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日本語文法学会の展望 (展望 2: 理論的研究)

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日本語文法学会の展望 (展望 2: 理論的研究)
Kobe University Repository : Kernel
Title
日本語文法学会の展望(展望2:理論的研究)
Author(s)
定延, 利之
Citation
日本語文法,6(1):159-167
Issue date
2006-03
Resource Type
Journal Article / 学術雑誌論文
Resource Version
author
DOI
URL
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/90001954
Create Date: 2017-03-30
特別記事:日本語文法学界の展望
展望 2:理論的研究
●理論的研究とは何か
定延 「記述・教育文法」
「応用的研究」
「歴史的研究」「方言文法」と並置される「理論
的研究」というもののイメージを,まず或る程度明らかにしておきたいと思います。「単
なる観察や考察にとどまらず,自分が採用している観察の枠組み,考察の枠組みを特によ
く意識し,枠組みの改良に積極的な研究」ということでどうでしょうか。酒井さんには形
式的な立場からの展望をお願いしていますが,こんなイメージで不都合はないでしょうか。
酒井 もちろんそれで不都合なんてありません。認知的/機能的と呼ばれる研究から見た
イメージと,形式的と呼ばれる立場から見たイメージにそれほどの差はないのではないで
しょうか。生成文法的な見方を強めた場合は,
「観察される現象そのものより,背後にあ
る仕組みや原理を解明することを目指す研究」とも言えると思います。また隣接する研究
領域を含めた広い観点から考えると,並置されているいくつかの研究領域は歴史や文化と
の関わりを追究したり,社会的要請に応えたりすることを重視しているのに対して,「理
論的研究」は人間の心理,認知や脳機能との関係を探りつつ,応用研究の基盤を提供する
ことを目指して発展を続けているという違いがありますね。
●この 4 年間の大きな動き
定延 ではさっそく,この 4 年間の大きな動きについてお話しください。
酒井 この 4 年間を語るにはそれ以前,つまり 1990 年代後半の動きと比較するのが分か
りやすいと思います。生成文法や形式意味論などの領域では,20 世紀最後の数年間は新
しい試みが始まる時期ではなくて,ミニマリスト理論に代表される理論自体の枠組みを見
直す動きと,原理とパラミターのアプローチなど確立された枠組みを使用して個々の言語
現象の研究を進める動きとのそれぞれが,並行して深められて行きました。これによって,
その後の発展の土台が築かれたという印象があります。21 世紀の始まりは,振り返って
みるとやはり大きなターニングポイントで,既存の研究の枠組みがさまざまなところで急
速に否定され始めました。
まず言語研究の枠組み全体に影響を及ぼす大きな動きとして見逃せないのは,言語に関
する「能力」や「知識」の研究と呼ばれていた分野と,言語の「運用」や「処理」の研究
と呼ばれていた分野の境界が,それこそベルリンの壁のように倒壊したということです。
文法研究の材料として,文の理解や産出に関する実験的データや,さらには脳波や脳血流
量の変化などの生理学的指標まで使用できるし,逆に言えば文法理論はそこまで説明する
責任を負うのだと言う研究者も現れています(David Poeppel and David Embick, “Defining
the relation between linguistics and neuroscience,” In A. Cutler(ed.), Twenty-first Century
Psycholinguistics: Four Cornerstones, Lawrence Erlbaum, to appear)。でも考えてみれば,この
ような指摘は当たり前のことで,研究者が提案した仕組みや原理が本当に正しいのなら,
ネイティブスピーカーは実際にその仕組みや原理を使用して文を理解したり産出したり
しているはずなのです(Colin Phillips, “Linear order and constituency,” Linguistic Inquiry 34,
pp.37-90, 2003)
。
文法と意味,文法と音声という研究分野の境界も維持するのが難しくなって来ましたが,
これも,言語現象はすべて音声,文法,意味の諸側面を含んでいますから,すべてに配慮
するのが当然だと言えるでしょう。ただこれはもちろん,やみくもに全体を一括して扱お
うと言うことではなくて,自分の専門分野と隣接する諸分野との関わり方を良く理解して
いる研究者ほど,適切な問題の切り出しができるので,核心となる部分が明晰にとらえら
れるということなのです。分野間の融合がすでに 90 年代から進行していたのは語彙意味
論,形態論,統語論にまたがる領域ですが,この 4 年間には統語論とプロソディーの関係
を探りつつ文処理と結びつけるユニークな研究(Yoshihisa Kitagawa and Janet Dean Fodor,
“Default prosody explains neglected syntactic analyses in Japanese,” Japanese/Korean Linguistics
12, pp.267-279, 2003)や,語用論と意味論・統語論を 1 つにまとめあげるような壮大な研
究(Gennaro Chierchia, Scalar Implicatures, Polarity Phenomena, and the Syntax/Pragmatics
Interface, University of Milan, ms.2001)が続々と現れてきています。
定延 認知的~機能的と呼ばれる文法研究については私からお話ししましょう。いま形式
的な研究で「知識」
「原理」と「運用」
「処理」の境界が崩れたとおっしゃられましたが,
それと同じようなうねりが,やはりこちらにも起こっていて,「そもそも言語とはどのよ
うなものなのか」という根本的な問題にまで及んでいます。具体的にいうと,語や文を記
号というよりもむしろ動的な行動と考える,チェイフのような研究が(Wallace Chafe, “The
analysis of discourse flow,” In Deborah Schiffrin, Deborah Tannen, and Heidi Ehernberger
Hamilton(eds.), The Handbook of Discourse Analysis, pp.673-687, Blackwell, 2001),確実に
広まってきています。たとえばデュ・ボワはラネカーに対して,記号的な言語観で到達で
きるところまで到達した旨の高い評価を与えながらも,そうした意味と形式の対応を前提
とする考えでは,談話における主語や目的語の分析に困難が生じてしまうとして,記号的
な言語観の限界を論じています(John W. Du Bois, “Discourse and grammar,” In Michael
Tomasello(ed.), The New Psychology of Language: Cognitive and Functional Approaches to
Language Structure, Vol.2, pp.47-87(特に pp.51, 80), Lawrence Erlbaum, 2003)
。もちろん,
記号的な言語観を問題視する立場は時枝文法のように昔からあったわけですが,認知言語
学と呼ばれる学派あるいはそれに近いところからも,記号的でない動的な言語観をはっき
り表明する動きが活発化してきたということは,注目してよいと思います。こういう動き
は,今後さらに盛んになっていきそうです。
言語観と併せて,文法観についても同じような変化が現れています。つまり,現実の言
語が日に日に変わっていくという事実に対応できるような,動的な文法観が少しずつ浸透
しています。たとえば時代 A の言語から時代 B の言語へという歴史的な言語変化と切り
離されたところに,時代 A の文法や時代 B の文法があるわけではない。これらの変化を
内包する形で A 時代の文法も B 時代の文法も記述できないか。共時態と通時態を統合し
て,文法体系の変化を収容できる文法を作ろうという動きです。文法化はまさにその考え
の一部だと言えるでしょう。
●動きの背景にあるもの
定延 いまお話しくださった動きの背景的な事情,あるいは問題点について,お考えをお
聞かせ頂けるでしょうか。
酒井 新しい動きが表面化して来たのは,20 世紀後半の 50 年の間に,既存の領域を破壊
しても研究分野が空中分解してしまわないだけの強靭な土台が築かれていたということ
でしょう。隣接する諸科学においても,いわゆる認知科学の関連領域が驚異的な発展を遂
げたせいで,言語学をとりまく領域間の交流がスムーズになりました。自分が大学院生で
あった 1980 年代には,統語論と心理言語学とは異なる問題を扱う,別個の研究領域だと
いう印象を受けていましたし,心理学や脳科学は遥かに遠い存在でした。今でも領域間の
距離を過小評価してはいけませんが,いくつもの障壁を乗り越えて他分野の研究者に提供
しても,鮮度と価値を失わない確固とした事実を言語学者はたくさん知っています。ボキ
ャブラリーの違いをうまく乗り越えて説明すれば,研究の価値を正当に評価してくれるの
で,領域を越えた協力がずっと容易になっています。言語学内部の諸分野の間でも,それ
ぞれの分野の基盤となる事実や理論が整備されてきたので,境界を崩しても混乱して見通
しが失われてしまう心配がなくなりました。
ただ現状では,このような相互乗り入れによる研究の活性化が期待できる部分はまだ限
られていて,確実な事実が見えてこない部分もたくさん残されています。この点は異論も
あると思いますが,私はそれぞれの領域の中でまずじっくり事実を観察し,確実なことが
言えるようになってから,他領域との交流を始めるのが効率的だと考えています。まだわ
からないことが残っている段階で別の領域に乗り出して行ってさらにわからないことに
遭遇すると,ますます霧の中をさまようことになってしまって,これでは 1980 年代以前
の状況に逆戻りです。引き続き,まず言語研究の枠組みの中で事実を確実に説明し,基盤
を補強する作業がとても重要です。
定延 研究領域の限界線を崩す作業には,メリットだけでなく危険もあるわけですね。私
もいまの研究動向に対して少し似たきもちを持っています。私に見えている範囲でも言語
観や文法観が変わってきたことは,先ほどお話ししましたが,そういう変化は結局のとこ
ろ,文法研究が現実にせまろうとしているところから来ているようです。これまでの文法
研究が現実というものをあまりにも見てこなかった。少なくとも,現実に向かおうとする
姿勢が外部には見えなかった。そのツケが来ているということです。しかし,話し手の個
人的な生い立ちとか時代背景とか体調とか,最初から現実を何もかも見ようとすると研究
は進まないわけで,文法研究を「科学的」に進めていく上では,いろいろな形で視野を限
定して,現実ではない「理想的」なところから出発するというのは,しかたがない部分が
ありますね。
●今後の課題
定延 では,そのような背景的な事情からして,今後の文法研究が取り組まなければなら
ない課題には,どのようなものがあるでしょうか。
酒井 これまでにせっかく構築された研究基盤が十分に有効利用されていないのが,最も
気になるところですね。統語論の研究論文を読むと,1960~70 年代の研究ですでに指摘
されているはずの事実が,見落とされていることがよくあります。1960~70 年代といえ
ば,三上章や原田信一,久野暲や黒田成幸など巨星のような言語学者が活躍し,日本語文
法の研究によって言語学理論の発展に貢献する可能性が切り開かれつつあった黄金時代
で,私たちが最も大切に受け継いで行かねばならない遺産が存在する時代です。
形式意味論の成果を応用した日本語文法研究も,まだまだ少ないですね。すぐれた研究
成果がたくさん残されていますし,今も着実にすばらしい研究が発表されているのですが,
その成果が論文の中であまり引用されていないようです。これらの研究は,日本語学と英
語学のはざまに隠れて,まとまった形で総括されていないため,どちらの領域の研究者も
見落としがちなのではないでしょうか。実は日本語学/日本語学科や英語学/英語学科な
ど研究機関の事情で設けられた専門や専攻の壁が,言語研究の発展を妨げる最も深刻な障
壁かも知れませんね。
関連領域の研究者と相互に刺激を与え合いながら,互いの研究分野の活性化を促すため
にわれわれがまずなすべきことは,日本語統語論研究をしっかりふまえた文処理や言語の
脳機能研究を実施できるように,これまでの研究成果の見直しを進めることです。能力・
知識の研究と運用・処理の研究との間に境界がなくなったと言っても,既存の研究におい
て提案された分析の多くは運用・処理にかかわる事実を説明するために使用されることを
想定していないので,領域の広がりに耐えられる形に補強・修正する必要があります。
最後に,日本語文法研究の国際的な発展のために最も重要な,複数の言語間の比較研究
について述べさせてください。日本語とアジア地域の諸言語との間の理論的な比較研究は,
その重要性や潜在的な可能性の大きさを考えると,まだほとんど開拓されていないと言っ
て良いような状況です。すぐれた研究が芽生えつつあり,Journal of East Asian Linguistics
に代表される国際的学術誌の貢献によって,それぞれの言語に対するレベルの高い研究成
果が着実に蓄積されているので,今後もっとも発展が期待される領域だと思います。
定延 認知~機能的な言語研究についても,先行研究の蓄積についてはまったく同感です。
「文は話し手の 1 つの考えを表す」とか,「一人の話し手/書き手が 1 つの文を最初から
最後まで一気に産出する」とかいった,これまでの文法研究の前提のいくつかは,現実に
せまろうという大きなうねりの中で見直さなければならないかもしれません。しかし,だ
からといって,これまでの文法研究をうやむやにして,なかったことにさせてはいけない
でしょう。これまでの文法研究の成果は,たとえば自然会話のようなものの中にも活かせ
るはずですから。
今後の課題としては,ミクロなレベルの文法化にどう向き合うか,という問題が大きい
ように思います。談話の中で誰かが何かを言い,そのたびごとに,そこで発せられること
ばの連続体がそれだけ固定化,そして文法化していく。このことをホッパーは昔,
「文法
というものはない。あるのは文法化だけだ」と言っています(Paul J. Hopper, “Emergent
grammar,” BLS 13, pp.139-157, 1987)。時代 A から時代 B にかけて,ことばの意味がこう変
わった,こんな文法要素が立ち上がったといったマクロなレベルでの文法化はいま,さか
んに取り上げられていますが,今後は一回一回の談話の中でのミクロなレベルでの文法化
も大事になっていくでしょう。そのためには,文法研究の方で取り組まなければならない
ことが少なくとも 3 つあるようです。1 つ目は,先ほど酒井さんも触れられた,音声です。
文法研究と音声研究が相互を排除せず,むしろ活性化するような研究のあり方が,たとえ
ば音声文法研究会で実践的に検討されていますが,このような検討作業は今後,文法が談
話との接点をはかろうとする上でさらに重要性を増していくと思います。文法~音声研究
で用いられるデータといえば,実験室的な環境で十分にコントロールされた音声ばかりで
したが,その点,2001 年以来公開されている国立国語研究所の「日本語話し言葉コーパ
ス」は模擬講演を取り入れるなど,新規性を感じさせるものでした。データの自然さにさ
らにこだわったプロジェクトとしては,科学技術振興機構の戦略的基礎研究推進事業「表
現豊かな発話音声のコンピュータ処理システム」
(2000-2004 年度)がありました。今後,
さまざまなデータを組み合わせて,文法と音声のつながりを考えていく必要があるでしょ
う。
2 つ目は,
「そうじゃ,わしが知っておる」という発話で繰り出される博士キャラ,
「そ
うですわよ,
わたくしが存じておりますわ」という発話で繰り出されるお嬢様キャラなど,
話し手が発話によって繰り出すキャラクタで,ここではこれを発話キャラクタと言ってお
きます。発話キャラクタはこれまで正面からほとんど考察されていませんでしたが,談話
に現れることばづかいや音声を説明する上で,話し手の社会的位相や人格,態度や感情と
並んで無視できないもので,今後の研究が期待されます。金水敏氏の役割語の研究(金水
敏『ヴァーチャル日本語 役割語の謎』岩波書店, 2003)はその口火を切るものと言えるで
しょう。
最後の 3 つ目は,文法自体のとらえ直しです。先ほど述べた,動的な言語観,文法観と
いうことにも絡んでくるのですが,現実の談話の諸現象をうまく収容し,記述・説明する
には,会話分析や或る種の認知科学的な研究ともっと交流する必要があるでしょう。欧米
ではすでに,文法研究と会話分析の交流が推し進められ,
「会話の中の文法」という研究
領域が開拓されています。言語ごとの統語構造や韻律パターンの違いが会話内の相互行為
のあり方にどんな違いをもたらすのかについて,さまざまな知見が蓄積されており,日本
語についても,たとえば岩崎勝一氏,大野剛氏,林誠氏らの研究は,会話分析者からも注
目されています。文法学者だけでなく会話分析者の串田秀也氏も巻き込んで,応答詞とそ
の周辺を取り上げた私自身の試み(定延利之(編)
『
「うん」と「そう」の言語学』ひつじ
書房, 2002)も,こうした動きを視野に入れてのものでした。このような研究は今後,さ
らに広がっていくでしょう。また,文法研究と認知科学との接点としては,これまでにも
心理言語学や神経言語学があり,そこでは,文あるいは発話が実時間の中で算出・理解さ
れるメカニズムが調べられてきたわけですが,文法的に正しい文ではなく,日常観察され
る現実の文に関する研究はあまりありませんでした。が,近年,自然発話に見られる非流
ちょう性への関心から,このような現実の文の算出・理解のメカニズムや会話運用との関
わりを追究する新しい研究領域が伝康晴氏らによって開拓されており,会話の中の文法と
の交流が期待されています。
●最後にひとこと
定延 最後に,特に次代の日本語文法研究を担う若い研究者に対して,ひとこと頂けます
でしょうか。
酒井 次代を担う若い研究者って僕たちのことじゃないんですか…(笑)。でも,確かに
もっと若い方々が,最近ではどんどん活躍されていますものね。
研究との向き合い方:楽しくワクワクドキドキするような,発見や創造の瞬間をいつも
追い求めてください。もちろん,1 つの研究を進める間に楽しく感じられる時間はそう多
くはないのですが,取り組みを始めてから論文として完成するまでの間に科学的研究に携
わる喜びがまったく感じられなかったとしたら,何か大事なものが忘れられているのかも
知れません。
仲間と友人:仲間との交流は,研究のために欠かすことのできない要素です。どんなに
時間を割いても,十分すぎることはありません。多くの方々がイメージしている,若手研
究者に与えられるべき研究交流のための時間と密度と広がりは,恐らく私が必要だと考え
ている量の 1 割か 2 割ぐらいだろうと思います。それぐらい,私のイメージする「若手研
究者を育てるために必要な環境」と,日本の現状はかけ離れています。環境を整えるのは
私たちの責任ですが,若手の方々には与えられたものを消化できるように,研究意欲と基
礎体力を養っておいて欲しいですね。
先生や先輩:研究者として尊敬するある友人は,常々,恩師の某先生を「死ぬまでに一
度で良いから,投げ飛ばしてやりたい」と言っていました。私自身も,投げ飛ばせないま
でも,せめて同じ土俵に上がって力を試してみたいと思う方々がいらっしゃいますし,若
い研究者の方々に挑戦してもらえるような研究ができたら,素敵だなと思っています。
定延 われわれが学生だった頃から,もう 20 年近く経っていますからね(笑)。しかしあ
の頃は,文法研究に談話を本気で持ち込むことは,少なくとも日本では一般的ではありま
せんでしたね。いま,ご存じのとおり状況は大きく変わっていて,今後もまた変わってい
くでしょう。
「何が文法の問題か」は,あらかじめ決まっているわけではないと思います。
若い人に言いたいのは,どうしても研究したいことは臆せずどしどし研究し,発言してい
くべきだということです。ただ,先ほども言いましたが,
「何もかも見る」のではたいて
い研究は進まないだろう,一部を「とりあえず見ないことにする」ことは大事なことです
ね。自分の研究の目的と手法を自分でよく考えて,
「とりあえず見ないことにする」領域
を主体的に決めていってほしいですね。そのためには,個別的・記述的な研究をしていて
も,語とは何なのかとか(宮岡伯人『「語」とはなにか:エスキモー語から日本語をみる』
三省堂, 2002)
,言語対照とはどういうことなのかとか(井上優「「言語の対照研究」の役
割と意義」国立国語研究所(編)
『日本語と外国語との対照研究 X 対照研究と日本語教育』
pp.3-20, くろしお出版, 2002),自分の観察や考察の枠組みを常に問い直す姿勢が大切でし
ょう。
そして,他人が自分とは違った目的と手法で,自分とは違った研究をしていて,自分と
は違った領域をとりあえず見ないことにしているのだと理解することも大事だと思いま
す。
「これこれ(たとえば現実の会話)を見ようとしない文法研究は本質を見逃しており,
無価値」といった論を時々見かけますが,そういうことばは人を動かすことはできないで
しょう。
「理論的である」ということに,それだけで良い点が何かあるとすれば,自分と
他人の研究枠組みの異同を意識しやすく,それを尊重しやすいということに尽きると思い
ます。
まだまだ触れておくべき研究は多いかもしれませんが,これでわれわれの展望を終わり
たいと思います。そもそもこの「展望」は,いわゆる「文献紹介」とは違うものとして企
画されたものです。そのため,大変すぐれた研究でも,初めにお断りした「理論的」の定
義にあまり合わないものは,無理に言及しなかったことを最後に申し添えておきます。そ
の上でなお,われわれの視野の狭さや理解の浅さによる見落としがありましたら,どうか
お赦しいただきたいと思います。
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