...

http://repository.osakafu-u.ac.jp/dspace/ Title Author(s) Editor(s

by user

on
Category: Documents
32

views

Report

Comments

Transcript

http://repository.osakafu-u.ac.jp/dspace/ Title Author(s) Editor(s
 Title
Author(s)
前近代中国絵画関係文献の形式と内容 : 中国「画論」史研究序説
(中)
河野, 道房
Editor(s)
Citation
Issue Date
URL
人文学論集. 2000, 18, p.17-26
2000-03-20
http://hdl.handle.net/10466/8894
Rights
http://repository.osakafu-u.ac.jp/dspace/
17前近代中国絵画関係文献の形式と内容
河 野 道 房
中国古代においては、絵画は文字をまだ読めない﹁童蒙﹂のため
・勧戒論
なりうる総合的な制作論として紹介したい。
たちでなされてきた。それらの内の重要な問題を、鑑賞の指標にも
するかという論議が、いかに鑑賞すべきかという観点と不分明なか
異を莫大なものと見る、あるいは絵画の精神性を認めない立場から
意であろう。絵画に表現された精神性と、実物の肉体の精神との差
のを支配する魂や精神性といったものがないからである、という文
るが︵本物ではないので︶畏れるに足りない。そこには、形あるも
しみはない。猛将奇絶の恐ろしい目の肖像画は、威圧する迫力はあ
絶世の美女、西施の肖像画は、美しいけれども西施と相対する楽
なりT︺Q
ぎるは、大なれども量るべからず。形に看たる者の亡ければ
西施の面を画くは、美なれども説ぶべからず。孟責の目をく
漢代における絵画の価値を低く評価する考え方を二例挙げる。
会的地位も低いものであった。
−中国﹁画論﹂史研究序説1︵中︶
前近代中国絵画関係文献の形式と内容
二、中国絵画の総合的制作論
これまで述べてきたことは、いずれも絵画をどう捉えるかという
認識にかかわる論議であり、ひろく絵画を鑑賞するための論という
のものという意識が広く一般に普及していた。それゆえ絵画は、文
の発言である。
ことができる。それに対して、中国では古代から絵画をいかに制作
字にかわる教育の手段として、知識人からは低く見られ、画工の社
18
それは、絵画は古の聖賢暗君等を描き、儒教的な教化に有用である、
そこで一部の絵画愛好者は、絵画擁護のために勧戒論を唱え始めた。
列人の面を見るは、其の言行を観るといずれぞ。古昔の遺文
したがって絵画も有用なものであるという主張であった。
人、図画を観るを好む。経れ画く所の者は、繕えの列人なり。
は、竹吊の載する所燦然たり。豊に徒に塁壁の画のみならん
著名人の顔を見るのは、その言行を知るのとはどちらがすぐれてい
人は絵画鑑賞を好むが、描かれているのは古えの著名人である。
なり。喚柄観る可きは、黄帝唐虞。遅発庸を以てし、衣裳殊
伏義は鱗身にして、女運は蛇躯なり。鴻荒朴略、廠の一通肝
上は開關、遂古の初めを紀し、五龍翼を比べ、人皇九頭あり。
王延寿﹁魯霊光殿賦﹂、﹃文選﹄巻十一
るだろうか。能えに遺された文章は、竹簡・吊書︵すなわち書物︶
る有り。下は三后、婬妃下主、忠臣孝子、烈士貞女に及ぶま
や互。
の上で燦然と輝いている。これがどうして単なる壁画と同じといえ
で、﹁賢愚成敗、載叙せざるは詳し。悪は以て世を凋め、善は
代名画記﹄
﹃太平御覧﹄︵巻七百五十一、工芸部八、画下︶所引﹃歴
以て後に示す︹4︸。
ようか。すなわち文章の持つ力は、絵画の表現力よりもはるかにす
ぐれているということであろう。
ただ一部には、絵画の価値を高く称揚するものもあった。同じ﹃准
南子﹄に、
魏の山々言う、画を観る者は、三皇五帝を見ては仰冷せざる
なし。纂臣.賊嗣を見ては切歯せざるなく、高節・妙士を見
宋の画、呉の冶は、甚だ微妙たれば、嘉舜の聖も、及ぶあた
とあり、宋地方の絵画や呉地方の金工細工は大変精妙で、古えの聖
ては食を忘れざるなし。忠節の難に死するを見ては抗印せざ
なく、三季︵夏.股・周の末期︶の暴主を見ては悲嘱せざる
人尭や舜でも及ばないとする。解釈に迷う所もあるが、基本的に儒
るなく、意向.斥子を見ては歎息せざるなし。盛服・煎酒を
わざるなり︹3︶。
教的価値観のひとつの理想である奏・舜でも及ばないという点で、
見ては側目せざるなく、令妃・宝生を見ては嘉日せざるなし。
謝赫﹃古画品録﹄序
ここに知る、鑑を存する者は画なり豆。
優れた絵画や工芸の価値を高く評価するものと言ってよいであろう。
しかしながらこの文章は例外的存在で、絵画の価値を低く認識する
考え方の方が主流である。
19前近代中国絵画関係文献の形式と内容
蓋し古人必ず聖賢の形像、往昔の事実を以て、毫を含み素に
﹃図画見聞誌﹄巻一、叙自古血鑑
り発し、述作に由るに非ザ︵7︶。
幽微を測り、六籍と功を同じくし、四時と井び運る。天然よ
夫れ画なるものは、教化を成し、人倫を助け、神変を窮め、
﹃歴代名画記﹄巻一、盆画之源流
図絵なる者は、勧戒を明らかにし、升沈を著わさざるなく、
ひら
千載の通肩、図を履きて鑑るべし︹6︶。
南斉︵四七九∼五〇二︶の謝赫は品第の書﹃古画品録﹄の序文で、
かつ重要なもののひとつ、六法論が現われた。
なってきた。この時代に、数ある絵画論の断章のなかでも最も著名
すなわち絵画の芸術性というべきもの、に関心が寄せられるように
東晋時代、顧榿之が現われる頃から絵画が人に与える力や効果、
・六法論
なるのは、宋代︵九六〇∼一二七九︶以降のことである。
燈之であるが、勧戒論が完全に払拭され絵画の価値が自明のものと
この枠組みを最初に突破するのは、聞取︵三一七∼四二〇︶の顧
命じ、製して図画をつくる者は、要は賢愚を指重し、治乱を
及ぶまで、各々一節を善くするのみ。六法とは何ぞや。一に
絵画の制作や鑑賞の指標となる六つの規範を提示した。それが﹁画
ここに見られる思想は、絵画の価値を、古代中国人にとっての中
気韻の生動する、これなり。二に骨法には筆を用うる、これ
発明するに在り。故に魯殿の興廃の事を精し、麟閣の勲業の
心的価値観であるところの儒教的現実主義ともいうべきもののなか
なり。三に物に応じて形を象る、これなり。四に類に随って
之六法﹂である。
に見いだすそうとするものである。近代的な絵画の芸術的価値に対
賦面する、これなり。五に位置を経営する、これなり。六に
臣を会するは、暖代の幽潜を蹟し︵追いかけ︶、無窮の嫡女
する自覚が未明の古代においては、﹁善を勧め悪を戒める﹂という
伝え移すには模写する、これなり。唯だ陸稲微、衛協のみこ
を託す亙。
勧戒論は、一定期間絵画の擁護に役だった。しかし中世における芸
れを備該す︵£。
謝赫﹃古画品録﹄序
そな
画に六法ありと難も、能く尽く該うるは牢なり。古より今に
術的意識の萌芽期には画家の創作意図を制限し、逆に自由な主題の
広がりを限定する足枷となってしまう。
20
具体的には﹁気韻生動﹂︵描かれたものがいきいきと動くように
韻の写しくすべきなし、直だ位置向背を要するのみ。︵中略︶
台閤、樹石、車輿、器物に至りては生動の擬すべきなく、気
経営位置に至りては、すなわち画の総要なり。︵中略︶
ひと
みえること︶、﹁骨法用筆﹂︵描かれるものの構造を達意の輪郭線で
描くこと︶、﹁応物象形﹂︵物に応じて正確に形態をうつしとること︶、
伝模移写に至りては、すなわち画家の末事なり︹m︶。
六法の優れた点は、第一条に絵画の芸術的迫真性を置き、第二条
﹁随類賦彩﹂︵ものの類にしたがって適切な彩色をほどこすこと︶、﹁経
営位置﹂︵画面内のものの構図構成を工夫すること︶、﹁伝移模写﹂︵伝
の絵画の持つ本質的問題を見事に要約した経験的法則は、その後も
に伝統的筆線重視の立場を明確に述べ、第六条では絵画学習の方法
る内容である。
ながく絵画制作の規範として尊重され、日本の画論においても引用
え移すには模写をすること︶の六条である。第三、四、五条は、そ
﹃古画品録﹄では、六法の内容の説明は一切なく、これらの解釈
されることが多い。
論や作品の保全管理にまで配慮がゆきとどいていることである。こ
の大筋は張彦遠の﹃歴代名画記﹄に依拠するものである。
特に第一条の﹁気韻生動﹂は、もっぱら人物動物が主題であった
れぞれ形、色の正確さと構図の問題で、現代において普通に通用す
張彦遠﹃歴代名画記﹄巻一、論画六法
いては、本来の意味から離れて山水画にまで適用されるにいたった︵後
魏晋南北朝の実態から遊離して拡大解釈され、﹁気韻﹂が画家の人
気を尚ぶ。形似の外を以てその画を求むれば、これ俗人と道
述の董其昌の気韻論︶。
面謝赫云う、画に六法あり、︵中略︶と。彦遠試みにこれを
うべきこと難し。今の画は縦い形似を得るも気韻生ぜず。気
・山水画論
格の投影であるとされた︵気韻人格説︶。さらに後の文人画論にお
韻を以てその画に求むれば、すなわち形似はその間にあり。︵中
論ぜん。曰く、古の画は或いはよくその形似を移してその骨
略︶
ようになる。それを示すのが、劉宋︵四二〇∼四七九︶の宗嫡が書
魏晋南北朝時代になると、ようやく山水画が主題として独立する
値を称揚し、山水画の効用やその鑑賞法まで記述する。
いた﹁画山水序﹂である。そこでは儒教思想を援用して山水画の価
それ物を象るは必ず形似にあり、形似は須らくその骨気を全
うすべし。骨気形似は皆立意に本づきて用筆に帰す、故に画
に工みなる者は多く書を善くす。︵中略︶
21前近代中国絵画関係文献の形式と内容
少童、︵中略︶琴書を善くし、山水を好む。西は荊巫に捗り、
沙たり、聖賢は絶代に暎じ、万趣は其の神思に融る。余復た
わずして、独り無人の野に応ず。峯舳は手直たり、雲林は森
を披きて幽対すれば・盤げにして四番を究め、天励の莱に違
南は衡岳に登り、因て宇を三山に結ぶ。尚平の志を懐くも、
何をか為さんや、神を暢ぶるのみ。神の暢ぶる所、執れか先
まず﹃歴代名画記﹄巻六、宗嫡伝を見てみよう。
疾を以て江陵に還る。歎じて曰く、﹁臆、老病倶に至る、名
ここで重要な点は、山水画は蚕篭の実見した山水を描いたもので
に発し、坐臥これに向う。其の高情かくの如し︹n︶。
臥して以てこれに遊ぶべきのみ﹂と。凡そ遊歴する所、皆壁
利用し、その上で静かに画と対面する。このような方法は現代の芸
閑居して志気を養い、少量のアルコールや楽器演奏の精神的高揚を
くつろぎながらも精神的高揚が必要となる。そのための準備として、
賞の域にとどまらず、﹁道︵宇宙の根本原理︶を観る﹂ものとして、
精神をくつろがせるものとしての山水画は、単なる慰謝や美術鑑
んずるものあらんや.−、。
へ ノ
あること、山水画の鑑賞が実際に山水を践渉することの代用として
山恐らく遍くは遊び難し。唯だ当に懐を澄まして道を観じ、
行われたこと、である。そして、その前提として山水に対する深い
術鑑賞のあり方を考える上でも示唆的であろう。
墨付き﹂の高尚さと実際の山水に入るような臨場感という、後世の
的価値観によって山水画の価値を確立させる。ここに、﹁儒教的お
する。
た郭煕は﹃林泉高岸集﹄の中で、自らの制作理念と山水画観を開陳
は北宋時代にある。北宋後期の画院︵宮廷作画機構︶の画家であっ
山水画はこうして存在基盤が確立するが、絵画技法としての頂点
憧れと執着があり、宗謬伝に続く﹁画山水序﹂では、山水を適遙す
山水画にいたるまで基本的に変わらない特質がすでに現れているこ
君子の夫の山水を愛する所以の者は、其の旨、安くにかある。
郭煕﹃林泉高致集﹄山水訓
ることは﹁澄懐観道﹂という聖賢の営為と同じである、という儒教
とがわかる。そして﹁臥して以て遊ぶ﹂という﹁臥遊﹂の思想も
飛鳴は、常に親しむ所なり。塵器の更訂は、此れ人情の常に
に楽しむ所なり。漁樵の隠逸は、常に適しむ所なり。猿江の
丘園に素を養うは、常に慮る所なり。泉石に囎齢するは、常
ここから始まる。横になったまま、くつろいで鑑賞するというあ
り方は、次の﹁画山水序﹂の最後の段ではっきりと意味づけられ
る。
ここに於いて間居して気を理め、膓を払いて琴を鳴らし、図
22
て、荷くも一身を潔くせんとすれば、出処の節義は斯に係る。
ざる所なり。直に太平の二日、君親の心両ながら隆なるを以
厭う所なり。燗霞の仙聖は、此れ人情の常に願うも見るを得
格に由来するという説︶が、その拠り所となっている。
学習不可能とする説︶または﹁気韻人格説﹂︵絵の気韻は画家の人
で述べられている﹁気韻生知説﹂︵気韻は画家の天分によるもので
善導虚の﹃図画見聞誌﹄巻一、﹁気韻の師よりするにあらざるを論ず﹂
生まれず、高潔な人格は文人の多く有するものであるから、文人の
すばらしい絵、気韻の高い絵は、気韻の高い人格の画家からしか
うるあたわず。天機より得、霊府に出ずるに繋ればなり︹辺。
故に揚子も其師より授けらるるあたわず、輪扁も其の子に伝
と難も、止に衆工の事に同じく、画と曰うと難も画にあらず。
を周らして、方めて世珍と号す。爾らざれば、巧思を蜴くす
にしまた神にして、能く精なるものなり。凡そ画は必ず気韻
ず。気韻既に已に高し、生動至らざるを得ず。所謂これを神
に画に寄するなり。人品既に已に高し、気韻高からざるを得
上士、仁に依り芸に遊び、畷を探り深を守り・高雅の情・↓
かに古よりの奇蹟を観るに、多くは是れ軒冤の才賢、巌穴の
会、然るを知らずして然るなり。嘗試みにこれを論ぜん。窃
密を以て得べからず、復た歳月を以て到るべからず、黙契神
学ぶべくも、其の気韻の如きは、必ず生知にあり。固より巧
六法の精論、万古移らず。然り而して骨法用筆以下の五者は
郭若葉﹃図画見聞誌﹄巻一
︵中略︶然らば則ち林泉の志、姻霞の侶、烏森にありて、耳
目は断絶す。今妙手を得て、欝然としてこれを出せば、堂莚
を下らず、坐ながらにして泉堅を窮め、猿声鳥喘、依約とし
て耳にあり、三光水色、滉濠として目を奪わん。此れ山豆に人
意に快くして実に我が心を獲るにあらずや。此れ世の夫の画
山を貴ぶ所以の本意なり︵n︶。
そして﹃林泉高致集﹄は、郭煕の現存作品﹁早春図﹂︵台北故宮
博物三蔵︶という実践例を持つ理論書として、山水画制作論の古典
的存在となった。その後の山水画論は多かれ少なかれその影響を受
けているといっても過言ではない。
・文人画論
明代︵=一一六八∼一六四四︶後期以降の画壇を圧倒する文人画派は、
清朝でも一部の職人的画家を除けば、著名な画家はほとんどすべて
が文人画風と言ってよいほどの広がりを持つに至った。なぜ文人画
風がこれほど画壇を制圧するにいたったのかは、まだ解明されてい
ない点も多く、ここでそのメカニズムを解明するゆとりはない。ただ、
その思想的バックボーンが宋代にあることはほぼ間違いなく、北宋
23前近代中国絵画関係文献の形式と内容
たちを絵画制作へと導いたであろう。経験や修行を軽視し、感性の
この気韻生知説は、職業画家たちの意欲を減退させ、多くの文人
価せず人品で評価する道筋を作ることになった。
ないゆえに、気韻の高い絵も少ないという、画家を絵そのもので評
必然性が生まれてくる。逆に、凡百の職業画家には高潔な人格が少
描く絵はすばらしい絵だという三段論法が成立し、文人画の正当性、
現するが、徽宗の画院改革とそれを継承した南宋画院絵画によって、
こうした﹁文人画﹂ ︵文人の共感を得るような絵画︶は宋代に顕
す所にあらざるなり∼.。
し。妙を一時に振るい、芳を雄藩に伝う。聞閻鄙賎のよくな
古より画を善くする者、衣冠貴冑、逸士高人にあらざるはな
代名画記﹄巻一、護国六法の末尾に見られる。
このような、画家に高潔な人士を求める気風は、すでに張彦遠﹃歴
一時的に別の方向へと進むことになる。元代には文人たちへの冷遇
へ ノ
発露に重きをおくこのような態度は、南頓禅の影響もあるのであろ
うが、技術や創意工夫の軽視にもつながり、絵画の技法体系や造形
い制作・鑑賞態度は画家にとって酷に過ぎたようで、気韻生知説に
趙子昂、銭舜挙に問いて曰く、如何ぞ是れ士大夫画と。舜挙
﹃格古要論﹄古画弁、士聖画
政策によって、苗田果士筒の私的な趣味としての絵画制作が助長され、
は修正意見が出された。
答えて曰く、隷家の画なりと。子昂曰く、断り、鼻詰の王維、
芸術としての独自性すら揺るがしかねない、中国絵画史における重
嵩置昌﹃画禅室随筆﹄
宋の李成、徐煕、李伯時を観るに、皆高尚にして士夫の画く
文人画の様式的確立をみる。
画家の六法、一に気韻生動なり。気韻は学ぶべからず、此れ
大な出来事であった。さすがに、このような絵画作品を主体としな
生れながらにしてこれを知る、自ら天授あり。然れども亦た
手に随って写生せば、皆山水の伝神たらん︹垣。
より塵濁を脱去せば、自然丘整内に営まれ、鄭那を成立す。
であるとするが、王維、李成、李公麟は理解できるとしても、一般
家、戻家ともいう、素人のこと、職業画家である行家に対して言う︶
元初の趙孟頬と銭選の対話の形で、士大夫画︵士夫画︶が隷家︵利
を作れる者、其れ謬れること甚しと︹−7︶。
所なり。蓋し与物書神、其の妙を尽くすなり。近世の士夫画
あやま
﹁万巻の書を読み、万里の路を行﹂くことで、気韻の学習性を多
的に五代南唐の宮廷画家であった徐煕を﹁高尚士夫﹂に数えている
学んで得る処あり。万巻の書を読み、万里の路を行き、胸中
少認めているのだが、やはり天賦の才能であることかわりはない。
24
または﹁尚南既北論﹂がそれである。董其昌以降、文人画は南宗、
ることになる。先容で述べた﹃画禅室随筆﹂巻二の﹁南北二宗論﹂
た論理は、明末の董其昌のいくつかの文章によって、決定的に広ま
文人が自作の絵画を擁護するために考え出したとも思えるこうし
ところが興味深い。
ある。 .︿以下続刊︶
はやされ、江戸後期の文人画様式にも甚大な影響を与えているので
数少ない中国絵画のグラフィック資料のひとつとしておおいにもて
された。これら画譜類は、鎖国体制下の日本で比較的入手しやすい、
立︵一六七九︶後、ほどなくして輸入され、日本で何度も翻刻出版
な文人画家のとるべき道だという通念が固定化し、近代に至っても
宋や明の院体画系は北宗で職業画家の様式とされ、南宗こそが高潔
簡単には改められなかったほどである。様式の上でも、董源や巨然、
そして元末四大家以来の樹木や山容が、文人画様式の定型となった。
ともあれ文人画の問題は、絵画の表現形式の発展の上で、極めて重
いものであったことに注意すべきである。
・画譜類
画論ではないが、日本の近世絵画に大きな影響を及ぼした絵画関
係文献に画譜類がある。画譜とは、絵画技法を図入りで説明した技
法解説書を言うが、ひろく挿絵本や絵本類を指すこともある。素人
の絵画制作が広まりつつあった宋代に、独学の手引きとして成立し、
墨梅や墨竹の技法書としての画譜が生まれた。のち明代に多様な主
題と画風の﹃八種画譜﹄や、清初の﹃芥子園画伝﹄のように一部彩
色の画譜も現れて流行し、絵画の独習がより身近なものとなった。
特に﹃芥子密画伝﹄はその総合的独習書としての性格から、初版成
蛇躯。鴻荒朴略、葉状唯旺。換嫡母観、黄帝唐虞。軒冤以庸、
上紀開關、遂古寺初、五龍比翼、人皇九頭。伏義踊扇、女蝸
︵4︶王延寿﹁魯霊光殿賦﹂︵﹃文選﹄巻十こ
宋画曲筆、二七微妙、尭舜備忘、不能及也。
︵3︶ ﹃潅南子﹄生餌訓
︵﹃論衡校釈﹄新編諸子集成、一九八一年 北京︶
行。古昔之遺文、竹一面之所載燦然、豊徒感通之画哉。
人好観図画。夫所聖者古之潤和也。見列人下面、執與観其言
︵2︶ ﹃論衡﹄別通篇
亡焉。 ︵﹃准南鴻烈集解﹄新編諸子集成、一九八一年 北京︶
画西施之面、美而不可説。規孟責羽目、大晦不可畏。君形者
︵1︶ ﹃潅南子﹄説聖訓
注
25前近代中国絵画関係文献の形式と内容
衣裳有殊。下樋三后、婬妃秦荘、忠臣孝子、烈士貞女、賢愚成
敗、靡不載叙。悪霊誠世、善以直後。
︵5︶ ﹃太平御覧﹄ ︵巻七百五十一、工芸部八、画下︶所引﹃歴代
名画記﹄
魏三楽言、観画題、見三皇五帝莫不運戴、見三期暴主莫不悲
椀。見寡臣賊嗣莫不切歯、見高節選士莫不忘食。見忠節死難莫
不惑首、見放臣斥子莫不歎息。見淫夫妬婦莫不側目、見令妃順
后莫不嘉貴。是知存乎鑑者画也。
︵6︶謝赫﹃古画品録﹄序
図絵者、莫不明勧戒、著升沈、千載寂蓼、披図可惜。
︵﹃津逮秘書﹄所収︶
一気韻生動是也。二骨法用筆是也。三三物象形是也。四三類賦
彩是也。五経営位置是也。六伝記模写是也。唯陸島微衛協備該
之 。
︵10︶ ﹃歴代名画記﹄巻一、論画六法
昔謝赫云、画有六法、︵中略︶。彦遠試論之日、古之画、或
能留置形似而尚其軍気。以形似之外註陰画、此難可与俗人道也。
今之目附得形似、而気韻不生。以気韻求書画、則形似在其問 。
︵中略︶
夫象物必在於形似、形似須全鼻骨気。雪気形似、皆本於立意
而欝乎用筆。故工画者多善書。︵中略︶
至於台閣樹石、車輿器物、無生動之可擬、無気韻之可偉。直
要位置向背而已。︵中略︶
至於経営位置、則画興研要。︵中略︶
︵7︶張彦遠﹃歴代名画記﹄巻一、叙画之源流
夫画者、成教化、助人倫、窮神変、測藻岩、與六籍同功、四
至諾諾模移写、乃画家末野。
︵12︶話柄﹁画山水序﹂︵﹃歴代名画記﹄巻六、宗親臥所引︶
臥向之、其高情如此。︵後略︶
恐難壁遊、唯当澄懐観道、臥以遊之。凡所遊歴、皆図於壁、坐
宇衡山。懐尚平薄志、以疾還江陵。前日、臆、老病倶至、名山
宗論、︵中略︶善琴書、好山水、西捗荊巫、南登高岳、因結
︵11︶ ﹃歴代名画記﹄巻六、宗柄伝
時井運。発於天然、非由述作。 ︵﹃津逮秘書﹄所収︶
︵8︶郭若虚﹃図画見聞誌﹄巻一、七竃古寄接
蓋古人必以聖賢形像、往昔事実、含毫命素、製為図画者、要
在指鑑賢愚、発明治乱。故雄馬紀興廃之事、麟閣会勲業之臣、
蹟暖代田幽潜、託無窮客思喚。 ︵﹃津逮秘書﹄所収︶
︵9︶ ﹃古画品録﹄序
難画有六法、牢能尽該。而自足及今、各善一節。六法者何。
26
於是間居理気、払膓鳴琴、披図幽対、坐究四荒、不違天励之
莱、独応無人之野。峯舳嶢疑、雲林森南、聖賢暎於絶代、万趣
融二神思。余復何為哉、暢神品已。神之所暢、敦有先焉。
︵13︶郭煕﹃林泉高致集﹄山水訓
君子之所以愛夫山水者、其旨安在。丘園養素、所語言也。泉
石囎傲、所常駐也。漁樵隠逸、所常適也。猿鶴飛鳴、所常親也。
塵器橿鎖、此人情所常厭也。姻二段聖、此人情所常願而不得見
也。三二太平盛日、君親之心雪暗。臨監一身、出処節義斯係。︵中
略︶然則林泉之志、姻霞之侶、乱塾直証、耳目断絶。今得妙手
欝然出之、不下堂錘、坐窮泉墾、猿声影喘、依約言耳、山光水
色、滉漂奪目。此四豆不快人意、実獲我心哉。此世之所以貴夫画
山之本意也。 ︵﹃王氏画苑﹄所収︶
︵14︶ ﹃図画見聞誌﹄巻一、論気韻非師
六法精論、万古不移。然而骨法用筆以下五者可学、如其気韻、
必在生知。固不可以巧密得、復不可以歳月到、黙契神会、不知
然而然也。嘗試論之。窃観自古奇蹟、多是軒冤才賢、巌穴上士、
依仁遊芸、探願鉤深、高雅七情一覧於画。人品既已高 、気韻
不得不高。気韻既已高 、生動不得不至。所謂神之地神而能精
焉。凡画必周気韻、方号世珍。不爾、錐蜴巧思、止同衆工之事、
錐日画而非画。故揚子不能授其師、輪扁不能伝其子。繋乎得自
︵15︶董其昌﹃画禅室随筆﹄
天機、出於霊府也。
画家六法、↓気韻生動。気韻不可学、葦生而知之、自有天授。
然亦有学得処。読万巻書、行万里路、胸中脱去塵濁、自然丘墾
内飾、成立鄭那。随手写生、皆為山水伝神 。
︵﹃和刻本書画集成﹄所収︶
︵16︶ ﹃歴代名画記﹂巻一、論画六法
自古罪跡者、弱電衣冠貴冑、逸士高人。振妙一時、三芳千祀。
非間閻鄙賎之所謂為也。
︵17︶曹昭﹃格古要論﹄士油画
趙子昂問銭舜挙日、如何是士大夫画。舜挙答日、三家画也。
子昂日然、余観唐之王維、宋之李成、徐煕、一団時、皆高尚士
夫所画。蓋与物伝神悪落妙也。近世作士夫画一、其膠甚 。
[追記]本論文は、平成十一年度文部省科学研究費補助金基盤研究
取状況﹂の研究成果の↓部である。
︵C︶継続課題﹁日本の中世・近世画論における中国画論の摂
Fly UP