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フリーダ・・ ロレンスとオツ トー ・ グロース
フリーダ・ロレンスとオットー・グロース 倉持三郎 1 はじめに D.H.ロレンス(Lawrence,1885−1930)の作家活動において、妻のブリ ーダ(Frieda,1879−1956)が大きな役割を演じていることはあきらかであ る。たとえば、『チャタレー卿夫人の恋人』の背後には、フリーダの存在が ある。このような観点からフリーダ研究は盛んであり、その伝記も書かれ ている。それを読むと、いかに彼女がユニークな女性であったかが分かる。 なぜユニークであったのか。その答えはいくつかある。ひとつは当然、彼 女のもって生まれた性格である。これは否定はできない。次に時代の流れ がある。意識的無意識的に、彼女は女性の解放を唱導する時代精神を吸収 している。しかし、それならば、当時の女性たちの多くがフリーダのよう な生きかたをしたかというと、かならずしもそうではない。何か個人的な 理由があったのではないか。そこで考えられるのが、ある男性の影響であ る。結論を先に言えば、オットー・グロース(Otto Gross,1877−1920)の 存在こそ、彼女にユニークな生き方をさせたということである。そしてさ らに言えば、グロースはフリーダを媒体としながら、ロレンスに影響を与 え続けたということである。ω グロースについては、フリーダは、仮名を使いながら言及している。彼 女が、ロレンスの死後出版した自叙伝『私ではなくて 風が……』(1>bt L B厩伽VVind)の冒頭で、ロレンスに会う前に、ひとりのフロイト派の学 者と会ったことを述べている。 1 私は、フロイトの著名な弟子と会ったばかりで、理論がまだ未消化の まま頭につまっていました。この友人は、私のために多くのことをして くれました。私は、因習的な生活のなかで、夢遊病者のように暮らして いました。この人が、私独自の意識を目覚めさせてくれたのです。 生まれ変わるということは冗談ではできません。それに、生まれ変わ って、世間のほかの人たちとは違った、別の、本来の自己になること、 一それは、苦痛に満ちた過程なのです。 人々が、セックスについて語るとき、何のことを話しているのか分か りません。セックスは、蛙のように、それだけでピョンピョン跳びはね ているだけで、人生の他のこと、人間の成長、成熟とはまったく関係が ないとでもいうかのようです。人々がセックスと言うとき何のことか私 には分かりません。しかし、有り難いことに、セックスは、私にとって 神秘です。 いろいろな理論を生にあてはめても、ぜんぜん役に立ちません。セッ クスさえ自由ならば、世界はただちに天国に変わるということを私は熱 狂的に信じました。(2) 自叙伝の冒頭で言及されることから見て、「フロイトの高名な弟子」が、 彼女の生涯において、重要な働きをしたことが推察される。 1912年3月、フリーダがロレンスとはじめて会ったとき、「エディプス」 のことを話した。「私たちはエディプスについて語り合いました。言葉を通 して理解が急に深まりました。」(3) 「エディプス」というのは、フロイトの術語、「エディプス・コンプレッ クス」のことであるが、これは、「フロイトの高名な弟子」から聞いたこと が分かる。 「フロイトの高名な弟子」は、後に書かれたフリーダの『回想録』(The Memoirs)では、「オクタヴィア」(Octavia)という名前でかなり詳しく書 かれる。フリーダは、オクタヴィアに強い影響を受けるが、後には離れて 2 行く。彼の生活は、あまりにも現実と遊離しているからである。 彼は自分のヴィジョンのために生きた。日常生活を彼は無視した。(中 略)彼は何か間違っていると彼女は感じた。現実という大地に足をつけ ていなかった。(4) 「オクタヴィア」と決別するが、この回想の最後では、こう言う。 後に彼女は、彼が世界大戦のとき軍医で、戦死したと聞いた。どんな に苦しんだことか。あらゆる人間にとって栄光ある未来を夢みていた彼 が、その夢を託した若者たちの引き裂かれた肉体と、崩壊した精神を目 にしなければならなかったとは。彼が死んだのも当然だ。希望を否定さ れ、砕かれた多くの人びとが死んだように。(5) 実は、「オクタヴィア」は戦死はしなかった。戦後、1920年に死ぬのだ が、『回想』のなかで、フリーダがこのように深い感動をこめて言及するこ とは意味のあることだ。 この「オクタヴィア」は、フリーダの心のなかには、夢を抱いた青年と して、生涯生き続けていたのだ。この人物は、フリーダの言葉からだけで は、具体的にどういう人物か分からないのであるが、研究、調査の結果、 オットー・グロースという個性的で、特異な思想をもっていた人物である ことが分かった。最近、ますます研究が進み、近いうち、グロースの全貌 が現れそうである。フリーダが決定的な影響を受けたのも当然だったこと が分かってくる。 2 フリーダ、グロースを知る フリーダ・フォン・リヒトホーフェンは、1899年に、言語学者、アーネ ス・ウイークリー(Ernest Weekley)と結婚して、故郷のドイツを離れイ 3 ギリスに住んだ。3人の子供を生み、経済的には何ひとつ不自由のない生 活を送っていたが、イングランド中部地方での平凡な主婦としての生活に 退屈しはじめていた。そういう時期に、妹で、ドイツ士官と結婚している ヨハンナ(Johanna)の訪問を受けた。派手な社交生活と男出入りを聞くに 及んで、フリーダの心は揺れた。退屈をまぎちすために、夫に隠れてはじ めて情事をもった。相手はレース工場主のウイル・ダウソン(Will Dowson) であった。これは、単なる一時的な浮気で彼女の主婦としての生活を根底 から変化させることはなかった。 フリーダは、よく子供を連れて、当時はドイツ領だったメッツに両親を 訪ねたが、1907年の春は、ひとりで、メッツではなく、ミュンヘンに、姉、 エルゼ(Else)を訪ねた。最初の朝、「朝食を取ろう」と言われたが、その 用意はなにもない。「朝食はカフェで取るのよ」と言われて出かけた。エル ゼはそこで朝食をとった上、手紙を書いたり、友人に電話をした。そこで、 フリーダはひとりの心理学者に紹介された。『回想録』では、「オクタヴィ ア」と呼ばれているオットー・グロースである。フロイトの弟子であった。 フリーダはそれまでに、フロイトの名前を聞いたことはなかった。そのと きのことを、フリーダは次のように描いている。フリーダは「ポーラ」と いう名前で登場する。 彼女は、フロイトの弟子のひとりであった若い心理学者に会った。オ クタヴィアは、彼女にフロイトについて話してくれた。彼女は、それま でに、フロイトの名を聞いたことがなかった。(中略)オクタヴィアは、 心理学研究の助けをかりて、人間生活の新しい形を想像していた。オク タヴィアは、オーストリア・アルプス地方出身であった。そして山地人 特有の軽く、強い体格をしていた。彼は、彼女が会った最初の菜食主義 者であった。「いやな死体は食えないよ」と彼はしばしば言った。酒は飲 まなかった。 ポーラの古い世界は音を立てて崩れていった。彼女は、自分が生まれ 落ちた人聞社会を、自分で深く考えることもあまりせず、受け容れてき 4 た。変革が可能だとは夢にも思ったことはなかった。しかし、今や、そ れが可能で、そうならなければならないと信じた。彼女は、それを支持 した。人々は、自分たちの生活のなかで窒息している。見世物はすべて、 はじめから終わりまで、生まれてから死ぬまで、決められているのだ。 面白みもなければ、冒険もなく、神秘もないのだ。 彼女はオクタヴィアを愛しはじめた。そして、彼の抱く新しい社会の ヴィジョンも。 彼女は、古い秩序を疑いはじめた。(6) グロースの話からフリーダは、フロイトについて知り、エディプス・コ ンプレックスについての知識を得た。それを、約5年後に、ロレンスに伝 えた。それを、ロレンスは、小説『息子と恋人』をまとめる際に使うこと になった。 姉のエルゼは、先駆的女性であり、それまでは女性を締め出していたハ イデルベルク大学に入学を許可された女性の第一号であり、マックス・ヴ ェーバーのもとで社会学を研究して博士号を取得した。才能ある女性であ るが、同時に社会正義に目覚めており、女性の男性との権利の平等を主張 する女性解放運動家であり、また、既成の社会道徳を批判し、結婚制度を 否定していた。 エドガー・ヤッフェ(Edgar Jaffe)と結婚していながら、恩師、ヴェー バーの弟のアルフレート(Alfred)と同棲していた。1907年の、この時点 ではグロースと関係があり、彼の子を妊娠し、出産することになる。ふた りの関係は、半ば公然たるものであった。フリーダは、この姉の生き方に 影響された。 ミュンヘンの、とくにシュヴァービング地区は、知的、革命的な人間が、 カフェにたむろしていた。フリーダはそこで会った、グロースをはじめ、 その他の革新的な人々の会話から、新しい革新的思想を知った。ふつうの イングランド中部地方の主婦が知るはずのないものであった。1912年、ロ レンスが会ったときのフリーダは、中部地方の保守的な主婦ではなくて、 5 シュヴァービング地区の革新的思想の洗礼を受け、その思想と雰囲気を体 現している女性だった。ロレンスが、フリーダのなかに、中部地方の女性 とはまったく違った女性を見て、感銘を受けたのは当然であった。 フリーダはノッテインガムに戻って、子供たちと再会したが、女の子の ひとりが、母を見て、「私たちのお母さんじゃないわ。お母さんの外見はし 9.・t は真実であった。フリーダの精神に革命が起こってしまった。あとを追う ようにして、グロースからの愛の手紙がきた。 きみが存在していてくれてありがたい。きみのことが分かって。きみ がぼくに勇気を、すべての希望を、すべての力を与えてくれたことを感 謝する。きみを通して、実体のない夢だったもの、ぼくの苦闘と希求の なかの夢想であったもの一ぼくの想像力のなかだけに生きていた「未来 の女性」の夢を「彩色し生命を与えて」ぼくに示し、与えてくれたのだ。(8) このあともう一度、フリーダはグロースに会った。 ポーラは、オクタヴィアに再び会った。いっしょに、夜、オランダか らイギリスへと海を越えた。ふたりは静かな、あたたかい夜、座ってい た。ポーラには、未知の世界に向かう航海のように思えた。(9) 「再び会った」と言うのは、フリーダがミュンヘンをいったん離れて両 親をメッツに訪ねたあと、会ったととれるが、ふたたび、フリーダがやっ て来たという解釈もある。1907年9月2Bから7日のアムステルダムでの 神経、精神医学会でのあとで、フリーダはグロースに再会したとフルヴィ ツは推測している。「多分、オットーは、彼女といっしょに、神経、精神医 学会のあと、オランダからイギリスへ渡航した。」(1°) 6 ’ ているが、出て行ったお母さんではないわ」と言った。(7)子供が言ったこと グn−一スは、夫を捨てて、子供たちといっしょにシュヴァービングに来 て、自由な、自立した生活を送るようにと説得した。 フリーダよ、あなたが子供たちを大陸に連れてくることは不可能です か。たとえば、お母さんのところへ。そうすると、あなたはイギリスに 帰る必要がなくなるではありませんか。あなたをイギリスへ帰らせるの は言葉に出せないほどの苦しみです。もしお子さんたちがイギリスにい なければ、決心がずっとしやすくなりませんか。(11) フリーダは、その気持ちになったこともあったが、結局は、姉のエルゼ と同様に、グロースから離れた。フリーダは、グロースからの1年間にお よんで送られた恋文を、焼き捨てよという指示にもかかわらず、保管した。 その結果、現在、それを読むことができる。5年後、ロレンスと生活をと もにしようとしたとき、グロースの手紙を夫、ウイークリーに見せて、自 分との結婚をあきらめさせようとした。 3 グロースの麻薬中毒治療 フリーダがグロースに会う5年前の、1902年、グロースは麻薬中毒を治 療するため、チューリッヒのブルクヘルツリ病院に入院した。はじめ、心 配した父のハンス(Hans)が、ルードウイッヒ・ビンズヴァンガーに手紙 を出して、その療養所に入院させてくれと頼んだ。ハンスの手紙にはこう ある。 息子は、25歳で、医師で、精神病医です。馬鹿な恋愛事件の結果、4年 前にモルヒネを口から取る習慣をつけたのです(現在もそれにたよって いるのです)。1日に2ないし3回、1度に、0.03グラムをとります。(12) しかし、空いている部屋はないということで、ブルクヘルツリに回され 7 たのである。 1902年の、ブルクヘルツリ中毒患者治療施設のグロースのカルテによる と、患者自身によって書かれた病歴は以下の通りである。 1877年、シュタイアーマルク州(オーストリア)に生まれる。ギムナ ジウムと医学部に学ぶ。1899年、医師の免許状を得る。1900−1901年、 船医(南米定期航路船)。帰国後、医者としてグラーツの精神科病院に勤 務。 既往症。はしかを3回。最後は、1898年。百日ぜき(1896)水ぼうそ う(1898)ごく軽い頭痛(転倒、サーベルでの殴打、投石による)。思春 期に軽い貧血。 1901年(熱帯地方滞在)以来、軽度の慢性的消化不良。 16∼20歳、極度の轡病で、憂轡で、不安な性格の強迫観念になやまさ れる。後に(20から24歳まで)落ち着かず、一カ所に長時間じっとして いることができない。このようなすべての現象が、最近は、ほとんど絶 え間なく戻ってくる。 1897年から1902年にかけて、多数の、心的な、消沈させる外的影響。 悲しい外的な事情の結果、1898年より、アヘンとモルヒネを服用。最初 のころは、機会に応じて、後には、1週間に、3乃至5回ほど、服用。 1894年以来、習慣的に、ヒ素を味わう。1902年のはじめ、新たな沈轡作 用の結果、服用を増加。1902年5月から最近まで、集中的に学問研究を するとき、モルヒネ服用の増加。もはや、ほかの方法では、研究はでき ないから。それ以来、服用は、1日、2回にならないように節制。ほか の点では、他人と同じように、勉強している。全体として、約100時間講 義をした。さらに、現場では、種々の病院で、無給の助手として学んだ。 最近は、ふつう、11時まで床におり、それから、喫茶店に行く。そこ で、よい考えが浮かぶ。それを後で、モルヒネの助けをかりて処理する。 モルヒネ服用突発の原因は、不幸な愛であった。それ以来、この点で 8 対人関係が悲劇的になったときでも、倫理的な理由で、断つことができ なかった。すこし前に、幸福な婚約をしたので、今やモルヒネを断つこ とができる。(13) これに続いて、患者は訴える。皮膚の発熱と悪寒。壁に投げ付けられた 時のような感じ。両手の震え。ある日は、かなり安定した気分。自由への 強い衝動。一日でも強い管理のもとにいなければならないことを理解しな い。 精神病質の一連の兆候。肉料理を前にすると吐き気をもよおす。半分し か着物を着ていないのではないかという不安。精神的または、肉体的緊張 による半身の血液のよどむ感じ。網膜の過敏。 患者は言う。義務感は全然もたない。どこでも自分を下位に置かない。 我が道を行かねばならない。共同の目標の感覚がない。たとえば、団結心 や祖国意識は全然ない。自分にとって都合の悪いことが起こるやいなや、 モルヒネを服用する。自分は、モルヒネ患者として生涯を終えることが分 かる。自分が管理されていることを認めない。自由な出口を、毎日、激し くもとめる。憂轡になる。働くことはできない。深いホームシックにかか っている。母に手紙を書く。ここに自分を迎えに来てくれるように、自分 といっしょに旅行に出てほしい。 妻、フリーダによるグロースの中毒症状は以下の通りである。 グロースは、1902年、ブルクヘルツリを退院したあとフリーダ・シュ ロファーと結婚した。結婚後まもなく、グロースは、また、麻薬を使用 しはじめた。1904年、フリーダは子供がほしいと言い、グロースは、ア スコナへ行き、麻薬を断つことができた。フリーダはめでたく妊娠した。 妊娠のあと、グロースはまた麻薬を使用しはじめた。モルヒネから、ア ヘンとコカインに移った。(14) 9 さらに妻、フリーダは述べる。毎日、麻酔薬とコカインを混ぜたものを 鼻孔から吸った。15グラムの精製したアヘンを摂取した。グロースの睡眠 は極端に不規則になった。一時に16時間、眠り続けるときもあれば、一睡 もできなかった。じっと座っていることができず、立ち上がってあるき回 った。 一番困ったことは、妻の精神分析をしようということであった。たえず、 妻を質問攻めにした。妻がそれに抵抗すると、「コンプレック抵抗」の症状 だと言う調子である。落ち込んだときは、自殺まで口にした。休息するた め、妻は、折りに触れて、数週間、夫のもとを離れた。 妻をなやませたのは、夫と、レガ・ウルマン(Rega Ullman)との関係 であった。妻や友人の反対にもかかわらず、グロースは、ウルマンの精神 分析による治療をはじめた。ウルマンは、ユダヤ人で、作家であった。と くに傑出していたわけではないのであるが、グロースは、彼女を才能ある 女性であると思いこんだ。そして、自分の精神分析によって、彼女の才能 を引き出そうとした。彼女に子供を生ませたいと思うほど、夢中になって しまった。そのときは、多量のアヘンを吸った。自分が精神分析をするこ とで、その天才を引き出すことができると信じた。妻や友人に懇願も苦情 も、その行動を引き留めることができなかった。 この分析のあいだ、グロースは興奮した。ウルマンの分析は、一晩中続 いた。自分の運命はこれにかかっていると彼は言った。最後に、彼は、自 分が創造できない責任は妻にあると主張した。彼は妻のフリーダを学問に 関心も、情熱もないと非難した。彼の全エネルギーは、このカフェでの仕 事に注がれた。ここで彼はあらゆる種類の落伍者を分析した。最後に、グ ロースは、病院で治療を受けると妻に約束した。 4 グロース、ユング、フロイト 1908年5月、グロースは、再び、麻薬中毒の治療を、ブルクヘルツリ病 院で受けた。その治療を担当したのが、今日、心理的タイプ、集団意識、 10 原型などで広く知られているカール・ユング(Carl Jung)である。 ユングは、グロースに、1907年9月初旬のアムステルダムでの神経、精 神医学会ではじめて会った。ユングは、1900年にバーゼル大学を卒業後、 ブルクヘルツリ精神病院の精神科医であり、院長をしていた、オイゲン・ ブロイラー(1857−1939)によって助手に採用された。(15) このことは、ユングにとって、極めて幸運であった。ブロイラーは精神 分裂病という言葉をつくった学者で、ヨーロッパでは一流の精神科医であ った。ブロイラーはユングの才能を見抜き、後押して、自分の代理として 外科科長にすえ、チューリッヒ大学の精神医学・精神療法の講師に任命さ れるように奔走した。 さらに重要なことは、ゴールトンの言語連想テストに取り組ませたこと である。その研究によってユングは、心理学の世界で著名になり、フロイ トの知遇も得ることになった。 言語連想テストは、フランシス・ゴールトン卿(1822−1911)の考案に よるものである。実験者が被実験者に向かって、準備されたリストから、 一連の単語を、一語一語、間をおいて読みあげる。被験者は、最初に頭に 浮かんだ単語を答える。その単語と、それに答えるにかかった秒数を記録 する。 ユングより以前から、言語連想テストをしていたテオドール・ツィーエ ンは、すでに次のことを明らかにしていた。刺激語が、被験者の心のなか で何か不愉快な観念と結びついていると、反応時間が長くなるのである。 ひとりの被験者について、反応を遅れさせた単語を全部並べて互いに関連 した観念の集合を見出すことはできる。ツィーエンはそれを、「感情をおび た表象の複合体(コンプレクス)」とよんだ。 この発見は、ユングの興味をそそった。ユングは心の中に部分的人格が 存在している、それが、ツィーエンのいうコンプレックであると考えた。 さらに、フロイトの『夢判断』(1900)を読んだとき、フロイトが神経症の 症状や、夢の内容をもたらすものだとしている「抑圧された願望」や「外 11 傷的な記憶」もそれと同じものではないかと思った。 大半の精神科医とは違って、ユングは精神分裂病の患者の実際の言葉や 行動に真剣に注目した。彼らの妄想や身振りがたんに「狂っている」ので はなくて、心理学的意味に満ちていることを明らかにした。 たとえば、ブルクヘルツリ病院に50年間、監禁されていた年老いた女性 患者は、いつも靴を縫うような動作を続けた。ユングは発見した。その女 性は精神異常をきたす直前、恋人に捨てられたのである。その恋人が靴屋 だったのである。 1906年、ユングは、自分の『言語連想研究』を出版すると、それをフロ イトに贈呈した。フロイトから絶賛の礼状がきた。それに元気づけられて、 1907年3月、ユングは、フロイトをウイーンに訪問した。ふたりは意気投 合して、13時間もぶっつづけで語りあった。ユングはフロイトに同輩の研 究者としてではなくて、師としてまた、「父」としての交際をもとめた。「父 親と息子としてお付き合いさせてください」とユングは書いている。当時、 52歳で、後継者をさがしていたフロイトは、ユングを自分の学問の後継者 とみなした。そして、「跡取り息子」、「皇太子」と呼んだ。この後、1913年 のはじめに挟をわかつまで、ふたりの親密な交際が、おもに書簡によって 続いた。 1907年、ユングは『早発性痴呆(精神分裂病)の心理学』を刊行し、精 神医学者としての名声をさちに高めた。フロイトの高弟として、名をあげ つつあった。 他方、グロースも、はやくからフロイトの著作に注目して、1904年のこ ろかち個人的な知り合いになった。フロイトは、グロースの才能を認めて いた。 フロイト学説を信奉しているグロースとユングは、1907年9月、初めて、 アムステルダムの神経、精神医学会で知り合った。翌年、ユングが、グロ ースを治療することになるのだが、はじめは、医師と患者という関係では なくて、フロイトの学説を信奉する研究者仲間であり、弟子仲間であった。 12 ユングは、個人的には、グロースが嫌いであった。しかし、今度の治療 では医師として、グロースの麻薬使用をやめさせるため、努力した。 5 ユングによる治療 1908年の春、グロースの父ハンスは、ブルクヘルツリ精神病院のプロイ ラーとユングに手紙を書いて、もう一度入院させてくれと頼んだ。 1908年5月6日、フロイトはユングに手紙を送った。「オットー・グロー スの入院命令証明を同封します。きみが彼を引き受けるとしても、10月ま で待ってください。そのときなら、私が彼を引き受けることができます」㈹ しかし、5月11日に、グロースは、再度、入院した。フロイトが同封し た、グロースの入院命令証明は次のようなものである。 私は次のことを証明します。数年来、私の個人的な知り合いであった グロース博士は、神経病理学の私講師ですが、非公開の施設に入院する ことが、緊急に必要になっています。医師の監督のもとで、アヘンと、 コカインの禁断を実行するためであり、その麻薬を、本人は、最近、精 神ならびに肉体にひどく害のあるやりかたで服用しているのです。(17) ユングによる、この診察の記録が残っているので具体的に見ることがで きる。(18) 5月18日、1週間の治療を終えたあと、ユングはこう報告する。 今まで、アヘンは1日、最高6グラムに押さえられている。最初の夜、明 かりを全然つけてはならぬと言われて、患者は、大騒ぎをした。すぐ出て いく。監禁されたといった。毎日、分析は続いた。 5月23日の記録では、アヘンの量が、一日3グラムに下がったとしてい る。それにもかかわらず、「禁断症状は起こらない」という。 5月28日には、アヘンはまったく絶ったとする。 ユングのフロイトあての書簡では、グロースが、自発的に、アヘンを減ら すことに同意しているとしている。 13 6月まで、治療が続き、麻薬の量を減らすのに成功したのであるが、最 後は、グロースは、塀を乗り越えて逃亡した。「逃亡先不明」とユングは結 んでいる。 この治療の前後のことは、グロースのフリーダ・ウイークリーあての手 紙に現れている。 愛する人よ、すぐに手紙をください。考えてください。ぼくはちょっと 不安なのです。さらにつけ加えると、ぼくは今、禁断治療をはじめたの です。その結果、すこしばかり、精神不安定になっているのです。かな りの長い間、あなたについて聞いていません。(19) 愛する人よ、ぼくの愛情に何か変化があったと、よりによってあなたが 考えるとは。そんなことが起こりうるとは、何と不思議なことでしょう。 互いにそんなに近い人が互いを間違えて考えるとは。心から愛する女性 よ。大目に見てもらいたい。モルヒネの禁断で、ぼくの頭と心臓は、鉄 で締め付けられている。ぼくのなかに生きていて、むらがるすべてのも ののどれも表現できない。自分を表現できたかもしれない時は、ただの 30分さえもない。ぼくの愛情のいくらかでも生きている挨拶をただの1 行も送ることができない。だから大目にみてほしい。愛する人よ、理解 してくれ。(20) 何も心配しないでください。これまで麻薬の服用中止による虚脱に一度 も落ち込んだことはありません。それだから、そんなに簡単には憔惇し ません。後生だから、あわれな神経衰弱者を救うとは考えないで、ぼく たちが一緒にいたときを思い出してください。そのときは前とほとんど 同じだったのです。ぼくが落ち込んだのは、あなたが去ってからなので す。(21) この症状は、結局、フリーダを、グロースから離れさせる理由になった。 姉のエルゼもそうであったように。 14 6 ユングの思想の変化 この治療は、また、別の結果をもたらした。それは、治療したユング自 身に起こった変化である。彼は、患者であるグロースと話し合うことによ って、その影響をうけて、グロースと同じように一夫一婦制度を否定する 思想を抱くのである。 アムステルダムでの学会でグロースと知り合った直後の1907年9月25日 の、フロイトあて書簡でユングは、グロースの一夫一婦制否定にたいして 驚き、また不快な感情をあらわした。 グロース博士は、患者を性的不道徳に導くことによって感情転移を阻止 すべきだと主張します。精神分析家にとって、感情転移とその執拗な固 執は、一夫一婦制度の象徴にすぎず、それによって、抑圧を象徴してい る。神経症の患者にとって真に健全な状態は、性的不道徳である。この ような理由で、彼はあなたをニーチェに結びつけているのです。しかし、 私には、性的抑圧は、多くの劣ったひとたちには病気を起こす要因にな っても、とても重要な、不可欠な、文明をつくる要素になると思います。 玉に疵ということはいつの世にもあります。文明とは逆境の成果以外の 何物でしょうか。グロースは、性的な短絡に傾きすぎています。それは、 知性的なことでもなければ、よい趣味でもなく、便宜的なことにすぎま せん。だから、文明化の要因でありません。(22) ところが、グロースを治療するにつれて、ユング自身、グロースの考え に共感するに至るのである。 ユングは、1908年5月、ブルクヘルツリ病院で、グロースの治療を始め る前から、ひとりの女性と関係があった。ロシアからの亡命者で、ユダヤ 人のサビナ・シュピールライン(Sabina Spielrein)であった。はじめは、 この病院で、ユングにヒステリーの治療を受けた。のち医学を勉強した。 グロースが塀を乗り越えて病院かち脱走したときもユングのそばにいて、 彼を慰めた女性である。彼女は、1908年のおそくか、1909年に、多分、フ 15 ロイトあての手紙で、こう書く。 ひどい欝病で、私は、そこに座って待っていました。そのとき、ユング が、満面笑みを浮かべてやってきました。グロースから受けた偉大な洞 察(一夫多妻のこと)について熱をこめて彼は語りました。自分はもは や、きみにたいする愛情を抑えたくない。きみは、ぼくの最初の恋人(も ちろん、妻をのぞいて)だ。自分について何でも話すよ。㈹ ユングは言う。「よい結婚の必要条件は、不実であることであるように思 う」(24)。 サビナは、まもなく、ユングのもとを去るのであるが、トニー・ウォル フ(Toni Wolff)との関係は40年間、続いた。彼女は、ほかのだれより も、妻のエマよりもユングをよく知っていたのである。1910年にトニーは、 父の死亡による精神不安定の治療のためにユングのもとに連れてこられた が、そのあと、ユングから離れることはなかった。2年間、患者であった が、そのあと、助手になった。 1908年6月19日のフロイトあての書簡で、ユングは、グロースについて 一つ言つ。 いろいろありますが、彼は私の友人です。なぜなら、本質的には、彼は、 異常な精神をもったすばらしい人だからです。私は、グロースのなかに、 私の真実の性質の多くの面を発見したからです。その結果、彼は、しば しば、私の双子の兄弟のように思われました。精神分裂病は別ですが。(25) さらに、ノールはこフ言っ。 1911年のワイマールの学会の「女性メンバー」5人のうちで、ユングは、 すくなくとも、3人と性的関係があった。マリア・モルツアーへの言及 が正確ならば、多分、4人であろう。(26) 7 結語 フリーダは、グロースの影響によって性の解放による新しい世界の夢を もったのだが、ユングもまた、グロースの強い影響を受け、一夫一婦制度 16 を否定するに至った。このふたりの場合を考えると、グロースの思想の影 響力の大きさを、あらためて考えざるをえない。フリーダは、その『回想』 のなかで、グロースを共感をこめて偲ぶのもうなずける。 後年、フリーダは、ロレンスに言った。あなたは、グロースの再来であ り、エルネスト・ブリックの再来であると。(26)ロレンスは、グロースとは違 う個性なのだが、フリーダは、ロレンスのなかにグロースの幻を見続けて いた。 注 (1) ロレンス、フリーダ、グロースの関係については、すでに、拙著『D. H.ロレンス小説の研究』(荒竹出版、1976)、『D.H.ロレンス愛の予言 者』(冬樹社、1978)、『D.H.ロレンス』(清水書院、1987)、「D.H.ロレ ンスとオットー・グロースーTwilight勿伽砂の問題一」(『東京学芸 夫学紀要』、第2部、38集、1987)、「D.H.ロレンスのドイツ体験」(『東 京家政大学紀要』36集、1996)などですでに触れた。本論は、できる だけ、それらとの重複をさけて、新しい資料を利用して再考しようと するものである。 n乙34ム5︵b7・00 Not l, But the Vlind, P.3. Ibid.,p.4. The Memoirs, pp.90−1. Ibid.,p.91. Ibid。,pp.83−4. Ibid.,p.84. Ibid.,p.84.なお、グロースのフリーダあて恋文と、フリーダの返信 は、The D.H.Lawrence Review, Vol.22, No.2に収録されている。 (9) The Memoirs, P.87. (10) α60Gross:Paradies−Szacher 2wischen Freud und lung, p.117. (ll) The D.H.Lawrence Review, VoL22, No.2, p.189. 17 ⑳の 励q のの のG ①G D助 の⑫ 励⑤ O GのG G紛G ⑫助⑫ ②の⑫⑫⑫⑫ Otto Gross:Paradies−Sucher, Pユ35. Ibid.,pp.136−7. , Ibid.,p.139. ユングの説明は、コリン・ウィルソン『ユング』による。 Otto Gross: Paradies−Sucher,135) Ibid.,p.135. Ibid.,pp.144−7.その英訳は、 The∠4ηαηChrist. pp.79−83. The D.H.Lawrence Review, Vo1.22. No.2,169. Ibid.,170. Ibid.,176. Ibid.,p.142. The/1ηα%christ, P.89) Ibid.,p.84. Ibid.,p.90. Ibid.,p.94. Otto Gγoss:Paradies−Sucher, P.118. 参考文献 Jannet Byrne:/1 Genizes for Living’ABiogrmphy Of Frieda Lawrence. Bloomsubury,1996. Elaine Feinstein:Lawrence and the MZomen’The 1痂ゴ勉認θLzfe of D.H. Lawrence. Harper Collins,1993. Emanuel Hurwitz:Otto Gross’Paradies−Sucher 2wisclaen Freud und ノ碗g.Suhrkamp Verlag,1979. Martin Green:The von Richthofen Sisters:The Triumph and the Tragic Mode Of Love. Basic Books,1974. Frieda Lawrence:.〈rot I but the Wind.1934.(邦訳『私ではなくて風が ……』 弥生書房、1984) 18 Frieda Lawrence:The Memoirs. Heinemann,1961. Edward Nehls:.D.H. Lawrence:AComposite Biogrmphy, Vo1.1.The University of Wisconsin Press,1957. Robert Lucas:Frieda Lawrence: The S渉oηof Frieda von Richthofen and D.H.Lawrence. Secker&Warburg,1973.(邦訳『チャタレー 夫人の原像』講談社、1981) Brenda Madox:The Married Man’ALzfe of D.H.Lawrence. Sincliar− Stevenson,1994. Richard Noll:The A73,an Christ. Random House,1997. : Tzeノ勿ηg Cult:Oγigins of a Charismatic Movement. Fontana Press,1995. 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