することそれ自膿が抑
此と
詩無
文は一字の相違もなく薙什と菩提流支との諸に於
理ではあるけれども、それを考噛しつゝ敢へて対照
てす
も亦同様に見受けられる所である。
れば、先づ序詫の第一段現前授記の不遇特を以て賢首
其他の科段は全く別な見方をして居るが、それだけ
備さに諸徳を具することを歎すとして、此の中に菩薩
に修する所行を擁することを明し、後は廣大の三業に
捗りて勝進の徳を明すとし、その中、前は殊勝の三業
するは宜しくない。然るに賢首は今の第四段第五段に
は簡二定英人一と科し、諸大菩薩の人饉を定めたも
両の
者と
の特徴を蚤揮して居るわけで、一を以て他を非議
し、且つ十地論所引の経文に
一切不遇轄、皆一生待二阿籍多薙三荻三菩提−
とあるに省みて
叉此菩薩、眈並悉是一生補庭
分して明してゐるに封し、賢首はその各段に小介して
とも示ふ。乃ち今の第二段併任隣近と科した一生補
三鹿
業の勝徳を見て居る。序詫は第三段己下に三業を大
の文に細心の注意を排ひつ1第一段第二段の意を組合
して菩薩の人偲を簡定す′と科したものである。 詳しく三業の徳を述べた。かくの如くして此雨音の問
次に序註の第三段己下を以て総じて菩薩秋穂と科にし
一脈相通する考へ方を見得ると思ふ。
且つ第五段の前年までを別欺とし、その後牛を楓歎と
してある。蓋し六十華厳に依れば上釆菩薩の諸徳を訟
じ終りて
如レ是諸苦醸摩討疎、功徳無菟無造、於㌫薮功一、
γβg
役.
俊
雄
にし、以てその道統への光明を得んとするにあり、且
者
上
つは役小角の侍を考察することは、修験道その後の襲
行
村
あり、そして期する所は彼がその組と仰がれる修験道
役小角の生涯の事蹟に就いて俸へられてゐる所は、
連攣遷にも幾多の開聯を持ち、示唆を輿へるものがあ
の前期、如ち具標的形成にいたる以前の宗教事情を明
その大部分が宗教的信仰の生み出したものであり、そ
ると思はれるからである。
∵
れが時代を経るに従って、益とその度を高めてゐるこ
から、その倖は幾多多彩にして濃厚なる神秘的色彩に
るがおそらく大日本史であらう。即ち撃一一七、方位
最も要領よく集大成的に記したものは時代はよほど降
役行者に就いて俸へられてゐる所を簡単にして而も
〓
とは、他の宗絶や組師と仰がれる人々に於けると攣り
はない。而も時代が古いだけに、叉彼がその組と仰が
染められてゐる。後世の記録は暫くこれをおき、初期
れる修験道の民間信仰的性質から、山岳と関係多い鮎
の記録の申から、これを少しでも明な姿に於いて捕へ
ようとするのはこの小論の目的ではあるが、カタ′ぐ、 俸、列俸一五四には左の如くある。
八五
役小角㌍茂公氏。大和高木上郡市原村人也。敏悟。
者
これを一つの足場又は辛がかりとして、奈良朝時代に
行
撃師氏i菩二呪術可年三十二葉レ家人二葛木山可絶二粒
役
於ける宗教思想や民間信仰の一面をも覗はんとするに
グー妙
役
行
者
八大
食︼騒二債鬼紳可汲レ水探レ薪唯意之随焉。有二不レ用
りレ
、後者は小角の事蹟がある程度まで俸託とたるか、
ことが容易に察せられる。従ってこの記事は、小角の
又は語り俸へられるにいたつた後のものの附加である
命者一則呪縛レ之。韓鹿足従畢∩軍一其能一撃疾妄惑Ⅴ
衆。文武帝三年謂聖二小角可.騰レ巫亡去。吏不レ能二
に関する最初の古記を調べることから励める。続日本
かゝる集大成的な記事がどこから釆たか。先づ小角
赦得レ還。後以二絨鉢一盛レ母。浮レ海而去。
としても、一部の人の言ふ如く、これを以て彼を倖詮
この記事が、小角の事蹟の俸誼化した後のものである
修挟であることからも首肯し得るであらう。然し恨令
ことは、技記の成立が光仁帝の詔による屠代の賓錬の
滅後、その事蹟がどれ程か俸誰化した後の記録である
逐捕叫牧壷ハ母可小角白粥就レ執。流二子伊豆島可逢レ
紀文武紀に、
三年五月丁丑。役君小角流二千伊豆島ヅ初小角任二老 上の架窒の人物とすることは山木ない。韓国連巌足の
武智麿の生存時代を去ること飴り遠くない。︶にも見え
木山可以二呪術一稀レ外。従五化下韓閣連廣足師焉。 名は藤原武智臍侍︵檜延慶の著、天平賓字頃のもので
後軍奏能用蕊以二妖惑可故流二配輿庫相俸云。小角
と言ふととは、小角が特殊膵れた智識又は技能の所有
てレ
ゐて、か1る立派な歴史上の人物が小角を師とした
能役二使鬼神可汲レ水沫レ薪。若不レ用レ命郎以レ呪縛
之。
叉呪術に長じたと言ふのもヽ後程明にする様に、常時
とあるだけ一である。績紀の他の個所にも多く見受けら 者であり、歴史上の人物であることを示すものである。
れるこの筆法は、この記事が時代を隔てた二つのもの
の﹁故紙配慮﹂までと、後年の﹁≠州件云﹂l以†の二
こ1にも亦一種勝れた法駿の問え高きものであつたこ
るもの1あつたこと、その他外道と柄せられたのは、
から成つてゐること一軍看破するに難くない。即ち前年 大陸からの新智識に洗躇され、教化の自由にして大な
つの部分である。前者は小角に関する事賓の記述であ
耶昭
とが察せられる。その呪術の内容が如何なるものであ
︵四︶
役小角わ配流は戯足ではなく一言、H紳の盈に
ったかは明ではないが、後人の相悼ふる研によれば、ょり、而もその理由が﹁謀時傾﹂となつてゐる。
﹁役使鬼神、汲水探薪、若不用命釦以呪縛之﹂と言ふ なほ、この外に、役小角が諸両を喝して葛木山と金
のである。また、その能を害さんとして親するに妖惑峯山との問に橋を架せしめたこと、朝鮮に渡り道昭が
を似てしたことから見れば、能とは恐らく呪術に長じ法華控を講じた法廷に現はれたこと、日本の紳が鬼神
たことであらうし、それは庶民に封する吸引力であり、
として取扱れてゐること、等が蛋異記に於いて新らし
は、その内容の畿展と、新らしき要素の介入附加によ
この故に妖惑とされたのであらう。そしてかゝるものく物語られてゐる。かくして績記に於ける二つの部分
が流配の理由Lされてゐるのである。がこれを究明す
るために、績紀のこの記事物語が畿展した婁輿記の記 って、憲兵記に於いては結合されてゐるのを見るので
三
載すかところを調べ、績紀との攣化相違の日ぼしき鮎 ある。以下この四鮎に就いて考察を進める。
を要約して指摘すれば次の如くであぇ。
ご︶ 役小角が優婆塞とされ、俳者となつてゐる。
︵二︶ 役小角の呪術が孔雀明王の呪となつてゐる。
寺院をして園家の官酷と化し、恰侶をして官僚たらし
修行者である。奈良朝の積極的な大規模の寺院経営は
傑婆基とは言ふまでもなく、特殊な在俗の信者又は
︵三︶ 役小角が神仙となり、呪の効験が方術の思想
めた。墾田地の無制限な膨脹による寺院の増加興隆と
︵仰二信三賓一、以レ之禿レ業︶
と結びりいてゐる。︵作レ仙飛レ天、壮二五色軍飛二伸虚
行
者
八七
封する人心の吸引力であつた。こ1に勢ひ寺院制度の
之外∵⋮︰吸二吸着生之嘉一⋮⋮被レ葛餅レ松⋮︰・課
洋役
二の
海制から自由であつた檜侶の身分は寺院と恰侶に
上一飛如二簸鳳一︶
役
7アJ
役 行
者
八八
確立と倍尾に封する制限と規定が生する。年分産着の とあ.る如ぐト先づ寺院外の別の道場に於ける教化が禁
制と檜尼今に見られる如き恰侶の身分乃套行業の規定 ぜられ、並にその教化に於いて﹁妄語節約﹂者は還俗
ツ
サ ハ
七√ンエ
妄詑こ那耐叫及隙二常長縮l粛、常道俗
凡竹尾、非
レポニキ院︰肌宰︰道場小栗レ衆教化、並
は、大仰造営の宰糞に協力し、これに随伴するものであ
りながら、而も反面、時の中央集櫛的傾向に否定的に
○〝
打
凡臍尼、トニ相吉凶べ及小道巫術療糀軋
の規定となつてあらはれてゐる。かくして﹁凡そ恰尼
ワニシテシラピ七シム
はこれである。即ち朝廷から官陳を賜って刑家する以 と云ふ厳罰に虞せられる。更にそれは
外には正式の恰侶となれす、伶形を服することは許さ
れなかつた。故にたまく俳道を修行しこれに踪依す
る人があつても、容易に僧侶の仲間に加はることは出 にして繹行修道する者は、意に寂静を聖みて俗に交は
来す、従って恰侶にあらすして彿道を修めんとするも らす。山居を求めて服餌せんと欲せば、三綱連署して
のは勢ひ山林に修行し、浮城に静居しなければならな京にあぇ者は伶綱玄蕃にふれ。外に在る者は三綱圃郡
かつた。故に之等の人は在俗の士とも興るが文一向の にふれ。寛を勘へて並録して官に申せ。山店の隷せる
出家とも同じでなく、これらの人々を栴して便婆英行 囲郡に判下して、毎に山に在ることを知れ。別に他庭
者と言ったのであぇ。寺院に入つて修行するを得す、 に向ふを得す。Lと規定されて、恰侶はその教化も束縛
寺院の外に於ける教化と、而も吉凶桐稿を説き、病
又都合の表面にあつて教化するを得ないものが、次第 され、移住の自由も輿へられてない。
にその敦を檜し、かくして優婆来行者が民間に増加
し、山林修行の凪が起って来る。このことは必然的に 気治療等をなすことが、如何に民間に迎へられたか。
ビ ケ
結びつき、墾川の開饅に封する刺激ともなつて、これ
公認の臍侶の身分規定と不可分の関係を持つて来るの その民間に於ける勢力の扶植は農民の利益や要求とも
チ
である。即ち竹尾令に
ソニレテズメルニーナチメγヲき
一− ヰ
であ
り、不茎の弟子の慧兼
︵A﹂︶●召e
海
か誹である。小爪わ配流が文武三
る。この故にこそ、後には重用された行基も、骨ては、
︵A.D.筈︵こであるから、買典記を弘仁年間︵A●D・
働きかける一つわ契機しLもなつた矛爪た含むものであ
︵養老元年︶﹁朋筑を構へ、稗衝に零愚して、妄に罪栢
讐○−∞た︶の作とすれば、峯海のわが圃への勝木は、
︵A.D.可彗−筈豊から、蛋
を説き、百姓を妖惑し﹂とて懲戒されたのである。か
その直前か同時である。然し諸鐙の持来がそれ程早く
が悼法し、その踪朝−は大川元
くて時の伶侶の身分行業の束縛と相反して民間への教
︵A.D.コ麻1∞︺ご
化が要求される。而も出家への希望を偶賛する諸侯作
その信仰を流布するかと一∵ふのは問題であり特に巫海
然しながら、これは︵イ︶純密の賂釆流偉から言ふこ
雀明王呪を修持したと言ふのは、年代的には矛僻する。
龍一︶
優姿罪の増加は必然である。呪術に長じ、妖惑とされ
と、︵こ不容諾の孔雀明王経三巻の完諸に就いて言
は弘仁六年まで高雄に罷って出です、況んや小角が孔
る程、庶民に封する吸引力と教化力のあつた役小角が
ふこと、の二つの立場からである。
郡密が懲され、奈良湖畔代侍釆の経典は殆ど矯部のも
︵イ︶わが国には繭大師に先立つて古くから所謂古
のであつたと言っても美文なく、これが相常に流布
者
入九
へての密教化への行進であつたことはあらゆる懸から
れ、その基調が密教的のものであ少、全彿数が足並庵
し、奈良の仰教が仮令表面の談義が如何なるもので居
術が孔雀明王の呪となつてゐることゝ紺聯して考察さ
四
行
孔解明王澄三巻は唐の不窒三痺
役
︵A●D●3ひ−ヨe
れなければならない。
も合するものである。このことはなほ、次の小角の呪
●を仲通の修行者、優姿塞とすることは霊異記の作意に
優婆塞と呼ばれたとて何の不思議はない。そして小角
れた庶民への教化と山林の修行とが方向づけられる。
は満たされてゐる。こゝに私産の何が増加し、禁止さ
773
︵
者
詞羅娼、香城等に就いてもその呪術の内容がそれ′ル
九〇
賽許し得る桝である。然らば如何なる密教が行はれ、
に俸へられてゐる。が今問題の孔雀王の呪に就いて
役 行
如何なる紳呪や密呪が行はれてゐたのであるか。これ
は、高伶倖巻一に、東晋の畠戸梨密多薙が元帝の時、
l\
に就いては、少し廻りくどい棟ではあるが、先づ件数
大孔雀紳呪経、孔雀王難紳呪控各一巻を諾したとあ
︵託二︶
と呪術との関係から述べる。
り、そして
密書持二呪術パ研レ向皆瞼、初江東未レ有二呪法叫蜜
併教の本木から言へば、呪術による奇異の効験や、
それによつての1−ヒ問的瞞祉の追求は滅しむべきもので
諾一日孔雀王経↓明二諸所呪一
とあり、叉曇無識も孔雀王紳呪を始め廿有飴の紳呪を
︵註四︺
あらう。然し俳教の中には、印度古来の民間信仰や祭
祀所稽、諸経典に於ける部分的な矯呪や爽雑的な密教
諾し、﹁明解呪術﹂とある。かく高低侍には紳呪に長
病を蛙し、長詩を得て、生活の平安と車幅とを求める
れ、これによつて悪鬼の害を免れ、災厄憂苦を除き、
かくて支部の彿徒の問にあつても、呪術は常に用ひら
控二巻、養浮︵A.D.の∽ひーご∽︶
早くも梁の伶伽婆薙︵A.D.−詑皇
ことが知られるのである。即ち現存のものとしては、
巳にこれに先行する榊呪や孔雀の呪接が課されてゐた
さうすると不塞が孔雀明王控を諾する以前に
ことは、廉く行はれてゐたのである。晋苔第十九や、
巻、諾者不明の大金色孔雀王呪経一巻づゝ二部があ
︵ロ︶
じて鬼新を︵駆使した請は他にも樺山あるのである。
︵註五︶
的思想が早くから混入し、これが三≠紀の後年から七
≠紀にかけて大成され、三≠紀後年には早くも支部に
計三︶
法菟珠林第六十一や高恰侍等には多くこれらが記載さ
る。移しき密部経典の吾が囲への移入の小に、この穐
将来されて、幾多の紳呪の侍諾を見てゐる程である。
れてゐる。榊へば、仰圃澄に就いて、﹁幸浦紳呪、役使
の紳呪は将来されてゐた。
諾の大孔雀呪王粁三
諾の孔雀王呪
鬼物﹂﹁†里外部皆、徹見葦申﹂などと記されてあり、
,−d
.
所で重異記q役小角の記魂の.題すに咄は¶傾瑚孔雀
虹圭・⋮!
紳通飛行自在
○ 明王呪港﹂とあるのに、内容には、﹁修行孔雀之呪
﹂、更に
︷法
あり
となつてゐる。︵なほ後の扶桑略記には﹁閑孔雀之紳呪﹂
︵註七︶
諸々の龍王の名と話が見えてゐる。
︵託九︶
不察繹の俳母大孔雀明王控には、先づその序に於い
︵証人︶
とあり、元亨群書には﹁孔雀明王呪﹂となつてゐるが なる詣沙多架摩詞里史以下の大仙人の請があゆ、な托
これら後のものに就いては今は論じないこと1する。︶
これはおそらく上に述べた如き事情と理由から、内容
の方の﹁孔雀之呪法﹂の方が正しいのではないかと思 て、
此軽石大神力、求者皆瞼
﹁起慈心﹂としてその功徳が述べられ、更に
腱悉皆解除
︵証十︶
︵註十こ
孔雀明王経の俸釆は後であり、叉孔雀明王を本尊と一切牽苦、一切疾病、一切餞餓、獄囚繋縛:::之
役
行
者
檜伽婆薙諜の孔雀王呪経には
や功徳に就いて検べて見る必要がある。
であらうか。於定か孔雀王の呪の内容、特にその効験
九一
記の﹁役使鬼神﹂は勿論、塵異記に於いて現はれて釆
や飛行の力ある仙人の虚基酵歩の請だけであつて、綬
之に由つてこれを観れば、伶伽婆薙の諸には神通力
ば何故に、小角の単なる呪術が孔雀のそれとなつたの と記されてある。
の紳呪の停来は奈良朝時代巳に行はれてゐたが、然ら とあり、叉﹁呼召鬼神﹂﹁不能名寄﹂
しての修法も後である。︵託車照︶然し、孔雀王経特にそ
○
からうか。
は孔雀の同一から﹁孔雀明王﹂と苦かれたものではな の毒悪は、この経を許すれば忽ちにして、﹁捨除暴患﹂
仰が盛となつて、題目だけ﹁孔雀明王﹂となるか、又 とあり、一切の悪病、一切の鬼神、一切あ怨敵、一切
︵許六︶
はれる。﹁孔雀之呪法﹂が平安朝以後に孔雀明王の信
○
γ帽
者
九二
朋王を本館としての修法もこの時代以後。内田信
寺、仁和寺所赦のもので平安時代のもの。又孔笹
役 行
る諸に相普する内容は、不容諾のものに於いて始めて
大正、一九、四五大中、四五七下−四五入上
四五四下−四五五中、解界に注意
乱︵七︶
同
同
同
四一六上−中
四一九中−四二〇上
︵大正
︵大正、一九、四八一下
︵大正、一九、四七〇中1
四七一上︶羅什諦のもの
なほ後の義渾諾のもの
一九、四一式中−下︶にも同株のことがある。
−四八二中、四人三上−中︶不空諾のもの
同
大正、一九、四一五上−中
同
存在し取小別の風教内容が加味されてゐる。そして役
︵許一︺
れて、これら沸教の呪術の中には印度侍塞のものには
花た嘆かせ、枯木に芽をふかす様な幻怪たことが語ら
役する事が記されてゐるが、なほこの外に鉢の庫に蓮
己に述べた仲間澄や菅域の倖に於いても、鬼神を使
玉
計︵十こ同
計︹十︶
託ハ九︶
託︵八︶
教研究、啓一ノ一四︶
津m敬武、奈貢朝の馬経と情欲の靴曾的影感︵宗
教、孔雀教法私考、︵密宗畢報三六、三七味︶
之を見るのである。而も蔓異記の日米た弘仁年間には
不察諜の俸釆乃至流布は閃電である。︵こ1に買輿記
に封するある疑問の起らぬこともないのであるが︶か
ゝる矛盾と疑問は如何に解さるべきか。最後の断案に
移るに先立ち、なほ支部式方術や神仙の思想に就いて
見るの要がある。
託︵一︶ このオ盾に気附いたのは天保年間の行智である。
が折角の疑問も耕趣的な解決が輿へられてない。
木葉衣 上
許︵l一︶ 大犀徳城、奈裏彿放と解放︹某孜研究、新七ノ一︶
その他同氏の論文。橋川正、日本件数史、四九−
前に於什る密教の衆停に就て、︵密巧品十報、四人︶
五一刀。佐藤小吉、奈瓦朝史。小原洪秀、平安朝
託︵三︶ 大村四民、解放碇達志、巷一、一九−二三冥。相
応砕雲、鱒署彿数史 森[−1龍倍、員言解放の本質
誰︵Pq︶ 大正、五十、三二七下−三二八上、なほ同様の宜
貢元雄∴∵∴︶隼にもあろ。
は∵威記、鳩十二︶席代三摩記 ︵七︶同一化峰︹三︶
謹︵五︺ 大村、前掲、二二.五九−六一貫
臥︵六︶ 現存の孔基肌‡健一の甘いものは、法陸幕、金剛歩
那柑
小爪〃植にもかゝるカ術紳仙い内容が焼、hかてゐ,篭
紳朝可二使役一也﹂とある。勿論
後漢の時代に逓くこれ
支部に於ける方術の思想は古い。荘子、列子、史記 らの事が存在し、特に一般民衆に親まれ信ぜられてゐ
、託三︶
︵詫四︶
の封膵書や方士の徒は暫くおき、後漢の張遺陵以後に たかどうかは少し問題ではあらうが、彼の晋筈の中に
問題がある。後漢書に於いては、任文公、郭憲、李南、
も殆ど同様の事が記されてをり、道教の畿達信仰かち
商権、倍櫨、公沙擾、許塵、超彦、部玉、費長房、航 考へても、晋代以後この種の説話と信仰が、呪術景数
育意、劉根、華化、徐登等が種との方術に長じ、幻怪 的色彩の極めて濃厚な支部の民間に存在し、呪術が尊
の術を行つた説話が記されてゐる。それらの中で、高 ばれ巫者が活動したことは容易に察せられる。奈良朝
更に方術と不可分た神仙詮に就いてである。劉向の
を、こゝで注意すべきである。
文化が更に後の隋暦文化の急激な流入であつたこと
獲に就いて﹁草天文一暁二遁甲一能琴一便鬼神こ、費長
房に就いて、﹁能レ皆療∴衆病l硬∴筈百鬼こ、︵なほ費
良房に就いては歴代三賓記四にも同様のことがあぇ。︶
とあり′、文筆佗を﹁
で暁
はレ
、康成子、老子、影組から、陳子皇、封衡にいた
劉棋に就いて、﹁能令二人見いレ鬼﹂、叉彼が怖くと、
亡は
父後世の俗書であらうが、葛洪の神仙倍︵十巻︶
列﹁
仙俸
組近親数十人背反レ縛在レ前﹂
蕃性之術こと言ひ、徐登の僕に薫術を行つたとあつて るまで、九十二人の仙人の侍があつて、それは仙人生
巫現の従の流行が知ちれる。その外、水に入つて溺れ 誕誼、昇天詮、化人語、等に分けられよう。がこの中
す、火に入つて執宣す、雨を降らせ、枯木に芽をふか の昇天飛行誼は伸典の仙人の話の中にも入つて釆てゐ
︵謙二︶
せる等の幻怪奇異なる呪術に長じた多くの侍がものさ る。尤も俳典に於ける仙人とは、主として山林に浮虚
れてゐる。更に晋の葛洪の純朴子の地眞篇第十八にも して修道するものではあるが、これが支部の仙人と一
行
者
九三
﹁自見二共身中三魂七塊一両天釜地祇皆可二接見一山緒
川に
之な少、そこに支那仙人の特徴の一つである昇天や
役
777
役
行
者
九四
飛行と言ふことが、冊数の神通力を有する仙人にも持 らば物語の内容は全饅として根接の薄絹なもので一あ
ち来されてゐるのを見るのである。華厳経に於ける十 り、孔雀明王の呪の効験とすれば年代的に矛盾する。
神仙の中の飛行仙の話や、他方飛方の神通力ある修行 か1る紋隋と矛盾は、支那式方術と神仙の思想を混合
者の如く、彿家がその呪術を支那式方術に附合し、叉 せしめることによつて救はれる。これによつて婁異記
神仙詮をとり入れて、高伶と稀せられたものを仙人と は、支部式方術や神仙の思想をと心入れた彿家の手に
一緒にし、又はその性能の中にこれを織り込んでゐるなつたものであることが察せられるのである。
のは、俳教を支部に民衆化し、喧侍するために、常時の然らば何故孔雀の呪法が持ち釆たされたのであらう
信仰又は支那人の慾求等に適合し得る様に説いたもの か。物語り金牌の中に、この呪の効験に相常する内容
である。殊に支部人に尊ばれた紳異の術は俳従も亦こ のあること勿論であるが、併呪の威力計二不さんとする
れを能くし、支郵人に恐れられた鬼神は仰教の呪によ 意園があり、この焉に偶々孔雀王呪が探られたもので
︵計五︶
って容易に憎伏し使役し得られるものであるとして、 あらう。富永仲基が勘定後語に、大般若捏奨群の原文
示せんとする意固に出で、孔雀の法がとられたとは言
しかし、なほか1る物語が、如何に俳教の最膵を誇
即ち景戒に就いてもあてはまるのではなからうか。
道破した作者に於ける消息が、震異記のこの場合にも
こゝに沸教の優位、俳力の威大を誇示せんとするもの 批評に於いて、いみじくも﹁作控豪各月珍愛之言﹂と
であつた。
高恰俸その他に見られるか1る俳教宣揚の意囲は叉
霞輿記の筆致に於いても、充分これを察知すること
が出来るのである。こ1に軍規ハ記に於ける原文批評上
鼠〓されるす研が日収されてゐる理由があると〓心はれへそれが在来の川心想や常時い押盛、民衆の仁仰や榊−1呪
る。即ち前述か加く孔解王の呪法だけい効験であるな の功徳等からは全く奇想天外より一木る底のもので、奈
,7月
然餅奇なものであるた、hば、折角〃作者わ意岡弘多く
を一骨通称に把捉し得る途であらうり然らば以上の如
言主軸であり﹁妖感﹂が﹁謀時傾﹂七なつてゐること
第四の鮎、即ち役小角の配流が贋足の簸ではたく、一
は如何なるものであつたか。こ1に於いてか残された
き役小角の説話の形成された時代の祀合的宗教的状勢
わ勃黒む硯持し得ない。それけ常畔の智誠や民衆に應
じ紺る技に語上れたければた、hたい。菜異記の如き物
語が行はれるには、少くともか1ろ紳呪の力に紬心が
持たれ、かゝ,小物語を受け零れ得るまでに、信仰さ
いて一瞥を輿へる。
に就いて論述を進め、最後にこの時代の宗教事怖に就
れ、リー﹁れに新した情誼があ亘精度まで流布してゐたと
見たければならない。か1る民衆の仁仰に撮り、叉昔
鉦︵一︶
晋琶九五。大村、五入Ⅱ、津田差右吉、役行者
窟一、二二下、方術列停七二、上下
大村、﹁是印度析不鱒構文那快速可加也﹂六匹l文
時㍗柑説を浦して、而もそれらよりは新らしく、一歩
許︵三︶
大
上ノ七左︶
上則追法何張、乃古今造法之自然也﹂
︵出走後詰
なほ、﹁見識継興起之分、菅本山干州加上、不加
小柳司気大、逆数思潮。珊稿、道教。
侍考、軋潮三
註︵二︶
計︵四︶
進バ㍗説話の形式内容をとるにあらざれば、作意に滑
はない。︵この棺息は初期の切支丹煙道に於いても見ら
れる。︶こゝに﹁各自珍愛之言﹂も自ら制約されるので
乱︵五︺
あつて、役小角の他に就いても、それに就いての記録
それ自ら?内零には、これを冷静に甲的に検討するこ
とによつて、逆に常時民間の智識や信仰の程度をも暗
示せしめるものがあるのである∩
とは予じへ、骨⋮時の柾仲的ハ■小数的事情が、その時代の
説話俸説には映するものであること勿論であり、これ一1▲い主神に就いては記紀共に雄略人皇の保に大腰同
行
者
九五
を明にし、これと聯閲せしめて諭することは、叉内
様容
小話がある。即ち大仁が満城山に鯨撤し給ふた時、
役
㌻7ク
者
九六
として、歴史上の人物たる廣足にはその子孫等にさし
行
紀によれば、忽にlノて長人の丹谷に望むを見ちれた。
さはりでもあつたものか、これにとつて代らしめたと
役
そ.の両統容儀天皇に相似てゐるので、天皇は走れ紳で
あると思召され、その名をたづぬ給ふた所、長人の
も封
考へられぬことはない。勿論こうすると役小角から
へて日ふには﹁現人之油也。先栴王誇。然後應遺﹂
は、
その組紳たる紳に艶されたり、叉これを呪縛したこ
そこで天皇は﹁朕是幼武舎也﹂と宣せられたので、
と長
ゝなつて、物語り全饅の思想に矛盾と困乳が起きて
人は﹁僕是一事主神也﹂と栴したと言ふのである。ゐる。殊に小角を捕へんとした時に験力によつて捕へ
て縛に就いたと言ふ儒教の孝道の思想を盛ってゐるに
記によれば、向ふの山焚から山上に上る人があるら。
れなかつたが、その母が捕へられたため、自ら出で
その歯簿.行装、供奉等全く天皇と同一である。そこ
で天皇は﹁於姦倭国蔭レ吾亦無レ王。今訴人如レ此
﹂倍ほ吏である。然しこれらの矛盾や困乱はま
於行
い。
ては
と閃はせられたが、仰せの通りを答へたので、天皇
だ大
外にもあるが、作者の頭には浮ばなかつたと見るべ
に怒りました。供奉の者に失刺せしめられたが相手
くも
、只生地の葛城の紳であ少、﹁言離の紳﹂と言ふ瓢で
次に妖惑と蕊せられたことに就ては、逸するものゝ
簡単に持って行つたものではなからうか。
亦同じ行動をとつ鷲敷次の間答のあつたのち、相手
は、﹁吾君雄義軍而三ロ。錐1蕃事高二言。言離之紳。
葛城之二言主大神着地。﹂と言った、と言ふのであ自る
由。
であるが、人を傷け、これを排せんとする場合に、
て、政治的葛藤や勢力の桔抗が激烈な時、相手む打倒
即ちその紳は書きにつけ、悪しきにつけ、要するや
にゝもすればか1る謎妄の行はれることは普通であつ
二言居士の紳である。か∼る塙性の紳であり、且は小
〃ヰは川ひられるのである。そして記録が打倒された
角の故郷たろ粟城の地にすむ紳である式碑名にも〓して
、これを葬るための其醗的理由として、しばくこ
氷る︶。折から、小角を起したものを塞典記は三日主神
ア仙
者よりも打倒した耕ハ血にある時、理由と寧離ハ詐術
吉備大臣。不比等也。
北淡帥。決闘眞儀。道眠大僧都。春澄大師。玄肪。
とあることは、この間の事情を共催的に語るものであ
︵註一︶
止活殺は白衣である。こゝに変革に俊越する史筆の自
由がある。役小角の如く名門豪族の出であり、呪術に
ょり近いもの単語つてゐるかも知れない。こ1に後の
た﹁妖惑﹂よりも﹁謀時傾﹂の方が或は蕗者の意中に
るものとされるのである。この鮎に於いて、蕊せられ
相圃豪﹂とある。︶小角にかゝる意志はなくとも、かゝ
を傾けんと謀る﹂となつてゐるり︵彼の扶桑略記では﹁勝
とではなからう。果せるかな、釜異記に於いては﹁時
考・へれば、配流の事賞とその理由は決して意義なきこ
宮廷や都合の表面よりも、民間に勢力を扶栴し、堂塔
ものゝあることを示すものである。この鮎に於いても
ぅし、小角が時の要路と何等かの鮎で相容れなかつた
一で、何等かの政治的な理由に利用されたものであら
も解し柑られよう。何れにせよ、妖惑も時傾も事は同
や絶えざる政治的陰謀が説話に反映したものであると
記載は、奈良朝の末にいたるまでの政治上の反目闘争
尤も小角に対する綬紀や藁異記のこの瓢に就いての
ららノ0
記録のカが、厨初に決窄つけられた記録より′も、却つ
伽藍に於け′る讃諦や伸事法要を去って、山林の修行に
長じた折から、その庶代への教化力や祀倉的勢力から
てもの1眞相を停へると言ふ逆説の成立し得る徐地が
向つた修験の道風に先鞭につけたものとしての小角を
山田
ある。かゝる逆説にして可能であるならば、後の記録
文造、役行者、一六九−一七四方
日戒、修験道章疏三、二六三、その他の書
理解することが出来る。
諸
註︵一︶
ではあるが、吏に役小角に関する纏つたもので為る役
行者戯末秘蔵記に
小角是外道種類也。⋮⋮蹴一代斬繋猫猶以レ如レ是
訂
誼レ之。小角放言絶忠夫。就中専撃薩婆塞︼者徳
校
7ム■J
役
七
行
者
︵註一︶
九八
為されてゐる、が更に降つて持続紀五年︵一三五一︶
には呪禁博士の名や、翌年には陰陽博士となつた沙門
する事賓の指摘だけでは不充分であつて、これが同一
に於いても、方術や神仙の思想等、異域に於ける聯閲
に於い一−﹂火照∫解し得ると思ふのであるが、上の論述
ては前に述べた通りである。が翌年の大政官諭告にも
還俗せしめられてゐる。養老元年の行基の戒飾に就い
恰が、和銅七年︵一三七内︶には占術の智識ある恰が
も呼ばれ、方術と川じ意味で巫術でもある︶に通じた
の名が見え、大賀二年︵一三六二︶には、要衝︵道術と
の時代、同一の地域に侍釆交渉したあとを尋ぬ、更に
院外任山の行人の取締方を倍綱に命じて、伶尼が私に
紅組め記減と、重喫記に於けるその攣化等は、以上
それが、常時の智識や信仰となり、一般に流布してゐ
結晶であらうが、養老六年の︵一三八二︶の太政官奏
た鮎を明にしなけナれば未だ充分なる究明たるを期し難 開巻里合に出入するを禁じてゐる。恰尼令はこれらの
い。上乗の論述にもこれに偶れる研がなかつたのでは
言にも、
此年在天檜尼、不レ練二戒律叫浅識軽智、巧誰二光
ないが、今これを裏書する若†の事例を、続紀その他
から只摘記して見る。
教↓外厳二皇献↓逐合下人之妻女動有二事故↓自剃二
稿之因果↓門底座頭、詐二誘都真之衆庶↓内醸二聖
仰が緑化或は来朝したことが見えてゐろが、十年には
頭髪一轍部小室太上無レ懲一由紀一不レ願二親夫↓或於二路
巳に推古帝の時に、高麗の恵慈、百済の豊根と言ふ
百済の恰勧勒が来朝して、暦、天文、地理、並びに遁
\.ノ
衝↓負レ控捧レ鉢、戎於二坊邑↓害レ身焼レ指、衆宿場レ
一一ノ
甲方術の書を献じ、書生数人をして畢習せしめたとあ
常、妖此成レ群、初似レ循レ遺、絵馬−由胤
とあり、叉天平元年︵l三八四︶には﹁異端を単調t
トトし
る。附従がか1るものモ府らしたと言ふことは注意す
べきである。奈良の鳥粁桝に於いても蓮町力術の苗は
7.?g
印し、♯を︿‖して轟を作 民側に勢力た持ってゐたことは雰易に祭せられる。呪
幻術む蓄精し、:⋮垂符を封
の禁令が田されてゐるから、彼の伊豆への流配は、以
り、怯異を行ふ﹂ものを罰する詔勅が出、紳語意雲に 術的行為が禁ぜられ、これを行ふ者が嘘罰され、数々
は﹁好畢左道﹂の山階の伶の基眞の名も見える。
上の如き宗教的傾向の厨なるものであり、これが引つ
かくの如きものが役小角の輪廓であるが、後にその
か1つたのであらう。
尤もか1る詔勅重言にも、失点の場合に於ける事情
を考へる要はあるが、これらによつて観ても、恰尼の
徒が、怖法の紳現に加ふるに多分に支部式方術神仙の
思想む加味した巫術乃至呪術を以て、巧に民間に食ひ 家系、父母、出生と終焉、遠沈に就いての諸説、本尊
入少、或は吉凶を談じ、罪栢を説き、或は紳奇幻怪な の感得や潅頂秘記、種々なる奇蹟が俸へられ、諸山の蹄
術を行つて民心を煽ってゐた棟が努贅とする。民間信 関、諸寺の縁起に小角の侍がいよく豊富となり、多
仰は、卑近にして端的な功利と慾求とに應じ得る効験 彩となつて、所謂役行者として種々の俸詮説話の襲展
の貌念と神経不思議の信仰を中心とする呪術宗教的な構成を見てゐるのである。それは憲兵記以後の記録や
ものであることが、その第一の特徴であり、叉要件で 日記随筆物語、特に小角についてのまとまつた、役行
でもある。上に引いた例は何れもこの消息を俸へ、同者本記、役行者顛末祀赦記、役君形生記、役君徴集錬、
時に所在に行はれた呪術や神輿の信仰が、民間に浸潤 更に修験の諸富により、かた′〃∼修験道そのもの1蚤
石門茂作、篤経上より見たる奈哀朝の偶数、附接
はすべて別の稀に譲る。
することは、社食の安寧や秩序と相反して、その弊に 連と闊聯せしめつ1論じなければならない。がこれら
救兼三代終三
耐えられなかつたことを示してゐる。か1る常時の社
辞︵二︶
誅︵一︶
九九
食的宗教的事情を考慮に入れる時、呪術把長じたと言
者
ふ小角の周囲にも、これを慕っての徒が集まり、また
役 行
7‘\●、7
獅子像遭について
f厭
膠
獅子造像に
三
と
つ
護
い
て
法・∼−
︵績︶
︵AD六七年︶
木
であゎ∴
一〇〇
武家林石獅が建立されたのは
前述の如く漠代に至って某陵の石獣の申に獅子が硯 桓帝の建而元年︵AD一四七︶で即ちこれに遅れるこ
是に封し諸々の京大な石獅を有する南朝諸宝の陵墓
はれる様になつたが、果して之は俳教と全然無関係で と約五十年である。
あらうか? 先づ武家林の石閑に於てはその有名な芸
象石中には俳教に紺係ありと覚しき同様は一つもなく に於ては、梁朝の如きは殊に奉彿令崇厚く南方セイロ
又共の西観の北面下唇に刻したる縁起文﹁武家林記﹂ ンの小乗を鳩ぐと謂はれて居るが、南史に円く
ある。因みに後漠孝明帝の代、郎中秦惰、博士弟子案
基制並にその石獅は彿教と全く関係なしと見るべきで
彿傑五脹及顧長旋維摩喜
非人工
玉傑経十聴力至
中にも彿数的な文字は一も見川せない故に、武家林の ○柚子囲 天竺勢閥也 ︵中略︶ 晋義借初 始追使献
景をして天竺に俳教を求めしめ、播摩耗、竺淡間の二
元素五牢其王利利摩詞奉東電献十二牛又遣使奉献
ヽヽヽ
︵七十
︵中略︶束
発布緻士戴安遣手製
≠人耽之三組
梁大浦元年後†迦葉迦緋討黎邪遣使春夫貢献
ヽヽヽ
此傑歴晋朱乃瓦官寺
便高閃尺二寸三色潔潤形制殊特殆
沙門が洛陽に至って、
中岡有沙〓及穐揮之沃〓此始也
しし観音打十川巻繹老上心に記された隼は明帝り水牛十年
入港十三︶
アタメ
碑文︵所謂故梁侍中司従駐騎将軍始輿息武王神道石柱︶
此の頃の建立にか1るのである。その一なる甜憺基の
追使至つたが此の年は達磨入朝の年で、茹室諸睦も亦
と変通あり、宋を経て梁の武帝大通元年︵五二七︶に
r2ta。には一度もならなかつた。獅子の晦吼とは彿陀
り大庭象となり一皮は兎となつたが女人と虫と=ワ
子﹂である。多くの赴生に於て俳陀は十度獅子とな
々の舎耽の中の一はSakyasimha即ち﹁光族の獅
﹁獅子は俳陀及び俳数の象徴である。繹迦牟佗の種
早んかリン﹂に闘−二 ∴ノリー。レ︵l紆ロryロ。r恥︶ほ
を検するに、その中には主として始興王蒲憺の閲歴を
説法といふ意の術語をなして居る。故に獅子は護法
即ち晋か衣胤⋮︵m〇五−−⊥四一八︶組付来セイセン
示し∵俳教よりの影響は殆んど認められす、唯
≠
の蹟
聖獣であり彿法の精神を守護する。そのカと不揆
の字あ少、されど如此く親の喪に遇って﹁昧結滋批
Cbinese
悪を免れる強力な厭勝となつた﹂︵=Reserchesi㌢O
の勇猛とは選ばれて寺院の守護となり又絶べての邪
難離煩渇﹂の如き生活に服するは支部在来の習俗であ
く01一くーp、コ∽︶
獅子像造について
然らば彿教の申に於て獅子は如何なる意義を持って
俳数的な意義は認め難いのである。
一〇一
無量詩経、探玄記、賛理経、賓稽繹、円心益控、智慶
疏、法華経方便品1同踊刑品、経歴紆俳固品、同性
は砕邪厭勝の馬めの俸統的な陵墓の俵飾で、その中に 長阿合、中阿合、離阿合、均一阿合、華厳経、華厳
って此の陵墓の制度の巾に在つても、彼の正大な石獅従って俳典に出づることも多数で、
で、沸教の影響と認むべきものは極く僅少となり、従兎に角非常に重要な意養を持てることは明かである。
によつて死者の異相を希ふが如き趣旨は一字もないのと概説して居る。﹁彿教の象徴云々﹂は未詳であるが
SuperstisiOnS。trans.by M.Kenn
り、且つ多くの造像銘に見るが如き葬行に常つて俳徳
仰道俗××功高字掃馨穆惇︵金石粋編竺ハ︶
一一 〇加以深大道妙識若茎味絶滋胱身離煩渇釦囲能
7gJ
獅子像造について
論∵大毘婆婆諭、大袋控、■大和鹿論、宋高恰侍、臨 〇飛鳥及走獣宴不選師子
一
︹緋
済
摩
控
注︺
鋒︺
︵植漂㌔五旭一
︹臨
0帥子吼無畏音也、凡断言説不畏群邪異学、喩師子
再録、護法錬、大明度無極控、南淫楽紆、北捏梨控、
の如きは獅子の勇猛相を柄ふる庵の、
普賢行麒本、蓮面経、成賛論、普見律、正法念経、
○帥子一吼野干臓裂
吼衆獣下之
大般若、小品般署、︵バ鏡錐、地織十論粁、菩提資政
〇五蕗如帥子吼乃至無明如獅子吼
立正阿児址、勝要賛簡玉、淫楽軽骨疏解、繹氏邁鑑、
論、稔伽諭、本行集注、組廷串宛、
等正に勝げて数ふ可からざるものあり、小にも華厳粁
智度諭は数簡所に糾し維摩控、離阿含、法華経之に次 は獅子吼に閲するもの1例であるが、獅子吼は獅子 の
晦吼を指すことは稀で、却って大部分は彿陀の減法そ
のものを言ふ。
︹大智度論七、十三︺
五、護法獣の五種に分新し ○仰焉人中師子、仰所坐鹿砦床着地皆名帥千座
二、勇猛相を栴ふるもの
ぐ。而してそれ等の掲ぐる桝を大別すると、
一、彿陀に比するもの
三、獅子吼 四、獅子座
得る。即ち次に若†例を掲げると
王妃‖別輿之人坐金眺以六サ〓象獅千鳥淋
?は伸典い申に兄〓1∼し難い。乍仰相嗟画︵.Ep已a﹁︶に
護せる茹座、戎ひは獅子飾を有する侍医五意味するも
︹華厳疏二八下︺
︹華厳経四三︺
○庭於法座如師子
○智慧無畏如帥ナ
等は桝謂獅子座を言ふもので人中帥ナ釦俳陀の坐する
こ
︹思
研を凡べて獅子庫と精し、常識で考ふる如く獅子の守
㌍
○足人卯師子無断怖畏
︹法華経方便品︺
益
○我開架師子深渾妙音
わ如きは彿陀を獅子に比して稀したるもの、
︹智鹿論二五︺
0帥千僧机呼吼相︵カ媚丈骨、身肉肥満、山大眠長
等︶
7.ヾ■/
︹洛陽伽藍記五巻︺
絶と稀へられた≠は尤きに投射せる補史の記にもあ
あり、質際獅彩を有する倍林の存せしことも亦事れで り、奉仰造傑の風も非常に旺んでほあつたが、大村氏
も西晋以後摘朝一ハ代の彿教揖傑を記して
﹁王臣の輿偏庵めて盛なりしを見るべし。然れども
ある。
最後に第瓦の護洪弊といふべきものけ
要するに清朝の彿致傷は終に北朝の盛に及ばざるに
も殆んど北魂一代にして成つたと言っても大過なく、
の言あり、北朝の鴇像は艇倒的に隆盛で支那件数美術
似たり﹂︵彫塑篇一七一重︶
0焉護法域受持≠法能帥子吼名聞十寓
︹堆摩経傭囲晶︺
○彿沙蜜多誠芋欲壊鵜雀寺門前石獅吼王怖還
︹離阿含甘五︺
等がある。光等の観念が果して如何に支部俳敏美術の 獅子鴇傑も亦此の朝の遺作例の中に豊富に存在して先
北朝に於ける彿教は魂書秤老志に載せる如く紀元三
子に到る過程が暮されて居るのである。
上に反映されたかは大い濫問題の存する桝で何れ詳述 きの漢代の五大なる形式化された様式から唐朝の生獅
するこ4ゝし次いで茸作例の考察に移ること1する。
四
支那美術史上に於て漠代の隆盛を堰いだものは六朝 世紀の前年天竺の修飾間澄歎都に入つて後遺の石動に
の解散美術であ少、六朝の俳教莫術は南北を通じて北仕へて弘隆し、その弟子道安は前奏に仕へ、叉新たに
塊祐扱朝の造像が鼻も旺盛である。素より併教は西晋 西域より鳩摩薙什入つて符堅に仕へたが、涼州には怪
より南朝東晋に流侍し、鶏併の上に既に戴安道の如き恰曇無識あり、術数光歴に喋く後涼の且渠蒙遜毎に諮
高士あり、其の作る桝の併像五脹は、師千国奉献の玉 るに国事を以つてし囲遅隆々たりと云へば、沸教は箪
一〇二
石製仰像及び顧悼之の貫ける緋摩像と共に瓦官尊〇三 なる宗教思想としてのみたらす是等胡人の宮廷に射し
刺子條迭についr
;\\■7
獅子像造について
一〇四
ては先進文化の一般的牌系を以つて経世的指導に常り是を以つて太平眞君に先立つ造像の今に倦はるものは
従って其の信奉の様相も特殊なものがあつたと考へら僅少である。此の後高芸文成帝立つて復仰の詔あり、
れるが、此の前奏後涼の後を承けて勃然として興った ︵興安元年、AD閃五二︶興傑粒々として行はれ大安三
靡の北塊の奉俳も亦是等と同く異常の弘隆を見た。併 年︵AD四五五︶恰曇曜帝に白して京城の西、武州塞の
し急激な聾展を遂げた北塊の仰数は、北朝統一を番せ山壁に石窟寺を関屋した。之が有名な大同雲岡の石窟
る状宗大武帝の代に於て既に道家と共濫その憐寄百糾である。牧むる研の諸像は東西のあらゆる垂術傾向を
せ孝文帝の大和十八年洛陽に南遷して伊朗に同じく石
し故に彼の有名なる大滅法が行はれるに至つたのであ超越した厨高峯に立つ。ついで北魂の極盛時代なる六
る。.時の詔−と日べ、
﹁骨是れ前世漢人無頼の子弟、劉元眞、呂佃密之徒窟を開く。︵AD四九四︶之龍門の大石窟である。その
胡人の誕言を乞ひ、老荘わ虚恨を用ひ、付して之を含む所の大少石俳数千、北塊より奔周隋を経て唐代に
左す。皆眞寛に非す。王法をして度して行はぎるに 及び此の両石窟ともに多数の獅像を備へて摺る。故に
垂らしむ。荒し太姦之魁也。非常之人有って然る後其等に他の諸々の憫別石獅像及び個別仰傑の装飾等を
乍併製作年代の北魂に屠するものと萄ぺられる石造
が展開される。
能く非常之事を行ふ。朕に非んば執れか能く此の歴加へて通観するならば支部併敦夫術上の獅子像の歴史
代の偽を去らん﹂
と。太平眞君五年︵AO、四囲由︶如月望日に長安の
沙門む課し仰傑を焚破し、緩いて眞渚七牢三月に圧長 獅傑は本邦所在のものは大倉葉音館収蔵のもの︵第一
安のみならす全国の諸吊刑吏に命じて長幼となく沙〓 刷︶むはじめとして、‡要なもの約十艇、巳里純音費府
を焚抗し、誹々の仰閻形像及び胡紆を轟く撃破した。 に赦せられるもの約七脂で、︵後者は0シ▲レン着こCh・
ア∫g
i−蒜紹Scu首t亡re。問鯨、一J︰‖﹁、
で一
あ一
る五
か、
ら︰
年八
代九
順、
に正確にその一様式牽展の過程を是に
依って詮明することは不適雷である。故に之に代る資
先述の大武帝展君五年及び七年の
−
昭和五年二月国
は殆んど解後の傑作ではあるが、無銘にして年代は不
であるがその用途は一定し難い。且是等は獅俊として
中には倭少柔軟にして猫の如きものがある。凡て石造
望典君滅法以後のものであるが、猶北魂彿像の初期に
氏所蔵大安三年九月廿三日︵AD四六〇︶在銘繹迦像
一〇五
麗し、その藁座には博山櫨及び供養人物を中に挟んで
左右に虎の如き獅形を牛肉刻に出して居るが、之と同
獅子像法について
明であ少、件円状態も不詳で稚かにその形式及び手放
に狼の如き痩形の獅形を有して居る。次ぎに囲
華七二一統参照︶があり、その後背の側面下部
ちAD三七〇年前後とさる
繹迦像︵散開野博士にょつて某容重複燕時代即
大倉薬石館収蔵河南味矩永楽府束縛寺出、石彫
滅法を免れたる作例の中に、奇石のものとして
︹第一種︺
種を摘出する。
ばたらない。次に夫等の示す特色ある株式若干
叶米年を越え、形貌も魁偉にして正眼宜廿を備へ胸
料を
として銘記によつて年代の明らかなる怖像に附随せ
張且恥旺針路張って堂ふ女る賂勢をなせるもの多くる
、獅形及び先述の雲岡龍門の諸石窟内の獅像を探らね
一九〇、一九一に収録あり︶小は高さ約十糎より大は
7吉9
様の虎形のものには冨岡第十九窟左洞入口東側坐像の
固 一 策
む鮎などよ少専門家によつて北魂代と認定されたもの
獅石館芯集倉大
四四二︶在銘石彫菩薩像にも非常に奇異な大いなる義
二にも在る。一方江藤長安荘収赦の太平展君三年︵AD
閥鋒第二巻囲円周巷照︶亜びに前出シレン著聞鋒〓ニ
方形嘉座の左右、︵常盤博士、紺野博士、支那沸教東蹟.
像の特徴と合致するもので故に衣はされたものは印度
肋間に形毛の突起を宥するのはサルナート以下印度獅
部中央より前肢の問にかけて形毛の表現あれ。加此く
に互口と玉眼をつけ、牌肢の制作は簡粗にして、略胸
る据躇形の小獅像で、極めて小脳の割に五大なる頭部
︸〇六
を被れる獅形をその姦座の左右に有して居るが之は健
侍釆の手性の著しく退化せる表硯法と見ることが出来
柵ナ促進について
陀羅彿の作例の系統をつぐものと見るべきであらう。
︵伯林民族軍博物飴収蔵Dr.Ludwi崎B呂llhOfer
︰。
N而
弓して雲間に於ては第十九備に見る虎形のもの一
る
同時に西域泥塑像との近似堅示すものであるが、併し
此の尻孝二年銘半纏夜は北魂の出初期の楳式を示し、
脚彿と熊形獅子の関係は能門にも及び、苫陽洞の中に
部交脚俳に配せられた此の熊形のものである。此の交
岡錬第二雀第升四、升五、升八各固所載︶のものは全
derGrandharaコas芹、a例
bを
b.
の麻
ぞ参
い照
て︶
、第十、第十一、第十二各窟︵俳教史蹟
獅予は健陀薙俳と支那彿に衣はれるのみで、その中悶
は多くの■同難があり、之亦注自すべき硯象である。
Datierung
に付すや西域俳にはその例を見ないのは注目すべきで
現、胸共に丸く一方の前肢を﹁招き猫﹂
の如く饗げたる畔蹄形小獅子形で、宕暢洞北壁黒宝生
︹第三種︺
ものは虎形に卸するもの多きを特徴とし、他に特種な
兄弟達俊二面、及び吊嘩摘勒像′各々彫叩描川七九、
ある。即皇貼常或ひは大安に嵐す∴′北地鶏像の初期の
獅形を示すものもあるが、此の虎形け或は道教よ打の
に井すしてその毒座に席†せる摺紋は初期〃硬化を離
閃八〇周囲載︶〃蓑座下左右にれり。是等諸燦は安血伸
︹節∴抑︺ 之に別して﹁熊形Lししもムふべく之は雲
れた流暢さを有し所謂末改正北の形式で、法隆寺秤迦
影響とも見られる。之等た第一種﹁虎形﹂と解する。
間龍門両石新中殊に所謂交榊仰か茶匪の友和に脇侍す
伽
形獅子を持?大安仰の形式でもあつた。同畔に致に
三尊の先駆をなす特殊形式のもので、従ってそれに附 山城丁一㌧典んで〓ろこしLが仙徴であ∴∴〓.皮け丈先ユ言い出
随する此の﹁招き猫﹂形も先きの熊形に封して明nに別
的なものを内赦して居
彬毛に著しい差異がある。叉大いなる二岐わ尾を有し、
進めるものゝ如く、所謂阿呼の相は現はれて屠ないが
棟の様式をなし東魂より北舛への方向を示す研の特質 於ては左右の獅像は若干形を異にして雌雄ゐ表現に迄
ると見る好きである。
㍗け
比して造かに連理的に
であるが従前のものに
は第三経と殆んど同時
ure−pr=㍍﹁巳Ⅰ︶
rOductiOn
angA−tarPiece.。と栴するもの
fOrdCO−︰ec︻iOnにある
the
Chinese
︵L.AshtOnこnt・
Of
布銘の鉄石︵彫塑㍑五川二間所載︶︵柿間第二は︶その
閏巻研哉︶、叉大鰐同制のものが葦北湖南壁鶴r彫塑篇
肉彫りの作例が龍門智運洞の壁面にあり︵仰教史路第
等の諸例があり、その状は
叉願鰹育二十筋F牧石窟︵Pc≡Ot︰
theStudy
frOm Tu
此の新のものとしては眈に英国BradfOrdのRuther・
は稀薄であると同時に
TOuen・HOuang.祈誠︶
年代的に
約諾的傾向に富み華麗
長尾大にして口吻突糾し全く稲荷の狐の如きものがあ
︹第m種︺
な大災の加古彬毛を掲
る。而して此の彬毛豊にして招き狐の如く一方の前肢
こAccesscr︰es
げた装飾的な形態で、
を馨げ正目を閃いて全く第一固と第二固を綜合せる牛
intO
正光六年︵AD五二五︶
顕著な株式を表はして居る。此の形式のものは雄花洞
垂一五固︶永撃一年︵AD五三三︶造銘拗勒m小骨■座浸
一〇七
東壁俳名、︵例数敗績節二春盲拾岡︶及び同浦壁詭宕方
獅子作造について
一
ある。此の利運洞のものは故に唐代の製作にして全く
足鉄像A ̄ ̄F抑欄 造年六光正
葦座︵彫塑篇五二五︶にあるもの等倍すべて申美に博
閲 二 節
獅子像法について
ヽ
生獅子の醒をなしケこ括る。.如此く此の第四種に展する
一.〇八
犬形石獅に向つてその抜式の聾展は明白な一直梯をな
形式は最も絶無的且装飾的で後代獅傑の襲展に封して して居る。叉左方のものは叉之七重く異少.圃頂にし
京城組督府前に存置されたる杢胡の間作にか1る石
最も多様の要素を捷供するものとして幣接な踊聯を有 て口達の手法も全く固式化退化せるもので、現在朝鮮
して居る。
せられ、膏王城の正
︹第五種︺ 龍岡石窟苗陽洞北壁本尊下方の左右の狛
獅︵第三国︶と同制を示して居る。之は通稀﹁海蛇﹂と稲
犬式石獅︵彫塑篇四八六闘並びに沸教史蹟二巻八八国︶
′\
、是も大いなる焉を
られるものであるが
難鐘護の焉めと栴せ
何故か王城の地の火
花山岡岩の石像で、且
に置かれた東大なる
門たる光化門の左右
京石
城獅
桁
督紅
節朝︶
三
田
﹂Hn
蛇
,Y■一
は岩盤より彫起されたもので周囲岩壁の俳名の連傑鈴
に永年三年同巳年︵宜武帝AD五一〇、五二に苦る︶
等とあるに依り、大鰐AD五〇〇年頃の作と見るべく、
従って年代的には第三、四種に先行するが、是は先き
に掲げた諸例がすべて俳座に附随的に作られた小像で
あつたに封し、その何れとも異り全く狛犬形の桐立像
である。その右方︵向つて︶のものは正確な膵路型に
して正大な眼と所謂獅子鼻形の角振った口吻を有し明有した石獅であることは疑ない。併しこの海蛇像と古
かに第一間のものが形式的に進化し本質的に退化せる暢洞石獅との間に如何なる関係があるか全く不明であ
形を示す。之に此する時は第一固のものは少くとも五 るが共に園弼無角、或ひは葉音鋒謂ふ所の﹁浮屠緑﹂
世紀初班と見るべきで≠第一間のものから此の苫暢洞 となす可く、之に封し右方のものは瑚土に角の痕跡を
石獅を適って唐胡高㍍乾陵、穂宗㍍陵にある平凡な狛有せる桝から之む叉天繰と栴す可きか否か、但此の阿
ア〝ク
ヽヽ︳
撰爽門有閑力士四師子、細山令銀加之改
之は明かに獅子を看せる仁王門で、唯各四脹を収め、
︹漠塊叢書九七、洛陽伽藍記朱二︺
玉、装厳換柄≠研未聞、束西南門皆亦如之研︵下略︶
︵中略︶
b四面各関門、南‖棲三重、準二道、去地二十丈
年、AD五一六、霞太后胡氏の建立︶に
第二項寺聞損護のものとしては洛陽、恋竺寺︵鱈中元
如き陵墓に石獅ありしことを讃するものである。
頂石獅は筏≠の補修甚しき由なれば暫く難問とする。 出でたりとの記あり ︵彫塑第三〇閏貞︶。.之第一項の
五
以上によつて支那仰教芙術史内の石獅の攣容相は大
腰明日になつたが是等諸作例の用途を考察すると
⊥、陵其墳丘の石獣
l﹁寺閣の鏡護
三、某埜玄窒入口の守護獣及び村側の副葬品︵所謂
明器︶
四、仲條の脇侍
の四種が考へられる。併し上掲諮作例の何れが何れの束大門南大門に幾倍する郡藍が窺はれるが、彼の舞阿
項に該賞す可きかは決し雛いーものがあるが大鰭一米突
含廿五たる
より一米突牛に達する如き大形のものは第一項第二項 ○沸沙蜜多雄王欲壊鶴雀寺、門前石獅吼、王怖遥
に雷少、中には盲陽洞の例の如く明らかに第四項に廃 の記はか1る風が眈に少くともBC二世紀の頃中印鹿
するもの乍ら相菖大形のものもある。唯第三項のもの に於て行はれた形式であることを示す。︵サンチの華要
は川窪の性質上牛米突を越えるも・のは稀であらう。併
素より獅傑有り︶
し是等各川注が賓在せる事は次の如き寄寓に依つて知 第三項即ち墓穴玄室石門の守護には明白なる軍例が
られる。即ち燃焼新録に、琴玉なる人の某門に石人石 あつて河南省磁醇机土のものに門柱や櫛形右裾等には
一〇九
獅あ少、その子寒緻にしてこれを要りしに毀たれて血典型的な忍冬模様、蓮花∵貿珠等の沸教美術的要素を
獅子像造について
7タJ
王墓誌と伴糾せる一例あり、明器の類は漠代より六朝
てはカナダ、トロント市オンクリオ博物館に北魂中山
せるものと見る可きである。叉副葬されたる明器とし
従ってその左右を守る石獅も亦北塊初期の形式を具現
を表はして居るので明かに北塊の初期と推定される。
有して然もその描線は流麗堆勤にして漢代技術の俸統
ち、惟ふに獅傑と例数典の関係が一般の憶測に反して
の観念が賞作例の多数を支配して居る。このことは即
典の上に於ては僅かに現れる桝の守護即ち﹁護法獣﹂
是等諸観念のを表はす案作例は非常に稀有で、たゞ俳
のではなく、語真に彿陀を指すものである。しかるに
師子の﹁勇猛利﹂を稀へるにも革に猛獣獅ナを稀へる
少﹁師子王﹂、﹁師子吼﹂、﹁師子座﹂なる概念が派生し
一一〇
を経て隋唐に至る迄の作例にして今口各地に蒐集され
非常に稀薄なることを示すものに外ならない。
獅子像造について
たものは莫大た数量に上るが多くほ出土状態並びに年
るは填及、スメル、ヒティツー、アッシリア、バビロ
是は然し顧れば雷然の掃結で、獅子像の最も盛んな
って世界美術全集︵第五巻九五固︶牧戴された此の俊の
ニア、シリア、希隠、波斯で、その中心は西難細亜に
代を明かにしないので取扱ひ難い中に原田助教授によ
一
岡錬は注目すべき作例で高さ七寸八分、その顔貌は古
在る。是等の文化圏は凡べて俳教‖硯に溌んじたもの
で彿政美術はそれ等の中に既に行はれて居た獅子遇像
陽洞石獅と相通する者がある。
第四の併像を守護するものの存在することは発きに
の末流に位し、その後韓を利川したものと断じ得る。
引用せる丹一い岡龍門の諸作例は黍くこれに属するもので の形式を借用したに過ぎす、伸教美術の獅子像は是等
揖阜冗言を賛す要㌢−認めない。
現に現在としては印度地方に於ける奇石文化を末はせ
るモヘンジョダロの〓土‖⋮に於ても殆んど獅像は兄‖
故に於て是等川種の獅像の川持と先述せる仰典中に
於て獅ナの表はす五種の概念とを比較する時、後者に
MarsF巴l︰MOFmロj?D腎O Pn
し難い。︵Sir
JOhn
於ては﹁翰陀郎人小師チ﹂の概念が最も独力でそれよ
耶ほ
阿育杵れ獅以下サルナートよりサンチー、アヂヤンク
度怖敦夫術の圏内に於てもナウリアナングンガルフの
とは韓日すべく、芥皇寺石塔、休園寺多砦塔、華岩寺
美術に於ては亦石連獅子が非常に糞尿活躍して居るこ
と考へられる。猶此の外新羅汀済以東朝鮮牛山の俳敏
the:ndusCi5.−訂atiOn・LOndOn−芯巴免照︶
に輌
印囲の筑際的交渉が有力た契機をなして屠るもの
波故期
ー及び印度教のエルーラ窟に至る迄凡べて轟く希隠−
㌢太㍍とせる沸教美術上の誰沈黙なる獅子の謂ふ仰の
故に於て後漠以来の雄豪なる歩行型石獅と阿骨柱石獅
が北魂時代に於て文邪道像史巾に混入したのである。
はつて特殊た内容む帯びることにたつたが是等は附記
にも多椋の攣化が認められ、且之に隼人の倖詑など加
ある。叉両国の直接的靴′叩.の下にある我圃の獅子狛犬
石獅もあつて、その牽達せることは支那を凌ぐものが
波斯 ︵Grec?Persian︶風の佃粍を停へへて摺る。
舎之利坊、法住専双獅塔及獅子射迅寺獅子塔等の外王陵
蹄親塑が合流して、支那彫塑中に野路哩石獅が成立さ
課
︵十‘八・十三︶
することにとゞめて此の稀を完結する。
・
鵡
BOg ポガツケウイ
︵和一描︶豊
A.D.九十年
城
︵顆二郎︶B・C・九十年
クミレヴア
ー一一
キジラ
︵m七闘︶クミレ諾ラ
ポガツコイ
︹前耽正誤︺
正
れたと見る可きである。
イニラステイツシュ
かくして北朝に成立せる粁据勲石獅は隋階を経るに
つれて造型的には若干の進化を示したが、却って生獅
子の賓態に近づいて行った。而して唐に入つては文様
として非常に多数用ひられ、所謂﹁唐獅子﹂の名に於
て我国にも大いなる影響を及ぼして居るが、此の唐獅
子の狗兄の狂ふが如き究賓性を帯びる様になつたこと
に就いては特に波斯ササン印紙武術の彫郷=が多分にある
ことが認められる。之に関しては匿史上の断とササン
紬十條造について
ケ9占
ドイツ詫数計骨撃の敬展
†イブ宗教社曾撃の螢展︵L︶
一一二
倖
一
傾向に類似性を跡づけ、ドイツ杜倉畢に影響を輿へた
は宗教に即する畢的能ハ度、この場合では純分塑的方法
とは、方々異つた形態、構造を有してゐる。このこと
周知の如く、フランスの宗教祀倉撃とドイツのそれ
識力の科撃としての祀倉嬰︵析︰畢的社命嬰︶、︵三︶資
の統合軍︵歴史祀倉畢︶、︵二し心的な力の研究或は意
ツ祀倉嬰に、︵二︶祀倉生活の匿史的進歩の研究として
畢等を奉げ、これらの影響の下に襲足した現代のドイ
︵二︶コント及びスペンサー、︵三︶駁撃、控碑翠、法律
ものとして、︵一︶ドイツ浪準重義及び理想主轟哲畢、
の差異に基くのであつて、祀倉嬰からその分枝として
∵
成立した宗教配合塑に於ては常然なことといへるであ
本的経験的基礎の上に祀合嬰む組純的に薯察する社食
︵2︶
らう。既にゴルネル・ゾンバルトは統合塑に於ける二
畢︵組絨的祀倉畢︶の三つの傾向む認めてゐる。
科箪的・賓抒的、︵二︶精紳科畢的・観念的として要約
︵一︶自然
し得るものであり、我々はこれをそのま上示教祀倉畢
かくの如き祀倉翠の傾向的匿分は、結局
つの傾向として、西欧的■自然科挙的仰向とドイツ的
︵l︶
ン・ギーゼはドイツ祀倉嬰の準慮五大英百科全書に於
精神科畢的傾向とむ認めたが、更にレオポルド・フォ
てブランフォードが彿英軒倉澤の推歩について説明し
の碩域にもあてはめろことが日米る。即ち、賓符的と
はフランスに於けるデュルケムを中心とする宗教社命
たところと比較し、︵一︶コント・チエルケム囲涙、
︵二︶ルプレー畢沃、︵三︶ヲルムスの﹁間際軒行軍﹂の
アββ
宗教祀倉畢誼のそれである。その特徴として、フラン 関越ではあらうが、一應我々は、ある前提の下に日豪
ス宗教杜禽撃は多く未開祀倉の宗教を研究封象として せねばなるまい。Lいふのは、宗教社食畢を定義して、
をるが、これに封してドイツ宗教祀倉畢はその対象を ︵一︶宗教の祀禽嬰的研究といふのも、或は︵二︶宗教と
所謂文化的宗教に限定してゐるといつてよい。しかし 祀倉との相耳関係の研究といふのも、また︵三︶祀倉現
ドイツ宗教祀禽単にしても、傾向としては観念的では象としての宗教の研究といふのも、その定義の不明瞭
あるが、夫々その立場にょつて、また異つた特性を有 不充分さには攣りないからである。この紋陥は.祀曾
つてゐることに注意せねばたるまい。例へば、通常我畢的といふ概念の漠然性とより精密な方法論的な規定
々はドイツ宗教祀倉学者として、ゲオルク・ジンメルの紋陰に基くが、いづれにしても、宗教祀合畢は宗教
エルンスト・トレルチ、マックス・ゴーベルを数へるを偶人心理的なものとしてではなく、祀倉現象として
が、これらの聾者がすべて同一の傾向にあるのではな畢的に取扱ふものである。
いのであり、概観して、ジンメルが著しく観念的であ この意味で、従来何等かの形式に於て宗教と社食と
の関係を誰述したものがあり、∫、これがたゞ、祀含単著
るに反し、、トレルチ及びゴーベルはより多く歴史的で
ありドイツ的の意味に於て寛詑的であるといへよう。 匹よつてのみ議論されて釆克とするたら、観念的なド
けれども、いまこれを全鰻的に、ドイツ宗教統合撃 イツ吐合畢者にユつて、諭ぜられたドイツ宗教祀含挙
の観念的傾向を詮くととは矛盾しないであらう。それが、これまた執念的であることは、結堰としては奨則
一一三
見るのみでなく、ドイツ宗教社食撃の特性として、そ
は史的畿展に跡づけて斯撃を観察することによつても的でほない。また我々は、とれを箪に攣則的でないと
明瞭ごある。
ドイツ実数祀食草の敢巌
ドイツ宗教批食草の黎展
こに筆問な哲学的基礎を見出すことにもなるのであ
一一四
さなかつたが、同時代の甲骨カール∵マルクスめ唯物
史観の立場た於ける宗教論の慣値は高く評慣さるべき
も、勿論疑問である。しかし彼の単語が、宗教の否定
て倍系的ではない。また宗教社食畢的であるかどうか
Werner SOmbart−SOZiO−Ogie−−篭u−Sで
..
P あらう。いふまごもなく、マルクスの宗教論は決し
フォン・ギーゼ、狗逸に於ける酢食草︵底本潤一郎編
針骨拳、二六二文︶
を目的とするものであつたにしても、その後の社食聾
我々はドイツ宗教社食翠の考慮を回顧するに雷つて
て、マルクス畢詮の宗教社食単に封する前史的慣億は
ルクス批判を出番鮎としてゐるといはれることによつ
馨の領域に於ては.ゴーベルの宗教社命撃的研究がマ
者に著しい影響を輿へた鮎に於て、また特に宗教杜倉
斯学の萌芽乃至田畿鮎を何庭に求むべきであらうか。
〓
恐らく我々は、意識的に内容的な宗教祀食料ナを誰述し
充分に認めらるべきであるq
まい。特にゴーベルの宗教社食畢は斯畢の意識的成立
社食畢の前史とするこLは出来ないことである。社食
たで注意すべきことは社食撃の前史をそのま1宗教
︵2︶
たもぁとして、ジンメル及びゴーベルを奉げねばなる
としての意義を有つのみでなく、ドイツ文化社食単一
畢は一九≠紀の後期には、眈に生物畢的傾向をもつて
祀倉単著、フォン・シュタイン、シェフレ、フォン・
副産物としての宗教論を拾ふこととは机来る。初期の
勿論我々は、.ユーベル以前の社食聾者の労作から、
ルによつて.内容的な宗教社食畢的螢作としての﹁プ
るに過ぎない。しかしその後、一九〇四年にはゴーベ
の﹁宗教の社食畢﹂に、はじめてその萌芽を見出し得
誕生してゐたが、宗教社食畢は一八九八年のジンメル
︵l︶
股の刑襲鮎たる意義をも有してゐる。
ⅥyⅥソエソフェルト0社食理論は何等宗教への関心を示
7∂g
pテスタソト倫理と資本主義の精神﹂の一部分が蟄表
DeぺHistOrism畠
され、順次に斯畢は多くの色彩を有つに至つたのであ
る0
b−eme−−¢しN.S.設●
1 Ernst TrOe冨nF
松本潤一郎、一九三一年の詞逸融骨孝︵敢骨畢、夢二
密、六四賀︶
2 マックス・ゴーペルの崇敬証曾畢をマルキシズムに閑
der
聯せしめて考へることは既に一般的であるが、例へば
p︸邑OSOpEe
マン、ヨアヒム・グッハ︶
とれらの傾向の圏外にあつて、いはゞ断片的た宗教
論や宗教に封する祀合蓼的研究を焉した赦合単著は多
︵1−
︵2︶
仁い
ロ。
d一
s例
ei
Yルディナンド:アンニースの宗
とn
しe
て、P
フ只ェ
︵3一
教築圏諭、ギーゼの散骨諭、アルフレッド・フィアカ
ントの呪術論を奉げることが拇来る。特にテンニース
はその主力を祀禽関係、祀合意志、統合結合皆の研究
巴s
に向け.文化醒系の一環としての宗教を、共同祀曾生
活に於ける一つの力として、社食意志の問題のうちに
Gescbicbte
於て取扱ひ、同時に教囲の問題を社食陶係乃虐社食結
SO且○︼Ogie−.−−讐∽−S.雪山.
Pa已Bartb.Die
我々は、ある意味に於て雑然たるドイツ宗教社食畢
合皆の研究の一部分として分析的た探究を試みた。彼
ー一五
あるとして、これに廃する聾者、バスチアン、ラッツ
派とを指摘し、前者は特に宗教社食単に翼要なもので
聯する二つの畢派として、比較民族畢痕と比較匿史拳
倉嬰に封する熊度を明かにした。彼は宗教祀倉畢に鮨
︵5こ
シュパンはシェフレの畢誰を棉承し、早くも宗教祀
了こ
教概念の克服として注意さるべきである。
の宗教薬園に関する社食畢的見解は、ジンメル的な完
の草屋を、その傾向に従って、これを代表する畢者と
ともに、次の三つに院介し得るであらう。
︵こ 社食野草的傾向︵オトマール・シュパン、ル
ードヰヒ・シュタイン、マックス・シェーレ
ル、ジンメル︶
︵二︶ 社食経済史的傾向︵ゾンバルト.トレルチ、
ゴーベル︶
︵三︶ 標系化の試み︵ゴーベル、カール・ドゥンク
rィツ字数離宮垂の蚤展
7∂タ
ン′︰忙よれば、比較民族撃滅定類似の方津をもつが、社
ミット、コッペルスを列車してゐる。後者は、シュパ
エル、トフロペニウス、グレープネル、フォー.イ、シュ
大なる形而上畢的領域を取扱ふことの危険を述べてゐ
ぬとし﹂非形而上畢的人間が人間的祀曾及び歴史の偉
の宗教社食畢を、誤解された番茸の玉大た集績にす嘗
面的なるものを理解し得るに過ぎない。彼は.ユーづル
一一六
食畢派とし七でなくむしろ経済拳放として有力なもの
る。即ちゴーベルの如き﹁宗教の特殊な信保論のみな
羊イツ宗教恥骨畢の螢展
であり、この畢派の人々としては、ロッシャー、シーユ
らす宗教性l疲をも否定するものは、宗教社食畢を探
︵7︶
モ、rテー、特にカール・マルクスがあ少、ま東アック
究すべきではたいし、探究することはⅢ衆たい﹂とい
ふ。
シュタインも宗教社食嬰を認識論的基礎の上に建設
しょうとした。彼は社食的常薦と宗教的常鴬について
︵9し
︵8︶
ス\エーベルもこの垂派に蜃すると見られる。
シユ。ハンは宗教社食単に一腰の同願を輿へたが、彼
自身の宗教配合畢詮は比較的に油極的であり、むしろ
宗教常襲であえ完▼シュバンによれば、祀倉挙がその封
深く論及してゐるが、不碓賓な祀倉畢主義に陥つてゐ
︵6︶
象判断にとるべき基礎旅式は個人主義と全軍王義とで
るため徹底した諭旨む得られたい。
■10︶
挙つて、′宗教を封象せする場合も同様であらぬばなら
は精神的全饅性として争饅主義的に把梶されねば
tても多くの示唆を輿へた。しかし我々は、これをむ
毎に強い閲心を有つてゐる。そして、宗教恥骨畢に封
シェーレルほ7ルフツド・ゴーベルと共に又化祀倉
ない﹂そこでシ†パン‖は窟敏社食畢を超個人的精神性
しろ宗教軒畢として取扱ふべきではあるまいか。詳論
ない。従つてシ、エバンは賓静的方法を否定する。宗教
妊関する畢詮と見て、経験主義の認識論を拒否する。
ジンメルの宗教論は流動的であるが、意味的に望岬 鋤
することを他の械禽に譲りたいと思ふ。
′11︸
彼にまれば、さうした立場にある宗教社食畢者は単な
る相封主義、葦霹主養、感螢≠轟、自然主養に陥り、外
の観念を中心に把捉することが出奔る。即ち、彼の
庵宗
人間問の相互閑係のうちにはある。それ故、紳の観
教論は宗教杜倉撃、宗教認識論∴示教形而上畢の三
念つ
も、かうした相互関係に閑聯してゐる。それは観念
の側面に於て述べられてゐるのであるが、これらは
内相
容の襲展に外ならない。かやうな観念内容の襲展に
戯念として紳は社食的所産から昇華して範封的たるも
互に閲聯してゐる。そしてこの畢誰の基礎には彼のは形
って前の観念は必然的に僧侶へと畿展する。南時llこ
式祀食草があ告.オンメルの形式祀倉畢は社食の貴在
性を人間間の相互作用にょつ七基礎づけたものであのとなつてゐる。しかし、紀封的者もその本質は人間
り、この相互作用の形式は社食的形態である。彼に問よ
の相互閲係に存する。
基底に於て観察したのであるが、特定の宗教に封する
れば、社食的形態は象徴、磯野規偏に慣分され、こ 結局ジンメルは宗教を社食学的現象として、政令的
れ告示教に通用すれば、︵一︶象徴としては伶侶の如き
Wiese−三lg用meine
der
Re−村
SONiO−Ogie●
Anf旨geム馬Nauberei
der
Re−ig⋮Onen人DiOkuren一−一−¢望︶
SO昏−点ie仁
Re−i乳On︵G−Obus一−苦﹂︶︰Da針Heiligeindenprimγ
Alfred5erkandt−Die
l:.−Gebi:de−ehre.−¢N¢一S.N.¢−M告●
LeOpO︼dくOn
〇n︵ScbmO−−erslahrbucb一品Jahrg.一−¢︰e
FerdinandTひロnies、只已︷urbaeutung
教論は宗教形而上拳への過程をとつてしまつた。
人格象徴、十字架の如き事物象徴、紳或は信仰の如
茸き
符的或は歴史的探究を試みなかつ努ために、その宗
観念象徴、︵二︶機関としては管長の如き偶人機関、教
昏の如き集囲横閲、︵三︶規範としては慣習、道徳、法
律の如きがある。ジンメルは先づかくの如き宗教的形1
2
態を社食畢的に分析した。そして特に、日常宗教現象
とtて救貧されぬ人側相互関係のうちにも宗教的なる
3
ものを見出してゐる。彼にょれば、夫々の文化の分化
過程及び状態に従って、或る場合には宗教的形式も港
tiくen
一一七
礫的形式となつて現はれる。宗教的と観念されぬこと
4・只aユD壱kmaづn・Lebrbucb
ドイツ来秋枇食草の螢展
さ妙J
ドイツ宗教祀骨塑の蚤展
好諷a−pgOSOphie−甲Te芦−N一ど且0−OgiO
巨的iOnニー巴︼−S.N欝.
肖一a已r−¢Nu.S−ヾ1∽N.
一一人
dけ
巧⊥
・れども、問題に封する歴史的観察の態度を拍て
る訂け
1ゐ払い。それは彼が特定の宗教に閲して強い関心を
華芸ゐたためでもある。トレルチ望霞と経済と紆
5 0thmarSpann,Gese−−scFaf邑ehre一:.呂f−ニーり一千
るs道
でcあ
かtの
Wis
e徳
ns
hる
af
.如く理解したなら、かやうな関係を
と・か形而上畢或ひは宇宙についての特定表象に結合針
Re−igiOnSpgOS?
唱 参照、只aユGtprberも2rUniく霊a雷mつSb2脚
iO
m究
・する場合に、宗教を純粋に観念的に、教義
係t
をh探
arSpann im ヨnblick aufseine
・pEe.−芳心.
探究する意味はないといつてゐる。従ってトレルチは
宗教意識女心理畢的に分析し、これに匿史の通用を試
みた。このことは、トレルチの哲畢的基礎が新カント
SQ且○−Ogieこ¢N
Mensc宥
−あ
¢り
N−
畢n
派−に
、い
同時にディルタイの歴史的心理主義に闊
die
7 0けhmarsp呂n−TOte und−ebendige
︼ゆN∽.S一−栗.
im
Einf旨rungin
& ○什bm当Sp呂n−a.a.〇こS.−芦
u.S−−ヨーN0〇.
9 LuduigS崖n︼
Ewig2n
聯してゐることにょつてゐる。故に、トレルチに於て
Di2尋issensfOrmen und die Ges21−schaft、−¢Nの●
10 Ma舛Sc≡りr一ざm
.
食n畢
隆詠史
Er社
ke
nは
t−
・の手段である。内容的には、トレルチは
ロie
狩e富iOn一
基督教の吐合思想を取扱つたが、彼はその際.祀倉思
わだからである。そしてトレルチは、粘に嵐暦数と敢
社食畢南構造が他の社食畢的構造に閲聯して生するも
ま1武舎思想といふぺきではない。社食思想は、ある
れの宗教もl偶の社食畢的構造をなすが、これをその
想と社食畢的構造との罷別を明かにした。即ち、レタ
仁nd pgOSOphiscFe Kri㍍k.−讐N︶い
tscbe Rundschaf−讐声︶いB註r蒜eNur
11 GeOrg Simヨe−﹀SONiO−Ogie derRe−i巴On︵Ze琵Deモ
t訂Ori川 der Re−igiOn ︵NeitschユE賢 PgOSOpbie
l箋ダ岬p亡巨.,−¢NN.
三
これに反してトレルチは屡々喝断約といふ非難を受
書0β
政令史的観察を拒否したのではなく、この鮎について
わいふ宗教史的立場から観察してゐる。しかし決して
義を認めて、基督散り動向を単に統合史的に見す、彼
及んでゐる。例へば彼は二瞞音に個人主義及び全憬主
踊晋、禁欲等の宗教的倫理、或は図案、推力の問題打
港としで−の理想型によつて得た。彼によれば、理想型
がある。マックス・ゴーベルはかやうな僻殊概念を方
びに制度によつて特徴づけられにゐるものに職糞倫理
私有財産制を支持するものであるが、かやうた精神並
義精神の代表的なものは合理的な経済的企糞であり、
主義の精神について探究したところによれば、資本主
教について観察した。彼がプロテスタント倫理と資本.
は特にマックス・ゴーベルとの関係が蜜按である。或
概念に基いて、例へば現代の経済組椒と苗代或は中世
禽的なるものとの相互閲係を探究し、紳の固の観念、
る意味に於て、∴示教社食畢の研究は、昔時この二人の
の経済組織とは筒別されるのである。彼は資本主義と
︵l︶
諭饗﹂三巻によつて知られ、研究の中心鮎を宗教と経
代資本主養に閲してはプロテスタン倫理であるとした
のみ可能であるとし、経済組織の縫化に必要な力を近
いふ特殊た経済組紡が特定の祀倉紺係や精神的状態に
聾者によつて分業的に行はれたといへよう。
︵2一
済との相互関係の問題においてゐる。ゴーベルによれ
それが精神的なるものである限りに於て、近代資本主
マックス・ゴーベルの宗教祀曾畢詮は﹁宗教祀倉嬰
ば、経済現象を決定する宗教的機能は宗教の経済倫理
義の組織される以前に、資本主義の精神は既にプロテ
ゴトペルはかやうに宗教と経済との関係を葦詮的隠
である。経済倫理とは紳畢的教義ではなく宗教的態度
探究したが、他方に於て、宗教祀倉畢の照系づけの試
スタン
社命畢の貴際上の問題をおき、その解答を宗教的倫理
みをも行つた。亘れは先づ、︵一︶宗教の教生、︵二︶宗
としての賓践的形式の全饅である。こゝに彼は、宗教
が社食生活に如何に影響したかに求めた。ゴ﹂ベルは
︵3こ
l一.九
・これを、基督教のみについてでなくハ諸々の世界的宗
†イツ宗教批曾捏の設展
●
淡は
rィツ字数社食垂の螢展
教鯛指導者の類型やついて探究され1次いで﹁︵三︶宗
教と社食組絞、︵四︶宗教的牡骨組織につ.・いて分析され
てゐる.。︵一︶はカサス.マの概念を中心に、︵二︶は、呪
師、︰祭司及び濠言者の経済的なるものぺの制約とその
結果の探究であつて、宗教的指導者の特殊機能の宗教
︼ニQ
つ・M鍔尋eb賃一Gesamきe諾A已s諾e2r宵宮脚On仰・ しr
︼りN♪S.NN↓−∽いP
S君臣Ogie−−誓N−Nど宅ir訂chaft仁ウd.Gese−−山CF已t.
10gie−−器−一S.父Tふ芯.
マックス.・ゴ﹂ベルの学説を正しく理解することに
食的後生、︵二︶宗教の配合的作用とを課題とする。彼
マックス・ゴーベル‘を高く許憤するとともに、斯畢む
鞘
10aCb㌢wa註.Einf夢r仁ngindieRe−igiOnSSO
的機能を社食階級について解明したのであつて、集周
ょって意識的に宗教統合畢を牌系づけようとする試み
3
内部†の諸宗教の宗教性の相違にも憐れてゐる。︵四︶は
は、ヨアヒム・グッハにょつてなされ、彼は宗教社告
四
階級或は国家の如き配合的︵世俗的︶組織と宗教との
畢の課題む宗教と政令との相互関係の探究にぶいたが
社食拳的重要性が認められてゐる。︵三︶に於ては宗教
蹄係の探究であると同時に、散骨、宗教、秘事囲饅の
斯撃の課題に関してはギンテルもまた簡単に解れてみ
ゴーペルの特に傍系的宗教祀合掌は今日のドイツ宗
はこれによつ.て、種類な宗教社食撃の関越を黎理し、
︵l︶
如き社食結合の形式を宗教的衝動の側から問題にして
る。ヰソテルにょれば、宗教祀倉畢は、︵一︶宗教の社
教祀倉単に大きな示唆を輿へてゐる。何故なち、今8
方向づけようとした。かよラな閃電設定は全餞主義Q
︵2こ
ゐる。
の芋イヴ宗教統合撃はその倍系化のために進路を求め
社食単著ドゥンクマγにょつてもなされた。ドゥンク
マンはグッハの宗教統合撃た宗教祀食詰であるとし、
■8︶
てゐるからである。
ーく一−¢N∽.
t.ErnstTrOelt許b−Ge仏amme−te Sc雷iften一出dニーー
墓室止賢づけとしてゐる。彼は
クマンは第二の問題のみを宗教社食畢の課題として取
宗教学一般の傾向を現代に於ける原始宗教の研究に上跡
げたのではなく、彼は宗教祀倉撃に、\これらすべで
づけて、この鮎にも宗教杜含畢の帝諒を認めようとのは
師聯的紹介料を包括せしめた。従って、こ1に現代
してゐる、が、むしろ傾向的には、哲畢的た令照主
の義
宗計
教畢と彼の想定する宗教祀倉撃との酪係の問題が
岡執してゐる。彼は文化形態としての宗教を探究す
鍵る
田されねばならぬわけであるが、結局ドゥンクマソ
宗教畢一般ほ社食畢的現象から分離することは出来
はぬ
餞系的宗教畢の概念に於て、宗教の本質に関する問
︵四︶宗教的生活ど社食組織との相互作用の間恋、︵五︶
形式の多様性とその社食畢的研究の可能性の問題1
の特性に閲する社食畢的研究の問題、︵三︶史的宗教的
昏嬰、野草及び紳撃との関係の問題、人二︶宗教的薬園
出した。.︵一︶宗教の本質に閲する根本問題及びその祀
域は極めて特殊的なものであつて、集圏に封する形而
拒否してゐる。しかし、ドゥンクマンの宗教哲畢の領
述的探究に限定し、宗教の本質の問題を取扱ふことを
と同様に、宗教祀昏拳髪示教と杜倉との相互作用の記
に代るものではない。そして、ドゥソクマyはブ㌣ハ
畢は宗教学を教理し得るものであつて、決して宗教単
として、次の五つの問題宜示教社食畢の課題として
題提
を橡想し、これに委ぬてゐる。この場合、宗教社食
宗派の社食畢的分析の可能性の問題。以上の−問題設定
してゐる。一郎ち、︵一︶は組粒的宗教畢或は宗教哲学に
れる。もちろん集阻に於ては宗教のみが成立してゐる
る。従って、本質的に、宗教的問題は集幽から着手ざ
は社食撃的命題の宗教堕の諸分科への大尉の阻係払
上示
畢的動磯の要求や免合意識の心理畢的理解にも解れ
︵三︶は宗教史に、︵四︶は宗教心理塑に、︵五︶は一般致
命変成は教轟更に於て夫々研究さるべきものであ少の、
ではないから、これを垂術や学問から心理畢的に鼠
二〓
︵二︶のみが純粋に祀官軍的封象である㍉しかし下
分サ
せン
ねばならたい。この場合、宗教は社食腎単打打理
Tイツ︷小数祉骨撃の致展
成仏
ドイツ票数敢骨準の襲展
〓〓l
解され、統合畢は概念規定に必須のものとなる。同時 それは本来の性質を形態的に具有してをるものではな
にドゥソクマンは、宗教史及び宗教心理畢への社食畢 い。例へば、利益社食結合に於ける宗教は形成された
の寄輿について詮き、ゴーベルの資本主義の精神と宗宗教であつて、純粋のものではない。従って宗教社食
教的類型の関係の探究を宗教心理塑的労作として慣位聾者は自己の課題の範囲が純粋な宗教ではなく、むし
グッハはかやうな宗教の結社形式として宗教的社食
らない。
づけ、ゴーベルの得た効典の基礎に社食的嬢披を認め ろ経験的に形成された宗教であることを意識せぬばな
てゐる0
ドゥンクマンに於ては宗教塑への態度が不明瞭なた
め、その社食攣重義が反つて問題の整理を穆雑にし、即ち敦困の問題を取扱った。そしてグッハは敦圏が如
て解明した。即ち、︵一︶素朴的骨定︵原始的集圏︶、
逆の結果を得たともいへる。この鮎についてはブツハ 何にして可能であるかといふことを、三つの類型に於
は造かに明瞭な問題設定を試みてゐる。
グッハによれば宗教社食畢の課題は宗教と社食との ︵二︶否定的︵禁欲的宗教︶、︵三︶制限的肯定︵薬圏範
相互制約的師係の探究と記述とである。それは先づ、 囲の限定︶とであつて、これらの教囲形成の動機は、
析極的・歴史的宗教乃至宗派の社食的葉圏への関係を 滑極的には共通的困窮、防禦等であり、積極的には紳
探究すべきである。すべて宗教は祀倉撃的援噴から畿 の倍瞼、紳との交通等である。同時にグッハは宗教的
生し、この、影窄を受けてゐるが、その後展は逆に社命
的と社食結合との脚聯に托意をはらつた。宗教祀含
行動
構造に影響を輿へるようになる。かやうな、宗教と祀畢に於ては、宗教の本質が閃超となると同様に、一般
骨との帥係を解明するには、この二つの力の本質と構社食塾の取扱ふ社食の本質と構造についても探究せぬ
造とを理解せねばならない。宗教についていふなら、 ばならぬとブツハはいふ。即ち、宗教は祉倉の何虚に 珊
囲係してゐるか、また宗教の何虔に社食的動横は結合
い。
竪琴究を二つの領域に置介した。即ち、︵一︶宗教に闘
特に方法論的に、グッハは宗教と社食との相互関係
のみ宗教と祀倉との相互作用は認識され探究され得る
する科挙︵宗教拳︶、︵二︶吐合に関する科挙︵社食撃︶
してゐるかといふことが、主要問題である。かくして
のである。
する場合とがある。前者は、多く儀祀圃照としての集
作用する場合と、社食内部へ宗教的組織をもつて作用
つことに注意せねばたらない。統合も文化系列の一環
ハに於て社食とは、経済、牽術等と並列的な意味をも
の社食畢﹂とが宙別されるわけである。従って、グッ
■5こ
であつて、この意味に於て、﹁宗教社食畢﹂と﹁宗教
圏に見られ、稀にギルドの如き派生的社食にも見られ
をなしてゐる。
宗教が吐合へ及ぼす影響には、宗教が形式にょつて
る。同時に宗教の国家への統制的機能を看過すること
︵6こ
彼は宗教社食畢の始組をヘルデルにまで潮つて求め
たが、建設者としてはゴーベル、ゾンバルト及びトレ
は出来ない。宗教的杜合致囲の襲展は、︵一︶熱情的、
︵二︶統制的、︵三︶地域的発展、︵四︶散骨の成立の四段
ルチを奉げ、特に彼の単語はゴーベルに揺るところが
我々は、ドゥンクマン乃至グッハにょつても、最近
多い。.
階を経て宗派的敦倉へと牽展する。かやうなグッハの
企固する宗教的社食の問題については批判の験地があ
るけれども、この間題こそ彼の宗教杜曾畢の中心野で
のドイツ宗教社食畢の傾向が、その傍系化にあること
へ4︶
ある。・宗教と祀倉との相互関係、特に宗教の社食への
と、マックス・ゴーベルの畢詮を中心にして動きつ1
一ニ〓
Wac∫Einf旨ru品ぎdieRe−ig⋮OnSSO諷
作用側面の探究は、彼に於てはこの関宿にょつて解明
JOaCbim
あることを知り得る。
l
されでゐる。従って、残された問題、祀倉の宗教への
作用に閲しては何等新しい着眼鮎をも示してをらな
ドイツ宗教紅愈癌の蚤展
脚
2
ドイツ票数敢骨壷の教展
Ogie一∴忘勇ごRe︼昏昌SSO昏−品ieこn︰珪各色急ユerト
der
Re−igi。n甘各lO宮
b焉hderSO鼠色Ogie一−苫−一S一彗u−お㌣
P K.ヨn什er一PrOb−eme
SO昏−Ogie仁nd
︵Neitscすifこ賢diegesa日te S旨a訪ま玖enSCbef′
der
穴aユDunkmann−Lebrbuch
讐.帽dこN.H.︶−¢い︻.
3
lOaChimWacb、Re−igiOnSSOZiO−Ogieこn︰Hand宅甲
只aユDunkmann.a一a.〇こS.M彗●
SO且a首bilOSOpbie.−¢u−.S.M∞ひー旨↓●
5
rterbuch der SO且○−Ogie一−讐−.S.ム讐.
Ogie一−詮−−S一¢↓∴Re−igiOnSSO且○−Ogie一S.㌣∽−
10anhimWacb一Einf旨rung in die
Re−igiOnSSO且0T
4
6
lニ四
脚
野
勝
也
る。恐らく著者の此の問題提出には、あまり異議をさ
佐
大塚箇冶氏著﹁基督敦倫理学序説﹂
キリスト教倫理撃と稀するからには、それが一般倫
然るに此のことは、革に﹁更生せる人間﹂の行馬の研
する寓には、更生せる人間の﹁行薦﹂を問題とする。
せる人間を問題とする。而してこれを教理畢から匿別
自然人を酎象とするに封し、キリスト教倫理畢は更生
は、云ふまでもない。著者に依れば、野里的倫理挙が
たところであるが、トレルチに封しては、﹁我々は、
以来、トレルチ、ウォリベルミン等に依って論ぜられ
かの問題は、ハルナックの有名な﹁キリスト教の本質﹂
くと云ふ方法をとつてゐる。キリスト教の本質とは何
の本質問題を解き、これを道徳的見地から展開して行
著者は、以上の課題解答の方港として、キリスト教
しはさむ人はあるまい。
究又は記述に限定することを許さす、これと闊聯せる
普遍史、一般宗教史の光によつてキリスト教の本質を
理学と異なる所以を明らかにしなければならないこと
幾多の問題を喚起する。即ちキリスト教道徳の本質的
把挺すると云ふよりも、避にキリスト教の本質に粕ら
ヽヽ
要素は、キリストと聖霊に依つて輿へられる自由、信
して一般歴史と一般宗教史とを挑むべきである。﹂
と
仰に依って導かるる道徳認識者としての良心、絶封日
云ひ、キリスト教の本質は、イエスに於ける啓示、従
ヽヽ
ヽヽ
的としての紳の囲、及び紳の命令としての義務の四者
って其の琴不を語るところの新約聖書に求むべきで、
ヽヽヽ
である。キリスト教倫理畢の問題は、これ等の諸要素
従釆の襲展は従属的意味を持つに過ぎない。沈んや一
一二五
の開明とその可能なる所以の棍接を明らかにするにあ
大家節治氏著基督数倫理畢序説
即少
大場節酒氏著基督敦倫理拳序説
般史や、一般宗教史をやと云ってゐる。
一二大
ては、自由はもはや不要であり、却って嗣となる。自
こゝで私は少しく私の疑問を述べて置かう。キ
サき
ス人間にしてなほ罪の責任をとり、決定された紳
由無
ト教の本質を新約教書に求めると云ふ著者の立の
場擁
を理
一のうちになほ精進と努力とを怠らないところに
と先づ承認するとしても、新約自身が、多くのキ
検リ
討ス
さト教的自由がある。而して此の矛盾と背理とを
るべき問題を包含して居るが、とれを著者は如喜
何び
にと解
感謝とを以て抱きとるのが信仰の姿であるど云
決せんとするか。例へば箸者は、紳の園なる概念
内此
容の著者の主張は正しいと云って差支へ無い。只
ふ。
の決定をイエスの宿昔中に求めんとする場合で奇
も異
、に宿
感ぜられるのは、此の結論を導き出す馬には、
教思想、特にカト∴リック的思想家に依ることが多いこ
昔著そのものが資料として有する種々なる疑鮎著
に者
解は
れ新約聖書よりもむしろその後畿展したキりスト
ること無く、誇大家の詮をそのま1採用すると云って
ゐる。だが、共観相青書問題の如きは、現今なと
ほで
所あ
謂る。そのこと白身が悪いと云ふのでは無く、著
る諸大家問に一致を炊き、従ってその何れの大者
家の
に方依
放論的立場と矛盾してゐることが奇異に感ぜら
るかゞ先決問題である筈である。これに封するれ
著る
者との
云ふのである。
感度は、畢的で無いとの非難を受けるかも知れな第
い二
。に良心に関しても大腰自由に封すると同様であ
それはとにかくとして、以上の立場かち著者は
ら罪と救ひとの茸瞼は﹁不安なる良心﹂から﹁平
っ自
て、
云ふところのキサスト教倫理畢の課題たる自由安
、な
良る
心良心﹂への欒化であるとし、一般的意味にての
紳の囲、義務を如何に解決したであらうか。著者
には依
良心
、一應否定され.、紳に依って生かされなければ
ればキリスト教的自由とは、一般道徳における自
由なと
なら
い。即ちか1る否定を通過することは、自由意
僧兵なつ芋やる。何となれば、キリスト教道徳.に
い合と同じく、キリスト教信仰の本質的契機であ
志お
の場
吊伯
ヱて﹀白菜▼爪り良心に華▼つき、自らの行焉に依って慣値
とを
キリスト教道徳との根本的相違は、後者が自然の否
就いては、更に篇を改めて第四篇において詳細に論じ
ら輿へられるものである。著者は﹁紳の囲﹂の内容に
人間の課題とはなり得ない。それは未来において紳か
人間の願望の的とはなり得るが、決して硯≠における
究克界に廃する絶封書である。この意味で、畢向菩は
して此の最高菩は、人間の所産では無く、超世界的、
第三に紳の圃とは、著者に依れば帝高書である。而
ト封ブルンネル、ゴガンテン等の分裂を来したこと
澱近に至つては、その鮎が愈々明瞭となり、途にバル
一致を快くことは、早くから畢宥の注意したところで、
示の問題については、所帯法神学者問に異説があつて
鮎も、桝詔港沖単に負ふところであらうと思ふが、啓
らうと思ふ。更に啓示が組織神学の規範であるとする
であらうが、それならばその鮎に関して説明の要があ
著者はこの鮎耕記法神学の否定の方港を採用してゐる
定の上に立つところに在るとしてゐるようであるが、
てゐる。キリスト教倫理学の課題の第四として著者が
は、著者も熟知のことであらう。さすれば、規範たる
賢現せんとすれば、理想と硯賓との分裂を釆すに過ぎ
あげた﹁紳の命令としての養務﹂に関しては、充分な
啓示そのものが、規範となる前に批判の封象となるで
如何にして自然は否定されるであらうか。おそらく、
る説明を得ることができなかつた。それは著者が目的
はあるまいか。著者は論理的追及よりか、むしろ畢詮
ない。
論的な立場をとると主張してゐる焉であらう。
か。従って本書は古今の学説を知る意味にても貴重な
史的探究により多くの興味を有するのではあるまい
っては古今の畢詮を参酌し、そのうちに自己望止場に
著述である。あやまつた喝断的な基礎の上に立つ紳撃
要するに著者は眞聾なる畢徒で、問題の解決にあた
近いものを蟄見せんと努力してゐる。伸しその馬に論
苦の多い我が国においては得難い学的著述である。
一二七
旨の徹底む快く場合が無いではない。特に自然的道徳
大隊節治氏帯基督敦倫理拳序説
&け
金成に航する郡二徴八﹁.
藤
唯
心
氏
の
研
金赦に閲する第二報告
1
究1
〓一入
などいふもの1あることを知らなかった我が畢界を驚
範成絵師の金蔵蔑見の第一報告が翳されて、凡そ金銀
文献にあたり、地勢に考へ、参考聞取十二を附して、
一粒巻を披関して、字牌・版式・尾扱等仔細に鮎検し
簿氏は背南遭城贋勝寺に滞在すること四十日間、一
鏡
かしてから、早や一年有徐になる。その間、今まで名
論考されてあ少、共論述は骨螢に伯するものと思ふ。
文
のみ知られて其本の快けてゐた因明論理門十四過類疏
今その紀行、康勝寺の来歴等に関する部分は割愛し、
い全く蒋氏の研究である。
貴所法貨銀・鮮符法賛鋒︵後の二は略出︶等の翻刻が
論評の引用典撮も多くは省略して、叙迷の簡明を期し
本誌前審第二故に於て常磐・橋川・服部三氏により
あり、北竺二時畢合及び宋版赦軽骨の合同で遺珍の影
たいと思ふ。詳しくは原著を謹んで頂きたい。
イ部揉巻敷
一苛南避威厳勝寺現存赦控の外貌
別田版が俸へられてをるが、予の寡聞なる、共後未だ
我国に於て金蔵そのものに就ての研究報告のあつたこ
末致附終日︵漕畔心菅、尺囲二十四年一Jl刊︶を二調−ul
箱批を附して古ハ八二晩あり、現布状態は、各峡無感㌫
とを知らすにむる。然るに南京より近著の金銀離印始
して、略モその全貌を察知し柑たわで、その概要を離
もの少く、全快紋本のものすらある。凡そ線計七千程
この痺経は十字文の天字より幾字までわ
升t担い昔恩ふ。.故忙以下遊ぶる桝は予の研究ではな
ガ/g
英集︶。か1る異式のものを交へてをるのは、著述の
程あるべきものであるが、今存するもの閏九五七懸邑で
りち行線を加へ桂の入つたものである︵一例、俸統よ
約十分の三は散供したわけである。
芸芸謹裁 余部巻子本で黄表赤軸、長短大小の差違
類を入赦するに畢行本の原版のまゝを覆刻した焉だと
がある。巻首に繹奇説法の固一幅を附鼓し、その右
思端
はれる。
に﹁超城解贋勝寺﹂とあり、稀に﹁住持人震山老人こ﹂
用紙 多くは桑皮紙、希宜臓黄紙でこの分は巻軸や
の語の入つたものもある。而してこの間は蔵控の原
1板
大きく、首に興国院大蔵経といふ方形朱印が押して
後に黒記あり、﹁大金大安元年己巳歳推州考城顆太平
に存するものではなく、廣勝寺に於て装債の際に、
あ加
る。而してこの類の中の千腎千鉢控撃二第一帖の紙
刻したものである。
ハ巻内版式 大腰に於て二種類となる。一は刹控類
興で
国渾院、建修十方常任雑繁藤控、看検高流切須護惜
而して藩氏の見たる輿園院本凡そ十巻あり、その巾
入したものである。
版心高さ約二十二公介、冤さ約四十七公方、毎紙二
箆十
:⋮﹂︵㌍㌫譜摘竃︶云云とある。之によ
三行、各行十四字。紙首に某脛第幾巻第幾紙、英字っ放
て考ふるにこの分は興囲院所安の赦群が贋勝寺へ流
と記せる一小行がある。全控中、天−戟字、起一成字
解1痍字耽の凡そ五九四映は皆この式である。第二は
入臓著述類で、版心は高さも寛さも少し大きく、行の格
二巻︵大般若二六九と批沙門天王経︶には複本あり
七字である。問と梵冊式︵折本︶のものあい、如ち五
︵A範囲院本の版式は原刻であり、別の一本の版式は
た。
字数は一定せす、二十二乃至二十行、十五字乃至二
そ十
れを比較し研究の結果、次の如き重要なる断案を得
行毎に客臼あり摺侵し得るやうになつてゐる︵一例、
御剣である。
一二九
華厳経合論て 叉書本式︵方冊綴本︶のものがある、
合蔵に耕す・エ小﹁制畑
∼■J.7
釆叔に脱する第二報告
︶
理由、一興開院本の字跡奉賛なるに別の一本は草率
︶ である。二興国本の遼題は第幾張、英字放と丁寧であ
︵
︶ るが、別木のは第幾、英字といふ如く簡略である。三
一三〇
︵版の業始まつたが、その出だす所の巻映狗多からす
彫
︵第二期︶貞元正隆の八九年間に最も多く、三百飴映
三千飴巻を出だし、︵第三期︶飴は大定年中の刊行で経
︵B︶この標準によつて贋勝寺の全銀控を見るに、原刻
る。共他刻技、印紙等々の比較による。
瀕の一代に必ずやこの赦を完成したものであらう。そ
映︵止軌補行︶に猶大定の刻板題記あるを見れば、金
九は翻刻なれば、詳状不明な仇ど、全銀の終に近き農
過の時臥最も長く、この部分は今存する控版、十中の
本と補離本とに二大糾することが出来る。祁麒云々の
して刻板の字膿も凡そ上掲の三期に自ら各々特長があ
︵
興国本には刻エを記さす、別本には随虞に附記してあ
識語あるものは常に前述の別一本の形式の類にみる。
原版は純ら私人の募刻によつて成つたもので
って鞭別しうる。
一叢刻
ある。随靡記載の嘩王の名を検すれば、その任所匝域
〓 原刻に就て
イ年代 刻版の年代記戟のもの凡そ三十ケ虞程ある中
は多く菅南・秦西の地である。試に之を年代順に示せ
く解州を中心として所屠の安邑・夏解・市城・乎陸よ
晋南の太平・解州・夏解・嘗巴の諸地、正隆己後は全
ば、皇統貞元のものは河津・白水・批沙鋸・蒲城よ少
葦のもの笠の皇統九年︵鯛賦諸附仙年︶豊幌
大般若巻八二
霊のものは同大空三年︵瞞締増血空軍映大
乗智印綬
く.口字峡以後、虫枕天徳なく.重宰以前に大足の年
僻州の夏解といふがあるよりみて、刻控の菜が解州と
偶モ秦申の美原が一度刑てくる。大定五年に至って猶
大冊に於て巻峡の帽斥提追うて刻版成つ一たものらし
り掩州の長子・巽城・臨扮・萬泉・柴河・瘡氏に及び
耽掛甘す、凡そ三期に分れ、︵第一期︶皇統天徳の問に
.ヽJJ
最も深い紺係にあつたことが知られる。
天寧寺こそ大赦控版倉の設けられ、此虚に於て刻経せ
而して勘繰主の何人であつたかは原版諸巻の中途に の時にも厳存してをる。これらの事情より推してこの
英名を畿見し得ない。全銀の最初即ち大般若の首にそ られた研であらう。
の記載があつたかも知れぬが今その部分を伏してゐる ハ要之 ︵一︶皇統八九年より大定十飴年に至る、前後
僅かに知り得ることは、大乗智印控・大般若第五十九 三十年問に、︵二︶哲西南隅の地を中心として私人の募
00
地織十輪控第一第八第九等の兄故によつて、ともかく 資により、︵三︶天寧寺に於て大赦控版倉の下に刻成せ
この刻版は﹁大赦控版倉﹂の組総の下に成され、その るものなること疑なきものである。故に金銀と挿すべ
三
補厳に就て
控版合は天寧寺内に設けられたものであつたことであ きである。
る。而して尾故に本尊或は本院に施財するといふから
その寺に於て離経せられたものと見ねばならぬ。
而らばその天寧寺なるものは何庭にあつたか。尾故 廣膠寺本全銀の約四分の一は後の補離である。念を
には柴河村民が普賢像を施し、萬泉村民が梨樹を施し 入れていへば、綬刻ではなく、補修である。
安邑村民が願を施して刻赦を安けてをる。これら運輸 イ補離の年代は、年月の超記極めて少き鴬、確発とな
の便を考ふれば天寧寺の所在は柴河萬泉安邑等の諸地 るものは僅かに三あるに過ぎない。稔伽諭第五十六、
と程遠からぬ位置であるべく、叉尾故に本州云云の語 二十四紙及び二十六紙の行間に附記して﹁時大家右図
を見ることより推して、安邑萬泉附近の諸州の申に之 蔚州普勒山恰性湛刊攣一百五十連、壬寅年八月二十五
を求むれば、解州の西二十里、中保山陰に辞林山天寧 日記﹂とあり、同席五十八巻第二十紙四行基白にも大
一三一
寺といふ唐宋の古剃あり、解州志巻十一によれば、金 牌之に同じき記あゎ、但刻工を﹁飛狐解森山専修智昇﹂
金成に関する第一■報告
g7J
金談に執する第二報告
平州路、行省相公ヾ劉夫人辞融、泊六姐鮮長岡碓財
一三二
く元太阻ニハ年︵西紀一二一一︶以後に元の版固に入り
︵解節軽︶
に作る。今考ふるに蔚州・飛狐は元史一によれば均し 縁︵摩利支天陀藤尾︶
しものであり、蒙古は世組至元八年︵西紀一二七一︶
︵四分律︶
に元と稀したのであるから、この壬寅とはその中問な 宜美大名府路、達魯花赤、椚憐、蒙古操車補修厳達
る太宗の后穂政の元年︵西紀一二四二︶であらう。果
離工伶に就ては隷属する尊名を出せるもの、拘さゞ
るもの、倍競のみを著せるもの俗姓を加へるもの専一
して然りとすれば、顛宗論第一巻尾の﹁戊成年監蓬離
経伶組園﹂とあるは太宗の十年︵西紀一二三八︶なるべ
調板者・管経者・刀字数首等を置いて事を執ったこと
く、挿論繹第四巻末の﹁英卯年月抄門法重雄脛此巻﹂ 定しない。そして各地の恰工を一庭に集め、監達者・
とあるは太宗后辟政の二年︵西紀一二四三︶でなけれ
ばならぬ。而して前出の恰性湛は畜贅恰で英名は大般 は知られるが、詳細なる組織は知るに由ないことであ
補離の場所は明文ある刊記を見出さないが、控放記
若四八八巻以下屡々見るもので、補離は必ずや壬寅歳 る。
以前より従事されてゐたことを知りうる。
甘柿離の経過 原刻は多く郷民の浮施により、無名の載の資料を綜合考定すれば、燕京の弘法寺に於てであ
金蔵刻軽重起者
遍く廣勝寺大赦の題扱を検するに、原割にも補離に
四
刻工によつてなされたが、補離は地方長官の自ら功徳 ったことを知りうる。
主となり、輪材捷侶により、諸山名剰の離字臍が主鰭
となつて従事したもので官私の合作である。二三の躁
記を抄出すれば、
中川路、都功徳幸、連魯亜赤、打省萬﹁刑余辟丹パ助
も、りで一が獲起者の純なるかを記してゐる木石1がない。
、ヾJlJ
︳▼
併し三十載の星霜を歴たる原刻、十傲路の臍衆を努せ 自身苦行侶庇わ大赦であらう。故に国家の具典たる創
る補離、かゝる大事業を創めしものが遂に澄渡して彰壇受戒を蒙つたのである。その刻赦は漸次に需要に應
はれざる理あるべからざることである。抑ヒ余人の刻 じ法惑愈ざ宏きに至って更に紫衣宏散大師を加賜せら
と、この二丈を綜合すれば、︵こ菅南の一平民魔法珍
赦事蹟を文献に案ずるに、健法珍なる一私人を蔑見す れ且つ金石の銘文を受けたのであらう。今陛序と李引
ることである。
がある事、︵三︶刻赦には三十年を要した事、︵四︶刻経
の後朗は人を感ぜしめ破産賢兄してまで應募したもの
刻赦縁起に出づる陛光組が募刻大赦控に序する文に ︵釦如欝批抽髭は︶が創侶刻威し完成し蛋、︵≡そ
日く、
昔有女子雀法珍、断腎募刻赦紆、三十年始就緒、常
らか聖安寺に閲係せる形迩があるであらう事が考へら
時横越有破産驚兄應之者。聖朝道化宏贋、越前朝遠 にょつて聖安寺に於て受具したのだから、控版上に何
甚、豊無勝心豪傑乎
れば、二符節を合する如きものがある。︵一︶廣勝寺
文金史紀事本末墾二十に出づる、李有菓が轡文を引いれる。試にこの四鮎を以て、廣勝寺赦の原刻に比較す
て云ふ所は
大定十八年、醗州雀進女法珍、印経一薇進於朝、命 赦の原刻の募刻は常に菅南の地を中心とし、施主は常
聖安寺設壇鴬法珍受戒薦比丘尼。二十三年賜紫衣宏 に村民が主饉である。これ晋南平民の侶刻完脛たるに
わは数十貰わ財、数十巻の資を施し、飴畜なきものは
散大師、明日四年立碑石、秘古流粂翰林修撰趨楓記 合する。︵二︶題躁を渉猟してみれば、村民資産あるも
翰林侍溝畢士篤懐英宴額。
と。此二丈は蓋し一事をいふものである。准は必す金樹木・願・布等を施してをる事葦は、破斥幣見して應
〓二ニ
時の人、故に陣序に前朝と指す。裾が研印の脛ほ必ず 葛したといふ所以であらう。︵三︶前述の如く皇統九年
企・規に隅する折二部批‖
.り7
金波に関する第二報骨
一三四
己前より大定十三年巳後に至る問に離造せられたとのい
刻薙が企てらるべき筈がない。叉雨蔵何れも聖安晦
金蔵の原版と雀氏の刻痺とは断然一事でなければなら
へば前後凡そ三十年であつて、これ亦選民刻赦の時
堂日
と閑係ありといふ様なことも想像し得ない。されば
に一致する。︵四︶康勝赦の鞄映観経の巻首に別刻の序
文一策あり、その末に﹁丁丑九月十五日燕京大艶安
ぬ寺
。その侶成者は法珍尾一人であるに相違ない。随天
晦堂和僻洪俊序﹂とある。元・明各赦にはこの序文の無
練山大銀縁起に港珍の事蹟を誤って明人の武林方皿
く、亦別刻加序の例もない。然るに今濁りこの序あ
痺る
を刻すること1解し、常盤博士の大赦経離印考軋亦
は、特別の蹄係がなければならぬ。順天府志十六に
そ引
の説を霊襲されてあるのは遺憾の極である。雀氏の
く所の元一統志に揺れば、﹁聖安於皇統初賜名大娃
控聖
、蛋蝕塵哩に世に聞えきること七百態年、今その故
寺、大定三年命晦堂主其事、七年二月詔改寺額名大
物聖
を得、潜徳の幽光を聾し得たることは愉快に堪へぬ
五
補離者考
安﹂といふ。晦堂は大定中に聖安寺主とななつてゐ
とる
薄氏は喜んでをる。
朝廷が命じて雀氏に聖安寺に於て受具せしめた時には
晦堂を奉じて阿閣梨としたであらう、されば英文を鄭
重にして赦内に追加したことも自然の情であらう。
イ但
至元年申の奉敷挟たる粁慣鋒巻四に﹁大元啓詐、時
し原序の干支に丁丑とあるは正隆二年で晦堂が未だ
意聖
法門、太組則明昭首班弘護並造、太宗則試脛造寺補
安寺主とならぬ巳前の作であるが、其後刻版の時聖
離安
頼経﹂とある。而して元史巻一には﹁太宗八年内申
と加超したものと解する。ともかくこの頼経が聖安
六寺
月、耶律楚材請立編修所於燕京、絆籍桝於平陽、編
と特別め同線あることを見うるではないか。思ふに
集菅
経史﹂とある。此によつて、太宗は意を文献に致す
●
甫の物力富靡、民憫俳を好むとしても同時同塵に両こ種
と再申より始まり、耶律楚材が賓に之㌃一補導したこ
&ほ
行したとあるから1太宗巳に赦控あ少、世組之を用ひ
て大都弘港専管赦経版によつて校補印達して天下に頒
であらう。補離の場所は弘教集によるに、元の世組嘗
たり、民間を娩導し合力協作して勝菜を完成したもの
本にあるベY、常時中書令たりし楚材がその策喜にあ
動世間財﹂といふ。然れば太宗が離補も亦必す丙申以
下浦兵瑛、甘借金文牛坊荻、欲剖微堅酎経螢、陰線須
甲午丙申諸作の問に大蔵経版を補ふ疏あ少、﹁十年天
とが知られる。今楚材の湛然居士文集巻十四をみるに
ければならぬ。思ふに、この五年の間に所刻の控版を
三年には紫衣及び宏教大師の兢を賜うたには原因がな
勅にょつて授戒したのが巳に異数であるのに、叉二十
穿琵によつて之を推測すれば、埴法珍は大定十八年に
寺、内官営建、眈更新顛、井毀薯碑といふ︶。放らく
するに由がない︵析津日記に正統十一年聖安易名普済
うが、惜しい哉、明時代以来、碑石久しく毀たれて徴
せる魔法珍の碑文には吃度それが記されてあつたゞら
ぬが、その事責は如何であらうか。明呂四年遭楓が撰
して、版木を燕京弘港寺に縁遠した事を考へねばなら
明昌七年に避猟が撰したる済州普照寺照公絆師塔銘
たものであるべく、弘法寺の膏痺は太宗の遺業であり
脾合するから、これその詮左たるのみならす、現在の
には太定二十九年に照公が任寺し輪蔵を建立したこと
朝廷へ進約したので世宗が復その功を施表されたので
廣勝祁版の諸経はその質物であることは更に贅言を要
を述べて﹁□□聞京師弘法寺有蔵教版、常往彼印之、
太宗の神経は弘法寺でなされたものであらう。この元
せぬ。果して然らば金銀の補離者は誰か、日く、名は
即日啓行、遽至其寺、凡用鏡二百寓有崎、待金文二重
はなからうか。
太宗に踪し、賓は耶律楚材の功である。
威以膵。一賛輪赦、黄巻赤軸、□□□□□□殿中安揖
初神経の史上の記事と贋防寺痺中補離の事蹟とは一々
p、解剖痺経の原版は曹地に於て、元代の補離は燕京
壁赦、皆□梵冊漆版金字、以馬厳飾、庶幾清衆易於詔
﹂三五
弘法寺に於てなされたとすれば、この繭事案の連鎖と
金戒に闇する第二報告
朗タ
一三六
篭︶これはたゞ一推測のみではないのである。赦経版本の
一頁、麗赦の如くなし得られ、碑文此方の著述類は前
三行、途絶の一行を加へて、四折して冊となせば六行
るも自由であつたことは、雀氏刻経の版式は毎紙二十
て、黄巻赤軸、巻子に作るも、漆板金字、梵冊に鼓す
十九年だから、魔法珍の刻控が燕京に辟した後であつ
さうすれば普照寺が弘港寺へ往って印赦せるは大定二
本た異なるものあることを示したのではなからうか。
が常時の一新耳目の事であつた馬、歴々と叙入して他
事に言及したも一のか、或は弘潅寺の痺軽を有すること
ものあり、後三年にして照公の銘をかき、自然とこの
その刻戒が弘法寺に踪せることを詳悉して、印象深き
。れ恐らくは、超諷が明昌四年に雀法珍の碑を撰しい
とは退かに異克って、頗る委細の叙述をしてをるが、
たゞ五千四十八巻といふ陳語一旬を以てするのみなる
すれば、必ずやこの頒は第五の弘法寺本に接るもので
してみれば妙厳所嬢の五木中、既に関本に此頒なしと
砂本は思演本より田づるものなればこれにも無い筈、
一頒がある。こは普寧・思渓・両州本になきもの、槙
十四の末に不了眠性基の一頭の後に更に若了限性茎の
帝峡所牧の妙厳寺版大賀積経によつてみるにその巻三
句の猫異の一斑を窺ふことが出来る。上海影印穣砂赦
して居る。幸にその刻本に従って略と元代弘法本の文
五木に擦って損益を封校し、般若・賓積等の経を軍刻
に湖州妙厳寺が嘗て弘法・普寧・思演・稀州・櫨砂の
る所の者なることをあらはして居る。且つ元の泰帽問
弘港寺本であつて、後に来る元本は因つて以て均損せ
部分の名目巻映に至っては尤もよく健刻痺は必ずや暫
寺膏版︵服篭︶と恰合するのである。而して著述の一
本となるので、現存廣勝寺の雀赦は元本揺る所の弘法
其他の碑中、赦讐開設し
も言へば、弘法寺膏版より暁化して元代の弘法
系統て
から
述の加く一瞥その便利があつたわけである。かくて弘
あ部
らの
ふ︵表謂↑増訂碩詣㍍醸諾船糊封離
で一
もは
の其
\′、
金成に餉する第二報告
ふふ と
なくてはならぬ。今雄氏刻液中の賓机控を検†るに明
をと 閏
︰.空叶わ紆版け軋り圭雄氏川別の政経でたトといへようか
ヽ?り
∨、レ、 」
かに此頚が嘉する。︵断鎧郎机珊紬農㌫㌶拍︶
哺㌶諾㌘七︶著述の一門に珍秘の籍あるもその寮
たること義明して雲︵親船蝋鉢翫酎妙齢翫酎瑚榊舶拐
線番十
の諸籍の版は杭州の警り進めた
るもの
略出十
︵頒
価
は北宋甘版の管観である。
狗叉天台意思二家の作二百巻、天聖四年に入赦、
故にいふ。磯舟は即ち元の弘法寺本の墟であり、その
坂は弘法寺に在りしものでなからうか。︵今一例を挙げ
たが、他にも此類のこと多く、決して孤謬ではない︶
大 磯赦は北来宮版の覆刻ならん
るものあ少、今康勝寺赦も亦一一之を覆載してゐる。
版せしもの︵酬謁純一で、錦仮の名㌢版末に記した
刻赦研究上に如何なる影響を生じ、如何なる慣値が認
康勝寺赦経の禾源
一三七
簡単に之を紹介すれば、︵一︶赦中に混入せる興国院赦
最後に薄氏は廣膵寺現存頼経の木頭を考定して居る
七
ょって、その全面目を知るに足る。賓に不思議の閃経
ではないか。
になつて来てゐるがその共同の配本たる北宋官版の刻
赦の全豹窺知するに由なかつたが、今や靡膠寺赦紆に
近時控籍の研討日に進み、宋元諸版の赦控漸く明瞭
︵鞭諾欄郎髄椚㌔︶
金瓶に闊寸る簾二散骨
鋒及び盟故校正別線を以て校勘すれば、愈モ北東礎版
貪元諸控の編女錯綜して重囲誤牧の諸姉、詳に鷺織目
たること疑はれぬ。︵六︶更に其内容を究むれば、詐術
ること。︵五︶控末に偶‘底本の題記を存し、北宋官版
北采諸帝の名詩を避けたること。︵四︶文字時に校改あ
篇経の紙数、各自起託して以て分合に便せること︵三︶
容子装で、行格毎紙二十三行十四字なること。︵二︶短
は一目瞭然として北宋官版大赦軽の覆刻である。︵一︶
きであるが、倉卒に気付いたことをいへば、雀氏の刻痺
めらるべきかは、専深の研究を待って明かにせらるべ
雀痺は即ち弘法寺膏版であるといふ讃定によつて、
.\■ゴJ
金耕に関する夢二報骨
経の印あるものは太宗がその四年五年︵西紀一二三〓
・三︶に興国院のを掠取して康勝寺へ恩賜せるものであ
る。︵二︶其他の贋防寺大麻は元の世組中統初年に寺恰
が印来せるもので、もと散薬のまゝで恋し、俳優を刻
して裸背とした。故にま1紋紙がある。︵三︶康勝寺赦
経中には後に零本の控疏を捜果して加へてゐる。︵四ノ
克明以来康勝寺は蜃モ興廃あり、頼経も幾分散供した。
明の寓暦二十年頃、悟順比丘神経し、清の確証九−十
一年に大いに鉄塔を補抄した。今存する抄本二〇七巻
の申十中八九は背この時のものである。
以上予はたゞ落氏の金銀離印始末考を抄繹し、了解
の便宜の偏に少しく説明を附加し、段落む分って紹介
した
重要なる文献であるが、今は之を省略する。
ガタg
ハース先生の計をいたむ
石
橋
智
信
︵−ス先生は昨冬途に物故せられたと聞く。先生の訃は汎く宗教畢界一般のなげきであること言ふまでも
ないが、とりわけ、わが国、宗教堕界の悲しみである。
ハース先生の計をいたむ
辟国後、ハイプルベルグ大挙に講師として宗教史概説を講ぜられた。先生のこの講義は、ドイツ人として
二年︶任期満ちて踪囲。
箇年滞在﹂その間、東京帝大にドイツ語講師を短期間拾雷せられたこともあつた。l九〇九年︵明治四十
の教職を勤められて後ち、直ちに我国に来朝、普及栢音数合意教師並びに新教神学校校長として東京に十二
からぬエルランゲン大挙に入学、そこに紳畢並に哲学を修められたのであつた。其後ドイツ園内、二三箇所
先生は一八六八年、ドイツ、バイロイト市郊外に生れられ、引綬きその地方に育ち、大挙も生地から程遠
衰㍑
ノ﹂ス光先の計をいたむ ヽ
ドイツの大挙に宗教学、宗教史を講じた最初のものである。先生と前後してベルリン大挙にエドワーザ
マン教授が、ライブツイッヒ大挙にナ一夕ン、ソエデルブローム教授がそれぞれ宗教学祈講ぜられた。
前者はデンマーク、後者はスウェーデンの‖である。ドイツ人としてはドイツ大挙に宗教学を講ぜられ
は先生が初めてであつた。共後、一九一三年、先生はイェーナ大挙に顆せられ、宗教哲学のオイケンと
で同大畢に助教授として宗教畢を講ぜられた。後ち、一九一五年、ライブツイッヒ大挙より招かれ、常
本圃に膵任されたソニデルブローム教授の後を製ふて同大撃、宗教学正教授の他に就かれ、宗教史研究
もおこして斯学の研究、指導に常つてをられたのである。
先生は典型的学究であつた。B露herwurmの感さへ抱かせなくはなかつオ。先生が東京滞在中、一度、
夫人に﹁今日は一日中だまつてをれ。さうしたら夕方は散歩に連れだつて出ようから﹂と云はれた言葉
いつしか門下に洩れて、先生の性格、日常む示す一語として先生を知るものの間に話の種となつたこと
った。確かに、夫人に彗百の行を命じておいて、濁り譲撃l一味に浸りこまない限りでない先生であつた。性
格上、先坐は東京滞在中、宣教師としてよりは二犀、紳撃校長として其の職分を後棒されること大であ
と考へる。紳撃校に於て先生の教へを受けたもののなかからは嬰徒として三並良、向軍治等等の諸氏、
育として細裂虎之助氏、赤司繋太郎氏、賓貴家として深井日銀絶裁等等を出してをるやに記憶する。濁
書に没頭し了る先生も後輩の指導は決して忘れなかつた。東大文畢部査畢中、食も亦相原一郎介君と打
れ先生の〓を叩き、その時、うけた先生の措き指澄は恒に新たなる思〓感謝である。故補永茂助鶉はイ
.関d
ハース先生の計を小たむ
欧洲の倖認Ⅵ於ける偶柁.Buddhエnd月号習d官di仏chenLe駕nde叫−¢鍔
Christeロtumこ¢Mド
彿基爾致交渉書誌Bib−i。賀aphiezurFragenac甘d習WeChse−be思h巨genZW.官ddh
老子旗言W風音tsw。rtedes官省ヤー思〇.
孔子語録KOnfu2iusinWOrteロauSSeinemeigenenMundこ諾〇.
我等の救ひ、阿礪陀俳AmidaBuddha、七nSreN亡f−uchtこ芝P
日本俳教編年史Anna−end●甘p・Buddhismu彗−冨00.
日本将来の宗教JapansNuk亡已tsre−igiOnこ蛮声
日本の俳致D2rlapanischeBuddhismus︵Ku−turderGegenwart︶L蛮声
日本俳教諸宗派DieSekteロd.jap.Buddbismusこ蛮声
日本に於ける基督教俸造史Gesch●d●ChristentumsinJapan、柑Bde﹂筈N−P
すひこんで締られたものである。先生の著述は明らかにその鮎堅不して左の如くである。
そは日本滞在中、不断の努力を授けて、スボンヂの様に、神道、彿敦、儒教、キワシクンまでの知識を
ツの畢間をすへるだけすひこんで掠らなければいかん−スボンヂの様に﹂とものしてよこされた。先生こ
留学してドイツに着くや否や先生はハイデルベルグから余に一書を寄せられて﹁ドイツに来た以上、
ナ大望に於て、濱田本悠君もライブツイッヒ大挙に於て蹄国後の偲生の温き指導をうけたのであつた。
お古
ハース先生の計をいたむ
アイヌとその宗教DieAiロu
undi冒e
Re−i乳On.−慧声
Neitsc首ift
f旨MissiOnSkundeuロdRe厨iOnSWis・
基数以外の世界に存する愛敵思想IdeeundIde巴derFeind針iebeinderau嬰ⅧrCEst︼.J君︼tこ琵可●
共他、先生航輯の﹁侍道畢並に宗教畢雑誌﹂
senschaft上に於ても既に明治四十三年、天理教についてのくわしい研究畿表等諸種の貴い業績が遺さ
れてをる。
かくも多くの蟄表に於て、深い理解を本邦はじめ東洋諸宗教に封して示された先生の永逝は、宗教畢界に
於て、つぐなひ樽ざる一大損失であり、また、我々門下のつきぬかなしみである。
肪
︵Edgar
此の酎進化論の研究の紆果が興って力がある。この取扱ひの
傾向はバニングによつても十分に許偲されてゐる。然し問題
は何棟ってゐるであらう。
︵t訂Gi完n︶
を愕説してゐる串であ
ブライトマンの考へ方を最も端的に示すものは紳の性質に
﹁興へられたるもの﹂
る。このザギブンは∧間生満の類比から推理せられるもので
ある。人間から紳を理解するのであるから醐は一つの有限紳
となる課である。論争を起したのは此のザギブンを如何なる
S.Brightman
が験
近 世界と同一祝される如きものであるならば、それは
ン︶が経
tOta−uncreated
nature Of G
紳からは離れた外的なものに過ぎぬのではないか。然るにブ
︵ThePrOb−emOfライトマンはずギブンを
もが有限であるとなしてゐるブライトマンの見解もバニング
に批列されてゐる。そしてバニングはブライトマンをして柵
更.にザギブンの有限性、紳のカの限界の故に紳の存在まで
を布限であると考へしめたこっの底流をなす概念として、ブ
ブライトマンは、紳は単なる物現的な力又は命令的常志の
餌カキ持つと考へらるべきものではなくして寧ろ目的を成就
一四三
する力、又は慣値の貿現として考へらるべきであると言ふ。
る革が出来るから雨着の主張の要鮎を概赦する革にする。
ングの折節の大要はハーバート紳撃評論︵国対≦l︶の合成に見
GOd、AbingdOn Press﹂琵○︶であり、其のこは﹁紳
のも
襲し
見﹂
と
てゐるのである。﹁紳の問題﹂に於てはずギブンは刷
︵The Fiロdi品Of GOd.AbingdOn Press.︼讐
で吏
ある
のC
中の
動。的要素とされてゐる。触れば受動に対して他動的
所が之に封してハーバート大挙のアンドリュウ・バニング
要素があり、前者の聞にはギヤツブがあり紳が分裂する革に
︵Andrew厨annin的︶との間に前垂を起し、両者が一堂にな
曾 る。此の妖鮎に箪ついて﹁紳の狂風﹂に於てはザギブンに
して討論も行なはれたと灰関してゐる。そして其の結果はバ
糾の仝性質がアトリビュートきれてゐる。然しこの場合には
ニングの修正がより妥常と認められたと言ふ革である。バ一l
紳
仝膿が受動的となり、そしてそれが支配さるべきより高き
原理が必要となるではないか。
知であらう。即ち其の一は﹁紳の問題﹂
年紳に関する所論を公にした二つの常連をなした革は既に周
の名を知られたブライトマン
﹁宗教的慣偲﹂︵Re−igiOuSくa︼ues﹂篭∽︶の著者としても
其のと理僻するかと言ふ鮎である。バニングは言ふ。ザギブ
紳に関する一つの論寧
&ど7
壷 刊 紹
介
一四
はないからである。ポサンケツトは牌紳生洒の本質を定義し
ン〆も言ふ如く宗教心はかくの和学有慣紳に満足するもので
ヅる
シ・
ティーマンが瞥成しながらも仮借と革質とを別けんとす
傾ユに取敬はんとするもの・ゝ周りやすき鮎であるから、条
数ふ
の本
向虻陥れる串、及び紳がプロセスを通疋で敬展すると言
見質上から考へてバニーツゲの絹摘は妥常であらう。パ一一
解、つ.まり紳を時間的過程に終ってゐる革を蓼げる。紳の永 濠性をブライトマンは否定してはゐないけれども、然もその
緊密であり、このテンγヨンこそ宗教の本質であるであらう
て越
有限
永遠は所謂時の果しなせ特経であって、紳が時間から超
し者と無限者の間のテンションに存すると言ったが、宗
教に
うる道が麹されてゐない。紳は永劫に未完成な、完成へ
の於
邁ては我々の有限と紳の無限との問のテンションは更に
を辿りつ1襲展するものとされてゐる。
そく
れの
故に紳は無限にして絶封なるものでなければならぬと
あまりにも楷詮すぎて意がつくさぬ鮎もあらうが、か
す。
如き有限柵の取念は紳観念を特に宗教的に、フエノメノ
ロる
ギバニングの見解は首肯し得るであらう。︵柳瀬日出麿︶
瑠β
新刊
原 田 信夫著
紹サ
カール・バルトの人間学
東
京
新
生
堂
近代の人間拳は人間の自悼的自餐を基調としてゐると考へ
られる。これがルネッサンス以爽辿り充たつた近代思想の特
敦
哲
波多野清一着
京
学
東
京
岩
波
書
票数哲畢の課題を宗教的懐胎の理論的同顧、それの反省的
自己理解といふところにをいて先づ多く?軍歌哲畢の異端を
店
排し、この正道からきわめてねばnノ覗い思索がつゞけられて
﹁貿在する紳
四、変の紳
二、﹁カの﹂紳
をる。内容は
三、展の紳
るといはれる。それはしかし単に素朴肘な容貌ではなく、超
最近の宗教哲学が客取への樽向といふことをその時華とす
に分けられる。
にバルトの人間塑はかゝる人間の自悟性に再び鏡槌を下すも
ー
絶的客取、箕存的客観で人間拳的1擬人的の意味ではない
色であり、人間孝は殊にその解明の展に努力してゐる。然る
のである。人間の疑問性を説く人間畢、極端に言へば人間否
地盤に立つ。博士もまた早くからこの哲拳的人間畢的出
定の展の人間畢がバルトの人間畢である。本署は四六版雪二
十傲貫の小者ではあるが、この間題に著目した著者がパルト
楕止まらず、上への.、絶剖的賀衣へのつながりの理路を正常
の基調に立ってをられるのであらう。しかし博士はたゞそ・こ
に樺利づけようとされる︵こゝ町長近の形而上畢や紳拳に於
費鮎に立ってをられたやうに思はれた。本音に於いても亦そ
三章政令の旋間性〝四章倫理行飽打凝問性。五牽.ハルト難澄
章バルト研究と﹁人間の疑問性﹂。ニ章人間存在の疑問性。
ける三つの傾向の何れもがつ望㌻め待ない難関に逢着して
の著書仝般竺且って綿密に検討した展攣なる研究である。一
法。六章近世掛逸プロテスタント紳畢とカール・バルト。七
ながりが博士に於いてはイデアリズムの地盤に於て貫通せら
をる鮎があるが︶。そしてこの上の世界と人間、世界等のつ
l四五
寄せてゐる。︵丸川︺
介
章バルト数理輿−弓猫、カール・バルトな本昔に推稀の序を
新 刊 紹
脚
介
一四六
せられる。︵その関係に於て歴史や敢曾等もあり、久地者の
境地は主膿の人格的ないはゞ封外関係共同関係によつて完成
新 刊 編
れてをる。本管の最も意義深い鮎はおそらくこの観念的地盤
とその舞
箕在といふことも前提せられるが︶この主腹と他者との関係
ー
とることによつて、親念性の再生が成就される
の再吟味 − ドイツ的な概念論ではなくギリシャ的なそれを
茎に於ての宗教の本質を見出すといふところにあるのであら
ペに於て完成せられる。換言すればこの変の住家が宗教であ
り、それは﹁他者との坐の共同に於てある﹂変に於て、アガ
を人格的に生の頂鮎にまですゝめるところに票数の本質があ
はじめに生後的鰹鹸に於てある紳を暫峯的人間塑的に賓証
る。これが人格主義の実数をもつて票数の本質とする著者の
●ラ○
するものとして確保し、それは人間の意志健陰に封して仝髄
結論である。
宗教哲革は今輪形の期に逢着してをる。その分岐鮎に立っ
絶劃であつて知られざるものである。人間、世界の側はこれ
て、博士は確固たる粗放を成された。外国の諸思想に射して
に封しては無に等しい。そこで自然的存在のすべては否定せ
られ、象徴化し意味化せられる。この足を地から離された境
きわめて明かな餌別を加へられた鮎とこの組織とは長くこの
圃の輿徒の目榛となるべきである。こゝでは到底本書の意を
地が宗教た於けるイデア性の根底である。
充分に表はすことが出来ない。博士に謝して、他日を期する
条
この地盤に建てられる宗教の基地はでは如何なる行衛をも
梅
庫
っか。観念的地盤に立つといつても宗数の境地は下からの合
見
文
つもりである。︵石津︶
逸
印度に於ける鰻丼像の形式研究
東
洋
理的思惟によつてとらへらる1ものではない。著者はこ1で
﹁眞﹂の問題をイデア性に於て解決
するために神秘主義に入るといふ、取念的存在論から訣れた
宗教的賓在、或は境地の
深い著者自身の逆をたどる。この紳秘化の逆に於てはわれわ
る。神秘主義が執念性の此岸に於てあることは何人もこれを
れの一切は無に於てある。換言すればそれは絶対者に於てあ
の、或ひは印度数億像に隣し或ひは彿欽のそれ即ち解放轄像
等印軟請畢
は現在何十分に開拓せられず、Ra〇一BhattacFar
雪aphy︶
印度神像若しくは鰻丼像一般に関する所謂尊像拳︵IcOn?
る。︵こ1にはじめの賓衣者の建て方を見るものは矛盾を認
認めるであらう、しかも今やそれは組封者との致同に於てあ
顎a.FOuCher.Getty.BOSe−Sastri、GangO︼y
しかもこの紳祀仙境地は圭標的に自我の境地であり、この
めぬであらう︶。
Aブ〃
詳細の探整と質際に遣存する尊像との両方面より考麗しなけ
盲未だ見るに至らなかつたのである。元非文厳に於ける精密
にしても内容にしてもこれを綜合的に硯系づけるが如き労作
に別して見るぺき研究を螢表して居るとは言二、語傑の形式
といひ得る。第三筋は造像の材料、解四篇は像供奉の法を論
式研究、特に造られたる遺品の研究に於て最も重要なる部分
ふ衣服等及び身を飾る厳身典︶、の六項に分たれ、尊像の形
を鯛羅す︶、︵五︶身色身光及び光背、︵六︶身許厳︵身に細
をなされたのである。本書の労作たる所以は斯埜に関心する
其の困難を克服して此鹿に逸見博士が尊像形式に関する綜合
れるのであり、叉此の形式諭は一々の隼像に関する詳細なる
べてを紳羅し得たとは冨へず、未刊の富木、末政見の潰像等
紹介する如きは輩者のよくするところ忙非ず。勿論本音は凡
以上単に内容を拳げたのみ、此の詳細綿密の諭作を簡盟に
じ、また極めて注意すべきものである。
着であれば等しく認めるところであらう。而して本書を蔑む
.
に従って
が完成され名べきものであらう。然し兎もあれ本書は徒死印
考察即ち告像内容諦と相償って初めて尊像蘇としての陛系化
った。然も此の両方面に於て種々の不便多き我閣にあつて、
ればならない困難さへあるために十分なる研究が通され難か
内容を簡盟に記せば、最初に緒言として研究及び資料の範
にして必ずや本書を補足すべきもの1現はれることが期待さ
陶、密教像と印度神像との交渉等の壮妥とエ巧明典其の他に
こ官八十の固とを含む本文四首真の堂々たる大著である。
欧人の企て及ばなかつた割期的の論文であつて、幾多の表と
新.生
堂
︵高田︶
関する解除あり。本論は四常に分たれ、第一像量籍は誰保身
なる身丑並びに身相の考察、以下各論庶の隼像を詳細に検討
京
カルダインの基督政綱要の全課は既に中山昌樹氏によつて
東
師配郵酎紳観・基督論・年譜
抑司随爾謀著
先の分析にして身丑をはかる度量の制の研究より十傑の詳細
し、一々に身分比率表を附して墨際の造像にさへ資して居る
節二像威儀㍑は尊像の外形に関するあらゆる形式株祁帥ち威
儀を諭ずるのであつて、︵一︶錐住勢︵告像の或ひは立ち或ひ
は坐し或ひは臥す姿態帥ち勢\︵二︶種︵師子座蓮華座等より
試みられ、第一食中にその紳軌及び拡督諭は収められてゐる
尊像餅御の釆等を含む︶、︵三︶印奥︵此虚には稽節を以つて
本音を外示する手印の史的考察並びに各種手印に関する研究
本譜者がこの寄に於て試みてゐるのは右綱要の抄澤である。
一円七
を一なす︶、︵四︶特物︵即ち契印にして諾摺所持の法具、兵器、
介
架碁、動物、植物果賓、珠玉葬、建物、磨身具、黙肺炎の他
新・刊 紹
ム■.●JJ
題は駒後相承しっゝ進められてゐるのである。而もぐの問診
片的の防煙打寄せ軋め的な寄掛ではな.く、極めて徒系的に鴎
十四八
眈た全課あつ七後抄課の酔かのな不要の.−ヤシやも.あ、るが、必
は硯質を唸れた歴史上のものとして諭ぜられてゐるのゼはか
介
ずしもきうではない。仝謹の革大とその綿密な蓬字詰に辟易
くして、常に現賓の我々に課せられたる瀾題として敢Ⅵれて
新 和 紹
するのは必ずしも癖紳的怠け者とは限らない。この鮎に於て
■■
明な文章によつて叙述きれてゐるからで.ある。恐らく原著若
本音の数果は充分革め一られぁ。原著の要鮎を汲み且つ平易解
歴ぬ上の問題のみが関心事となり、またそれのみが唯一の畢
求.されるのである。然し彿数の研究はか←る現安から離れて
のでは.なく⊥て、賓に我々の現貿の萎のうサにその解決が要
ゐる。■されば単に机上の問題とtて偶数が取上げられてゐる
ダインを中心にあの弊化多き時代の串蹟が素描きれてゐる。
本書の最後首貢はカルダイン年譜である。年代を追ふてカル
的な純粋性を特つものとも考へられてゐた。果してれトの如
しくは仝薄忙親しむ者によつても哀き手引きとなるであらう
これは著著の企固にあ篭カルダイン停の骨組みでめるが、こ
ら、.ごれに依って彿教の研究に射す忽慧さの関心を促がす
ケ。︵梶芳︶
松村秀賓著
1′
法式、と其放電∵
・昭和十年
い串である。宗教儀鯉の資料は容易に得る串が出奔ない。我
々はこゝに松本変重、和田英松南文垂博士校閲の下に本派本
願寺に於て円ら儀ぺの事に興っておられる松付秀歴代によつ
宗教儀祓の研究に最も不便を感ぜしめるものは資料の少な
東京弘文館
ものと云はねばならず、この方面の著晋として仝く妖如した
現状に射して一つの大きな指導書と云はねばなら甘いであら
くば、示晋は現箕のうちに顕みて阻阻を貌に課すのであるか
岩波書店
約四官貫。︵丸川︶
京
れだけでも稗益されるどころ少なくない。全部入滑イント、
金子大祭著
係数¢藷〓問題
東
彿教概論の大作を世に選って以木久しく研究三択に入むれ
てゐた氏の近爽の大作でぁる。遷して彿敦の諸問題と云ふが
それが各々別簡のものとして粥立に他とは関係なく寄せ集め
諸問題と云へば一冊の著書の.う与に多くの問題が紹介せられ
であらうが、今この書はかくの如針ものではなく、、彿敦史を
られたものが成って一審を構成してゐる如くにも感ぜられる
大観してそれ圭−問題史的に取扱ってゐるものであるから、噺
ぷβg
て本派本願寺の法式と其の故繋が明らかにされた車を心から
専び庇い。大宗教の法式など自ら革にあたるの.でなけ打ば、
そのあまりにも過差なる儀鯉の末節はもとより、その精神を
励口慈光窮一
昭和校訂車台四致儀
山
草
房
天台彿敦が後の成立彿敦の基底となつてをることはいふま
京
一醒眞宗に於て法式を数理的に如何に意味づけるかはかな
でもない。したがって、その数革も各宗教畢の銅棒にきわ打
東
町困静な事業であり、間超も多からうが、多くの儀式は朝廷
て重要な位置をしめる。天台数畢に関する託樺末書の居いこ
知る革も容易ではないのであるから、かゝる著者を待た事は
我々を益する析が棟めて多いのである。
に於て行はれた、仁王曾、.最膠骨を初め数ある儀式に準接し
との理由の一は亦こゝにも併せられよう。しかし多くの託疏
かしい。
の現象を政見すると共に、そこま
類にもかゝはらず天・台の敦敬に通じるといふことは至極むづ
て取捨されてゐるものであるから、我々はこゝに極めて注日
すべき儀他の FOrtdauer
でさかのぼつて研究しなければ灯らぬ革も諭をまたない。著
新単四昔、五小部、三大部といふやうに中世以来天台を準
きて然し著者は法式畢の必要をきけんでゐられる。﹁法式
者のなされた故箕の開明も三讃すべきであらう。
る。それらのうちには﹁八教大意﹂、﹁政敵綱宗﹂とか日本の
いふことは、困難でやはり入門の諸寄ににつく方が便利でむ
で法要の次第や荘厳によりて法骨の死活に影響するものであ
もので
ぶものの階粗が定められてをるが、最初からこれに接すると
る一と。儀経の研究が宗教拳上玉蚤なる串は諭を供たぬ。常
﹁天台四数儀﹂は簡にして要、且つ過不及がなく組織的、有
宗綱要﹂等々があるが、就中朝鮮の生んだ亘匠へ諦観法師ゐ・
の次第や荘厳には、其の嘗串者は、特に注患を耕ふべきもの
草者としても精細な研究は駅はしい。然しタルドの所謂模倣
法式畢を作り上げたとしてもそれは詩或は票数に於.で如何な.
みならず偶数典簸を畢ぶものの手な臥しとしても恰好の書物
線的である。単に天台の入門書として昇一に上げらるべきの
﹁天台法聾崇義宗﹂、﹁七帖見聞﹂、﹁西谷名目﹂、﹁天台
の法則に従って詩の儀経たるプ甘ソティを作㌢、宗教儀鯉に
る意味をむつものであをか、卜此の鮎ば十分瞥戎ぎれなく
一四か
紺身の鼓べか.Lころにrると、LかレL臥r阻敦儀﹂も十
かなとほりである。
・でぁる。この普の末樺が移しい故にのぼつてむるにみても掛
介
ではならぬこ.とではあるまいか。︵柳瀬︶
新 刊 紹
ββg
介
一五〇
本氏の敦へを受けた年取氏が貰ったものであることは追記に
新 刊 紹
発揮の刊本をもち、字句の異同出入があって摸準とすべきも
も示されてゐる。本音は六都に分たれ、夢一部は票愉諭の津
読四澤対校を示し、第二部には西戒所停故毘耶造異邪宗精悍
の四数儀を敦見し、蕨経印行史の研究上注目すべき資料とな
のがない。陥口氏はさきK喘王寺の軍港蔽の中から元和印行
寄託、第三部に同じく酋赦惇調伏天造興部詮集詩誌を、第四
﹁四敦儀﹂版本を待、
ったが、氏は種々苦心の結果十二粒の
の定本成る
部に西蘇原文世友達興部宗葡静、節五部に西餅原文政毘耶達
異部菜摘稗を、欝大部に同じく西蘇原文調伏末法興部詑集を
ょって訓鮎を是正してをる。正しく、﹁四数億﹂
本書に於てl々それらを対校取捨し、︵御託封佼︶晃蔵版に
といへよう。本澤拳帯の意義である。
更に新畢入門の便をはかつてきわめて周到懇切な配慮がし
書
店
第萱輯
代への追憶をすることは厳に耕すべきであるが、現賓に切簡
な必要を感ぜられてゐる併葱から逃避したり、或は無観心で
情にも変化を生じたことを認めない諸に行かな.い。徒らに時
眈に世人の周知のことであるから此虔に繰り返へす必要を認
めない。然し田逮、萩内、秋葉、鈴木等の諸先輩が研究骨を
初められてから十年以上にもなる、従ってその間に畢界の事
東京離骨畢研究骨が日本の敢曾謹界に輿へた影響に就ては
社食学研究
東京配曾拳祈究骨窮
に推奨したい。︵梶芳︶
後準たる我々にとつて頗る便利なものであり、更に度く江湖
山
京寄普及智
出す。而して終りに異版封照、西赦原文校訂衷、字尭、索引、
興部分派表等を出だしてをり、小乗彿敦の基礎的肺究書たる
興部宗輪諭が退憾なく研究され得るやうになってゐるから、
小
東
の科文頭誰は新控者にとつては却って炉にすぎ無益である。
課
東
てある。恐らく誰しもいやになつてしまふであらう例の膏本
覇者はこれを全廃して新料詫を附し、更に﹁四数億﹂の解散
二十項目について一目瞭然たる国表解説をし、叉四敦儀字零
から、大台副書の餌妥な梗概をかかげ、親切にも四散儀中の
を嗣むでをる。
天台新単著の新準音はこゝに完全なものが出奔たことを志
:土ヒ
なものといつてよからう。︵石沖▼
校和 議
異部宗輪論
東
京
ある人々にお知らせする.撃督教科書用としてもつとも︰週常
寺本娩雅
平松友
三耕
本脊は寺本、中松両氏の共詞となつてゐるが、主として寺
ぶβJ
藍藻嗣 封伏 川川
で本音の償倍は甚だ大きいと倍ずる。︵杉浦︶
る敢骨拳研究に推古しなければならないであらう。此の意味
Faith.
UniくerSity
−諾−.
ゐたりすることは畢開のために忌行べきことである。東京証
COmmOn
Dewey−10Fn
A
Ya−e
ワイトヘッド教授と並んで、米図哲畢界の隼壁とされてゐる。
コロムビア大草のデューヰ一教授は、ハーバード大挙のホ
Press.
骨畢研究骨はこの斬に於て常に最も長い指導者であつた。
本書を一見して感ずることは今日の祀骨挙が論じなければ
ならない問題ばかりを放ってゐることである。就中我々の注
意を引くことは眞の意味の安置的研究が多いことである。今
て、或は方法論としての賓謹的研究であつて、白から配骨に
迄安置的な祉骨撃と云ふのは問題となつてゐたが、概念とし
首を突き込んで見て、そこで箕際の調査なり研究なりを進め
たものはなく、精々外閑人が外国で調査したものなどを借用
本書は首京に足りない小者であるが、デューヰ一教授の宗教
のとを囁別する。宗教と云ふ言葉で示されてゐる既成の諸宗
くの要素を含んでゐる。それ等と切り離して、我々は、人間
教中には、近代人が信仰にはいる虜には却って邪魔になる多
の一般生餌の中に、宗教的な信仰を考へることが出奔る。そ
る。最近は敢骨拳のみでなく多くの摂関に於て、我国の寒情
の中に、人の心の中に、見出す虎のものである。それは、近
介
一五︷
の究趣への願依に上・つてなされるものである。その理想の
﹁その信仰とは、自己の統一である。それは一切を含む理想
教授の言葉によれば、
代的知識と決して矛盾揺活しないものである。
れは、その信仰の基礎を超自然の紳に求めないで、人の敢骨
新 刊 轟
っぁる現日本配曾に應じて、稀賓な努樽の歩みを巡りつゝあ
特に宗教の敢曾的研究態度をとる人々は、急激な欒化を経つ
宗教の研究に於ても考へねばならないことであると信ずる
って盛んになりつゝある。
の確貿な認識の上から質箕な蟄間的攻究を進める傾向が目立
国に於ける審族及び血族に関する調査も盛んに行軋はれてゐ
敢食費に於ては、これのみでなく戸田教授を中心として我
を進められてゐるものの多いことは誠に賓ばしいことである
等我閥の問題に関して、貿際fie︸dwOrkを行った上で研究
は鈴木衆太郎氏の﹁血放に関する二つの方面﹂、小山隆氏の 蔽を端的に表現したものとして、意義大きく且興味深いもの
﹁北陸地方に於ける大家族的衆落﹂或は岡用謙氏の﹁箋鞭北ッ である。
オウ族の外姉に就て﹂秋葉隆氏の﹁朝鮮巫俗の家祭に就て﹂
教授は先づ、宗教 ︵re厨iOn︶ と、宗教的︵re−igi宏︶なも
して、貿澄的な放をしたに過ぎなかつた。然るに本書に於て
β3ぶ
新 刊 絡.介
“究極は、或々の想像み力が我々に示すものであつて、人の.
受け入れる﹂。︵三三文︶.
心はそれを、希望と選棒とを支配するに偶するものとして
従って、停統的な意味での紳と云ふ観念は全く存在しない
わけであるが、強ひて、その名稀を取り上げれば、号の内容
とする虚は、﹁理想と現箕との間の動的な関係lに外ならな
ヽ ○
得るかも知れ率い。、.釜本︶.√
一式二
−巴芦
Of2、聖甘ロd抑.
D.Sauka−ia
TheUui扁rSity
Hasmukh
1−
Madras.
中天笠摩鴇陀にあり五大笠第一の精舎を憤り護法、戒髪
く庭は明かにヒューマ一三ムの立場を示してゐる。一九三三
度があるのかも知れない。併し、それにも開はらず、その詮
りした主義と考へない庭に敦疲の七ユーマニズムに射する態
陀大草の起源から隆盛期を経て.その没落に至る問を一貫して
料等を根汲として中世印度彿致研究の一大中心をなした那爛
は著者忙依れば大唐西域記、及南港寄麻内法停及び西蕨の資
殆ど考古準打報告を見るの程匪に過ぎなかつた。然るた本音
した那爛陀寺の草按に関しては役務極めて簡革な説明か或は
を輩出し玄弊、義浄の南三.寂を初め多くの支那彿教徒が留馨
徳蕃、堅豊等を初め前後に数多くの印度彿敦数拳上の大草者
年に致表された﹁ヒューマニスト写言﹂の三十四名の著名者
マニストとして知られてゐる。
想史的方面の説明は政孝の内容、畢風︵教授法、・研究生の生
前から此虚に行はれ畏偶数の儀祓等と共に比較的詳細Ⅵ並べ
てゐるが大草の背景をなす常時の敵骨情勢に就いで曙、著者
ヒューマニズムは、キリスト教の博統的の数理の中に含ま
した宗教の代りに、人間の宗数をたてようとするもので∴扱
い。.併乍ら之と同時代の他のダラピー・ビクラマシイーラー
等甘藷大草と、の比較やら、同大拳の玄弊を初めとして支那、
の言にト僻むナ極めで漠絡むした詮明を興へて居るに過ぎな
酉赦の留草生等の革蹟やら、現倍の考古塑的報告や蚤堀品の
匠米国宗教思想界に顕著な傾向である。それがキリスト教の
的なキリスト教ではない。又、ヒューマニズムが数理の矛盾
献衝的併談、印鑑美術史上に於ける郵櫛陀の地位、特質を論
殻から一渉外へ踏み出してゐる株に、教授の析諒も既に停統
の検索と訂正に忙しく、諜政審鹸を顧みて居る暇を待たない
れた不合理な要素を敢然として排除して、社務の、紳を偏重
其の常時の証曾情勢を研究したものであるが、其の数畢、厚
中に、デューヰ一教授の名の見出される如く、教授はヒュー
て居られる棟に感ぜられる。.ヒューマニズムを一つのはつき
本書中、教授は意識してヒューマーーズムと云ふ言葉を避け
’
上云ふ鮎k於いても、本音は同じ弱みを有するものと見られ
ガβ〝
しY
説を施して居る。師の拳的性質上説く析穏健化して、とりわ
それを三つの戟鮎に分ち、即ち緩済、紅曾、宗教について詳
企ててゐる鮎は認められる。倍、初めの那爛陀大草や教生の
る。︵財部︶
困難な時に本嘗の如き手頃の紹介を待た草は同慶の至りであ
Pe甘邑○、くincen3
−awares.
一五三
Phi−ade︼phia.
peyOtism
−盟芦
theウ訂wIndianRe−igiOn、amOngthe De
TheDiabO−icR00t・AsどdyOf
.ヾ.77
ずる等兎に角那爛陀大草に就いて頗る廣い角度からの論考を
基礎と彿数倍院の水草他の過程の説明は極めて簡単で多分に
−¢u∽.
の間逝を取扱つた便宜のものとして一説に倍ひするものであ
竹て鋭い論説は見出し待ないが、僅か三十頁の間に最近のこ
皮相的な託児免な小としても一・讃に催するものと考へる。
The
LOndOn.
前文明なる題が稀へられてから久しく、その成果も多量に出
い報告を期待する革も出耗ないが、所謂インダス河流域の史
徹って亦、之に依つて在来の研究報告等に末教義な斬らし
所謂拳術的研究書の部類ではない。
本音は元爽の目的が簡単灯諌み易くと云ふ事にある性質上
Licbteder
Indus・Ciまーi00atiOn.
Mackay−Ernest
因に本音は Indian HistOrica−ResβrCh:ns琵
ち亡
うt
。e
︵.
中﹀
野S
︶t.
り訂エer.sP−−ege・の印度史研究叢書の一である。︵財部︶
KOpperS、Wi−−am
Die IndOgermanenfrageim
尋ien.AnthrOpOS−−¢冨.
histOriscbenく空kerkunde、
介
の
版されてゐるにも不拘、何れも比較的に簡単に入手する革の
lnd・
今春衆朝したシュミット師の最高弟子であり、現在アント
新 刊 廠
の単純さを儲けて全面的な民族畢的宗教畢Ⅵ周蘭とtて垣に
者EickstedtのTuran託を最も奉賛に近いものと賛し、そ
音譜畢、考古畢、人種畢の諸拳徒の説を概管し、就中人種選
先づ最初に、その原任地Ⅵ開港を取扱ひ﹂最近試みられた
史的民族準的立牽から見直すた
界に於いて既に扇いインドゲルマンの問題を新らしく緬の歴
練き上して﹂叉その一般化として、采教拳、言語拳其地縁拳
〇germanen in ihren k已turhistOrischen出eNiehun的en
本論文は一九二九年同耗に螢表された Die Re−igiOn
ロポス紙の最高指導者であるコツ。ハース教授の近菜。
一
介
一五四
の部族内での一群のべヨトル信仰者連の宗教的な動きが痍糊
新 刊 紹
仙人掌の一糎ペヨトルに関する襲撃的研究はレヰソがこ患
the
Natiくe
iロCu−ture COnt
Ci5.−isatiOロand
ー盟き
口として殖民地、保護園の獲柑に僚念がない。アフリカ大陸
資本主義列強は経済的搾取、製産物の販路過剰人口のはけ
LOndニ
SOuthAfrica.Studies
Western
Schapera−1●乱●
ethnObOta・
終ってゐる。︵盲野︶
として鮮町を炊ぎ、二、三の特定人物の平面的な記述だけに
も應用の範囲が見出されてきた。ルイエはまた
を蚤見して以来ルイエによつて解決され、精細病の治療等に
族でのペヨ,卜儀祀
の文献にょつて各部族に亙って綜合的な記述を擁してゐる。
ny としてのペヨトルについても民族拳着や初期の宣教師ら
民族聾者で腋ラデインがWinnebagO
のモノグラフイを出してゐるし、ルムホルツにはフィチョル
インド人に於ける、またブロイスにはコテ・インド人に於け
る、この種の記述が見出される。︵ペヨトルを飲んだ効果に
ことも附記しておきたい。︶
ついての貿鹸的記述についても移しい文献が近刊されてゐる
と錐もすべて土人の全き支配者ではない。征服的な西欧のカ
はヨ一口ッ。ハ列強によつて分割きれ再分割されてきた。常長
は常にその背後にある。土人とヨーロッパ人、西欧文明と土
著者も亦かゝる拳的停承に準じて主として一九二九1三〇
年灯亙ってデラウエア族に於てペヨティズムの史的資料を蒐
人の倖統的執念、葡技術への執着等とによつて醸し出される
封立する民族聞の文化的接鳩の問題、これを本番は多しのエ
価に常るスペグ博士のこの部族の祭儀に関する諸調査が大い
に参考にされ引用されてゐる。著者が掟供してゐるデラウエ
っての文化接鱗はこゝでは述べる要がない。課題にして考究
キスパー.トが取上げて諭じてゐる。経済、政治、行政等竺且
集し、これに史的民族拳的分析を試みたのである。これには
ア・ペ.ヨティズムはもちろん頗る興味がある。この中毒性の
してみたいのは宗教文化の接鰯だ。この意味からEise−enの
仙人掌を飲んだ土人の経験談の記載も有益である。民族的特
異性や個人差の問題も注目すべき示唆をなしてゐる。これは
﹁キリスト教とパンツウ族の素数生活﹂なろ一諭は江日に償
を中核にLていろ′1た種鄭のぷ敦鹿系を作ってムて、途ひ
この族は死後薮魂の存練を信じ、このアニミスチクな信仰
する。
べヨティズムへの大きな寄輿たるを失はない。
一言しておきたいのは、著者は票数は﹁宗教的泉質﹂を.も
った渚個人によつて創造され凍発されたとするラデイン、ロ
ヰ、スべクらい比仰を踏笹してゐること。この結果としてこ
ざ.ヲぶ
●
には御苑崇拝にまで達してゐる。しかし部族の通弊こそは土
人姓清の特徴であり、また彼等の政治的票数的冊動は分離さ
れえないものである︵支配者はまた祭司でもあるから︶。宗
教は確かに共同配骨の菌数である。
Mystics.
YOunghusband−Franci00
MOdern
ドOndOn.
−¢U∽.
なる書物は神秘主義の文献として最も珍らしきものゝ一つに
﹁現代の紳秘家﹂
屈する。既に著者自身が草徒並に一般韻書階級に異色ある存
サー・フランシス・ヤングハスバンドの
者の渡爽は単に新宗教のみでなくて、反部族的な新祉骨秩序
教が宕くは二百年前から漸次に入り来ったのであるが、宣教
在と目されてゐる事は周知であらう。今までの紳秘主義の研
かゝる停統的な宗教観念にみたされてゐる部族にキリスト
を暫したのである。しかも重要な部族で宣教師をもたぬとこ
て研究してゐるもが多いのに反し、本書は斯の如き態度をす
て←、現代の、或はごく近代に屈する、各地宗教の紳秘家を
究菩が主として東西の偉大な紳秘家を全く習慣的に拾ひ出し
ってゐる。第一はどうしてもこの宗教を採用しなければなら
研究してゐるのである。ヒンズー教の神秘家としてKeshub
ろはない程のキリスト教は少くとも表面上は襲展してゐる。
ぬ困難に際骨した時期。第二は例へば教育を受けるため等の
Chunder
しかし貿際上にはパンツウ族はキリスト教化に三段階を辿
目的のため手段としてキリスト教を利用した時期。今正に始
リ∴リツクの紳秘家としてStThかr訂e
敦の耐秘家として、ペルシャの出ab
g3タ
LisieuH
の著者、レバイパル的
de
とその徒、ローマンカ
この意味で我国の碓ql秘主義研究家に取ってはよい資料とす
る串が出来るであらう。叉此庭に述べられた紳秘家が自然の
も、空にあわたゞしく入道雲がひろがる中を一群のま白い鶴
英を愛するものが多く、ラーマクリシュナが恍惚に入ったの
がとび行くのを眺めてゐた時だつたと言ふ。その言ふ革も蔑
雪中のなぐさみではあろ。︵柳瀬︶
一五五
プロテス
Kamakrishna及びくiくekenada マホ
まらうとしてゐる第三期はこの宗教が既に魅力を失って因習
タントの紳輔家としては﹁黄金の泉﹂
Sen
的と墜してきてゐる。これはキリスト教の生活とか理想とか
でなくて、白人の卸すあらゆる形態の路械、西欧的な科雄文
紳秘家としてはE<aJ
RObertsと言ふ具合に。
明への憧憤が始まつたからである。人々の年分以上が未だ基
介
た草葉は多ぐの興味あるテマを投げてゐる。︵盲野︶
数に改元しない問に、眈件の年分が宗教的無関心を示してき
新 刊 紹
−
一 視
琴−
鍍を送り出しえた。
△豊かな内容とプアライニチイとをもつて、新秋の畢界に今
もらふといふところに編輯意固ををかなければならないか
△研究機閑話は研究者の審門的研究を充分に自由に発表して
ら、傾向的な窮韓をつゝしまなければならぬ場合がある、
といふことを預者は了解されるであらう。
月報氏︵龍大数授︶、小口氏︵凍大霜教拳研究室︺からは
△松井、村上、林部諸氏から久しぶりで諭文をいたゞいた・。
はじめて原職をいたゞいた。
△久しく中絶してゐた骨員名簿を印刷したい計婁であるから
は前幹部宛御通知いたゞきたい。
中絶骨員、最近任所担吏の骨員諸氏並びに入骨希望者各位
︵T・l︶
女巴椎華
樺罵要語蒜
英梵
前
約 文
谷 立 文
文
頒 価釜本芸 彿蒜 犬
龍姦 大法要 琶軍唯雷
士 士樹授迦士塞蒜左
墜和
空霊
土
観望
の菅 立著
研
樫 侍 地 法
見
究 史 究 蹟
四
雲脚
加 療 本 珊 大 殿
倉 文
文 文
◇
感 芸膿
経常合着 信
の念
の 重 論と芸芸芸。芸 理
らな のカr
観
非
梅
由餞 畢 道 探 敦 蓮 践
概
概
敏 活
敬
悪妻聖;竜野憲政版出東大琶竺警空.廟行褒
Fly UP