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酒井和也の翻訳と絵画 - ラテンアメリカ・カリブ研究

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酒井和也の翻訳と絵画 - ラテンアメリカ・カリブ研究
ラテンアメリカ・カリブ研究 第 22 号: 13–22 頁 © 2015
〔研究ノート〕
酒井和也の翻訳と絵画
―移動を続けた帰国二世の軌跡―
高木 佳奈 (Kana Takaki)
東京外国語大学大学院博士後期課程
1. はじめに
文化を牽引していた文化人グループに属してい
本稿は、酒井和也(1927-2001)という一人
た。また、ジャズの批評も数多く手がけ、ラジ
の帰国二世1 について論じるものである。アル
オのパーソナリティを務めるなど、多彩な活動
ゼンチン、メキシコ、米国で画家として名をあ
を行った。
げ、数々の日本文学を翻訳し、大学で文学や美
とはいえ、現在までの酒井の評価は絵画や翻
術を教えるなど、その活動は多方面にわたる。
訳の個別の分野に限定されており、上述した多
日本では未だ無名に近いが、酒井が生まれたア
分野にまたがる表現者としての全体像は未だ明
ルゼンチンでは、2013 年に絵画の回顧展2 の開
確にされていない。そこで本稿では、酒井の出
催と文学の講義録3 の出版が重なり、その業績
自を辿りつつ、画業と翻訳業の両面から業績を
が再評価されている。実際、古典文学から芥川
まとめ、酒井和也という一人のマルチアーティ
龍之介、安部公房まで、日本文学を幅広くスペ
ストの全体像を描き出すための手がかりを示し
イン語に初訳しており、ラテンアメリカにおけ
たいと思う。
る日本研究を切り開いた人物として知られてい
る。画家としては、南北アメリカの各地で個展
を開き、メキシコでは雑誌『プルラル (Plural)』
のデザインの担当もしており、当時のメキシコ
1 帰国二世とは、アルゼンチンで生まれた日系二世のう
ち、教育を受けるために日本に渡り、その後帰国した者のこ
とである。米国には、帰国二世に相当する用語として、
「帰
米」がある。
2 ブエノスアイレス現代美術館 (Museo de Arte Contemporáneo de Buenos Aires) では酒井の中期の作品を中心と
した「酒井和也 音楽の心から生まれた絵 (Kazuya Sakai.
La pintura desde el espíritu de la música)」と題する個展が
2013 年に開催された。
3 Sakai, Quartucci, 2013。また、編者のギジェルモ・クア
ルトゥッチ (Guillermo Quartucci) による記念講演会が、2013
年 8 月にラテンアメリカ・アジア・アフリカ学会 (Asociación
Latinoamericana de Estudios de Asia y Africa) 第 14 回国際
大会(国立ラプラタ大学)にて行われた。
2. ロベルトと和也
画家としても翻訳家としても酒井和也の名前
で知られているが、二世である酒井は、ロベル
ト (Roberto) というスペイン語の名前も持って
おり、それを使い分けていた時期があった。こ
の二つの名前の使用は、酒井の表現を読み解く
鍵になると考えられる。まず、その生い立ちを
見ていこう。
酒井は 1927 年 10 月 1 日、ブエノスアイレス
わいち
に生まれた。父和一は佐賀県神崎郡三田川村の
出身で、ブラジル移住第二陣に参加し、コーヒー
園契約労働者として 1910 年に移住した。翌年
14
高木佳奈
にアルゼンチンに転住し、1916 年からブエノ
に志願兵となり、酒井もまた中学在学中に学徒
スアイレス市内コリエンテス大通りでカフェ店
動員を経験している。特攻隊にいた帰国二世の
「ハポネス」4 を営んでいた。母ナミも佐賀県人
比嘉エドゥアルドは「軍隊で二世と知られたら
で、一時帰国した和一に伴われて 1924 年にア
大変だ。殺されてしまう。それで二世というこ
ルゼンチンに渡っている。
とは全然、口にしなかった」
(アルゼンチン日本
酒井は、三人兄弟の次男5 として生まれた。
人移民史: 70)と述べているが、
「日本人」とい
1933 年には経済的な事情から一家はサンタフェ
う単一的なアイデンティティを強要する戦前の
州ラファエーラ市に引っ越し、洗濯店経営に転
風潮は、酒井にとっても息苦しいものだったに
6
向している。38 年 6 月 、酒井は日本で教育を
受けるため兄とともに佐賀県の伯母のもとに送
7
違いない。
それを裏付けているのは、戦後、酒井が残した
られた 。兄アルベルトは 12 歳、酒井は 10 歳
Roberto Sakai というスペイン語のサイン10 だ。
だった。まだ幼かった弟のホルヘは 2 年後に来
後述するように、二世であることを示すこの
日している。
Roberto という名前は帰国後の 53 年頃まで使
戦前戦後の動乱期を日本で過ごした経験は、
用されており、時に二つの名前が使い分けられ
アルゼンチン生まれの二世である酒井のアイデ
ていた。後年、酒井はあるインタビューで、
「私
ンティティ形成に大きな影響を与えたと考えら
はアルゼンチン人、そしてラテンアメリカ人だ
8
れる。三兄弟は佐賀県の春日尋常小学校 、旧制
9
佐賀中学校 を卒業している。兄は大学在学中
4 福島県出身の七草木万之丞との共同経営だった。
5 酒井の二人の兄弟は、両者とも日系社会に貢献した人
物である。長男和民/アルベルト (Alberto) は後に在亜日
本人会の副会長を務めた。三男和明/ホルヘ (Jorge) はブ
エノスアイレスの日本語学校、日亜学院の理事長を務めて
いる。特に兄アルベルトは、Namio Sakai というペンネー
ムで永井隆『長崎の鐘』(1949) をスペイン語に翻訳 (1955)
するなど、酒井の活動にも影響を与えたと考えられる。な
お、両者ともスペイン語名で知られているため、それぞれ
アルベルト、ホルヘと表記する。
6 酒井の日本留学を 1934-35 年とする資料もあるが、筆
者が行った弟ホルヘへのインタビューの証言と、
『アルゼン
チン日本人移民史』の記述から、本稿では 1938 年とする。
7 酒井家のように、子供を日本に単身留学させることは
珍しくなかった。戦前の移民に定住の意思はなく、いずれ
は日本に帰国する計画だったため、子供の日本語能力やそ
の後の教育を案じた親が多かった。
8 弟ホルヘの初等科 6 学年の通信簿、家庭・環境欄には
以下のように記されている。
「父母ハ南米アルゼンチン在住
スルコト二十有餘年ニシテ今日ニイタリ洗濯業ヲ営ム。共
ニ教育ニ熱心ニシテ最愛ノ子三人トモ手放シシテ (ママ) 帰
国セシメ内地ノ教育ヲ受ケシム。尚当村教育ニ対シテモ積
極的ニ援助ス。長男次男共ニ佐中在学中ナリ。現在の保護
者中原タツハ母ノ姉ニシテ、本村尼寺ニ居住シ真ニ親代リ
トナッテヨク甥ノ面倒ヲ見ル。全ク涙グマシキ観アリ」
(ア
ルゼンチン日本人移民史: 66-67)
9 佐賀中学は 44 年春に全国一の軍人志望校として陸軍大
臣表彰を受けるなど、軍国主義の風潮が強く、厳しい校則
でも有名だった(佐賀市史: 786)。
と感じているし、そうアイデンティファイしてい
ます。同時に、私が日本人であるとも感じてい
ることは否定できないし、おそらく日本人として
行動し、思考し、反応しているのでしょう」11 と
10 弟ホルヘによって日亜学院図書館に寄贈された酒井の
蔵書の中に、サインと日付、地名が記されているものがあ
る。そのほとんどが Roberto Sakai というスペイン語名(一
部に酒井和也、Kazuya Sakai)となっている。
11 インタビューでは次のように述べている。“Soy argen-
tino de nacimiento y fui criado en Japón. Mis padres querían
que fuera japonés y evidentemente lo soy–la apariencia no
engaña en este caso–, y mi poca educación es japonesa, pero
puedo decir que me siento y me identifico como argentino
y latinoamericano. Al mismo tiempo, no podría negar que
me siento japonés y posiblemente actúe, razone, y reaccione
como un japonés. Esa ambivalencia es constante por esa
carencia de pertenencia. Me habitué a la necesidad de integrar las dos partes tratando de definir mi identidad cultural.”
[Del Conde: 20]「私は生まれから言ってアルゼンチン人で
あり、日本で教育を受けました。両親は私に日本人であっ
てほしいと願っていたし、私が日本人であることは疑う余地
がないでしょう
私の場合、顔はうそをつきません
、
また私が受けたわずかな教育も日本のものです。しかし、
私はアルゼンチン人、そしてラテンアメリカ人だと感じて
いるし、そうアイデンティファイしています。同時に、私
が日本人であるとも感じていることは否定できないし、お
そらく日本人として行動し、思考し、反応しているのでしょ
う。ひとつの帰属先を持たないために、私は常にこうした
曖昧な状態に置かれています。私は自分の文化的アイデン
ティティを定義するために、アルゼンチン人、ラテンアメ
酒井和也の翻訳と絵画
15
述べている。このような「二世」ならではの複
庭を築いたが、56 年には父の事故死を経験して
雑な心情が、名前の使い分けから見て取れるの
いる。
である。
酒井が日本語名とスペイン語名を使い分けて
戦後、1948 年に兄と弟はアルゼンチンへの
いたことは前述したが、それが顕著に見られる
帰国を果たすが、酒井は病気療養のため一人日
のがこの時期である。『亜国日報』での連載で
本に残ることとなった。その後酒井は早稲田大
は、当初ロベルト・サカイ15 の名前を用いてお
学文学部に入学したが、帰国のため中退してい
り(50∼53 年)
、Kazuya Sakai の名で活動して
12
る。ようやく帰国できたのは 1950 年 のこと
いた画業(52 年∼)と翻訳業で名前を使い分け
だった。兄弟たちに遅れること二年、母親代わ
ていたことがわかる。54 年から翻訳でも酒井
りとなって育ててくれた伯母と共に、2 月 14 日
和也/ Kazuya Sakai の名が使われるようにな
に横浜を出航し、同年 4 月 21 日にブエノスア
り、その後の多彩な活動においても一貫してこ
13
イレスに到着 した。
の名前を使用している。興味深いのは、酒井が
公の場で使用する名前を統一したのとほぼ同時
3. 翻訳家及び日本文化紹介者として
まず、帰国後から晩年までの酒井の軌跡を辿
期に、彼の翻訳活動が大きな転換を迎えている
点である。
りながら、翻訳業と日本文化紹介における業績
画家としての顔を別にすれば、日本文学をスペ
を取り上げる。帰国後、酒井はコルドバ大学芸
イン語に訳した人物として知られている酒井だ
術科で学ぶ傍ら、ブエノスアイレスの邦字新聞
が、実は『亜国日報』に掲載された彼の最初の翻訳
14
『亜国日報』 に詩や短編小説の翻訳と、演劇、
は、エルネスト・サバト (Ernesto Sabato)16 、マヌ
映画等の批評を掲載するようになる(1951 年
エル・ムヒカ・ライネス (Manuel Mujica Láinez)、
∼54 年)
。52 年には初の絵画個展を開催してお
ロベルト・アールツ (Roberto Arlt)17 といったア
り、翻訳家としても画家としてもほぼ同時期に
ルゼンチン文学の日本語訳だった18 。酒井は高
キャリアを歩み始めている。長年離れ離れだっ
い言語能力と日本で受けた文学の専門教育を活
た家族のいるアルゼンチンに帰国し、53 年には
かし、世界的なラテンアメリカ文学のブーム以
日系二世のスミコ・カワノと結婚して自らの家
前に、ほぼ同時代の作品の翻訳を日系社会に提
リカ人である自分と、日本人である自分を統合しなければ
ならないと考え、ずっとそうして生きてきたのです。」
12 資料によっては酒井の帰国を 1951 年としているが、筆者
が行った同船者横堀治雄および弟ホルヘへのインタビュー
の証言、ラテンアメリカ移民研究所 (Centro de Estudios
Migratorios Latinoamericanos) の資料から 1950 年で間違
いないと思われる。
13 酒井が乗船した 1950 年のオランダ船ルイス号は、戦
後初の移住再開(呼び寄せ移住)として注目を集め、日本
の新聞にも取り上げられた(読売新聞 1950 年 2 月 14 日
朝刊、毎日新聞 1950 年 2 月 15 日)
。戦後の二世の帰国は
48 年から始まっているが、これはあくまでアルゼンチン国
籍を持つ者に限定されていた。ルイス号には、アルゼンチ
ン在留邦人の近親者に限定されてはいたが、新たな移住者
が乗船していた。
14 1947 年創刊、1991 年廃刊。本稿では新字体に直して
表記する。
供していたのである19 。
しかし、酒井がスペイン語文学の翻訳に携わっ
15 酒井ロベルトという表記も見られる。
16 翻訳する上で兄アルベルトの協力があったことが述べ
られている。
17 Robert Arlt のカタカナ表記はいくつか見られるが、本
稿では酒井の翻訳に従う。
18 他にフェデリコ・ガルシア・ロルカ (Federico García
Lorca) やパブロ・ネルーダ (Pablo Neruda) といったアルゼ
ンチン以外の詩人の作品も翻訳している。兄も酒井アルベ
ルトの名で「ベッケル抒情詩」を掲載している。
19 他に一世である興村禎吉がアルゼンチン文学の古典『マ
ルティン・フィエロ (Martín Fierro)』を 62 年に、
『ドン・
セグンド・ソンブラ (Don Segundo Sombra)』を 74 年に翻
訳しているが、サバトら現代作家の翻訳はおそらく酒井が
初めてだろう。
16
高木佳奈
た時期は短く、日本文学のスペイン語訳へとそ
中でも特に重要なのが、ホルヘ・ルイス・ボ
の活動をシフトさせていく。と同時に、使い分
ルヘス (Jorge Luis Borges)24 が序文を寄せてい
けられていた名前も Kazuya Sakai に統一され
る『河童、歯車』である。芥川の作品は 50∼60
る。ロベルト・サカイという名前は、日系社会
年代にかけて王朝物を中心に世界各国で翻訳さ
において二世であることを明示しており、自身
れたが、翻訳数の少ない「歯車」の酒井による
を一世と区別する意味も持っていたと考えられ
スペイン語訳は、世界的に見ても早い時期に登
る。一方 Kazuya Sakai という名前は、単純に
場している25 。海外の読者に好まれた王朝物だ
「日本人」と見られてしまう可能性が高いが、日
けでなく、作家芥川を理解する上で重要な作品
本文学の翻訳者として生きる上では戦略的価値
をいち早く翻訳した酒井は、単なるジャポニズ
を持ったことだろう。こうした名前の変化から、
ムに終わらない日本文化紹介を目指していたの
酒井が日系社会にとどまらず、より広いアルゼ
だろう26 。
ンチン社会を活躍の場として見るようになった
ことがうかがえる。
文学作品の翻訳以外にも、アルゼンチンでの日
本文化普及において酒井は重要な役割を果たし
日本文学翻訳のきっかけとなったのは、芥川
20
ている。日本大使館文化部に勤務し、日亜文化協
の『羅生門』の翻訳 (1954)だった。これに
会 (Instituto Argentino-Japonés de Cultura) 設立
は、前年にアルゼンチンで公開された黒澤明の映
に携わり、機関紙『ブンカ (BUNKA)』27 の編集長
画の成功が影響していたと考えられる。この映
を務めた。同誌では文学だけでなく茶道や書道
画をきっかけに日本文化への関心が高まり、57
など幅広く日本の文化を紹介した。また、詩人の
年にはアルゼンチンを代表する文芸雑誌『スー
オズバルド・スバナシーニ (Osvaldo Svanascini)
21
ル (Sur)』で日本文学特集 が組まれた。ここに
と共にムンドヌエボ社 (Mundonuevo) からアソ
芥川の「袈裟と盛遠」と三島由紀夫「綾の鼓」
カ・コレクション (Colección Asoka) を刊行し、
が、酒井による翻訳で掲載された。その後酒井
東洋の思想、芸術、文化に関する著作を数多く
は次々と翻訳を発表し、日本文学の翻訳者とし
出版28 している。
て認知されるようになる。この時期に出版され
22
たものとして、芥川の『地獄変』
(1959) 、
『河
23
童、歯車』
(1959) 、三島由紀夫『近代能楽集』
(1959)
、太宰治『斜陽』
(1960)
、鈴木大拙『禅
仏教入門』(1960)がある。
20 「羅生門」
「藪の中」
「地獄変」を収録。
21 1957
年 249 号には、
「日本近代文学」と題してオクタ
ビオ・パスによるイントロダクション、ドナルド・キーン
による解説の他、石川啄木、谷崎潤一郎、志賀直哉、横光
利一、川端康成、太宰治、林芙美子、安藤一郎、萩原朔太
郎、北川冬彦、北原白秋、草野心平、宮沢賢治、中原中也、
中野重治、立原道造、高村光太郎、竹中郁、田中克己、与
謝野晶子、三島由紀夫の翻訳、Juan Pedro Franze による沖
縄音楽の解説が掲載された。
22 「羅生門」
「鼻」「藪の中」「袈裟と盛遠」「地獄変」を
収録。
23 「河童」
「歯車」を収録。
日本文化の紹介者として活躍の場を広げてい
24 酒井はボルヘスが編集長を務めた雑誌 La Biblioteca に
も寄稿している。またボルヘス自身も酒井と仏教について
議論したことを明かしている (Borges, Ferrari: 124)。
25 嶌田 2003: 563.
26 「歯車」の翻訳に関して、酒井は以下のように述べて
いる。「私が 1959 年に『歯車』を訳したのは、(中略)彼
の自殺へ至る精神的葛藤や苦悩や病的症状の発見を解く鍵
、 、 、 、
に違いない、これならば、そういうプロセスそのものの作
品として、人間芥川理解のために(中略)重要なものだと
思ったからでもあった。
(中略)精巧な作品よりも、こうい
うプロセスを示す作品に、より現代的な意義が含まれてい
ると思ったからである。日本のある時代の精神のドラマを、
そういう「歯車」のような作品に見出したと信じ込んでい
た。
」
(傍点は原文のまま)
(酒井, 1972: 275-276)
27 1957 年∼59 年まで、三号発行された。
28 他に、酒井による日本美術の解説書として『日本の版
画、浮世絵 (Las estampas japonesas, Ukiyoe)』
(1956)
、
『埴
輪:日本の古代彫刻 (Haniwa. Escultura antigua japonesa)』
(1960)がある。
酒井和也の翻訳と絵画
17
た酒井であったが、63 年に絵画の展覧会を開
なくジャズや美術批評の記事も数多く残してお
くために米国を訪れ、ニューヨークに短期滞在
り、酒井の多岐にわたる活動が凝縮されている
した後、アルゼンチンには戻らなかった。64 年
と言える。
にメキシコ大学院大学に招かれ、65 年から本格
メキシコにおける日本研究の先駆者の一人と
的にメキシコに移住している。同大学では 64
して知られた酒井だが、またしても安定した地
年に国際学研究所の一部門として新しく東洋
位を捨て、新天地テキサスへと向かう。77 年に
29
研究部門 が設立され、酒井はそこで日本の歴
テキサス大学オースティン校に招かれ32 、その
史や文学を教えた30 。日本近現代文学の解説書
後サンアントニオ校に移り、80 年から定年を迎
『日本:新たな文学に向けて (Japón: Hacia una
えた 97 年までダラス校に勤めた。テキサスへ
nueva literatura)』(1968)を出版した他、東洋
はラテンアメリカ研究者として招聘され、美術
研究部門が発行する雑誌『東洋学研究 (Estudios
一般を教えていたためか、日本文学の翻訳より
Orientales)』にて『方丈記』、
『枕草子』
、
『蜻蛉日
も絵画制作に力を入れていたようである。一箇
記』などの古典作品の抄訳を発表している。メ
所に定住することのなかった酒井だが、彼の終
キシコ国立自治大学へ移った後も、『能楽入門
の棲家となったのはダラスであり、2001 年に亡
(Introducción al Noh: Teatro clásico japonés)』
くなっている。
(1968) を出版し、上田秋成『雨月物語』(1969)、
安部公房『砂の女』(1971) を翻訳している。
メキシコ時代、酒井は雑誌『プルラル』と『ブ
4. 画家として
次に彼の画業を取り上げる。酒井はアルゼン
エルタ (Vuelta)』に参加し、非常に重要な役割
チンに帰国した直後から本格的に絵を描き始め、
を果たした。『プルラル』は 71 年にオクタビ
1952 年にラ・クエバ・ギャラリー (Galería La
オ・パス (Octavio Paz) によって創刊された雑
Cueva) で個展を開き、画家としてデビューする。
誌で、メキシコ国内外から著名な文化人が寄稿
ブエノスアイレスでは 1944 年以降抽象絵画が
していた。酒井はスペイン人画家のビセンテ・
流行し、酒井もその流れをくむ若手の画家とし
ロホ (Vicente Rojo) と共に表紙のデザインを手
て注目を集めた33 。酒井の作品には、初期のも
がけ、編集長とアートディレクターも務めてい
のから日本文化への言及が見られるが、それら
る。76 年に『ブエルタ』と名前を変えた後も編
は単純な日本の伝統文化礼賛ではない。ジャズ
31
集委員に名を連ねた。日本文学の翻訳 だけで
や現代音楽といった当時の最先端の文化から受
けたインスピレーションをもとに抽象的に表現
29 Sección
de Estudios Orientales。その後アジア・アフリ
カ研究所 (Centro de Estudios de Asia y África) へと名前を
された、酒井ならではの「日本」がそこには描
変えた。
30 詳しくは Sakai, Quartucci, 2013 を参照。クアルトゥッ
チの序文によれば、酒井は授業で取り上げるテクストをそ
の都度必要に応じて自ら翻訳し、学生に配布していた。そ
れらの翻訳は、後に出版されたものとは微妙に異なる場合
がある。
31 『プルラル』に掲載された翻訳として、
『徒然草』抄訳
(第 1 号)
、
『源氏物語』抄訳(第 9 号)
、安部公房『時の崖』
(第 15 号)
、ドナルド・キーン “Japanese aesthetics”、世阿
弥『通小町』
(第 16 号)
、芥川龍之介「虱」
(第 28 号)
、
『枕
草子』抄訳(第 30 号)がある。
かれている。しかし、酒井の作風は次々と変化
したため、その特徴を一言で言い表すのは難し
い。ここではその作風の変化を大きく三つの時
期に分け、酒井の移動と関連付けて論じたい。
32 Edward Laroque Tinker
財団のラテンアメリカ研究者招
聘制度(1976-77 年)による。
33 詳しくは Bayón, 1974 を参照。
18
高木佳奈
アルゼンチン時代から米国滞在を経てメキシ
へのオマージュ (Homenaje a Kōrin)》36 シリーズ
コ移住に至るまでの初期の作品には、幾何学的
はこの時期のものであり、ジオメトリズムと琳
表現から、アンフォルメル、コラージュといっ
派の曲線美を、原色を用いた強烈な色彩表現に
た様々なスタイルの模索が見られる。中でも 50
よって融合し独自のスタイルを完成させた。こ
年代後半から 60 年代前半のアンフォルメルの
のスタイルは『プルラル』のデザインでも遺憾な
時期の作品には、油絵具の黒を用いた書道を思
く発揮されている。とはいえ、70 年代に次々と
わせる表現が見られ、酒井の出自と結び付けて
制作された曲線のジオメトリズムは様々なテー
特徴の一つとされることが多い。アルゼンチン
マで展開されており、琳派に限定されているわ
時代は、酒井が表現者としてその活躍の場と手
けではない。マイルス・デイビス37 やジョン・
法を模索していた時期だと言える。翻訳家とし
ケージ38 の名前がタイトルに用いられた、音楽
てのキャリアを歩み始めた一方で、浮世絵や埴
の影響が顕著に表れているシリーズもある。
34
輪といった日本美術の解説書 を出版し、日亜
中期の代表作によって完成させたスタイル
文化協会を通じて様々な文化紹介に携わってお
を、酒井はまたしても壊し、新たな表現へと向
り、絵画に限らず多様な表現に触れていたと言
かう。テキサス移住後の 80 年代以降の後期の
える。日本にいた頃には当たり前に接していた
作品は、これまでのものと比べ、日本文化への
日本文化を海外で紹介する上で、新たに学び、
言及がより明確に現れるようになる。82 年頃
発見したこともあっただろう。
から制作し始めた《ゲンロク・シリーズ (Serie
このように様々なものを吸収し作品に還元し
Genroku)》39 に代表される作品群にはキュビス
ていた酒井だが、63 年のニューヨーク滞在は特
ム的な表現が見られ、松島や富士などの日本の
に有意義な経験となった。ここでジャズに魅了
風景が複雑な構成で描かれている。タイトルに
され、ジョン・ケージやイサム・ノグチと知り
ある元禄時代については、絵画では前述のよう
合っており、この経験はその後の創作に大きな
に琳派の影響を明らかにしてきたが、文学におい
影響を与えたと考えられる。
ても、
『日本:新たな文学に向けて』(1968) の中
メキシコ時代からテキサス移住後までの中期
35
で井原西鶴や近松門左衛門といった元禄文化を
の作品の特徴は、ジオメトリズム である。メ
日本近代文学の始まりとするなど、重視していた
キシコ移住後、酒井はコラージュを用いた作品
40
ことがわかる。他にも《サンスイ(Sansui)
》
の
を描いていたが、66 年頃から次第にジオメトリ
ズムに傾倒していく。60 年代後半は、三角形や
長方形を組み合わせた直線が中心のものだった
が、70 年代以降はそれが曲線と円の組み合わせ
へと変わっていく。酒井の代表作である《光琳
34 注
28 を参照。
35 ジオメトリズム
(Geometrismo) は幾何学的な表現を理
論的に取り入れた手法。メキシコでは 1976 年にジオメト
リズムに関する展覧会が開かれるなど、60 年代から 70 年
代にかけて流行した。詳しくは Manrique, et al, 1977 を参
照。
36 Homenaje a Kōrin. Serie II, No. 11, 1976 (Olas rojas en
Matsushima).Acríilico sobre tela. 160 × 160cm. Colección
de Museo de Arte Contemporáneo Buenos Aires. など。詳
しくは Sakai, 1975 を参照。
37 Miles in the Sky (Miles Davis), 1976 (7 paneles). Acríilico sobre tela. 160 × 160cm (cada uno). Colección particular. など。
38 Serie Homenaje a John Cage, “Winter music”. 1976.
Acríilico sobre tela. 180 × 250cm. Colección particular. な
ど。
39 Serie Genroku II, Matsushima #32, 1988. Acríilico sobre tela. 105 × 75cm. Colección particular. など。詳しく
は Sakai, 1987 を参照。
40 Sansui 14, 1990. Acuarela y tinta sobre papel. 185 ×
97cm. Colección particular. など。
酒井和也の翻訳と絵画
19
連作や《富嶽三十六景シリーズ(Serie “Thirty
合しなければならないと考え、ずっとそうして
Six Views of Mt. Fuji”)》41 などがあり、山水画
45
生きてきたのです。」
と。曖昧な状態に置かれ
や浮世絵からインスピレーションを受けて制作
ていたからこそ、酒井は「日本文化」や「ラテ
されたことは明らかである。93 年には《カケモ
ンアメリカ文化」とは何かという問いを追い続
42
ノ(Kakemonos)
》
という、掛け軸と雅印を用
けたのではないだろうか。そしてその両面を統
いた連作を発表している。
合しようとする生き方そのものが、彼の表現の
酒井は晩年まで表現の追求を続けた。95 年頃
から更に作風を変え、色彩を排除し、紙に墨で
43
複雑な線を描いた《セッソン (Sesson)》 や《ブ
44
原動力になっていたと考えられる。
これまで酒井の翻訳と絵画を分けて論じてき
たが、多彩な活動の根底には、ひとつのライフ
ソン (Buson)》 を残している。雪村や蕪村とい
ワークがあったと考えられる。酒井は「文化を
う、日本の伝統絵画への言及が見られるものの、
翻訳する」ことで、その文化を取り込もうとし
これまでとは全く異なる抽象表現に辿り着いて
たのではないだろうか。彼の表現は、様々な文
いる。
化の「翻訳」から生まれていた。琳派や浮世絵
などの伝統文化から、現代音楽や抽象絵画とい
5. おわりに
う最先端の表現まで、そして能楽や古典文学か
画家としての酒井は、自らのスタイルを築き
ら、安部公房のような前衛まで、多種多様な文
上げては壊し、刷新し続けてきた。そのような
化を翻訳しつつ吸収し、独自の表現へと昇華さ
画家は珍しくないが、帰国二世としての経験と、
せようとしてきた。ロベルトと和也という二つ
移動を続けた彼の人生を考えると、次々と作風
の名前を持ち、アルゼンチン、日本、メキシコ、
を変化させた背景には、表現の追求という造形
米国と移動を続けた酒井にとって、
「翻訳」は文
の目的以上のものがうかがえる。それは、対象
化と文化をつなぐひとつの生き方であり、そこ
への強い関心と、それを自分のものとし昇華さ
に表現の可能性を求めたのかもしれない。
せるという挑戦である。酒井が「日本人」でも
酒井は、帰国二世という、移民の中でも特異
あり「アルゼンチン人、ラテンアメリカ人」で
な経歴を持ったアーティストである。しかし、
もあると感じていたことはすでに述べたが、こ
特殊な経験をした酒井だからこそ、彼の表現か
うも言っている。「ひとつの帰属先を持たない
らは、人の移動に伴う文化接触と、そこに生じ
ために、私は常にこうした曖昧な状態に置かれ
る新たな創造性という、普遍的な問題が見えて
ています。私は自分の文化的アイデンティティ
くる。本稿では翻訳業、画業を中心とした酒井
を定義するために、アルゼンチン人、ラテンア
の業績紹介にとどめたが、詳細な作品分析や、
メリカ人である自分と、日本人である自分を統
酒井を移民研究の枠組みの中にどう位置づける
41 Real Mt. Fuji in Thunderstorm, Serie “Thirty Six Views
of Mt. Fuji”, 1991. Acuarela sobre papel. 169 × 122cm.
Colección particular. など。
42 Kakemono 4, 1992. Acrílico, papel, seda. 212 × 88cm.
など。詳しくは Sakai, 1993 を参照。
43 Sesson # 137, 1995. Tinta sobre papel. 137 × 60cm.
Colección particular. など。
44 Buson # 145, 1995. Tinta sobre papel. 137 × 71cm.
Colección particular. など。
かという問題は、今後の課題としたい。
45 Del
Conde: 20. 原文は注 11 を参照。
20
高木佳奈
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本稿は JSPS 科学研究費補助金(特別研究員奨励費)
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