...

Page 1 京都大学 京都大学学術情報リポジトリ 紅

by user

on
Category: Documents
5

views

Report

Comments

Transcript

Page 1 京都大学 京都大学学術情報リポジトリ 紅
Title
Author(s)
Citation
Issue Date
URL
藏書と讀書
井上, 進
東方學報 (1990), 62: 409-445
1990-03-31
https://doi.org/10.14989/66709
Right
Type
Textversion
Departmental Bulletin Paper
publisher
Kyoto University
痕
書
と 講 書
はじめに---・
︰⋮ - --≡--
⋮・
・
・
⋮
一 刊本と抄本 (
宋 元 ) ---・
じ
め
に
---︰四二九貢
四 歳著者 の蔵書、講書者 の蔵書・
三 刊刻 の聞達 ・
・
・
--・
・
・
-・
⋮⋮⋮・
・
・
⋮=-四二二頁
上
⋮
井
・ ・ ・
・
四
〇九頁
︰
四l
O真
-
・
・
-≡-I
---・
・
・
・
四l
五頁
二 刊せ・
l
」
抄本 (
明代)・
は
拳 闘 と書 籍 が 不 可分 の関 係 にあ る こと' これ は全 -自 明 の こと であ ろう0 例 えば 宋掌 の成 立 にと って、 木版 印刷 術 の発
所
謂
達 による刊 本 の普 及 は極 め て重 要 な役割 を果 し た、 と言 われ る。確 か に刊本 流通 の本 務 的 開始 は'書 籍 にと って正 に童 期
的 な事件 であ っただ ろう し、 そ れが 「
意 善 人」 の 挙 を 成 立 せ し める 重 要 な錬 件 の lと な った ことも 疑 いな いO だ が
「刊 本 の普 及」 と はど の程度 の ことを言 う のかrJ刊 本 が 流 通 し始 める やへ ただ ち に抄本 は質 ' 奥 とも に挺倒 され てしま う、
の であ ろう か。 そ の様 な こと は、 常 識的 に言 ってお よそ考 えら れ ぬ こと であ る。 とす れば 、 刊本 が決 淀 的優勢 を占 める横
にな る のは い つからな のかO ま た刊本 の全面 的普 及 は戚 書 を容 易 にし、 ま たそ の牧蕨 量 を増 大 せし める 紅蓮 いな いが' そ
れ は講書 にも大 き な影響 を輿 え る の ではな いかO そ し て こ の講書 の奨 化 が蔵 書 の奨 化 を推進 し、 そ れ を より確 かなも のと
す る ので はな いか。 末代 以来 、蔵 書 と讃番 はど の様 な牽 藩 を たど った のであ ろう。
四〇九
東
方
学
一
報
刊本と抄本 (
宋元)
四1
0
宋代 以来'中国 は刊本 の時 代 に入 った. つまり軽侮 正史 など の典籍 が陸棲 と剣 劇 に付 され' 刊本 と し て流 通す る様 にな
った のであ る。これ は昔 時 の人 にと っても、鮮 烈 な印象 を輿 え る大事件 であ った。 「
経史 正義 は--今 で は板木 が 大 いに備
(
1)
わり士庶 の家す べ て にあ る」 と は珊寓 の有名 な言葉 だ し、沈 拓も ま た五代 以来 「
典籍 はみな板本 とな った」 と言 って いる。
(
2
)
か- て 「
宋代 三百年 間 --板本 は天下 に布滞 した」 と いう呉準 の言も ほぼ信 じう るも のではな いか' ま た元 入 であ る呉 氏
が か-言 って いる以上' 元代 でも無論 「
板木 は天下 に布満 」 し て いた のであ ろう、 と思 われ て- る。 だが 明代蔦 暦年 閲 の
聾者胡慮麟 は次 の様 に言 う。 「
栄 の盛 時 でも刻本 はな お稀 少 」 であ った。 蘇 乾 の李氏 山房記 に は' 圃初 の薦 紳 ほ史瑛 二書
も得 る に難 か った、 と謂 って いるし、揮塵 録 では常 時 '朝 廷 に仕 え た者 は多 -請書 を侍 録 した' と謂 って いる。 とす れば
他 も推 して知 るべき であ ろう。降 って元代 でも 「
板木 はな お稀 少 」 であ った。 あ る元 入 は三十寓 巻 の書 を衆 めたと いうが '
(
3)
正本 で数 えれば まず 三高巻 にも ならな か った に違 いな い、 と。 1万 は宋元常 時 の人 の言' 1万 は明末 の聾者が 主張す る所
であ れば、 や はり前 者 の吾 を信ず べき であ ろう か。 な るほど蘇 乾 の一
言にし ても、圃初 にお いて こそ史漢 も得 る に難 か った
が'近頃 では版刻 大 いに盛 んとな り'聾者が書 を得 よう とす れば 大量 且 つ容易 に これを求 めう る' せ述 べて いる. だが そ
れ でも、胡鷹麟 の説 はや はり正 し いのであ る。
珊昂 の所謂 「
板木 大備 」 と は'国 子藍 に赦 され る板片 が 「十飴 寓 にも な った」 と いう ことを指す. この十除菌 と はど の
(
4)
く ら いの数字 な のか. 珊 氏が か-言 った景徳 二年常 時、国 子監蔵 版 の書 は経侍 正義 ' 正史 等 三十種 にも満 たな か った. つ
まり邪氏 の言 は必ず しも嘘 ではな いが' しかしそれ には 「
経史 正義 」 と いう限 定が 必須 な のであ る。 そ れだけ で はな い。
賓 を言 えば'邪昂 の言 はそれを侍 え る書 にょ って少 しつ つ異 な っており'或 いは 「
経俸 正義」 みな具 わると言 い'或 いは
(
5
)
「
囲初印板 止 及四千、 今僅 至十蔑 」 とな って いる。 固 よ-後者 の二句 など' これが匡宗 の下問 に封 え て着丈 の盛 を頑 した
も のであ り' しかも下文 に 「
経史義 疏悉備」 とあ る こと から し て'甚 だ おかし いのではあ るが、 しかし 「
僅 至十寓」 それ
白燈 は、確 か にそう言 う ことが可能 であ ろう。 また 「
経俸 正義」 の方 にし ても'糞 情 に即 し て言 えば 「
経史 正義」 より正
確 な こと全-疑 いな い。賓 際'南北朝 七史 など北 宋 を通 じ て容易 には目賭 しえ ぬも の、 か の司居光 です ら通鑑編纂 に従事
(
6)
し て始 めて熟読 しえた底 のも のだ った のであ る。
北 宋園子監刊本 は' 王国経 による に、経俸 正義'字書 親書 ' 正史 を除 けば'嘗書 が 二四種' そ の他が 二二種 を数 え る に
過 ぎ な い.藍本 以外 はどう かと言 えば、 これも 王国椎が新江 に ついて考 琵 した所 による に、僅 か十飴種 を挙げ う る のみで
(
7)
あ る。固 より これ は折江 だけ の' また今 に考見 しう るも ののみ の話 ではあ るが' しかし嘗時 の噺江 は刻書 尤も盛 んな地'
この 一舞 によ って全豹 を評す る こともあ なが ち無 理 と は言 え ぬ のであ るO北宋 におけ る書籍 の刊刻 はな お家 々たるも ので
あ った。蘇 拭 は李氏 山房記 にお いて嘗時 におけ る刊刻 の盛 を誤 ったが' そ の李氏 山房 の蔵書 はす べ て李氏が侍 銀 したも の
(
8)
だ ったと いう。沈 拓 の言 にしても、 それが意味す る のは刊本 の出現、 流通 の開始が董 期的大事件 であ った' と いう こと に
過 ぎ な い. 刊本が 「
天下 に布満 」す る のは北末 は愚 か'南 未 でも まだ まだ の こと であ った。淳 駈仙
四年普時 の秘閣蔵書 は六
八八 三四巻' 二〇 二六 1射 (
複本 を含 む) であ ったが、 このう ち 「
諸 州印板書 」 は僅 か六〇 九 八巻' 1七 二 l筋 に過ぎ な
(
9)
い。南 宋秘闇 の蔵書 は全- の無 から出発 し、民閲 の蔵本 を吸収 し て形 成 され たも の、 つまりそれ は昔時 の 一般 的情 況を か
なり よ-反映 し ていると考 え られ る のであ る。
北 宋 の大官 王欽臣 は、書 を衆 める こと四高 三千番 に至 ったと いい、「
秘府 の盛 と雄 も これ以上 と いう こと はな い」 と稀 せ
四 一一
られ て いるが、 そ の牧書 は専 ら侍 録 にょるも のであ った。 王氏 は宋敏求 と互 いの森本 を侍 録 しあ い' この他 にも 「1善 を
蔵 書 と 講 書
東
方
学
報
四一二
(
10
)
得 るご と に必ず 反故 で草博 し、 ま た別本 を求 めて参 校 し'誤 りが無 - な って始 めて繕富 」 し た のである。 宋代 に在 って相
皆 の蔵書 をも とう とす れば、侍 録 に務 める以外、 別 の方法 は殆 ど無 か った。 や は-北 宋 の大官蘇 頑 と呂大防 の蔵書 は、前
者 の場合 「
秘閣 で俸 銀 したも のが多 き を占 め」 たし、 後者 の場合 も 「
常 に俸給 の牛ば を割 いて書 を侍 録」 し たも のであ っ
5
l
卿E
た。降 って 「
淳駈州
の名 臣 」鹿 部尚書 尤豪 は 「
毎 日合計 し て い- ら かの古書 を手ず から抄録 し、 そ の子弟 及び諸 女 も ま た書
を抄 録」 し て いた。 ま た宋末 元初 の人周密 にょれば' そ の父 は いた-牧書 を好 み 「
負郭 の田を育 って筆 札 の用 にあ て-(
12)
毎 日校讐 を事 と」 し て いた、 と いう。 「
千金 を拍 て て書 を購 った」 (
北 末葉 致君) と か 「
俸給 を得 れば そ の半ば で書 を儲 え
た」 (
南 宋劉儀鳳)などと いう記述 にし ても、 それ は必ず しも現 成 の書 を購 った ことを意 味 しな い。 禁 氏 の牧書 は 「
善 工良
(
13)
紙 を求 め' 手ず から校 し て横威 」 したも のだ ったしっ 劉 氏 の俸給 は秘閣蔵書 の博 録 に費 され て いたから であ る。
雨 末 を通 じ' 抄本 は依然 と し て書 籍 の主流 であ った。 この こと は勿論へ収蔵 しう る書籍 の量 を強 -制限 した はず であ る。
宋代蔵書 家 の収蔵 量 は大腰 ど れ- ら いであ った のか。北 宋 では前 に見 た壬欽臣 の蔵書 が 四寓 三千巻へ 宋敏求が 三高巻' 田
偉 、 田鏑 父子 で 「
幾 三高巻」、 李淑が 二寓 三千飴巻 と俸 えられ' これらが最 大級. 南 宋 に入 ると葉夢得 の収蔵 は 「
旅 十葛
巻 」 とも言 われ るが、 これ は別 と し ても、晃 公武 の蔵 書 で二菌 五千巻 たらず、陳振 孫 で五蔦 1千飴 巻' 周密 で四高 二千絵
(
14)
巻あ ったと いう。 だが、 これら の数字がす べ て最賓 であ ると は、 と りわけ正本 数 であ ると考 え るなら、 と ても信 じら れな
いのであ る0 1鰹、個 人 の蔵書 が国家 の収蔵 を上 まわ るなどと いう こと は、修辞 と し てならとも か-'現貴 にはまず あ り
五年 では四四四 八六巻' これ よ-宗達 十 三年 ま での
え ぬ こと であ ろ-.北 宋仁 宗期 の秘閣蔵書 は三〇 六六九巻'南 宋淳 随州
(
15
)
増 加分が 7四九 四 三巻 であ った. と いう こと は、暫 宗期 のも のであ る王欽臣 の収蔵 は、 も し これが 正本数 だ とす れば '仁
宗時 の秘閣蔵書 より四割 以上も多-、南 宋淳紀州
時 のそれ に匹敵 したt と いう こと にな る. これ はおよそ考 えられ ぬ こと で
(
16)
あ る。葉夢得 の蔵書 にし ても'彼自 ら の言 によれば 約 二葛 巻' しかも それら は喪乱 以来へ ほぼ牛数が失 な われ たと いう。
「
南 渡 の後 - ・
・
・
十葛 巻 を除 」 え たなど と は、 1笑 に付す べき嘩 語 に過 ぎ な いのであ るo ま た 五蔦 l千絵 巻 を収蔵 したと い
-陳 振 孫 であ るが ' この数 字 はそ の直 蘭書 録解 題 にょ ったも の に違 いな い。 だが' 陳 銀 を牧戒 書 目 と考 え る こと は恐 ら-
成 立 しな い。 陳 氏 の痛 苦 は 「
嘗 て青 田 に仕 え' 爽漂鄭 氏 (
樵)' 万 民'林 氏、 呉 氏 の菌 蔵 書 を侍 銀 」 し たも のだ' と言 われ
(
17
)
て いる。 確 か に陳 録 には牧書 の経緯 を述 べ た所 が 三十飴 僕 あ るが ' そ の殆 ど は棒 線 であ り、 し かも そ れ は陳 氏 が 地方 官 と
し て滞在 し た土地 におけ るも のば かり であ る。 普 時 の大蔵 書 家 は家 に侍 わ る蔵 書 が あ る か、 或 いは人 よりそ の蔵 書 を潜 ら
れ る か、 ま た或 いは秘牌 の蔵 書 を利 用 しえ、 且 つそ れ らを存 分 に俸 録 しう る資 力 をも つ大官 であ る か' にほぼ限 ら れ て い
る。 陳 氏 の場合 ' まだ出任 せぬ以前 は 「
史漢 二書 と錐 も 人 より借 」 り ねば な ら な か った。 人 より潜 られ た のは術数書 など
(
18
)
ど -僅 か' ま た官 にし ても決 し て柴 達 せず 、 一百巻 の書 も 「
俸 録 す るだ け の飴 裕 が無 」 か った のであ る。 これ で本営 に五
(
19)
嵩 絵 巻 の蔵 書 が 可 能 な のか。 尤豪 の 「
蔵 書 は至 って多 」 -' 「
近 世 の冠 であ る」 と陳 氏 は言 う。そ の尤氏 の蔵 書 は、途 初堂
書 目 にょれば 三千 一百線 種 、陳 録 の三千 一百種 と殆 ど違 わな い。 これ は陳 氏 の言 から考 え ても、 些 か お かし いのではな い
か。 ま た陳 銀 の記 事 そ のも のに ついても' 疑 わ し い鮎 は 二 一に止 まらな い。 例 えば 唐 武 宗賓 銀 であ るが' これ は陳 氏 も言
う通 り侠書 であ る。 ま た博物 志 は雑 家類 に十巻本 、 小 説家 類 にそ の荘本 が著 録 さ れ る。 注 の有 無 で分類 を異 にす ると は香
妙 であ る し、 既 に分 別 し て青 線 しなが ら解 題 の語 が 同 じ' と いう のも如 何 な る こと か。 し かも陳 氏が確 賓 に謹 ん で いた衛
本 郡 密議 善 意 には、 小 説 家類 に陳 録 と全 -同 じ江本 を著録 す る のであ る。 ま た院歩 兵集 . この書 は別 集類 に十巻本 、 詩 集
類 に四巻本が 著 録 され るが '前 者 に は解 題が 無 い。 ここでや はり晃 志 を検 べ てみる に' 晃 氏 の生前 に刊行 さ れ て いた蓑本
は四巻本 を著 録 し' 1万 衝本 は十巻 本 を著 録 し て いる のであ る。 つま り四巻本 は晃陳 二氏 とも まず確 賓 に所蔵 な いし目膳
し て いた 1万、 十巻本 の方 は貴 際 に これ を見 て いた かど う か、頗 る疑 わ し いと せねば な るま い。 この他 にも疑 えば 疑 いう
四 1三
る記述 は少 な- な いが、 とも か- 右 に挙 げ ただ け でも' 陳 鐘 を収蔵 書 目 と考 え る こと は恐 ら-無 理 であ ろう。 結 局' 宋代
蔵 書 と 講 書
東
方
学
報
四 一四
蔵 書 家 の牧 戚 量 で ほぼ 確 か な の は' 北 宋 の李 淑 、 凡 そ 1八 三 六種 、 二 三 1八 六巻 ' 南 末 の晃 公 武 ' 約 一四 六〇 種 ' 二高 五
千 巻 たらず 、 - ら いが 最 大級 であ る。 尤表 の三千 一百 飴 種 と は全 - の例 外 ' いか にも 「
近 世 の冠 」 であ った に違 いな い。
末 代 の 一般 的 蔵 書 家 にと って 「
蔵 書 菌 巻 」を文 字 通 り に達 成 す る の は、 や は り甚 だ難 し い こと であ った。 「
文史寓飴 巻」 と
(
20)
稀 さ れ る 司居 光 が 猪 禦 園 の蔵 書 は、司属 光 自 身 の言 によ れば 、 「五千 巻 を 越 え る」 も の であ った。ま た宋 未 の大 官 陳 宗鮭 は、
特 に 1堂 を治 め て 「
書 数 千 巻 を置 」き ' これ を文 士 に構 え さ せ た の であ った. 「
書 韓 に新 刊 あ り と知 れば 貿 わざ る なく ' 人
に奇 編 あ る を 見 れば 俸 録 せざ る な - 、 か- て 1室 四 周 は皆 書 籍 であ る」 と は許 柴 ' や は り宋 末 の人 ' の言 であ るが ' そ の
(
21)
許 氏 自 慢 の収 蔵 は精 々二 三千 巻 であ る に過 ぎ な い。 南 栄 に入 れば 書 籍 の刊 刻 は地 方 でも 盛 ん に行 な わ れ る様 にな った こと、
これ は確 か な事 賓 であ るO だ が 刊 刻 の隆 盛 と は以前 と 比 較 し て の話 であ り' これ に よ って寓 巻 の蔵 書 も 1般 的 ' と な った
わ け で は決 し てな い。 こ の こと は元 代 に つい ても 言 え る。 今 に俸 え ら れ る元 代 蔵 書 家 の収 蔵 量 に は 三菌 七 千 飴 巻 ' 五寓 絵
巻' は ては 八寓 巻 など と いう のも あ - はす るが ' し か しそ れ らが ど れ ほど 信 頼 でき る の か は甚 だ 疑 問 であ る。 こと に 八葛
(
22)
巻 な ど と いう の は論 外 で' こ の牧 戒 に つき ' 普 時 の人 は 「
数 寓 巻 ' し かも 手 紗 し た者 が 多 か った」 と言 って いる。 蘇 天 爵
の蔵 書 は累 代 の収 蔵 で 1菌 数 千 巻 ' 或 いは 二寓 巻 にと ど く か、′
と い った所 であ った. ま た元 未 明 初 の人 傑 項 は 「家 が 裕 福
(
23)
で・
・
・
-蔵 書 は数 千 巻 ' 手 ず から 校 勘 し た」 と いう . 「
私 に はも と も と蔵 書 の癖 が あ り' お よ そ親 族 友 人 で 1書 を借 し て(
24)
れ る者 が あ れば ' 暇 日 に多 - 手 紗 し た」 と はあ る元 末 の人 が 言 う 所 だ が 、 こ の蔵 書 家 の牧 書 はな お手 紗 を悼 む も のだ った
わ け であ る. や は り元 末 の人 孔 斉 は、 自 ら の筆 記 中 に 「
書 は飴 白 を と る こと」 な る T項 を設 け、 俸 録 ' 装 訂 の注 意 を あ れ
(
25)
これ述 べ た。 つま り元 代 でも ' 牧 書 と いえば や は-侍 録 を 主 と し て いた の であ り' か- てそ の収 蔵 量 も 宋 代 と さ し て奨 ら
な か った の であ る。
宋 元 蔵 書 家 の記 録 に は 「
親 日 讐 校 」 と か 「日事 校 讐 」 と い った句 が 常 に現 れ る. 宋 元 の閲 に は細 心 の講 書 者 が 特 別 多 か
った の であ ろう か。 固 より そ んな こと はな い。 慶 暦 五年 ' 楊 文 昌 は論 衛 を刊 行 す る に際 し て こう 言 った。 わが 郷 の好 事 家
は往 々蔵 書 を 大 事 に し て いるが 、 し か し彼 ら の蔵 本 は脱 漏 謁 誤 甚 し-、 と ても諌 める様 なも の で はな い。 私 が こ の十年 に
購 求 し え た論 衝 は俗 本 が 七' 史館 本 が 二あ るが 、 これ ら諸 本 は抄 録 す る者 が 誤 って字 句 を動 か し た り' 校 勘 者 が 妄 り に胴
論 談 はま
倒 し た り し て、 文 章 の筋 道 は素 乱 、 旨 趣 は轟 達 す る に至 って いる。 私 は か- て校 勘 に務 め' こ の書 を本 来 の姿 にも ど し た
の であ る、 と. 更 に乾 道 三年 ' 洪 道 はや はり論 衝 を刊 行 す る に際 し て言 う. 「こ の書 は侍 寛 さ れ る こと 久 しく
す ます 甚 し- な り' 殆 ど読 む べ からざ る状 態 にな って いる。 教 本 を 以 て寮 巌 に参 校 さ せ たが 、 な お善 を表 す に は至 って い
(
26)
な い」 と。 貴 際 、 抄 本 と は往 々 「十 に 二 三 は誤 って い て句 護 も 切 れ」 ぬも の' そ の 「
最 も 信 じ難 い」 こと は講 書 者 の 「
準
(
27)
則 」 でさ えあ った。 つま り宋 元 の蔵 書 家 が 校 讐 に励 んだ の は' そ れが 講 書 にと ってど う し ても 必要 であ った から' 即 ち普
時 の蔵 書 が な お抄 本 を 圭 と し て いた から に他 な ら ぬ の であ る。
二 刊本 と抄 本 (
明代)
国 初 に在 って は妻 板 はた だ国 子 藍 にあ る だ け で地 方 の郡 解 に は無 か った と思 わ れ る。 こ の こと は宋 潜漠 (
演 ) の迭 東
陽 腐 生 序 を見 ても 知 ら れ よう. 宣 徳 正統 の閲 、 書 籍 の印 板 はな お流 布 し て いな か ったが ' 今 で は各 地 で刊 刻 さ れ、 日
ご と月 ご と に増 加 し、 天 下 右 文 の象 は前 代 より ます ます 隆 ん と な って いる。 但 、 今 の士習 は浮 薄 に し て須 磨 し て お り'
よ- 正大 の古 書 を刻 し て後 翠 に恵 む者 は少 な い。 ・
・
・
-連 都 な州 鯨 に住 む寒 素 の士 に は'講 書 し た いと望 みなが ら 1見
(
28)
す ら かな わ ぬ者 も 多 いの であ る。
四 一五
これ は陸 容 の言 で、 弘治 以前 の出 版 事 情 を的 確 に俸 え て いる。 勿 論 ' 明初 でも妻 板 を戒 す る の は団 子 監 だ け と いう わけ
蔵 書 と 講 書
東
方
学
報
四 一六
ではな いが' しかしそう言 っても よ いほど'常 時 におけ る刊本 の流通 は限 られ たも のだ った のであ る。陸 氏が挙げ る宋涯
の文 は'今 の太畢 生 は衣食 も保 護 され' ち ゃんと した先生も おり、 必要 な書籍 も備 わ って いる所 で尊 ん で いる のだ から'
畢徳 が成 らなければ それ は自 ら の責 任 な のだ、 と述 べ て いる。 これ は即 ち' 明初 の諸 生が畢業 に十分 な書 を得 られ る のは'
宋元 以来 の書板 を大量 に蔵 す る園 子監 以外 に無 か った、 と いう ことな のではな いか。 明初 の名 臣楊 士杏 は こう言 って いる。
少年 時代 は侍 銀す るにも紙筆 の資 な-、長 じ て入 る所頗 る厚 - な っても'獲 る所 の書 はや はり知 れ たも のであ った。 四部
に捗 る相常 の蔵書 をも った のは'官 に就 いて十飴年 も後 の こと であ るへ と。賓 際'楊 氏 は 「
塾 師 たる こと廿飴年 ' 1所懸
(
29)
命 に努力 しなが ら僅 か に五経 四書 及 び唐 人詩文数 家 を得 た の み」 だ っ.
た のであ る。 これ は革 に資 力 の問 題 だけ で はな い。
蘇 東被 の集 と いえば 、 明末 にお いては 「
千百億本 も ただな ら」ず ' 「
も う刻 きず とも よ い」 と いう ほど に流布 した書 であ っ
(
30
)
た。 だが楊 氏 は これを祭 漕胡健 の家 に ついて俸 録 し て いる。少 な- とも天順 成化頃 ま では、東坂 の集 と錐も稀 兄 の書 ' 誰
(
31)
が ど う いう本 をも ってお-' そ れ は曾 て誰 の鳶戒 であ った か、 と いう ことさえ記録 す る に値 した のであ る。 明代文 淵闇 の
蔵書 は 「
刻本 十 三' 抄本 十 七」 であ ったと いう。 固 より これ は元 の秘府 より受 け縫 いだ書 を含 め ての話 であ るが' しかし
そ の大牢 は明初、 とり わけ永柴時 に民 間 より買 い上げ たも のであ る に違 いな い。 永楽 四年 嘗 時、文 淵闇 の蔵書 は 「な お閲
(
32
)
略多」-、 か- て探購 に務 めた結 果へ 遂 には 「二寓飴 部、近 百寓巻」 を収蔵 す る に至 った、 と いう から であ る。昔 時 は恰
も永柴 大典 の編纂 中' 「
近 百葛巻」は誇張 にせよ' 魔大 な量 の書籍 が集 められ た こと は疑 いな い。 つまり 「
刻本 十 三'抄本
十 七」 と は'永 栗頃 の 1殻 的情 況を大鰹 は反映 し て いると考 えられ る のであ る。
楊 土着蔵 本 を含 め、 天成 以前 におけ る東披集 の俸 本 を丹念 に記 した のは菓盛 であ った。某 氏 と いえば' そ の 「
蔵書 の富
は天下第 二 '官 に服 す こと数 十年 '常 に紗背 を随 え て侍 録 に務 めたへ と科 され る人 に他 なら な い。 そ の葉 氏 の収蔵 は四
(
33)
千 六百鉄筋' 二蔑 三千巻 たらず であ った。博 銀 を主 とす る牧書 では'宋元 と同等 のこれ- ら いが限度 だ った のであ る。 毛
庚 は自 ら蔵 す る残 宋本 分門纂類唐 歌詩 に つき こう言う。 この書 は十 に 7ほど しか存 し ておらず '私 は何 と か これを完本 に
した いと思 った。 かく てあれ これ努力 したが う ま- いかな い。 「
後 に案文荘 公 (
盛)集 を讃 んだ所、 雷侍部 から残 本 を侍 録
したが'完き者 は僅 か に二十 七巻 と言 っている。 ここに於 てはたと思 い曹 った こと には、公 は今 より 二百年 ほども前 の英
宗朝 の名 臣 で' そ の某竹 堂蔵書 は天下第 一であ りなが ら' しかも これだけ に止 ま った の であ る。」私 の如き は普 然 これ で
(
34)
満 足す べき な のだ' と。牧書 に心血を注 いだ 「
英 宗朝 の名 臣」 でも 「
普 時 は刻本 な お少 なく 宋版 を借 り て侍 線」 す る こ
とが 通常'時 にはと りあ えず残本 を侍 録 Lt 気長 に完本 と なる のを得 たねば なら な か った。 例 えば 司馬光 の俸 家集 など、
(
35)
は不明) を遮銀 し てようやく完本 と した のであ る。 も っとも俸 家
司馬光 の文 集 と いう こと で言 ってもへ 別 に 7宋本が あ るだけ であ った。 つまり この書 は必
二十飴年 の時問 を かけ、 三本 (這 宋本 、 二は抄本二
集 の啓本 は宋版 二種 し かなく
ず しも常兄 の書 と は言 え ぬわけ であ る。 では通鑑綱 目 はど う か。 この書 は現存す る宋元 明初刊本 だけ でも 六' 七種 はあ り'
ま た南 宋 以来へ幾 多 の解 説、箆棒書が 生 まれ て いる。 つまりへ 綱 目 と は明代前牛 にお いて最も通行 した書 の 一に違 いな い
のであ る。 だが それ でも' 一般 士人 にと って綱 目を見 る こと は、 さ ほど簡単 ではな か った。 正統 九年 の拳 人'松江 の入官
安 は、 若 い頃 この書 のことを知 らず ' 正統 十 三年 に至 って始 めて これを読 んだ と いう。 晩年 には 「
書 を蓄 え る こ と 千 百
巻」、 「
古 今 の載籍 にお いて 1も考 えざ るな し」 と誇 った人 にと っても、骨 て綱 目あ るを知 らな か った こと は決 し て異 常 な'
(
36)
恥ず べき無知 ではな か った のであ る。貴 際、常 時 の情況 には時 と し て我 々の想像 を越 え るも のがあ った。成化中' 明代中
期 の蔵書 家 と し て有名 な楊循書 は'文 選 を得 る のに随 分 と苦 労 し ている。 即 ち、彼 はまず国 子藍 に これを求 めた のだが'
藍本 は飲薬漫聴 甚 し-、 と ても謹 める様 な状態 ではな か った。 か- て彼 は書 韓 に これを求 めたが'得 られ た のは後年部 の
四 一七
み の残本 に過ぎず '後 に王墓 より前 半部 を得 てようや-完本 と した のであ る。 また弘治元年 '楊氏 はや っと のこと で元氏
(
37)
長 慶集 を傍線 し て 「
深願 を遂げ」 え た上' 「
最近 また自民集 をも借 り」 られ た' と喜 びを記 し て いる。 弘治 六年 ' 能都筒
蔵 書 と 講 書
東
方
学
報
四 一八
書 取 裕 は、 あ る後 輩 よ り稽 古 録 へ 唐 鑑 、 後 山集 三善 を 見 せら れ' これ ら は私 が 求 め ても 得 ら れ ず r も う と っ- に侠 亡 し た
(
3)
康 海 代 撰 ) は こう 言 うL
rJ史 記 はそ の
と 思 って いた書 だ' と驚 いた の であ った 。 更 に降 って正 徳 十 二年 ' 磨 鍾 刊 史 記 摩 序 (
文 章 が 尊 ば れ て いる にも か かわ ら ず ' そ の番 を得 る こと は か な わ な い。 私 は曾 て南 監 に鹿 す る史 記 の版 を 見 た が ' そ れ は
損 傷 甚 し いも の であ った. 「蓋 し中 統 よ り今 に至 る ま でr 翻 刻 す る者 は殆 ど 無 - ' かく し て善 本 は廃 絶 」 し た の で あ るO
これ を何 と かす べ- 、 私 は捜 訪 す る こと 十飴 年 に し て こ の本 (
葉 書 大 本 か) を得 た のだが 、 し か しな お 入善 を 軟 い て いる。
世 間 の蔵 本 は嘉 脱 甚 し - て紗 補 す る にも 信 頼 し難 - 、 か- て心息 を表 し て校 響 し' 終 に完 本 と し て出 版 し た の で あ る、
(
39)
と0 細 かな こと を貰 えば 、 元 代 に は中 統 本 以後 にも 二種 の刊 本 が あ り、 療 序 の富 はや や 正溶 き を 欧 い て いる。 だが 明 代 弘
治 以前 刊 本 は確 か に僅 か l種 のみ' 「
善 本 は廃 絶 」 に瀕 し て いた の であ る0 史 記 です ら か- の如 き で あ れば 、 他 は言 わず
とも 明 ら か であ ろうO 正史 が T般 士 大 夫 の手 に届 - 者 と な った の は、 顧 炎 武 に よれば 、 嘉 靖 中 へ 南 藍 で香 坂 の修 補 が 完 成
(
10)
し、 更 に菌 暦 中 ' 北 監 にお い て 二十 1史 を刊 行 し た後 の こと であ った0
明 代 前 車 の歳 事 は栄 元 と同 等 r な いし はそ れ 以 下 であ ったO ま た成 化 頃 ま で の蔵 書 家 でそ の名 が 世 に噴 騰 さ れ る は ど の
人 は、 まず 殆 ど全 て相 常 の官 僚 であ る と考 え てよ い。 だ が こ の様 な情 況 は弘 正 の固 よ りへ 蘇 州 附 近 を中 心 と し て次第 に襲
って- るO 即 ち こ の時 期 ' 呉寛 や都 穆 と と も に秘 本 捜 集 の風 を開 いた と いう朱 存 理 、 闇 起 山 の 二人 は、 前 者 が 布 衣 、 後 者
が 全 員 であ る に過 ぎ な か ったo 更 に正嘉 の閲 に至 れば ' 盛 岡 愛 、衰 賓 、 何 良 俊 、 奥 地 な ど は生 員 を 以 て、 柳 食 、 顧 元 慶 、
(
41)
銃 殺 な ど は布 衣 ' 挑 容 も 諸 生 か布 衣 の身 分 で' 進 士 出 身 の収 蔵 家 に匹敵 す る蔵 書 を形 成 し た の であ るo これ は無 論 ' 牧 書
の主 流 が 漸 -棒 線 か ら勝 男 に移 って い った こと と直 接 に関 係 し て いる。 正徳 三年 、 松 江 の入 陸 渡 は自 ら の牧 書 を 回 顧 し て
こう 言 った。 私 は少 時 よ り牧 書 を喜 び、 壮 じ て南 都 に渉 ぶや多 - の書 籍 が あ る のを 見 た. し か し資 力 に拙 いた め膏 れ の こ
(
42)
り の残 本 を廉 鱒 で購 った の であ るへ と。 陸 氏 は弘 治 十 四年 の解 元 、 十 八年 の進 士 へ つま り弘 治 中 にな れば 、 南 北 南 京 に は
相嘗 多- の書籍が 集 まり、 誰もが資力相 鹿 に これを購 いえ た のであ る。 この様 な購買 による牧書 は'嘉靖中 に至れば より
7般 的 なも のとな-'少 な- とも江蘇 '漸 江 など では、俸 銀 を完全 に歴倒 した. 常熟 の人 で嘉靖 二十 五年 の拳 人'孫榛 は
こう言 っている。 呉 は人文 の淵薮 ' 士大夫 の蔵 書 は少 な いも のでも相骨 の量が あ る。 しかも財 にゆ た かな好事 家が おり'
「以前 には秘本 と し て世 に俸 えられ る こと のな か った様 々な異書 も 日 々に刊 刻 さ れ て い る。 --私 は︰-・
時 に米家船が乗
ると逸早- かけ つけ、苫 を開 け てあ れ これ とあ さり' これ には貫 入も困 るほど であ った。或 いは試験 で南都 に出 かければ'
(
43
)
日 々書店衝 に港」 ん で牧書 に務 めた のであ る' と.孫 氏 の頃 には南 京 に多- の香車が (
少 な- とも試験 期閲 には) あ るだ
け でな-'江南 の水路 を書船が しき りと往来 し て いた。 「
新中 の人 は多- わが呉中 に往来 Lへ 驚 書 を業 と し て いる」 と は
(
44)
蹄 有 光 の言だが' 既 に書船が 折江 のも のであれば' 本 地新江 でもそ の活動 は相嘗 なも のであ っただ ろう。 烏 程 の人沈節帝
は 「
書 を賓 る者 と遇うご と に'自分 に頁 って- れ ぬ のでは' とば か-心配 し、 これが 去 ってしまう と' また来 てく れ るだ
(
45)
ろう か' とば かり心配 した」 のであ るが' これ はまず書船 の ことを言 ったも のに違 いな い。
さ て、侍 録が牧書 の主 たる手段 でな- な ったと いう こと は、 抄本 が書籍 の主流 ではな- な った' と いう こと でもあ る。
刊本 が 1たび虞 -通行 す る様 にな るや'抄本 の衰蕗 は甚 だ急 激 であ った。 l腔、 抄本 の信頼度 は 「
全-刊本 の比 ではなくへ
凡 そ書 市 の中 に刻本 が無 げれば 抄本 の債 は十倍 にも な るが、刻本 が 一たび出 ると抄本 はみな腐 れ て頁 れなく な る」 のであ.
(
46)
る。 か- て明初 では 「刻本 十 三'抄本 十 七」 であ ったも のが'嘉蔦 の閲、苑 欽、 大沖 父子 の蔵書 では 「
刻本 十 八、 抄本 十
(
47)
二」 とな る。 花 欽 は異書 を求 めて豊坊 や 三世貞 の蔵本 を借紗 したと いい'決 し て侍 線 を厭 う たわけ ではな い。 し かも かく
の如き であ ると は'要す る に時代 の差 、刊本 が抄本 を歴倒 した こと の謹左 な のであ る.今 や書籍 と予 見ば ほぼ刊本 のこと
であ り、抄本 はむしろ少 鬼 の珍本 とし て貴 重 されさえ した。 全租望 にょれば'寧波 豊氏累代 の蔵 書 は豊坊 に至 ってそ の大
四 1九
半 が散供 した のだが、 それ はまず 「
宋版 と富木 」 の約 六割 を門 生 に盗 まれ'更 に大火 に遭 ったた めであ った。 また陳縫儒
蔵 書 と 講 書
東
方
学
報
四二〇
(
48)
は朱 大詔'嘉靖 二十 六年 の進 士、 の蔵 書 を構 し て言 う。 彼 は 「
庚 -宋版 を蓄 え、 紗本 書 も これ と同 等」 であ った、 と。 固
より この様 な話 は後 人 の述 べる所 であ って'直 接 に常 時 の賓 情 を示す も のではな い。 だが少 な- とも寓 暦中 には 「
紗本書
は古帖 の如 -、完峡 でな- とも かまわな い。 す べ てが断 壁蔑 珪」 と言 われ、 そ の債 も 「
布 衣 の買 え る様 なも のでは」 なく
(
49)
な っていた のであ る。
'
弘 正 の閲 に始 ま る蔵 書 家層 の漬 大 は' 刊本 の普 及 と恰も表裏 をなすも のであ った。 曾 て曹 安 は「
書 を蓄 え る こと千百巻」
と いう こと で収蔵 の富 を誇 った のであ るが' この様 な こと は書籍 の主流が 抄本 であ った時 代 なれば こそ であ る。 刊本が虞
-通行 す る様 になれば 、数 千巻 程度 の蔵 書 はも のの数 でな- な って- る。例 えば啄州 の人' し かも武弁 であ った高贋。 彼
の蔵書 は嘉靖 十九年 で約 二千 1育種、 1高 六千巻 たらず に達 し て いた.北 方 の武 人 にし てか- の如 き で あ れ ば '松 江 の
人' 貢生 より南京翰林 院孔 目 とな った何良 俊 の蔵 書 が 四葛 巻 と いう のも、 さ ほど不 思議 で はあ るま い。賓 際 この頃 であ れ
ば 、 四葛 巻 の蔵書 も 十分可能 とな って いた のであ る。 隆慶 四年 '開 封 に居 た朱 睦樫 は、鎖 国中 尉 の身 分 で四千 三百飴 種、
(
50)
四寓 五千巻 たらず の収蔵 をな しとげ て いた。 開封 と南 京 ではど ちらが書 を得 やす いか' これ は問題 にな ら ぬ比較 であ ろう。
嘉靖 以降、 三、 四葛 巻 程度 の蔵 書 はも はや さ ほど珍 し いも のではな い。 まず 特殊 な例 であ るが蕨嵩。 彼 の蔵 書 は薫 録 や宋
(
51)
元 版 などが 八八部' 二六 二二本、 四部 の書 が 五 八五 二部套 '道僻 の書が 九 一四部套 であ った。 これ は前 二者 だけ で言 って
も まず 六寓巻 はあ るだ ろう。厳 氏 は書籍 を特 に愛 し、 そ の権勢 にあ かせ て群書 を捜羅 した のであ ろう か。 恐 ら- そう では
な い。 も し厳 氏が特 に古書 を愛 した のなら、 宋版 四十部、元 版 十 二部 と いう のはあ まり に少 な い数 であ る。 またそ の収蔵
量 にし ても'厳 氏 の権勢 が無 け れば 不可能 と い ったも のではな いのであ る。嘉靖 中 の蔵 書 家最 深 '東 呉 父子 は'倶 に進 士
であ ったと は いえ'決 し て大官 とな ったわけ ではな い。 し かも そ の牧儲 は近 七千種、蕨 常 に勝 るとも劣 ら ぬも のであ った。
降 って嘉菌 の閲、苑 欽' 大沖 父子 の蔵書 は約 四千種 ' 四蔑 四千巻' 三世貞 は三高 巻' 別 に宋版が 三千絵巻 と併道 二典。 寓
暦 四年 の拳 人胡慮 麟 で四高 二千絵 巻'適 用賢 の子、埼美 で約 四千 二育種' 1寓 九千本 '童共 晶 で五千種 たらず.更 に武弁
(
52)
の陳弟 は二千種 たらず ' 三高巻'郁 承燐 に至 っては何 と近 九 千種' 九葛 巻。布 衣 の徐樹 で五蔑 三千巻 。 要す る に蔵 書量 に
お いても' 明代後 半 はそれ以前 と は っき り異 な る様相 を量 し て いる のであ る。
書籍 1殻 に つき量的 に言 うならば' 宋代 より明代成弘頃 ま で の閲'抄本 は依然 と し て戒書 の主流 であ った。 とすれば 、
宋代 におけ る刊本 の登場 はそれ ほど董 期的 でも な か った のか。 そう ではな い。書籍 一般 に ついてはとも か-' 軽侮 やそ の
荘梓 に ついて言 うならば' 刊本 の流通 は量的 にも相常 のも のであ っ た だ ろ う。 嘉柘治平 の圃' あ る書賓 は大字 の監本が
薫 れ に--'巾箱本 はまた字が小 さ- て開講 に不便 であ るた め、 「
中書 五経」 と稀 す る中字本 を刊行 し' 大 いに膏 れ たと
(
53)
(
54
)
いう。 ま た元符中'杭州拳 のあ る教授 は建本 によ って誤 った経書 の句 を出題 し' た めに大 いに恥 を か いたと いう。 これ は
嘗時 から盛 ん に喧博 され た有名 な話 であ るが' この様 な話 からも腕抄本 軽侮 の盛行 が看 て取 れ よう。 降 って元末、 「
四書
はど の家 にも赦 され誰 もが論語 し て いるが、 版行 され て いる者 は概 ね小字本 で、誼誤 な いわけ には いかな い 」 とあ る人 は
(
55
)
育 -.小字 でしかも嘉 誤少 な からざ る俗本 ではあ っても'坊刻経侍 の普 及 は畢間 の底連 を格段 に擁 大 した に違 いな い。 で
は軽侮 以外'科挙 にあ まり関 係 のな い善 はどう か。 ここでも刊本 は重要 な作用 を及ぼ し て いる。 「
近年 (
乾道頃)至 る所 の
1され て- る.前章 で見 た論衝 の例 で言 えば '乾道本 の段階 ではな お幾 つか の抄本
都府 では多 -文籍 を刊行 し、容 易 に 1本 を得 て侍 録 でき る様 にな ったた め' あ る程度 の官 に至 った者 は家 に必ず数 千巻 の
(
56)
書が あ る」 と は三明清 の言 だが'刊本 の本格的 出現 は侍 録 の底本 を 1馨 に激増 さ せた のであ る。 か- て量的 には抄本 が多
- と も ' そ のテキ ストは漸 - 刊本 に統
を参校 し て刊行 され た のであ るが' 明代 以降 の諸本 はす べ て乾道本 に淵 源 し て いる のであ る。 また侍 銀 の底本 が得 やす-
な った こと は' 三明清 の言 う通 り、蔵 書家層 の摸 大 にも大き-寄 輿 した であ ろう。隔唐 五代 の蔵書 家 で今 に考 見 しう る者
は四四人、 そ のう ち正史 に蔵書 量 の記軌 があ る者 二十人' 千 より数 千が 六、葛 巻が 九、 一高 五千 より 二苗が 三'敦寓 と構
蔵 書 と 講 書
東
方
学
報
(
57)
四二二
す る者が 二、 であ ると いう。 これら の数字 は固 より極 めて不確 かなも のではあ るが' とも か- そ の蔵 書 量 は宋元 明初 と甚
し-異 な るも のではな い。 だが蔵 書 家数 の方 は'確 か に顕 著 な増 加 を見 せ て いる のであ る。 隔唐 五代 三 八〇年 の蔵 書 家 は
四四人 であ った。 これ に封 し て栄達 金元 四百年 の蔵 書 家 は'戒 書紀事 詩 にょれば 約 1四〇 人、 明代 正徳 以前 丁六〇年 で六
十人 を数 え る。 即 ち陪唐 五代 と宋遼 金元 では率 にし て三倍、 明代 正徳 以前 は前 代 と ほぼ同様 と なるわけ であ る。 固 より時
代 を翻 れば翻 る ほど資 料 は少 な- なり、 か- て三倍 と いう のも直 ち に寮 情 と は断 定 し難 いのであ るが、 し かし宋代が 1つ
の董 期 とな って いる こと は疑 え な い.結 局 のと ころ' 刊本 流通 の本格 的開始 は確 か に 1大事件 であ ったo それ は テキ ス-
の統 一を強-推進 し、 ま た書籍 を より虞 汎 な読 書 人 の手 に屈- も のと した のであ る。 但、 そ れ は書籍 と言 えば 刊本 とな っ
た だ
軍
に
刊
たと か、 官 の有 無 を問 わず 誰もが資 力 に鷹 じ て現 成 の書 を購 い得' か- て 7般 士人も相普 な蔵 書 をも ちえ た、 と い った こ
刊刻 の周遠
とを意 味す る のではな い。 そ の様 な情 況 は明代後 牛 に至 って始 め て賓 現 す る のであ る。
三
明代前 年 ま では刊刻 な お少 な-、蔵 書 の主流 は依 然 と し て抄本 であ った。 だが 刊本 が稀少 であ った所 以 は、
刻が少 な か った から' と いう だけ ではな い。例 えば書債。 邪日
丙は骨 て経史 正義 の板本 大 いに備 わ ると誇 ったが' しかし常
時 に在 って、 この監本 を購 う のは容易 ならざ る こと であ った。 北来 期' 一路有数 の富豪 と な ったあ る人 は、 ただ富 家 とな
るだ け でよ いも のかと考 え' そ こで 「
轟 -園 子藍 の書 を男」 い子弟 を教 え たへ と いう。 ま たあ る国 子監 の畢生 は家資 に富
(
58
)
みへ そ の並 はず れ た豪 遊 ぶりを以 て知 られ たが' やが て 「
表 -国 子藍 の書 を買 って蹄郷 し た」 のであ った。 つまり 「
義男
園 子監書 」 と は' よほど の富豪 でなければ な しえ ぬ ことだ った のであ る。 それ とも これ は 「
轟 」 の 一字 が特 に重 要 な ので
(
59)
あ ろう かo南 宋慶 元頃 「士大夫 の朝 に仕 え る者 は概 ね紙墨鏡 千飴 楯 を費 し'書籍 (
群経義 疏) を国子監 に得 た」 と いう。
「千飴 糟」 の賓 数が どれ ほど かはとも か-' 監本義疏 を 一通 り揃 え よう とす れば' それ には大挙 な費 用が かか った こと'
これ はまず 疑 いな い. 末代 を通 じ'書籍 は随 分 と高債 なも のであ っただろう. では' それ は具腔的 にどれ ほど であ った の
か.紹輿 十七年 貢州刊小蓄 集 は四 四 八葉 で 「
見成出責 」 の債 鏡が 五貫文 省'紹輿 二十 七年 紀州刊績 世説 三 1六葉 の印刷 製
本 経費 は 「
印造紙墨 工食鏡」 五三四文 足、「
接 背青 紙物 料 工食鏡」 二八 1文 足、計 八 1五交 尾 であ った。 また淳駈仙
三年貯州
(
60
)
刊 大易粋 言 千 三百葉 は出費 の債 銭 入賞文 足'革紐⋮
七年象 山粁季刊漠篤 百 六十葉 で 「
兄貴 鏡 六百文 足」 だ ったと いう。 つま
り毎 百薬 の債 は小蓄 集 八五九文'大易粋言 六 1五文'漢馬 三七 五文'績 世説 1六九文 であ る。 但 し墳 世説 の八 1五文足 と
いう のは賃 板鏡 を含 まず' ま た印書紙軍債 も最低 であ り' 見成 出費 の債 鎖 ではあ りえな い。 一方' 明代寓 暦 三十 五年南京
借録 司刊 金陵焚 利恵 は 1都銀 二鏡 二分 五産 '蔑 暦 三十九年 (
建 陽)書林 安 正堂 刊新編事文類衆翰墨 大全が 一雨 '嘉興戒 刊
(
61)
行常 時 の出嘗債格 が毎 百薬 三分 であ った.翰墨 大全 は'謬茎孫 の言 う通 り元版 と同 じ腔裁 とす れば' 凡 て二千 八百飴葉、
焚 刺 志 は九 七七葉、 また常 時 の銀銭 比債 は銀 1両 が はば 七、 八百文 であ る。 つまり 一両 七 五〇文 で計算 す れば'翰墨大全
は毎 百薬 二六文飴へ焚剰 志十 七文飴'嘉輿蔵 二三文弱 とな る. 以上 の諸 例 はそ の数あ ま- に少 な-、 ま た宋代 と明代 の 1
文 を同 じ様 に考 え てよ いのかど- か'甚 だ心も とな いのではあ るが' とも か-数字 だけ から見 れば'南 宋 と蔦 暦頃 では書
債 に十倍、 二十倍 以上 の差があ った こととな ろう。 これ は些 か驚- べき推定値 であ るが、 しかし必ず しもあ りえ ぬ こと で
はな いのであ る。
五貫文省 (三八五〇文) の小蓄集 で賓 に二七 1四文が'銀 二鏡 二分 五産 の金陵焚利恵 で刷印銀 とも に 1鎖 五分
前 に監本義疏 を買 う話 を見 たが、 そ こには 「
紙墨 鏡」 と いう語が 用 いられ ていた。確 か に書債 に占 める紙債 の割 合 は甚
だ大き く
四 二三
五塵 が印書紙費 であ った。 即 ち紙債 と書債 は殆 ど 正比例す る に違 いな いのであ る。 宋代 にお いて紙が貴 重 であ った ことへ
蔵 書 と 講 書
東
方
学
報
四二四
これ は全 -疑 いな い. 北 米 の園 子監 で は、 印書 の際 に出 る磯野 の飴 紙 を沸 下げ、 そ の収 入 を最 初 は殿中 の雑 用 に姶 し、後
には三司 に蹄 し た、 と いうO ま た蘇 舜 欽 は監進奏院 の時'故紙 の頁却 益 で 宴宙 を開き、 た め に弾劾 され て落 職 した の,
であ
(
6)
った.北 宋常 時、 故蔵 は官 衝 の収 入源 とし て無親 しえ ぬほど の債 値 をも って いた のであ る。紙 はか ほど に貴 重 であ り'故
に仁 宗時 の宰相 曇殊 は' 書簡 公演 は無論 '小 さな包 装 親 の様 なも のでも手ず から火 のしを かけへ 以 て備 忘 に供 した のであ
(
:
?.
,
)
った。北 米 におけ る こう した情況 は南 宋 以後 も韻 - のであ ろう か。 宋刊 朱印 の書 には専業 に紙銘 の印 を鈴 したも のが あ る
(
64)
い . これ は爾 来 におけ る紙 の貴
と いう。 し かも そ の様 な書 は少 な- とも 六例が記載 に見 え ており、決 し て例外 など ではな
重 を如寮 に示 すも ので はな いかOまた黄杢熱 は言 う. 「
宋版書 の紙 背 には字鱈 のあ る ことが 多 いo蓋 し宋代 では廃紙 も貴 重
(
65)
だ った のだ」 と. 公債 など の反故 を以 て印書 紙 とす る のは、確 かに紙が貴 重 なれば こそ であ る。 だが 黄 氏 の言 は必ず しも
十分 なも のではな い. なぜ なら未刊公唐 紙un本 は宋印 と は限 らず、 明初 の印本 でも 「
好 ん で官 親 を用」 いて いる から であ
(
66
)
る。 弘治中 '陣容 は次 の様 に言 って いるO 洪武年 間、国 子監 で出 た反故 は鹿部 ' 光線寺 に送 って草 稿 用紙 や包 み紙 と し た。
ま た永 楽意魔 の閲、 彩燈 や花 火 には反故が よ-用 いら れ ていた。更 に天服 の問 ' あ る居官 は内府 におけ る紙 の浪費 を見 て
へ
67)
泣 いたと いう0 1般 鎗 な親 の浪費 は成化頃 より始 ま ったt とO 紙 の滑費 が 成化頃 より著 し-増 加 した、 と いう のは陸 氏が
常時 の人 であ る故 に、固 より信 用す べき であ ろう0但、これを公腰凍印本 から見 れば、紙 の大量消費 が始 まる のはも う少 し
後 にな ってから のことら し いのであ る。諸 家書 目 に著 線 され る明代公儀厳 印本 は少 な- とも 二十 六部、 そ の内静 は洪磯 な
いし明初公憤紙 印本 が 三、成 化が 三、弘治が 二、中 葉が 一、寡 婦 が 一、い つの公腐紙 かを記 さ ぬも のは洪武 刊 と元 判明修本
(
6)
が各 1' 弘治刊が 五' 正徳 刊が l'嘉靖 刊が 七'寓暦 刊が 二であ るO つま-成 弘閲 の印書 では金牌 紙 も な おまま用 いられ'
嘉高 閲 です ら完全 には滑 威 し て いな いのであ る。 も っとも嘉靖 以後 にな れば' 出版量 は後 にも見 る如 -飛躍的 に増 大す る
Lr また現存率 も戎 弘頃 より は営 然 かな り高 - な って いようO また蘭暦 十年 の参 入 張萱 にと りて、 新 の両 面 に寧索 が あ る
(
69)
な ど と は'秘 闇 の宋版善 を親 し-自 ら の眼 で見 るま で' と ても信 じら れ ぬ こと であ った。 即 ち' 公憤 紙 印本 が消 滅 に向 う
の は、 ほぼ 弘 正 の閲 と考 えら れ る のであ る。
紙 の貴 重 は即 ち に書債 に影響 し' 書籍 の普 及 を妨げ た であ ろう。 だが 書籍 普 及 を妨げ た のは書 債 の属 さだ け ではな いし'
善 債 の昂 さも印書 紙 だけが原 因 ではな い。 前 に宋代 の書債 を数例 見 たが' ほぼ薫 費 と おば し い績 世 説 の育英替 り畢債 に射
し' 小蓄 集 のそれ は約 五倍 であ った. し かも両 者 の印書 紙 経費 は、 そ の記載 によれば '前 者 が 1張 1文 へ 後 者 は T張 六文
と な り' 六倍 も の差 が あ る のであ る。 両 者 は同 じ紹輿 中 の刊行、 刊刻 の地が異 な ると は いえ、 紙 の賓 債 に これ ほど の差が
あ ったと は信 じ難 いO 即 ち これ は'書債 の決 達 に お いて出版 者 の盗意 が頗 る大 き な作 用 を 及ぼ す、 と いう こと を示 し て い
る のであ る。 ま たなぜ こ の様 な ことが 可能 にな る かと いえば ' それ は出版 者が 官 衝 であ った から に相違 な い。 勿論 ' 刊 刻
な お少 な い常 時 に在 っては' 坊 刻 と錐 も債 格 のば ら つき はあ った であ ろ-。 だが 坊 刻苦 は何 より膏 れ ねは な らず 、 あ まり
債 格 を上げ る こと は でき な い。 ま た全 鰹 と し ては刊 刻 な お少 な か った に せよ' 坊韓 は建 陽 と か杭州 と か の特達 地方 に集中
し て いた のであ り' そ の間 には T定 の競争 も生 まれ た であ ろ-。 だが 官 刻 の場 合 ' あ る善 が たと え頁 れ な- ても、 官 衝 は
坊 韓 の様 には困 ら な い。 ま た地方 の州 櫛 で は出版 を めぐ って競合 す る相 手 も殆 ど な-' 書債 の高 下 で膏 行 きが 大 き -愛 る'
と いう こともあ ま りな か った であ ろう。 か- て官刻本 は書 種 にお いて豊富 、 版 刻 にお いても概 ね精 良 であ る 一方 ' 出欣 経
費 は相対 的 に大、 し かも刊 刻 を主持 す る者 の意 向 にょ って' そ の債 が 大 き- 左右 さ れ る こと とな る のであ る。 この様 な債
祐 決 是 の慈意 性 は' 監本 にお いてす ら見 ら れ る所 であ った。陳 師 道 は こう論ず る。 今、 園 子監 で膏 って いる書 は、 以 前 よ
-品質 の劣 る紙 を用 いて いなが ら債 は却 って上 が って いる。 そも そも監 本 は諸 州 嬰 が官 鎖 を 以 て貿 う も の、債 の高 下 にょ
四二五
って損 だ得 だ と いう こと はな いはず であ る。 し か る に現在 の書 債 は高 -、 地方 の畢校 に は これを買 え な い所が でて いる。
(
70)
ど う か虞 - 流通 さ せる こと を考 え て利 を求 めず 、 工紙 の費 にょ って債 を定 め て いただき た い、 と.聾穀 の下'国 家事 業 と
蔵 書 と 講 書
東
方
学
報
四二六
して 「
古訓 を章 明 し て後 撃 を教 え る」 た め の出版 です ら か- の如き であれば、 最 初 から 「
土 墨 の蔵 飴 に籍 り て養 士 の助 と
(
71)
す る」 ことを意 固 した地方 の官刻本 など、 どう いう こと にな る かは想像 に難 - な いであ ろう。
刊刻 な お少 な か った時代 の官 刻苦 は'坊 刻 よ-相嘗割 高 なも のであ っただ ろ-。 だが官 刻が流 通 に難 か った のは、債格
の鮎 だけ にょる のではな いO陳師道 の言 う所 では、監本 の購買者 は諸 州拳 であ って個 人 で はな か った。 これ は南 末 の監本
群 経義疏 でも同様 で、そ の頒布 に ついては 「
郡笹が賠 畢鍍或 いは係省鎖 で各 々 1本 を買 い、学校 に設置 す る のを許 す」と い
(
72)
うも のだ った のであ る。無論、 義疏 は在 京 の官 にも販 頁 され て いた し'書韓 でも少 しは扱 って いただ ろう。 また誓書 に つ
(
73)
い ては 「
民閲 の請 男 を許 」 し' 且 つ地方 へも若干部 を逸 って膏 り出 し て いた。 だが例 えば 天聖刊斉民 要衝 など僅 か に 「
勘
(
74)
農 使者 に賜 わ った」 のみ で、「
朝廷 の要 人 でなけ れば 得 られな」 か った のであ る。そも そも政府 にょる書籍 の販頁 は、恩浮
と し て買 うを 「
許 す」 も のであ り、 し かる べき在 京官 僚 と関 係 をも た ぬ地方 の士人など、 これを得 る こと は甚 だ難 しか っ
た であ ろう。 地方官 衝 の刊行書 に ついても、 事態 はそれ ほど違 わな い。 延裕 五年 温州路 畢刊 四書集 注 に は 「
印 刷 を願 う者
(
75)
は これを推 す」 と詣 われ て いるが、 これ は つま-官長 や背更 など の意向 にょ って、 印刷 の聴 されざ る場合 も少 な- はな い、
と いう こと であ る。 顧炎武 は書 院刊本 に三善 あ りとす る中 で 「
板が官 に貯 えら れ ておらず 印行 しやす い」 ことを特 にそ の
(
76)
1と した。官 刻本 は時 に 「工墨 の轟飴 」 を求 め、甚 だ高 い債 格 で要 り出 され る かと思 えば、 1韓 し て戒 版 の管 理 は杜 撰、
誰 も過間す るな-、 たとえ少 部 数 の印行 を請 求 され ても全- と りあ わ ぬ、 と いう こと にも な った のであ る。 黄責 は朱 子 に
甚 だ推 服 した人 であ るが、進 士登第 以前、 彼が謹 んで いた四書 集注 は蝿頭細書 の 「
草 本 」 でし かな か った。 しかも薫 を言
えば、黄氏 の居 た慈漠 より ほど遠 から ぬ台州都 蘭 には 「
制作 尤も 工み」 な四書 集注 の版 が戒 され て いた のであ る。 だがそ
(
77)
の地 の官長 と関 係 をも た ぬ黄 氏 にと って' それ は 「
奈何 せん拳 印 に難 」 Lと嘆 - し かな いも のであ った。前 に元末 におけ
る四書集注 の通行本 が概 ね話 誤頗 る多 い小字本 ' 即 ち恐 ら- は坊 刻' であ ったと いう話 を見 たが' この様 な事態 は官刻 の
少 な さも さ る ことなが ら' 官 刻本 の求 め に- さ にも由来 す る、 と考 えら れ る のであ る。 さ て' 以上 は官 刻 を専 ら坊 刻 と の
比較 で考 え たも のであ るが、 坊 刻 以外 の私 刻、 即 ち家 刻 はど う な って いる のか。賓 のと ころ、 宋 元問 の家 刻本 は確 かな例
が甚 だ少 な-' そ れが 刊 刻全 鰭 の中 に占 める割 合 など ご-知 れ たも のでし かな い。 ま た この賓 例 の少 な さ故 に' そ の刊行
(
78)
事 情 はよ-分 ら な いの であ る。 だが 例 えば' 淳願 中 家 刻 の容 帝随 筆 は 「
貫 入が書 坊 中 で販貢 」 し て いたと いう。 家刻本 が
書 韓 を通 じ て販費 され' 或 いは刊刻 も坊韓 が 請 け負 う と いう例 は' 宋 元 は いざ知 らず' 明清 にな れば 確 か にあ った こと で
し い 。
あ る。 例 えば 小倉 山岸 全 集 は板資 銀 を取 って書 韓 より責 り出 され て いた し' 蔦 暦 刊 張太 岳 集 を刻 し た のは 「
繍 谷唐国 連」、
(
79)
即 ち金陵 の書 林虞 慶 堂 主人 であ る。 容 斎随 筆 が本営 に これ ら と同様 の例 であ る のか' ま たそ う だ と し ても そ れが 一般 的 で
(
補注)
だが 家 刻 と はあ る善 の流布 を演 -希 望 し、 わざ わざ自 ら の資 を出 し たも の' 官 刻
あ った かど う か' 断 言 す る のは難
に見 ら れ る様 な印行 に封 す る冷 淡' 無関 心 は比較 的少 な か った に違 いな い。
官 刻本 は流 通 と いう鮎 から見 て、 私 刻 より明 ら か に不 利 であ った。 この不 利 は刊刻 全腔 に占 める官 刻 の割 合 が高 け れば
高 いほど 大き な問 題 とな ろ-. 宋代 以来 の刊 刻数 と官 刻率 はど の様 に襲 化 し て いる のか。 左 の表Ⅰ、Ⅱ は北 京 園書館 と中
央 園書館 の蔵 本 を年 代 及び官 刻 であ る か否 か で分 類 したも のであ る。 表Ⅱが 中 央園 書館 鹿 本 だ け し か採 録 し て いな い のは
次 の理由 によ る。 即 ち'北 京 固書館 古籍 善本 書 目 の記載 で は明版 書 の官 刻率 を求 め難 いのであ る。 と いう のも' 例 えば 成
化本 宋史 を北 園 目 は 「
成 化 七年 至 十 六年 朱 英 刻本 」 と し て著 録 す る 1万 ' 国 立中 央 圏書館 善本 書 目 で は 「
成化 十 六年商 鹿
巡 撫 朱 英 刊本 」 と し て いる。 成 化本 宋史 は布 按 二司 の官 を中 心 に成化 七年 より刊 刻が開 始 され' 十 1年 に巡 撫 と し て赴 任
し てき た朱 英 が これ を紀 裁 し たも の、 刻成 した版 は布 政 司 に威 され' 故 に建 部 は これ を 「
贋 東布 政 司原 刻宋史 」 と呼 ん で
(
80)
いる。 つま り これ は朱 英 と いう個 人が 刊行 し た本 な ど で は決 し てなく む しろ官 刻本 とす べき も のな のであ る。 こ の様 な
四二七
例 ' 即 ち北 園 目 で 「
某 氏 刻」、 中 央 目 で 「
某 官 某 氏 刊」とあ るも のは' 調 べ の ついた限 り で言 えば' す べ て普 通 の私 刻 では
蔵 書 と 講 書
響妄 弓
、
言漂
警芸讐 盃蔓
表丑
語望霊室
票
ほ覧讃 宗窒霊蒜警
冨
誇
諸
四 二八
な-、 官 衝蔵 版 の本 と考 えられ るも のば かり であ るO
表Ⅱ に 「
官 僚 刻 」 とあ る のは皆 この類 であ り.
'甘利
率 は これ を含 め て計算 し て いるo さ て' こ の二義 に
ょれば '宋版書 の官刻率 は四 七% 、 元版 で二四% へ
明代 に入 ると また宋代 の水準 に逆も ど りとな って い
る。 元代 の官 剥率 は いわば 異常 に低 いのであ るが、
しか し これ に は元朝 の漢 人文化経線 と い った事情が
関 係 し て いよう0宴 際' 大穂 問諸 路解 拳刊 正史等'
正大 の古書 を多 -含 む史部 に ついて見 れば 、 そ の音
明代 洪武 至 天噸閲 の官 刻率 が 宋代 を僅
訓率 は朱代 と襲 って いな いのであ る。元代 に ついて
はとも かく
かなが らも上 回 り'更 に毎 十年替 り の刊 刻数 で言 っ
てもへ洪紐:'
以前 は宋代 と同等 な いし これ を下 回 ると
いう こと、 これ は注意 す る に足 るrJ特 に刊 刻数 の場
合 r時代 を滞 れば 滞 るほど現存率 は低 - な るはず で'
数 の両 方 から見 て、 明代 天順 以前 は衰 退 より停 滞 の
ま で降 ると思 われ る のであ る。 結 局、 官 刻率 と刊 刻
賓 際 の刊刻数が 宋代 を上 回 る のは、 や はり天成 の問
(
中央荷車館森本のみ)
時 期' 成 化 は襲 化 が 現 れ始 め た時 期 、 弘 正閲 は過 渡 期 ' そ し て嘉 靖 が 宋 代 を決 定 的 に追 い抜 いた時 期 と 区 分 さ れ よう。 成
化 に奨 化 が き ざ す と いう の は、 紙 の消 費 に関 す る陸 容 の話 と符 合 す る し' 弘 正閏 が 過 渡 期 であ る のは版 式 にも は っき り現
成 化 以前 の様 な 大 黒 口 は' 経 廠 刊本 を除
れ て いる。 即 ち北 国 目 の記載 に就 い て見 る に' 成 化 以前 明 刊本 は殆 ど 全 て黒 口、 弘 治 刊 本 にな る と黒 口率 は約 七割 ' 正徳
刊 本 で は四割 にま で減 少 す る。 し かも こ の頃 の黒 口本 は線 黒 口' 細 黒 口が 多 く
き ' 次発 に見 ら れ な - な って い- の であ る。 因 み に嘉 靖 刊本 にな る と九 割 近 - が 白 口と な る。 以 上 を 要 す る にへ 刊 刻 と蔵
書 は表 裏 1腔 、 か- てそ の分 期 も 完 全 に 1致 し て いる の であ る.
四 蔵 書 者 の蔵 書 '謹 書 者 の蔵 書
書 籍 と は読 む た め のも の であ る。 謹 書 から 刻苦 を見 れば ' 問 題 と な る の はど れ だ け 出 版 す る か であ る より' む し ろ何 を
出 版 す る か であ ろ -。 現 存 す る歴 代 刊 本 に つき 前 に見 た所 に ょれば ' 宋 版 は毎 十年 約 十 四種 、 元 版 は約 二十種 ' 洪 武 至 天
順 問 は九 七年 で共 に 一九 八種 、 即 ちや はり毎 十年 約 二十種 であ った。 つま -宋 元 の版 刻数 は はば 同 等 ' 明 代 前 年 は元 代 よ
り減 少 ' と 一鹿 は考 え ら れ る わ け であ る。 だ が 宋 元 の版 刻 数 が た と え同 等 であ っても ' そ れ は必ず しも 講 書 の内 容 ' 質 が
同 じ であ った こと を意 味 しな い。 賓 際 、 表Ⅰ に取 り上 げ た北 園 中 央 商 館 戒 元 版 軽 部 書 七 五種 を見 る に、 そ の大牛 は魁本 大
字 評 言 句 講 周 易 と か直 音 傍 訓 尚 書 句 解 と い った俗本 、 ま た韻 書 ' 字 書 の類 な の であ る。 これ ら は勿 論 、 科 挙 用 の書 であ り'
従 って刊年 も 科 挙 再 開 の貴 硯 す る延拓 以後 に集 中 す る。 具 腔 的 に言 えば ' 刊年 の分 る 五九種 中 賓 に 五 7種 ま でが 延柘 以後
に見 ら れ た畢術 界 の多彩 さ、 清澄 さ は'朱 子 によ る大 成 を経 て
刊 ' う ち 三四種 が 至 正刊 な の であ る。 宋 撃 が 成 立 す る過 程
四二九
漸 - 下 り坂 に向 い、 速 に は敦 拳 の統 1' そ し て軽 挙 の俗 化 に至 った. 子 ' 集 二部 に ついても ほぼ 同 様 の ことが 言 え よう.
蔵 書 と 講 書
東
方
学
報
四 三〇
宋刊子部書 で最 も多 いのは道畢関 係、 次 いで寄書 であ った。 と ころが元代 に至 るや最 多 は撃 書、 次 いで類書、 これ で全館
単 調化 は明代 に入 って更 に甚 しく
の六割近-、遠 畢関 係 など鯵 々数種 を拳げ う る の み と な る。 また集部番 はと いう と' 宋代 に■
は六朝 の集 や唐 人別集 も か
な りあ る 秒に射 し、 元 刊 の唐 以前 別集 は李杜 以外 殆 ど な い. この様 な出版 内容 の俗 些
な る。 元代 にはな お官刻 の韓 詩外侮 や大戴痘 記' また岳氏剤累書塾 刊 の三荘 周易、 周薩等が あ った。 しか る に明代成化 以
前 刊軽部書 は'新注 経書 とそれ を敷 宿 した俗書へ 及び字書、 轟書 に義 - と い っても過言 ではな いのであ る 。 史部書 に至 っ
ては日を掩 -惨状 を暴す る。 明代前 牛 にお いては通鑑綱 目へ擦 過鑑綱 目が刊行 され る こと こそあ れ、 繁治 通鑑、 漁鑑紀 拳
本 末が刊行 され る こと は速 に無 か ったo賓 際、成 化以前刊史部 署 には、洪武 刊元史 '天服 刊史記 、成化 刊宋 史 を除 けはr
史 拳 の要籍 など皆無 と い ってよ い. 更 に普 代掌 故 の書 も 不振 を極 めた。 呉寛 は 「
近 軍 紀載 家 は絶 え たも同 然」 と言 って
(
o
71
=
)
いるが' これ は紛 れも な い賓 情 だ った のであ る。 子部書 は前代 と ほぼ同様へ僅 か に戎 化中 江西真 司刊朱 子議案、 北監刊 山
海 経- ら いが 目立 つ程度。 最後 に集 部蕃 であ るが、 そ の内容 はや は旦 光代 と同様 、即 ち成 化 以前 刊本 に晒 以前 劇薬 はな-∼
唐 人別集 も李杜韓柳 を除 けば、 意徳 刊陸畳 公案'成化 刊李文 (
李文公集)r唐甫 塵先生文集 を挙 げ う る のみと いう貧弱 さ で
あ る。 但 し'集 部書 の貧窮 さ は経史 子 と同 じも のではな い。 と いう のも' そ の量 は必ず しも宋元 と同等 以下 ではな か った
〇、宣徳 で十 三 以後逓増
のであ る。集寒害 の毎 十年 版 刻薮 は栄 で四 ・七.元 で四 ・八 であ ったO これが洪武野 では六 ・
し て いき成化 に至 れば 三五 ・七 ま でにな るO つまり集部書 の版 刻数 は、少 な- とも窒徳 以後 では、 宋元 の水準 を越 え て頗
る順調 に増 加 し て い ったと見 られ る のであ る。 明代前車 f刻番 全 般 は 慶治 にも衰退 の様 相 を見 せ て いたが、 それ は必ず し
も刊 刻そ のも の の困難、物質的簾 件 にょるも ので はな か ったo むしろ刊 刻 の量的 衰 退 は講書 に おけ る制約、 即 ち読 む べき
書 の内容 は固 より'読 む べき書 の量 をも規 制す る畢術 のあ り様 と深-関 係 し て いた 紅蓮 いな いのであ るo
元代 より明代前年 の畢衝界 は、 雷 う ま でも な-栄 子 の笹が支 配す る所 であ った。栄 子 の拳 は人 に議 書 を禁 ず るも のでめ
っただ ろう か。 固 より否 。 ま た朱 子 そ の人 は博 大精 深 の大聾 者' 経史 子集' 書 と し て讃 まざ る は無 しと言 っても よ い。 だ
が朱 子 そ の人 の馬 尊 が ど - であ った に せよ' 硯賓 に畢 界 を支 配 し た程朱 の掌 は' 確 か に議 書 の質 と量 を単 調、 貧 弱 なも の
と し た の であ る。 そも そも 程朱 の侶 え る所 は道徳 の草 であ った。 「
古 え の聾者 はただ惰 性 を養 う に務 め、 そ の他 は畢は な」
か った のであ る。 も し こ の根本 、 我 の内 な る理 を忘 れて外在 的 知 識 を追 求 し、 「ただ書 籍 ば かり を謹 み ふけ る」 のであ れ
(
82)
ば ' それ は正 に 「玩物 喪 志」 に外 な らな い。 元 明 の閲 ' 程朱 の徒 にと って正 し い講 書 と はど の様 なも のだ った のか。 元儒
程 端薩 の講 書 分年 日程 は' そ の常 時 にお いて 「
国 子監が 郡 邑 の教 官 に頒 示 し て聾 者 の式 とな」 Lt ま た 「
明初諸 儀 の講 書
(
83)
は大 抵 これ を奉 じ て準 縄 と し た」 と いう。 つま り、 こ の書 は元 代 及び明代前 年 におけ る講 書 のあ る べき姿 を示 し て いる の
であ るO さ て こ の書 によれば 、 正 し い講 書 は性 理字 訓' 小 撃 に始 まり、 四書 ' 九経' 或間 と進 み' 併 せて性 理請 書 をも読
み、 次 いで本 鰹 (
科 挙 で専 攻 す る 五経 の こ を詳 し- 畢 び、 然 る後 通 鑑'韓 文、 楚辞 を謹 み、 そ れ で終 り、 と いうも ので
あ った。 も っとも程 氏 は本 鰹 の古 注疏、 三通 など制度 の書 、 更 に全史、 或 いは古文諸 大 家 の集 な ども参閲 す べき だ と は言
って いる。 し か しそ れ ら は理念 にお いてす ら 必読 書 ではな いし' と りわけ性 理'類 書 以外 の子部書 など' そ の名 を挙 げ る
こと さ えな いのであ る。 ま た四書 五経 にし ても' 必要 な のは朱 子 の説 を 「
身 心 に髄 認 」 し' 「
自 得 」す る こと であ って'
自 ら経書 を研 究 す る こ.
と ではな い。 「
朱 子 より この方、 斯 道 はも う大 い に明 ら かとな っており' 著作 などす る には及 ば な
(
84)
い。 ただ窮 行賓 践 こそが 必要 な のだ」 と は醇 境 の言 と いうが、 既 にか- の如 き であ れば 、 軽 挙、 理撃 にお いて許 され る の
は朱 子 の説 を租逃 し' 自 ら の鰹得 を博 え る こと のみ であ ろう。 し かも そ れ は せ いぜ い 「
許 され る」 に過 ぎず 、 積 極 的 に著
書 立説 を首足 す ると いう のではな い。 宋末 以来 の篭 荘請 書 など 「ただ に益 なき のみならず、 ま た害 あ る」 も の でさ えあ っ
(
85)
た のであ る。
程氏 は 「四書本 鰹が 既 に明 ら か にな った後 」史書 や詞葦 を諌 めと言 った。 撃 は必ず 「
序 に循 って漸 -進 む」 も の であ り'
蔵 書 と 講 書
東
方
学
報
四三二
いき なり史、 集 を読 む こと は許 されな いのであ る。 だが 経が 明 ら か にな って後 と は 一機 い つの ことな のか。叢靖 も牛は、
武康 陣 の畢 生 は 四番本 線 を諌 むば かり、彼 ら に史寮 を問 えば r 但 「まず 経 を窮 めてから史 に通ず る の であ りP等 を磯 え よ
(
86)
ぅ と は思 いま せん」 と答 え る のみだ ったと いう0 勿論、 この話 は俗 撃 を鼓室 化 したも のではあ るが、 し かし 「
磯 等 」 の戒
めは確 か に朱 子 の強調す る所 だ った のではな いか o 子書 に ついても 「理が 明ら かとな った後 には、 たとえ申韓 の書 を讃 む
(
87)
も また得 る所あ る」 であ ろう。 だが そ の様 な境 地 にま で自 ら の嬰が進 んだ、 と言 いき れ る人が賓 際 にあ り得 た であ ろう か0
にも いたO例 えば寮霧 など近 五十家 にのぼ る諸 子番 を語 んで いるO だ
番寮 とし て 諾 えば、諸 子 の番 を凄 んだ 人 は軽米 の能
あ
る
0
がr 済民 は諸 子善 を讃 ん でも よ い、 或 いは凄 む べき であ る' と いう こと をう ま-説 明 でき な か った. 彼 にと って 「
異端 邪
3
蕊E
:
或
説、稗 官野史 」 は 「
紛糾 の悪 気 --聖朝 が天 下 に昭示 し て習 う ことな から し めた所 」 のも のでし かな か った ので
いはま た宋凍。 宋氏も ま た多- の諸 子書 を讃 んだが' それ は 「
酔 し て これ を排」じT 「
道 衝が みな 1軌 に出」 る様 にす るた
(
89)
め であ り、決 し てそれらが諌 む に値 す るから ではな か った。 この媛 な街道 の観 鮎が いき つ-所、 それ は何 ともす さ まじ い
こと にな る。宋嫌 と同 じ元未 明初 の入奥海 は言 う0道 が 明 ら か でな いのは笹が純粋 でな いから であ りr 笹の不純 は書 が 多
いた めであ る 〇 六経聖賢 の言、 必要妖- べ からざ る史書 は決 し て多- な いo書 の多 いのは つまら ぬ雑言 邪説 のため であ り'
そ んなも のは悉-焚絶 す べき であ るO 「
経史 某書 末書 と宋道畢諸 鰐 の遺 言 は禁 じな いが、 そ の他 は皆 これ を禁ず るo諸 家
の文集 は先秦 よ-近 世諸 人 の文 に至 るま で、悉 -纂 修 を加 え、 難別 し て大全 とな し、 そ の飴 は 1切除 き 義」 ら ねば ならな
(
=.
)
い、 とQ これなど 葱 こと に斬釘歌織 の卓論 と網 う べき であ ろうが、 しかしそ れ は元明醇傍 におけ る正論 の 一典 型 でもあ っ
たo彼 ら にと って書籍 が多 いことそれ白燈 は決 し て慶賀 す べき こと ではな-、 む しろ反債 値的 でさ えあ った のであ る. 元
代 よ-明代前 牛 は'麻書、講 書 にと って愉 快 な時 代 ではな か ったQ 表櫓 は蔵書 、講 書 を いたく好 んだ人 であ るがへ し かし
そ のことを誇 りま た楽 しむ こと は できず、 却 って こう反省 し て いる。私 の講 書 ほ乳蓑 で取底が 無 い O 鈴木 の時代'嬰 者 の
蔵 書 は私 に較 べ て十 の Tにもならな か ったが、 し かしそ の自得 の賓 はみな後 世 に俸 え るに足 りた のであ る。私も 「これ か
(
91)
らは ﹃
内﹄ に従事 し て自得 の賓 を求 めよう」 と。 衰氏 の嘗時' 「
内」 に気 兼 ね せず蔵 書' 講書 に務 める こと は'誰 にと っ
ても難 し いこと であ った。降 って成化中、 あ る人 は 「
無慮 数 千巻」 の蔵書 に つき、「
撃 は以 て聖人 に至 る道、ど う し て多き
を必要 と しよう」 と いう疑問 を漁 想 し てこう答 え る.私 の蔵書 は記論、 訓話'琴 等 のた めではな い. それ は朱 子 の訓 え に
(
92
)
従 って博 -群書 を参考 し'肇 の鑑 奥 を窮 めるた め のも のな のだへ と。 成化中 に在 っては僅 か数 千巻 の蔵書 でさえ'徒 ら に
多 を食 るも のと いう嫌 疑が かけられ た のであ る。
正撃 の士 にと って諸 子 の書 を読 む こと は、事貴 と し てはあ った にせよ'積極 的 に肯達 しえ ぬ こと であ った。 まし てこれ
を刊行 し' 虞 -世 に俸 え るなど と いう こと は' ど う考 え ても支持 され るも のではな い。賓際、 元 至成化圃刊 の諸 子書 は夢
々たるも ので' せ いぜ い元刊家語' 呂覚二 刀未 明初刊墓 園 互荘 六子 (
老'荘'列' 苛、法言、文中 子)' 明初 刊論衛、元刊
及び明初 刊説苑 - ら いを畢げ う る に過ぎ な いのであ る。 と ころが弘 正閲 に至 ると'情 況 は俄然襲 って- る.即 ち家語' 説
苑' 呂覚 は固 より、新 刻 玉子書 (
苦 子、鶴 冠子'子葦 子' 声文 子' 公孫龍子)へ新語'新書'塵鋳論'新 序へ中豊、 司属法
集解、鶴 冠 子解、推南 子'猪断' 或 いは博物 志 と い った書が陸棲 と し て刊行 され て いる のであ る。 また これ と並行 し て'
二程全書' 上薬語録、北 漠字義、 亀 山文集、 象 山文集 など本格 的 な道学関係 の書 も刊行 され始 める。 正掌 の支配が漸 -弛
み始 める この頃 にな って'道草 の書が や っと盛 ん に刊行 され る様 にな る、 これ は 1見矛 盾 の梗 であ るが' しかし茸 際 には
す でに輿 えられ ていた のであ る。 とす れば'書籍 上 の畢間 は大全等 で十分'種 々の
少 しも おかしな こと ではな いO成 化 以前 の道 聾者 にと って'性命 の理 は朱 子 にょり完全 に解 明 され て いた。 つまり定 理 は
も はや自 らが探求 す るも のではなく
道尊書 をあ れ これ読 む必要 などあ るだろう かo道草書 の需 要が高 まると は、道 草 の徒が 再 び自 ら星 理 を探求 し始 めたと い
う こと'即 ち正撃 の軍 1的支配が 終 ろう と し て いる こと の謹 な のであ る. この様 な畢衡界 の奨 化 は子部 書 以外 にも現 れ て
戒 書 と 講 書
東
方
寧
轟
四三四
いるrJ史部 では呉越春 秋、 適意 略'漠紀' 大唐 六典' 通考 と い った要籍 '古書' ま た金文 靖 公北 征銀'皇 明開国 功臣錦 の
如き常 代史 の番 ' 集部 では多数 の唐 以前 別集、文 心離龍rJ軽 部 の奨 化 は比較 的少 な いが、 それ でも 正徳 中 には儀穏'春秋
繁 露 の刊行があ り' や はり明代 蘭 牛 の終 幕 を告 げ ている のであ るQ更 に これが嘉靖 期 にな ると' 書籍 の世界 は文 字 通 り の
新時 代 を迎 え る こと にな るO 「
正徳未年常 時 の世 にお いては、 ただ王府'宮 司と建撃 の書 坊 だけ し か刻版 をも っておらず '
(
2
.
)
人間 に流布す る書 は四書 五経、 通鑑牲 理請 書 に過 ぎ な か った」 と は顧炎武 の言 だが、 これ は前 に見 た所 から育 ってもt ほ
この 1大叢 書 は正大 の古書ば かりを、 選 り
ぼ箕情 と認 められ よう。 しかる に霜靖 中' 「以前 には秘本 と し て世 に博 え られ る こと のな か T
.た様 々な異書 が、 日 々 に刊
(
9)
刺 され」始 め. 簡暦 に至れば 「
黒番 は輩 出 し' 刊刺され て遺 す無 し」 とす ら言 われ る こと とな った のであ るo これが いか
に英資 であ るか は' 重 印 四部叢 刊 の底本 を見 ても祈祷 され よう. 周知 の如く
す ぐ り の善本 に擦 って景 印 したも の、 つまら ぬ俗本 など 1部 た-とも収 入 され て いな い。 この i群 の善本 にお いて'嘉 靖
至崇疏 刊本 ほどか- ら い採用 され て いるだ ろう か rJ経部 二五種 では六位' 正史 を除 -史 郡 二二種 で十種' 子部 六 1穂 で三
叫種、 明清人撰者 を除-集部 山七 二健 で五十種 であ るO 即 ち寡婦 至崇厳 刊本 は資性 で約 三五%' 史、 予 二部 にお いては資
に ほぼ 寧数 を占 めて いる のであ る。 ここに弘 正好 刊本 の史部善 二種、 子寒害 三種' 集部書 二 l種 を加 えれば、 明代後 期刊
本 は全準 の約 四四 % を占 める こと にな る。 曹 て糞 日参 は こう言 ったo 「
近儒 畢衛 の篤農 は明儒 に十倍 し、 動 もす れば 兎園
に
の筋だ の鼠 の穴 だ のと明大 を載 るo し かしなが ら 三代発秦 の者 は惑 -明 大 の刊本 によ って樽 わ って いる のであ るQ も し開
蒜E
人 の刊本 が無 け輿 は' これら の書 は必ず や亡 び た であ ろう」 とじ これ は正 平 允 の論 ではな いだ ろう かrJ
明末 刊本 と いえば 往 々劣悪 な版本 の代表 とされ、 あげ - に は 「明 人 は好 ん で分 った様 な顔 をL、善 章 を愛 乱す る のが悪
い- せであ るが' これ こそ は書 を刻 し て書 亡 ぶと諾 うも のであ る」 とさ え属 しら れ る。 明未へ とり わけ蔦暦 以後 の刊本が'
ともす れば古本 の面 目 に忠実 でなく 校勘 また杜 撰 であ った こと' こか は紛 れも な い事賓 であ る 。 だが だ からと い ご J、
明 人が 「
書 を刻 し て書 亡 ぶ」 など と言 う ことが妥骨 であ ろう か。 明人 の刻苦 を か-罵 った のは厳 可均 で'罵 られ た のは寓
暦中隊 再議 刊北 堂書 紗。厳氏 にょれば'陳 氏 の如き 「
失 心病狂」' 明代中葉 以後 に善本 な いのは固 より であ るが' しかし
(
96)
これ ほど でたら めなも のはな いへ と言 う。 だが卒 心 に論ず れば'厳 氏 の言 ほど徹底的 に馬鹿げ たも のはな いのであ る。 そ
も そも北 堂書 紗 は宋代 より不全 とな って いたら し-、 そ の後 も ただ抄本 で のみ停 わ ってき た のであ る。 か- てそ れら の停
こ
抄本 はどれも 「
鈷論難講」' ひど い状態 とな って いた. 陳 氏 は これを何 と か謹 める様 にす べく脚攻 を加 え' 更 に 「
補」 と
(
97)
明記 した上 で他書 の記事 を つけ加 え た のであ る。 固 よりそ の潮改 は厳酪 な校勘 など にほ非ず' 甚 だ安易 に意 を以 てしたも
のであ っただ ろう。 だが 「
通 人」 に栴許 され る様 な校勘 は果 し て可能 であ った のか。厳 氏 は この書 の校勘 を試 みたが、
の書 の如き引 -所 は悉-晴 以前 の古本 ' またそ の中 には侠書 も多-、 よ って 「
略校す べきも統校 す べからず 」 と言 い' そ
(
98)
の略校 も出来 あが った のは全書 の二割足 らず でし かな か った。陳 氏刊本 の出現 によ って漸 - この書 に注意が向 けられ、 あ
れ これ の別本 が貴兄 され て いた巌 氏 の常 時 でも' この書 の校勘 は極 め て難 事 だ った のであ る。陳氏 刊本 はな るほど優 れ た
も のではな か っただ ろう。 だが ことを始 めて行 な った者 に対 し'自分 でも出来 かね る様 な完壁 さを要求 し' そ の妖鮎 だけ
を取 りあげ て渡鳥 す る、 これが まとも な批判 であ ろう か. 米人 丁肝 は越経 書 を刊行す る に際 し てこう言 った.私 は三本 を
以 て この書 を校勘 し' 何 と かまず まず 責 める程度 にこぎ つけ たが' な お不十分 であ る。 し かし 「これ ま で見 た所 はす べ て
紗寓が最 を失 し ており、板行 しなければ そ の流侍 は虞 からず、流侍 が虞 - なければ各 人が そ の蔵本 を後 生大事 にし て是 正
(
99)
す べく も な い」 と。 これ は陳 刻北堂書 紗 に ついても言 え る こと ではな いか。
明末刊本 の校 勘 は' 1般 的 に言 えば' 確 か に厳密 なも のではな か った。 だが 明末刊本 を テキ ストの善 不善 から のみ論ず
る のは'甚 だ 一面的 なや り方 な のであ る。 例 えば漠貌叢 書 であ るが' そ の子目請書 には殆 ど全 てより古 い善本 が存在 し て
四三五
いる。 だが この叢書 には甚 だ大き な功績が あ った。 孫論議 は言う。 幼 い頃 、 わが家 には明刻漠魂叢書 があ ったが、 「
私は
蔵 書 と 講 書
東
方
学
報
四三六
そ の舌 筋 多き を愛 し、 い つも こ っそ 空 しれ を観 た」 と。 また顧議 剛 は貰 う。 幼 い頃、 私 はと りわけ ま諸本 藻魂叢 書 を好 ん
だO なぜ なら 「そ こに収 入 され ている古 人 の著作 は種類 最も 多-、 それ は最 も よ-富強 の現存状態 を私 に数 え てく れ たか
(
川)
ら であ る」 とO 顧氏 の読 本 はま刻 であ ったが、 そ の子 目数 は何 刻 と幾 らも異 らず ' ここで問題 とす る には及ば な い.注意
す べき な のは、 孫氏 や顧氏 に舌 代著作 の内容 を知 ら し めた のが' 他 なら ぬ漠魂叢 書 であ った' と いう ことな のであ る。古
書 の流通 普 及 にお いて、 この叢 書 が果 した役割 は小 さ から ぬも のであ った 。も っとも程 刻漢親叢 書 など テキ ストと し ても
(
帆.)
そ う意 - はなく、 率 にはか の薫蒸烈 が 明刻第 1と雷 うも のさえあ る。漢 就 叢 番 に功績 を認 めう ると し ても、 それ は明菜 刻
本 中 の例外 とす べき な のであ ろう かO では格 致叢 書 や賓顔 堂秘笈 はどう か。 これら は明刻 の悪 しき代 表例' 1鮎 の取 る べ
き なく、焚書 も同然 のひど いも のだへ とさえ言 われ て いる。 この様 な評債 は正 し いだ ろう か。 貴重烈 は格 致叢 書本 洗寛線
を非難 し て言 うO 「この本 の如 き よ-翻 刻 し てあ りへ 善 と謂 う べき であ る。 し かる に必ず やそ の啓発 を改 め' 健 目 を添 設
(
川
)
っ た
o
と いう こと であ った。経基 孫 は校番 を校管 板 と糞 鑑涯 に分 け、 前 者 はテキ スト の善 のみを問 題 とし' 「
行数 を改換 し好 ん
(
m)
で苗字 を易 え」 る こともあ るが、 後 者 はひたす ら古本 の面 目 を問 題 と し、 「たとえ看字 でも また これ に従 う」 と言
無論へ格 致叢書 など校讐夜 の本 と は似 ても似 つか ぬも のであ る。 だが賞 鑑派 の観 鮎 を坊 刻本 におし つけ ても、 それ は詮 な
いこと ではな いか. 薫蒸烈 の雷 は櫓 致叢 書本 にも な お見 るべき粘あ るを欝す る Lへ 更 に登賓 な のは、 この叢 番 が書籍 の流
通 に寮赦 したp と いう ことな のであ る。酒 代 の考擦家 たち は格 致叢 書本 など固 より歯 牙 にかけ な い. だが彼 らが貴 重す る
古本'善本 は誰 もが も てる様 なも のではな か ったO か- て彼 ら は格 致叢 書 など明未 刊本 を底本 と し' これ に校 勘 を加 え て
讃本 と した のであ る。 今 に存 す る樺名 に'蔦暦 刊 五雅本 を底本 と した段 玉裁、 三嶋盛 校本へ格 致叢 書本 を底本 とした郡晋
E
l
雌e
滴、 また孫星宿 の校本が あ るなど、 そ の貸 倒 は乏 し- な いO 彼 ら にし て明末 刊本 を利 用 し て いた のであ れば、 一般 士人 の
読本 は推 し て知 る べき であ ろう。賓顔堂秘笈 なども また書籍 の普 及 に大功あ るも のであ った。例 えば夢渓補筆談 を始 めて
刊行 した のは賓顔堂秘 笈、 同 じ-穎筆談 を始 めて刊行 した のは稗海 な のであ る。 1腔'膏 ら んが た め の本 に精善 なも のが
稀 な のは'何 も明末 に始 ま った こと ではな い。 毛管 は書棚本 李賀 歌詩編 と別 の宋本 を比較 し' 「
同 じ-宋本 と は いいなが
し
ら、浬洞 のはるかに異 な るも ただなら ぬ」差 だt と言 うO しかも この劣悪 な る書棚本 を' 王国経 は唐詩 の流侍 に大功あ る
B
Ⅶ凸
た 。 壬氏 の評債 が 誤 り でな いのな ら' なぜ 格 致叢 書 や賓 顔 堂 秘 笈 だけが 悪 しざ ま に罵 られ ねは な ら ぬ のか。
も のと評債
要す る に' 明末 刊本 は質 から言 っても決 し て全否達 しえ ぬし' ま し てそ の量が も つ功績'古書 を普 及 せし めた功、 を無 税
また古今 を問 わず'各種 各様 の書が 空前 の量 で出版 され た時代' 即 ち知 識が氾濫 した時代 であ っ
し た全否定 など' それ こそ 「
失 心病 狂」 と言 わ ねは なら ぬ のであ る。
明末 は四部 の別 なく
た。 この氾濫 は知 識が今 や道徳 に隷廃 しょぅ と せず' それ白樫 の償 値 を主張 し始 めた' と いう ことを物語 って いる。諸 子
の善 など' そ の言 う所が たとえ聖人 の教 え に戻 って いても、 必ず しも全否達 す る には及ば ぬ のであ る。何良俊 は言 う。 老
子へ荘 子 は 「六経 と並び行 われ' これを ≡教 と謂 って いる。濁 世 を歴なが ら滅び な いのであれば' どう し て軽 し- これを
議 したりす べき であ ろう」 と。 老荘 の言 は時閲 の試錬 に耐 え ぬ いたも の、簡単 に否定す る こと はでき な い。 そも そも 「六
経 より外' 世 の尊者 は各 々そ の道術 を以 て 1派 をなす のであ り、語 孟畢膚 と錐 も みな子」 であ る.孔 子 の拳 は最も 正 しく
(
1-6
)
故 に六経 と並行 し ては いるが' そ の本質 から言 えば、 これも や はり子 であ った。孔 子も含 めたあらゆ る諸 子 は、す べて「
そ
の道衛 を以 て 7振 とな」 したも の' そ の問 に純駁精粗 の差 こそあ れ、 全否定 す べきも のなど であ る はずが な い。 また三世
貞 によれば'孟 子が楊墨 を踊 いた のは決 し てそ の功 ではな か った。 「
凡 そ天下 の術 で久 し-行 なわれう る者 は' 必ず や人
四三七
情 に便 な るも の」 であ る。楊墨 の説 は人情 に惇 る所あ り、 たとえ開 かず とも自ず と腐 れ よ-。 7万 あ る畢説が 「
も し人情
(
捕)
に便 な るも のであ れば、現在 ま で存墳 し て いても かまわ な い」 のであ る。 壬氏 は ここで楊墨 を否建 し たが、 しかしそれ は
蔵 書 と 講 書
東
方
学
報
(
捕)
四三八
単 純 な全否塵 ではな い。 賓 際丁 墨 子 の如き 「
戦 国 の l資 士太夫」 であ りr そ の轟説 も 「大鱒 はみな治璃 平 天下 の義、甚 し
- は理 に惇 ちぎ るL も のと言 え ようじ つまり墨 子 の聾 は そ の不完 全故 に、 畢涯 とし ては滅 んだ のであ るが、 し かしそ の書
は賢 人 の著す 所、 今な お潰 む に値 す る のであ るO そも そも清 子 は人 に優 れ る篤 才 の持 ち主' そ Ol
言は様 々に異 な ると は い
」
と
r
J
。
え 「
本始 をたず ねれば各 々承 け る所 あ」 り、 全V後 世 窒談 の比 ではな いO 胡塵麟 は漢書重 文 志 を意 識 し っ つこの壕 に述 べ'
に
邪 正 は同 じ- な いが とも に不滅 に蹄 す る のだ
更 に諸 子 の不 滅 を叡接づ 跨 る。 「
彼 ら は皆、 身 を以 てそ の衝 とな しt i生 を かけ全力 を ふり しぼ つてそ の書 に殉 じた ので
(
糊)
胡 氏 から見 れば'奥 の思想 は邪 説 と錐 も不 滅 であ った。
あ る。故
着 に挙 げ た何 ' 叫
薫 胡 三氏 は執 れも博擾 な る こと明代有数 と栴 せられ る人 で'就 中 胡 氏 の緒 子'宙 小 説研 究 など本格 的
なp甚 だ精彩 あ るも のであ ったO だが そ の l方、彼 ら)と-おけ 壬胡 二氏、の経 畢 と いう のは 1南 に開 いた ことが な い〇 四
部 の首へ 群書 の冠 た る経 を さ し置 いて、 そ の他 の百家薙 説 にカ を注ぐ と い った ことが、 1鰭 どう し て許 され る のであ ろう
胡 癒鱗 は言 う。 「
夏商 以前、 経 は即 ち史 であ った.a - ・
・
・
周秦 の際、 子 は即 ち集 であ った」 と r
J 経 と史、 子 と集が は T
・
きり
分離 した のは後 世 の こと であ るに過ぎ な いfJ胡 氏 はまた言 う.し 「
尚番 は経 の史 であ る。 春秋 は史 の経 であ るrJ中庸、 孟 子
は子 であ るが. そ の理が 経 な ので故 に降 し て経 とす る0 -三 三着 は皆 そ の名 を互換 Lう る のであ り' ただ そ の賓 際 の内容
B
I
弧
E
:
しだ いな のであ る」 と。胡 氏 にと って経史 子集 の分 別 は、 も はや轟 封的 なも のではな- な って いたQ この幾 は何良俊へ三
世貞 も ほは同様 であ るO何 氏 は言 う9 「
史 と経 は上古 にお いてはも とも と分 別す る所無 」 か つたD 孔 子 は史官 の記範 を取
って経 と Lt 太史公 は鮭 を取 って五帝 二王紀 と した。粧 し
.3日 い史 と 日 い 、淀名 は無 いのであ る、と。 王氏も ま た言 う. 「
天
地 の問 ,史 に非ざ る は無 き のみO - ⊥ ハ経 と は史 のう ち で理 を一
言 ったも のであ る」 撞. 彼 ら にと っては経 も ま た史,事を
記 した書 であ ったQ つまり草間 と は事 の研究 であ り' そ こで問題 とな る のは知 識 であ る。 胡氏が鹿 妻 に務 めた のもへ 「
博
(
M
)
給 は必ず 記誼 にょ申' 記議 は必ず詩書 に薄 り る」 から であ った。 今 や裁 番、議 書 は道徳 に気 兼 ね せず とも 自 己主 張 しう る
こととな った.陳第 は自 ら の戚 書 目 に超 し て言 う. 「わが性 は他噂 な-' ただ書籍 のみが癖 」 であ る. この三' 四 十年 閲
ひたす ら書 を求 め'書 に遇 えば 必ず買 った。 か- て戚書 は高飴巻 に至 り 「
閲見 に役 立 て採樺 に備 え」 る には十分 とな った
の であ る。 し かし これを子孫 に侍 え ようなど と は思 わ ぬ。 なぜ なら私 の蔵 書 はただ 「
自 らを摸 しま せる」 た めだけ のも の
(
1-3
)
だ からt と。 陳弟 の蔵 書 は知 識 のた めであ った。 しかも そ の知識追求 は自 ら の繋 しみ'癖 な のであ って' それ にょ って道
徳性 の向 上 を はかると い ったも のではな いのであ る。 胡鷹 鱗 の蔵書 は聾者 の蔵書 であ った。陳弟 のそれ は固 より聾者 の蔵
書 でもあ るが、 同時 に禦 しみ のた め の蔵 書 でもあ る。 閲見 の知 をそれ白撃 とし て追求 す る ことが 可能 とな る時、 閲見 の知
を追求 す る快柴 も ま た肯定 され る のであ る。 復社 の人陳 弘緒 は公然 と言 って いる。私 が牧書 に務 める のは 「
好 ん では溺 れ、
(
〓\
溺 れ てはまた返 ら ぬ」 ほど書籍 に心を奪 われ て いるた めで' そ の蔵書 は 「
僅 か に自 ら を娯 しま せる」 に過 ぎ ぬ のだへ と 。
閲 見 の知 から見 れば' 原理的 には 一切 の書籍 が滞日 の債 値 をも って いる。蔵書 家' 刻書 家' そ し て復改 の人 でもあ った呉
緋 は、 焦汝 の国史 経籍 志 を批判 し てこう言 った。 この目録 には三 つの妖鮎が あ る。 「
郡 邑 の志乗が詳 ら か で な いこと、 こ
(
=
)
れが 一〇 小説中 に元 入 の演義 が無 いこと' これが 二O元 入雑劇が戯 衝 に入 っていな いこと' これが 三」 と。 この様 な主張
はまさ に破 天荒 のも のであ ろう。穆茎孫 は目録 に二涯あ りと し て次 の様 に言 う。愛 日精庭 志など は賞 鑑家 の書 目' これ は
盤 古 を重 んじ孤本 を誇 るも のであ る。 高贋 の百 川善 意など は牧鹿 家 の書 目' これ は四部 を渉猟 し九流 に交 通す るも のであ
る' と。 確 か に高儒 ら明人 の書 目 には往 々古 今雅俗 を問 わず あ らゆ る書籍が著録 され る 一方、清 人 の書 目 では普 代 の景 宋
「
M
)
刻本 を著録 す る ことす ら異例 だ った のであ る。
四三九
明末人 の蔵書 は講書 のた め'閲見 の知 のため の政幸 であ った。 し かる に鎖骨 は こう言 う。 鏡謙 益 の蔵書 は講 書者 の蔵 書
(
;)
だが'趨埼美 の蔵書 は政幸 者 の蔵 書 であ る' と. 明代 でも書籍 を骨董現 し、宋元 の古版ば かりを蒐集 し て喜 ぶ様 な 「
戒
、書」
(
M)
も あ った。 だが自 らも 「
骨董 家」 そ のも のであ った鎖骨 が言 う のは' そ んな 「
蔵書」 のこと ではな い。 「
鏡牧 蘭 (
謙 益)は
蔵 書 と 講 書
東
方
学
報
四四〇
自 ら の蔵 書 に つき、 栄刻名 紗 を得 た のでなけ れば 無 いと貰 った。 嘗 )と に細 心 に番 を讃 む者 の雷 であ る 。 新 の其 々聾 など
だ
が
'
(1-9 )
これ は つまり宋版 が あ る様 な正大 の古書 をp細 心 の注意 を沸 って済 む こと' これが清書 だと言 う ので
徒 ら に登晩 の蜜 を追求 し' 全- 校勘 し ょ- としな いO こんなも のほ い- らあ ろう とそ の寮 i紙 も な いと育 ってよかろう」
と は何樽 の雷
あ る。 明人 の如 き ど んな書 でも無 闇 に癒 し謹 み、 正大 の古書 とそれ 以外 の区別 を知 らず、 また徒 ら に知 識 のみを追 求 し て
聖賢 の言 をじ っ- り味 わ お- と しな い。 こんなも のはせ いぜ い蔵書 者 の威 書 であ る に過ぎ な いO つまり鎖骨 が言 う講書 者
の蔵書 と は'決 し て講書 そ れ自鰹 のた めの蔵 書 ではな か っ た {
)そ の様 な 明 人的講 書 は 全 絶望 調 う所 の 「
玩物 喪 志 の講 書 」
(
脚)
に外 なら ぬ の であ るO 今 や漬藩 は何 よりも まず経 '次 いで史 を重 んじへ 内な る 「
自得 」 を求 めねは な ら ぬ.軒 ち漬 番 は、
少 なく とも 正面 切 って の議 論 と し ては、 明代中 期 以前 に回好 せねは なら ぬ のであ る三 九倍 呉海 の卓 論 は' 四庫館 臣 にと っ
3
卿爪
ても や はり正論 であ ったO つまり明夫 を否愛 し て正嬰 に回犀 す る ことへ これが清 代撃界 の課 題へ より正確 に言 えば酒 代 学
界 におけ る鉄建 の課 題' だ った の であ るrJ
王国鮭 ﹃五代南宋監本考﹄巻中
﹃
架史﹄登四三 二 群発博、 王廠 麟 ﹃玉海 ﹄巻 二七、 叉四三
尤蓑 ﹃
途初堂書目﹄末附 の李蒸語、周帝 ﹃
斉東 野語﹄奄十 二、書籍之
底意 ﹃
嘉定鏡江志﹄巻 二 1r 文事、 ﹃
郡賓議書志﹄呂汲公文錬 (
とも
に﹃
紀事﹄巻 一)
徐度 ﹃
却掃窮﹄雀下 (
﹃
紀事﹄奄 1)
陳戯 ﹃
中興館開銀﹄ 竜三'額面
﹃
宋兜﹄奄 三四四、李常博 (
﹃
紀寮﹄奄 こ
荏 (
4) に同、叉同氏 ﹃
南新舌刊本考﹄
晃公武 ﹃
郡碧講書志﹄宋書、司馬光 ﹃
温 国文正司鳥公文集﹄巻 六二、
以下 に引-史料 のうち兼良簸 ﹃
厳寒紐解縛﹄ (
七巻本)及び薬徳輝 ﹃
杏
二九三
)
的創造解潜
巻
孝義 ﹃
績賀拾遺鑑長編﹄巻 六十、景徳 二年五月成定朔'沈括 ﹃
夢渓筆
談﹄雀十八 (
﹃
鹸話﹄巻上)
失 費奪 ﹃
経義考﹄
文集事略﹄巻 五三)謂固執薦紳、郎史漠 二書不入着、揮垂線 (
前線巻
﹃
終発食通﹄奄 四 「
究盛時、刻本偽希へ蘇長公賓氏山傍証 (
﹃
経進寛 披
こ 謂常時仕度'多俸線渚番'他 可見央」 叉奄 山 「
元時坂本偽者' 叉
非文明之世、紐氏子三十寓巻'茎其重複'政恐不能三寓耳」
( 12
林清話﹄﹃
書林飴話﹄ に見える者 は、各 々 ﹃
紀事﹄﹃
清話﹄﹃
飴話﹄ と略
構 して出典 の末 に注記した。
ll 1
09 8 7
厄 (
とも に ﹃
紀事﹄巻 一)
(13) 蘇過 ﹃
斜川集﹄巻四、夷門奈氏蔵書目数、﹃
宋史﹄巻三八九、劉儀鳳侍
(
とも に ﹃
紀事﹄巻 一)
経典十八年同年小錦
(2) ﹃
寂園雑記﹄巻十 「
園初菩版'惟国子監有之、外郡鯨疑未有、観宋漕深
閣本改)文之象、愈隆於前 巳'但今 士習浮腰へ能刻正大古書以恵後学
尚未虞'今所在書版、 日槍月益'天下右 (
墨海金壷本作古'此捷守山
遠東陽馬生序 (
﹃
宋学士文集﹄巻七三)可知夫'宜徳正統聞'書籍印版
氏書目'郡部蘭書志 に見えるOまた葉夢得 の 「
臓十寓巻」 は ﹃
緯度後
(
14) 北宋 の諸氏 に ついては ﹃宋史﹄巻二九 二 宋敏求倦、﹃郡密語善意﹄田
不得 一見者多夫」
老少、所刻皆無益'令人可厭'--偏州下邑寒素之士、有志伯畢、而
氏 ﹃
避暑錬話﹄巻上 (
とも に ﹃
紀事﹄巻 1)
本末 (
抜) 「
吾授徒 廿飴年、 積其動力、 優待 五経 四書及唐人詩文敷家
雄不能億、頗有所蓄-⋮鋭吾少之時、可謂富夫」 叉巻十七'通鑑紀事
徒'所入頗厚'始寄書、不能多也、及仕干朝 --歴十飴年、経史子集
菓盛 ﹃
水東 日記﹄巻二十 に見える。な お楊氏蔵本 に つき ﹃
東里文集顔
外紀
って いる。
東小葉﹄奄四、書目序
選良 士 ﹃
鉄琴銅剣榎蔵書題抜集録﹄ (7九八五、上海古籍出版社)
巻 四、
分門寡額唐歌詩、毛戻善後
四四 一
(36) ﹃
諌言長語﹄ (
賓顔堂秘笈本巻上) 「
賀治通鑑倣春秋而作' 楊文貞公謂
集後'叉 ﹃
水東 日記﹄雀十四
(35) 同前'巻 四、皇朝 文鑑 (
菖抄本)菓恭煉炭'﹃
浬東小幕﹄
巻十'青侍家
(34 )
(33) 鏡大折 ﹃
滞研堂文集﹄巻三 一、践江雨軒集 (
﹃
紀事﹄奄二)
'菓盛 ﹃
握
二、秘書'孫承滞 ﹃
春明夢鉄線﹄巻十二'文淵閲と同じである0
﹃明史﹄巻九六、塾文 1による。 この記事 はほは米国禎 ﹃
湧瞳小品﹄奄
絹﹄巻十八、蘇東城文 (
抜) は 「
奏疏内外制及詩、皆来待錬也」 と言
﹃
封氏閲見記﹄夏庭芝抜 (
﹃
紀事﹄巻二)
﹃
至正直記﹄省三'書留連欄
﹃
論衡﹄楊序'洪践 (ここでは張金吾 ﹃
愛 日精底蔵書志﹄巻二四 の引文
によ った)
徐働 ﹃
徐氏筆精﹄巻六、書不讐校、黄 玉烈 ﹃土盛居蔵書題践記﹄巻 二、
蔵 書 と 講 書
(32 )
事﹄巻 一)
書 の候 に見える。
書激高巻' 且多手紗老」とは陶宗儀 ﹃
南村援耕録﹄奄 二七'荘参塘蔵
﹃
蔵書紀事詩﹄巻 二 の張思明、陳季模'荘南 の各怪を参照。荘氏が 「
著
(31 )
(
30) 毛管 ﹃
汲古闇書抜﹄ (
播景鄭校訂' 一九五八年古典文学出版社)
蘇 子暗
而己'子史皆従人借講」
﹃
斉東野語﹄巻十二、書籍之厄
年十四五、出敦童蒙、頗有所入、以供養不暇市書也、弱冠、稽遠出授
能得書、柏長事抄録'無以為祐筆之費、則往往従人借護'不能数得'
楊士奇 ﹃
東里文集蹟編﹄巻十四、文恵志序 「
吾蚤有志乎撃、而孤貧不
錬﹄巻七'晃公武 はそ の ﹃
郡密議善意﹄
'陳振孫、周密 に ついては ﹃
帝
(29 )
東野語﹄巻十 二'書籍 之厄 による. (
以上、とも に ﹃
紀事﹄巻 一)
目、館開溝書目
(1) ﹃
郡密議善意﹄崇支線目、 陳振孫 ﹃
直蘭書録解題﹄巻八、 中興館閣書
(27 )
墳俸 (
とも に ﹃
紀事﹄巻 二)
(23) 蘇 天爵 ﹃
園朝文類﹄省 三 T'宋本、滋漢書堂記、﹃明史﹄巻 二九八'侃
(22 )
(21 ) 劉薦 ﹃
隠居通議﹄巻四㌧訓舎'許柴 ﹃
戯醜集﹄梅屋書目序 (
とも に ﹃
紀
馬公文集﹄巻六六、濁楽園記
費衰 ﹃
染&
。
漫志﹄巻 二、司馬温公議書法 (
﹃
紀事﹄巻 l)﹃
塩国文正司
同前巻 八、遂初堂書目、雀十八、梁黙集
﹃
直蘭書銀解題﹄巻五、東湊詔令'奄十五'集選目録
(16 ) 馬端臨 ﹃
文献通考﹄巻 一七四、 経籍考維序引菓夢得 ﹃
過庭鋒﹄
' 文莱
8 17
1
20 19
26 25 24
東
方
学
報
有閑沿道之書 (
﹃
東 里文集﹄奄十、通鑑前編拳更新者云 「
朱子倣春歌作
綱目」又 ﹃
寮編﹄巻十四、通鑑綱 目集覚正業序云 「
嵯乎、綱 目有閑治
四四 二
埼革嚢外編﹄奄十七'天 一関威書記 に見 えるO
≡)
O
(48) 全絶望 の天 l閣蔵 書記 (
前荘) と陳経儒 ﹃
億曝談飴﹄巻下 (
﹃
紀事﹄竜
(
49) 陳縫儒 ﹃
岩棲幽事﹄ (
又 ﹃
太平清話﹄巻 1)
'﹃
経籍含通﹄巻四
道之書也」
)予少不知、正統十三年、授徒海碧へ主命審以綱目鵠問、連
日手之不揮' --今経費治綱 目 (
四庫全書表作通鑑)於宋 元二代亦備」
(
50) 高儒 ﹃
吉川素志﹄
、何良俊 ﹃四友静養説﹄自序 (
﹃
紀寮﹄省 三)
、条線樽
﹃
寓巻堂書目﹄ (
﹃
紀事﹄巻 二 )
元氏長慶集 (
校宋本)楊抜
望館 署目﹄
へ棄民 のほ﹃
玄濃密番目﹄
、練成 のほ ﹃
倣尊 堂戯泰目線﹄
、離
事﹄巻三)
'窮民 のは ﹃
経籍倉通﹄巻 二(
﹃
紀事 ﹄ 巻 三)'趨氏 のは ﹃
厳
王氏 のは ﹃
経絡密通﹄巻 凶と ﹃
欽憲天線琳娘番目﹄登二、米本猿番 (
﹃
紀
5) 兎氏 の蔵書 に つい ては ﹃
(2
賓文堂書目﹄
、花氏 のほ翫元 ﹃
天 l滞書目﹄
、
天水放出錬﹄
(51) 闘名 ﹃
「
於古今戟籍、無 1而不考」 は奄首 の自賛、 「
巻蓄千首奄」 は巻 上 に見
える。
四 '
(37) 陳赦儒 ﹃
太や橋詰﹄奄四 (
叉 ﹃
鴨舌鋒 ﹄登四)載威同愛威宋本文選櫓
氏按'﹃
鉄琴銅剣棲蔵書題験集録﹄巻
る。 この序 は廉海 ﹃
封山集﹄巻 三三r史記序 と同文O
(
38) 通園叢 書本 ﹃
後 山発生集﹄ 三滴儒好 (
弘治刊本 の浮)
(
9
3) 磨序 は博増瀬 ﹃
蔵園帯書 経限録﹄ (l九八三r 中華書局)巻三 に 見え
十
1史
氏 のは ﹃
海生重職書目﹄
、徐氏 のは ﹃
紅両棲書目﹄ (
﹃
紀事﹄巻三 )によ
る。
八、監本二
﹃
戚 潜紀 事鋳﹄奄 二、 三 の各氏儀な参照。
﹃
績賓治通鑑長編﹄巻 二六六、照寧 八年七月辛未
巻 十
陸深 ﹃
古奇幕録﹄附江東蔵書日銀小序 (
﹃
紀事﹄巻 二)
八 の注 に云う
方勺 ﹃
泊奄窮﹄ (
三巻本)
雀 上 によるo この話 は薬夢得 ﹃石林燕語﹄奄
﹃日知鋒﹄
孫梯 ﹃
刻孫 宮川発生文集﹄奄 一、博雅鷺就番日録浮 「
県欧文蔽、学 士
揮諸素 --傘 -・
疲 噂欄壁、謂僻飽食、開米家船釆t余先発以往、推
大喝、番不白楽」 (
﹃
紀審﹄省 三)
蓬盗捜、責務苦之'或赴試、薄遊南都、 日蓮列韓開、 一哉所未親r航
(44) ﹃
震用先生集﹄ (l九八 一、上海古藷出版社)巻九、迭童子鳴序
元
慶 ﹃輿輿蔵番線誓 文 ﹃湖緑綬兼考﹄巻六)沈蔀甫玩易榛赦潜白線
如 -
﹃
南新舌刊本考﹄巻下、 丙'宋元難板
も見 えて いる缶
﹃
輝度前線﹄巻 1
割汝采 「
陪唐五代時期的私家蔵書」 (
﹃
圃書館﹄ l九六二1 1)
郡伯鑑 ﹃郡民閲見銀﹄奄十 六 (
﹃
飴 話﹄巻上)、﹃
弊菜野語﹄巻十 1'沈
君興 (
﹃
紀事﹄奄 こ
(0
6 ) 陸 心意 ﹃
甜菜壌蔵書志﹄巻七二、明影栗本玉葉州小春集へ同前巻 六二'
(59 ) 孝 心俸 ﹃
建炎以来朝 野雑 記﹄ 甲集巻gn
、監本書籍
に若干が失 われたと いうが'しかし院日管線 の番 には洩本が殆 どな-∼
﹃蔵
固辞書経限録﹄奄五、金陵党別志、磁基孫 ﹃
蛮風蔵書療記﹄窄友'
嘗)
四、宋版漠億
叩(
以上とも に ﹃
清話﹄奄 六、宋監本書許入日坪井定償出
嘗抄本績世説'﹃
欽定天練琳鏡書 目後編﹄巻 二、宋版大易粋 言、同前巻
(
4) ﹃
経緯食通﹄巻 四
4
この鮎 で辞編成 ﹃
天 一関長春書目﹄ とは著 し い封照を示すo また清代
に入赦したと麗 し い賓は極 めて僅 かであり.院目 によ って嘉寓 常時 の
情 況を窺う ことも十分可能な のであるDな お借 紗 のことは全組望 ﹃
鮪
(61 )
(
7) 「
刻本十八」とは院元 ﹃
天 一関書目﹄にょる o天 l展 の蔵書 は鼎革 の際
自序 (
﹃
紀事﹄巻 三)
4
5) 邸
(
朱或 ﹃
揮州可談﹄竜 一、陸幕 ﹃
老学庵筆記﹄巻七 に
414
0
大夫葉書、少亦不滅都架、復富而善事'諸終車異枚、向秘不侍者、 日
58 57 5
6 55
43 42
(62 )
新編 事 文類衆翰 墨大全 (
﹃
清 話﹄ 巻 五、 明人私刻 坊刻書)' ﹃
嘉興蔵 目
録﹄ 梼 巌経 坊重訂 蓋 一線 起
﹃
歳 費 治通鑑 長 編﹄ 巻 六十、 景徳 二年 五月戊 辰朔' ﹃
宋史﹄ 巻 四 四二、
蘇 舜 欽停
買 監書、 係 用官 鏡買 充官物 '債 之高 下、何 所損 益 ' 而外 嬰常 苦無銭 '
而書償貴' 以是 在所 不能 有 園子之書」
人日 印 井定償 出焦)
(71) ﹃
欽定 天疎 琳瑛 書 目後 編﹄ 巻 四'宋 版漢 篤 (
﹃
清 話﹄ 巻 六、宋 監本書許
(72 ) 荏 (
59) に同じ。
(
7
3 ) 五代 爾来 監 本考﹄ 巻 中、 新編 金 匿要略方論へ 傷 寒論 と腰 経 の僕 に戟
﹃
せる文移 を参 照 。
(63) ﹃
避暑 錬 話﹄ 巻 上 (
﹃
紀 事﹄ 巻 一)
(74 ) ﹃
文献通考﹄ 撃 二 八' 経籍 考 四五、 賛 民要衝 僕引李 責孫 氏賛 民要術
(4
6) ﹃
欽定 天蕗 琳瑛書 目﹄ 巻 二'唐書、 畢錬 ﹃
鉄 琴銅 剣榛蔵 書 目録﹄巻 二三'
西漢 文類 (
以 上 とも に ﹃
清 話﹄巻 六、宋造 統 印書 之人)' 同前 、 皇朝 文
は梅 鷲 ﹃
南廟 志経籍 考﹄ (
菓 徳 輝抽 刻本)巻 下、梓 刻本末 に見 え る語。
(80 ) 刊 刻 の経緯 は成 化本宋史 朱 美序 による。 叉 「
虞東 布 政 司麻 刻宋史」 と
刻綜 録﹄ (一九 八三'江蘇 江陵舌籍 刻印赦 ) を参照 。
衰租志 ﹃
随 固墳 記﹄ 巻 上、 記著作 、唐 国連 に ついては杜信 学 ﹃明代版
洪遺 ﹃
容蘭清 華﹄ 自序
﹃
責 氏 日紗﹄ 巻 九 三、台 州都斎 求沈寺 丞印 四書
荏 (40) に同じ。
﹃
南新舌刊 本考﹄ 巻 下'温 州府 刊 板
普義解 稗序 、 又 ﹃
斉 民要衝 ﹄ 葛藤 之序
鑑 (
﹃
清 話﹄ 巻 八、 宋 元 明印書 用公債紙 背 及各 項菖 紙)、 ﹃
戒園 群書経
限銀 ﹄巻 二、鹿 韻、 巻 六、 通 典' 播景鄭 ﹃
著 硯榎書抜﹄ (一九 五七、
古 典文学 出版社 ) 金 石錬
紙 背 及各 項巻 紙 )
(65 ) ﹃
土産 居 蔵書 題抜 記﹄ 巻 六'鹿 川詞 (
﹃
清 話﹄ 雀 八、宋 元明印書 用公儀
﹃
著 硯棲 書抜﹄ 明弘治 本東 京 夢筆 録
﹃
寂 園雑 記﹄ 巻 十 二
詳 し- 記す とあ まり に煩 わし いので書 名 の み を馨げ る。 ﹃
北京 園書館
古箱書 本 書 目﹄ 著線 本 には柴 書' 爾雅疏、 説文解字 纂 韻語 、漢 隷分 韻I
(
(
)
州 州学経史 閣 記 (こ の文 は ﹃
議 書分 年 日程﹄ 綱領 に引 かれ て いる)
﹃
近 思銀﹄ 巻 二' 伊 州語、 又朱 蒸 ﹃晦庵先 生 朱文 公文集﹄ 巻 八十、両
81) ﹃鞄 希家 蔵集﹄ 巻 五四、 炭 水東 日記抄本後
志 ' 文選 隻字 数 要' 欧陽 行 周文集 ' 僑 呉集 の十 二種 '﹃国 立中央 圏書
史 記'惰書へ 幽蘭 居 士東 京 夢筆 録へ増 入諸儒議 論 杜氏 通典詳節 、博 物
7
﹃
諸 子妨 ﹄ (
顧頴 剛単行 本)自序
四四三
﹃
黄 氏 日紗﹄ 巻 八七、鹿 徳軍重建 病 害閤 記
﹃朱 子語類﹄ 巻 十 一
李延宝 ﹃
南呉善 話録 ﹄巻 二十、眺 御史 (
名 は臣、嘉 靖 十 六年拳 人)
焦故 ﹃圃朝戯 徽銀 ﹄巻 二 四、 婁防 '奥康 斎先 生輿 弼行 状
﹃明史﹄ 巻 二八 二、 辞垣俸
等附 )
(83 ) ﹃
元史﹄ 巻 丁九〇、 程端臆俸 ' ﹃
議書 分年 日程﹄陸 臨其抜 (
江蘇 書局 本
82
館善 本書 目﹄ には (
寓 暦) 大 明合 典' 園朝憲 葦類 編、疑 獄集' 西呉 里
語 '陽 明先 生支線、 五倫詩 集' 二妙集 の七種が あ り、 これ と ﹃頑固 群
書経 限銀﹄ の国語解' 古川寧 海、 蚊峯集、 ﹃書林情話 ﹄巻 六 に引 く晴
香 (
北 岡蔵 本 と は別)' 幽蘭 居 士東 京 夢筆録 (
静嘉 堂 見蔵本)
'李 端詩
集' 園朝 文類 の七種 を併 せ' す べて二十 六種 とな る。
﹃
疑頗﹄ 巻 三、宋 紙背 面皆 可書 (
﹃
清 話﹄巻 六、宋 人紗書 印書 之紙 )
﹃
後 山居 士文集﹄ (
宋刻 二十巻 本) 巻十 1. 論 園子頁 書状 「
臣 伏 見園子
監所貴 書、向 用越紙 而償 小、今 用裏紙 而債 高、紙 既 不適、 而債槍 於善 I
甚 非 聖朝 貴 明古 訓、以教後学 之意 '臣愚 欲乞計 工紙 之費 、 以篤 之債'
務鹿 其俸 ' 不以求 刑、 亦 聖教 之 一助、伏 侯 勅旨 」貼黄 「
臣惟諸州 学研
蔵 書 と 議 書
6 75
7
87
7
79
89 88 87 86 85 84
7 66
6
68
(90 )
東
方
学
報
﹃
開通密集﹄奄八'書桐 「
道之不明、撃寛 之也'撃之不純、書鍋之也へ
荘 (
34) に同じ。叉謝蜂湖 ﹃五雑賂﹄雀十三
巻四 に著錬される本を例 とした.
四四四
ここでは ﹃
中鴎古籍善本奉 目 (
経郵)
﹄ 二 九 八六f 上海宙兼出版敵)
﹃
蛮風堂文漫存﹄辛 壬藁巻 三、校本六唐人集成
同前'校元本宋授刑洗蒐線
﹃士痩居蔵 書 選抜記﹄巻 三'校宋本説苑
顧氏校数本)顧序
孫氏 ﹃
札漁﹄自序へ挑際恒 ﹃
古今偽書考 ﹄ (
﹃
越絶書﹄ 丁淳
法 (
9) に同 じ 。
十四、北堂書紗便
(
97) ﹃四庫 全書親日﹄北覚書紗提要、郁恵辰等 ﹃
増訂 el
薄簡明目線標注﹄登
漠以束、十八代之史・
・
・
・
・
・
之不可無者、未嘗多也、所以多者、皆諸子官
今天下之雷己多衆、然--九六経聖賢之富、未嘗多也、落屑而下、秦
民'外家雑言、異端邪説、・
--夫揚墨悌老請書' 六経之賊也、管霧中
韓議書、沿道之賊也、通事外倦、史氏之賊也、蕪 詞考課、文責之嫉也、
窮意上之人、有 王者作へ洛悉取其書而焚絶之、 ︰重 夫欲禁之、 必自上
及宋道学諸偉之遺 言不禁、其他則皆禁之、諸家文集、自先秦以来、至
始f夜朝廷大臣通鮭締着、合議儒素論、定其品目、白組史業者某賓f
近世話人之文、悉如纂稗、紫馬大全、其鉄 山切除表」
(
91) ﹃
清容居 士集﹄巻二二、衰氏新書自序
六経子史、以及漠唐 宋諸名家之作具在、己無慮数千首巻央'或 日'聖
豊自列教訓散、
(
92) 項元劫 ﹃
台邦綴籍志﹄雀十七、謝藤、朝陽簡素自自序 「
人之遷、至六経而止'撃以璽乎聖人之遭、而薬以多薦故へ予 日、不然、
・
家
国治平之道、 ⋮︰蓋皆吾之皮内r有不可得而精凝着'
天地事物之理、
苛非参考而博求之、則聞知以髄其全而兜共棲也、薯 日研求於寒暑 r不
越記話訓話詞貴之閏、以釣撃名、媛利緑雨己、則天下之書愈多雨理愈
82) の
所普世守以盛家法老也」 この文 のうち 「
予n不然」以下 は注 (
昧'轡泰之寮愈勤而心慮放、濃集以多薦故'臆、考宰朱子之訓、蕃徒
朱子 の文 に凍 っているOな お、 この様な冨簿なしながら の赦番 は正憲
の際 でも まだ無-な っては いな いO﹃
南呉巷語録﹄巻十九、墓相山 (
侍
性) によれば、尭氏は番本 の購求 に務 めた人 であ ったがr しかも牽宜
陽'張之象 に勤し 「
講書漁謂之玩物喪志、況多積綬柵'徒労人意、然
(9 )
﹃
義自 珍全集﹄ (l九七五、上海人民出版社、 T二二頁)家塾策 問二
﹃
亭林文集﹄奄 二'静香自序
僚之発金連蟹在塵土中、那能不復 山顧」 と言 ったと いうQ
(警
高菜刻本北堂書紗後
厳可均 ﹃
錬橋漫稿﹄ (
心矩密殺寮本)巻 八、 番北堂蕃紗原本後' 書陳
1
)
﹃四友奮叢説﹄巻十九 「
自 六経之外' 世之学者、 各以其道衝名家'壁
語意轡庸皆子也p但孔子之轡厳正、而其首輿六綬柏参、督爽 六終盤行
而不滅'則亦河村軽蔑之斌」
荘
夫」 「
老子道徳五千言'巽以 子 1番、途輿並行' 謂之三教、 歴嵩世
﹃
弁州山人講書後﹄巻四'講孟子 「
孟子︰-︰縛楊墨、 非功也、 凡天下
之術有可久者、必英傑人情者也、選民・
・
・
・
・
・
楊子--皆非人簡'農奴不
待闘而終日感、如便者、醒至今存可也」
同前'奄 !'讃墨子 「
墨子戦 国 山賢 士大夫也、--・
今潰其馨、大抵皆
平治天下国家之道'不甚博子理」
﹃
九流緒論﹄巻上 「
諸子各負篤才、過絶於人r ・
・
・
-・
推原本始、 各東研
承'意常勝馨美術へ措之家鴎天下'故班氏詣優遇明三'折衷輔排、悉
股肱之材へ非如後世文人盛 土、 苛依室淡、 亡稗賓 用者也」7 -・
彼皆
以身鳥美術、経其身薫其力以殉其書、故邪正不同、国師於弗 可磨滅」
名、獲英資也」
之経也、中庸孟氏、子也'而其理経'故捗而経也' ⋮・
・
二二着皆可以互
析而到於経、 --周桑之際、 子鮒集也」「
覇者、 経之史也、春秋へ史
(110) ﹃
経塵脅迫﹄巻 二 「
夏商以前、 経即史也' -・
・
・
至漠 -・
・
・
親筆 ・
・
・
・
・
変造
(1- )
(1-8 )
(1 )
(
1;) ﹃汲古閑潜駿﹄挙党歌祷綱、﹃
南新育刊本考﹄巻上、 己、雑刊本
98
(
9)
(9 )
(
l
o
ヰ1
0
31
0
21
0
1 川 99
1
1
41
1
31
1
21
1
1
1
1
91
1
81
1
7
﹃
経籍合通﹄巻 四
﹃四友斎策謀﹄巻五、﹃
奔州山人四部稿﹄巻 l四四 (
﹃
垂苑尼言﹄巻 l)
﹃
鰭埼草葉﹄巻三二.'叢書模書目序、 叉杭世駿 ﹃
道古堂文集﹄巻十九'
汗牛馬'其貴謂之無 一紙可也」
無有'虞細心講書之言、如新之其 々輩'徒取盈巻峡、全不契勘、維可
欣託斎戒書記をも参照.
﹃
世善堂蔵書目録﹄題詞 (
﹃
紀事﹄巻三)
﹃石荘初集﹄巻 一'西院山房記 「
陳子生平無他噂欲' 聾色裳属' 閲渉
﹃四庫全書締目﹄別集類 二 二 聞過密集提要
劉城 ﹃
障桐文集﹄巻十'新安実生哀辞
兵焚失意、 幸己印行、 其後 廿巻末刻' -・
・
・
・
世運隆平' (
曾孫淳、 滑)
孫 の世京 により 「
刻干建陽市、僅成前十雀'値戊申革命'劉氏之韓'
骨 て程鉱夫 の子大本と門生掲係期 にょ って編足され、至正二十三年'
洪武刊 ﹃
楚闘文意公雪榎程先生文集﹄彰従書序 によれば、 この書 は
蔦而末嘗好'葬鼎玩器、法書名責'好之而未嘗溺也、好而滞、溺而不
﹃
蛮風堂文漫存﹄辛 壬藁巻二、平湖葛氏書目序、 突甲藁巻 二' 古学嚢
損貸達人、請書市'托朱白蓮氏刊篤全集'列韓以停'糞其永久」 と い
復返'惟固史馬然p・
・
・
・
・
・
吾所蔵者'僅以自娯、他非所知也」
本 ﹃
古泉山館題験﹄躍抜)
たも のな のであ るO ﹃
容資随筆﹄も或 いは同様 の例だ ったのではな い
う。 つまり この書 は至正本、洪武本とも に坊韓 に刊刻'印行を依頼 し
刊序、又 ﹃
蛮風蔵書緯記﹄巻五'古泉山舘題抜零藁 (
或 いは親香零拾
同前'序抜題記'彰文勤元瑞蔵本題記 に見える許。
か。
章鉦 ﹃
鏡遵王講書敏求記校謹﹄巻二之下、揚荷之洛陽伽藍 記
通園叢書本 ﹃
後山先生集﹄何姫蹟 「
鏡牧斎著書、非得宋刻名紗、則云
蔵 書 と 講 書
Fly UP