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ー作者未詳歌を中心としてー

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ー作者未詳歌を中心としてー
万 葉
類 句 歌 考
大久間喜一郎
至る過程についても確実なところは判っていない。また、巻十一から十三に至る作者未詳歌群の万葉集中に占める位置、あ
るいは巻七・巻十、または巻十四の東歌群の性格についても、一応の解決はあるにしても疑問を挾む余地はある。それらに
定説的解決を与えるのは、尚将来の課題として残されている。そして、それは種々の観点から分析と考察とが加えられるこ
とによって達成されるに相違ない。本稿における類句歌の考察ということも、万葉に残された多くの課題のうちの幾つか
を、その解決へ向って少しでも前進させる一つの鍵であると信じている。但し、本稿自体がその役割を果すなどとは考えて
もいない。ただ、多少なりとも問題提起になればと思っているに過ぎない。
類句歌の研究ということは、類句歌の概念規定をゆるめれば類歌の研究という意味をも含んでくる。そうなれば類句歌の
研究は、類歌研究の一部ということになる。また、類歌の概念を、内容・表現ともに極めて近似した歌についての相互の呼
一17一
ー作者未詳歌を中心としてー
説
万葉集は、一部の巻を除いては未整理の歌集である。その成立年代についても、編纂の真の意図、あるいは現在の形態に
序
称であると断ずれば、類歌研究と類句歌研究というものは、それぞれ異なった研究目標をもつ可能性を生じてくる。つま
り、そうした意味での類歌研究における最も直接的な課題は、重出歌・或本の歌・一本の歌.古歌等、多くの類歌を含んで
いる万葉集というものの形成過程を考察する上での重要問題の一つということになる。ところが、類句歌研究の場合はむし
ろ相互の影響関係あるいは模倣関係の有無ということに主眼が置かれてくる。それを万葉の成立論に結びつけるならば、そ
れはむしろ内容的な面で関係をもってくると考えられる。ともあれ、類歌研究・類句歌研究が万葉を解明する一つの物差と
なることは疑いないところである。だが、それをどのような物差に作りあげるかということは、今後の問題であろうかと思
う。
万葉集における類歌・類句歌の研究に早くから着目されて、その基礎作りをされたのは佐佐木信綱博士であった。その労
作が万葉集類歌類句放である。博士はその中で、重出歌三〇首、少異歌二五二首、計算に誤りがなければ類歌一七四二首を
挙げて居られる。この中、重出歌を除いて、少異歌二五二首・類歌︵類句歌︶一七四二首の中には、類句表現の歌は元よ
り、内容上類歌と見得るものをも含めてピる。これは大変な労作であった。たとえば、少異歌というのは、表現の上からは
一句以内程度の表現上の相違を有するものを多く集めている。しかしまた、中には内容上の近似と考えたためであろうか、
次のような例も少異歌として取り上げている。
大船の泊つるとまりのたゆたひに物念ひ痩せぬ人の児故に︵弓削皇子、巻二.一二二︶
石見なる高角山の木の間ゆも吾が訣振るを妹見けむかも︵人麿.或本、巻二.=二四︶
石見の海打歌の山の木の際より吾が振る袖を妹見つらむか︵人麿、巻二.=二九︶
また、類歌一七四二首の内容は、大方三句以内程度の同一句・類似句をもつものを掲げてあるが、これも前述の少異歌の
場合と等しく、内容的に似通っていると思われるものも抽出してある。
一18一
秋の野を旦往く鹿の跡もなく念ひし君に相へる今夜か︵賀茂女王、巻八・一六=二︶
現にも夢にも吾は思はざりきふりたる公にここに会はむとは︵未詳、巻十一.二六〇一︶
右の如き例である。
さて、これら重出歌・少異歌・類歌の範囲に関して、佐佐木博士は凡例の中で次のように述べている。
一、一句以上の類似を有する歌を抽出した。⋮⋮また、一句以上の類似ならでも、類歌とおぼしいもの、また類想歌を
偶挙げたものもある。︵下略︶
一、全く同じきを重出歌、いささか異なれるを少異歌、他を類歌と分った。
これに依って、万葉集類歌類句抄の根本方針は明らかであると思う。そして、この著を成した博士の意図は、やはり万葉の
成立を明らめることにあったと推察される。その序文の中で、家持が憶良の作を多く模倣していることに言及し、家持が憶
良の歌稿を愛蔵していたのであろうと言い、また、巻十・巻十一・巻十二の作者未詳歌が大伴一族の作と類似点のあるとこ
ろから、これらの巻々の成立に関して一つの立論が得られるであろうと述べている点など、博士の意図の片鱗が示されたも
のと解することができる。そして、類歌発生の理由を、一つは歌謡の伝承的性質、一つは個々作者の創作心理によるものと
いう分析をしながらも、﹁ただ問題を提供するに留まりて、結論を得ず﹂という結果に止まった。思うに佐佐木博士の万葉
集類歌類旬孜の基本的構想は、類歌の概念に忠実な作業であったが故に却って中途にして止まったという感が深い。
さて、以下本稿のことになるが、万葉の類歌研究を全く独自の立場から行なうことの容易くないことは判っている。した
がって、本論考は佐佐木博士の類歌類句放に準拠していることを、まずお断りして置きたい。そして論考の目標も、類句歌
の考察から割り出される諸問題を幾つか提起して、私見を述べて見たいというに他ならない。
一19一
類句歌の選定規準
ものさし
類句歌を選定して、何らかの物差的な役割を与えようとすれば、対象の均質化ということが必要になってくる。つまり、
研究対象が何れも独自の例外現象を備えていてはならないということである。自然科学の対象はその最初の段階においては
一つ一つが独自の特色を備えた存在であってはならない。例えば、脊椎があるから脊椎動物なのであって、脊椎のない脊椎
動物の存在を予想して脊椎動物の概念は作らない。ところが、文芸作品は人間の心的所産であるが故に、一つ一つにおのず
から個性がある。あるいは故意にその個性を強調する場合がある。近代の文芸作品は、作者の個性を通して衆人に訴えて共
感を得ようとする。古代の文芸作品は個性の発揮を重視しなかったことは確かであるが、おのずから表出される個性という
ものはある。さて、その個性を一々尊重してゆくと、文芸作品は何れも独自の特色をそなえた研究対象ということになる。
これでは対象の均質化ということにはならない。元来、文学研究というものは、均質化された対象を扱うものではない。だ
が、最初に述べたように、研究の尺度となるような物差作りには、そうした自然科学まがいの操作も必要となってくるので
ある。
そこで、類句歌選定に際しての対象の均質化とは、どのようなことであるかと言えば、類句歌を抽出する規準として、作
者︵未詳の作者も当然含まれる︶の恣意をなるべく退けるということである。例えば、次の場合、
吾が屋戸の暮陰草の白露の消ぬがにもとな念ほゆるかも︵笠女郎、巻四・五九四︶
秋づけば尾花が上に置く露の消ぬべくも吾は念ほゆるかも︵日置長枝娘子、巻八・一五⊥ハ四︶
これらを佐木博士は類歌として扱っているが、これを表現様式の上から言えば類歌に相違ない。そして、類似表現という点
から一層厳密に搾ってゆくと、それぞれ三句目以下が類句ということになる。
一20一
白露の消ぬがにもとな念ほゆるかも︵五九四︶
置く露の消ぬべくも吾は念ほゆるかも︵一五六四︶
右の二つの場合は、同じような意味内容をもった表現である。だが、﹁白露の消ぬがにもとな﹂と﹁置く露の消ぬべくも﹂
という表現には、それぞれ作者の恣意がはたらいていると考えられる。そこで恣意による表現を排除すれば、﹁念ほゆるか
も﹂だけの類句歌ということになる。このように恣意的表現を退けた上に、更に残されたものを研究対象と定めるというこ
とであり、万葉の類句歌をそうした範囲から決定するという意味で、また、その範囲内で多少の許容度は必要だとして、そ
の許容度もなるべく小さなものにするという意味で、対象の均質化ということばを用いたのである。それ故、言うまでもな
いことながら、表現上の類似性はなくて内容の上から類歌関係をなすといったような場合は、この際全く問題にしないこと
とした。
ところで、上記の五九四と一五六四との二歌については、﹁念ほゆるかも﹂一句だけの類句関係は認あたわけだが、この
一句をもってして、この二歌が類句歌関係をもつと定めるのは無理である。そこで後述するように類句は二句以上を問題に
することに定めた。これはあくまで便宜的な措置だが、止むを得ないと考えている。
更にまた、前記一五六四の日置長枝娘子の歌に対しては次のような類歌が見出される。
秋の田の穂の上に置ける白露の消ぬべく吾は念ほゆるかも︵作者未詳、巻十・二二四六︶
この作者未詳歌と長枝娘子の作とは、﹁︵白︶露の消ぬべく吾は念ほゆるかも﹂の下三句に亘る類句をもって結ばれている。
神亀天平の時代の娘子の作は、恐らくこの作者未詳歌の作から、意識・無意識を問わず影響を受けているのであろう。さす
れば、これも前記五九四の笠女郎の作における﹁白露の消ぬがにもとな﹂という表現と、長枝娘子の﹁置く露の消ぬべく
も﹂という表現における作者としての恣意性は、まことは笠女郎の方にあったと一応決することができる。しかし、これに
一21一
関する考察は当面の課題とは直接の関係はない。
さて、以上のような基本的態度から、この稿で一応定めた類句歌の選定規準を列挙すれば次の通りである。
ω重出歌は同一歌であるという見地から、これを類句歌とはしない。
②佐佐木博士のいわゆる少異歌は、重出歌の伝請的異伝であることが多いと見て、これを類句歌とはしない。
圖同一作者の作品における類句は、個人的慣用句と見て、これを類句歌として扱わない。
働万葉の記事の中で、一本または或本に日く、と記された歌と正伝としての歌の間における類句は問題としない。
㈲問答歌相互における類句は、鵬鵡返し的表現と考えて類句性を認めない。
㈲同一句が一句のみに限られている場合は、類句歌として扱わない。
ω枕詞は国民の平均的発想と考えて、枕詞を含む二句のみの同一句をもつ作品は、これを類句歌として扱わない。
圖短歌において四旬まで同一句を有する場合は、前記の少異歌と同様の扱いをする。
以上の選定規準から類句歌を抽出すると、結局、二句あるいは三句の同一句または類句を共有するものを類句歌と定める
ということになる。但し、長歌はこの限りでない。この同一句と類句との区別は、これも便宜的な措置ではあるが、全く同
一語句による句を同一句とすることは当然として、意味の上に大差がなければ、一語程度の相違あるいは語句の倒置などは
類句として扱うことにした。
ところで、この項の終りに臨んで、これまで断りなしに用いてきた類歌と類句歌という用語について一言説明しておきた
い。類歌という語は、佐佐木博士の前述の分類から推察される如き意味において用いることにした。つまり、同一句あるい
は類想表現を共有する歌を相互に類歌と称することにする。また、本稿で類句歌という場合は、類歌の中から類想表現をも
つものを除いて、同一句を共有するものを相互に類句歌と称することにした。これは佐佐木博士のいわゆる類歌と区別する
一22一
ためである。
類句 歌 の 諸 相
前述の類句歌選定規準に従って抽出した類旬歌群は、二七〇群となった。ただし、その中には、佐佐木博士が少異歌とし
て数えている一一八群の中から、六群を類句歌として繰入れてある。これらはいずれも、長歌の場合を除いては、二句乃至
三句に亘る類句をもつ歌群である。今、これら類句歌について種々の角度から検討する可能性はある。しかしながら、私と
してもむしろ意外であったことは、類句歌群の傾向が佐佐木博士の労作から予想された傾向よりも、一層狭い範囲に偏って
いるということであった。つまり、佐佐木博士の蒐集された類歌資料に、前述のような幾つかの制限を加えて、類句歌群に
編成し直した段階において、類句歌として検出された歌群に一定の傾向が顕著になってきたのである。それは端的に言え
ば、作者未詳歌が大きな比率を見せて残ってきたということである。類句が作者未詳歌の中に多く求められるということで
ある。それが何を意味するのかは、私にとって、なお今後の課題である。
類句歌を蒐集する過程で、まず予想されるのは、表現上の影響関係ということである。それは、早く言えば、模倣するも
一
︵
のと模倣されるものとの関係である。そうした関係をつきとめる作業は、歌集の内容の整理であり、錯綜した内容を単純な
ものに還元してゆくことである。それは歌集の形成に時を貸した歴史を遡ることである。もし、結果としてそういうことが
可能であるならば、それはその歌集の本質を見極める一つの方法ともなろう。
さて、万葉の類句歌における相互の影響関係を見てゆこうとすると、単なる模倣関係ということでは片付けられない一つ
の規準が考えられる。それについて、慣用表現という重要な問題が別に存在するのだが、それは一先ず措くとして、万葉前
一23一
期と万葉後期との歌風の相違、あるいは作者たちの世界観の相違と言うべきかも知れないが、そうした相違を念頭に置く必
要がある。万葉歌人の世界観は、明日香藤原時代と奈良時代との境目をもって、その前後に大きな開きがある。前期は、内
容の上からも表現形式の上からも、多く古代的思考を踏まえて居り、後期では、そうした傾向がかなり稀薄となり、作者た
ちの個性が強くにじみ出てくる。殊に中国的教養を身につけた作者には著るしい。そうした傾向は、前期では人麿・黒人ら
に、後期では旅人・憶良・家持などに見ることができる。そうした意味から、以下、前期・後期にまたがる類句歌を抄出し
︹註︺
てみようと思う。
︹註︺ 拙稿﹁日本文学における古代的なもの﹂﹁万葉集から古今集へ﹂︵﹁古代文学の源流﹂所収︶
前期・後期にまたがる類句歌表については、次のことをお断りして置きたい。前期万葉の作品としては、作者名の明らか
な作品の他に、古歌.古集・古歌集・人麿歌集なども取りあえずこれに加えた。古歌・古集・古歌集などの註記をもつ歌
が、ことごとく万葉前期あるいはそれに近い時点の作品だなどと思っているわけではない。例えば遣新羅使人が請詠した古
歌三六〇一を見ても、﹁あをによし奈良の都にたなびける云々﹂とあって万葉後期の作である。だからこれらの作品を万葉
前期にくり入れたのは、これら作品の実態を掴むための手がかりとしてである。また、人麿歌集の作品についても、人麿の
真作と民謡的な作品との二種類を含むというのが通説であるが、共に前期の作品として扱い、作者未詳の作とはしなかっ
○ 表の最初にあるZρは通し番号になっている。 全二七〇群が分類の都合上二八〇群となった。
万葉集類句歌一覧
た。なお、作者未詳歌といわれる一群については、この表に混入しているものもあるが、改めて後に掲げることにした。
︿備考﹀
○ 大観番号の後尾につけた︵長︶は長歌、︵旋︶は旋頭歌であることを示す。番号全体をカッコで括ったもの
一24一
M
1
2
3
4
5
○
は、﹁或本﹂または二云﹂を示している。
類句はその行の作者の表現句を示す。表現句が一種類しか書かれていないものは、他の作者と全く同一句を
なしているか、些少の相違しかないものである。相違する部分に傍線を引いて、異るものをカッコに入れた
場合もある。傍線なしでカッコに入っている句は参考のためである。
類句の訓法は主として武田祐吉博士の訓法によったが、そうでないものもある。
大観番号
六〇三二三九〇
一三三四四四七五
三〇三二四〇︵長︶
毛九==OO
作 者
笠 女 郎人 麿歌集
人 麿歌 集大 原今城
人 麿穂 積 老
人 麿笠 金 村人 麿歌集
坂門 人 足春日蔵人老
類句数
三旬
三句
二句
二句
三句
つらつら椿つらつらに⋮⋮巨勢の春野は
絶ゆることなくまた還り見む
楽浪の志賀の辛崎幸くあれど︵あらば︶
千重に降り重け恋ひしくの⋮⋮見つつ思はむ
死にするものにあらせば⋮⋮死にかへらまし。
類 句
Zo°G。ω以後の作者未詳歌に、︿未詳﹀としたものがあるが、それは巻七、 一〇、一一、 一二、 =二、 一四以
○○
外の巻からでた作者未詳歌であることを示す。
四=
一〇二〇
一=二
一六七
五四五六
一25一
巻
一九
山上憶良
高市黒人
六三
二八〇
磐姫︵衣通王︶
磐姫皇后
大伴家持
吉 田 宜
八五︵九〇︶
八六七
八六
七二二
五三八
=六
八〇四︵長︶
三五︵長︶
Z〇︵長︶
一七八
四三四︵長︶
四七五︵長︶
充九︵長︶
柿本人麿
山上憶良
人麿
家持
四二二
厚. 見 王
丹 生 王
人麿歌集
赤人
六六八
三六八
四二四〇
三六=
王女
后麿夫
一九
一〇
女皇
大人太
五二
一五
田馬
原 上
二句
二句
二句
二句
二句
三句
四句
二句
二句
二句
いざ子ども早く大和へ。
いざ児ども大和へ早く。
君が行け長くなりぬ
かくばかり恋ひつつあらずは、
人言を繁み言痛み
さ寂し夜はいくだもあらず
,
庭たつみ流るる涙止めぞかねつる
かけまくもあやに畏き、言はまくもゆゆしきかも、
かけまくもゆゆしきかも、言はまくもあやに畏き。
念ひ過ぐべき恋にあらなくに
思い過ぐべき君にあらなくに
大船に真揖繁貫き
一26一
高但
大日
並
伴皇
家家子
舎
持持人
藤 石
四二
一九
四五
四二
三 二
三
四三
⊂⊃三1
五二
一
7
三
8
二
9
三
四一
6
10
11
12
13
14
15
三 四七五︵長︶
丹 生
六八四 坂上郎女
二三五五
三七二九
四四亜
人麿
中臣
二句
三句
二句
逆言の狂言とかも
柴な刈りそねありつつも
しかな刈りそねありつっも
生けりとも吾に寄るべしと言ふといはなくに
生けりとも吾に寄るべしと人の言はなくに
うつくしとわが念ふ妹は
愛しと吾が思ふ妹を
愛しみ我が思ふ君は
わが恋の千重の一重も慰めなくに
奥まへてわが念ふ君は
奥まけてわが念ふ妹に
わが舟泊てむ泊知らずも
︵注︶一二二四の古集は確実でない。
T27一
三蓋五
り
うつくしとわが念ふ妹を
く
む
わが恋ふる千重の一重も慰むる
,
臣
二句
三句
渡
四五〇四
古 集
春日蔵人老
ひ
持持王
清家宅宅歌
集室 詳麿持守守集
人麿
三句
郎女
歌千
師
や
二八四三
二宅︵長︶
麿伴
基 恋
未中
人大
6二四 巨曽部対馬
二四三九 人麿歌集
三二四
毛充
O二
の
み
に
三 四三
ノ\一
か
一七 三九毛︵長︶
山
一 /\
句
旬
家家
四 五二九︵旋︶ 坂上郎女
七 三空︵旋︶ 入麿歌集
九九七
一しコ 九
突三︵長︶ 坂上
四 三
一一 二三五五︵旋︶ 人麿歌集
21
二
四 22
≡…六
一七
一四
二〇〇五五一
一
_Lr 一
16
17
18
19
20
23
七九
四ニ
ー⊂⊃
⊂⊃一
四一
⊂)七
五二
四三
家 持
家 持
人 麿 歌 集
八〇
二四2
一三七〇
七三
三七
九二
一一
七:五
三夫O
五一
一一
五五
一五
八一
七八
五八
三⊂⊃
宅歌歌
家 持
人 麿歌集
古 歌
中臣 宅 守
中 臣 宅 守
人麿歌集
臣麿麿
守集集
二句
二句
二句
三句
二句
二句
松反りしひてあれやは
松反りしひにてあれかも
白玉の五百つ集を
恋ひ死なば恋ひも死ねとや
かくばかり恋ひむとかねて知らませば
かくばかり恋ひなむものと知らませば
︵注︶三五八八は遣新羅使人の贈答歌
異しき情を我が思はなくに
月見れば国は同じを︵山隔り︶
月見れば同じ国なり︵山こそは︶
柿の門という語を唱えた家持としては当然のことかも知れない。ただ、宅守の作品が人麿歌集と四首の類句歌をなしている
並皇子の宮の舎人の作をもって人麿の代作とする説に従えば、七首の類句歌が人麿関係歌と家持作歌との間に存在する。山
の作では、家持が十首、次いで中臣宅守が五首である。人麿および人麿歌集の作品で家持の作と類句歌をなすもの五首、日
二十九群中、前期の作では、柿本入麿が六首、人麿歌集が十五首ということはやはり注目すべきことであろう。また、後期
倣といった関係は1勿論、偶然の暗合ということは故意に退けるとしてー取り立てて特筆するようなことはない。総数
上記の表から単純に分析されるところを言えば、万葉の前期から後期への影響、あるいは後期作者における前期作品の模
四二
〇四
一b二
中人人
一一一一
27
入 麿歌集
24
28
こと︵但し、第二十八群に見える古歌というのは佐佐木博士の記述に従ったもので、これは別途に考察すべきであろう。︶
Q8一
一一
ェ
25
26
29
も注目されてよい。
五四
七一tコ
ti六
四⊂)
⊂)五
五八
tコo
一tr六
作
三句
二句
三句
冨句数
宅 守
遣新羅使人
宅 守
詳
宅 守
笠 女 郎
者
類
天地の神⋮⋮あが思ふ妹に逢はず死せめ
天地の神⋮⋮わが念ふ君に逢はず死せめ
心は妹に因りにしものを
ぬばたまの一夜もおちず夢にし見ゆる
句
一向に不思議はないわけである。だが、宅守の愛人であったという狭野弟上娘子の歌は種々の点からみて仮託の作である疑
いが強いから、折口信夫博士のように、宅守・弟上の贈答歌を好事の歌入による情史的な仮託の作とみると、宅守の模倣性
︹註︺
はいかにもそれらしく思われてくる。追加した三例と合せて、合計七例の中五作までが三句に亘る類旬をもっているという
ことを見ても、宅守の模倣性が顕著であることは言うを俣たない。尤も追加した2ρG。O∼認のうち、笠女郎・遣新羅使人
‘
宅守の作に模倣歌が多いということは、土屋文明氏などが既に説いて居られるのだが、前表2。°HPb。9b。8悼゜。に見る
ように、人麿歌集と四首、古歌とは一首の類句歌をもつということは、この極めて制限された条件の下では、やはり特別に
五一
の作と宅守作との制作年代の開きということはどうしても考察しておかなければならない問題である。まず、宅守の作につ
一29一
考えなくてはならない。また、前表以外の宅守の類句歌は、他に三首存在する。それは、別表乞ρ゜。O∼ω卜。のようなもので
五五
大観番号
30
人麿歌集は当時広く流布していたと考えられるから、その歌句を模倣した者は数多くあった筈で、宅守がこれを真似ても
ある。
巻
31
二四
八まコ
未
No.
32
いては、大体、天平十一年から十三年頃までの作であろうと考えられている。勿論、仮託作品として最初から考えれば話は
別である。しかし、宅守・弟上の作品における歴史的背景に関する判断が誤まっていないものなら、これらの作が真作であ
ろうと仮託の作であろうと、それが天平十一年を遡ることはまずあるまいと思われる。笠女郎の六〇五の作品については、
武田博士の調査によれば天平十二年以前の作である。また、遣新羅使人の作は天平八年である。恐らく宅守関係の全ての類
句歌は、巻十一の二七八〇番歌︵前表ZPし。H︶も含めて、宅守の作品は模倣する側に立ったものと想像する。
話を前に戻して、宅守・弟上の贈答歌を好事の歌人による情史的な仮託作品とみないとすると、これらの贈答歌群はすべ
て宅守によって創作されたのかも知れないという想像をする余地もある。宅守によってこの贈答歌が伝承された可能性も十
︹註︺
分にあるからである。もしそうだとすれば、弟上娘子の歌を創作したのは宅守であり、一方それとは違う個性を創造するた
めに、宅守の分は古歌を模倣したのだと想像できないこともない。
︹註︺ 拙稿﹁天平の悲恋﹂︵﹁古代文学の構想﹂︿武蔵野書院刊﹀所収︶参照。
二
︵
それでは、前掲の表からは除いておいた万葉前期の作品と作者未詳歌との間における類句歌を次に掲げる。なお、作者未
詳歌と言うのは巻七・巻十・巻十一・巻十二・巻十三・巻十四︵東歌︶の作者未詳歌巻に見えるものを対象としている。前
述のように、こうした作者未詳歌の年代的な位置付けは、万葉で言えば末期であり、古今で言えば詠人知らずの作品群と年
代を同じくするものであろうと説かれるのが昨今の傾向である。果してそうであるのか。右に挙げた巻々の中で、巻十三・
十四は一応別として人麿歌集所出歌が多く加わっている。人麿歌集が人麿によって編集されたものだとすれば、やはり万葉
前期の作品である。また、そうでないとしても、伝講歌となって流布していたものを、万葉末期に至って集録したものとは、
今のところ考えられないから、これら作者未詳歌巻は人麿歌集所出歌を内包しているという一点から見ても、意識的に万葉
一30一
末期の歌を蒐集しようと企てた巻巻ではなかろう。また、殊に巻十一・十二の場合では、万葉集中、最多数の呪歌を包含し
って作られた作品かのいずれかであろう。そして恐らく後者ではなかったかと考えられる。
ている。これは制作年代が古いか、あるいは帝京の文化に浴すことの少なかった避遠の地の人々1多分低階層の人々によ
︹註︺
︹註︺ 拙稿﹁万葉の呪歌と万葉集﹂︿﹁古代文学の構想﹂所収﹀参考。
二四九二
作
者
人麿
詳
黒 人
詳
類句数
二句
二句
二句
二句
念ふにし余りにしかば
いかさまに思ほし召せか
︵注︶佐佐木博士の表にはない。
倭には鳴きてか来らむ
かくばかり恋ひつつあらずは
吾妹子に恋ひつつあらずは
句
右のような作者未詳歌の様相を解明する資料とはなるまいと思われるが、以下万葉前期の作と作者未詳歌との類句関係を
一一
二九四七
大観番号
一二
二九︵長︶
三三二六
七〇
充五六
八六
二六九三
二句
一31一
類
表によって示してみよう。
≡
二
三〇
一毛六五
磐
詳姫
巻
:
未人
麿
歌
詳集
未
未
未
未弓
削
皇
詳子
一
○一
二
二
No.
33
34
35
36
37
一〇
纔Z
δ〇
二茜九
二七四八
二四二七
一一
一一
一二
=〇
二七六三
一二
二九三八
ニ八九五
≡ハ
一二
二五二
三三四
三六=
=ハ六八
三八六
未 詳
但馬皇女
二句
三句
三句
二句
二句
二句
二句
妹は心に乗りにけるかも
刈る草の束の間もわを忘らすな
刈る草の束の聞もわれ忘れめや
秋の田の穂向の寄の異寄に
秋の田の穂向の寄の片寄に
後れゐて恋ひつつあらずは
入言を繁み言痛み
白水郎とか見らむ旅行く吾を
海人とや見らむ旅行く我を
大船に真揖繁貫き
︵注︶巻一五、三六七九歌は遣新羅使人の作であるから年代は
明らかである。
一32一
=
:
≡
四一
七四
二四九四
詳詳女
羅詳導詳麿
⊂)一
三六莞
皇
人
詳麿
套 人
馬
ゥ
二
五五
未日
未但
三一
⊂に
三
七
未未未人人久
馬 並 麿麿米
皇 皇 歌歌禅
詳女 詳子 詳詳詳集集師
詳
一八
二
二
二
39
五一九七五
未未但
未
未未尖未
38
40
41
42
43
44
二
オ六
五三
未 詳︵東歌︶
人麿
未 詳
入麿歌集
三
未 詳
二
二〇七︵長︶
三一三
二四三九
二七二八
三二八
三三四九
春 日 王
未 詳
人麿歌集
未 詳
詳詳集 詳嬢
集
未 詳︵東歌︶
古 未人 未
麿
歌 人
詳集 詳麿
弍コ九
四 一.−」
七六
五三
九七
六四
人麿歌集
九五
五⊂⊃
二
:
麿
歌
六 五
二二九四
二四五三
一三
三 ⊂)
三〇八九
四四
一〇
七四
:
七
二
:
一四
二
一二
45
四七 二
二句
二句
二句
二句
三旬
三句
二句
三句
二句
二句
物言はず来にて思ひかねつも
そこもか人の吾を言なさむ
立ちても坐ても妹をしそ念ふ
立ちても居ても君をしそ念ふ
床のへさらず夢に見えこそ
里遠みーまそ鏡−夢に見えこそ
あしひきの山橘の色に出でよ
かくのみし恋ひや渡らむ
わが恋ふる千重の一重も慰むる
わが恋の千重の一重も慰めなくに
奥まけて吾が思ふ妹に
奥まへて吾が思ふ妹が
船人動く浪立つらしも
︵注︶ 一二二八の古集は確実でない。
一33一
未未人 未草
五五
二⊂⊃
八三
−tコー
46
47
48
49
50
51
52
53
54
五二
七五
四六
一
○〇八
七九
一二
一〇
功
未 詳
人麿歌集
未 詳
未 詳
人麿歌集
詳詳子
︿未 詳﹀
古 歌 集
人麿歌集
未詳︵東歌︶
未 詳
入麿歌集
皇
人麿
詳
削
抜気大首
未
二四六六
Z八
三〇九三
兄九九
三
九八
九五
五七
二九四四
毛六八
一三五八
一三五六
一六
三七
九一
九一
三〇六三
人麿歌集
四二
四七
Cに
未 詳
八七
59
三莞︵旋︶
四七
60
充三〇
〇七
七⊂⊃
七⊂)
プく⊂)
未未弓
未人大
麿海
人
歌白
王
詳集子
≡
55
61
一〇
二句
三句
三句
三句
三句
二句
二句
三句
二句
二句
︵注︶ 一五七四は橘諸兄邸の宴席歌・作者不詳。
君に逢はむとたもとほり来も
妹が家に早く到らむ歩め黒駒
妹が家にいつか到らむ歩め吾が駒
梓弓引津辺にある莫告藻の花
梓弓引津の辺なる莫告藻の花
浅茅原小野に標縄結ふ空言を︵も︶
百伝ふ八十の島廻を榜ぎ来れど
百伝ふ八十の島廻を榜ぐ船に
消かもしなまし恋ひつつあらずは
︵注︶ 一六〇八の作は二二五四︵未詳︶と殆ど同一歌。
心のうちに恋ふるこの頃
照る日にも乾めやわが袖妹に逢はずして
照る日にもわが袖乾めや妹に逢はずして
人妻ゆゑに吾恋ひめやも
人妻ゆゑに吾恋ひぬべし
人妻ゆゑに吾恋ひにけり
秋立つ待つと妹に告げこそ
吾立ち待つと妹に告げこそ
一34一
56
:
57
58
62
63
64
=一〇
一〇一〇
一〇=二
=一〇
=一二
=一二一三
二一二
=二二
=一一=一二
二〇天二〇八四
l八〇︶二〇〇二
人 麿歌 集未 詳
人 麿 歌 集未 詳
入 麿歌 集未 詳
人 麿歌 集未 詳
一三四二三二六七
二四三二一三七五
人 麿歌集未 詳未 詳未 詳
人 麿歌集未 詳
人 麿歌 集未 詳
人 麿 歌 集未 詳未 詳
古 歌 集未 詳
一三七二二八六七
二三六九 二九六三三三二九︵長︶
二三六五︵旋︶ 三〇六五
(二
二三七三三三二九︵長︶
二三九四二六一九壬ハ六四三〇会
二句
二句
二句
二句
二句
二句
三句
三句
二句
人知りにけり継ぎてし思へば︵或本歌︶
天の川去年の渡りで︵うつろへば︶天の川去年の渡瀬︵荒れにけり︶
心は妹に依りにけるかも
言に出でて言はばゆゆしみ
念ひ乱れて宿る夜しそ多き
人の寝る味宿は寝ずに︵寝ずや︶
かくばかり恋ひなむものと知らませばかくばかり恋ひむものぞと知らませば
何時はしも恋せぬ時はあらねども何時はしも恋ひぬ時とはあらわども
朝影に我が身はなりぬ︵注︶ 二三九四と三〇八五は重出歌。
一35一
65
66
67
68
69
70
71
72
73
≡
:
≡
≡
=
︸二
=二
二四聖
毛充
三三ハ六︵長︶
茜八二
二四九二
二九四七
二五互
三二五八︵長︶
二男五
二九空
未 詳︵東歌︶
古 歌
人麿歌集
未 詳
人麿歌集
未 詳
人麿歌集
未 詳
人麿歌集
未 詳
人麿歌集
人麿歌集
人麿歌集
未 詳
五五
九一
三五
未 詳
二五〇二
二
五八
四五
四〇
二六三三
:
二
二句
三句
二旬
二句
三句
二句
三旬
三句
三句
三句
けしき心を吾が思はなくに
後も逢はむ妹には我は今ならずとも
隠沼の下ゆ恋ふれば⋮⋮︵ゆゆしきものを︶
隠沼の下に恋ふれば⋮⋮︵忌むべきものを︶
立ちても坐ても妹をしそ思ふ
生ふる玉藻のうち靡き心は寄りて
念ふにし余りにしかば
たらちねの母が養ふ子の眉隠
まそ鏡手に取り持ちて朝な朝な
布細布の枕動きて夜も寝ず
現にはただに逢はさず夢にだに
現には逢ふよしもなし夢にだに
一36一
⊂)四
二
未 詳
麿 麿
歌 歌
詳詳集 詳詳集
八一
四五
八八
二八
⊂⊃四
八五
九三
二
未未A 未未入
≡≡
:
二 : 二 二
二
四五
三
74
75
76
77
78
79
80
81
82
83
≡
≡
三
人 麿 歌 集
三二五三︵長︶
未 詳
人 麿 歌 集
未 詳
三二五〇︵長︶
一八
= 四
⊂)二
三句
四句
新夜の一夜もおちず夢に見えこそ
新夜の全夜もおちず夢に見えこそ
神ながら言挙せぬ国然れども言挙ぞわがする
神がらか言挙せぬ国然れども吾は言挙す
と併せて考えてみると、今後解明すべき問題が伏在していると言えよう。また、人麿歌集については、いわゆる略体歌・非
かと思わせる。そして、人麿歌集の作が巻七とは無縁で、巻十一・十二・十三・十などの諸巻と多く関係をもっていること
となるが、その中で巻七から四首が出ているということは、人麿名明記歌が巻七とはやや深い関係をもっているのではない
は編者の意識の上で、既に異質の存在であったのだろうと想像する。そこで作者未詳歌巻は巻七・十一・十三・十四の四巻
の中、巻九・巻十五の作者未詳歌は偶々作者名を亡侠したという事情があったのだろうと推察され、作者未詳歌巻の諸作と
して全体で七群となり、未詳歌の出所は、巻七から四首、巻十五から二首、巻九・十[・十三・十四から各一首である。そ
ところが、入麿名明記歌となると少し異った傾向を見せてくる。人麿歌と作者未詳歌との類句歌関係は、閉9卜。°。Oを追加
ら一首という割合になっていて、巻七とは無縁である。
は、巻十から六首、巻十一から十四首︵三〇八五の重出歌を除く︶、巻十二から十三首、巻十三から六首、巻十四の東歌か
ことを原則としている巻々に混在している作者未詳歌とは類句歌関係をもたない。また、作者未詳歌巻といってもここで
いずれも作者未詳歌巻として知られている巻十・十一・十二・十三・十四の各巻から出ているものばかりで、作者名を記す
あって、以前の表の乞ρHOを加えれば、三十三群の作者未詳歌との類句歌関係を数えることができる。その作者未詳歌は
右のZρωω∼°。αの表によれば、五十三群の類句歌中、前述したように圧倒的多数を占めるものは人麿歌集との類句歌で
≡
略体歌の区別によるかかわり合いも考えてみなくてはならない。人麿歌集が後期万葉の世界において一つの規範となり、多
一37一
84
85
くの人々の作品と類旬歌関係をもっていることからも容易に推察されるように、人麿歌集の普及性と流動性はむしろ民謡的
な性格を有していたとも言えよう。したがって、人麿歌集が巻十一・十二などの作者未詳歌群と密接な関係をもっているこ
︹註︺
とは、どちらかがどちらかの影響を受けているといったような、単純な関係ではなくて、作者未詳歌群のかなりの量が人麿
歌集と等質のものとして前期万葉の末期頃から世間に漂っていたのだと一応推定する。そう考える時、作者未詳歌群の中に
入麿歌集所出歌が混在する理由も納得できるし、両者の歌柄に判然とした区別を与えがたいことも理解できるのである。
︹註︺人麿歌集と作者未詳歌巻との関連、およびその考察に関しては、広範な万葉史的視野の下に、中西進博士の偉れた論考がある。
挙げて、次のように言われる。
﹁万葉歌の終焉﹂と題するこの研究︵﹁万葉史の研究﹂終論、第一章︶によれば、氏は王朝和歌と万葉歌との近接した数々の作品を
○ こうした万葉歌のあり方は、王朝和歌にきわめて近い歌風を持つ事を示し、それは作者未詳歌に特に顕著だという事である。こ
の傾向は修辞上においても等しい。︵弓゜㊤刈①︶
○ 後代和歌と万葉集とを結ぶものは、作者未詳歌だといってよい。︵㌘り謡︶
し、民謡性を獲得した短歌集団だといえよう。︵唱゜零◎。︶
○ 万葉集の作者未詳歌群は古今集読人しらず歌と等しく、久しく口承にあった、流浪する歌群であり、その故に創作者の名を喪失
○ 万葉の作者未詳歌は家持以後の和歌ではないか。︵や゜Oδ︶
○ 作者未詳歌の定着は、宝字三年以後、万葉集全巻の成立する時であった。︵O°りoQO︶
また、人麿歌集については、
が成立し、それを﹁古﹂とする時代が、巻十一・十二の成立した時代なのである。︵o’OQ。刈︶
○ 人麿歌集の内実は、いかにも非人麿的な、少くとも人麿作歌とは異る世界のものである。つまり、既に非人麿的伝承の人麿歌集
とを許さない。
と述べて居られる。こうした結論は、作者未詳歌巻と人麿歌集とに対する近来の注目すべき見解であって、容易に異を唱えるこ
さて、註記のような説を知りながら、私が作者未詳歌群の多くと人麿歌集とを等質のものとみて、前期万葉の末期ごろか
ら世間に広く流動したものと一応推定したのは、巻十一から十三に至る作者未詳歌群に内在する世界観の古めかしさであ
一38一
る。また、人麿歌集の﹁人麿﹂の名が、著名な古歌人の名を借りたものとしても、平安末期の柿本集成立の契機となったよ
うな実体から外れた人麿信仰がどの程度にあったものか。家持の頃でも、人麿の実際の姿はまだ手を伸ばせぱ届くところに
存在した古人であった。
に
作者未詳歌に関わる類旬歌は、以上述べてきた他にも存在する。これまでは、万葉前期の作と一応考えられるものと、後
期の作と考えられるものとの間における類句歌関係を通覧したのであって、作者未詳歌も通説に従って万葉後期の作として
これを扱ったに過ぎなかった。そこで改めて、作者未詳歌を中心として、上記以外の場合を考えてみたい。それは凡そ二つ
の場合に分けられると思う。つまり、後期万葉︵奈良朝︶の作者名明記歌と作者未詳歌との類句歌、および作者未詳歌同士
の類句歌の二種類である。
まず、後期万葉の作者による作品と作者未詳歌との関係について考えるとき、その取り扱いの見通しは極めて悲観的だと
言わざるを得ない。その類句性というものも、一応型通りに考えるならば次のようになろう。
A、後期万葉の作者の表現の一部が作者未詳歌に転用された。
B、後期万葉の作品と作者未詳歌との類句は、当時︵万葉後期11奈良朝︶の慣用表現であった。
C、後期万葉の作者が当時流布していた作者未詳歌の表現の一部を転用した。
大体、以上三通りの場合に尽きるかと思われる。ところで、最初のAの場合だが、作者未詳歌をもって万葉末期の作品群
と決めてしまうと、図式的には一応可能な結末となる。だが、後期万葉の作者によるかなり個性的な作品における表現の一
部を、どのような立場の入々がこれを真似て、しかも作者未詳歌という集団と化したか。第一、後期万葉の作者名明記歌の
多くは、近代・現代における文芸の在り方とも共通なものーつまり、作者独自の個性というものを持っていて、世間に流
一39一
布し、漂ってきたという経歴はもっていないと見てよい。こうした個性的なものが非個性的なものへ転移するということ
は、民謡発生の場というものを空想した場合には、一応は考えられるものの、万葉の場合ではそう安易に考えるわけにはい
かない。前期万葉における非個性的な傾向が、後期万葉の時代を迎えて個性的な傾向へと移り変ってきたのである。こうし
た傾向は作者個々の問題であると同時に、作者たちを押し包む時代の問題である。つまり、非個性的な和歌の制作される場
というものは、後期万葉の時代には次第に失われていったと見なくてはならない。だから、作者未詳歌巻に見えるような民
謡的性格をもった非個性的な作品の全てが、後期万葉の末期において新たに制作されたとは理解できない。作者未詳歌につ
いてはもっと別の観点があってもよい。例えば、帝京の地において作られた著名な歌が、何かの機会に帝京外の地へ流布し
ていって、それが民謡的な作品の糧となるといった場合も必ずやあったに違いない。だが、そうした場合は後期の作品では
むしろ稀であったと思われる。作者未詳歌巻としての巻十一i十四の場合などは、人麿歌集は一応別として、これらは庶民
の歌を採集するという意識が中心にあったのではないか。それはともかくとして、このように見てくると、Aの場合はこれ
を但書なしに公式的に扱うということは到底不可能だということになる。
次に、Bの場合だが、作者未詳歌が他の作者名明記歌と同一な基盤に立って作歌されたとは信じがたいから、類句を慣用
表現とすることは理窟の上からは出来にくい。ただし、同時点における同じような環境に生きていたと信ぜられる作者同士
の場合には、慣用表現ということも十分に考えられる。
最後に、A・Bが一応そのままの形では普遍的な命題とはならないとすると、Cのような考え方は当然許されることにな
るかも知れない。ただし、作者未詳歌の全てが、後期作者の参考になったものとは言い得まい。それは前述したように、そ
の逆の場合があることを思わなくてはならないからである。さて、こうした前提を一応考慮において、作者未詳歌と後期万
葉の作品との類句歌、および作者未詳歌同士の類句歌を列挙してみよう。
S0一
一一
三
大観番号
ゥ三︶
三二〇五
ェ八三︶
二九莞
三七三
六三
二四〇四
三六〇四
モ八五︵長︶
空︶︵長︶
δ一九︵長︶
二毛︵長︶
作
未 詳︵或本︶
未 詳
未 詳
未 詳︵=云︶
︿未 詳﹀
山上憶良
三四三
未 詳
大伴旅人
未 詳
鴨君足 人
乙
三〇八六
一〇七六
金
≡
二
一五
一二
三六四
δ七〇
三六五
=九一
類句数
二旬
三句
二句
二句
三句
三句
二旬
二句
二句
馬そつまつく家恋ふらしも
大夫の弓上振りおこし
なかなかに入とあらずは
ももしきの大宮入の退り出て
大君の命かしこみ夷離る国治めにと
王の命恐み天離る夷辺に退る
大君の御命かしこみ天離る夷治めにと
︵注︶ 三六〇四は遣新羅使人の作。
一日も妹を忘れて思へや︵三六〇四︶
一日の間も忘れて思へや︵二四〇四︶
︵注︶ 三七二一は遣新羅使人の作。
御津の浜松待ち恋ひぬらむ
見てばこそ命に向ふわが恋止まめ
︵田子の浦の︶海人ならましを珠藻刈る刈る
︵留牛馬の浦の︶海人ならましを玉藻刈る刈る
類
わが馬つまつく家思ふらしも
一41一
粂未
(二
(二
者
華詳
詳麿村
詳村 詳村
上
金 金
三六九
三
七
三
未石笠
未笠 未笠
七三
三
90
七
(三
:
巻
三
五一
No.
86
87
88
89
91
92
93
94
句
二
一一
一九
=二
=二
三三三四
三三三三︵長︶
四三四︵長︶
七 三
六 九
一 一tコ
續ェ五︶
五〇五
笠 女 郎
未 詳
山部赤入
未 詳
未 詳︵東歌︶
河辺宮人
未詳︵一本︶
安部女郎
五二三
未 詳
藤原大夫
未 詳
安部女郎
三二六四
五三〇
三〇二八
五五〇
三八八
五六〇
二尭二
詳詳持
未大 未粂 未聖
伴
武
百
天
詳E!i
詳代
詳皇
三旬
三句
二句
二句
二句
二句
三句
三旬
三句
三句
奥山の磐本菅を根深めて
奥山の磐本菅の根深くも
須磨の海人の塩焼衣の馴れなばか
志賀の海人の塩焼衣なれぬれど
狂言や人の言ひつる
思ひ︵君が︶悔ゆべき心は持たじ
情は君によりにしものを
今更に何をか念はむ
ありとふをいつの間ぞもわが恋ひにける
標結ひし妹が心は疑ひもなし
君が去なば吾は恋ひむな直に逢ふまでに
恋ひ死なむ後は何せむ⋮⋮見まく欲りすれ
一42一
六 九
二 四
二 七
三四
五七
九五
八⊂)
九五
家
三
(二
未未
六
一四 二四 二四 三四 二四 二四 四三
95
96
97
98
99
100
101
102
103
104
≡
六五五
五室
三60
六六六
余 明 軍
未 未 坂上郎女
二句
二句
二句
三句
三句
二句
二句
二句
二句
三句
念はぬを念ふと云はば
年月の如思ほゆる君
相見ぬは︵相見ては︶幾許久にもあらなくに
あしひの山菅の根のねもころに
︵尾花が上に︶置く露の消ぬべくも吾は念ほゆるかも
いや日にけには思ひますとも
なかなかに黙もあらましを
名の惜しけくも吾はなし
すべのたどきも今は無し
剣大刀名の惜しけくも吾はなし
一43一
二五八三
長枝娘子
未 詳
家持
笠 女 郎
未 詳
三二杢
二八九二
二八杢
二八七九
七三二
室六
未 三
≡
未 山口女王
家女
詳麿代
詳
河
百
口
詳
未駿
未 山
詳詳
五五
ノへ七
三九
二 五
四 六
六 四
未未未
詳
理
八五
八九
二五
四 六
九 六
八 一
詳持王
詳詳詳
詳
一四
八 六
九 一
九 二
未未
一四
理
〇八
≡
二四
二四
二四
五五
105
109
⊂)⊂)
106
110
三
107
108
111
113
112
τ14
コ
六モ
四〇四五
縺i長︶
ェ八三︶
百代
詳
未 詳
坂上郎女
未 詳︵壮士︶
中臣女郎
未 詳
中臣女郎
未
未 坂上郎女
持詳王
詳詳郎
l
四七
二九莞
詳詳女
家持
未 詳
二句
二句
三句
三句
二句
二句
二句
二句
三旬
三句
満ちくる潮のいや益しに
君が使ひを待ちやかねてん
思へども人の言こそ繁く︵繁き︶君にあれ
想はぬを想ふといはば⋮⋮︵卯名手の社の︶神し知らさむ
念はぬを思ふと言はば⋮⋮︵三笠の社の︶神し知らさむ
海の底沖を深めて
沖を深めてわが念へる︵りける︶
命に向ふ吾恋止まめ
吾と笑まして人に知らゆな
はねかづら今する妹をうら若み
大夫と思へる吾をかくばかり
一44一
家 女
詳
口
郎
詳詳
a−
⊂⊃ 一
上
女
三一
二五四八
一四
未山
臣
ト
二五四三
一七
一六
一四
未未坂
未未中
未未
四
121
一 五
⊂⊃ 六
七二
二四
122
七六
八七
⊂)一亡コ
華
123
八六
四六
七六
六八
二八
五七
八一
四九
一四
六一
六七八
(二
儲
l
117
一一
115
118
116
119
120
124
≡
三九九三
一四
⊂⊃七
五七
七七
八〇七
二五四四
家持
詳
家持
詳
平群女郎
未 詳
未 詳
坂上大嬢
未
未
三=三
七四二
華
旅人
詳
未 詳
大伴旅人
家持
詳
家持
詳
上
郎
三二七三
七六〇
Z八
一五
二旬
二句
二句
二句
二句
三句
二句
二旬
二句
二句
月夜には門に出で立ち
かにかくに人はいふとも
ありありて後も逢はむと
三重結ぶべく我身はなりぬ
間なく時なし我が恋ふらくは
すくなくも心の中にわが念はなくに
偽も似つきてぞする
草の上白く置く露の
現には逢ふよしもなし
如何にあらむ日の時にもか
一45一
三〇八八
二五二三
二五
二九二
二五杢
131
四八
一五
未未未 未未坂
未
!、
!、
132
八八
九一
七⊂⊃
未
未
⊂⊃七
⊂⊃三
二七
九三
八イゴ
三一
二四
ニニ四 三四 七二 七四
133
:
:
125
126
127
128
129
130
134
詳詳詳 詳詳女
136
135
七五
五五
〇五
○○
〇五
一八
⊂)八
五三
五八
八六
八六
九八
二九
九九
五四
一仁r四
九八
七一
二!、
七六
七六
七七七三五
三九六九︵長︶
二尭六
纉 九四
A A
四三三三
⊂⊃九九三九
一 六 六 二
−h
⊂⊃
O四
九六二
未 詳
小野大夫
未 詳
張氏福子
︿未 詳﹀
吉 田 宜
三 島 王
未 詳
小 野 老
未 詳
三句
二句
二句
二句
二句
二句
二句
二句
三旬
散りすぎず今咲ける如ありこせぬかも
今咲ける如散りすぎず⋮⋮ありこせぬかも
散らまく惜しみほととぎす
梅の花咲きて散りなば
︵注︶ 三五八八は遣新羅使人の作。
はろばうに思ほゆるかも
音に聞き目にはいまだ見ず
慰むる心はなしに
せむ術のたどきを知らに
時つ風吹く⋮⋮玉藻刈りてな
奥山の磐に羅むし恐くも
一46一
詳詳
家家家 憶 家 憶
持持持詳良 持詳良
未 詳
●
未未
未
葛井広成
長長長長長
)))))
一九
五五
七八
一一
141
一七
142
八九八
137
一三
未
138
五
139
140
143
未 詳
忌部黒麿
詳﹀
三句
四句
146
〇七
弍
七七
七七
四七
六七
七七
七七
二七
九三
八四
七⊂⊃
八三
八三
一⊂)
三⊂⊃
五五
九一
九四
七九
未未
未未
未未
未未
未未
未未
未未
未未
詳詳
詳詳
詳詳
詳詳
詳詳
詳詳
詳詳
詳詳
︿未 石上乙麿
二句
147
三莞一︵長︶
四一ヒi
九一
=茎ハ
八六
. 三〇砦
148
三句
=〇九
149
未 詳︵東歌︶
三句
二旬
三句
三句
二句
二旬
150
未 詳
151
二句
−t
ェ
四二四五︵長︶
δ二〇︵長︶
⊂⊃⊂⊃
弍コ⊂⊃
152
九六 七六
153
八二
山の端にいさよふ月の出でむかと
︵注︶ 四二四五は天平五年の作
わが夫の君を懸けまくもゆゆし恐し住吉の
佐桧の隈桧の隈川の
恋忘れ貝言にしありけり
うち曝し寄り来る浪の
住吉の遠里小野の真榛もち
夏麻引く海上潟の沖つ洲に
立つ浪の寄らむと思へる
見まく欲り千遍ぞ告りし潜する海人
紅の深染の衣下に著て
紫の糸をぞわが捷る
一47一
144
145
154
四一
九四
一tコ七
未未未
未
詳
家持
〇八
〇八
○〇八
四七
七七
誌
九五
八⊂⊃
八一
九四
七七
八三
九一一一一
五四
一tコー
七二
四三
⊂⊃九
⊂⊃⊂⊃
九三
三七
八二
未未
未未
詳詳
詳 詳
詳 詳 詳
天三六
未 詳︵東歌︶
詳
赤 人
旅 入
詳
小治田広耳
詳詳持
詳持
天四八
﨟i長︶
一it
家
家
「
一 四
究亜
未未
未
未
一四
二八四〇
〇八
ェ
二三二二
157
一一
158
一〇
159
未 詳
160
未
一三
161
未 詳
九七
オ〇
一五
七
162
○’
三句
二句
二句
三句
三句
二旬
二句
二句
三句
二句
君に似る︵妹に似る︶草と見しより我が標めし
はなはだも零らぬ雨ゆゑ
目には見れども相ふよしもなし
風守り年はや経なむ榜ぐとはなしに
何処行かめと⋮⋮背向に宿しく今し悔しも
雪は降りつつしかすがに
恋しけば形見にせむと
橘の花散る里の
卯の花のうきことあれや君が来まさぬ
うれたきやしこほととぎす
一48一
155
156
163
164
175
174
173
172
171
170
169
168
167
166
165
九九
〇八
〇八
五一
〇八
〇八
〇八
九八
三八
三八
〇八
〇︵長︶
三二九九︵長︶
〇︵長︶
三二九九︵長︶
三六六二︵旋︶
二八〇〇
憶良
詳
憶良
詳
︿未 詳﹀
憶良
笠 金 村
未 詳
未 詳
大伴稲公
家持
詳
家持
詳
未 詳
大伴像見
詳詳
三句
四句
四句
二句
二句
二句
二句
三旬
三旬
三句
二句
久方の天の河瀬に船浮けて
思ふそら安けなくに嘆くそら安けなくに
思ふそら安からなくに嘆くそら安からなくに
︵注︶ ZgH①①と同歌、八句類同。
さ丹塗の小船もがも玉纒の真擢もがも︵小撒もがも︶
わが待つ君し舟出すらしも
行き触らばにほひぬべく
時雨の雨間無くし零れば
聞きつやと妹が問はせる
︵注︶ 三六六二の作は遣新羅使人。
よしゑやし独りぬる夜は明けは明けぬとも
出で見れば︵今日見れば︶春日の山は色づきにけり
秋芽子の枝もとををに置く露の
︵注︶ 両歌とも大宝元年一〇月行幸供奉の作。
釣する海人を見て帰り来む
一49一
詳良
章詳
V>
憶
未
未
未
未
条未
未
<<
未未
⊂⊃五
七一
⊂⊃九
七五
五九
一五
九三
一五
九五
九五
七六
一{コ三
九八
一五
ソu六
八五
一tコ六
二五
五ノu
⊂)九
一五
一五
185
184
183
182
181
180
179
178
177
176
=o
一〇
○○
二〇
一〇
〇九
○○
一〇
○○
二九
〇九
一九
四⊂⊃
一九
七九
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九三
一四
八二
七七
三西コ
九八
一七
一唖コ
九三
二⊂⊃
二七
二⊂⊃
四一
未未
未未
詳詳
詳詳
詳詳
三句
二句
二句
二句
未未
未未
詳詳
詳詳
詳詳
詳詳
詳詳
三句
二六八六
二句
二旬
未未
三句
二句
未未
二七六九
二句
二句
ェ四
未未
未 詳
藤原永手
未未
未 詳
藤原宇合
詳奪
一八
四二
一ヒr四
一八
九九
四一
一九
八九
九八
一五
︵注︶ 一七〇一は弓削皇子へ献歌。
夜は深けぬらし雁が音の聞ゆる空ゆ
見つつや君が山道こゆらむ
山にも野にも鶯鳴くも
君に見せむと取れば消につつ
見渡せば春日の野辺に
鶯の木伝ひ散らす梅の花見に
わが夫子にわが恋ふらくは
妹を相見て後恋ひむかも
菅の根の長き春日を
夏草の刈り掃へども生ひ及く如し
かく恋ひばまことわが命常ならめやも
一50一
未粂
O三
186
一〇一二
一二一四
一〇一五
一〇一〇
一〇一〇
一〇一六
一九一一
=一七
一〇一二
一〇一二
二〇八六︵三〇七三︶
三〇竺三五〇七
未 詳未 詳︵或本︶
未 詳未 詳︵東歌︶
未 詳阿部継麿男
未 詳未 詳
O三六究
三九〇一三〇七
未 詳未 詳
未 詳未 詳
未未 詳
未 詳︿未 詳﹀
家持未 詳
未 詳︿未 詳﹀
三九三一三〇四
一三六五三八天
四天六二六七〇
三ハ〇六三八空
一三里三〇三六
二二空三〇三九
二句
二句
二句
三旬
三句
三句
二句
二句
二句
二句
絶えむと君をわが思はなくに
真玉葛絶えむの心わが思はなくに
秋風は日にけに吹きぬ
わが門の︵わが屋戸の︶浅茅色づく吉隠の
秋風の日にけに吹けば⋮⋮色づきにけり
朝霞香火屋が下に鳴く河蝦︵注︶ 三八一八は河村王自作の余興歌か。
念ひは止まず恋こそ益れ
いつれの時かわが恋ひざらむ︵注︶ 三八九一は天平二年の作。
思ひいつる時は術なみ
消ぬべき恋も吾はするかも
一51一
二一
餅
鵬
鵬
㎜
M
魏
鵬
桝
恥
鵬
≡
二〇
ニー○
四 六 五
九五
四五
七一
四四
二(⊃
九⊂⊃
未未
未未
未未
未未未
詳詳
詳 詳
詳詳
詳詳詳
一四
:
≡≡
≡
三〇八九
二五二三
弍コ 六 九
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:
九五
五四
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二五
八三
五七
五五
四二
未未
未未
未未
未未未
詳詳
詳詳
詳詳
詳詳詳
未 詳︵東歌︶
二
ニ九=
!、
二五ム
二
二句
二句
三句
三句
二句
二句
三句
二旬
二句
立ちても居ても君︵妹︶をしそ念ふ
よしゑやし恋ひじとすれど
天霧らし降り来る雪の消ぬべく思ほゆ
念ふにし余りにしかば術を無み
奥山の真木の板戸を
すくなくも心のうちにわが念はなくに
到らば妹が灌しみと咲まむ姿を
心はよしゑ君がまにまに
心空なり土は躇めども
一52一
一三九四
○○
二四五三
一一
:
:
:
未 詳
未 詳
197
一一
198
≡
199
200
201
202
203
204
205
≡
三
≡≡
::
≡
三
三
三
二 二
七 まコ
未未
未 詳︵東歌︶
未 詳︵東歌︶
占部小竜
二六〇四 未
二九モ 未
二尭五 未
二九四五 未
二五八八 未
二九四四 未
二莞九 未
二五八六 未
四三六七
三五二〇
三五一五
二五空 未
二五六一 未
二究二 未
二五五四 未
二九五三未
二五四九 未
二八六七 未
二五四七 未
八 五
六 四
三〇三未
句
二句
二句
三句
二句
二句
二句
三句
二句
二
二句
く
り
ば
か
恋
も
む
ひ
と
ぞ
の
吾か迷へる恋の繁きに
吾かも迷ふ恋の緊きに
待ちし夜のなごりぞ今も寝ねがてにする︵寝ねぬ夜の多き︶
人言を繁みと君に
︵注︶ 天平勝宝七年の防人、茨城の人。
面形の忘れむしだは
我が面の忘れむしだは
人言のしげき間守りて
継ぎて見まくのほしき君かも
君に恋ひわが巽く涕⋮⋮袖さへひぢて
妹に恋ひわが巽く涕⋮⋮袖さへ沽れぬ
妹が手本を纒かぬ夜もありき
か
いちしろく人の知るべく
一53一
詳詳
詳詳
詳詳
詳詳
詳詳
詳詳詳
詳詳
詳詳
詳詳
ご一
一
:
〇四四
:
:
:
213
二
:
: 二 :
206
207
208
209
210
211
214
212
215
≡
二六二三
一七
五五
⊂)六
四八
九『コ
未未
未未
未未
未未
未未 未未
未未
詳詳
詳詳
詳詳
詳詳
詳詳
詳詳
三
≡≡
三
九六
八三
一ヒコ五
三九杢
三毛三
二六六二
二六六〇
九四
一八
未 詳︵東歌︶
未 未 詳︵東歌︶
未 詳詳
二句
三句
二句
三句
二句
三句
三句
二句
二句
二句
三句
詳詳
詳
詳
詳
未未
二 :
二九皇
九四
八五
一ヒ:四
≡
二
九重コ
六一ヒ2
四五
寸コー
⊂⊃七
五弍コ
:
三
:
未 家持
:
五⊂)
⊂)六
七一ヒ:
なれはすれどもいやめづらしも
大夫や恋といふものを忍びかねてむ
かにかくに物は念はじ
ちはやふる神の社を祈まぬ日はなし
桜麻の苧原の下草
重く波のしくしく妹を見むよしもがも
湊入の葦わけ小舟障多み
揖取る間なく念ほゆるかも︵えし君︶
名は告りてしも逢はざらめやも
あちの住む渚沙の入江の
谷狭み峯べに延へる玉葛
谷狭み峯に蔓ひたる玉葛
‘
一54一
:
二 二
七二
:
匹 酔
217
216
218
219
221
220
222
223
224
225
226
≡
一二
一六
三
未 詳︵東歌︶
未 詳
未未
未未
粂x
詳詳
詳詳
詳詳
彗詳
未 詳︵壮士︶
未 詳
未未
三
≡
Pt
⊂⊃⊂⊃
一九
⊂)八
七τo
一九
〇五
未未 未未 未未
未未
詳詳 詳詳 詳詳
詳詳
平群女郎
≡
≡
三九三四
未 九九
二〇
二九四〇
九九
五一
八二
三
詳
⊂⊃九
五三三
≡
≡
五(⊃
三 三
三
シ⊃
八五
四三
三八
二句
三句
二句
三句
三句
二句
二句
二句
三句
二句
二句
絶えむの心わが思はなくに
かくのみにありける君︵もの︶を⋮⋮わが念へりける
︵注︶ 四二三七は遊行女婦蒲生の伝説。
夢にのみ手本巻き寝と
人目を多み妹に逢はぬかも
人の見て言餐めせぬ夢にわれ︵だに︶
吾はぞ恋ふる君が光儀に
なかなかに死なば安けむ
海石榴市の八十の衝に
逢はずして月の経ぬれば生けりともなし
面知る君が見えぬこのごろ
面知る子らが見えぬ比かも
かく恋ひむものと知りせば
●
一55一
⊂)弍t
−tコー
t:o
八九
⊂⊃六
四四
四二二
二八
三三八
四二
九二
三
≡≡
七二
227
228
230
229
.231
232
233
234
235
236
237
〇七
〇四
四四
四四
四二
四二
四三
四八
三九
六七
四三
三五
五四
一⊂)
八プu
五三
⊂⊃tコ
ー八
四一
七九
七⊂⊃
ワ三七︶
239
一六
三〇九六
240
(三
余 明 軍
未 詳︵壮士︶
未 詳
未 詳︵東歌︶
未 詳
未 詳︵東歌︶
未 詳︵東歌︶
未 詳︵東歌︶
未 詳︵東歌︶
二句
二句
二旬
二句
三句
三句
三句
○
︵注︶ ZO°卜o蜜と重複。
かくのみにありけるものを
馬柵越しに麦喰む駒の
吾は恋ひむな後は逢ひぬとも
︵天平三年︶
いはゐ葛引かばぬるぬる吾に︵武蔵︶
たはみ葛引かばぬるぬる吾を︵未勘国︶
かのまつく人とおたはふいさ寝しめとら
︵注︶ 四三三七は防人の歌。天平勝宝七年。
水鳥の立たむよそひに⋮⋮物いはず来にて
行く吾を何時来まさむと問ひし児らはも
の中には冥ρ卜。瞳のように某防人の作と未詳歌という類句関係もある。某防人は形式的には未詳歌なのだが、凡その年代
は判っている。だからこれを未詳歌同士の仲間には加えなかった。防人は他に二人存在する。共に天平勝宝七年の作者で、
類句は両者とも東歌の中から出ている。東歌はやはり農民に親しまれていたのだということが、ある程度言えそうである。
一56一
四ヨ三
241
一仁1八
未 詳︵東歌︶
未 詳︵東歌︶
有度部牛麿
︿未 詳﹀
某 防 人
○
八四
⊂⊃五
242
さて、以上29。。①1b。ミ計、一五九群の中には、作者名明記歌と作者未詳歌との間の類句歌が七六群ある。ただし、そ
○
三
243
238
244
作者明記歌と類句関係をもつ作者未詳歌は、巻十・十一・十三から出ているものが最も多く、次いで巻十三となる。巻七か
らは僅かに五首である。作者では家持が圧倒的に多く、二十首の作者未詳歌と類句歌関係をもっている。次いで、坂上郎女
の七首、憶良の七首︵内一首は作者未詳歌巻以外の未詳歌︶、金村の四首となる。その他、後期万葉の作者三十人と類句歌
=二
4
1
一四
︵一五︶
︵一六︶
2
一二
2
六は有由縁歌の拳で、事実上は作者未詳歌を多く含む巻である。
その他
右表に見るところでは、家持が個人としては圧倒的に多くの作者未詳歌に関係をもっているが、
それも巻十・十一・十二
一57一
関係をもつ作者未詳歌は四十六首で、内五首が作者未詳歌巻以外の未詳歌である。今、その未詳歌の出所を表にしてみよ
う。
=
4
一〇
3
旅 人
6
憶 良
金 村
坂上郎女
15
1
2
家 持
4
︹註︺歌巻をカッコで括ったものは作者未詳歌巻ではないもの。また、巻一四は東歌の巻、巻一 ゜
諸作家
4
3
5
1
1
2
1
1
5
1
9
1
2
1
1
七
6
十三が主で、巻七との関係は至って薄い。そして東歌とも関係はない。坂上郎女も家持の傾向と同じである。後期万葉の作
者としては古人である筈の旅人.憶良も巻七の作品とは、右表の限りでは交渉をもたない。前述したことではあるが、人麿
名明記歌が巻七の作四首と類句歌をなしているのが個人としては際立って見える。諸作家三十人の作では、巻七が六首とな
っているが、鴨君足人ら六人が各一首宛の割合で関係しているに過ぎない。金村の二首も余り問題を引き出せまい。諸作家
が多く関係をもっている巻としては、巻十二の十五首は問題になろう。ただ、全体を通じて言えることは、作者未詳歌巻と
いっても、巻十.十一.十二は右表に関する限り巻七や巻十三とは性格に異るものがあるのであろう。これを、再び前に戻
10
15
22
26
20
一二
10
7
=二
4
3
三が甚だ少い。それも類句歌群の数から言えば、乞9。。①以下は前者のほぼ倍あるのに、それほどの増加を見せていない。
その点について分析する前に、乞o°ωω∼。。αの中には問題となっている人麿歌集と作者未詳歌との類句歌群が含まれてい
る。今、人麿歌集に関係するものを取り去って別にすると次のようになる。
一58一
って、2ρQ。ω∼○。㎝の表における結果と併せて未詳歌巻だけに限って比較してみよう。
17
一〇
一四
⊥
/\
// 歌巻
類句歌杓//
Mお誌
M86血
5
この表によれば、全体としては、巻十二が圧倒的に多く、次いで巻十・十一となり、巻十四の東歌は別として、巻七・十
9
α 3 5
類句歌群
︵人麿歌集を除く︶
N 3∼8
M総血
人麿歌集関係群
4
14
15
8
14
26
6
6
10
1
一三
4
3
一四
二
17
一二
一〇
6
巻一二
巻一一
巻一〇
巻七
7
4
8
2
一〇
一一
その他の巻
巻一四
巻=二
5
二二
一四
3
1
19
9
4
3
3
5
2
11
19
7
2
1
2
1
5
3
一二
1
3
3
概墜七
︹註︺
なら、横の集計が実数となる。
ても同じであるが、その他の巻との関連まで加える
る。したがって、巻毎の実数は縦横いずれを集計し
もっているか、一目で判るように表示したものであ
それぞれどのように右端の未詳歌巻と類句歌関係を
この表は、上欄の未詳歌および、その他の巻の作が
次に、乞ρ゜。㎝∼卜。念の中で、作者未詳歌同士の類句歌を作者未詳歌巻について通覧してみたい。
乞o°G。°。∼c。qの中に加えてみることが必要であるのだが、今回は見合わせたい。
巻十一は別に考えなければならないのであろうか。しかし、その前に人麿歌集の中から人麿の真作と考えられるものを、
の巻々、特に巻十三などは万葉後期において作者たちの目に多く触れるようになったのであろうか。それに対して、巻七・
このように人麿歌集を除くことによつて、巻十・十二・十三の作者未詳歌が著るしく割合を増してくる。つまり、これら
5
2
1
一59一
七
9
3
2
2
1
さて、この表から知られるところは、巻十一所出の未詳歌が巻十二の未詳歌と類句歌関係をなすもの十九首で、最多数の
類句歌数をなし、次いで、巻十二の中において十一首の類句歌をもつものが第二位となっている。全体としても巻十二・十
一に多数が集中し、次いで巻十・七・十四・十三の順になる。その実数は、巻十二が四十九首、巻十一が四十二首、巻十が
二十四首、巻七が十四首、巻十四が十二首、巻十三が四首である。これらの類句性を一応慣用表現と考えると、巻十三が極
端に少いのは、この巻が他と較べて異質であることをあらわしている。また、これらの類句性を模倣関係と考えると、巻十
三が世間に流布することが少ない歌であったと考えられる。この巻十三が作者名明記歌との類句歌関係からも似たような結
一60一
論が出たことに注意したい。
結
手続きにも思い切って無理をした点がある。私にとってもこの材料をどう整理してゆくかは今後の課題となっている。
てみたが、各専門の研究者にとっては簡単に解説できる問題であるかも知れない。また、本稿における類句歌の比較という
以上、類旬歌の総計二八〇群について、ごく平凡な、そして表面的な取り扱いをしてきて、その中で多少の問題を提出し
あることを示しているのであろう。だが、これは目新らしい話ではない。
る。これは三十五群中十群を占めている。それは巻五と家持の関係でもあると同時に、山柿の門の﹁山﹂が、やはり憶良で
りに掲げておく。これらの表については、今、格別に言うこともないが、際立って目につくのは、憶良と家持との関係であ
の作品同士における類句歌である。それら合計三十五群と、前掲の表から脱落した未詳歌関係のもの一群、計三十六群を終
これまで扱ってきた類句歌の中で取りあげていないものがある。それは作者名明記歌で、万葉前期の作品同士および後期
び
巻
_L 大観番号
九三二
毛九七
四七
⊂⊃一
_L 一
八三
〇五
四一
ノ\ノ\
九四
四一
七三
五四
一⊂)
⊂⊃⊂⊃
山 一六
三八〇四
四七〇
四五五
四三三一︵長︶
七九四︵長︶
五
⊂⊃一ヒi
一ヒゴ
四
ゴし
四八八
八
δ〇二
ノ\二
ノb
247
三 三
作
類句数
二旬
三句
三句
二句
三旬
四句
駿 河 麿
家持
人麿歌集
二句
三句
二句
二句
家持
憶良
荘
大網公人主
赤人
憶良
家持
安倍女郎
御名部皇女
人麿歌集
車持千年
安倍豊継
人麿
三方沙弥
豊島采女
者
額 田 王
八衝に物をぞ念ふ
妹が見し⋮⋮わが泣く涙いまだ干なくに
句
︵注︶ 三八〇四を中心に考えれば、Zo°冨Oに類するものである。
かくのみしありけるものを
︵注︶ Zρ㊤①とも類句関係あり。
須麿の海人の塩焼衣の
咲きて落りぬと人は云へど吾が標結ひし
大王のとほの朝廷としらぬひ筑紫の国
ものな思ほし⋮⋮吾莫けなくに
住吉の岸の黄土ににほひて去かむ︵な︶
荒磯にはあれど⋮⋮過ぎにし妹が形見とそ来し
荒野にはあれど⋮⋮過ぎにし君が形見とそ来し
類
わが恋ひ居ればわが屋戸の
一61一
ノ\_
248
五三
さ持軍
九一
_工一鯛
249
〇四
詳 明
一
245
250
二四六五
未家余
七五
六七
No.
246
251
253
252
254
人麿
259
258
257
256
255
八五
八五
七五
八四
四四
六四
六四
六四
七四
四七
五八
⊂⊃九
v五
二八
⊂⊃五
三四
九五
一tコ三
九五
五六
一四
一九
八七
家持
神社老麿
四七八︵長︶
四八〇︵長︶
四〇八九︵長︶
八〇〇︵長︶
四δ六︵長︶
八〇〇︵長︶
四
三九六二︵長︶
!、 !、
一七
⊂⊃九
笠 金 村
坂上郎女
安倍虫麿
家持
家憶
坂上郎女
憶良
家持
憶良
家持
憶良
家持
憶良
家持
三句
三句
二句
二句
二句
三句
五句
二句
四旬
二句
四句
古にありけむ人もわが如か
千鳥鳴く⋮⋮止む時なしに︵思ほゆる君︶
千鳥鳴く⋮⋮止む時もなし︵わが恋ふらくは︶
難波潟潮干の余波
天皇の行幸のまにま
いかにここだくわが恋ひ渡る
年月もいまだあらねば⋮⋮うち靡き臥
情ぐく⋮⋮春霞たなびく時に
息だにもいまだ休めず
しぬれ
妹︵君︶が心のすべもすべなさ
父母を見れば尊し妻子見ればめぐしうつくし︵愛しくめぐし︶
きこしをす国のまほらぞ
世の中はかくのみならし⋮⋮剣太刀腰に取りはき
一62一
人麿歌集
坂上郎女
車持千年
260
大伴宿奈麿
261
七九四︵長︶
262
三五 八五
263
264
265
持良
八〇四︵長︶
270
269
268
八八.八八
八八
七七
九六
九五
九五
八五 七五
四四
八七
四一
⊂)四
四
ニハ
九八
潟n
八三
九七三︵長︶
四二六四︵長︶
纉
五二
⊂⊃o
七二
九七
八一し:
四八
七⊂⊃
四三≡三
︵長︶
七二
四
二八
五八
⊂⊃⊂⊃
二八
一九
四 ヒt
一六四四
四一
267
三九六九︵長︶
271
〇六
憶良
家持
笠 沙 弥
坂上郎女
憶良
家持
憶良
家持
卿
聖武天皇
元正天皇
藤 原 人麿歌集
赤人
家持
大伴駿河麿
大伴村上
二句
二句
三句
二句
二句
二句
二句
三句
二句
田村大嬢
家持
三野石守
二句
二句
女
家持
前 采 桜井真人
時の盛りを⋮⋮すぐしやりつれ
飲みての後は散りぬともよし
天ざかる鄙に五年住まひつつ
しなざかる鄙に五年住み住みて
世間のうけつらけく
相飲まむ酒そこの豊御酒は
妹がため⋮⋮この日くらしつ
昨日も今日も雪はふりつつ
霞立つ春日の里の梅の花
今も見てしか妹が光儀を︵天平十一年?︶
今も見てしか妹が咲容を︵天平十二年︶
袖にごき入れつ染まば染むとも
浅き心をわが念はなくに
うすき心をわが念はなくに
一63一
266
272
273
275
274
276
二
277
五三
三 二
三 三 二
二
⊂)五
九プミ
三⊂)
二三九︵長︶
二〇四︵長︶
人 麿
人 麿歌 集
人人東
︿未
人 麿
詳﹀
麿麿人
三句
四旬
三句
三句
青駒の足掻を速み雲居にぞ
赤駒の足掻速けば雲居にも
八隈知しわが王高光る日の皇子
王は神にしませば天雲の
︵注︶ 三六〇九は遣新羅使人。初句、武庫の海の
気比の海の海上よくあらし⋮⋮海人の釣舟
︵巻13或本︶、三三三三︵巻調︶、三四八〇︵東歌︶、三六四四、三九七三︵以下家持歌巻︶、三九七八、四〇〇八、四二
七九、二九七、三六八、四四一、四四三、九四八、一〇一九、一〇二〇、一七八五、一七八七、三二四〇︵巻13︶、三二九一
したが、これは軽率であったかも知れない。今、それらを左に掲げる。
という二句の共通旬を有するもの二十七首を数えるが、これらは慣用句以外の何物でもないと考えて意識的に削除
歌表を提出したに止まってしまったことを心残りに思うものである。また、類句歌表の中で、 ﹁大君のみこと畏み
える術がない。やはり、巻七を中心に未詳歌の分析を行うべきであったと思っている。本稿の範囲では、単に類句
巻十五には半創作性、巻十六には創作性といったものが痛感された。さて、それなら巻七はと言われると一言で答
には都会性.文入性といったものを感じ、巻十一・十二・十三には反都会性・農村性といった傾向がうかがわれ、
︹付記︺ 類句歌表作製の作業を続けながら思ったことであるが、作者未詳歌巻については、漠然とした観念ながら、巻十
二六一︵長︶
始
置 始東 人
人 麿
置
;一六
278
二五一〇
279
画、四=三八︵以下、四四一四まで防人関係︶四三五八、四三九四、四三九八、四四〇三、四四〇八・四四西・四四七二︵妬゜n°7︶
一64一
五五
280
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