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D・H`ロレンスの ドイツ体験

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D・H`ロレンスの ドイツ体験
〔東京家政大学研究紀要 第36集 (1),P.151∼160,1996〕
D.H.ロレンスのドイツ体験
倉持三郎
(平成7年9月30日受理)
D.H.Lawrence and the Experience of Germany
Saburo KURAMoc}丑
(Received September 30, 1995)
引用の描写は,姉妹のドイッでの生活を述べたものだ
序
が,その背後に深い意味がこめられている.それにっい
D.H.ロレンス(Lawrence,1885 一 1930)の最後
て本論では考えてみたい.
の小説,『チャタリー卿夫人の恋人』 (LOdy
ロレンスの,ドイッの思想や文学にたいする関わりは
Chαtterley ’s Lover,1928)の第一章には,さりげな
簡単ではない.Larrettは,ロレンスがニーチェやゲー
く書かれてはいるものの注目すべき描写がある.のちに
テのような代表的なドイッ人思想家,文学者に反発して
イングランド中部地方の炭坑主,チャタリー卿と結婚す
いるとする.その反発はドイッ的な「純粋観念」にたい
ることになるコンスタンス(Constance)の少女時代
するものである(2).他方,ニーチェや,人類学者のフロ
の描写である.彼女は姉のヒルダ(Hilda)とともに,
ーベニウスの思想の影響を作晶のなかに見る批評家もい
る(3).反発と同時に引かれるものがあったことは当然で
父親にともなわれてドイッで一時期をすごす.
あろう.引かれるから一層反発するということもあった
ふたりは,15歳のときドレスデンに送られた.とくに
ろう.本論で取り上げるフロイトの弟子で精神科医で思
音楽の勉強のたあであった.ふたりはそこで楽しい時
想家であるオッートー・グロース(Otto Gross,1877−
をすごした.学生にまじって自由な生活をした.哲学,
1920)も,ロレンスが反発しながら,深いところで共感
社会学,芸術にっいて学生と議論した.女だからといっ
し影響を受けていた人物のひとりである(4).
て男たちに負けなかった.女だからかえってよかった
1
のだ.ギターをかかえた頑丈な男たちと森へ散歩にで
かけた.二人はハイキングの歌をうたった.二人は自
ロレンスは思想や,文学を通してドイッに関心をもっ
由だった.
たが,同時に,もっと直接的なっながりもあった.それ
本当に自由だった.「自由」.それは何というすばら
は,母方の叔父がドイッ人であったからである.クレン
しい言葉か.………
コウ(Fritz Krenkow)は,ドイッで大学教授をして
ヒルダとコンスタンスの二人は18歳になるまでに,
おり,炭坑夫の父にはない魅力をロレンスは感じていた
たあらいがちに恋愛をした.二人と情熱的に議論をし,
であろう.実際,1912年,肺炎のため,勤めていた小学
一緒に元気よく歌をうたい,このように自由に木陰で
校を退職しなければならなくなったとき考えたのが,こ
キャンプした青年たちは,もちろんのこと,愛の結び
のドイッの叔父のことである.小学校勤務にもどるには
っきを求めた.………
体力的に自信がなかったので,ドイッの大学の英語講師
それで二人は,それぞれ,自分たちの大切なものを,
(Lektor)の口をさがすことを考えた.結果的には,こ
一番親密に,一番気の利いた議論をした相手の青年に
の叔父の存在がロレンスを,されに深く,ドイッに結び
捧げた(i),
っけることになった.ドイッでの就職先を紹介してもら
英語英文学科 第2英文学研究室
う目的で,母校,ノッティインガム大学でのフランス語
(151)
倉持 三郎
の恩師,ウイークリー(Weekley)教授を自宅に訪問
ロレンスは,フリーダが,夫に自分との関係を告白して
した.教授は,ケンブリッジ大学で学んだあと,ドイツ
くれることを期待したのであるが,まだこの時点では,
で言語学を研究し,また,フライブルク大学で英語講師
フリーダは,決心がっいていなかった.ただ,イギリス
の経験もあった.さらに,教授の妻フリーダ(Frieda)
を出るまえに,以前,関係のあった二人の男性のことを
は,ドイツ人であった(5).ところが,この訪問は,ドイ
夫に伝えていた.(そのうちのひとりがオットー・グロー
ッでの就職を越えて,ロレンスに新しい人生に向かわせ
スである)これだけでも,ウイークリーには「晴天の欝
ることになった.すでに3人の子供のいる,31歳の恩師
露」であった.
の妻に理想の女性を発見したロレンスは,駆け落ちのよ
姉も妹もロレンスに好感をもった.ヨハンナは「っい
うな形でドイッに向かうことになった.フリーダのドイ
ていける人よ.信頼できる人よ」といった.しかし,ブ
ツ行きの目的は,父親の軍隊勤務50周年記念の祝賀行事
リーダは決心できなかった.姉と妹は,他の男性と関係
に参加するために実家にもどることであったが,実際は
をもちながらも離婚してはいないのである.エルゼは,
駆け落ちのような形になった.
ほかの男の子供さえ生んだ.しかし,離婚はしていない.
1912年5月3日に,ロレンスは,ロンドンのチャリン
妹も同様である.浮気な生活を送っているが離婚はして
グクロス駅でフリーダに会い,ドーヴァーから連絡船で
いない.(この姉妹の生き方にロレンスは大変驚いてい
ベルギーのオステンドにわたり,そこから,ブラッセル,
る.それまで知っていた保守的で道徳的なイギリスの地
ルクセンブルグを経由して,ロレーヌ地方の都市,メッ
方の女性とは全く違うのである)フリーダにとって問題
ツ行きの列車に乗った.列車は,ルクセンブルクを通り,
なのは,ウイークリーとの離婚である.離婚後の子供の
メッツに5月4日,土曜日の朝に到着した.メッツは現
ことである.離婚すれば,子供は自分のものにはならな
在はフランス領であるが,当時は,ドイッ領であった.
い.また,目下,無職のロレンスとどう暮らして行くか
ロレンスは,このようにして初めてドイツの土を踏むこ
ウィークリーは,前にフリーダから,情事について聞
とになった.ロレンスはホテル・ドイチャー・ホッフに
かされていたので,妻がドイッに行くとき男と一緒では
宿泊した.ここは,フリーダの実家(4 Kromprinz−
ないかと疑い,メッツの実家に問い合わせの電報を送っ
Wilhelm Strasse)から,2キロしか離れていなかっ
ている.ロレンスはフリーダにむかって,ウイークリー
たく8).
に真実を語るように迫っている.夫に送ってくれと手紙
フリーダの父,フリードリッヒ・フォン・リヒトホー
を渡した.しかし,フリーダは送らなかった.
フェン(Friedrich von Richthofen)は,ドイッの男
偶然の事件から問題は解決されることになった.5月
爵であった.1845年に生まれ,1862年に職業軍人として
7日の朝,ロレンスは,フリーダとメッッの軍事要塞の
の生涯をはじめた.彼は普仏戦争に参戦して,ストラス
立入禁止区域にいるとき,警官からスパイの嫌疑をかけ
ブルグ攻囲戦に参加した.(負傷して右手を吊っている
られた.ロレンスはイギリスの士官と思われたのである.
1870年の写真が残っている)1912年は軍隊勤務をはじめ
フランス国境に近い町,メッツは,当時,ドイッ帝国で,
てからちょうど50年になるので,彼の属していた連隊が
二番目に大きい軍事基地であった.メッツの市民ひとり
祝賀の行事を行うことになった.その祝いに参加するた
に4人の軍人がいた.警戒が厳しいのは当然であった.
め,フリーダは,イギリスからやってきたのである.
そのときの模様を,ロレンスは「どのようにスパイは逮
フリーダはロレンスのことを父親に言うことはできな
捕されたか」という題で書いている.
かったが,自分が恋人を連れてきていること,そして,
離婚しようとしていることを母親には告げた.このよう
私たちは静かな日光のなかにいっしょに横になってい
なことは以前にもあったようで,母親は別に驚きはしな
た.私はアニタ(フリーダ)の指輪をいじっていた.
かった.長姉のエルゼ(Else)と妹のヨハンナ
古い四角のエメラルドで,緑の生気であふれていた.
(Johanna)にも,自分が恋人といっしょにきているの
アニタはぎょっとして,ふり向いた.
「おや」彼女は叫んだ.
で手をかしてほしいと頼んでいる.
父の祝賀の日は5月6日,月曜日であった.祝賀の楽
制服の若い男が後ろに立っていた.ヘルメットのひさ
団が町を行進した.しかし,ロレンスは憂欝であった.
しの下からわれわれを見ていた.その男は,英語でか
(152)
D.H.ロレンスのドイッ体験
わされた,私たちの面白い会話を,理解できないなが
2
ら聞いていたのは明らかだった.
「ここで何をしているのか」
ここで,ロレンスがスパイとして逮捕された当時の時
「何もしていないわよ」とア=タが答えた.「どうし
代背景を見てみたい.当時のイギリスとドイッの関係は
かなり緊迫したものであり,その状況をイギリスの新聞
て?」
「ここに来ることは禁止されている」とその男は,落
ち着いて,威厳があり,ほとんど脅迫に近い調子で言っ
から拾ってみる.『タイムズ』は次のような記事を報道
している.
た.
「禁止1 ドイッに5分間いればかならずこの言葉を
1911年11月24日 ドイッと海軍の軍備制限をしていか
見るか,あるいは聞くのだ.通常は「厳禁」と出てい
ねばならないことが報じられている.「ドイッとの友情
るがくT).
の代償」という見出しである.っまり協調していくため
には,イギリスとしても,自ら軍備縮小という譲歩が必
フリーダはやむなくこの町では影響力をもっている父
要であるという考えである.
親の名前を出した.その結果釈放されたが,これがきっ
1912年1月18日 ドイッがオーストリアを併合する動
かけで,その日の午後,お茶の時間に,ロレンスは始め
きがあるとする.皇帝ウィルヘルムはそれに賛成してい
てフリーダの父に会うことになった.その晩,ロレンス
る.併合にはオーストリアは反対である.
はフリーダに手紙を送り,正直にウイークリーに告げる
1月29日 ドイッ皇帝ウィルヘルムの53歳の誕生日の
ことを迫った.そしてウイークリーあての手紙を同封し
記事がある.祝賀会はベルリンで開かれた.そのとき次
て,よければ送ってくれと言った.この手紙は送られな
の誕生日には,飛行船の最良のモーターにたいして,25
かった.このあと,ロレンスは,直接,ウイークリーに
00ポンドの賞金を出そうと宣言している.
手紙を書いて,自分とフリーダの関係を伝え,自分が単
2月8日 7日に新しくドイッ帝国議会がベルリンで
に一時的な浮っいた気持でいるのではなくて,結婚を考
開会されて,万歳三唱のあと皇帝が王座にっき,挨拶し
えていること,そして,フリーダが女性として成長する
た.そのなかで国家の基本姿勢にっいて述べているが,
ためには,ウイークリーとの結婚生活を解消することが
防衛を強化すると宣言し,そのために予算措置をとると
必要であることを述べている.(この手紙はのちに離婚
明言している.
裁判のときに公表されることになる)
イギリス人,スチュワートがスパイ容疑で裁判になっ
ロレンスは,5月8日,メッッを離れ,モーゼル川を
た.秘密裁判である.イギリスにたいしてドイッ人は反
80マイル下ったトリアに移った.フリーダの父はこのよ
英感情をもっている.それで毎日のように,群小の赤新
うな事件で厄介な人間を追っ払うことができてよかった
聞は,反英と愛国心をあおっている.スチュワート氏の
と考えていた.トリアでロレンスは創作にもどった.生
場合も,またイギリス人がスパイ活動で逮捕されたとい
活するために書かねばならなかった.この1週間のドイ
う受け取りかたである.特派員の報告では,スチュワー
ツでの体験は,作品の材料となった.前述の「どのよう
ト氏の告訴は犯罪歴のある,あまり信頼できない人間の
にしてスパイは逮捕されたか」は,このような作品のひ
証言によるものである.
とっである.知人の編集をしている雑誌『ウエストミン
国防相のハルデーン卿が,ドイッを訪問した.私的な
スター・レヴュー』に送ったが掲載してもらえなかった.
訪問という名目であるが,目的が取り沙汰されている.
反ドイッ的だからという理由である.ここで5月11日か
ドイッと平和交渉をしようということらしい.
ら12日の週末にフリーダに会ったのち,ロレンスは,ヴァ
2月9日 「英独関係」という記事がある.それはハ
ルトブレール(ボンの東方の村)のクレンコウ家を訪問
ルデーン卿のベルリン訪問にっいてのコメントである.
した.この旅の途中,ロレンスは,フリーダの気持をっ
ハルデーンがドイッ首相と昼食をともにしたのだから,
なぎとめるため,毎日のように手紙を書き続けた.
私的な訪問とはいえない.この訪問が英独関係を改善す
1912年5月24日,金曜日,ミュンヘンに行き,そこで
ることに役立てば幸いである.現在ドイッの国民感1情は
ロレンスは,フリーダと再会した.
反英になっている.ドイッが軍備拡張をするのはそれは
(153)
倉持 三郎
勝手であり,それをしてはならぬという権限はない.ド
出しでイギリスは,ドイッからの攻撃を抑えるための
イッ皇帝の議会開会の挨拶も,とくに刺激するものはな
「予防戦争」はしないだろうという見方を紹介している.
い.卿の訪問が逆効果になることを恐れるのみ.
もしそうすればイギリス自体もかなりの犠牲を強いられ
2月16日 ドイッにおいてハルデーン卿の訪問が報じ
ることになるだろうから.
られている。イギリス海軍の増強がドイッの反感を買っ
4月23日 ドイッ帝国議会での国防予算の審議状況を
ている.
報じている.予算についての首相の趣旨説明,プロシャ
3月11日 特派員の報告によると,皇帝ウィルヘルム
国防相,海軍大臣の賛成演説を紹介している.
は,エルベ川河口の港クーハーヴェンを訪問して砲台か
4月26日 国防法案は予算委員会に送られた.
らの砲撃演習に参観した.砲台からの標的艦への命中率
4月29日 ダンッイッヒで一隻のドイッの戦艦の進水
は75パーセントであったといわれている.これは沿岸防
式がおこなわれた.出席したザクセン王は,6年前の商
衛の一環を担うものである.
船の進水式のときよりも喜びがひとしおであると演説し
3月11日 ベルリンの特派員発によると,先日報じた,
ドイッ海軍の増強は真実であるが,増税をふくむ法案提
た.なぜなら今回はドイッ帝国の国力を示す戦艦だから
である.
出には反対も予想されるので,皇帝はまだ決定していな
5月2日 予算委員会で,国防法が審議される.軍国
いようである.
主義を批判する社会党を除きすべて賛成している.一隻
3月18日 ドイツの大蔵大臣が辞任した.防衛費の財
の戦艦が任務にっいた.
源がないという理由で法案に反対した.
5月3日 騎兵の軍務期間を短縮する案を社会党が出
3月21日 イギリス海軍大臣チャーチルの演説を解説
しているが国防相は反対している.
している.ドイッを刺激する気持ちはない.ドイッが艦
ドイッの軍艦建造の発注が報道されている.戦艦,巡
船建造を進めないならば,イギリスもしない.
洋艦水雷艇,潜水艦の建造計画が報じられている.
3月27日 ドイッ皇帝がイタリアを訪問して歓迎され
5月8日 新しいドイッ大使,マーシャルがロンドン
た.イタリア国王,ヴィクトル・エマニエルと,オース
に赴任した.新大使は,老練でイギリス,ドイッ関係を
トリア・ハンガリアを含めて三国同盟をっくる動きがあ
改善することが期待されている.
ることを伝えている.ツエペリン飛行船がドイツ海軍に
購入された.
以上の,『タイムズ』紙上に現れてた記事から見ても
4月5日 ドイッ将軍が戦争を謳歌する本を書いた.
イギリスとドイッの関係が,いかに緊迫していたかがわ
それにたいするイギリスの批判がある.将軍はドイッが,
かる.こういう時期にドイッの要塞の付近を散歩してい
神の摂理によって世界の覇権を握ることが約束されてい
たということは,ロレンスとフリーダがかなり政治に鈍
るという.
感だったといえよう.ロレンスがスチュワートのように
4月16日 ドイツの国防予算案が帝国議会に提出され
スパイ容疑で裁判にかけられる危険性もあった.
たことを報じている.これはひとっは海軍の軍事力の増
3
強である.具体的には戦艦と巡洋艦を建造するというこ
とである.
メッツでフリーダと別れて,ひとりで親戚のクレンコ
4月17日 「ドイッ軍備の拡大」という見出しで,前
ウ家を訪問したロレンスは,5月24日,ミュンヘンでふ
日に引き続いて,ドイッの国防予算を報じている.賛成
たたび,フリーダに再会することができた.ミュンヘン
派が多数であるが,社会党は軍国主義として批判してい
はドイッの他の地方と同じく始めて訪れる場所であった
る.ドイツ海軍が,複葉飛行機の訓練をしていることを
が,フリーダにとっては曾遊の都市であった.曾遊とい
報じている.
う言葉では表現できないような深い意味をもった都市で
4月18日 特派員の報告として,引き続き,ドイッ帝
あった.
国議会で,国防予算の審議が行われる,近く決定される
ミュンヘンには,そこに住む姉のエルゼに会い,今後
ことを伝えている.
の生活の援助を求めるために来たのであるが,それ以上
4月19日 「イギリスの軍事政策とドイッ」という見
の意殊をもっていた.5年前そこで,フリーダはオット 一一・
(154)
D.H.ロレンスのドイッ体験
グロースに会い,その恋人になっていたからである.そ
て学生時代をすごしたところであり,とくにシュヴァー
れだけでなく,ミュンヘンでのフリーダの体験は,ロレ
ビング地区に愛着を感じていた.妻を通して,フリーダ
ンスにも間接的に影響を与えている.二人は,今,二人
の姉,エルゼ・ヤッフェを知り,関係をむす賦
を結びっけるきっかけになった土地にやってきた.
1907年 ミュンヘンのボヘミアンや,アナキストのグ
グロースはオーストリア出身で,医学を専攻して精神
ループと交際する.息子ペーター誕生.フリーダ・ウイー
科の医師になった.シーグモント・フロイトより将来を
クリーと関係を結墓エルゼが男児を生み,ペーターと
嘱望されたが,次第に臨床医学を捨て,政治活動に向か
名付けられるが,これはグロースの子.アムステルダム
うことになった(8).
で開催された神経精神医学会でフロイトのヒステリー学
フリーダはグロースについてこう書いている.
説を弁護.この時点ではフロイトとは個人的に知り合っ
ていたが,いっからかははっきりしないこのときフリー
私は,フロイトの高弟に会ったばかりで,未消化な理
ダをオランダからイギリスまで送っていく.
論で一杯でした.この友人は,私に多くのことをして
1908年,5月一7月,2度目の麻薬の禁断療法をチュー
リッヒで受ける.主任医師,ユングの診断を受ける.
くれました.私は,夢遊病者のように,決まり切った
ありきたりの生活をしていました.彼が私の真正の自
1909年 エルンスト・ブリック(Ernst Frick)と知
己を目覚めさせてくれたのです.………
りあう.グロースの妻フリーダは,1909年からブリック
私は熱狂的に信じました.もし性が「自由」である
と同棲をはじめ,彼との間に3人の子供を生む.
ならば,この世はすぐさま天国に変わるだろう.私は
1910年 妻,息子ペーター,ブリックと旅行.夏,患L
苦しみました.周囲とぶっかりました.まったく孤独
者のゾフィー・ベンッとともにアスコナへ転居
でした軌
1911年3月 ゾフィー・ベンッ自殺.自殺幣助の嫌疑
をかけられ,3週間,強制入院させられる.そこからウ
まず,グロースの略歴をみてみたい(1°).
イーンの病院に移される.スイス旅行する.アスコナに
1877年 3月17日,誕生.父親は,犯罪学教授,ハン
アナキストのグループを結成するたあである.
ス・グロース.
1912年父親ハンスは遺言によって息子を廃嫡麻
1897年一1900年 グラーッ,ミュンヘン,シュトラス
薬中毒,精神病で財産の管理ができないという理由.
ブルグ大学で医学を学ぶ.グラーッ,ミュンヘン,フラ
1913年 2月,ベルリンへ行く.「アクチオン」とい
ンクフルト,キール大学などでインターン.
うグループに属する.精神分析にっいてルドヴィッヒ・
1899年 グラーッ大学で医学博士取得.
ルビナーと論争.11月,危険なアナキストとして逮捕さ
1900年 船医として南米航路船「コズモス」号に乗り
れ,プロイセンから追放され,父によって,ウイーンの
込む.薬物を使用しはじめる.
近くの個人精神病院に収容される.グロースの友人たち,
1901−1902年 ミュンヘンのグデン病院とグラーッの
フランツ・ユングやエーリッヒ・ミューザムらが新聞を
ガブリエル・アントン病院で精神科の無給医師見習い.
通して救出運動を起こす.父,ハンスは,グロースの妻
「薬物療法概説」発表.「社会防衛表象論」(父が編集し
フリーダにたいして子供の引きわたしを要求する.
ている研究誌『論叢』に発表した初めての論文),「倫理
1915年 父,ハンスが死去.
の系統」,「大脳の二次的機能」などの論文を発表チュー
1918−20年 グロースは雑誌の編集などをする.
リッヒで,モルヒネ,コカイン,アヘンなどの麻薬中毒
1920年2月13日 ベルリンの病院で死去.
を治療するため,最初の禁断療法を受ける.
1903年 2月23日,グラーッの弁護士の娘フリーダ・
グロースは,フロイドの精神分析理論を自分なりに発
シュロファー(Frieda Schloffer)と結婚.父親は,
展させて革命的な思想を展開した.その要点は,社会学
結婚によって薬物使用の悪習を脱することを期待
者マックス・ヴェーバーの妻で『ヴェーバー伝』を書い
1906年 グラーツ大学の精神病理学の私講師になる.
たマリアンヌ・ヴェーバーによると次のようなものであ
アスコナで,ロッテ・シャテンメールスが自殺.グロー
る(11).
スが剤助したとされる.ミュンヘンへ移る.ここはかっ
(155)
倉持 三郎
ひとりの若い精神科医で,フロイトの弟子はすぐれた
はほかのどのような名前でよばれようか.………
精神とゆたかな感情の魔力で,影響力を得ていた.彼
私はX氏の「理論」に不当な評価を与えているだろ
は師の新しい洞察を自己流に解釈して,それから急進
うか.しかし,このエッセイの9ページに,「適応」
的な結論を引き出していた.彼は性の共産主義を唱導
(規範に従うことによって欲望を抑圧すること)が引
した.それに比べると,いわゆる「新しい倫理」はまっ
き起こす犠牲にっいて雄弁に論じられている.この
たくとるに足らぬものであった.要約すると,彼の教
「犠牲」とは「健康を犠牲にする」ことだという.言
義は次のようなものであった.エロチシズムは人生を
葉を代えれば,私が人間の尊厳にしたがって行動すべ
高揚させる力が強いので外的な顧慮とか法律から自由
きときに,「この行為によってどのくらいの犠牲が生
にしておくべきである.日常生活に組みいれるべきで
じるか」と聞くような哀れな人間になりさがるという
ない.結婚生活が女性と子供を養うものであるとする
ことである.行動の倫理的価値は,それにともなう犠
ならば,愛の昂揚は,その外側でなされるべきである.
牲に値するかどうかについて,私が,精神医学者の判
夫婦は,性的刺激を起こさせるものを互いに抑えるべ
断を仰ぐということになる.「犠牲」(健康上の結果を
きではない.嫉妬は,いやしい感情である.友人が複
ともなう抑圧)は,絶対的価値を信じる場合にのみ起
数いるように,複数の異性と肉体関係をもっても,夫
こるという,まさに馬鹿馬鹿しい主張がなされている
婦がたがいに不貞ということにはならない.ひとりの
のである.………c12)
人間にたいする感情の不変を信じることは幻想である.
だから性的関係の排他性は偽りである.愛情の力は,
このヴェーバーのグロース批判の背後には,かなり個
常に同一の人間に向けられることによって弱められ
人的な恨みもあるようだ.それは,自分の愛する女弟子
がグロースに奪われてしまったからである.フリーダの
る.………
姉エルゼ・ヤッフェは,ハイデルベルク大学で,ヴェー
この理論は,ヴェーバー夫妻にショックを与えたヴェー
バーの学生だった.彼女はヴェーバーのもとで社会学を
バーは,自分の編集している研究誌にグロースの論文を
専攻し,博士号を取得した.はじめて女性の入学を許可
掲載することを拒否している.1907年9月13日づけの手
したハイデルベルク大学に入学した女子学生第一号がエ
紙で,ヴェーバーは,論文の掲載を拒否する理由を次の
ルゼである.彼女は恩師のヤッフェと結婚していたが,
ように述べている.
グロースの「魔力」のとりこになってしまったのだ.そ
して,彼と関係を結び,この年1907年には,グロースの
しかし,必然的に専門的で学問的なこの仕事をする
子を出産したのである.(あたかも夫婦の子であるかの
代わりに,フロイトの弟子たちは,とくにX氏(グロー
ようにペーターを抱いているエルゼと家族一同の写真が
スを指す)は,形而上学的な推測に向かう.とくにわ
残っている)これはヴェーバーにとってショックであっ
るいことには,厳密に科学的な立場からは,単純でば
たろう.(グリーンはエルゼはヴェーバーの恋人でもあっ
かばかしい問いに向かうのである.っまり「それは食
たというが,これははっきりしない)いずれにしても当
えるのか」っまり,「それから,世界観をっくれるの
時は,ヴェーバーに対抗するような影響力をグロースは
か」それはたしかに犯罪とは言えない.今まで,すべ
もっていたのである.
ての新しい学問的または技術的な発見のあとで,それ
ヴェーバーもそうであったが,グロースに対する批判
はたとえば肉からの抽出物であろうと,自然科学の一
のひとっは,彼が精神科医でありながら,病院の外に出
番高度な抽象概念であろうと,発見者は,新しい価値
てしまったということである.医師はあくまでも病院の
を発見し,倫理の改革者になろうという欲求を感じて
なかにとどまるべきである.ドイッの表現派の詩人であ
きた.たとえば,近代の写真術の発明家が,絵画の革
るルビナー(Ludwig Rubiner,1882−1920)も,病
新者になろうという欲求を感じたように.しかし,そ
院にとどまるべきであるとグロースを批判した.それに
の不可避な「おむっ」をわれわれの『論叢』で洗う必
たいしてグロースはこう答えている.
要はないのである.
ルビナーはこう言うのです.医師は病院にとどまっ
それらはまさに「おむっ」なのである.その「倫理」
(156)
D,H.ロレンスのドイッ体験
抗していた.シュヴァービング地区の喫茶店や酒場に集
ていよと.
私は,次のことを示すのを私の生涯の仕事としてき
まって,革命思想を議論しあった.1892年,新しい芸術
たのです。現行の権威的な体制の直接的な結果として
:運動,「分離」運動の根拠地になった.1898年には「分
あらゆる人間が精神障害をおこすということです.し
離」の展覧会が開かれた.マチスが来て,その影響でカ
かも,とくに価値のある人達が障害をおこすのです.
ンデイスキーがフォーヴィズム運動をおこした.ポール・
これを洞察すれば,人間の健全を保っために革命が必
クレーは98年から21年まで住んでいた.1901年,最初の
要なことがわかります.臨床的治療の下準備として,
芸術家キャバレーが開かれた.シンプリシスムス
人間の内面的解放が絶対必要なのです.個人生活の土
(Simplicissumus)とよばれるバーも開店した.この
台として,個人の主張が必要なのです.個人の可能性
名前は風刺雑誌にちなんでっけられた.それらにボヘミ
の実現を「健全」として定義することなのです.
アンたちがたむろした.芸術家だけでなくて,革命家,
無意識心理学は,個人の現実と理想の姿を,白日の
アナキスト,同性愛者がいた.
もとにさらしてくれました.それから未来の「健全」
カフェ・レオポルドも開店した.コーブスは,チュル
という概念の輪郭を描くことができます.個人の生命
ケン通りに「デヒターライ」という酒場をつくったミュー
の主張が,育成ということなのです.
ザムはグロースと「デヒターライ」か「シンプリシスム
われわれは理解すべきなのです.個人の主張から,
ス」で議論した.グロースは,カフェ。ステファニーに
生の価値がうまれるのです.〈13)
も出入した.
喫茶店や酒場に芸術家がたむろして,芸術を語り,革
グロースの反論は,要するに精神疾患は病院のなかだ
命を語っていた.そこは,シュヴァービングの帝国議会
けで直せない.社会全体が,現在の体制では性的な抑圧
であった.そこにミューザム,グロース,ヤッフェがい
をうけているから,体制そのものをこわさなければなら
た.その中心にファニー(Fanny zu Reventlow)が
ないとする.具体的にいえば現在の一夫一婦の結婚制度
いた.
そのものが抑圧を生み,精神病をっくっているとする.
芸術家だけではなくて学問の世界でも革新的な議論が
キリスト教道徳を人間の倫理生活の根本と考えるマック
展開されていた.1897年と1903年の間に,シュヴァービ
ス・ヴェーバーを激怒させたのはもっともである.
ングでは,神話,人類学,文化史が議論され,その中か
ら西洋の家父長制に反対する世界観をつくられた.それ
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は,エロチシズムを評価し,科学より本能と直感の生活
このようなグロースの革命的な思想はどのようにして
を重視し,女性の存在形式を重視するものであった.こ
生まれたのであろうかそれはひとっには時代の流れに
ういう思想は,スイスの学者,パホーフェン
よるであろう.また同時に直接的には,ミュンヘンとい
(Bachofen)から来ており,それがグロースや,最終
う都市が革命的思想を生む土壌となっている.とくにそ
的には,ロレンスに影響をあたえることになった(15).
の一地域であるシュヴァービング(Schwabing)地区
前述のファニーは1871年にフスムに生まれ1918年にな
は革命の温床であった.グロースはここで自由への道を
くなった.リューベックに住んだが,21歳のとき家族と
発見したのであり,精神分析医としての精神的基礎もこ
対立して家出をして,シュヴァービングに住むようになっ
こで築かれたのである.
た.絵画を描いていたが小説も書きはじめた自伝ノr説
ミュンヘンはバイエルン州の主都であり,政治,宗教,
『エレン・オレンシュテッルネ』と『ヘルダーメスアウ
産業の中心地であるが,とくに19世紀後半より新しい芸
プザイヒヌンゲン』は特筆すべきものである.後者はシュ
術運動,思想運動の根拠地となった.グリーンはこの時
ヴァービングを描いたものであり,「宇宙サークル」を
点で,文化的な3角形が存在していたとする㈹.ベル
分裂させることになるクラーゲスとヴォルフスケールの
対立を描いている.
リンは,権力の場所であり,ハイデルベルヒは啓蒙の場
所であり,ミュンヘンが革命の場所であった.
彼女は結婚したが夫に貞節ではいられず,多くの恋人
シュヴァービングは,当時,反体制派の知識人,芸術
をもった.彼女には上流階級のもっ魅力があった.子供
家の根拠地であった.ビスマルク体制下のベルリンに対
をひとり生んだが,その父親の名前を明かさなかった.
(157)
倉持三郎
そして自分ひとりで育てていた.ファニーとその父なし
再来と映ったのである.
子が,シヴァー一一ビングの象徴であるとグリーンは言う.
フリーダは,1907年にミュンヘンに姉のエルゼを訪ね
のち,彼女はクラーゲスと恋愛関係になった.ふたりが
た.そしてシュワービングの知的,革命的サークルに入っ
いっしょになれば異教の世界ができるだろうと,仲間の
た.ロレンスがフリーダにはじめて会ったとき,彼女が
ひとりが述べている.
当時イギリスではあまり知られていなかったイデップス
脱キリスト教世界が彼らの理想であった.ファニーは,
コンプレックという精神分析の話をしたがそれはグロー
その理想世界のマドンナであった.ファニーは夫を愛し
スや,その他のシュヴァービングの人達との会話のなか
ていたが,夫には自分の生命力と対抗する力が不足して
から知識を得たものである.ふつうのイングランド中部
いると考えた.彼女は「自分は何か偉大なことを達成す
地方の主婦が知るはずのないものだった.っまり,ロレ
るという感情」をもっていた.クラーゲスは「異教の聖
ンスが会ったフリーダという女性は,たんにひとりの教
人」とファニーを呼んでいたが,この言葉は,グロース
授夫人というだけではなくて,ミュンヘンのシュヴァー
がフリーダを呼んだ言葉に似ている.またロレンスがブ
ビングの革命的な空気を吸い,極限すれば,シュヴァー
リーダを呼んだであろう言葉だとグリーンは述べている.
ビングの思想と雰囲気を体現している女性だったのであ
エルゼも,そしてフリーダも,ファニーのような生き方
る.ロレンスが感銘を受けたのは当然であった.
を選ぶのであった.
それより以前,エルゼは,グロースの妻のフリーダ・
ミューザムは,歌うように,シュヴァービングでの生
シュロッファーとフライブルグの学寮で知りあいになっ
活を回想する.「シュヴァービングよ!私は,楽しさと
た.エルゼは前述のように,1902年に恩師のひとりで,
沈思と芸術的味わいの無限の時間を思い出す.私ははめ
国家経済学のエドガー・ヤッフェと結婚していた.フリー
をはずしてはしゃぐ謝肉祭を思いだす.奇妙な振舞いを
ダの叔父でフライブルグ大学の哲学教授,アロイ・リー
しているが,精神の独創的な活発さをもった人達を思い
ル(Alois Rieh1)の家で,エルゼは,マックス。ヴェ
だす.そして,フロイトの高名な弟子,オットー・グロー
バーの妻,マリアンヌと知りあった.このようにして,
スを思いだす.・・・・… 私は,生と愛情を,偏見
エルゼは,グロースを知ることになり,っいで,フリー
なく,無邪気に受け取り,また与えることを知っている,
ダもグロースを知ることになった.
シュヴァービングのおとめたちを思い出す.清浄で精神
フリーダは15歳年上のウイークリーと結婚して,ノッ
的な空気を思いだす」(16)
テインガムにわたり,子供は3人生まれながら,満たさ
ミューザムの思い出のなかにグロースがいる.ここで
れず,不幸な生活をしていた.学究一筋の夫ウイークリー
グロースも精神の自由に目覚めていったのである.グロー
に,グロースの持っていた魅力を見出すのは不可能であ
スは,フリーダに向ってイギリスの夫のもとを去り,ミュ
ろう.フリーダと関係のあったあと1年間,グロースは
ンヘンにくるようにと言った.来るときは,シュヴァー
フリーダに,彼女の義兄ヤッフェを通して恋文を送った.
ビングの北の郊外にあるカフェ・ステファニーに電報を
フリーダはオットーから自分にあてた手紙を破らずにとっ
打っようにとフリーダに手紙を書いている.グロースは
ておいた.そのひとっにはこうある.
夜も昼もそこに出入していた.
グロースは,性の自由を説き,所有欲とか嫉妬の感情
きみが存在してくれてありがたい.きみのことが分
を卑しいものとして退けた.純潔とか貞節とか,自己犠
かり.きみはぼくに勇気を,すべての希望を,すべて
牲は,堕落した道徳であると主張した.そのカリスマ的
の力を与えてくれたことを感謝する.・・・… き
魔力にとらえられ,エルゼもブリ’一ダもグロースの「信
みを通して,実体のない夢っだったもの,ぼくの苦闘
者」になってしまった.
と希求のなかの夢想であったもの一私の想像力のなか
だけに生きていた「未来の女性」の夢を,「彩色し生
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命を与えて」ぼくに示し,与えてくれたのだ(IT).
フリーダは駆け落ちしたあと,ロレンスにこう語った.
「あなたは,第二のオットー・グローであり,エルンス
「未来の女性」という言葉は,たんなるラブレターの
ト・ブリックです」フリーダにはロレンスはグロースの
表現を越えたものだろう.フリーダもまた同じようにグ
(158)
D.H.ロレンスのドイッ体験
もにドイッに行ったことは駆け落ち(elopement)
ロースにラブレターを送っている.
ではないと主張している.
どんなにあなたにお会いしたいと思、っているかわかり
(6)このときの事情にいっいてはFrieda Lawrence:
ますか.愛の驚異のドアは広く広く開くでしょう.そ
Not I But the Windにも述べられている. Worthen
のなかに祝福された二人はすばらしく,栄光にみちて
は,小説,Mr No onを引き合いに出している.
入っていくのです.あなたのすてきなお手紙!あな
(7)Worthen, p.397.
たは魔法使なのでしょうか.私が,求めていたもの,
(8> グロースについては,Martin Green:The
「真実」の情熱が,まさに今日やって来たのです㈹.
Richthofen Sistersがすぐれた研究である.
(9)Frieda Lawrence:N()t l But the Wind, p.3.
結 語
〈10)Emanuel Hurwitz:Otto Gross:Parαdies−
ロレンスの思想は,ドイッに源を発しているといって
Sucher 2ωischen Freud und Jung, PP.302 −306,
も間違いとはいえない。『チャタリー卿夫人の恋人』の
なお,この研究書は,前記のMartin Greenのグロー
なかにコンスタンのドレスデンでの恋愛事件にっいて書
ス論をさらにおし進めている.本論もこれによるもの
いてあるが,これはかなり象徴的である.コンスタンス
が多い.
は,ドイッで彼女の生き方考え方を知ったのである.コ
⑪ Marianne Weber:Max Weber, p.373−4
ンスタンスとフリーダを重ね合わせることはできる.ブ
(12》 Ibid., pp.375−380.
リーダというあらゆる束縛から解放された女性を通して
q3)Hurwitz, p.100.
ひとっの思想が流れこんでくる.紀行文Ttvilight in
(101Martin Green:The Richthofen Sisters, p.92.
Itαlyのなかで「グラーツ出身の医師」という表現でグ
なお以下のミュンヘンに関する部分は,この書によっ
ロースに言及した以外は,口をとざしているロレンスで
ている.
あるが,常にフリーダのかつての恋人を意識していたで
(15》 Ibid., p.73.
あろう.
(16)Hurwitz:Otto Gross, p.114.
a7) The D. H.Lαωrence Revieω, Vo1.22, No.2,
注
P.165.
(1>Lady Chαtterle)ノ’s Lover(Cambridge Univer−
(181 1bid., p.194.
sity Press,1993),pp.6−7
主要文献
(2)William Larrett,“Lawrence and Germany:a
reluctant guest in the land of ‘pure ideas’in
Keith Brown(ed.):Rethinking Laturence. Open
Rethinking Lαtvrence(ed. Keith Brown),pp.79−
University Prgss,1990
91.
David EIIis and Ornella De Zordo eds.:D.H.
(3) James F. Scott:“Thimble into I.aydybird:
Lαtvrence Criticα1 4ssessrnents. Helm Informa−
Nietzsche, Frobenius and Bachofen in the Later
tion,1992.
Works of D.H.Lawrence,’”in 1). H. Latvrence
Martin Green :Tゐe R‘cゐ‘んofen Sis‘ers:The
Critiα1 Assessments, Vol., pp.282−298.
Triurnphαn‘and Tragicルlo(les(ゾLoひe。 Basic
(4)東京学芸大学紀要人文科学38集,「ロレンスとオッ
Books,1974.
トー・グロースー」Ttvilight in ltalyの問題」で
Emanuel Hurwitz:αωGro88:Parα(漉8−Sucんer
すでに論じたが,それにふれなかった面を取り上げる.
zωischen、Freud und eんn8・. Suhrkam p Verlag
(5)ウイークリー,フリーダとロレンスのつながりは
Zurich,1979.
すでに,しばしば取りあげられてきている.ここでは,
Frieda I」awrence:N()‘1Bu‘‘んe Wind. Heinemann,
とくにWorthen:D. H. Lαωrence :The Eαr砂
1934。
Yeαrs,1885−1912を最近の成果として注目したい.
1.ucas:Friedα LαLvrence:7’he Story(ゾ1究rεedα
Worthenは,1912年5月にロレンスがフリーダとと
ひo几R‘cん‘ゐ(りfenαnd D. H. Lαωrence. Secker and
(159)
倉持 三郎
Warburg,1973.
Lawrence’sreponse to Germans is mixed. Whi】e
Harry T. Moore:The Pr‘es‘(ゾLoひe:ALife q〆
he is opposed to the metaphysical ideas of German
D.H.Lau」rence. Heinemann,1974.
thinkers, on the other hand he is impressed with
Marianne Weber:Mαx Weber:・4 Bεq8rαρゐy.
the new ideas and views of some German thinkers
(English Language Edition)John Wiley&Sons,
and scholars, One of the most influential German
1975.
thinkers is Otto Gross, one of Siegmund Freud’s
John Worthen:1).H.Lαωreπce:The Eαu’ly
disciples. Through Frieda Gross’s radical ideas
Years 1885−1912. Cambridge University Press,
are conveyed to Lawrence so that they stimulate
1991.
and inspire his imagination as a writer, In this
Summary
D.H.Lawrence and the Experience of Germany
essay attempts are made to study Gross’slife and
ideas in reference to Lawrence’slife and ideas as a
wrlter.
(160)
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