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二度目の人生は男ですか!? 元喪女に王太子は

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二度目の人生は男ですか!? 元喪女に王太子は
二度目の人生は男ですか!? 元喪女に王太子は重責過
ぎませんかね?
紅葉くれは
タテ書き小説ネット Byヒナプロジェクト
http://pdfnovels.net/
注意事項
このPDFファイルは﹁小説家になろう﹂で掲載中の小説を﹁タ
テ書き小説ネット﹂のシステムが自動的にPDF化させたものです。
この小説の著作権は小説の作者にあります。そのため、作者また
は﹁小説家になろう﹂および﹁タテ書き小説ネット﹂を運営するヒ
ナプロジェクトに無断でこのPDFファイル及び小説を、引用の範
囲を超える形で転載、改変、再配布、販売することを一切禁止致し
ます。小説の紹介や個人用途での印刷および保存はご自由にどうぞ。
︻小説タイトル︼
二度目の人生は男ですか!? 元喪女に王太子は重責過ぎません
かね?
︻Nコード︼
N0851CV
︻作者名︼
紅葉くれは
︻あらすじ︼
この度会社帰りに事故にあい、気が付けば赤ちゃんになってし
まっていました。
乳児からやり直しという羞恥プレイを乗り越えて突き付けられた
のは女の子じゃなくて男の子としての人生やり直し、しかも異世界
⋮⋮
1
魔法なしの異世界で弱小国家の王太子殿下に生まれ変わったもと
喪女が大往生目指して奮闘するお話。
﹁美しい生き物は受け付けません! 障らぬ美形に祟りなし!﹂
の主人公の高祖父が主人公のお話です。
アルファポリス様にも投稿中です。
2
始めまして異世界
雨天に響き渡ったクラクションとブレーキ音と誰のものともわか
らない悲鳴に振り返ると、赤色スポーツ車が私に突っ込んできまし
た。
﹁大丈夫ですか!? おっ、おい! 救急車!﹂
﹁しっかり! 今救急車が来るから!﹂
通行人の方でしょうか、雨の中必死に呼び掛けるスーツ姿のおじ
さんと学生服の女の子が駆け寄ってきて、私を励ます声が聴こえま
す。
轢かれたのに感覚が無いので気が付かなかったけど、どうやら私
の身体はまだ車体の下に挟まっているみたい。
沢山の人が懸命に引っ張り出してくれている。
私の血だろう液体で顔や服を真っ赤に染めながら何か言っている
ようですが、どうやら耳まで機能しなくなったらしいです。 アラサー目前なのに、仕事優先し過ぎて未だに彼氏無し⋮⋮あ∼
ぁ処女で終わるなんてあんまりだ。
ナンパでもしておけば良かったかなぁ、それともお母さんがセッ
ティングしてくれたお見合い受ければ良かったのかなぁ。
3
進学と同時に上京してからなかなか実家に帰れず、今年の年末に
は必ず帰るって連絡したのに、ゴメンね⋮⋮帰れそうにないや。
はぁ、どうやら時間切れの模様です。 死んだなこりゃ⋮⋮。
﹁おめでとうございます! 元気な御子様ですよ﹂
ん? あれ、生きてる?
﹁でかしたぞ! 世継ぎだ!﹂
﹁貴方のお子です。 抱いてやってくださいませ﹂
聞こえてくるのはトクン、トクンと規則的にリズムを刻む鼓動。
そして誰の声? 聞き覚えないんですが⋮⋮。
ふわりとした浮遊感を感じた後、寝心地が悪い硬い物の上に寝か
されました。
﹁ふにゃー、ふふにやー! ︵ちょっと! 寝心地悪いんですけど
!︶﹂
ん? なんかおかしくない!? ふにやーってなに!? どうな
ってるのよー!
﹁よーしよしよし、其方の父だぞ∼﹂
4
父だぞーって! あんた誰よ? うちの父さんはこんなに甘い声
してないし、自分のこと父だって言わないわい。
顔の皺と反比例してどんどん頭部から髪が心許なくなってるわよ!
視点が定まらない眼を無理やり開けると、ぼやける視界に映った
のは燃えるような赤い髪の知らない男の人。
歳は私とあまり変わらないかも知れない外国人が満面の笑みを浮
かべている。
彫りの深い顔に嵌まった二つの琥珀色の瞳がじっと私の顔を覗き
込んでいた。
うぉいなんたこの偉丈夫は、何処からこんな色男出てきたんだ!?
﹁おっ! 眼を開けたぞ! リステリア! 瞳の色は貴女の色だね、
美しい翡翠色だ﹂
ゴツゴツした肉体のこの自称父だと名乗る男は、よしよしと言い
ながらバシバシと背中を叩いてくる! だから痛いっての! 叩く
な馬鹿力!
﹁アルトバール陛下! 赤子をそのように激しく揺さぶってはなり
ません﹂
この私を抱く男はアルトバールと言う名前らしい。 っていうか
外人が流暢に日本語話してますけど、どういう事よ。
﹁おぉ、すまぬ。嬉しくてついな﹂
5
﹁陛下は昔から大雑把過ぎます﹂
ボディービルダー顔負けの上腕二頭筋からやっと脱出して、ふく
よかで柔らかい腕の中へと手渡される。 安定感が違う!
﹁まぁまぁ、本当にリステリア王妃様にそっくり。 綺麗な翡翠色
でございますね。 リステリア様、ほら﹂
母とそう変わらない歳でぽっちゃり体型のワンピースを纏った女
性はそう言うと、ゆっくりと丁寧に首の据わらない私をベットの上
に横たわる女性へと差し出した。
﹁はじめまして、私の天使。 あなたの母ですよ。 産まれてきて
くれてありがとう﹂
そう言ったのは見たこともない超絶美女、目鼻立ちが整った顔立
ちは疲れてはいるものの、達成感に満ちている。
白磁の如き白い額には玉のような汗を浮かべて金色の波打つ髪が
張り付き、化粧をしていないにも関わらずその端麗な容姿は褪せる
どころか色香さえ感じさせる。
スッと通った鼻梁の先にはっきりとした二重と長いまつげに彩ら
れた吸い込まれそうな緑色の瞳がいとおしいと言うようにこちらを
見詰めている。 えっ、母?
﹁ふにゃー、あふぁわ︵いえいえ、こちらこそご丁寧にすみません︶
﹂
6
ってやっぱりふにゃふにゃ言ってるよー。 誰か本当にこの状況
説明してくれないかなぁー!?
7
始めまして異世界︵後書き︶
旧投稿版と同じところまで連続投稿いたします。旧版を読んでいた
だいていた皆様ごめんなさい!
8
衝撃! 嘘だと言って∼!︵前書き︶
本作品ですが誤字脱字誤用がてんこ盛りです。なるべく訂正してい
きたいと思っておりますが、なかなか進みません!ゲーム感覚で発
見のご連絡を頂けますと助かります。よろしくお願いいたします。
9
衝撃! 嘘だと言って∼!
ひとまず今分かる事を整理してみようと思います。
まず日本語と同じ言語を話しているようなので言葉には不自由せ
ずにすみそうです。
﹁陛下、早急に御祝いの準備をいたしませんと!﹂
目の前で陛下と呼ばれているアニメに出てきそうな赤髪に琥珀色
の瞳のごりマッチョはアルトバールと言う名前の父親らしい。
﹁あなた、もうこの子の名前は決めてありますの?﹂
私を抱いたままアルトバールに声をかけている金髪の超絶美女が
母親らしい、名前をリステリアさん。
﹁あぁ色々調べて悩んだが、レイナス建国の初代国王陛下から頂く
ことにした﹂
キラキラとした瞳で私の頭を撫でる。
﹁お前の名前はシオル・レイナスだ﹂
﹁シオル・レイナス﹂
はい、新しい情報が一つ増えました。 新しい名前はシオルちゃ
んと言うそうです。
10
﹁あぶー﹂
﹁返事をしたわ! 気に入ったようですわね﹂
﹁ふにゃー﹂
﹁あらあらオシメかしら、それともミルク?﹂
んー、漫画やアニメ、小説等大好物な私の推測だと、現状を表現
できる単語が一つ。
﹁さぁさぁ交換しましょうね。 リステリア様、シオル様を﹂
転生、しかも異世界。
﹁リーゼ、お願い﹂
リーゼと呼ばれた体格の良い女性に私を抱き渡すと、リーゼさん
はすぐに私を子供用の柵のついたベットへ寝かせ、てきぱきと布製
のオムツをはずしに掛かった。
﹁ふんにゃー! ふんにゃー! ︵ちょっ! なにする気!︶﹂
﹁ハイハイ、直ぐに気持ちよくなりますよー﹂
生を受けて二十八年、前世の記憶と思考回路が両足を持ち上げら
れて下の世話をされなければ生きていけない無情な事態に私は力の
限り抵抗を試みる。
11
いかんせん赤子の、それも新生児の身体では抵抗することも儘な
らない、スルスルと手際よく解かれたオムツがはだけた次の瞬間あ
るはずがないものが視界に映り眼を見張った。
として⋮⋮!? 嫌∼!
それは女で喪女であったさち子の時には二十八年間縁の無かった
物。
男
﹁ふみゃー! ︵嘘だといって∼!︶﹂
転生による人生やり直し。 しかも
﹁えっ!? ちょ!? リステリア様! アルトバール様! シオ
ル様が!?﹂
﹁何があった!?﹂
この二度目の生を受けて、度重なる精神的ダメージから私は意識
を手放した。
﹁シオル! シオル! アルトバール! シオルが!﹂
リステリアはこれまでの人生で一番の動揺をみせながら必死に自
分の夫であるレイナスの国王にすがり付く。
貴族の常として政治的に結ばれた婚姻だったが婚礼後の夫婦仲は
非常に良好で、直ぐにでも後継ぎに恵まれるだろうと言う国民の期
待を裏切り中々吉報はもたらされなかった。
長年待ち望んでもなかなか妊娠の兆しが得られず世継ぎを望む臣
下や民の為に、最愛の人へ側室を迎えてくださいと涙ながらに訴え
12
たこともあった。
それでもアルトバールは側室を迎えることはなく、焦らなくて良
いと慰めてくれる。
結婚してから二年、やっと授かり数時間前に命からがら産み落と
した我が子が意識不明に陥ってしまったのだ。
﹁大丈夫だ! 直ぐに医師を呼べ! リーゼ!﹂
﹁はっ! はい!﹂
大きな身体を揺らして、躓きながら駆けていくリーゼの代わりに
騒ぎを聞き付けた助産師達が部屋に駆け込んでくる。
産後の疲労で動かない身体でベッドから立ち上がるが、バランス
を崩してから床に倒れ込む。
﹁危ない!﹂
リステリアの身体を抱き止めたアルトバールと助産師の手によっ
てベッドに戻されてしまった。
﹁シオルは! シオルの容態は!?﹂
﹁ご安心下さいリステリア様、 シオル殿下は少しお疲れになられ
たのでしょう。 産んだリステリア様同様に環境の目まぐるしい変
化に、疲れてしまわれたのかも知れません。 呼吸も安定されてお
られますし、直ぐに眼を覚まされますよ﹂
13
﹁ほっ、本当ですか、良かっ⋮⋮﹂
無理に動いたせいだろうか、グラリと傾いだリステリアの身体を
抱き締めると、アルトバールはゆっくりと支えながらベッドへと寝
かせてくれた。
﹁大丈夫だ、シオルは俺に任せて今はゆっくり身体を休めてくれ﹂
真剣な顔をしてリステリアに言い聞かせると、ふと表情を和らげ
て、アルトバールはリステリアの唇に軽い羽毛のようなキスを落し
た。
﹁リステリア、素晴らしい宝物をくれてありがとう﹂
14
この美青年誰!?
﹁あぅ∼︵夢じゃない⋮⋮︶﹂
﹁シオル様、おはようございます﹂
目が覚めると、リーゼさんが私の顔を覗き込んできました。 顔
色が優れず、目の下には見事な隈が⋮⋮もしかして寝てない? 一
体今は何時ごろなんでしょうね。
﹁直ぐにリステリア様にお知らせして、医師を呼んできて﹂
﹁はい!﹂
リーゼさんの指示を受けて同じデザインの服を着た十代の少女が
パタパタと部屋から駆け出していく。
﹁廊下を走っちゃいけませんっていつも言ってるのに﹂
どうやら現在お母さんのリステリアさんは同じ部屋には居ないよ
うです。
どこか安堵したように微笑むとリーゼさんはゆっくりと私をベビ
ーベットから持ち上げた。
どうもこのヒョイッと持ち上げられるのは慣れない。 重力が一
瞬無くなるこの感覚は苦手なんだよね。
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﹁シオル様、みんなビックリしたんですよー。 リステリア様もア
ルトバール様も心配されておりました﹂
﹁あーぅー︵それは申し訳ありません︶﹂
﹁一応念のために診察をして貰ったら、リステリア様のお見舞いに
行きましょうね﹂
﹁うにゃー?︵お見舞い?︶﹂
私が気を失っている隙に一体何があったんだろう。 少なくとも
最初に姿を見たときは元気そうだったけど⋮⋮。
﹁シオル様が元気に眼を覚まされたことを知れば、直ぐに元気にな
られますよ。 シオル様が一番のお薬ですねー﹂
ん? もしかして私のせいだったりする?
少女が呼んできたのか、医師は直ぐに診察をしてくれた。
﹁はい、大丈夫ですね。呼吸も脈拍も正常です﹂
だって元気ですから! お墨付きをもらう頃、廊下から足音が聞
こえてきました。
﹁シオル∼!﹂
今世のパパ、アルトバールさんが凄い勢いで部屋に飛び込んでき
ました。
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﹁陛下! 廊下は走ってはいけませんと昔から申し上げております
のに﹂
﹁シオル! 良かった元気だな。 心配したんだぞ∼﹂
アルトバールさんはそう言うと、私を抱き上げて頬ズリをする。
目立たないだけでしっかりと有る生えかけの髭は以外とジョリジ
ョリしていて今の柔肌に卸し金の様に当たる。
痛いから! ね? やめてー。
﹁陛下! リステリア様がお待ちなのでは? 早くシオル様を会わ
せてあげてくださいませ﹂
﹁あぁそうだった! 宰相が探しに来ても来ていないと言っておい
てくれ! 行くぞ息子よ﹂
そう告げて早々に立ち去ろうとするアルトバールさんをリーゼさ
んが焦って止めた。
﹁おっ、お待ちください。 赤子が冷えてしまいます! せめてこ
れでくるんで行ってくださいまし! それとまた会議を脱け出して
来られたのですか!?﹂
﹁我が子と狸ばかりの会議、比べるまでもないではないか﹂
いや、ちゃんと仕事しようやパパさん。
﹁陛下∼!﹂
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廊下に山びこの様に遠くから声が聞こえてくる。
はっ! としたように声がする廊下を見ると焦ったようにリーゼ
さんから厚手のタオルを受け取りササッと器用に私の身体へと巻き
付けた。
﹁まずい。 ではなリーゼ! 任せたぞ!﹂
焦るアルトバールさんに苦笑する。
﹁えっ!? 陛下! ちょっ!﹂
まだ引き留めようとするリーゼさんを振り切る様にそう言うと、
アルトバールさんは私を抱いたまま勢いよく廊下を突っ走った。
謎の陛下∼と呼ぶ声のする通路を避けるように角を曲がり、さら
に曲がった先に扉が一つ見えた。
﹁リステリア、シオルが目を覚ましたぞ!﹂
両開きの重厚な扉を勢い良く開けると、アルトバールさんは居間
のようになっている部屋をすぎて奥の部屋に入っていく。
白と黄緑を基調とした部屋には高そうな家具が据え付けられ、柱
に施された彫刻が精緻だ。
これ埃とか掃除どうしてるんだろう。 20畳は越えそうな居間
を抜けると、こちらも白と黄緑を基調にした寝室が現れる。
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﹁ほっ! 本当ですか?﹂
アルトバールさんの声にベッドから身体を起こし今にも迎えに来
そうなリステリアさん。
あれ、やっぱり窶れてる?
広い天蓋付きのベッドのリステリアさんに足早に近付くと、ゆっ
くりと私を手渡した。
なんか初めて会った時よりも顔色が優れない気がする。
﹁あぶー?︵大丈夫ですか?︶﹂
声を掛けると柔らかく微笑みを浮かべたリステリアさんに頭を撫
でられた。
﹁シオルもリステリアを心配しているよ﹂
妻子の様子を見ていたアルトバールさんが心配そうに私をあいだ
に挟むようにしてベッドへと腰を降ろした。
﹁シオル、大丈夫よ。 お母様は直ぐに元気になりますからね﹂
﹁ふにゃ︵そうしてください︶﹂
﹁そうだな、元気になったら皆でピクニックでも行くか﹂
なんとも気の早いお父様なんだろう。
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﹁えぇそうですわね。でも⋮⋮﹂
﹁陛下! 見つけましたぞ!﹂
先ほど閉められたばかりの扉を勢い良く開いて現れたのはインテ
リ系の美青年だ。
うわー、なにこの部屋の美形率半端ないんですけど! 目の保養
だぁ。
あれ? 見覚えがあるような無いような⋮⋮。
﹁げっ! まいたはずなのに﹂
﹁げっ! ではありません! 大事な会議を私に押し付けて逃走し
ないでください。 私だって甥っ子に会いたくてうずうずしていた
のに!﹂
甥っ子ってことは⋮⋮改めて比べてみると良く分かる。 私のお
母様と瓜二つじゃぁないですか。
見覚えがあるはずですね。 違うのはお母様のリステリアさんは
波打つ髪質なのに対して、目の前でアルトバールさんを叱りつけて
いる伯父様は流れるようなストレートです。
銀縁の眼鏡の奥はリステリアさんよりも深みがあるエメラルドグ
リーン。
﹁わかった、わかった。直ぐに戻るから引っ張るな﹂
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﹁信用なりませんので一緒に戻りますよ!﹂
おぅ、この伯父様は結構言うねぇ。
﹁やっとシオルと遊べると思ったのに⋮⋮﹂
﹁そんな恨めしそうな目でみられても駄目なものは駄目です!戻り
ますよ!﹂
﹁わかったよ⋮⋮﹂
そう言う、アルトバールさんはしぶしぶベッドから立ち上がった。
﹁リステリア様、シオル様お誕生おめでとうございます﹂
﹁兄上、昔のようにリスティーと呼んでくださいまし、甥のシオル
ですよ。抱いてやってくださいませ﹂
リステリアさんはそう言うと美青年に私を差し出した。
そうか、リステリアさんのお兄さんなんだね。
﹁髪はアルトバール様だな。 目鼻立ちと瞳の色はリステリアにそ
っくりだ﹂
伯父様は慣れた手つきで私をあやしながら頭を撫でている。
いやぁ役得ですね。
﹁シオル様、君の伯父にあたるシリウスだ。 仲良くしてくれ﹂
21
はい! シリウス様! お嫁にしてください! って、駄目だ∼。
今世の私にはあれがついているんだった。
可愛い男の子の象徴が⋮⋮。
﹁さぁ行きますよ、陛下﹂
﹁ゔー、行きたくないー﹂
﹁子供じゃないんですからシャキッとしてくださいシャキッと!﹂
﹁リステリア∼! シオル∼! 後でなぁ﹂
半ば引きずられるようにして部屋を出ていく二人を、私はリステ
リアさんの腕の中から見送った。
22
避けられない試練
﹁ハァハァ、ゼィ⋮⋮リ、リステリア様、陛下は?﹂
ふくよか身体を揺らし息を切らせて部屋に駆け込んできたリーゼ
さんは、部屋にいるはずの人物を探して事情に明るいだろうリステ
リアさんに声をかけた。
﹁さっき兄上が連行して行きましたよ﹂
そんなリーゼににっこりと微笑みながらリステリアさんは楽しそ
うに答える。
先ほどの様子よりも若干顔色がいい。
よ、よかった∼。
﹁宰相閣下もいらっしゃったのですね。 良かった、シオル様を連
れて陛下が飛び出して行かれて追いかけたんですけど。 やはり殿
方は速いですね、追い付けませんでした﹂
アルトバールさんの脚が速いのは、抱かれて確認済みですよ。
ついでに振動も凄かった。
﹁ふふふ、まるで王太子時代の陛下を見ているようでしたわ﹂
へー、父様昔からシリウス伯父様に引き摺られてたのかな。二人
とも容姿は良いのでさぞ二人並べば見応えがあっただろう。
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中身はどうあれ、美男子が二人でじゃれてるとか、もと腐女子っ
けがあった私的には是非とも写真に納めたかった!
カメラがないのは痛いわー、せめて絵を描く才能があれば妄想だ
けでも絵に起こせたのに!
﹁シオル様は産まれてからまだ何も口にされておりませんから慌て
ましたわ﹂
そう言えばひもじいかもごはん! ごはん!
﹁リステリア様、体調が宜しければ初乳をお願い致します。 授乳
は乳母でも可能ですが、初乳ばかりはそうもいきませんので﹂
うっ、やっぱりオムツ同様避けられないかぁ。
はぁ、やっぱりミルクですか、粉ミルクなんて物は無さそうだし、
仕方がないのかなぁ。
抵抗感あるわ∼。
﹁わかりました、シオル。 あんまり出ないかも知れませんが、後
で乳母にたくさん貰ってね﹂
リーゼと他の侍女達が、プライバシーを配慮してか扉に鍵を掛け
る。
﹁ふにゃー︵頂きます︶﹂
24
さて、さて。 差し出されたのは羨ましい程の豊満な美乳の乳首
を口に咥えてみたのは良いものの困ったぞ、吸い方がわからない。
咥えたまま一向に吸わない私に、リステリアは首をかしげると頭
を撫でてきた。
﹁シオル?﹂
﹁どういたしました、リステリア様?﹂
﹁吸わないのだけれど⋮⋮﹂
困惑しますよね、そりゃ。 どうしよう⋮⋮。
﹁そういうときは﹂
リステリアさんが人差し指を立てると私の口許を開かせて乳輪ま
で咥えたさせると頬っぺたをつついた。
﹁あっ!吸いだしましたわ。 リーゼは本当に物知りね﹂
乳児の本能なのか、反射で飲めている。 あんなに悩んだのに一
体なんだったんだろう。
今世で始めて口にした母乳は、牛乳と違い甘味と鉄のような味が
した。 改めて飲んで見ると不思議な味だった。
我ながら思っていたよりもお腹が空いていた様で必死に吸い付く。
﹁伊達に五人も子供を育ててはおりませんから﹂
25
五人も! 前世では珍しい人数だ。 年々出生率が低下する日本
で、その一因を担っていた私には驚愕の人数だ。
﹁失礼します﹂
部屋の扉を叩いた来客ははち切れんばかりのバストの女性だった。
先ほどリーゼさんが言っていた乳母の女性らしい。
﹁お疲れ様、シオル様にミルクを差し上げてくださる?﹂
﹁はい、私で宜しければ﹂
よろしくないです! 母乳ってだけでも抵抗が凄いのに! 他の
方から頂くなんて! その母乳はあなたの子供の為の母乳でしょう!
﹁シオル様どうぞ﹂
うおっ! 前世の自分のまな板具合を知っている自分としては、
羨ましいほどの巨乳を口許にあてがわれた。
﹁シオル様?﹂
遠慮します! 全力で遠慮します! 口を真一文字に引き結び食
い縛る。
﹁あらあら、駄目ですよちゃんと飲まないと﹂
リーゼさんに頬をつつかれても口は開けません! その乳はその
人のお子さんの乳です!
26
﹁困りましたね﹂
飲まない私と飲ませたいリーゼさんとの我慢比べは、私の勝利で
した。
﹁シオル? どうしたの? 飲まないの?﹂
リステリアさんの腕に戻されたのでとりあえず甘えてみようと思
います。
正直赤ちゃん生活はむちゃくちゃ恥ずかしいですが、羞恥プレイ
も一年の辛抱。
リステリアさんが試しに口許に胸をあてがってくれたので遠慮な
く頂きます。
まだ産まれてから時間がたってないせいかほんの少しずつしか出
ないけど背に腹は変えられん。
﹁うーん、リステリア様のはきちんと吸いますね﹂
私の必死な様子にリーゼさんは腕を組んで悩んでます。 だって
さー、抵抗感半端ないんだから仕方ないじゃん。
﹁産まれたばかりで人見知りですか、手強いですねー。 この頑固
さは誰に似たのでしょう﹂
リーゼさんの呟きにリステリアさんはクスクスと笑っている。
えっ誰か心当たり有るの?
27
﹁きっとあの人ですわ﹂
ぶえっくしゅ!!
ほぼ変わらない時に、この国の宰相閣下でリステリアさんの美形
兄シリウス伯父様が執務室で盛大なくしゃみをしたことは後日判明
した。
28
お散歩デビュー?
日々の羞恥プレイに耐えながら自分で動けるようになる日を心待
にして赤ちゃん生活に送っていたある日、産後体調が思わしくなか
ったリステリアさんが元気になったので御祝いをするようです。
﹁城下に大きな行商市が立つそうよ﹂
城下町かぁどんなんだろう。
﹁騎士のあの人誘って外出してきたら?﹂
﹁えー! ムリムリ! あたしじゃ釣り合わないもの∼﹂
うむ、どこの世界でも恋話は鉄板ですね。 リーゼがリステリア
さんの付き添いで部屋には私の世話をする若い女性達しかいません。
上司の眼もないこともあり、彼女達は私を囲んで言いたい放題で
すねー。
﹁でも、あんまり良くない噂が流れてるわよね﹂
うむ、赤ちゃんだと皆さん気が緩むのか情報提供満載ですね。
﹁あー、あれでしょ。 昔、宰相様の婚約者孕ませたってやつ﹂
何かすごい話になってきた! 興味津々で侍女達を見上げている
とそのうちの一人が私の首もとをくすぐる。
29
﹁もしかして宰相閣下が独身なのってそのせい?﹂
﹁あんた癒してあげなよ∼﹂
﹁ほらほらシオル様のミルクの時間ですよ﹂
キャッキャと盛り上がる侍女達の女子会は、いつの間に開いたの
か入り口で仁王立ちするリーゼさんの声でおひらきになりました。
﹁シオル様、おしめが汚れた時は教えてください﹂
リーゼさんが抱き上げた私のお尻を触って苦笑いを浮かべている。
﹁あぅー︵すいません︶﹂
おしりが汚れた時と、お腹が空いたとき泣くのが今私に出来る仕
事とはいえ、出来ませんと言って良いですか!?
早く首よ座れー。
産まれてから約三ヶ月、だいぶ頭は自分の意思で上げられるよう
になりました。
﹁明日はいよいよ、シオル様の生誕祭ですよ。 リステリア様の体
調が優れず延び延びになっていましたけど﹂
リーゼはそう言うと、リステリアさんの部屋へ向かって歩いてい
きます。
30
私の授乳は粘り勝ちでリステリアさんと言うことになりました。
王公貴族は普通、乳母に授乳や世話をさせるのが普通らしいけど、
無理です! ごめんなさい。
﹁シオル様の御披露目ですから、国中で御祝いですよ﹂
国中で御祝い⋮⋮。
ずっしりと重いです。 この三ヶ月で、自分の立場が判明しまし
た。
レイナス王国第一王子、しかも王位継承権第一位。
しがない一般庶民だった私になんつう重責を! 国一つが将来的
に自分の手に任されるとか今から気が重い。
今のレイナス王国はなんの取り柄もない弱小国であることと、国
王のアルトバールさんが争い事を好まないため、戦争とかに巻き込
まれる心配は無いようです。
だけど、周囲の大国は今も領土をめぐり争いが絶えないとのこと。
太平洋戦争以降、戦争も銃刀法も法律で禁止されている日本で暮
らしてきた私には実感としてわきません。
将来的に巻き込まれる可能性もあるけれど、とりあえず大きくな
ろう、うん。
﹁リステリア様、シオル様をお連れしました﹂
31
そうこうしている間にリステリアさんの部屋に通されると、今日
はベッドから降りて、簡素なドレス姿のリステリアさんが出迎えて
くれる。
﹁シオルお腹すいたでしょう、お母様の所においで﹂
優しい笑顔で手を伸ばすリステリアさんに私も手を伸ばした。
﹁あぅ! んきゃ︵おはようございます! 調子良さそうで良かっ
たです︶﹂
﹁シオルは今日も元気ねぇ。 今日は一緒にお散歩へ行きましょう
か?﹂
お散歩ですか、楽しみです。
産まれてから自力移動が出来ないのでもっぱらリステリアさんの
部屋と子供部屋の往復で飽きてました。
﹁お天気もいいようですし、くれぐれもご無理はなさらないで下さ
いね﹂
リーゼさんのお許しも出たようなので、お散歩デビューです。
32
初めての散歩と神話
さぁ、出発ですねー初散歩。 こちらに転生してからの初めての
外出です。 散歩だけど!
果たしてこちらの世界の空は何色でしょうか? 私の行動範囲か
らは空が見えなかったので少し楽しみです。
リステリアさんの腕に抱かれながら廊下を進み、階段を下りて行
く、おおぅ意外と建物が広いなぁ。
自力で動けるようになったら一通り回って見ようかな。 探検探
検探検。
﹁フフフ、シオル様楽しそうですね﹂
えぇ! それはもう! メチャクチャ楽しいです。
しばらく移動すると、小さな木製で出来た扉の前に着いた。
小柄なリステリアさんは問題なく屈まずに通れるが、リーゼさん
は少し屈まないと通れないような扉だった。
こちらの世界の空が黄色とかだったどうしよう、まさかピンクは
無いでしょう。
開かれた扉から外に出ると、あまりの眩しさに目を瞑ってしまう。
33
﹁さぁシオル、目を開けてご覧なさい﹂
おそるおそる開いた目に飛び込んできたのは、これ迄前世でも見
たことがないほど清んだ青空と白い雲。
東京の排ガスで、少し霞んだ青空しか見たことがない無い私には
感動さえ覚える色です。 良かったぁ、ピンクじゃなくて。
そしてこの世界が私の知っている祖国と徹底的に違うこと、それ
は私を照らし出す太陽が二つあると言うこと。
﹁シオル、今日も双子太陽が綺麗ね﹂
双子太陽? 一つでも眩しいのに、二つあると眩しさ二倍かも。
﹁今の季節は双子太陽だけれど、もうしばらくしたら一つになるの
よ?﹂
﹁あーう?︵どうゆうこと?︶﹂
﹁この世界を創った神様がね、お姫様と王子様の双子にこの世界を
平和に仲良く治めなさいと言って、任せて行かれたの﹂
フムフム、やっぱり神話や宗教的な物はどこにでも在るですね。
﹁最初は仲良く治めていたんだけれど、ある日お姫様が地上に降り
立った時、ある男性と恋に落ちてしまったの﹂
王道ですねー、只の人と神様の愛の末に子を儲けるパターンかな
ぁ。
34
﹁王子様に内緒で地上に降りてきていた事がバレてしまったお姫様
と青年との恋は、王子様に反対されたわ﹂
あらぁ、お姫様バレちゃったのね。
﹁しかしお姫様のお腹の中には青年の子供が芽生えていたの﹂
意外と手が早いんですね、この世界の神様は。
﹁お姫様は双子の王子様に地上に降りることを禁じられてしまった
の。 ただ神の国に住むことが出来ない半神半人の子供を地上に残
して全く会えなくなってしまうのは可哀想だと感じた王子様は、年
に一度だけ親子で過ごす事を赦されたの﹂
んん? なんか似たような話を聞いたことが有るような無いよう
な⋮⋮。
﹁常にこの世界を見守る事を王子様の太陽が担い、一年のこの時期
にだけ昇る太陽がお姫様の太陽なのよ?﹂
素敵でしょ? と聞かせてくれた神話はこの世界では有名な話な
のだろう。
なんだか七夕に似ているかなぁ、一年に一回とかって。
リーゼさんは頷きながら話を聞きき、私とリステリアさんの様子
を微笑みながら眺めている。
﹁確か北の王家はお姫様の庶子の子孫だとか。﹂
35
神話じゃなかったっけ?
﹁北のスノヒス王家の初代国王がお姫様の庶子だったと言う話です
からね﹂
うわー、本当に実在したんだね。お姫様のお子さま。
綺麗に手入れが施された庭園の石畳を歩きながら、リステリアさ
んはこの庭園の話もしてくれた。
﹁この庭はね、お父様とお母様が初めての出会った場所なのよ?﹂
おー、私のルーツとなる場所なんですね。
﹁あなたももしかしたら、いつの日かこの庭園で素敵な出会いをす
るのかしらね﹂
幸せそうに微笑むリステリアさんは庭園をゆっくりと進みながら
久しぶりの外の景色を満喫しているようだった。
綺麗に敷き詰められた石畳の上を歩いていくと、直ぐにテーブル
セットが用意された一角にたどり着いた。
﹁リステリア様、直ぐにお茶の用意が出来ますのでお座り下さい﹂
リーゼさんが椅子を牽くと、リステリアさんはゆっくりと腰を掛
けた。
﹁お疲れではありませんか?﹂
36
座って深呼吸をしたリステリアさんを見上げると、リーゼさんが
私の心配を代弁してくれた。
﹁大丈夫よ、でも久しぶりで気持ちいいわね﹂
顔色は良いものの、やっぱりまだ散歩はきつかったのかなぁ。
﹁こうしてシオルと一緒にお散歩へこれる日が来るなんて夢のよう
だわ﹂
どこか遠い目をして庭園を眺めるリステリアさん、色々あったん
だろうなぁ、王妃陛下だしやっぱり泥沼愛憎劇?
あのアルトバールさんを知っているだけに、余り想像がつかない
けど、きっと色々な出来事があったんだろうなぁ。
その後しばらくして、いつもの如く脱走してきたアルトバールさ
んも交えて午後のティータイムを過ごした後、いつも通りシリウス
伯父様に引き摺られながら公務に帰っていったアルトバールさんを
見送った。
﹁リステリア様、私たちもそろそろ戻りましょう﹂
見慣れない太陽や、庭園鑑賞を楽しんだ後、明日の生誕祭に響く
といけないと言うリーゼさんの薦めで、散歩は御開きになりました。
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逆源氏物語計画!?
どうやら初めての散歩は意外と赤ん坊の今の体力には効いたよう
です。
寝る前にミルクを沢山貰ったお陰もありますが、昨晩は夜に眼が
覚めることもなく、久しぶりに爆睡しました。
﹁おはようございます。シオル様﹂
﹁シオル様おはようございます﹂
﹁あーう︵おはようございます︶﹂
あれ? なんかいつもより部屋へ出入りする侍女が増えている気
がする。
シオルとして生を受けてから専属侍女として、ミナリー、リズ、
レーシャと言う名前の二十代前後の娘さん三人が新にお世話をして
くれることになりました。
﹁シオル様! 今日は生誕祭ですよ。 お披露目ですからおめかし
しましょうね∼フフフ﹂
いやいや、ふふふって! ミナリーさんまじでそれを着るんです
か!?
首元が無駄にレース過多で白タイツ、カボチャパンツに金モール
38
の装飾と刺繍の王子様仕様の服一組⋮⋮いーやー! 恥ずかしい!
どんな羞恥プレイさせる気ですか!?
衣装を持ってじりじりと迫る侍女から逃げようと必死に手足を動
かすものの、寝返りが叶わない限りぱたぱたと羽ばたくことしか叶
わない∼。
﹁さぁさぁおしめ代えましょうねー﹂
リズさんが布おむつを抱えて私のおむつを外しにかかる。
レーシャさんから、おしりを拭くための湯を張った金属製の盥と、
タオルを堅絞りしたタオルを数枚受けとり、流れるような素早さで
おしめを替えていく。
主にこの三人だが世話役の侍女が代わる代わる交換していくおし
め、精神年齢二十八でこの義務は辛い、辛すぎる!
この世界の成長速度とか、暦が日本と同じとは限らないけど、そ
んなことは関係ない! 一刻も早くおしめ生活を卒業しなければ、
この無限羞恥プレイは終わらない。
しかも便利だなぁと思っていた言語が同じだと言うことの弊害が、
これまた辛いところ。
﹁シオル様ってさ、赤ん坊にしては立派よね﹂
﹁やっぱりそう思う? アルトバール様に似たのかしら﹂
﹁案外宰相様かもしれないわよ﹂
39
﹁きゃー! あなた誘惑して身をもって確認してきてよ﹂
セクハラですよ⋮⋮、赤ん坊でもわかるんです、似たような話を
してましたから。
﹁シオルを自分好みの殿方に御育てするのも楽しそうよね?﹂
ミナリーさん、なにやら悪い笑みを浮かべていますよ。
二次元の世界だけにしてください! 逆源氏物語計画じゃないで
すか、しかも、ターゲットが自分なのは嫌だ∼!
﹁ハイハイ! シオル様理想の殿方化計画ここに参加を表明します
!﹂
リズさん参加表明しなくていい! 断じてしないでください! お願いします!
﹁そうこなくちゃ!﹂
自分の将来がものすごーく不安です。
不穏な企てを続ける侍女たちは、せっせと私に服を着せるとミナ
リーが首をかしげる。
﹁んー、似合うっちゃ∼、似合うんだけど、あたしの好みじゃない
のよね∼﹂
﹁まぁ、好みの違いはあるけど、もう時間がないしリーゼ様来ちゃ
40
うわよ?﹂
レーシャさんが呆れたようにミナリーさんに返事をすると、首元
がやぼったいドレスシャツを整えてくれる。
昔はレースとかウエディングドレスとか憧れましたよ。結局死ぬ
まで縁はなかったけど⋮⋮。
﹁ミナリー? シオル様の準備は終わったの?﹂
﹁リーゼ様! もっ、もちろん済んでます。﹂
どうやら準備に時間がかかっていた私をリステリアさんを伴って
迎えに来てくれたようだ。
﹁シオルおいで、父様が首を長くしてあなたを待っているわよ﹂
﹁あう﹂
リステリアさんに腕を伸ばすと、暖かい腕が直ぐに抱き上げてく
れる。あぁ、リステリアさんは私のお母さんなんだなぁとあらため
て嬉しく思える。
転生したばかりの数日間は混乱と悲壮感で前世の母の事や家族の
事ばかり考えていたけど、毎日世話をしてもらっているうちにすっ
かり違和感は薄れている。
﹁シオルは今日も可愛いわね﹂
両脇の下を手で支えるとリステリアさんは私を顔の前まで持ち上
41
げ、頬にチューをくれた。
今日のリステリアさんは、青色の身体を締め付けないデザインの
ドレスを纏い、頭にはキラキラと輝きを放つ素敵なティアラが飾ら
れている。
幼い頃に憧れたドレス姿は儚さと王妃としての気品が溢れている
ようだった。
﹁あーう、きゃー!︵リステリアさん⋮⋮お母様もね!︶﹂
﹁本当に、シオル様はアルトバール様のお小さい頃とそっくりです
わ、そのお洋服もよくお似合いです﹂
そんなにアルトバールさん、アルトバール父様と似ているのでし
ょうか、なら外見的には大丈夫かなぁ。
私とリステリアお母様の様子を微笑ましいと目で語りながらリー
ゼさんが呟くので、私はリーゼさんに腕を伸ばした。
﹁ふふふ、リーゼ。 シオルがリーゼを呼んでいるわよ?﹂
﹁まぁ、シオル様、どうかなさいましたか?﹂
リステリアお母様からリーゼの腕に抱き代えられると、私はリー
ゼさんの顔を見上げて笑顔で両手を伸ばした。
﹁あーう∼﹂
﹁あらあらシオル様、今後もリーゼと仲良くしてくださいますか?﹂
42
﹁あう︵こちらこそ︶﹂
﹁さぁ、そろそろ行きますよ? アルが痺れを切らして迎えにくる
まえに﹂
ミナリーたちの見送りを受けて、私たちはアルトバール父様が待
っている大広間へ出発した。
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ぷち女の争い?
大広間へと続く廊下には色とりどりの花が飾られてとっても鮮や
かです。
廊下の壁には一定の距離をおいて同じ模様が刺繍されたタペスト
リーが掛けられてます。
もしかしてこの太陽っぽいような物を蔦っぽい物が囲んでいるの
がこの国の国旗のような物かな?
金細工の施された螺旋階段を降ると、二階廊下の倍くらいありそ
うな大理石を敷き詰めた廊下に出た。
廊下の向こう側にひときわ大きくて白地に金の豪華な装飾が施さ
れた扉が見える。
遠目から見ても大人二人分くらいの高さがあるんじゃないかな。
大広間の入口が近づくと廊下に集まった人々がリステリアお母様
の姿を見つけて、廊下の端に移動するように道を開けてくれる。
﹁王妃陛下がいらしたぞ﹂
﹁相変わらずお美しい﹂
派手な身形の男性客何人かはリステリアお母様の姿に賛美を贈っ
ていて、前を歩くリステリアお母様は凛としてとても綺麗だなぁ、
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今回の人生若干マザコン気味になりそうです。
リーゼさんの腕に抱かれながらそんなことを思っていたら賛美に
混じって耳に飛び込んできた単語に愕然とした。
﹁あのお子は王妃が他の男と作った子供とか?﹂
﹁陛下は他で産ませた子供を王妃陛下に御子と偽らせているようで
すわ﹂
聞き捨てならなかった。むしろ聞き間違いかと耳を疑う、お母様
の子供じゃない? どう言う事なの?
囁くような小さな噂の声の主は、五人の女性ばかりが集まったグ
ループ。
豊かな金髪を結い上げた目付きのキツイ女性が、廊下の中央を進
むリステリアお母様を睨み付るようにして取り巻きと共にこちらを
見ている。
うわっ、女の争い! 巻き込まれたく無いけど何なの!?
不意に私を抱いていたリーゼさんの腕に力がこもる、まるで何か
に耐える様に目を瞑ると顔を上げ金髪の女性へと睨み付ける。
ギュウギュウと締め付けるリーゼの腕をぱしぱ
﹁あぅ!︵リーゼさん落ち着いて!︶﹂
くっ、苦しい!
しと叩くと、リーゼさんはハッとして私の顔を見る。
45
﹁あーう︵リーゼさんどぅどぅ︶﹂
﹁リーゼ、ありがとう。 大丈夫ですよ、私は気にしていませんか
ら﹂
どうやら聞こえていたのは私だけではなかったようです。
リステリアお母様は足を停めることもなく前を向いたまま穏やか
にリーゼさんに聞こえる様に呟くと、少しだけ視線を声の主に走ら
せると、ふわりと笑って見せる。
微笑まれるとは思っていなかったのか金髪で化粧の濃い集団の数
人が気まずそうに目を逸らすなかで一人だけうすら寒い笑いを浮か
べる女が、あの集団のボスなんだろうか。
睨み合っている訳ではないけれど、張り付いた笑みが怖い! 逆
に怖い! まだに普通に睨み合っているほうが怖くないんだと人生
二十八年で初めて気がつきましたよ。
背中が寒くなる微笑み合いを先に切り上げたのはリステリアお母
様だった。
何事も無かったかのように優雅に扉をくぐると、玉座と思われる
一段高くなった所からアルトバール父様がシリウス伯父様の制止を
振り切って飛び降りた。
﹁もう、アルったら﹂
﹁アルトバール様⋮⋮﹂
46
困ったように苦笑するリステリアお母様と、私を抱いていない手
を両目に当てて首を振るリーゼさん。
﹁リステリア! シオル! 待ちくたびれたぞー﹂
いや、お客さんが呆気に取られてますよアルトバール父様⋮⋮。
﹁へーいーかー、何もわざわざ陛下自ら迎えに入口まで走らなくて
も宜しいんですよ!?﹂
リステリアお母様の前に方膝を付き手の甲に口付けながら見上げ
るアルトバール父様に後から追いかけてきたシリウス伯父様が握り
締めた手をプルプルと震わせている。
玉座の前には挨拶に来ていたであろう恰幅の良い貴族なのだろう
中年男性客は口上途中で急に立ち上がり脱兎のごとく飛び出してい
ったアルトバール父様に付いていけずあたりを落ち着きなく見渡し
ている。
﹁大丈夫! 優秀な宰相がなんとかしてくれるではないか!﹂
﹁丸投げしないでください! 陛下は大人しくあの椅子に座ってて
下さい! リステリア様とシオル様はきちんと席にいらして頂ける
ように三日前から手筈を整えておりましたのに、陛下の単独行動で
全て水の泡ですよ﹂
﹁あー、なんのことだろうなぁ。 さぁ、リステリア! シオル!
そなたたちの席はこちらだぞ﹂
シリウス伯父様の小言にきちんと両耳を手で塞ぎ遮断していたア
47
ルトバール父様は、タイミングを見計らいリステリアお母様の手を
取り立ち上がるとそそくさと王妃席に案内を始めた。
﹁はぁ、私レイナス王国の宰相を辞任しても良いですか?﹂
諦めたように呟くシリウス伯父様に両手を伸ばす。
﹁あー︵そんなこと言わないで︶﹂
シリウス伯父様が手を伸ばしてリーゼさんから私を受けとってく
れたので、慰めるようにペシペシと叩く。
﹁宰相閣下が辞めてしまわれたらこの国は一日持ちませんよ﹂
リーゼさんの苦笑いにシリウス伯父様は大きな大きなため息を付
いた。
48
双太陽神教の大司教
﹁本日は王太子殿下の御誕生、心より御祝い申し上げます﹂
﹁ありがとう。 神々に感謝を、そしてこれまで支えて頂いたすべ
ての国民にも感謝しております﹂
リステリアお母様と私が席に着くや否やそれまで遠巻きにしてい
た貴族っぽい集団が一斉に詰め掛けてきました。
口々に祝いの言葉を述べる参列者に笑顔で礼を述べつつ、リステ
リアお母様はそのそれぞれに一言二言相手の情報を交えた世間話程
度の返答を返している姿に驚きと尊敬を覚えましたよ。
詰め掛ける人数分の情報があらかじめ解っていないとあれは出来
ないでしょう、娘さんについてや相手の統治している土地で起きた
災害等、内容の豊富さに前世ではあまり人付き合いの苦手だった私
としてはただただ頭が上がりません。
そんな挨拶がしばらく続いた頃、大広間に見慣れない服装の一団
が入場してきました。
﹁双太陽神教大司教ロブルバーグ様御到着!﹂
んん?なんじゃそりゃ。 産まれてこの方疑問、難問、難題のオ
ンパレード。
一団は白く長い髭を蓄えた老人を先頭に、みんな黒色のローブを
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着ていて長いの裾を引きずりながら大広間の中央部まで進むと、老
人以外の付き人っぽい人達床にが片膝を付いて謙った。
﹁ようこそ遠いところ我が国へ御足労頂き光栄ですロブルバーグ大
司教様﹂
アルトバール父様が玉座を降りて一人だけ立っている老人に労い
の声をかける。 大司教って多分役職名だったかなぁ。
﹁この度はお世継ぎの誕生を心より御祝い申し上げます﹂
歳を感じさせない凛とした声が大広間に響く。 うん、良い声だ
ねぇ。 老人ことロブルバーグ大司教様は両腕を幅広の長袖の中に
も入れたまま腕を組んで頭を垂れた。
﹁本日は長旅で御疲れでしょう。 すこしばかりでは有りますが歓
迎の宴をご用意しておりますのでゆっくりと御過ごしください﹂
双太陽神教の面々に前もって用意していた部屋へ案内しようと歩
き出したアルトバール父様に続く事なくその場から動かない教団に、
大広間の参加者がざわめく。
﹁どうなされましたロブルバーグ大司教様﹂
頭を下げたまま動かないロブルバーグ大司教様を心配したアルト
バール父様が問い掛けると、ゆっくりと身体を起こした。
﹁御気遣いありがとうございます、ですが我らは直ぐにドラグーン
王国へ参らねばなりませんので⋮⋮﹂
50
﹁それはそれは⋮⋮随分お急ぎのようですね﹂
﹁こちらの都合となり申し訳ありませぬ、これから御子殿の生誕の
儀式を執り行わせて頂きたい﹂
急な申し出に広間中が騒然となってしまった。
何か通常と違う事態が起こっているようだけど、情報が不足し過
ぎていて私にはさっぱり分からない。
﹁そっ、それはまた随分とお急ぎのようですね、普通は生誕の儀式
は日をみて吉日に分けて行う筈では⋮⋮?﹂
アルトバール父様が笑顔を張り付かせたまま、大司教様に問いか
ける。 見上げればリステリアお母様もあまりの展開に顔を曇らせ
ていた。
シオル様をなんだと思っているんだと、小さく呻きながら、拳に
力を入れて蒼白になっているリーゼさんを見る限りよほど事なのだ
ろう。
﹁我らは此れよりドラフト国王の葬儀に向かわねばなりません﹂
ドラフト国王、確かレイナス王国に隣接している軍事大国のドラ
グーン王国の国王陛下がそんな名前だった気がする。
前に警護の近衛騎士が話しているのを聞いていたので覚えてまし
た。
誰かが何かを話しているときには、なるべく聞き漏らさない様に
51
集中してるので結構疲れるんですよね。
相手もまさか赤ん坊が聞き耳を立てているなんて思わないでしょ
うし。
ロブルバーグ大司教様の発した言葉の意味を正確に理解した者は
果たして何人この国に居たのだろう。
既に覇権争いから離脱した上に特産品も無いため放置されてきた
らしい領土がレイナス王国だったけど、大国の王が一人死ねば世界
の均衡が瓦解する。
﹁それは⋮⋮分かりました。 一刻ほど御待ちいただきたい、宜し
いでしょうか?﹂
﹁重ね重ね宜しくお願いいたします﹂
アルトバール父様とロブルバーグ大司教様との話し合いに先んじ
てリーゼさんは側に控えていたレーシャさんに私を預け、ミナリー
とリズさんを連れて駆け出して行った。
﹁お集まりの皆さま、此れより一刻後、急では有りますが我が息子
の生誕の儀式をとり行います﹂
うわー、どよめいてます。 アルトバール父様が宣言すると大広
間で来客の対応をしていた侍女を数人残して、蜘蛛の子を散らすよ
うに皆居なくなってしまった。
﹁ロブルバーグ大司教様、皆さま。 しばし御時間を頂きますあい
だ、少しでは有りますがお食事をいかがでしょうか?﹂
52
ゆっくりとアルトバール父様の隣に寄り添うように移動したリス
テリアお母様が、前もって用意していたテーブルへとロブルバーグ
大司教様を案内していく。
﹁王妃陛下、この度はこのような形になってしまい申し訳ありませ
ぬ﹂
﹁いいえ、大司教様はとてもお忙しい中でシオルの為に遠い我が国
まで足を運んで頂けただけで感謝しきれません﹂
リステリアお母様が一団を案内して来たのは、私がいる場所に近
い上座のテーブルだった。
誰も座る者がいないテーブルはどうやら神教関係者の為に用意さ
れていたらしい。
﹁この度の主役はどちらですかな?﹂
リステリアお母様自らグラスにワインを注ぎ、接待しているとロ
ブルバーグ大司教様が尋ねる。
他の一団にも数名の世話係が付き、準備されていたワインを振る
舞っているようだった。
﹁レーシャ、シオルを此方に連れてきて?﹂
呼ばれましたよ。レーシャさんは緊張しているのかぎこちない動
きでゆっくりと移動すると私を連れてリステリアお母様の所へと運
んでくれた。
53
﹁大司教様、この子がシオル・レイナスです﹂
レーシャさんから私を抱き取ると、ロブルバーグ大司教様に見易
い位置まで腰を降ろした。
﹁どれどれ⋮⋮﹂
リステリアお母様から私を受け取ると、ロブルバーグ大司教様は
じっと私の顔を確認しているようだった。
とりあえず笑顔で挨拶しておきましょう。 通じるかは分からな
いけど⋮⋮。
﹁あう︵初めまして︶﹂
﹁うむ、私はロブルバーグと言う。 御子殿﹂
﹁あーう︵今日は宜しくお願いいたします︶﹂
﹁これは⋮⋮、王妃陛下﹂
私を抱いたままリステリアお母様に向き直ると、声量を絞りリス
テリアお母様のみに聞こえるよう話し出した。とは言っても頭上で
交わされる会話はばっちり聞こえてますけどね。
﹁御子息は随分と双太陽神の加護を受けて生を受けたらしい。 ま
だ赤子にも関わらず既に知性の色が見えている、この才を伸ばし、
育まれるが宜しいでしょう。 それがこの国を導いて行くはずです﹂
54
私をリステリアお母様に返しながらロブルバーグ大司教様はそう
言うともう一度私の瞳を覗き込んできた。
﹁あぶっ! ︵そんなに見詰められても困ります!︶﹂
﹁おっと、これは失礼した﹂
このじいさんまじであぶっ! で通じてるんじゃなかろうか!?
﹁大司教様はシオル言っていることが解って居られるようで御座い
ますね﹂
﹁教会に毎日沢山の赤子が双太陽神の加護を求めてやって参ります
からなぁ﹂
くすくすと笑うリステリアお母様に冗談半分に返しながら、今こ
の時を楽しんでいるようだった。
それから暫く食事を楽しみながら、ロブルバーグ大司教様は玩具
でも見つけたように私に色々と教えてくれた。
神話や王様が亡くなったドラグーン王国について、そしてこれま
で自分が戴冠式を請け負った近隣の王についてなど。
﹁生誕の儀式は本来ならば、吉日をみて分けて行うのが一般的なの
じゃが、すまんのう。﹂
﹁あぶっ? ︵安くしてね?︶﹂
﹁何をじゃ? 寄付をか?﹂
55
﹁あう︵もちろん︶﹂
﹁ふはは、解った解った。赤子のくせにちゃっかりしておるの﹂
ロブルバーグ大司教様の膝の上に戻った私と、なんでか言いたい
ことが解るらしいので話をしてみたのだけど、赤ん坊相手に独り言
を言っているようにしか見えない他の人達が好奇な目を向けてきて
いる。
一緒に来た一団はロブルバーグ大司教様の様子に、慣れているの
か食事を満喫しているようだった。
﹁あの、シオルはなんと?﹂
リステリアお母様はやはりロブルバーグ大司教様に通訳を頼んで
きたが、大司教様の内緒じゃの一言で悶えていた。
まぁ、赤ん坊に寄付金を値切られたなど信じる者も居ないだろう
けどね。
リステリアお母様は目をそらさずにじっとロブルバーグ大司教様
の話を聞いている私の様子を観察しているようだった。
﹁長らく御待たせしてしまい申し訳ありませぬ﹂
暫くそんなやり取りをしていた時、アルトバール父様が私たちを
迎えにやって来た。
﹁教会の準備が整いましたのでご案内致します﹂
56
﹁急がせてしまいました、申し訳ありませぬ。 しかしアルトバー
ル国王陛下、貴殿は素晴らしき御子息に恵まれたようだ。大事にな
され、では行きますかなシオル王子殿下﹂
﹁あーう︵はーい︶﹂
膝の上の私を抱き上げて一緒に移動を始めた二人を、ほほえみな
がら見上げるリステリアお母様と、状況が呑み込めないアルトバー
ル父様の困った顔を見比べていたずらに成功した時のような気分で
大聖堂への移動を開始した。
57
生誕の儀式
双太陽神教の大聖堂は王都の城下町に作られており、公式な式典
等で王族が利用する場合以外は平常時であれば一般の国民に開放し
ているそうだ。
王族の生誕の儀式と戴冠式、葬儀を執り行う事ができるとされて
いる大司教以上の階級者がやって来る為、大聖堂は一月前から念入
りに掃除や修繕が施される。
神教の建物は、その国のバロメーターと化していた。王族の戴冠
式や葬儀は他国からの参列者もあるため、特に式典に使われる大聖
堂は準備に余念がなかったりする。
長年の雨風にさらされて変色した外壁は塗り替えられて、白く輝
いていてとっても綺麗だ。
豊かな国は国中に点在する小さな教会まできちんと修繕されるが、
経済的に厳しい国ではそうもいかない。
いくら王都の大聖堂を飾っても、国の経済力は国境付近の教会を
見れば明らかだったりするらしい。
﹁あーうー︵うわー綺麗︶﹂
通路の天窓には鮮やかな色ガラスのステンドグラスが嵌め込まれ、
陽の光で通路に神話を象った絵柄が映し出されている。
58
大聖堂を預かる司祭を先頭に、道の両端を神父さんと修道女の皆
様が控えている。
その中央部を大司教様に抱かれたまま精緻なステンドグラスの天
井を見上げる事になった。
どうやら本来であればこうして大司教様が、祝福する相手を自ら
案内や運搬はしないらしい。
かといってロブルバーグ大司教様が特別にしているサービスと言
うわけでもないようで、ロブルバーグ大司教様のこの行動に一緒に
国入りしてきた司祭や助祭の面々はとても驚いていた。
ちなみに教皇、大司教、司教、司祭、助祭、神父の順に階級が別
れているらしい。
﹁うむ、良く手入れされておる、良い大聖堂じゃな﹂
﹁あーあ、うぅ︵綺麗だけど、高そうだね︶﹂
﹁ステンドグラスかの?あの大きさの物なら輸入するのに金貨五十
枚はかかるからの﹂
ご、五十枚!?確かこの世界は銅貨が百枚で銀貨、銀貨が百枚で
金貨、金貨が百枚で白金貨。
日本円感覚で銅貨が一枚百円、銀貨が一万円で、金貨が百万円、
って事はあのステンドグラスは五千万!?
﹁あぶっ! ︵高過ぎないそれ!︶﹂
59
﹁ステンドグラスを創る技術者や補修する技術は神教が秘匿にして
おるからの﹂
技術の独占は巨額のお金を産むのは彼方でもこの世界でも変わら
ないみたいだ。でも、ステンドグラスに五千万円って⋮⋮。
﹁ちなみにスノヒスでのみ生産されておるからの、大きさにもよる
が輸送費も入れると巨額じゃ﹂
巨額って、まぁ車も飛行機も、ましてや魔法なんて便利なものも
ないこの世界、舗装されていない大地を越えて割れやすいステンド
グラスを運ぶのは神経を使うだろう。
治安も言いとは言いがたい難易度の高い輸送⋮⋮、一体いくらか
かることか⋮⋮、こんな贅沢品が国中にあると思うと頭痛がする。
﹁あぶ、あーうー︵国中にあると思うと、胃が痛いんですけど︶﹂
﹁赤子が何を言っておるやら、こんな高価なものがあるのは大聖堂
位なもんじゃ、一般の教会に管理できるような品物ではないわい。
まぁ、スノヒスは例外じゃがな﹂
スノヒス国恐るべし、産出国の強味と言うべきか。
﹁さぁ、着いたぞ。 式を執り行うとするかの、儂としてはこんな
赤子は会ったことがないからのんびりしていきたいところだが、そ
う言うわけにもいかんでな﹂
苦笑いを浮かべながらもロブルバーグ大司教様は私を部屋の中央
60
部に置かれたベビーベッドへと下ろした。
﹁レイナス国王アルトバール・レイナス﹂
﹁はい﹂
ロブルバーグ大司教様が同行してきた司祭から受け取った緋色の
ローブを身に付けると、後ろから同行していたアルトバール父様を
部屋の中央部に呼び寄せた。
﹁レイナス王妃リステリア・レイナス﹂
﹁はい﹂
両親二人を呼び寄せると、ロブルバーグ大司教様は私を改めて抱
き上げて二人に手渡した。
﹁ここにある赤子は汝らの王子に間違いないか?﹂
﹁﹁はい﹂﹂
二人揃ってロブルバーグ大司教様の問いに答える。
﹁汝らは王子を慈しみ、愛し、伴に守り抜くことをここに誓うか?﹂
﹁はい﹂
﹁誓います﹂
いくつかの質問を繰り返したあと、ロブルバーグ大司教様は後ろ
に控えた司教からワインの注がれた銀のカップと、すりおろした林
61
檎を二人の前に持ってきた。
﹁この王子が将来食べ物に困ることがなく健やかに過ごせるように
夫婦で清めのワインを分け合って飲み干し、その後王子に初めての
大地の恵みを与えたまえ﹂
﹁わが息子シオル・レイナスに王子神の幸多からんことを﹂
ロブルバーグ大司教様がそう言った後、王子神に祈りを捧げてア
ルトバール父様が盃を半分ほど飲み干すと、リステリアお母様に手
渡した。
﹁愛息に姫神の幸多からんことを﹂
リステリアお母様が姫神に祈りを捧げて残っていたワインを飲み
干した。
﹁ではシオル王子殿下にこちらを﹂
双太陽神教の紋章が刻まれた銀のスプーンをアルトバール父様に
手渡すと少しだけ林檎をすくい取り私の顔の前に持ってきた。
えっ! まじで食べていいの!? ミルクオンリーの生活で飽き
飽きしてたのよ!
目の前に差し出されたスプーンを自分から食べにいった。 瑞々
しい甘味と少しの酸味が口の中一杯に広がる。
﹁あーうー︵しあわせー︶﹂
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見上げるとリステリアお母様とアルトバール父様が呆気に取られ
ている。 ん? なんかまずいことしたか私。
﹁ははは! 普通は食べる真似事だけなんじゃがよほど林檎が口に
合ったと見える﹂
笑いだしたロブルバーグ大司教様の様子に他の参列者が将来大物
になるとか、赤子でも流石は王族ですなぁ、なんて言っているのが
聞こえてくる。
﹁あぶ? ︵もう終わり?︶﹂
﹁アルトバール国王陛下、王子殿下が欲しがっているようですぞ﹂
不満そうな私にロブルバーグ大司教様は面白がる様にアルトバー
ル父様に二口目を促してくれた。
﹁シオル? もっと食べるのかい?﹂
﹁あーい! ︵もちろん!︶﹂
アルトバール父様とリステリアお母様が顔を合わせると、ゆっく
りと林檎を掬って口に運んでくれた。
はぁ、しあわせー。 林檎だけど満たされるー。
﹁さぁ、これにてシオル・レイナス第一王子殿下の生誕の儀式を閉
式とする﹂
ロブルバーグ大司教様の宣言とともに響き渡った鐘の音に私の生
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誕の儀式が終了した。
後日、まだ固形物を消化できるほど成長してはいなかった様で盛
大にお腹を下すはめになりました。
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男装麗人な叔母
生誕の儀式と言う名前の大規模なお誕生日会とお食い初めのあと、
ロブルバーグ大司教様は宣言通り直ぐに出立されました。
後を追うようにアルトバール父様も、ドラグーン王国に出発する
ことになったのですが、一人で行きたくないとさんざん駄々を捏ね
ました。
本来なら婚礼と同様に隣国であれば夫婦で参列するのがマナーら
しいのですが、リステリアお母様は産後間もなく、私が他の乳母さ
んのミルクを断固拒否したため、夫婦での参列は難しいだろうと言
うことに、まぁ妥当よね。
しかしあの父様は今度は私も連れて行くと言い初めた、なに考え
てるんだか。
片道一ヶ月近くの道中は乳飲み子には無理でしょう、リーゼさん
とシリウス伯父様にもう反対をくらった結果、リステリアお母様の
名代として、私の叔母に当たるアルトバール父様の妹姫が同行する
ことになりました。
今年十五歳になると言うミリアーナ叔母様はふわふわに波打つ赤
毛に蜂蜜色の瞳をした少女です。
どうやら父様と一緒に幼い頃から剣を振り回すお転婆さんだった
ようで、今ではすっかりドレスよりも軍服を好む男装麗人と化して
いますよ。
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﹁ミリアーナ様!嫁入り前の乙女が木登りなど危のう御座います!﹂
﹁大丈夫!こんなの危ないうちに入らないから!﹂
剣術、馬術、弓術等なんでもこなすミリアーナ叔母様が、一番才
能を見せたのが戦を模した卓上ゲームです。
アルトバール父様につられて始めたミリアーナ叔母様の実力は今
では頭脳派であるシリウス伯父様を凌ぐらしいっす。
自分より強い男としか結婚はしないと豪語するミリアーナ叔母様
の嫁ぎ先に頭を抱えるアルトバール父様はしらないけど、リーゼさ
んいわくレイナス王国の小さな台風は水面下で国内の貴族令息の間
で熾烈な花嫁争奪戦を引き起こしていたりするようです。
そんなミリアーナ叔母様が急遽同行することになった理由が、ド
ラグーン王国から出立直前に届いた親書だったようですね。
難しい所を省くと、ドラグーン王国が求めてきた内容は、アルト
バール父様の先の国王陛下の葬儀への参列と、新王ゼガリアス陛下
の戴冠式への出席。
そして新しく王太子となるゼガリアスの子息の花嫁候補を連れて
くる様にとの内容だったみたいです。
レイナス王国は覇権争いにすら引っ掛からない小国。
ドラグーン王国の花嫁候補にひっかかるとは思えないですけど、
要請を断ることが出来ない以上、誰かを連れて行かなければなりま
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せん。
そんな中白羽の矢が立ったのがミリアーナ叔母様でした。
と言うよりもミリアーナ叔母様以外連れていける王女が居ないの
で、とうのミリアーナ叔母様は優れた名馬を数多く産出しているド
ラグーン王国に、愛馬︵雌︶の伴侶を探しに同行をすると思ってい
るみたい。
ロブルバーグ大司教様が、ドラグーン王国で先の国王葬儀と、王
太子殿下の戴冠式及び、立太子式を執り行うことを事前に知らせて
いてくれたので準備万端です。
ミリアーナ叔母様の予期せぬ集団見合いへの参加が決まり大幅な
日程の修正が行われ、ミリアーナ叔母様の新しいドレス︵本人は要
らないと言い張りました︶が出来上がり次第出立して行きました。
いってらっしゃーい。 父様一行をお母様と伴に見送った私は言
うと、林檎の食べ過ぎで壊したお腹も落ち着き、ひと安心。
まだミルク以外は早かったかぁ、前世の赤ん坊って何ヵ月から離
乳食始まるんだっけ? オムツ交換は自分でトイレに行けるように
なるまではしかたないので諦めよう。
赤ん坊の義務と戦いながら、最近ではすっかり座った首を使って、
新たな第一歩を踏み出すべく現在悪戦苦闘を繰り広げています。
﹁シオル様! 頑張って!﹂
﹁あと少しあと少し!﹂
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﹁おしい! あと一押しなんだけどなぁ﹂
寝返りと言う名前の壁に阻まれ起き上がれません。 むむむ、寝
返りって意外と高度な技なのかもしれないわ。
嘗めてたわ、実際。
﹁あーうー! ︵ヨッコラショ!︶﹂
年寄り臭いとかいいっこなしですよ、本人自立への第一歩なんで
すから。
﹁あっ! いけるんじゃないこれ?﹂
ミナリー煩い! 気が散るから黙ってて!
﹁横になるまでは良いんだけどねぇ﹂
そうなのよ、リズさん!
﹁うー! ︵そりゃ!︶﹂
身体の下に入り込んだ腕を根性で引き抜くと、バランスを崩した
身体が前に倒れこんだ。
﹁やったー! 早くリステリア様に御知らせしなくては!﹂
﹁シオル様お上手です。﹂
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リズさんとレーシャさんがぱちぱちと手を叩き褒めてくれ、ミナ
リーが部屋を飛び出して行った。
現在お母様は父様の代行として御客さんの対応を行っているみた
い。
この世界の王妃陛下は王の代行が勤まる人物でなくちゃ駄目みた
い。
うーん、女性の社会進出はどこでも一緒なんだね。
さぁ、本題はここからだ。 目標は1メトル︵前世の1メートル
位︶先の熊をかたどったヌイグルミ! いざ!
﹁あーぅ! ︵ヨイショ!︶あーぶっ! ︵コラショッ!︶﹂
くっ! 進まない! やはり簡単にはいかないか、腕力が足りな
い。 脚力が足りない。
うーん、蹴った拍子に顔をカーペットに擦り付けしまう。 うー
ん、今後の課題だなぁ。
顔面が磨り減るのと、自力で這えるようになるのどっちが早いか
なぁ。
﹁シオル様! まぁまぁお上手ですこと、リステリア様にもお喜び
になりますよ。 今は公務で来れませんから後で見せてあげて下さ
いね﹂
﹁あい! ︵はい!︶﹂
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お母様喜んでくれるだろうか。
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至福の離乳食
寝返りとは日々の鍛練の積み重ねです。 地道、ただひたすら反
復練習。
反復練習ってやっぱり大事なんですね、成功率3割まで上がりま
したよ。
まさか転生して反復練習の大切さを痛感させられるとは。
﹁シオル! 直ぐにこれなくてごめんなさいね﹂
床に転がっていた私の元に、公務の合間をぬってお母様が帰って
きました。
私のミルクの時間と言うこともあり、休憩をとってきたお母様は
私を抱き上げると左右の頬にキスを落としてくれるのですが、欧米
的なスキンシップの苦手な元日本人の私としては、すっっっごく恥
ずかしい!
﹁あーうー! ︵お帰りなさいお母様!︶﹂
初めこそお母様、父様と呼ぶのにかなり抵抗が有ったものの、両
親ともにこれでもかと言うほどに溺愛してくれるものなので、今で
はすっかり違和感無く呼ぶことが出来るようになりました。
と言っても、発音出来ないので全て﹁あーうー﹂や﹁あぶっ
﹂だったりするのだけど、気持ちは大事と言うことで良しとしよう、
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うん。
﹁お腹空いたでしょう? 今ミルクあげるわね﹂
﹁あーい︵はーい︶﹂
返事だけは発音近くなってきたよね。多分⋮⋮。
母乳にもだいぶ慣れました。 母乳って子供の成長によってなの
か味が変わるんですね、産まれた直後に飲んだいわゆる初乳は味と
甘味の濃い物だったけど、量をこなす最近ではさらさらとした甘さ
控えめのミルクに変わって来てます。
運動量も増えた影響か腹持ちが悪くて困るんだよね本当に。
﹁リステリア様? シオル様ですが寝返りも自分でされるようにな
ってきましたし、少しずつ離乳の準備を初めても良いかも知れませ
んね﹂
なに、本当ですか!? 生誕の儀式でお食い初めもどきの林檎以
来のミルク脱出!?
﹁そうなの? どうするシオル?﹂ ﹁きゃー! あう! あう!︵きゃー! 早く! 早く!︶﹂
我ながら飢えてます。呆れるほどにミルク以外のものが食べたい
! 和食とか洋食とか我が儘言いません。
﹁あらあら、シオル様ご機嫌ですねぇ﹂
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機嫌が良くない訳がないでしょう。
﹁赤子の離乳は本来どのくらいまで育ってからするものなのかしら
? また生誕の儀式のときの様にお腹を壊したりしないかしら﹂
そんな私の様子を見ながら、お母様はリーゼさんに向き直ると少
し不安げに問いかけた。
不安にもなりますよね、調子に乗って林檎を食べ過ぎた私が悪か
ったんです、すいませんでした。
謝りますからお母様! ご飯ください! まてまて、落ち着けわ
たし。 ごはん以前に米はこの世界にあるんだろうか。
﹁寝返りも自分でされるようになりましたし、経験談をさせていた
だけるので有れば少量ずつであれば大丈夫だと思います。 実が残
るものが心配でしたら、具の無いスープで様子を見てみてはいかが
でしょう﹂
まぁ妥当ですね、林檎の二の舞は避けたいですし。
﹁そうね、それでいきましょう﹂
やった!御許しが出た。転生してから二度目の食事、ここで食い
意地を張ってお腹を壊したりしたら本末転倒になってしまう。
お腹さえ壊さなければ、きっと毎日少しずつでも食べられるはず。
久しぶりの食事はお母様の仕事が終わってからお母様の食事と
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一緒に部屋へと運ばれてきました。
温かく湯気が上がるスープは琥珀色に透き通り、美味しそうな匂
いが鼻孔を擽りますね。
﹁いーぅーきゃ! ︵いただきます!︶﹂
短い手を合わせてもはや前世からの習慣になっている食材への感
謝の言葉。
食べ物のありがたみが身に染みます。前世で残してご免なさい。
﹁ふふふ、シオルはせっかちさんね。 はい、あーん﹂
お母様は小さなスプーン、多分ティーセットで使う物にスープを
掬い息を吹き掛けて冷ますと、恐る恐る口に運んでくれました。
﹁うきゃー! ︵美味しい!︶﹂
口に広がる野菜や食材の甘さと香りが口一杯に広がり、味付けの
塩味が絶妙、このスープを作った人にぜひ御礼を言いたい。
コンソメスープを作る手間と難しさを知っているだけに、こんな
に澄んだスープを作る大変さを思うと感謝しきれません。
欲を言えばお米が欲しい。切実に! お粥に白飯、おにぎり⋮⋮。
﹁シオル? 美味しい?﹂
ええもちろん! 贅沢は言いませんよ。 心配そうに覗き込んだ
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お母様の顔を見上げて微笑むと、お母様がホッとしたように笑顔で
返してくれました。
﹁シオル様お気に召したようでございますね。 シオル様のお食事
は私が替わりますので、リステリア様もどうぞお召し上がりくださ
い﹂
子供様に造られたテーブル付の小さな椅子に座らされ、お母様の
替わりにリーゼさん向かい側にきます。
﹁本当に今日のスープ美味しいわね﹂
お母様のテーブルの上には私のと同じスープとパンが載った籠、
生野菜のサラダ。
メインに白身魚のソテーが準備されています。 美味しそう!
セレブの食事ってもっとこう、食べきれないような量の料理が並
ぶ豪勢なイメージが有ったけど、お母様のテーブルを見る限り違う
ようですね。
食べる姿も綺麗だなぁと感心しながらリーゼさんが運んでくれた
スープにかぶり付く。
﹁シオル様お上手ですねぇ、普通こぼしたりするもの何ですけど﹂
こぼすなんてもったいない!出来るだけ美味しいスープを長く楽
しむ為にも綺麗に食べますよ。
ミルクの吸い方は忘れても、スプーンは忘れてません。
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心行くまでコンソメスープを堪能した私はお腹を壊したりするこ
ともなく、離乳食を満喫しました。
御馳走様でした。
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寝返りを駆使して
毎日少しずつ鍛練をした結果、はれて一人で寝返り出来るように
なりました。
最近では百発百中の成功率よ! 頑張ったわたしー!
﹁シオル様本当に上手に寝返り出来るようになりましたしね﹂
でしょう? レーシャさん! 我ながら頑張りましたよ本当に。
離乳食が始まってから最初は日に一回だった。 スープに最近は
少しパンが溶かされる様になりました。
なんといっても穀物が入ると腹持ちが違うんですよね!
最近の日課は腕立て伏せです。 筋力が付かない限り一人で行動
できないからねー。
﹁ねぇレーシャ! 早馬が来たんだけど、明日陛下がお帰りになる
そうよ﹂
おぅ、父様が出張から帰ってくるんですね。 父様が駄々をこね
てからはや二月もうそんなになるんですねぇ。
父様に寝返りを見せたらビックリしてくれるかなぁ。
﹁なんでもお客様がいらっしゃるみたいよ﹂
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追加の情報を携えて扉に寄りかかりながらミナリーが得意気に胸
を反らせた。
そんなに反らせても無いですよ胸、最近会得したスキル寝返りを
駆使してミナリーの居る扉近くへと転がって移動です。
﹁ああい! もー! ︵ミナリー! もっと詳しく!︶﹂
足元まで転がってきた私を抱き上げるとミナリーは私を顔の前ま
で持ち上げて、めっ! としました。
二十八才児にめっ! とされてもねぇ⋮⋮、泣きませんよそれく
らいでは。
自分でも赤ちゃんらしく無いかなぁと思いますが無理です。 だ
って前世も含め空腹とオムツが汚れた以外で泣いたのは、遡っても
さち子時代、それも仕事でポカして流した悔し涙というなんとも色
気の無い物だもの。
﹁シオル様、赤ん坊の頃から淑女のスカートを覗くのは、立派な紳
士になれませんよ?﹂
ミナリーが淑女かどうかはさておき、覗きは確かに不味かったで
すね、すいません。 今度から転がる時は気を付けよう。
﹁シオル様には私好みの良い男に育って頂かなければ﹂
まだ諦めてなかったのね、逆光源氏計画。
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ミナリー好みの良い男ってどんな男だ! 説明してみぃ! 少な
くともセクハラ、パワハラおやじじゃないのだけは辛うじてわかる
けど、良い男に定義でもあるんかい!
﹁ミナリー、前から気になってたんだけど、ミナリーの好みに育っ
たら色々大変じゃない?﹂
ん?リズさんどう言うこと?
﹁ミナリーの好みって特殊じゃん? 嫌だよ私﹂
ミナリーは一体どんな風に私を育てようとしていたんだろう。
﹁リズ、人は見かけじゃ無いって﹂
﹁それはそうかも知れないけどね、この前城で一番肥った財務省の
官僚みてうっとりしてたの真面目に引いたわよ?﹂
うわー、まさかのミナリーデブ専ですかー。
﹁えー、だってあの太い腕とか、柔らかそうなお腹とか抱き締めら
れたら気持ち良さそうじゃない?﹂
﹁うー、あたしはいや。 レーシャは?﹂
うっとりと乙女の顔をしたミナリーの様子にリズさんは頭を振り
ながら額を手で押さえた。
﹁あの、どうせ同じ太い腕なら鍛えられた逞しい腕の中が良いです﹂
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レーシャさんは顔を真っ赤に染めて恥ずかしそうに自分の好みを
タイプを述べました。
﹁ぶー! ︵私も嫌だよミナリー!︶﹂ ﹁ほら! シオル様嫌だってさ﹂
なぬ?リズまでロブルバーグ大司教様と似たような能力開花した?
﹁なんでそんなこと解るのよ。 ぶー! だけで﹂
﹁勘よ、か・ん﹂
勘ですか。うん、そうだよね、ロブルバーグ大司教様が異質なん
だなやっぱり。
﹁シオル様せっかくお顔が整っていらっしゃるんですもの、わざわ
ざ丸くならなくて良いですわ﹂
﹁不敬では有りますが、肥え太った者が王族では民に示しがつきま
せんし﹂
そうだね、これまでの食事を見る限りお母様の食事は質素だもの。
話によるとミナリーと対して変わらない食事内容みたいだし。
王族ってテーブル一杯の御飯が出てくるイメージでしたわ。
﹁去年の大雪で山岳地では食糧難ですもの、あの一帯を治めている
領主はあのセクハラ豚ですし﹂
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﹁ミナリーの理想の男性じゃん﹂
﹁私の理想像は中身が伴った太め! あんな豚とはちがうのよ!﹂
うん、まぁ中身が大事なのは解るかな。 見た目極上で中身が悪
魔とかいるしね。
とにかくそのセクハラ豚さんはあまり良い領主では無いっぽいで
すし、そのへん探ってみましょうか。
ふふふ、なんか楽しくなってきた!
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父様帰国と大国の王太子
﹁陛下が城下に御付きになりました﹂
朝からおめかしとばかりに気合いの入った南瓜パンツを履かされ
ました。
襟元にボリュームのある白いブラウスに精緻な刺繍を施したジャ
ケットを羽織らされてげんなり。
本日の離乳食。 ニンジンとジャガイモのシチュー︵ガッツリペ
ースト︶をお母様と食べていると近衛騎士の青年が知らせに来てく
れたのでこれからみんなで城門までお出迎えです。
お客様も一緒との事なので、お母様もばっちり重装備、今日も大
変お綺麗です。
ミナリーに抱かれながら先を行くお母様の奥に見えた城門は見上
げるほど高く、堅牢な石造りの門を両開きの大きな木製の扉で開閉
できる様になっているようです。
あんなデカイ扉どうやって開閉してるんだろう。 ふふふ、自分
で動けるようになったら調べてみよう。
﹁シオル様楽しそうですね、あんまり暴れないでくださいね落ちま
すよ?﹂
ついつい落ち着きを無くしてしまっていたようですね。 すいま
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せん、ミナリー、怖い、怖いから本気で落とそうとしないでくださ
いな。
﹁アルトバール陛下と会えるのですもの嬉しいんですよねー?﹂
﹁あい﹂
リズさんが覗き込んでくれたので、手を伸ばして引っ越しを要求
させていただきます。 ミナリーは本当に落としかねないので自主
避難、戦略的撤退です。
日陰で暗いとんねるになった城門を潜ると、大きな広場の様にな
っていました。
広場には沢山の人が集まりそれを狙った商人達が露店を開いてい
て小さなお祭りの様になってます。
﹁シオル様、あの馬車にアルトバール陛下が乗っていらっしゃいま
すよ﹂
﹁あう? ︵どれ?︶﹂
確かに馬車が近付いてくるものの、五台全て同じ形の幌馬車です。
王族って幌馬車乗るの!? 王族と馬車のイメージはどうしても
前世の天皇家とかが使う装飾が施された箱馬車の印象が⋮⋮。
そうこうしてる間に目の前で停車した馬車からヒラリと地面に降
り立った赤い髪のごりマッチョをお母様が笑顔で出迎えるとそのま
ま父様に抱き締められてます。
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﹁あーう︵仲いいねぇ︶﹂
あまりラブシーンに免疫のない私としては正直目のやり場に困る。
スキンシップの稀薄な民族なんだよね、日本人。
うっ、なんか苦しい! リズさん!? 見上げると、食い入る勢
いで何処かを見詰めている。
﹁ちょっと! ミナリー! あれあれ!﹂
﹁何よリズ? 無駄口してるとリーゼさんに気付かれるっ!?﹂
頭の上で囁かれるふたりの視線の先に居たのは、ドラグーン王国
へ旅立ったはずのロブルバーグ大司教様。
そして続いて現れた人物に広場全体がどよめいた。
﹁あう! なう! ︵誰! あの美少年!︶﹂
銀色に輝くストレートは肩に届かない位に切り揃えられ、陽の光
をうけて煌めく。
文句なしの美少年! 眼の保養! 降り立った少年は乗ってきた
幌馬車に手を伸ばしました。
﹁きゃ∼! ミリアーナ様∼!﹂
﹁こっち向いて∼!﹂
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美少年の手をとって現れた麗人に広場から上がる黄色い歓声、大
半が女性なのは気のせいだろうか。
うん⋮⋮気のせい気のせい。
ミリアーナ叔母様は基本的にキリッっしています。
男性物、とくに軍服を好んで着用する叔母上は今日も通常営業。
自分よりも背の高いミリアーナをエスコートして地面に降ろすと、
銀髪美少年がおもむろにミリアーナの手の甲に口付けた。
﹁﹁﹁きゃー!﹂﹂﹂
先程の歓声の比じゃない、男装の姫君に忠誠を誓う美少年。
お伽噺の世界が目の前で繰り広げられたら騒然となるなるよね。 うん、その気持ち解る。 解るけど背中に走った悪寒は一体なん
なんでしょう。
﹁あの∼、陛下? お客様とお訊きしましたがどなたですか?﹂
﹁彼は、ドラグーン王国の王太子殿下だ⋮⋮。﹂
﹁﹁﹁え∼!﹂﹂﹂
予想以上の大物の登場に父様が窶れた理由が判った気がする。
初めは長旅からの疲れだと思っていたけど、心労から来る窶れだ
ったんですね。
上機嫌でミリアーナの手を引きながらドラグーンの王太子殿下が
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父様の側まで移動し、優雅に礼をするとそれだけでとても絵になり
ますね。
美形は何をやっても様になります!
﹁お初に御目に掛かります。 私はドラグーン王国でこの度王太子
になりました。 クラインセルト・ドラグーンと申します。 この
度は急な訪問となってしまいましたが宜しくお願い申し上げます﹂
﹁よっ、ようこそクラインセルト殿下。 レイナス王国で正妃リス
テリア・レイナスですわ。 ようこそレイナスへ。 田舎の小国で
はありますが歓迎いたします﹂
さすがお母様、持ち直して優雅に挨拶を交わすと、ミリアーナと
クラインセルト殿下を城内へ案内するべく城へと歩き出しました。
﹁うむ、クラインセルト殿下は立派な王になりそうだのぅ﹂
﹁ええ、とても聡明な方の様ですね。 賢く状況を把握して常に最
善の結果を求め策を練る﹂
﹁ミリアーナ様との仲も良好の様ですな。 おぅ、これはシオル様
生誕祭ではすまなかったのぅ﹂
クラインセルト殿下を見送った後、父様と合流したロブルバーグ
大司教様がやって来ると私に気付き声を掛けてきました。
﹁シオル! 今戻ったよ。 さぁ父の元においで﹂
リズさんは緊張しながらも私を父様へと渡してくれた。
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﹁あーい、あーあーう? ︵お帰りなさい、大丈夫?︶﹂
﹁シオル様はアルトバール陛下を心配している様ですよ?﹂
頬に両手を添えて聞くと、父様の後ろから通訳が入ります。
﹁シオル! ありがとう!﹂
感極まった様に力強く抱き締められたけどこれは不味い! ぐぇ、
苦しい! マジで堕ちる!
﹁アルトバール陛下、感動の再会なのは解るのだが、シオル様が堕
ち掛けてますぞ﹂
﹁はっ! すまん! シオル大丈夫か?﹂
﹁⋮⋮あーい⋮⋮。﹂
危なかった∼、ロブルバーグ様、ありがとう! 苦笑しないで下
さいな、今回の父様は熱血漢なんですよぬー、熱い男なんですこれ
が。
﹁しかしクラインセルト殿下はやはり本気なんでしょうか﹂
﹁うむ、見事な手腕で押しきられましたからな、しっかり逃げ道を
塞ぐ手腕はさすが大国ドラグーン王国の王太子と言うべきでしょう
な﹂
何処か疲れたような遠い目をしないで下さいな、何があったドラ
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グーン王国訪問。
本来ならば教会本拠地へとドラグーン王国から真っ直ぐ帰国する
筈のロブルバーグ大司教様がまたレイナス王国へ来ている時点で何
があったと見るべきでしょう!
﹁シオル⋮⋮可愛く育ってくれな?﹂
本当に何があった父様よ。思わぬ大物の来訪に、帰国にも関わら
ず心労が晴れそうにない父様の頭を撫でる私なのでした。
88
ミリアーナ姫の求婚騒動
本日のお客様、クラインセルト殿下は現在応接室でお母様と侍女
長リーゼさんが接待をしている模様。
﹁ああーうー? ︵なんでこうなったの?︶﹂
﹁ミリアーナ姫がクラインセルト殿下の目に留まったんじゃよ。 ほれあーん﹂
あーん。
何故かロブルバーグ様の給仕でおやつタイムをしながら来訪者に
ついての情報収集です。
ちなみに本日のおやつはすりおろした林檎を煮詰めた物。
砂糖や蜂蜜などの甘味は高価なので素材の甘さを活かしたスイー
ツ。
赤ん坊に蜂蜜はダメですよ?ボツリヌス菌怖いから。
赤ん坊が一人で椅子に座れるように小さなテーブルが付いた子供
椅子に腰掛けたまま目の前の老人を見上げます。
﹁あーぶー。 ︵嘘だー。︶﹂
﹁嘘などついておらんわ、なんじゃ疑っておるのか﹂
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﹁あーみーおー? ︵だってミリアーナ叔母様だよ?︶﹂
勇猛果敢、武芸と馬をこよなく愛し、卓上遊戯の名手。王子様に
選ばれるお姫様要素が枯渇してますって。
それを念頭に見初められたと言われても、ねえ。
元々自分よりも強い男しか認めない! 決まったことなら皇族の
義務は果たすけれど、認めない相手に愛情は期待すんなって姫だよ。
どう見てもクラインセルト殿下に勝ち目がある様にはみえないん
だけど⋮⋮。
子供の絵本からそのまま飛び出したような綺麗な王子様、しかも
どうやら病弱らしい。
それでどうやってあのミリアーナ叔母様を黙らせられるんだろう、
奇跡でしょもはや。
﹁アルトバール陛下も大層青褪めておったわい。仕事柄人に会う事
が多いが、あれはここ数年の間に見た中で一番素晴らしい狼狽えっ
ぷりだった﹂
その時の父様を思い出しているのか人の悪い笑みを浮かべて小さ
く笑い声を上げてます。
いやいやまぁ気持ちは解るよ? あの常に前しか見ない父様が青
褪める、そんな珍しい光景見てみたかった!
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﹁うー、みーあ! ︵うー、見たかった!︶﹂
口許に運ばれてきた林檎に口を開ける、うん甘酸っぱい。
﹁まぁ、今回の舞踏会で皆の予想を見事に裏切ったクラインセルト
殿下には舌を巻くわい﹂
﹁そーあに!? ︵そんなに!?︶﹂
奇妙な物でも見るようにミナリーの視線がバシバシ刺さるけど気
にしない気にしません。
赤ん坊相手に普通に会話してる様に見えれば仕方ないよね、普通
に危ない人に見えるわな。
﹁儂は遠目にしか見ておらんかったのじゃが、真っ直ぐにミリアー
ナ姫の前に行ったぞ?﹂
﹁ひーあーえ? ︵ひと目惚れ?︶﹂
ますます疑問が深まる、と言うか疑問しか浮かばない。
大国の舞踏会、しかも花嫁候補を決める実質集団見合いには、自
薦他薦問わず確か年頃の姫や有力貴族の令嬢がわんさか詰め掛けて
いた筈なのだ。
絶世の美女や深窓の令嬢を撥ね退けて選んだのがあれ!?
﹁ロブルバーグ大司教様、御部屋の準備が整いましたので御案内し
ます﹂
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﹁ありがとうございます。 ご迷惑をかけて申し訳ない。 はいあ
ーん﹂
疲れた様子で部屋に入ってきた父様がロブルバーグ様に声をかけ
ました。
扉に背を向けるようにして座っていたのでどうやらロブルバーグ
様の影に隠れて私が見えていないのでしょう。
﹁あーんって、シオル!?﹂
あーんですよ。ロブルバーグ様の側まで移動してきた父様はよう
やく私をみつけたようです。
﹁ロブルバーグ大司教様みずからシオルに食べさせて頂いていたの
ですか﹂
﹁ホホッお気になさらず。儂が侍女さんから仕事を奪ってしまった
だけのこと侍女さんらを咎めないで頂きたい﹂
うん、強引だったもんね。ロブルバーグ様。
﹁こちらこそシオルと遊んで頂きましたこと感謝しております﹂
﹁それは良かった、実はなミリアーナ姫がクラインセルト殿下に見
初められた勝因を検討していたのじゃ﹂
﹁あうあう︵そうそう︶﹂
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﹁勝因ですか、あれは勝因なんでしょうかねぇ﹂
むむ! 父様は事情を知っている!?
大きな溜め息を吐くと父様はロブルバーグ様に同席の許可を求め
ました。
すかさず父様へミナリーが紅茶の入ったティーセットを用意して
テーブルへと設置します。
ミナリーの好奇心一杯の視線に気が付いたけどあえてスルー。
﹁ドラグーン王国の王宮には舞踏会の5日前に到着したんですよ﹂
予定ではドラグーン王国まで20日程の日数を計算して出発して
いった筈なのでやはり国境を越えるとなるとかなりの移動日数が掛
かるみたい。
自動車や新幹線、飛行機があった前世と違い、移動手段は馬車や
騎馬、徒歩が主流のためやはり時間が掛かる模様。
隣の街まで﹁ちょっとそこまで﹂とは行かないらしい。 徒歩で
気軽に行ける距離では無い様子。
馬車を使ったとはいえ、途中国境となる山越えをしているにして
は驚異的なスピードだったんではなかろうか。
﹁あちらの城で庭園を散策してたまたま居た兵士と腕比べした後に、
倒れている所に行き当たって保護したらしい﹂
93
﹁あー、なんといって良いものやら﹂
多国で兵士と腕比べってどうなんだろう。 しかも普通の姫は間
違いなくやらないと思うよ!
﹁あーぶー︵ミリアーナ叔母様らしい︶﹂
きっといつも通り紳士物を着て熱心に素振りしていたことだろう。
どこの誰とか気にせずに横抱きにでもして運んだんだろうね。
﹁︵落ちてた︶といって俺の所まで横抱きで連れてきてな、直ぐに
城の者が迎えに来たんだが、何も言わずに去っていった﹂
﹁あー、あぶ︵あー、やっぱり︶﹂
﹁ミリアーナ姫なら苦もなく横抱きで運んだじゃろうな﹂
成人間近の異性を横抱きにできる猛者は大陸ひろしといえど、う
ちのミリアーナ姫位なもんでしょ。
﹁後日礼をしに訊ねてきたんだが、何故か菓子やら宝飾品を持って
ミリアーナの剣の稽古を見学に来たりポロを嗜んだりしはじめたん
だ﹂
ポロとはミリアーナ叔母様が得意とする戦争を模した盤上カード
ゲームで、ルールは違うようだがなんとなく前世で流行ってたカー
ドゲームに似ている。
ミリアーナ叔母様はたしか軍師もできちゃうルシウス伯父様相手
にも遜色無い実力だったはず。
94
﹁あーう︵良く許したね︶﹂
﹁良く許しましたのう、ミリアーナ姫は新しく皇太子になる人物の
見合い相手として同行した筈﹂
ナイスロブルバーグ様、ありがとう! それこそ私の聞きたかっ
たこと! ﹁いやぁ、最有力候補に周辺の大国の美姫がわんさかいたからうち
に白羽の矢が立つ可能性が低かったからなぁ。 まぁ、ミリアーナ
本人を見てくれる相手を探しにいったようなもんだからほっといた﹂
いや、駄目でしょほっといちゃ! 父様一応ミリアーナ叔母様年
頃の乙女ですよ!
下手な男より強いけど歴としたレイナス王国の王妹君です。
﹁終いにはドラグーン王国の近衛騎士やら他国の軍関係者を巻き込
んで武術大会の様相になったんだよ。 ミリアーナは参加しなかっ
たんだが、前に倒された連中が何人か花束持ってミリアーナに求婚
しに来たんだよ﹂
﹁あの青年は確かゼス帝国の近衛騎士でしたかな、それとケンテル
共和国の陸軍大将補佐官だったのぅ﹂
﹁えぇ、驚きましたよ、あの跳ねっ返りを嫁に欲しいと言う物好き
がやっと現れたと悦びましたから﹂
そうだった、父様はミリアーナ叔母様の隠れ親衛隊の存在を知ら
ないんだった。
95
じつは水面下でモテてるんですよ、容姿もスタイルも抜群だから
なぁ。一部の古い考えの人には解らないんだよねー。
ちなみに親衛隊は男性だけでなく女性で構成されている物もある
ことは把握済みだったり。
﹁一応ミリアーナは王太子の花嫁候補として登城していたので、帰
国後に本人に話し合うと言うことで一旦納めたんですよ。 求婚者
同士で決闘でもしかねない勢いだったし﹂
﹁まぁ、状況的には最善の策よの。ほれあーん﹂
話を聞きつつも私の口の中が空になるのを見計らって次の林檎を
運んでくれる。
﹁あーう︵あーん︶﹂
﹁ミリアーナ姫が乗り気なら尚良縁じゃろうが﹂
﹁あー、自分よりも弱い男は嫌だと一刀両断しておりましたよ﹂
﹁ははは、なんともミリアーナ姫が言いそうな話しじゃな﹂
うん、言いそう。しかも自分が負かしたばかりの相手に平然とい
ってそう。
﹁丁度部屋に遊びに来ていたクライン、じゃなかったクラインセル
ト殿下が求婚のやり取りを目撃して一刀両断されて去っていく二人
を見て舌打ちしてましたよ﹂
96
﹁はばーぶー︵あちゃー、父様的に貴重な配偶者候補斬っちゃった
んだ︶﹂
﹁ほうほう、それがあの求婚騒動に繋がった訳ですな﹂
なんで他国の御城で騒動おこしてくるかなぁ。
97
ドラグーン王国行かなくて良かった
父様の話では、只の一貴族だと思っていたクラインセルト殿下が、
なにも知らない叔母様を本来王族が伴侶と踊るはずのタイミングで
ダンスに引っ張り出したと。
その流れのままにミリアーナ叔母様が帰国するのに便乗してレイ
ナスまで付いてきたと言うことですか。
レイナス王国の私室にて一連の状況を聞いての感想ですが、父様
が青褪めるとこ見たかった何て言ってごめんなさい。
﹁いあーん︵行かなくて良かった︶﹂
﹁あの短期間にそんな裏事情があったのか﹂
そりゃ老け込むわ。 お疲れ様です父様。
﹁しかし、一番の収穫はロブルバーグ大司教様の申し出ですね、こ
れは有り難いです﹂
ん? なぬ? 申し出って、何の事よ。
﹁あー? ︵大司教様?︶﹂
﹁実はな、歳で引退することにしたんじゃ。 長旅は堪えるからレ
イナス王国に置いてもらうことにしたんじゃよ。 ついでにそなた
と遊ぶ許可も国王陛下から御許しを貰った﹂
98
﹁あうー!? ︵マジー!?︶﹂
﹁あぁ、本当じゃぞ?﹂
もしかして通訳ゲット!?
じーっとアルトバール父様を見詰めてにっこり笑顔。
﹁そうかそうか、シオルも嬉しいか。 良かった良かった!﹂
﹁あーい! ︵ありがとう!︶﹂
ひょいっと抱き上げられて高い高い、実は地味に恐いよこれ。 気分はバンジージャンプ。
しかも父様は天井に向かって投げるのですよ命綱無しで、しかも
高さが半端ない。 それ以前に赤ん坊投げんなー! ﹁ううう∼! ︵やめて∼!︶﹂
涙がでてくる、真面目に泣きます。 恐いんだもの!
﹁陛下、その辺でお止めになった方が、赤ん坊はあまり揺さぶると
簡単に死んでしまいますぞ﹂
﹁なに!? そうなのですか!?﹂
ぎょっとした父様は恐る恐る私を確認しましたけど多分恐怖で半
分死にかけてますよ。
99
﹁シオル、すまない。大丈夫か!?﹂
﹁あーい⋮⋮︵はーい⋮⋮︶﹂
なんとか返事を返すとほっとした様子で胸を撫で下ろした。
﹁それでロブルバーグ大司教様のお部屋なのですが﹂
﹁儂はどこでも構いませんよ?﹂
﹁そう言ってくださると助かります。 実は騎士寮をと思ったので
すが、王宮まで少し距離がありますので、迎賓館内にお部屋を用意
させて頂きます。﹂
﹁なんと、有り難い。 歳のせいか足腰が弱くなっておりますから
のぅ﹂
いやいや、ぴんぴんしてますけど。確かに高齢者かも知れません
が、私の記憶にある高齢者像からかけ離れてますよ?
ちなみに学生時代の高齢者施設の慰問のイメージ。 ロブルバー
グ大司教様はとてもそうは見えない。
やはり自動車も鉄道もないと足腰が丈夫なんだろう。
﹁それから夕食ですが、リステリアがささやかな酒宴を用意してい
るようですので御一緒にいかがでしょうか?﹂
﹁おぅ、それはそれは。 是非とも出席させて頂きます﹂
100
酒宴はドラグーン王国のクラインセルト殿下とレイナス王国の王
族一同、ロブルバーグ大司教様で行われた。
クラインセルト殿下の来訪は突然だったので国を挙げての祝宴は
直ぐには無理。
しかし今回は王妹ミリアーナ姫君の婚姻と言う事情が絡んでいる
ために急ぎ嫁入りの準備をしなければならないのだ。
御愁傷様です父様、今回の主役は暢気に談笑、う∼んとミリアー
ナ叔母様にベタ甘えでのろけてます。 二人とも見た目は極上だか
ら絵になるわー。
二人とも男性物の衣裳で知らない人が見ればBLだわな。 クラ
インセルト殿下は中性的だからドレス着せたらユリで行けそう。
美形は目の保養だわ。前世でBLもユリもあんまり偏見なかった
本の虫としてリアルでのこの眼福、ヨダレが⋮⋮。
﹁そんなにヨダレを垂らさなくてもご飯をあげますよ? はいあー
ん﹂
﹁あーう︵あーん︶﹂
リステリアお母様に運んで貰ったスプーンにかぶり付くと、口の
廻りをナプキンで拭ってくれた。
﹁クラインセルト殿下、これからの事ですが婚礼まで色々と準備も
ありますから、我が国を観光でもされますか? と言ってもこの通
り周囲を山に囲まれた小国ゆえ目立った名所もありませんが﹂
101
アルトバール父様が食事も一段落した頃に話を切り出した。
﹁お気遣い感謝を申し上げます、そうですね。 お言葉に甘えミリ
アーナ姫に案内を御願いしてもよろしいでしょうか?﹂
にっこりと微笑むクラインセルト殿下。
﹁ミリアーナは婚礼の衣裳やその他諸々の準備もありますし、空い
た時間でと言う制約がありますが﹂
﹁構いません。 私もミリアーナ姫の婚礼衣裳をみたいですから、
それに同行された大司教様に御教授願いたい事もありますし﹂
ロブルバーグ大司教様はクラインセルト殿下から話を振られ、口
にしていた紅茶をテーブルへ戻した。
﹁こんな老いぼれにわかる知識で宜しければどうそ? 歓迎致しま
すよ﹂
あー、眠くなってきたよ。 良いところなのに赤ん坊の起床時間
にはそろそろ限界か。
﹁ん? シオルおねむ?﹂
くわーっとした欠伸を、リステリアお母様に見付かってしまった。
頬に落とされた羽毛みたいに軽いキスがくすぐったい。
直ぐにリーゼさんがお母様の元へ近付くと、腕の中から私を抱き
上げる。
102
﹁リステリア様、陛下。 シオル殿下を御部屋へお連れしても宜し
ゅう御座いましょうか?﹂
﹁リーゼ有難う。 それではシオルを御願いね?﹂
強制退去ですね。
﹁はい、お任せください。 失礼致します﹂
﹁あーう∼︵おやすみなさーい︶﹂
リーゼさんに抱かれながらパタパタと右手、と言うより右だけ手
を動かそうとすると左も動くため羽ばたくみたいになるのだけども。
強制退去後、ベビーベットに戻ると直ぐに襲ってきた睡魔に負け、
フワフワの毛布とウサギのぬいぐるみと一緒に夢の中へ入り込みま
した。
103
夜中に目が覚めて
﹁んあー︵あ∼あ、よく寝た︶﹂
ベビーベットから起き上がり廻りを確認。
﹁あーう! ︵おはようございます!︶﹂
声を出して自己主張してみたもののどうやらまだ誰もいないよう
です。
﹁ぶー⋮⋮︵う∼ん、困った⋮⋮︶﹂
この状況で今の赤ん坊のまま出来ることはなんでしょう?
その一、誰か来るまで良い子で二度寝する。
その二、ベビーベットから脱走。
﹁あーう! あう︵その二! 脱走︶﹂
そうと決まれば脱走でしょう。 幸い赤ん坊用のベットには転落
防止用の柵がついてますが、まだ寝返りと少しの移動しか出来ない
と思っているミナリーは柵を低く設定していったもよう。
脱走してくださいって言ってるようなもんでしょ、これは。
カーテンが引かれているとは言え、陽の光が差し込まない所を見
104
るとまだ夜明け前。 この世界には電気も無いため部屋は暗い。今
更ながらに電気の偉大さを痛感しますよ。
夜遅くまで読書やネットサーフィンに興じられたのって先人達の
功績有ってこそだったのね。
﹁あふあふあ︵よし見えてきた︶﹂
慣れとは凄いです、数回ぱちぱちと瞬きを繰り返しているうちに
ぼんやりと周りが見え始めるんですもん。
夜目ってこうゆう見え方をするんだなぁ、はじめて知ったよ。
暗い空間に黒い物体が点在している。 それが家具なのは日中の
記憶と照らし合わせればわかる。
ベビーベットは子供部屋の中央に設置されているし、転落しても
怪我をしないように配慮されて回りにはクッションや毛足の長いふ
かふかの絨毯が敷き詰めてあるはずだ。
﹁あーうあーう︵怖くない怖くない︶﹂
柵から下を覗くと、以外に高い。 七十センチ位の高さだと思う
けど、やっぱり高いわ子供目線だと。
ゆっくりと足から先に乗り越えると、重心が入れ替わりそのまま
絨毯へダイブ! くっ! 痛い! 背中と尻を打ったぞ。
でも泣きませんよ? 泣いたら苦労と痛い思いが無駄になるじゃ
あーりませんか。
105
幸い、落ちた衝撃は絨毯とクッションが概ね吸収してくれたので
落下音も響かなかったし。 上出来でしょう! 痛かったけど︵泣︶
さてベットから脱出成功、実は自力での移動が可能になって以来、
色々と室内や見廻りの間隔を確認済。
ちなみに私は夜泣きも、離乳食のお陰で飲まなくても大丈夫です
よワハハ!
夜に起きたら気配が分かるように少しだけ開けられた扉まで移動
すると、燭台に灯された明かりがテーブルにうつ伏せでミナリーを
照らしている。
こりゃ完全に爆睡しているようだ。 規則的な寝息が静かな室内
に響く。
今日のシオル様係はどうやらミナリーのようだ。
﹁シオル様∼、もっと食べないと恰幅が良い紳士に育ちませんよ∼
⋮⋮ぐぅ∼﹂
なんだ寝言かぁ、驚かせないでよ。 ってかまだ諦めてなかった
んかいシオル様理想の殿方化計画。
ミナリーの理想の男性、それは前世で言う相撲取りタイプ。男性
に産まれたからには、折角なら父様みたいなごりマッチョ系かシリ
ウス伯父様みたいなインテリ系が良いかなぁ。
一見細身で脱いだら凄いですってのも良いかもしれないけど、折
角だし、THE男って感じになってみたい。
106
ミナリーを起こさないように最短距離をローリング寝返りで部屋
の奥へ。
実はこの奥に小動物が出入りしていただろう古い出入口があるの
だ。出入り口だと解らないように壁に偽装されているけど回転式の
扉になっているようなのだ。忍者屋敷かいこの城は!
こっちにいるかわからないけど小型犬や猫が出入り出来るくらい
の大きさがあるそれは幼児では無理でも赤ん坊には脱け出せちゃう
んだなこれが。
なぜ知ってるか、フフフッ。 寝返り練習中、壁にぶつかったと
きに壁が動けば気づくでしょ。
穴に頭を突っ込んで廊下を確認しようとしたら、目の前に革靴が
降ってきた! あぶなー、踏まれるとこだった!
﹁お疲れ様、異常はないか?﹂
﹁おっ、交替か? ありがてぇ。 シオル殿下は問題なしだ。 さ
っきミナリーが確認したときはすやすや良く寝ておられたよ﹂
部屋の入り口を守っていた近衛が話している声を盗み聞きする。
﹁そうか、シオル殿下はきっとアルトバール陛下のようにこの国を
良いように導いていってくれるはずだ。 健やかに育って欲しいな﹂
﹁そうだなぁ、リステリア陛下が嫁がれてきてからやっと授かった
大事な王太子殿下だ、何かあっちゃまずい﹂
107
﹁しかしなぁ、アルトバール陛下の子煩悩振りには驚いたな﹂
﹁それな、隙をみて陛下が執務を脱け出すもんだから、宰相閣下が
いっそアルトバール陛下の隣にベビーチェアを用意してシオル殿下
を座らせようと画策してるらしいぞ?﹂
はい? 何だって?
﹁はははっ! 宰相閣下ならやりかねんな、誰情報だよそれ﹂
﹁執務室担当の侍女。 俺彼女と結婚すんだ﹂
お∼! おめでたい!
﹁結婚だ? めでたいがよく家が許したな?﹂
まぁ、自由恋愛が主流だった前世みたいにはいかないわな。 げ
んにミリアーナ叔母様もドラグーン王国の銀髪王太子殿下との婚姻
はもはや避けられないだろうし、御破算になるとすればドラグーン
王国が婚約を白紙に戻したときだろう。
﹁愛の力で反対は乗り越えたさ。まぁ、御互いに婚約者が居たから
ちょっと揉めたが﹂
﹁お前の婚約者って子爵家の長女だっけ?﹂
えっと∼確か、公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵、準男爵、騎士爵
だったかなぁ、元農家と兼業サラリーマン家庭生まれの私としては
あんまり馴染みが無いが、確か順番的にそんな感じだとおもう。
108
子爵だと確か四番目だったよね。
﹁そう、俺は伯爵家だけど三男だからさ。家督継げるわけでもない
し、彼女の家は男児居ないから婿に行くのよ、俺自身は騎士爵しか
持ってないしさ﹂
お婿さんですか、頑張れ!
﹁そうか、じゃあ独身の内に花街連れてってやるよ﹂
﹁ははは、まぁ期待せずに待ってるさ。 後は頼んだ!﹂
﹁おぅ!ゆっくり休めな﹂
どこか幼さの残る近衛の兵士さんが任務を変わると通路の暗がり
へと消えていった。 さて行動開始の好機ですよ。
もぞもぞと穴から這い出すと、そのまま寝返りで通路の暗がりへ
とローリング寝返りで初の夜間放浪しゅっぱーつ!
109
脱走の末に見たものは
昼間とは違い静まり返った城内は散策するには中々の雰囲気を醸
し出している。
見上げる視線には何処までも続く暗い通路。ここまで来て怖じ気
つけませんよね!?
懲りずにローリングを繰り返して、巡回の光が見えたら壁と床の
境目に張り付くと、足元までランプの光で照らしても、気がつかな
いで通りすぎていく。
う∼ん、うちの国あんまり裕福じゃないのは知ってたけど、夜中
に通路に灯りがないのは働く人達には辛いんじゃないかい?
経費削減で護衛対象が抜け出しても気が付かない、もしくは通路
に転がってて気付かないのは警備上まずいでしょ。
暗がりを進むと小さな声が聞こえてきた。高めの声は女性のもの
だろうか。
夜更かしか、夜勤巡回の侍女かと思い近くに設置されたテーブル
の下に一応隠れる。
﹁クラインセルトは見付かったか!?﹂
﹁まだよ。 自室に戻られたはずだけど﹂
110
なになに?
﹁レイナスは守りが薄い、外遊中に仕留めろと命が出ているんだ。
探せ!﹂
小声で話してますけど足元にいるからバッチリ聞こえですよ?し
かし内容が物騒だなぁ。
仕留めるってドラグーン王国の王子殿下を暗殺でもしようってか?
﹁母は無事なのでしょうね!?﹂
﹁それはお前次第だ⋮⋮﹂
﹁そんな⋮⋮﹂
﹁さっさと探しだして案内しろ!上手くやれば母親は解放してやる﹂
涙声でその場にしゃがみこんだ侍女に焦ってもっと後ろへ下がる。
絶対にここで見つかれば始末される可能性が高いだろう。 そう
なればこの姿じゃ逃走は無理だ。
顔は見えないが胸元まで見える。長い黒髪の巻き毛の女性だ。
﹁わかったわ、少しだけ時間を頂戴⋮⋮御願い!﹂
よろよろと立ち上がったかと思うと、女性が男に詰め寄った。
﹁良いだろう。明日の夜まで待ってやる﹂
それだけ告げると男は何処かへ去っていった。
111
﹁お母様⋮⋮﹂
うわー、これかなりの外交問題一歩手前の状況じゃない?
今のやり取りって明らかにあのキラキラ物好き王子の暗殺狙い確
定だよね。
﹁早く捜さなきゃ﹂
そう言うと鼻をすすって涙を拭うと侍女がテーブルから離れてい
く。
パサリと目の前に落ちてきた布を急いでテーブルの下へと引きず
り込む。
どうやら女性は落とし物をしたことに気が付いていないようでそ
の場に戻っては来なかった。
ラッキー! よっしゃあ物的証拠ゲット!
まだ思い通りに動かない短い指を四苦八苦しながら使って寝間着
の懐へ仕舞い込む。
持ち主が分かればさっきの話の先手を打てるかもしれない。
幸い今レイナス王宮にはロブルバーグ大司教様という最強の通訳
がいるのだ。
たぶん彼なら私の証言も信じてくれるような気がする!
112
寝返りを繰り返して部屋に戻る途中、窓から空を見上げると日の
出が近いのだろう。光度を取り戻し始めていた。
やばい! 早く戻らないとバレる!?
気持ちは最大限に焦りつつローリング! 悲しいかなスピードア
ップを図れば目眩が、くっ! あと少し!
部屋に近い曲がり角に差し掛かると案の定人が集まっています。 はぁ、遅かったか。 仕方ない笑って誤魔化そう。 うん、それ
しかない!
﹁シオル殿下はどこだ!? 曲者が紛れているかもしれない!﹂
﹁手分けしてお探ししろ!﹂
目の前をバタバタと近衛やら侍女が走っていく。
﹁あぁ、シオル、シオル∼!﹂
ヤバイ、リステリアお母様マジ泣きさせてしまったようです。 青ざめながら床に座り込むようにして泣き伏すお母様の肩を父様
が抱き締めながら背中を擦っている。
﹁リステリアすまない、シオルは必ず捜しだすから﹂
﹁うっ、あなた⋮⋮﹂
生後半年で早速親不孝してご免なさい。
113
﹁あ∼う⋮⋮︵盛り上がっとる⋮⋮︶﹂
出ていきづらいわぁー。 小さく声を出すと、それまでうつむい
ていたお母様が顔を上げでキョロキョロと忙しなく回りに視線を走
らせた。
﹁シ、シオル? あなた! 今シオルの声が!﹂
﹁なに!? どこから﹂
父様もキョロキョロしてますよ。 そんな中先に私を見つけたの
はお母様でした。
﹁あっ! シオル∼!﹂
父様を振り払うように立ち上がり、体勢を崩しながら私のもとへ
駆け寄ってくる。 ﹁シオル、シオル! 怪我はない?﹂
お母様に抱き上げられると、腕の中でくるくると全身を回しなが
ら怪我の有無を確認された。
うわっ! 寝間着めくって確認しないで下さいよ! オムツの中
も無事です。 大丈夫です、お母様! 怪我はないですから!
﹁よ、良かった。無事ね。 あなた一体どこに行ってたの?﹂
全身くまなく脱がせる勢いで確認を終えると、ほっとしたように
114
問い掛けてきました。
﹁あーうー︵ごめんなさい︶﹂
心配をかけたのは確実なので伝わらないのを覚悟でお母様に手を
伸ばして笑いかける。
﹁あなた、シオルの寝室ですが﹂
﹁俺とリステリアと同室に移動しよう﹂
迷うことなく断言すると、父様がテキパキと侍女や使用人に指示
を出してベビーベットを運び出していく。
﹁シオル、今日は親子三人で一緒に寝ましょうね?﹂
﹁あーう︵はーい︶﹂
元気よく返事をしたものの、後に私は後悔するのだ、今日この時
を。
115
協力者確保∼!
﹁ホッホッ随分と昨晩は賑やかじゃったの?﹂
すっかり騒ぎも収まり、夜勤最中に私を見失ってしまった事に反
省したのか大人しくなってしまったミナリーから離乳食を貰ってい
ると、ニヤニヤとロブルバーグ大司教様が私もとへやって来た。
どうやら昨夜の脱走は知られているようです。 朝着替えをした
際には証拠の品はしっかり死守して現在服の中。
なんとか没収されずにすみましたよ。
﹁あーうー︵お騒がせしました︶ あぶぁば︵実は︶﹂
﹁なんじゃなんじゃ? どれ娘さん、変わろう﹂
﹁えっ! ですが⋮⋮﹂
ロブルバーグ大司教様の申し出に困惑するとミナリーは側に控え
ていたリーゼさんに判断を委ねた。
リーゼさんが頷くのを確認したあと、ミナリーは座っていた椅子
をロブルバーグ大司教様に譲ると後ろへ下がる。
ミナリー、大人しすぎて気持ち悪い! いつもの元気はどこいっ
た!
116
﹁はい、あーん。 それで、どうしたんじゃ?﹂
﹁あーうーあう︵昨夜ある逢い引き現場を目撃しまして︶ あーん﹂
意思を伝えてからスプーンの中身を頬張る。
﹁誰のじゃ?﹂
﹁あーうーあーうーあう︵クラインセルト殿下の暗殺狙いと手引き
している侍女︶﹂
﹁はぁ? 又御主は厄介な物を見たのぅ﹂
﹁あーうー! ︵私もそう思う∼!︶﹂
ロブルバーグ大司教様、手が止まってますよ? ご飯ください。
﹁ほれあーん。 しかし何か手掛かりはないのか? 特徴は?﹂
ふふふ、その辺に抜かりはな∼い! これを見よー!
﹁ん? なんじゃなんじゃ?﹂
胸元から引っ張り出した布、明るくなって確認したらハンカチで
した。をロブルバーグ大司教様に手渡す。
﹁とれどれ? ハンカチじゃの?﹂
﹁あーうーあぶーあぶぁば︵侍女が落としていったやつ。 顔は見
えなかったけど長い黒髪の巻き毛の胸のおっきな侍女だったよ︶﹂
117
﹁刺繍がしてあるの、S.Aがイニシャルじゃな﹂
﹁ぶ! あぶあぶ!? ︵えっ! どこどこ!?︶﹂
蔦が這ったような模様はしってるけどあったかそんなの。
﹁ほれこれじゃ﹂
ロブルバーグ大司教様が指さした先には蔦が這ったような模様。
﹁あーぶー? ︵これ文字だったのね∼?︶﹂
﹁なんじゃい? そんなに頭が回るのに文字はわからんのか?﹂
さも不思議そうに言われても困ります!
﹁あぶあぶ! ︵だって生後六ヶ月ですから!︶﹂
えっへん! と胸を張るとロブルバーグ大司教様が顔を伏せて震
え出した。
﹁くっ! そうだったな! まだ六ヶ月か、くくくっ!﹂
そんなに笑わなくてもいいじゃん?赤ん坊よこれでも。
﹁あーぶ? ああぶ? ︵この世界って一年って何ヵ月? 何日あ
るの?︶﹂
そもそも本当に六ヶ月かあやしいもんだ。
118
﹁双太陽神教暦だと12ヶ月だの一年三百六十五日じゃよ﹂
うむ、前世と一緒のようですね。太陽が二つある以外は。
﹁とにかく、その話は儂から陛下に御伝えしておこう﹂
﹁あう! ︵お願いします!︶﹂
なんにせよ、今の私に出来るのはこのくらいが限度なのだ。 あ
とはロブルバーグ大司教様! お願いします!
﹁うむ、できる限りはやってみよう。 ほれあーん﹂
最後の一口をスプーンで掬い私の口へ放り込むと、自分のハンカ
チを取り出して口元の汚れを拭いてくれた。
どうにも口許の絞まりが甘いというか、一杯の量が多いと口の回
りが大変なことになってしまう。
﹁さて、それでは早速アルトバール陛下の元へ行こうかね。どうす
る?﹂
えっ!連れてってくれるの!?
﹁どうせ、気になって脱走して自分で調べるくらいなら最初から一
緒の方が楽だろう?﹂
﹁あう! ︵行く!︶﹂
﹁御主が一緒の方がアルトバール陛下の士気も高まるじゃろう。愛
119
息に良いところを見せたいもんじゃし、陛下のもとならば妃殿下も
安心じゃろう﹂
ロブルバーグ大司教様がうしろに控えたリーゼさんに視線を向け
る。
﹁リステリア様に御伝え致しましょう、アルトバール陛下の元へも
知らせを走らせます﹂
そう言ってにっこりと微笑んだ。よし! 許可は下りた!
﹁では参ろうかの?お茶を飲んでからな﹂
茶目っ気たっぷりにウインクをしたロブルバーグ大司教様に苦笑
しつつ、父様の元へと行っていた侍女が戻ってくるのをまったりと
過ごしました。
120
明かされた加護
﹁ロブルバーグ大司教様、シオル! 良くいらっしゃいました。 すいませんこんな場所で﹂
リーゼさんが走らせた知らせは直ぐに父様の元から執務室へ案内
するように言い付かって部屋に戻って来ました。
ロブルバーグ大司教様に抱かれて執務室へ行くと父様が出迎えて
くれました。
﹁あう! ︵父様!︶﹂
手を伸ばすと抱き上げてくれたので両手で頬を挟むと、にっこり
と笑ってくれました。
うーん、やっぱり疲れてるかなぁ、いつもより眉間に一本筋が多
いよ?
﹁ありがとうシオル∼! 父様は元気が出たよ!﹂
ぐえっ! 苦しい苦しい! 絞めすぎですってば! 馬鹿力なん
だから手加減して下さいな。
﹁ロブルバーグ大司教様から面会の申し出が会ったとお聞きしたの
ですが、どうかなさいました?﹂
おっ! 父様がいきなり本題に話をふった!
121
﹁お忙しいところ邪魔してしまってすまんの、実は厄介な情報を耳
にしましてな﹂
アゴヒゲを撫でながら言った言葉にアルトバール父様の目付きが
悪くなる。
﹁あちらに部屋を用意してありますのでそちらで﹂
﹁ご配慮感謝します﹂
父様に抱かれたまま部屋を移動すると、部屋の中には父様とロブ
ルバーグ大司教様、私。
そしてシリウス伯父様が、扉の外には盗聴を防ぐ為にロンダーク
さんがスタンバイ。
﹁厄介な情報とは?﹂
扉を締め切ってから始めに口を開いたのは父様です。
﹁実はドラグーンの王太子殿下を狙ったもの、又は手引きしている
ものが城内にいるようで﹂
﹁それは何処からの情報ですかな?﹂
それはそうだよね、ロブルバーグ大司教様の関与を疑うわな。
﹁あう! ︵はい!︶﹂
122
両手を上げで自己主張! 情報源はここにいます!
﹁どうしたシオル?﹂
﹁実はシオル殿下だと言って信じられる者がここには居ますかな?﹂
一斉に視線が集中。 そりゃそうだ、普通赤ん坊がこんなこと言
わないな。
﹁あー、ロブルバーグ大司教様、いくらシオル殿下が赤ん坊らしく
ないとはいえ、それはなんでも⋮⋮﹂
シリウス伯父様が遠慮がちに抗議する。 信じられなくても仕方
ないかな。
﹁儂は生まれ付きちっとばかり特殊な加護を授かっておりましてな、
もともと農夫の次男だったんじゃが、その力のお陰で今の地位を授
かりました﹂
へぇ、初耳! 宗教家で上位の地位に登る者は主に貴族筋が多い
と聞いたことがある。 平民からの大出世、下剋上じゃん!
﹁その加護と言うのが赤子や幼児の感情を読み解けると言うもので
ね、まだ自分の意思を上手く伝えられない幼児にのみ有効な加護じ
ゃ﹂
なるほどなるほど、だから私の言ってることが解るわけだ。
普通﹁あぶ!﹂ではわからないもんね。
123
﹁それは、赤子から情報を引き出せると言うことですか?﹂
少し警戒の色を浮かべながらシリウス伯父様が問うと、ロブルバ
ーグ大司教様はゆっくりと頷いた。
﹁まぁ、大抵はどこが痛いとか、嬉しい、悲しい、寂しいなどの簡
単な思考じゃな。しかし、生誕祭で儂が言ったことを覚えておいで
かのぅ?﹂
暫し思案したあと口を開いたのは父様だった。
﹁双太陽神の加護を受けて生を受けた。 まだ赤子にも関わらず既
に知性の色が見えている、この才を伸ばし、育まれるが宜しいでし
ょう。 それがこの国を導いて行くはず、でしたね﹂
どうやらリステリアお母様に教わっていたのだろう。
﹁その通り。 どうにもシオル殿下は赤ん坊には持てないはっきり
とした自己を持っているようでな。 生誕祭では寄付を値切られた
わい﹂
ギャー! ロブルバーグ大司教様! 何でばらすの!?
﹁あぶ!︵ダメ!︶ あぶばー!︵言っちゃダメ!︶﹂
父様の腕の中でワタワタと慌てる私の様子にしてやったりと笑顔
を向けてくる。ムムム、わざとバラしたな。
﹁ちなみに今のはなんと?﹂
124
﹁ダメ! 言っちゃダメ! じゃ﹂
﹁あー、なんというか﹂
﹁シオルは天才だな、凄いぞ﹂
微妙な顔をしたシリウス伯父様とは対照的に、感極まった様に盛
大に誉めたのは父様てす。
﹁シオル、それで? どこで聞いたんだ?﹂
おっ! 信じてくれるのかな?
﹁あぶあふふぁー︵昨夜お出かけしたときに聞いた︶﹂ ﹁昨夜抜け出した時に偶然聞いたそうじゃ。 通訳も良いが時間が
ないので要点で勘弁してくれ﹂
苦笑いを浮かべるとロブルバーグ大司教様は本題に話を戻す事に
したらしい。
125
父様張り切っちゃうぞ∼
︽アルトバール視点︾
ドラグーン王国訪問は俺の予想の遥か上を越えてた事態となって
しまった。
大国の王太子妃殿下候補としてミリアーナを連れては行ったが、
すでに大国間で本命が決まっている事だろう。 だから婚約者選び
の見合いだとは本人にも伝えていなかった。
まぁ、容姿は悪くないのでミリアーナを気に入ってくれる参列者
が居れば儲けもの位の認識だったし、自然体のミリアーナを嫁に欲
しいと三人も申し出できた時は単純に嬉しかった。
しかし、まさかその中の一人、クラインセルトが王太子殿下だと
は思っても見なかったが。
俺の知らないところで気が付けばミリアーナは次期王太子の妃殿
下候補筆頭になってしまっていた。
まぁ決まった物は仕方がないので、一度国へ帰ることにしたのは
良いが今度は王太子殿下が同行すると言う、そして帰国を聞き付け
たロブルバーグ大司教様から引退後の終の住処としてレイナスで暮
らしたいと要望が有った。
其々の希望、思惑が錯綜した結果ドラグーン王国を訪れた当初よ
りも帰国の追従の数が増えてしまった。
126
同行者に神経を使いながら、長い道程を愛するリステリアとシオ
ルの顔を想い描き乗りきった。
出国した時にはまだ自力で動く事も出来なかった我が愛息シオル
は、この旅の間にどれくらい大きく成長しただろうか。
城に着いて愛妻の顔を見ると、一気に緊張が解れるようだった。
幼子は数日会わないと顔を忘れてしまうと言うが、シオルは俺の
顔を覚えていてくれたのか両手を伸ばしてて出迎えてくれた。 く
ぅ、ただいまぁ∼!
クラインセルト王太子殿下とロブルバーグ大司教様が同行してい
る事は事前に伝令の早馬を飛ばした為、帰国した当日は旅の汚れを
落としたあと、簡単な酒宴の用意が整えられていた。
酒宴も問題なく済みリステリアと伴に寝室へ戻ると、長旅の疲れ
からか睡魔は直ぐに訪れた。
安眠は夜明け前にもたらされた報告で終わりを迎えた。
﹁シオル殿下のお姿が寝室より消えました!﹂
﹁⋮⋮なにぃ!?﹂
シオルとは寝室を別けているため、常時侍女が付いているはずだ
し、近衛が部屋への扉の外に常駐しているのだ。
﹁そんな!? アル! 私は直ぐにシオルの元へ向かいます!﹂
127
同じベットから身を起こすと直ぐに手近にあったストールを羽織
ると部屋を飛び出していくリステリアの後を追った。
駆け付けた部屋には多くの兵が集まっている、常駐の者たちは持
ち場に戻るように指示を出し、王宮内にある騎士寮から非番の者た
ちを呼び出した。
﹁あぁ、シオル、シオル∼!﹂
青ざめながら床に座り込むようにして泣き伏す妻の肩を抱き締め
ながら背中を擦っている。
﹁リステリアすまない、シオルは必ず捜しだすから﹂
﹁うっ、あなた⋮⋮﹂
﹁あ∼う⋮⋮﹂
城内に響く怒号と足音の中から小さな声を聞き取ったのはリステ
リアだった。
﹁シ、シオル? あなた! 今シオルの声が!﹂
﹁なに!?﹂
﹁あっ! シオル∼!﹂
俺の手を振り払い駆け出したリステリアの向かう先、床に腹這い
でこちらを見ているシオルを見付けたときは、脱力感とともに無事
な姿に心から安堵した。
128
どうやって通路に出たのかとか、誰が連れ出したのか等疑問は残
るが、そんな些細なことは寝室を一緒にすれば異変に直ぐに対処出
来るではないか。 うん、それがいい!
シオルの寝室を移動させた頃にはすっかり日が登り、寝直すこと
なくそのまま執務室で義理の兄弟となったレイナス王国の宰相シリ
ウスと伴に、机にかじり付いた。
ドラグーン王国訪問から帰国すると、大量の書類が執務室で山を
形成していたのだ。 どうしたらこんなにも高く積み上げることが
出来るのか、一度教わって見たいものだ。 書類と格闘中何度シオルの元へと様子を見に行こうかと、シリウ
スの隙を探したが全て阻止されてしまう。
奴は背中にも眼があるのか!? そんな中執務室に訪れたのは愛息を抱いたロブルバーグ大司教様
だった。
﹁ロブルバーグ大司教様、シオル! 良くいらっしゃいました。す
いませんこんな場所で﹂
出迎えたあと、休憩も兼ねて癒されようと思っていたのだがロブ
ルバーグ大司教様が持ち込んできた内容はとても容認できるような
も可愛い内容ではなかったのだ。
レイナス王宮内でのドラグーン王国王太子殿下の暗殺計画。
129
一体この数時間でどこからそんな情報を掴んできたのか、恐るべ
し双太陽神教!
しかし話を聞き進めれば情報の出所は我が愛息だと言うではない
か!?
生後半年にして! シオルは天性の才能を持っているのか!? さすが我が子!!
しかしそれならば昨日の行方不明も得心がいく。事実確認の意味
を兼ねてシオルの証言、実際にはロブルバーグ大司教様の証言だが、
仕事を中断してシオルが部屋を脱け出すのに使用したという穴の存
在を認識することができたので偽言ではないようだ。
ふふふ、今からどう成長するか楽しみで仕方ない。
﹁陛下、顔面が崩れてますよ?﹂
うるさいわい、シリウスよ。自国の王太子が優秀なんだから素直
に喜ばんかい。
﹁さて、このハンカチの持ち主を探そうか? シオル、ロブルバー
グ大司教様情報の提供感謝します。 ここからは危険ですから我々
にお任せ願えますか?﹂
フフははは!息子にお父様の威厳を見せ付けるチャンスだ!
﹁あーい!﹂
くぅ、シオル∼! 父様頑張るよ∼、待ってろ暗殺者ども? レ
130
イナス王国で勝手な真似はさせないぞ∼。
131
これからどうする?
︽シオル視点︾
うむ、なんか気持ち悪いくらいトントン拍子で話が纏まっちゃっ
たよ?
普通信じるか? 赤ん坊が証言者って、気持ち悪くないの?
まぁ、いっかぁ。 取り敢えず父様が張り切っていることだし、
任せちゃお! 現実的にいってもこれ以上は今のぷにぷにしたこの
小さな手に余るしね。
﹁あうあ∼あ︵ロブルバーグ大司教様ありがとうございました︶﹂
父様にひとしきり愛でられて執務室を出た私とロブルバーグ大司
教様は現在中庭で仲良くお散歩中です。
﹁ん?礼には及ばんよ﹂
陽射しはぽかぽかお散歩日より。 どうやらこの国の気候は日本
とあまり変わりがないらしい。 東北生まれの私としては少し暖か
く感じるので過ごしやすい。
前にロブルバーグ大司教様が来ていた時は空に太陽が二つ昇って
いた。 ちなみに現在はひとつだけ。
やはり季節的な物だったみたい。 暇潰しも兼ねて日の出から日
132
の入りを観察していたらどうやら出ている期間は10日間程だった。
とはいっても始めて散歩に出てから10日なのでもうしばらくか
かるのだろう。
﹁あうああう︵信じて貰えたのは大司教様のおかげです︶﹂
﹁ほほ、それで、これからどうするつもりじゃ?﹂ 中庭をぷーらぷらしていたのだけれど、昨夜の女性を知っている
のは私だけなんだよなぁ。 父様を信用してますよ? シリウス伯
父様も一緒なので尻拭い、じゃなくてフォローもバッチリ。
でもね∼暇じゃーん!
﹁あーうあう!︵もちろん捜索したいです!︶﹂
﹁その言葉を待っておった!﹂
ニヤリと笑うロブルバーグ大司教様も何やら楽しそうですね。
﹁あばぶ?︵自分で動けないので手伝って下さいな?︶﹂
上目使いに斜め四十五度でおねだり目線で見上げたる。 首をち
ょっと傾げるのが隠し味。
﹁わかったわかった! いくらでも足代わりに使われよう。 しか
し儂からひとつだけ忠告しとくぞ?﹂
﹁ばぶ?︵なんでしょう?︶﹂
133
﹁夜中に徘徊するのは関心しないの、そうゆうことはもう少し自力
で動けるようになってからにするように﹂
あう! 怒られた! 目が笑ってないですよ? これは素直に謝
る方が身のためだわ。
﹁あぶ! はぶば!︵すいませんでした! もうしません!︶﹂
取り敢えず。
﹁宜しい。 子供は素直が一番じゃ﹂
謝罪すると鷹揚に頷かれた。この良き通訳兼教師を今更失うわけ
にはいかないのよ! 素直に謝る! 謝罪はタダだ!
﹁幼いうちは存分に頼るがよい。 何、ツケは成人後払いにしてや
ろう﹂
うん、訂正。 タダじゃなかった。 世の中タダより恐い物はな
いって言ってたの誰だったかなぁ。
﹁そうと決まれば善は急げじゃ! 行くかの? シオル殿下よ﹂
﹁あぶ!︵行きますとも!︶﹂
しわしわと年月を感じさせるロブルバーグ大司教様の人指し指を
手のひらできゅっと掴み意気込みを新に城内の捜索をすることにし
ました。
取り敢えず中庭の散歩を切り上げると、城内へと入った。
134
捜し人は女性なので女子禁制の騎士寮には居ないだろう。 夜に
城内にいたから仕事中、もしくは仕事明けだった可能性もあるんだ
よね。
来ていたお仕着せはこの城の侍女のものだっから取り敢えず城内
の散歩を理由に侍女が仕事をしている区域へと行ってみることにし
た。
厨房付近にて。
﹁大司教様!? どうされましたか!?﹂
﹁殿下と探険じゃ﹂
水場にて。
﹁大司教様!? 何か御用でしょうか?﹂
﹁仕事を続けてくれ、城内見学じゃ﹂
とは言うものの、城内は広いし、働く人数も伊達じゃない。いく
先々で驚かれては責任者らしき人が用件を聞きにやって来た。
﹁殿下と城内を散策しておったのじゃが道に迷ってしまっての﹂
飄々といく先々ではぐらかしながら進んでいたのだが、その行動
を訝しんだ一人が近くにいた騎士を一人護衛につけて寄越した。
ちなみにこの騎士様、王太子付き。 すなわち何度か見たことあ
135
る人。名前は解んないけどね。
﹁昨夜シオル殿下を連れ出した者が城内に居るかもしれません。お
とも致します﹂
﹁ん、すまんのぅ。 ついでにしばらくこの城で世話になるのでな。
城内の案内を頼みたいのじゃが﹂
ん? なんかデジャブ。 あー、思い出した。 昨晩の夜勤さん
で先に帰った人の声だ。
﹁あ∼あうわ︵よくそんなにスラスラと理由が出てきますね︶﹂
﹁ほほ、年の功じゃよ。 生後半年で達観し始めとる御主に言われ
たくはないのう﹂
達観してませんよ? 精神年齢が四半世紀越えてるだけです。
﹁あぶあぶば︵そういえば、この近衛さん昨晩の夜勤さんです︶﹂
﹁ほう? 騎士様はなんと御呼びすれば良いかな?﹂
ロブルバーグ大司教様は傍らに控えた騎士に名前を聞いた。
﹁はっ、失礼致しました。 私はアルスと申します。 シオル殿下
の守護を担わせていた抱いております﹂
ふーん、アルスって御名前だったんだ。アルス、アルス。よし覚
えたぞ。
136
﹁大丈夫かの? 疲れておるようじゃが﹂
﹁お心遣い感謝します、昨晩の騒動から参加しておりますが元が丈
夫ですのでご安心ください。 どちらからご見学されますか? ご
案内いまします﹂
アルスさん多分丸一日は寝てないよね。 多分騎士寮に戻って直
ぐに呼び出されたんだろう。 ごめんね。
﹁これからシオル殿下の教師をするに当たって一通り案内してくれ
るかの﹂
アルスさんはしばらく思案したあとロブルバーグ大司教様を見つ
める。
﹁それではここから一番近い書庫からお連れします。 ですが、機
密となっている場所などはご案内出来かねますので御容赦下さい﹂
申し訳なさそうにアルスさんが断りを入れている。まぁ、他国の
人に機密は見せらんないわな。
﹁それで十分じゃよ﹂
﹁ではご案内致します﹂
そう告げるとアルスさんが先頭に立って歩き出した。 137
待ち人見っけ
城内見学は順調。
すれ違う侍女や女官、官吏や貴族を確認しつつも未だに本命に当
たらない。
﹁あぶー︵う∼ん居ないなぁ︶﹂
﹁焦るだけ無駄じゃ﹂
さも当然だとばかりにロブルバーグ大司教様が前を行くアルスの
後について行く。
今は炊事場へと向かって移動中だ。
﹁あれは⋮⋮申し訳ありませんが、少しだけこちらで御待ちいただ
けませんでしょうか﹂
﹁ああ、どうしたんじゃ?﹂
﹁通路の先に座り込む人影を視認しましたので確認して参ります﹂
言われて通路の先に視線を向ければあらデジャブ!
あの長い黒髪、カーラーもヘアーアイロンもドライヤーもないの
に素晴らしいあのウェーブ! あれは天然記念物!
138
﹁アリーシャ? どうした?﹂
﹁えっ、アルス様?﹂
聴こえてきた声音は概ね記憶に新しい。
﹁すいません、急に目眩が﹂
立ち上がろうとして体勢を崩した彼女、アリーシャさんを瞬間的
にアルスさんが支える。
うむ、なんかメチャクチャ甘くないかにゃ? お二人さ∼ん。
﹁具合が悪いなら無理せずに休まなきゃ駄目だろ?﹂
アルスさん、そんな声が出るんですね?諭しつつも愛しさがほと
ばしってますよ。
﹁ありがとう。もう大丈夫ですから、アルス様は御仕事中。御客様
を御待たせしてはいけませんわ⋮⋮﹂
どうやらアリーシャさんは通路に待ちぼうけした私達に気がつい
た模様。 アルスさんを諭して仕事に戻そうとしている。
﹁あぁ、あんまり無理するなよ?﹂
離れがたそうに念を推すアルスさん。
﹁あうあ∼、あーきゃ!︵ロブルバーグ大司教様、アリーシャさん
を確保してください!︶﹂
139
﹁よしきた。 アルス殿!﹂
突然声を掛けられて振り返ったアルスさんにロブルバーグ大司教
様が慈愛の笑みを浮かべる。
﹁その方は体調が思わしくないご様子。 今後お世話になるかもし
れませぬゆえに、医務室までの道順を確認しつつご一緒にお連れし
ましょう﹂
﹁えっ、しかし⋮⋮﹂
﹁ありがとうございます! 大司教様、それでは医務室までご案内
致します!﹂
アリーシャさんが断りを入れる前にアルスさんが深々とロブルバ
ーグ大司教様に頭を下げてしまう。
アルスさんは素早くしゃがむと、有無を言わさずに背中にアリー
シャさんを背負い上機嫌で先導し始めた。
﹁彼女が例の女性かの?﹂
﹁あーきゃ︵多分そうだと思います︶﹂
﹁うむ﹂
目の前を進むアルスさんに聞こえないくらい小声で囁くと豊かな
顎鬚を撫でながら何かを思案し始めた。
140
初めのうちは戸惑いか遠慮からかアルスさんから降りて歩こうと
して抵抗していたアリーシャさんだったが、今はぐったりと身体を
預けている。
何度か曲がり角を曲がると木造の扉を開ける。
扉は外に続いていたようで、気迫のこもった掛け声と金属の打つ
かるどこか澄んだ高い音が聞こえている。
訓練には怪我が付きまとう為、兵士達が日々訓練を行う訓練場に
併設されているのかもしれない。
﹁クライン、別に私に付き合わなくてもいいんだぞ? 退屈じゃな
いか?﹂
﹁楽しいですよ? 貴女の剣はまるで舞を踊るようですね﹂
﹁そ、そうか?⋮⋮それなら構わないが⋮⋮﹂
﹁はい。どうぞ気にせずに続けてください﹂
聞き覚えのある声に視線を向けると、今日も変わらずに真剣を苦
もなく素振りするミリアーナ叔母様を発見。
回りの兵達と変わらないデザインの衣服を身に付けているけれど
日頃から男装が普段着のため違和感は感じない。
鋭く振り抜かれる剣は光を反射して白銀の帯のように残像を残し
ている。
141
﹁あーう︵すっごい違和感︶﹂
﹁ん、どうした? あぁ、姫様と王太子殿下かの﹂
違和感は無駄にキラキラ輝いていた。
訓練には相応しくないヒラヒラフリフリのブラウスと動きにくそ
うなベストを身に付けて満面の笑みを振り撒きながらミリアーナ叔
母様にあっつ∼い視線を贈る銀髪美少年。
﹁あーう︵あれは訓練遣りづらいわ︶﹂
隣でずっと見詰められながら素振りって授業参観、いや最早罰ゲ
ームかも。
﹁儂もあれは嫌じゃな、無言の圧力と言うよりはもはや視姦じゃろ
う﹂
視姦⋮⋮うん。
﹁まぁ、悪意による物ではないから大丈夫じゃろ﹂
ふと隣を確認すると、青い顔をしたアリーシャさんが何かに耐え
るように下唇を噛み締めていた。
142
新たな試み
案内された医務室は扉から訓練場の周りをぐるりと回り込んだ先
に在りました。
アルスさんは扉を数回軽く叩くと、返事を待たずに扉を開けて中
に入っていく。
アルコールのつんとした臭気が部屋を満たしている。
﹁失礼します。 先生いらっしゃいますか?﹂
アルスさんの問い掛けに答える声がない。どうやらこの部屋の主
は出掛けている模様。
部屋に十基ほど設置されたベットのひとつにアリーシャさんを座
らせると、大丈夫だと言うアリーシャさんを半ば強制的に寝かし付
ける。
医師の使う机の上にはこの世界の文字が書かれた羊皮紙が置かれ
ていたけど残念ながら読めないんだよね。
言葉が同じなんだから日本語表記でいいじゃんね?
﹁どれどれ⋮⋮アルス殿、どうやら医師殿は王妃陛下の元へと向か
われたようじゃから儂が呼んでこよう﹂
おっ! ナイスロブルバーグ大司教様!
143
﹁いや、しかし﹂
﹁気にする事はない。 シオル殿下の授乳の時間じゃからそのつい
でじゃ。 それにそちらのお嬢さんも一人で残されては不安じゃろ
う。 医師殿が来るまで付き添いを頼みたいのじゃよ﹂
ニコニコと人の良い笑顔を浮かべてベットに横になっているアリ
ーシャさんを見る。
アリーシャさんも不安なのだろう。 無意識にアルスさんの服の
裾を掴んでいたのだが、その事に気が付いて恥ずかしくなったのか、
掛布を引き上げると顔を隠すように潜り込んでしまいました。
うん、反応が可愛い。 女子力とはこう言う何気ない仕草も含め
ての名称なのかも。
前世の私には出来なかった技術。
﹁判りました。 申し訳ありませんが、お願いいたします﹂
﹁任された。 医師殿を連れてくるまでお嬢さんから離れてはなら
んぞ?﹂
﹁はい﹂
一応念には念を推す。 ここでアリーシャさんを害されては本末
転倒だものね。
﹁ではシオル殿下行こうかの?﹂
144
﹁あぶあぶば!︵いざ参らん父様の元へと!︶﹂
﹁その前に王妃陛下の元じゃ﹂
﹁ぶー︵はーい⋮⋮︶﹂
取り敢えず重要参考人は確保した。
リステリアお母様の私室へと向かっていると、途中でリーゼさん
と出くわした。
どうやら私を捜していたらしい。
﹁ロブルバーグ大司教様、シオル殿下のおしめを交換したくお預か
りしたいのですがよろしいでしょうか?﹂
おしめ⋮⋮嫌だ⋮⋮。
﹁あ∼ま、あ∼とぶぁ?︵ロブルバーグ大司教様、リーゼさんにト
イレに連れてってくれるように頼んでくれません?︶﹂
﹁くっくっ! 解った解った。 リーゼ殿、試しにシオル殿下をト
イレに連れて行ってみてはどうだろう?﹂
﹁はぁ、宜しいですが。 まだ早くありませんか?﹂
まぁ、普通の子供って早くても一歳半年過ぎてからだもんね。
﹁まぁ、ダメもとじゃ﹂
145
﹁ダメもとですか⋮⋮判りました﹂
リーゼさんが了承するとロブルバーグ大司教様が私の身体をリー
ゼさんに手渡した。
﹁リーゼ殿はこれから王妃陛下の所へ行かれるのですかな?﹂
﹁はい、授乳の時間ですから﹂
﹁ならば王妃陛下の所に医師殿が行っているはずじゃ。 すまんが
私の所へ回ってくれるように伝えてくれんかの?﹂
﹁ロブルバーグ大司教様の所へ? どこか具合でも?﹂
﹁いやいや、儂も歳だからのぅ。 色々とガタがきとるんじゃよ﹂
ガタが来てるようには見えませんがね。
﹁判りました。 大司教様はこれからどちらへ?﹂
﹁儂は陛下の執務室へ向かう﹂
﹁お伝えしておきます﹂
﹁あば!︵よろしく!︶﹂
私の赤毛をくしゃくしゃと撫でるとロブルバーグ大司教様は執務
室方面へと消えていった。
146
﹁ではシオル殿下、ダメもとでおまるに座ってみましょうか?﹂
﹁あい!︵はーい!︶﹂
おまるかぁ⋮⋮羞恥プレイは変わらないけど、オシメよりましか
な、うん。
あっちは任せた! 大司教様ならきっと上手くやってくれるだろ
う!
147
腹黒
部屋に戻り、用意されたおまるは陶器製の物。これっておまると
言うよりむしろ壺?
﹁まぁ、リーゼどうしたの?﹂
﹁リステリア様、実はロブルバーグ大司教様がダメもとでシオル様
のトイレ介助をと御助言がありまして﹂
﹁あら、シオル出来るの?﹂
﹁あい!︵はい!︶﹂
取り敢えず上手に座ることは出来るはず!
個室は望めないけどオムツよりはマシなはず!
リステリアお母様に手を握って貰い、バランスを取りながらなん
とか致すと、リーゼさん始め侍女一同に誉められた。
そんなこんなで特に進展もなく、最大の情報源であるロブルバー
グ大司教様の姿も見えないままに数日が経過してしまっていた。
父様はあれから自室に戻って来ることなく城内を奔走中。
一体どうなってるんだろう、きーにーなーる!
148
﹁あらあら、シオル? おまるに座るの?﹂
﹁あい!︵はい!︶﹂ 取り敢えずすることも出来ることもないので日課の這いずりと筋
トレ中。
そして新に習得したスキル! おまるで排泄も特訓中なのだ。
まだまだ自力では難しくても、監視つきでもそれはそれ!
トイレが近くなればあらたに部屋の隅に置かれた壺ちゃん型マイ
おまるまで移動してペシペシと叩きながら自己主張すればお母様な
りリーゼさんや侍女∼ずが座らせてくれるのだ。
成功率七割! 残り三割は介助が間に合わなかったか夜間のため
に仕方がない。
折角安眠しているお母様を起こすのは忍びないし、なにより膀胱
の容量不足なのよ。
くっ! 仕方ない、こればかりは時間が解決してくれるはずだ。
そんなこんなで伸ばしに伸ばしたミリアーナ叔母様とクラインセ
ルト殿下の婚約を祝う夜会の準備が整ったようで朝から沢山の召使
いやら侍女やら官吏やらが浮き足立っている。
王女の婚約を祝う為に国内中の貴族が揃うまで時間がかかってい
たのだ。
149
元々余り広くないレイナス王国は国境まで休まなければ馬車で三
日間あれば辿り着ける。
最も平地は、であるけどね。 実際に国境には山越えが必須だか
らそこからが長い長い。
途中で獣や山賊もでるらしい。 異世界要素満載な魔獣やら魔法
はないみたいだけど、幻獣の類いは居るらしい。
幻獣が居るならいまだに発見されていないだけで、人間が入れな
いような場所にはファンタジー生物がいるかもしれない。
らしい
だけどさ。
斯くして今城下には国中から貴族やら商人か犇めいているらしい。
自分で確認出来ないから、全て
﹁シオル殿下、明日はミリアーナ姫様とクラインセルト殿下の婚約
を祝う夜会がありますからいっぱいにおめかししましょうね?﹂
ここ数日で完全復活を遂げたミナリーは名誉挽回をと無駄に張り
切っていて怖い。
身の危険を感じるほどに⋮⋮、しかも時折﹁うひゃひゃ﹂と笑う
! 怖すぎる。
夜会が終わればドラグーン一行は帰国するそうなので取り敢えず
一安心。
婚約式は新婦の家で行われた後に、嫁ぎ先となる家に花嫁修業と
して出向し嫁ぎ先の作法等を学ぶのだそう。
150
婿入りも同様、その為に結婚式は嫁ぎ先で行われる。
ミリアーナ叔母様も夜会が終わり次第クラインセルト殿下と共に
ドラグーン王国へ実質嫁いでいく。
﹁姉上!﹂
あのミリアーナ叔母様が嫁入りかぁ感慨深いものがあるわー。と
思っていた矢先、バァン! と勢い良く扉を開いて本人が部屋に駆
け込んできた。
珍しく泣きが入っている、一体何が有ったんだろう。
そのまま首を振りながら仕切りに室内を一瞥すると、眼があった。
やばい! 見つかった!
キタキタキタキター! ずんずんと目の前にやって来ると、ヒョ
イっと抱き上げられた直後、両腕で締め上げられた。
﹁あーぶー!?︵潰される∼!?︶﹂
やばい! 真面目に絞まってる! タップタップ!
﹁ミリアーナ様? どうなさいました?﹂
後ろから優しく声をかけながら、お母様がミリアーナ叔母様の背
中をゆっくりと擦る。
151
おっ、なんだか力が弛んできたぞ? たっ、助かった。
﹁⋮⋮姉上、姉上は兄上に嫁ぐと決まって怖くはありませんでした
か?﹂
ポツリポツリと消え入りそうな小さな声で話し出す。いつもの活
発でどこまでも前向きなミリアーナ叔母様からは想像が着かない。
リステリアお母様は背後に控えたリーゼさんに視線を送ると、直
ぐ様リーゼさん以外の侍女達を部屋から下がらせた。
お母様の配慮なのだろう。リーゼさんもテーブルの上にお茶菓子
と紅茶をセットすると無言で一礼して部屋から出ていった。
﹁ミリアーナ様、ゆっくりとお話を聞かせていただけませんか?﹂
柔らかく促すと小さく頷いてテーブルへと移動する。 本当に何
かあったの? ミリアーナ叔母様らしくない。
革張りの椅子に腰を降ろしても、私を放す様子がない為にそのま
ま膝の上に良い子で座っていることにする。
上を見上げると、すっかり俯いてしまっている。
﹁さぁ紅茶をどうぞ。 それで、一体何が有りました?﹂
﹁あーあー︵さぁ、きりきりはけー︶﹂
少しだけ逡巡したあと、覚悟を決めたのか真っ直ぐに顔をあげた。
152
﹁怖いんです⋮⋮。国を離れなければいけないことが⋮⋮、クライ
ン、クラインセルト殿下は良い青年だと思います。 こんな女性ら
しさが皆無な私を好きだと、でも私はこの国が好きなんです﹂
﹁そうですね、私もこの国を愛しています﹂
﹁私はてっきり国内の貴族に降嫁するものだとおもっていました。
国のために、兄上の決めた相手のもとへ嫁ぎ、その方と兄上を支え
て行くのだと。 ドラグーン王国へ嫁げと言われたとき、何がなん
だかわかりませんでした﹂
今でこそ恋愛結婚が主流の日本でも、半世紀も遡れば親同士が決
めた相手のもとへ嫁ぐのが当たり前。
ミリアーナ叔母様のドラグーン王国へ嫁入りは最早国同士で決め
られたものだ。
親しい者がいない。
ただそれだけの事がどんなに怖いか、ましてや車や電車等なく帰
国するにも長い日数をかけて命懸けの移動となるのだ。
そうそうレイナス王国へは帰ることが出来ない。
﹁私に出来ることは剣を振り回す事位です、姉上の様にクラインを
癒したり出来ません。 正直クラインへ抱いている思いが異性への
ものかもわかりません﹂
へ?
153
﹁失礼ですが、ミリアーナ様殿方に好意を抱いたことは?﹂
﹁あります﹂
即答ですね、そりゃあるかぁ。
﹁ちなみにどなたですか?﹂
﹁兄上も宰相閣下も騎士のみんなも国民も大好きです﹂
﹁あう︵ダメだこりゃ︶﹂
具体的な名前が出てきたのが父様とシリウス伯父様のみ、明らか
に違うとしか言いようがないでしょ。
恋話は期待薄めなので、メインを目の前に聳えるテーブルの上へ
と変更しても良いでしょう。
この落差を越えた先に間違いなく甘味が待っているのよ!
﹁どなたかと一緒に居ると楽しかったり、ときめいたりとかは?﹂
﹁兄上と居ると楽しいし、強そうな人を見るとわくわくしますね﹂
お母様、その可哀想な脳筋姫は激ニブです。
﹁あぶー!︵もうちょい!︶﹂
テーブルに手を掛けてなんとか卓上を覗くと、確かに宝の山が見
える。 クッキーにチョコレート! そしてあれに見えるはマドレ
154
ーヌ!
くそっ、届け∼! 腕よ伸びろー。
テーブルの縁に阻まれてテーブルの中央まで届かない。
あっ、まずい。
左手を踏み外して重心を失い落ちかけた身体をミリアーナ叔母様
が抱き止めてくれた。
﹁シオル、危ないぞ? ほら﹂
だって甘い誘惑には勝てないんだもん!
もう一度自分の膝の上に連れ戻された、振り出しに戻るかぁ、再
チャレンジだなこりゃ。
﹁姉上、シオルにフィナンシェをあげても良いですか?﹂
マジ!?
ばっ! っと見上げればミリアーナ叔母様が苦笑している。
﹁シオル、本当に赤ん坊? なんか言ってること理解してる気がす
るんだけど⋮⋮﹂
そんなことは良いから、フィナンシェを! はーやーくー!
﹁ふふふ、解ったわ。 ミリアーナ様、少しずつ渡して下さいまし﹂
155
うぉー、お母様ありがとう! ミリアーナ叔母様愛してる∼。
念願のフィナンシェを渡されて大人しくなった私に二人で苦笑し
ているけど、気にしませんよ。 なんたって至福の時ですからね。
﹁では一緒に居ると落ち着かなかったり、近くに居ると動悸がした
りする相手は?﹂
﹁⋮⋮それは⋮⋮います。﹂
﹁お名前を教えていただいても?﹂
﹁⋮⋮クラインです⋮⋮なぜかいつも横に居るし、なにが楽しいの
かニコニコしていて稽古に集中できないし!﹂
動揺しながら言い募る。
﹁普段頼りないのに、いざとなるとかっこ良かったり。自分の国の
民を一番に考えているのも解るし⋮⋮それに⋮⋮﹂
それに? 続きが止まったので見上げると、真っ赤になり悶絶し
ている。一体何があってその反応?
﹁ミリアーナ様はクラインセルト殿下が好きなのですね﹂
すっかり覚めてしまった紅茶を飲むと納得した様にお母様が呟い
た。
﹁そ、そうなのでしょうか?﹂
156
﹁私にはそのような感想を抱きましたが、アルはどう思います?﹂
﹁ああ、俺も同意見だ。そうは思われませんかクラインセルト殿下
?﹂
﹁え!?﹂
居るはずのない声に驚き椅子から勢い良く立ち上がり、恐る恐る
私を抱いたまま振り返ると満足げな良い笑顔で父様の横に本人様が
立っている。
﹁嬉しいよ! てっきり片思いだと思っていたから﹂
﹁⋮⋮いつから?﹂
﹁名前が出る前から﹂
ほぼ始めから居たらしい。 どうやら気が付いて居なかったのは
私と叔母様のみ。
気配に敏感なはずのミリアーナ叔母様が気が付かなかったのは、
お母様の核心をついた問いに動揺したか、もしかして実は気配の消
し方が上手いのか判断にこまる。
﹁今は頼りないかも知れないけど、必ず貴女を幸せにしてみせます。
私と共にドラグーン王国へ来ていただけませんか?﹂
真摯に決して強制はしないと言う、でも自分の魅力は十分解って
いるのだろう。
157
小首を傾げて隠し味に儚さを少々、消え入りそうな小さな声で﹁
ダメ、ですか?﹂
うぉー、破壊力半端じゃない!
﹁貴女以外の妃を得たいとは思いません、貴女が居ない人生なんて
無意味です﹂
不穏な気配にミリアーナ叔母様が一歩下がった。
すかさず二歩分詰め寄る。
﹁それとも他に好きな男がいる?﹂
﹁えっ! ちょっ!﹂
じりじりと距離を詰められる。いやね、矛先が向いているのは自
分じゃないのはわかるけど、怖いよ∼!
﹁どこの誰だろうね? 名前を教えて? 直ぐに忘れられるように
してくるから﹂
﹁忘れられるようにって﹂
﹁ふふふ、安心して。 幸いそれだけの力はあるからね、今日ほど
王太子という肩書きに感謝した事はないよ﹂
クスクスと笑いながら壁際まで追い詰めた。こっ、これは壁ドン
!? 身長差逆バージョン!?
158
上目使いに見上げて微笑めば、効果は二乗! これって以外と見
上げる壁ドン良いかも!?
年下萌えじゃないの!
﹁僕のこと嫌いになってしまいましたか?﹂
先程までの自信はどこへやったのか悲しげに視線を伏せると愁い
を滲ませて力なく呟いた。
﹁そんなことはない! 私はクラインが好きだ!﹂
﹁あーう︵ああ、言っちゃった︶﹂
目の前に伏せられていた顔が一瞬ニヤリとしたのは見間違いじゃ
ないと思うよこれ!
﹁嬉しいよ! こんなに熱烈な愛の言葉は始めてだ! お聞きにな
りました? 義兄上!﹂
﹁ああ、良かったな﹂
同意を求められて父様が苦笑しながらも頷いた。
﹁義姉上もお聞きになりました?﹂
﹁ええ、両想いでようございました殿下﹂
おぅ、今度はお母様の言質を取ったよこの王子様。レイナス王国
159
最高権力者二名が証人、どうする気だミリアーナ叔母様。
着実に足場を固めて逃げ場を無くしてるよ、この王太子殿下。
﹁ありがとうございます! ミリアーナ姫?﹂
﹁え?﹂
話を向けられたものの、キョトンとしている。この顔は絶対に話
の展開に付いていけてないよ。
﹁クラインセルト殿下、レイナス王国王妃としてではなく、ミリア
ーナ様の義姉として姫を泣かせるような真似は慎んでいただければ
幸いです﹂
にこやかにクラインセルト殿下にお母様が釘を射す。
﹁勿論です。寝所以外では啼かせないとお約束致します﹂
約束の条件に父様は苦笑し、お母様は口許を隠しながら微笑み、
暫く時間要して漸く言わんとしている内容に思い至ったのか湯気で
も出そうな勢いで赤面するとズルズルと床にずり落ちた。
﹁ミリアーナ姫? 大丈夫ですか?﹂
そんなミリアーナ叔母様の顔を覗き込むようにしゃがみこむクラ
インセルト殿下の笑顔は眩しいほどに神々しく、とっても黒かった
です。
160
婚約祝賀会前編
レイナス王国の王女とドラグーン王国の王太子の婚約発表は城の
大広間にて執り行われることになった。
平時には使用される事があまりない大広間には瑞々しい生花が配
置され、磨き込まれた床は蝋燭の灯りに反射してそれなりの光度が
保たれている。
この広さの部屋を掃除した宮仕えの人達は偉大だと思うよ、これ
だけの生花を集めるだけでもかなりの労力が居るだろうなぁ。
そんな彼等の努力の集大成には現在沢山の参列者で溢れかえって
いる。
朝からあれでもない、これでもないと着せ替え人形と化していけ
ど、最終的に採用されたのはまたもやかぼちゃパンツ!
この国って子供の正装かぼちゃパンツじゃあるまいな?
当たり前のように会場に子供の姿はない。
今さらだけど、子供ってどうやって遊ぶんだっけ?
﹁ぶー⋮⋮︵退屈⋮⋮︶﹂
あの倒れたアリーシャさんとアルスさんはなったんだろう? 結
局ロブルバーグ大司教様はあの後一度も訪ねて来ることが無かった。
161
お陰で気分は待て! を貰ったワンコな気分。
取り敢えず目の前に広がったフロアではミリアーナ叔母様とクラ
インセルト殿下に祝辞を述べるために、沢山の人だかりが出来てい
る。
そして国王である父様とお母様の前にも人だかり。
﹁あーう︵祝賀会って疲れるわ︶﹂
もっと心弾む華やかなイメージがあったけどね、まぁ料理も飾付
けも立派ですよ? でもな∼、動けないのは頂けないわ。
﹁シオル殿下? あまり元気が無いようですが大丈夫ですか?﹂
今日のシオル係はレーシャさん。 本来なら侍女である彼女は同
席出来ないんだけど、急遽父様の指示で参加となった。
﹁お熱は無いようですが、お部屋に戻られますか?﹂
いつものお仕着せではなくドレスアップしたレーシャさんは心配
そうに顔を覗き込んでくれる。
﹁あーう︵大丈夫︶﹂
言葉は通じて無いのでにっこりと笑うことにする。 どこかほっ
としたように私を抱き直すと背中を擦ってくれた。
﹁アルトバール陛下、リステリア王妃陛下。 この度はミリアーナ
162
殿下の御婚約おめでとうございます﹂
双太陽神教の大司教を顕すローブを身に纏い、現れたロブルバー
グ大司教様は優雅に一礼すると顔をあげた。
﹁大司教様、この度は我が妹の為に祝福を授けて頂けるとのこと、
御礼を申し上げる﹂
﹁勿体無き御言葉。 なに儂にできることは限られておりますがな﹂
確かに本人は引退を宣言していたが、正式にはまだ大司教の地位
のままらしい。
﹁シオル殿下も御機嫌麗しゅう﹂
﹁あーう! あーう! あーう!︵待ってました! だっこ∼! 飽きた∼!︶﹂
﹁あらあら、シオル殿下急にどうされたのですか?﹂
ロブルバーグ大司教様に必死に両手を伸ばして暴れ始めた私に困
惑したままレーシャさんが慌てているけど気にしませんよ! 脱出、脱出!
﹁陛下、妃陛下。 シオル殿下を抱かせて頂いても?﹂
ロブルバーグ大司教様は苦笑しながらも保護者に許可を求めてく
れた。
﹁ふふ、シオルは本当にロブルバーグ大司教様が大好きですね。 163
宜しければ抱いてやって下さいませ﹂
対応に困っていたレーシャさんが、国王夫妻が許可を出したこと
で漸く開放してくれた。
﹁シオル殿下今日も元気一杯ですなぁ﹂
﹁あーぶー、あーあーぶ?︵こんばんは、あの後どうなったの?︶﹂
バシバシとロブルバーグ大司教様の胸元を叩く、この体は長時間
起きているのに向かないので本題は早めに切り出すに限る。
﹁ほほほ、まぁ直ぐに解る。 あまり急かすものではない﹂
悪い笑みを浮かべて会場に視線を向ける。なに? これから何か
始めるの?
楽団の奏でる曲がワルツへと変わると、次第に広間の中心から人
が壁際まで移動し始める。
すっかり空いた空間に今日の主役である二人が出てくると、音楽
に合わせて舞い始めた。
武芸を嗜むミリアーナ叔母様、実は余りダンスは上手くないのだ
が、クラインセルト殿下のリードが上手いのか問題なくリズムにの
ってターンを決めていた。
くるりくるりとターンの度にドレスの裾が美しくと広がる。
曲が終わると沢山の讚美が広間中から送られ、そのまま円の外へ
164
と歩き出した。
そんな二人へと人の合間を縫うように近づく男を捉えたのは偶然
だと思う。
貴族が着ている盛装と遜色ない服を身に纏っているが、違和感が
拭えないのだ。隠しきれない殺気を駄々漏れにしながらも、その顔
には暗い笑みを浮かべている。
﹁来おったな﹂
誰がって多分あの気持ち悪い感じがする男だろうなぁ。
どうやら父様も気が付いているのだろう、ロブルバーグ大司教様
と目配せすると側に控えていた騎士に指示をだしていた。
﹁さぁて始まるぞ? 一体何が釣れるかのぅ﹂
﹁あう! ぶー︵愉しそう! 参加出来ないのが残念だわ︶﹂
﹁仕方が無かろう。 儂は歳を取りすぎたし御主は赤子じゃ。 生
後一年に満たない赤子をこのような場に同席させる方が規格外じゃ﹂
呆れたように肩を竦めて見せられた。
﹁陛下は自分か王妃陛下の目の届く所に御主がおらんと落ち着かぬ
ようじゃ、まぁ御主の自業自得じゃな﹂
う∼ん、最近妙にお母様が部屋に居るとは思っていたけど気のせ
いじゃなかったのね。
165
御仕事の邪魔してご免なさい。
ロブルバーグ大司教様が言っている自業自得がこの前の夜間徘徊
の事だとして、今日の一代イベントに参加できる様になったのはま
ぁ良かったかな。
﹁ほれ接触したぞ?﹂
166
婚約祝賀会 中編INミリアーナ
ドラグーン王国で知り合ったクライン、クラインセルト殿下は明
是
るくて頑張り屋で可愛くて、ついつい護ってあげたい衝動に駆られ
るのも仕方がないかなぁと思う。
でも果たして男として見れているのか? と聞かれたら正直
とは言いがたい、なんと言うか弟がいたらきっとこんな感じなん
じゃないかな。
始めは王太子殿下だとは知らずに誘われるまま城下へ行ったり楽
しい外交をさせて貰った。
元々姉上の名代として兄上とドラグーン王国国王の戴冠式と王太
子殿下の立太子式と祝賀会に参加することが仕事だったし、兄上に
提示されていた報酬も魅力的だったしさ。
祝賀会でクラインがドラグーン王国の王太子だと聞かされた時は
否
とは言
とても驚いた。 そして国王に何故か大観衆の真ん中で婚約者とし
て紹介された時の衝撃は恐ろしく大きかった!
なんの冗談だ! と詰め寄りたくてもこの状況今更
えないじゃないか。
只でさえこの祝賀会はドラグーン王国の貴族だけでなく、兄上を
始め周辺各国から国賓がわんさか参列しているのに、嫌だなんて言
えない∼!
167
うちの国はなんの旨みもない弱小国家! この状態で反論はドラ
グーン王国に泥を塗るにも等しいじゃないですか! レイナス王国
存亡が危うくなりかねない。
一度レイナス王国へ帰る準備をしていたら何故かクラインもレイ
ナス王国を見てみたいと付いてきた。
元は平民でも王太子が簡単に国を出ちゃ不味いでしょ。護衛やら
結納金やらを問題なく準備して上機嫌で迎えに来た時は驚いた。
この数日で準備出来ちゃうドラグーン王国の国力と実行出来ちゃ
う行動力に兄上は渇いた笑い声をあげていた。
道中は景色を見たり色々な話をしたり楽しかったし、すっかり自
分がクラインと婚約した事実を忘れていた自覚がある。
クラインにエスコートされて帰城を果たした時も、免疫が無いた
め多いに戸惑ったさ。
手早く旅装を解いて、愛用の剣を携えてクラインを放置して真っ
直ぐに幼馴染みのゼストの元に向かったのが不味かった。
﹁ゼスト! 覚悟!﹂
近衛騎士としてハスティウス公爵家の三男ゼスト・ハスティウス
が出仕してからかれこれ七年。 善き騎士、善き友として共に切磋
琢磨してきた。
一時期は降嫁先として期待された事もあったが、いかんせん恋愛
感情には程遠く、ゼストが正妻を迎えたことで話はなくなったが、
168
遊び相手には違いない。
﹁おっと、ミリー帰ってきたのか?﹂
背後から急襲したのに軽く体をひねって躱される。
﹁ただいま、ゼスト鈍ったんじゃない?﹂
勢いをそのまま活かして足元を狙って一閃する。
﹁鈍ってねぇよ! つうか帰って早々なにやってんだよ? 他にす
ることがあるだろう、が!﹂
跳び跳ねることで躱し、そのまま後ろへと飛び去り間合いを空け
られてしまう。
﹁だからこうして挨拶に来たんでしょうが﹂
殺気を解いて愛刀を鞘へ終う、間合いを空けられてしまえば長期
戦になってしまうから仕方ない。 鍛えていてもゼスト相手に長期
戦は体力的に不利、やるだけ無駄。
﹁はぁ、一応我が国の姫君なんだから程々にしないと嫁の貰い手無
くなるぞ?﹂
あれ? もしかして
﹁大丈夫だよ? 婚約決まったから﹂
﹁ああ、聞いてるよ。 あの派手な王太子殿下だろ? 良かったな
169
ぁ貰ってくれる物好きがいて﹂
感慨深げに頭を撫でられた。 やっぱりゼストに撫でられるのは
気持ちがいい。
﹁ふふふ、凄いだろ∼! もっと誉め称えていいんだよ?﹂
仕切りに頭を撫でていた手がピタリと止まった。 訝しげにゼス
トを見上げれば私の後ろを向いたまま見事に硬直している。
﹁どうしたの?﹂
ゼストに問い掛けても返事がない。 背後を振り返ると眉間に皺
を寄せながら微笑むクラインが静かに腕を組んでこちらを見据えて
いた。
眉間に皺を寄せながら微笑むって出来るもんなんだね、始めて知
ったよ⋮⋮怖!
﹁お捜ししましたよ? ミリアーナ姫、旅装を解いたらレイナス王
宮や城下町を案内してくれると御約束の通り御部屋に伺ったのです
が、どうやらお邪魔でしたか?﹂
やばい、これは否定して置かないと!
﹁す、すまない。 幼馴染みに帰還の挨拶をしていただけだから﹂
﹁ほう、幼馴染みとはそちらの男性ですか?﹂
﹁そうだ。 兄上の近衛騎士でゼストと言うんだ﹂
170
﹁随分と親密なのですね? 始めまして、ドラグーン王国王太子ク
ラインセルトだ。 私の婚約者が迷惑をかけたようだ。 すまない
な﹂
クラインはゆっくりとゼストの前にやって来ると、ミリアーナに
右手を差し出した。
﹁御初に御目に掛かります。 レイナス王国近衛騎士ゼスト・ハス
ティウスと申します。 以後お見知り置きを﹂
クラインの言葉に一瞬殺気のような不穏な気配を発したものの、
直ぐに持ち直して臣下の礼を取る。
﹁ゼスト、私はクラインに城内を案内するんだ。 又後でな﹂
この場を離れたい一心でクラインの手を握るとそのまま扉へと引
き摺る。
もしミリアーナが振り返えっていればゼストとクラインが視線を
外すことなくお互いを見続けている事に気が付いたかも知れないが、
今そんな余裕は無い。
それからと言うもの、朝から就寝まで側から離れようとしないク
ラインに困惑した。 慣れない他国に来ているから不安もあるのだ
と思ってみたけど、正直息が詰まる。
﹁クライン、別に私に付き合わなくてもいいんだぞ? 退屈じゃな
いか?﹂
171
日課の朝の素振りをしていた時に視姦に耐えかねて聞いてみる。
一体何が楽しいのよ?
﹁楽しいですよ? 貴女の剣はまるで舞を踊るようですね﹂
満面の笑みをもってお返事を頂きました、はぁ⋮⋮。
﹁そ、そうか?・・・・・・それなら構わないが⋮⋮﹂
﹁はい。どうぞ気にせずに続けてください。﹂
気になります! 悩んだあげくに義姉上にすがり、可愛い甥っ子
のシオルで癒されクラインに連れ戻されました。
迎えに来たクラインは笑顔だったけど、怖かった!
だけど、義姉上のお陰で自分の中に確かに根付いた物を確認でき
た事は確かだ。
あぁ、クラインが好きなんだなぁ。
自覚してからまともにクラインの顔を見れなくなってしまったの
は仕方がないじゃないか、自分を見詰める瞳が自分でも驚くほどに
鼓動を跳ね上げる。
祝賀会当日もクラインが部屋へ現れた時には、直視出来ずについ
視線をそらせてしまったのも無理はないと思う。
盛装を纏ったクラインが眩しいほどに輝いて見えるのだから。
172
紺碧の瞳よりも深い濃紺の上下には品良く精緻な刺繍が施され、
胸元に紅い薔薇が飾られている。
﹁ミリアーナ、とっても綺麗だ! まるで双太陽神の姫君みたい
だね﹂
レイナス王国とドラグーン王国の婚約祝賀会が開かれる事もあり、
朝早くに叩き起こされた。
あれよあれよと浴室に連行されてから湯浴みにオイルマッサージ、
美容、着付け、メイクにへアセット、祝賀会の準備に気合いの入っ
たミリアーナ付の侍女に妥協と言う言葉はなかったし、むしろ日頃
ミリアーナが男装ばかり好むので嬉々とした侍女達は準備したのだ。
部屋にやって来たクラインは開口一番にミリアーナを誉め称えた。
褒められるのは嬉しいよ? でも神様と比べないでよ、バチが当
たるって!
﹁あ、ありがとう﹂
嬉しさと恥ずかしさにひきつりつつ答えると、それまでの王太子
の仮面が外れた。
﹁いっとくけど本心だからね? 凄く綺麗だ﹂
﹁やっとクラインに戻ったね?﹂
﹁うん? 俺は俺だよ?。﹂
173
差も当然とばかりに言われてもねぇ。
クラインにエスコートを受けておどおどしながらも会場へ向かう。
王女の婚約を祝う宴には既に沢山の貴族が入場していて、色鮮や
かな衣装を纏った参加者で溢れていた、そこへ更に使用人や警備の
騎士などが集っているため大所帯だ。
大国ドラグーンと比べればやはり劣るかもしれないが、皆自分の
婚約を祝ってくれているのは単純に嬉しい。
﹁ミリアーナ姫、御婚約おめでとう御座います﹂
﹁王太子殿下、ミリアーナ姫は我が国の宝です。 殿下も御目が高
い﹂
先に入場していた兄上に二人で挨拶を済ませると、早速挨拶に来
た人々に取り囲まれる。 口々に祝辞を述べる貴族はミリアーナを
これでもかと持ち上げた。
褒められるのはありがたいが、その我が国の宝が今まで婚約者が
ないとはどうよ? 普通の姫とは違う自覚はあるけどね、ヨイショ
の仕方が尋常じゃない。
男勝りの姫が思わぬ大物を釣り上げた為、皆浮き足立っているの
だろけど、明らかなゴマスリに苦笑を禁じ得ない。
中でも熱心なのはドラグーン王国に近い領地を持つ貴族が主、今
後自分達の領地を発展させるには最善策だが露骨すぎやしませんか?
174
﹁ミリアーナ﹂
それまで楽団が奏でていた音色が、ローテンポの曲へと切り替え
られた。
﹁一曲御相手頂けませんか?﹂
﹁はい﹂
クラインに手を引かれて広間の真ん中までやって来ると右手を繋
ぐと直ぐにクラインの右手が背中に回される。
たったそれだけの事なのに、ビクリと身体が跳ねた。
これまでも夜会等で他の男性とこうしてダンスをしたことはある
けど、どうもいつもとかってが違う。
左手をクラインの腕に添える。
ダンスは正直苦手だ。 武術は自分でも驚くほどに上達したと思
うけど、なぜかダンスはからっきしだった。
同じく身体を動かすだけなに、相手の足を踏んでしまうのだ。
なぜ踏み出した所に在るんだ足よ!
無意識に身体に力が入る。 うぅぅ、やはり避けらんないか⋮⋮。
﹁大丈夫だよ? 私に任せて?﹂
175
強張りを感じ取ったのか、ミリアーナにだけ聞こえるように囁か
れ自分を見上げる優しい瞳と交錯する。
自分でも驚くほどに無駄な力が抜けていくのがわかる。 クライ
ンの動きに、音に合わせて第一歩踏み出した。
踊りやすい! ドラグーン王国でも驚かされたがクラインのリー
ドは的確きだった。
ミリアーナの歩幅に合わせて踏み込み、逆に踏み出した歩幅がク
ラインの足に届くことなく曲が終わると周囲から惜しみ無い拍手が
贈られた。
﹁ね? 心配なかっただろ?﹂
﹁ふふ、そうだね﹂
壁側に移動して歩き出す。 苦行と言っても過言ではなかった宴
が楽しいと思えるのは、きっと隣を歩くクラインがいてくれるから
なのだろう。
﹁どうかした?﹂
ミリアーナの視線に気が付いたのか首を傾げて聞いてくる。
﹁ううん、なんでもない﹂
微笑み会う時間は突然かけられた声に遮られた。
176
﹁ドラグーン王太子殿下、レイナス王女殿下。 御婚約おめでとう
ございます﹂
行く手を遮るように進み出たのは壮年の男だった。 貴族と遜色
この男は強い
声をかけられるまで気配を感じさせることがな
ない衣服をまとっているが、明らかに貴族では無いだろう。
かったし、今も視界で捉えているからこそ其処に存在しているのが
判るほど希薄。
気配を消す、それが男が凄腕であることの証明かもしれない。
﹁ありがとう。貴方は?﹂
笑顔を崩さないように注意しつつ、無意識に腰に手を移動した、
いつもならあるはずの愛剣はドレスと言うことで手元にはなく触れ
ることなく空を切る。
﹁名乗るほどの者ではありませんよ、もうお会いすることもありま
せんのでね!﹂
一瞬にして放たれる殺気。懐から引き抜かれた銀色に煌めく短剣
を目にした瞬間、反射的にクラインの首の付け根を掴んで引き倒し
た。
﹁えっ!? うわっ!?﹂
﹁ちっ!﹂
小さく舌打ちする男が尚も倒れたクラインに追い縋る。
177
﹁させるか∼!﹂
ドレスのスカートをカーテンを引くようにクラインと男の間を遮
ると男は勢い付いたままスカートに突っ込んできた。
くっ、重いな。 引き倒されそうになる身体をなんとか踏ん張り、
全体重を賭けて前進する。
﹁!?﹂
いきなり失速し、重心を反らされた男が背中から床に叩き付ける。
ビリ! ドレスを短剣が切り裂くが目の前の逆賊を捕らえること
が先決、すっかり穴が空き裂けてしまったスカートをそのままに、
転がった男を踏みつける。 狙うは急所一卓! 女の自分でも驚く
ほどに痛い性器のみ!
踵の高いヒールの爪先で全体重を注ぎ込み踏みつけると広間に絶
叫が響いた。
﹁うわー﹂
﹁あれは、痛い﹂
場内中の紳士諸君がもれなく同情的な視線を襲撃者に向けている
が、こちらは正当防衛! 知るか!
﹁なにボケッとしてる! 捕らえろ!﹂
178
シリウス宰相の声に我に還った騎士達が口から泡を吹いて床に伸
びている男を回収していく。
それと同時に広間の出口で騒ぎが起きている所を見るに賊はひと
りではなかったんだろう。
﹁ミリアーナ! け、怪我は!?﹂
起き上がり駆け寄ってきたクラインに肩を掴まれて、身体の向き
を変えられる。
顔を青くしながら、全身をくまなく確認していく。
﹁大丈夫だよ? 私がこれくらいで怪我するわけないじゃん﹂ 安心させるようにクスリと笑うと、大きな溜め息を吐きながら抱
き締められる。
途端に高鳴る鼓動は先程までの賊と対峙したからなのか、それと
もクラインの腕の中だからなのかわからない。
﹁頼むからこんな危ないことはしないでくれ﹂
ミリアーナを抱きながらその存在を確認するように、力を込めて
安堵と焦燥が混ざった声が囁く。
﹁誰の目にも触れないように、腕の中に閉じ込めてしまえれば良い
のに⋮⋮﹂
クラインの言葉に一気に血の気が下がる。
179
﹁じ、冗談だよね?﹂
そんなミリアーナの顔を見上げると、ふわりと微笑みながら冗談
だと言う。
﹁いまのところはね?﹂
いまのところってなんだ!?
ふとミリアーナの破けてしまったドレスに視線を走らせると自分
の上着を脱ぎ破れたスカートを覆うとそのまま膝の裏に腕を差し入
れて横向きに抱き上げた。
一見華奢にすら見える細腕のどこからこの腕力が出てくるのだろ
うか。
﹁国王陛下、一度姫と下がらせていただきたいのですか宜しいでし
ょうか?﹂
主催者である兄上に退席の許可を求めて声をかける。兄上が頷く
のを確認するとクラインは私を抱上げたまま一礼するとそのまま広
間を後にした。
180
婚約祝賀会後編と自業自得ぅ∼御免なさい!部屋に帰して!
ほえ∼、あの王太子殿下以外と力持ちだったのねー。
ミリアーナ叔母様を横抱きにしたまま颯爽と会場から去っていく
クラインセルト王太子を見送り、先程までの大捕物にざわつく室内
にパンパン! と二度ほど響いた音に目を向ける。
どうやら音は父様が玉座から立ち上がり掌を叩いた音だったらし
い。
﹁皆騒がせてしまいすまなかった。 宴を続けてくれ﹂
鷹揚に告げた声にそれまで、騒ぎに止まっていた演奏が再開され
ると、殺伐とした空気が弛む。
しかし⋮⋮。
﹁いやー、王女殿下はえげつないのぅ。 仮にも反逆者じゃから庇
いはせんが、あれは⋮⋮﹂
視線をあげるとなんとも言えない表情を浮かべて苦笑するロブル
バーグ大司教様。
うん、まだ経験は無いけれどあれは痛いだろう。
まださち子だった時分に平均台を踏み外して見事に打ち付けたと
きはあまりの痛さに暫く動けなかったのを思い出した。
181
今回の捕縛者はクラインセルト殿下に直接刃を向けた男を含めて
五人、会場から騎士達が目立たないように引き摺っていく。
﹁あーふ?︵これでおわり?︶﹂
﹁わからんの、まぁ陛下に任せておけば問題ないじゃろうて﹂
﹁あぶあーふ︵まぁ出来ること無いしね︶﹂
目の前て何事もなかったかのように繰り広げられる祝賀会は赤ん
坊の身体では疲れてしまったのだろう、うつらうつらと眠気に負け
て気が付けば柔らかな寝具の中で目を覚ました。
******
﹁王女殿下! お気をつけて!﹂
﹁ドラグーン王太子妃殿下万歳!﹂
寝起きと共にいつものごとく色違いの真っ赤なカボチャパンツ︵
マジでこれしかないの!?︶に着替えさせられて、現在ドラグーン
王国へと旅立つミリアーナ叔母様とクラインセルト殿下の出国見送
りに正門まできていた。
昨晩の麗しい姫君はどこへやら、騎士服を改造したいつもの上下
に身を包み、ミリアーナ叔母様は父様の前に深く頭を下げる。
182
うん、今日も叔母様は凛々しいです!
﹁ミリアーナ、レイナス王国の名に恥じぬよう。 誠心誠意クライ
ンセルト殿下をお支えするように﹂
﹁レイナスの名に恥じぬよう努めて参ります﹂
﹁うむ、しかし無理はせず、何時でも帰ってきなさい﹂
﹁兄上⋮⋮﹂
﹁きちんと食事は取るのだぞ? それから腹を冷やさぬように、そ
れから﹂
﹁兄上! 私はもう子供ではありませんよ?﹂
どうやらよほどミリアーナ叔母様を嫁に出すのが心配なのか、な
おもいい募ろうとする父様の言葉を慌てて遮った。
クスクスと漏れ聞こえる笑い声は優しさに包まれおり、この兄妹
が愛されている証しかなと思う。
実質的にミリアーナ叔母様がドラグーン王国へ輿入れすれば、自
動車も鉄道もないこの世界ではそう簡単に里帰りなど出来ないのは
目に見えているし、誰よりもわかっているのは父様だろう。
﹁クラインセルト殿下、妹をよろしくお願いいたします﹂
ミリアーナ叔母様の一段下で家族の別れを見守っていたクライン
セルトに声をかけて頭を下げると、倣うようにして家臣達も一斉に
183
続く。
﹁必ず幸せにすると御約束いたします﹂
﹁じゃ! 行ってきまーす!﹂
輿入れのために用意された二頭立ての馬車に乗り込むと元気良く
千切れんばかりに手を振って城門を潜るドラグーン王国王太子夫妻
を見送る。
城と城下を隔てていた大きな扉が開け放たれると、わあっ! と
歓声が城下から上がったのが聞こえてきた。
先導する騎士達に続き姿を現したミリアーナ叔母様の祝福に、沢
山の民が駆け付けてくれた。
それは彼女が愛される姫君だという証だろう。
﹁行ってしまわれましたね⋮⋮﹂
﹁ああ、相変わらず落ち着きのない奴だ。 まるで嵐のような嫁入
りになってしまった﹂
寂しそうな呟きが聞こえ、目を向けるとリーゼが目頭をハンカチ
で押さえている。 父様が小さく震える肩口を抱き締めると愛しげ
に背中を撫でた。
﹁リーゼは俺とミリアーナのもう一人の母だからな、あのお転婆を
ここまで支えてくれてありがとう﹂
184
﹁はっ、はい。 微力ながら御二人にお仕えでき私は幸福者です﹂
﹁これからもシオルのことや色々と苦労をかけると思うがよろしく
頼む﹂
﹁我が主の仰せのままに﹂
父様の労いに決意を新たに先程までとはうってかわり恭しく頭を
垂れた。
﹁皆もこれからもこの国を支える力として私の補助を頼みたい、不
甲斐ない王かも知れないが、よろしく頼む﹂
﹁我が主の仰せのままに﹂
自嘲混じりの懇願に家臣団が口を揃えて国を支えると誓ってくれ
た。 頼もしい限りでよかったよかった。
大国の王太子殿下ご訪問とミリアーナ姫の嫁入りは途中アクシデ
ントはあったものの、滞りなく済んだ。
国内のミリアーナ姫の隠れ婿希望者は、かなり分かりやすく撃沈
したものの、男装の姫君と大国の王太子の恋愛を題材にした本が発
売されるやいなやあっという間にベストセラーになったそうな。
嫁いだ叔母様はさておき、事件はドラグーン王太子夫妻が出立し
てから数日後に起こった。
外交訪問の影響で滞り山積した国政を解消するべく、執務室に籠
りがちになっていた父様の仕事が最近やっと本来の有るべき姿に戻
185
ってきていた。
それまで何故か執務室にシリウス伯父様と引きこもり仮眠をとっ
ていたのだが、ようやく自室へと戻って来ることができるまで回復
したらしい。
目に見えて窶れていく様は、妻のお母様やリーゼさんが心配して
執務室へと差し入れる軽食に睡眠薬でも一服盛ろうかと画策してい
る最中だった。
いやぁ、いつか本当に盛るのじゃなかろうかとヒヤヒヤした。 なにせこの話をしているときのお母様は相変わらず美しく微笑んで
居たけど、目が一切笑ってなかったのよ。
﹁あーうー⋮⋮︵怒らせないようにしよう⋮⋮︶﹂
そう心に誓いつつ、何時ものように赤ん坊の義務をこなして数日、
父様がきちんと寝室で休むようになった。
脱走以来、寝室を移されてお母様と同室になったのだと思ってい
たけれど、どうやらこの国は夫婦同室が基本のようだ。
仕事に疲れた父様を自室にてお母様が迎え、同じ寝室で親子三人
眠りにつく訳だけれども、どうやらすっかり忘れてしまっていた。
父様もお母様も現役バリバリの若人だと言うことを!
何時もよりも早めに仕事を切り上げて、親子仲良く夕食をとり、
いつも通りに白湯で身体を清めて居間で父様に遊んでもらう︵構い
倒される︶。
186
その後お母様にあやされて寝落ちしたまでは良かったのだ、うん。
夜中に物音が聞こえてベビーベットで目が覚めたのが間違いだっ
た!⋮⋮
﹁﹂
﹁⋮⋮、⋮⋮﹂
うん? なんの声?
聞き取れないほどの小さな小さな声がして寝返りをうつ。
﹁⋮⋮!?﹂
そろりそろりと天蓋付きのベットから忍び足でベビーベットへと
やって来た人の気配に、咄嗟に寝たふりをした。
﹁⋮⋮大丈夫だ。 ちゃんと寝てるよ⋮⋮﹂
えっ、起きてちゃ不味い?
ベットを振り返り呟かれた言葉に、ついつい薄目をあけて声の主
をみれば、見事に鍛え抜かれた裸体が!
うおう! 父様良い身体してますね! 前世の美術室にあったダ
ビデ像どころか、鍛え抜かれた某ダンスユニット顔負けの胸板と腹
筋に目が離せません!
187
﹁そ、そう。良かった⋮⋮﹂
ベットの上から聞こえたお母様の声に、又顔を覗く為に動き出し
た父様に気付かれないように良い子のシオルちゃん︵自分で言うな︶
は必死に寝たふりを続行中。
﹁だから大丈夫だって言っただろう?﹂
﹁⋮⋮そうね⋮⋮﹂
﹁リステリア⋮⋮﹂
急に甘さを含みだした父様に一瞬にして凍りつく。 何だろう、
急に雲行きが怪しくなってきましたよ!?
﹁アル⋮⋮あっ⋮⋮うん⋮⋮﹂
﹁リステリア⋮⋮愛してる⋮⋮﹂
﹁私も⋮⋮はぁん﹂
うぎゃー! 始まった! これは間違いなく前世で縁がなかった
あれだ!
熱い吐息と甘い声、軋むベッドぉ∼!
なぜ良い子ぶってしまったのか、寝たふりをしてしまったんだ私
! 父様が裸だった時点でなぜ気がつかなかったんだ∼!
その後すっかり覚めてしまった眠気を呪い寝たふりを繰り返し、
188
時折覗きつつ営みが終わるまで堪能した私に言えること⋮⋮。
父様は絶倫でした⋮⋮。
ああ、空が明るくなってきた⋮⋮さぁ寝よう⋮⋮。
翌日スッキリした父様と気だるげなお母様にまぁ、夫婦仲が良い
のは善いことだとおもったさ。
でも甘かった、スッゴク甘い希望的観測だったんだ!
それからと言うもの毎晩聞こえてくる悩ましい美声!
御免なさい! もう夜中に脱走しません! お願いだから、お願
いだから自分の前の部屋に戻して∼! 189
ロブルバーグ様のお客様
さち子ちゃん改めレイナス王国のシオル君は現在図書室でロブル
バーグ様が引っ張り出してきた教材を熟読中。
﹁むかち、し。 むかし、ふたごのかみしゃ、さまがいました﹂
美しい色彩で彩られた絵本を床に置きペラリと羊皮紙を捲り、舌
足らずな口調で文字を追いながら、私は今日も勉学にせいを出して
います。
ミリアーナ叔母様がドラグーン王国のキラキラ王子に嫁に行って
︵正式には婚約中︶から自分の行動を悔いながらはや一年ちょっと、
わたくし二歳になりました。
ロブルバーグ様︵本人の希望で様呼びになりました。︶の教育の
賜物で一通りの文字は読めるようになりました。
頑張った私!
ロブルバーグ様ありがとう御座います。
﹁むー、むじゅ、ずかしい!﹂
これで舌が回れば完璧なんだけどねぇ。
﹁二歳児ならそんなもんじゃろ﹂
190
据え付けられたテーブルの向かい側に座りながら分厚い教典を捲
りながらロブルバーグ様が返事をくれます。
﹁ろー、ロブルバーグしゃまはいってることわきゃるんだきゃらい
いじゃん!﹂
﹁ロブルバーグさまはいってることわかるんだからじゃ!﹂
くっ、直された! 文字は読めても呂律がまわらないんだから仕
方無いじゃん。
﹁もっとちぎゃうほんがいいでしゅ﹂
文字を読むことは出来るようになったけど、羽根ペンを持つと意
思に反して文字に成らないのは困った。
基本的にこの世界の文字はローマ字みたいな法則に則って構成さ
れているので助かったけど、羽根ペンを持つのにぎっちりと掴むし
か出来ません!
鉛筆の持ち方って実はかなり高度な握力要ったんだね。
﹁もっと違う本が良いです。 じゃ、その本がきちんと発音出来る
ようになったら徐々にじゃな﹂
﹁そんな∼!﹂
実はこの本、本日五十三回目の音読です。
子供向けの絵本なのでページ数も少なく、文字も大きいため読み
191
やすいんだけど。 飽きました。
苦行だよ全く。
﹁失礼します! ロブルバーグ様はこちらにいらっしゃいますでし
ょうか?﹂
﹁図書室での大声はご遠慮願えますか?﹂
﹁あっ、すっ、すいません﹂
図書室の入り口から聞こえてきた元気の良い声を張り上げた近衛
さんが司書のお姉さんに怒られてます。
﹁儂はここじゃよ、どうかしたかの?﹂
ペコペコと司書さんに頭を下げている近衛さんを見かねて声をか
けると、近衛さんがこちらへ走ってきます。
﹁はっ! 実は御客様がいらっしゃっておりまして陛下の命にてお
捜ししておりました﹂
司書さんに言われましたよね、懲りずに大きな声で敬礼をとる近
衛さんの様子にロブルバーグ様が苦笑を浮かべておりますよ。
﹁わかりました、陛下はどちらに?﹂
﹁陛下は現在北の棟でお客様の御相手をされております﹂
近衛さんの返答にロブルバーグ様が額に皺を寄せてます。いつも
192
好好爺している彼にしては珍しいものもありますが。
﹁国主自ら相手せざるを得ない人物ということですかのぅ、はて?
こんな年寄りをわざわざ訪ねてくるようなもの好きがいるともお
もえんがのぅ﹂
﹁ロブルバーグしゃま、きょうのおべんきょうはおわりですきゃ?﹂
﹁うむ、おわりじゃのぅ。 さて⋮⋮﹂
其まで腰掛けていた椅子から立ち上がるとひょいっと私を抱えて
床に下ろすと手を繋ぎ一緒に歩いて図書室から出ました。
いつも通り司書さんに大きく手を振るとニッコリ笑顔で手を振り
返してくれました。
この司書のお姉さん、あまり表情を変えずに淡々とお仕事をこな
し、元々美人なのにつり上がり気味な青い瞳が一見気難しい様に見
せてしまう為、今年中にお嫁に行けないと年増扱いになってしまう
のです。
が! 私は知ってますとも。彼女が極度の人見知りで大変子供好
きなことを! 日頃ツンツンしてるのですが子供や自分が好意を寄
せる相手、しかも懐に入れた方にはとことんデレる人なのだ。
﹁あんなに気立てが良いご令嬢なのに男女の縁がうすいとは難儀よ
のぅ﹂
言いたい事はわかりますとも! 彼女が笑み崩れるの黙って見て
いるのはもったいないんだもの!
193
﹁ロブルバーグしゃま、だれきゃいいおとこ、いないでしゅきゃ?﹂
﹁儂があと三十年若ければのぅ﹂
実はロブルバーグ様はかの司書さんをお気に入りなのです。
﹁さて、冗談はこのくらいにして一緒に行くのじゃろ?﹂
﹁もちろん!﹂
父様が直々にもてなすお客様。興味ありますとも!
﹁ふふふ、それでこそ儂の弟子じゃ﹂
にや∼っと笑みを貼り付けて微笑み合うと意気揚々とお父様の元
へと向かいました。
﹁陛下、ロブルバーグ様がお見えになりました﹂
北の棟の目の前にある扉は正規のお客様出はなく、御忍びの親い
お客様が招かれる部屋です。
前に入ったことがあるのですが、白を基調として優しい若葉を感
じさせる細いストライプの壁紙と木目の美しさをいかした家具があ
るんですね。
寛げそうな雰囲気を醸し出す部屋です。
一歳の誕生日に歩けるようになり探険を繰り返して居たときにこ
194
の部屋を発見したときはついつい雰囲気をが気に入って度々来ては
まったりしていたのですが。
ついついまったりし過ぎて寝こけてしまい、大騒ぎになってしま
いましたよ。
扉を守っていた近衛騎士さんが私と手を繋いでやって来たロブル
バーグ様を認めると二度ほど扉を叩いた後室内に声をかけました。
異世界でもこの辺は同じなんですね。
﹁あぁ、入れ﹂
おっと入室の許可がおりました。 父様の声ですね。
﹁失礼致します。 ロブルバーグ、只今参りました﹂
ロブルバーグ様が頭を下げたのに合わせて私もさげますよ。 礼
儀作法は真似して覚えるのがいちばんですね。
﹁よく来てくれた、顔を上げてくれ。 実はロブルバーグ殿にお客
様が見えられていてな﹂
顔を上げると革張りのソファーに腰を据えた父様に、向かい合わ
せで座る人物を見上げた。
﹁⋮⋮﹂
﹁ロブルバーグしゃま?﹂
195
顔を上げると同時に沈黙してしまったロブルバーグ様を不信に思
い見上げると見事にフリーズしてしまってます。
﹁お久し振りですお祖父様。 御健勝で何よりで御座います﹂
美しい艶を放つ長い金色の髪を首筋にたらした美女白いすべらか
な手にもったカップをテーブルに戻すと、優雅に立ち上がり扉の前
のロブルバーグ様に微笑みかけました。
転生してからの美形エンカウント率が高すぎて吃驚です。
スッと通った鼻梁は絶妙な高さだし。 唇に引かれた赤い口紅と
青い瞳。 右目の下の黒子が色っぽいのに着ている服は双太陽神教
の司祭服を纏ったむっちり美女。
﹁アンナローズ、おまえがなぜここに?﹂
﹁ふふふ、嫌ですは。 ドラグーン王国の立太子式に向かわれたま
ま一向に本部へお帰りに成らないお祖父様を迎えにきたのですわ﹂
さも当然だと言わんばかりに大きな胸を張って見せる。衝撃にフ
ルンッと揺れた胸は禁欲的な修道服と相まって男性にはさぞや魅惑
的でしょう。
因みに私はムラムラしません。 身体が二歳児だからなのか、は
たまた中身がおばちゃんだからなのかわかんないけど。
少なくとも父様や同室している近衛騎士さんには威力抜群!お∼
い、父様? 鼻の下が伸びてますよー?
196
お母様にバラすよ?
﹁なんじゃと、ローナンドに持たせた手紙は届いておらんのか?﹂
﹁届いておりますよ?﹂
懐から封筒に入ったままの手紙を取り出して中身を開くと、文面
が本人に見えるようにロブルバーグ様の前に突きつけた。
﹁こんなふざけた書類が認められるわけないでしょう!﹂
﹁うっ!﹂
なになに?
﹃拝啓 法王猊下
年寄りに教会本部まで帰るのは疲れるので、ここらで引退しま∼
す。後任は猊下にお任せしますので宜しくお願いします。
追伸 取り合えず面白い子供を見付けたのでレイナス王国に隠居し
ます、近くに来るときは顔でもみせてくだされ。
早々﹄
うわー、これって。
﹁ふむ、確かに儂の文じゃ﹂
197
﹁ふむ、じゃありません! こんなの認められるわけないでしょう
!﹂
﹁血判も押してあるし、大司教の封蝋印も返還したから問題ないは
ずじゃ﹂
﹁問題があるから私がこうしてわざわざレイナスまで来ているので
すよ!﹂
胸を下から支えるように両腕を組み佇むアンナローズ様は迫力満
点です。いろんな意味で。
﹁そんなもん、法王猊下の印さえあれば可能じゃろうが﹂
﹁ですからお祖父様の手紙が届く前に猊下は天に召されて仕舞われ
たので、受理されてません!﹂
﹁へっ!?﹂
アンナローズ様、今なんて言いました?
﹁ですから直ぐにお戻り下さい、これからコンクラーベです。 新
しい法王猊下が決まらねばいつまでもお祖父様は教会関係者なんで
すから!﹂
﹁それこそ関係ないわい! 儂は大司教じゃ! コンクラーベは枢
機卿がするもんじゃ! 儂の出番はない!﹂
確かにコンクラーベは枢機卿から選ばれるから自称元大司教様の
ロブルバーグ様には関係ない。
198
﹁はぁ、やはり聞いておりませんでしたのね? レイナス王国へ旅
立つ前に猊下から枢機卿への昇進を言い渡されましたでしょう?﹂
﹁へっ?﹂
﹁もう! 出発前にトリンドル枢機卿がお倒れになり、枢機卿へ昇
進しましたでしょう。 正式に手続きが済むまで枢機卿代理として
レイナス王国へ、正式な任命書はドラグーン王国へ行くようにとの
書類と共に猊下の書面が届きましたでしょう?﹂
はっ! としたようにロブルバーグ様は自室へ向かって走り出し
た。
﹁どこじゃ!? どこにやった!?﹂
自室の机の引き出しやらチェストやらを盛大にひっくり返しなが
ら目的の封筒を見付け出し手紙を取り出して中を確認するが、床に
落ちた書面は一枚。
ほっ、と胸を撫で下ろすと、厚みを失わない封筒に違和感を覚え
てゆっくりと中を覗き込む。
﹁もしや!﹂
空の封筒の内側側面、無駄に厚みある場所を丁寧に破ると中から
出てきた羊皮紙を恐る恐る開く。
法王猊下直筆の枢機卿任命書。猊下聖印付き正式書類。
199
﹁嫌じゃ儂は引退したんじゃ! 何故にいまさら枢機卿なぞせなな
らんのじゃ! しかも法王選出へ出るために教会本部まで来いじゃ
と!? じじぃをなんじゃと思っておるんじゃ! 儂はぜーったい
行かんぞ! 長旅なんぞしたら違う所に逝ってしまうわい!﹂
200
ロリ?ショタ?シスター
﹁お祖父様失礼しますよ﹂
ロブルバーグ様の自室の扉を開けると、脚の踏み場がありません
でした。いつも綺麗好きなロブルバーグ様には信じられない散らか
りっプリです。
﹁ロブルバーグしゃま、だいじょうぶでしゅか?﹂
とっ散らかった部屋の床で絶望にうちひしがれたロブルバーグ様。
脱兎の如く駆けていったロブルバーグ様を追い掛けようとした私
は、ひょいっと抱えられて現在アンナローズ様の豊満な胸を枕に抱
き締められております。
ふにょっとした感触が素晴らしい。 やめられない止まらないで
すね。
何を食べたらこの体型になるんだろう。 前世はお腹の方がポッ
チャリしていた私としてはすごく気になる。
﹁ふふふっ、さぁお祖父様、逃げられませんわよ﹂
ロブルバーグ様を追い詰めるのはまぁ、わかります。 わかりま
すが、何で私は頬擦りされているんでしょうね。
﹁あんなろーずゅしゃま?﹂
201
男でも女でも美人さんに懐かれるのは役得のはず。なのになぜ悪
寒がはしるんだろう。
﹁アンナローズ、シオル殿下を離しなさい。 脅えておられる﹂
﹁あら嫌ですわ。 私は可愛い少年を愛でているだけですのに﹂
いや、愛でかたが違うと思うのですが。
﹁はぁ、お前も変わらないのぅ。 いたいけな幼児や小児に懸想す
るのは辞めなさいと昔から言っておるだろう﹂
﹁けそう⋮⋮﹂
けそう⋮⋮けそう、懸想!? 思い当たった単語にアンナローズを見上げると、綺麗なスカイブ
ルーの瞳と目があった。
優しげな面に宿る仄かな熱情を確認した瞬間一気に身体中の毛穴
が開いた気がする。
こんなに美人さんなのにそっちの趣味の人。
﹁とにかくシオル殿下を離しなさい。 お前の餌食にするには惜し
い﹂
救いの手が伸ばされたので懸命に肉牢から脱出を試みる。 出来
れば危ない人はご遠慮願いたい。
202
若冠二歳で貞操の危機とか洒落にならん。
﹁さぁこちらへシオル殿下﹂
﹁はい!﹂
元気にいそいそと焦りながら安全地帯へ脱出すると、アンナロー
ズ様は名残惜しそうな熱い視線で見詰めてきた。
儚げな表情で憂いても駄目です。 騙されませんよ! 自分が大
事!
﹁お祖父様。 なんでしたら教会本部への帰還の決断はゆっくりで
よろしいですわよ?﹂
まるで聖母のような微笑みの彼女に見惚れかけて自分を叱咤する。
そうアンナローズはロリショタが大好物な危ない人。
﹁いやいや、儂は死んだ事にして直ぐに帰って良い﹂
﹁でははっきり申し上げます。 今回のコンクラーベですが先の法
王猊下がお祖父様を次期に指名されている書類が出ておりますので
出来レースですわ﹂
ワキワキと手の平を動かしながら私に狙いを定めてジリジリと近
付いてくる。
一応男の子だから揉む場所なんてツルペタですから、二の腕?は
っ! 下か! やーめーてー。 その手嫌ー!
203
﹁コンクラーベの出来レースなんぞ聞いたこともないわ﹂
﹁あら、永い年月の間でも何度かあったようですわよ。 前例があ
るのか神官総出で教会中を探しましたから﹂
﹁なっ!?﹂
﹁うふふ、だから諦めてくださいね? でないとこの国でコンクラ
ーベになりますわよ?﹂
ロブルバーグ様が教会本部へ行くのが早いか、枢機卿がレイナス
へやって来るのが早いか。
正に根比べ︵コンクラーベ︶。
﹁はぁ、すまんが儂は寝る。 シオル殿下、アンナローズを案内し
てやってくだされ﹂
﹁えっ! ロブルバーグしゃま!?﹂
﹁ありがとう御座います。 お祖父様﹂
えっ、まっ、待ってー! ロブルバーグ様、アンナローズ様がな
んか怖いので渡されても困ります。
と言うより渡さないでください。 後生です。
﹁さぁ、行きましょうねシオル殿下? ではお祖父様お大事に﹂
204
優雅に踵をかえすと私を抱えて上機嫌でロブルバーグ様の部屋を
出ていく。
﹁すまん、今の儂にはアンナローズの相手は荷が重いんじゃ﹂
﹁ロブルバーグしゃま!﹂
﹁冥福を祈る﹂
いや、冥福をじゃなくてそこは健闘を祈るんじゃないの、私は生
け贄ですか!?
ロブルバーグ様めー、覚えてろー!!!
205
情勢
﹁王妃陛下へ謁見をお願いしたいのですけれど﹂
アンナローズ様に抱えられてやって来ました王妃部屋。
うわー、本当に突撃しましたよこの人、このバイタリティーは一
体どこから来るんでしょう。
突然現れた不審者に腰に佩いた剣に手をかけましたが、荷物よろ
しく抱えられた私を素早く見付けるとおろおろと近衛騎士さん二人
が挙動不審になりました。
どうするよこれ、って困惑しているのがわかります。
まぁ、仕方ないわな。 肉感美女が自国の王子抱えてたら私でも
混乱するわ。
﹁⋮⋮これはシオル殿下と大司教様、あちらで少々お待ちください﹂
突撃した私たちを別室に案内しながら、もう一人がそそくさと伝
令に走ります。頑張れ騎士さん。
﹁ローズねぇさま、だいしきょうさまだったんですか?﹂
この若さで大司教ってこの人実はハイスペック、中身は幼児愛好
家だけど。
206
﹁えぇ、お陰で孤児院に入り浸れて楽しいわぁ﹂
うっとり言ってますけど、本当に貴女聖職者ですか? なんか教
会関係者の生臭加減が半端ないんですが。
﹁こじいんですか?﹂
﹁えぇ、レイナス王国は主に何らかの理由で引き取られる子供が大
多数しめてますけれど、周辺諸国は主に戦争孤児が多いですわ﹂
戦争、液晶越しか学校の教科書でしか馴染みのない単語だ。
ロブルバーグ様が勉強を見てくれるようになってからこの国がじ
つはかなりシビアな立ち位置なことも理解したけどね。
レイナス王国は山間の盆地に出来た小国で夏場は暑く、冬場は山
脈から流れ込む寒気で一年の寒暖の差が激しい国。
大陸の覇権争いが絶えない昨今、周りを沢山の国に囲まれている
にも関わらず、レイナスと言う小国が消えない理由のひとつが、こ
の地形の恩恵だったりする。
そしてもうひとつは攻めにくい割に旨味がない。だって目立った
特産品もなければ、鉱石が出るわけでもなく年間の寒暖が激しいの
で植物も育ちにくいときたもんだ。
うちに戦争を仕掛けるよりも旨味がある国と同盟やら協定やらを
結んだ方が得ですからね。
﹁最近でこそ疲弊した国々も冷戦となっていますけど、これまで調
207
停役だったドラグーン王国の前国王陛下が崩御してからと言うもの、
新しい王様は引っ込み思案で役にたたないからね。南の方がきな臭
くなってますのよ﹂
大陸の南部は海に面した海洋国家だと聞いています。
海と共に産まれ、海へと還る。 海と共に生きるかの国の男達は
みな屈強で血気盛んな好戦的な脳筋が多いとか。
﹁元々海が近いから作物は育ちにくくてね、近年大規模な干魃でろ
くに作物が育たなかったこともあって臨戦態勢なのよ﹂
塩害も干魃もでは国民は飢えるしかない、無いものは奪うと言う
のが一般的らしいので戦が絶えないそうです。
﹁くにどうしで、えんじょしたりしないんですか﹂
﹁ないわね、自分の国の民だけでも精一杯でしょうから﹂
流れ込む難民だけでも父様と宰相閣下が苦虫を噛み潰した書類を
睨み付けていた事があった。
﹁教会でも物資の援助は行っているけれど、それで助かるのは極一
部の者達、しかも富裕層が独占してしまうから一番援助が必要な弱
者には、届かない⋮⋮﹂
ぎゅっと爪が食い込みそうなほど手のひらを握り混むのがわかる
ようだった。
﹁うふふ、ごめんなさいね、貴方にはまだ難しいわね﹂
208
﹁ローズねぇー﹂
﹁失礼致します、王妃殿下がお逢いになるそうです﹂
﹁はい、さぁ殿下行きましょう!﹂
呼びにきた近衛騎士さんの声を受けて立ち上がったアンナローズ
様からは先程の愁いは感じられません。
﹁う、おきがえですか﹂
﹁えぇもちろんお着替えですわ!﹂
うわー、この人切り換えはやいわー。
209
重大発表!
﹁リステリア様、こちらの衣装は南方のヒノ国の民俗衣装ですわ、
木綿を紫の貝を使って染め上げているんですけど、紫紺がシオル殿
下の紅の髪に映えると思いますの!﹂
﹁まぁ、変わった形の衣装ですのね、リーゼこれも着せてみてくれ
る?﹂
﹁畏まりました﹂
先程から何度目かの着せ替えにうんざりしつつも、楽しそうに着
替えた私を見て微笑み、可愛い可愛いと言って誉めてくる母様。
うーむ、ここは大人として付き合って上げるべきところでしょう。
何着着たかは途中で数えるのを放棄したけど、今のところ出てく
るのは男児用のみ。
﹁これも素敵ね。 まるで本の中から飛び出してきたようだわ﹂
きゃぴきゃぴとあーでもないこーでもないと侍女を交えてファッ
ションショーを繰り広げつつアンナローズ様は次は∼と違う服を引
っ張り出している。
はぁ、一体何着出てくるんだろう⋮⋮。
﹁リーゼ、着せてみて良さそうな物が有れば今度作ってみようかし
210
ら﹂
﹁えぇよろしゅうございますね。 仕立て屋に連絡しておきます﹂
﹁本当は既存の物が手には入ればいいのだけど﹂
まぁ、オーダーメイドは高いからなぁ。
﹁それでしたら私が贔屓にしている商人をご紹介致しますわ。 古
今東西から衣裳を仕入れては吟遊詩人や旅芸人など、に衣裳を卸し
ている者なのですが、私と気が合うので子供用の品もすばらしいで
すわ﹂
あー、はい。 ロリショタ仲間なんですね。
﹁まぁ楽しそうですわね。 頼めますかしら。 あら、そちらは?﹂
﹁うふふ、後でご紹介させていただきますわ。 今王都の城下で商
いをさせていただいておりますから。 こちらは女児物ですわ﹂
リステリア母様が見付けた服を目の前に広げて見せる。ぴらっぴ
らしたそれはいっそ装飾過多女児ドレス。
レース、紗々、リボンに刺繍が凄いことになってます。
うっわー、重そう。
﹁東の地では幼子に性別とは別の衣裳を着せることによって、健や
かに育つという教えもあるようで、男児に女児ドレスを着せて子供
の成長を祝い願うのですよ﹂
211
えっと、それってフラグですか。
﹁へぇそうゆう風習もあるのですか?﹂
﹁えぇ、最近では双太陽神教会でも子供らの健やかな成長を祈り、
三、五、七を数える歳に子供らに本来の性別とは反対の衣裳をさせ
る祝いもございますわ﹂
なにその七五三擬き! しかも女装と男装って、そりゃね七歳位
までなら男も女もたいして体格に違いはないから似合うだろうけど。
﹁本来であれば双太陽神を模して男児には妹姫の、女児には兄王子
の衣裳を纏わせるのですが、本日は予行練習にこちらで!﹂
ばぁん! と目の前に抱えられたのは、たくさん並べられた女児
用のドレス群のなかでも一番凝った衣装だった。
幾重にも紐が巻き付きレースがこれでもかと飾られた純白の衣装
は裾に向かって淡くピンク色にグラデーションしている。 布で出
来たピンク色の薔薇の中央にはルビーが飾られている。 さながら
花の精霊か何かをイメージでもして作られたものだと思われます。
コレヲワタクシキルノデゴザイマスカ。
﹁シオル殿下はリステリア陛下とアルトバール陛下の良いところを
受け継がれておりますのできっととても美しい美姫じゃなくて美丈
夫に御成りですわ﹂
﹁まぁ、アンナローズ様は本当にお上手ですわ。 リーゼ着せてみ
212
て﹂
﹁はい、リステリア様﹂
着せるのねー。 あっという間に身ぐるみを剥がされてドレスタ
イムに突入することは暫し、着せ替えごっこに大満足して帰ってい
ったアンナローズ様。
選び抜かれた女児ドレスをお借りし着直して、仕事で疲れた父様
を出迎えると熱烈なほっぺにキスと抱擁を頂きました。
うおー、髭が刺さる! じょりじょりー!
﹁なんて可愛いんだ! 本当にシオルかい? リステリア、今から
でも遅くないからシオルに妹を作ろう! きっとリステリア似の美
人さんが産まれてくるよ∼﹂
ギャー! じょりじょりすんなー! 卸がねじゃないんだから!
﹁うふふ、もうアルったら。 いつも作ってますでしょ? それに
もう出来てますわ﹂
へっ!? 出来てるって、赤ちゃん!?
﹁リステリア、ほ、本当かい?﹂
そっと抱き上げた私を床に下ろすと父様はぎゅっと母様を抱き締
めました。
﹁本当ですわ。 アンナローズ様がいらっしゃる前に医師に診察し
213
てもらいましたの﹂
うおー! 妹だぁ、いや弟か? どっちでもいいや。 元気で産
まれてくれば。
﹁かあさま、おめでとうございます。 ボクにもおせわさせてくだ
さいね!﹂
﹁えぇシオルお兄さま。 頼りにしていますよ﹂
ふふふん。 はーやくぅこいこい、出産日∼! イェイ!
214
願い
﹁お爺様、いい加減諦めがつきまして?﹂
﹁誰が諦めるか!?﹂
﹁まぁ、そんな聞き分けの無い。 もう良いお年なんですから駄々
を捏ねても仕方がないではありませんか﹂
﹁駄々っ﹂
﹁駄々でしょう? 聞き分けの無い駄々っ子でしょう?﹂
あのですね、頭の上で口論しないでくださいな。
お母様の第二子妊娠が判明してから早一カ月、いまだにアンナロ
ーズ様もロブルバーグ様もレイナスに居たりします。
﹁御安心なさって下さい、シオル殿下の教師は私が致しますので﹂
﹁なんで年寄りの楽しみを法王なんぞに潰されにゃならんのだ。 お前に任せたりなんぞしようものならシオル殿下が穢れるわい!﹂
今日も変わらずギャーギャーと王城は賑やかです。
お母様は悪阻の真っ最中のため、自然とロブルバーグ様といるこ
とが多いのですが現在はアンナローズ様が加わり更に賑やかになり
ました。
215
庭園に植えてある野菜や果物、温室に植えられている各種薬草の
名前と効能を教えてくれるとの事だったので、ロブルバーグ様と手
を繋ぎながら散策しています。
ロブルバーグ様とだけ手を繋いでズルイ! とのアンナローズ様
の主張から、右手にロブルバーグ様、左手にアンナローズ様です。
散策を始めたばかりの頃は足元の草や、虫を見付けてはお勉強モ
ードだったんですけど。
時間が経つにつれて足が地面に着かなくなってきました。
手を繋いだままリアクションをとるので身長が足りない私の足は
ぷーらぷらしてます。
真面目に痛いです。 肩が外れるー。
﹁失礼いたします! ロブルバーグ様、アンナローズ様! 陛下が
お呼びですので謁見の間においでいただけますでしょうか﹂
今日もロブルバーグ様を捜して庭園に走り込んできた近衛騎士さ
ん。
前に図書室内に走り込んできた彼が今回も伝令のようです。 近
衛騎士の仕事ってパシリなの?
﹁アンナローズよ⋮⋮﹂
﹁なんですかお爺様?﹂
216
﹁嫌な予感がひしひしとするのじゃが⋮⋮﹂
﹁まぁ私もですわ。 奇遇ですわね? 時間切れですわよきっと﹂
﹁ううぅ、行きたくない﹂
項垂れながらとぼとぼと歩くロブルバーグ様、ここ最近で一気に
老けました。
謁見の間から扉越しにでも分かる気迫に、今にも逃げ出しそうな
ロブルバーグ様の腕を捕まえてアンナローズ様が扉を開けると、目
の前に黒服の大群が居ました。
﹁倪下!﹂
﹁法王猊下、お迎えに上がりました﹂
ロブルバーグ様に気がついたとたん一斉に視線が集まりました。
﹁儂は猊下ではない! それに法王はこれからコンクラーベで選定
だろうが!﹂
黒服集団に怒鳴り付けるように否定すると、白い司祭服に身を包
んだ壮年の男性が進み出た。
﹁コンクラーベは済んでますので何ら問題はありませんよ﹂
黒髪の小父様はゆっくりと頭を下げるとそう述べました。
217
歳を重ねたからこそ纏える精悍さを備えた小父様は真っ直ぐにロ
ブルバーグ様を見詰めています。
﹁げっ、フランツ﹂
﹁はい、フランツです。 ちなみに拒否権はありません。 期日ま
でに本部へと戻るよう再三に渡り文を届けていたはずですからいら
っしゃらなかった貴方に否とは言わせません﹂
部屋はそれなりの広さがあるはずなのに、大声を出している訳で
もないのにフランツさんの声は良く響き聞こえやすい。
﹁嫌じゃ﹂
往生際が悪いロブルバーグ様がアンナローズ様の拘束を振りほど
き扉まで逃げ出すよりも速く、フランツさんの合図で屈強な黒服の
司祭さんがロブルバーグ様を捕獲してしまった。
﹁いい加減観念してください。 御運びしろ﹂
﹁こら、下ろすんじゃ! 儂は法王にはならん﹂
﹁輿まで丁重に御運びして軟禁しておけ﹂
﹃はい!﹄
﹁うぉー、フランツ。 覚えてろー!﹂
あっという間にロブルバーグ様が運び出されていきました。
218
﹁レイナス王陛下、ご協力に感謝申し上げます﹂
﹁あっ、ああ。 しかしロブルバーグ様、猊下は大丈夫でしょうか﹂
﹁えぇ何ら問題はありません。 寧ろレイナス王国の皆様には御迷
惑をお掛け致しました﹂
優雅に礼をするフランツさんはスッと私の傍らに立つアンナロー
ズ様に視線をよこす。
伏し目がちに流された視線ははぅぅ、色っぽく見えます。
﹁猊下を迎えに上がった筈の貴女まで御迷惑をお掛けするしまつ、
何か弁明がおありなら帰路でゆっくりと御聞きします﹂
あー、顔はにっこり笑ってますけど目が恐いです。
﹁わっ、私はこれから孤児ー﹂
﹁孤児院でしたら教会から既に寄付を届けてありますからわざわざ
貴女が出向く必要はありません﹂
がっつり言葉を被せてアンナローズ様の主張を潰しましたよフラ
ンツさん。
﹁さぁ貴女もさっさと馬車に乗ってください。 さもなくば軟禁さ
れたいですか?﹂
﹁大人しく馬車に乗らせて頂きます﹂
219
観念したのかしょんぼりとしてしまったアンナローズ様。 ずっ
と一緒だったロブルバーグ様が居なくなってしまうと言う不安だけ
でも喪失感に苛まれる。
﹁あっ、あの﹂
﹁王子殿下であらせられますね、ご挨拶が遅れてしまい申し訳あり
ません。 私はフランツ、双太陽神教で枢機卿をしております。 このような形で貴方の教育者を連れ帰らねばならない無礼を御許し
ください﹂
﹁なんとかならないのですか?﹂
自分の前に膝をつき、目線を合わせるようにして名乗ったフラン
ツさんは真摯に謝罪をしてくれました。
子供相手にもこの対応が出来る素晴らしい人なのかもしれません。
﹁申し訳ありませんが、難しいかと思われます法王は禅譲を赦され
ませんから﹂
そんな地位を本人の了解を得ずに決めちゃダメでしょう。
﹁ですから法王となるのは高齢の者がつくのです。 これも天の思
し召しですよ﹂
不満はあっても宗教が絡む案件に一介の小国のお子ちゃま王子が
関与できるはずがないもの。
﹁へいか、せめておみおくりしてきてもよろしいでしょうか﹂
220
もう会えなくなるのならなおのこと、これ迄色々な事柄を教えて
くれたロブルバーグ様にきちんと御別れの挨拶と感謝の意を伝えた
かった。
﹁あぁ、私も行こう﹂
頷いて了承してくれた父様に駆け寄ると、ひょいっと抱き上げら
れる。
﹁本当に休まれることなく出発なさるのですか? 歓迎の宴をと思
っておりましたが﹂
﹁御心遣い感謝致しますが、脱走されては敵いませんのでこれで﹂
﹁そうですか、分かりました。国境までお送りします﹂
﹁ありがとうございます﹂
それだけ述べると颯爽と身を翻して部屋を出ていったフランツさ
んに続き、それ待て控えていた黒服の司祭の皆さんもゾロゾロと王
宮の正門前に移動してます。
正門前には部屋で見た黒服の司祭とは別に多数の従者らしき人達
が出発の準備を整えてフランツさんの登場を待ち構えていました。
﹁ロブルバーグ様ありがとうございました。 おげんきで﹂
豪奢な馬車の窓にはがっちりと鉄格子が嵌められ、唯一の出入り
口には立派な錠前が掛けられてます。 これは逃げられないわ。
221
﹁ううう、儂の老後の楽しみが。 シオル殿下が立派に成長する姿
を間近で見れると思っておったのに﹂
﹁お、大きくなったらぜひステンドグラスのこうぼうを、けんがく
させてください﹂
﹁会いに来て下さると?﹂
﹁はい、おやくそくします。 ですからながいきしてくださいね﹂
﹁ううう、わかった。 約束じゃぞ、反故にしたら化けてでるから
の﹂
えっ、お化けとか勘弁。
﹁いきます、いきますから!﹂
﹁法王になるしかないのならまぁ、できるかぎり権威とやらを振り
かざして好き勝手するわい﹂
﹁ご安心をそんなことはさせませんよ。 挨拶はお済みですね?そ
れではスノヒスヘ出発﹂
フランツさんの合図で一斉に動き出した教団員の行列が新しい法
王を護衛しながら派手に城門を通過していく。
これまで育ててくれたロブルバーグ様の馬車が外壁を越えるのを
見送る内に、寂しさと感謝に潤んだ瞳は本人の意思を無視して決壊
したようです。
222
なかなか泣き止まない私を抱き上げると、父様はポンポンと背中
を優しくあやすように叩いてくれます。
﹁大きくなったら約束通り、スノヒスヘ行かないとな﹂
﹁は、はい⋮⋮﹂ ﹁その為には沢山学ばなければいけないなぁ﹂
﹁はい﹂
﹁代わりの師を捜さなければいけないなぁ﹂
﹁はい∼﹂
﹁シオルは何を学びたい?﹂
学びたいこと、そんなの決まってる。
戦争を放棄した日本で産まれた。 今思えば戦いで命を喪う心配
のない代わり映えない日常がいかに幸せであったのか。
アンナローズ様の話を聞いて漠然と願った。
戦乱のない平和な世界で暮らしたい。
﹁み、みんながしあわせにく、くらすためにひつようなことをすべ
て、しりたいですぅ∼!﹂
223
泣きながら告げた言葉にふわりと笑うと父様は私の頭を撫でてく
れた。
﹁わかった。やれるだけやってみろ。父様はいつまでもお前の味方
だ! 男ならその夢、全力で叶えて見せろ!﹂
﹁はい!﹂
遠ざかる一行の向かう先に広がる大地を見詰めながら、とりあえ
ず中身は女の子なので明日から頑張ろうと心に決めた。
224
マイシスター
おはようございます。 今日も朝から清々しいお天気です。
﹁白湯が足りないわ!﹂
﹁早く産婆と医師を連れてきて! っ、もう私が行くわ!﹂
ドタバタと目の前を走り回る侍女軍団に何度轢かれかけたか。
お願いだから前を見て動いてください!
﹁父様、とりあえず落ち着いて座りましょう? うろうろしてると
リーゼ達の邪魔です﹂
人一倍落ち着きなく、うろくらうろくらする父様の袖を引っ張っ
て無理矢理座らせる。
﹁それはそうだが落ち着かないじゃないか。 シオルは凄いなぁ﹂
凄くないですけど、単に自分よりもテンパってる人が近くに居れ
ば嫌でも落ち着きますよ。
﹁お母様なら大丈夫ですよ。 きっと元気な赤ん坊を産んでくれま
すから﹂
心配そうに分娩室と化した寝室を見詰める父様を余所に目の前の
紅茶に蜂蜜を垂らした。
225
﹁出産に男は居るだけ邪魔です。 私達に出来ることは大人しく隅
で待っていることだけですよ﹂
夜中に一緒に寝ていたお母様が産気付いてからもう朝です。
径産婦は産まれるのも早いらしいので今更出来ることなんて無い
もの。
﹁ちなみにお仕事しなくて良かったんですか?﹂
今日も政務があるはずなのに当たり前のように居ますね父様。
﹁政務の邪魔だとシリウスに追い出されたんだよ﹂
うん、きっと机の回りか扉の前でうろくらしたんでしょう。
﹁んぎゃー! んぎゃー!﹂
おっ、噂をすれば。
﹁うっ、産まれたか!?﹂
バビュン! 効果音がつきそうな勢いで立ち上がると扉に貼り付
いた。
﹁おめでとうございます! アルトバール陛下。 元気な姫君でご
ざいますよ﹂
扉の中から出てきたリーゼさんの言葉に歓喜してぷるぷる震えて
226
ます。
﹁ねっ? 父様大丈夫だったでしょ?﹂
﹁あぁ、そうだな。 姫、姫かぁ。 嫁にはやらん﹂
産まれたばかりで嫁とか早すぎるでしょうが。
﹁さぁ、父様。 お母様に感謝を伝えにいきましょう?﹂
なんにせよ妹かぁ、楽しみ∼!
すぐにでも飛び付きそうな父様をひき止めて、お母様の準備が整
うのを待った。いくらなんでも軽く身支度を整えたいだろう。
﹁リステリア! 愛してる!﹂
父様は室内に入るなりベッドに横になったお母様に駆け寄ると勢
い良く抱きつきました。
﹁貴方の娘ですわ。 抱いてあげて下さい﹂
お母様の脇に寝かせられた赤ん坊は産まれて間もないのでしわく
ちゃなお猿さんのようだった。
ささやかな産毛は金色に輝いているところを見ると髪の色はお母
様に似たらしい。
まだ閉じられた瞳の色はわからないけどどちらに似ても綺麗だと
思う。
227
﹁かるいなぁ、シオルの時も思ったがこうも軽いと潰してしまわな
いか心配になるよ﹂
私も見たいけど立ち上がって抱っこされると身長差で見えない!
﹁父様! 見たいみたい!﹂
足許でぴょんぴょんと跳ねる私に気が付くと見える位置までしゃ
がんでくれました。
﹁お母様、抱いてもいいですか?﹂
﹁えぇ勿論よ。 お兄様?﹂
すぐ前で落とさないかとハラハラしながら渡された赤ん坊はとて
も柔らかかった。 ぷにぷに艶々した肌は格別です。
﹁父様、名前! 名前は!?﹂
可愛すぎるよマイシスター!
﹁そうだなぁ。 キャロラインはどうだろう?﹂
﹁キャロライン、キャロライン! よろしくねキャロライン、お兄
ちゃんだぞ∼!﹂
兄妹は嬉しいですね。 激かわです。
﹁ふふふっ、頼りにしてますね。 シオルお兄様?﹂
228
﹁はい!﹂
229
ミリアーナ婚姻
可愛すぎる妹のキャロラインのお世話をさせてもらいつつ。お兄
様ライフ満喫中です!
お母様譲りの金髪はふわふわしてます。そして何より瞳が感動も
のでした。
緑と琥珀色のオッドアイなんて初めて見ましたよ。
いや、そもそもオッドアイって空想の中だけの神秘だとおもって
ましたからね。
リアルオッドアイ美しい!
率先して妹のお世話をさせてもらいました。
おむつ交換も問題なし! 伊達に前世で姪っ子のお世話をしてま
せんよ。
ロブルバーグ様は居ないけど、勉学をサボれば化けて出そうだし、
会いに行くと約束してるのでやることは沢山です。
でもやっぱり癒しは必要な訳でして今日もキャロラインで癒され
てます。
﹁シオル、一月後にドラグーンに行くことになった﹂
230
﹁はぁ、いってらっしゃい﹂
無事に生誕の儀式も済ませて、最近ではお座りを覚えたキャロラ
インちゃん。
足の間に座らせて頭を撫でながら挿し絵の綺麗な絵本を読み聞か
せてあげていた所、やって来た父様に答えたらいじけるように座り
込んでしまいました。
﹁あら駄目よシオル、アルをいじめちゃ﹂
﹁お母様! いじめてませんよ﹂
﹁うふふ。 小さな騎士のシオル様、今日もキャシーを見ていてく
れてありがとう。 さぁキャシー?ミルクの時間よ﹂
キャロラインを持ち上げてお母様に渡すと誉められました。
実はお母様、乳母を使わずに母乳でキャロラインを育てていたり
します。なんでも私だけ母乳では不公平だからだそうです。
﹁シオルの叔母のミリアーナを覚えているだろ?﹂
﹁はい。 ドラグーンに花嫁修行に行っている男装の麗人様です﹂
﹁男装の麗人はともかく、そのミリアーナがクラインセルト殿下の
即位に合わせて結婚することが決まったんだ﹂
わぉ、おめでたい。 って今の国王陛下が即位したのって私の生
誕の儀式の年だから約三年位前だったはず、早すぎない?
231
﹁それは急な即位ですね﹂
﹁どうやらかの国の宰相閣下が動いたようですね、国王陛下は体調
が芳しくなく。 政務をとれずに城の奥深くから出てこないとの話
です﹂
父様の後から入ってきたのは今日も安定の美丈夫ルシウス宰相閣
下です。
﹁うーん、なんかおろされたっぽい?﹂
﹁ぽい、がなにかはわかりませんが、多分そうだと思われます﹂
やっぱりそうなのね、しかし良くそんな情報がはいってくるもん
だ。
﹁それでですが、ミリアーナ様は我が国の王女。 婚礼に持参金と
祝辞を述べにドラグーンへ行かなければならないんです﹂
まぁ、そうでしょうね。 父様の妹姫だし。
﹁本来であれば国王夫妻での参列が望ましいのですが、王妃陛下は
産後間もなくキャロライン様のこともあります﹂
キャロラインちゃん、母乳ですからね。 乳母を拒否ってますし。
乳母をあてがおうと画策したリーゼさんが、シオル様の再来だと
ボヤいてましたから。
232
キャロラインも頑固です。 って私のせいじゃないよね? それ。
﹁しかし新婦の親族が陛下一人では体裁が悪いので今後の他国への
お披露目もかねて、シオル殿下に参列をお願い申し上げます﹂
﹁はぁ⋮⋮﹂
﹁⋮⋮ちなみに双太陽神教からはアンナローズ枢機卿がいらっしゃ
います﹂
﹁はーい。 慎んで辞退します!﹂
アンナローズ様が居るなら間違いなく揉みくちゃにされる。
﹁残念ながら辞退できません﹂
だったら最初から聞かないでよ。
﹁わかりました。父様とドラグーンへ行きます。 でもカボチャパ
ンツはやめてください!﹂
あれは恥ずかしいのよ。
それから沢山の準備に奔走し、離れがたい癒しのキャロラインと
別れてはや二週間。
父様の愛馬キャメロに乗ってドラグーンとの国境を越え、ドラグ
ーン王国の平野部までやって来ました。
産まれてから初めての旅行ですが、疲れました。もうすぐ四歳児
233
に長旅は苦行です!
﹁父様、あの畑は何が植えてあるのですか?﹂
﹁父様、あれは何をしているのですか?﹂
城を出て数日は初めてみるレイナス王国になぜなぜ息子と化した
私でしたが、いかんせんネタもつきました。
ナメテタゼ、馬移動。 おしり痛い⋮⋮。
ドラグーン側から土埃をたてて二十騎の騎馬がこちらに向かって
やってきます。風にはためく国旗には双頭の鷹のエンブレム。
間違いなくドラグーン王国の騎馬ですね。
仮にも王妃になる新婦の親族なので、どうやら騎士様が迎えに来
てくれるそうです。
そうなんですが、先頭を馬で駆ける赤髪に見覚えがあるような気
がするんですけど気のせいですかね?
﹁兄上! シオルー! 迎えに来ました!﹂
騎士服を着こなして颯爽と愛馬を操る美形。もとい男装の麗人。
﹁ミリアーナ叔母様﹂
背中から伝わってきた微振動に見上げれば、父様が拳を握り締め
てぷるぷるいってます。
234
﹁バカ者! 護衛を振りきって王太子妃自ら迎えに来るバカがどこ
にいる!﹂
同行者を振り切り馬を寄せたミリアーナ叔母様の頭上に盛大な拳
骨を落とす父様。
﹁くぅ、兄上の拳骨は効くわぁ。 後で手合わせしてください!﹂
うん、大国に嫁にいっても脳筋のままだった。
235
麦
まさかの王子妃自らのお出迎えに騒然とするドラグーン騎士達に、
レイナス一行は苦笑いです。
ミリアーナ叔母様のお嫁にいっても変わらないですね。
﹁お久し振りです。 この度はご結婚おめでとうございます﹂
﹁ありがとう! 最後にあったのは赤ん坊の頃だったのに覚えてい
てくれたのかい?﹂
﹁叔母様はどこに行っても叔母様ですから﹂
笑っても誤魔化すと背後でミナリーが笑いを堪えるように小さく
震えている。
﹁シオルは良い子だなぁ。 あとで稽古を着けてやろう? うん!
それが良い!﹂
ぎゃー! ひとりで何を納得してるんですか!? 父に決意を告
げた翌日一振りの刀剣を携えて部屋にやって来た父様は﹁今日から
剣術の稽古をするぞ∼!﹂と子供には重い剣を鞘ごと投げて寄越し
た。
﹁お、お手柔らかにおねがいします﹂
その日から暫く常に自分の身長とかわらない剣を背負っての生活
236
が始まりました。
初めは歩くどころか立ち上がれすらしませんでしたよ。だって自
分の体重と大差無い重さなんだもん。
父様いわく﹃体に剣を合わせるんじゃない。 剣に合わせて体を
成長させていくんだ﹄そうな。
肩に食い込む刀剣の重みに挫けそうになりつつも、相棒となった
刀剣と寝食を共にしていたら、剣がないと落ち着かなくなりました。
すっかり剣が体に馴染んだ頃から素振りが開始されたんですけど
これまた重くて腕の力では持ち上がらない!
重心と遠心力を意識し初めてからは体格が大きく変化したはずは
ないけれどだいぶ振り回すことは出来るようになったし、よろけな
くなりました。
頑張った私! 前世では運動音痴でしたがとりあえず、稽古中に
地面に転がされても受け身が取れるようになりました。
﹁どのくらい強いのかなぁ。 楽しみだなぁ﹂
﹁うっ、受け身は上手くなりましたよ﹂
そう、受け身はできる。 受け身はだ。
﹁ちょっとその剣貸してくれるかな?﹂
今日も当たり前のように背負っている剣を降ろすとミリアーナ叔
237
母様に手渡した。
よもや背中の重みがなくなって違和感を感じるようになるとは思
ってなかったわ。
﹁兄上、この剣⋮⋮﹂
﹁何か不都合あるかい?﹂
にっこり微笑む顔が黒く見える気がする。 その剣何かあるの?
﹁全くないですねぇ。 あえて言わせてもらうなら将来が楽しみで
す﹂
うむ、良くわかんないけどまぁいっか。
﹁それではご案内します﹂
ミリアーナ叔母様の先導でレイナス一行が動き出した。
暫くなんの変鉄もない草原を進むと、まだ麦の畑に出た。 ドラ
グーン王国は年間の寒暖の差があまりなく、年間を通して麦を作っ
ているとのこと。
確か二毛作? 違うな二期作だったか。
畑に降りて金色に色付いた麦穂を見るが、あまり身が入っていな
いのだろう。 収穫時期が近いはずなのに垂れ下がる様子もないよ
うな気がする。
238
﹁あのう、ミリアーナ叔母様。 麦なんですけど今年はあまりでき
が良くないのですか?﹂
﹁いや、豊作ではないけれど例年と変わらないはずだよ?﹂
例年通りでこの実入りでは不作になれば直ぐに飢饉に繋がる。 ドラグーンのように大きな国で二期作が可能なら少しは対策もたつ
のだろう。
しかしこれがレイナスのように寒暖の差が激しい地域では二期作
も難しい。
父様に視線を向ければ実入りを確認している。
﹁ドラグーン王国は国土も広く肥沃だから麦の実入りも良くて羨ま
しいよ﹂
本当にこの状態で実入りが良いのか!?
﹁うちは国も小さくここまで良い麦は育たないからなぁ、輸入に頼
らざるをえないんだよなぁ﹂
﹁あのう父様? ちなみに作付けってまさか土を耕して種を蒔くだ
けだったり?﹂
﹁他に何があるんだ? 大地の肥沃さは神の恵みだ。 流石に堅い
地面では種を蒔いても芽吹かないからな﹂
はぁ、まさかのラノベありがちパターンと遭遇ですか。 絶対追
肥してないし、輪作もしてないな。
239
﹁叔母様、結婚祝いに一つだけ宜しいでしょうか?﹂
﹁ん?なんだい?﹂
﹁ものは相談なんですけど、新しい農法試しませんか?﹂
﹁﹁新しい農法?﹂﹂
240
異世界のおトイレ事情⋮⋮。
﹃新しい農法?﹄
はい。 って二人してぽかんとしないでくださいな。
実は前々から絶対にやろうと考えていた事があるんです。
子守りのミナリーを撒くのもかなり上達した私。
あの日もこっそり中庭へ脱走して追っ手のミナリーを躱すために
外壁に張り付くようにして気配を消した後、壁沿いに進んだところ
で悲劇は起きました。
﹁ん、雨? 晴天なのに?﹂
ポタッとした滴が空から降ってきたのに、歩きながら見上げたの
が不味かった。
足元の泥濘に気が付かず踏み出した足がにゅるっとした感触と共
に重心を失いその場に足を滑らせて尻餅を着いた。
﹁痛っ! なんでここだけ? ぶっ!﹂
間髪入れずにバシャッっと頭上から降ってきた汚泥の追撃を受け
た。
全身から漂うアンモニア臭に自分が今何の上に鎮座しているかを
241
認識した途端絶叫した。
﹁うぎゃー! くっさ! うえー!﹂
﹁シオル様? こちらにいらっ、きゃー! シオル様!?﹂
本来空から降ってくるはずのない物に呆然としていると、声を聞
き付けたミナリーが駆け寄ってきました。
﹁うううっ、ミナリー﹂
﹁シオル様、壁際を歩かれてはいけませんとあれほど﹂
﹁言ってないからね!? 私聞いてないよ!﹂
そんな大切な話を聞いてたら絶対に歩かないから。
﹁あら? 言ってませんでしたか?﹂
﹁言ってません!﹂
﹁とにかく移動して着替えましょう﹂
ひょいっと私を持ち上げると肩に担ぎ上げるようにしてのしのし
と歩き出した。
﹁ちょっと、ミナリーまで汚れちゃうよ。 自分で歩ける﹂
﹁お気になさらず、汚れたら洗えば大丈夫ですし、なんならシオル
様が新しいお仕着せをください﹂
242
ミナリーは水場に向かう途中巡回の兵士を捕まえるとリーゼに状
況説明と共に助っ人を要請してくるように指示をだし迷うことなく
井戸へと向かった。
﹁はい脱ぎますからばんざーい﹂
両手をあげるとペロンと一気に上着を全て脱がされた。
﹁ミナリー! 一体何があったの? ってキャー! シオル様なん
てお姿にぃ!?﹂
絶叫とともにリズとレーシャを引き連れてリーゼさんが駆け付け
るなり私ねおかれている状況を察したのか、ミナリーに着替えてく
るように指示を出す。
運ばれてきたお湯を使い丸洗いさせてふかふかのタオルにくるま
れてミノムシ状態で浴場へと運ばれました。
そこからがひたすら長かった。 香りの良い石鹸を贅沢に使用し
て全身ピカピカになったと思うんだけど、匂いはとれないんだよな
ぁ。
﹁臭くありませんか?﹂
自分の腕に鼻を近付けると、石鹸の香りがする。
﹁大丈夫ですわ。 災難でしたわね﹂
﹁本当だよ。 降ってくるのが普通なの?﹂
243
﹁えぇ、ですから壁沿いは歩かないのが常識ですわ﹂
まじか、王城でこれなら城下は一体どうなってるのよ。
﹁城下も降ってくるの?﹂
もしそうなら由々しき事態だよ。 道路に散乱するあれを避ける
のもだし、何より疫病が怖い!
﹁城下はトイレは貴族の家を除いて一階に作られますからふってく
ることはありませんが、馬車を引く馬の脱糞と同じく道に捨てます
ね。 いつまでも家の中に置いていては匂いますから﹂
匂いを思い出したのか顔を歪ませる。 そんなにすごい臭いんだ。
﹁リーゼ様、陛下がいらっしゃいました﹂
レーシャはリーゼさんに駆け寄るとそう告げた。
﹁シオル様お通ししてもよろしいですか?﹂
﹁どうぞ﹂
淹れてもらったばかりの温められた八木のミルクを飲む。 ふわ
りと広がるはちみつの香りがおいしい。
﹁シオル、今日は災難だったなぁ﹂
ニヤニヤ笑いながら入ってきた父様に手近にあった読み掛けの本
244
を投げつけてやった。
﹁おっと危ないじゃないか。 壁沿いは歩かないのは一般常識だぞ
?﹂
無理言うなや、水洗式のトイレが主流の世界から転生したにして
も糞尿垂れ流しとか思っても見なかったワイ!
﹁父様、その常識は近い将来必ずこの国に災いとなると断言します
! 改善させて下さい!﹂
糞まみれの道路を歩きたくない!
﹁良いぞ? やってみろ。 きちんと企画書や予算案を出せばシリ
ウスも許可を出すだろう﹂
と、言う許可を貰って動く前にドラグーンへ来たわけですが、別
にこのドラグーンでやっても問題ないよね。 一応親戚になるわけだし。 正直貴族社会なんてわからん。
﹁肥溜めを作りましょう!﹂
﹁﹁コエダメ?﹂﹂
﹁そう! 肥溜めです!﹂
幼い頃に曾祖母の家で有った肥溜めをうまく利用できれば、一石
二鳥!
245
穴を掘って壺を入れそれに人糞を放り込んで発酵させればあら簡
単。 即席肥料の出来上がり。 本当なら牛糞やら鶏糞、腐葉土な
んかが良いんだろうけど、それは追々試せば良い。
とりあえず疫病を引き起こし兼ねない落とし物を何とかするのが
先決だ。
もう被りたくないもんなぁ。 肥溜めに落ちる人は出るだろうけ
どね。
﹁試験的に導入して頂けませんか? 今のままよりも収穫量は上が
るはずです﹂
まぁ、ダメもとだし断られたらレイナスでやれば良いんだから。
﹁そうだなぁ。 面白そうだし一番近い農村でやってみようか!﹂
﹁はい!﹂
さすがミリアーナ叔母様ノリが良い。
﹁それじゃぁノムル村まで出発!﹂
ヤル気満々で指示を出したミリアーナ叔母様に、副官らしい男性
が額を押さえて項垂れた。
﹁⋮⋮ご婚儀に間に合うでしょうか﹂
﹁大丈夫です! 間に合うように早駆けすれば﹂
246
にっこり見上げると苦笑いされた。
えっ!? なんか変なこと言った?
247
レッツ村ごと丸洗い!︵前書き︶
本話から引っ越し前の続きになります。
248
レッツ村ごと丸洗い!
兵士さんが先触れにたったお陰か、村の広場にはこの村住人等が
三十人ほど集められていた。
﹁皇太子妃殿下にはご機嫌麗しく、この度の御成婚まことにおめで
とうございます﹂
深々地面に平伏してしまっている村人達をたたせると、村長らし
き老人に紹介されました。
﹁始めまして! シオル・レイナスです。 村長殿にお願いがあり
やって来ました﹂
﹁始めましてシオル殿下。 私はこの村で村長を勤めさせていただ
いているヤムと申します﹂
﹁ヤム殿、実はシオル殿下が新たな農法をご教授下さるそうなんだ
よ。 すまないがこの村でやってほしい。 この村のこれから一年
の生活は私が補償しよう。 どうかな?﹂
﹁失敗した場合税を納めるどころか生活に事欠きます!﹂
﹁一年の間、この村の税を免除する予定だし。 仮に作物が全滅し
ても私が食いつなげる分の食料は国庫から出してくるから心配ない
よ﹂
渋る村長を説き伏せて、農地の半分に新農法を施すことになった。
249
まぁ、比較するにはいいでしょう。わかりやすいし。
﹁えっと、まず女性の方は村中の竈の灰と廃棄する野菜や食べかす
を集めてきて下さい! 男性の方は実験用の農地へと案内をお願い
します!﹂
ぞろぞろと移動したのは畑と森の境界だった。 近くに水源はな
く、ここなら生活用水を汚染する心配もないだろう。
﹁ではここにこれくらいの穴を掘ってください。 深さは大人の腰
くらいで御願いします﹂
道に落ちていた樹の枝をガリガリと地面に擦り付けて大体の大き
さを書き込んでいく。
それを五つほど書き込んで護衛の騎士と不満げな村民に掘り進め
て貰うことにした。
村の端から大きな日々の入った壊れた水瓶を頂いて掘り終わった
穴へと入れた。
とりあえず急拵えなのでこんなものでしょう。
もうひとつ村に一軒だけある酒場からワインが入っていた大きな
樽を買い取り、こちらもみんなで転がして瓶入の穴の隣に設置した。
樽のコルクを下にした状態で下に石を積み高さを出した上に置く。
﹁あのぅ、これは一体何を作っておいでなのですか?﹂
250
出来上がった樽と穴を除き込んだ村長や村人達を他所に、女性人
の運んできた生ごみを樽の中へと放り込んでいく。
うん、良い感じに腐ってます。 灰はまた他の所へ集めて置く。
﹁奥様方お疲れ様です。 出来れば次回からご家庭で出た生ごみを
こちらの樽へ入れてください。 一定時間入れておくと生ごみが分
解されますのでそちらを新農法に使用します。 とりあえず今は暫
く使えませんので帰り道で使い方を説明します﹂
発酵させてから使いたいので放置ですよ。
﹁それからこちらの瓶の入った穴の中にはご家庭で出た糞尿を廃棄
してください﹂
こちらはあからさまにみんなの顔がひきつった。 でもやめませ
ん! 勿体無い!
﹁村の中を拝見させて頂きましたが道に糞尿を捨てていますよね?
実はあれ疫病や病の原因です﹂
断言した言葉に村人だけでなく父様やレイナスからの騎士と、ド
ラグーン王国の騎士達の間にも動揺が走る。
﹁シオル! それは本当なのか!?﹂
﹁はい。 ロブルバーグ法王猊下に教えていただきました﹂
前世の知識はロブルバーグ様のせいにしておけば大抵はなんとか
251
なるんです。
﹁そうか、法王猊下は沢山の国を見てこられた方だからな﹂
納得したように頷いた父様から視線を村の奥様方へもどす。
﹁疫病や病はおもに体力のない子供や老人が犠牲となります。村の
排泄物をこちらに撤去して、なるべく生水を控えて必ず沸騰させた
水を飲ませる。 食事の前や自宅に入る前に必ず手を洗うだけでも
かなり効果があります。 大切な子供や家族を守るためにやってみ
ませんか?﹂
こう言うことは男性陣よりも女性の結束力が物を言うのだ。
﹁あの、村を綺麗にすればもう子どもを死なせずに、すみますか?﹂
おずおずと発言した若い女性にしっかりと頷いてみせる。 年の
頃はまだ十代半ばだろうか。 女性は両手で顔を被って崩れ落ちる
ように嗚咽を漏らし始めた。
﹁ひとりも死なないとは言えませんが、ずっと少なくなるはずです﹂
﹁あっ、ありがとうございます、ありがとうございます!﹂
泣き崩れた女性にひとりの青年が駆け寄るとその体を抱き締めた
後、こちらに礼を述べて彼女を連れて去っていった。
﹁実は昨年この村を流行り病が襲いましてな、彼等は一歳になった
ばかりだった第一子を亡くしているのですよ﹂
252
﹁そう、だったのですか﹂
﹁えぇ、他にも何人も幼い子や老人がなくなりました。 もっと早
くわかっていればと悔やまれます﹂
﹁さぁ、亡くなった子の為にも気合いを入れて掃除するわよ!﹂
この沈んだ空気を真っ先に破り捨てたのはミリアーナ叔母様だっ
た。
騎士達がとめるまもなく先程まで穴を掘るのに使っていた農機具
を肩に担いで側溝の泥上げを始めてしまった。
﹁そうだな。 ミリアーナの言う通りだ。 シオル!﹂
おもむろに上着を私に脱ぎ捨てると父様まで突撃していった。
﹁父様! 粉塵を吸わないようにきちんと顔を布で被って下さい!﹂
﹁おう!﹂
呆気に取られた騎士達だったが、自分達の主が率先して作業に従
事しているため嫌とは言えずそれぞれも作業に取り掛かった。
﹁さぁ、私たちもやるわよ! みんな!﹂
﹁﹁﹁はい!!﹂﹂﹂
村の纏め役だろう女性の号令で動き出した村の奥様方の働きが凄
かった。
253
散乱した糞尿を集める者、集めた物を桶に積めて穴へと運ぶ者、
各家からまだ投げられていない物を運び出す人。
さして指示もないのにそれぞれが考えて動いていく。
うーん、しかし運ぶ人が重労働だなぁ。 目一杯中身の詰まった
桶を持ち手の荒縄を持って前屈みになりながら、えっちらおっちら
捨て場まで運んでいくため、どうしてもスピードで負けてしまって
いるようだった。
何かないかなぁと周辺に視線を向けやるとちょうど良さそうな樹
の枝を見付けた。
自分の腕と同じくらいの太さがある枝を愛剣を振り抜き一太刀で
幹から切り離す。
ドサッ! と音をたてて地面に落ちた枝を持ち上げてみると予想
より軽い。
小枝を全て切り落とした後。枝の両側に紐をかけられるだけの溝
を掘る。
﹁殿下は一体何を作っておいでなのですか?﹂
一刀で木を切り離した四歳児になぜかひきつりながら、ドラグー
ンの騎士の一人が聞いてきました。
何でだろう? この世界の子供ってこれ位普通にできるんだって
父様言ってたよ?
254
﹁丁度よかった。 桶を担ぐ為の天秤棒を作ったので担いでくださ
い!﹂
天秤棒の両側に作ったの溝に桶の荒縄を掛けると重心をとって肩
の上に乗せた。
﹁ほう。これは運びやすい!﹂
﹁どれ!俺にもやらせろ!﹂
﹁なんだなんだ!?﹂
次々と旦那さんたちが集まってきたのでもうひとつ作ると、自宅
から斧を持ち出してきた一人がよう見まねで枝を切り出し始めた。
出来上がった天秤棒と同じくらいの太さがある枝に斧を勢い良く
振り上げると、数回に分けて切り出していく。
斧の切れ味が悪いんだね、研いだ方が良いんじゃない?
天秤棒駆使してはしゃぎながら奥様方が桶に入れた糞尿はどんど
んと村の外へと運び出された。
なぜか力自慢たちが競い会うように天秤棒に吊るした桶の数を増
やしていく。
﹁あー、そんなに吊るすと⋮⋮﹂
ベキッ! と大きな音がしたかと思うと、天秤棒へ六つの桶を吊
255
るしてヨロヨロ歩いていた旦那さんの天秤棒がバッキリ真ん中から
折れ、その衝撃で倒れ込んだ所に、運んでいた桶が中身を撒き散ら
しながら降ってきた。
﹁やったー!﹂
ワイワイと盛り上がり出した男性人に一人の女性がやって来る。
﹁ちょっと! あんた! なにやってるのよ!?﹂
そう言って旦那さんの耳を引っ張りながら回収していった。
﹁さぁ、野郎共! 便利な道具を貰ったんだ! 気合いを入れて運
ぶぞ!﹂
﹁﹁﹁おう!﹂﹂﹂
﹁おー!﹂
旦那さんたちに混じって桶運びに混ざり作業に没頭したお陰で村
はスッカリ綺麗になった。
翌日は朝から生憎の雨だったが前日に汚物の除去を行ったお陰で
取りきれなかった者が全て洗い流され村が雨露でキラキラと輝いて
いた。
仄かに香っていた異臭が全くしない。
﹁この村の景色はこんなに綺麗だったんだねぇ﹂
256
雨が上がったのを確認して肥溜めと生ごみコンポストの様子を見
に行く。
昨日のうちに雨が入らないように地面を少しだけ周りよりも高く
作り、廃材の板で蓋して置いたので無事だった。
﹁父様、山に少し入って良いですか?﹂
﹁構わんが、何をする気だ?﹂
﹁腐葉土取ってこようかと思いまして!﹂
﹁ふようど?﹂
﹁はい!﹂
昨日の重労働で筋肉痛になっている皆さんを引き連れて山へと入
る。桶の吊るされた天秤棒を背負って比較的村に近い場所の地面を
掘り返した。
﹁うおっ! ふっかふか!﹂
掘り返した地面は深々として楽々と鍬が地面に刺さった。固くな
ってしまっている村の畑とは全然違う。
﹁このふかふかした土を腐葉土と言います。 森の草木が腐った物
です。 この土を持って帰って畑に混ぜ込みますよ!﹂
せっせと運び出したお宝︵腐葉土︶をまだ使っていない畑に混ぜ
込んでいった。
257
﹁村長! そう言えば村はずれのセノ婆の所のも集めた方が良いん
じゃないか?﹂
そう言い出した青年に村長が首をかしげているようだった。
﹁セノ婆が亡くなってから一年のほったらかしてたからなぁ﹂
ちょっとまて! それって発酵済みじゃん!
﹁そのまま持ってきて!﹂
私は必死に言い出しっぺの青年の脛にしがみついた。
せっかく発酵済みの肥料を失ってなるもんか!
﹁わっ! 殿下! わかりました! 直ぐにもって参ります﹂
そう言うなり背年は天秤棒を担いで村へと走っていってくれまし
た。
暫くして青年が持ってきてくれた桶には、原型をとどめていない
立派な発酵肥料がたっぷりとはいっていました。
258
ソープナッツ
うふ、うふふふふ。 肥料! 肥料!
﹁あ、あの。 陛下、なんであ殿下はご機嫌で木桶を抱えて中身を
混ぜていらっしゃるのですか?﹂
﹁すまないな、村長。 よくああなるんだ﹂
なっ、父様酷い! 愛息子を行動異常者見たいに言わないでくだ
さいな。 みんなが誤解しちゃうじゃないですか。
﹁さぁ、撒きましょう。 追肥でそのまま根元にかけると肥料焼け
を起こすおそれも否定出来ず怖いので、少し離して撒きましょうか。
ついでに雑草も抜きましょう! 雑草に養分を取られるのは勿体
ないですから﹂
﹁こ、こうですか?﹂
試しにひと畝分追肥してみせると、他の人もやりはじめた。
﹁そうそう! そんな感じです。 あとは雑草を抜きながら二十日
おきくらいで収穫まで追肥をしてくださいね。 収穫後は土を掘り
起こして先程やったように腐葉土を鋤き込んでください。 同じ場
所で同じ作物を作り続けると作物が病気になりやすくなって収穫量
が減ったりするそうなので、二年くらいで場所を交換した方がいい
らしいです﹂
259
元肥に使う肥溜めは暫く発酵させないといけないからひとまず放
置しておこう。
連作障害の注意点として、二年おきで野菜畑と麦畑、の入れ換え
と土を深く掘って地表の土と深いところの土を入れ換える天地返し
を提案しておく。
本当は水稲、麦、大豆、家畜の放牧で2年おきで回した方が効率
が良いと前世の記憶にあるけれど、水稲と大豆が無いなら仕方がな
い。
畑と麦畑、腐葉土に堆肥に天地返しでもなにもしないよりはまし
だろう。
うん、とりあえず街も綺麗になったし、収穫が近い野菜もあるか
ら、はやいうちに多少の成果は見込めるだろうことも伝えておく。
﹁本当に私の甥っ子殿は物知りだねぇ﹂
﹁えぇ、ロブルバーグ様のお陰です!﹂
都合の悪いことは全てロブルバーグ様の威光をお借りしちゃって
ます。
﹁さぁて、後はなにもないかな?﹂
出来ることを粗方済ませて現在は父様と叔母様が狩ってきた大量
の尾獣を使った夕食をいただいてます。
なんでも最近山から村に猪や鹿が降りてくるようになったらしく、
260
レイナス主従で狩りにいったんだけど、ミリアーナ叔母様が参戦し
たことで狩猟勝負になったそうな。
ドラグーンからついてきたお付きの人達は軒並み途中でリタイア。
嬉々として鹿を斬り倒した未来の王妃の姿に遠い目をしてました。
あんなに楽しそうなミリアーナ姫は初めてみたそうです。
そんなわけで目の前には獲物が山になっているわけでして現在剥
ぎ取り真っ最中です。
ちなみに今は自分で仕留めた雌の大人の鹿を捌いてます。
だってさ、うさぎを捜してたら父様達に追われた鹿がこっちに全
速力で突っ込んできたんだよ。
恐かったんだよ! 前世では車だったけど、今度は鹿に轢かれる
かとおもったわ。
反射的に首を撥ね飛ばしちゃっても仕方がないじゃんね。
あっ! そう言えば腐葉土を取りに入った森で、良いものゲット
したんですよね。
﹁そうだ。 はい! ミリアーナ様これあげます﹂
ズボンのポケットから干からびでしわしわになった茶色い木の実
を取り出して叔母様の手にのせました。
﹁この木の実はなんだい?﹂
261
﹁ムクロジです!﹂
ムクロジ、別名ソープナッツ。 ムクロジは漢字で︹無患子︺と
書く樹木で、前世では子供が病気をせずに祈りを込めて、種子を羽
子板の羽の重りや数珠にしていたあれです。
﹁ムクロジ? へぇ、これ食べられるの?﹂
ちなみに叔母様に渡したムクロジは果皮がつやつやして黄褐色の
半透明なので、中に入っている黒い種子が透けて見えている。
﹁種子は食べられますよ? ただ果皮は食べちゃダメですよ。 そ
のままだと毒がありますから、これは石鹸ですからね﹂
﹁えっ! 石鹸ってあの高級品でしょ? 私もドラグーンに行って
から他国から高価で輸入されてくる物を使わせて貰ってるけど﹂
そうなんですよね。 石鹸は海を渡った遠い異国から商隊が輸入
してくるんだけど、とにかく高くて貴族しか手にできないんだ。
﹁そう、その石鹸ですよ。 なんならやってみますか?﹂
﹁ちょっ、ちょっと待って! せっかくだから捌いちゃおう!﹂
止まっていた手を器用に動かして高速で捌かれていく猪をみなが
ら、私も鹿を解体していく。
流石に重くて捌きにくいところは、大人の手を借りることにした。
262
あらかた獲物の解体も済んだので父様とミリアーナ叔母様、村の
奥様方を呼び寄せてポケットの中からムクロジの実を一つずつ手渡
した。
実から種子を取り出して分けておき、手元に残った果皮は洗浄効
果のあるサポニンが含まれているから、井戸から汲んできた水に浸
けてゴシゴシと掌で擦り合わせた。
白く泡が出始めたのを確認すると、次々と同じように泡立て始め
た。
﹁おっ、本当に石鹸みたいだな﹂
父様は泡を増やそうと水分を増やしすぎて流れてしまったのかも
う一つの実を使って洗い出した。
﹁ちょっと見てよこの手! 私の手ってこんなに白かったんだねぇ﹂
﹁待って! 泡を流すのにこっちの樽を使って頂戴! ついでに洗
濯物しちゃうから!﹂
うん、村の奥様方は鬼気迫る勢いで洗濯をし始めた。
あ∼あ、自分の旦那様の着ている衣類を剥ぎに行く強者まで出始
めると、大樽に水をくんで急いで拾いに言ってきたらしいムクロジ
の実を投入するなり男性陣が解体作業で汚れた身体を水浴びで清め
始めた。
裸体祭りになってきたよ。
263
﹁これ、うちの国にもあるかな?﹂
いつになく真剣な声でムクロジの実を摘まみながら呟く父様。
﹁ありますよ?﹂
﹁なんでもっと早く教えなかったんだ?﹂
﹁だって、最近見付けたんだもん。 お城から出たこと無かったし。
商品化するにしてもドラグーンが成功してからの方が良いですっ
て!﹂
﹁は? なんでだ? 早い者勝ちだろう﹂
﹁これで下手に裕福になると、戦争の引き金になりかねないもん﹂
﹁うーん、なぜドラグーンは良くてうちはダメなんだ﹂
なぜって、だってさ。
﹁うちの国小さくて貧乏だから生き残ってる訳ですし﹂
この覇権争いでレイナス王国が生き残ってるのははっきりいって
奇跡です。
﹁だからムクロジを国内で増やして乾燥させれば長期間保存もきき
ますし、それをドラグーンへ出荷しましょう! それでも収入とし
ては大きいですし、ある程度広まってからうちでも石鹸として売り
出すんです﹂
264
えんめいひ
確か某国民的教育番組で乾燥後の果皮は延命皮と呼ばれて強壮・
止血・消炎などの薬効が見込めたはずだけど、此方は適量が分から
ないから黙っておこう。 うん。
﹁ムクロジか。 いっちょやってみるか﹂
﹁それでこそ父様です!﹂
地獄絵図とかした男裸体祭りを眺めながら、細々と作り続けてい
たらしい夕食を受けとり何の肉か分からない焼かれた肉塊にかぶり
ついた。
265
きゃー!温泉!?
さて裸祭りから一夜明け、当初の予定通り王都に向けて村を出発
した。
見送りに出てくれた皆さんは一様に旦那さん方はスッキリと、奥
様方はグッタリしていたが、何があったかは気にしない気にしない。
夫婦円満は良いことだよね。 昔ならリア充爆⋮⋮げふん、げふ
ん。
出発の際にどうやら村の奥様達が必死に集めてくれたらしいムク
ロジを抱えるほど大きな袋で頂きました。
残りの道程は天候にも恵まれたお陰で結婚式の二日前に王都に入
ることができました。
ミリアーナ叔母様は出迎えの準備やら何やらがあるらしく、王都
に入るなり別行動です。
始めてみるドラグーン王国の王都はレイナスの王都とは比べ物に
ならない位高い石造りの壁で覆われており。 王都に入る為には東
西南北に設置された門を潜り抜けなければならないとか。
しかもこの門夜間には全て閉鎖されるため出入りが出来ないらし
い。
目の前に壁は一体何処まで続いているのか、全く端が見えない。
266
街に入ると王太子の結婚を祝う祭りでどこもかしこも人だらけだ
った。
スクランブル交差点を思い起こさせる人の多さと、必死に客を呼
び込もうとする商売人達の熱意に圧倒された。
私たち一行は長旅の汚れを清め、城へ向かうために装いを改める
必要があったので、父様が前回のドラグーン王国を訪れた際に宿泊
した宿に寄ることとなっていた。
戴冠式への招待客である私と父様、一部の護衛、従者は身の安全
を保証すると言う名目上それぞれに城内の迎賓館に部屋が与えられ
ているそうな。
また、滞在中の世話をするために、使用人や侍女が数人つく事に
なっているらしい。
しかし、長旅をしてきて汚れた身なりのまま登城する事は、国の
威信に関わるのでお着替えするそうな。
﹁いらっしゃいませ∼﹂
宿屋の扉を押し開けると、従業員らしき人物がカウンターテーブ
ルの向こうから声を掛けてきました。
城下町でも比較的城に近い宿屋の為商人や貴族も利用するためか、
馬屋も確りと管理されており、待合室には上質な衣服を身に付けた
人で賑わっています。
﹁お待ちしておりました! こちらにどうぞ﹂
267
待合室に入るなり一人の男性が父様に駆け寄って来ると、親しい
友人に対するように自分の借りていた部屋へと案内してくれました。
確認すると先発して準備を整えてくれたらしい。この賑わいで宿
の確保が難しいなか自分の職務を全うし、父様を出迎えられたのが
嬉しいのだろう。
父様が労いの言葉を掛けると平静さを装い頭を下げながらも口許
が盛大ににやけていた。
案内された部屋はあまり広くはないが、しっかりとした造りの家
具が備え付けられている落ち着いた雰囲気の部屋だった。
﹁さてシオル! おんせんにいくぞ!﹂
へっ、おんせん⋮⋮温泉!? あるの!?
﹁温泉が湧いているのですか! 行きましょう! 早く早く!﹂
﹁なんだ、シオルは温泉も知っていたのか?﹂
﹁えぇ。 お湯が沸く泉を利用した浴室だとロブルバーグ様に聞き
及んでおります!﹂
前世でも車で良く日帰り温泉をしたもんだ。
しかしレイナス王国には湯が溢れる泉の話しは無かったのでかな
り嬉しい。
268
父様は一度来ているせいか私と手を繋いだまま迷うことなく、円
形の屋根が特徴的な建物にやって来た。
左右に同じような建築物が並び、案内された棟と反対側にもう一
棟同じような建物がある。
扉を開けると着替えをするためなのだろうか、鍵のついたクロー
ゼットが壁を覆うようにびっしりと並べられており、クローゼット
ごとに鏡台や椅子が並べられていた。
﹁こちらがお客様のクローゼットとなります、大変申し訳ありませ
んが鍵はこちらのひとつしか御座いません、無くさないようにご本
人様に管理を御願いしておりますのでご了承下さい﹂
綺麗な彫刻のほど凝らせた鍵は金の鎖が付けられており、首から
下げられるようになっているもよう。
﹁開けてみても構いませんか?﹂
父様を見上げるとしっかりと頷いてくれました。
真鍮で出来た鍵を鍵穴に入れて回すと小さくカチッと音がなり続
けて回すとガチャリと音が響きクローゼットが開きました。
クローゼットの中は大人が三人は入れる広さがあり、下段はチェ
ストのようになっています。
脱ぎ出した父様に続いて服を脱ぎ、自分の服を畳み終えると脱ぎ
散らかされた父様の服も畳みました。
269
別に畳む必要はないんですけどね、ついつい前世のクセが。
しかし父様の裸体は相変わらずでしなやかな筋肉がつき、腹筋が
綺麗に割れてます。
部屋から運んできた着替えようの一式と脱いだ服をクローゼット
に仕舞い扉の鍵をかけ、踏み込んだ浴室は白い壁と彫刻で飾られた
浴室でした。
もうもうと湯気が上がりまとわりつく空気は温泉特有の硫黄泉で
はないのか、臭いもあまりないようなので安心です。
流石に硫黄臭くして登城するわけにはいかないもん。
温泉は浴室の中央部には並々とお湯が張られ、溢れたお湯が石畳
を流れて排水路へ吸い込まれていく。
源泉かけ流しの温泉はやっぱり気持ちが良いですね。 身体を沈
めるとシュワシュワとした感触があり産毛に気泡がびっしりとつい
ているので、ドラグーンの温泉は炭酸泉のようです。
はぁ、癒される。 お湯を沸かすためには大量の薪や水を用意す
る必要があるため、こんなに贅沢にお湯を使うのは久しぶりです。
レイナス王国では高温に熱した石に水を掛けて汗を流し、身体を
洗った後は水で清める方法が一般的なためまさかドラグーンで温泉
に入れるなんて長旅をしてきたかいがありました。
ひたすら温泉という命の洗濯を満喫し、本日の一大イベントをこ
なすべく、ドラグーン王国の王城へ向かうため、王城からの迎えの
270
箱馬車に乗り込んだ。
271
夜会
豪華で荘厳なシャンデリアと色とりどりなドレスを纏ったご婦人
やご令嬢。
えー、現在ドラグーン王城で王族の方々が御入場されるのを待ち
ながら父様の隣で聡明なお世継ぎキャンペーンを実施中です。
一体いつまで顔に微笑みを貼り付けておけば良いんでしょうか。
そろそろ表情筋が引きつりそうです、明日は顔面筋肉痛かも。
レイナス王城にある大広間が四つは入りそうなこの会場で今夜は
王太子の婚礼の前に各国の君主やドラグーンの貴族を集めて夜会が
開かれています。
﹁あっ! カストル久しぶりだな﹂
﹁おう! アルトバール! 元気だったか? このたびはミリアー
ナ姫が王太子殿下に輿入れするとか、おめでとうございます!﹂
﹁あぁ、やっとおの跳ねっ返りが嫁に行ったよ。 まさかこんな大
国に嫁ぐとは予想してなったがな﹂
前から歩いてきた美丈夫を見付けるなり父様から話し掛けに行っ
てしまったので私も後を追います。
がっしりと抱き合った美形二人についつい邪推したくなるのはも
272
と腐女子の悪癖ですね。
﹁カストル、紹介しよう私の息子のシオルだ。 シオルご挨拶を﹂
﹁始めましてカストル様、レイナス王国のアルトバールが第一子シ
オル・レイナスです。 本日はお逢いできて光栄です!﹂
初対面の方には元気良く笑顔で対応が基本ですよね。
﹁こちらこそ、私はカストル。 レイナス王国の隣国レイスで国王
を勤めているよ。 シオル殿はおいくつかな?﹂
﹁はい! 今年で四歳に為りました!﹂
﹁四歳!? 本当に? あまりにもしっかりしているからもっと年
齢が上だと思っていたよ。 うちの息子も四歳なんだが、どうにも
大人とばかりいるせいか妙に大人びてしまってね、よければ友人に
なってやってほしい﹂
ですよね、自分でもなまじ前世の記憶があるし、同年代の子供が
城に居ないもんだから四歳の子供がどんな感じかわかりません。
﹁此度の婚礼にうちも息子を同席させているんだよ。 本来なら妻
が出席するんだが、体調を崩してしまっていてね。 紹介しよう⋮
⋮あれ?あいつ一体どこに⋮⋮﹂
後ろを振り返ったカストル陛下が固まった。 視線の先には妙齢
のご令嬢方に囲まれた超絶美形!
サラサラとした金茶色の髪した男の子はご令嬢の手を取り、その
273
甲に口づけを落としていた。
いやいやいや、幼児相手に見悶えるとかショタコンの気があるん
ですかね。
﹁アールベルト!﹂
カストル陛下の声にこちらを確認するとご令嬢方に声をかけてか
ら優雅にこちらへやって来ました。
﹁お待たせ致しました父上﹂
﹁レイナス王国のアルトバール陛下と、御子息のシオル殿下だ。 シオル殿下はお前と同じ歳だそうだから仲良くして頂きなさい﹂
カストル陛下の声にこちらを見たアールベルト殿下の紺碧の瞳が
私を真っ直ぐにみる。
なんだろうなぁ。 笑顔なんだけどスッゴク違和感が⋮⋮。
﹁御初におめに掛かります。 レイス王国の第一王子アールベルト
です﹂
わかった! 笑顔なのに目が笑ってない!?
﹁こっ、こちらこそ⋮⋮。シオルです。 よろしくお願いします﹂
仲良くですか!? 自信ないんですけど!
﹁私はカストル陛下と少し話をしているから暫く子供同士で親睦を
274
深めてきなさい﹂
﹁﹁はい⋮⋮﹂﹂
楽しげに話始めた二人から離れながら隣を歩くアールベルト殿下
を横目で観察する。
﹁僕の顔に何かついていますか?﹂
ついては居ないけど可愛いなぁとはいえないわ。
ぼんやりとそんなことを考えていたら嫌悪感丸出して睨み付けら
れた!
﹁男に可愛いなんて言われて喜ぶような趣味はないんでね﹂
﹁えっ、ええと﹂
﹁口に出てるよ。 どうやら僕らは性格が合わないらしい。 失礼
する﹂
そう告げるとさっさと私を置き去りにして女性の輪に突入してい
った。
あー、ごめん父様、仲良くなるの無理っぽいわ。
暫くして国王陛下の入場が近づいたので父様を捜して会場を放浪
する。
広い会場でもある程度爵位によって相応の場所が決まっているの
275
だろう。
玉座がある他の場所よりも一段高くなっている辺りから離れるほ
どに爵位は下がっていく。
玉座に近付けば父様を見付けることが出来るとふんで壁際をすり
抜けて進むと、一人の給仕が一台の配膳カートを押してシオルの隣
を通り過ぎた。
カートには使用済みの食器が数枚の銀食器やナイフ、フォークが
乗せられている。
配膳カートの邪魔にならないように柱の影に移動したとき、目に
入った物に息を呑んだ。
カートには見映えを良くするためか、赤い布が荷台から下段を隠
す様に車輪にかけて掛けられているのだが、目の前を過ぎたカート
の下段から地面を擦っていたのは私とあまり変わらない大きさの小
さな左手だった。
276
救出
左手? えっ!? 子供の手じゃん!?
狼狽えながらも凝視していると、手がはみ出していた事に気が付
いた給仕の男は何食わぬ顔で布の中に手を戻すと、空いている食器
を下げる振りをしながら目撃者ご居ないか辺りを確認しているよう
だった。
﹁すみません! あの、今子供が!﹂
近くにいた貴族に給仕の話をして助けを求めたが、子供の戯れ言
だと取り合って貰えず、その間にもどんどんと給仕の男は遠ざかる。
これから国王が入室したのか、人並みが王族席側に流れると男は
会場に一礼して出ていってしまった。
﹁あー、うー、もう!﹂
近場のテーブルから銀のナイフとフォークを掴みポケットへ入る
だけ放り込む。
愛剣は会場に持ち込めず、護身用の短剣も会場に入るときに没収
されてしまった。
落ち着いた様子で会場を後にする男の後ろを物陰に隠れながら追
跡することにした。
277
男はどんどんと人気がない方角へ悩むことなく進んでいく。
王族が一同に会するあの会場に警備を集中しているせいか、今い
る辺りには誰も居ない。
明らかに厨房とは違うだろう部屋の前までやって来ると、ノック
もせずに男は部屋の中へと入ってしまった。
﹁う∼ん、これ以上近づくと流石に見付かるよね﹂
大人相手に勝てる気がしないしと悩んで数分後、男は車輪がつい
た衣装箱を曳き、先程の給仕のお仕着せとは違う貴族の従者を思わ
せる服装で部屋を出てきた。
カートは持っておらず、そのまま衣装箱を引っ張って廊下の奥へ
とゆっくり歩いていく。
部屋の中には人の気配がないため、少しだけ隙間を開けて忍び込
むとすぐ近くにあのカートを見付けて赤い布を捲り上げた。
﹁いない、やっぱりあの衣装箱!﹂
キラリと床に光るものを見付けて絶句した。
﹁これ、あの王子さまが着けてた耳飾りじゃん﹂
動機がわからないが、色々とまずい事態に発展しかねないのは暢
気な私でもわかる。
幸せそうな叔母の婚礼に、このような犯罪染みたサプライズは必
278
要ない。
家具や柱の影に隠れながら誘拐犯を追い掛けて着いたのは、参列
している貴族用の馬車が停められている場所だった。
地面に転がる馬糞をよけながら進むと、男が一代の馬車に衣装箱
を積み込んでいた。
﹁おい、お嬢様の荷は?﹂
﹁問題ない。しかしお嬢様の我が儘にも困ったものだ﹂
﹁ちげぇねぇ。 おっとそろそろ出発しねぇと御迎えに間に合わな
くなるぞ﹂
ひらりと御者席に座り込んだあと、馬車はゆっくりと動き出して
しまった。
﹁くそぅ、逃がすかぁ!﹂
走り去る馬車の後部に辛うじてとりすがると、目の前にあるトラ
ンクを開けて飛び移った。
座面の下を空洞にしたトランクの扉を軽く閉めて目的の衣装箱を
小さく叩く。
﹁おーい、誰か入っているのか?﹂
小声で声を掛けるとムームー、と唸り声が聞こえてくる。
279
﹁わかったわかった! あいつらに見付かるから暴れんな!﹂
ガタガタと暴れだしたのでべしっ! と衣装箱を叩くと大人しく
なったので衣装箱の蓋を開ける。
衣装箱の中には布に埋もれるように手足をしばられて猿轡を噛ま
されたアールベルト王子が横たわりながらこちらを凝視していた。
﹁むーむーむー!﹂
﹁はいはい、わかったわかった! 見つかる前に脱出するから静か
にしようね?﹂
持っていたナイフを縄に当てて両手足の拘束をはずしてやる。
﹁ぷふぁ! 一体何を考えてるんだ! こんなところまでひとりで
来るなんて! 危険じゃないか! むぐむぐ!﹂
﹁あっ! このバカ!? そんな大声出すなって! みつかんだろ
!﹂
怒鳴りだしたアールベルト王子の口許を覆って声を封じると馬車
が停まった。
﹁おい、なんか変な声がしなかったか?﹂
﹁いや、車輪の音で聞こえなかったが、もしかしてあれが起きたん
じゃないか?﹂
﹁ちょっと確認してくるよ﹂
280
前方から聞こえてきた声に急ぎ衣装箱の中に潜り込んだ。
身体の上に布を掛けて、急いで猿轡を噛ませアールベルト王子に
気絶した振りをさせる。
両手足のは布を被せたので拘束が解けている様には見えないはず
だ。
ガタリと音がして衣装箱の蓋を持ち上げられる気配に鼓動が跳ね
る。
﹁ん、異常ねぇな。 しっかし、何度みても綺麗な顔してやがるぜ﹂
﹁おいっ! 気付かれる前に城から出なければならないんだ、問題
ないならさっさと戻りやがれ!﹂
アールベルトに伸ばされかけた手がもう一人の男の声で止まった。
﹁ちっ! わかったよ、出すぞ!﹂
バタンと少しだけ手荒に衣装箱の蓋を閉じると御者席に戻ってい
った。
﹁行ったか?﹂
﹁あぁ、大丈夫だ﹂
ガタンと馬車が動き出した震動がするのを確認して、二人で衣装
箱の蓋を持ち上げて外を確認する。
281
そろそろと箱を脱出し音を立てないように閉め直すと、トランク
を開けて外を確認する。
馬車は思ったよりも速度は出ていないらしく、飛び降りても軽い
擦り傷くらいで済みそうだ。
﹁さて、私はこの馬車から降りるけどどうする?﹂
後で怪我をさせたと言われるのも嫌なので一応本人の意思を確認
するとしますかね。
﹁もちろん降りるさ﹂
﹁解った! お先にどうぞ?﹂
トランクの外へ手のひらでご案内すると綺麗なお顔がひきつった。
﹁お先にってまさか飛ぶ気か!?﹂
﹁うん、もちろん。 大丈夫だって軽い打ち身や創傷にはなるけど
こんなもんじゃ死なないから﹂
﹁うっ!﹂
﹁なんだ、怖いのかなぁ?﹂
﹁べっ、別に怖くなんかー﹂
﹁ならさっさと降りる!﹂
282
﹁わぁ!?﹂
二の足を踏んで動かないアールベルトの背中をけり飛ばした直後
に私も飛び降りた。
ごろごろと地面に転がる様にしてスピードを落とすと、すこし前
方で地面に貼り付いたアールベルトに駆け寄る。
﹁おーい、大丈夫か?﹂
﹁くそぅ痛ぇ。 お前なんて大嫌いだ!﹂
おー、涙を浮かべて睨み付けてくる少年の服についた土を払い落
とす。
﹁はいはい、わかったわかった! 見つかる前に戻るよ? だから
知らない人についていっちゃダメなんだよ?﹂
辺りは暗いため見えにくいが、遠くから賑やかな楽団の奏でる音
楽が聞こえてくるため大体の方角はわかる。
動こうとしないアールベルトの手を握ってゆっくりと歩き始めた。
﹁さて戻ろう。 あっと、これ返すわ﹂
ポケットに放り込んでいた耳飾りを引っ張りだしてアールベルト
に渡してやる。
﹁っ! あっ、ありがとぅ⋮⋮﹂
283
﹁どういたしまして﹂
消え入りそうに呟かれた言葉に返事を返して暗い夜道を城へと歩
き出した。
284
実戦︵前書き︶
少しグロテスクな表現がありますのでご注意下さい。
285
実戦
﹁おい! 今の音は何だ! すぐに確認するぞ!﹂
背後から聞こえてきた怒声に、アールベルトが振り返ると馬車か
ら下りてきたらしい男が持っている灯りがゆっくりと後方へ移動し
ていくのがわかった。
﹁ヤバ! もう、あんなわかりやすい悲鳴を上げるから見つかった
じゃん。 走るよ!﹂
すぐに脱出した事は露見するだろうし、いくら小回りが効くとは
いっても大人の足で追い掛けられれば直ぐに捕まってしまう。
恐怖にすくんでいるアールベルトの手を掴みぐんぐんと城へ向か
って走り出した。
﹁はぁ!? あれは突き落としたお前が悪いんじゃないか! むぐ
っ!﹂
アールベルトの反論を口を無理やり手で塞ぐ。
﹁馬鹿! 大きな声を出したら見つかー﹂
﹁あっちから子供の声がしたぞ!﹂
﹁ほら見付かっちゃったじゃん!﹂
286
迫り来る足音に必死に逃げながら、暫く走ったところでアールベ
ルトの体力が尽きたらしく、石に躓き地面に転んだ。
﹁だいじょー﹂
﹁居たぞ! あそこだ!﹂
方向を変えながら逃げてきたが、とうとう見付かってしまったら
しく、男二人がこちらへ走ってくる。
咄嗟に背中にアールベルトを庇うようにしてしゃがみこむと走っ
てくる男たちを睨み付けた。
いくら日頃から父様達に鍛えられているとはいえ、正直近衛にす
ら剣で敵わない私に他者を護りながら戦う事は難しいだろう。
しかも使い慣れた愛剣も短剣もなく、あるのは数本のナイフとフ
ォークのみ。
﹁何だ餓鬼か。 さぁ大人しく一緒に来るんだ﹂
相手が子供二人と見るや、弱者をじわじわと追い詰めるようにし
て迫る男たちが侮ってくれて居るのが唯一の救いだろう。
気が付かれないようにズボンへ手を伸ばすと会場を出るときにポ
ケットへ放り込んできたフォークを握る。 私の射程まで後、三歩。
﹁そうだ。 そのまま大人しくしてりゃお嬢様に渡す前に俺たちが
可愛がってやるからよ﹂
287
後、二歩。
﹁二人とも怯えちゃって可愛いねぇ﹂
伸びてきた手を振り払い勢いをつけて屈む男の懐へ入り込むと、
持っていたフォークを男の顔面へ向けて突きだした。
ぐりゅっと肉に突き刺さる感触に躊躇いそうになる自分を叱咤し
て男を蹴り飛ばした。
男は右目からフォークを生やして地面にのたうち回り、もう一人
の男が、駆け付けてくる。
アールベルトにナイフを一本手渡すと男が視線を外した隙に姿勢
を低くして走り出した。
﹁ぎゃー! 痛ぇ! 目が!﹂
﹁おい! このガキいったい何てことしやがる! って居ねぇ!﹂
アールベルトしか居ないことを認識した男が周りを振り向く死角
に入り込み両膝に回し蹴りを叩き込むと、重心を崩した男の背後か
ら首もとを掴みぐいっとひきたおした。
﹁なっ!﹂
必死にナイフを男の両目をなぞるように走らせると男から断末魔
のような悲鳴が上がる。
初めて他者を傷付けてしまった恐怖に震える手で、ナイフを地面
288
に投げつけた。
﹁逃げるぞ!﹂
二人とも目を潰したから直ぐに追ってくることはないとは言え、
まだ油断できない。
アールベルトの元へ走り寄ると腕を掴んで無理矢理たたせるとこ
の場を離れるべく走り出した。
手に残る感触と悲鳴が何度も頭の中で繰り返される。込み上げる
嘔気を堪えて走り警備らしい騎士達を見付けて走り込んだ。
﹁レイス王国のアールベルト殿下とレイナスのシオルだ! 賊に追
われているんだ!﹂
走り込んできた私達確認するなり、直ぐに数人の騎士が私の指差
す方角へと入っていった。
﹁よくご無事で。 御安心ください。 もう大丈夫ですよ﹂
﹁よかっ⋮⋮﹂
途端に膝に入っていた力が抜けて地面に崩れ落ちるように座り込
んだ。
﹁おい! しっかりしろ!﹂
焦ったアールベルトに身体を支えられ、必死な声を聞きながら私
は意識を手放した。
289
はじめての友
﹁くぁー、良く寝たぁ!﹂
良く回らない頭で起き上がり身体を伸ばす、ベッドに寝かされて
いた為身体痛くない。
窓から差し込む太陽はもう高い位置まで昇っているようで随分と
長時間眠りこけてしまっていたらしい。
泥々だった夜会服は清潔な寝間着に交換されてた。
泥々になった理由を思い出した途端に寒気が走った。
レイナスでは騎士に混じって鍛練に参加してはいたが、全て刃を
潰した長剣を使っていた為に人を害した事はない。
何度か狩りにも駆り出されることはあったが、はじめこそ生き物
を仕留めるには抵抗があった。
前世では専らスーパーで既に肉塊となった牛や豚、鶏肉なんかが
当たりまえだったから、自分で鳥を肉塊に変える工程は想像すらし
たことがなかった。
それでもわかっていたつもりでいたのだ。 この城へ来る途中で
狩りをするミリアーナ叔母様が生きた鳥の首を撥ね飛ばしたにも関
わらず、首なし鳥がこちらに向かってくる様子は正直恐ろしかった。
290
でも、鳥獣と人では恐怖の度合いが違う。まざまざと思い出した
肉を刺す凶器の感触をわすれたくて無意識に手を洗うように擦り合
わせていた。
﹁おはようございます。 お目覚めになられたのですね。 シオル
殿下、お体に不調はございませんでしょうか﹂
﹁おはようございます?﹂
部屋に居たらしい女性が陶器に入った水を手渡してくれたので、
ありがたく頂くことにした。
どうやら自覚していた以上に渇きを覚えていたらしい。あっと言
う間に飲み干すと女性が追加を陶器に入れて渡してくれた。
三杯目の水を飲み干す頃にやっと恐怖感も落ち着いてきたような
気がする。
﹁殿下は丸一日以上眠られていらっしゃったんですよ﹂
レイスの王子様を救出してから丸一日? 随分と長時間寝ていた
ものだ。
﹁直ぐにアルトバール陛下へシオル殿下がお目覚めになられたこと
をご報告して参ります。 念のため直ぐに宮廷医を呼んで参ります。
診察で問題がな居るのよければお食事をお運びいたしますので、
お休みになっておまちください﹂
﹁あっ、はい。 おねがいします﹂
291
にっこりと笑顔で告げた女性が出ていくのを見送って、いそいそ
と布団を被り直した。
さすがは大国のベッド、肌触りもスベスベで気持ちがいい。黒檀
を使用した大きなベットにもこれでもかと部厚い敷布が引かれてお
り寝具全てが極上品だとわかる。
﹁きゃぁ! お客様!? シオル殿下はまだお休みです!﹂
惰眠を貪るべく目を閉じたが、侍女だろう女性を振り切って飛び
込んできた来客にあえなく強制終了になりました。
﹁おはよーぅ!﹂
バタン! と派手な音を響かせて部屋の中に乱入してきたアール
ベルトに右手をあげながら声を掛ける。
急いで来たのだろうアールベルトをベッドに起き上がり出迎える
と、どこかほっとしたような顔をしたあと、私の方へ走り寄るなり
ポカリっと頭に拳骨を落としてきた。
﹁痛ったいわね、なにすんのよいきなり! 暴力反対!﹂
﹁おはよーぅ! ってなんでそんな気の抜けた挨拶してんだよ! こっちは心配してたってのにぐぅぐぅ寝やがって! しかもわねっ
てなんで女言葉なんだよ!?﹂
﹁うるさいなぁ、そう言うあんたも言葉使い悪くない!? キラキ
ラ王子さまどこに行ったの!?﹂
292
﹁はぁ!? それこそどうでも良いだろうが。 もしかして女言葉
が素なのか? そうなのか!?﹂
﹁良くないわよ! 別にどんな言葉を話そうとわたしの勝手でしょ
!﹂
﹁あのぅー﹂
﹁なに?﹂
﹁なんだよ?﹂
全く引く気がないアールベルトと至近距離でにらみ合いをしてい
ると、遠慮がちに声を掛けられた。
二人で振り向くと額に青筋を浮かべた赤鬼がいた。
﹁随分と仲良くなって良かったが、二人には聞きたいことが山のよ
うにあるからなぁ。 早く宮廷医に診て貰え。 アールベルト殿下、
貴方も犯人が捕まるまでは部屋で安静にしているようにと指示され
たはずでは? また勝手に寝室を脱け出されましたね?父君が捜し
ていましたよ?﹂
赤鬼さん。もとい赤い髪の父様がしっかり告げるとアールベルト
はさぁっと血の気が引いたように意気消沈し、ベッド上からおりた。
渋々部屋の出口に向かって歩いていくアールベルトは扉の前で振
り返るとこちらを見つめてきた。
﹁昨日は⋮⋮有り難う。 あんたのお陰で助かった。 御礼に友達
293
になってやる。 ありがたく思えよな? 特別だからな!?﹂
耳元を真っ赤にして走り去るアールベルト、やば、なにあれ。ツ
ンデレか? ツンデレなのか?
﹁良かったな。 お前のはじめての友人だな? おめでとう﹂
父様の大きくて固い手がくしゃりと頭を撫でてくれた。
﹁シオル、無事で良かった。 もう無理はするんじゃないぞ?﹂
﹁ごめんなさい。 気をつけます﹂
抱き締められて背中を撫でられた。
﹁本当にお前は赤ん坊の時から目が離せないな﹂
苦笑いを浮かべると、三度ほど扉を叩く音がして水をくれた女性
に続いて宮廷医らしいお爺ちゃんが入ってきた。
﹁シオル、悪いところはこの際全て診て貰え。 先生、お願いしま
す﹂
﹁はい。 お任せを﹂
私を宮廷医に預けるとアルトバール父様は部屋から出ていった。
294
迷える闘神
医師の診察を受けて晴れて健康体だとお墨付きをいただいたので、
現在ミリアーナ叔母様の膝の上にいる。
婚礼の儀式は私が寝ているあいだに終わってしまったらしく参列
しそこなった。
はぁ、見たかった。 こちらの世界の婚礼の儀式⋮⋮。
その上、今回の誘拐未遂事件の事情聴取を笑顔が怖い赤鬼とかし
た父様の威圧に耐えながら行われ、罰として室内軟禁が言い渡され
た。
はぁ、もう外に行きたいです。
﹁ん? どうした?﹂
小さなタメ息をつくと、ミリアーナ叔母様は此方を覗きこんで聞
いてきた。
﹁外に行きたいです!﹂
﹁行けば良い﹂
何でもないことのように返されて目の前のテーブルに撃沈した。
﹁父様に外室禁止令をもらいました⋮⋮﹂
295
だろう? 城内は
室内
だぞ?﹂
﹁あぁ、シオルは真面目さんだな? シオルが言い渡されたのは
外室禁止令
ガバッ! っと顔をあげるとニヤニヤとした笑顔のミリアーナ叔
母様を見上げた。
﹁なんなら私が城内を案内しても良い﹂
﹁叔母様愛してる!﹂
首もとに飛び付くとひょいっと身体を持ち上げられてしまった。
﹁実はな、婚礼のついでに近隣の王族が集まっているから首脳会議
中なんだよ。 それで今各国の優秀な騎士や護衛達が武術交流会を
行っているんだ。 私は頭より身体を動かす方が得意だからそちら
に参加したくて逃げてきたんだ﹂
迷うことなく石畳を進むと、何処からか聞こえてきた歓声と熱気
にミリアーナ叔母様を急かす。
日頃教練や鍛練を王宮の騎士たちの訓練場は沢山の人で埋め尽く
されていた。 ﹁うちの国からも参加してますか?﹂
﹁参加してるわ。あそこに⋮⋮、そっかシオルの身長じゃ見えない
わね⋮⋮。﹂ はい目寝前にはごつい男性のお尻が壁のように反りたってます。
296
﹁これでどう? 見えるかしら?﹂
不意に両脇をガシッと掴まれてミリアーナ叔母様の右肩の上へ乗
せられると一気に視界が開けた。
前世では高層ビルやジェットコースターなんかで高い場所には免
疫があると思ったけど細身の叔母様の肩の上は歩くたびによく揺れ
た。
落ちないよう咄嗟にミリアーナ叔母様の頭にしがみつくと声をあ
げて笑われた。
﹁あっ、シオル! もう出てきて大丈夫なのか?﹂
﹁おはよう! そっちも元気そうだな!﹂
人の間をすり抜けてこちらにやって来たアールベルトに暢気に手
を挙げると、ミリアーナ叔母様が地面へ下ろしてくれた。
アールベルトは私を見るなり腕を絡めるようにして拘束し、ぐい
ぐいと人込みの中へ連行していく。
﹁ちょっと、どこにいくのさ!﹂
﹁良いからつき合え、武術交流会に俺も出たいんだが、同じくらい
の年齢のやつが居ないからって参加させて貰えないんだよ!大人相
手に勝てるとは思ってないけど、子供二人ががりなら大人が相手し
てくれる﹂
297
へー、ほー、ふーん。 でも。 ﹁そっかがんばれ! 応援するよ。 じゃ!﹂
対戦相手らしい巨漢の筋肉達磨にスキンヘッドの小父さんを見付
けた時点で逃げ出すべく身体を反転させた。
﹁逃がすか! 折角マーシャル皇国の﹃迷える闘神﹄殿が相手をし
てくれるのに、こんな機会を逃してたまるか!﹂ 迷える闘神って誰だっけ?
首を傾げると、うがぁー! と﹃迷える闘神﹄殿について熱心に
語り始めた。
﹃迷える闘神﹄殿は本名をジェリコ・ザイス殿と言ってマーシャ
ル皇国の黒近衛隊大将殿らしい。
何処までが真実かわからないが数々の武勇伝と共に、多大な欠点
を持つことから二つ名を有しているらしい。
﹃迷える闘神﹄
全ての敵を薙ぎ倒す武勇と彼は残念な事に稀に見る方向音痴であ
るらしい。
そんな相手に挑むとか無理でしょう! 絶対にこの人父様やミリ
アーナ叔母様の同類だもん。
﹁本当にやる気か? 出来ればやりたくないんだけど。﹂
298
嫌々な私の手に木剣を押し付けると私を道連れにアールベルトが
ジェリコ殿の前に立った。
﹁ほう! これはこれは小さき挑戦者だ﹂
﹁はい! 胸をおかりしたいです!﹂
元気に緊張しているらしく直立したアールベルトの頭を木剣て叩
く。
﹁痛いなぁ! 何すんだよ!﹂
﹁緊張し過ぎだよ。 身体が強張れば動けなくなるよ? 怪我する﹂
﹁その通り! 私で良ければ相手になりましょう﹂
白い歯をキラリと光らせたジェリコに、うきうきと後ろからつい
てきたらしいミリアーナ叔母様が声をかけた。
﹁この子達が終わったら私の相手もしてもらえないだろうか?﹂
微笑む叔母様の様子に自分がダシに使われた事を知る。
絶対に自分が﹃迷える闘神﹄と戦いたいだけだ。
﹁これは王太子妃殿下! この度は御結婚おめでとうございます。
私のような者で宜しければお相手させていただきますよ﹂
﹁ありがとうございます。 さぁ、子供たち盛大に散ってこい!﹂
299
そう言うと私とアールベルトの背中を人込みの中心になっている
舞台の上へ押し出した。
絶対に自分が早く戦いたいだけだよね。
﹁シオル! 行くぞ!﹂
木剣を身体の正面に構えたアールベルトに急かされて、いつも父
様に教えられている通りに剣を構えると、ジェリコ殿の纏う空気が
一転した。
﹁ほう! その小さき身体でその胆力は見事! どこからでも掛か
ってこい!﹂
﹁はい!﹂
間合いも何もなく斬りかかって行ったアールベルトに唖然とする。
いや、駄目でしょう! 斬られるって!
懸命に振りかざす剣の重みに振り回されているアールベルトをあ
しらうジェリコ殿はなぜかこちらから警戒を外さない。
構えを解いて肩や首など身体の強張りをほどくと木剣を構え直し
た。
﹁いざ参る!﹂
小さく告げて私はジェリコ殿へと突進した。 300
301
決着
ジリジリと躙り寄りジェリコとの距離を詰めていく。
どうしても大人と子供では攻撃できる範囲に差が出る、腕の長さ
はそれだけで強力な強みだ。
間合いも何も考えずひたすらにジェリコに斬りかかっては地面に
転がされるアールベルトを見ていたら、間合いをはかることが馬鹿
らしくなり、真っ直ぐに巨体に向かい特攻した。
﹁むっ、来たな!﹂
途端にこちらへ体勢を直したジェリコの足元へ滑り込んだ。
自分よりも身体の大きな者と対峙した場合まともにやり合えば私
のような身体の小さい者は力負け必須。
木剣で巨体を支える脛を狙って斬り付けると、軽すぎる木剣は意
思に反して剣筋がブレる。
巨体に似合わず軽い動作で木剣を飛び越えて躱すと同時に、持っ
ていた木剣で私の背中に向けて振り下ろす。
﹁ハハハッ! 容赦なく急所を狙うとは、貴殿の師匠はえげつない
のぅ。 しかしまだまだ!﹂
咄嗟に転がり剣を躱すと、地面が抉れた。
302
ちょっと! その威力で一撃貰ったら怪我するわよ!
﹁やぁ!﹂
尚も斬り込むアールベルトの木剣をあしらいながらご機嫌な様子
で相手をするジェリコの背後に回り込む。
﹁アールベルト! 身体を低くして素早く動くぞ! 小回りは俺た
ちの方が上だ! 狙うなら足だ!﹂
﹁おう!﹂
助言に反応して身を屈め、それまで狙っていた上半身から攻撃対
象を足の甲へと切り換えた。
﹁ムッ! 下半身ならまだしも足を狙うとは!﹂
まるでダンスのステップを踏むように華麗に避けるジェリコの背
中に向かって走りよる。
自分の足元へ視線がいっている今なら視界は効かない。
足音を殺して走りより背後に飛び蹴りを仕掛けるとこちらを一切
向かずに伸びてきたジェリコの左手に蹴り出した右足首を掴まれ、
ぶら下がる。
﹁なんで!?﹂
ジェリコの行動に先程まで足元を動き回っていたアールベルトの
303
動きが鈍る。
それもその筈だ、アールベルトもまさか止められるとは思ってい
なかったはずだから。
ジェリコはひょいッと犬猫でも捕まえるようにアールベルトを捕
らえると自分の目線に合わせるように私たちの身体を持ち上げて見
せた。
﹁よしっ、捕まえましたぞ。 二人ともそんなに殺気を出していて
は兎一羽も捕られられませんなぁ。 目を閉じていても丸わかりで
すぞ﹂
ニカッといい笑顔のジェリコは私たちをそれぞれの保護者である
自国の騎士に手渡すと、御待たせしましたと言ってミリアーナ叔母
様に頭を下げた。
﹁なんの、では参ります!﹂
今から!? ちょっと待って! 叔母様ドレスですけど!?
いつもの男装ではなく、社交の場に相応しい足元まで隠れる緑色
のドレスと十センチはあろうピンホールのハイヒール姿で優雅にジ
ェリコへ礼をとる。
﹁ドレスのままで宜しいのですか?﹂
﹁えぇ、問題ありませんわ。 これがこれから私の戦闘服となるの
ですもの。 常に殿方と同じような服を纏う訳にはまいりませんし
ね﹂
304
レイナスでは基本的に男装だったが、そうかまぁ、仕方がないよ
ね。
歌劇団の男役みたいで格好良かったんだけど。
﹁成る程、武器は何に致しますか?﹂
ジェリコが木剣に目を走らせると、ミリアーナ叔母様は自身の腰
元から得物を引き抜いた。
一瞬短剣かと思ったがパサリと開かれた華美な装飾の施された扇。
﹁鉄扇か!﹂
重さを感じさせない動きで開いた扇で口許を隠すとにっこりと微
笑んだ。
﹁えぇ、本当は長剣位の尺があればと思うのですけど、実用性にか
けるのですわ。 馴れればこちらの方が扱い易いですしね﹂
ニッコリと微笑むとではと言うなり、ジェリコに踏み込んだ。
ミリアーナ叔母様は格下の相手には自ら踏み込む事をせずに待つ。
つまりジェリコは格上だと言っているような者だ。
鉄扇による連撃を見事な木剣捌きで受け流しながらの攻防は激し
く、見物していた人々を熱狂させる接戦を繰り広げ、周囲の熱気が
渦巻くなか、ミリアーナ叔母様の鉄扇が木剣で弾かれ地面に落ちる。
305
﹁勝負ありですかな?﹂
﹁まだまだ!﹂
﹁そこまで∼! 全くうちの奥さんは、他の男に素足を見せちゃ駄
目だっていつも言ってるのに﹂
履いていたピンヒールを脱ぎ両手に1つずつ構えたところで掛け
られた声にミリアーナ叔母様は跳び跳ねんばかりに驚き、そろそろ
と背後を振り返った。
﹁くっ、クライン、会談は終わったのか?﹂
視線の先にはいつも以上に眉間に血管が浮かび上がっていそうな
恐ろしい形相のアルトバール父様と銀色に輝くストレートの髪をし
た美青年が微笑んでいた。
﹁えぇ、終わりましたよ? すぐに待っているはずの妃を迎えにい
ったのですが、残念なことにだれもいませんでしたけどね? 何故
でしょう?﹂
紺碧の瞳の青年はジリジリと距離を詰めていく。
﹁いやぁ、可愛い甥っ子と遊んでいただけだぞ? 接待も立派な仕
事だよな? 妃の!﹂
﹁そうですね。 剣を振り回して接待するのがレイナス流ですか?
義兄上﹂
306
傍らに立つアルトバール父様を見上げた青年に、父様は首を振り
否定する。
﹁我がレイナスは武に通じる者が多いですが、客人相手に大立ち回
りはしませんね。 いつどこで誰からそんな教育を受けたのか、一
度じっくり話し合いきっちりと確認する必要がありそうですね﹂
目の前の青年こそクラインセルト・ドラグーン陛下、十四歳でド
ラグーン王国の王太子になりこの度の婚姻を期にドラグーン王国の
国王に即位された我がミリアーナ叔母様の夫君だったりする。
現在はすっかり成長されたようで、初めて会った時のボーイソプ
ラノな美声は成長し、声変わりを果たした今は低さの中に甘さを加
えた大人の魅力満載だ。
﹁お願いいたします。 私も今夜じっくりと確認いたしますので﹂
﹁ひっ! いや、その、なんだ⋮⋮﹂
クラインセルト陛下はジリジリと後ずさるミリアーナ叔母様を笑
顔で追い詰めながらも、ジェリコに視線を向けて礼を述べる。
なんで私の周りにいる人達は揃いも揃って怒るよりも笑っている
顔のほうが怖い人がおおいの!?
﹁マーシャル皇国のジェリコ・ザイス殿ですね。 王妃が迷惑をか
けたようです。 改めて感謝申し上げる﹂
﹁いえ、こちらも王妃陛下には大変有意義なお時間を戴けました。
ありがとうございます。 改めてこの度の御婚礼及び御即位誠にお
307
めでとう御座います﹂
闘神殿は巨体に似合わず優雅に礼をとると、祝辞を陳べた。
308
ただいまぁー
さてさて、生まれ変わって初めてのたのしい外国訪問も本日をも
って終了です。
あとはレイナス王国に帰るのみ。
ドラグーン王国とレイナス王国を隔てる山はこれから積雪でこれ
以上帰国が遅れれば山越えが難しくなるためだ。
旅行は自宅に帰るまでが旅行ですって昔誰かが言っていたっけ。
前世では自動車や新幹線、飛行機などで二泊三日で観光旅行なん
かにも行っていたけれど、今回のドラグーン王国訪問で文明の利器
の偉大さを痛感致しました。
直線距離なら今回の旅は前世での旅に比べて短いと思うけど、移
動に伴って立ち寄った街や村での小さな思いでは私にとって良い刺
激になったと思う。
是非とも今度はゆっくりと立ち寄りたいなぁ。
現代日本にはなかった煉瓦や土壁の色がむき出しの家屋や活気付
く商店街。
隣人と協力しあいながら和気あいあいと生活を営む。
そんな当たり前の賑やかな暮らしは、コンクリートジャングルで
309
生活していた前世の私にとって、とても新鮮で魅力的だった。
はっきり言って私が成人後に移り住んでいた単身者向けのマンシ
ョンには沢山の人が暮らしていたけれど、自分の部屋の上下左右隣
人の顔すら知らなかったもんね。
実家にいたときはそれなりにコミュニティーが存在していたんだ
けど。
前世を含めてこんな長期間旅行なんてしたことなかったけれど、
今はレイナス王国に帰れることがただただ嬉しい。
私にとってレイナス王国は帰るべき大切な家なのだと改めて気が
付けた。
赤ん坊の成長は早いから、きっとキャロラインは大きくなってい
るんだろうなぁ。
はっ、忘れられてたらどうしよう! 泣かれるかもなぁ。
私より早くアールベルトはレイス王国へと帰っていった。
﹁手紙くらい寄越せよな! そしたら返事くらい書いてやるよ﹂
帰国の挨拶に来たアールベルトはそっぽ向きながらそう告げてき
た。
強がったってバレバレだよ。
昨日レイス王国へ帰らずに私と遊びたいと言って、レイス王国主
310
従を困らせたとネタは上がってるんだから。
﹁はいはい。 ちゃんと書くよ﹂
そう返事をすれば、絶対だからな! と何度も念を押された。
王族である私たちにとって、きっと身分に囚われず友を得ること
は難しい。
身分制度と言う縦社会に生きていく私たちには、身分差を気にせ
ずにすむ初めての友だ。
レイス王国一行を見送った三日後の本日、帰国の挨拶を済ませ、
母様にはお土産にドラグーン王国で流行りの美容液を、キャロライ
ンには布で出来た可愛い人形をお揃いで購入済みだ。
リーゼには綺麗な刺繍とレース編みが施されたストールを、ミナ
リーとリズとレーシャの侍女トリオにはお揃いの綺麗なレースのハ
ンカチを購入済みだ。
母様の兄であるシリウス伯父さんには父様イチオシのドラグーン
産のワインを購入した。
ムクロジを見つけた村に立ち寄って仕込んでおいた堆肥を蒔く時
の注意点やらなにやらを説明したり、余っていたムクロジを購入し
たりした。
国境を隔てるうっすらと雪化粧を纏った山脈を越えてこれからこ
の雪が父様の身長よりも高く降り積もると聞いて父様達が帰国を急
いた理由に得心がいった。
311
本格的な積雪の季節がくればこれでは山を越えられなかっただろ
う。
それでもこの雪が豊かな水源をレイナスの国土にもたらせてくれ
る。
ありがたや、ありがたや!
帰りの旅路の話はとりあえず横に置いておいて、懐かしの今世の
実家である城を見たときに涙が出そうになったのは内緒だ。
歳をとると涙脆くなるのかな? 肉体的にじゃなくて精神的にだ
けど。
出迎えてくれたリステリア母様に走りより抱きつくと、﹁お帰り
なさい﹂と言われて抱き上げられた。
親愛のキスを両頬に貰いながら元気に挨拶をすることにしましょ
うか。
﹁シオル・レイナス只今戻りました! ただいまぁー!﹂
312
妹の育てかたを間違えたかもしれない。︵前書き︶
お久しぶりです。連載再開します。
313
妹の育てかたを間違えたかもしれない。
雪解け水が山からレイナス王国へと恵みとなって流れ込む本日、
いつもと変わりなく、愛剣で素振りを繰り返していると、けたたま
しい声を張上げて飛んできた者によって背中に衝撃が走った。
正直に言いましょう。 避けられますよ。 伊達に父様やその他
の武官、文官に十年間鍛えられてませんとも。
ドラグーン王国から帰国してからはや五年、毎日毎日レイナス王
国の後継者としての教育と、有事の際に自分の腕で国を守れるよう
に武術の鍛練をしてきました。
ドラグーン王国から帰った時にはよちよち歩きだった可愛い妹の
キャロラインも今では城内を深紅のドレスを翻しハイヒールで駆け
ずり回る立派な鉄砲玉⋮⋮もとい淑女? になりました。
妹よ、一応一国の王女がそんなんでいいのだろうか、ごめんなさ
い。 私のせいだね、うん。
淑女教育が始まったもののどうやらレイナス王家に刻み込まれた
戦闘民族的な血筋はしっかりとキャロラインにも受け継がれていた
ようで、座学よりも体を動かすことを好む妹ちゃん。
お兄様! 格好いい! とおだてられて見事に調子にのった昔の
私を殴り飛ばしてやりたい。
ぴよぴよと後を懸命に付いてくるキャロラインに剣術の訓練を見
314
せ、キャーキャー言われ。
乞われるままに木剣を貸してしまい、気が付けば一緒に素振りし
ていたり。
馬に乗りたいと懇願されて城にある生け垣を馬術で飛び越えると
いった荒業をお兄様素敵! と言われてついつい乞われるままに伝
授してしまった私は悪くない!
気が付いた時には既に遅くミリアーナ叔母様の分身が出来上がっ
てしまい、矯正の効かない猪突猛進なレディになってしまった。
ドレスを着て、喋らずに動かなければどこからどう見ても美姫な
キャロライン。
さらさらな美しい金髪に緑と琥珀色のオッドアイが印象的な美少
女の体当たりを素直にくらい、グウッ! と呻いた。
昔体当たりを避けたらそのまま勢いよくキャロラインが馬屋に突
っ込んで行ってしまい怪我をしてしまったことがあった。
それからと言うもの回避はせずに受け止める事にしたのだが、成
長するにつれて破壊力はうなぎ登り、鍛えてはいるもののもうすぐ
十歳になる私の身体は成長が遅いのか、七歳のキャロラインとあま
り差はない。
辛うじて、辛うじて私のほうが小指一本分高いのが救いだろうか。
﹁お兄様! お兄様! お兄様ぁー!﹂
315
膝の屈伸を活用して衝撃に耐えて体の向きを変えると、今日も元
気なキャロラインを抱き締めた。
﹁キャロ? どうしたの、今はレーシャに刺繍を習っている時間だ
ろう?﹂
﹁刺繍なんて役にたたないものよりも素振りの方が有意義ですわ!
それよりもお兄様本当ですの!?﹂
いやいや、刺繍大事だよ。 出来れば好いた人に嫁いで貰うのが
理想だけど、私達は王族だからそうも言っていられないし。
淑女の嗜みとして刺繍は必須。 あのミリアーナ叔母様でも多少
は出来たんだよ。
私の洋服の胸元をむんずと掴んだキャロラインにユサユサと容赦
なく揺さぶらながら、一体何を示して本当かと聞かれているのか考
える。
この間キャロラインがミナリーの靴に仕込んだ蛙がバレたのか、
もしくは隠しておいた生け垣を通り抜けた時に破いた夜会服が見付
かった?
ハッ! もしやキャロラインが途中で放棄した刺繍の続きをつい
前世の手芸好き癖で勝手に完成させて置いておいたのがバレたのか
!?
﹁すっ、すまない! キャロ、刺繍は出来心だったんだ!﹂
内心だらだらと冷や汗を流しつつとりあえず謝罪する。
316
﹁えっ!? あの素晴らしい刺繍はお兄様だったんですの!? て
っきり親切な妖精が気紛れに私の窮地を救ってくれたのかと思って
おりましたわ﹂
いやね、確かにレイナス王国の童話で妖精は出てくるし、幻獣の
類いも出てきますよ?
﹁キャロ、妖精居ないからね?﹂
﹁おほほっ、お兄様ったらそんな夢の無いことを仰るなんて! 双
太陽神を始祖とする王族が居るんですのよ。 探せば妖精やユニコ
ーンやペガサス、ドラゴンの一頭や二頭くらい居てもバチは当たり
ませんわ!﹂
どこの世界にも似たり寄ったりな思考の人はいるのか、もしかし
たら私のように前世の記憶がある人物が居て伝え広めたのかも知れ
ない。 しかし、刺繍じゃないなら一体なんだ?
﹁う∼んキャロ、私は何かしたかな?﹂
悩むよりも聞いた方が早そうだ。 下手にこちらから黒い案件を
提示して自爆は避けたい。
﹁ハッ! そうでしたわ! お兄様、ドラグーン王国のセントライ
トリア学園へ留学なさるって本当ですの!?﹂
えっ、なんだって⋮⋮セントライトリア学園って何? ドラグー
317
ン王国に留学!? 聞いてないよ!?
﹁キャロ! その話誰からきいた!?﹂
﹁きゃ! シリウス伯父様です!﹂
ぐわしっ! っとキャロラインの両肩に手を置いてガシガシ振る
と、目を回したようにぐらぐら傾いだ。
﹁シリウス伯父様だな!﹂
キャロラインに持っていた木剣を手渡して走り出す。
﹁伯父様は今お父様の執務室にいらっしゃるはずですわ﹂
後ろから居場所を教えてくれたキャロラインに手を振って勝手知
ったる城内を駈ける。
﹁キャーシオル様! 城内を走ってはいけません!﹂
途中でキャロラインを捜しているリーゼに見逃してもらう為にキ
ャロラインの居場所を教えて先を急いだ。
キャロライン、お前の尊い犠牲は忘れないぞ。
318
学園へ通うために留学するらしい。
私の今世の父、アルトバールの執務室は城の奥にあり、下男下女
は近寄ることすら出来ないようになっている。
重厚な扉の両脇を護る近衛騎士に父様への面会を取り付けて貰い
ように頼み、暫し扉の横で待つと直ぐに会って貰える事になった。
他国はどうか知らないが、レイナス王国の王宮は先触れだの何だ
のの堅苦しい作法にあまり煩くないので正直助かっている。
﹁失礼致します。 シオルです!﹂
一歩室内に足を踏み入れた途端に廻れ右をして逃げ出したくなっ
た。
大量の書類に囲まれて、まるで腐れたようにしくしくとお通夜の
ような雰囲気を醸し出しだす父様。
﹁おや、シオル殿下どうしましたか?﹂
部屋の奥から白磁のティーカップを片手に出てきたシリウス伯父
様は十年前よりも貫禄が増して、男の色香が倍増しになりました。
﹁シリウス伯父様、父様どうしたんですか?﹂
もともと事務仕事が得意ではないのは知っていたけれど、いつも
に増してウザさが際立っている。
319
茸でも繁殖しているのでは無かろうか。
﹁ん? あぁ、子離れしたくないと駄々をこねているだけだよ。 それよりどうしたんだ? こんな時間に執務室に来るなんて﹂
﹁はい、じつはキャロラインが駆け込んできまして、私がドラグー
ン王国に留学するとか何とか言っていたのですが、本当ですか?﹂
私の問い掛けにシリウス伯父様はしっかりと頷かれました。
﹁本当だよ。 なんだもしかして知らなかったのか?﹂
知りませんよ! 本当に寝耳に水でしたから。
﹁あぁ、何処かの親馬鹿が行かせたくない秤に今まで情報を握り潰
したんだね。 そのうえいつまでたってもウジウジウジウジしてる
んだろう﹂
じぃぃぃーっと机の上に寝そべる父様を見詰めて、はぁ、と深い
溜め息を吐く伯父様。
﹁ううぅ、仕方がないだろうが。 ドラグーンの学園へ入ったら十
五歳の成人を迎えるまで戻れないんだぞ!? それなら別に国内の
国立学院でも⋮⋮﹂
﹁まだそんな事を! 若い内に他国へ出して見聞を広めよと代々王
家に伝わってきた伝統を親の我が儘で潰すおつもりか? 第一にそ
の伝統を守ったことでリステリアを正妃に迎えたのは誰でしたかね
320
?﹂
えっ!? 父様と母上に一体どんなロマンスが!?
﹁シリウス伯父様! そこのところをもっと詳しく!﹂
﹁あれは⋮⋮むぐ!﹂
﹁わー! わー! わかった! わかったから! シオル、一ヶ月
後にドラグーン王国へ出発するから必要な物を纏めておけ。 あと
リステリアにも今のうちに甘えておけ﹂
シリウス伯父様を焦った様子で羽交い締めにすると必死に口を掌
で塞ぎ、父様は私を執務室から追い出そうとしてる。
父様、必死なのはわかりましたけどシリウス伯父様の首まで絞ま
ってます!
﹁わかりました! リステリアお母様に父様との出会いやらなんや
らを聞いて参ります!﹂ ﹁ちょっ! 待ちなさい! シオル!﹂
後ろからの制止を無視して廊下へ出ると直ぐに扉と壁の隙間にな
る空間に入り込む。
﹁殿下? 一体⋮⋮﹂
﹁しぃ! 私は居ないふりをしてください!﹂
321
困惑ぎみの騎士コンビを口許に人差し指を宛がって黙らせるとた
った今出てきたばかりの扉が勢い良く内側から押し開いた。
﹁シオルぅぅぅ!﹂
バタバタと走っていった父様を慌てて追いかけていく騎士コンビ。
頑張れ! 君達の協力に感謝する!
父様が上階へと続く階段が有る方角へ曲がったのを確認して、改
めて執務室へ入ると、咳き込んでいたシリウス伯父様の背中を軽く
撫でた。
﹁はぁ、死ぬかと思いましたよ﹂
﹁父様は手加減が苦手ですからね﹂
本当に我が父ながらご苦労をお掛けします。
﹁はぁ、しかしまさかまだ留学をシオル殿下に話していなかったと
は思いませんでしたよ﹂
呆れ果てるように大きな溜め息を吐きたくなる気持ちもわかるけ
ど、私だって寝耳に水です。
﹁学校なんて初めて通いますからね﹂
﹁ドラグーン王国は周辺国を侵略しない代わりに代償として、王族
や高位貴族の子息令嬢を一定期間人質として招いているんだよ。実
際ドラグーン王国には優秀な知識者や貴重な書物、各国から新しい
322
技術が集まってくる。 きっと良い経験になるだろう。 まぁ、あ
れが一番の問題だけどな?﹂
遠くから自分の名前を呼ぶ声を聞きながら、一体どうしたら拡声
器もないこの時代であれほどまでに大きな声を出せるのか疑問しか
浮かばない。
父様、頼むから止めてくれ! 他の人の迷惑だから!?
323
懐かしい村は?
さて、やっと辿り着きました。 ドラグーン王国!
えっ? 早いって? そんなことはありませんよ。
だってさぁ。 出発直前まで父様に纏わり付かれて鬱陶しいし、
キャロラインにはなぜか、そうなぜか格好いい美男子の婿を捜して
こいと言われるし、美男子? レイス王国に一人心当たりはいるけ
どあれはなぁ。
ドラグーン王国で別れてから会う機会もなかったし、一応手紙の
やり取りの連絡はしているけど、あいつにキャロラインは勿体無い。
ちなみに母様は⋮⋮普通だった。
もう少し別れを哀しむなり心配するなりしても良くはありません
か? と思いますよ。
本来ならば従者を沢山つけて豪華な馬車に大量の荷物を持って仰
々しくドラグーン王国へ向かうらしいんだけど、それって盗賊や山
賊に襲ってくださいと言っているようなものだよね。
だからこそ凄い人数の随伴がいるのかも知れないけれど、行商人
に交じって目立たないようにして必要最低限の随伴に抑えれば旅費
として使われる税金が浮く。
馬車に乗るよりも単騎で野原を駆け回るほうが楽しいし。
324
汚れるのが分かりきっているので、豪華な衣装は着ていない。
名乗りさえしなければちょっと裕福な商家の息子位にしか見えな
いだろう。
せっかく十歳から成人する十五歳までの五年間も貴重な時間を貰
えたんだから学園生活を満喫するっきゃないでしょう。
と言うわけで只でさえひとりひとりが脳筋で過剰戦力な護衛が五
人とお目付け役は父様の信頼も厚い騎士、ロンダーク・ビオスさん。
昔から父様の暴走阻止要員兼お目付け役としての役目を任されて
きたある意味可哀想な人。
ロンダークさんは年齢的には父様とさして変わらないらしいがピ
チピチの独身貴族だったりする。
文武両道に優れており、見目も良いためモテそうなのに独身貴族
な人。
しかし昔から父様の手綱を握ってきた腕は伊達じゃない。
今回の随伴者のなかで一番の実力者だろう。
シリウス伯父様の許可を取り、道中小さな街や村に立ち寄っては、
危ないからと渋るロンダークさんを伴って酒場へと潜入して色々な
話を聞いた。
近所の誰それが結婚したといったような身近な話題から始まって、
325
どこの村が山賊に襲われたと言った話題。
娯楽の少ないこの世界で民の情報収集力は中々に侮れない。
﹁おい坊主! あそこで突っ立ってるお前の父ちゃんを呼んでこい。
酒だ酒だ!﹂
すっかり出来上がってる酔っぱらいの言葉に多感な御年頃のロン
ダークさんは気分を害したのか、疲れきったように大きな溜め息を
はいてた押し黙った。
このような場所には子供だけで出入りなど出来ない。
だからといって王子である事を晒す訳にはいかない。
それならば父親としておいたほうが相手も油断してくれる。
﹁おっちゃんこれ旨いね﹂
﹁だろう! 塩茹でしただけの簡単な料理なんだが旨いんだよこれ
が!﹂
そら豆サイズの大ぶりな豆は、塩ゆですると素材の甘みを強調さ
れて枝豆のようで旨い。
﹁この豆はここいらの特産なのかい?﹂
﹁あぁ、森に入りゃぁそこら辺にぶら下がっとるよ﹂
うむ、自生植物なのだろうか? なんにしてもこれは是非レイナ
326
スで栽培できるならしてみたい。
﹁乾燥させた豆ならそこいらの店で安く売ってるぜ?﹂
マジですか、それは是非買って行かねば!
酒場の酔っぱらい達に御礼を言って訪ねたそこいらの店から枝豆
を乾燥させた大豆を買えるだけ買い込んだ。
﹁シオル様、いくらなんでもそんなに買い込んで一体どうするつも
りですか?﹂
﹁ふふふ、秘密﹂
フフフフフッ! 大豆、やっと見つけた! ﹁はぁ、お願いですからあまり問題を起こさないで下さいね﹂
人聞きの悪い、わたしがいつ問題を起こしたと?
どうやら不満が顔に出ていたようで盛大に呆れられた。
﹁王宮の糞尿を嬉々として集めては眺めてみたり。 それを王宮の
庭園の至るところにばら蒔かれて異臭を放ってみたり﹂
いや、それは違うぞ! 糞尿を集めたのは可愛いキャロラインに
私の身に文字通り降りかかったあの悲劇を繰り返させない為にも必
要だったと力説しよう!
それにばら蒔いたんじゃなくて追肥したのだよ。
327
﹁そのお陰で豊作だったじゃないですか﹂
﹁えぇ、そうですね。 結果的にはあの奇行がもたらした成果であ
るのは認めますけど一国の王太子が時間が空くと肥溜めの前で中身
を覗き込みながら、ニヤニヤとなにらや書き付けている姿ははっき
りいって不評でしたよ﹂
﹁うっ、それはすいません﹂
﹁臣下に敬語を使用しないで下さい﹂
﹁すっ、すまない﹂
言葉遣いも注意されつつ戦利品を積み込み、途中前回ドラグーン
王国を訪問した時に立ち寄った村で歓待を受けました。
肥溜めの効果か疫病や病気が減り、腹を下す子供が減ったようで
す。
また近年は周辺の村や町に比べてこの村だけ豊作が続き、豊作の
秘訣を探るために他の土地から移住した人達によって開拓も進み、
村が大きくなっていて驚きました。
どうやら出生率も上がったようで子供がわんさか出迎えてくれま
した。
これはムクロジ効果だね多分。
ついでなのでムクロジも少し買い取りましたが、価格が高騰して
328
いるらしく良い御値段でした。
さて無事に王都までたどり着いた為、道中ご一緒した行商人に御
礼をして、別れを告げて旅の汚れを落とし、数年ぶりの王城へ向か
った。
329
懐かしい村は?︵後書き︶
この度、本作品のシリーズものの﹃拾った迷子は皇太子!?﹄をア
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by/
あらすじ紹介 マーシャル皇国の辺境で弟と暮らすナタリアは何かが燃える臭い
に慌てて飛び起きた。
火元がナタリアの村では無いのを確認し、帰宅途中で弟のゼイン
が森の中で見付けたのは血塗れの男!
息はあるのでゼインの反対を押しきり拾ってきた身元不明の怪我
人はなんと自国の皇太子殿下だった!?
死んだと噂されている婚約者を探し続ける、諦めの悪い皇太子カ
イルと、自分を嫁にするといって訊かないシスコンの弟。
周囲に振り回されながら、じゃじゃ馬なナタリアは次第に自分の
忘れ去られた過去を取り戻す。
自己中ばかりの男性陣相手に果たして幸せはやって来るのか!?
ドレスも化粧も苦手でコルセットは天敵なナタリアの人生奮闘記
330
本作品は 異世界異性転生記 と同世界を舞台に展開しております
ので登場人物が被ります。ご容赦ください。
331
求めしもの
さて身なりを整えて登城すれば王族の謁見に使われる部屋へと通
されると思いきや、案内されたのは王妃様の私室、ミリアーナ叔母
様のお部屋でした。
叔母様、いくら血縁でも他国の王子をこんな宮殿の奥まで招いち
ゃ駄目でしょう!
﹁シオル! 大きくなりましたね。 どれ、どれ程強くなったか確
かめてあげるわ。 ちょっと付き合いなさいな!﹂
簡単な挨拶をした途端に叔母様が剣を私に手渡すと、王妃様のお
部屋の奥にある広間に引き摺って行こうとする。
﹁王妃陛下! 今は大事な時期なのですよ! お止めください!﹂
﹁そうです! お好きな焼き菓子をお持ちしますから是非ともお座
り下さい!﹂
広間へ続く扉を必死に死守する侍女さん方。
﹁ええい! 平気だ、これくらいで流れてしまうほど、レイナス王
家の血筋は柔にはできてないわ﹂
﹁レイナス王家の武勇は聞き及んでおりますが、ドラグーン王家は
武勇よりも知略の家系で御座います! 無理はお子に障ります!﹂
332
へっ、お子?
ミリアーナ叔母様の腹部を確認するもあまり目立った様子は無い
ようで⋮⋮、本当に妊婦なの!? ﹁王妃陛下、この度はご懐妊おめでとうございます! 是非大人し
くいたしましょう。 それがいいです!﹂
長旅で疲れているのに、脳筋妊婦のストレス発散に付き合ってら
れるか!
これ以上妊婦のミリアーナ叔母様を刺激しないようにか、早々に
会見がきりあげられた。
本当なら今夜は王城で一夜を過ごし、これから十五歳の成人を迎
えるまでの五年間過ごす事になるドラグーン王国のセントライトリ
ア学園へ向かう予定だったのだけど、急遽前倒しで王族用の学生寮
に入寮することになった。
そして現在目の前にそびえる学生寮を見上げてアホ面をさらして
いる訳だが、この豪邸が学生寮ですか?
レイナスの王城並に広いんだけど、数人しか居ない王族のために
こんなに大きな建物要らなくない?
今年入寮する王族は私とお隣レイス王国の我が友アールベルト王
子の二人だ。
在学中の生徒に私達以外の王族は居らず、ほぼ貸しきりだ。
333
在学生に王族が居ないときはこの寮は閉鎖されているらしい。
うむ、実に無駄だ。これだけ広い寮ならさぞかし掃除やら何やら
で人手が要りそうだ。
流石大国ドラグーン王国!
入学式は一週間後と言うことなので、日が落ちると早々に寝具へ
入った。
次の日朝も早く目が覚めた私は与えられた寮を探検することにし
た。
監視つきだとなにかと動きにくいので、お目付け役のロンダーク
が起きてくる前に行動開始だ。
だだっ広い廊下は暗く、警備は手薄のようだった。
硝子がはまった窓から外を見れば、警備の兵が巡回しているのが
わかる。
寮への出入りを厳しく制限することで、寮内の警備を少なくして
いるのかもしれない。
動きやすくて大歓迎だ。 四六時中見張られていたら動きにくい
ことこの上ない。
鼻唄混じりに寝室がある最上階である三階から階段の手摺を滑り
台替わりにして階下へ降りる。
334
さて、台所はどこだろう。 キョロキョロと周りを見回して適当
に扉を開け、中を確認しては閉めていく。
何度か使用人らしい人とすれ違ったが、他国の王子が従者も連れ
ずにひとりで廊下にいるとは思わないのだろう。
水を貰うために厨房へ行きたいと告げれば、従者と間違われて親
切に案内してくれた。
広い厨房では既に竈に火が入り、料理が始まっているようだった。
まだ忙しい時間にはなっていないようだったので、一人捕まえて
買ってきた物の場所を聞いてみる。
﹁すいません! レイナス王国の者ですが、持ち込んだ荷物はどち
らでしょう?﹂
訪ねれば、案内された倉庫の一角で山積みの大豆が入った甕と買
ってきた塩が入った袋ををそれぞれ二つほど持ち出して、厨房へ持
ち込んだ。
﹁御忙しいところ申し訳ありませんが、この豆を蒸していただけま
せんでしょうか?﹂
声を聞いて厨房から料理人らしい壮年の男性が顔を出した。
﹁ん? 見たことない顔だな。 レイナスの王子様のとこの人か?
どの豆だい?﹂
本人ですとは言えないので、そうだとだけ告げる。
335
嘘はついてない。 だってレイナス王国の者には違いないからね。
﹁この豆なんですけど﹂
袋から大豆をとり出して手のひらに乗せて見せた。
﹁ん? こりゃソイ豆だな。 立派なもんだ。 あんたこの豆で一
体何を作るんだい? 乾燥したソイ豆なんて録な使い道無かろうに﹂
ほうほう、こちらではソイ豆と言う名前なんですね。
﹁昔お世話になった教会の方が、海の向こうにある国から交易で流
れてきたソイ豆を原料にした調味料を食べたことがあるらしくて、
再現できないものかと思いまして﹂ ﹁へぇ、これが調味料にねぇ⋮⋮、うん? 交易品の調味料?﹂
男性は顎に手をかけて思案したあと、厨房の隅の扉へ移動すると、
扉を開けて中からなにやら取り出すとこちらへ戻ってきた。
﹁なぁ、もしかしてこれか?﹂
手には小さな壺を持っていた。
何かの革で密封された壺の中身を男性の許可を得て確かめる。
フワリと薫る懐かしい芳香!
﹁これ! これを何処で! 譲ってください!﹂
336
味噌だ! 味噌! 見付けたヤッホイ!
﹁駄目だ駄目だ、こいつはこの壺で俺の月収三ヶ月分もしたんだぞ。
はいどうぞなんてそう簡単に渡せるもんか!﹂
男性、おっちゃんの月給がいくらかは知らないけど、高価なんだ
な。
﹁わかりました! この調味料を一緒に量産しましょう!﹂
﹁はぁ? 製造方法どころか材料すら分からんものが、そう簡単に
造れるわけがあるか!﹂
﹁まぁ、駄目でもともとです﹂
一番の難問だった麹菌は完成品の味噌が手に入ったことでクリア
したも同然。
時間がかかろうとやれば出来る!
﹁宜しくお願いします! おじさん!﹂
﹁良くわからないがとにかくおじさんと呼ぶな! 俺はまだ二十八
だ! 名前はアレホ、この厨房の料理長だ﹂
﹁宜しくアレホさん! 私はシオル、シオル・レイナスです!﹂
﹁ち、ちょっとまて、レイナスって⋮⋮﹂
337
﹁あっ、今日から五年間お世話になります。 レイナス王国第一王
子です﹂
名乗りと同時に厨房がどよめいた。
338
入学の式典。
さて王族専用の寮という名目の豪邸に私が入居した二日後に我が
友レイス王国のツンデレ王子、アールベルト・ウィル・レイスがや
って来た。
ここ数年ですっかり身長が伸びて金茶色の髪と、気の強そうな紺
碧の瞳の美少年に進化をとげている。
勝手に自室を脱走したことがバレてロンダークさんに軟禁されて
いたのだが、アールベルトが入寮したため解放された。
だってさ、自国の王子が悪さしたからお仕置き中だなんて理由で
顔合わせ出来ませんでしたとか外交的にもよろしくない。
そんなわけで入寮直後に顔を合わせ、簡単な挨拶を済ませたわけ
ですが、その後はお互いに入学まで色々と忙しくて顔を合わせる事
がなかった。
さてさてそんな背景もあり、あっと言う間に学園への入学式とな
ったわけですが、私は今ロンダークさんに出掛けに拘束されており
ます。
何故かって? 学園指定の正装である軍服を思わせる制服は濃紺
を基調とし、学年ごとに指定の色味が肩章と袖口、衿と裾には同色
の縁取りに施されている。
袖口には学園の校章が彫り込まれた大きめのカフスがあしらわれ
339
良いアクセントになっている。
ちなみに今年の新入学生は指定の色味がワインを思い起こす落ち
着いた赤だ。
胸元はダブルボタンが四連に並び、その上からブレードの縁取の
装飾を施した当て布をボタンで留める仕様になっている。
デザインが洗練されていてとても凛々しい。 きっと二割増しで
男前に見えることだろう。
だが中に着た詰め襟のシャツを着なれないせいか、きちんと留め
られた首があまりに苦しくてついつい首もとを弛めて着崩し、いつ
もの癖で愛剣を腰に佩いたところで首根っこをつかまれた。
﹁シオル様! 貴方と言う方はなんとだらしない姿で登校なされよ
うとされているのですか! もう少しご自分がレイナス王国の王太
子だと言うご自覚をお持ちくださいませ! しかも学園内での武器
の所持は原則禁止です!﹂
﹁え∼! だってシルバがないと落ち着かないんだもん!﹂
あっ、シルバとは私の愛剣の名前ね。 幼い頃は常に背負ってた
んだけど、最近は身長が伸びたので普通に帯剣している。
寝るときも抱いて寝る相棒を置いていけってそんな無茶な!
﹁だもんじゃありません! いいですか⋮⋮クドクドクド﹂
ううぅ、年々ロンダークが説教臭くて敵わない。 そんなに怒ら
340
なくても良いじゃないか。
﹁聞いておられますかシオル殿下!﹂
﹁はーい。 聞いてまーす。 聞いてますよー﹂
﹁はぁ⋮⋮まぁ良いでしょう。⋮さぁ剣を渡して下さい。﹂
毅然とした態度で詰め寄るロンダークの両手に渋々と腰からシル
バを外し手渡した。
うわぁ、なんかシルバの重みがない分体幹のバランスがおかしい。
その場で跳ねるといつもの倍位の高さまで飛び上がり危うく天井
に頭を打ち付けそうになった。
﹁何をなさっていらっしゃるのですか! 遊んで居られずに学園へ
向かいませんと入学の式典に間に合いませんよ﹂
私室から追い立てられるようにしてポポイッっと箱馬車に投げ込
まれ、学園へと強制送還されました。
一つ言いたい。 自国の王太子投げるか普通。
学園についてから案内されたのは広いダンスホールがある入学式
の行われる会場だった。
あちらこちらに美しく盛り付けられた料理の数々が並べられてい
た。 341
学園は主にドラグーン王国の貴族の子息令嬢が在籍していて、会
場内は在校生と新入生が入り交じっているようだった。
皆、私と同じ濃紺を基調とした軍服を思わせる揃いの制服に身を
包んでいる。
女子生徒も男子の制服に似た意匠の軍服を模したワンピースを
着こなしている。
ワンピースの後面はウエストが学年を示す色の紐で編み上げられ
ウエストを体に沿って絞めあげているため身体の線が良く現れてい
る。
制服着用時はコルセット等の身体の動きを妨げる補正下着の類い
は原則禁止されているため、誤魔化しが効かない。
男性用の制服同様にダブルボタンで学年ごとに色味が異なるブレ
ードの縁取の装飾を施した当て布を留める仕様になっている。
衿を飾る大きなのリボンはブレードの縁取りと同じ色味、同色の
膝丈のスカートが禁欲的な色気を放つ素晴らしいデザインだった。
しかし踝まであるスカートが主流の中で膝丈のスカートが導入さ
れているのは驚きだわ。
うむ、困ったことにコスプレの集団に見えるぞ。
﹁そんな不躾に女性に視線を送るものじゃないよ?﹂
﹁ん? あぁやっと着たか﹂
342
背後から声を掛けられて振り向くと我が友アールベルト・ウィル・
レイスが私の間合いに踏み込まない程度の距離を開けて立っていた。
﹁しかし似合うねぇ。 とても同じ歳の学生に見えないんだけど﹂
﹁悪かったな、どうせ私は老け顔だよ。 仕方がないだろう。私は
陛下に似たんだよ。 お前こそ女性ものでも行けるんじゃないか?﹂
﹁俺は母上似だからね。 しかし女性の制服は流石に無理だ。 あ
の制服はレディが着るから輝くんだよ﹂
﹁まぁな、同感だわ﹂
他愛ない話をしているうちに遠巻きに囲まれた。
﹁アールベルト、ほら見ろお前がきたから目立っちまった﹂
﹁心外ですね。 無駄に頭一つ分背が高い上にその真っ赤な頭が目
立つだけでしょうに﹂
そうなのだ。 妹と比べて身長に差がないので自分ではちびだと
思っていた、会場入りして気が付いたのだがどうやら同学年の生徒
と比べると私は背が高いらしい。
しかもドラグーン王国は金色や銀色の髪が一般的で私の赤い髪は
目立つこと目立つこと。
一目で赤毛のミリアーナ妃の血縁者だと丸わかりですわ。
343
ただでさえ目立つのに隣にはキラキラの人好きする顔の美少年ア
ールベルト王子が居るんだから二倍どころか悪目立ち二乗だろう。
近くのテーブルから果物を拝借して口にポイッと放り込めば、な
ぜか遠くで黄色い歓声が上がる。
アールベルトが動いても上がるから多分私達の行動が原因だろう。
落ち着かない、とにかく落ち着かない。
﹁殺気を放つの止めなよ、それにほらそろそろ始まる﹂
アールベルトに促されて会場の上座を見れば、学園長らしいご老
人と義理の叔父であるドラグーン王国の国王クラインセルト・ドラ
グーン陛下が貴賓席へ現れた。
名目上は学園内は貴賤を問わず、等しく勉学に勤しむって事にな
っているが、幼い頃からの刷り込みが出るため会場の上座に各国の
王族や高位貴族の子息令嬢が、徐々に下座に向かって下級貴族や豪
商の子供、特待生として平民の子供たちがいる。
なんでもロブルバーグ様が双太陽神教の教皇になってから、各国
に呼び掛けて同意を得られた国でのみ市勢向けの簡単な読み書きと
計算を教える学舎を教会に作ったらしい。
ドラグーン王国ではその中でも優秀な者を特待生として学園に入
学させている。
レイナス王国は今だに学問は各家毎に家庭に教師を雇い教育する
344
のが主流なので今回の留学で是非レイナス王国へ教育制度を持ち帰
りたいと思っている。
﹁本日は我がドラグーン王国のセントライトリア学園への入学誠に
お慶びいたします﹂
本日の司会らしい男の話を聞いていれば、隣にいたアールベルト
が上座に向かって移動をはじめた。
﹁どこに行くんだよ﹂
﹁ん? あぁ言っていなかったか、王族がいる場合、新入生代表と
して挨拶を頼まれるんだよ﹂
﹁ふーん。まぁ頑張れ!﹂
﹁はぁ、シオルもだぞ?﹂
は? そんな話一言も聞いてないぞ!
﹁聞いていなかったのか? ほら行くよ﹂
ぐいぐいと引き摺られながら上座へと連行されていく。
嫌だ∼! 行きたくない!
﹁わ、私腹痛が!﹂
﹁我慢しろ﹂
345
うわぁ、鬼だ! 鬼がいる!
﹁自分だけ逃げられると思うなよ﹂
上目使いに微笑まれたが、目が笑ってない。
助けてー!
346
この学園、実は単位制だったらしいっす。
壇上に上がったアールベルトの挨拶は素晴らしく、遠目に在校生
あ
の字も考えてません!
らしい女学生があちらこちらで惚けたような顔をしてアールベルト
の挨拶を聞いている。
私はと言えば、はっきり言おう挨拶の
この土壇場で小難しい挨拶分を考えるなんて私の頭じゃ無理。
諦めの境地で黄昏れていたら、いつの間にやらアールベルトの挨
拶が終わったらしく、本日の司会らしい教師に壇上へ上がるように
と促された。
中身はこんな残念仕様だが、だからと言って仮にもドラグーン王
妃の甥で、レイナス王国の王子だ、おどおどした姿は見せられない。
背筋を伸ばし自然に優雅に見えるように壇上へ上がれば、会場内
から一斉に視線の集中砲火を浴びる。
私は会場内を一度見回すと、緊張に乱れた呼吸を整えるために深
呼吸をした。
﹁レイナス王国から今年入学することになったシオル・レイナスだ。
これから五年間この学園で皆と共に切磋琢磨し励みたいとおもう。
共に学ぶ機会があれば気軽に声をかけてほしい。 五年間よろし
く頼む。 以上!﹂
347
挨拶を終えて皆に一礼し顔を上げると、皆ポカンとしてこちらを
見ていた。
あれ? 私なんか変なこといったかな?
先に挨拶を済ませたはずのアールベルトに視線を向ければ、なぜ
か身体を捻るようにして顔を背け、小刻みに震えながら悶え苦しん
でいる。
あん?私なんか変な事でも言ったかな?
﹁し、シオル殿下御挨拶ありがとうございました。 それではドラ
グーン王国国王クラインセルト・ドラグーン陛下にお祝いのお言葉
と乾杯の御挨拶をお願いいたします﹂
なんとか持ち直したらしい司会者が陛下に挨拶をと声をかけたの
で、私はさっさと舞台から離脱する。
﹁クラインセルト・ドラグーンである。 この国の次世代を担う新
入生諸君! 入学おめでとう。 先程の挨拶の通り今年度は国境を
接するレイス・レイナス両国からの留学生が入学されることになっ
た﹂
クラインセルト陛下は流石に声替わりしたようで昔よりも低く、
それでいて魅力的な声色だった。
﹁本当は長い演説を用意してきたんだか、どうやら演説は長ければ
良いと言うものではないと気が付いたので止める﹂
えっ、それって私が原因なんじゃと思い隣に立つアールベルトを
348
見ると、しっかりと頷かれた。
どうやら長い演説が主流だったらしい。 それなら百二十語前後
の挨拶は異例だろうさ。
ここに来て先程のアールベルトの反応はあまりに短すぎる挨拶に
笑いの壺を刺激してしまったのだとわかった。
﹁ささやかながら祝いの席を私から用意させてもらった。 これか
ら共に学ぶ者達と交流を深めてほしい。 以上! 乾杯!﹂
クラインセルト陛下の声に皆が手に持ったグラスを両手で顔より
も高い位置に持ち上げた。
主催者が飲み物に口を付けてから、私たちも用意された飲み物や
食事に手を付けるのがマナーだったらしい。
すまん、さっき普通に摘まみ食いしちゃったよ。 アールベルト
め、その顔は知っていて黙ってたな。
さっきのどよめきはこの摘まみ食いが原因だったのね。 そりゃ
ぁ騒ぐわ。
それから特に大きな問題もなく、入学式典は進んだ。
本格的な授業が始まるのは明日だから皆思い思いに食事や会話を
楽しんでいるようだ。
﹁所でアールベルト、私は先日急遽この学園へ行ってこいって身一
つで国から出されたんだが、どんな学園なんだ?﹂
349
私の言葉に両目を見開くと、呆れたような視線をくれた。
視線は要らん、答えをプリーズ?
﹁セントライトリア学園は基本的に生徒が学びたいものを自主選択
で決めて学ぶことが出来る学園だな。 帝王学や武芸は勿論、社交
やマナー、算術等の各種学術などなどだな。 宗教学として双太陽
神教から講師を派遣してもらうこともあるようだ﹂
ふーん。 色々と授業があるんだねぇ。 葡萄の生搾りジュース
を口に含む。
うむ、美味だわ。
﹁そう言えば、希望する授業の選択カリキュラムの提出が明日にな
っているはずだがシオルはもう提出したのか?﹂
ぶっ! はい!? 聞いてませんよ! 危うくジュースを吹き出
しかけたじゃないですか!
﹁なにそれ聞いてない! 今から考えるのかよ、アールベルト!頼
む助けてくれ! この通り!﹂
﹁嫌ですよ! 自分の授業計画立てるのにどれだけ苦労したと思っ
てるんですか﹂
基本的にどの授業を受けてもいいのだが、五年後に卒業するため
には規定の単位数を獲得する必要があるようだ。
350
どうやら授業によっては受講できる時間が重複していて受けられ
ないし、継続して受講しなければ単位として認められずに、折角出
席した授業が無駄になるらしい。
﹁ちなみに参考までに教えてほしいんだけど、なんの授業を取った
んだ?﹂
﹁帝王学と周辺諸国の語学、高等算術、経営学、武芸学とかまぁ色
々かな﹂
﹁そ、そうですか﹂
いまだに賑わいが続く会場の様子をぼんやりと見つめながら、私
の心は今晩眠らずに作らなければならないだろう自分の教育カリキ
ュラムのことで頭が一杯だった。
351
もう一仕事。
﹁はぁー、疲れた﹂
入学の式典が無事終了したので即行で帰宅してきた。
着替えもせずに天蓋付のベッドに飛び込む。
﹁シオル様! 全く着替えもせずに! 制服に皺が着いてしまいま
す! あーぁー、もう皺が付いている!﹂
ベッドに懐いていたらノックの後に入ってきたロンダークのお小
言が炸裂した。
枕を頭の上にのせて小言を遮断しようとの試みは、ロンダークに
枕を取られて呆気なく終了。
﹁ロンダークぅ、私一応王子なんだけど酷くない?﹂
﹁ご自分が王子殿下であると御自覚がおありでしたか。 それは失
礼致しました。 さぁ起きて着替えてください。 さぁさぁ!﹂
ぐぐぐっ、絶対に王子に対する態度じゃないぞそれ。
王子
をしてるんだから自室でくらい
だ
今更畏まれても気持ち悪いだけだが、本当にロンダークは口煩い。
人前じゃそれなりに
らけても良いじゃないか!
352
ロンダークの小言が仕方なくノロノロと身体を起こす。
﹁こちらの厨房から料理長が見えてます﹂
ガバッ! っと勢い良くベッドから飛び起きればロンダークが着
替えを差し出したのでさくっと制服を脱ぎ捨てて代わりにロンダー
クに手渡した。
﹁はぁ、はじめから動いていただければ小言も必要ありませんのに
⋮⋮﹂
﹁へいへい﹂
小言に返事をしたら怒られた。 ロンダーク、そんなに怒ってる
と血圧上がるよ? 高血圧は体に悪いよ。
どうやら料理長は応接間に待たせているようだったので、そそく
さと移動する。
木目が美しい扉を開ければ、先日調理場で知り合った男性が所在
なさげに佇んでいた。
﹁アレホ料理長!﹂
﹁これはシオル殿下、学園へのご入学おめでとうございます。 ご
依頼がありましたソイの実が蒸し上がりましたので、指示をいただ
きにお伺いいたしました﹂
頭を下げてそう告げてきたのは、先日調理場で知り合った料理長
353
のアレホさんだ。
さすがに王子の私室に料理服で出入りは憚られたのか、今日は清
潔感のあるシンプルな上下を着ている。
すっかり緊張してか顔がひきつっているアレホさんの様子が可笑
しくて
﹁アレホ料理長、この前と同じように話してください﹂ ﹁いや、しかし⋮⋮﹂
﹁ぷっ! アハハハッ! ア、アレホさん借りてきた猫みたいだ﹂
調理場でガキ大将っぽい雰囲気を垂れ流していたアレホさんの狼
狽えっぷりが可笑しくて可笑しくて、腹を抱えて笑ってしまった。
﹁はぁ、たくよ。 こっちは王子様に会うってんで粗相しねぇよう
に緊張しっぱなしだったってのに、台無しじゃねえか﹂
﹁すいませんね。 確かに私は王子ですけど、四六時中王子様して
ると鳥肌がたつんですよ。 だから普段通りのアレホさんで対応し
てくれると嬉しいんですが﹂
肩をすくめて見せれば、アレホさんは困った顔で横に控えて気配
を消すように佇むロンダークさんへ目を向けた。
﹁殿下がそれで良いってんなら俺は、構わねぇがあんたんとこの従
者殿がなんと言うか﹂
354
﹁私の事はお気になさらず、殿下が気安いのは今に始まったことで
はありませんし、言ったところでこの気安さはもって生まれた性質
です。 不治の病を治せと言うだけ無駄です﹂
深い深いため息をつかれた。 うーん、さすがに不治の病は言い
過ぎじゃないかい? まぁ、三つ子の魂どころか前世からの魂だか
らなぁ。
﹁ほらね、ロンダークもこの通りだから気にしなくて良いんだよ。
王子だろうがシオルだろうが、赤ん坊の時から知られてるせいか
遠慮がないんだ。 だからアレホもいつも通りで良いよ﹂
﹁はぁ、わかりましたよ殿下。 それであの山のようなソイの実を
一体どうすれば良いんだい?みんな蒸すのはかなりの手間だったぞ﹂
袖口を捲り軽く肩を回すアレホの様子に苦笑する。 まぁ、自分
で頼んでおいてなんだけどさ、流石に麻袋十袋はやり過ぎたかも。
﹁お疲れ様。 さてその蒸し終わったやつはどこにあるんだ?﹂
﹁厨房にあるよ﹂
﹁そっか、なら行こう!﹂
さっさと扉に向かうと後ろからロンダークとアレホさんか追いか
けてきた。
はじめから成功なんてするわけは無いんだから思いっきりやるか
ぁ。
355
⋮⋮なんか忘れてる気がする。 まぁいっか。 356
仕込み
さて厨房へ移動した訳ですがアレホさんに続いて私とロンダーク
さんが入室するなり、厨房で働いている人達が慌てて作業をやめて
叩頭し始めたので、作業を続けるように促した。
厨房の端には山積みのソイ豆が抱えるほどの大皿に乗せられてい
た。
カラカラに乾燥してあったソイ豆は、十分に吸水させてから蒸し
た為に、体積が二倍に膨れて量が増していた。
手にとって見れば、親指と人差し指で潰れる位の固さだ。確か親
指と小指で潰せるほどに軟らかくしなければならなかったはずだ。
十年以上前の前世の記憶を必死に掘り起こし、蒸し上がったソイ
豆の半分を大きな鍋で煮直す。
もったいないような気もするけれど、はじめから上手くいくはず
はないので、何パターンか実験の意味もかねて仕込む予定だ。
既に記憶の彼方で埃を被っているあやふやな知識で味噌を再現す
るって言う無謀をするわけだから、料理長のアレホさんには悪いが
成功するとは思ってない。
煮直していない方のソイ豆を麺棒に似た木の棒で擂り潰すしなが
ら時折塩を入れて練り込み。
357
丸くなるようにして団子にしていく。 赤味噌は空中の菌が繁殖
して発酵して出来上がったはずなので、あとはドラグーン王国に糀
菌が飛んでいることを願うしかない。
無数に飛んでいるだろう菌よ! 我に糀菌を与えたもう! これ
はもはや神頼みに近いかもしれないな。
まぁ失敗を怖れたら成功はあり得ない。 やってみてから考えよ
う!
少しずつ加える塩の量を変えながら、出来上がったソイ豆の玉を
皿に乗せて、分かりやすく番号をふって順番に並べていく。
羊皮紙にソイ豆の吸水から塩分量をそれぞれ記入していく。
そうこうしているうちに、再度煮てもらった残り半分のソイ豆は
ゆで汁を吸い上げ、乾燥時の三倍ほどまでふやけていた。
一粒確認したら、今度は親指と小指で潰すことが出来たので、ゆ
で汁を小さな鍋に一つ分だけ取り除き、残りは薄い木板を編み込ん
だ笊にあげて水洗いして水気をきっ⋮⋮まっ、待てよ?
水洗いしてから気が付いたけど、もしかしなくても生水じゃない?
自室に用意された飲み水は一度煮沸消毒が施された物だが、長距
離の移動の際には必ず煮沸した水を飲むようにしている。
綺麗に見える生水を、つい前世の水道水の感覚で飲んでしまい、
嘔吐、腹痛、下痢と言う三重苦を伴って思い知らされた。
358
生水危険。 生野菜や果物も一度煮沸した水で綺麗に洗ってから
食べましょう。 二日ほどトイレの住人と化した私の教訓だった。
﹁この水って一度煮沸した水ですか?﹂
﹁はい、食品に使う為に朝一で井戸から汲んできた水です。 煮沸
は済んでいますので安心してください﹂
はぁー良かった。セーフだ。焦った⋮⋮。
﹁良かったぁ、生水だったら煮直さなければならないところてした﹂
こちらもアレホさんとロンダークさんの手を借りて、ガンガン擂
り潰していく。 いやぁ人手があると作業が捗って早いなぁ。 ちょくちょく休憩をはさみつつも、次第に出来上がったソイ豆ペ
ーストをあらかじめ煮沸して貰った大人の掌ほどの深さがある土製
の甕に塩と混ぜて詰めていく。
塩分量を変えながら出来上がった甕に、既存の輸入味噌を涙を飲
んで加えていくアレホさん。
ちなみに輸入味噌は買ったときの倍額でこちらで半分ほど譲って
貰った。
空気に触れないように紙⋮⋮はないので後で作ることにしてひと
まず羊皮紙で蓋をした。
出来上がった甕達を夏場でも涼しい地下に作られた食料庫へと運
びいれていくと、気が付けばかなりの時間が経過していた。
359
﹁いやぁー。 良い仕事したなぁ。 アレホさん! 成功するとい
いですね!﹂
﹁勿論だ! 俺のお宝を半分も減らして成果無しなんて認めねぇ﹂
味噌未満の甕を睨み付けるアレホさんに部屋の管理を任せて部屋
へ戻り、軽く夕食と入浴を済ませてベッドへ潜⋮⋮。
﹁そうはさせませんよ? 本日分の勉強と明日提出予定のカリキュ
ラムが出来ておりません﹂
首根っこを掴まれて捕獲され、執務机の椅子へと強制連行された。
わっ、わすれてたぁぁぁぁあ! 360
徹夜しました⋮⋮
爽やかな朝の日差しを受けながら、私はショボショボと上手に開
かない目を擦りながら、机から頭を上げた。
難解なパズルを組み合わせるような授業カリキュラムを組み合わ
せていたら、どうやらそのまま寝落ちしたらしい。
手元の羊皮紙に水痕が⋮⋮じゅるり。
しかしまさかカリキュラムで徹夜することになるとは思ってなか
ったわ⋮⋮、選択授業恐るべし。
あー、朝日が眩しいわ。
﹁シオル殿下、おはようございます⋮⋮、ってはぁ、きちんとベッ
ドで寝ませんでしたね﹂
まだ入室の許可を出していないのに、部屋へ入ってきたロンダー
クさんが私の顔を見るなりため息をついた。 ﹁殿下、顔にカリキュラム内容が書き写してありますよ?﹂
﹁えっ、どこに!?﹂
﹁右側をしたにしてカリキュラムの上に寝ましたね。 お食事の用
意は出来ておりますので、顔を洗ってください﹂
361
そう言うと洗面用の金属製の桶に汲まれたお湯を示された。
この世界は給湯器どころか水道が有るわけでもないので、洗面器
いっぱい分のお湯を用意するにも井戸から水を汲み上げて、竈に運
び込んだ薪を燃やして沸かすのが、一般的だ。
温泉水なら温かいお湯には困らないだろうが、真水となると用意
するのは大変なのだ。
冷める前にありがたくお湯で顔を洗うと、スッキリと目が冷める。
﹁授業カリキュラムの方は出来上がりましたか?﹂
﹁大体は、ね⋮⋮、正直嘗めてたわ、あーふっ﹂
左手を口に当てて欠伸を噛み締める。
﹁そうですねぇ、出来ればやるべきカリキュラムを終わらせてから
にしていただきたかったですね﹂
うっ、返す言葉もありませんですはい。
用意してもらった朝食を食べて、昨日着た物よりも若干質素な軍
服デザインの制服に袖を通す。
今日から授業が始まるわけだが、最初の一週目は主に学園の説明
や、高学年者との交流会などの社交が多い。
今日は式典はないので帯剣出来ることに安堵しながら迎えにきた
馬車に乗り込んだ。
362
ガダンゴトンと言う揺れが、寝不足に効果覿面で学園つくなり、
呆れた様子のロンダークに叩き起こされた。
今にも雷を落としかねない様子のロンダークから逃げるように校
舎へ駆け込めば、既に多くの学生が半すり鉢状の講堂に座っている。
講堂の中央部に席を取っていたアールベルトを見付けて同席を求
めれば直ぐに隣を進めてくれた。
今日はこれから数人ずつに別れて学園内の案内をしてくれるらし
い。
はっきり言ってありがたい。今日座学があれば居眠りの醜態をさ
らす自信がある。
意識を飛ばしかけながら学園長の長い長い話と言う試練をアール
ベルトに救われながら乗り越えた私は、トイレに寄ったことで新入
生から見事にはぐれた。
ここ、どこよ? 363
謎の卵
おかしい⋮⋮私に迷子の才能は無かった筈だ。 いくら広大な敷
地を要する学園だとしても、先程から全くといって良いほど人とす
れ違わないのはいかがなものか。
この学園、害獣駆除も授業に取り入れているため、学園の裏手に
は実習の場として、深い森を有している。
古代遺跡もあるとシリウス伯父様が話してくれた。
古代遺跡は何らかの天災や滅亡などで地下に埋没してしまった遺
跡が、ながい年月を経て再び地表に入り口が現れた物だ。
とにかく老朽化が激しくて、壁や天井がパラパラ落ちてくる。魔
物なんて生き物が湧いてくると言うこともなく、もちろんドロップ
品なんてファンタジー要素は残念ながらない。
それでも古代遺跡には現代では失われた文字で示された書物や、
用途不要の道具類や埋蔵金等が得られるから潜る人は後をたたない。
防衛のためなのか、おっかない罠が満載だし、棲みかにしている
生き物も多数いて危険を伴う。
古代遺跡の中で亡くなった方の遺体から武器や装備が手には入る
こともしばしば。
遺跡を住みかにする毒を持つ生き物もたまに襲ってくる、魔法な
364
んて便利な物が存在しないため、解毒薬の持ち歩きは必須だし、生
き物によって毒が違うから何種類もの解毒薬を持ち歩かなければな
らず大変なんだそうな。
で、なぜそんな説明をしているのかと言いますと、穴に落ちまし
た。
人を探してうろうろしてたら足元が崩れてそのまま落下。
辛うじて落下中に張り出した床の一部に手をかけて落下途中で止
まることが出来たけど、それでもだいぶ深いところまで落ちたよう
だ。
足元に広がる暗闇はまだまだしたまで続いているため、足元⋮⋮
股間が寒くなる。
一先ずいつまでもぶら下がっている訳にもいかないので、身体を
揺らして私が掴んでいる床の次の階層に助走をつけて飛び移った。
明かりのない古い通路には光が入らず、かといって明かりを灯す
物も持ってはない。
床に散乱する崩れ落ちた壁や天井の破片をよけながら、神経を集
中して通路の中央を慎重に歩く。
壁沿いに歩けば迷路は抜けられるらしいが、視界が効かない以上
もし毒虫や蛇が壁にいて触ってしまっては危ない。
帯剣していた愛剣を鞘のまま、床や壁に這わせて障害物を確認し
てゆっくりと着実に進んでいく。
365
足元を走るネズミや天井に張られた蜘蛛の巣を避けながら暫く進
んだ所で大きく開けた場所に出た。
天井から光が漏れて筋となり部屋を明るく照らしているようだっ
た。
そうして部屋の奥に見付けたのは巨大な塊、私の腕と同じほどの
長さがある羽根が無数に部屋に散らばっている。
恐る恐る近寄れば、それは既に食い散らかされ干からびた巨大な
鳥⋮⋮だったもの。 鳥の身体の下には小枝が大量に敷き詰められ
まるでこの鳥の巣だったのではないかと思う。
巨大な身体でまるで何かを守るように抱き抱えたまま亡くなった
のだろう。 羽毛の下には割れてしまった卵の殻が見受けられた。
それなりに時間が経過しているようで、無事中身から雛として産
まれた落ちたのか、それとも産まれることなく割れてしまったのか
⋮⋮。
白い卵の殻の奥に、色合いの違う卵を見付けたのは偶然だった。
それは薄いピンク色をした物で他の殻とは明らかに色が異なる。
触ってみればほんのりと暖かなひび一つ無い掌を広げた位の大き
さのある卵を、これも何かの縁として持って帰ることにした。
366
主?
表面がツルリとしたピンクの卵は手のひらを広げたのと同じくら
いの大きさがあり、重さは私の愛剣シルバと同じか少し軽いくらい
の重さかな。
重さ的には全く苦にならないのだが、片手では兎に角つかみ難い。
かといって両手で持てば、手がふざかり有事の際に、シルバを握
れず応戦できない。
ひとまず床に置いた卵を見ながら、制服の上着を脱ぎ、裾に卵を
置いて襟に向かって制服の上着をくるくると巻いていく。
まるで海苔巻きのようにすっかり卵が巻き込まれたのを確認して
背中から背負うように袖口を右肩と左脇のしたを通して胸の前でキ
ュッと結んだ。
制服が皺になるだろうが、落下した時にあちらこちらに引っ掛か
りすっかり襤褸けてしまったので諦めよう。
はぁ、ロンダークが不機嫌に組んだ両腕をみずからの人差し指で
叩きながら ﹁その新品の制服にどれだけの血税が使われているか
お分かりですかな?﹂ と、うすら寒い笑顔でネチネチ嫌みを言わ
れるだろうことが想像に難くない。
﹁はぁ、さてこれなら落とす心配はすることが無さそうだ⋮⋮って
シュルル?﹂
367
背後から聞こえてきたシュルシュルと言う音に振り替えれば先程
まで無かった壁がある。
壁沿いに視線を上へと走らせれば三角と菱形の中間のような顔の
巨大な蛇が、私を見下ろしながらシュルルと音をたてて赤く長い先
端が二股に割れた舌を出し入れしていた。
体躯は太く、前世の感覚で三メートルくらい有るんじゃなかろう
か。
﹁おっとぉ⋮⋮﹂
幸い蛇は私ではなく、巨大な鳥の死骸を見ていているために私に
は気が付いて居ないようだった。
見付からないように大蛇の視界からフェードアウトするべくそろ
そろとゆっくり後ずさる。
バリ!
自分の背中から聞こえてきた何かが割れるような音に、ツゥっと
冷や汗が流れる。
うっ、嘘だ⋮⋮ろ。
バリ! バリリッ! ピギャー!
続いて聞こえてきた割れる音と甲高い何かの鳴き声が周囲に響き
渡り、通路の奥まで木霊した。
368
それまで鳥に向かってズルズルと巨体を進めていた大蛇がゆっく
りとこちらを向いた。
大きな縦長の瞳孔が私を捉えるなり、見開かれた。
﹁ギャー!﹂
﹁ピギャー!﹂
シャー! と鋭い牙を見せながらこちらを威嚇する大蛇に相手に
悲鳴をあげるなって方が無理だろう。
私の悲鳴に驚いたのか背中の卵だったものがもがきながら大声で
鳴いた。
直ぐ様体勢を反転し、蛇の横をすり抜けるように走り出す。
うねうねと身体をくねらせて極太の尻尾が行く手を遮るように砂
ぼこりを立てながら勢いよく迫る。
途中に点在している岩や瓦礫を破壊しながら勢いは衰えることが
なく私に向かって振られた。
﹁うわっと!﹂
ヒョイッと地面が深く抉れた所へ飛び込むと間髪入れずに大蛇の
尻尾が通過した。
頭上からパラパラと土埃が降ってきたが、私は直ぐ様溝から飛び
369
出して、私が通ってきた狭い通路へと飛び込んだ。
通路を十メートルほど進んだところで後ろを確認するために足を
止める。
流石にあのエラがはった顔や通路よりも太い胴体ならこれくらい
狭い通路へは来られまい。
ふぅ⋮⋮吐いた息は次の瞬間私の足へ絡み付いた物のせいで詰ま
る。
ぬるぬると足首へ絡み付いたのは大蛇の舌だった。
咄嗟に地面に爪を立てるが抵抗虚しくズルズルと獲物を穴から引
きずり出すように、私の身体が引き摺られていく。
﹁食われてたまるかぁ!﹂
私は抵抗をやめてシルバを鞘から引き抜くと、足に絡み付いた大
蛇の舌を切り落とす。
手に伝わる肉の感触に手応えを感じれば、本体から切り落とされ
た舌が足首から剥がれ落ちた。
舌が伸びてきていた先から土煙と暴れているのだろう振動が私の
ところまで響いてきた。
滑る足をハンカチで軽く拭いさり、一時も早く離れるべく視界の
悪い通路を背を屈めながら進んだ。
370
﹁ピギャー⋮⋮﹂
あっ、忘れてた。
371
ファンタジー生物
私は素早く周囲に生き物がいないかを確認してシルバを鞘に戻す
と、背中でもぞもぞしているもと卵をくるんだ制服を地面に下ろす。
下ろす間も、ピギャーピギャーと暴れる謎の生物を地面に押さえ
つける。
﹁うるさい! 今出してやるから暴れんな﹂
くるくると裾をもち勢い良く制服をはずしていくと、ピギャーと
言う声と共に卵の殻と小さな塊が転がり出た。
辺りが薄暗いので正確な色までは判別出来ないものの、暫く地下
をさまよった事で、わずかな明かりでも姿かたちが見れるようにな
っていた。
蜥蜴を思わせる顔、小さな蝙蝠のような薄い皮膜の翼、四本足で
爬虫類のような鱗が体にびっしりと張り付いているコロコロした丸
みのある胴体。
大きな愛嬌あるつぶらな瞳がこちらをじっと見上げてくる。
あー、この生き物がこの世界に居たのね。そっかぁ、魔法や不思
議動物が存在世界なんだとおもっていたけれど、異世界に転生した
わけで、今はまだ知られていない人間の住みかとは違う未踏の地に
は不思議動物が溢れているのかもしれない。
372
現に私の目の前に一匹いるし。 さっきの大蛇も素晴らしい迫力
だった。 地上に出てこないことを祈ろう、うん。
卵から孵った生き物は私の足元にとてとてとたどたどしくやって
くると、まるで猫のように私の足に身体を擦り付けてくる。
思わず抱き上げた身体は体積のわりに驚くほどに軽く、愛剣シル
バの方が重い。
なるほど、どんな身体構造なのかわからないけれど、これだけ軽
ければ背中の小さな翼でも空を飛べるかもしれない。
﹁ピギャ!﹂
細かい牙を見せて一声鳴いた生き物のこちらの世界での種として
の名称はわからないけど、前世ではドラゴンと呼ばれていたはずだ。
しかも東洋の蛇のような長い龍ではなく、西洋の竜に似ている。
﹁あははっ、くすぐったいって! こら!﹂
小さな舌で私の顔をなめるドラゴンをしかりつけると自力で私の
身体をよじ登り首の後ろに長い尻尾を回すようにして居座った。
子竜の体温で首もとが暖かい。 どうやら爬虫類のように変温動
物ではないのかもしれない。
﹁はぁ、拾った生き物は捨てらんないしなぁ。 お前私と一緒に来
る?﹂
373
ドラゴンの喉元を撫でる。 細かい鱗がつるつるだ。
﹁ピギャ﹂
まるで私の言葉がわかっているかのようにしっかりと鳴いた。
﹁そうか、私はシオルと言うんだ。 よろしくな⋮⋮え∼と、名前
は⋮⋮無いよな。 う∼ん﹂
バサバサと汚れてしまった制服に付着した埃を払って、すっかり
シワだらけになった制服に袖を通す。
ドラゴンは器用に制服をよけてまだ制服を着ていない反対の肩へ
移動すると、もう片方の袖を通すころには、着終わった方の肩に移
動を済ませていた。
すっかりリラックスモードのドラゴンに名前がないことを思い出
したのは良いものの、いざ名前を! と考えたところで浮かんでく
る名前はポチ、タマ、ミケ、シロ⋮⋮うわぁ、ダメだれこれ。
﹁と、とりあえず地上へ戻ってからにしような?﹂
﹁ピギャ?﹂
コテンと首をかしげるドラゴンに萌えながら、私と新たな同行者
はゆっくりと暗い通路を突き進んだ。
ときおり感じる大蛇の気配を避けながら私達が無事に地上へ出た
頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。
374
375
ファンタジー生物︵後書き︶
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376
天変地異
地下からの脱出口となったのは今にも崩れ落ちそうな古い祠だっ
た。
私の肩から突然地面に飛び降りたドラゴンを追いかけて、這いつ
くばらなければ通れないような狭い通路の先に、もしかしたらと漏
れ出た光りを見つけて辿ると、頭上の土壁から光が漏れていた。
どうやら土壁の割れ目から光が漏れているようなので、乾いた土
壁を両手でベリベリと剥がしていったのだ。
土壁の先には木板が並べられていたため、シルバを鞘ごと木板に
叩きつけるようにして衝撃を与えれば、腐蝕のためかすんなりと外
へと這い出ることができた。
ドラゴンよありがとう。あそこで君が道を示してくれなければ私
はまだ地下をさまよっていたことだろう。
薄暗い祠の内部はもう何年も掃除すらされていないのか埃が積も
り、祠を破壊すると言う罰当たりな事をしてしまったけれど、後日
きちんと祠を浄めに来ますと誓いをたてる意味で、祠の前で深く二
回ほどおじぎをして手のひらを二回叩いた後、再度祠へ深く頭を下
げた。
日本の神社方式の﹃二礼二拍手一礼﹄は双太陽神教の拝礼作法で
はないけれど、この祠が双太陽神教の物であるかもわからないため、
あえて八百万の神様を奉る日本式の拝礼をおこなったのだ。
377
祠を出て星の明かりを見上げながら、学園の物だろう建物に近
付けば、喧騒とあちらこちらに焚かれた篝火と獣脂を含ませた布を
棒に巻き付けた松明を手に、武装した兵士らしき沢山の人が走り回
って居るようだ。
これって私を捜しているのかな?それともクーデターか何か?
前者ならすぐにでも出ていった方が良いんだけど、後者だと出て
いくのはまずい。
﹁おいっ!レイナス王国の王太子殿下はまだみつからんのか!﹂
﹁もっ、申し訳ありません。現在総力を上げて捜索しておりますが
いまだに報告が上がっておりません!﹂
私の捜索の指揮を飛ばしているらしい壮年の騎士から見付からな
いように姿を隠して様子を見ていれば、聞きなれたら声がこちらへ
向かって近付いてくる。
﹁殿下∼! ご飯ですよ∼! 今日は殿下の好きな鶏肉のハーブ蒸
しですよー。 早く出てきてくださーい﹂
鬼気迫る騎士たちとは明らかに温度差があるロンダークさんの声
に、脱力した。
鶏肉のハーブ蒸し⋮⋮、美味しそうだね。緊張のために家出して
いた食欲が、どうやら帰ってきたようで途端にグウゥーと低い音を
腹部が奏でた。
378
﹁ロンダーク!﹂
身を隠すのをやめて、篝火の下へ踏み出し、ロンダークさんに声
をかける。
﹁シオル殿下! 一体こんな時間までどこをほっつき歩いて来たん
ですか﹂
別に好きでほっつき歩いていた訳ではないんだけどなぁ。
﹁校内で地面が崩落してね。脱出に今までかかったんだ﹂
崩落の言葉にそれまで飄々としていたロンダークの笑顔に青筋が
⋮⋮。
両手の人差し指を両耳の穴を塞ぐように突っ込む。
﹁だーんーちょーうーどーのー!﹂ 耳を保護しているにも関わらずロンダークの低い怒声が聞こえて
くる。
﹁ロンダーク殿、どうかされたか? ⋮⋮これは! シオル殿下ご
無事でしたか!﹂
良く見れば隊長さんは先日王城でおば⋮⋮ドラグーン王国の王妃
陛下に拝謁した時にお会いした騎士団長殿だった。
﹁団長殿、殿下は学園内で地面の崩落に巻き込まれたそうです。す
ぐに捜索を打ちきり二次被害者が出ていないかの確認をお願いしま
379
す﹂
たまたま部分的に老朽化した崩落に巻き込まれただけなら良い
が、もし学園内にある古代遺跡全体の老朽化が危険なレベルにまで
進んでいるのなら、学園が遺跡の大規模崩落に巻き込まれるだろう。
もしくは地下で遭遇した大蛇が地表へと出れる穴があく⋮⋮。
﹁団長殿、学園の地下にある古代遺跡の存在をごぞんじですか?﹂
﹁はい殿下。 私もこの学園の卒業生ですので存じております﹂
問いかけにはっきりと頷かれる騎士団長。
﹁学園の裏手の森に私が遺跡へ落ちた穴があるはずです。日の出ま
で決して近付かないように。遺跡の老朽化が激しく、地上へ戻るま
でに落盤が激しかったのでね﹂
﹁わかりました﹂
﹁それから遺跡の調査を願いたい。遺跡全体の規模がどれ程かはわ
からないが、老朽化が深刻な状況にあれば、いつ大規模な崩落が起
きてもおかしくはない﹂
地上へ戻るまでの道のりしか知り得ないが、地下は蟻の巣のよう
に横に広く地中深くまで広がっているようだった。
もし大きな地震が来れば、仮に遺跡が王都に勝る規模だった場合、
一度で大陸屈指の大国であるドラグーン王国の中枢が消滅する。
380
⋮⋮いや、地震に限らず大雨でも崩落するだろう。
それはドラグーン王国を中心に平和が保たれている周辺の小国、
レイナス王国にとっては一大事だ。
﹁⋮⋮私はレイナス王国から出てきたばかりでドラグーン王国の歴
史に明るくないのだが、この国は⋮⋮﹂
ズズズ⋮⋮と足元から響く地響きと小さな縦揺れ。前世の記憶だ
と震度三程度だろう直下型地震。
﹁地震!?﹂ ﹁えぇ、最近多いですね。ドラグーン王国では五年に一度、我が国
を守る土地神である国鳥を讃える式典が行われます﹂
ドラグーン王国の国旗は双頭の鷹。国鳥を模したものだったのだ
ろう。
﹁国鳥の代替わりが三十年程で行われ、代替わりが近付くと大地が
揺れることがあるのですが⋮⋮おかしいですね先の代替わりから十
年程で代替わりするにはまだ早いような⋮⋮﹂
冷や汗が背中を伝う。本来であれば国鳥の代替わりに合わせて一
定の周期で発生する筈の地震、地下の劣化した古代遺跡、襲ってき
た大蛇、そして肩にのったままのドラゴン⋮⋮ドラゴンの卵があっ
た場所に無惨な姿の巨大な鳥の亡骸。
﹁だっ、団長殿。すぐに国王陛下にお会いできますか?﹂
381
嫌な予感が強くなる。
﹁えぇ、シオル殿下であれば可能かと、うおっ!また地震が⋮⋮﹂
地響きと揺れに小さな悲鳴が上がる。
﹁くそっ! 拝謁する時間さえないか、団長殿! 私は地下で国鳥
らしき巨大な鳥の遺骸と大蛇を見た。もし地震が国鳥の死と関係が
あるならこの地震はこれからどんどん強くなる。陛下にできる限り
早く王都から脱出を! それから市民の避難を進言してください﹂
時間がない。 急がないと!
﹁わかりました。 しかしシオル殿下は?﹂
﹁私は大丈夫です。 ロンダークも居ますし、ここに残り学園内の
生徒を避難させます﹂
﹁わかりました。シオル殿下に双太陽神の加護があらんことを﹂
﹁団長に双太陽神の加護があらんことを﹂
かるく頭を下げ走り去る団長殿と他の騎士を見送る。
﹁と、言うわけだ。ロンダーク頼りにしてるよ﹂
﹁はぁ、仰せのままに﹂
まずは我が友人のアールベルトを捕まえないとな。
382
383
災害救助
小さな地震が繰り返すなか、ロンダークと伴に篝火から分けても
らった松明の明かりを頼りに暗い夜道を疾走する。
﹁ところてシオル様、その肩の上の生き物は一体⋮⋮﹂
付かず離れずの距離を保ちながらロンダークが私の肩でおとなし
くしているドラゴンに気が付いた様子で声をかけてきた。
﹁地下の古代遺跡で、国鳥っぽい鳥の巣にあった卵から出てきたん
だ。 ロンダークはこの生き物何か分かる?﹂
松明の明かりを反射するドラゴンの鱗はきれいなピンク色をして
いる。
﹁いやぁ、私もこんな生き物は始めてみました。 トカゲと似てい
るような気がしますが胴が短く何より背中に翼があるトカゲには心
当たりがありませんね﹂
ふむ、どうやらロンダークさんも知らないらしい。私は人差し指
でドラゴンこ首もとを撫でてやるともっと撫でろと言わんばかりに
全身を擦り寄せてくる。
﹁そっかぁ、ねぇロンダーク。 この子飼っても良いかな?﹂
﹁⋮⋮お止めしたらやめますか?﹂
384
﹁えっ、やめない﹂
産まれたばかりのドラゴンを自然に返しても生きていけるとは思
えないし、拾ってきた責任は取るつもりだ。
﹁でしたらはじめから飼っても良いかなんて聞かないでいただきた
いものです⋮⋮しかし種が分からない以上飼育方法を模索するのは
大変ですね﹂
そう言えばドラゴンって何を食べるんだろう、前世の知識だと草
食動物を狩る肉食なイメージが強いが、トカゲだと考えるなら虫だ
ろうか。
﹁まぁ、後で考えるさ。今は目の前の問題をどうにかするのが先だ﹂
私とロンダークが向かう先では篝火が焚かれ多くの生徒が集まっ
ているのが見える。
﹁そうですね、ところでそのトカゲの名前は有るのですか?﹂
名前かぁ、ピンク色の小さなドラゴンをみて思い出したのはドラ
マのタイトル。
﹁あぁ、﹃サクラ﹄だ﹂
﹁サクラですか?﹂
﹁ロブルバーグ様に聞いたことがあるんだ。遠い大地に根をはり、
春にいっせいに咲き潔く散っていくピンクの花があるんだってさ。
それが﹃サクラ﹄って名前なんだ﹂
385
こちらの世界に実在するか分からないが、私が好きな花の名前。
篝火の光からみて色は桜と言うよりはピンク芝桜に近い気もするが
﹃サクラ﹄にはかわりないだろう。 ﹁﹃サクラ﹄ですか。しかしロブルバーグ様は本当に何でもご存じ
ですね敬服いたします﹂
都合が悪い物は全てロブルバーグ様の知識から来ていることにす
ると、へんな追求を受けなくてすむ。
ロブルバーグ様には感謝しかでないなぁ。
篝火が焚かれた広場には学園の教員と騎士達が、生徒や使用人達
を集めていた。
﹁シオル!一体どこに行ってたんだ!﹂
いち早く私を見つけたアールベルトが、警護の騎士達から離れて
駆け寄ってくる。
﹁話は後だ。それより﹂
アールベルトに全生徒の避難をと告げるより早く、立っているこ
とが困難なほどの大きな揺れが起こり、あちらこちらで恐怖に悲鳴
が上がる。
地面がひび割れ、所々に隆起がみられる。
レンガ造りの学舎の一部が崩れ、砂ぼこりを巻き上げて地表へ落
386
下する。
﹁落ち着け! 建物から離れてすぐに地面に伏せろ!﹂
明らかな異常事態に混乱する騎士や生徒にアールベルトが怒鳴り
付けた。
﹁揺れが収まり次第、皆を連れて王都の外へと避難する! 怪我人
に手を貸して一人でも多くの命を救いながら移動する!﹂
まだ十歳、されど十歳。現場にいる最高位の王族である自覚が威
厳となって現れているのかもしれない。
﹁森は抜けるな!遺跡から危険な生き物達が地表へ逃げ出している
可能性が高い﹂
注意を促せば大人達の顔色がすこぶる悪い。 当然だろう、使用
人を除く多くの大人が若い頃この学園に席を置き、古代遺跡に夢を
見て挑んでは、凶暴な遺跡の生き物によって辛酸を舐めさせられて
きた者達だ。
大人達の指示にしたがって、街中を抜けて王都を脱出する道が示
され次第に集団が移動を始める。 一番早く王都から離れるなら私
が落ちた森を抜ける道筋が距離としては早いだろう。 日の出の時刻が迫ってきたのか、空が白くなってきてはいるもの
の、見通しが効かない木々の隙間をぬって足場が悪い森を抜けるの
は危険が勝る。
崩落するほどに傷んだ古代遺跡の上をこの地震のなかで危険な生
387
き物を排除しながらの踏破は地震で崩れた町中を抜けるより遥かに
危険だと大人達は判断したらしく、私の助言を聞き入れてくれたよ
うだ。
食材を保管している場所から出せる限りの食糧や水に汲んだ瓶を
手分けして背負う。
初めて荷馬車を引っ張り出した貴族の令息が居たが、頑丈に建て
られている筈の学園の倒壊具合から見ても城下街の建物の倒壊は酷
いだろう。
後から判明したのだが、荷馬車には食糧や水ではなく、宝石をを
惜しげもなくあしらった宝飾品が多く積み込まれていた。
生徒達を含めた集団が城下街に降りてみれば、目の前に広がって
いたのは見慣れた王都の街並みではなく、瓦礫の山だった。 崩れた家と、血を流しながら道端になすすべなく座り込む人、自
分の怪我などお構いなしに崩れ落ちた瓦礫を何かを叫びながら泣き
ながら掘り進める人々。
﹁ひどい⋮⋮﹂
﹁シオル殿下! 危険です! お戻りを!﹂
あまりの被害の大きさに唇を噛み締めた。騎士の制止を振り切り、
私は必死に瓦礫を掘り進める幼い少女に駆け寄る。
﹁おかあさん! おかあさん!﹂
388
少女の額は切れ、血が頬を伝いもともとは黄色かったであろう汚
れたワンピースに赤い模様を付けていく。
少女の両手は爪が剥がれてしまっていた。 居てもたっても要ら
れずに少女の隣に座り瓦礫を避ける。
﹁⋮⋮くそ! アールベルト!﹂
﹁わかっている! いくぞ、せーの!﹂
大きな石壁をどけようとしたが力が足りない。駆けつけたアール
ベルトに協力してもらい瓦礫をよければ、内部から怪我を女性が出
てきた。
﹁おかあさん!﹂
母親なのだろう。女性に抱き付く少女を一旦引き剥がし、騎士の
一人に周囲に倒壊の恐れがある建物の無い比較的安全な場所まで運
ばせた。
﹁君! この家にはあと誰かいるのかな?﹂
﹁パパはおしごとだよ。 ママとミミでお留守番してたの﹂
﹁そうか、ミミちゃんかぁ。 良く頑張ったね、後はお兄さん達に
任せてママについていてあげてくれるかな?﹂
﹁うん! おにいちゃんたちありがとう!﹂
きちんとお礼を言えた少女の頭を撫でる。
389
﹁シオル! こっち手伝ってくれ!﹂
﹁おう!﹂
どうやら私が少女にかまっている間に次の被災者を救出するべく
撤去作業に取りかかっていたアールベルトに呼ばれて駆け付ける。
﹁おい! こっちにも埋まってるぞ! 誰か手伝ってくれ!﹂
﹁誰かこの怪我人と子供を安全なところまで連れていって!﹂
真っ先に安全を確保し保護すべき王族、しかも隣国の王子が被災
者救助に回ってしまったため、自分達だけ逃げることが叶わなくな
ったのか、次々と生徒や教員、騎士達が救助に乗り出した。
﹁下賤のものなど放っておけばよいものを、早く王都を離れるぞ!﹂
そんな光景を鼻で笑い、逃げていく生徒も居たがあえて放置する
ことにした。
救助の合間も襲ってくる強い揺れに、そのつど救助は中断され難
航したが、軽度の裂傷や打撲で済んだ住人たちが救助活動に参加し
た事によって、救出される人も増えていった。
朝陽が王城を照す中、襲ってきたいちだんと強い地震と伴に王城
の一部を破壊して、奴は姿を現した⋮⋮。
390
バジリスク
*クラインセルト視点*
時は戻り王城でシオル殿下から連絡をうけた俺は関係各所に、事
実確認の指示をだしていた。
収まる気配がなく次第に強くなる揺れに耐えるべく近くの石壁に
すがる。壁づたいに大地が震えているのを感じながらありとあらゆ
る事態を想定して指示をだし続けた。
多くの城勤めの者達には城内から避難するように指示を出し、数
名の騎士をつれて妻の私室がある城の上階へと急いだ。
ミリアーナは立て続けに発生している地震にただならぬ異変を感
じとったのか、婚姻してから着るようになった大国の王妃に相応し
い豪奢なドレスを脱ぎ、本来の彼女が好む質素な男装に着替えてい
た。
腰には彼女が嫁入りの際に持参した長剣が下がっている。
初めて出逢った頃はミリアーナの方が高かった身長も、今では逆
転している。 年月を重ねたミリアーナの身体は女性らしい丸みを帯びた体型に
変化しており、男性の装いをしていても女性であることが一目でわ
かる。
391
﹁クライン! 良かった無事だったのね、この地震は一体⋮⋮﹂
﹁すまない迎えに来るのが遅くなってしまった。 すぐに城を脱出
する﹂ ﹁えぇ。さぁ貴女達も逃げるわよ!﹂
﹁﹁はい!﹂﹂
本当なら色々問い質したいことがあるだろうが、ミリアーナは自
分付の侍女二人に声をかけると、俺の手をとって出口へ向かい絨毯
がひかれた廊下を足早に移動していく。
現時点では起き続けている地震の正確な原因はわからない。
しかし仮にもミリアーナの甥でレイナス王国の王太子であるシオ
ル殿下のもたらしてくれた情報が真実であれば、迅速な対応が王都
に住む全ての者達の命にかかわってくる。
既に動かせる兵や騎士達の大半は住民達の避難誘導や救助活動に
向かわせていた。
ミリアーナの手を引きながら、なるべく腹部に負担がかからない
ように、城の非常口がある広間へとやって来た。
広間にはレンガを組み上げて造られた大きな暖炉と楕円の大きな
テーブルと二十脚は有ろうかと言う椅子が並べられていた。
火が入っていない暖炉の中に半身を入れて隠されたレバーを引き
下げれば、鈍い音を響かせ煤を落としながら非常口の通路が現れる。
392
王族を有事の際に逃がす為の狭い隠し通路を地上に向けて下って
いく途中、一際大きな地響きに先頭を進んでいた騎士の足場が騎士
もろとも外壁と伴に崩れ落ちた。
先を進んでいたミリアーナを引き寄せた直後
騎士の断末魔が響き渡る。
﹁シュルルルル﹂
﹁ぎゃー!﹂
﹁か、怪物!?﹂
上段から響いた侍女の悲鳴に視線をあげる。護衛の騎士が佩いて
いた長剣を引き抜いた。
目の前には三角と菱形の中間のような顔の巨大な蛇が、深紅の身
体をくねらせる。
私達を見下ろしながらシュルルと音をたてて切断された痕がある
赤く長い舌を出し入れしていた。
﹁バジリスク!﹂
そんなはずはない、バジリスクは人々の恐怖が作り出した幻想の
中の生き物のはずだ。
しかし目の前の大蛇はたしかに絵物語に出てくる伝説の大蛇に良
く似た特徴を持っている。
393
﹁いやー! 放してぇえ!﹂
バジリスクは俺たちよりも上段にいた侍女に素早く舌をからめる
と、軽々とその身体を空中へ放り、そのまま侍女を自らの口へ入れ
ると、バリバリと音を建てて咀嚼し始めた
侍女が残した最期の悲鳴と濃厚な血の匂いが辺り一面に充満する。
﹁この! よくもシャーサを!﹂
顔を真っ赤に染めて、今にも大蛇に斬りかかろうとするミリアー
ナを止めてゆっくりと階段をのぼらせる。 侍女や落下してしまった騎士に黙祷し逃げに回る。
足場が悪い階段では満足に応戦も、身重のミリアーナを守ること
も出来ない。
なんとか広間まで戻ったものの、城を揺るがす衝撃に足元から落
下時特有の浮遊感が襲う。
﹁きゃー!﹂
﹁くそ! ミリアーナっ!﹂
容赦なく瓦礫が全身を打つ痛みに耐えながら自分の身体をたてに
ミリアーナの身体を守るように引き寄せて抱き締める。
襲い来る瓦礫をミリアーナの身体に覆い被さるようにして耐える。
394
額から流れ落ちた血が目に入り霞んで見える。
自分はもう長くはないだろう、自分では見えないが首からしたの
感覚がないため、痛みを感じずにすんでいるのはありがたかった。
地面に落下した衝撃でミリアーナは気を失ってしまったようだが、
見える範囲には大きな怪我は無さそうで安心した。
長い赤い髪に頬を寄せる。ミリアーナだけでも無事で良かった⋮
⋮薄れ行く意識の中で赤子を抱くミリアーナの笑顔が見れた気がし
た⋮⋮。
*ミリアーナ視点*
背中に走った鈍い痛みに呻き、身体を起こそうとしたが、何かに
身体を挟まれているようで動けなかった。
目を開けて瞬きをすれば、自分の上に折り重なり僅かに空間を開
けているのがクラインセルトだとわかった。
﹁クライン、大丈夫? どうなっているの?﹂
声をかけたがクラインセルトに反応がない。 良く見れば彼の背
中には大量の瓦礫がのし掛かっている。
﹁クライン!﹂
395
自分の肩口にあるクラインセルトの顔を確認すれば、頭部からの
出血と砂と埃で汚れている。
動く手をクラインセルトの頬にあてがえば、ゾッとするほどに冷
たく、そのまま脈を計ろうと指先を首へ走らせたが、いっこうに触
れない。
﹁クライン! クラインセルト!﹂
必死に視線をさ迷わせれば視線の先に瓦礫が重なり空洞となって
いるところを見付けた。
クラインセルトのしたから抜け出そうともがけば、右足首に激し
い痛みを感じてうずくまる。
どうやら右足首に大きな瓦礫がのし掛かっているようで抜け出せ
ない。
﹁だっ、誰か! クラインセルトを助けて! 誰かいない!?﹂
クラインセルトの背中や頭に乗った瓦礫を必死に手で払い避ける。
嘘、嘘、嘘だ!上着の袖で血だらけになっているクラインセルト
の顔を必死に拭いた。
私は一体どれだけの間意識を失っていた?血液は塊となって中々
落ちてくれない。
すっかり冷えてしまったクラインセルトの身体を少しでも暖めよ
うと首筋や胸元を擦る。
396
お願い、お願いよ⋮⋮。 誰かクラインを助けて!
397
バジリスク︵後書き︶
本作品をお取りいただきありがとうございます。
398
知らせ⋮⋮
﹃シオル殿下⋮⋮﹄
誰かに呼ばれたような気がして顔をあげる。 周囲はいまだに救
助活動の真っ只中で、キョロキョロと周りを見渡せば、私の背後に
ミリアーナ叔母様の旦那さんでドラグーン王国のクラインセルト国
王陛下が立っていた。
﹁クラインセルト陛下!? 無事脱出できたのですね、良かった。
⋮⋮あれ? 御付きの者たちは?﹂
国王ともあろうものが、ひとりでポツンと立っている事に異常を
感じる。クラインセルト陛下は静かに首を振る。
﹃妻と我が子をよろしくお願いいたします⋮⋮﹄
そう言って王城を指差すと、クラインセルト陛下の身体がすうっ
とまるで空気に溶けるように霧散して消えた。
﹁えっ、消えた!?﹂
クラインセルト陛下が消える間近に指し示した王城からは絶え間
なく土煙があがり、ゆらゆらと大きな影が暴れているようだった。
﹁まさか!?﹂
﹁シオル! どこへ行くつもりだ﹂
399
私が駆け出すと、すぐさまそれに気が付いたアールベルトがひき
止める。 ﹁嫌な予感がする。 私は王城へ行ってくる後を頼めるか?﹂
砂煙の向こうに見えた影が気になるし、クラインセルト陛下の幻
影が不安を煽る。
﹁あぁ、任せろ。ただ無理はするなよな﹂
アールベルトの忠告に頷き、走り出せばすぐにロンダークがやっ
て来て並走し始めた。
﹁シオル様、どうされました?﹂
﹁王城に大蛇が出た。 国王夫妻が巻き込まれた可能性がある⋮⋮﹂
﹁なんとーー﹂
﹁止めるなよロンダーク、私は行くからね﹂
ロンダークの言葉を遮って王城へ続く大通りに出れば、王城から
逃げてくる人並みでごった返していた。
﹁ちっ! こんなときに⋮⋮﹂
混乱を極める大通りを抜けるには十歳の身体では流れに逆らい思
うように進めない。
400
﹁シオル様、王城に行かれるのでしょう? 行きますよ?﹂
﹁えっ、ちょっとロンダークさん!?﹂
ロンダークさんはそう告げると、ひょいっと小脇に抱えるように
私の身体を持ち上げて、崩れた家の瓦礫を足場にして屋根の上へと
駆け上がった。
今にも倒れてしまいそうな屋根を飛び越えて王城へ近づいていく。
﹁うっぐっ⋮⋮崩れ⋮⋮ぐぇっ﹂
﹁大丈夫ですよ。 足場が崩れるか、上から崩れたものが降ってく
るかの違いだけですから﹂
そう言いながら、崩れている真っ最中の屋根を駆け抜けて行く。
﹁シオル様!﹂
腹部の度重なる圧迫と振り回される感覚にじゃっかん酔っていた
私の耳にロンダークの緊張をにじませる声が響き、顔をあげる。
﹁キシャー!﹂
甲高い威嚇音をたてながら巨大な蛇が騎士と戦闘を繰り広げてい
る。
威嚇する舌が斬られている事から、私が古代遺跡で遭遇した大蛇
のようだ。
401
﹁回り込め! はやくバジリスクをここから引き離すんだ!﹂
﹁こっちだ化け物! ぐぁ!﹂
大蛇をバジリスクと呼び、果敢にも多くの騎士が攻撃を繰り返し
ているようだった。
﹁ロンダークさん、あの蛇倒せますか?﹂
﹁⋮⋮戦力次第ですね﹂
なおも暴れ続けるバジリスクが暴れている瓦礫のしたに先ほど会
ったクラインセルト陛下が纏っていた緋色のマントの端を見付けて、
全身から血の気が引いた。
私はロンダークさんの腕から逃げ出すと、目の前で暴れていた蛇
に向かって剥がれかけた屋根の瓦を投げつけた。
﹁シオル様!?﹂
私の行動に驚いたのか、ロンダークの声に反応したのかバジリス
クがゆっくりとこちらを向いた。
鋭い眼光が私を確認するなり大きく開かれ、こちらへと大きな頭
を突っ込んできた。
震えそうになる身体を叱咤して、ギリギリで直撃を避けると私は
バジリスクの頭部に飛び付いた。
首を左右に振り、私を落とそうとするバジリスクの頭部に愛剣シ
402
ルバを突き刺す。
悲鳴をあげて暴れるバジリスクに耐えて何とか皮膚まで刺すこと
が出来たが、堅い頭蓋骨に阻まれて上手くいかない。
バジリスクは暴れながら移動しているため、マントがあった場所
には既に多くの騎士が集まり、救出活動が始まっているようだ。
﹁シオル様!﹂
シルバに必死にすがり付きながら振り落とされないように耐えて
いると、ロンダークさんが城の柱に巻き付けたロープをつかんで壁
を駆けてきた。 無駄のない所作で私を回収すると、手に持った短剣をバジリスク
の右目に突き刺した。
暴れまわるバジリスクの頭上にピンク色のドラゴンがしがみつい
ている。
しっかり捕まえて置いてくださいよ!﹂
﹁ロンダークさん! サクラを置いてきちゃった!﹂
﹁えっ!?
サクラを回収するべく、場所を確認すればサクラはバジリスクの
体表に爪を立てながら徐々にバジリスクの左側の眼前へとずり落ち
ている。 ﹁あーもー! 行きますよシオル様。しっかり捕まえて下さいね﹂
403
﹁わかった!﹂
私の返事に頷き、ロープを握り直すと勢い良くバジリスクに向け
て壁を駆ける。
胴体にバジリスクの舌が巻き付いたサクラは引き剥がされまいと
必死に目蓋にしがみついている。
﹁サクラー!﹂
﹁ピギャ!﹂
サクラに手を伸ばして距離をつめれば、サクラは身体をひねりバ
ジリスクの左眼球を短い尻尾で殴打した。
右目に続き左目も潰された衝撃で拘束が緩んだ舌から抜け出した
サクラを両手で回収した。
のたうち回るバジリスクは両目が聞かないにも関わらず、私の位
置を正確に捉えているのか大きな頭をぶつけるようにして追いかけ
てくる。
﹁ロンダークさん、あそこにいって! あそこ!﹂
城と城下を隔てる厚い城壁を指差した。チャンスは一回。
﹁わかりました。 しっかり捕まっていて下さいね﹂
突撃してきたバジリスクの頭部をひらりと躱して私が示した城壁
の中程で停止すれば、直ぐ様反応したバジリスクが私たちに突っ込
404
んでくる。
﹁今よ!﹂
﹁はぁ!﹂
ロンダークさんが城壁を勢い良く蹴り飛ばし回避した直後、私の
愛剣シルバの柄が城壁に当たり、全ての刀身がバジリスクの頭部へ
と消えた。
両目を潰された時とは比べ物にならない断末魔と地響きを立てな
がら暴れたバジリスクが地面に巨体を叩き付けるようにして倒れ、
そのまま動かなくなった。
沸き上がる喚声を聞きながらロンダークさんに地面へと下ろして
もらい、緊張感から解放されたせいで今更ながらに震える足を叱咤
しながら真っ直ぐに救出活動が続いている瓦礫の山へ駆け付けた。
騎士達に混ざり捜索を続け、ミリアーナ叔母様を守るようにして
亡くなっているクラインセルト陛下と、衰弱が激しく母子ともに危
険な状態のミリアーナ叔母様が発見されたのは日が真上に差し掛か
る頃だった⋮⋮。
405
失われた記憶?
瓦礫の下から奇跡的に救出されたミリアーナ叔母様はその後三日
間高熱に襲われ昏睡した。
燃えるような鮮やかな赤い髪は、その色彩が抜けてしまったよう
に白くなり、ベッドに散らばっている。
瓦礫に挟まれた右足首が粉砕骨折しており、治ったとしても後遺
症が残るだろうと診察にあたった宮廷医師が話しているのを、呆然
と聞き流していた。
高熱で流産する可能性も高かったが、どうやら持ち直してくれた
ようで、もしかしたらクラインセルト陛下が叔母様と赤子を守って
くれたのかも知れないとぼんやりと考えていた。
バジリスクを討伐した後、あれほど続いた地震はすっかりとなり
をひそめている。
城下町は王都周辺の町や村から食料や物資を分けてもらい、少し
ずつ復興へ向かって歩み始めた。
この度の災害で死者はクラインセルト陛下をはじめ二千人を越え
ていた。
多くの国民が倒壊した家屋の下敷きとなり亡くなっている。
今日も朝から私は眠り続けるミリアーナ叔母様の顔を眺めながら
406
目覚めを待っていた。
熱が下がり既に体調は安定しているものの、いっこうに目を覚ま
さない。
﹁⋮⋮殿下⋮⋮シオル殿下﹂
肩を叩かれて顔を上げれば窶れたロンダークさんが立っていた。
﹁あぁ、ロンダークか⋮⋮﹂
﹁ミリアーナ様がご心配なのはぞんじておりますが、少しお休みに
なられた方が宜しいですよ?﹂
どこか呆れたような、困っているような不思議な表情で言ってく
るが、そのままそっくりロンダークさんに言葉を返したくなるほど
にロンダークさんの目の下に大きな隈が居座っている。
﹁ロンダークさんも休んでないんじゃない? 私は平気だよ⋮⋮な
ぜかな⋮⋮眠くないんだ⋮⋮﹂
苦笑いを浮かべればわざとらしく溜め息を吐かれた。
﹁では寝なくても構いませんのでベッドで横になる位はしてくださ
い。 ミリアーナ様がお目覚めになりましたら真っ先にご連絡いた
しますから﹂
そう告げるとロンダークさんは隣の部屋へ続く扉を開けて、ベッ
ドへと私を放り込んでしまった。
407
本来ならばいくら血縁者とはいえこんな至近距離に男である私が、
大国の王妃に付きっきりで付き添うことはあり得ない。
しかし、バジリスクによってミリアーナ叔母様の私室は風穴が開
いており、住める状態になかったため、今は私と同じ無事だった迎
賓館に居を移している。
明日⋮⋮犠牲者の追悼が行われた後、地震で亡くなった人々の合
同葬儀が行われる予定だ。
王都の外れに広がる草原には今回の地震で倒壊した家屋の廃材が
集められている。
ミリアーナ叔母様がこのまま目を覚まさなければドラグーン王国
の宰相カルロス・ガザフィー殿がクラインセルト陛下と犠牲者の鎮
魂の儀を取り仕切る事になるだろう。
ぼんやりと見慣れない天井を見ているうちにいつのまにか眠って
いたようで室内はすっかり暗くなっていた。
カーテンの隙間から月の光が室内に筋となって入り込んでいる。
人気がない室内を見渡して、ベッドの足元にある革靴を履くと、
部屋に置かれたテーブルへ向かう。 テーブルには銀器のコップと水が入った銀器の水差しが置かれて
いるための、一杯注いで一気に煽るように渇いた喉を潤した。
ふと目を向ければ、ミリアーナ叔母様が寝ているはずの客間から
が気配を感じてゆっくりと近付き、静かに扉を開けた。
408
普段手入れが施されている筈の扉は度重なる地震の影響をうけ、
軋んだ音をたてながら開いていく。
月明かりに照らさし出されたベッドの上で身体を起こした状態で
月を眺めるミリアーナ叔母様がいた。
﹁ミリアーナ叔母様!﹂
私の声にミリアーナ叔母様はゆっくりとこちらを振り返った。
﹁だぁれ?﹂
いつもと違う舌足らずな話し方に違和感を覚える。
﹁シオルです。 ミリアーナ叔母様御体の具合はいかがですか?﹂
﹁シオル? ごめんなさい。わたしあなたをしらないの⋮⋮ねぇ、
おにいさましらない?﹂
そう告げるとミリアーナ叔母様はこてんと首を傾げて問いかけて
きた。 おかしい、何かがおかしい。
﹁ミリーはおにいさまとはぐれてっ⋮⋮ひっく⋮⋮しまったの?﹂
無邪気に問い掛けてきたと思ったら、子供のように顔を歪ませて
ぐずりだしてしまった。 ﹁ろっ、ロンダーク! ロンダークさん!﹂
409
事態が飲み込めず、夜中であるにも関わらず大声でロンダークさ
んの名前を叫んだ。
﹁どうしましたシオル様!﹂
どうやらロンダークさんは隣の部屋に居たようで私の切羽詰まっ
た声にすぐに部屋へとやって来た。
﹁ロンダークさん! ミリアーナ叔母様が!﹂
﹁ミリアーナ様、目を覚まされたのですね﹂
ミリアーナが意識を取り戻した事に一度は安堵した様子を見せた
ロンダークさんだったが、キョトンとした様子で自分を見つめるミ
リアーナ叔母様の様子がおかしいと気が付いたのだろう。
﹁ロンダーク? 面白い⋮⋮いつの間におじさんになってしまった
の?﹂
くすくすと笑う無邪気に笑うミリアーナ叔母様に冷や汗が背筋を
滑り降りる。
﹁シオル様、申し訳ございませんが直ぐに医師とカルロス様を秘密
裏に呼んできていただけませんでしょうか?﹂
ロンダークの頼みにしっかりと頷くと、私はこれ以上ミリアーナ
叔母様を見たくなくて、浮かんでくる涙を乱暴に袖で拭きながら薄
暗い城内を走った。
410
侵入者
直ぐ様カルロス宰相への取り次ぎを求め、ミリアーナ叔母様が目
を覚ました事を伝えてもらう。
ちょうど道すがらこの数日間ミリアーナ叔母様の看護をしていた
侍女と遭遇したので、ミリアーナ叔母様が目覚めたことを告げて直
ぐに医師を呼んで部屋へと来てほしいと告げた。
取り次ぎは直ぐに許可されカルロス宰相がいる彼の執務室へと案
内された。
﹁シオル・レイナス殿下をお連れいたしました﹂
扉の前で案内をしてくれた騎士の一人が声を駆ければ、ゆっくり
と扉が開かれた。
﹁お仕事中失礼いたします、お邪魔ではありませんでしたか?﹂
過労か心労か⋮⋮カルロス宰相の顔色が悪い。
﹁いや、そろそろ休もうかと思っていたところです﹂
それまで見ていた書類から視線をあげると、執務机から立ち上が
ったカルロス宰相に来客用に設置されているテーブルへ促された。 ﹁手短に⋮⋮ミリアーナ様が目を覚まされました⋮⋮﹂
411
﹁おぉ、よかった。 直ぐに医師を手配いたします﹂
﹁勝手ではありますが、既に医師を呼びに走らせております﹂
﹁そうですか、殿下には多大なるお力添えをいただきまして、感謝
いたします。 クラインセルト陛下がお亡くなりになられた今、私
だけではこの国はまわせません。 ぜひ王妃様にも頑張っていただ
かなければ﹂
中身はさておき外見は僅か十歳の私に他国の王太子として丁寧な
対応をしてくれるカルロス宰相の言葉に、先ほどのミリアーナ叔母
様の様子を思いだし、表情が曇る。
私の様子が変わったことに気がついたカルロス宰相が訝しげに口
を開いた。
﹁もしや、王妃陛下になにか⋮⋮﹂
﹁私が説明するよりも実際に会っていただいた方がわかると思いま
す⋮⋮﹂
カルロス宰相を伴ってミリアーナ叔母様の部屋へと戻ると、医師
による診断が終わったところだった。
﹁ミリアーナ王妃陛下のご容態は⋮⋮﹂
カルロス宰相の質問に医師は顔を曇らせている。
﹁どうやら記憶に混乱があるようです。いくつか質問を致しました
が、陛下はご自分の年齢を十歳だと⋮⋮﹂
412
﹁なんと言うことに⋮⋮、混乱と言ったが一時的なものなのか?﹂
﹁わかりません、なにかの拍子に思い出されることがあるかも知れ
ませんし、このままという可能性もございます。 クラインセルト
陛下がお亡くなりになられた事と長時間生き埋めとなられていた事
が要因かと思われます﹂
白磁のカップに注がれた蜂蜜を溶かした温かなミルクを嬉しそう
に飲むミリアーナ叔母様に聞こえないようにひそめられた声に血の
気が引く。
﹁宰相閣下⋮⋮、ミリアーナ陛下は正妃としての責務を全う出来る
のでしょうか⋮⋮﹂ 私の口から出た呟きは、この場にいる全員が危惧しているのだろ
う、重い沈黙が垂れ込める。
﹁⋮⋮はぁ、暫く様子を見るしか無さそうですね⋮⋮明日の王妃陛
下の合同葬儀へのご列席は見合わせるしかなさそうです﹂
度重なる心労のためか、カルロス宰相はふらふらと自室へと帰っ
ていった。 人が多くなれば休むことがむずかしくなるため、絶対
安静を厳命したのち医師や侍女が下がっていった。
いつのまにやら誰かが持ってきたらしい熊のぬいぐるみで遊ぶミ
リアーナ叔母様は、私の記憶にある叔母様とかけ離れ過ぎている。
一緒に食事をとりあくびをし始めたミリアーナ叔母様をベッドに
横になるように促し手を繋げば、子供のように無邪気な笑顔を浮か
413
べて私の手を両手で包み込むようにして抱き込んだ。
すぅすぅと規則正しい寝息が聞こえてきたところでスルリと繋い
でいた手を抜き取り、ミリアーナ叔母様の身体が冷えてしまわない
ように布団をかけ直す。
﹁ねぇ、ロンダークさん⋮⋮﹂
﹁はい、どうかなされましたか?﹂
はたしてミリアーナ叔母様はこのままこの国で暮らして幸せにな
れるのだろうか⋮⋮。
﹁⋮⋮ううん、やっぱりなんでもない﹂
この国で余所者でしかない私にはどうすることも出来ないだろう。
ましてやロンダークさんは従者だいらぬ心労は増やさない方が良
い。
﹁そうですか﹂
どこか腑に落ちない様子で、それでも柔らかく笑うとロンダーク
さんに促されて寝室に戻るべく踏み出したとたん不自然にロンダー
クさんが足を止めた。
﹁ロンダークさん?﹂
バッと背後を振り返ったロンダークが走り出すと同時に廊下に繋
がる扉と窓ガラスを割って飛び込んできた者に肉薄した。
414
﹁くっ! ミリアーナ叔母様!﹂
ロンダークさんは窓ガラスを突き破って入り込んだ不審者を斬り
飛ばすと、返す刃で扉からやって来た全身を黒い装束でくるみ顔を
隠した侵入者が上段から振り下ろした剣を受け止める。
シルバが手元に無い私は、ロンダークが斬り伏せて意識の無い黒
ずくめの侵入者が持っていた長剣を持ち上げる。
カチャリと金属音がして持ち上がった長剣は信じられない程に軽
かった。
長剣を構えていまだに斬り結ぶ黒ずくめの後ろへ回るように距離
を詰めて、侵入者の膝の裏へ長剣を叩き込んだ。
軸足を失い背中から倒れ込む黒ずくめをすかさず床へと拘束すれ
ば、いつの間に起き上がったのか始めに斬られた黒ずくめが窓から
逃げていった。
ロンダークさんのそれた隙を狙い拘束を抜けようともがく黒ずく
めの額に剣の柄を叩き込み昏倒させると、素早く顔全体を覆い隠す
黒い頭巾を剥ぎ取り、持っていた大判のハンカチを噛ませるように
して押さえた。
﹁大丈夫だと思いますが抑えていていただけますか。私はロープを
持って参ります﹂
﹁わかった﹂
もし目が覚めれば直ぐにでも対応できるように長剣を首もとに沿
415
わせながら、改めて侵入者の顔を覗き込んだ。 とりとめて特徴の無い顔をした男だ。これはもしどこかで会って
いても記憶に残りにくいだろうな。
ロンダークさんは持ってきた縄できっちりと男を縛り上げて扉を
開けると、黒ずくめに倒されたらしく気を失っている護衛騎士を手
荒くたたき起こした。
どうやら一撃で昏倒させられたようで、命に関わるような怪我は
ないようだ。
この災害のドタバタに襲ってきた刺客は真っ直ぐにベッドに横た
わるミリアーナ叔母様を狙っていた。
一体何が起きようとしているのだろうか。
416
無事帰国するために
今、ドラグーン王国は後継者争いが表面化しはじめていた。 本来ならば故クラインセルト陛下の嫡出子がドラグーン王国の後
継となるのだが、まだ産まれても居ない赤子を王位にはつけられな
い。
混沌とする王城内では誰が国王の地位に付くかで表だって揉める
ことが増えてきていると、ミリアーナ叔母様の世話をしにくる侍女
が教えてくれた。
宰相はミリアーナ叔母様を支えてクラインセルト陛下のお子に王
位について欲しいようだが、混乱する国内を導ける指導者を求める
声が高まる中で起きた昨夜の襲撃を重く見た宰相が朝早く、人目を
避けるようにして日の出と変わらぬ時間に私の元を訪れた。
﹁早朝に訪問する無礼をお許しいただき感謝いたします﹂
宰相は二人だけの護衛を引き連れてやって来ると、その二人に部
屋には誰も近寄らせないように厳命し、私へと謝罪と感謝の言葉を
述べた。
﹁いえ、なにか問題が?﹂
私の問い掛けに、宰相は言いにくそうにしながら口を開いた。
﹁昨夜ミリアーナ王妃陛下に放たれた刺客が、牢屋で殺害されてい
417
るのが発見されました⋮⋮﹂
﹁はい? そんな、警備は?﹂
動揺を誤魔化すように冷静さを心がけて問う。
カルロス宰相の話によればミリアーナ叔母様を襲撃した男が何者
かの手によって捕らえられた牢屋の中で死んでいるのが発見された
との連絡が入ったらしい。
いまだ地震の爪痕が色濃く残っているにしても、城内の警備の杜
撰さが浮き彫りになったと言って良いように感じる。
いや⋮⋮、杜撰にしている者がいる、が正しいのかもしれないが、
何にせよ内部に犯人がいると言うことだろうか。
﹁シオル殿下にご相談があって参りました⋮⋮﹂
そう話すとカルロス宰相は深々と頭を下げた。
﹁王妃陛下のお国下がりをお願いしたいのです﹂
﹁なっ!?﹂
国へ下がる⋮⋮すなわち離縁と同意として使われる言葉だ。
﹁お耳の早いシオル殿下にも届いているかと思いますが、我が国は
これから荒れるでしょう。 そして真っ先に矢面に立たれることに
なるのはクラインセルト陛下のお子を宿されたミリアーナ陛下です﹂
418
そう言ってベッドに横たわるミリアーナ叔母様を見詰めた。
﹁私はお二人のご婚約が決まってから今日まで影ながらこの国を導
かれるお二人の助けになればと働かせていただきました。 そして
クラインセルト陛下には幼い頃から手を焼かされて来ましてね、畏
れ多いため明言したことはありませんでしたが、息子のようにご成
長を見守って参りました﹂
淡々とカルロス宰相が語る言葉にはいつもの気を抜けば直ぐに飲
まれてしまいそうな覇気はなく、好好爺とした気配を放っていて嘘
をついているようには感じられなかった。
﹁本当ならクラインセルト陛下お子に後をついでいただきたいとお
もっておりましたが、今の私達では、クラインセルト陛下が愛され
たミリアーナ陛下も、本物の孫のように誕生を待ちわびているお子
をお守りする事は⋮⋮難しいのです﹂
カルロス宰相の懸念は昨晩の襲撃を重く受け止めた事だろう。
﹁ミリアーナ陛下とお子をお守りするにはドラグーン王国に留まる
よりも母国へお戻り頂くのが一番だと考えております﹂
誰が敵か味方かも分からない熾烈な王位争奪戦の火蓋が落とされ
ようとしているのは火を見るより明らかだ。
﹁しかし、お子を宿されたミリアーナ陛下をレイナス王国へお返し
する事は他の王位継承権を持っている者達が納得致しません﹂
私としては甥か姪となる赤子を人質にするなんて頭はないが、邪
推するものは一定数いるだろう。
419
﹁そのために、ミリアーナ陛下には⋮⋮流産していただきたいと考
えております﹂
﹁なっ!?﹂
流産と言ったカルロス宰相からミリアーナ叔母様を庇うようにし
て直ぐに対処出来るように愛剣に手をかける。
﹁もちろん、本当に堕胎させようとは考えておりません、ですがミ
リアーナ陛下とお子をお守りするには、流産された事にしてレイナ
ス王国へ逃げていただくしか道はないのです﹂
ミリアーナ叔母様を見ながら何かを耐えるように色が変わるほど
拳を握り締めるカルロス宰相からは不本意な事なのだ全身で訴えて
いるようだった。
﹁ドラグーン王国は⋮⋮カルロス宰相様はそれでよろしいのですね
?﹂
﹁⋮⋮はい﹂
しっかりと頷かれたカルロス宰相の顔は決意に満ちていた。
﹁わかりました。 信頼できる医師に流産の偽の診断書を書かせて
ください。 明日の合同葬儀でクラインセルト陛下と一緒に弔いま
しょう﹂
﹁はい、手配はこちらで致します。 それからこれをお渡ししてお
きます﹂
420
カルロス宰相は胸元から私の両手に収まる程の大きさがある短剣
を取りだし私に差し出した。
﹁これは?﹂
キラキラとした宝飾が施された鞘と刀身には精密なドラグーン王
家の紋章が刻まれていた。
﹁代々ドラグーン王家の国王陛下に受け継がれる宝剣です﹂
カルロス宰相の言葉に危うく短剣を落としかけた。
﹁まっ、待って下さい!﹂
﹁その剣をお願いいたします。 それからこれはミリアーナ陛下に
お渡しください﹂
包装された中身が見えない四角い物をミリアーナ叔母様のベッド
脇に伏せた。
﹁明日の警備を手薄にしておきます。 私の直筆の通行証もお渡し
致します。 新しい国王に名が上がっている者に実権が渡れば、こ
の国は戦乱へと向かうことになります。 今いる他国の王族は既に
知らせを走らせましたので帰国している事でしょう。 葬儀の間に
お逃げください。 きっとお見送りすることは叶いますまい⋮⋮無
事にご帰国なさいますことを心より願っております﹂
それだけ告げると何かを決意した目で足早にカルロス宰相は出て
いった。
421
カルロス宰相の助言にしたがって私とロンダークはミリアーナ叔
母様を連れて、葬儀会場に背を向けて王都から脱出した。
ミリアーナ叔母様の体調は心配だったが、追っ手がかかる心配が
ある以上ドラグーン王国から離れることを優先したのだ。
無事に帰国を果たした数ヵ月後、レイナス王国にドラグーン王国
に新国王即位の報告と、カルロス宰相死去の知らせが届いた⋮⋮。
422
とるべき道は
ドラグーン王国の城下町は復興が遅々として進まず、多くの住民
が倒壊の恐れがある住居ではなく、野外で日夜をすごしている。
合同葬儀と言うこともあり、住民の多くが愛する家族や親しい友
をあの世⋮⋮こちらでは天国とは言わず双太陽神の庭というのだが、
神の元へたどり着けるように祈るため、周囲に人の気配はない。
ミリアーナ叔母様の身体を自分の背中に背負い、幅広の帯でくく
りつけて、叔母様ごと長い丈の灰色のローブを纏ったロンダークさ
んを先導するように、葬儀会場となっている王城前とは反対に位置
する使用人達が出入りに使っている出口から城外へと出ることがで
きた。
﹁宰相閣下からこちらをお預かりしております。 馬は東の大門に
四騎ほど準備させてあります。 本来であれば馬車をご用意したか
ったのですが⋮⋮﹂
そう言ってローブを纏った私たちを出迎えた兵士が渡してくれた
のは、長方形の木の枠に横木を渡し、肩にかけるひもをつけた背負
子だった。
中には地震以降中々手に入らない硬く焼き締められたパンや保存
が効くナッツや乾燥させた果実、革袋を加工した水袋が納められて
いると、兵士さんが説明してくれた。
よく見れば兵士さんは今朝がた宰相閣下と一緒に部屋を訪れたう
423
ちの一人だった。
申し訳なさそうにする兵士さんに感謝を伝えてずっしりと重い背
負子を背負う。
動きは阻害されてしまうが、地震以降物資の調達は難しく、身を
隠しながら移動することを余儀無くされるため、道中の補給は限ら
れるため、これ等の非常食はありがたい。
しかも城門の外には馬まで用意してくれているらしい。
﹁王妃陛下をお願いいたします﹂
﹁ありがとう⋮⋮﹂
﹁ご武運を﹂
そう告げると兵士は何事もなかったように持ち場である城門へと
戻っていった。
﹁ロンダークさん、大丈夫ですか?﹂
足場の悪い道程を人目を避けて兵士さんが話していた東の大門へ
進んでいく。
城から離れれば離れるほどに、手が入らない住宅や瓦礫の道が増
えていく。
大門に近付いた時、一際大きな鐘の音が響き渡った。
424
葬儀が済み犠牲者の遺体に火が放たれたのだろう。
背後から上がるひとすじの煙を見据える。
﹁こちらです!﹂
大門から出てきた私達に、茂みに身体を隠しながら声をかけてき
たのはやはり今朝早く訪ねてきた男性だった。
﹁ご武運を﹂
男性は私に二頭、ロンダークに二頭分の手綱を手渡すと、大門の
中へと走っていった。
用意されていた馬は私とロンダークさんの愛馬、そしてミリアー
ナ叔母様の愛馬と、見知らぬ白馬が一頭。
素早く愛馬に騎乗すれば、とくに行き先を示すこともなくレイナ
ス王国へ向けて歩き始めた。
﹁ロンダークさん、ミリアーナ叔母様の容態は?﹂
﹁そうですね、呼吸は安定されておりますので少しであれば馬での
移動も可能でしょう。 しかし胎児の事を考えれば強行軍は⋮⋮﹂
妊婦を野宿させないだろうと推測がたつ以上追っては街を捜すだ
ろう。
追っ手がかかる街を避けてレイナス王国の領土へ入らなければな
らない⋮⋮か。
425
﹁わかった、ドラグーン王国を南下して一度マーシャル皇国領へ入
る﹂
﹁マーシャル皇国ですか? あそこはたしか第一王子がお産まれに
なったばかりで、誕生を祝う祭りが行われていた⋮⋮なるほど﹂
人気が少ない最短距離を行くよりも、距離は伸びるが、お祭りで
込み合う場所の方が見付かりにくい筈だ。
﹁マーシャル皇国にはレイナス王国の密偵も入っている筈だ。 彼
等に上手く合流できれば安全性も増すはずだ。 ミリアーナ叔母様
の体調をみて休憩を挟みながら向かう﹂
﹁御意﹂
迷いなく返事をしたロンダークさんと並び帰国への一歩を踏み出
した。 426
やっぱり入国審査があるらしい。
ドラグーン王国の王都を出発して南下し、私たちは木々が生い茂
る林の中で休憩をとっている。
目を覚ましたミリアーナ叔母様は少しの間、現状についていけず
混乱しているようだったが、ロンダークさんの姿を確認して安心し
たのか、休憩中である今もペッタリとロンダークさんに貼り付いて
いる。
骨折している足を添え木で固定し直すと、少し痛みが引いたのか
ホッとしたようにミリアーナ叔母様が息をついた。
衣類の類いはほとんど入っていないがかわりに背負子には潤沢な
ほど食糧が入っていたため、順調に行けばドラグーン王国を抜ける
まで、食糧の補給は必要無さそうだし、もしもの時は狩ればいい。
痛み止めの薬効があるお茶もあるが、はっきりいって妊婦が飲ん
でも大丈夫かわからない。
普通なら日が高いうちに移動するのが基本だが、昼間の移動は人
目につきやすいため、私たちは太陽が沈んでから移動することに決
めた。
ありがたいことにそろそろ双子太陽が昇る季節、夜も月のような
役割を果す天体が双子太陽のお陰で、いつもより太陽の光を反射し
て辺りを照らしてくれるので視界に困ることはない。
427
林を抜けてなるべく踏み固められた商人たちが行商に使う道を馬
で進む。 足を骨折しているミリアーナ叔母様には馬上で揺られる
移動はどうしても負担が大きい。
山賊やならず者、城からの襲撃を警戒しながら少しずつ確実に距
離を進むのなら、皆が寝静まる時間に距離を稼ぎ、出来れば秘密裏
にドラグーン王国から出国したいのが本音だ。
王都を出て三日、ドラグーン王国とマーシャル皇国との国境とな
る街には沢山の行商人がひしめき合っている。
街の外壁の外側でミリアーナ叔母様と留守番をしながら、視察に
向かったロンダークさんを待った。
﹁ミリアーナ様、お腹が空いたりしていませんか?﹂
﹁だいじょーぶ!﹂
無邪気な笑顔で答えるミリアーナ叔母様は男装をしていても昔の
ような凛々しさや覇気はない。
乾燥させた木の実を二人で摘まんでいると、暗い顔をしたロンダ
ークさんが戻ってきた。
手には買ってきたのだろう肉に串を指して焼いた物や、補充分の
食糧、そして甘い菓子を持っていた。
﹁うわーい、美味しそう!﹂
きゃっきゃとはしゃぐミリアーナ叔母様が串焼きにかぶりついた。
428
﹁国境は越えられそうですか?﹂
木の実を私の肩の上がすっかり定位置になってしまったピンクの
ドラゴン、サクラに宛がう。
サクラは肉は食べないようで木の実や大豆に似ているがそら豆程
に粒が大きいソイ豆を好んで食べる。
﹁いえ、関門を突破するのは難しいかと思います。 行き来する者
たちはみな厳しい審査が行われていますね。 なんでも白髪の女性
と赤髪の少年を捜しているようです﹂
どうやら危惧していた通り手配が回されているようだ⋮⋮待てよ
? 白髪の女性と言ったよね。
﹁審査はどのようにされていたかわかりますか? 似顔絵とか? 服を脱がせたり?﹂
﹁いえ、同じような特徴の人物を止めて、積み荷は中身を確認して
いるようです。 似顔絵は持っていませんでしたし、服を脱がせた
りはしていませんでした﹂
﹁身体を触ったりする審査は?﹂
﹁特徴が一致して別室に連行された者たちはわかりませんが、それ
以外は無かったように思います﹂
ふむ、それならいけるかな?
429
串焼きにかぶりつきながら色々考えていると、ロンダークさんが
肉汁で汚れたミリアーナ叔母様の口許を優しく拭いている。
⋮⋮うん、ありかもしれない。 レイナス王国に戻ったら進言し
てみよう。
﹁シオル様、何かたくらんでは居ませんか?﹂
﹁なっ、なんのことかな? あは、アハハハハ﹂
笑ってごまかしつつも今後の行動を考えながら交代で眠りについ
た。 430
お買い物
朝早いうちに私は町へと入った。 ミリアーナ叔母様には今ロン
ダークさんが付き添っている。
本当はロンダークさんが街へ買い出しに行ってくれる予定だった
のだけれど、ミリアーナ叔母様がロンダークさんにすがり付いて離
れなかったのだ。
その為、今日は私が街へとやって来た。 お供は私の肩に乗って
いる桜色の爬虫類⋮⋮ドラゴンのサクラだ。
朝早い時間にも関わらず、すでに沢山の露天商が活気ある声で旅
人や行商人の呼び込みを行っている。
赤土の煉瓦が敷き詰められた街道には、私よりも身長が高い大人
たちがひしめき合い、同年代の子供と比べれば多少高いものの成長
期の身体は、大人に囲まれれば埋もれてしまう。
﹁あの、すみません。 この街に薬師を営んでいるお店ってありま
せんか?﹂
目の端に止まった店舗型の衣料品を扱う店の店員らしき男性に声
をかける。
﹁んぁ薬師? 客じゃないんなら商売の邪魔だ。 あっちに行きな
坊主﹂
431
シッシッと手をひらつかせて追い払おうとする男の店から出た私
を、道を挟んだ反対側の店舗の男が呼んでいる。
﹁何かご用ですか?﹂
ニコニコと愛想良く聞いてきた壮年の男性の店もどうやら衣料品
を取り扱っている店のようだった。
﹁実は薬師の方を捜しています﹂
店先には一般的な家庭で日常的に着られている衣服に混じって、
見慣れない刺繍が施されたポーチが陳列されている。
赤や黄色、緑に青と美しい発色の色糸を複雑に絡ませて刺された
品々は華美さと上品さを兼ね備える一品だ。
よくよく見れば精緻な刺繍のハンカチも数点置いて有る。
﹁薬師ですか、この通りをあちらに進んで頂いて突き当たりにあり
ますよ。 セルナの葉が描かれた看板が薬師の商いをしているサニ
ア婆さんの店ですよ﹂
どうやら私の目的地はこの人混みを越えた先に有るらしい。
﹁ありがとうございました。 あのう、これは⋮⋮﹂
極彩色のハンカチを手に取ればもみ手始めた。
﹁美しいでしょう? 南にある島国から流れてきた逸品なんですよ﹂
432
﹁おいくらですか?﹂
﹁はい、ポーチが銀貨二十枚ハンカチがそれぞれ銀貨五枚ですね﹂
日本円感覚で銀貨が一枚一万円位、だとして遠方から輸入された
ハンカチにしてはあり得ない程に格安だ。
銀貨百枚の値打ちがある金貨を差し出せば、ホクホ
﹁わかりました、とりあえずここにある同じ島国からの品を全部く
ださい﹂
そう言って
ク顔で品物を包んでくれた。
お母様と妹のキャロラインに良いお土産が出来た。
何故か店主さんが私と違うところを見ながらしてやったりとほく
そえんでいたので、視線をたどれば道の反対側の店の店主が忌々し
そうに睨んできた。
﹁ありがとうございました﹂
とても良い笑顔で送り出され、教えてもらった通りに人ごみを掻
き分けて進めば、教えてもらったセルナの葉が描かれた古びた看板
を掲げる店に出た。
セルナの葉は殺菌作用と止血効果があり、擦り傷や裂傷に効果が
ある薬の材料となる植物だ。
どこと言うことなく自生しているセルナの葉を軽く叩き潰して傷
433
口に貼っておくだけでも応急措置には有効なので、薬師の看板とし
ては納得がいく。
店に足を踏み入れれば乾燥させた薬草らしい植物がところ狭しと
陳列され、得体の知れない生き物の乾物が天井からぶら下がってい
る。
独特の雰囲気と臭気を放つ店内には人の気配が感じられない。
﹁すみませーん﹂
﹁うるさいね、そんなに大きな声を出さなくても聞こえるわい﹂
﹁うわっ!?﹂
突然誰も居ないと思っていた場所から声をかけられて驚きに後ず
さった。
﹁なんだい失礼な坊やだね﹂
のっそりと姿を現したのは私より小さな老婆だった。
くるりと前に曲がった背中に紫色の髪の毛⋮⋮染めているのかな
? 紫色の髪の毛なんて転生してから初めて出逢ったよ。
﹁し、失礼いたしました。 実は髪染めの薬を探しておりまして﹂
﹁あんたが使うのかい?﹂
434
﹁いえ、母に頼まれました﹂
実際には叔母様だけどね。
﹁色はあんたと同じ赤かい?﹂
﹁いえ、黒色でお願いします﹂
この世界でも黒色の髪をした人は多い。
﹁黒色だね﹂
そう言って老婆は店の奥から三本の瓶を持ってきた。
﹁うちに置いてある黒色の顔料はこれだけだよ。 基本的に染髪し
た色は長続きしないからね﹂
使い方の説明を聞けばどうやら三本の薬品を混ぜ合わせて使う染
料らしい。
﹁お代は?﹂
﹁銀貨二枚だ﹂
年齢を感じさせるシワシワの手に銀貨二枚と先ほど買ってきたハ
ンカチを置く。
﹁なんだいこの派手なのは﹂
435
﹁お礼です、では﹂
﹁待ちな!﹂
退出を告げようとした私に老婆は、小さな袋を押し付けてきた。
﹁こんな贈り物を貰ったのは死んだ爺さん以来だよ。 おまけだ持
って行きな﹂
﹁あの、これは?﹂
﹁サニア特製の傷薬さね。 また機会があれば寄っとくれ﹂
しっかりとハンカチを握り締めてそっぽを向いてしまった老婆に
お礼を告げ、果物やら長期保存の効く乾物等を色々買って街を出た。
﹁ロンダークさん!﹂
夜営に使っている天幕のある場所まで戻れば、ロンダークさんの
膝を枕にして寝息を立てているミリアーナ叔母様がいた。
﹁おかえりなさいませ。 ご入り用品物は手に入りましたか?﹂
しっかり頷き、戦利品をロンダークさんに披露する。
﹁今日これでミリアーナ叔母様と私の髪を染めて明日の朝、三人で
国境を抜ける﹂
﹁わかりました﹂
436
﹁と、言うわけで明日からロンダークさんが行商を生業にしている
私の父様で、ミリアーナ叔母様がロンダークさん奥さんで私の母様
のだからよろしくね?﹂
﹁え!? いや、私は独身ーー﹂
﹁さぁご飯にしよう!﹂
ロンダークさんの苦情をきっちりと言葉を被せて封じた。
437
久しぶりの宿屋
朝靄が晴れた頃、四頭もの馬に沢山の荷をくくりつけた一行が、
関所の通行審査を待つ列に並んでいた。
壮年の行商人のような男性が引く馬の馬上には黒髪の美しい女性
が座っている。
そして同じく黒髪の少年が直列で繋がれた三頭の馬を引いていた。
﹁本当にやるんですか?﹂
﹁もちろん。 失敗したら只じゃおかないから﹂
早くも弱気になっている。ロンダークさんを脅しつつ、順番は次
第に近付いてくる。
﹁次!﹂
前の人が関門を過ぎ、ロンダークさんはゆっくりと近付いていく。
﹁荷と身分証を改める﹂
﹁はい、私はロンダーク・ビオスと申します。 ドラグーン王国で
行商をしておりましたが、買い付けと商売の為にマーシャル皇国へ
向かっております。馬上には居るのは妻のレーシャと、これが息子
のレオルです﹂
438
ロンダークさんの紹介に合わせて頭を下げれば、門番は私の髪の
毛とミリアーナ叔母様の髪の毛を確認した。
ちなみにミリアーナ叔母様の名前は私の侍女レーシャさんから借
りてきました。
手綱を握りしめた両手に汗をかきながら相手の反応を伺えば、門
番は何かを書き付けて標的を馬体にくくりつけられた荷物へと移し
たようだ。
﹁荷は?﹂
﹁はい、珍しい南方の織物と旅の食料、石鹸などです﹂
昨日入手した刺繍の入ったハンカチや、空き瓶に森で拾ったムク
ロジを詰めた物を見せる。
品物を見せるときに、さりげなく袖の下、いわゆる賄賂を渡すの
が停められることなく国境を越えるコツだと、ロンダークさんは情
報収集の為に立ち寄った酒場で聞いてきたようだ。
﹁ふむ、特に問題は無いようだ行って良いぞ﹂
﹁ありがとうございます﹂ ロンダークさん渡した賄賂を受け取って許可を貰い、怪しまれな
いように慎重に門を潜る。
すると背後で騒ぎが起きて白髪の女性がどこかへと連行されてい
った。
439
とりあえずドラグーン王国を脱出出来たことなほっと胸を撫で下
ろせば、ふわりと私の頭上にミリアーナ叔母様の手が降りてきてく
しゃくしゃと撫でられた。
その撫でかたが昔に撫でられた時の記憶と重なって不意に浮かん
だ涙を長袖で乱暴に拭う。
とにかくドラグーン王国は抜けることが出来たが、ここはまだマ
ーシャル皇国⋮⋮レイナス王国じゃない。
しばらくマーシャル皇国の大地を進み、小さな村の宿屋に部屋を
とる。
本当なら個室が相応しいのだろうけれど、心を壊したミリアーナ
叔母様をひとりにするくらいならと、三人で一部屋を借り受けた。
旅の疲れを癒すように大盥に湯をはって汚れを落とす。
ミリアーナ叔母様は自分の事が出来なくなってしまっている事が
多く、洗髪や洗体もひとりでは難しい状況だ。
かといってロンダークさんが手伝うわけにもいかないので、私が
することになる。
長い髪に湯をかければ染髪に使った塗料がお湯に溶け出し、湯を
黒く染めていく。
何度か湯を換えて着替えを済ませた。
440
やはりミリアーナ叔母様の心身の負担は大きかったようで温かな
夕食を平らげた後は、ベッドに潜るとすぐに寝入ってしまったよう
だ。
堅いベッドに体を横たえて目を瞑れば急速に意識が睡魔に飲み込
まれていく。
一時の安息はそれまでの平穏な旅がまるで嘘であったかのように
襲い来る苦難の前に与えられた休息だった。 441
襲いくる刺客
どうやら自分で自覚している以上に疲れが蓄積していたようで、
目が覚めればすでに太陽が高い位置まで差し掛かっていた。
ミリアーナ叔母様はまだ寝ているため起こさないように着替えを
済ませると、先に起きていたらしいロンダークさんが朝食と思わし
い切れ目を入れたパンに炒めた肉や野菜を挟んだ物を持ってきてく
れた。
﹁おはようございます。 良くお休みになられましたか?﹂
ロンダークさんが小さな丸いテーブルにパンが納められたバスケ
ットをおくと、湯冷ましが入った水筒を渡してくれたので、一気に
飲み干した。
﹁ありがとう。 少し寝過ぎてしまったみたいですね﹂
﹁いえいえ、本当はもっと休んでいただきたいところなのですが、
あまりひと所に留まるのは危険ですので、ミリアーナ様がおめざめ
になられましたら出立をと考えております﹂
空になった水筒を返せば、代わりに炒めた肉や野菜を挟んだパン
を渡されてかじりつく。
﹁次の大きな街までどれくらい?﹂
﹁そうですね、正味三日でしょうか。そこから更に五日すれば王都
442
に入りますが、私達が目指すべきは王都から二日ほど離れた街です
ね、そこまで行けばレイナス王国からマーシャル皇国に入っている
密偵と連絡がつけられます﹂
大体十日ほどの日程か、通常ならなんの問題も無いだろうが、身
重で骨折中のミリアーナ叔母様を連れての旅支度だ、そうそう無理
はさせられない。
﹁幌馬車の荷台を得ることは可能かな?﹂
﹁私もそれは考えました。 ミリアーナ様は記憶は曖昧になってい
らっしゃいますが、それでも身体は乗馬を覚えていらっしゃるので
しょう。 しかし、やはり骨折のない片足で馬上姿勢を維持するの
は負担が大きいのです﹂
ドラグーン王国を抜けるまでは機動力を重視したため騎馬で移動
してきたが、ミリアーナ叔母様の憔悴ぶりは看過できない。
﹁しかし荷台を購入した場合、私とシオル様だけでは守りきれませ
ん﹂
﹁う∼ん、護衛を雇うにしてもこの街じゃね﹂
あえて人口五百人から千人ほどの小さな街を選んだ為、護衛を職
業斡旋所から募るのも難しい気がする。
﹁最寄りの十万人越えの都市はどこ?﹂
﹁十万人⋮⋮王都マーシャルですね﹂
443
﹁その次に経路上の近場で大きい街は?﹂
﹁そうですね⋮⋮やはり三日後のゴアの街です﹂
﹁⋮⋮わかった、三日だけ凌ごう﹂
二人で話をした後、目覚めたミリアーナ叔母様は食欲が無いのか
湯冷ましとパンを少しだけ食べて残してしまった。
馬屋に預けていた馬たちに騎乗して、街を出る。
ミリアーナ叔母様は相変わらずロンダークさんにくっついて離れ
ない。
途中何度も小休憩を挟みながら街道を進んでいく。
太陽が傾き、辺りが茜色に染まる頃私達の背後から奴等はやって
来た。
444
激闘
同じくらいに出発した商人達に混ざるようにして進んできたが、
付かず離れずついてくる一団が有った。
紅く染まった空を見上げた商人達が次々と早めの夜営準備のため
に次第に足を止めていく。
周りを木々に囲まれた場所は夜営に相応しい広さと、飲料水につ
かえる清水が流れる川があり、多くの商人達はここで休むようだ。
私達も彼らに混ざり食事と飲み水の確保、手持ちのムクロジ石鹸
を引き取ってもらい保存食や薬などを分けてもらった。
愛馬のグラスタは気性の優しい牝馬では有るが十歳の私の幼い身
体では、まだ足を骨折しているミリアーナ叔母様の身体を支えるこ
とが出来ず落馬させる恐れがあるため、ミリアーナ叔母様は常にロ
ンダークさんと相乗りになる。
なるべくお尻に負担が掛からないように柔らかな布を幾重にも重
ねた物の上に横座りで移動していた。
小休憩を挟み他の商人達と離れるようにして移動を始める。
後ろから付いてきている一団がもし追手であれば、仮に襲撃を受
けてしまえば行動をともにした他の商人達を巻き込むことになりか
ねないと判断したからだ。
445
すっかり日が落ちて辺りを暗闇と虫の声や野性動物の息遣いに混
ざり、私たちの後ろを付いてくる気配に私は傍らのロンダークさん
を見上た。
﹁ロンダークさん⋮⋮、人数はわかりますか?﹂
小さく呟いた声はしっかりとロンダークさんに伝わったようでロ
ンダークさん前方を向いたまま小さく頷く。
﹁そうですね⋮⋮騎馬が五といった所でしょうか﹂
腰に佩いた剣に手をかけて神経を研ぎ澄ますロンダークさんの気
迫にミリアーナ叔母様は小さく震えてロンダークさんの服にしがみ
ついた。
﹁五人か、追っ手だと思います?﹂
﹁恐らく、でなければこんな夜更けに私達と行動しません⋮⋮っ!﹂
突然背後の馬の蹄の音が変わった。 振り返れば、追っ手がこちらへ馬を駆けさせているのがわかる。
﹁走りますよミリアーナ様、しっかりと掴まって下さい! ハッ!﹂
﹁ハッ!﹂
走り出したロンダークさんに続いて私もグラスタの手綱を握り締
めて駆けさせる。
446
いくら距離があり駿馬とはいえ、二人のりでは追い付かれるのも
時間の問題だ。
﹁シオル様、このままでは追い付かれます⋮⋮ミリアーナ様をお願
いいたします﹂
ロンダークさんは私にミリアーナ叔母様を見させて迎撃に向かう
つもりなのだろう、しかし十歳に過ぎない私がミリアーナ叔母様を
支えながらグラスタを駆けるのは無理がある。
﹁ロンダークさん⋮⋮ミリアーナ叔母様を必ず父様の所へ!﹂
それだけ告げると私は進路を変更して追っ手に向かって駆け出し
た。
﹁シオル様!?﹂
﹁行け! ロンダーク! 命令だ!﹂
﹁ぐっ、ご無事で⋮⋮ハッ!﹂
今までロンダークさんを呼び捨てにしたことなど無かったが、は
っきり言って私とミリアーナ叔母様の二人を守り抜くのは困難だ。
狡いかも知れないが、少しでも追っ手の足を止めて距離を稼ぎた
い。
命令だと言われてロンダークさんは苦虫を噛み潰したような顔を
したあと、開け道を外れて木立へと駆けていった。
447
馬上でスラリと愛剣シルバを引き抜くと追っ手は木立へと進路を
変えてきた。
﹁行かせない!﹂
進路を遮るように馬身を割り込むと、私は斬りかかってくる剣を
馬上で飛び跳ねるようにして躱し、追っ手に飛び掛かると背後に回
り込み剣を首もとに当てて切り裂いた。
鉄臭い液体が頬に飛び散る。
悲鳴をあげてのたうつ身体を力ずくで地面に叩き落とせば、次の
刺客が迫ってきていた。
振り下ろされる剣を刀身で受け止めると、懸念していたほどの力
は入っていなかったようでて流すと、私は剣を刺客の胸へと貫いた。
手に剣から伝わる肉の感触と濃厚な血の香りに吐き気を催しなが
らも、剣を引き抜けば温かな鮮血が吹き出した。
﹁調子に乗るなよ小僧﹂
﹁ぐっ!﹂
すぐ後ろに迫っていた男が横凪ぎに払った剣を受け止める。
ガチャガチャと刀身がぶつかり合い自然と相手の顔が近付いてく
る。
﹁ペッ!﹂
448
唯一黒い布で覆われていない目に向かって唾を飛ばせば、男が反
射的に剣を引いた。
﹁糞がきが! ぎゃぁぁぁあ!﹂
身体を前倒して勢いよく剣を馬上の男の息子に突き立てた。
断末魔が夜の闇に響きわたると、近くにいた鳥が一斉に飛び立っ
た。
剣は馬の背中にも刺さってしまったようで暴れた馬の体当たりを
受けて身体がよろける。
男を背中に縫い付けたまま横倒しになった馬に潰された男を、持
っていた短剣で止めを指した。
シルバを引き抜き血を払う。
これで三人⋮⋮ロンダークさんたちを追ってに行った二人に追い
付かなければと、木立を疾走しながら短く口笛を吹けば、小さな嘶
きをあげて愛馬グラスタが駆け寄ってきた。
馬上で馬を乗り換えるという前世の私ならまず無理だっただろう
軽業をやってのけ、私はグラスタとともに暗い木立の隙間を縫って
走った。
はっきりいって夜目は効かないからグラスタ頼みだ。
グラスタが前を走る馬影を捉えたため速度を上げて背後に回り込
449
む。
背後から迫る蹄の音に仲間が応援に来たと思っただろう刺客が振
り向き目を向いた。
﹁なに!? なぜ生きている!﹂
﹁私の命は安くないのよっ! たぁ!﹂
まだ声変わりも果たさない声で気合いを入れて斬りかかれば素早
く跳ね返された。
﹁ぐっ! 餓鬼のくせになんつう剣圧をしてやがる﹂
呻きながらも二度三度と繰り返す剣劇を躱す刺客が放った突きが
脇腹を掠めた。
﹁痛っ!﹂
激痛に脇腹を手で押さえて見ればヌルリとした液体が触れる。
﹁どうしたそれで終わりか﹂
﹁終わりな訳ないでしょ!﹂
私はシルバに吊るしていた荷物袋から前の町で仕入れた長帯を傷
口の上に巻き付けて剣の鞘を外して差し込みぐるりと捻り傷口を圧
迫した。
応急処置を施してシルバを持ち直し手綱をしっかりと掴むとグラ
450
スタの背中に立ち上がった。
﹁しぶといガキだな。 曲芸でも始めるつもりか!﹂ グラスタを走らせて追っ手の馬に横付けし、私は刺客の胴体目掛
けて馬上を飛び越えた。
﹁グラスタとまれぇ!﹂
私の指示を理解するグラスタは賢いと思う。
﹁ぐぁっ!?﹂
前足を踏ん張るように急停止したグラスタと、私が渡した手綱が
刺客の腹部を圧迫し、馬上から地面へと落馬させることに成功した。
咄嗟に私の服を掴もうとした刺客の身体を蹴り飛ばして叩き落と
す。
手綱が手に食い込んでいるが、走り続けるグラスタをなんとか宥
めて停まらせる。
警戒しながら蹴落とした男の生死を確認するために戻ると、どう
やら最後の蹴りで受け身がとれなかったのか、頭から血を流して絶
命していた。
残りは後ひとり⋮⋮。 ロンダークさん達は上手く逃げられただ
ろうか。
グラスタを走らせながら、小川を見つけて、川辺に降りると喉を
451
潤すために夢中になって顔を水に突っ込んだ。
﹁ぷはぁ、はぁ、はぁ、もうだめだ﹂ 冷や汗が止めどなく流れているような気がする、応急処置はした
ものの血を流し過ぎたのか目の前が真っ白になるほどの目眩に身体
に力が入らない。
上手く考えすら纏まらないし、目も空かない⋮⋮私、死ぬのかな?
暗転した意識を取り戻したのは、見知らぬ馬車の中だった。 452
アンジェリカ
目が覚めると見知らぬ馬車の中にいた。
ガタゴトと揺れる馬車の天幕を見上げて回りに視線を走らせた。
屋根に布を張った幌馬車の荷台に寝かせられていたようで、身体
を起こすとポトリと濡れた布が額から荷台に落ちた。
﹁痛っ∼﹂
起き上がった拍子に脇腹に走った痛みに腹部を押さえて見れば、
清潔な布を使った包帯が幾重にも巻き付いている。
よく見れば腕や足にも巻かれているため、どうやら気が付かない
うちに小さな怪我を量産していたらしい。 ﹁あっ、起きた!? 良かったよーもう目を覚まさないんじゃない
かって心配したんだから﹂
幌馬車の出入り口となっている馭者台から顔を出したのは私とあ
まり変わらない年格好の少女だった。
こんがりと健康的に焼け肌にクセの強い茶色の髪の毛を二つの三
つ編みにしている。
顔は可愛らしく、小さな鼻の上にはそばかすが散っている少女は
まるでお日様のように暖かい笑顔をむけてきた。
453
﹁えっと⋮⋮﹂
なにから聞けば良いのか分からずに居れば、馬車を停めて馭者台
から恰幅のいい壮年の男性が顔を出した。
﹁おっ、目が覚めたね。 気分はどうだい?﹂
﹁おかげさまで良くなりました。 あの私は⋮⋮ここはどこですか
?﹂
﹁ん? もしかしてまだ記憶が曖昧なのかな? 君は川縁で倒れて
いた所をアンに拾われたんだよ。 意識が戻るまでずっと看病をし
たのもこいつだ﹂
男性が茶髪の少女の頭を乱暴にグリグリとかき混ぜる。
私はトーマスと言う。 こいつは娘
﹁ちょっと! 父さん、髪の毛がぐちゃぐちゃになるじゃない!﹂
﹁あははっ、すまんすまん。
のアンジェリカだ、私達はあちらこちらの国を巡りながら行商をし
ている﹂
豪快に笑うトーマスさんとアンジェリカさんに頭を下げた。
﹁この度は危ないところを助けていただきありがとうございました。
私の名前はシ⋮⋮レオルです﹂
普通にシオルだと名乗りかけてレイナス王国に帰るまでは本名を
隠した方が良いのではと思い直し、ドラグーン王国とマーシャル皇
454
国の国境を越えるときに使った偽名に直した。 ﹁シレオル?﹂
﹁いえ、レオルです﹂
﹁レオルね。 よろしく! はいこれ飲んで﹂
そう告げると強烈な青臭い臭いを放つ液体を渡してきた。
﹁それ傷にすっごく良く効く薬なの。 ささ、飲んだ飲んだ﹂
いや、飲めと言われてもこれは飲むのに勇気がいるよ!?
﹁確かに味は壊滅的だが、効き目は折り紙つきだ、諦めて飲め﹂
トーマスさんとアンジェリカさんに進められて、私は薬湯がなみ
なみと入ったコップを前に生唾を飲み込んだ。
﹁あっ、ありがとうございます﹂
覚悟を決めて目をつむり一息に口内に流し込む。
薬草を磨り潰したことで、粘度を増した薬湯が口腔内を暴れまわ
る。
えずきながらもなんとか飲み下すと、肩を震わせたアンジェリカ
が顔を背けながら器を渡してくる。
﹁いやぁ、まさか本当にあの薬を飲み干すとは恐れ入った。 俺に
455
は出来ない﹂
﹁はい!? 飲めって言いましたよね﹂
﹁飲めとは言ったぞ、飲めるとは言ってないがな﹂
ガハハハッと豪快に笑うトーマスさん、くそぅ謀られた。
そんな私の様子を見終えて、トーマスさんは馭者台に戻り、二頭
の馬の手綱を握ると、ゆっくりと馬車が動き出した。
小石を踏んだり、地面の穴に落ちたりした車輪は衝撃を吸収する
ことがなく、ダイレクトに悪路の振動を身体に伝えてくる。
﹁はい、口直しよ。 果実を砂糖で煮付けたものなんだけど﹂
砂糖漬け!?
アンジェリカさんの手から器をひったくり口に含めば甘味が口内
を急速に癒していく。
﹁う∼、薬湯を飲んでない状態で堪能したかった⋮⋮﹂
﹁すっごくわかるわその気持ち!﹂
ガバッ! と私に詰め寄るアンジェリカを見てトーマスさんがに
やついている。
﹁アン、いくらレオルが色男だってな近すぎだ﹂
456
馭者台にもどり、馬車を動かしながら
﹁へっ!? わっ、ごっ、ごめんなさい﹂
慌てて離れたアンジェリカが顔を真っ赤にして両手で顔を扇いで
いる。
なんだろう、可愛い⋮⋮。
そういえば前世では恋愛対象は男性だったけど、男に転生した今
の私はやはり女性と恋愛をすることになるの⋮⋮かな?
私はレイナス王国の王太子だ。 いずれは王妃となる女性と婚姻
結び、レイナス王国を次代に繋いでいく事になるんだよね。
生まれ変わってからというもの、男性だとか女性だとかあまり気
にならなくなっている気がする。
異性だろうが同性だろうが可愛い人は可愛いし、カッコいい人は
どちらだってカッコいいんだ。
好きな人は好きだし、嫌いな奴はどこまでいっても嫌いだ。
⋮⋮人を好きになるのに性別は関係ないのか?
急に黙り込んだ私の様子に不審に思ったのか、アンジェリカが私
の顔を覗き込む。
﹁大丈夫? 夕方には王都に着くからそれまで寝てたら﹂
457
そっか、王都に着くのか⋮⋮、王都!?
﹁王都ってマーシャル皇国の王都ですか?﹂
﹁うん、そうだよ! 早く治して一緒にカイル皇子の誕生を祝うお
祭りに行こうね? ついでに店番も手伝ってくれると嬉しいな﹂
元気いっぱいのアンジェリカが話してくれる行商の旅の話はとて
も面白く、現地で見たもの聞いたことなど、とても参考になった。
時間を忘れながら揺ったりと馬車に横になったまま時々馬車が石
に乗り上げ振動で地味にダメージを受けていると、それまで鼻唄を
歌いながら上機嫌に運転をしていたトーマスさんが馬車の中に声を
かけてきた。
﹁そら王都が見えたぞ!﹂
腹部を庇いながら見た馬車の遠方にはドラグーンの王都ほどでは
無いものの、高い城壁に囲まれた巨大な都市が見えた。 458
ギルドカード作りました
マーシャル皇国はレイナス王国の南に位置し、国境には自然豊か
な山々が連なっている。
マーシャル皇国の皇帝ロジャースにはロマーナと言う正妃がいて
今年二人の間に男児を授かった。
マーシャル皇国と国境を接する隣国のケンテル共和国を実質動か
している権力者からロジャース皇帝の元へ輿入れされたロマーナ王
妃との間柄は良好で政略結婚ではあるものの仲が良いと有名だ。
ケンテル共和国には、レイナス王国のような君主は居らず、国内
の有力者が話し合い国を動かしているらしく、まぁ前世で言うとこ
ろのアメリカ合衆国みたいな国らしい。
眼前に広がる見上げるほど高い城壁はマーシャル皇国の王都をぐ
るりと囲むように出来ていて、東西南北に四つの門があり、常に王
都への出入りを確認している。
入門を待つ長い列には、トーマスさんと似たような幌馬車が多数
いるため、その多くが王子様誕生に沸く王都で商売をするためにや
って来た行商の商人達だろう。
自分達の順番が近付くにつれて、私は不安になっていた。
襲撃前に持っていた荷物のほとんどを愛馬のグラスタの鞍にくく
りつけていたため、手元にあるのは襲撃の際に着ていたボロボロの
459
衣類と、近くに落ちていたのをアンジェリカが拾ってくれたらしい
短剣のみ、一緒にいたはずのピンクの愛竜サクラも見当たらない。
グラスタは賢い牝馬だからきっとロンダークさんに合流してくれ
ているかもしれない、サクラは⋮⋮心配しても今の私では捜しに行
くことも出来ないしな。
王都のドラグーン側に面した東門でトーマスさんが身分証となる
金属版を門番に見せると、簡単な荷物検分を行われすんなりと入都
を許可された。
成人前の子供に関しては保護者の身分証がしっかりと確認できれ
ば比較的ゆるい検問で通してくれるらしい。
また王都では現在王子様の誕生を祝う祭りで多くの人が激しく出
入りしており連日連夜人が途切れることなく賑わっている。
もしかしたら私や妹のキャロラインが産まれた時も城下はこんな
感じで賑わいをみせていたのだろうか。
門を潜り抜けると、目の前には色とりどりの屋根の住宅街が見え
る。
人の流れに沿ってトーマスさんが馬車を移動させると、人出が
一気に増えた。
トーマスさんが言うにはマーシャル皇国の大通りは式典やパレー
ド等が行われることがあり、王城の正門まで続いているため、有事
の際に攻め込まれ難くする目的でわざと螺旋を書きながら造られて
いるらしい。
460
しかも民家と民家の間は馬車や戦の時に使用される戦馬車が通れ
ない位の広さしかないため、単騎や歩兵ならすり抜けてしまうが、
大きな戦馬車は大通りを進むしかない。
しかも大通りに出るためには二台の戦馬車が通ることが出来る幅
がある道まで王都の外壁沿いに進むしかない。
ある意味攻めるに大変は面倒な構造の都市だろう。
王都で商売をするためにトーマスさんが向かったギルド会館はな
んと王城がよく見える場所にあった。
日射しを受けて白く輝く城がとても美しい、
これがマーシャル皇国の城かぁ。
様式とかはわからないが、やはりレイナス王国の城ともドラグー
ン帝国の城とも作りが違う。
初めて訪れたギルド会館は二階建ての立派な建物だった。
商売を営むにはその都市のギルド会館で商売をするための場所を
購入しなければならない。
店舗を持って営業している店は毎月商人としてのランクに応じて
売り上げの何割かをギルド会館に納め、ギルド会館が更に何割かを
差し引いた金額を税として国へ納めるのだそうだ。
ただ、トーマスさんのように行商の商人はギルド会館で用意して
いる行商ように区切られた露店区画を期間限定で借り受けて商売を
461
することになる。
こちらは売り上げを税金として取ることはしない代わりに、場所
代が少し高めに設定されている。
ギルド会館で購入した場所以外で商売をしていれば発見され次第
粛清の対象となり、ギルドカードの没収やその他の刑罰対象となる
ため、少々お高くてもきちんと場所を購入した方が利口なのだ。
ギルド会館には依頼された仕事を受注し、仕事として請け負う冒
険者ギルドや商業ギルド、工業ギルドと専門的な部署ごとに別れて
おり、必要があればそれぞれに登録する必要があるらしい。
人によってはギルド毎に金属で出来た各ギルドガードを持ってい
るため地味に嵩張る。
なんとか一本化して一枚で管理出来ればギルドカードに使われる
金属を他の用途で使用できるのになぁ。
アンジェリカもトーマスさんの手伝いとして露店で接客をするた
め、商業ギルドの未成年者カードを持っているらしく、自慢げに見
せてくれた。
成人者カードと未成年者カードの違いは自分の店を持てるかどう
か等の責任に関するものが多い。
未成年者カードは自分の店は持てない代わりに、雇われて仕事を
しながら色んな事を学び給金を得る。
税金は雇用主が納めるのだそうだ。
462
各職業ギルド毎に未成年者カードの制限に違いは有るものの、有
用性は高い。
また何よりもギルドカードは身分証代わりに使用できると言うこ
とだ。
今後レイナスに戻るまで色々な場面で身分証は必要になってくる
だろう。
﹁ギルドカードかぁ、いいなぁ﹂
﹁あれ? レオルってギルドカード持って無かったの?﹂ ﹁持ってません﹂
﹁そっかぁ、ちょっと待って、父さ∼ん﹂
そう言うとアンジェリカは露店区画を借り受ける手続きをしてい
るトーマスさんの元に走っていった。
﹁なんだ、レオルはギルドカード持ってなかったのか? アンジェ
リカ、受付に行ってレオルのギルドカード作って貰え﹂
﹁えっ、でも私登録料持ってませんよ?﹂
﹁んなもん、気にしなくて良いぞ? って言っても気にするだろう
から貸してやるからその代金分きっちり露店で稼いでくれれば良い
さ﹂
463
グリグリと頭に手を置かれて乱暴に撫でられる。
﹁あ、ありがとうございます!﹂
﹁良いって事よ﹂
﹁レオル行こう!﹂
トーマスさんに礼を告げると、アンジェリカに手を引かれて受付
まで連れて行かれた。
﹁すいませーん! この子のギルドカードを作りたいんですけど﹂ ﹁はい、新規登録ですね。ではこの書類へ必要な項目を記載いただ
き署名をお願いします。なお、登録料として一人当たり銀貨一枚い
ただきます﹂
受付のおばさんに手渡されたのは極々小さな羊皮紙で氏名、年齢、
出身国を書き込み、必要な質問項目に印をつけるだけのものだった。
これ偽造やり放題じゃないかと思い聞いてみたら、ギルドカード
には発行した職業ギルドと発行日、番号がカードと羊皮紙双方に刻
印されるため、偽造は問い合わせればわかるようだ。
一度使われたナンバーで再発行はされないため、紛失した場合ま
た最低ランクから始めなければならない。
それまでの実績やランクに応じた特典などが一切受けられなくな
ってしまうらしい。
464
特に荒事を受け持つ冒険者ギルドでは、その特典が顕著で優遇度
合いが半端じゃない。
高位ランクのギルドカードは闇で高額で取引されるため、ギルド
カード狩りを専門にする組織もあり実際に襲撃すらあるのだそうだ。
そんな連中から自分のギルドカードを守れるかが何よりの実力証
明となる。
ギルドカードは依頼を達成し、経験や力量によって上からSラン
クが白金、Aランクが金、Bランクが銀・Cランクが銅、D・Eラ
ンクが鉄で作られていて、カードの素材がランクが上がる度に更新
される仕組みになっているらしい。
同様に大商人は国が功績を認めた場合にギルドカードのほかに信
用度を保証するカードが国から授与される。
商売をするものは必ずカードを提示することが義務づけられてい
るため、露店であれなんであれ商売をするものはギルドカードの取
得は必須。
冒険者ギルドは街から街へと行商する商人の護衛や街の外での害
獣駆除の依頼、素材の採取に危険を伴うような物を専門に扱う冒険
者と呼ばれる彼等は、権力に屈せず自らの力量のみで生きている為、
幼い子供の憧れの職業だったりする。
荒事が多いため血の気が多い人や、気難しい方も多い。
そして街の産業を結集して統轄管理しているのが、商業ギルドだ。
465
商業ギルド部署は原材料の生産、加工、販売までの関係者に不満
が出ることの無いように働きかけたり、商人同士の諍いがあれば必
ず調停を行う。
規則も多いが統率がとれているぶん、安心して商売を行うことが
出来るのは大きなアドバンテージだろう。
﹁名前⋮⋮レオル⋮⋮年齢⋮⋮十歳﹂
次々と偽の情報を記載していく。
最悪自分の本名で作り直せばいいのだ。
﹁はい、それでは登録させていただきます。レオル様は未成年者で
すので、色々と制限がございますのでご説明させていただきますね﹂
﹁あっ! 私が教えますから省いてください﹂
﹁えっ、アンジェリカが教えてくれるの?﹂
アンジェリカを見れば力強く頷いた。
﹁バッチリよ、それじゃ受付のお姉さんありがとうございました﹂
﹁ありがとうございました﹂
﹁まぁ、いい子達ね。また何か困ったことがあったらいらっしゃい
ね。 ギルドカードが出来るまで二、三日かかるから、この引換板
を持って三日後に来てちょうだい﹂
466
古今東西、女性はいくつになってもおねぇさんですね、もしくは
お嬢さん⋮⋮。
受付のおばさ⋮⋮おねぇさんから引換板を貰い、受付の席から立
つと既に交渉が終わったらしいトーマスさんと合流した。
トーマスさんは既にギルド会館に併設されている食堂で鶏肉を焼
いた料理を摘まみながら私たちが来るのを待っていたらしく、並々
と注がれた葡萄酒を飲んでいる。
傍らに豊満な肉体を誇る見知らぬ熟女がいるため、声をかけて良
いものか悩みどころだ。
悩んでいる間にアンジェリカもトーマスを発見したようで躊躇い
無く近寄っていくため、後を付いていく。
﹁ただいまぁって、お父さん! また昼間っからお酒飲んでるし!
あっどうも﹂
何でもないように女性に声をかけると軽く会釈している。
﹁まぁ、もしかしてトーマスさんの娘さんかしら大きくなったわね
?﹂
﹁はい、アンジェリカと言います。 すいませんえーっとぉ﹂
﹁うふふっ、マリアよ。 前に何度か会ったことが有るんだけど、
アンジェリカちゃん小さかったから忘れちゃったかしら﹂
﹁すいません、マリアさん﹂
467
﹁おうアンとレオル! ちゃんとギルドカード作ってきたか? 酒
なら大丈夫心配すんな! どうせ露店場所は明日にならないと使用
できないからな。 ほらこの金で二人で祭りを楽しんでこい、ちゃ
んと飯も食えよ。 その代わり明日は気合いをいれて稼いでもらう
からな。 宿は﹃金色の小鳥亭﹄にトーマスの名前で取ってあるか
ら、お前ら先に寝てろよ﹂ ヒラヒラと手を振るトーマスさんの耳は既に真っ赤だ。
しかしこの混雑でよく宿を取れたものだ。 ﹁増額を要求します!﹂
﹁ちっ、ホラよ﹂
トーマスさんは革の財布から更に二枚硬貨をアンジェリカに投げ
渡す。
﹁やったね。マリアさん、父をよろしくお願いします、レオル行こ
う?﹂
ペコリと頭を下げるとマリアさんから視線を反らして、私の手引
き会館の外へ出た。
﹁ねぇ、アンジェリカさん⋮⋮トーマスさんとマリアさんって⋮⋮﹂
﹁どうせ娼婦でしょ⋮⋮。 よくあることよ、それより折角のお祭
りなんだから楽しまなくちゃ損よ﹂
468
どうやら馬車は既に宿に預けているらしい。
荷物の預かりまでしてくれる宿屋に驚いていると、どうやらトー
マスさんのギルドカードの特典らしい。
何色なんだろう。是非とも今度みせてもらわなくちゃ。
469
買い食い
ギルド会館から外に出ると、馬車が行き来する大通りを抜けて、
お祭りが行われている商店街地区へと移動した。
荷馬車が通れない商店街地区には多くの人で溢れ返っていた。 マーシャル皇国の国旗や色とりどりの花が飾られてとても目に楽し
い。
通りに店舗を構えて商売している商人達は、店先に簡易店舗を設
営して熱心な呼び込みを行っていて大変賑やかだ。
しかしこの祭りを堪能したくても、問題はある。
いくら同年代の子供と比べて背が高くても大人と比べれば身長は
低い訳で、この人混みの中に入ってしまえば、大人の男性の胸部位
までしか高さがない私は間違いなく埋もれる自信がある。
しかもアンジェリカはしっかりしているけれど、私より更に小柄
だ。
﹁アンジェリカ﹂
キョロキョロと興奮ぎみに辺りを見回しているアンジェリカに声
を掛けると、私は左手でアンジェリカの右手を掴むと、離れないよ
うにしっかりと繋いだ。
こんな人混みで迷子にはなりたくないし、正直もし離れてしまえ
470
ば、この人混みの中からアンジェリカを見つけ出す自信がない。
﹁えっ、レ、レオル?﹂
挙動不審になってワタワタしているアンジェリカの様子がおかし
くて顔を背けて笑いを堪えていたが、どうやらバレてしまったよう
で背中を叩かれた。
﹁うっ!﹂
傷口に鈍い痛みが走り小さく呻けば、顔を青くしたアンジェリカ
が心配そうに私の顔を覗き込む。
﹁ごっ、ごめんなさい。 そんなに強く叩いたつもり無かったんだ
けど大丈夫!?﹂
出会って間もない私を心配してオロオロしてくれるアンジェリカ
に助けられて本当に良かったと思う。
﹁なんてね、さぁ行こう!﹂
アンジェリカの手を引いて簡易店舗をゆっくりと見て回りながら、
見慣れない模様が編み込まれた布や、衣類、雑貨屋さん等を回って
いく。
トーマスさんからアンジェリカが徴収した軍資金で一口大に切ら
れた肉が五つ串に刺さった物を2つ買い、二人でかぶり付く。
なんの肉が使われているかは不明だが、噛む度に肉汁が染み出し
てとても美味しい。
471
油が多く思ったよりお腹に貯まる為、アンジェリカが三つで食べ
るのをやめてしまった。
﹁レ、レオル、あの⋮⋮これ食べる? 嫌じゃなければだけど﹂
﹁うん、ありがとう。 遠慮なくいただくよ﹂
おずおずと差し出された串に躊躇いなくそのままかぶり付き肉を
抜くと、アンジェリカが驚いた顔をしている。
﹁ん? どうかした?﹂
しっかりと咀嚼し飲み込む。
﹁な⋮⋮なんでもないよ?⋮⋮はい﹂
残った肉も差し出されたので遠慮なくいただく。
﹁んー、美味しかったありがとう﹂
﹁⋮⋮わ、ワイルド⋮⋮﹂
ボソリと呟かれた言葉を聞き逃してしまったのてもう一度言って
もらおうと促せば、両手をからだの前で左右に振っている。
﹁なっ何でもないわよ。 さ、さぁお腹も膨れたしそろそろ露店の
方に行きましょう!﹂
472
﹁それもそうだね﹂
ひょいっと立ち上がり、まだ座ったままのアンジェリカに左手を
差し出せば、おずおずと小さな手が乗せられる。
ぐいっと引き上げれば少しの力で小さな身体が私の胸元へ飛び込
んできた。
咄嗟に右手を腰に添えて抱き止めれば顔を真っ赤にしたアンジェ
リカが上目遣いに見上げてきて、心臓がドキっと高鳴った。
﹁ご、ごめん強すぎたね﹂
右手の拘束を弛めればアンジェリカがスルリと腕の中から出てし
まう。
﹁う、ううん。 気にしないで、さっ、さぁ行きましょう﹂
照れているのか先に歩き出したアンジェリカの手は、しっかりと
私の左手を掴んでいて、私はぎゅっと力を入れてアンジェリカの手
を握り直した。
﹁そうだね。 行こう﹂
二人で手を繋ぎ、歩きにくそうなアンジェリカを後ろに隠すよう
にして人混みにを抜け、露店が集まる通りへと向かった。
473
貼り付いてきたのは⋮⋮
露店商が集まる通りは、道幅が狭いため馬車が通れず、路肩には何
台もの荷車が並んでいる。
荷車の荷台に在庫商品を入れたまま、蓋をするように木版が渡さ
れていて、その上に商品がところ狭しと並べられていて見ていて楽
しい。
アンジェリカは、はしゃぎながら私の手を引いて露店を覗いては
他国から持ち込まれてくる珍しい品々に釘付けになっていた。
温かそうな北国の毛織物や南のサン王国の物らしい刺繍が施され
た雑貨品、内陸では中々手に入らない魚の干物、小さな色石が連な
った髪飾りなど種類は多種多様で目に楽しい。
﹁くぉらー! 商品を返しやがれー!﹂
﹁誰かその生き物を捕まえてくれ!﹂
ふと前方でなにかあったのか、騒ぎながらこちらに向かって近づ
いてくる。
﹁何かしら?﹂
﹁うーん、なんだろう。 とりあえず端に避けよう﹂
アンジェリカの背中に手を回して露店と露店の僅かな隙間に入り
474
騒ぎの元となっている何かが通り過ぎるのを待った。
商人らしき人物が追いかけているモノ、見覚えのあるピンク色を
した羽根の生えたトカゲが素晴らしい速度で私の目前を通りすぎて
行く。
﹁サクラ! ってうわ!?﹂
﹁きゅいー!﹂
私が名前を呼んで通りに飛び出せば、蝙蝠の羽根のように薄い皮
膜を広げ、方向を変えると嬉しそうに私の顔面へ飛来し、べったり
貼り付いた。
﹁レオル大丈夫!? なんなのこの変な生き物⋮⋮ちょっとレオル
からはーなーれーなーさい﹂
﹁きゅういー!﹂
アンジェリカはサクラを私から離そうと、グイグイ尻尾を引っ張
っている。
﹁こんな所に居やがったかこの薄気味悪いトカゲめ!﹂
﹁きゅい!?﹂
﹁うわ!? サクラやめっ!﹂
やって来た男を確認したサクラは男の視線から隠れようと私の顔
から離れ、後頭部に回ると首筋をたどり私の服と背中の間に潜り込
475
んだ。
﹁あん? 坊主が飼い主か?﹂
不機嫌そうな声の主に凄まれて、竦み上がりそうになる。
ガッチリとした肩幅と褐色の肌を盛り上げる筋骨粒々の大きな男
だ、年の頃は父様よりも歳を重ねているかもしれない。
光を散りばめたような金色の髪は短く立ち上がり、軍人と言われ
れば納得いくけれどとても商人には見えない。
纏っている衣服の形や刺繍から彼はヒス王国の行商人だろうか。
私が会ったことがある一番厳つかったマーシャル皇国の﹃迷える
闘神﹄の二つ名をもつ皇国黒近衛隊大将ジェリコ・ザイス殿と良い
勝負だ。
確かにサクラをこの国に連れてきたのは私なので、この子が何か
問題を起こせば連れてきた私の責任だ。
﹁はい、そうです。 旅の途中ではぐれてしまいずっと捜していま
した。 どうやらこの子も私を捜してさまよっていたようです。 この子が何かご迷惑をかけてしまったようで申し訳ありません﹂
深々と頭を下げると、なんの返答もない。
あれ? おかしいな⋮⋮そろそろと顔をあげて男の顔を見てあん
ぐりと口を開けそうになった。
476
ボロボロと大粒の涙を流しながら泣く壮年の男に呆気にとられた。
﹁ううぅー、俺はこう言う感動的な話は弱いんだよ。 長い間お互
いを捜しあった主従⋮⋮感動だ! 兄ちゃん!﹂
﹁はっ、はいぃ!﹂
ガシッと大きく硬い手が私の両手を掴むとブンブンと大きく上下
にふる。
﹁その義理堅い変な生き物に腹一杯食わせてやんな! 久しぶりに
良い話を聞かせてもらった!﹂
私の手を解放し、バシバシと叩かれた背中が痛む。
﹁あっ、ありがとうございます⋮⋮﹂
苦笑いを浮かべて礼を述べると、満足げに頷いて来た道を帰って
いった。
﹁怖かったね∼﹂
﹁うん⋮⋮﹂
深い安堵のため息をはくアンジェリカの言葉に、曖昧に頷きなが
ら私は先程まで男に握られていた自分のまだ柔らかい手を数度握っ
たり開いたりを繰り返す。
あれは一介の行商人がなる手のひらではない。
477
タコ
⋮⋮それは長い年月を剣と共に生き
まだ二回目の人生を十年しか生きていないけれど、私には馴染み
がある堅さと、特有の
てきたものの証だった。
478
色街
再会出来たピンク色のドラゴンを肩に乗せて、アンジェリカの手
を引いて人混みを避けるように狭い路地を進む。
通りと通りを繋ぐ路地にも祭りに浮き足立った人々が一定数居る
ようで、中には既に酒に酔い通路に面した建物に背中を預けて寝入
っている人もちらほらいるようだった。
路地を抜けた先は、ここまで見てきた通りとは全くの別世界だっ
た。
建物の外観からしてこれまでの作りと一線を画している。
白い煉瓦を積んだ建物が立ち並び、美しい彫刻が施された柱やバ
ルコニーにはめ込まれた真鍮製らしい手すりは美しい細工が施され、
緑青が進み美しく白い壁を彩っている。
花で飾られた通りはとても幻想的だ。
﹁綺麗⋮⋮﹂
﹁うん﹂
思わず二人で見惚れていると、それまで通りを歩いていた通行人
達が次々と道りの中央部を空け始めた。 周りの人々は色めき立ち、まだかまだかと空けた中央部を覗いて
479
いる。
﹁何か始まるんですか?﹂
隣に立っている壮年の男性に声をかけると、どうやらここは娼館
が集まる色街と呼ばれる区画らしい。
そして色街の娼婦にも色々と階級があり、高級娼婦となれば一晩
で大金を稼ぎ出すそうだ。
今日は高級娼婦の中で、最も高い娼婦が呼ばれている高位貴族の
屋敷へ渡る為、馬車が停まっている通りまで色街を練り歩くらしい。
しばらくして護衛らしい男達に守られながら美しいドレスを纏っ
た美女がゆっくりと私達の前を通り過ぎていく。
引きずるほど裾が長いドレスが汚れないように持ったお付きらし
い少女が三人、美女の後ろを付き従っている。
いずれも成長すれば美しく咲き誇るだろう美少女だった。
歳は私とあまり変わりないかもしれない。
﹁ほら、もう行きましょう!﹂
﹁えっ、あっはい﹂
私の腕に自分の腕を絡ませたアンジェリカが早足で露店商が集ま
る通りまで一気に路地を走り抜けた。
480
﹁⋮⋮あのお付きね娘達はね、貧困や天災なんかで親に売られたり、
莫大な借金返済の為に色街で働いているの⋮⋮﹂
ポツポツと話してくれた内容によれば、彼女たちは幼い頃に娼館
に引き取られ、特に器量がいい少女は、高級娼婦のお世話をしなが
ら様々な礼儀作法や社交を仕込まれるらしい。 そして子供が作れる身体になれば高級娼婦として引き取られた娼
館で仕事をするらしい。
﹁色街に子供は近づいちゃ駄目なんだって、人さらいに捕まれば娼
館に売られてしまう事だってあるし、このマーシャル皇国では禁止
されているからいないけど、隣のレイス王国の南にあるギザニア王
国では奴隷売買が当たり前に行われて居るんだよ﹂
双太陽神教の大司教で、幼児が大好きなアンナローズ様の言葉を
思い出した。
塩害と干魃で争いが耐えない国の名前がギザニア王国だと知った
のは随分と後になってからだったけど、奴隷売買まで⋮⋮。
﹁まぁ、あのお付きの娘達はまだマシね、とくにあの娼婦⋮⋮ダリ
ア様のお付きの娘達の中でミスティルって最近入った娘がいるらし
いんだけど、彼女は既に何人もの有力者が目をつけているらしいわ﹂
﹁⋮⋮詳しいんだね﹂
﹁もちろんよ、情報は金なり。 商人たるもの商気を逃さないため
にもどんな情報だって無駄には出来ないんだから﹂
481
偉そうに胸を反らせるアンジェリカの様子が可愛くてクスリと笑
ってしまった。
奴隷⋮⋮そんな身分があたり前に存在する世界に生まれ変わった
私。
幸いレイナス王国には犯罪を犯した罪人が犯罪奴隷として鉱山等
の過酷な場所で仕事をしているが、その他に奴隷は居ない。
奴隷制度はもう何十年も前に廃止している。
﹁さて、そろそろ暗くなってきたし、子供は危ない時間になるから
宿に戻りましょ?﹂
﹁そうだね﹂
夕焼けに染まる空を見上げながらアンジェリカと手を繋いで宿へ
と戻った。
482
色街︵後書き︶
﹃拾った迷子は皇太子﹄の王妃様の過去が出せた!
483
アンジェリカはサクラと友達になりたいのです。
翌日、露店の手伝いが楽しみすぎて早く目が覚めた私はゆっくり
と身体を起こすと、両腕を天井へと伸ばすようにして寝ている間に
凝り固まってしまったらしい身体をほぐした。
今日は露店を出す予定なので、指定された場所まで荷物を運び、
借りることが出来た一画を掃除したり、売り物となる商品を並べた
りと、仕事は盛り沢山だ。
まだ太陽が登り始めたばかりなのか、窓の外は薄暗い。
ふと視線の先が盛り上がっているように感じて、目を凝らせば段
々と暗さに慣れてきた目が、小山の正体を映し出した。
グガァーグゴォーと大きないびきをかきながら寝ているクマ⋮⋮
もといトーマスさんだ。
しかし一体いつの間に帰ってきたのか一体いつ帰ってきたのか⋮
⋮ベッドまでたどり着けずに酔いつぶれたらしいトーマスさんが大
の字になって眠っている。
﹁レオルおはよぅ∼﹂
どうやら目が冷めたらしいアンジェリカは眠気の残る目を手の甲
で擦り付けると舌足らずな発音で挨拶を告げてくれた。
その姿がまるで子猫が前足で顔を洗っているように見えて可愛い。
484
﹁おはよう、トーマスさんベッドまでたどり着けなかったんだね﹂
アンジェリカに木板を敷き詰めた床で潰れているトーマスさんを
示す。
﹁はぁ、もう! お父さんったらお酒臭い!⋮⋮ほら邪魔よ、じゃ
∼ま!﹂
薄手のストールを肩から羽織ったアンジェリカは容赦なく床で寝
ているトーマスさんの腹部を踏みつけて、部屋の外へ出ていった。
ぐえっと蛙みたいな声を出したトーマスさんを踏まないように部
屋を出ると、アンジェリカと一緒に顔を洗うため、宿の水場として
宿泊者が使用できる裏手の井戸にやって来た。
井戸は既に他の宿泊者が集まっております、そこかしこで朝の挨
拶を告げている。
子供二人と言う事で先に来ていた大人の宿泊者が井戸から直接縄
を引き上げて、私達の洗顔用の木桶に水を組んでくれた。
キンキンに冷えた井戸水で顔を洗えば、かすかに残っていた眠気
が、顔から滴る冷水と共に抜けていく。
宿の食堂では事前に頼んでおけばかんたんな朝食を準備してくれ
るらしい。
485
アンジェリカは慣れた様子で受付に立ち寄ると、宿屋の従業員が
暖かな湯気の立つトマト味のスープと焼き立てらしい温かなパンを
受け取っている。
アンジェリカにパンを持ってもらうように頼み、スープが入った
木製の器が三つ載せられたお盆を受け取った。
﹁おっ、小さいのに偉いなぁ! こいつはおまけだ!﹂
﹁わぁ! ありがとうございます! オランジュ好きなんです﹂
そう言ってオランジュの実を二つくれた。
そっかぁアンジェリカ、オランジュ好きなんだ。 まぁ私から見
るとオレンジにしか見えないんだけど国によって微妙に名前が違う
らしい。
南の国ではいちごをイーチェとよぶらしい。
いちごで良いじゃん面倒くさい! 部屋に持ち帰り起きてきたサクラがテーブルの上のオランジュの
周りをぐるぐるとまわっているため、実のヘタがなく少し凹んだ所
から皮を剥いて一房分を差し出した。
しきりに匂いを確認したあとパクリと咥える。
﹁キュイ!﹂
﹁もっと欲しいの? はいどうぞ﹂
486
どうやらオランジュの実が気に入ったらしく私が皮を剥くよりも
サクラ口の中に消えるほうが早い。 すると、私の横から剥かれたオランジュがサクラの前に差し出さ
れた。
﹁あれ、良いの? オランジュ好きだって⋮⋮﹂
﹁良いの良いの! サクラ、オランジュ好きみたいだし﹂
私のオランジュが無くなると、サクラはゆっくりと身体をアンジ
ェリカの方に寄せていく。
﹁サクラ、触ったら噛まないかしら?﹂
﹁大丈夫だと思うけど、急に触れば驚くだろうから、そうだなぁ⋮
⋮﹂
アンジェリカのオランジュを彼女の掌に載せてサクラの前に置い
てみた。
サクラは一瞬躊躇ったものの、オランジュの誘惑に勝てないよう
で、そろそろとアンジェリカの手に自分の身体を乗せると、短い両
手を折り曲げて短めの尻尾を揺らしながらオランジュを咥えた。
その様子が可愛いかったのか、アンジェリカが身悶えている。
﹁あっ⋮⋮﹂
487
サクラはよっぽどオランジュが気に入ったのか、アンジェリカの
手のひらに付いた果汁をペロペロと舐めだした。
﹁ふっ⋮⋮くっ、くすぐったい﹂
動きたいけどサクラが両手に乗っているため動けないでいる。
﹁ほらサクラおいで﹂
ヒョイっとピンク色の身体を持ち上げると、ホッとしたような残
念がっているような複雑な顔をしたアンジェリカがテーブルに顔を
伏せている。
﹁もっとサクラと遊びたい⋮⋮﹂
﹁キュイ!﹂
サクラの声は一声鳴くと、ツンとアンジェリカから顔を背けて私
の肩の上に収まった。
﹁はぁ⋮⋮私昔から動物とか大好きなのに、嫌われちゃうんだよね
⋮⋮なんでだろ﹂
羨ましいと上目遣いに見上げるのも可愛く見えるから重症だな。
﹁サクラはいくら食べ物で釣っても気に食わない人に近付かないし、
ましてや嫌いな人の手を舐めたりしないと思うよ?﹂
﹁本当!?﹂
488
勢い良く立ち上がったアンジェリカに驚いたサクラが私の衿から
服の中へ逃げ込んでしまった。 ﹁えっ、わっ! サクラごめんなさい﹂
アンジェリカ⋮⋮落ち着こうよ。
489
忘年会の⋮⋮
やっと起き出したトーマスさんにアンジェリカが喝を入れ、割り
当てられた露天スペースへやって来れば、まだ早朝にも関わらず沢
山の同業者が開店の準備を始めているようだ。
﹁さぁ稼ぐわよ!﹂
﹁そうだね。 沢山売れると良いね﹂
両手を握りしめて気合十分のアンジェリカに相槌をうちながら、
売り物の雑貨や布地を並べていく。
一通り並べながらもが、トーマスさんの顔色は優れない。
﹁今年はちと厳しいなぁ﹂
﹁どうしましたトーマスさん?﹂
﹁周りを見てみろ、似たような商品を売る露店商が見事に固まっち
まってる。 こうなるとな、どうしても客は目移りしちまうんだよ﹂
頭をガリガリと掻きながらぼやくトーマスさんの言う通り、あた
りを見渡せば雑貨や布地を売る露店が多い。
トーマスさんの心配は店を開けてからさして時間が立たないうち
から見事に的中してしまった。
490
﹁スープ用の良い皿はあるかい?﹂
﹁いらっしゃいませ、こちらの木製の皿はいかがですか﹂
トーマスさんの目利きは確かで、取り扱っている物は私の目から
見ても品質が良いものだとわかる。
お客さんがきて対応して見ても、店の品物を眺めるだけで中々購
入には至らなかった。
﹁あー、やっぱりこうなるか﹂
﹁売れないね﹂
三人でため息を吐きながら手元の木製の皿をひっくり返した。
﹁トーマスさん、この皿って他にもありますか?﹂
﹁あぁあるぞ、その皿がどうかしたのか?﹂
高台の畳付をなぞり、製法なのか僅かに中心に向かって高台内が
傾斜している器、トーマスさんの差し出した器も同じように円錐状
に高台内がくぼんでいるようだった。
﹁トーマスさん、すいません箸⋮⋮真っ直ぐな木の棒ありませんか
?﹂
﹁木の棒⋮⋮これなんかどうだ?﹂
渡された棒は太さが親指と人差し指をくつけた位の太さがある材
491
木だった。
﹁えーと、ちょっと太いですね⋮⋮これくらいの長さで太さがこれ
くらい⋮⋮﹂
﹁これなんてどう?﹂
身振り手振りで伝えているとアンジェリカが菜箸のような長さと
太さの棒を持ってきてくれた。
﹁これ、加工したらまずいかな﹂
アンジェリカから棒を受取りマジマジと確認する。
﹁何に使うつもりか知らないけど、好きにして良いわよ﹂
﹁やった! もう一本あったりしない?﹂
﹁あるわよ、ほら﹂
二本目の棒を受け取ってお許しが出たので小振りのナイフで手早
く棒の先端を円錐状に削り出していく。
﹁よし、出来た﹂
出来上がった棒を不思議そうに見つめるアンジェリカにちょっと
見ててねと告げて露天の外通路へトーマスさんから預かった皿と出
来上がったばかりの棒を持ち、店の前にでた。
はっきり言って前世では冬の忘年会で当時の同僚と散々練習した
492
けれど、シオルの身体になってからはやったことがないから上手く
できるか分からない。
店の前を行き過ぎる人々を見ながら、深く大きく深呼吸を繰り返
す。
﹁よってらっしゃいみてらっしゃい!﹂
声を張り上げた私に、なんだなんだと視線が集まる。
女は度胸! ⋮⋮女じゃないけど、とにかく度胸!
﹁これより大道芸を始めるよ!﹂ 493
完売御礼!︵前書き︶
この度無事にシオルの曾孫が主人公の﹁美しい生き物は受け付けま
せん!﹂が完結いたしましたので、こちらの連載を再開したいと思
います。
よろしくお願い致します。
494
完売御礼!
わらわらと集まりだしたお客さんに緊張しているのを悟られない
ように深く息を吸い込み、ニッコリと笑顔を向ける。
﹁さてここに私の手にありますこのお皿! 歪みがなく美しい曲線
でしょう?﹂
私は手に持った皿を集まったお客さんに見えやすいように持ち上
げる。
﹁なんだ、ただの売り込みか﹂
前列のお客さんの一部が帰っていく姿に内心冷や汗を流しつつ、
平静を装いながら続ける。
﹁さてさてここに取り出すのはなんの変哲もないただの棒です、良
いですか? よっ!﹂
右手に持った棒の尖らせた先を皿の高台の畳付、フチに引っ掛け
た。
お皿にひっかけた棒を、下からみて時計回りに少し勢いをつけて
フチから棒が外れないように回していく。
棒の先を回すイメージで手首の力を抜き、菜箸で卵をとくように、
お皿のフチに沿って棒の先でシャカシャカと高台内に円を描く。
495
回転がついたのを確認して棒を止めると、斜めになった高台中心
のへこんだ部分に自然と棒がはまり安定して回りだした。
よし、成功!
﹁おー! あんな細い棒の上で皿が回ってる!﹂
自分たちの方に皿が飛んでくるのではと不安そうに見守っていた
お客さんたちから拍手と歓声が上がる。
﹁うちのお皿は良く回るでしょう。 職人が一枚一枚丁寧に作り上
げた美しい曲線を描いたお皿は良く回るんです﹂
回したままの皿を落とさないように注意しながら、もう一本用意
してあった棒にも皿を引っ掛けて手際よく回す。
﹁わぁ! ふたつに増えた!﹂
いつの間にか大人たちの前には私よりも小さな子供達が集まりだ
した。
小さな歓声をあげる子供達の視線に、回転に勢いがついた皿を上
空に跳ね上げた。
回転して宙に浮く皿を見た子供達はワッと歓声をあげると落ちる
落ちると騒ぎ出した。 落ちてきた皿の底を棒でかすめ、受け止めると再度勢いをつけ直
した。
496
もう片方も投げ上げて受け止めると大きな歓声が上がり、それを
聞いたお客さんが店の前に増えていく。
今度は回転したままの棒を手のひらに乗せて重心を取りながら、
今にも落としそうな感じでフラフラ歩く。
側によればキャイキャイと盛り上がって子供達が近くで見ていた
重心を取るのにコツはいるけど、この技は見た目に比べ全く難
らしい親元へ逃げていくと、その手を引っ張って連れてきた。
しくない。
さて問題は次だ、フラフラして見せながら足元を確保した私は自
分の上に何もないのを確認して、回転に勢いを付けてそのまま真上
に民家の屋根を超すくらいの高さに投げ上げ、また棒でキャッチす
る。
わあっ! っと上がった歓声と囃し立てる口笛と拍手に今度はタ
イミングをズラして両手の皿を投げ上げて今度はキャッチしたタイ
ミングでほんの少し投げ上げて皿を二枚とも手で受ける。
﹁さぁみなさんも一緒にお皿を回して見ませんか?﹂
一礼すれば、母親からお金をせしめた子供達が詰めかけてきた。
ついでに覗いていく母親達が布を手にしていたので﹁やっぱり美
しい方はどんな布でもお似合いですね﹂と営業をかければ飛ぶよう
に売れていった。
お酒が入って真っ赤になっている酔っぱらいのおっちゃん達も奥
497
さんや恋人、娘さん、子供さんにお土産として商品を買ってくれた
ので、無事に完売することができた。
その後子供達に請われるままに、回し方を教えたり、宿に併設さ
れた酒場で売上にホクホク顔の酒に呑まれたトーマスさんに絡まれ
ながら過ぎていった。
498
再会と再教育宣言!?
翌朝、トイレに行きたくなりまだ寝ているアンジェリカを起こさ
ないようにベッドから抜け出す。
また床に転がって大きなイビキをかきながら大の字に寝ているト
ーマスさんを乗り越え宿屋の通路と部屋を仕切っている扉の下に二
つ折りで挟めて有った羊皮紙を発見した。
﹁ん? なんだろう⋮⋮﹂
ゆっくりと持ち上げて開けば、まだイビキ以外は静かな部屋かさ
りと羊皮紙の乾いた音が響く。
さっと中身を確認した私は、素早く服を着替えて、ブーツを履く
と、なるべく音を立てないように気を付けて部屋を抜け出す。
人肌が離れて起きたサクラがパタパタと羽をバタつかせこちらへ
飛んできたのでいつも通り肩へと乗せた。
まだ日が昇り始めた空は薄暗く少しずつ朝焼けが空を染めていく。
羊皮紙に指定された場所までやってくると人影がこちらへと歩い
てくる。
﹁お捜ししておりました、よくご無事で﹂
﹁うん、私もまたロンダークさんに会えて嬉しいよ﹂
499
服はボロボロだけど、ロンダークさんの元気そうな姿に笑みが溢
れる。
﹁私もです﹂
﹁しかしこの祭りでよく私を見つけられたね﹂
ただでさえ人であふれる王都、しかも祭りの間は商人たちも、そ
れを買うために王都へ出て来た人でごった返している。
はじめにロンダークさんと落ち合う約束をしていた街とは違う王
都で人ひとりみつけだすのは大変だったと思う。
﹁えぇ、シオル様のグラスタが王都へ案内してくれましたよ﹂
﹁えっ!? グラスタどこ!?﹂
先の戦闘で離れ離れになってしまった愛馬の名前に食いつく。
﹁すぐに会えますよ。 それよりも⋮⋮﹂
﹁へ? って痛でぇー!﹂
怪我をしている脇腹を的確に見抜き筋張った大きな手でグワシッ
と鷲掴まれて持ち上げられ悲鳴を上げた。
﹁やっぱりお怪我を﹂
500
﹁痛いっロンダークさん痛いって!﹂
﹁えぇ、ここに居ていいですよ﹂ ﹁違うわぁー!﹂
ジタバタしていると、首筋にポタリと水滴が落ちてきた。
﹁ロンダークさん?﹂
﹁私が付いていながら殿下にこのようなお怪我させてしまい申し訳
ありませんでした﹂
まるで私が生きているのを全身で確かめようとするように抱きし
められる。
﹁うん心配かけたね﹂
声を殺して泣いているロンダークさんの背中を撫でる。
﹁もう二度とこのようなお怪我はさせません﹂
﹁うん﹂
﹁レイナス王城に戻りましたらこのロンダーク、シオル様がどんな
敵と相対しても怪我などされぬほど鍛え直させていただきます﹂
顔を上げたロンダークの顔に涙はなく、真っ黒い良い笑顔を浮か
べていた。
501
502
どうやら平和ボケ
ロッ、ロンダークさんそれ何か違うような気がします。
いやね、守ってくださいとか言わないけどさ、いきなり再教育宣
言とか酷くないですか?
﹁ロンダークさん、それよりもミリアーナ様は?﹂
話の矛先を変えられないかなぁと話を振ってみる。 その間も私
達の足は私が泊まっている宿へ向けて進んでいく。
﹁ミリアーナ様は無事にレイナス王国へ入られました。 今はハス
ティウス公爵家のゼスト様が王都へ護衛として同行されております﹂
ゼスト様⋮⋮たしかレイナス王国のハスティウス公爵家の三男だ
ったとおもう。
﹁ハスティウス公爵家の領地はゼス帝国側じゃなかったっけ?﹂
﹁はい、その通りです。 シオル様と別れてから強行軍でラウンド
山脈越えを敢行しレイナス王国へ入り連絡をとりました﹂
ゼスト様⋮⋮一応あっちは王家より格下となる公爵家だからゼス
ト殿かな?
尊称って使い分け面倒だよな、はっきり言って前世で様や殿なん
て尊称を使うのはお客様をお呼びする時か書類の宛名くらい。
503
なんにしてもミリアーナ叔母様がレイナス王国へ戻られたならひ
とまず安心かな?
﹁で、ロンダークさんはミリアーナ様をゼスト殿にあずけて飛んで
きたと﹂
﹁えぇ、ミリアーナ様はゼスト殿に任せれば大丈夫ですが、シオル
様はアルトバール陛下に似てほしくない所ばかり性質が似ておられ
ますからね。 目が離せません﹂
⋮⋮うん、ロンダークさんは父様に苦労させられて来たんだね、
お疲れ様。
﹁アハハ、それですぐに国へ戻るの?﹂
迎えが来たならば早々にレイナス王国へ戻らなければならないだ
ろう。
その事実に思い浮かんだのはアンジェリカの屈託ない笑顔だった。
もう、別れなければならないのか⋮⋮
ズキリと胸に痛みが走る。
﹁はい、ドラグーン王国の情勢があまりにも不安定で、陛下の元へ
ミリアーナ様を渡すようにとドラグーン王国の王位争いをしておら
れる両派閥から書状が届いております﹂
ドラグーン王国の王位争いに大切な伴侶を失い心を病んでしまっ
504
た先の王妃を巻き込もうと言うのか。
それまで動き続けていた足が自然と停まった。
ふざけやがって。
ギシリと握りしめた手のひらが鳴る。
﹁ミリアーナ様も、クラインセルト陛下のお子も渡さない。 絶対
!﹂
﹁もちろんです。 アルトバール陛下も同じご意見でしょう﹂
ロンダークさんの言葉に頷く。
﹁しかしよく宿がわかったね﹂
祭りで王都中の宿屋は常に満室なのにと思って聞いてみる。
﹁昼間露店商で変わった商売をしている行商人を見かけまして、覗
いてみれば心配していた殿下が笑顔で、皿を回していらっしゃいま
したからね。 あとをつけさせていただきました﹂
うん、なんのことはないまさか追跡されていたとは。
﹁いくらご婦人と一緒だからといって追尾に全く気が付かれず、気
配すら隠さずに堂々と数歩後ろにいる私に気が付かれない。 再教
育案件ですよね?﹂
えっ!? マジですか⋮⋮それは再教育宣言されてもしかたない
505
かも。
﹁はい、すいません﹂
その後も細々とした情報共有を行いながら宿の前まで戻ると、宿
から飛び出していくアンジェリカがいた。
506
どこもカツアゲは同じらしい。
﹁アンジェリカ!?﹂
﹁あれは、たしかシオル様と一緒にいた?﹂
﹁あぁ、私の命の恩人なんだ﹂
後を追って私とロンダークさんが走り始める。
脇腹に痛みは走るが、こんな時間に女の子一人で出歩くなんて危
険すぎる。
しかもアンジェリカの目元に光って見えたのは涙だと思う。
﹁アンジェリカ!﹂
﹁来ないで!﹂
大声で名前を呼べば、拒否された。
﹁そんなわけに行くか!﹂
﹁いいからほおって置いて!﹂
私の制止を振り切るように細い路地へ飛び込んだアンジェリカを
追って角に差し掛かると路地から悲鳴が上がり、ロンダークが腰に
下げていた長剣を引き抜いた。
507
﹁アンジェリカ!﹂
﹁なんだぁ? この娘の連れかぁ﹂
アンジェリカを取り囲み拘束している男たちが五人、酒を飲んで
いるのか顔を赤らめている。
﹁あぁそうだ。 その手を放してくれ﹂
﹁いやぁこの嬢ちゃんが突然ぶつかってきてなぁ、この通りこいつ
が大怪我をおっちまった﹂
ニヤつきながらそう言った男が仲間の男を指し示すとわざとらし
く腕を押さえて痛がってみせた。 ﹁ふざけないで! 私がぶっかったのはあんたじゃムグムグ﹂
アンジェリカの反論を口をふさぐことで封じた。
﹁ロンダークさん、あれって怪我してるように見えます?﹂
﹁いえ、カツアゲのゴロツキでしょうね﹂
ですよねぇー、なんてわかりやすく古典的な⋮⋮
﹁あんたらこのお嬢ちゃんの連れならしっかり慰謝料払ってくれる
よな?﹂
アンジェリカはこちらに目を向けながら首を横に振っている。
508
﹁う∼んロンダークさん、この場合いくらか渡したら穏便に済みま
す?﹂
﹁無理だと思いますよ。 渡せばすぐに有り金全部置いて行けとか
始まりますよきっと﹂
ですよね∼。
﹁何をコソコソ話してやがる! 出すのか出さねぇのかはっきりし
やがれ﹂
コソコソと囁きあう私達の様子に男は苛立った様子で、怒鳴りつ
けてきた。
﹁はぁ、ロンダークさん。 もしもの時には制圧よろしく﹂
﹁はぁしかたありませんね﹂
私はロンダークさんから銀貨を一枚受取り男に近づくとニヤニヤ
と男が背後に周り私に手を伸ばしてきた。 私は直ぐに身体を低くして男の手を掻い潜るとロンダークさんが
走り込むなりリーダーらしい男の腹に長剣の柄を叩きつけ手際よく
地面に沈める。
私がアンジェリカを拘束している男を沈める間にあっという間に
残り三人も戦闘不能にすると、男たちの衣服を器用に結びつけて逃
げられないように拘束してしまった。
509
﹁アンジェリカ、大丈夫?﹂
地面に座り込んだアンジェリカの側にしゃがみこんで顔を覗き込
む。
﹁うぅぅ∼﹂
クシャリと歪んだ顔にあー、これは泣くなぁと思った途端にガシ
ッと身体を拘束されて私にすがりついたアンジェリカがまるで火が
ついたように泣き出した。
﹁もう大丈夫だよ﹂
ポンポンと背中を撫でればさらに泣き声が大きくなる。
﹁シオル様、私は警備隊の者を呼んでまいります﹂
﹁あぁ、頼む﹂
ロンダークさんが私から離れたと思ったら、グワシッと胸元を掴
まれた。
﹁シオルってなに!?﹂
いつの間にか泣き止んでいたらしいアンジェリカが私を睨みあげ
ていた。
510
初めての口づけは⋮⋮
う∼ん、どうしよう。
潤んだ瞳で睨み見上げてくるアンジェリカが可愛くて困る。
﹁シオルが本当の名前なんだ﹂
﹁なんで嘘付いたの!﹂
﹁ちょっといろいろあって命を狙われていたんだ。 アンジェリカ
に助けてもらった怪我も暗殺者から逃げるときに負った傷だったん
だ⋮⋮、アンジェリカやトーマスさんを私の事情に巻き込みたくな
くて偽名を使いました。 ごめん﹂
素直に頭を下げれば、アンジェリカは両手で拳を作り私のコメカ
ミに当ててグリグリと力を加え始めた。
頭を両側から圧迫され、更にツボでもあるんじゃないかと思える
ほどね激痛が走る。
﹁アンジェリカ、痛い痛い! 痛いって!﹂
﹁ばっかじゃないの! 素人の私が見たって刃物でついた傷くらい
わかるわ! 行商人なんて定住しない商売を何年続けてきたと思っ
てるの! レ、シオルがなにか厄介事に巻き込まれてる事なんて拾
ったときから覚悟してるし、巻き込まれたくなかったら拾わずに放
置してるわ!﹂ 511
尚も追撃の手を緩めないアンジェリカの両手を掴んで引き剥がす
とまたボロボロと大粒の涙を流している。
﹁ねぇアンジェリカ、泣きやんでよ﹂
﹁うるさい! シオルには関係ない!﹂
関係ないと言われて頭に血が登った私は、気が付けばアンジェリ
カの唇を奪っていた。
﹁ちょ、うぐっ! シオ﹂
何か言おうと口を開いたアンジェリカの唇を角度を変えて強引に
再び塞ぐ。
前世は恋愛経験なんてほとんどない喪女だった。
喪女で経験がなくても、毎晩絶倫な両親のやり取りや愛の行為を
強制でライブ観察してきた私を舐めんなよ!
舌を絡ませアンジェリカを貪れば、なけなしの抵抗はなくなり、
アンジェリカは私の腕のなかで脱力し浅い呼吸を繰り返している。
﹁関係ないなんて言わないでよ⋮⋮﹂
ギュッと私より小さな身体を抱きしめれば、小さな声がバカと告
げた。
﹁バカですよ! すっかりアンジェリカに嵌ったバカですけどなに
512
か?﹂
半ばヤケになって告げれば服の胸元をグイッと引っ張られアンジ
ェリカの顔が近づき、柔らかな唇が私の唇に重なった。
﹁これでお互い様ね﹂
してやったりという顔をしたアンジェリカに急激に顔やら全身が
煮え滾るように熱くなる。
絶対真っ赤になってるよね今!
﹁そっ、それよりもこんな時間に一人で宿を飛び出すなんて危ない
よ? アンジェリカらしくないよね、どうしたの?﹂
強引に話を逸して聞けば、アンジェリカの視線が彷徨った。
﹁アンジェリカ?﹂
アンジェリカのぷにぷにした触り心地が良いほっぺたを両手で挟
み、強引に視線を合わせると、観念したのかボソボソと話し出す。
﹁父さんが再婚するって言い出したんだもん、私にお母さんが出来
るんだって⋮⋮私のお母さんは死んじゃったお母さんだけなのに!﹂
唸りながらアンジェリカは次々と心の中を吐露して行く。
なんでもこの間会った女性と再婚したいと言ったトーマスさんの
下腹部に八つ当たりして宿を飛び出してきたらしい。
513
その話を聞いて股間がヒュンとした。
女だった時にはわからなかったけどあれはやってはいけない技だ。
今頃トーマスさん、宿で泡を吹いて悶絶してるんじゃないか?
﹁だから私も独り立ちしてやるの!﹂
よっぽど腹に据えかねているのかまたは強がりか、アンジェリカ
を抱き締めて耳元に囁く。
﹁ならアンジェリカは私と一緒に来る?﹂
﹁えっ、どこに?﹂
﹁私の産まれた国へ﹂
突然の誘いに狼狽えているのはわかるけど、アンジェリカと離れ
たくない。
﹁独り立ちすれば危険も多い。 トーマスさんとはもう会えなくな
ってしまうかもしれないし、祖国から迎えが来てしまった私はアン
ジェリカと一緒に行けない。 でもアンジェリカをひとりで行かせ
るなんて絶対に出来ない⋮⋮﹂
アンジェリカを大切だと気がつく前なら別れられたかもしれない。
私が差し出した手に伸ばされかけた手は次の言葉でピタリと止ま
ってしまった。
514
﹁今はまだ言えないけど私は護るべきものを沢山背負ってる、私と
一緒に来てもアンジェリカは沢山苦労すると思う。 トーマスさん
とも会えなくなってしまうかもしれないそれでも⋮⋮私と一緒に来
る?﹂ 515
初めての口づけは⋮⋮︵後書き︶
ブックマーク、評価、お気に入り登録ありがとうございます。これ
からも皆さんからいただきましたptを原動力に執筆頑張ります。
516
アンジェリカの答え
考え込んでしまったアンジェリカの髪を手櫛で梳きながらアンジ
ェリカの気持ちがまとまるのを待つ。
もしアンジェリカが私と一緒にレイナス王国に来てくれると言う
ならどんな手段を使ってもアンジェリカを唯一の妻に迎えよう。
なぜかわからないけれど自分の伴侶はアンジェリカだと思ってい
る。
﹁⋮⋮いまは、行けないごめんなさい⋮⋮﹂
アンジェリカはボソリと告げる。
﹁そっかぁ⋮⋮振られちゃったか﹂
自嘲気味に言えば、アンジェリカが抱きついてきた。
﹁良く考えたらあんな抜作な父さんを新しいお嫁さんにいきなり丸
投げしたらお嫁さんが可哀想だもの⋮⋮直ぐに﹃お母さん﹄とは呼
べないだろうけど、せめてもう私が居なくても大丈夫だなって思え
るくらいまではお嫁さんの補佐はしようと思う﹂ そう告げるアンジェリカの目にはもう先程の迷いはない。
どこまでも先を見通すように真っ直ぐな、私の好きなアンジェリ
カに戻っている。
517
﹁でも⋮⋮そうね、父さんの件が片付いて大切なものを自分で守れ
るくらい大人になったら⋮⋮シオルのお嫁さんになってあげても、
いいよ?﹂
プイッと視線をそらしながらアンジェリカが告げた言葉に目を見
開いた。
﹁本当!? 今の言葉しっかり言質取ったからね。 あとからやっ
ぱり無しなんて許さないよ!﹂
﹁わっ、わかってるわ! 私は約束は死んでも守る女なんだから!﹂
﹁そこまで言うなら商人らしく契約書作ろうよ。 嬉しいなぁよろ
しくね未来のお嫁さん?﹂
調子に乗ってキスをしようとしたら頭を叩かれた。
﹁調子に乗るな!﹂
﹁ブゥー、アンジェリカのケチ!﹂
﹁あら、褒めても何も出ないわよ?﹂
クスクスと笑いあっていると警備隊の人を連れてきたロンダーク
さんが戻ってきた。
警備隊の人達はロンダークさんが縛っていた男達を立たせると次
々と連行していった。
518
﹁ううん、シオル様﹂
﹁お疲れさまロンダークさん﹂
﹁ハッ、あっあの、助けていただきありがとうございました﹂
わざとらしく咳払いをしたロンダークさんに労いの言葉をかける
と、慌てたように私から離れて顔を真っ赤にしながらアンジェリカ
が深々とロンダークさんに頭を下げた。
﹁いぇ、こちらこそシオル様を救っていただき、お礼申し上げます﹂
二人でペコペコと頭を下げあっている二人の様子がおかしくて笑
ってしまいアンジェリカに睨まれた。
﹁さて、そろそろ宿に戻ろうか﹂
トーマスさん生きてるかなぁ。
ロンダークさんを殿にアンジェリカと手を繋ぎながら宿へ向って
歩きだす。
アンジェリカの掌を指と指を絡めるように握り合う。
レイナス王国へ出発するにしてもトーマスさんと一緒に旅を続け
る決断をしたアンジェリカと一緒にいられるのはあと少しの間だけ。
そういえばアンジェリカに本名名乗ってなかったわ、危ない危な
い。
519
﹁アンジェリカ﹂
﹁な∼に?﹂
内緒話をするように顔を寄せてきたアンジェリカの耳元に唇を寄
せる。
﹁改めて私の名前なんだけどねシオルって言うんだ。 シオル・レ
イナス﹂
﹁わかったわシオルが正しいのね! ⋮⋮レイナス?﹂
﹁そっ! シオル・レイナス。 レイナス王国第一王子だからよろ
しくね﹂
﹁⋮⋮はぁ!?﹂
ピタリと歩みが止まってしまったアンジェリカがワナワナと唇を
震わせて固まっている。
﹁前言撤回は認めませんから∼﹂
﹁王子様なんて聞いてないわよ!?﹂
﹁今聞いたじゃん﹂
﹁しかも第一王子って﹂
﹁うん、弟でもできない限りは王太子だねぇ﹂
520
﹁ムリ、ムリムリムリ∼!﹂
すごい勢いで涙目になりながら頭をブンブンと横に振っている姿
も可愛いなぁ。
﹁なるようになるさぁ∼﹂
﹁ならないって!﹂
﹁あはははは!﹂
しっかりと手を繋いだまま帰る私達をロンダークさんは何も言わ
ずに見守ってくれているようだった。
521
グラスタと再会
どうやらトーマスさんは急に宿から飛び出していったアンジェリ
カを探していたらしい。
﹁アン!﹂
﹁お父さん!?﹂
繋いでいた手を解かれてアンジェリカの温もりがすっと朝の冷気
にさらわれる。
アンジェリカの姿を確認するなり転びそうになりながらも走って
くると、しっかりとアンジェリカを抱きしめていた。
﹁アン! こんな早朝にひとりで宿から出るなんて危ないだろう!﹂
﹁ごっ、ごめんなさい﹂
﹁ユーリアが亡くなってアンジェリカまで居なくなったら俺は⋮⋮﹂
﹁うん、ごめんなさい。 大丈夫だよお父さんと一緒にいるから﹂
抱き合い号泣するトーマスさんの大きな身体をアンジェリカがあ
やすように撫でている。
﹁レオル、君がアンを見つけて来てくれたのか﹂
522
鼻の頭を真っ赤にして、涙を拭ったトーマスさんが私に向って深
々と頭を下げた。
﹁いえ、当たり前のことをしただけですから﹂
自分の未来のお嫁さんを助けただけだもの。
﹁トーマスさん、紹介します。 こちらロンダークさんといって私
の保護者です﹂
﹁お初にお目にかかります、ロンダークと申します。 この度はレ
オル様をお助けいただきありがとうございました﹂
﹁いえ、こちらこそレオルには色々と助けてもらいました。 しか
しそうか、保護者の方と再会できたのなら良かった。 それじゃあ
レオルとはここでお別れか、寂しくなるなアン?﹂
そう言ってくしゃくしゃと私の頭を優しく撫でてくれる。
﹁寂しくなるけど大丈夫よ。 お互いに手紙のやり取りをする約束
をしたから﹂
﹁うん、アンジェリカの手紙楽しみにしてる﹂
宿までの帰り道でアンジェリカはレイナス王城宛てで、行商先の
国の話や状況等を手紙にして送って貰えることになった。
アンジェリカは手紙に次の行商先の街の名前を書いてくれること
になったので返信はそちらの商業ギルドに送ればギルドが行商人に
渡してくれると教えられた。
523
本人の手元に届くまで時間はかかるけれど、定住することのない
行商人に手紙を届けるには必ず立ち寄るギルドに送ったほうが確実
らしい。
まぁアンジェリカを逃がすつもりはさらさらないので、父様の許
可を得てから護衛を出そうと思っている。
⋮⋮ストーカーじゃないよ。
﹁なんだ連絡先を交換したのか?﹂
﹁うん、とんでもないお王子様だった﹂
アンジェリカのお王子様発言にギョッとして口をふさぐ。
﹁あはははは、確かにレオルはアンのお王子様かもな﹂
はぁ、良かった通じてない。
﹁ロンダークさん、今日作ってもらったギルドカードが出来上がる
んです。 アンジェリカと取りに行ってもいいですか?﹂
﹁構いませんよ、当初の予定よりもはやく再会できましたから、グ
ラスタに乗せていた荷物も無事でしたし、よろしければ先に荷を取
りに戻られてからアンジェリカ様と出掛けられてはいかがですか?﹂
荷物が無事だったのはうれしい。
大体前世で言う朝の六時くらいに鳴らされる時告げの鐘の音がら
524
聞こえている。
トーマスさんは行商に持っていく品物を仕入れたり、夕刻には奥
さんになる女性とアンジェリカをあわせたいと言っていたので、ア
ンジェリカと居られるのは今日の四の鐘まで。 概ね三時間毎に鳴らされる鐘が私とアンジェリカが一緒にいられ
る期限を告げるようでこれほど時告げの鐘を恨めしいと思ったこと
はない。
準備が整い次第迎えに来ることを告げてアンジェリカと別れ、ロ
ンダークさんが取ってあると言う宿へと向かう。
道すがら突然歩みを止めたロンダークさんに振り返る。
﹁どうさしたのロンダークさん﹂
﹁シオル様、アンジェリカ嬢を王太子妃に迎えたいと言うのは本気
ですか?﹂
先程はアンジェリカが居たから何も言わなかったのだろう、私は
王太子でアンジェリカは行商⋮⋮いわゆる特定の拠点を持たない流
民と変わらない。
身分差があり過ぎるしレイナス王国の国民ですらない。
﹁本気だよ。 私はアンジェリカを妻にする﹂
﹁王太子妃となれば重責もかかります。 貴族の令嬢ですら長い年
月をかけて行われる御妃教育は伊達ではありませんよ?﹂
525
そうかもしれない、私もアンジェリカと出会わなければ父様が縁
組した貴族ご令嬢を妻に迎えていたのかもしれない。
﹁そうかも﹂
﹁ならーー﹂
﹁ごめんロンダークさん、アンジェリカじゃないとだめなんだよ﹂
ふっと笑って見せれば、盛大なため息をついてロンダークさんが
頭を抱えてしまった。
﹁ただの平民の娘を妃に迎える、なんとも世の少女達が好きそうな
物語が書けそうですね。 本当にその夢が実現出来たなら私からシ
オル様を題材に小説でも書かせて貰いますか﹂
﹁えっ、協力してくれるの!? てっきり反対されると思ってたの
に﹂
﹁反対したら考え直していただけると?﹂
﹁無理﹂
﹁即答ですか、本当にそう言う所はアルトバール陛下とソックリで
すね﹂
二人で笑い合い宿屋へたどり着くとすぐにグラスタが居る厩へと
急いだ。
526
﹁グラスタ!﹂
私が駆け寄ると嬉しそうな声を上げて鼻面を寄せて来る。
﹁無事で良かった⋮⋮﹂
手を伸ばして顔を撫でると、長い舌でベロリと顔を舐められてし
まい顔中ベタベタになってしまった。
﹁ロンダークさん、アンジェリカと結婚を父様や貴族、国民に祝福
してもらうのは大変だと思うでも⋮⋮必ず認めさせる﹂ 真っ直ぐにロンダークさんの目を見て告げれば、ロンダークさん
は静かに頷いた。
﹁このロンダーク、僅かではありますがシオル様の夢が叶えられる
ようお手伝い致しましょう﹂
﹁ありがとう!﹂
527
サヨナラはいらない
ロンダークさんが言っていた通りグラスタは私の荷物を守り切っ
てくれたようでほぼ無傷で手元に帰ってきた。
硬貨が詰まった巾着も無事なのでトーマスさんが貸してくれたギ
ルドの登録料も返還することができそうで安堵する。
﹁そうだシオル様、これもお返しします﹂
荷物を物色していた私にロンダークさんが差し出した物に目を見
張る。
﹁シルバ! なんで、てっきり無くしたかと思ってたのに﹂
そこには戦闘で手元から、紛失していた愛剣シルバがあった。
﹁ミリアーナ様と別れてシオル様を捜すため襲撃された周辺を捜索
して居るときに見つけました。 血液がこびり付いてましたが、手
入れに出したので大丈夫だと思いますよ﹂
久しぶりに持ったシルバはズッシリと重く、シルバを持てなかっ
た数日で体力が衰えてしまったかがよくわかる。
傷口を圧迫するのに使った鞘も戦闘中に落としたのか行方がわか
らなくなっていたが、そちらもシルバと一緒に見つけてくれたらし
い。
528
シルバを慣れた作業で腰に佩く。
﹁私はこれから密偵と合流し陛下へシオル様を発見した旨を伝えて
まいります﹂
﹁わかった、あとで密偵をひとり連れてきてくれないかな、アンジ
ェリカの護衛を頼みたいんだ﹂
﹁はぁ、わかりました。 きちんと陛下の事後承諾は取ってくださ
いね﹂
﹁わかってる﹂
荷物からレイナス王家の紋章が刻印された手持ちのエンブレムの
一つを取り出した。
金地に彫刻を施したそれは、身の証にもなるだろう。
アンジェリカに再会した時に返してねと強引におしつけてしまえ
ば、生真面目なアンジェリカは持っていてくれるだろう。 仮に何か有事の際には売り払うように言っておけばいくらか足し
になるはずだ。 衣服のポケットに巾着とエンブレム、それから個人所有の装飾品
を何点か見繕い突っ込んだ。
元々無くしたものだと思えば問題ない。
⋮⋮あとで私が父様に怒られれば済む筈だ。
529
むしろ命の恩人に何の謝礼もしなかった日には特大の雷が落ちか
ねない。
﹁ロンダークさん、行ってくる﹂
﹁はいお気を付けて先にレイナス王国側の北門でお待ちしておりま
す﹂
シルバがあれば護衛は居なくても大丈夫だと判断されたのだろう、
すんなり送り出してくれたロンダークさんから少しだけ信頼された
ような気がして嬉しい。
宿を出て真っ直ぐにアンジェリカの泊まっている宿を目指す。
途中で目についた店から小振りの巾着を二つ買い取り、それぞれ
に借りていた硬貨と同枚数の高額硬貨とエンブレム以外の宝飾品を
入れキッチリと封をする。
宿の入り口には寝間着から青いワンピースに着替え、白いストー
ルを羽織ったアンジェリカがそわそわと待っていた。
﹁アンジェリカお待たせ﹂
﹁別に待ってないわ﹂
もじもじとしているアンジェリカにトーマスさんの居場所を聞く
とまだ宿の部屋に居るとき言われたので、階段を二段飛ばしで駆け
上がり借りていた部屋の扉をノックした。
530
すぐに開いた扉から顔を出したトーマスさんに助けていただいた
お礼を改めて告げ、ギルドでお借りした登録料だといって要らない
と断るトーマスさんに硬貨の入った巾着をなんとか押し付けた。
多分トーマスさんとは会わずに別れることになるだろうから、し
っかりと別れを告げレイナス王国に立ち寄ったら連絡をして欲しい
とつげる。
連絡先はアンジェリカに聞いてほしいといったので、あとで聞い
たら驚くんだろうな。
﹁お待たせ、行こう!﹂
﹁ワッ! 待って急に引っ張ったら危ないってば﹂
﹁ごめん﹂
繋いだアンジェリカの手を引けば、焦った声で制止してきた。
急いで謝りアンジェリカと同じ速度で歩き直す。
﹁とりあえずギルドで良いかな?﹂
﹁うん、ギルドカード取りに行くんでしょ?﹂
二人でギルド会館に入り、受付で引き換え券を渡すと出来上がっ
たカードを渡された。
鉄製のカードには彫り込まれるようにレオルと名前が彫ってある。
531
今日はカードを受け取りに来ただけなので直ぐに会館を出た。
アンジェリカと二人で色々な店を回って、アンジェリカが手に取
り見ていた指輪を確認する。
淡いピンク色の色ガラスがキラキラと光を反射する指輪をしばら
く見たあとでそっともとの位置に戻してしまった。
アンジェリカが他を見に行っている隙に手に取ればサイズは大人
向けでまだ十才のアンジェリカの細い指よりも大きそうだ。
店主さんから指輪を買い取り、怪しまれないようにアンジェリカ
についていく。
二人で食事を楽しみ気が付けばタイムリミットの時告げの鐘がな
ってしまった。
﹁もう、お別れなんだね⋮⋮﹂
夕日に照らされながら二人で教会へ続く石階段に座り、ポツリと
つぶやいたアンジェリカを抱きしめる。
﹁ねぇ、アンジェリカ左手貸して?﹂
﹁どうして?﹂
﹁いいから﹂
おずおずと差し出された左手の薬指にさっき買ったばかりの指輪
を填める。
532
うーんやっぱりリングが大きいせいかグラグラしている。 ﹁これ⋮⋮﹂
﹁うん、アンジェリカに似合いそうだったから買っちゃった﹂
自分の指に嵌った指輪を撫でている姿に買ってよかったと思う。
﹁今はまだ大きな指輪だけど、アンジェリカの指に合う大きさにな
っても私はアンジェリカを待ってるから、おじいさんになる前にお
嫁に来てね?﹂
﹁そんなの無理でしょう、シオルはお王子様だよ? 世継ぎを作る
ためにきっとキレイなご令嬢が詰めかけるもん﹂
﹁う∼ん、頑張って断らなくちゃなぁもうアンジェリカ以外嫁にす
るつもり無いんだよね﹂ 眉間に皺を寄せて悩めばアンジェリカがクスクスと笑い出した。
﹁まぁ私じゃないお嫁さんもらうときは早めに手紙で連絡ちょうだ
いね﹂
﹁もう、信じてないな﹂
﹁子供の頃の約束を無邪気に信じられるほど幼くは無いわ﹂
どこか諦めているようなアンジェリカの顎を右手で持ち上げて素
早く唇を奪う。 533
夕日よりも真っ赤な顔をしたアンジェリカにニヤリと笑うと、ア
ンジェリカの髪を結わえていた緑色のリボンを解く。
﹁えっ!?﹂
アンジェリカのふわふわした茶色い髪が広がった。
隠し持っていた巾着とギルドカード、そしてエンブレムを押し付
けてアンジェリカから離れる。
これ以上一緒にいたら絶対にレイナス王国まで無理矢理にでもさ
らってしまいたくなるから。
﹁それじゃぁその指輪がちょうどよくなったらギルドカードとエン
ブレム返しにレイナス王国の王城に来てね!﹂
﹁ちょっ、ちょっと!﹂
﹁アンジェリカ愛してるよ∼!﹂
慌てふためくアンジェリカに大声で叫ぶと、バカ! と言われて
しまった。 だって仕方ないじゃないか、アンジェリカの口からサヨナラは聞
きたくなかったんだから。
別れるのが辛くて涙で滲みかけた視界を無理矢理拭う。
アンジェリカから半ば強引に奪ったリボンを握り締め、ロンダー
534
クさんが待っているだろう北門まで振り向くこともせずにひたすら
走りぬけた。
535
サヨナラはいらない︵後書き︶
活動報告に双太陽神教シリーズのすでに他作品で公開済みの確定時
系列をアップさせて頂きました。ネタバレ注意です。そろそろあの
イベントに追い付くかな?と見ていただいている方は楽しいかもし
れません。
また新作でコメディ短編を一つ投稿しましたので気が向きましたら
ご覧ください。
題名
﹃あっち向いてホイ!そのチート回収させていただきます!﹄
536
帰国
アンジェリカと別れてロンダークさんとマーシャル皇国を隔てる
ラウンド山脈を越えてレイナス王国へ帰ってきた。
一見平和に見える国内だけど、ドラグーン王国の王位争いを不安
視しているのがわかる。
街道沿いの街や村に立ち寄って休みながら無事にレイナス王国の
王都レイナスへ帰ってきた。
王都の周りをぐるりと囲んだ城壁は変わりなくてホッと息を吐い
た。
王都への出入りを監視するために作られた外門ではそれを守る衛
兵が検問所を設けていて不審者のチェックしてる。
王都に入る為に多数の商人や平民が順番を待って並んでいた。 検問所は東西南北それぞれに設置されていて私とロンダークさん
が居るのはマーシャル皇国側にある南門だ。
主に検問所の受付は商人と一般人用で二箇所、王侯貴族用に一箇
所設けられている。
ロンダークさんは迷うことなく騎乗したまま王侯貴族用の受付に
進むと、ジブンの長剣を見せて私を促して王都へと足を踏み入れた。
537
﹁いつも思うけど、貴族の受付は簡単だね﹂
﹁そうですね、どこの貴族家かわかる家紋があれば入れますから﹂
﹁例えばだけどさ、王都へ来る途中、または王都から出る際に襲撃
されて家紋が書かれた馬車を盗まれたとするじゃない? その場合
貴族の受付は馬車の確認はするの?﹂
﹁簡素化されますが、入国に関しては確認されます⋮⋮出る際はど
うだったか﹂
﹁ロンダークさんがあやふやってことは徹底されてない可能性があ
るんだね﹂
﹁申し訳ありません、帰城次第確認いたします﹂
二人で真っ直ぐに王都の大通りを駆け抜けて抜けて城へ戻れば、
私が帰還した知らせを聞いて真っ先に飛び出してきたのは我が妹キ
ャロラインだった。
﹁お兄様!﹂
ツルツルに磨かれた大理石の通路をピンク色のドレスのスカート
を持ち上げてヒールの靴で走る速度を落とすことなく器用にカーブ
を曲がりこちらへと駆けてくる。
﹁キャロ!﹂
猪のように激突してきたキャロラインを受け止めてくるりと回っ
て勢いを相殺させる。
538
レイナス王国までの帰り道で襲撃された際に追った傷は完治して
いるし、手元に返ってきたシルバで訓練もしているから体力ももど
り安心してキャロラインの腰に手を回し身体を抱き上げた。
﹁キャロただいま﹂
﹁おかえりなさいませ! ミリアーナ叔母様を逃がす為にお兄様が
囮になったと聞かされてキャロは心配していたんですよ! 雑草並
みにしぶといお兄様がそう簡単に死なないのは知ってますけど、キ
ャロは、キャロは! うぇぇぇん﹂
そこまで言って目に溜まった涙が決壊したようで私の肩には寄り
かかって泣き出してしまった。
﹁ごめんね、心配かけたんだね﹂
背中をポンポンと優しく叩いて、なんとか宥める。
﹁シオル!﹂
キャロラインを宥めて居ると血相を変えたアルトバール父様とリ
ステリア母様が走って来てくれた。
﹁ただいま戻りました﹂
リステリア母様はそのまま私とキャロラインを抱き締めてくれた。
﹁良く無事で! もう、母をこんなにも心配させるなんて、貴方は
赤ん坊のときからちっとも変わらないんだから! 無事でよかった﹂
539
ぎゅうっと更に力を加えられてちょっとだけ苦しいけど、それだ
け心配を掛けてしまったんだろう。
﹁シオル、ここではなんだから執務室で話を聞きたい﹂
﹁はい! 陛下シオルただいま帰参いたしました﹂
父様の声にリステリア母様とキャロラインの拘束が解かれたので、
帰還の挨拶を告げる。
﹁無事で何よりだが⋮⋮﹂
頭を垂れた私の頭上にアルトバール父様の手刀が落ちた。
﹁痛ッたぁ∼!﹂
﹁心配かけさせるなバカ息子﹂
泣くまいと堪えているような複雑な表情で私から視線を外す。
﹁はい、ごめんなさい﹂
そんな様子を城で働く皆に見守られながら、私は自分の家に帰っ
てきた。 540
ドラグーン王国からの親書⋮⋮
国王陛下の執務室に入ると、応接用に用意されているソファーに
座るように支持され、下座に腰を下ろす。
キャロラインとリステリア母様とは晩餐でゆっくりと話をする約
束をして一旦別れた。
サクラは目を輝かせたキャロラインの元へ自分から行ったので任
せた。
侍女頭のリーゼさんや、私の世話をしていた侍女のミナリー、リ
ズ、レーシャの三人娘は既に城を辞してそれぞれが婚家へと嫁いで
しまっている。
室内にはアルトバール父様と私、ロンダークさんが侍女に入れて
もらった紅茶を飲まながらまったりしていた。
レイナス王国の宰相兼リステリアお母様の兄であるシリウス伯父
様が来ると、父様は侍女を下がらせて室内に四人だけが残る。
﹁さて、ロンダークからの知らせで概要は知っているが、当事者か
ら話を聞きたい﹂
それから私は学園で地下にあった遺跡に落ちたこと、サクラのこ
と、バジリスクがドラグーン王城を襲いクラインセルト陛下が亡く
なり心を病んでしまったミリアーナ叔母様を王位を狙う暗殺者に狙
われたこと、洗いざらい話した。
541
私が話忘れているところや説明がうまく伝わらないところはロン
ダークさんが絶妙に補助してくれている。
﹁バジリスク、そんな伝説にしか残っていない怪物が実在した事に
も驚きだが、クラインセルト殿が亡くなってからの動きが早すぎる
な⋮⋮﹂
﹁えぇ、お二人の話からすればミリアーナ様への追っ手が掛かって
いる間に我が国に届いたミリアーナ様の身柄を渡すように勧告する
書類が届いたのも早すぎます﹂
﹁書類って?﹂
﹁あぁ、ドラグーン王国の公爵家からミリアーナを引き渡すように
親書が来た。 元宰相カルロスと結託し先王クラインセルトを殺し
た大罪人を引き渡せと﹂
﹁なっ!?﹂
あまりの内容にテーブルに両手を叩きつけて立ち上がる。 怒りに全身の血液が逆流するような錯覚が起きる。
﹁カルロス宰相は国主暗殺者と首謀者であるミリアーナを逃した罪
で先日逆賊として処刑されたようだ﹂
父様の言葉に最後に見たカルロスさんの姿が思い出される。
﹁し、使者に返答は?﹂
542
﹁ミリアーナ及びレイナス王国は無関係だと突っぱねた、しかし場
合によってはドラグーン王国側から攻めてくる可能性も捨てきれな
いな﹂
戦争⋮⋮その言葉は前世のテレビや教科書で当たり前のように聞
いていた筈なのに、日本にいる自分には関係のないものだと認識し
ていた。
しかしドラグーン王国側から攻められれば防衛戦にならざるを得
ない。
戦になれば多くの人の命が失われ、そして大切な者を守るために
同じだけの命を奪う事になる。
﹁怖いか?﹂
﹁はい⋮⋮ドラグーン王国から逃げる際に追っ手であった者達の命
を奪いました、まだ彼等を斬りつけた嫌な感触と戦いの高揚感そし
て全てが終わった後に襲ってきた絶望感が残ってますから﹂
目を瞑れば自分の命を守るために奪った命と相手の顔がまざまざ
と浮かび上がる。
﹁その感覚を大切にしてやれ、それが真っ当な感覚だ。 死なんて
慣れるもんじゃない﹂ ﹁はい⋮⋮﹂
これから何事もなければ私はこの国を、レイナス王国を継ぐ事に
543
なる国や民を守るために多くの命を刈り取るだろうし、自分よりも
強い相手に当たれば死ぬと言う現実も今回の帰国までの道のりで嫌
というほど理解した。
アンジェリカに出逢わなければ死んでいたもんな。
﹁あっ、話は変わりますが父様。 婚約させてください﹂ ﹁⋮⋮はっ? 婚約ってどこのご令嬢だ? ドラグーン王国の貴族
の令嬢か?﹂
あまりに話題を変え過ぎたのかアルトバール父様もシリウス伯父
様も鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしている。
﹁違うよアンジェリカって言うんだけどねすっごく可愛くて、ツン
デレでぇ∼﹂
﹁まてまて待て答えになってない﹂
﹁行商人のトーマスさんの一人娘で命の恩人なんだ!﹂
﹁⋮⋮つまりシオル殿下は平民の娘を王太子妃として迎えたい。 と言うことですか?﹂
﹁うんそう!﹂
確認するように聞いてくるシリウス伯父様にこれ以上ないくらい
元気に返事をすれば、目の前の父様が深い深いため息をついた。
﹁男爵位の貴族の令嬢位ならまだしも平民って馬鹿かお前は!﹂
544
アルトバール父様はガバッと顔を上げて怒鳴ってきた。
﹁いいじゃん愛してるんだから! 父様だって婚約者がいたのにリ
ステリア母様と駆け落ち騒ぎまで起こして社交界を引っ掻き回して
結婚に漕ぎ着けたって聞いたよ?﹂
﹁おっ、お前それをどこで!?﹂
﹁どこだって良いじゃん! なんなら侯爵家位の家に養女にしても
らえば良いんだし!﹂
﹁そう言う問題じゃない!﹂
アルトバール父様と睨み合う私を見てロンダークさんがクスクス
と笑った。
﹁陛下とシオル様はそっくりですねさすが親子です。 陛下も先代
とよくそのように睨み合って対立しておられましたが﹂
﹁うっ、とっ兎に角王太子の結婚や婚約はそう甘いもんじゃないん
だよ!﹂
﹁絶対アンジェリカ以外を妻に迎えない!﹂
睨み合う私とアルトバール父様の間シリウス伯父様が割り込んだ。
﹁はいはい、お二人とも落ち着いて。 シオル様はまだ幼い。 子
供の言うことですから他に好きなご令嬢に心変わりなさるかもしれ
ませんし﹂
545
﹁ふぅ、そうだな⋮⋮よし、十八まで婚約者は決めずにいてやろう。
それまで変わらずアンジェリカ嬢を思っていて相手もお前を忘れ
なければ婚約の件考えてやる。 ただし他の女にふらついたら終わ
りだわかったか?﹂
﹁わかった。 あとアンジェリカの護衛に一人付けたから!﹂
﹁はぁ!?﹂
その後もしばらく揉めました。
546
あれから六年︵前書き︶
お待たせしました
547
あれから六年
レイス王国のアールベルト殿下の立太子式に参列する為、私はア
ルトバール父様の代理としてロンダークさんとハスティウス公爵家
の三男で近衛騎士のゼスト殿、他にも数名の騎士を護衛に伴い、レ
イナス王国からドラグーン王国を経て私は今レイス王国の大地へ足
を踏み入れていた。
四方を山脈に囲まれたレイナス王国とは違い、目の前にはどこま
でも続いているような錯覚を覚える草原が広がっている。
アンジェリカとマーシャル皇国で別れてからすでに六年もの月日
が流れている。
ドラグーン王国からレイナス王国へと帰国されたミリアーナ叔母
様はあのあと無事に第一子となる男の子を出産した。
クラインセルト陛下に似た銀色に輝く髪にミリアーナ叔母様譲り
の蜂蜜色の瞳の赤子はクライスと名付けられた。
とても軽く弱々しく泣くお子を抱かせて貰った時私は思わずクラ
イスに泣いて謝っていた。
君の父上を助けられずにすまなかったと泣く私を不思議そうに見
たミリアーナ叔母様は私をクライスごと抱き寄せた。
﹁貴方のせいではないわ﹂
548
優しくそう告げたミリアーナ叔母様の様子に驚き顔を上げると、
すでに子供のようなミリアーナ叔母様に戻ってしまっていた。
ドラグーン王国の宰相だったカルロス殿から預かっていたドラグ
ーン王家の紋章が刻まれた国王陛下に受け継がれる宝剣はミリアー
ナ叔母様が持っている。
ミリアーナ叔母様に宝剣を見せたら、なぜ泣いているのかわから
ない様子で涙を流し抱きしめていた。
記憶を無くしても想いは残っているのかもしれない。
クライスが一歳になった頃ミリアーナ叔母様の再婚話が持ち上が
った。
最有力候補はハスティウス公爵家の三男でミリアーナ叔母様の幼
馴染だったゼスト殿の名前が上がったんだけど⋮⋮
﹁ミリアーナはロンダークと結婚するの!﹂
と言って譲らず、ミリアーナ叔母様への片思いを拗らせてまだ独
身を貫いていたゼスト殿を撃沈し今ではロンダークさんの正妻にな
っている。
この度レイス王国へ向かう際にミリアーナ叔母様の妊娠が発覚し
ていたので、夫婦仲は良いようだ。
ドラグーン王国はクラインセルト陛下亡き後、大罪人として元宰
相カルロスを処刑し、ミリアーナ叔母様を引き渡すように親書を送
ってきたファラウンド・スコットニー公爵が、王位継承争いを制し
549
てドラグーン王国の国王に即位しファラウンド・ドラグーンになっ
た。
ファラウンドは好戦的な人物らしく、どこに仕掛けるつもりか不
明だが開戦の準備をしているらしい。
王位継承争いにより荒れたドラグーン王国から戦火を逃れてレイ
ナス王国へ逃げてきた難民の中にムクロジを教えた村の人々がいて、
彼等は今レイナス王国に移住し、目立たない程度に自分たちで使う
分と王家に卸す分のムクロジを採取して静かに暮らしている。
どうやらクラインセルト陛下亡き後ムクロジを独占しようとした
領主が内乱を起こし村に火をかけたらしい。
乾季だった事も相まって火の手はムクロジの採取出来た森にまで
広がり、私財を掻き集めてレイナス王国へ逃げてきたそうだ。
ムクロジ石鹸は原材料が分からないように粉末にして流通させて
いたらしく、村の人々以外は何で出来ていたのか知らないようで、
争いの種になりかねないため今後は秘匿することにしたらしい。
またドラグーン王国から亡命してきたのは難民ばかりではなく、
ドラグーン王国のセントライトリア学園で一緒にソイ豆で味噌を仕
込んだアレホ料理長が私を訪ねてやって来たときは驚いた。
しかも献上品として試行錯誤の末に出来上がった味噌を持ってき
たアレホさんは味噌の魅力にハマったらしく、料理人から転職し現
在レイナス王国の王城で引き抜いて味噌の量産と味噌からたまり醤
油を作る研究のために働いていたりする。
550
この六年で身長も伸び、アルトバール父様の身長を追い越した。
声変わりもすみ、後ろから声をかけるとたまに父様と間違われ陛
下と呼ばれる事がある。
恥ずかしながら精通が来た時にはかなり焦ってロンダークさんに
相談に行ったほどだ、夢で出てきたのは大人になったアンジェリカ
だったから。
まぁ、お陰で本当の意味で恋愛対象が男性ではなく女性だと自覚
した。
アンジェリカとはあれから何度も手紙で連絡を取り合っている。
嬉しかった
初めてアンジェリカから届いた手紙には私が押し付けてきた宝飾
との一文で身悶えた。
品についてお小言がたくさん書いてあったが、最後に
ありがとう
アンジェリカが手紙⋮⋮文を書きながらツンデレしてる姿がまざ
まざと思い浮かんだ。
アンジェリカが向かうと書いてあった目的地にある商業ギルド宛
に文の返事を書き送ると、商業ギルドからアンジェリカに文が渡る
仕組みらしい。
これは行商人のように拠点を持たず移動を繰り返す商人に文を渡
す為に出来た仕組みらしく、行商人は商業ギルドでこれから向かう
先を申告する決まりがあり、受取人となる行商人が既に出発してい
る場合には、目的地となる街までこれから向かう行商人が商業ギル
ドの依頼で運んでいく。
551
この文の配達を頼まれる商人はギルドからの信頼を得ている証で
もある。
商人は商業ギルドから文の配達の依頼を頼まれるようになって初
めて一人前扱いらしい。
定期的にアンジェリカにつけてある護衛から入る連絡でも元気に
しているのがわかっているし、どうやら新しいお義母さんとも良好
な関係を築けているらしく、異母弟も産まれたようだ。
早くアンジェリカに会いたいな⋮⋮文といえば、レイス王国のア
ールベルトとも連絡を取っており妹姫が産まれたと手紙が来ていた。
妹姫はナターシャ・ウィル・レイスと名付けられ今年五歳になる
らしい。
アールベルトの文からも歳の離れた妹姫を溺愛しているのが伺え
るから実は会えるのを楽しみにしていたりする。
立太子の祝の品を載せた馬車を引きながら、レイナス王国の使者
としてふさわしい身なりでの旅路となっている。
時折庶民の服に着替えて抜け出し、ロンダークさんを連れて酒場
に行って酔っ払った村民だったりと話をしたりして息抜きをしてい
る。
レイス王国の村や街に立ち寄り、レイス王国の文化や国民に触れ
ての旅は楽しい。
レイス王国は比較的温厚な人が多いのか、お王子様として村や街
552
を通れば歓迎されたし、酒場で旅人だと言ったら一杯奢ってくれた。
そんな旅も今日で終わりだったりする。
レイス王国の王都をぐるりと囲む堅牢な城壁を見ながら、六年ぶ
りに会うことになるアールベルトを思い出す。
今思えば誘拐されかけたアールベルトを助けてからの付き合いだ、
お互いに既に十七歳になっている。
この六年で沢山のことを学んだし、ロンダークさんには宣言通り
かなり鍛え直された。
リステリア母様いわく若い頃の父様に生き写しらしいです。
もともと美少年だったアールベルトはきっと美青年になっている
ことだろう。
﹁さて我が友に祝言伝えに行きますか﹂
﹁くれぐれも問題を起こされませんようにお願い致します﹂
うん、ロンダークさんは六年経っても苦言をくれる良き師です。
553
大国は迎賓館も立派だなぁ
無事に足を踏み入れたレイス王国の王都は、お祭り騒ぎになって
いた。
あちらこちらに色とりどりの花が飾られ、城へと続く石畳の敷か
れた大通りには人が溢れ、祝杯を上げる楽しげな笑い声や陽気な音
楽にのって歌い踊る人々の声がそこかしこから聞こえてくる。
2階建ての赤煉瓦を詰んで建てられた民家と民家のあいだを渡す
ように鮮やかな色彩の反物が渡されお祭りを盛り上げていた。
あちらこちらから自国の王太子を讃える声が上がっているところ
を見ると、どうやらませガキだった私の友は心優しく聡明で慈悲深
い王子として国民に愛されているようだ。
自国の王太子が作ってくれる明るい未来に思いを馳せ、多くの国
民が心から祝福しているのがわかる。
途中先に王都入りしていた先行が確保してくれていた宿へと向い、
レイス王国の王城へ上がるのに不具合が出ないように長旅の汚れを
落とし、レイナス王国の国王代理として、ふさわしい服装に着替え
た。
また先駆けを出して王城へ到着した旨を知らせている。
祝いの品を積み込んだ幌馬車に道中付ける事がなかったレイナス
王家の紋章が大きく刺繍された幌を被せる。
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基本的に箱馬車は見栄えはするものの長距離移動には向いていな
いため、他国からの賓客は隊列を組んだ幌馬車で王都へやってくる。
貴賓到着の知らせを受けた王城から立派な造りの箱馬車が迎えに
来て、賓客はそちらに乗り込み、自国の国旗を掲げて入場するのは
レイナス王国もレイス王国も一緒らしい。
ロンダークさんいわくミリアーナ叔母様がドラグーン王国へ嫁が
れた際にも同じような手順がなされていたらしい。
知らんがな、初めての他国訪問で浮かれてたのか、温泉に入った
記憶が鮮明であまり覚えていないし。
レイス王国滞在中は王城内にある迎賓館で過ごす事になる。
立太子式は二日後に行われる事になっているのでその前にアール
ベルトに会う機会はあるだろう。
案内された迎賓館はとても立派な造りをしていた。
二階建ての外壁は王城と同じく赤煉瓦で組まれ、正面から見ると
左右対称な造りだとわかる、石階段を上がり美しく彫刻が彫り込ま
れ立派な石造の柱に守られている。 室内外を隔てる木製の大きな扉は青銅で補強されていてとても頑
丈そうだ。
有事の際に扉を破るのは大変だろうなと思いながら玄関を通り抜
けると、ロビーは吹き抜けになっており床には絨毯が敷き詰められ、
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ロビーの中央に大階段とシャンデリアが飾られていた。
迎賓館には建物の中央に中庭を作ってあるらしく、私達が案内さ
れたのは東側の貴賓室だった。
案内された貴賓室はレイナス王国の自室より広く、5つの客室と
食堂兼ホールは他国の賓客との会食にも使える十分な広さがあり、
深い赤の絨毯が敷き詰められ、黒檀のテーブルにレースや刺繍が施
された純白のテーブルクロスが設置されている。
迎賓館にはレイナス王国の他にレイス王国と国交のあるドラグー
ン王国、グランテ王国、フレアルージュ王国、マーシャル皇国、ゾ
ライヤ帝国からの参列者がそれぞれ滞在しているそうだ。
そしてスノヒス国からは双太陽神教の枢機卿であるアンナローズ
様が来ているらしい。
あの幼児愛好家、枢機卿の地位まで上り詰めたのか。
今は双太陽神教の法王猊下となられたロブルバーグ様との約束も
未だ果たせずにいる。
早いとこ会いに行かないと本当に化けてでるんじゃなかろうか⋮
⋮国へ帰ったら父様に聞いてみよう。
ちなみに各国の貴賓室はどの部屋にも同じような部屋数と立派な
暖炉がついているらしい。
レイナス王国に用意された貴賓室には白い暖炉と同じく白い天井
からはシャンデリアが下がっていて、深い緑色の壁紙でデザインが
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統一され気品がある。
いずれもレイス王国産の逸
廊下、客室、食堂等あらゆる場所にさりげなく置かれた花瓶や壷、
置物、椅子、ソファ、テーブル等は、
品だ。
部屋を支える太い柱に施された豪華な浮き彫りも美しくかつ、掃
除が大変そうだ。
しばらく荷解き等を済ませていると、アールベルトが会いたいと
先触れに従者を派遣してくれたため、急ぎ衣類を整えて先導する従
者に従い王城へ足を踏み入れた。
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マリア王妃とナターシャ姫
従者に案内されたのは王城の一階に造られた応接室だった。
国賓へも対応可能な応接室は家具や装飾品全てが高級品で品が良
く纏められている。
応接室へ通されてさほど待つことなく、入室してきた人物をソフ
ァーから立ち上がり出迎える。
ドラグーン王国から無事に帰国していることはやり取りしている
文で知っていたが、久しぶりに会うアールベルトはすっかり成長し
別人のようになっていた。
﹁お久しぶりです、シオル殿下この度は立太子式にご臨席いただき
御礼申し上げます﹂
﹁アールベルト王太子殿下、この度は立太子、心よりお祝い申し上
げます。 益々の飛躍をとげられますようお祈り申し上げます﹂
白々しく他人行儀な挨拶を交わして、数秒後に私とアールベルト
はお互いに違和感からどちらともなく吹き出して笑いあっていた。
﹁堅苦しいのはやめようアールベルト、笑いすぎて腹が痛いわ﹂
﹁ふっ、確かに。 シオル無事で良かった、ミリアーナ王妃陛下は
ご息災か?﹂
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﹁あぁ、お元気だよ﹂
他愛ない会話をしていると応接室の外が騒がしくなった。
﹁あれ、なんだろう?﹂
﹁お兄様ー!﹂
疑問の声を上げると、応接室の扉が勢い良く開かれて、ピンク色
の塊が飛び込んでアールベルトの右太ももに両手両足を絡めるよう
にして飛びついた。
咄嗟に腰に佩いた愛剣シルバの柄に手を掛けたか、飛び込んでき
たのが小さな女の子であることを確認して手を離す。
﹁ナターシャ⋮⋮﹂
アールベルトは額に右手を、当てて小さくため息を吐いたあと右
太ももに抱きついた幼女の両脇に手を入れて軽々と抱き上げた。
﹁ナターシャ? 今の時間は母上と刺繍のお勉強の時間だろう?﹂
﹁いや∼! ナターシャはアールベルト兄様と遊ぶの!﹂
柔らかそうな頬を膨らませているナターシャ姫が可愛くて小さい
頃のキャロラインを思い出す。
もうすっかり男装麗人と化してしまったけど⋮⋮
﹁ナターシャ姫はじめまして?﹂
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そう目の前の小さなお姫様に挨拶をすると、青紫の瞳をこれでも
かと見開いてコテンと首を傾げた。
ハーフアップに纏められ銀細工の髪飾りが飾られた波うつ金茶色
の髪がサラサラと流れ落ちる。
﹁だぁれ?﹂
どこか舌っ足らずな誰何が可愛い。
﹁私はレイナス王国からきた君の兄上の友人でシオル・レイナスだ
よ﹂
簡単に自己紹介をすれば、あまりにも端折り過ぎたのかアールベ
ルトは苦笑し、ナターシャ姫に改めて紹介してくれた。
﹁前に話したことがあるだろう? ドラグーン王国の向こう側にあ
るレイナス王国のお王子様だよ﹂
しばし考えてからナターシャ姫がアールベルトの耳元に内緒話で
もするように顔を寄せると、アールベルトは優しい顔で頷き静かに
ナターシャ姫を床へとおろした。
﹁はじめまして! レイス王国第一王女ナターシャ・ウィル・レイ
スです﹂
何度か私とアールベルトの顔を見比べ、ピンク色のドレスの裾を
つまみ上げ、慣れない仕草で淑女の礼をしてくれた。
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﹁はい、アールベルト殿下のように私とも仲良くしていただけると
うれしいです。小さく可愛いレディー?﹂
ナターシャ姫と視線の高さを合わせるようにしゃがみ込みそう告
げると、恥ずかしくなったのかモジモジした後アールベルトの後ろ
へ隠れてしまった。
そんなナターシャ姫の様子に視線を蕩けさせる友をニヤニヤと見
やれば、眉根をしかめて睨まれた。
﹁その気持ち悪い顔をはやく隠せ、ナターシャが汚れる﹂
我が友ながら酷い言い草だ。
﹁気持ち悪いって酷くないか? 可愛いレディーを愛でる権利くら
い私にもあるんだけど﹂
﹁見るな減る﹂
﹁ひどっ!﹂
そんなやり取りをしているとどうやらナターシャ姫のお迎えが来
たらしい。
﹁こちらにナターシャが来ていないかしら?﹂
アールベルトが入室を許可したあと応接室に現れた人物に深く頭
を下げる。
﹁お母様!﹂
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ナターシャ姫は素早くアールベルトの後ろから飛び出して入室し
てきた美女にとびついた。
﹁母上まで、今来客中なのですか⋮⋮﹂ ﹁あらあらあらごめんなさい﹂
ナターシャ姫とそっくりの金茶色の長い髪を上品に纏め上げ、美
しいアメジストのような青紫の瞳をした美女をアールベルトは母上
と読んだので、レイス王国のマリア王妃殿下で間違いないだろう。
﹁母上、こちらはレイナス王国の第一王子シオル・レイナス殿下で
す﹂
﹁お初にお目にかかります、シオル・レイナスと申します。 この
度はアールベルト殿下の立太子式お祝い申し上げます﹂
祝辞を述べて顔を上げると、マリア王妃殿下は目をぱちぱちと瞬
かせた。
﹁我が国へようこそいらっしゃいました。 お祝いのお言葉感謝い
たします、アールベルトから聞いてはいましたが、お父上のアルト
バール陛下の若い頃によく似て美丈夫ですわね﹂
あれ? マリア王妃殿下は父様とお知り合い?
﹁アールベルト陛下とはドラグーン王国のセントライトリア学園で
お世話になりましたの﹂
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どうやら思っていたことが顔に出ていたらしく、クスクスと笑わ
れてしまった。
﹁うふふ、アールベルト陛下はとても情熱的にリステリア様愛して
いらっしゃるご様子でご令嬢方の中にはお二人の関係を応援する親
衛隊までありましたの、シオル殿下も素敵な方と恋をなさるのかし
らね﹂
親衛隊ってどんだけですか父様! やっぱり馴れ初めを追求する
必要がありそうです。
﹁⋮⋮精進いたします﹂
現在身分を越え、大陸を股にかけた大恋愛中ですとは言えないの
で曖昧に流しておく。
﹁母上、シオル殿下が困っておられますよ、それにナターシャを捜
しにいらしたのでしょう? 母上が話し込んていらっしゃるうちに、
ほら逃げられますよ?﹂
アールベルトの言葉に応接室の扉から気配を消すようにして逃げ
出すナターシャ姫がいた。
﹁わっ、見つかった!﹂
﹁あっ、こら待ちなさい! シオル殿下、アールベルトと仲良くし
てあげてくださいね、ごゆっくりしていらしてね﹂
マリア王妃殿下は簡単に挨拶を済ませてナターシャ姫を追いかけ
るように退出して行った。
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﹁すまない、マリア王妃殿下は大変気安い方なんだ⋮⋮多分昔から
母上にシオルの事を話していたから初めてあったような感じがしな
いんだろう、先程の対応も身内扱いだったし﹂
他国の賓客に対して大変なフランクな方だなぁとは思ったが、ま
さかの身内扱い。
﹁気にしなくて良いよ、私としても仲良くさせて頂きたいからね﹂
﹁すまない、普段は賓客にあのような対応をされる方ではないんだ
が⋮⋮﹂
アールベルトは自分の母の普段とは違う対応に戸惑っているよう
だった。
。
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お転婆姫の襲撃
どうやら立太子式の主役は忙しいらしく、その後少しして応接室
で別れた。
どうやら他の来賓が入城したらしく挨拶に行くらしい。
ロンダークさんは静かに護衛についてきている。
城内であればレイス王国側で各国の賓客の護衛につけた騎士が一
緒であれば政務に関係ない王城の1階部分や庭園などなら自由に出
入りできるそうなので、晩餐会までの間に庭園にあるお勧めの大き
な湖に行ってみることにした。
美しく整えられた庭園は春の陽射しが緑の木々の葉をすり抜け、
光の筋がキラキラと輝いている。
色とりどりの花たちが選定され美しく配置されていて、お勧めす
るだけのことはあるようだ。
レイス王国はレイナス王国よりも気候が穏やかで過ごしやすい土
地柄にある。
しばらく庭園を散策していたら、湖の岸辺には先客が居たらしく、
私あまり歳が変わらなそうな青年が三人ほど集まっていた。
﹁アールベルト殿下に王太子は無理だろう﹂
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﹁病弱な王太子なんて他国に付け入る隙を与えるだけだって﹂
ボソボソと聞こえて聞こる声に、眉をひそめる。
アールベルトの何をどう見れば病弱なんて話が出て来るのか。
注意しようかと思った瞬間、ピンク色の塊が生け垣から飛び出し
て貴族の青年の背後に走り寄る。
﹁天誅﹂
よく見ればピンク色の塊、ナターシャ姫が繰り出した飛び蹴りは
青年の膝の裏に綺麗に決まり、バランスを崩した青年は助けようと
した仲間を道連れに湖に沈んだ。
もう一人の青年がナターシャ姫のドレスの背中を捕まえる。
青年が落ちた二人に気を取られた隙をついて、正装を纏った少年
が生け垣から走り出し、ナターシャ姫がしたように青年の背後にま
わると膝の裏を蹴りつけた。
青年がバランスを取るため咄嗟にナターシャ姫を放した隙に少年
はナターシャ姫を回収すると、青年らが湖より上がって来るよりも
早くナターシャ姫を抱き上げ退却していく。
﹁兄様を悪く言う人は、誰が赦しても私が赦さないんだから!﹂
可愛らしい声が捨て台詞とともに庭園に響き渡る。
﹁とんだお転婆姫だ﹂
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私はロンダークさんと湖に近づき、レイス王国の護衛騎士ととも
に青年らを水の中から引き上げる。
ナターシャ姫について悪態をついていたので一瞬また水の中に沈
めてやろうかと思ったけれど、流石に他国の貴族を沈める訳にはい
かない。
﹁あっ、ありがとうございます﹂
助け出された青年は私の正装に飾られたレイナス王国のエンブレ
ムに気が付いたようでみるみるうちに顔が青ざめた。
﹁あまり我が友アールベルトを悪く言うのはやめたほうが良いね、
ナターシャ姫ほど感情的に動くことは無いけれど、あまり気分が良
いものではないね﹂
﹁あの、もしや聞いていらっしゃったのですか?﹂
﹁えぇ、貴方の発言からナターシャ姫の襲撃まで見させていただき
ましたよ﹂
自国の王太子を他国の賓客の前で貶めるなど本来ならば不敬罪や
ら反逆罪やらに問われても仕方がない。
﹁彼等の身元は解りますか?﹂
後ろにいるレイスの騎士に問いかければ、苦虫でも噛み潰したよ
うな顔で青年らを睨み頷いている為、彼等の処遇を任せることにし
た。
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﹁何か証言が必要であれば、声を掛けてください。 私が見たまま
をお話いたしますので﹂
﹁ご協力感謝いたします﹂
証人として立候補すれば深く頭を下げられた。
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兄馬鹿二人
ナターシャ姫による貴族子息蹴落とし事件は、レイス王国に新た
な出会いをもたらした。
どうやらまだ正式には発表されていないが、マーシャル皇国の第
一皇子カイル・アーレイ・マーシャル殿下とレイス王国のナターシ
ャ・ウィル・レイス王女殿下の婚約が内定したらしい。
さて、なぜ他国の王子である私が、正式発表前にこんな重要な情
報を知り得たかと言うと、夜会後にお酒をもって私の滞在している
迎賓館を内密に訪ねてきた人物のおかげです。
﹁うぅ∼まだ五歳になったばかりのナターシャに婚約なんて! 早
過ぎると思うだろう!?﹂
夜会で既に酒精が回っていたアールベルトはそう言って管を巻い
た。
見事な絡み酒だ。 行儀悪く高級品であるテーブルに、お酒の入
ったグラスを叩きつける。
﹁そうだな⋮⋮早いかもな﹂
王侯貴族なんて産まれる前から婚約者がいることも珍しくないけ
れど、それを酒が回っているアールベルトに告げれば、更に絡まれ
るだろうことがわかっているので適当に相槌を打つ。
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﹁兄様のお嫁さんになるなんて可愛いことを言うから、兄妹では結
婚はできないって教えたんだよ。 だからってさ、まさかカイル殿
下のお嫁さんになるって宣言されるとは思わないじゃないか﹂
血の涙でも流さんばかりに悲嘆するアールベルトの空いたグラス
にワインを注ぎ足す。
﹁まぁ、基本的にはおめでたいことだろう?﹂
﹁シオルはキャロライン王女が突然連れてきた男を見せられて﹃こ
の人と結婚します!﹄って言われたらどう思う?﹂
なぬ、あの男装麗人とかした可愛いキャロラインが隣にどこの誰
ともしれぬ馬の骨を伴って、そんな暴言をはく姿を想像して思わず
グラスを持つ手に力を入れ過ぎたらしい。
バリンと音を立ててグラスにヒビが入り、割れてしまった。
﹁うわっ!?﹂
﹁あっ、ごめん﹂
﹁何やってんだよ⋮⋮﹂
幸い中身はほとんど飲み干していたし、幾度となく血豆が潰れる
鍛錬を積み重ねて愛剣シルバを振り回し続けた両手の皮は、前世で
は信じられない硬度と化している。
今ではグラスの破片を握り込んだくらいじゃ血も出ない。
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酒でふらつく足で椅子から立ち上がると、アールベルトは部屋の
外に待機している侍女に指示を出した。
直ぐに入室してきた侍女たちの手で手際良くテーブルの上が清め
られて行く。
﹁はぁ、妹でこんな気持ちになるなら父上の心情は想像を絶するな
⋮⋮﹂
﹁本当にな、まぁもしもうまく行かないときは迎えに行けばいいん
じゃないか? ミリアーナ夫人は今幸せそうだよ﹂
﹁そうだな、もしもの時は攻め滅ぼしてでも取り返せば済む話か﹂
﹁アールベルト、冗談に聞こえないんだけど⋮⋮﹂
﹁気にするな、ただの酔っぱらいの戯言だよ﹂
ニッコリと見る者を魅了するような美しい微笑みを浮かべながら
話すアールベルトの言葉にゾクリと悪寒が背筋を駆け上る。
急激に下がった空気を払拭するようにアールベルトは、新しく用
意させたグラスへとワインを注ぎ手渡してきた。
﹁まぁ今夜は飲もう! しかしこの料理は美味いな﹂
先程までのお酒のお供に出したたまり醤油ベースで味付けした鳥
肉の照り焼きをフォークで口へ運んではご機嫌な様子でグラスを空
けていく。
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﹁レイナス王国で新しく出来た調味料を使ってるんだよ。 祝いの
品にも持ってきたから、気に入ったら買ってくれると嬉しいな﹂
酒の席だからだろう、お互いに軽口をたたきながら、将来国を背
負う者同士でいかに妹や家族、国民を愛しているかを語らい飲み明
かした。
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PDF小説ネット発足にあたって
http://ncode.syosetu.com/n0851cv/
二度目の人生は男ですか!? 元喪女に王太子は重責過
ぎませんかね?
2017年3月27日12時55分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。
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