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雲南省西双版納におけるタイ族の民族宗教と上座部仏教

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雲南省西双版納におけるタイ族の民族宗教と上座部仏教
Μεταπτυχιακά 名古屋大学大学院文学研究科 教育研究推進室年報 Vol. 7
Ⅳ 「人文学フィールドワーカー養成プログラム」調査報告
雲南省西双版納におけるタイ族の民族宗教と上座部仏教
烏 日 汗
東洋史学専門 博士前期課程2年
って存在している。筆者は,上座部仏教と民族宗教と
1.はじめに
の関係とその変化を,主にタイ族の宗教儀礼に注目す
西双版納(シプソンパンナー)
族 自治州は,現
ることによって検討したい。上座部仏教と民族宗教が
在の中華人民共和国雲南省南部のミャンマー・ラオス
同時に存在する状況は,タイ族の文化の発展に対し
と国境を接する地域にある。シプソンパンナーは,
て,どのような影響を与えたのか。あるいはタイ族の
1950年 に 中 華 人 民 共 和 国 の 一 部 に 組 み 入 れ ら れ,
文化の発展の結果,そのような状況が出現したのであ
1)
2)
族自治区となり,1955年に西双
ろうか。このような,タイ族の上座部仏教と民族宗教
族自治州と改名された。1956年には,シプソ
との関係とその変化の分析を通じて,タイ族の文化の
ンパンナーのタイ族 が形成してきた政治社会制度が
変化,ひいてはタイ族をとりまく社会・経済などの各
『西双版納自治州概況』編写組1985:
廃止された 。[
方面の変化について考察をしたい。使用する史料や情
20‒21](図1)
報については,関連の文献史料は多くなく,それだけ
筆者は,1950年から現代に至るまでの間に,タイ
では具体的分析ができない。本プロジェクトによっ
族が中華人民共和国の少数民族の一つとして自らの文
て,初めて通時的な詳細な情報を得ることになった。
1953年に西双版納
版納
3)
4)
化をどのように変化・発展させていったかに関心を持
っている。それ以前のタイ族の文化は,上座部仏教が
基盤となっていた。よって筆者は,タイ族文化の変
2.調査期間と調査方法
化・発展をタイ族の宗教の分野に焦点をあて,分析し
本調査は平成 24 年7月1日から 15 日の 14 日間の日
たい。中国の少数民族の中でシプソンパンナーのタイ
程で行われた。中国雲南省西双版納
族を考察対象に選んだ理由は,もともと同一の宗教
市 ,勐罕鎮 の仏教寺院などにおいて,タイ族の宗
的・文化的背景を持っていた東南アジア大陸部北部の
教儀礼を観察することや僧侶に聞き取り調査を行っ
その他のタイ族と比較することによって,中国の少数
た。1950 年ごろから現在までの通時的状況を把握す
民族としての文化変化の特徴をより鮮明にとらえるこ
るために,村落のお年寄りに対してインタビューをし
とができると考えたからである。
た。その後,西双版納州図書館,西双版納民族研究
現在のシプソンパンナーのタイ族の宗教について見
所,雲南省図書館や雲南大学に行って,主にタイ族の
ると,ほぼ全てのタイ族が上座部仏教を信仰している
宗教に関する文献資料,書籍や史料などを収集した。
5)
族自治州の景洪
6)
が,民族宗教の信仰も独立して,あるいは仏教に混じ
3.調査目的
上座部仏教はインドからスリランカへ伝わり,その
後,ミャンマー,タイ国,カンボジア,ラオスなどの
いくつかの地点を経由して中国雲南省西双版納や徳宏
などの地域に伝来したとされている7)。
よく知られているように,中国において,国内に居
住する少数民族の政治社会構造や文化伝統の構造的転
換は,中国共産党の民族政策の実施によってもたらさ
れた。1950 年代における民族政策は,少数民族がそ
図1 中国雲南省地図
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れまで保持してきた政治的,経済的,社会的,宗教的
雲南省西双版納におけるタイ族の民族宗教と上座部仏教
な諸制度の社会主義化をねらい,それらを短期間のう
ちに国家的な管理体制のもとに再配置した。大躍進政
策を経て文化大革命の時期になると,すでに制度化さ
れた「民族」の存在自体が急進的な社会主義政権のも
とで否定され,その結果,少数民族の文化伝統の持続
と 保 持 は き わ め て 困 難 な 状 況 に 直 面 し た。
[長谷
川 2001
(a):278]そして,シプソンパンナーにおい
てタイ族の「伝統的」文化を上から規制する動きとし
て,最も大きな影響があったのは,1966年から 1976
年までの文化大革命である。その時代には仏教は禁じ
られ,経典も含めてタイ文字で書かれた文書の多くは
燃やされた。1970年代終わりになるとようやく,再
び仏教の信仰が許されるようになった。
[長谷川 2001
(b):112‒119]
確かにタイ族の宗教信仰は上座部仏教,民族宗教の
いずれにおいても大きく変貌したと言える。それで
写真1 曼春満仏寺の正門
は,現在のシプソンパンナーのタイ族の宗教信仰はど
うだろうか。タイ族の文化の発展に対して,宗教がど
い」といわれるほど,タイ族文化が息づいている町で
のような影響を与えたのかをシプソンパンナーにおけ
ある。勐罕鎮に位置している「曼春満仏寺」
(写真1)
る現地調査によって得られた資料を根拠とし,分析す
は当地の有名な仏寺の一つである。上座部仏教がシプ
る。
ソンパンナー地域に伝わった後,建造された最初の仏
寺だそうだ。シプソンパンナーにおけるタイ族の主な
宗教儀礼の一つである「ハウ・ワッサー」
(関門節)
4.調査内容
を観察するために,筆者は最初に曼春満仏寺を見学し
◆勐罕鎮の曼春満仏寺の「ハウ・ワッサー」
(関門節)
た。
景洪市からバスで1時間ほど南東に下ったところ
シプソンパンナーにおけるタイ族の安居の期間は,
に,勐罕鎮(ガンランパー)はある。
「ここを訪れな
タイ暦9月15日から12月15日までの3ヶ月間であり,
ければ,西双版納タイ族自治州を訪れたことにならな
安居入りを「ハウ・ワッサー」
(関門節)といい,安
写真2 曼春満仏寺の「ハウ • ワッサー」に読経している僧侶と少年僧侶
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Μεταπτυχιακά 名古屋大学大学院文学研究科 教育研究推進室年報 Vol. 7
居明けを「オク・ワッサー」
(開門節)と呼ぶ。この
びに座り,読経する。
(写真2)中央の仏座の前には
期間は,家屋の建築,婚礼,恋愛などが禁止され,も
仏像があり,村人はそれを囲んで座り,合掌しながら
っぱら仏教を熱心に信仰することが期待される。
「ハ
聴経していた。
(写真3)
ウ・ワッサー」と「オク・ワッサー」は,タイ族の重
上座部仏教の特徴の一つは,僧侶の生活費を世俗の
要な宗教儀礼である。
[劉岩 1993:151]儀礼の期間
大衆がまかなってきたことである。シプソンパンナー
は村や地域によって異なる。一日だけの村もあれば数
のある地方では,僧侶の飲食物をその土地の世俗の
日かけて行う村もある。勐罕鎮における,今年(2012
人々が順番に供給したり,食事を作って寺に届けた
年)の「ハウ・ワッサー」は7月3日に行われた。こ
り,あるいは柴,米,油,野菜を分担して供給したり
の日の朝,村人(ほとんど女性,わずかに年輩の男性)
した。このほか仏寺の財源は主に「賧」(ダン),すな
は早く起きて(6時頃)
,曼春満仏寺に集まり,僧侶
わち仏教の斎戒日と重要な宗教上の祝祭日に,寺院に
と少年僧が寺院内の壁側の一段高くなった僧座に横並
対して行われる布施に依存し,この収入は相当なもの
写真3 曼春満仏寺の
「ハウ・ワッサー」
に聴経している村人
写真4 「ハウ・ワッサー」に村人が曼春満仏寺へお布施をしている様子と布施品
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雲南省西双版納におけるタイ族の民族宗教と上座部仏教
であった。かつてタイ族は,正月や祝祭日,結婚,葬
族宗教の神を祭祀することもできる。民族宗教が上座
儀,病気などの際,常に仏に布施をしなければなら
部仏教の支配的な地位を認めさえすれば,上座部仏教
ず,そしてこれらの「賧」による物品や金銭は寺院の
は人々が仏教を信仰すると同時に,民族宗教の各種の
所有となった。そして,このような状況が現在までも
神を祭祀することを許す。
』このような状況は現在でも
持続している。(写真4)村人は皆,カゴの中に果物,
存在している。
食物や日用品などの様々な物を供物として用意し,天
秤棒でかついで持ってくる。昼ごろ,読経が終了し,
◆景洪市大曼么村における民族宗教信仰
僧侶たちは村人の山積みにした供物をまとめている。
筆者は 2012 年7月 10 日に,景洪市大曼么村におけ
実は,このような,寺院の支出や僧侶の生活を村落
る村人の「寺の守護神」を祭祀していた事例を観察し
の各家が共同で負担するという義務は,多くの農民に
た。この日の 14 時ごろ,大曼么村の何人かのお年寄
とっては重い負担であった。当地の人の話によれば,
りは蝋燭,お酒やもち米などを持って,その地の仏寺
宗教にかかわる費用が当地の農民の年収入の10%以
の本堂の外に,供物を供えて「寺の守護神」を祭って
上を占めている。にもかかわらず,このような宗教儀
いた。(写真5)その後,仏寺に入って僧侶の読経を
礼は,タイ族の文化的アイデンティティの保持と自ら
聴いた。ここから分かるように,現在のシプソンパン
のエスニック伝承に対し,一定の役割を果たしている
ナーのタイ族においては,民族宗教と上座部仏教が同
と考えられる。
時に存在して,それぞれタイ族の社会,生活に影響を
ところで,岩峰が主任で編集した『
族文化大観』
与えている。
(雲南民族出版社,1999,p. 86)では以下のようにされ
しかし,当地のお年寄りの話によると,
「タイ族の
ている。
『上座部仏教がタイ族地区に入ってきたことに
若者たちの中では,民族宗教を信仰している人がきわ
よって,タイ族の民族宗教は大きな打撃を受けたが,
めて少なくて,上座部仏教に対する態度もタイ族の老
民族宗教は依然として一定の勢力を保っている。そし
人より敬虔ではなくなった。」その原因を分析してみ
て人々に「タイ族の祖先の魂」と呼ばれている。その
ると,1980 年以降の近代政策の実施,市場経済の進
ために,上座部仏教はタイ族の人々に認められたが,
行とともに,タイ族の物質文明や精神文明も変化して
民族宗教を消滅させる方法がなく,このような状況で
きたことが考えられる。それがタイ族の若者たちの関
上座部仏教がいくつかの妥協の策略を採用し,ある程
心を現代的な消費文化へ向かわせている。特に,1980
度の譲歩をし,タイ族の民族宗教の若干の主張を受け
年以降の観光開発は少数民族の伝統文化や風俗習慣な
たばかりでなく,仏寺の本堂の外に民族宗教の神を立
どの方面に大きく変化をもたらしたと思われる。
てることも許可した。人々は仏像を礼拝してから,民
写真5 景洪市大曼么村のお年寄りの祖先を祭っている様子
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Μεταπτυχιακά 名古屋大学大学院文学研究科 教育研究推進室年報 Vol. 7
5.おわりに
今後,シプソンパンナーにおけるタイ族の民族宗教と
上座部仏教はどのように発展していくだろうか。宗教信
仰の希薄化や世俗化が顕著である現在において,タイ
族の民族宗教と上座部仏教がどのように位置づけられ
るのかを提示することを,筆者は最終的な目標としたい。
それのため,事例研究をさらに進める必要があると考え
ている。
謝辞
本調査にあたり,多くの方々にお世話になりました。記して
感謝申し上げます。
実地調査には,西双版納打洛鎮勐景来仏寺の僧侶都坎章氏
(法名),景洪市西双版納日報社の玉麗氏,西双版納春満仏寺の
僧侶都比坎約氏(法名)がご協力くださいました。深く感謝致
します。
また指導教員である東洋史学研究室加藤久美子先生,本プロ
ジェクトに関してご支援・ご指導を頂いた教育研究推進室柴田
淑枝氏にも深く感謝申し上げます。
注
1)「シプソンパンナー」という語はタイ語であり,シプソン
は 12,パンナは「千の田」という意味である。中国語では
「西双版納」と音訳され,自治州の名としては「西双版納自
治州」とされている。
2)「 族」はタイ族の漢字表記である。本稿において,西双
版納を中国との国家的な関わりにおいて把握することから漢
字表記を使用するが,民族呼称については片仮名を用いる。
3)「タイ族」は,東南アジア大陸部のタイ Thai 国,ラオス,
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ミャンマー(ビルマ)のシャン州,ベトナムの北部などの広
い地域に居住している。様々なタイ系民族の総称として一般
に用いられる。本稿においては「タイ族」という表現で,現
在の中国雲南省西双版納 族自治州に住んでいるタイ族(タ
イ・ルー)とその言語・文字のことを指す。
4)図1の「景洪」を中心とする地域は「西双版納自治州」で
ある。
5)景洪市は中華人民共和国雲南省西双版納 族自治州に位置
する県級市,同州首府の所在地である。
6)勐罕鎮を「橄欖堰」(ガンランバー)ともいい,西双版納
の景洪市と 27 キロメートルほど離れている。バスで 45 分ぐ
らいかかるところにある。有名な観光スポット「 族園」も
ここに位置する。
7)上座部仏教がシプソンパンナーに伝わった時期については,
今なお不明である。学術界において比較的有力なのは,13 世
紀末に西双版納に伝わり,15,16世紀に盛んになったという
説である。
参考文献
《西双版納自治州概況》編写組『西双版納 族自治州概況』雲
南民族出版社 1985年
長谷川清「文化再興とエスニシティ─シプソンパンナー,タイ・
ルーの事例から─」横山廣子編『中国における民族文化の動
態と国家をめぐる人類学の研究』国立民族学博物館調査報告
No. 20 2001 年(a)
長谷川清「観光開発と民族社会の変容─雲南省・西双版納 族
自治州─」佐々木信彰編『現代中国の民族と経済』世界思想
社 2001 年(b)
劉岩『南伝仏教与 族文化』雲南民族出版社 1993 年
岩峰『 族文化大観』雲南民族出版社 1999 年
長谷川清「西双版納における上座仏教と僧侶の移動,ネットワ
ーク─ 1980 年代以降の仏教復興現象と時空間マッピング─」
『宗教と地域の時空間マッピング,ニューズレター』第2号 京都大学地域研究総合情報センター 2011年8月
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