...

獣王の息子 - タテ書き小説ネット

by user

on
Category: Documents
28

views

Report

Comments

Transcript

獣王の息子 - タテ書き小説ネット
獣王の息子
日向夏
タテ書き小説ネット Byヒナプロジェクト
http://pdfnovels.net/
注意事項
このPDFファイルは﹁小説家になろう﹂で掲載中の小説を﹁タ
テ書き小説ネット﹂のシステムが自動的にPDF化させたものです。
この小説の著作権は小説の作者にあります。そのため、作者また
は﹁小説家になろう﹂および﹁タテ書き小説ネット﹂を運営するヒ
ナプロジェクトに無断でこのPDFファイル及び小説を、引用の範
囲を超える形で転載、改変、再配布、販売することを一切禁止致し
ます。小説の紹介や個人用途での印刷および保存はご自由にどうぞ。
︻小説タイトル︼
獣王の息子
︻Nコード︼
N2012CQ
︻作者名︼
日向夏
︻あらすじ︼
現代日本、でも人外がごく普通に暮らしている社会。
とある理由で転校を繰り返す少女、山田紅花。
中学生活最初の転入先は、人外が多く通う学校で、そこでマイペー
スな獣人少年颯太郎と出会う。
ことあるごとに、死亡フラグが立ってしまう紅花。対して、颯太郎
は周りに立った死亡フラグを壊して回る。
不死身少女と超マイペース獣人少年のほのぼのスプラッタホラーコ
1
メディ。
﹃不死王の息子﹄のパラレル続編ですが、単体でも読める仕様にな
っております。
2
1、転校初日は長い一日
五月の大型連休が終わった翌週の月曜日。
こんな時期に転校するなんて悪目立ちもいいところだ。教壇の前
に立たされ、好奇の目が集まる。
先生がホワイトボードにきゅっきゅっと名前を書く。﹃山田 紅
花﹄、見慣れた自分の名前を﹁ベニバナ﹂と呼ぼうとしたので訂正
する。もう慣れたことだし、﹁ホンファ﹂なんて呼びが一般的じゃ
ないことくらいわかっているので怒ろうとも思わない。なにより、
読み仮名がついていない名簿も悪い。もう十数回やったやり取りだ。
クラスの皆は、ちょっと驚いた顔をして顔を見合わせている。縦
横六×六プラス三、机が並んでいた。紅花はその端数に当たる中央
の一番後ろの席に座れと言われる。
ちらちらと周りを見渡すと、不可思議なものがいくつも見える。
ものというか者というか。まず、先生から変だ。頭にやたら長い角
が生えている。伸びすぎた角は先がくるんとなっていて、その横で
耳がぴくぴく動いている。
山羊型の獣人だけど、種族名までわからない。名字は織部といた
って普通だけど。
現代社会、人外は昔と違い、けっこう当たり前に生活している。
この国における外国人の比率並にはありふれていた。
3
だけど、その人数がクラスの三分の一だと、多すぎる。ちょこち
ょこと鱗が見えたり、尻尾が動いていたりする。
そうだ、今回の学校はそういう学校だと知らされていた。
私立東都学園、人外生徒が多く通うことで有名な学校だ。基本、
一般人に合わせがちな教育を人外にも適応したものに変えたことで、
多くの人外たちの支持を得ている。
もっと普通の学校が良かったんだけど。
紅花は口をつぐんだまま、与えられた席に座る。
円筒状のスポーツバッグから、教科書、ノート、筆記用具一式を
取り出す。バッグは邪魔になるので後ろの棚に置く。
前の学校とほとんど使っている教科書が同じでよかったと紅花は
思いながら、一時間目の数学の授業を受けることにした。
今度こそは、ちゃんと学校生活をおくるぞ。
ぎゅっと拳を握りしめながら、教科書を開く。
すると⋮⋮。
ぱりっ、ぽりっ、かさかさ。
先生の声と、筆記の音、それ以外に明らかに変な音が混じってい
た。なにか生臭さが漂ってくる。
﹁この公式はちゃんと覚えるように。絶対だぞ﹂
4
織部先生の少し甲高い声が響く。髭も生えておじいちゃんっぽい
のに、背が小さいためか、なんだか可愛らしく見える。
ぽりぽり。
やっぱり、聞き違いではないようだ。紅花はそっと左横を見る。 窓際の一番後ろの席、カーテンがはためくその席から音が聞こえ
る。
紅花はなんだろうと目を細めた。
ふんわりした栗毛がちょこんとはねている。椅子にブレザーの上
着をかけ、ちょっと背丈に合わない大きめのシャツを着ている。
教科書を立てて勉強しているように見える。見せているが、音か
らしてバレバレだった。
なにか食べていた。
早弁なんて、古風なものを紅花は初めて見る。つい、じっと見て
しまった。
すると、アーモンドのような目がこちらを向いた。
髪もだが、目の色素も薄い。一瞬、外国人のハーフに見えたが顔
立ちは平たんだった。典型的な島国国家の顔立ちだ。可愛いと言え
ば可愛いが、スラックスを穿いた生徒に向かっていう言葉じゃない。
中性的な見た目の男子生徒だった。座っていて正確にはわからな
いが、背丈は紅花と同じくらいかそれより小さいだろう。裾上げし
5
た制服がいかにも成長期前という感じだ。
そんな少年が口をもごもごさせている。
やっぱり、魚臭かった。
少年の右手には、筆記用具の代わりに煮干しが握られていた。
臭いと音の正体はこれだろう。
思わず口をぽかんと開けて見てしまう。
少年は紅花と目があったことが気まずいのか、首の裏をかいた。
そして、机の引き出しからガサゴソ何か取り出す。
煮干しの詰まった袋だった。高級煮干しと書かれてあるので、お
高いのだろう。だから、どうだと思っていると、少年はそれをひと
掴みすると、紅花のほうへと手を伸ばした。
﹁なに?﹂
思わず聞いてしまった。
﹁食べたいんじゃないの? おいしいよ﹂
少年は首を傾げてみせる。声変わり前なのか女の子っぽい。
ぽりぽり魚をかじっている。どこか猫を思い出す仕草だ。
﹁⋮⋮﹂
つまり、紅花が物欲しげな目で見ていたと勘違いしたらしい。
6
紅花は少し顔を赤らめて、﹁そんなわけないじゃない!﹂と否定
しようとしたが、そこまで至らなかった。
﹁なーに、食ってるんだ? 日高﹂
ぽくぽくと蹄の音を立てながら、青筋を立てた先生が目の前にい
た。
﹁保険の先生が、成長期に朝ご飯を食べないのは良くないと言って
いました﹂
至極真面目そうに日高と呼ばれた少年が言った。
﹁ゆえに現在、摂取しています﹂
もちろん、そんな言い訳は聞き入れられず、ぽっくりした前蹄で
煮干しは奪われた。
どうやって掴んでいるのか、と紅花は妙なことが気になった。蹄
にはもちろん指はない。
﹁ひどい、先生﹂
﹁がんばって授業している先生の話を聞かないほうがひどい﹂
織部先生は煮干しを持って、また教壇に立った。日高少年はだる
そうに机にへたりこみながら、先生を見ていた。
やっと静かになると、紅花はまたホワイトボードを板書しはじめ
た。
7
むしゃ、むしゃっ。
また、妙な音が聞こえてきた。
横を見ると、日高少年が今度は鰹節を食べていた。
その後、先生がまたポクポクこちらまでやってきたので、以下略
とする。
転校生というものは、初日くらいかまわれるものだって、紅花は
よく知っている。そして、素っ気ない態度を一週間ほど続けていれ
ば、自然と皆離れていくことくらいわかっている。
というわけで、休み時間ごとに親切に話しかけてくる女子グルー
プに生返事をするお仕事に疲れながら、ようやく昼休みになった。
この学校は、昼食はお弁当か学食だ。そういう食事形態のところ
しか、通ったことがないので、給食というものはわからない。
チャイムとともに、紅花はスポーツバッグを抱えて教室を出る。
学校案内してあげるという親切な同級生の提案を受け入れる気はな
かった。すでに、転入手続の際、学校の主な場所は案内されたし、
人がたくさんいる食堂には行く気はない。
誰か人がいないところ、そして︱︱。
8
そんなときだった。
ぞくっと背中に視線を感じた。
首筋を舐められるような気持ち悪さ、ぬるくそしてべたべたした
もの。
紅花はそっと渡り廊下から見える中庭に目をやった。
池があった。蓮の葉が申し訳程度に浮かんでいる藻で緑色に濁っ
た池だった。
やめてよ。
視線をそらす。でも、横目でそれをとらえてしまった。
ぎょろりと蓮葉の下から目が二つ見えた。
濁った白目と白濁した黒目が、ぐるぐると動き回り探っている。
見るな、見るな。
肌がゆっくり粟立ってくる。でも、足を止めない。止めたらだめ
だ、捕まってはだめだ。
それが、紅花の今まで十二年の人生の中でわかっていることだっ
た。
あの視線につかまると、ろくなことがない。それが経験上わかっ
ている。
転校初日に来なくてもいいのに。
9
入学から一か月で転校する羽目になったのも、アレを見た日の出
来事が原因だった。
かつかつかつかつ⋮⋮。
自分の足音だけが響く。
渡り廊下を通り過ぎると、紅花はふうっと息を吐いた。ようやく
視線から逃れた。
アレはなんでもない、なんでもない。
ただの錯覚。
ぎょろりとアレの目が大きく一周した。
見えなくとも感じる。実に嫌な感覚。
しかし、目は紅花に気づかなかったようだ。次第に離れていくの
がわかる。
実際、紅花以外は誰も見えない。理論上、ありえないものだとい
う。
だから、紅花さえ視野に入れなければ問題ないのだ。
気づかれなければ、なんとかなると安心したそのときだった。
﹁どうかしたの?﹂
後ろから急に声がして、心臓が口から飛び出しそうになった。そ
んな古風な表現をしてしまうくらいびっくりした。
10
仰け反って奇妙な姿勢になる紅花に対し、声をかけた人物はきょ
とんとした顔で首を傾げている。
ご丁寧に、脇には弁当箱と煮干しと鰹節の袋、それと何故かクッ
ションを抱えていた。
たとえ転校初日でも、この魚くさい奴が誰かわからないほど、紅
花はお馬鹿じゃない。
ひだかそうたろう
﹁⋮⋮日高くんだっけ﹂
﹁そうだよ、日高颯太郎だよ﹂
フルネームを言われたところで下の名前は呼ぶことないだろう。
日高少年は、猫っ毛をぴょんぴょん跳ねさせるように首を揺らして
いる。
﹁山田さん、今からお昼? 食堂はあっちだけど﹂
馴れ馴れしい奴だと紅花は思った。別にかまわないでほしいのに。
﹁静かなところで食べたいの﹂
正直、中庭も視野に入れていたが、さっきのアレを見た時点で駄
目だ。もっと別の場所にしなくては。
﹁じゃあ、温室がいいんじゃないかな。あそこはお日様が気持ちい
いよ。お昼寝には最適だ﹂
その様子だと、日高少年もそこで食べる気だろう。脇のクッショ
11
ンはそのためか、と納得する。
﹁私は一人で食べたいの﹂
﹁そうなの?﹂
日高少年は、妙に残念そうな顔で見る。
﹁そうよ。日高くんが温室で食べるなら、他に静かなところはない
?﹂
﹁そう言われても﹂
日高少年は悩んだように腕組みして見せる。
別にこいつに聞かなくても、紅花には当てがあった。
紅花の体質のことはもうこの学校は知っている。そのため、なに
かあったら相談に乗ってくれる先生がいる。
前回の出来事も踏まえて、わざわざ遠くから引っ越してきたのだ。
今度こそ、大丈夫よ。
そう言い聞かせるが、大丈夫なんて自信はなかった。ただ、それ
でも紅花を普通の中学生として育てようとしてくれる家族たちに報
いたかった。
紅花は芸術棟の三階に向かう。美術室と音楽室が並ぶ中で、その
あいだにある部屋に入る。
扉には安っぽく紙がテープで張り付けられていた。﹃文芸部﹄と
丸文字で書かれている。
12
トントン、ノックすると﹁どうぞ﹂と声がする。
中に入ると、山羊型の獣人がいた。織部先生だった。
狭い部室内には長テーブルが二つつなげられて、ノートパソコン
が二つとデスクトップが一つ置いてある。部誌が乱雑に積み重ねら
れ、棚には部員たちの私物が無造作に置いてある。
他に一人、先生によく似た女の子がいる。角も髭も生えていない
が、先生と目がそっくりで何より手足の先が蹄だった。髪の毛をし
め縄みたいなおさげにしている。
誰か別に人がいたことに、紅花は身構える。
織部先生は、女の子の肩を叩きながら﹁大丈夫だ﹂と言った。
ちはる
﹁うちの娘で、千春っていう。山田より二つ年上だ。事情のことは
よく知っているし、もめごとには慣れているから﹂
もめごとには慣れている、なんだか妙な話だと思う。それを説明
するように、織部先生が付け加える。
﹁うちの学校は昔から、人外が多いから、もめごとも多少あるんだ。
こいつはこれでも、そういうのをまとめている風紀委員だから﹂
﹁山田さん、よろしくお願いします﹂
丁寧に頭を下げる少女に、紅花も頭を下げる。おもわずさん付を
したくなるほんわりした雰囲気だった。織部先生は名前をはじめか
ら間違えていたので少し不安だったが、ちゃんと要望には応えてく
れるようだ。
13
この学校に来たのも、実は身内がここの卒業生で、先生が知り合
いだったこともある。
﹁それにしても⋮⋮﹂
先生が髭を撫でながら、紅花をまじまじ見る。
紅花はむすっとする。目をそらすと、壁に鏡がかかっていて、自
分の姿を映し出す。黒髪直毛で、そのまま腰まで流している。東洋
人の様相なのに、目だけは金色をしていて、名前のこともあり国籍
不明だと言われる。父も兄姉たちも皆、同じ色彩を持っている。
﹁似てないなあ、あんまり﹂
﹁誰にですか?﹂
思わず聞いてしまった。不機嫌だと聞くだけでわかる声だ。
織部先生は昔、紅花の身内二人の同級生だった。そして、似てい
ると言ったら血縁のほうを意味しているだろう。
﹁愚兄と一緒にしないでください﹂
それだけは断言したかった。
﹁わかってる、あいつに似ちまったら大変だからな。それより、昼
飯は食べないのか?﹂
﹁食べます﹂
千春さんが気を利かせてテーブルの上を片付けてくれる。ものを
食べるには少々不衛生な気がするが、贅沢は言えない。
14
紅花は、スポーツバッグから、弁当箱を取り出す。
お重で五段、三段がおにぎり、残りがおかずだ。それとは別にバ
ケットが二本ある。本当は休み時間に食べたかった。すごくお腹が
空いている。
だけど、こんなに食べるところをクラスメイトに見られたくない
のでずっと我慢していた。初日から大食らいに思われたくない。
﹁⋮⋮やっぱ血筋だな﹂
﹁似ていません!﹂
﹁おいしそうねえ﹂
千春さんはにこにこ微笑みながら、自身の弁当箱を取り出した。
中を見ると、野菜がもりもり詰め込まれていた。
見た目が山羊なので、食性も草食らしい。
なんか妙に納得しながらおにぎりを頬張った。
食事が終わったら午後の授業はあっという間だった。
転校生ということで今日はホームルームのあとの掃除は免除して
もらい帰ることになった。
紅花としては早く帰りたい気分だったし、都合がよかった。
昼休みに見たアレがまだ気になっていたからだ。
15
どうしようかな。
靴箱がある玄関まで来て、立ち止まる。
紅花は携帯電話を取り出す。
指先で画面に触れ、着信履歴を見る。﹃若ママ﹄の名前が並んで
いて、その間に﹃姉﹄と﹃兄﹄、﹃ニート﹄とある。履歴にないも
ので﹃愚兄﹄があるがそれは、排除する。アイツにはできるだけ頼
りたくない。
姉と兄は、仕事中で忙しいし、ニートはニートでどうせ外でぶら
ぶらしているはずだ。迎えに来てくれる足もないだろう。
そうなると若ママしかいないのだが、若ママは、引っ越しの片付
けで忙しい。朝、迎えに行こうか、という若ママに﹁大丈夫、ちゃ
んと一人で帰るから﹂と胸を叩いたのは紅花自身だった。
﹁ちゃんと自分で帰らないとね﹂
そう言って自分の靴箱を開けたときだった。
ぎょろり。
﹁っ!?﹂
目があった。
外靴に覆いかぶさるように、アレがいた。
16
思わず声を上げてスポーツバッグを落とした。簀子の上で、がし
ゃんと重箱がぶつかる音がした。
わ、割れてないわよね。
紅花は震えながら、しゃがみ込んだ。
見ている。じっと見ている。
寒天質の濁った眼球が二つ、こげ茶のローファーの上でぐるぐる
動いている。
やめろ、やめろ。
私は見ていない。
言い聞かせるがそれは次第に動きを激しくする。狭い靴箱からに
ょきりと生えてくる。目だけ見えていたのに、それは次第に輪郭を
持ち始める。
カチカチカチッ。
歯の音がする。紅花のものじゃない。輪郭を持ったことで、アレ
に口が形成された。それが、並びの悪い歯を打ち鳴らしている。
にゅにゅっと首が伸びる。胴体はなくただ靴箱から顔が伸びる。
それが、少しずつ紅花へと近づいてくる。
嫌だ、ここ最近、どんどん図々しくなる。
17
曖昧なもやみたいなものが、どんどんリアルに形作られていく。
カチカチ音を鳴らしながら、紅花の顔を覗き込む。
ヤメロ、あっちへいけ。
声を殺すので精いっぱいだ。
だめだ、叫んじゃダメ、と言い聞かせる。
平静を取り戻せ、そういう場合、どうすればいい。
次第に、細長い身体は紅花に巻き付くようにしていた。
触れるか、触れないかぎりぎりの位置。
触れたところで問題ない。あいつらは実在しないのだから。
ごくりと唾を飲みこみ、ぎゅっと唇を噛む。
コレは実在しない、あるわけないものだ。
頭の中で反すうしたときだった。
とんっと、肩に重みがかかった。
﹁っ!!﹂
顔の筋肉と言う筋肉を駆使し、紅花はどんな表情を作っていたの
か明言したくない。とても乙女とは言い難い顔だったと、目の前の
人物の反応を見ればわかる。
﹁⋮⋮これはひどい﹂
18
そこにはまた、魚臭い少年がいた。そっと天井を仰ぎ、十字を切
り今見たものをなかったことにしようとしている。それだけひどか
ったらしい。
失礼な奴だ。
肩に学生鞄を抱えているところをみると、紅花と同じく帰るとこ
ろだろう。
紅花は、顔をかなりひどいものから、ややひどいものへと変える。
ぷうっと顔を膨らませそうになるが、大人げないので我慢する。
﹁なにか用なの﹂
なんだ、本当にこいつ。
またいきなり来て紅花を驚かせて。
むすっとしていたが、身体にからみつきそうになっていたアレは
消えていた。ほっとしながら、紅花はスポーツバッグを肩にかける。
﹁用がないなら帰るわ﹂
﹁あっ、ちょっと!﹂
日高少年が、紅花を引き留める。なに、っと剣呑な顔をして紅花
は振り返る。
﹁気を付けてね﹂
なにがよ。
19
紅花はローファーを履くと、玄関を出た。アレがこの上にいたと
思ったら気持ち悪いけど、裸足で帰るわけにはいかない。
﹁やっぱり若ママ呼ぼう﹂
思わず口にして携帯を取り出した。
あれ?
さっきまで電波は良好だったのに、今は圏外だ。いぶかしみなが
ら、紅花は歩きはじめる。少し移動しても、アンテナは立つ様子は
ない。
おかしいなあ。こんなに電波悪かったっけ?
紅花は歩きながら首を傾げる。
外ではいろんな掛け声が響き渡っていた。
校庭では野球部とサッカー部が練習していた。テニスコートも新
入生らしきジャージの子たちが借り物のラケットで素振りをしてい
た。
前の学校でも見た光景だが、紅花にはそれはとても遠く感じた。
一枚、薄い膜のようなものがあって、触れようとするとそれが肌に
まとわりついて近づけようとしない。 そんな壁があった。
20
紅花は興味ないふりをして歩き続ける。
自転車置き場を通り過ぎても圏外のままだ。校門までに電波がな
いようなら、玄関のところまで戻らなきゃと思っていた。
あれ?
見たことのあるシルエットが見えた。
耳がぴくぴく動いている女生徒だ。お昼に織部先生から紹介され
た千春さんだった。木の下に立っていて、手招きしている。
紅花はどうしたのだろうと近づいていく。
にこやかに笑うおさげの少女は、手招きするともう一つの手でど
こかを指さしている。そのまま歩きはじめる。付いて来いというこ
とか。
織部先生と違って千春さんの足音は静かだった。あの蹄で音を立
てないなんて、舞踊でも習っているか、それとも忍者のどちらかみ
たいな雰囲気だ。
織部先生か誰かが用でもあるのだろうか。
紅花は歩く。
携帯はまだつながらない。
部活動の練習風景は少しずつ遠ざかる。
校舎の脇をすりぬけて、千春さんが止まった。そして、こっちこ
21
っちともう一度手招きする。
一体なんだろうと、紅花は近づいた。
あれ、と違和感に気が付く。
校舎の裏側を通っていたので気が付かなかったが、出たのは見た
ことがある場所だった。昼間、通った渡り廊下が見える。
そして、千春さんの横には、緑色に濁った池があった。
なんで、こんなところに連れてくるのだろう。
紅花は、全身がむず痒くなった。小さな視線の針に何度も突き刺
されている気がする。
何かがあるわけではないのに、何かを感じている。
それが、紅花をからめとり、動けなくする。地面に縫い付けられ
たように、足が動かない。
運動部の掛け声は聞こえるのに、それはとても遠く、この空間だ
けきれいに切り取られたようだ。
誰も来ない。
誰も気づかない。
まるでそう言う場所におびき寄せられたみたいで、嫌だなと千春
さんを見た。
22
千春さんはにこやかに笑っていた。耳をぴくぴくさせて、なぜか
生臭いにおいを発していた。
!?
違和感に気づいた。
なぜ、彼女は一言もしゃべらなかったのだろう。なんで、足音を
させていなかったのだろう。
気づいたが、もうおそかった。
ああ、もう駄目だ。
アレにもう見つかっていた。
アレは紅花を見逃すつもりはない。
アレは紅花をつかまえていた。
またいつも通り、紅花に残されたのはバッドエンドしかない。い
や、今回は誰も助けに来ないだろう。いつもなら、姉や兄たちに連
絡をして、最悪の事態は避けていた。
今回はそれがない。
千春さん、いや千春さんに似せた何かが大きく口を歪める。中か
ら乱杭歯が見えてかちかちと音を鳴らす。涎とも粘液ともいえない
液体が口からあふれ出し、糸を引いて落ちる。
眼球が一気に濁り、ぐるぐると回転する。
23
化け物と形容しないで、なんといえばいいのだろう。
人と異なる姿をする人外だが、人外のそれとはまったく違った。
狂ったように指先を動かす手が伸びる。
逃げたいのに、逃げられない。
恐怖と不可視の力が働いて、がたがたと震えることしかできなか
った。
化け物が大きく口を開く。開いただけでは飽き足らず、両側の頬
が裂ける。
いただきます、といわんばかりの涎を垂らし、紅花の頭に食らい
つこうとした。
その時だった。
学生鞄が見えた。特に教科書も詰まってなさそうな薄いもので、
それが紅花の眼前を通り過ぎた。
まるでバットを素振りするように、鞄がきれいにスイングされて
いた。
そして、化け物は吹っ飛んだ。
あっけなさ過ぎた。
﹁っ!?﹂
24
この反応は、今日で三度目だ。一回目、二回目同様、唐突に現れ
たのは奴だった。
猫っ毛をふわふわ揺らし、日高少年が鞄を振り回していた。
﹁うわっ、なんかついた﹂
ぶん殴った鞄の角を見ながら、少年は言った。まるで、血を吸っ
た蚊を叩き潰したような感想だった。
一体、なに?
吹っ飛ばされた化け物は地面に倒れていた。
ぐちゃりと形を崩し、不定形の何かがちりぢりになっていく。
アメーバのようなそれは、日高少年を恐れるように避けて逃げて
いく。
なんでこんなものを怖がっていたのか、紅花は不思議で仕方ない。
金縛りが抜けて、紅花はがくっと地面に座り込む。
﹁変形菌の一種だね。一つ一つは弱いけどかたまってモンスター化
したら、ネズミなんかも襲うんだ。あんなに大きいのは初めて見た。
しかも、さっきのは幻術使っていたかな。業者呼んで駆除してもら
わないと﹂
日高少年はゴキブリ相手みたいに言ってのける。先ほど、紅花を
食べようとしたものを。
25
﹁もっと知性が低いものだって思ってたんだけどなあ。新発見だね
え﹂
面白いなあと、日高少年は落ちていた小枝を拾い、必死に逃げる
スライム状のなにかをつついて遊んでいる。その背中には、見慣れ
ぬものが揺れていた。
大きめのシャツがだらしなくスラックスから出ていると思ったら、
そのついでに長くてシマシマのものが動いていた。白と黒のそれは
日高少年の髪の毛と同じように揺れていた。
道理で猫っぽいわけだった。
猫型の獣人、山羊に比べたらいくらかポピュラーな種族だ。
魚ばっかり食べているわけだ。
尻尾がメトロノームのような動きをしているのを見ていたら、だ
んだん紅花の心も落ち着いてきた。
顔を上げ、少年を見る。
﹁⋮⋮助けてくれて、ありがとう﹂
素直にお礼が言えるくらい落ち着いている。
﹁どういたしまして﹂
日高少年はアメーバいじりに飽きたのか、鞄から鰹節を取りだし
口に入れる。
26
そして、満足そうに目を細めた。
﹁どうして、助けてくれたの?﹂
違うな、聞きたいのはそんな質問じゃなくて、もっと具体的な話
だけど、混乱しているのか上手く口が回らない。もどかしくて仕方
ない。
﹁フラグが見えたから﹂
意味が分からない答えが返ってきた。
ふらぐ?
どういうことだろうか。
紅花が首を傾げているのに、日高少年はそのまま続ける。
﹁山田さんの死亡フラグが見えた。だから、助けた。それだけ﹂
死亡フラグ、とても不吉な言葉だ。
そうだ、フラグとはそういうことか。
紅花がいつも見るアレ、アレを日高少年の言葉で言えばフラグと
いうのだろう。
思い返すと、少年が紅花に声をかけたのはアレ、つまり死亡フラ
グが見えたときだった。
27
ドクンと、紅花の心臓がはねる。
﹁山田さんも見えているんでしょ。自分のフラグがさ﹂
見えている。
もう何十回も見ている。
そして、十数回回避できずにいた。
﹁ねえ? 山田さんももしかして人外?﹂
紅花はそれに即答できない。できれば、黙っておきたいというの
が、紅花の意向だ。
ずっと普通の人間がやりたかった。
けれど、できなかった。
﹁人外だったら、どうする?﹂
紅花は、質問を質問で返した。
相手はどうでるのか、それを確かめたかった。
そうでないといけない、自分のような人外には友だちはできない。
できたとしても、すぐ友だちじゃなくなる。
普通の人は、日常を好む。
非日常の紅花が混ざったところで、それは荒波にしかならない。
28
誤魔化したところで、すぐばれる。もって一年、早ければ一か月。
紅花が前の学校を転校した理由、それは死亡フラグを見たからだ。
そして、回避出来なかった。
山田紅花、十二歳と十か月。
通算十七回の死亡記録を持つ中学生である。
ゆえに、他人の接触を避けて生きてきた。
29
2、山田家のおとなりさん
アレを初めて見たのはいつだったろうか。
ホンファ
若ママが言うには、よく何もない壁を見て泣いていたというので、
赤子の頃からかもしれない。大体、そのあと、紅花は危ない目にあ
っていたという。
それが、何なのか、家族にもわからなかった。いわゆるオカルト
方面ではけっこう有名な家族である山田家なのだが、生憎、心霊方
面ではからっきしだった。
霊感皆無、そんな家に生まれなかったら、もう少し紅花の状況は
変わっていたのかもしれない。でも、今こうして生きているのは、
この家の子どもに生まれたからだ。
生まれていなければ、もうとうにこの世にはいなかっただろう。
それだけ、紅花の人生は死と隣り合わせのものだった。
ホン
﹁紅ちゃーん、起きてるー?﹂
紅花は、そんな声で目を覚ました。
30
もう少し眠っていた気持ちも強かったが、呼んだのが若ママだっ
たので緩慢な動きでベッドから降りる。
部屋の隅には、まだ、片付けを終えていない荷物が散らかってい
る。私物が詰った段ボールを見ていたら滅入るが、台所の食器に比
べたらマシだと言い聞かせる。
﹁おきてるー﹂
寝ぼけた声で返事する。
身体をふらふらさせながら、段ボールのガムテープをはがす。中
身を引っ掻き回し、お目当てのワンピースを見つけるとそれに着替
えた、
ドレッサーに座り、軽くブラシをかける。髪の毛のはねを指先で
ちょんと押さえながら、スプレーをかける。
顔洗わなきゃ。
ガチャっとドアを開けると、廊下には癖のある黒髪の男が眠たそ
うに歩いていた。
うげっ。
思わず歯茎をむき出していた。
﹁うげって何なのかなあ、傷つくなあ﹂
金色の目を細めて奴が言う。欠伸していて、とても傷ついた表情
31
には見えない。
﹁働きもせず、家でだらだらする成人男性を見ての感想よ﹂
﹁残念だねえ、今日は土曜日なんだよねー﹂
嫌味な言い方をする。本当に腹が立つ。もう少し、大人な態度で
接することはできないものかと、紅花は思う。
紅花には、兄弟がいる。姉が一人と、兄が三人だ。これはその中
の一番下で、普段、愚兄と呼んでいる生き物である。
﹁そっちこそなに? 早速、学校サボリ?﹂
﹁残念でしたー、今日は土曜日でーす﹂
二人の間に険悪な空気が漂う。こういう場合、不肖の兄であろう
と兄として、妹をいたわるべきじゃないだろうか。しかし、それが
ない。なんて大人げない。
しばしにらみ合い、どちらがその空気を先に壊すかという勝負に
なった。しかし、それは長く続かない。
﹁紅ちゃーん。おきてるのー?﹂
若ママの声が下から響いている。吹き抜けを覗き込むと、中華鍋
を持ったエプロン姿の女性が首を傾げている。まだ若く二十歳をこ
えたくらいにしか見えない。若ママと呼んでいるが、本当に産んで
くれたわけじゃない。
﹁あっ、由紀ちゃーん。僕、起きてるよー﹂
﹁ちょっ! 愚兄、なに代わりに返事してるの! 若ママ、起きて
32
る、いま、今行くから﹂
愚兄の声が気持ち悪い。いつもそうだ、若ママの前だけいい子に
なろうとする、いい年齢したおっさんが。
見た目は二十代前半に見える男だが、愚兄は織部先生と同級生だ
った。そして、若ママもまた、織部先生と同級生で、つまり愚兄と
若ママもまた同級生である。
顔をそそくさと洗ってから、スリッパの音をパタパタ立てながら
階段を降りる。
エントランスでは、三つ首の猫がごろごろお腹を見せて誘ってい
た。いつもなら散々触って撫でてやるところだが、今日はちょん、
ちょん、ちょんと三つの顎を撫でるだけで留まる。
ケルベロスに似てまったく違うこの生き物を、山田家ではニャーベ
ラスと呼んでいる。名前は、その色合いからとってミケ、いたって
古風だ。
﹁若ママ、おはよう﹂
﹁おはよう、紅ちゃん﹂
若ママは両手に大皿を持っていた。その上には山盛りの炒飯がの
っている。一皿につき、お米を一升、卵を一パック使っている山田
家特製炒飯だ。
その後ろにはぴったり愚兄がくっついていて、お手伝いをアピー
ルするように丼になみなみと注がれた中華スープを持っている。
くっ、顔を洗っている間に出遅れたようだ。
33
﹁ごめんね。お休みなのに。今日はちょっとご近所さんに挨拶しに
行くんだけど、紅ちゃんもついてきてくれる?﹂
少し眉を下げて、若ママが言った。
﹁うん、わかった。服はこれでもいい?﹂
﹁ええ、可愛いわ﹂
ふじお
﹁僕はスーツに着替えたほうがいいかな?﹂
﹁不死男くんは留守番ね﹂
若ママがばっさり斬る。けっこう悪気なく若ママはそういうこと
を言うのだが、本人には自覚がないし、なによりいい気味なのでい
い。
愚兄の名前は不死男で、若ママは由紀子という名前だ。紅花はあ
まり家族を名前で呼ぶ習慣はない。皆、年上しかいないせいだろう。
紅花は椅子に座ると、﹁いただきます﹂と手を合わせた。レンゲ
を取りぱらぱらの炒飯を口に入れる。
出来立てで卵もご飯もほろほろしていて、ネギと焼き豚が香ばし
くて美味しい。
﹁やっぱり、ガスがいいわね。火力が違うのもの﹂
前住んでいたところは、ガスじゃなくて、IH調理器だった。ク
ッキングヒーターはそれなりに便利だけど、若ママの好みじゃない
らしい。
引っ越してきた家は、学校から通学一時間のところにある。少し、
出ればすごく都会だけど、ちょっと離れたらかなり田舎、そういう
34
場所で、家の周りには田んぼや畑が広がっている。
雰囲気としては嫌いじゃないけど、少し物足りないと思う。最寄
りの駅は自転車で十五分もかかる。
でも、そんな田舎に引っ越してきて、若ママは妙に嬉しそうだっ
た。
若ママは昔、この辺に住んでいて、その時に東都学園に通ってい
たそうだ。
﹁案外変わってなくて、逆にびっくりしちゃった﹂
引っ越し当日、衣装箪笥を片手に抱えて若ママが言っていた。そ
れを見た引っ越し業者さんは目を丸くしていた。
普通の人には変かもしれないが、山田家には日常の光景だ。勿論、
普段の若ママならそんな相手を驚かせる真似はしないのだけど、ち
ょっと気分が浮かれていたのかもしれない。
﹁若ママ、お隣さんってあるの?﹂
﹁あるわよ、五百メートルくらい離れているけど﹂ そういう若ママの顔は少し気まずそうだった。なにかあるのだろ
うかと思ったが、若ママが言わないのならそれでいいと、中華スー
プを飲む。足元でミケが紅花の膝をぽんぽん叩いて、何かくれとお
ねだりしていたが、生憎、炒飯もスープもネギが入っているので諦
めてもらう。
﹁そうだ、紅ちゃん、学校どうだった?﹂
35
話を変えるように若ママが言った。
﹁うん、なんとかやれそう﹂
うそつきだと、自分でも思う。
今、紅花は嘘をついた。若ママに嘘をつくのはとても心苦しいけ
ど、楽しそうな若ママを悲しませたくない。
昨日のアレがまったく無事なわけない。
さっそくモンスターに遭遇するなんて。
モンスターとは、動植物の中でも現代科学ではまだ不明瞭な能力
を持つ生き物を指す。また、現代科学で説明できても、長い間、神
話や伝承の中で語り継がれてきた生き物も同じように分類される。
ケルベロスやユニコーンなどその典型だ。
ニャーベラスのミケもモンスターに分類される。
数世代前は普通のケルベロスだったらしいが、なぜか品種改良を
したわけでもないのに、三つ首の猫になったのかわからない不思議
生物だ。
動物病院にワクチン打ちに行くと、いつも獣医さんに首を傾げら
れる。
世の中、よくわからないことはたくさんある。
﹁じゃあ、食べ終わったら行きましょうか﹂
﹁わかった﹂
36
炒飯はそのあいだに半分の量になっていた。愚兄はすでに食べ終
わり、若ママにお片付けをアピールしたところで、居間のテレビを
つけた。
テレビでは、深刻な顔をしたレポーターが連続殺人事件の現場を
レポートしていた。悲しい事件、まだ犯人は見つからないと言いな
がら、面白おかしく煽っているように見えるのは気のせいだろうか。
ミケは愚兄の膝の上に座り、ゴロゴロと三つの顔を摺り寄せてい
る。愚兄は面倒くさそうに手を伸ばして、猫用おやつをとって手の
ひらにのせる。
﹁⋮⋮﹂
紅花はその様子を見て、昨日の彼を思い出した。
日高、日高颯太郎と言っただろうか。猫型の獣人である彼は、紅
花と同じものが見えていたようだ。
紅花がアレと呼ぶものを、日高少年は死亡フラグと言った。
あのあと、日高少年はその気配を感じなくなったようで、いつの
まにか紅花の前から消えていた。
休み明けにでも、もっと詳しく聞かないと。
死亡フラグについては、帰る途中、携帯で検索した。ちょっと日
高少年の言っているのと少し違う気がしたけど、意味としては通ら
ないこともない。
このことは、若ママに話しておくべきかなと思ったけど、そうな
37
ると絶対、昨日のことを話さないといけない。なので、すごく迷っ
ていた。
そんなことを考えながら黙々と炒飯を食べていると、呼び鈴の音
がした。ちょうど皿が空になったので、紅花は立ち上がる。
若ママは洗いもの中で、その横で邪魔そうに愚兄が立っている。
﹁若ママ、私でるね。愚兄、邪魔だ。離れろ﹂
パタパタと小走りにエントランスに出ると、玄関を開ける。
するとそこには大きな段ボールが立っていた。
いや、大きな段ボールを抱えた誰かが立っていた。中には、みず
みずしい野菜が入っていた。
ぴょこんと栗色の寝癖が見えた。
﹁どなたですか?﹂
﹁お隣の日高と言います、ご挨拶に来ました﹂
そう言ってアーモンド形の目がこちらを見ていた。その後ろで、
にこにことしたおばさんが立っていた。
﹁まさかお隣さんだとは思わなかった?﹂
38
にこにこ笑いながら、日高少年はミケと遊んでいる。遊んでいる
というか遊ばれているというか、中庭で転がりながら、まさにキャ
ットファイトをしていた。
月に一度入っていたハウスキーパーさんの手入れがいいのか、芝
生は青々としていた。急きょ、刈りそろえられたため、服が緑色に
染まっていたが、少年もミケも気にしていないようだ。
少年の後ろにいたおばさんは少年の祖母だという。山田家の家系
も年齢不詳が多いが、日高家もその系統かもしれない。ただ、少年
の祖母というには、全然、猫っぽくなかった。
出迎えるなり、若ママがやってきてとてもびっくりした顔をして
いた。﹁久しぶり﹂と日高家のおばさんが言ったのを聞いて、目を
潤ませていた。
以前、こっちに住んでいたと聞いたのでそのときの知り合いなの
かもしれない。
少年は荷物持ちとしてきただけだし、紅花は若ママからちょっと
外に出てくれないと言われた。愚兄が残っているのに、自分だけ追
い出されたので少し気分が悪いけど、紅花がいたら進まない話なの
かもしれない。
仕方なく、中庭で読書でもしようかと思っていたら、少年がミケ
と乱入してきたのだった。
﹁日高くんって、もしかして先祖返り?﹂
文庫本を片手に、ロッキングチェアを揺らしながら紅花が言った。
39
﹁ううん、ハーフだよ。母さんが猫又なんだ﹂
﹁ハーフって逆に珍しいね﹂
純粋な獣人はともかく人間の血が混じるとなれば、大体、先祖返
りが多い。獣人と人間の間には、遺伝的な差異が多く出生率が低い
ためだ。それでも、過去に接触があったため先祖返り等が起きるの
だが、その多くは耳など一部形質を受け継ぐのみに過ぎない。
日高少年にはちゃんと人間の耳が付いている。ハーフでも尻尾だ
けが現れたのだろうか。それとも偽耳という、混血の獣人特有のも
のだろうか。
人間に擬態するためか、もしくは人間の遺伝子が入ったためか、
時に耳の機能を持たず、形だけ人間の耳を持っている個体がいると
聞いた。その場合、本物の耳は髪の毛の中に伏せて隠しているらし
い。
猫又というと古くから伝承にある妖怪だが、ここでは猫型獣人の
一種を示す。海外ではワーキャットとか、ケットシーと呼ばれるこ
ともある。
﹁もしかして、昨日言っていた、死亡フラグが見えるって、猫又の
能力か何か?﹂
文庫本の文字をなぞることで表情を隠しながら、紅花は聞いた。
﹁これはちょっと別かな。おばあちゃんは人間なんだけど、そうい
うのがすごいんだ。多分、僕もほんのちょっとだけそれを引きつい
でいるんだと思う﹂
40
日高少年は、草まみれになったまま、ミケと鼻先をくっつけて信
愛の挨拶をしていた。乾杯の代わりに、ポケットからおつまみの小
袋入り小魚をとりだしてミケと分け合っている。二匹とも、尻尾を
ぷるぷるさせていた。
﹁多分、山田さんちがこっちに引っ越してきたの、それが理由じゃ
ないの?﹂
とぼけているようで、日高少年はするどい。
もしかして、昨日、ずっと紅花を追いかけていたのは、その事情
を最初から知っていたのかもしれない。
なんだろう、少し残念に思うのは身勝手なのだろうか。
﹁山田さん、はっきり見えないの?﹂
﹁そうね﹂
紅花が持つ力は曖昧だ。なにかが起こる前に、それに対して警告
のように異形の化け物が見える。ただ、それだけだ。どんなふうに
どこで起こるのかわからない。
それで行動を変えて回避できることもあるし、ないこともある。
ただ、その幻影はここ数年で特に強くなっている気がする。
﹁日高くんにははっきり見えていたの?﹂
少年は、二袋目の小魚を取りだし、ぽりぽり食べていた。
﹁なんか断片的なものだけどね﹂
41
ミケはぺろりと自分の口の周りを舐めると、顔を前脚で軽く洗っ
てどこかへ行ってしまった。
日高少年はそのまま芝生の上で大の字になると、空を見上げてそ
のまま寝息を立てた。
なんだ、こいつ。
他人の家の庭でいきなり昼寝を始めた。
起こすのも可哀そうだからそのままにしておくけど、ちょっとマ
イペースすぎやしないかと思う。
紅花はロッキングチェアを揺らしながら、文庫の頁をめくった。
紅花が呼ばれたのは、それから一時間くらいあとだった。日高少
年はまだ眠っているので放置することにした。
居間に入ると、なぜかぐるぐる巻きにされた愚兄を見つけた。ご
丁寧に猿ぐつわ付だ。縛り方から、若ママがやったものだと断言で
きる。どうせ話の腰を折り続けて、邪魔になったので処分されただ
けだ。
いつものことだ。
だが、それを憎々しげに日高祖母が見ている。
普通なら身内をそんな風に見ている人間に対して快く思わないと
42
ころだが、なんとなく一緒に美味しいお茶が飲めそうな気がした。
日高祖母は紅花に気が付いたようで、こちらに頭を下げる。
﹁事情は聞いたわ﹂
紅花はそっと若ママに背中を押され、若々しい少年の祖母の前に
立つ。
少年とはまったく似ていない。髪の毛は少しくせがあって、眉と
目元がきつい感じだ。ただ、少年の能力が祖母譲りだというのなら、
たしかに血縁なのだろう。
﹁少し触れていいかしら﹂
日高祖母の言葉に、紅花はこくりと頷いた。
指輪がはめられた左手は、少し皺があって綺麗にお化粧された顔
より少し老けて見えた。
これが普通の人間の老いなのだろうと、紅花は思う。
こげ茶の目が紅花をじっと見た。
それが数秒たったあと、日高祖母は深く息を吐いた。
﹁どう?﹂
若ママが心配そうな顔で見る。
日高祖母はゆるくカールした髪をかき上げた。
﹁どうもこうもないわ。てっきり、コイツと同じクチかと思ったけ
43
どそんなもんじゃなかったわ﹂
コイツと言いながら、見ていた先には愚兄がいる。愚兄は、ぐる
ぐる巻きのまま、シャクトリムシの動きをしていた。
﹁やっぱりそうなの?﹂
やっぱりと若ママは言った。
山田家にはやたら危険な目にあう生き物は他にいるが、それは少
し違ったものだった。
﹁ええ。なんていうか。見えないわ。見えないというか、そういう
未来は本来起きないの。でも、何かが介入していきなりその未来を
作っている感じ。うちの颯太郎が感じ取れたのは、その未来が起き
る直前だったからね﹂
意外と砕けた口調で日高祖母は言った。
﹁たとえばコイツの場合、座礁するために浅瀬を航行している船、
いつ沈没してもおかしくない。でも、この子の場合、何もない大海
原にいきなり海底山脈が隆起して船底を突き破るようなありえない
ことが起きているの﹂
﹁そんなことがありえるの?﹂
若ママの言葉に、日高祖母は頷く。
﹁ありえる。多分、由紀子ちゃんたちの範疇外だと思うけど。強い
て言えば⋮⋮﹂
44
少し戸惑ったように日高祖母が紅花を見た。
﹁呪いとか﹂
ああ、そうか。
紅花はとても納得した。
呪いと言われたらあの気持ち悪いアレがなんなのかしっくりくる。
少年のいう死亡フラグよりずっと。
﹁どうにかできない?﹂
若ママは悲痛な面持ちで言った。
日高祖母は首を横に振る。
﹁私は専門じゃないから。そういう伝手はないこともないけど⋮⋮﹂
少し目をそらしている。何か気まずいことでもあるのだろうか。
﹁かな美ちゃんには迷惑かけないから﹂
﹁⋮⋮やめておいたほうがいいわ﹂
﹁お願い﹂
日高祖母はかな美という名前らしい。
苦痛な面持ちのまま、メモ帳にペンを走らせ始めた。
﹁一応、アポはとってみるけど。一筋縄ではいかないところよ﹂
﹁ありがとう﹂
45
ぎゅっとメモを握りしめる若ママを見て、紅花はとてもうれしい
けど悲しかった。
日高祖母が帰ったのは三時を過ぎたころだった。朝食の炒飯はす
っかり消化してしまい、胃袋が食材を求めていた。
若ママが疲れているようなら出前でもとった方がいいかと思った
けど、こんな田舎までやってくるのかなと携帯をいじって調べる。
すると若ママがやってきて、紅花の前に座った。
﹁どうしたの?﹂
若ママは深刻そうな顔をして膝をついた。そして、ぎゅっと紅花
を抱きしめた。力強いけど、抱きつぶさないように加減しているの
がわかる。そんな優しい抱擁だ。
﹁どうして言ってくれなかったの? 昨日のこと﹂
紅花はびくっと震えた。
日高家の人たちと話している中でそれが出てきたのだろう。
紅花が黙っていても、日高少年が話さない理由はない。
﹁また、また死んじゃったりしたらどうするの?﹂
46
紅花の髪を撫でながら、若ママが言った。
﹁とても痛いってわかっているでしょ﹂
うん、わかっている。とても痛い。泣き叫びそうになる。
でも泣くこともできなかった。
手足を千切られ、腹を潰された。声すら出せなかった。
﹁とても怖かったでしょ﹂
大きく開く口に、血管の浮き出た太い腕。その胴体は肉塊の塊と
もいえた。
はらわた
自分の腕が今まさに食われようとしていた。もう片方の手には、
腸が握られていた。
ああ、もう駄目だと思った。
これで終わりだと感じた。
そんなときに、助け出された。
化け物に食われる直前だった。
﹁もう二度とあんな目にあいたくないでしょ﹂
あいたくない。
ずっとそう思っている。
47
けど、引き寄せてしまう。
どうしようもない因果が紅花の身に災難を引き起こす。
山田家にはそういう妙な体質の人間が多い。紅花の父もそうだし、
愚兄も同じタイプだ。
だけど、紅花の災難には一つの傾向があった。
﹁ごめんなさい﹂
その謝罪に対して、若ママは頭を撫でることで返した。
﹁もう二度とそんなことしない﹂
ゆっくりゆっくり撫でつけられる感触を心地よく思う。
ぐるぐる巻きにされたまま、猿ぐつわをしている愚兄がうらやま
しそうに見ているがそんなの知ったことではない。
﹁絶対、食べられたりしないから﹂
昨日の化け物は、紅花を食べようとしていた。
前の化け物、転校前に遭遇した奴も同じだった。
毎回、転校する前に、付近に変な人外やモンスターがいないかい
つも確認している。でも、紅花がやってきたら、まるでそういうも
のが吸い寄せられるようにやってきた。
その度に、家族たちが紅花を守ってくれた。
48
家族の中で一人だけ未熟な紅花は、その背に隠れて生きてきた。
本来なら学校に通うこともできないだろう、でも、なんとか通わ
せてもらっているのは家族の協力があってこそだ。
﹁絶対、あなたは私が守るから﹂
﹁うん﹂
ぎゅぎゅっと、紅花も若ママにしがみつく。
若ママはあったかくてとてもいい匂いがする。ずっとこうしてい
たいと思ったが、それはできそうになかった。
ぐるぐる巻きの上、猿ぐつわをはめられた義兄が立ち上がってじ
っと二人を見ていた。まだ、そんな格好をしていたようだ。
おい、そこ代われ、と紅花に目で訴えかけている。
どうやって立ち上がったかは知らないけど、ぴょんぴょんはねて
抗議している。あまりに同じ場所でジャンプするので、引っ越した
ばかりの家の床がぎしぎし軋む。
軋んだ挙句、底が抜けた。月一でハウスキーパーさんに入っても
らっていたけど、やはり人が住んでいない家は傷みやすいらしい。
﹁⋮⋮﹂
若ママは床が抜けたことに気が付くと、紅花からそっと離れた。
ハグ
愚兄の前に立つ。愚兄は興味をこちらに向けられたことで嬉しそう
に笑うが、もちろん待っていたのは、抱擁なる優しいものではない。
49
若ママは自分の背より十五センチは高い愚兄を抜けた底から持ち
上げた。持ち上げたのはいいが、いつもは細くて優しい腕なのにち
ょっと血管が浮き上がって太くなっている。
若ママ、掃除大変だったろうに。
一生懸命、お皿を戸棚にいれて、床も皆が使いやすいように丁寧
に雑巾がけをしていた。いまどき、雑巾がけを床に這いつくばって
やるなんて、小学校の掃除当番くらいだ。けっこうそういうのは、
若ママは古風だ。
その床を壊してしまった愚兄は制裁を受けねばならない。
一見、抱擁に見える抱き上げかたをされているが、若ママの腕の
力は強い。
そのまま愚兄の腰をぎゅうぎゅうと締め上げて、そのあとボキッ
っと音が響いた。
愚兄は二つに折れた。比喩ではなく、折れている。
パンパンっと、両手を叩きながら、若ママが床を見る。
﹁不死男くん、ちゃんとあとで直してね﹂
それだけ言うと、台所で洗い物を始めた。
なるほど座礁するために浅瀬を渡る船かあ。
50
妙なたとえに今頃納得した。
背骨を折られつつも、ちょっと幸せそうな顔をしている愚兄を見
て、やっぱこいつ気持ち悪いと、紅花はつくづく思うのだった。
51
3、学校の怪談
山田家の新居は、けっこう立派な洋館だ。新居と言っても、築百
年をこえた歴史ある建造物で、昔、海外にあったものを移築したら
しい。
ホンファ
それでもって、紅花が生まれる前は家族皆で住んでいたらしい。
今、ここに住んでいるのは紅花を含めた三人だ。
広さとしては十分だけど、できれば愚兄を始末して、若ママと二
人で暮らしたいところだ。
自転車で十五分くらいのところに駅があってそこから電車に乗っ
て学校へ行くのだけど、先週のことがあったので、紅花は若ママに
車で送ってもらっている。とても楽だ。
だけど、そこにいらぬ人物がいる。
﹁⋮⋮﹂
なぜか、後ろににこにこと日高少年が座っていた。鞄とともにク
ッションも持っている。
﹁ありがとうございます。ちょっと電車に間に合いそうになかった
ので﹂
﹁いいの、いいの。せっかくお隣さんだしね。この間もらったお野
菜、とても美味しかったわ﹂
52
日高家はあの辺一体の大地主だという。周りに見えていた畑や田
んぼやビニールハウスは大体、日高家のものらしい。
田舎に見えるとはいえ、通勤圏内に首都圏、飛び地は駅前にある
とのことで、見た目の地味さの割にけっこうなブルジョワだ。
﹁はい、母が持って行けと。お口に合えば幸いです﹂
とても賢そうな喋り方をしているが、身体は左右にぐらぐらと動
いていた。クッションをぽふぽふ叩いている。
うん、大体、こいつの魂胆がわかった。
﹁日高くん、しばらく時間かかるから、寝てたらどう?﹂
甘い甘い言葉を少年にかける。
﹁そんな、悪いよ﹂
そういいながら、少年はクッションを後部座席の端っこに置き、
靴を脱いでいた。
﹁せっかくのせてもらったっていうのに﹂
そう言いつつ、後部座席に横になり、欠伸をする。
しばらくしないうちに、寝息が聞こえてきた。
﹁⋮⋮図太いわね、こいつ﹂
ぼそっと紅花はつぶやくと、しばし若ママとのおしゃべりタイム
53
を楽しむことにした。
後ろのにゃんこ少年はいなかったものとする。
学校付近につくと、紅花は涎を垂らした少年を起こさなくてはい
けなかった。
少年はクッションだけ持ってふらふら歩きはじめるので、鞄を忘
れていたので無理やり持たせてやる。というか、靴下のままふらふ
らしている。靴も履かせてやる。
校門から少し離れたところで車からおろしてもらったので、離れ
て歩こうと思っていたのに。
ふらふら歩く少年は危ない。下手すれば、クッション顔に突っ込
んだまま、歩道から飛び出しかねない。
紅花は道路に飛び出しそうになる、少年を引っ張りながら学校に
行く羽目になった。
そして、紅花の苦労を余所に、少年は鰹節を寝ぼけながら食べて
いた。
なんでこんな奴に助けられたんだろう。
心底、不思議に思う紅花だった。
結局、学校の門をくぐるまで引っ張ってやった。
54
校舎内に入ると、どことなく消毒臭かった。多分、休み中業者が
入って、学校内にいる粘性生物を駆除したのだろう。
本当ならゴキブリ扱いの生き物なのに、どうして食われるまで何
もできないものか。
粘性生物は明らかに異常な強化をされていた。物理面ではなく、
他の要素で。でなくては、人に擬態して襲うなどという高度な能力
はないはずだった。
なんらかの呪いが発生していると言われたら、妙に納得がいくわ
けだ。
まさか呪いなんて思いもしない。
基本、理系が多い山田家では思いつかない話だ。紅花の体質につ
いては散々、科学的な面で検査してきたというのに。
実は、紅花はそのことをなんとなく気づいていたけど言いだせず
にいた。おそらく言っても上手く説明できなかったからだろう。
それでも、検査によってわかることはいくつかあった。
そこでわかったのは、山田家には特有のフェロモンがあり、特に
紅花はそれが強いということがわかった。しかも、何かの拍子でそ
55
れは急激に濃くなるという。
紅花がアレ、死亡フラグとも呪いともいう化け物の幻影を見たと
き、無視しようとしたのはそのためだ。
アレを認識すると、その濃度は極端に高くなり、呼び寄せてしま
う。
教室では、先に来ていた生徒たちがのん気に駄弁ったり、宿題を
していた。
少し早く来たかも。
紅花はちょっと後悔した。
机に座るなり周りをクラスメイトたちに囲まれた。
﹁山田さん、珍しいね、この時期に転入なんてさ﹂
気が強そうな女生徒とその取り巻き二人というところだろうか。
ちらちらと他の生徒たちがこちらを見ているのが気になる。
﹁うん、ちょっと家庭の事情で﹂
﹁でも、試験難しかったでしょ? ここ、それなりにレベル高いか
ら﹂
なんとなく値踏みされている気がした。
よくあることだし、女の子同士なら日常茶飯事だ。いつもどおり、
当たり障りのない返事をして、飽きるのを待つ。
﹁それでどこに住んでるの? 好きな芸能人とかいる?﹂
56
なかなか飽きないので困った。
あと五分ほどで、ホームルームが始まる。
質問ばかりするのに、その返事の内容にはあまり興味がないよう
だ。興味がない答え方をしているせいもあるだろうけど。
﹁ああ、もう時間になっちゃう。じゃあ、これ最後ね﹂
﹁うん﹂
ようやく終わるとほっと息を吐いた。
その次の瞬間、吐いた息がそのまま止まってしまった。
﹁朝、日高くんと一緒に登校してたよね﹂
﹁⋮⋮﹂
きゃっきゃっと女生徒たちが甲高く笑う。紅花の隣では、クッシ
ョンに顔を埋め、幸せそうな顔をする生き物がいる。
紅花の体質は普通の人間とは違う。けど、生まれてから十二年、
もうすぐ十三年になる精神的には幼い個体だ。
そういうわけで、そんな質問をされるとたとえそんなつもりはな
くても、どうしても慌ててしまうものだ。
﹁えっと! たまたま、たまたまだから﹂
﹁そうなんだ、ふーん﹂
にやにや笑うのやめて!
本当にやめて!
57
紅花の心の叫びがこだまする。しかし、それを面白い話の種を見
つけたうら若き女子中学生たちの耳に届くはずがない。
おい、こら! そこ寝るな! 弁明しろ!
紅花は、左の席を見たが、日高少年は涎を垂らしていた。きっと
お魚の夢でも見ているに違いない。
﹁おーいこらー、そこ。席に戻れ﹂
そんな真っただ中で、チャイムの音が鳴り響き、織部先生がポク
ポクと教室に入ってきた。
なんでもっと早く来ないんだよ、とどうしようもない悪態をつき
ながら、先生に礼をした。
紅花の性格は元々内気というわけじゃない。むしろ、気が強い方
だと思う。
だけど、その性格はここ数年で変わりつつあった。
度重なる転校の繰り返しは、このお年頃の子どもにはけっこう影
響がある。昔は、自然に作れていたものも、今では作れずにいる、
いや、作らない方向でいる。
いつ、何時、なにかに襲われる可能性を持った紅花にとって、友
だちを作ること自体危険が多いとわかっている。
58
朝の続きを休み時間にやられてはたまならいと、紅花はトイレに
駆け込むことにした。もちろん、本当に駆け込むわけでなく、あく
まで優雅にしゃなりしゃなりと歩くのだ。
そこのところは女の子だ。
個室に入るなり、ふうっと大きく息を吐く。
なにをするわけでもなく、携帯をいじる。
一応、学内では使用禁止だけど、そんなこと気にせずに使ってい
る生徒もいる。適当にニュースサイトを見て時間を潰そうと、紅花
は思う。
あっ、まだ、あってるんだ。
あるニュース記事でスクロールを止める。連続殺人事件を面白お
かしく報道するニュース番組をどうかと思うけど、こうやって興味
をひかれて見ている時点で紅花も同罪なのかもしれない。
海外ではよくあるシリアルキラーもどきの連続殺人だった。
被害者は若い女性ばかりで、専門家は勝手なプロファイリングを
して民衆を混乱させている。
テレビでは細かく殺害方法について話してなかったのに、こちら
では事細かくでていた。女性は皆、首に毒物を注入されて殺され、
その後、綺麗に着飾られて化粧まで施されているという。
うわー、と紅花が顔を歪める。
59
犯人の嗜好もさることながら、これ、絶対内部の人間漏らしてる
だろ、という記事内容にだ。
不祥事事件が減らないわけだわ、と思う。
そして、その関連記事をたどる紅花も紅花もだけど。
そういうわけで、休み時間はあっという間に終わる。
お昼は、前回と同じく文芸部の部室を貸してもらうことにした。
今日は、織部先生はいなかったが、千春さんはいた。
﹁こんにちはー﹂
﹁こ、こんにちは﹂
思わず声が上ずってしまった。先週出くわした化け物を思い出し
てしまう。
彼女には全く非がないのに申し訳ない。
﹁すみません、ちょっと握手してもらえませんか?﹂
﹁えっと、いいけど?﹂
ぎゅっと右手? いや、右前脚を掴むと、しっかりした蹄の感触
がした、うん、本物だろう。
安心しながら、長卓の上にお弁当箱を広げる。
60
今日は巻き寿司とサンドイッチだ。
千春さんは今日も野菜サラダを食べている。
ふと気になって千春さんを見る。
﹁もしかして私のためにここにいるんじゃないですか?﹂
紅花は、恐る恐る聞いてみる。
﹁別に、ここならすぐ、原稿ができるもの。そういうわけじゃない
わ﹂
さっさと山盛りキャベツを食べ終わった千春さんは、ノートパソ
コンを起動しはじめた。パソコンに山羊の形のシールを貼っている
ところをみると、私物らしい。
﹁それに、面白いものもここからだとよく見えるの﹂
くすっと笑って、千春さんは蹄で窓の外を指した。場所が三階と
もあって外がよく見える。学園の後ろには森が広がっていて、そこ
へと続く裏門がある。
﹁この学校、けっこう古くて面白い建築物とか移築してるから、変
な怪談が多いの。敷地も広いから、この時期、新入生は探検したが
るのよ﹂
早速、裏門を抜け出そうとする生徒を発見する。
恐る恐る錆びかけた鉄格子をよじ登ろうとしていたが。
61
なにか物音でもしたのだろうか、急に裏門から一目散に逃げてい
った。
﹁?﹂
どうしたのだろうかと見ていると、裏門近くの木からなにかが飛
び降りた。一瞬、猫かと思ったが、じっと目を凝らすと人型をして
いた。
色素の薄い髪がはねているのがここからでもわかる。欠伸をして
いるようだ。
﹁でも大体の子は、裏門出る前に驚いて帰っちゃうみたいなのよ﹂
﹁そのようですね﹂
木から降りてきた人物に、心当たりがある気がしたけど、とりあ
えずスルーすることにした。
よく若ママが言うには、思春期のどうしようもなく冒険心のあふ
れた人間を見たら目を合わさないほうがいいらしい。
理由としてはあとで﹁そんなつもりはなかった﹂、﹁こんなこと
になるとは思わなかった﹂と浅はかな証言をする羽目になるらしい。
そしてまた、中学一年生と言えば、そのお年頃であり、浅い人生
経験ゆえか、自分のできないことはないという妙な自尊心が芽生え
62
ている面倒くさい人種がこのクラスにもいるようだった。
﹁なあ、掃除終わったら裏の森探検しようか﹂
大変面倒くさいことをホームルームのあとに言ってくれる男子生
徒Aくん。
﹁あっ、あれだろ。何か出るって話のやつだろ。森に入ろうとする
と、なんかうめき声が聞こえるって話聞いた﹂
ご丁寧に状況説明をしてくれる男子生徒Bくん。
﹁ちょっとやめなよ、そういうの。怒られるよ﹂
﹁そうよ。なんかあっても知らないから﹂
女子生徒A、Bよ。知っているだろうか、そういう台詞はむしろ
あおるということを。
﹁なんか面白そう﹂
﹁おっ、来る?﹂
そこのゆるふわガーリー系女子生徒Cよ、燃料をそそがないでく
れ。
こういう物の考え方に至るところは、若ママに似たのかもと紅花
は思う。話に混じらない、第三者の立場が一番楽だ。
ああ、第三者のままなら。
紅花は机を移動しながら思った。今日から、紅花も掃除当番に参
63
加している。教室の窓側の席、二列が今週、教室の掃除だ。
﹁ねえ、山田さん、一緒に放課後回らない?﹂
男子生徒Bが誘ってくれるが、正直、やめてほしい。
﹁ごめんなさい。うち、迎えに来るから﹂
﹁えー、山田さん、来ないの? ぜったい、面白いから﹂
男子生徒Aが言う。
それでもってその反応にゆるふわガーリーがむっとしているのが
見えた。
﹁なんかあっても俺に頼ればいいよ﹂
ゆるふわガーリーにそう話しかけるのは新キャラの男子生徒Cで
かっこつけている割には、三枚目だ。ゆるふわガーリーはじっと男
子生徒Aを見ている。
なんかこの三分間で、妙な関係性が浮き彫りになったと紅花は思
った。なんとなく男子生徒Aとは特に距離をとっておこうと思う。
しかし、優等生ぶっていた女子生徒A、Bよ。何気に話に混じっ
ていて、全然手を動かしていないのはどういうことだろうか。
結局、その他のみなさんと机を運んでお掃除を済ませたわけだ。
ちなみに、日高少年ははたきを持っていた生徒にからんでいた。猫
じゃらしに見えたらしい。
64
そんなわけで、第三者の紅花は、そんな冒険心あふれる人たちと
は一線引いて、普通に帰る︱︱、予定だった。
﹁つーことで、メンバーはこれでいいな﹂
リーダーシップをとる男子生徒Aの周りに参加メンバーが集まる。
待ち合わせは裏門の前で、昼休みに紅花が見た場所だった。
不思議なことに、その中に紅花と日高少年もいた。
実に不思議な話だ。
なんでここにいるのだろう。
その理由については、十五分ほど前のやり取りを思い出す必要が
あった。
﹃ごめんね。ちょっと、遅れそうなんだけど大丈夫?﹄
﹁うん、平気だよ。それより、事故に気を付けてね﹂
そんなやりとりを携帯でした。
若ママは交通渋滞にはまったらしい。ここらの交通網は、この時
65
間混みやすい上、玉突き事故があったという。
ネットニュースで見る事故の規模を見ると、一時間は遅れるだろ
う。
玄関で待っていると、またアレに遭遇しそうなので、まばらに人
がいる食堂あたりで待っていようと思っていたら、日高少年に会っ
た。少年は食堂でライスに鰹節をかけて食べていた。横に焼き魚の
皿があるが、こちらは先に食べてしまったらしい。小柄だが、少年
も食べ盛りなのだろう。
﹁あっ﹂
少年は紅花に気が付くと、陽気に手を振ってきた。
しかも、ご丁寧に紅花が座った席の斜め前に移動してくる。
紅花は黙々と携帯をいじっている。充電がもう切れかかっている
ので、充電しながらパズルゲームをする。
周りはまばらなので、特に言われることはないだろう。
そういえば、コイツ、帰りはどうするのだろうかと余計なおせっ
かいが芽生えた。
﹁帰りどうするの?﹂
﹁帰りかあ、電車は何時だったかな﹂
携帯で時刻表を調べながら、ちらちらと紅花を見ている。
いや、そんなに見られても。
66
紅花は眉を歪めた。
﹁なに? 言っとくけど、うちのお迎えは一時間以上待つから。普
通に帰ったほうが早いから﹂
前もって言っておく。正直、近くに座っているだけでも落ち着か
ない。早くどっかいってほしいけど、彼はもぐもぐ猫飯をかきこん
でいる。
﹁そうなの。だったら、山田さんちょっと付き合ってくれない?﹂
﹁はあ?﹂
少年は茶碗の中身をかきこむと、ごくんと飲み込んだ。ただ、喉
に詰まったらしく、胸をどんどん叩く。
紅花は慌ててヤカンを持ってくると、湯飲みに麦茶を入れて渡し
た。
﹁ふうっ、助かったよ﹂
﹁ごはん粒ついてるよ﹂
ちょんちょんと唇の横を指して見せる紅花。
﹁おっ、ありがとー﹂
少年は猫のようにぺろりと舌を一周させて、ご飯粒をとった。そ
れから拳を使って顔を洗っている。
これは、本当に猫だなあとつくづく思う。
67
﹁暇だったら、裏の森、行こうよ。さっき皆が騒いでたでしょ﹂
﹁行かないから。そんなの、危ないでしょ﹂
紅花は目をそらしていった。
そんなもの、死亡フラグを自分から立てに行くようなものじゃな
いか。何、言っているのだろう、コイツと思う。
しかし、日高少年は懲りない。
﹁うん、危ないよ。でも、そういう危険を乗り越えないと人とは成
長しないものだ﹂
冗談めかして少年は言った。そして、空になった食器を持って立
ち上がると、紅花に近づいた。
﹁じゃないと、あの人たち死んじゃうから﹂
少年はぼそりと、紅花の耳元で囁くと、そのまま食器を返しにい
った。
なによ、あいつ。
紅花は食堂のテーブルに突っ伏して、来なきゃよかったと猛烈に
後悔した。
そして、その後悔は今に至る。
68
なんでここにいるんだろうな、私。
紅花は何度も自問して、そして答えが見つからずに終わる。
日高少年以外は、なぜ紅花が来ているのか不思議そうに見ている。
特に、ゆるふわガーリーは特に見つめている、にらんでいると言っ
てもいい。
﹁五時半になったら帰るから﹂
それでもあと一時間はある。
それまでなにも起きなければいいと紅花は思いつつ、日高少年に
こっそり耳打ちした。
﹁ねえ、そんな場所に行くって、大丈夫なの?﹂
﹁大丈夫じゃないよ、このままだと。でも、ここで止めたところで
大惨事になることはかわらない﹂
どこか魚臭い少年の目は、先を見据えていた。
淡い色の目には、どんな映像が見えているのだろう。
﹁私が行っても大丈夫なわけ?﹂
﹁大丈夫じゃないけど、死ぬことはないはず﹂
無責任な言い方だ。ここで、紅花は帰っても問題ないはずだ。な
のに。
﹁でも彼らのうち何人かは死ぬよ﹂
69
その物言いはずるいと思った。
門を抜けてすぐ森はある。なんの変哲もない雑木林で、地面には
柔らかい腐葉土が積もっていた。森をさらに抜けると、山がありそ
のためだろうか少し勾配がある。
﹁ねえねえ、この先になにがあるの?﹂
男子生徒Aに聞くのは、ゆるふわ女子生徒Cだ。
ほこら
﹁確か噂によると、古い祠があるらしいよ﹂
﹁へえ、そうなの﹂
可哀そうに男子生徒C、まったく気がない返事だ。
男子生徒Bは、女子生徒A、Bとともに歩いている。なんだかん
だいいながら女子生徒A、Bはすごく楽しそうだ。
日高少年はといえば、あれだけ脅すような口ぶりだったのに、海
老せんべいを食べていた。魚介類なら大体いいらしい。
正直、この中で一番気が重いのは紅花だ。たまに、女子生徒A、
Bたちが気を使って話しかけてくるがそれならこんな場所に来よう
と言わないでほしい。
70
それに日高少年はずいぶんのん気だが、本当にこの先死人がでる
ような場面に遭遇するのだろうか。雰囲気は、遠足のそれである。
そんな紅花の気持ちを感じ取ったのか、日高少年がまた耳打ちを
してくる。
﹁これから、僕が合図したら、僕の手を掴んで。そして、何があっ
ても離さないで。いい?﹂
﹁わかった﹂
本当はよくわからないけど、一度助けてもらった手前、話は聞い
ておこうと思う。
彼にどんなビジョンが見えているのか知らないけど、それが助か
る方法なんだろう。
歩いて十分もしないうちに、噂の祠らしきものが現れた。祠とい
うより小さな神社といったほうが正しいだろうか。ぼろぼろの切妻
屋根に、しめ縄がかろうじて引っ掛かっている。扉は空いており、
中は三畳ほどの広さがある。
﹁はいってみようぜ﹂
威勢のいい男子生徒A、だんだん面倒くさくなってきたので少年
Aで行こう。その少年Aが言った。
﹁なんか、怖いわ﹂
ゆるふわガーリーはわざとらしく少年Aにくっつく。少年Cがシ
ョックを受けた顔をする。
71
これといって紅花は怖いとは思わなかった。確かに木々に隠れて
薄暗いが、まだ明るいし、なによりアレの気配は感じなかった。
ということは、紅花の身は安全だと思う。
そんな中、何か獣のようなものが横切った。
はて、と見るとタヌキに似た生き物がいた。
﹁なにあれ、かわいー﹂
おいでおいで、と少女Bが舌を鳴らす。
タヌキ︵仮︶は、それを見て驚いて神社の中に入った。
﹁あっ、待って﹂
少女B、それにAが神社に入る。
﹁おい、先行くなよ!﹂
それに続いて少年Aとゆるふわが入っていく。その瞬間、なにか
が響くような音がした気がした。
﹁山田さん!﹂
日高少年はいきなり、紅花の手を掴むと、少年B、Cを押した。
そして、神社の中に入る。
72
中では少女Bがタヌキ︵仮︶を探していたが、見当たらないよう
だ。
床はぼろぼろで歩くと抜けそうな気がした。
﹁えっ?﹂
その瞬間だった。ばたん、とぼろぼろの扉が自然にしまった。
風のせいだろうか、紅花は扉を開けようとしたが、びくともしな
かった。
首を傾げたその瞬間だった。
みしみしっという音とともに、床の底が抜けた。
そして、抜けただけならよかったが、その下には井戸があった。
﹁山田さん!﹂
日高少年がもう一度叫ぶ。これが合図なのだろう、紅花は少年の
左手をしっかりつかみ直す。
日高少年の動きは早かった。さっきみたいに、少女A、Bを跳ね
飛ばした。二人は衝撃で壁にぶつかる。
少年Aの腕をしっかりつかみ、少年Aにはゆるふわがしっかり掴
んでいた。
合わせて百キロ近い体重に日高少年も井戸の中に引きずり込まれ
そうになる。
73
﹁きゃー﹂
ゆるふわの声がうるさい。石作りの井戸なので反響がすごい。
﹁はなさないで。はなさないで﹂
﹁なら、ばたつくな!﹂
少年Aが叫ぶ。
手を離せと言わないだけ優しいと思うが、ゆるふわにとってはそ
んな余裕はない。
﹁死にたくない! 早く引き上げてよ!﹂
日高少年は力を入れる、入れようとするが体重が引きづられて身
体の半分が井戸に入り込んでいる。 ﹁山田さん!﹂
紅花は、ようやく何をすればいいのか思い至る。日高少年の手を
離し、少年Aへと手を伸ばそうとしたが︱︱。
﹁僕ごと引き上げて!﹂
日高少年は手を離さないでと言った。
そのとおりに持ち上げようと、力を込める。
小柄な少年の体重も合わせて百四十くらいあるだろう。普通は持
ち上げられる重さじゃない。
でも︱︱。
74
﹁落ちる! 落ちる!﹂
﹁暴れんな!﹂
騒ぐ二人、壁に打ち付けられて放心している二人。
時間はなかった。
﹁行くよ!﹂
紅花は日高少年の身体に抱き着くと、そのままぐっと持ちあげた。
雰囲気としては、マグロ一本釣りに近い、それを紅花一人で、三人
を持ち上げた。
皆、唖然とする中、腕の中でみしりという感覚がした。
﹁っは!?﹂
やばい!
日高少年が唾を吐き散らす。その中に赤いものが混じっている。
しまった、加減を間違えた。
数日前、若ママが愚兄にやったことをはからずもやってしまった。
﹁早く、ここでよ⋮⋮﹂
放心から抜け出そうとする少女Aが言った。
少年Aもハアハア、息を吐きながらも扉を開けようとする。しか
75
し、開かない。
﹁おい! 開かねえぞ! どうなってんだ!﹂
叫んだところで開かない。ただ、井戸の中からひたすら生ぬるい
風が流れて来て、手招きをしているようだ。
ただの井戸であるはずなのに、皆は恐怖におののく。
紅花は不思議なくらい怖くなかった。ただ、それは慣れによるも
のかもしれない。おそらく一般人にとって畏怖の対象であるそれは、
紅花にとっては死を感じさせないものだったからだ。
例え、この井戸に落ちたとしても、紅花は生き残るのだろう、そ
う本能が感じ取っていた。
﹁⋮⋮﹂
ぺっ、と血を吐いた日高少年が何かを言った気がした。
紅花は苦しげな日高少年に罪悪感を覚えながらも、何を言ってい
るのか聞き取ろうと耳を寄せた。
﹁⋮⋮せろ、む⋮⋮﹂
よく聞き取れない、なんだ一体。
むじな
﹁失せろ、貉⋮⋮、食われたいか﹂
76
一瞬、ぞくっとするような低い声だった。声変わり前の少年とは
思えないすごみを帯びた声に紅花だけでなくその場の空気が凍りつ
いた気がした。
その瞬間だろうか。
開かなかった扉が開いた。それと同時に心配そうな少年B、Cと
目があう。
何があったのかと言われて説明できるものはいない。
唯一知っていると思われる日高少年は怪我をしていた。
彼を病院に連れて行くことが第一優先事項だった。
日高少年は病院に行き、紅花たちは織部先生にしっかり怒られた。
若ママにも怒られるかと思ったがそれはなかったのは、日高少年
が事情を説明してくれたからだろう。
彼があのとき、紅花に自分から手を離すな、と言った理由がわか
った。
日高少年はあばらを三本折る重傷だった。
獣人の彼は、それでも普通の人間より丈夫にできている。
77
もし、あのときあのまま少年Aの手を引き上げていたら、加減を
間違えた紅花は、手首の骨を粉砕していただろう。
そうだ、自分もまた普通の人間でないのだと深く痛感する。
それでも、深さ数十メートルの井戸に落ちたら、即死だったろう
と考えると、まだましだったろうが。
どうでもいい話だが、その後、あの井戸の底から無数の動物の骨
コドク
が見つかった。イヌ科やイタチ科の動物のものが多く、昔、変な術
者が蠱毒でも作ろうとしていたのだと推測された。
むじな
それでもって、貉というのはアナグマのことを言うらしい。
時に人を化かす妖怪として物語に登場する。
78
4、お見舞い
なんであんな真似ができるわけ?
ホンファ
むじな
紅花はむっつりしていた。その理由は先日の日高少年の行動にあ
る。
学校裏の神社で貉に化かされた。
神社の床に井戸があったのは、昔、枯れ井戸を利用して蠱毒を行っ
ていたらしく、そこで死んだ動物霊を祀るためだったらしい。それ
にしても、雑な造りに他ならない。
ゆえに、あんな風に数人乗っていただけで、床が落ちてしまう。
幽霊とかどうか知らないけど、そういう類は多分あるのだろうな
と紅花は思う。もっとも、子どもたちの悪戯での事故ともとらえら
れる。
そんなのはどちらでもよかった。
あれから数日、日高少年は学校を休んでいた。検査をして入院、
んでもって昨日帰ってきたと聞いた。
紅花の右手にはしっかり網目のメロンを主役とした果物の籠があ
った。紅花のおこづかいから買ったものだ。若ママはまともな金銭
感覚をつけるため、と中学生の月平均のおこづかいしかくれない。
79
出費としては、かなり痛い。
多分、事情を説明したら、若ママもお見舞いのカンパをしてくれ
ただろうが、これはけじめだった。
けじめゆえ、紅花は一人、五百メートル離れたお隣さんの家へと
向かうのだった。
普通、肋骨が折れて軽傷とはいえない・
少年に頼まれたとはいえ、自分がやったことに違いない。少年は、
二人を引き上げる際、井戸にぶつかって折れたと説明していたが、
あれは紅花がやった。
折れる感触が腕にまだ残っている。
力の加減は覚えたと思ったのに、まだ訓練不足だったと痛感する。
お隣さんのおうちは平屋の一戸建てだった。平屋というが、敷地
面積は広く、大地主の名にふさわしいものだろう。
鶏の声が家の裏から聞こえる。
紅花は庭の飛び石を渡り、玄関の前で止まる。呼び鈴を押そうと
するが、ちょっと待てと深呼吸する。
大きく息を吸い、吐いて、吸って。
それを数回繰り返して、ようやく落ち着いたところだった。
よし行くぞと、呼び鈴を押そうとした瞬間。
80
コケコッコー!
耳元で鶏の鳴き声が響いた。
仰け反って、妙なポーズをとる紅花の前には、立派なとさかを持
った鶏と、それを持った日高少年がいた。首にタオルを巻き、Tシ
ャツに麦わら帽子といった格好をした少年は、健康そのものだった。
﹁ごめんね、わざわざ﹂
少年は逃亡鶏を捕まえていたらしい。この立派な雄鶏は脱走の常
習犯で、よく囲いを飛び出してご近所の飼い犬をいじめに行くらし
い。
紅花は少年に果物籠を渡した。いっそ鰹節のほうがよかっただろ
うか、と思ったが目が輝いているところをみると、そうでもないら
しい。
﹁キウイ⋮⋮﹂
主役のメロンより、脇役のキウイフルーツに目がいっている。奮
発して、国産マンゴーも入れたのに、そちらには目もくれない。
なぜに、と紅花は一瞬思ったが、あることを思い出した。
キウイはマタタビ科だった気がする。
少年の目が、まるで鼠を前にしたにゃんこの目になっている。普
81
段は、人間と同じなのに、こういう時だけ、瞳孔が猫みたいに開閉
するのかと思った。
﹁日高くん﹂
紅花が声をかけると、はっと我にかえった。
﹁あっ。ごめん、ちょっと上がっていってよ。かあさーん、おきゃ
くさーん﹂
少年は、玄関の戸を開けると大声で叫んだ。
すると、足音はなにもしないのに、エプロンをかけたすらりとし
た女の人が小走りでやってきた。
﹁あっ、珍しい。アンタの友達?﹂
﹁そうだよ、母さん﹂
少し雑な印象の喋り方だが、別に悪い感じはしなかった。
薄い色素の目や髪で、妙に猫っぽい仕草をしている。すごく少年に
似ている。少年の髪を伸ばして二次性徴させずに、プラス十歳した
らこんな感じになるのではと思う。
ハーフと聞いていたが、母方の方らしい。
母さんというが、見た目はおねえさんと言ってもおかしくない雰
囲気だった。くせのある美人といった感じだ。
﹁うん。お隣さんだよ。この間、挨拶しにきたじゃない﹂
﹁えっ、うそ。やだ﹂
82
日高母は、ぱたぱたと服を叩き、髪を揃える。一瞬焦ったのか、
尻尾がちらりと見えた。よほど、動揺しているらしい。
﹁いらっしゃいませ﹂
とても上品な口調で改めて言った。なるほど、これが本当の猫か
ぶりか、と紅花は納得する。
﹁すぐお茶を用意するから﹂
﹁いえ、お構いなく。すぐ帰りますんで﹂
紅花はそう遠慮するが、日高母子は引かない。
どうしてもと言われたら、お茶の一杯くらい貰うのが礼儀だろう。
靴を揃えてお邪魔することにした。
ふと、少年がなにかを思い出したように、紅花を見る。
﹁そうだ、ところで、なんの用なの?﹂
﹁⋮⋮私はアンタが平気でうろうろしてる方が謎で仕方ないわ﹂
少年のマイペースな反応に紅花は、忘れかけていた怒りを取り戻
すのだった。
日高少年曰く、獣人の治癒は一般人の何倍も早いらしい。昨日、
病院から退院した時点で、はめていたコルセットは外したし、折れ
83
た骨も癒着し始めているという。
紅花にはよくわからないが、それは確かに早い治りなのだろう。
それでも二週間は安静にしておけとのことだ。
﹁せっかくなんで、今週いっぱい休もうって話なんだけど、母さん
がひどいんだ。動けるなら、鶏小屋行って卵集めて来いとか、畑の
手伝いしろとか﹂
﹁うん、けっこうひどいわね﹂
少年のサボリ癖を抜いても、けっこうこき使われているようだ。
しかし、見る限り動き回っても全然痛そうには見えない。
もしかしたら、それが獣人の基準なのかなと思ったら、口出しす
ることではないだろうけど。
﹁そのうえ、田中さんは脱走してるし。ひどいよね、迎えにいく立
場にもなろうよ。斜め向かいのジョンが可哀そうだよ﹂
﹁田中さん?﹂
﹁うん、三十四代目田中さん。ラブラドールのジョンをいつもいじ
めるんだ﹂
誰が﹃田中﹄なのか一瞬わからなかったが、どうやらさっきの鶏
のことを言っているようだ。紛らわしい名前は止めてもらいたい。
応接間らしき座敷に渡され、紅花はちょんと出された座布団の上
に座る。隣は仏間なのか襖の向こうからほんのりお線香の匂いがす
る。
少年は麦茶と焼き菓子が入った器を持ってくると、座卓の上に置
84
いた。
少年は座布団の代わりにいつも愛用しているクッションを抱っこ
して座る。かなりお気に入りらしい。
﹁ごめんね、変なことに巻き込んで﹂
ぺこりと謝る少年に紅花はむっとする。
﹁謝るのは私のほう。その、骨、折れたの私のせいでしょ﹂
紅花が言うと、日高少年は気まずそうに目をそらした。隠しよう
もない。
﹁大体、あいつらが言い出したことでしょ。日高くんが怪我するこ
となかった﹂
怒るつもりはないのに、気持ちが高ぶってしまう。
もし、紅花があのとき少年Aの手をつかんで持ち上げたとして、
手を折っていた可能性は高い。でも、ある意味自業自得だと思う。
皆を危険にさらす場所へと行こうと言ったのは彼であり、その行動
に責任を持つべきだと紅花は思う。
助けに来た日高少年が怪我する必要はない。
あっ、そっか。
紅花はなんで自分が怒っているのか今気が付いた。
どうして、彼一人が怪我をしなくてはならないのか、憤りを感じ
85
ていたのだ。
力を加減できなかった自分に対しても、周りを巻き込んで迷惑を
かけていたクラスメイトにも。
別に、日高少年には非がないのに、当たる相手が他にいないので
そんな態度に出てしまう。
うわあ、ガキだあ。
自己嫌悪で、思わず自分の頭をポカポカ叩きたくなる。
そんな紅花をよそに、日高少年はキウイを嬉しそうに嗅いでいた。
果物セットからとってきたのだろうが、なんだか目がとろんとして
危ない表情をしている。
へらへらしたまま、座卓に突っ伏し、顔を横にして紅花を見た。
かまたに
﹁鎌谷くんは、野球部だから手を潰しちゃだめだよ。今、ちょっと
やる気がなくてサボってるけど、そのうちまた練習始めるから。あ
れでも将来ゆーぼーなんだよ﹂
日高少年は、締まりのない顔で言う。うひひっと笑っては、キウ
イを嗅いでいる。
ぐでんぐでんの酔っぱらいみたいな雰囲気に、紅花は思わずひい
てしまう。
﹁それに、僕以外の誰かだったら、山田さんがやったってばれちゃ
うよ﹂
86
あっ。
そうだったと思い出す。紅花はまだ、自分の種族のことについて
話していない。もしかしたら容姿と名前でわかる者もいるかもしれ
ないが、できれば黙っていたい。
変な噂を聞きつけ、妙な行動に出る者が出たらどうしよう、それが
前の学校であったからだ。
日高少年が誤魔化してくれたと同様に、少年Aもとい鎌谷くんが
黙っている理由はない。自分の手を潰されたら、慌てふためくだろ
うし、たとえ助けたとしても紅花を責める可能性もある。
そう考えると、日高少年は鎌谷くんだけじゃなく紅花も庇ってく
れていたことになる。
紅花はきゅっと唇を噛んだ。
なんともいえない気分を紛らわせるために、焼き菓子をとって口
に頬張った。梨を使ったフィナンシェでアーモンドの匂いが香ばし
くて美味しかった。ごくんと飲み込むと、麦茶を一気飲みする。
紅花は大きく息を吸って、吐く。なにかいろいろ考えて、唸った
挙句ぱんっと自分の両頬を掌で叩いて気合を入れる。
そして、日高少年の目を見据える。
﹁ありがとう﹂
ごめんなさいと謝罪する気はなくなった。だから違う言葉を使っ
て言った。
87
日高少年は一瞬、目を丸くすると、またほわーんとした表情に戻
る。
﹁ふふふ。いいよー、別に。こっちもいーもの貰ったしー﹂
いつの間に尻尾が出ていて、髪の毛がぴくぴく動いている。
あれ?
もしかして、日高少年には猫耳のほうもついているのだろうか。
思わず手が伸びていたが、それはアウトだった。両手というか両前
脚というか、少年はそれで頭を押さえた。すっかり猫化していた。
前脚には肉球はあるのだろうかと、気になってしまう。
﹁じゃあ、ちょっとお願いがあるけどいーいー?﹂
﹁なに?﹂
ふふふふっと笑いながら、日高少年は右前脚をぽふっと紅花の手
の上に置いた。むにっと温かくて柔らかい感触がする。
やはり肉球もついているらしい。
そうたろう
﹁名字じゃなくて、名前で呼んでくれない? 颯太郎って名前だけ
ど憶えてる?﹂
覚えているけど、なんでまたそんな提案をするのだろう。
ホンファ
﹁そしたら、僕は紅花ちゃんって呼ぶね。いや、短くして紅ちゃん
のほうがいいかな﹂
﹁ええっと、それにはなにか意味が?﹂
88
﹁うん、家で話すとき、山田さんちのお嬢さんじゃちょっと長いで
しょ。こっちのほうが楽なーんだー﹂
﹁⋮⋮そうね﹂
紅花は呆れた声出していた。
紅花としては日高くんのほうが颯太郎くんよりも短いのだが、相
手が名前呼びなら合わせろということだろう。
そう言うわけで、日高少年改め颯太郎少年である。
颯太郎少年がさすがに危ない雰囲気になってきたので、紅花はキ
ウイを取り上げた。
ほわわんとした少年は、そのまま抱き枕にしていたクッションに
顔を埋め眠ってしまった。
これ、どうしよう、と紅花は取り上げたキウイを見てため息をつ
いた。
颯太郎母に渡して、さっさと家に帰ろうと、きょろきょろしてい
ると、猫の鳴き声のようなものが聞こえた。
鳴き声のほうへと向かうと、台所があり、そこで颯太郎母がキウ
イを転がして遊んでいた。
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
かろうじて意識は残っているらしく、気まずそうな颯太郎母と目
があう。
89
﹁これ、持って帰りますね﹂
﹁⋮⋮﹂
紅花の言葉に、颯太郎母は名残惜しそうにキウイを見ながらコク
ンと頷いた。
﹁すみません。お邪魔しました﹂
颯太郎母にそう言うと、紅花は日高家をあとにした。
日高家にはマタタビの類は厳禁、そう心に刻んだ。
家に帰ると、若ママがなにやらごそごそと準備をしていた。いつ
ものエプロンにジーンズのラフな姿じゃなくて、スーツみたいなの
を着ていた。がちゃがちゃと触っているのはアタッシュケースだけ
ど、中から油と火薬の臭いがした。
ねえ
﹁若ママ。お仕事?﹂
﹁うん、いつもの義姉さんの手伝いよ﹂
あね
若ママが義姉と呼ぶのは、つまり紅花の実の姉だ。
若ママは紅花から見たら義姉となる。ただ、赤子のころからずっ
と若ママが本当のお母さんにかわって育ててくれたので、義姉さん
と呼んだことはない。
﹁お留守番ちゃんとできる? ミケにちゃんと護衛頼んでおくけど﹂
90
三つ頭の猫は、任せろと言わんばかりに、尻尾をぴんと立ててい
る。気まぐれなところはあるが、けっこう頼りになるニャーベラス
だ。
﹁多分、今日は大丈夫。そんな感じしない﹂
アレが見えるのは、心がナーバスになっている時が多い。そのた
めだろうか、家にいる間にアレが見えたことはほとんどない。
ただ、それを過信して、一度、引きこもろうとしたら、普段より
強いアレを呼び出してしまった。
近くに若ママがいたからよかったけど、誰もいなかったら食いち
ぎられていただろう。
紅花がリスクをおかしてまで学校へ通うのも、そんな理由がある。
実際、半年くらいなにも見ずに過ごせたことはあった。その学校
では友だちもちゃんとできたし勉強も楽しかった気がする。
途中、紅花の種族のことについて、突撃してくる奴らさえいなけ
れば、もっと長くいられただろう。
人外には人権がある。でもひとでなしであることには変わりなく、
それをとやかく言う一般人は多い。まず、一般人と人外と分けてい
る時点でその溝は深い。
それでも、なんとか社会に溶け込んでいるのは、利害の一致があ
るからだ。
人外の能力や性質には、今の科学ではまだ解明できないものが多
91
く、それゆえ、研究対象となりやすい。
山田家も数十年前から医療機関の研究に協力しているが、未だ能
力や体質に多くの謎が残る。
紅花はカレンダーを見る。
月に一度、赤い丸を付けられた日は、検査の日だ。
特に若い個体である紅花の場合、有用性が高いらしい。
﹁じゃあ、行ってくるから。夕飯はシチューを食べてね。いま、作
ったばかりだから﹂
﹁わかった﹂
若ママはずっしりしたアタッシュケースを軽々と両手に持つ。中
には、正直合法といえないものがたくさん入っている。もし、警察
官に呼び止められたら一発でアウトだろう。
若ママにはこういう﹃お仕事﹄をしてもらいたくない。でも、器
用だからつい姉さんも頼みたくなるんだろう。
人外は一般人より身体能力が優れた種族が多い。それゆえか、﹃
汚れ役﹄も回ってくる。
紅花は、コンロの前に立ち、大きな寸胴の蓋を開ける。中には具
がたくさん入ったクリームシチューがあった。サラダボウルみたい
な器をとると、おたまで縁すれすれまで入れる。
バケットと米粉の食パンを切って、軽くトーストしていただく。
飲み物は、アーモンドミルクを用意した。
92
ミケがごはんをねだるので、仕方ないのでおやつの茹でささみを
あげる。
ミケのはぐはぐという咀嚼音をのぞけば、部屋の中では時計の秒
針の音しかしない。
お行儀が悪いけど、ご飯をテレビがあるほうの部屋にうつして、
テレビをつける。
まだ、時計は六時過ぎで、テレビは子ども向け番組か、相撲か、
もしくは似たり寄ったりのニュースしかなかった。
消去法でニュースにすると、どれも同じニュースで持ちきりだっ
た。
立てこもり事件で、すでに五時間が経過している。犯人は、すで
に二人殺しているらしい。 遠目だが映像に犯人の姿がうつっている。
そのこめかみには、角らしきものが生えていて、その身の丈も掴
んでいる人質と比較すると、二メートルをこえているようだ。
やめてよね、もう。
鬼の系統だとわかる。
ただでさえ怖がられやすい種族なのに、そのうえ殺人を犯してし
まったらおしまいだ。
93
その時点で、人外は人権を放棄される。
紅花は冷めた目でニュースを見ながら、シチューを口にした。
94
5、定期健診とバケツパフェ
﹁ああ、もう憂鬱だなあ﹂
ホンファ
紅花は倒した座席の上でだらんとしながら言った。
座席が広めのファミリーカーとはいえ、車で一時間、それでもっ
てそれから三時間くらい拘束される。
毎月、第三日曜日は定期検査の日だ。カレンダーに丸をつけてお
くけど、たまには忘れていいよって思う。
﹁はいはい、いつものこと。終ったらパフェ食べに行こうか?﹂
運転している若ママの提案に、紅花は目を輝かせる。
やったー、と大きく手を上げるが、その喜びはつかの間だった。
目的の医療施設にて、いつも通りIDチェックを受けて中に入る。
財団法人とかいう名前で、けっこう全国的にも有名な病院の関連施
設だ。数十年前より共同で医薬品メーカーととある研究をしている。
ただ、その名前はあまり口にするなと言われている。
そうだろうね。
未来のための医療を作り出すため、ここでは人外を研究している
となれば、あまり外聞がよくないからだろう。
わざわざ別名の施設を作って、うちには関係ありませんよ、とい
95
う顔をしているので、大人はずるい。
若ママとのパフェを楽しみに、更衣室で検査着に着替える。
若ママは別の棟で検査するので、しばらく離れる。
下着をつけないスースーする検査着を着たまま、廊下にでると、
同じく検査着を着た気に食わない奴に会った。
﹁今から検査か?﹂
思わず歯茎をむき出しにしてしまう相手に出くわしてしまった。
いや、毎日会っている奴だが、こうして家以外の場所で会うと、不
愉快さも倍増だ。
ふじお
愚兄の不死男だった。
ホンファ
紅花という名前も変わっているけど、不死男という名前もあまり
にまんますぎる。
お父さんに今度会ったら、名前の由来聞いておこうと紅花は思う。
﹁お前が今から検査するとして、そうなると由紀ちゃんの検査が終
わるのは二時間後かな?﹂
﹁なに? ちょっと愚兄、何考えているのよ﹂
﹁別に。たまにはコブ無しでデートでもしたいと思うもんだろ? 奥さんとは﹂
﹃奥さん﹄という言葉を聞いて、紅花はギリギリッと歯を噛みし
める。
96
﹁若ママがアンタの奥さんなんて認めないからね!﹂
﹁妹よ。実に支離滅裂なことを言っているかわかってる?﹂
検査着のまま、両手を広げやれやれという顔をする愚兄。実にむ
かつく。
﹁若ママは、山田家に養女に来たの。だから私のおねえさんなの!﹂
﹁うん、現実は変わらないけど、そう思いたいのなら、思うがいい
よ﹂
ぽんぽんと憐れみの目を向けて肩を叩く愚兄。紅花が両手を広げ
て怒ると、舌を出しながら廊下を走って逃げていった。
廊下は走らないでください、と看護師さんに怒られている。
本当に腹立たしい。
﹁あの野郎!﹂
紅花はカルテを持って早足で検査室を回ることにした。
検査といっても正直、紅花の場合、基本は定期健診に近い。
身長と体重、その他もろもろを調べて、血液検査や尿検査も行う。
少し違うのはMRIみたいな機材があったり、身体に負荷を与えて
どれだけの重量に耐えられるかといった体力測定の要素も入ってい
る。
検査の数はけっこうあるけど、最後のMRI以外はそれほど時間
がかかるものでもないのでさっさと行く。
早く検査を終らせて、愚兄の魔の手から若ママを助け出す使命が
97
あった。
だけど、そうそう上手くいかないのが現実だ。
結局、他のものを早く終わらせたところで、一つ準備が間に合わ
なければ意味がないとわかった。
一番、時間のかかる機材はそれだけ高価で、数が少ない。今、使
われている最中だと言われたら待つしかなかった。
だるいわー。
近くの休憩室に入る。
検査のため、今日はまだ朝ご飯を食べていない。とてもお腹がす
いた。バケツパフェは三つくらい食べなきゃ気が済まない。
飲み食いを許されず、携帯も置いてきたままの紅花は仕方なく、
部屋にある本を掴む。
﹃古今東西妖怪全集﹄と書かれた怪しげな本は、こんな場所に似
つかわしくないようでそうでもない。
ここで検査を受ける人外は、実際、この中に含まれていたりする。
ぺらぺらっと頁をめくる。
怪談めいた話が多いので、これのモデルにされた人外はさぞや不
愉快だろうなと思う。
ぺらぺらと手慰みに開いていると、ある頁で止まった。
98
ほう
﹃封﹄と書かれてある頁で、のっぺらぼうみたいな挿絵が付いて
いる。怪談では肉人の話が有名で、身体能力が上がる仙薬になると
書いてあるが、この挿絵を見る限りどうにも食欲がわかない。
絶対、食べたくないよね。
白けた笑いを浮かべながら、紅花は頁をめくる。
獣人の欄になってまた指を止めた。
ライカンスロープ
古今東西というだけあって、広く浅く集めているらしい。狼男と
いった獣憑はもとより半魚人や猩々なども含まれている。
猫又は含まれないんだな。
紅花はお隣さんを思い浮かべる。キウイでへろんへろんになる姿
は完全に猫だった。
ぺらぺらとめくっていくと猫又はそれとは別の頁で解説されてい
た。さすがに猫耳をつけた人間というより二足歩行をする猫といっ
た挿絵が多い。着物を着ていることが多く、どことなく他の挿絵よ
りもユーモアにあふれているように見えた。
﹁獣人に興味あるの?﹂
ふと上から声がかかってきて驚いた。
最近、仰け反って反応することが多い。主に、颯太郎少年のせい
だが。
99
もちろん、声の主はここにいるはずもない颯太郎少年ではなかっ
た。
雰囲気はどことなく似ていたが、声は低い。痩せぎすの無精ひげ
を生やした男で、シャツにスラックスの上に白衣を引っかけていた。
だけど、足元は合成樹脂製の靴だった、あのサンダルともいえない、
履いていて楽なやつだ。
そうだ
白衣の胸に名札がぶら下がっている。﹃研修医 左右田﹄と書い
てあった。
研修医と言われたら、若い気がする。三十をこえていないだろう。
新人か、と紅花は目を細めた。
﹁別にそれほどでもありません﹂
普通ならもう少し愛想を良くした方がいいのだろうが、場所が場
所だけに素っ気なく接する。
そういう風に指示されている。これは病院からも、家族からもだ。
あくまで山田家はあくまで研究に協力をするスタンスであるが、
以前、やらかした医師がいたらしい。
上から目線で接するくらいなら我慢したが、なにを間違えたのか、
人道に反する研究に協力しろと持ちかけてきたのだった。
余所の大学病院からやってきたそこそこ名医だったらしいが、そ
れに対して快く思うほどうちの家族はお人よしではなかった。
しばらくして、その傲慢な医者はこの施設から名前が消えた。
100
なにかいろいろあったけど、そういうことである。
というわけで、あくまでビジネスとして対等な立場をとるために、
あまり親しい行動をとるのは禁止されている。
最初に説明聞かなかったのかな。
紅花はむっつりしたまま、見ていた本を本棚に戻す。
しかし、左右田という医師は紅花にくっついて後ろから本棚に手
をつける。上段にある重苦しい本をとる。
﹁興味ないの? これに面白い記述あんだけどさあ﹂
全然威厳がない喋り方で、重量感ある本をめくる。
﹁これとか﹂
目の前で開かれたら、嫌でも目に入った。
そこには二足歩行の虎が描かれ、人間を食らっている絵だった。
白黒の墨絵だが、その勢いは絵心を持たぬ紅花でも飲まれそうに
なる。
内臓を引きちぎられ食われる人々、逃げ惑う人々、弓を射かけそ
の虎を殺そうとするがそのすべてが跳ね返される。
紙面を飛び出して震え立つ咆哮が響くようだった。
古臭い装丁の本だが、紙はしっかりしていた。手すきの和紙だろ
101
うか、古さの割に痛みは少ない。
絵も文もおそらく手書きだろう。どれだけ古いものかわからない。
漢文で書かれているため、紅花にはなんて書いてあるか読めなか
った。ただ、その虎がなんと呼ばれているのかは、なんとなく理解
できた。
﹁獣王?﹂
﹁そう、獣王﹂
反すうして左右田が答える。
左右田は本を持ってテーブルへと向かう。
紅花は妙に気になって追いかける。
パイプ椅子に座り、開かれる頁に息を呑んだ。
﹁虎の伝承は昔からある。もっともこちらには生息していないので、
大陸を通じてきたものだ。虎人なる伝承が有名だけど、これはそれ
とは別物だ﹂
低い青年の声が、楽しそうに語る。
﹁百獣の王がライオンだっていうけど、本当にどうだろうな。虎と
獅子が同じ場所に生息しないだけで、たまたまサバンナに住んでい
たライオンが一番強そうだって結論だろう?﹂
どんどん青年は饒舌になる。不思議と、引き寄せられる喋り方を
する。ぺらりぺらりとめくられる頁には、虎が人々を蹂躙する姿し
102
か描かれない。同じテーマしか描かれていないのに、それを飽きさ
せないのは絵師の力によるものだろう。
﹁まあ、実際はライオンのほうが強いって話が多い。ライオンは雄
同士で縄張り争いをするし、鬣がある。鬣は首を保護するから、首
を噛みつかれても致命傷になりにくい。多少の大きさの差であれば、
俺もライオンのほうが上だと思う﹂
﹁それならさっき言ったのと矛盾するじゃないですか﹂
思わず反論してしまった。
﹁ああ、普通の虎ならな﹂
挿絵を見るからに普通の虎には見えない。
﹁獣にあったら一番怖いのはなんだろうか? 爪かな、牙かな。い
や、それは、ライオンも虎も持っている。だけど、こいつには他の
獣にはないものがあった﹂
どこだろうか、とたずねながら左右田は答えを示していた。右手
人差し指でとんとんこめかみを叩いている。
﹁鋭い爪も強靭な顎もあって、そして、知恵もあったら、もうライ
オンなんて敵わないさ﹂
最後の頁をめくり、左右田は笑う。
・・
﹁まさに獣の王にふさわしい人外だよ﹂
・・
人外という言葉にぴくりとしながら、紅花は青年を見る。青年は、
103
にこっと笑い、書かれてある漢文を指でなぞる。
﹁ここになんて書かれてあるかわかるかい?﹂
﹁わかりません﹂
その答えを待っていたかのように、青年はしたり顔をした。
﹁﹃獣の王は強大すぎた。その強き血は、それゆえに残ることなく
絶えていくだろう。それが強すぎるものの宿命である﹄ってね。そ
れは一代きりの突然変異で種として確立されなかった。だから、ほ
とんど記録にも残らなかった﹂
﹁普通、それだけ強い生き物ならそれだけでも、伝承にもっと残っ
ていいと思う﹂
正直な感想がでると、左右田はテーブルに肘をつきながら目を細
めた。
﹁残らなかったんだよ﹂
青年の口が開き、尖った八重歯が見えた。
﹁骨すら残らず食われたからね﹂
ぱたんと本が閉じられると同時に、後ろで自動ドアが開く音がし
た。呆れ顔のおばちゃん看護師さんがいた。
﹁左右田先生、なにさぼってるんですか! 早く来てください、皆
待ってますよ﹂
﹁はいはーい。わかってますよー﹂
104
左右田は本を元の位置に戻すと、白衣に両手を突っ込んでがに股
で走っていった。そして、廊下は走るなと看護師さんに怒られてい
た。
なんだったんだろう、あの人。
紅花は首を傾げながら、自分の番を待った。
検査を全部終えると、エントランスで若ママと愚兄が待っていた。
愚兄が寝たふりをして、若ママに寄りかかっているところを紅花は
引きはがす。
邪魔者が増えたが、約束通りパフェを食べにいくことにした。若
ママがすでに三人分予約しているのでついたらすぐ食べられるらし
い。
愚兄の車は一旦、そのまま置いて若ママの車で移動する、助手席
は渡さなかった。
ショッピングモール内にフルーツパーラーがあって、そこにお目
当てのパフェがある。お洒落な感じのお店で、今日は日曜日なので
人がたくさんいた。若い女の子がたくさんいて、こちらをちらちら
見ている。
ふんっと紅花は思う。
105
愚兄はその中身はどうしようもない変態なのだが、見た目はいい
らしい。
﹁予約していた山田です﹂
若ママが丁寧に店員さんに話しかけると、店員さんが驚いた顔を
する。
うん、なんでそんな顔をするのかなんとなくわかる。
案内された予約席に座り、メニューを眺める。
﹁若ママ、なんか頼んでいい?﹂
﹁一応、形としては予約したもの食べてからにしておこうか﹂
﹁うん﹂
しばらくしないうちに、バケツみたいなガラスの器に大量のアイ
スとフルーツが盛られ、ケーキが刺さり、花火がぱちぱちはじけた
ものが三つやってきた。ワゴンにのせられて、調理場からやってく
る姿はなかなか壮観で、それを抱えてテーブルの上にのせる店員さ
んの腕が震えている。
確か、一つ七キロのふれこみだった。
周りがさっきとは違った意味でこちらを見ている。
何が言いたいのか心の声が聞こえてきそうだ。
丸テーブルに三つ、均等に並ぶ巨大パフェ。その間にチョコレー
トソースと取り皿が入り、真ん中にスプーンが入った器がある。
ごく普通のフルーツパーラーの光景なのに、そこだけ何故かサバ
106
トに見えるだろう。
ひそひそと話声が聞こえる。
あれを食べられるのか、と話しているに違いない。
しかし、ここにいるのは定期健診のために朝食を抜いてきた山田
家の面々だった。
三者三様、涼しい顔をしている。
さすがに愚兄もこのときばかりは、若ママにちょっかいを出す気
ではないらしい。
目の前の獲物をいかにしとめるか、そればかり考えていることだ
ろう。
籠に入っているのは柄が長く先が小さなパフェスプーンだ。バケ
ツパフェの前ではどれだけ無力な存在かわかる。
しかし、弘法筆を選ばずというなら、その通りにするのが山田家
だった。
まず、燃え尽きた花火をとる。普通、店員さんがとってくれるも
のだが、ジャンボパフェ三つに面食らったままそのまま忘れていっ
た。
﹁すみません、ごみの受け皿ください﹂
近くの店員さんに呼びかけたら、妙にびくっとされた。
﹁は、はい﹂
107
紅花は大きな皿を一つ受け取ると、テーブルの真ん中に置いて、
花火の棒を置く。
そして、スプーンをアイスの山に突っ込んだ。
﹁はふう﹂
美味しい。これはかなりいける。
これだけ大量にアイスを使うのであまり期待していなかったけど、
これは自家製アイスだ。上に果物のシャーベットがあり、下に行く
ほどバニラ、チョコと味が濃いものになっている。
ソフトクリームも生乳をたっぷり使っていた。さっぱりしていて、
そのぶん溶けやすいので最初に全部食べてしまう。
果物もその合間に食べる。メロンは多少熟れすぎたものを使用し
ているが、甘みの点ではソフトクリームに負けない甘さだった。イ
チゴはちょうどいい酸味で、ちょこんとのったさくらんぼも美味し
い。
ソースはクランベリーだろうか。さっぱりしたソフトクリームと
混ぜて食べると美味しかった。
突き刺さったベイクドチーズケーキは、少し食感がぱさぱさして
いたので残念だったが、他は及第点だ。
ガラスの器から飛び出した部分をあらかた食べ終えると、次はし
ばらく続くアイスクリーム層だ。まるで、地層のようになった側面
を見ると、アイス層、コーンフレーク層、これまたアイス層でスポ
ンジ層が入る、一番下はフルーツのシロップ漬けで詰っている。
コーンフレークについては、賛否両論がある。冷たいものを食べ
たあとの箸休めにちょうどいいという派と、そんなもん入れるなら
108
アイスでも増やせ派だろう。
紅花はコーンフレークの食感が好きなので、さくさくとアイスの
層を掘り進める。
アイスに接した部分はややふやけているものの、シュガーがほん
のりかかったフレークはまだかりかりとした食感を残していた。
しかし、フレークの層は浅い。次にまた冷たいアイス層を溶けき
る前に片付けるとスポンジ層に当たる。
さっきのベイクドチーズケーキでも思ったが、このお店はフルー
ツやアイスは美味しいけど、焼き菓子はあまり得意じゃないのかも
しれない。そう思いながら、スポンジを片付けたら、最後のシロッ
プ漬けだった。
正直、これが一番おいしいと紅花は思った。
果物の酸味を損なわない程度に甘く味付られたシロップ。ひと匙
ひと匙噛みしめて食べる。
これだけでも十分美味しいのだが、残念なことにバケツパフェの
最下層だ。ほとんどの人たちはこれに行きつくまでにギブアップし
て、アイスとふやけたスポンジのあたりで、注文したこと後悔して
いるのだろう。
紅花が満足した顔でスプーンを置くと、若ママも愚兄もそれぞれ
アイスココアと紅茶を飲んでいた。
﹁ちょっとケーキが好みじゃないかな﹂
﹁同感﹂
109
﹁なら、タルトたのもっか﹂
﹁僕、フルーツカレーがいいかも﹂
店員に聞こえない程度のやりとりだ。
周りは皆呆然としている中、二人がメニューを開く。紅花も負け
じと身を乗り出す。愚兄とかぶるのは癪だが、甘くて冷たいものを
食べたあとはしょっぱくてあったかいものが食べたくなる。
卓上の鈴を振って、店員さんを呼ぶ。フルーツカレーを三人前か
ける二人分と、季節のフルーツタルト一ホールを注文して、店員さ
んが絶句する。絶句しながらも、なんとか気を持ち直し、注文を繰
り返す。
﹁えっと、本当によろしいのでしょうか?﹂
困惑したまま恐る恐る店員さんが聞き返した。
﹁あっ、大丈夫です、ちゃんと持ち合わせありますから﹂
いや、そんなことを聞いているんじゃないと思う。
若ママはしっかりしているようで、どこか抜けている。
店員さんがふらふらしながら、オーダーを持って帰っている最中
に愚兄が窓の外を指した。
ショッピングモールの斜め前にはホテルがある。
﹁あそこのディナーバイキング美味しいんだって。しかも、早めに
五時から始まるらしいよ﹂
110
﹁へえ、ちょうどいい時間だけど、バイキングかあ﹂
若ママの気持ちが色々揺らいでいる。紅花はホテル名を携帯で検
索して、どんな料理があるか見せてみた。
﹁⋮⋮、そうね。もう少しこっちで食べてから、軽く回るのも悪く
ないよね﹂
若ママは大丈夫、大丈夫と言い聞かせている。
なんとなく大丈夫じゃない気がしたけど、シェフの特製ビーフシ
チューというのがおいしそうだったので紅花は黙っておいた。
その後、パーラーでもう一回追加注文したあと、お土産にフルー
ツジュレ詰め合わせを買ってから、先ほどのバイキングに向かった。
大変、美味しい料理ばかりで満足だったのだが、帰る際にぼそっ
と﹁二度と来ないでくれ﹂と言われた。
うん、やっぱり大丈夫じゃなかった。
でも、ビーフシチューは美味しかった。紅花は七杯おかわりして、
若ママは九杯おかわりした。愚兄に至っては、十三杯目で今日の分
はもう終わりましたと告げられた。
111
6、吸血鬼と感染症
鰹節臭い。
ホンファ
紅花は思った。すごく思った。
どれくらい臭いかといえば、家に帰るなり若ママに、
﹁あれ? なんか出汁の匂いしない?﹂
と言われる程度に染みついていた。
もちろん、その原因はわかっている。隣に座る少年だ。無事、学
校に来るようになってからも、彼の習慣は変わらないらしい。
今日もまた、颯太郎少年は鰹節を食べていた。時に、煮干しを挟
み、箸休めに鶏ささみをつつく。
基本はお魚らしく、おつまみの小魚とナッツが入った小袋を食べ
る際には、ナッツ類だけ抜いて食べていた。 そして、珍しく食べずに、真面目に本を読んでいると思ったら、
中身はさかな図鑑だった。それでもって、机には他に難しい本が置
いてある。マグロ養殖についての本だった。もう一冊ある本は、半
魚人の生態についての本だった。
﹁⋮⋮﹂
112
とてもつっこみたい気がしたけど、相手にしたら負けだ。
紅花は席について、次の授業の教科書を準備する。次の授業は国
語だ。先生は、少し気難しげな人で、いちいち宿題を忘れた生徒の
名前を読んで見世物にする。
チャイムが鳴り、その先生は早速、集められたプリントを見て名
指しを始めた。
ふるゆか
﹁おい、古床、お前の名前がないぞ﹂
細い目をきつくさせ、先生が言った。
﹁ごめんなさーい。忘れましたー﹂
全然、反省の色がないのは、先日、神社の井戸に落ちそうになっ
たゆるふわガーリーさんだ。そうか古床というらしい。たぶん、呼
ぶことはないだろうけど。
反省の色がないゆるふわに先生は、青筋を立てながらも、授業に
入った。
東都学園は一応、名門と名がつく学校である。ゆえに、生徒は比
較的温厚で真面目なものが多い、と紅花は転入して二週間で感じた。
それなら、先日の学校裏探検は何だったのだと言われたら、それが
可愛く思える学校はいくつもあった。体育館でたき火をするのに比
べたら、とても優等生すぎる行為だ。
113
けれど、その中でも例外くらいでてくる。
ああ、臭いな。
ほのかに漂ってくる煙草の臭いは紅花の鼻を誤魔化せない。多分、
紅花以外にも獣人タイプの人外は気づいているだろう。制汗剤をふ
りかけても臭いは残っている。
臭いの元はゆるふわだった。
多分、本人は吸ってない。そういう友だちがいるのだろう。たま
にアルコールの臭いもするけど、これは飲んでいるかわからない。
臭い始めたのは先週末からだったので、おそらく井戸に落ちかけ
たあとだろう。
あの後、少年Aには近寄らなくなったので、頼りない同年代は止
めて、年上と付き合おうとでも考えたのだろうか。
悪い傾向だ。
誰か手遅れになる前に止めてやれよ、とまったく他人事のように
紅花は思う。
そんな中、ぴくぴくと隣の少年の猫っ毛が揺れていた。その髪の
毛の下に猫耳があってそれが動いているのだろうか。
なんだか気になる。
そわそわと手が動きそうになっては止める。
114
いかんいかん、と自分の手の甲をぱちんと叩き戒める。獣人の耳
や尻尾を触る行為は、痴漢と同じだと道徳の時間に習ったはずだ。
そんなこんな考えているうちに、颯太郎少年がぱちっと目を覚ま
した。
なぜか天井をじっと見て、そしてふらふらと何かを追いかけてい
る。
蠅でも見つけたのだろうか。それらしいものは見えないが。
少年の視線は、一点で止まる。
教室の前側入り口付近に何かあるのかと思えば、ゆるふわさんが
教室の外に出ていた。
休み時間はもう終わりだというのに、どこへ行こうというのだ?
すると、颯太郎少年は足音もさせずに、その後を追う。追おうと
したが、ちょうどポクポク足音が響いてきた。
﹁おい、日高。どこへ行く?﹂
﹁トイレです、織部先生﹂
﹁だめだ、戻れ﹂
﹁先生、漏れたらどうするんですか?﹂
﹁お前は本当にせっぱつまっているときは、尻尾をピンと立てた上
でプルプルする﹂
﹁⋮⋮﹂
織部先生に首根っこを掴まれて、席に戻される颯太郎少年。しか
し、器用な蹄である。
少年は授業の間、落ち着きなく尻尾をぱたぱたさせていた。
115
その日、ゆるふわは教室には戻らなかった。
翌日、ひどく気だるげなゆるふわがやってきたのは三時間目のこ
とだった。目にクマができて、いつもはガーリーに巻いてある髪が
乱れていた。
クラスメイトが心配そうに話しかけても気だるげに返している。
元々、それほど同性受けする性格じゃないのだろう、その素っ気な
い態度にそのあと話しかける子はいなかった。
四時間目は体育だった。
グラウンドに出ると、隣のクラスの子たちがいる。男女別になる
代わり、二クラス合同で行われる。
男子はサッカー、女子はミニバスケをするらしい。
ミニバスケかあ。
紅花は、ジャージに着替えたあと、先生を探す。
116
見学しなくちゃいけないからだ。
この間、颯太郎少年の肋骨を折ったばかりだ。正直、やる気の欠
片もないきゃっきゃうふふの緩い授業でも、他人と接触する場面が
想定される。
何かのはずみでぶつかったりしたら、相手はどうなるかわからな
かった。
ジャージを着た二十代半ばの女性教諭の前に立ち、紅花はどう説
明しようかと考える。
﹁見学? 元気そうに見えるけど﹂
いや、元気だ。元気だからこそ、見学したいのだ。
困ったことに、この教諭は紅花の体質について説明を受けていな
いらしい。むうっと紅花は口を膨らませた。
﹁そういうのサボリっていうのよ。大丈夫、バスケが下手でも誰も
笑ったりしないから。皆で楽しみましょ!﹂
﹁いえ、そう言う意味ではなくて﹂
若さゆえだろうか、微妙に熱血している。
紅花はちょっと困ったなと思って、強硬手段にでることにした。
校庭の隅で、できるだけ大きな石を探して拾う。それを先生の前
に持ってくると、両掌で持って、粉砕した。ぱらぱらと手のひらか
ら粉粒が舞っていく。
﹁⋮⋮﹂
117
﹁備品壊したくないんです﹂
﹁うん、あっちで休んでなさい﹂
﹁ありがとうございます﹂
これで、今度から先生への説得する手間が省けたけど、あんまり
ギガース
気持ちのいいものじゃない。
たぶん、巨人の一族とでも思われたのだろう。巨人と言っても、
子どものうちは、普通の人間と変わらない種族だ。案外、人外と言
っても、一般人と変わらない容姿の者は多い。
颯太郎少年も、尻尾を隠していれば、普通の人間にしか見えない。
数世紀前まで人外は、人として認めらずにいたというので、多く
の種族はそれに紛れ込むために同じような容姿になったという説も
ある。
普通の人間は、多くの人外よりも能力的に劣る面が大きいが、社
会性が高く、数も多いので、紛れ込むと益があったらしい。
だが、その中にたまに人間に害をなす人外も含まれているので、
人間は人外を見つけると排除してきたという歴史もある。
昔、姉さんが﹁こんな時代になるなんてねえ﹂としみじみ話して
くれた。
紅花は小さなバスケットコートが二面ある中で、屋根つきのベン
チに座る。ちょっと日差しが強いので皆、日焼け止め塗ってるかな
あ、と他人事のように思う。
ふざけ合いながらスリーオンスリーをするのを遠目に見ながら、
紅花は別に羨ましくないからね、と鼻を鳴らす。
118
先生にスコアをつけるように、ノートを渡されたので五分ずつの
短い試合でさくさく進んでいくので、動かなくても暇じゃなかった。
三回めの試合、コートにいる六人の中でやたら動きの悪い生徒が
いる。
運動音痴な子は、世の中たくさんいるので、その類かなと見てい
た。だが、それがサボリ癖のあるゆるふわだったので、ただやる気
がないだけなのかなと思い直した。
でも、それにしては様子が変だった。
顔が真っ赤になっている。
別に動き始めてそんなに経っていないし、何より今日はそこまで
暑くなかった。
あれっと、紅花だけでなく、皆が異変に気付いたときはもう手遅
れだった。
ばたんっと、ゆるふわの身体がコートにうつ伏せになった。
生徒たちは何が起きたのかわからないまま、ゆるふわを取り囲ん
でいる。先生が慌てて、首に巻いていたタオルをゆるふわに被せる
と、背中にのせて運ぶ。
雰囲気からして、熱中症にでもかかったのだろうかと考えたが、
なんだか様子がおかしかった。
﹁ちょっと、自習してて! 暑くて気分が悪い人は水分補給を忘れ
ないように﹂
119
生徒たちのゆるふわを心配しているのと同時に、今更言うなよ、
という目が見える。
﹁先生、同行していいですか?﹂
﹁山田さん、わかったわ﹂
先生は、ぐったりしたゆるふわを何度もおぶい直しながら進む。
体育教師らしく、普通の女性よりも体力はあるのだが、気を失って
いる相手をおぶうのはつらい。
他の生徒から見えなくなったところで、ようやく紅花は申し出る。
﹁先生替わりますけど﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁持つだけなので潰したりしません﹂
先生は渋っていたが、何度も抱え直していて手がしびれてきたら
しく、紅花にかわることにした。
紅花は背中にのせるより、前でお姫さま抱っこをする。正直、こ
の体重プラス少年Aと颯太郎少年を一本釣りした紅花にとって、大
した重さじゃない。やろうと思えば片手で抱えることも可能だけど、
先生に止めらるのでやらない。
紅花が持ったことで、さっきよりもずっと早く移動できた。
120
保健室につくと、保健の先生が眠たそうに座ってコーヒーを飲ん
でいた。たしか保健医とは言わずに養護教諭というのだったか。
﹁すみません、急に倒れちゃって﹂
急な来訪者に養護教諭は、欠伸を中断して、てきぱきとベッドの
準備をしてくれた。
﹁どうしたの? 熱中症とかじゃないわよね﹂
﹁そんな天気じゃなかったと思うんですけど﹂
﹁そういう判断が、病人を作るのよ!﹂
体育教師に説教する養護教諭を無視して、紅花はゆるふわをベッ
ドに寝かしつけた。顔が真っ赤だなと思ったら、よく見ると発疹が
できていた。顔だけじゃなく、手の甲などぶつぶつがみえる。
紅花は生憎、か弱いとは言い難い体質をしているので、熱中症が
なんたるかはわからない。でも、それとは少し雰囲気が違った。
﹁悪いけど、山田さん。先生、一度戻るから、かわりにノートに記
載しといてくれる﹂
﹁わかりました﹂
スコアの次は、保健室の利用記録をつけろということらしい。
養護教諭はぱたぱたとペットボトルのスポーツドリンクと吸い口
を持ってきた。冷たいおしぼり付だ。
ペットボトルの蓋を開けようとして、養護教諭は首を傾げた。
121
多分、紅花と同じことを思ったらしい。
﹁これは、熱中症ですか?﹂
﹁熱中症かどうかはわからないけど、なんだかアレルギー反応起こ
してるわね﹂
﹁アレルギー反応?﹂
養護教諭は、紅花にペットボトルと吸い口を渡し、移し替えるよ
うに指す。その間、ゆるふわの手を持って、ぺらっとジャージをめ
くった。
﹁やっぱり﹂
養護教諭は、棚をがさごそあさりだす。
塗り薬をいくつか持ってくる。
﹁非ステロイドだけど、合うかな? ちょっとわからないから、勝
手に塗るわけにいかないのよね﹂
﹁結局、何ですか、コレ?﹂
﹁たぶん、紫外線アレルギーね。あと顔色が悪いわね、朝ご飯を抜
いて貧血で倒れたってところかしら?﹂
聞きなれない言葉を聞いて、紅花は首を傾げる。
﹁食べ物や埃以外にも、太陽光でもアレルギーって出るのよ。ほら、
肌が露出していない部分は赤くなってないでしょ。日焼け止めは塗
ってなかったみたいだし、自覚なかったのね﹂
﹁そんなのあるんですね﹂
﹁日焼け止めないからとってくるけど、少し留守番お願いできる?﹂
122
﹁⋮⋮はい﹂
記録をかいたらすぐ出て行こうと思っていたのに、頼まれたら仕
方ない。すると、養護教諭のいる後ろの窓からなにかぴょこんとは
ねて見えた。栗色のやけに元気なあほ毛とやらだ。
﹁あれ、どうしたの? なにかある?﹂
﹁い、いえ、どうぞ、行ってください﹂
﹁ごめんね、じゃあ、記録帳は棚の中にあるから﹂
﹁いっ、いってらっしゃい﹂
教諭が出口に向かうとともに、紅花は蟹歩きをしながら窓へと向
かう。そして、ぴょこぴょこ跳ねるあほ毛の主を睨む。
しかし、なぜ紅花がこんな真似をしているのだろう。
教諭が完全に保健室から出払ったのを見計らって、窓の外の主は
にょきっと顔を出した。
ホン
﹁こんにちは、紅ちゃん﹂
前回、キウイで酔っぱらった颯太郎少年は、こう呼ぶようになっ
た。
﹁颯太郎くん、なんでここにいるの?﹂
﹁それは、保健室は皆のものだからじゃない?﹂
﹁うん、それはわかるけどさ。ここ、二階だから﹂
どこをどうやって上って来たか知らないけど、颯太郎少年は器用
に壁のでっぱりに足をかけて外壁に引っかかっていた。
123
﹁やっぱり、保健室が二階にあるって構造的に欠陥だよね﹂
少年はそう言いながら、窓から入ってくる。
﹁その意見には賛成だけど、非常識だから﹂
もし相手が愚兄だったら、有無を言わさず二階から蹴落としてい
ただろう。
颯太郎少年は靴を脱ぐと、足音をさせないまま、ベッドへと向か
う。もしかして、ここで昼寝でもするつもりだろうか。
﹁そこ、もう先客いるから﹂
﹁知ってる﹂
少年は、横たわるゆるふわを見ていた。そして、何を思ったのか、
手を伸ばし、ジャージの襟を引っ張った。
﹁⋮⋮何してるの?﹂
思わずすごんだ声で、紅花は少年の襟首をつかみ、足元を浮かせ
た。
別に、ゆるふわに対してさして思うところはないが、目の前で痴
漢行為があるのを見逃せるほど薄情ではなかった。
﹁ええっと、違う違う﹂
歯をむき出しにして威嚇する紅花に対し、少年が珍しく少し青い
顔で言った。浮いたつま先がぶらぶらしてる。
124
﹁あれ、見てよ、あれ﹂
﹁あれ?﹂
ジャージの襟がめくれ、ゆるふわの首筋が露わになっていた。
﹁あれがなんだって⋮⋮!?﹂
紅花は颯太郎少年の首根っこを放すと、ゆるふわに顔を近づけた。
むき出しになった首には、穴が二つ開いていた。傷はまだ新しく、
そこだけ奇妙に変色していた。
﹁なにこれ?﹂
何かに噛まれたようなあとに見える。
ヴァンパイヤ
﹁多分、これ、吸血鬼が噛んだ痕だろうね﹂
少年は、わかりきったように言った。
﹁噛まれた症状も出てる。先生、日光アレルギーとか言ってなかっ
た?﹂
﹁どうしてわかるの?﹂
﹁本で読んだことあるから。吸血鬼に噛まれると、吸血鬼になるっ
て話あるでしょ。あれは半分本当で、半分嘘なんだ﹂
少年は、ベッドの下にあった丸椅子を二つ取り出すと、紅花の前
に置き、もう一つに座った。
125
﹁吸血鬼に噛まれると、その唾液に含まれる成分によっていくつか
のアレルギー反応が出るんだよ﹂
そう言って、少年は指を三本立てる。
﹁一つ目、今言った日光アレルギー。薬なんかの副作用によっても
引き起こされる場合があるんだ﹂
少年はつらつらと説明する。
﹁二つ目、ニンニクアレルギー。稀だけど、普通の人間にも起こる
やつで、吸血鬼に噛まれるとそれになりやすくなる﹂
むじな
これも初めて聞く話だった。そう言えば、少年は変形菌のことに
も詳しかったし、貉のことも知っていた。
意外に博識なのだろうか。
﹁そして三つ目。これはアレルギーというより嗜好の変化だね。困
ったことに、同族の血液を好むようになる﹂
紅花は三本の指を見る。たしかに、この三つの症状がそろったら、
吸血鬼と呼ばれても仕方ないだろう。
﹁これは最終段階で、ここまでくると普通の生活は難しくなる。こ
こまで来ると、大量の水を怖がったり、十字架を見ると変な幻影が
見えて怖がったりすることもある﹂
完全に吸血鬼だ。
126
﹁ちょっと待って。それなら、このゆるふわは噛まれたっていうの
?﹂
﹁ゆるふわ⋮⋮、ああ、なるほど。うん、そうだろうね﹂
ゆるふわで通じたらしい。今はゆるくもふわふわでもない、乱れ
た髪をしているけど。
あれっと紅花は気が付いた。そう言えば、昨日、少年はゆるふわ
を追いかけようとしていなかったか。そして、結局追いかけること
はできず、ゆるふわは教室に戻らなかった。
﹁もしかして、あれ? ゆるふわのフラグが見えてたの?﹂
紅花の問に、少年は頷く。
﹁ちらっとしたものだったから、そこまでわからなかったけど。気
になって追いかけようとしたんだ﹂
だけど、止められた。まだ曖昧だったので、少年も深く追いかけ
ようとは思わなかった。それが間違いだった。
﹁まだ、この段階だと血清があれば、治るはずだけど。問題は型が
合うかな﹂
﹁血清ってそんなものあるの?﹂
﹁あるよ。ただ、その型があったらあったで問題なんだ﹂
﹁なんで?﹂
よくわからないと紅花は首を傾げる。
﹁型があるってことは、過去、噛まれて発症した人がいたってこと。
127
今回、初めて噛んだわけでもなく、吸血病の予防接種を受けていな
い吸血鬼がいるってこと﹂
なんか犬の狂犬病予防接種みたいで間抜けに聞こえるけど、重大
な問題のようだ。
﹁その予防接種は人外としての権利を得るために必須なんだよ。も
し受けてなければ、その個体はまだ年齢に達していないか、もしく
は⋮⋮﹂
﹁もしくは?﹂
颯太郎少年は少し冷めた目でゆるふわの首筋を見る。
オーガー
﹁古い考えを持つ吸血鬼、つまり現代でいう食人鬼とか﹂
そこ冷えのする響きに、紅花はことの重大さをあらためて感じた。
食人鬼、それは人を食らい人外としても認められなくなった化け
物を言う。
思わず両手で自分の身体をかき抱く。
ひと月ほど前の記憶がよみがえる。
手足が千切れ、腹を破られたあの日のことを思い出す。
そこにいたのは化け物だった。
同じ人外だと思っていたのに、それは食人鬼だった。
128
7、庭いじりとコンビニへいこう
ゆるふわが体育の時間に倒れてから二日たった。翌日、ゆるふわ
は学校自体休んでいた。病欠とのことだけど、その理由は明らかだ
った。
あのあと、颯太郎少年はなにごともなかったかのように、窓から
出て行き、養護教諭が戻ってきた。
偶然を装って、首の噛み痕を見せたら、顔色を変えていた。
慌てた顔で、名簿を探して連絡していた。
ホンファ
ゆるふわのことは気になっていたものの、紅花にはどうすること
もできない。それに、いっては悪いが、距離を置きたかった。
オーガー
食人鬼と接触があるとなれば、ゆるふわの行動範囲内にそいつが
現れたということになる。
中学生の行動範囲なんてたかが知れている。
もしかしたら、紅花も知らない間にすれ違っている可能性だって
ある。
鳥肌が全身に立った。
出会いたくない、近寄りたくない。
経験が身体に恐怖を刻みこみ、それを認識するだけで震えが止ま
らない。
129
﹃食人鬼﹄、人外が人権を持った人間以外を持った者なら、それ
らは人を食らうことで人権を持たない者たちである。
グール
昔ながらに人間の生血を求める吸血鬼や、人肉を好んで食らう鬼、
死体漁りを行う屍鬼が一般的だが、中には人を食らわずとも殺人を
嗜好とする者も含まれる。
それらには人としての権利を与えないことで、処罰しやすくして
いるが、形は人と同じものが多い。
ゆえに、社会に混じって、その食欲や嗜好を満たす。原因不明の
行方不明者の半分は、食人鬼によるものではないかという話も聞く。
紅花はげっそりしながら、ベッドでうつ伏せになる。何か気晴ら
しにと、手探りでテレビのリモコンをとってつける。
でてきたのはワイドショーだった。また、この同じ連続殺人事件
の特集だ。さすがにここまで長引けば、警察も無能としか言われな
いので少し可哀そうな気もする。
他のチャンネルに変えても、子ども向け番組か時代劇の再放送く
らいしかなかった。つまんないなあと思いながら、ベッドから起き
上がると、テレビを消した。
喉が少し乾いたのでリビングに行こうと思った。
リビングでは若ママがレース編みをしていた。レース編みをしな
がら、ノートパソコンを立ち上げて、株を見ていたのが若ママらし
130
いなと思った。土曜日なので、今日は取引しないが目ぼしい会社を
チェックしていた。
あれ?
今日は、うざったらしい愚兄がいないようだ。いつもなら、若マ
マの隣に座ってべたべたセクハラをしながら作業の邪魔をしてしば
かれているはずなのに。
﹁不死男くんは、お仕事よ。今月、決算の会社が多いんだって﹂
愚兄はああ見えて税理士だ。脳味噌は若ママのことしか考えてい
ないようで、それなりに詰まっているらしい。
﹁よく行ったね﹂
例え、忙しかろうと若ママとの時間を潰されようものなら、会社
辞めてくると言いそうな馬鹿兄だ。
﹁ええ。だって会社のみなさん、大変だし、それにこれが欲しいか
らがんばってって言ったら張り切って仕事に行ったけど﹂
そう言って若ママが見せてくれたのは、不動産情報サイトだった。
いや、一税理士が残業したところで買えるものじゃない。
﹁この家、写真見る限り造りは悪くないし、水回りリフォーム済な
のよ。実物、見ないとわからないけど、これから地価が上がりそう
な場所にあるのよね。それとも、こっちの空き地のほうがいいかな﹂
若ママの目は狩人の目に変わっている。
131
若ママはこう見えて土地を転がすのがうまい。数年先を見越して、
物件を買い、貸したり、売って利益を得ている。
専業主婦にみえるが、愚兄と同じく税理士や他にもろもろ資格を
持っているので、在宅で仕事を請け負っている。
でも多分、土地転がした利益のほうが大きいって思う。
﹁そうだ、紅花ちゃん、今日は一日暇?﹂
﹁暇といえば暇かなあ﹂
六月初めに中間試験があるけど、まだ勉強にとりかかる気分じゃ
なかった。
﹁じゃあ、ちょっとお手伝いしてくれる?﹂
﹁いいけど﹂
そう言って、若ママはパソコンを落として、レース編みを片付け
た。
なんのお手伝いかと思ったら、庭いじりだった。
本当は愚兄に手伝わせるつもりだったみたいだけど、仕事に行っ
た。
あらかじめ買ってきていた季節の花の苗が庭に置いてある。元は
132
薔薇を植えていたみたいだけど、さすがにハウスキーパーさんの月
一訪問では世話ができず、そこはアーチだけを残していた。
植えるだけかと思っていたら、本格的に土を入れ替えるらしく若
ママはつなぎに着替えていた。頭には麦わら帽子をかぶり、けっこ
う本格的だ。
基本、紅花の服装はスカートしかないので、デニムのサロペット
スカートに着替えてきた。学校のジャージの方がまだ、それっぽい
作業着に見えるけど、家にいるときまでジャージなんて着たくなか
った。
正直、土いじりなんて好きじゃないけど、若ママが手伝ってとい
ったらそれくらいする。
ざくざくと土を掘り返して苗と一緒に買ってきた土を混ぜる。何
種類かあり、花の種類によって土の分量をかえる。
﹁あっ﹂
途中まで、順調に植えてきたのだが、若ママの声で作業が止まっ
た。
﹁どうしたの?﹂
﹁あー、ぼかし足りないかも﹂
ぼかしとはたしか肥料のことだったと思う。
別に足りなくてもこれだけ他に土があれば問題ない気もするが、
そういうのがけっこう気になるみたいだ。
133
﹁いますぐ必要なの?﹂
﹁そんなことはないけど、できれば今日中に終わらせたいからー﹂
﹁買ってくる?﹂
﹁あっ、それなら悪いけど、お隣さんからぼかし貰ってきてくれな
い? 多分、裏庭あたりでいい感じに作ってると思うから﹂
﹁うん、わかった﹂
妙にお隣さんの庭事情に詳しいな、と紅花は思いつつ、土を入れ
る紙袋を片手に日高家に向かうことにした。
日高家は、ちらっと聞いた話によると、六人家族らしい。颯太郎
少年は一人っ子で、両親と祖父母と曾祖母がいるらしい。
基本、家で畑仕事をしているのは颯太郎母で、あとの大人たちは
別の場所で働いている兼業農家さんだ。
ちょっと汚い格好で余所のお宅に行くのに抵抗はあるけど、出て
くるのが颯太郎少年か颯太郎母ならまあいっかという気分になって
いる。颯太郎少年は普段、かなりだらしないところばかり見ている
からというのと、颯太郎母についてはキウイでごろごろする姿を見
てしまったからだ。
悪いが、自分よりもかなり格好悪いところを見せた相手に対して、
気が抜けて接しやすくなるというのはごく普通の感情だと思う。
この間よりすごく気楽な気分で日高家につくと呼び鈴を鳴らす。
134
鳴らすが音沙汰ない。しばらく待っていても、聞こえてくるのは
雄鶏の勇ましい鳴き声くらいだろうか。
留守かな?
畑仕事に行っているかなと思っていると、いきなりがらんと戸が
開いた。開けたのは、颯太郎少年だった。
いつもながら、彼の足音はまったく聞こえないので、いきなり現
れたみたいでびっくりする。
﹁どうしたの?﹂
颯太郎少年はぶかぶかのTシャツにハーフパンツをはいていた。
額にアイマスクをずらいているところから、昼寝中だったと思われ
る。
﹁あっ、えっ、えっと、義姉さんが日高さんちからぼかしもらって
きてって﹂
若ママではなく義姉と呼ぶ、これが正しい呼び方だが、愚兄がそ
れを聞くとにやにやするので、あんまり言いたくない。
﹁うん、わかった。じゃあついてきて﹂
少年は、ビーチサンダルを履くと玄関を出てこっちこっちと紅花
を案内した。
日高家の庭はこれといった日本庭園というわけじゃなかったが、
数羽放し飼いにされた鶏が妙に風情を感じさせた。
135
ぐるりと家を半周したところで、増築したらしき離れが見えた。
その横に枯葉が堆積した山が作られている。
颯太郎少年はスコップを持ってくると、その山を崩し、中から柔
らかい土を取り出した。独特の発酵臭がし、中にうねんとミミズが
見えたので、紅花はうげっと顔を歪めた。
﹁入れ物ある?﹂
﹁あるけど、ミミズ入れないでほしい﹂
﹁ミミズがいるといい土になるんだよ﹂
﹁でも入れないでほしい﹂
あのしましま具合とかうねうね具合とか見ると、気持ち悪い。蛇
も嫌いだけど、顔らしきものがないぶん、ミミズのほうが嫌だろう。
颯太郎少年がスコップですくっては、うねるミミズを指でつかん
で捨てているのを見て、軽く悲鳴を上げそうになった。確かに入れ
るなと言ったのは紅花だけど、棒で引っかけるとかもっと違う方法
があると思う。素手とか信じられない。
﹁こんなもんかな﹂
﹁ありがとう。これってお金とかどうするの?﹂
﹁えーっ、さすがにうちの家系は守銭奴が多いけど、こんな土でお
金はとらないよ。野菜買ってもらってるし、いいんじゃない﹂
紅花は袋いっぱいの土を貰う。そこそこの重さはあるけど、紅花
には大した量じゃない。
ふと、離れの小屋が気になった。一つだけついた小さな窓から、
136
中が見える。薄暗いがたくさん本がみえた。
﹁倉庫かなにか?﹂
﹁あっ、これ。父さんの書斎﹂
﹁書斎?﹂
﹁うん、書斎﹂
確かに、書斎なのだろう。
本以外見当たらない。
﹁前は父さんの部屋に置いてたんだけど入りきれなくて、増築した
んだ﹂
そう言って、少年は小屋のドアを開ける。
本を数冊持って見せるが、泥で汚れた手で触って怒られないのだ
ろうか。
本のタイトルは、﹃東北地方における伝承と人外の関わり﹄、﹃
世界の人外 水棲編﹄、﹃妖怪と人外の違い﹄と随分変わったもの
ばかりだった。
あの医療施設で見た本棚の構成とそっくりだ。
﹁父さん、人外研究者なんだ﹂
なるほどと紅花は思った。道理で颯太郎少年が、人外について詳
しいわけだ。それに、猫又に限らず、人外を嫁にする人間は正直珍
しい。その道の人なら、いくらか理解できる。
少年はついでとばかりなにか本を探している、何を探しているの
だろうか。
137
ちらりと、彼の背中からにょろっとしたものが見えた気がした。
思わず目をこすった。
すると、にょろりとしたそれは消えた。なにかの見間違えだろう
と紅花は思う。
﹁ありがとう、じゃあ、かえるね﹂
﹁うん、ばいばーい﹂
後姿のまま手を振る少年にぺこりと軽く会釈して、紅花は帰る。
また、庭を突っ切る最中、縁側が見えた。
颯太郎少年愛用のクッションが置いてあり、飲みかけのペットボ
トルと本が数冊置いてある。昼寝をしていたようだが、ここで日向
ぼっこしながら寝ていたのだろう。
あれ?
紅花は縁側へと近づいた。
ちょっと持ち運び過ぎて形の崩れたクッションの横に本がある。
そのタイトルを見る。
﹃吸血鬼の習性と生態﹄、﹃吸血行動の心理﹄と書かれてあった。
これも、颯太郎父の蔵書だろう。
138
﹁⋮⋮﹂
ちりちりと首すじに嫌な感覚が過ぎ去っていった。
紅花はそれをぺらぺらとめくった。
時刻は十七時前くらいだろうか。紅花は二階の窓から外を見てい
た。
見慣れた栗色の髪の人物が自転車に乗っているのが見えた。これ
からでかけようとしている。それがわかった。
部屋から出て、一階に降りると、若ママが夕飯の準備をしていた。
﹁若ママ、コンビニいってきていい?﹂
形だけでも財布もろもろを入れたポーチを持っている。
﹁いいけど、ご飯あるの忘れないで﹂
﹁はーい﹂
靴を履いて外に出ると、ちょうど自転車の少年とすれ違うところ
だった。
﹁颯太郎くん﹂
139
紅花の声に気づいたのか、キキッとブレーキの音をさせて颯太郎
少年が止まった。背中にはリュックを背負っている。
﹁どこへ行くの?﹂
﹁ちょっと、コンビニまでだよ﹂
﹁偶然だね。私もよ。一緒に行こうか?﹂
﹁えー、クラスの女の子と一緒って恥ずかしいよ﹂
ああ、嘘をついていると紅花は思う。そんなことこんなマイペー
スなハーフ猫又が思うはずがない。
ちりちりと首の産毛が火で焼かれているような感覚がする。
やっぱり。
さっきは見間違いだと思った。
今まで見たものと少し形が違ったからだ。
にょろにょろしたものは気持ち悪い。
改めて思う。
﹁どうしたの?﹂
屈託ない笑みを浮かべる少年。その足元から、黒いにょろりとし
たものが生えていた。それはまるで寄生木のように、少年に憑りつ
き、みしりみしりと少しずつ相手を枯らそうとしているように見え
た。
まるでナメクジのように這い、てらてらと気持ち悪いあとをつけ
ながら、その異形のものは少年にとりついていた。あまりにくっつ
140
きすぎて、少年の身体から生えているようにさえ見える。
アレ、死亡フラグだった。
いつも見るときは恐怖でしかないそれは、今回は妙に落ち着いて
見ることができた。脇の汗腺からじっとりした気持ち悪い汗が浮い
ているのがわかる。ぬるりとした汗は、紅花の鼻腔に悪臭として感
じられた。
こんなの初めてだった。
どういうことだろうか。
いつもは紅花を襲い、恐怖を誘うアレが颯太郎少年に憑りついて
離れない。
いや、これはどちらかと言えば。
紅花ではなく、颯太郎少年のフラグが立ったということだろうか。
﹁⋮⋮颯太郎くん、颯太郎くんって、自分の死亡フラグは見たこと
ある?﹂
﹁僕は鏡がないと自分の顔は見えないんだ﹂
颯太郎少年がどういう形で死亡フラグが見えているのかわからな
いが、彼は相手の顔を見て感じ取るようだ。
﹁手鏡あるよ?﹂
﹁見たくないよ﹂
141
それが答えだと思った。
﹁どこに行くの?﹂
﹁コンビニじゃない?﹂
答えがすこし投槍になっている。
﹁うそだ﹂
紅花は断言した。
颯太郎は吸血鬼について調べていた。ぺらぺらめくった本にはこん
なことが書かれていた。
﹃吸血鬼は最初に、獲物に噛みつき味見をする。そして、日を改め
て血を吸いに行く﹄
﹃吸血鬼は満月に近づくほど力を強める﹄
﹃吸血鬼は一度狙った獲物は見逃さない﹄
どこまで本当かは知らない。けっこう古い本だった。今、出版す
るとしたらできないだろう。吸血鬼と食人鬼がごっちゃになってお
り、人権活動家とやらにとやかく言われる中身だからだ。
だからこそあけすけに、古い吸血鬼の習性が書かれていた。
今日は三日月くらいだろうか。これからどんどん月が満ちてくる
が、本の内容を信じればまだ本領を発揮できないだろう。
142
プラスして、獣人は新月ほど理知的で、満月になると理性を失う
と聞いた。
でも、正直理性があるとは言い難い行動を颯太郎少年はしようと
している。
この少年は、少し馬鹿だ。
自分のあばらを犠牲にして、自分勝手なクラスメイトたちを助け
た。
無愛想な転校生のあとをつけて、助けてくれた。
虫唾が走る。
その紅花の感情を読み取ったのか、颯太郎少年はにこりと笑う。
猫みたいに目を細めたあと、薄く開き、紅花を見る。紅茶みたいな
色の目が冷たく光る。
﹁紅ちゃんはいいよね。助けを求めたら、皆助けてくれるから﹂
いつもほわんとした少年とは思えない冷たい声だった。少し低く、
あのとき井戸があった神社で聞いた声に似ていた。
﹁ずっと紅ちゃんはなにか恐れているけど、本当にそれが怖いの?
君より強い生き物ってそんなにいるの?﹂
あどけない口調だけど、ずきんと突き刺さった。
君より強い生き物ってそんなにいるの?
なんていうことをいうんだろう、女の子に向かって。クラスで話
143
したら、学級会ものだ。
でも、本当のことだ。
転入早々、粘性生物に襲われたときも、どうみても倒せる生き物
だった。
おそらく、その前に襲われた食人鬼も︱︱。
たぶん、倒せただろう。
食われることが怖い、それをのぞけば。
﹁ねえ、紅ちゃん。一緒に行かない?﹂
﹁いやだ﹂
﹁そう言わないでよ﹂
前と似ている。学校裏に誘われたときと同じだ。
﹁うちの義姉さんに頼むといいわ。きっとうまくやってくれるから﹂
﹁時間がないよ。大人って手続きを踏むもん。それに、今口頭で教
えたとして、僕らは止められる﹂
﹁だったら、颯太郎くんが行く必要あるの? 行ってなにかの役に
立つの? むしろ、勝手なことをしてるって思われるんじゃない?﹂
﹁時間稼ぎならできるよ﹂
ふわふわと髪の毛を揺らす少年は言った。
﹁でも、僕が行ったところで、せいぜい一時間が関の山かな。でも、
紅ちゃんがくれば違うと思うんだ。きっと、間に合うはずだよ﹂
144
﹁どうして?﹂
﹁古い吸血鬼はグルメだからだよ。薬の混じった輸血用血液も、血
清を打った後の味の変わった血も嫌う。でも、紅ちゃんは⋮⋮﹂
とても美味しそうに見えるんじゃないかな。
少年の身体を包む、フラグが一層濃くなった。
別に気にすることない、家に帰って夕飯を食べよう。
颯太郎少年やゆるふわがどうなろうと知ったことではない。
そのはずなのに。
肌がべったり汗ではりつく中、紅花はひどく愚かで滑稽な行動を
しようとしていた。
145
8、巣窟 前編
なんでこんなことをしているのだろう。
自転車で三十分、遠いと言えば遠いが、思ったより近かった。
﹃古床﹄と書かれてある表札は、閑静な住宅街の一軒にかかって
いた。モダンな感じのデザイナー住宅だ。
﹁いいとこ住んでるねえ﹂
そう言って、颯太郎少年は近くの公園に自転車を駐輪する。紅花
も同じく真似る。
そろそろ、若ママが、紅花の帰りが遅いことに気づくかもしれな
い。どうしようかと思いつつ、携帯をみる。
﹁貸して﹂
颯太郎少年は紅花の携帯でメール画面を開く。
なにやら打ち込んでいて、それが終わると紅花に返す。
﹁これ、もう少ししたら、おねーさんに送って﹂
画面を見ると、メール作成画面になっていた。タイトルと宛先は
入っておらず、本文だけ今の状況を書いていた。
146
少年はじっと古床家の玄関を見ている。
すると、玄関から虚ろな目をしたゆるふわがでてきた。デニムジ
ャケットにシフォンのミニワンピを着ている。白いエナメル靴を履
いていたが、踵があるため余計ふらふらしているように見える。
﹁なんで出かけてるの﹂
﹁そりゃあ、古い吸血鬼はそれくらいの催眠術使うよ。昨日は、さ
すがに両親が家にいたから出ることはできなかったみたいだけどね﹂
﹁それって⋮⋮﹂
﹁人外の存在を知っていても、その能力を迷信って思う人多いんだ
よ。まさか操られて出て行くなんて思わない﹂
人外の能力の半分くらいは、科学的根拠で実証されている。しか
し、残り半分はまだオカルトめいた部分が多く、使っている当人た
ちも原理などわかっていない。
ふらふらのまま歩き続けるゆるふわは途中、バスに乗った。それ
に、紅花たちも一緒に乗る。わかりきった尾行だが、ゆるふわはそ
んなこと頭にないだろう。ただ、どこからともなく聞こえる声に言
われるがまま、そこへと向かうだけだ。
バスから降りると、そこは隣町だった。少し静かな雰囲気の場所
で、紅花は急に帰りが不安になる。
携帯を見ると、若ママから着信があった。知ってる、バスに乗っ
ている間、ずっと携帯が震えていた。メールの返信も来ていて、誤
字から慌てた様子がうかがえる。
﹁携帯かして﹂
147
颯太郎少年に言われるがまま携帯を渡す。
﹁ねえ、おねーさんってミニブログとかやるタイプ?﹂
﹁やらないけど、ネットはけっこう見るよ﹂
﹁そう、ならこっちのほうがいいかな?﹂
颯太郎少年は自分の携帯を見ながら、なにやら打ち込んでいる。
返してもらうと、何かのアドレスが張ってあった。
﹁送って﹂
﹁うん﹂
返信する。アドレスをたどると、まだ作って間もないミニブログ
につく。
颯太郎少年が電柱にある住所を撮影している。それからしばらく
すると、ミニブログにその写真が上がってくる。
つまりこれで一方的に実況しようという考えだろう。
なんかいろいろ思いつくなあと感心する。
そうやって歩きスマホなるマナーの悪いことをしながら、到着し
たのは少し雰囲気の悪い通りだった。日暮れということもあり、街
燈がちかちかと光り、それに少しずつ虫が集っている。
だらだらと通りを歩いている人は、ちらちらと紅花たちを見てい
る気がする。
ゆるふわはそんな中、雑居ビルの一階に入っていく。三階までテ
148
ナントはゲームセンターになっていた。レトロなゲームが並び、中
はどことなく薄暗い。雰囲気からして古臭い感じがするが、ビル自
体は比較的新しくわざとダメージ加工をしているタイプの凝った店
だとわかった。
その上は空いているのか、四階、五階と黒い幕がかかっていた。
向かって右側に非常階段がついている。
﹁紅ちゃん、中、先に入ってくれる?﹂
﹁ちょっ! それ、ずるくない? なんで、私だけ﹂
正直いやだ。
ゲーセンなんて一人で行ったことない。なにより、この独特の雰
囲気がどうしても受け付けない。
﹁うん、少しやっておきたいことがあって。そうだ、いいものあげ
るね﹂
颯太郎少年は背負っていたリュックからごそごそとなにかを取り
出す。ビニールに詰められた粉のようなものと、ライターだった。
﹁これもいる?﹂
そして殺虫剤が差し出される。
﹁何をしろと?﹂
﹁なんとか工夫して﹂
無茶言うな、と紅花は思った。
なんでついてきたんだ、どうしてここにいるんだ、もう一度自問
149
自答し、そして後悔する。
この間、学校裏についていったのは、自分には害がないとわかっ
ていたからだ。たとえ、あのとき自分も井戸に落ちていたとする。
他の子たちは即死している高さでも紅花は生き残っていただろう。
そして、あの井戸の直径だったらなんとか登り切ることができた
だろう。
それだけの力が紅花にはある。
だけど、この先には、颯太郎少年の言葉を信じる限り、人間を餌
とする捕食者がいる。そして、その捕食者にとって紅花は特にご馳
走に見えるだろう。
﹁無責任じゃない?﹂
﹁そうかな。心配する必要がないから、言ったまでだよ﹂
颯太郎少年は、軽く笑う。
﹁吸血鬼は日光に弱い、ニンニクに弱い、火に弱い、流れる水に弱
い、銀に弱い。それは、科学的根拠もある立派な弱点だよ。対して、
僕たちにはいくつ弱点がある? 少なくともあいつらほどない?﹂
﹁ねえ、あいつらって複数形が気になるところなんですけど﹂
紅花の質問に、素知らぬ顔をしてそっぽを向く。ぐぬぬっと顔を
近づけると、観念して話し始める。
﹁古い吸血鬼は食事にこだわる。いくつか手順を踏んでいただくけ
ど、その間邪魔されないから配下をつける場合が多い﹂
150
その人たちから定期的に血を吸い、弱ったら捨てるという。少年
の言っていた血清というのは、その捨てられた人たちから作られた
ものだ。
﹁基本、単独行動だから、純粋な吸血鬼はいないと思う。配下って
グール
言っても、すでに血を吸って操っている人間だろうけど。場合によ
っては屍鬼って呼ばれるかな。末期になると味覚が変わり、血を食
らうために墓荒らしさえする﹂
﹁怖いこと言わないで﹂
﹁怖い?﹂
﹁うん﹂
少年は笑う。
﹁僕は、クラスメイトがミイラで発見されるほうが怖いよ﹂
笑っているからこそ、その言葉にぞくっとした。
﹁なにがミイラよ。全部、吸い尽くされるわけじゃないんでしょ!﹂
﹁時と場合による、保健室で見た痕は多分、マーキングだと思うか
ら﹂
紅花は眉間にしわを寄せる。なんだかんだで、颯太郎少年は紅花
よりずっと吸血鬼に詳しい。
さが
﹁ええっとなんていうか、ご馳走だと我慢できずに全部食べちゃう
んだよね。そういう性質というかなんというか。非常食はキープす
るけど、それとは別格なんだよ﹂
﹁じゃあ、マーキングの際、全部飲まなかったのはなんでよ?﹂
151
﹁血を飲みやすくするために、唾液を入れるんだ。蚊と同じだね。
全身に行きわたるには数日待つ必要があるけど﹂
蚊と同じレベルで考える問題じゃないと紅花は思いながら、疑問
をぶつける。
﹁どういうのがご馳走なわけ?﹂
﹁古い吸血鬼は基本、一角獣教なんだ﹂
﹁⋮⋮﹂
紅花の顔が歪む。
﹁たぶん紅ちゃんもかなりおいしそうだよ﹂
﹁肋骨、もう一本折っとく?﹂
一角獣とは幻獣の名前である。その習性に、穢れなき乙女の膝を
好むというものがある。そして、それと同じ嗜好を持つ男性陣は世
界各地にいる。
紅花は、殺虫スプレーもろもろを持つと、女の敵に立ち向かうこ
とにした。
からんっと入口を開けて店内に入ると、独特の空気に早速飲まれ
そうになった。
レトロなゲーム筐体が並んでいる。対戦しているのだろうか、一
152
人というより数人で固まって同じ画面を見ている。
散り散りにいる人たちを合わせて、一階では八人ほどだろうか。
二人だけ女の人がいる。
皆けだるそうな顔をしているが、その中でも比較的元気そうなの
が近づいてきた。
﹁お嬢ちゃん、ここで遊ぶの?﹂
若い男だった。二十歳こえたかこえていないかというところだ。
髪にメッシュを入れていて、ヴィジュアル系気取りだろうか。
﹁やめておいた方がいいんじゃないかな?﹂
下卑た笑いを向けられた。
紅花はどうすればいいかと思う。紅花の役割が囮だとすれば、ど
うしようか。
﹁友だちがここにいるんですけど、知りませんか?﹂
嘘をつけるほど器用じゃないので、真正面から行く。
後ろにいた男たちがぴくっと反応した。重い腰を上げ、紅花に近
づいてくる。濁った眼球がぎょろぎょろ動き、品定めするように見
ている。
﹁友だちのところに行きたいのかい?﹂
153
ぬるい息がかかる。見た目のチャラさの割に清潔なのだが、その
纏う空気が病人じみていた。青白い肌と目のくまのせいだろうか。
﹁連れてってあげようか?﹂
﹁えっ、いいんですか? 邪魔するなって言われますよ﹂
なんだろう、このメッシュ野郎。邪魔しなくていいのに、と紅花
は思う。
不健康な男はメッシュ野郎の背中を小突くとあっちへ行けと指示
する。メッシュ野郎はへらへらと笑いながら、また古いゲームで遊
び始めた。
﹁行こうか﹂
﹁はい﹂
外の非常階段とは別に、室内にも階段があった。階段を上ってい
くと、天井に丸いものが付いているのに気が付いた。火災探知機か
と思ったら少し形が違う。スプリンクラーだろうか。
そう言えば、この独特なすえた雰囲気なのに、煙草の臭いがしな
かった。たぶん、これが反応しないようにだろう。
二階に上がると、こちらは少し雰囲気が違っていた。ビリヤード
とダーツが並び、遊技場といった雰囲気だ。
さらにその上になると、今度はカジノの雰囲気を醸し出していた。
ルーレットとポーカーのテーブル、スロットが大中小並び、バーカ
ウンターがフロアの角に見える。
154
気だるい雰囲気はさらに濃くなる。
一階、二階と上がってきてわかったのが、ここにいる人間たちの
特徴だ。
どれも不健康な顔色をしているが、平均以上に整った顔だちばか
りだ。それに上の階に上がるほど、女の人の比率が増えている。
カウンターで笑う女性は、ワイングラスを揺らしていた。その赤
い色にぞくっとする。
寂れた通りの雑居ビルの中とは思えぬ雰囲気だ。
天井からきらきらとシャンデリアが光っている。明かりといった
らそれくらいで、バーテンダーがしゃかしゃかとカクテルを作って
いた。
一階から連れてきてくれた男は、少し居心地が悪そうでバーテン
ダーの男になにやら話すと、紅花を置いてまた降りていった。
﹁これでも飲んで、待っててくれ﹂
バーテンダーの男は、小さなカクテルを紅花に渡す。しゅわしゅ
わと炭酸が入ったものでさくらんぼがちょこんとのっていた。紅花
はそれを受け取ると、ソファにちょこんと座る。
テーブル越しに座ったスレンダーなおねーさんがこっちを見てい
る。また、品定めするような目だ。
きれいな赤いカクテルだったが、それを口に含もうとは思わなか
った。
155
すんっと鼻を鳴らす。
鉄の臭いと、薬の臭いがした。
ああ、やっぱり。
鉄の臭いの元は、このカクテルではない。それと一緒に作られて
いたものの原料が混じったのかもしれない。
スレンダーなおねーさんのワイングラスから濃く漂ってくる。
ぞわりと全身に鳥肌が立った。
聞いていたはずだ。吸血鬼に噛まれると、体質が代わり、嗜好も
変わると。
当人たちは自分たちも本物の吸血鬼になると信じているのだろう
か。それとも、知らずに操られているだけなのだろうか。
もし、自分が別種になったと信じて、それを飲んでいたとしたら、
その真実を知ったときどう感じるだろう。
震える中、おねーさんが紅花に近づいてくる。タイトなドレスを
着ていて、真横に座る。
出るところは出た胸が急に目の前にあったので、びっくりした。
﹁ねえ? 血液型は何型?﹂
﹁⋮⋮O型です﹂
﹁そうなの、いいわ。私、O型好きよ﹂
156
妖艶な笑みを浮かべて紅花を覗き込んでくる。
肩にかけたショールの隙間から、青黒く変色した噛み痕が見えた。
赤い唇のむこうに白い歯が見える。八重歯は少し尖って見えたが
それは人間のものだ。
﹁ちょっと味見させてもらいたいなあ﹂
﹁だめですよ。そんなことをしては﹂
バーテンダーが中にはいる。
おねーさんは口を膨らませると、紅花から離れた。
それにほっとしながら、紅花はバーテンダーを見る。
﹁あの、友だちがここに来ているって聞いて﹂
﹁ああ。ここで待っているといいよ﹂
﹁いえ、すぐあいたいんです﹂
﹁それは無理だよ﹂
紅花が子どもだからだろうか。宥めるように言い聞かせる。ただ、
それは聞かせ慣れた台詞のようで、どこか薄っぺらかった。
﹁どこにいるんですか?﹂
﹁ちょっと、用事があるんだよ﹂
﹁どのくらいですか?﹂
﹁もうちょっとだよ﹂
吸血鬼に食われるまで待てというのか。それまで待てるわけがな
い。
157
不思議な感じがする。
ぞわぞわと全身に鳥肌が立っているのに、いつものアレは見えな
かった。こんな状況なら、アレが見えてもおかしくないのに。
もしかして、颯太郎少年にくっついてしまったせいだろうか。
それとも、自分にはまだ危険でないということか。
﹁ねえ、君﹂
バーテンダーが目を細める。
少しいら立っているようにも見える。
﹁そのカクテル、飲まないの?﹂
薄く開いた目から、血走った眼球が見えた。
その瞬間、紅花は思わず後ろに下がった。
紅花を押さえこもうとしたのか、バーテンダーの手がソファにめ
り込んでいた。
後ろから、おねーさんの手が伸びる。咄嗟にしゃがみ込んで、持
っていたポーチの中を漁った。
財布と携帯と、それから颯太郎少年がくれた粉袋が入っている。
なにに使うっていうのよ!
紅花がそれを持った瞬間、おねーさんの長く伸びた爪が袋にかす
158
った。
その瞬間、周りの空気が変わった。
異臭が袋からこぼれ出した。
なにを怖がるの?
弱点はたくさんあるよ。
颯太郎少年の言葉を思い出す。
紅花はむっとする。ならば、袋の中身をなにか伝えておくべきだ
ろう。
紅花は、袋に爪を引っかけると、そのまま引き裂いた。乾いた粉
が宙を舞う。
思わず鼻を押さえたくなる臭いだ。多少なら食欲をそそるソレだ
が、これはちと濃度が違う。
﹁っ!?﹂
げほっ、げほっと咳をするのは、バーテンダーとおねーさんだっ
た。臭いで鼻をやられたわけでなく、ぽつぽつと極端なくらい赤い
発疹ができている。
﹁な、にすん、のよ﹂
涙目でこちらを見るおねーさんには悪いが、紅花にはそんな余裕
はない。残りの粉をしっかりつかみ、周りの他の大人たちをけん制
する。
159
袋の中身はにんにくパウダーだった。
血の味を好むほど、吸血病に侵されたなら、このにんにくパウダ
ーはひとたまりもないだろう。
ゆるふわはどこにいるのだろうか?
周りをくまなく見るが、ゆるふわがいそうな場所はない。ただ、
フロアの一角にパテーションで区切られた場所があった。下の階と
同じ配置なら、そこには階段があるはずだ。
それに気づいて近づこうとするが、下の階から騒ぎを聞きつけた
のか、どんどん人がやってくる。
﹁おい、なんだ、これは﹂
﹁そいつ、そいつを捕まえろ!﹂
紅花にどんどん襲い掛かってくる。
にんにくパウダーを振りまいて追い払うけど、すぐに切らしてしま
う。
囮と言ったが、これはちょっと困った状況じゃないだろうか。
紅花は、すれすれで何度も避ける。伸びた手に掴まれたが、思い
切り振りほどくと、掴んだ本人が吹き飛んだ。
やりすぎた。
そう思うが加減できようもない。そんな真似したら、こっちが捕
160
まってしまう。三人ほど振りほどき、そのうち二人を投げ飛ばした
が、まだフロアには十人以上いる。いつのまに、バール状のものを
持っている人もいた。
これは当たったら痛い。
﹁⋮⋮こいつ、もしかして人外なのか?﹂
ぼそっと漏れた声が聞こえた。
うん、そうだよ。
だったら、諦めようぜ、と思ったが、続いた言葉は、
﹁どんな味がするんだ?﹂
だった。
思考まで吸血鬼になってしまっている。いや、古い吸血鬼と言っ
ておかないと、善良な穏健派吸血鬼に失礼だろうか。
投げ飛ばした二人も両手をだらんとさせて、幽鬼のように近づい
てくる。
これはやばい。
にんにくにやられた最初の二人も立ち上がっている。
その目はどろりと濁り、焦点が合っていない。
一人、ふらふらと出て行くゆるふわの目にそっくりだった。
161
催眠状態というやつだろうか。
冷や汗をかきながら、紅花はいつのまにか壁へと追いやられてい
た。
なんとか、一点突破しようと考えるが、二人、三人ならともかく十
人をこえるとさすがに取り押さえられるだろう。
そうなれば、躊躇なく噛みつかれ、血を吸われる。
いや、そんなことにはならない。ならないはずだ。
まだ、紅花には見えていない。
不気味で気持ち悪いアレがでてきていない。
アレがでてくると、紅花の身になにか起こる。怪我をしたり、襲
われたりするなにかが起こる。
今も、襲われているが、同時に妙に落ち着いていた。
アレが出てこない限り、なにか逃げ出す方法があるという、根拠
のない自信が生まれていた。
なにか、なにかがある。
ふと、天井がみえる。丸いスプリンクラーだ。そういえば、ここ
も禁煙だ、煙草の臭いがしない。
腰にぶら下がったポーチを見る。颯太郎少年からもらったライタ
ーと殺虫剤がまだ中にある。
いちかばちか。
162
紅花は腰のポーチから、ライターと殺虫剤を取り出す。そして、
ライターに火をつけ、それに殺虫剤を噴射した。
ボワッと言う音とともに、噴射した炎に一番驚いたのは紅花だっ
た。そのまま、天井まで炎が届く。
吸血鬼もどきたちは、一歩ひるむ。
吸血鬼は火に弱い、それはこのもどきたちにも適用されるらしい。
いや、こんな火炎放射器みたいな炎をつきつけられたら誰だってひ
るむだろう。
でも、狙いはそれではない。
炎に、スプリンクラーが反応した。
水が天井から流れる。
炎を消すために流れるそれは、殺傷力があるとはいえない。でも、
彼らには効いていた。
吸血鬼は流れる水を苦手とする。
迷信めいたものだが、それも本当だったようだ。
狂犬病の予防接種みたい。
それを思い出した。狂犬病は水を怖がるというが、吸血病にも似
たような反応があるようだ。
にんにくほどじゃないが、動きが鈍くなった奴らをかいくぐる。
びしょ濡れのまま、苦しむ吸血鬼もどきたちを避けて、パテーショ
163
ンの裏の階段を上った。
164
9、巣窟 後編
階段を上りきると、扉が見えた。ドアノブに手をかけると、すん
なり開いた。
中は、ワンフロアのそのまま使った間取りは変わらないが、これ
また違った空間が広がっている。
赤い絨毯が敷き詰められており、どこから運び込まれたかわから
ない天蓋付のベッドが置いてある。天上のシャンデリアは大きく、
淡い光で中を照らしていた。
雰囲気としては紅花の住んでいる家の客間に似ている。だけど、
こちらのほうが薄暗く天井が低い。雑居ビルの内装だと考えれば仕
方ないことだろう。
ぎらんと光る双眸があった。
薄暗い中、その男はくつろいでいた。椅子とテーブルはアンティ
ークだろうか、独特の風合いがある。
﹁お嬢ちゃん、どうしたんだい? ここからは、プライベート空間
だけど﹂
柔らかい物腰で言う。端正な顔立ちで、その服装はラフながら品
のあるものだった。いきなり連れてこられたら、どこかのお城の一
室で、貴族が優雅にくつろいでいると勘違いするだろう。
165
﹁すみません、知り合いがここに来ていると聞いて﹂
わざとらしい台詞をもう何回吐いただろうか。
嫌だなと思う。
気持ち悪い。
きれいな部屋なのに、ここには独特の臭いがこもっている。
ここは禁煙じゃないらしい、独特の煙草の臭いは、テーブルの上
の葉巻だろう。それに混じった鉄の臭い。
全身が総毛立つ。
さっきの吸血鬼もどきの群れが可愛く見えてきた。なんでまた、
こんなところに入ってきたんだろう、そう自問自答したくなる。
残っている煙草の臭いはゆるふわが漂わせているものと同じだっ
た。
青年は鼻を鳴らす。そして、顔を歪めて、紅花を見た。
﹁ずぶぬれだね。それになんか、臭いがするね﹂
スプリンクラーでずぶぬれで、さっきまでにんにくパウダーを持
っていたからだろう。みすぼらしいことこの上ない。
﹁そのままではなんだから、着替えたらどうかな?﹂
ゆっくりと立ち上がり、部屋の角にあるクローゼットを開いた。
白い柔らかな生地をふんだんにつかったワンピースが並んでいた。
166
ゆるふわが着ていた服に似ている。
ロリコン。
思わず口に出しそうになった。
顔に出ていないか心配になる。
じろじろと、紅花を見てなにやら値踏みしている。このビルにい
る連中は皆そうなのだろうか。
﹁せっかくの黒髪がずぶぬれで台無しだ。それにしても﹂
値踏みの目がさらに強く光る。
﹁その金色の目はとても珍しいね﹂
青年の目が輝いた。身体が強張り、動けなくなる。金縛りに似た
それは、あのとき粘性生物に食われかけたことを思い出す。
幻術だ。
吸血鬼が得意とするそれを、この青年は使っている。
彼がなんであるか、今更いうまでもないだろう。
吸血鬼がそこにいた。
吸血鬼は椅子から立ち上がり、紅花に近づいてくる。
動け、動け!
167
ぴくんと小指が動いた。
ぎゅっと足に力を入れる。
重い、けれど動く。だが、重い。
﹁顔立ちも少し違うね、どこかのハーフかい?﹂
吸血鬼の手が伸びる。
ふつふつと怒りがわいてくる。
怖いという感情よりもっと違う気持ちが上回る。それが、紅花を
拘束する術を妨げていた。
なにに怒っているかと言えば。
吸血鬼の手が触れそうになる寸前まで待った。
この前は、こういう場面で誰が助けに来ただろうか。
それを期待して、裏切られた。
なにかがバチンと切れる音がした。
﹁触んな!﹂
紅花は、勢いよく拳を振り上げていた。拳になにかが触れて、そ
れが勢いよく飛んでいく。
床に打ち付けられたと思ったら、バウンドし、壁にぶち当たった。
全身がじんじんするが、金縛りが解けて、自由に動けるようにな
った。
168
弾丸のように吹っ飛んだのは、近づいてきた吸血鬼だった。
吸血鬼は、そのままぴくりとも動かない。
紅花は、吸血鬼を殴った手を撫でる。
目を細めて、相手を見る。
やはり、動かない。ぴくりとも動かない。
なんだか、違う意味で不安になってきた。
紅花はそろり、そろりと近づいた。
﹁あ、あのー﹂
生きてますか?
間抜けな質問をした瞬間だった。
首が絞められた。
いきなり押し倒され、上から体重がのしかかった。
長い爪が首の皮膚をえぐる。
気道を押さえこんで苦しい。
﹁残念だったね。私にはそういう攻撃はきかないよ﹂
殴ってふっとんだはずなのに、吸血鬼の顔には傷一つついてなか
った。
169
大きく口を開ける。普通の人間とは違う、長すぎる牙が見える。
﹁人外か。まあいい。上物には違いない﹂
起き上がろうともがくが、今度は視線をしっかり固定され術をか
け続けられている。
息ができぬ苦しさもあり、唾液が口の端からこぼれる。
﹁ちょっと臭いがきついが、仕方ないね。先に、味見をしておこう﹂
ワンピースの襟を破かれる。首と肩をむき出しにされる。
ロリコン、変態と叫ぼうにも、舌が回らない。
てらりと輝く牙が紅花に近づいてきた。
﹁確か、銀の武器なら効いたよね﹂
何の気配も感じなかった。なのに、そのあどけない声が聞こえた。
そして、目の前の吸血鬼の首から血が流れていた。
﹁っ!?﹂
じゅわっと吸血鬼の血が蒸発していた。いや、沸騰している。そ
れを苦しそうに両手でおさえている。
紅花は吸血鬼の腹を蹴った。
さっきよりも明らかにあたったという感触がして、吸血鬼の身体
はまた吹っ飛ぶ。
170
﹁すごい脚力﹂
のん気な声は、紅花の真横に立っていた。
その手には銀色のナイフを持ち、足は靴を脱ぎ捨て、獣型のもの
に変化させていた。
颯太郎少年がそこにいた。
何の気配も感じなかった。それは、あの吸血鬼も同様だろう。な
にが起きたのかわからず、首を押さえのた打ち回っている。
猫の狩り、そのままだと思った。
単独行動をとる猫は、毛づくろいをし自分の臭いを消す。そして、
クッションのきいた足で、気配を殺し、獲物へと近づく。
紅花ににんにくパウダーを渡したのもこのためだとわかった。囮
と聞いていたが、怒りを覚えずにして何と言おうか。
﹁⋮⋮サイテー﹂
﹁ええっと、なにが?﹂
颯太郎少年はわけがわからないと言う顔で、吸血鬼のほうへと近
づいていく。
その顔は、まさに鼠を追い詰める猫そのものだった。もっている
銀のナイフはステーキナイフで心もとないのに、吸血鬼の顔はひど
く歪んでいた。
﹁最近の研究では、吸血鬼が銀の武器に弱いのは、それが彼らにと
171
って毒物だからと言われている。また、銀の武器以外きかないとい
うのも迷信である。吸血鬼にとって、常に幻術で相手を惑わすこと
が基本であり、再生能力も高いため、軽く傷ついた程度では即座に
回復し、それをなかったように見せることができる。つまり、ひた
すら攻撃を加えることで倒すのは可能だが、そこに至るまで人間が
持つことは皆無である﹂
少年は朗々と言い聞かせるように、口を動かす。
﹁幻術によって攻撃を当てさせたように錯覚させ、無傷を主張する
ことで相手に不安を与える。そこにさらに幻術をくわえることで、
相手を翻弄する。残念ながら、未だ幻術については、解明されてい
ない。催眠術の一種という説もあるが、それにしては強力すぎるた
めだ﹂
少年の足はいつのまにか、獣のものから人間の素足に戻っていた。
ナイフを突きつけたまま、颯太郎少年は吸血鬼を見据える。
﹁これ以上、なにも悪いこと考えないほうがいいよ。もうすぐここ
にいっぱい人が来る。あれだけ下の階に、吸血病患者がいるような
ら、弁解の余地はないよ﹂
かなり強気の発言だった。
聞いているこっちがひやひやしてくる。
紅花は、後ろからがたがたと足音が響いてくるのが聞こえた。
階段から誰かが駆け上がってくる。
172
﹁紅ちゃん! ドア、押さえて!﹂
颯太郎少年の言葉に紅花は慌てて階段に続く扉を押さえた。鍵を
かけて、チェーンをかける。近くにあったテーブルを倒し、それご
と扉を押さえこんだ。
ノブががちゃがちゃ動く。どんどんと叩く音が響き、ドアが破ら
れようとしている。スプリンクラーが止まり、下の吸血鬼もどきが
動き出したのだ。
﹁ちょっと! これ、どうするのよ!﹂
紅花が叫ぶ。おさえることはできても、破壊されては意味がない。
﹁がんばって!﹂
﹁できるかーー!!﹂
ぐっと拳を握る颯太郎少年に殺意が芽生えたときだった。
少年の視線が離れた一瞬を狙い、吸血鬼が動いた。走り出したか
と思ったら、その姿は黒い小さなものへと変わっていた。
大きな蝙蝠がそこに現れた。
蝙蝠はぱたぱたと飛びあがると、非常階段へと続くドアへと向か
う。
颯太郎少年はそこから入り込んだのだろうか。間抜けなくらいド
アが全開になっていた。
なにやってんの、馬鹿!
173
叫びたいが、紅花はテーブルでドアをおさえるので精いっぱいだ。
颯太郎少年は追いかけるどころか、それを悠長に目で追うだけだ。
なにやってるんだ!
巨大な蝙蝠は、非常階段へと出てしまう。
空を飛ぶ蝙蝠が外に出たら、もう追いかけられない。
なに、チャンスを逃がしているんだ!
呆然とする紅花を後目に颯太郎少年は悠長に歩き出した。
そのときだった。
外でものすごく派手な音がした。なにか、大きなものが落っこち
る音だ。
﹁仮説は正しかったのかな﹂
颯太郎少年は紅花の前に立つ。さっきまでがたがたうるさかった
ドアが急に静かになった。
﹁もう離していいよ﹂
﹁えっ?﹂
﹁大丈夫だから﹂
紅花の手をとって少年が引っ張り起こそうとした。
174
﹁⋮⋮﹂
しかし、起こせなかった。
﹁ねえ、体重何キロ?﹂
﹁だまらっしゃい﹂
紅花は自力で起き上がる。這い上がった際に、破かれた肩がむき
出しになった。
これなら、土いじりをしたときに来ていたデニムのままでいれば
よかったと思う。お気に入りの一枚だった。
﹁ごめんね﹂
少年はぽつんとそれだけつぶやいた。
少年がなんでこんなに落ち着いているのかわからない。
颯太郎少年が非常階段へと向かうのに、一緒についていく。
外はもう真っ暗で、周りには下品なネオンとそれに集る蛾がたく
さんいた。
﹁ちょっと見えにくい?﹂
颯太郎少年は、懐中電灯を取り出すと、階段下を照らした。何か
大きいものがぴくぴくと動いている。
なんだろうと、近づこうとすると、少年に肩を掴まれた。
175
﹁転ぶから気を付けて﹂
﹁転ぶ?﹂
意味が分からないまま、ゆっくり進むと、なにかぴんとはった糸
のようなものに触れた。
真っ暗でわからないがワイヤーのようだ。艶消しをしており、こ
れだけ薄暗いとまったく見えない。
そして、足元がやたらべたべたした。
﹁とりもちにも気を付けて﹂
﹁とりもち?﹂
階段の一段に男性用の革靴が張り付いていた。海外ブランドのけ
っこういいものだ。
意味が分からないまま慎重に降りていくと、そこにはさっき逃げ
出したはずの吸血鬼が地面に転がっていた。
全身にワイヤーが食い込み、片足は靴が脱げ、なぜかずぶぬれか
と思いきや、地面にはバケツが転がっており、なんだか妙ににんに
く臭かった。
せっかくの端正な容姿がもう情けないくらい曲がっていた。
﹁⋮⋮これって﹂
﹁吸血鬼は蝙蝠に変身するっていうけど、あれについて一つ仮説が
あるんだ。獣人なんかも変身するけど、吸血鬼が蝙蝠に変身するの
とは少し違う。変化する質量が違い過ぎるから。質量保存の法則を
176
ダンピール
かけ離れた能力は、それだけエネルギーを喰うと言われている。な
のに、吸血鬼はもとより半吸血鬼もその能力が使える個体がいる。
だから、実は幻術の一種じゃないかって説﹂
変身するのではなく、そのように見せるだけで、本体はそのまま
人の形だ。蝙蝠のように飛べるわけはないので、もし非常階段をで
たら、そのまま下に降りるはずだ。
というわけで、紅花が囮をがんばっている間、颯太郎少年はその
準備をしていたという。
非常階段の下の地面ににんにくを転がし、艶消ししたワイヤーを
階段に張り巡らせる。引っ掛かったところ辺りで、その段にトリモ
チを塗っておき、転んだはずみでバケツから水がかかるようにした
と。
﹁⋮⋮﹂
そして、現在少年は銀のナイフで吸血鬼の手足を突き刺していた。
命をとるつもりはないが、行動を制限させるためである。
縄で縛っているが、そこには銀糸がきらりと光っていた。
﹁高かった、銀糸。今月、もう鰹節買えないなあ﹂
そうのん気なことを言う少年を見て、紅花は呆然とするしかなか
った。
﹁⋮⋮あんただけは敵に回したくない﹂
﹁そう?﹂
177
あどけない顔をしたまま、少年は吸血鬼を転がした。
178
10、不死と獣
﹁なんか意外﹂
﹁なにが?﹂
吸血鬼を縛り上げ、それを紅花と颯太郎少年で運んでいた。正直、
紅花一人で持てる重さだが、だからといって一人で持つのは癪なの
でちゃんと少年にもやってもらう。
颯太郎少年は四階まで上がると、その吸血鬼をクローゼットの中
に押し込む。そして、念入りににんにくパウダーを振りまいて扉を
閉めたうえで、クローゼットを倒し、扉口を床に置く。
ものすごく念入りだ。
さっきも過剰防衛に思えるほど、吸血鬼を切りつけていた。
相手は食人鬼とはいえ、人型をしている。なのに、颯太郎少年に
全く躊躇はなかった。
見ていてすこし鳥肌が立った。
﹁そこまでしなくても﹂
面倒くさがりに見える少年には思えない。
﹁僕は怖がりだから、こうしないと落ち着かないんだ﹂
そう言って、倒したクローゼットの上にテーブルと椅子を重ねて
179
いた。
これも死亡フラグが見えるという弊害だろうかと紅花は考えつつ、
自分も他人のことをいえないかもと思い返してみる。
そういえば。
今のところ、少年の周りにアレは見えない。
ということは、こうして回避できたということだろうか。
紅花はほっとしつつ、何かを忘れていることに気が付いた。
ゆるふわはまだ見つかってない。
﹁ええっと、ユルカワさんどこだろう?﹂
﹁古床さんだよ﹂
少年のつっこみを受けつつ、フロアを見回す。
そういえば、もう一つ上の階があったことを思い出して、階段を
上る。
上の階は下と同じ壁紙と絨毯だったが、壁でいくつかに分けられ、
ソファやテレビなど近代的なものが並んでいた。対面式のキッチン
があり、ステンレスが鏡みたいに輝いていた。冷蔵庫は業務用みた
いな立派なものだった。
吸血鬼のくせに、垢抜けた生活感が浮き彫りになっている。
ざーざーと音がするのが聞こえた。
180
紅花は音をたどる。
お風呂場がある。
水の音がするというなら、誰か入っているのだろうか。
﹁いたー? 紅ちゃん﹂
﹁だめー!!﹂
紅花は颯太郎少年をお風呂場から遠ざける。
女の子のお風呂をのぞかせるなんてさすがにできない。
なんでまた、お風呂なのだろうと思う。
やっぱ綺麗なもの食べたいのだろうか。
そんなことを考えていると、なんだか腹立ってきた。女の子を何
だと思っているのだろうか。
紅花はおそるおそるお風呂場を覗き込む。
﹁古床さん、いますか?﹂
そっと覗き込む。湯気で曇りガラスがさらに曇っていて、中から
ザーザーお湯が流れている音がする。
﹁シャワー中ですか?﹂
音で聞こえないのかなと、思いながら紅花はあれ? っと首を傾
げた。
181
吸血鬼に噛まれてゆるふわ、もとい古床は日光アレルギーになっ
ていた。症状には他にもにんにくアレルギーがあるが、たしか流れ
る水も苦手だったはずだ。さっきいた吸血鬼もどきは皆苦手として
いた。
ごくん、と唾を呑みこんだ。
水じゃなくてお湯だったら問題ないなんて、屁理屈はないだろう。
﹁お邪魔します﹂
紅花はバスルームの扉を全開にした。
中にはシャワーだけが流れ、湯船にお湯があふれていた。
ざわざわと首すじの産毛が立った。
﹁颯太郎くん!﹂
紅花は、颯太郎少年のほうを見る。
颯太郎少年はのん気に冷蔵庫を開けるところだった。
彼の周りには真っ黒いうねうねしたものがまとわりついていた。
真っ黒なそれは目も鼻もなく、ただ大きな口だけが乱杭歯に唾液
をしたたらせていた。
﹁だめ!﹂
声が届くのが遅かった。
少年は﹁なに?﹂と振り返ったときには、冷蔵庫の扉が開いてい
182
た。
大きな業務用の冷蔵庫だった。
手を伸ばすが届くわけがない。磨き抜かれたステンレスのキッチ
ンに、冷蔵庫の中が映し出された。
青い青い顔をした、虚ろな目をした少女、古床が中に入っていた。
そして、その手には不似合いなボウガンが握られていた。
﹁っあ﹂
颯太郎少年の口から、妙に間抜けな声が聞こえた。ドンっという
衝撃とともに、背景がスローモーションに見えた。
颯太郎少年の胸に、矢が突き刺さり、後ろに倒れていく。少年は
その瞬間、何かをみたようだ。ステンレスキッチンのほうを向いた
まま納得したようにこくりと頷いた。
まだ百五十に満たない身体が倒れた。それに、呼応して、古床の
身体も倒れる。まだ操られていたということだろうか、冷たい身体
は真っ青だがそれよりも少年のほうが先だ。
紅花は、颯太郎少年に近づいた。
目は瞳孔が開き切り、口から赤い泡を吹いている。
全身が痙攣し、その胸にはボウガンの矢があった。
﹁⋮⋮っ﹂
183
紅花は頬を両手でかきむしった。
皮膚が爪に引っかかる。声が声にならない、ただ、ひどく歪んで
いる。
あふれる血液が止まらない。丁度、心臓の真上だ。
少年の痙攣がどんどん小さくなっていく。
何度も自分で経験したものだ。
主要な臓器を破壊されたら、ただ死ぬしかない。
それが、多少丈夫な獣人であろうと同じだ。
動かなくなって、冷たくなって死ぬ。
死んだまま、再び動き出さない、生き返らない。
それが、普通の人間、人外だ。
紅花とは違う。
ステンレスに映った自分の顔には、赤い爪痕が付いている。しか
し、血のにじんだそれは瞬く間に消えていく。
修復していく。
対して、少年の身体から流れた血は戻らない。修復しない。壊れ
たままだ。
彼に巻き付いていた黒いアレが縮んでいく、もう、仕事を終えた
と言わんばかりに小さく収縮していく。
184
死んでしまう。
考えている暇はなかった。
昔きいたことを思い出す。
﹃本当に必要なとき、大切な人にあげなさい﹄
それは、とても大切な儀式で、相手の人生を変える大変なこと。
よく考えて行うべき。
でも、時間がない。
紅花はキッチンの戸を開けた。並んだ包丁の中から小ぶりな果物
ナイフをとる。
そして、それを︱︱。
ぐしゅっと、音がした。赤い飛沫が顔にかかる。長さ十センチほ
どの刃が手のひらを貫通している。
自分で突き刺した。
痛みはあるけど、そんなこと気にしている暇はない。顔をしかめ
ながら一気に引き抜くと、拳をつくり、力を入れた。
赤い滴が垂れる。それを颯太郎少年の傷口に流し込む。じゅわじ
ゅわと炭酸のように血がはじける、少年の身体が大きく痙攣する。
我慢してね。
185
空いた手でボウガンを掴む。貫通した手で胸をおさえる。臓器が
出ないように押さえこむと、一気に引き抜いた。
少年の身体がはねる。それを押さえこみ、流れる血を送り込む。
血が流れる、少年に流れ込んでいく。
痙攣していた身体が段々落ち着いていく。
ぴくぴくと触れていた胸が動いている。
とくっ、とくっ。
何かが動き出しはじめる。
ゆっくり手を離す。
穴が開いた胸には薄皮がはっていた。
少年の身体の震えは止まっている。
念のため、ゆっくり胸に耳をくっつけた。
心臓は正常に動いていた。
紅花はほっと息を吐く。
よかった。
心の底から安心する。
186
目の前で死なれてはたまらない、そんな真似されたら寝覚めが悪
い。
自分が何をしたのか、実感がまだわかない。ただ、少年が一命を
とりとめた、それだけでほっとした。
あっ!
ほっとしすぎて、もう一人、倒れている人間がいるのを忘れてい
た。慌てて、古床を見る。
全身が冷たい。
紅花は古床を抱き上げると、ソファへと移動させる。 なにかないかと探し、もうこのさいこれでいいやと部屋のカーテ
ンを引きちぎった。分厚い遮光カーテンで古床を包む。
お湯かなにかで温めたほうがいいだろうか。
きょろきょろとポットがないか、ヤカンがないか探していると、
携帯が震えているのに気が付いた。
若ママからだった。
充電が半分以下になっている。ずっとかけ続けていたのだろう。
﹃紅花ちゃん? どうしたの、なにしてるの﹄
若ママの慌てた声が聞こえる。怒っているようだが違う。ただ、
心配しているのだとわかる。
187
すごく胸が痛くなる。でも、今は細かく説明している暇はなかっ
た。
﹁若ママ、ごめんなさい。でも、今すぐ来てくれる? 場所は⋮⋮﹂
どこだろうかと外を見てきょろきょろしていた時だった。
ぬるい空気が背中に漂ってきた。
あれ?
おかしいな?
ぷつ、ツーツーツー。
電話がいきなり切れた。
充電はまだ三割程度残っている。
アンテナも立っていたが。
ぴくぴくと動く自分の指が電話の電源を落としていた。
その指には、黒いぬめぬめしたものが絡みついていた。
思わず、携帯を投げ捨てて、手を振る。しかし、黒いぬめぬめし
たアレは紅花から離れない。軟体動物の足のように紅花にからみつ
いてくる。
かたんと音がした。
188
紅花が投げた携帯が誰かの足に当たった。
そこには、颯太郎少年がいた。
﹁颯太郎くん﹂
さすが獣人だろうか、もう立ち上がれるのかと思った。思ったが。
彼の身体には先ほどよりずっとたくさんのアレが絡みついていた。
そして、紅花にくっついているそれもまた、少年のほうから伸びて
いた。
どういうことだ。
颯太郎少年の死亡フラグは回避したはずだ。なのに今も少年の身
体にからみついている。
﹁颯太郎くん?﹂
颯太郎少年はふらふらと紅花に近づいてきた。
彼が近づくとともに、黒いアレが紅花にどんどん巻き付いていく。
以前見たイソギンチャクが魚を捕食しているような、そんな風に
からみつく。
実際、毒でも出しているのだろうか、身体の反応が鈍く動けなく
なる。
動けない紅花に颯太郎少年が近づく。その手を伸ばし紅花の左手
を掴んだ。刃物で刺し、貫通した掌。
189
しかし、その傷痕はもうない。赤い血糊がかたまっているだけで、
その痕跡すら見つからないだろう。
﹁っあ!﹂
少年はそれをどうしたかといえば、顔の前に持って行き、大きく
口を開けた。
ざらり。
ネコ科特有のやすりのような舌が、紅花の手のひらを舐めた。赤
く固まった血糊がかすめ取られ、濡れた唾液の後ができた。
﹁なっ、なにす⋮⋮﹂
抗議する暇なく、また舐めとられる。
全身がぞくぞくする。
ペットのミケに舐められているのとは違う。自分と同い年の、し
かも男の子に手のひらを舐められている。
だが、鳥肌の理由はそれだけじゃなかった。
掴まれた手が黒いアレにからめ捕られていく。少年の振れた箇所
からどんどん、紅花を蝕む。
どういうことだ。
すると、﹁グルルッ﹂と獣の喉が鳴る音が聞こえた。
ぽたり、粘性の液体がしたたっている。
190
こんなに長かったっけ?
少年の口から八重歯がのぞいていた。
そこから唾液が落ちていた。
それから、手の感触がもぞもぞする。
紅花を掴んでいる少年の手は、いつの間にか前脚にかわっていた。
毛皮に覆われた手、大きな肉球が触れて、鋭い爪が伸びていた。
アメショーなのだろうか。
白地を基本に黒い縞模様が走っている。尻尾も一緒だ。虎模様自
体は珍しくないが、白黒はっきりした縞は見たことがなかった。
﹁⋮⋮ちゃん﹂
少年がなにか言っている。
何を言っている?
﹁紅ちゃん﹂
﹁⋮⋮なに?﹂
少年の顔を見る。
輪郭が変わっていた。つるりとした幼い輪郭の上に白い毛皮がか
ぶさっていた。
牙が伸び、頬にかけて黒い縞模様が走っている。
191
そして、人間らしい耳は毛皮に埋もれ、いつも元気よくはねてい
た頭から何かが生えてくる。
耳だった。
獣らしい耳だ。
ただ、その形は三角というより丸く、猫の形状とは言い難かった。
猫と言うより、おそらく︱︱。
﹁紅ちゃん、逃げ⋮⋮﹂
少年の小さな声は、己の喉から出るうめき声にかき消された。
恐ろしい肉食獣の鳴き声。
白い毛皮に黒い縞模様。
大きな前脚。
頭についた大きな丸い耳。
どうして気づかなかったのだろうか。
それは、猫とは似て非なる生き物である。
そして、彼にまとわりつく死亡フラグの意味をようやく理解した。
なにを勘違いしていたんだろう。
192
颯太郎少年は他人の死亡フラグが見える。
でも、紅花が今まで見てきた死亡フラグはすべて自分のものだっ
た。
少年と同じように今回たまたま、他人のものが見えたというのか?
違う、違う。
いつも通り、自分のフラグを見ただけだ。
ただ、颯太郎少年にまとわりついていたから、彼の死亡フラグと
勘違いした。
それだけだ。
本当は。
﹁逃げて﹂
少年の口はそう動いていた。でも、同時に大きく開かれていた。
紅花の両肩は、大きな前脚二つにおさえこまれていた。
彼の姿はもう獣人というより、半獣と言ったほうが正しいだろう。
全身を毛皮に覆われた颯太郎少年。
彼にまとわりつく死亡フラグは、彼から派生していた。
そうだ、そういうことだ。
193
ああ、もう最悪。
恐怖とか泣きたいとかいろいろある。けど、目の前の獣が泣きな
がら大口を開けているからどうすればいいのだろうか。
可哀そうに見えるなんて言ったらすごく馬鹿すぎる。だから、実
際、自分が馬鹿なんだって思う。
肩に激痛が走る。
涙をいっぱい浮かべたけど、それをこぼすわけにはいかず、仕方
なく食らいついてくる頭を、その大きな耳を握って我慢した。
今回だけ許してあげる。
だから、楽にしとめてよね。
みしりと骨が砕けた。
意識が遠のいていく。
咀嚼音が聞こえたが、もう何も見えなくなる。
なにも⋮⋮。
⋮⋮。
こうして、紅花は十八回目の死を迎えた。
194
〇●〇
ああ、おっかねえな。
双眼鏡を眺めながら、ヴォルフは思った。斜め向かいの雑居ビル。
いい感じにカーテンを剥いでくれたので、中がよく見えた。光源は
ネオンくらいしかないが、夜行性のヴォルフにとって夜のほうが眩
しくなくてちょうどいい。
肉食動物が草食動物を食らう、そんな当たり前の光景だが、それ
がともに人の形をしていれば異様だろう。いや、今、片方は獣だろ
うか。想像以上に立派な毛並にヴォルフはぞくぞくした。
これは雇い主も喜ぶだろう。
それにしても、えぐいな。
いや、今日まで吸血という行為を見てきたヴォルフにとってそれ
は、ごく普通の当たり前の弱肉強食だったが、肉と血はなんだか違
う。なんというか生々しさだ。血を吸うことが基本であり肉を食ら
わない。だから、調整すれば餌は何度でも再利用できる。
だけど、あれは無理だろう。
頸動脈からやられた。大量の血が流れ、それを肉ごとすすり食っ
ている。
しかも、それを同じ年代の子ども同士でやっていた。
趣味が悪すぎる。
195
だが、それを仕掛けたのがヴォルフだった。
ある実験に加担するために。
肉を食らっていた少年が呆然としている。獣化がとけ、ただの血
まみれの子どもがいる。
その目の前には、血まみれになり事きれた少女がいる。端正な顔
立ちを真っ赤に染め、肩と首の肉が引きちぎられていた。その肉は、
呆然とした少年の腹におさまっている。
さて、どうなるだろうか。
少年は動けず、少女は死んでいる。
時間が止まったまま、どれくらい経っただろうか。
ヴォルフの主観では十秒ほどだったが、少年にとっては何十分、
何時間、何十時間にも感じられただろう。
ぴくりと動かぬはずのものが動いたらどう思うだろうか。
少女の全身が痙攣する。床にまき散らした血が、生き物のように
動く。食い散らかされた肉片が少しずつかたまっていく。
それらは少女の身体へと戻っていく。それでも破損された部分は
補いきれない。なので、ゆっくり他の身体の部位から、補填してい
く。
196
ふざけた能力だ。
どういう仕組みになっているのか、未だ解明されていない。これ
がわかれば、人類にとって何よりも福音になるだろう。
少女が虚ろな目のまま、身体を起こした。
その顔立ちは幼いながら、独特の色気を持っていた。人形のよう
に切りそろえられた長い髪に、琥珀色の目。和と洋が見事に入り混
じった空気に、将来が楽しみになる。
あのビルの王を演じていた吸血鬼にとっては、とても美味しそう
なお姫さまだったろうに。
だが、本当に貴重なのはその容姿ではなく、その血肉に宿った力
だった。
現在、人外で一目を置かれている存在として、不死王の一族があ
る。その不死王の娘、それだけで誰もが目の色を変えるだろう。
その血肉を与えられたものに、不老不死の力、その断片を授ける。
それが、不死王の祝福であり、それに劣るものの下位互換の能力が
その血族にも宿っている。
ただ、奪おうとするものには呪いを与えるといういわくつきのも
のだが。
ああ、うらやましい。そんな力が欲しい。
でも、呪われるのが怖い、どうにかして祝福を貰えないものだろ
197
うか。
そんな私利私欲の権化たちのお手伝いをする金の亡者がヴォルフ
だった。札束のために、いけ好かない吸血鬼の巣に入り込んだ。
プライドだけでどこか浅はかな吸血鬼を利用し、舞台を揃えるた
めに。
不死王の娘の友人をさらい、それを助けさせるため。その際、友
人を重傷に追い込み、祝福を与えるため。
出来過ぎた舞台だったのに、とんでもない誤算がでてしまった。
なんだよ、あの獣。
ぶるりとヴォルフの尻尾が震える。そうだ、ヴォルフは名前の通
りの種族だ。
これは武者震いだと誤魔化すため、ヴォルフは前髪をいじって気
を紛らわせる。一か所だけ白く染めたメッシュは、かっこ悪いと吸
血鬼もどきどもに笑われたが、お前らこそかっこ悪いだろうと言い
返したくなる。
ただ、吸血病にかかっただけなのに、自分が高貴な吸血鬼に生ま
れ変わったと信じていた。
愉快な話だ。
虚ろだった少女は、ようやく気をとりもどしたらしい。全身をか
き抱き震えていた。震えていたと思ったら、次の瞬間、目の前の少
198
年を殴り飛ばしていた。少年は弾丸のように吹っ飛び、ソファにめ
り込んでいた。
不死王の血族、不死者はとんでもない怪力だというのは本当のよ
うだ。
そろそろ、ここを離れたほうがいいかもな。
ヴォルフは髪に隠れた耳をぴくりとさせる。
スピード違反の車がどんどんこちら側に近づいてくる。尋常では
ない速さだ。
不死王の血族を敵に回すな、それはヴォルフの家で代々言われて
いることだ。
敵に回したくない。
それくらいわかっている。
たとえ、不死者の長、不死王が数年前から休眠期間に入っている
と噂に聞いていたとしても。
命大事に。
それがヴォルフのモットーだった。
199
幕間、とある獣人の災難
不死王とその血族について。
不死王、一般的にそう呼ばれる。容姿は黒髪、金目、彫の深い顔
立ちをしている。
身長は百八十五前後、状態により数センチ変動する。体重に至っ
てはその変動はさらに激しい。基本は百五十キロ前後と、比重を考
えると一般人の二倍近くある。これは、筋肉や骨、血液に至るまで
人と構成が違うことを如実に示している。
その構成は、不死王の血族、眷属にも準ずる。
現在、純粋な意味で不死者と言える個体は不死王と呼ばれるオリ
たいさい
ジナル一体のみである。最古の記録で紀元前、伝承によればさらに
ほう
前にそれらしい生き物は存在する。 また、人型をしていなくとも、﹃封﹄や﹃太歳﹄は不死王の肉の
ことを示しているのではないかという説がある。
その理由としては、不死者の増え方が理由に上げられる。
オリジナルの不死王に血肉を与えられたものには、不老不死に準
ずる力を持つことができる。人魚の肉とよく似た効用だが、人魚の
場合、拒絶反応があり摂取することで多くの個体が死亡する。
不死王の場合、その血肉を与えられることは、祝福と言われ、現
200
在のところ拒絶反応は現れた例はない。その能力は、不死王の血族、
眷属にも下位互換として持っている。
ただそれは、祝福として血肉を摂取した場合に限る。
不死王およびその血族、眷属、以下不死者の意図しないところで、
血肉を摂取した場合、その力は呪いとして降りかかる。
不死者の祝福は、相手の肉体をより死ににくくする。不死身では
なく、死ににくくする。
驚異的な再生能力は、手足を千切ろうと、内臓を潰そうと、首を
斬りおとそうと再生する。ただ、それにも制限があり、体内にある
不死者の細胞がなくなった時点で効力を無くす。
再生の上限をこえた場合、その不死者は死亡する。
不死者の祝福については、与える不死者の持つ能力と与えられる
血肉の量、そして与えられた者の細胞の適合性によって能力は大幅
に違ってくる。
基本、不死王の近親者ほど力が強い。能力も遺伝するが、混血を
重ねるごとに力は弱まっていく。便宜上、不死者は、不死王の血縁
もしくは祝福を受けた中で、一度絶命してもよみがえることが出来
る者を言う。
その定義は曖昧であるがゆえ、歴史上、不死者であることを知ら
ずに天寿を全うした例もある。死後、不死者の血縁が現れたことで
明らかになった場合もある。不死者の寿命はその受け継いだ血肉の
量、体質によってまちまちである。
201
現在、公式に不死王以外の個体でもっとも長寿なものは、不死王の
伴侶とされている。千歳を超え、なおかつ三男二女を不死王との間
にもうけている。
その次に長寿の個体は、その長子であり同じく齢千をこえる。今現
在、不死王の血族の中で不死王に続く力の強い個体であり、現在、
不死王の孫、ひ孫にあたる個体はすべてこの長子の流れを汲むもの
である。
しかし、実質一族をまとめているのは、長女と二男である。それ
には、能力面というより精神的面が強い。
長く生きた個体ほど、人格にぶれが大きくなるのが不死者の特徴
であり、一世紀ほど前から不死王およびその伴侶の人格は著しく変
わっている。
また、不死王は突如、休眠に入ることがある。休眠期間中、誰か
らも邪魔されない場所へといき眠り続ける。それは、半年から二十
年とそのときの状態によって変わるとされる。数世紀に一度の割合
であるとのことで、その時点で不死王が人間とまったく違う時間軸
で生きていることがわかる。
不死王という存在は、人と同じ形をして、なおかつ繁殖も可能で
ありながら、まったく未知の生物である。
どうして、生殖が可能であるかという点も謎ながら、その異常な
再生能力も解明されていない。
ただ、比較的、わかっていることは、不死王の血肉にはプリオン
タンパク質に似た性質があるということだ。ゆえに血肉を与えられ
た個体は、食らうことで体内を変質させられる。だが、現在地球上
にあるプリオンには、そこまで複雑な変質をもたらすものは存在し
ない。ゆえに、プリオンと同じものとして扱いには困っている状態
202
である。
地球より元からあるものかどうかすらわからない。
それが不死王という存在である。
ぺらぺらとレポートを眺めて、ヴォルフはため息をついた。
かなりかみ砕いて、口語的にわかりやすくしてあるらしいが、そ
れでも眉間にしわを寄せる。
文章が十行以上並んでいる点で、ヴォルフにとって苦行でしかな
いのだ。半分も読まずに投げる。
白い前髪部分をいじる。
ヴォルフの頭は悪くないが、学がない。この極東の島国と違い、
ヴォルフの母国では獣人に大きな差別意識が残っている地方がたく
ワーウルフ
さんあった。
そんな中、人狼として生まれたヴォルフは、物語の悪役として扱わ
れ義務教育の大半を過ごしてきた。耳や尻尾を出そうものなら、火
をつけられることもあるくらいだ。
人狼とばれた時点で、学校をさぼるようになったのはいうまでも
ないし、それからろくでもない奴らと付き合い始めた。そんな奴が
まともな職につけるわけがない。
しかし、人間に擬態する方法を完璧にマスターしたら、小遣い稼ぎ
203
の方法はいくらでもあった。
その頃、ようやく人狼が他より優れた生き物だとわかるようにな
り、名前をヴォルフと使うようになった。昔の名前は、どうだった
ろうか、ごくごく普通のありきたりな名前だったことだけ憶えてい
る。
十代半ばから、この島国出身の男に気にいられた。理由としては
鼻のいい番犬が欲しいとのことで、もってくる仕事もうまみが多か
った。自然とそいつの傍にいるようになり、嫌でもカタコトながら
この国の言葉を覚える羽目になった。
ち
そいつも数年前におっ死んじまって、仕事がいきなり減った。
それでも食って行けたが、こちらの言葉がわかる獣人を探してい
ると言われてそのまま海を渡った。
その仕事もとうに終わったが、なんとなく住みついている。仕事
も死んじまったおっさんの知り合いというのがいて、そいつに斡旋
してもらっている。
尻尾に火をつけられないだけ、気楽な国だと思う。戸籍は以前の
仕事で死んだ奴のをありがたく頂戴したので、住むところも確保で
きている。
別に好きじゃないが、悪くもない今の生活で、持ってこられたの
が今の仕事だった。
﹁別に獣人じゃなくてもいいんじゃねえの?﹂
ヴォルフは電話の相手先に言った。送りつけられた資料をパラ読
204
みし、半分も理解しないままライターで火をつける。安っぽい鉄の
灰皿じゃ、大きさが足りなかったようで、テーブルに燃えカスが落
ち、慌てて消した。
電話の向こうから、なにやら笑い声が聞こえる。
外の雑音だろうが、こっちとしてはまるで千里眼でのぞかれて笑
われている気がしてならない。とても腹が立つ。
真っ黒になったテーブルをしかめ面で眺めたまま、電話を続ける。
﹁そいで。今度はなんだって?﹂
吸血鬼の根城に忍び込めとかいういかれた奴だ。今度は、何をし
ようと言うんだ。
﹁はあ? 次は学校? 中学校﹂
学校か、それならばまだいい。中学校と言ったらあれだ、まだ義
務教育中のなにかだ。正直、一番頭にくる年代だろうが、病気臭い
群れの中に混じるよりずっといい。
﹁あれか? この間の奴だな。そいつら観察すればいいのか。だけ
ど、大丈夫か?﹂
確か一度顔を合わせている。多少、髪型や格好を変えるが気付か
れやしないだろうか。物覚えが悪い子だったらいいが。
そんなヴォルフに、依頼主はとんでもないことを言い出した。
﹁⋮⋮美容外科は予約してる?﹂
205
信じられない一言とともに、安アパートの呼び鈴が鳴った。
﹁⋮⋮迎えもよこしたから安心しろ?﹂
相手の言葉を反芻しながら、自分の身の危険をさっして、窓から
飛び降りた。
だが、相手は何枚も上手だった。
携帯電話を片手に、車から手を振る依頼主がいた。
すでに先回りされていた。
こうして、ヴォルフは二十数年の付き合いの顔とおさらばする羽
目となった。
206
11、祝福と呪縛
小さいころからずっと言われてきたことがある。
﹁耳は見せちゃだめよ。見せるのはとても恥ずかしいことだから﹂
獣人の耳は四つある。少なくとも、颯太郎は四つある種類の獣人
だ。そういう獣人は人間との混血が多い。母さんも同じく耳が四つ
ある。
一組は本物の耳で、普段は髪に隠れている、もう一組は人間っぽ
い耳でこれはほぼ飾りといっていい。人間との混血で、耳の形だけ
残ったとか、人間に紛れ込むために擬態として進化したとか言われ
ている。そのため、普通にしていれば、特に獣人と気づかれること
はない。
そういう獣人が本物の耳をだすことは酔っぱらったおじさんが道
端でげーげー吐いたり、幼稚園でおもらしすることよりも恥ずかし
いと聞いたのでちゃんと母さんの話を聞くことにした。母さんも耳
が出ないようにいつも気をつけていた。
何度か母さんの耳を見たことがある、三角の黒い耳で父さんが二
人きりのときだけ出していた。﹁素敵だよ﹂とつんつんつついてい
たけど、颯太郎が見ているのに気が付くと二人とも、世界が終った
みたいな顔をして固まった。
多分、二度と覗き見はしないほうがいいんだろうな、と幼子なが
207
らに思った。
おじいちゃんはそんな二人を見てすごく羨ましそうにしていて、
そのたびに、おばあちゃんに飛び膝蹴りを食らっていた。ひいおば
あちゃんはそれを見て、ものすごく笑っていたのでけっこうひどい
ひいおばあちゃんだと思う。ひいおばあちゃんはおじいちゃんの母
さんだ。
おばあちゃんからも言われたことがある。これも絶対約束だよと
言われたことだ。
﹁危ない目にあっている人がいたら助けなさい。いつかお前のため
になるから﹂
危ない目にあう人ってどういう人だろうか。多分、人っていうか
ら人間は人だろう、颯太郎は半分人外だけどそういう意味で人外も
人だと考える。じゃあ、駄目なのは食人鬼だろうかと区別をつける。
困った人は助けなさいって、幼稚園でも言っていたか。ちゃんと
守る、大丈夫だって言ったら、ぎゅっと抱っこされた。
﹁助けなさいね、そうすればお前のためになるからね﹂
よくわからないけど、おばあちゃんはとても悲しそうにしていた。
その意味がわかるのはしばらく後のことだった。
ある日、鏡に映っていたのは自分にそっくりなおにいさんの顔だ
った。でも、その顔は元気がない。元気がないと思ったら、口から
血を吐いていた。ころんと首が転がって、その向こうにとても怖い
208
何かを見た。
何を見たかまでは覚えていない、ただ、人ではないことだけはわ
かった。
それをおばあちゃんに話したら、痛いくらい抱っこされた。
﹁助けるから、絶対助けるからね﹂
ずっと泣きながら抱っこされた。
おばあちゃんの背中越しに鏡が見える。少し大人な自分の顔がう
つる。さっきとは少し雰囲気が違う。でも、結末は同じで転がって
いく首。
それからだろうか、颯太郎の目にこれから死ぬ人の顔が見えた。
おばあちゃんの言うとおり助けた人もいた。助けられなかった人
もいた。
それに意味があるのかわからなかったけど、助けられる努力をし
た。結末はいつも一緒じゃなくて、なにかするごとにかわっていく。
颯太郎の鏡の姿も変わっていった。でも、結末だけは変わらなか
った。
ただ、その変化は、誰かを助けたあとによく起こった。
もしかしたら、誰かを助けると未来が変わるのかなと思った。お
ばあちゃんが人助けをしなさいと言ったのはそのせいかなと思った。
不思議なのは、死相が見える人はみんな人じゃない生き物が関わ
209
っていた。人や人外もだけど、たまに妖怪の類も関わっていた。
颯太郎には力が足りない。子ども一人にできることは限られる。
だから、知識で補うことにした。
足りないものを補うことにした。
酷い奴だなって颯太郎は思う。
誰かを助けるのは、結局自分のためでその人のためだって思って
ない。だから、できるだけこっそりやることにした。お礼を言われ
るだけ、気まずかったし、何より他人の死が見える能力ってあまり
よくないことらしい。おばあちゃんから引き継いだその能力だけど、
おばあちゃんもとても苦しんでいた。
たぶん、その能力のせいで何度も血を見てしまうからだろう。あ
まり、そういうのは得意じゃないってわかった。
颯太郎はそういうのはけっこう平気だった。
たぶん、獣人だからそういうのが得意というのがあるのだと思っ
た。深く考えたことはなかった。
考えたことはなかった。
鶏の鳴き声が聞こえる。田中さんだ、朝から張り切らなくてもい
210
いのに。
布団をかぶって眠る。
その次に、目覚ましの音が鳴る。
がちゃんと消して、もう一度寝る。
するとしばらくもしないうちに、襖が思い切り開いた。
﹁こらー! 早く起きなさい!﹂
布団をひっぺがすのは母さんだった。
眠い、すごく眠い。
布団に張り付いてこらえる。
それでも母さんは無駄にパワフルなので布団ごと颯太郎を振り回
す。
振り回すのだが。
いつもとちょっと様子が違った。
ちらりと薄目を開けて母さんを見る。
﹁あんた、ちょっと大きくなった? なんだか重いんだけど﹂
﹁そう?﹂
よくわからないやと起き上がる。今ならギリギリご飯を食べて、
間に合うだろう。いや、お隣さんの車に乗せてもらったら、あと三
十分は楽できるだろうか。
211
﹁⋮⋮﹂
やっぱり、止めよう。電車に間に合うかなと逆算しながら、制服
に着替える。
﹁もう、早くご飯食べてよね﹂
﹁はーい﹂
着替えて軽く顔を洗ってから、居間に向かう。
居間には父さん以外全員がそろっていた。確か、父さんはフィー
ルドワークとやらで、地方にいっている。
おじいちゃんとひいおばあちゃんが座っている。母さんとおばあ
ちゃんはおかずを準備していた。
今日は焼きジャケだったので、少しテンションが上がった。
ご飯をよそっていただきますと手を合わせる。
おじいちゃんは無言でテレビを見ていて、ひいおばあちゃんはも
う食べ終わったのか、仕事の準備をしていた。ひいおばあちゃんは
まだ現役で、大学で勉強を教えているすごい人だ。
シャケを口に入れる。
﹁⋮⋮﹂
なんだろう、いつもと味が違う気がする。
美味しいのは美味しいのだけど、ちょっと物足りない気がする。
212
ごはんをぱくぱく食べて、シャケも皮まで残さず食べる。
お腹が空いているのだろうか。
物足りないので、ご飯をよそう。
シャケは無くなったので、おかかをかけて食べる。
﹁野菜も食べなさい﹂
おじいちゃんが、ホウレンソウのおひたしを寄せてくれる。鰹節
がいっぱいかかっているのでそれも食べる。
ご飯がなくなった。
もう一度よそう。
﹁全部食べろとは言ってないぞ﹂
﹁お腹すいた﹂
気が付けば、座卓の上にあるおかずは全部食べていた。炊飯器の
中も空になっていた。
﹁成長期かなー﹂
のん気に言うのは、母さんだった。
おじいちゃんとおばあちゃんは無言で、ひいおばあちゃんだけは
﹁いってきます﹂といって仕事に出かけていった。
213
ひいおばあちゃんは、家族の中で一番クールだ。大概のことでは
動揺せず、孫が猫又の嫁を連れて来たときも、一人茶をすすってい
たらしい。
﹁颯太郎﹂
﹁なに?﹂
おばあちゃんが真剣な顔をしていた。おじいちゃんは素知らぬ顔
をしつつも、じっと颯太郎を見ていた。
お母さんだけは夕飯のごはんの量をどうするか考えていた。
﹁ちょっと様子が変ね。今日は学校を休みなさい﹂
﹁えっ? いいの﹂
思わず嬉しそうな声を上げたら、おばあちゃんから拳骨を食らっ
た。
うん、我が家で一番手が早いのはおばあちゃんだ。
おじいちゃんもお仕事にでかけて、母さんは洗い物をしている。
おばあちゃんも仕事に行くかと思ったら、お休みした。
今日は二度寝できると思ったら、おばあちゃんに着替えなさいと
言われた。その服はどう見ても、よそいきのもので着替えるのが面
214
倒なのでいつも通りTシャツに短パンに変えようとしたら、また殴
られた。
おばあちゃんは怖い。
おじいちゃんは年中〆られている。変な夫婦だと思う。
どこへ行くかと思ったけど、車には乗らない。歩いてついて来い
という。服装は黒い訪問着を着ていた。着物を着るのでどこかに買
い物でも行くのだろうかと思ったが、違うらしい。
ついたのはお隣さんだった。
ぐらんと頭が痛くなった気がした。
その上に、ぽんとおばあちゃんが手をのせる。
﹁あんたはちゃんと頭下げる用意しておきなさい﹂
ぐっと顔を歪めるおばあちゃんに、颯太郎は大人しく頷いた。
呼び鈴を鳴らし、出てきたのは山田家のおねえさんだった。たし
か、紅ちゃんの義理のおねえさんだと聞いた。
おばあちゃんは深々と頭を下げる。
颯太郎も真似して頭を下げる。
215
﹁申し訳ないことをしたわ﹂
おばあちゃんは何か知っているのだろうか。
颯太郎はよくわからないと首を傾げるが、くんっと鼻を鳴らした。
とても美味しそうな匂いがすると思った。
なんだろう、お魚でも焼いているのだろうかなと思う。
﹁いえ。その様子だと、特に副作用はないみたいね﹂
﹁ええ、まったく﹂
﹁なら、仕方ないわ。それはうちの紅花が選んだことだから﹂
紅ちゃんがどうしたと言うんだろう。
玄関を上がって、スリッパに履き替える。
見た目は洋館だけど、中は土足厳禁なのが島国っぽいなあと颯太
郎は思う。
エントランスには左右に伸びた階段があって、おねえさんが上が
るのにおばあちゃんと颯太郎は続く。コの字に伸びた廊下を左に曲
がって、つきあたりの部屋に入る。
美味しそうな匂いがドアを開けると一層強くなった。
なんだろう、この感覚は。
とても全身の産毛が立つ感覚。
思わず涎があふれそうになって、ごくりと飲みこんだ。
その音に注目したのは、おねえさんともう一人部屋の中にいた人
216
物だった。
背の高い男の人だった。
黒い髪に金色の目をしている。色彩から、紅ちゃんのおにいさん
だとわかる。この前来た時もいた気がしたけど、颯太郎は一人で帰
るように言われた。
おにいさんはお姫さまが眠るようなベッドの前に座っていた。そ
の足元に、三つ頭がついた猫が片目を開けて丸くなっている。たし
か名前はミケと聞いた。
ベッドに近づくほど美味しそうな匂いがする。
でも、同時にものすごい忌避感がある。
これ以上近づいてはいけないと、なにかがいっていた。
﹁その子が颯太郎くん?﹂ おにいさんが言った。
おばあちゃんが頷く。
颯太郎も頷く。
﹁そう、元気そうだってことはそういうことなんだね﹂
そういうことってどういうことだろう?
颯太郎が首を傾げていると、おにいさんは立ち上がった。そして、
ベッドのカーテンを開いて見せる。
217
中には紅ちゃんがいた。
少し顔色が悪そうだ。
なんだろう、体調が悪いのかな。
﹁君がそうしたんだよ﹂
おにいさんは笑いながら颯太郎を向いていった。
﹁えっ?﹂
なんだろう、なんで紅ちゃんの体調が悪い理由が自分なのだろう
か。
あれ?
なんかおかしいな。
颯太郎は、ふと思い出す。
昨日はなにをしていたっけ?
すごく疲れていて、一日中寝ていた気がする。
とてもお腹が空いたので、こそっとおやつを食べた。おじいちゃ
んがこっそり持っていた内緒のおやつなので、あとでばれたら怒ら
れるかなとか思ったけど食べた。
それでは足りなくて、ジャム用にとっておいたイチゴを全部食べ
て、庭に出てサクランボの木に登って食べた。
218
卵は冷蔵庫からとるとばれちゃうので、飼っている地鶏のものを
とってきて全部茹でて食べた。
お肉とお魚が食べたかったけど、なくて我慢した。
そのあとすごく眠くなって寝たら、朝になっていた。
なんでお腹が空いたんだろう、なんで疲れていたんだろう。
その原因になったことを思い出そうとする。
あれ?
一昨日はどうやって帰って来たんだろう。
一昨日の土曜日は確か、紅ちゃんを誘って⋮⋮。
思い出そうとして、口をおさえる。胃液が上流してくる。
﹁今更、吐きだしても無駄だよ。床が汚れちゃうから﹂
おにいさんの物言いは冷たい。
でも、仕方ない。
吐いたところで何になる。とうに消化してしまっただろう。
あのとき、颯太郎は抗えぬ欲求を満たした。
香り立つ肉に食らいついていた。
219
颯太郎は、紅花を食べた。
それが事実だ。
居間に通されて、紅茶を出される。
甘い香りがする焼き菓子が置かれたが、とても手を付ける気にな
らなかった。
﹁不死者のことはどれくらい知ってる?﹂
おねえさんにたずねられた。
﹁うちにある蔵書は大体、目を通しています﹂
父さんが集めた本だ。暇さえあれば見ている。暗記するほどじゃ
ないけど、どれも軽く読んでいるはずだ。
﹁つまり、ある程度は端折っていいレベルの知識はあるわ﹂
おばあちゃんがフォローする。
おにいさんは紅茶を飲む。どうぞ、と言われると飲まなくてはい
けない気がして、颯太郎は口に含む。
元々、紅茶は好きじゃないし、味もわからない。今日は特にわか
らなかった。
220
﹁じゃあ、不死者の祝福と呪縛を知っている?﹂
﹁はい﹂
不死者には、その血肉を与えることで相手に祝福を与え、奪われ
ることで呪縛をかける。
祝福は怪我を治すことから、その身体を不死者に作り変えること
もできる。
グール
対して、呪縛は相手にどんなに餓えても苦しくても死ななくする。
恐ろしいことに、これを受けたものの多くが食人鬼にかわる。
颯太郎は、どうだったろうか。
紅ちゃんの肩に食らいつき、貪った記憶しか残っていない。
もしかして、昨日からずっとお腹が空いているのはそれが原因だ
ろうか。
その不安を取り除くように、おねえさんが首を振る。
﹁安心して。それは普通の不死者化よ。これから、食欲も体重も増
すけど、食人鬼になったわけじゃない﹂
﹁今のところね﹂
﹁不死男くん!﹂
おにいさんはおねえさんに怒られてしゅんとなる。尻に敷かれて
いるのだろうか。
おねえさんが代わりに話しだす。
221
﹁紅花は、颯太郎くんを呪っていないわ。ちゃんと祝福という形で、
君に血肉を与えたの。だけど、一つ問題があって﹂
﹁ええ、問題でしょうね﹂
おばあちゃんが颯太郎の頭を掴んだ。
そして、髪の毛をまさぐる。普段、髪の毛に埋まっている丸い耳
を出す。
﹁先祖返りですもの﹂
先祖返り?
それはおかしいなと颯太郎は思う。颯太郎の父さんは普通の人間
だけど、母さんは猫又だ。ハーフ猫又だから、別に先祖返りじゃな
い。
﹁人虎の﹂
人虎?
たしか大陸のほうにいるという獣人だ。
﹁颯太郎は祖先に人虎の血が混じっているわ。この子は変わった猫
だと思ってたみたいだけど。まあ、そう言い聞かせたのはこっちだ
から﹂
おばあちゃんが呆れた顔で言った。
﹁猫じゃないんだ﹂
222
﹃違う﹄
なぜか、おにいさんとおねえさんの両方から否定された。
獣耳に卑賤はないっておじいさんは言っていたので、あまり変わ
らないものと思っていた。
薄々思っていたが、やはり違うようだ。
そんなことより人虎だと何が問題なんだろうか。
﹁古い人虎の血が出ている。古い人虎は何を食べていたかわかるか
い?﹂
﹁⋮⋮人﹂
夜な夜な虎に姿を変え、人を襲っていたという記録を読んだ。古
い文献でどこまで本当かわからないが、獣人の中にはそういう気質
の者が多く、一部は食人鬼として存在している。
﹁君は、紅花に傷を治してもらったみたいだけど、その後、君は紅
花を襲った、それであってる?﹂
﹁⋮⋮はい﹂
抗えぬ欲求だった。ただ、甘い匂いがして、それを食いちぎりた
くて仕方がなかった。
目の前にいるのはクラスメイトなのに、身体がその肉を欲してい
た。
身体が言うことを聞かず、思考ができなかった。
223
気が付いたときには、血まみれで息絶えた紅ちゃんがいて、口の
中は鉄の味でいっぱいだった。
驚いて、放心して、そのあと、紅ちゃんの身体が修復しはじめた
のは覚えている。
その後、思い切り張り飛ばされた。
たしか、﹁初めてだったのに!﹂とか叫んでいた。
そこで記憶が途切れた。
たぶん、一昨日の記憶が飛んでいるのはそこのところが原因な気
がする。
おにいさんは、少しニヒルな笑いを浮かべて頬杖をついていた。
おばあちゃんはそれにぴくりと眉を動かしたが、何も言わなかった。
おねえさんは不安そうに二人を見ている。
﹁紅花はおいしかっただろう?﹂
にやりと笑うおにいさんに颯太郎はぴくりと動く。
﹁うちの家族の中でも、一番若い個体だし、なにより匂いがいいら
しい。あの子の周りには、いつも捕食者が狙っている。狂わせるな
にかが漂っているらしい﹂
おにいさんは淡々と述べる。
捕食者、それが誰を意味しているのかわかる。
224
﹁生意気盛りで腹が立つが、あれでも妹なんでね﹂
﹁すみません﹂
謝っても意味がないと思う、でも謝るしかない。
おにいさんは颯太郎の顔をじっと見る。じっと見て何かを考えて
いる。
﹁紅茶は飲んでくれたようだね﹂
半分ほど、飲んだ。味はまだわからない。
﹁なにをすればいいんでしょうか?﹂
考えるべきだろうけど思い浮かばない。代わりに食いちぎられた
らいいのだろうか。
﹁なんでもするかい?﹂
﹁⋮⋮﹂
颯太郎は頷く。
おばあちゃんが悲痛な顔で見ている。
﹁君はちょっと特殊な力を持っているみたいだよね。お婆さん譲り
のさ﹂
﹁貴方におばあさんなんて言われたくないわ﹂
少しとげのある言い方で、おばあちゃんが返す。
225
﹁でも、孫でしょ﹂
﹁それは事実ね﹂
﹁かな美さんの力を受け継ぐっていうなら、こっちも好都合なんだ﹂
かな美とは、おばあちゃんの名前だ。おにいさんもおばあちゃん
と元々知り合いなのだろうか。
﹁うちの妹を守ってもらえないか﹂
﹁!?﹂
颯太郎は目を見開いた。
﹁すでに一回そういう目にあっただろ。そういうことだよ﹂
﹁でも、それは⋮⋮﹂
もし、颯太郎がまた、この間みたいに狂ってしまったらどうする
気だ。助けるどころか、襲いかねない。
﹁一昨日のように狂うことはもうないだろう。君には理性というも
のがある。それを失わなければいい﹂
﹁そんなことが可能ですか?﹂
﹁可能じゃなくて、やれっていってるんだよ﹂
ぞくりとする目線が颯太郎に突き刺さった。
これは、この間の吸血鬼の比じゃないな、と颯太郎は感じる。
すごく怖い。本能的に、こいつを敵に回すなと言っている。
226
そんな雰囲気がその視線から感じられた。
﹁それに、祝福を与えたのは紅花だ。妹の意思も尊重したい。でも、
それだけじゃ甘すぎるから﹂
青年はにっこりと笑って、紅茶を指さした。
﹁僕の血を飲んでもらった﹂
笑顔で衝撃の告白をするおにいさんに、颯太郎は思わず﹁うげっ﹂
と口をおさえた。
﹁不死男くん!!﹂
﹁山田!!﹂
おねえさんとおばあちゃんが、おにいさんに向かって叫ぶ。
﹁それでも甘いほうだと思ってるよ。寛大すぎる処置だよ﹂
急に味がしないと感じていた紅茶から、鉄の味が広がった気がし
た。
﹁紅花になにか危害を加えるなら、君が飲んだ僕の血が、君を呪縛
する。量は少ないけど、僕は紅花よりずっとその力が強いから﹂
おにいさんはナイフを手にすると、己の指先に傷をつけた。そし
て、半分残った紅茶に血を流しいれる。
赤い血が紅茶をさらに赤くする。
227
﹁それを飲み干してくれない? それぐらいできるだろ?﹂
ナイト
妹の騎士くん、と。
颯太郎は、血の味のする紅茶を飲み干した。
家に帰るとき、おばあちゃんも颯太郎も無言だった。
おばあちゃんは颯太郎の手をじっと握りしめていた。
そして、山田家と日高家の中間あたりで、ふと足を止めた。
﹁おばあちゃん?﹂
﹁⋮⋮ごめんね﹂
なんでおばあちゃんが謝るんだろう。
首を傾げるとぎゅっとさらに手を握りしめられる。
﹁こうなることはわかっていたのよ。避けようと思ったら避けられ
たの﹂
おばあちゃんは颯太郎よりもずっと広く未来が見えるらしい。
﹁でも、あえて颯太郎には、こんな目にあってもらった﹂
﹁どうして?﹂
﹁颯太郎が死なないためだから﹂
228
何度やっても変わらない未来を変えるためだ。
だから。
﹁不死者になってもらったの﹂
おばあちゃんはそう言った。
颯太郎はふと、田んぼの方を見た。水を張ったばかりの田んぼは
鏡みたいに颯太郎たちの姿を映しだしていた。
そこには、いつも通り、少し大人の颯太郎がうつっている。
そして、いつも通り、絶命した。
ただ、変わったのは、うつった颯太郎の服装が以前と変わってい
た。
それから、死ぬまでの時間がほんの少し長くなっていた。
ただ、それだけだった。
229
12、授業妨害とおにぎり
あれから何日たったかとか、よく覚えていない。
ただ、今朝、カレンダーが六月になっていたので、数えてみると
一週間以上たったということがわかった。
ホンファ
あの日、紅花は颯太郎少年に食われた。ガッツリ食われた。もう
左肩から首にかけてごっそり持って行かれた。
牙が食い込み、肉をさかれ、生きながら咀嚼された。
そのときの少年の瞳は、ただの獣であり、理性なんてものはなか
った。
彼の耳は丸い獣のもので、尖った猫の耳のものとは違った。
なにがネコよ。
確かにネコ科は同じだけど、全く違う。
トラだった。
白いトラ、ホワイトタイガーだ。
毛並が輝くように綺麗だった。
少年の顔や身体は毛皮に覆われ、獣人というより獣になっていた。
一度死にかけたところを、紅花の血で甦らせた。しかし、そのた
230
めに彼の中に眠っていた本能を呼び覚ましたのだろう。足りない血
肉を補うため、一番近くにいた紅花を襲った。
いや、違う。
紅花の匂いに誘われたのかもしれない。
普通の人間にはわからないが、紅花は食人鬼や妖魔の食欲を刺激
する匂いを持っている。捕食の対象として見られる、なんともつい
ていない体質だ。
獣人の中には、祖先に人を食らう者たちが多くいた。現代でも、
ごくごく一部だが、そのように暮らす獣人もおり、それらは食人鬼
として扱われる。
颯太郎少年が死にかけたのはある意味自業自得だ。
大人に任せておけばいい案件に首をつっこんだからだ。
たとえ、それがクラスメイトの死を防ぐためとはいえ。
でも、それを考えると、紅花だって自業自得だ。
颯太郎少年なんて無視していればよかった。
若ママに嘘までついて、彼に付き合う理由なんてなかった。
彼を甦らせることもなく、放置していればよかった。
はははっ。
思わず笑いがでてきた。
たぶん、それは無理だ。
231
絶対無理だろう。
なんだかんだでお人よしなんだ、と紅花は思う。若ママに似たの
かもと考えると、少しうれしい。
あのあと、紅花は蘇って、とりあえず颯太郎少年をどついた。
それくらいの権利はある。
そう思ってやったら、やりすぎたらしい。
ふっとんで頭をキッチンの角にぶつけて、颯太郎少年はまた生死
の境をさまよってしまった。
その後、すぐ大人たちが迎えに来た。
若ママが雑居ビルに車のまま突っ込んだ。
応援を頼んだのか、その後すぐ姉さんと兄さんと愚兄が来た。ニ
ートは電車賃がないから来なかったみたいだ。うん、ニートだから
仕方ない。
若ママはともかく他の三人の前で、颯太郎少年のやらかしたこと
は誤魔化しようがなかった。
緊急で家族会議が行われたみたいだけど、紅花はその後眠ったた
め何を話していたのかわからない。
それから何日か眠り続けて、起きたら口に血の味がした。たぶん、
眠っている間に、誰かが血をくれたのだろう。そのため、起きたと
きには傷は完全に塞がっていた。
お父さんの血があれば、もっと早く目覚めただろうけどしばらく
無理だ。
いつになったら冬眠から覚めるか本当に不思議に思う。お母さん
232
もそれに付き合わなくてもいいと思う。
カレンダーで月曜日と気が付くと、紅花はどうしようかと腕を組
んだ。
数秒考えて、そしてクローゼットの制服をとる。
着替えてリビングに向かう。
﹁おはよう、若ママ﹂
﹁おはよう。どうしたの? その格好?﹂
パタパタとスリッパの音を立てながら、若ママが近づいてきた。
愚兄は、ミケを膝にのせてテレビを見ている。
﹁どうしたって言われても、学校いかないと﹂
義務教育期間中だし、なにより明後日から中間テストだ。いい点
数はとれないかもしれないけど、テスト範囲くらい聞いておきたい。
﹁まだ休んでもいいよ?﹂
﹁行くよ。でも、電車には間に合いそうにないから、送ってくれる
? あっ、お弁当ないか﹂
紅花はそう言うと、食パンを一斤つかみ、ブルーベリージャムを
塗りたくって口に入れた。トーストしたほうが好みだけど、一枚一
枚今から焼くのは面倒だ。
﹁由紀ちゃん、行っちゃうの?﹂
愚兄は腹が立つ甘えた声を出す。
233
﹁ええ、お留守番お願い。今日、お休みなんでしょ。できれば、お
掃除とお洗濯と庭の草むしりと、来週の日曜日に町内会のどぶ掃除
があるから、あらかじめやってくれると楽なんだけど﹂
﹁えーっ﹂
﹁そしたら、帰った後時間が空くんだけど﹂
﹁やっておくよ!﹂
愚兄はチョロイと思う。若ママにかかれば、どんなラノベヒロイ
ンよりもチョロイと思う。
若ママはせっせとお弁当の準備をした。いつもは小っちゃいおに
ぎりを重箱に詰めるけど、今日はサッカーボールみたいなのを作っ
ている。
﹁手伝う﹂
紅花は、ふと思いつき、同じようにおにぎりを作った。
久しぶりの学校は別にいつも通りだった。
いや、いつも通りというには少し静かだった。たぶん、テスト前
からかもしれない。
授業中でもないのに、みんな席を立たずに、教科書を見ている。
紅花は教室の一番後ろの席につく。
234
あれ?
隣に座っている人が違った。
いつもなら、そこにクッションに顔を埋めた颯太郎少年がいたの
に、今日は名前も顔も覚えていない男子生徒が座っていた。
﹁⋮⋮ねえ﹂
﹁えっ、なに山田さん?﹂
話しかけると妙に嬉しそうに返事された。向こうは名前を憶えて
いるのに、こちらは知らないのが申し訳ない。
﹁どうしてそこに座っているの?﹂
特に他意はないが、妙にショックを受けた顔をされる。
﹁あっ、ああ。日高が変わってくれってさ。後ろだとつい寝ちゃう
からって﹂
﹁そうなんだ﹂
紅花は教室の前を見る。
クッションに顔を半分埋めながら、鰹節お特用パックを食べてい
る颯太郎少年がいた。
ご丁寧に、教卓のすぐ前だ。
﹁それより、肺炎で入院って大丈夫?﹂
﹁あっ、うん﹂
そういう理由で休みをとったのかと思う。紅花は物好きにも話し
235
かけてくる隣のクラスメイトに生返事を繰り返しながらテスト範囲
どれくらいだろうと考えた。
一時間目は社会だった。
天井から降りてくるスクリーンに、資料が映し出される。テスト
勉強に当ててくれるかなと期待していたけど、どんどん次の授業に
進むらしい。
颯太郎少年は、クッションを片付けてやる気かと思っていたが、
先生の持つレーザーポインタの光に反応していた。
たぶん、瞳孔は真ん丸になっていると思う。
先生は大変やりにくそうだった。
二時間目は生物だった。
今日は、テスト範囲のおさらいのため教室で座学だった。
颯太郎少年は、煮干しを食べているところを、先生に止められて
いた。
進化論だかなんだかの話で、魚の絵が教科書にたくさん載ってい
た。
教室の前方から、ものすごいお腹の音がした。
236
発信地は颯太郎少年のお腹と見て間違いなさそうだ。
おそらく、紅花の血肉を食らったことで、体質が変わっているの
だろう。不死者の燃費は、超高級車並みに悪い。
最初、煮干しを食べるのを止めていた先生だが、食べていいよと
諦めていた。
三時間目は数学だったが、ぶーんと蠅が飛んできていた。少年が
反応している。尻尾がピョコンとでて、蝿を目でおっていた。机の
上に止まると、おしりをふりふりさせてかがんでいた。
なにが起きたのかは、想像にお任せする。
四時間目、果てていた。
間食用の鰹節と煮干しが切れたらしい。
ただ、腹の音で先生の声をかき消しながら、クッションに顔を埋
め、省エネモードに入っていた。
ようやく午前中の授業が終わると、紅花はいつも食事をとってい
る文芸部部室ではなく、別の場所に移動していた。
いつもより重いスポーツバッグを抱え、広い校内を歩く。
この学園のいいところは緑が多いところだと思う。
だから、けっこう校舎内にいろんな生き物がいる。野鳥も多いし、
237
リスもいるみたいだ。ただ、リスについては触ってはいけないと注
意書きが書かれている。たしか、病原菌かなにかもっているからだ
ったと思う。
学園の東側に行くと、特に緑が多いところを見つける。
転入初日に行こうとしてやめた場所だった。
鳥かごのような形の骨組がそこにあった。その中心に大きな木が
一本生えて、その周りにいろんな植物が生えている。
昔はもっとちゃんとした温室だったけど、今は骨組を残すのみだ
った。
それでも、内部は誰かが手をくわえているのか綺麗に整えられて
いる。
その中に、見覚えがある影を見つけた。
古びたベンチの上で、颯太郎少年がもぐもぐとお弁当を食べてい
た。小鳥が周りに集まっていて、ぴょんとはねた髪の毛を引っ張っ
て催促している。少年はご飯粒を地面にばらまくと、それに小鳥が
集っていた。
紅花は大きく息を吸って、吐いた。
心臓がばくばくしている、左肩に引っ張られるような疼きを感じ
る。
でも、それだけだ。
238
もっと、深い感情を持つべきところかもしれないし、普通はもつ
だろう。
それがないのは、紅花の育った環境が起因しているからかもしれ
ない。
一度、苦手意識を持ったら早めに対処しなきゃダメ。
そう若ママが教えてくれたことを思い出す。
そうだ、せっかく学校へ来たんだから、ここのところははっきり
させないといけない。
颯太郎少年がこういう風に当たり前に学校へ通うなら、紅花も同
じように振舞うべきだ。
そう言い聞かせて、前に進む。
小鳥がざわつく。
食べかけのご飯粒を放置して、みんな飛び去ってしまう。
颯太郎少年がベンチに座ったまま、紅花を見る。
﹁こんにちは﹂
﹁⋮⋮こんにちは﹂
笑顔がどちらも堅い気がした。
そういうもんだろうと思う。紅花だって気まずいけど、颯太郎少
年はもっと気まずいはずだ。
239
挨拶はしたものの、会話が続かない。互いに見つめ合ったまま、
数秒が過ぎる。
そして、先に動いたのは颯太郎少年だった。
食べかけのお弁当を一気に口に入れて片付けて、ベンチから立ち
上がる。
﹁ここ、すごくいい昼寝スポットだよ﹂
﹁きいた気がする﹂
﹁良く眠れるよ﹂
﹁寝ないの?﹂
﹁僕はごはん食べ終わったから﹂
ふーん。
紅花は半眼で少年を見た。
そこにあの獰猛な虎はいなかった。ただ、なにか表情を窺う飼い
猫みたいな雰囲気だった。
今、彼の周りにあの気持ち悪いアレはない。
﹁ストップ!﹂
立ち去ろうとする少年を止める紅花。
そのままずかずか近づいてくる。
それに対して距離をとろうとする颯太郎少年。
240
﹁止まれって言ってるでしょ!﹂
改めて命令する。
こういうどこか偉そうなところは、姉さんに似ていると言われる
が、今日はもうそれでいい。傲慢な女王様みたいな姉さんを見習お
う。
立ち止まった颯太郎少年の腕を、有無を言わさず掴む。少年がび
くりと動いたのは無視する、そんなの紅花には関係ない。
無理やりベンチに座らせる。
﹁ええっと﹂
﹁だまりなさい﹂
あくまで上から目線だ、そうだ、それでいい。粘性生物から助け
てくれたし、肋骨をばきばき折ってしまったけど、今は紅花の方が
貸しがある。
ひん死の重傷を助けたのに、いきなり食べられたのだ。これって、
訴訟で十割勝てる案件だ。
黙った颯太郎少年の前に紅花はスポーツバッグをまさぐる。
中から大きなサッカーボールみたいなおにぎりを取り出す。
巨大おにぎりは二つ。きれいなものといびつなものがラップに包
まれている。
紅花はむっと、二つのおにぎりを見て、眉間に皺を寄せる。
241
そして、形の悪いほうを颯太郎少年に差し出す。決定権は紅花に
ある、歪なんて言わせない。
﹁ええっと﹂
受け取った颯太郎少年は困惑している。
紅花は大きくふんぞり返る。ふんと鼻息を荒くする。
ここはちゃんとはっきりさせておかないといけない。
﹁そのお弁当じゃ、全然足りないでしょ! 空腹になってなんでも
かんでも口に入れられると困るの! ちゃんとご飯食べなさい!﹂
颯太郎少年のお弁当は大きかったけど、あれじゃ全然足りない。
また、空腹で授業妨害されてはたまらない。
﹁いい。それ食べなさい、残さないでよ。せっかく作ったんだから﹂
ふんっと鼻を鳴らすと、紅花はベンチの上に座った。颯太郎少年
との間にスポーツバッグを挟んで座る。
そして、若ママ特製のおにぎりを頬張る。
颯太郎少年はラップをはがすと、口に入れた。
﹁おかか味?﹂
﹁いただきます言った?﹂
﹁いただきます﹂
242
紅花ももぐもぐとおにぎりを食べる。
勢いよく食べ過ぎて、喉に詰まりそうになる。すると、横から颯
太郎少年がお茶を差し出す。
遠慮なく飲ませてもらう。
ひたすらもぐもぐとおにぎりを頬張る時間が過ぎる。
おにぎりを全部食べ終わったら、颯太郎少年がちらりと紅花を見
る。
﹁⋮⋮優しいね﹂
﹁うるさい!﹂
﹁なんか口悪くなった?﹂
﹁うるさい!!﹂
紅花は、今度はバケットに取り掛かって頬張る。
頬張って飲み込むと、少年を見る。
﹁⋮⋮祝福をしてあげたから、私のために働きなさい﹂
その間は、祝福し続けてあげる。
傲慢な女王様を気取ったって問題ないはずだ。
そういう役割に徹するのだ。
﹁うん、わかった。お姫さま﹂
少年がするりと返したのを聞いて、思わず紅花は立ち上がり顔を
真っ赤にした。
﹁ん? なに?﹂
243
何も思うことはないのか、こいつ。
そう思いながら、紅花は妙にむかついて、颯太郎少年の頭を引っ
ぱたいた。悪いけど八つ当たりだ、八つ当たりだけど、謝る気はな
い。
地面に少年が埋まってデスマスクがついたけど、ご愛嬌だ。
どうでもいいが、テストが始まる前に、颯太郎少年は元の席に戻
された。
理由については改めて語る必要はない。
244
13、眼鏡と愚兄とニート
中間テストは、案外悪くなかった。
理由としては、わからない部分は若ママが丁寧に教えてくれたし、
比較的テストは優しめに作られていたからだ。
悪くなかったといっても、よくもなかった。
返ってきた答案を見せると、愚兄が鼻で笑ったので脛を蹴ってお
いた。
あとで、若ママに〆られていたが、どうみてもご褒美の顔だった。
そういうわけで、ここ最近は実に平穏な一日を過ごしていた。
クラスメイトたちは、紅花に対して当たらず触らずな態度をとる
ようになっていた。そういう立ち回りだと理解したらしい。
少し変わったと言えば、お昼ご飯の時間くらいだろうか。
﹁おにぎり、たらこ?﹂
﹁バターしょうゆ味﹂
森林浴をしながらのごはんは美味しい。
晴れた日はここでごはんをとるようになっていた。
颯太郎少年のお弁当の量は段々増えていって、三段重ねの特大タ
ッパーで打ち止めになった。なったが、まだお腹は余裕らしい。自
245
分の頭の大きさと変わらぬおにぎりを食べている。
少し歪なおにぎりだ。
紅花は若ママが作ってくれた小さなおにぎりをもぐもぐ食べる。
サッカーボールおにぎりみたいな大味じゃなくて、ひとつひとつ丁
寧に具やふりかけが違うのだ。最近は、ひじきと梅の生ふりかけが
紅花の好物だ。
お腹いっぱいになったら、ベンチに横になる。
颯太郎少年は大きな木の幹の前に丸くなっている。毛づくろいを
するように手の甲で顔を撫でている。
﹁ねえ、颯太郎﹂
紅花は少年のことを呼び捨てにするようになった。そうだ、紅花
のほうが、立場が上なんだから、敬称なんてつける必要なんてない。
颯太郎少年なんて周りくどい、颯太郎で十分だ。
﹁なーにー?﹂
颯太郎は眠いらしく間延びした声だった。
﹁ここ、誰が手入れしてるの?﹂
ひそかな疑問だ。
誰も来ないのによくやるなあと思う。
﹁用務員のおじいちゃん、もう定年過ぎてる人﹂
246
委託で来ているらしい。温室が現役だったころから手入れしてい
たので、今も時間が空いたときにやっているとのことだ。
﹁この間、腰痛がひどいって言ってたから、さすがにそろそろ辞め
るよってさあ﹂
﹁そうなの﹂
﹁最近では、ここらへん、野良犬が多くてそれも追い払うのも大変
なんだって﹂
学校内に入ってきたら大変だろう。だからといって保健所に頼む
のも気が引けるようで、大人しい小さいうちに拾ってきては、飼い
ならして飼い主を見つけていたらしい。
校内にいる猫も餌付けとともに、避妊手術をしていたらしい。
﹁そういう仕事もしてるんだ﹂
それは少し残念な気がした。
なんか優しい用務員さんなんだと思った。
﹁だから、こんな庭作れるんだろうね﹂
骨組だけの鳥かごみたいな温室に支柱のように大きな木、その周
りの植物は色とりどりで、季節ごとに綺麗な花を咲かせるのがわか
る。
こういう場所はぜひともとっておきたい。
﹁次来る用務員さん、この仕事引き継いでくれるといいなあ﹂
﹁いいねえ﹂
そういう真面目な人ってそうそういないと思う。世の中、さぼれ
247
るならさぼりたいと思う人が多いはずだ。
山田家も基本働き者が多いが、一人どうしようもない奴がいる。
愚兄は一応働いているので、愚兄ではない。
ふと、紅花は颯太郎を見た。
﹁ねえ、颯太郎って兄弟いないんだよね?﹂
﹁うん、一人っ子だよ。前に弟か妹が出来たんだけど、生まれなか
ったんだ﹂
﹁そう﹂
悪いことを聞いたかなって思う。
そう言えば、獣人と人間のハーフは生まれにくい。遺伝子の差異
で子ども自体ができにくかったり、虚弱な個体ができやすかったり
するらしい。
だが、稀に強い個体も生まれると聞く。
そう考えると颯太郎が先祖返りだということも理解できる。個体
として強かったから、ハーフとして今まで生きてこれたのだろう。
ハーフ獣人が少ない割に、先祖返りで人間同士の間に獣人の形質
を持ったものが生まれる率が高いのはそこにも原因がある。
数は少ないものの個体として強いハーフ獣人は繁殖力も強いとの
ことだ。
うん、深くは考えないでおこう。
それにしても、随分穏やかに育ったものだと感心する。確かに、
紅花を襲ったことは変えられようもない事実だが、今の颯太郎は完
248
全に猫だ。しかも、ただの猫じゃなくイエネコにしか見えない。
紅花は家の関係で何度か人外の集会に参加したことがある。その
とき見た虎型の獣人はとても気性が荒かったことを覚えている。
人外の中には不死者の血肉を狙うものが多くいる。若ママと姉さ
んに、離れないでといつも集会のときには言われていた。
子の二人がいるときは、他の人外たちは近寄ってこない。多分、
相手にして敵うと思わないからだろう。
﹁紅ちゃんはおにいさんがいたよね。けっこうおっかない﹂
﹁おっかない?﹂
おっかないのは、姉さんだ。
紅花が眠っているうちに、颯太郎は紅花の兄弟たちに会ったのだ
ろう。成り行きとはいえ、あれだけ血肉を与えたのなら、彼の不死
化は始まっているはずだ。今、こうして颯太郎が普通に学校に行っ
ているのも、紅花が眠っている間に兄弟たちが色々やってくれたの
だと思う。
﹁姉さんじゃない? 兄さんは、三人いるけど﹂
﹁おねえさんは怖くなかったかな。三人もいるんだ﹂
驚いた様子で颯太郎が聞き返した。
﹁うん。そこそこ頼りになる眼鏡に、使いものにならないニートに、
存在が害悪な愚兄がいる﹂
﹁へえ、ニートがいるんだ、大変だね﹂
﹁そう。お金が無くなると、妹にもたかってくるの﹂
249
﹁ろくでもないニートだね﹂
早く仕事見つけてほしいわ、と思いつつぼんやりしながら上を向
く。伸びた木の枝と温室の骨組の隙間から青い空が見える。
そのまま目を瞑ると、ゆっくり寝息を立てた。
その日の放課後だった。
若ママの迎えはまだ続いていた。
もう少ししたら、ちゃんと電車通学しようと思うけど、もう少し
だけもう少しだけと甘えていた。
いつも通り、ホームルームと掃除を終え、帰ろうとするとちくん
となにか視線を感じた。
第六感というのだろうか、監視されているような雰囲気。
ちらっと周りを見てみる。
中庭が見えるがもうそこにはあの粘性生物はいない。
死亡フラグも見えない。
気のせいかな。
紅花はいつも若ママを待っている校門へと向かった。
250
ちはる
翌日、雨が降っていたので、温室には向かわず文芸部の部室に行
った。千春さんがいつも通りノートパソコンをかたかた鳴らしてい
た。
﹁こんにちはー﹂
﹁こんにちは﹂
そう言ってキーボードを打つのをやめない。それにしてもどうや
って蹄でキーボードを打っているのか謎だ。
本当に謎だ。
紅花は椅子に座ってお弁当を食べ始める。今日は、朝から曇りが
ちだったので、おにぎりは余分に作っていない。
﹁そうだ。山田さん﹂
カタカタと音を鳴らしながら、千春さんが話しかけてきた。
﹁なんですか?﹂
紅花はお茶を飲みながら聞き返した。
﹁新しい用務員さんが来たんだけどさ、知ってる?﹂
ああ、やっぱり変わったんだと紅花は思いながら、﹁そうなんで
すか﹂と感心したふりをした。
251
﹁ああいうのっておじさんしかこないと思ってたんだけど、かなり
若い人だったわ﹂
千春さんが目をきらきらさせていった。
﹁しかも、かなり格好良かったの﹂
﹁そうなんですね﹂
意外にもこういうところはミーハーなのだなと紅花は思う。
ゴーレム
リザートマン
正直どうでもいい、校内に住むにゃんこの世話と温室の手入れを
してくれたら、相手が岩男だろうと、蜥蜴人間だろうと関係ないと
思う。
﹁そういう話も食いつかないか﹂
千春さんは少し残念そうに紅花を見た。生返事だったのがばれた
らしい。
﹁じゃあ、こういう話題はどう?﹂
千春さんが紅花にノートパソコンを向ける。そこには、なんだか
妙な掲示板があった。
﹁なんですか、これ?﹂
﹁いわゆる学校裏サイトってやつかな﹂
ああ、と紅花は手を打った。これがテレビとかで有名な奴かとま
じまじと見る。想像していたのと違うのは、携帯じゃなくパソコン
から見ているせいだろうか。
252
中身は、先生の名前を呼び捨てで書いてあったり、とある生徒の
名前を名指しで書いてあったりした。
﹁⋮⋮﹂
正直、あまり気分がよくないものだとわかった。
そっと目を離す。
﹁山田さんの話題も一時期上がってたけど、見る?﹂
﹁遠慮しておきます﹂
どんなことが書かれているかわからないし、こういう場所に上が
る話題なんて聞かないほうがいいだろう。
精神衛生上良くない。
でも、普通、転校生とはいえ、こんなところに名前を出すなんて
本当に趣味が悪いと思う。
せっかく大人しくしているのに台無しだ。
﹁皆、暇なんですか? そういうの、書くのって﹂
﹁暇というか、なんかねえ。もし、そういうの書かれる筋合いがな
いのに書かれていたら、胸を張っておくといいわ。つまり、相手が
自分に嫉妬していることだから。私も自分の名前があるとすごくぞ
くぞくするもの﹂
﹁⋮⋮﹂
けっこう曲者なのかな、と紅花は千春さんを見る。見た目は織部
253
先生に似ているけど、中身はそうでもないのだと思う。
﹁ただ、山田さんのこと話題に出すのって大体いつも同じ人みたい
ね﹂
﹁そんなのわかるんですか?﹂
﹁うん、名前は時々変えてるけど、IDは二つだけだし、文体の癖
も同じみたいだから同一人物だと思う。別に悪いことは書かれてな
いんだけどね﹂
そう言われても気持ち悪い気がする。
誰か紅花が知らない人がずっと自分の話題にしているということ
か。こういう匿名性の高い掲示板で。
それにしても。
﹁千春さん、よくわかりますね。それ﹂
﹁うん、長いから﹂
長いとか言われても。
なんとなく敵にしないほうがいいと思う紅花だった。
﹁あっ、じゃあ、こういうのならどう?﹂
﹁なんですか?﹂
画面は同じく裏サイトだったが、話題の種類がさっきと違った。
﹃東都市七不思議﹄と書かれている。
254
東都市、すなわちこの東都学園がある場所だ。市とついているが、
それはやたらめったら広いだけで、人口密度は薄い。人口は十万人
をこえないくらいだ。
紅花の今住んでいる家の周りもけっこうな田舎だが、それは日高
家の田んぼや山が広がっているだけで、少し離れるとベッドタウン
として住宅が並んでいる。一応、東都市とは隣町だけど、こちらに
比べるとずっと都会に見える。
﹁ここ、首都圏に近いけど、妙に寂れてるのよね。この学園がなか
ったらもっと寂れてただろうけど、そのぶん、けっこう楽しげなス
ポットは多いのよ﹂
ここでいう楽しげなスポットとやらについて紅花は、楽しくなさ
そうと思うしかない。たぶん、紅花と千春さんの価値観はけっこう
違っていると思う。
﹁昔、犬神の一族がいたとかさ。西からわたってきた一族で、蠱毒
なんかもこの辺で作ってたっていう伝承あるの知ってる?﹂
﹁きいたことがあるような気がします﹂
なんか記憶に新しいなあと紅花は思う。
先日の神社の床が抜けた事故のあと、あの場は埋められたと聞い
た。
その際、何やらお祓いとかたくさんしたらしい。
﹁他にも、食人鬼が住んでいた廃屋があるって知ってる﹂
﹁知りません﹂
﹁ええ、うちのお父さんが小学生のころに実際あったらしいわ。食
255
人鬼が人を襲って、その廃屋でいつも食べていたって話﹂
いや、もう聞きたくないんだけどと紅花は思う。
﹁もうその時の食人鬼は捕まっているんだけどね。他に昔、事件が
ここらへんで頻発していたんだけど、それも七不思議に数えられて
いるのよ﹂
﹁そうなんですか﹂
﹁ええ、こちらは食人鬼じゃなくて殺人鬼の話なんだけど﹂
若い女性ばかりを狙い、殺害し、飾り立てるという猟奇連続殺人
犯の話だ。
どこかで聞いたことがある気がする。
﹁なんか覚えない?﹂
﹁あるような気がします﹂
﹁だよね﹂
千春さんは裏サイトとは別にニュースサイトを立ち上げる。千春
さんの携帯を使って電波を拾っているためだろうか、少し動きが遅
い。
ようやく立ち上がった記事を見せられる。
﹁これ、そっくりじゃない?﹂
それは、テレビでずっと話題になっている連続殺人事件の話だっ
た。
紅花の肌にぞくりと鳥肌が立った。
256
257
14、お食事へ行こう 前編
﹁よろしくお願いします﹂
そう言って車に乗り込んできたのは、颯太郎だった。制服ではな
く私服、それはそうだ、今日は学校に行くわけじゃない。
車はいつものセダンじゃなくて、ワンボックスだ。後ろが広々と
しているためだろう。
運転席には、愚兄がいて、助手席に若ママがいる。
ホンファ
なんかその配置はむかつくけど、今日は颯太郎がいるので仕方な
い。後ろの席には、紅花と颯太郎が座る。
今日は日曜日だ。六月の第三日曜日で、いつもの定期検査の日で
ある。
そして、颯太郎にもこれからその義務が課せられる。
不死者にもランクがある。ほんの少量であれば、たとえ不死者の
血肉を得ても、不死者になることはない。傷があればそれを癒し、
病があればそれを治す万能薬として力を発揮する。
紅花が颯太郎に血を与えたのはそのつもりでのことだった。
一応、検査を受けてもらうつもりだったが、不死化はしていなか
258
ったと思う。
ただ、その後、紅花を食らったことで、彼の肉体がどう変化して
いるのかが問題だった。体質によって極端に不死化しにくい人も多
々いる。
だが、彼の旺盛な食欲を見たらその望みは少ないだろう。
不老不死に近い肉体を得ることは、幸運だと感じる人間は多い。
でも、その一方でそれが悲しいと思う者もいるということも忘れ
てはいけない・
昔、お母さんがいっていたことを思い出す。いつもは陽気でひた
すら笑っているお母さんだったけど、たまに別人のようになるとき
がある。
お父さんが休眠状態になったときもそうだったなあ。
お父さんいつ目覚めるんだろう。
もし、颯太郎が不死者になることが嫌だったら、お父さんに頼ん
で元に戻してもらわないといけない。
颯太郎は車内についたテレビを見ている。アニマル番組の再放送
で、出演者が振る猫じゃらしに目をらんらんとさせていた。
愚兄は若ママに延々と話しかけ無視されている。若ママはアニマ
ル番組に出ているベンガルの子猫に夢中だ。
﹁⋮⋮﹂
259
そういえばと、紅花は思う。
ワータイガー
若ママは颯太郎が猫又ハーフ、いや正しくは先祖返り人虎だって
知っているだろうか。
お耳も尻尾ももふもふで、でっかい肉球があることを知っている
だろうか。
ふと嫌な想像をしてしまう。
若ママは、優しくて綺麗で賢くて物理的に強いけど、誰にだって
弱点がある。彼女の場合は、その性癖に著しく問題がある。
紅花は、テレビに夢中な颯太郎の袖を引っ張る。
﹁なに?﹂
首を傾げる颯太郎の頭をがっしりつかみ、助手席からミラーに映
りこんで見えない位置に移動させる。
﹁あんた、絶対、義姉さんの前で、尻尾とか肉球とか耳とか出さな
いでよ﹂
﹁なんで?﹂
﹁なんででもよ!﹂
前の席に聞こえないように話す。
従順な下僕たる颯太郎は、念を押すとこくりと頷いた。それでい
い、下僕はそれでいいんだ。
260
そんな感じでやっているうちに医療センターに到着した。
颯太郎は、今回初めてということで、愚兄が付きそいをするそう
だ。愚兄はけっこう同性に対して厳しいが、まさか中学生相手に喧
嘩を売る真似はしないよなと信じることにする。
あれでも、見た目よりずっと長生きしているんだし、いい加減大
人だと思いたい。
﹁ねえ、若ママ﹂
紅花は若ママの服を引っ張る。
﹁うん。今日もちゃんと予約しておいたわ。この間のところとは別
のね。アイスを七キロ使ってるけど、大丈夫かしら?﹂
言うだけ言ってみるけど、若ママにとってそんなもの軽いと目が
語っていた。そうだ、前回バケツパフェを食べたあと、行ったホテ
ルバイキングではもう出入り禁止にされた。もう二度と来ないでく
れと言われた。
若ママはそのあとちょっと落ち込んでいたけど、いつものことよ、
と気を持ち直していたのを覚えている。
﹁颯太郎くんは甘いもの大丈夫かな?﹂
﹁あいつはなんでも食べるよ。私が食べなさいって言ったら。でも、
熱いのはちょっと苦手みたいね﹂
261
猫舌だからだろうか。獣全般、熱いものが苦手なので、猫だろう
が虎だろうが関係ないのだろう。
﹁若ママ﹂
﹁なに?﹂
紅花はふと思った。前回の検査のあと、ホテルバイキングで出入
り禁止を食らった以外では、特にこれといった問題は起きなかった。
実に平穏だった。
ただ、それがいつもというわけじゃない。
紅花がやたら変な奴らを引き付ける体質なように、もう一人我が
家には厄介事を呼び込む体質の人間がいる。
颯太郎から言わせてみれば、フラグ体質者というのだろうか。
なんとなく嫌な予感がするけど、大丈夫だろう。大丈夫なはずだ、
と自分に言い聞かせつつ、紅花は若ママと別れた。
検査服に着替えて、またうろうろと検査にまわる。
今回、体重を測定したとき、いつもより七キロ軽かった。朝ご飯
を抜いているけど、普段からその状態で測っているので、たぶん、
颯太郎に食われた影響だろう。そのうち戻るだろうけど、それまで
262
ちょっと時間がかかるみたいだ。
もう少し早く検査をすべきだっかもしれないけど、いろんなこと
があっていつも通りの日程しか取れなかった。
紅花たちが検査をする日はセンターの一部を貸切状態にしている
ので、それを考えると大変さがわかる。
一通り回ったが、最後の大きな検査のため待つ羽目になる。
休憩室に入ると、颯太郎が暇そうに足をぶらぶらさせていた。
﹁終わったの?﹂
﹁まだー、今、おにいさんが入っているよー﹂
颯太郎も紅花と同じく順番待ちらしい。
﹁あの愚兄にいじめられてない?﹂
﹁別に。ただ獣人化はおねえさんの前ではするなって﹂
ああ、なるほど。
紅花と同じ危惧を愚兄もしていたらしい。
颯太郎が足をぶらぶらさせながら、紅花を見る。
﹁ねえ、紅ちゃん、一個聞いていい?﹂
﹁なに?﹂
颯太郎は自分の腕を見る。採血の後、ガーゼがはられた部分を見
て、血が止まっているか見る。勿論、止まっているし、それどころ
263
か注射の針のあとすら消えているだろう。それが不死者だ。
﹁獣人の不死者っていないの?﹂
﹁私は知らない﹂
紅花が知っている不死者は家族か、それ以外数人しかあったこと
がない。
﹁人魚との混血なら知ってる。あと、吸血鬼もちょっといるって聞
いた﹂
でも、獣人は知らない。そういえば、そうだなと改めて思う。
﹁なんで?﹂
﹁いや、ただ、お医者さんっぽい人が﹃貴重なサンプルだ﹄って言
ってたから﹂
﹁そうなんだ﹂
それは、困ったものだと紅花は思う。
愚兄が耳にしていたら、その研究者はもうここにはいられないだ
ろう。
不死者を研究するにあたって一番大切なのは、熱心さはいらない。
それを持っていた研究者は過去何人もいたが、不老不死の力に目を
奪われた。
その結果、ろくでもないことになった。
いかに言われたことを言われたとおりやる、冷静で客観性を持っ
た人間が、このセンターには集められている。
264
﹁あっ﹂
そういえば、と紅花はあることを思い出した。
そうだ
前回いた研修医、左右田だったろうか。あの男を思いだし、本棚
へと向かう。
場に似合わぬオカルトじみた本が並ぶ中、一番上の段を見る。
﹁あれ?﹂
﹁どうしたの?﹂
﹁いや、前、ここにあった本がないなあって思って﹂
あの大きな本だ。
左右田は﹃獣王﹄とか言っていただろうか。あの恐ろしい虎の本
がない。
わざわざ見せる必要もないか。
颯太郎は反省しているようだし、傷痕をえぐるような真似をする
のは可哀そうだと、別になにか面白い本はないか探す。
そのとき、休憩室の自動ドアが開いた。
中に、きっちりスーツを着た眼鏡の男がやってくる。
黒い髪に金色の目をした細身の男を紅花はよく知っていた。
﹁その子が、颯太郎くんかい?﹂
265
﹁いきなりね、兄さん﹂
紅花は指に引っかけた本を、棚に押し戻す。
﹁おにいさん?﹂
颯太郎の顔を見る限り、兄さんとは初対面のようだ。
颯太郎はとりあえず、ぺこりと頭を下げる。
﹁初めまして、山田アヒムと言います﹂
眼鏡をぐいっと上げて、兄さんは颯太郎に右手を伸ばす。
﹁日高颯太郎と言います﹂
颯太郎はそれにこたえて、握手をする。
少し緊張しているのだろうか、手が半分獣化していた。
﹁獣人というのは本当のようだね﹂
﹁そうよ﹂
アヒム兄さんは、紅花と颯太郎に椅子に座るように促し、当人も
座った。アヒム兄さんに気を使って誰か白衣を着た人が、お茶の準
備をしてくれたが、紅花たちがいるので丁重に断った。
アヒム兄さんのスーツには、見慣れた製薬会社の名前と自身の名
前が刻まれたネームプレートがつけられている。
アヒム兄さんは紅花と同じ不死者だけど、どちらかといえば調べ
266
る側の者だ。
﹁多分、いろいろな事情があると思うけど、今はそんなものを端折
っておこうと思います。颯太郎くんも今はそんなことより、今の状
況に慣れてもらいたいし、紅花だってそれでいいだろう?﹂
アヒム兄さんは、不死者らしい不死者だ。基本的に物事は合理的
に考える。そのせいだろうか、一部例外があると妙に突き抜けたと
ころがある。
愚兄はいい例だ。ああ見えてかなり不死者らしい。ただ、突き抜
ける一部例外が、若ママを対象としているため、普段はまったくそ
ういう風に見えないのだ。
﹁今後、君には日常生活とは逸脱したものが、生活の中に組み込ま
れてくるだろう。僕としては、できるだけそれを減らしたいと思っ
ているが、そうなった以上、最低限の義務が生じる。そういうわけ
で、ちゃんと理解してもらいたい﹂
﹁はい﹂
中学生に対して、少し堅いものの言い方だけど、それがアヒム兄
さんなので仕方ない。
﹁その点に関して生じる費用等は、すべてこちらが持つので気にし
ないでもらいたい。いや、むしろ、君がこうして検査するだけでそ
れらを十分補えるだろう﹂
アヒム兄さんの勤めている会社は、不死者の研究を行うことで新
薬を作っている。今まで、獣人の不死者がいなかったことを考える
と、十分価値があるのだろう。
267
颯太郎は﹁はい﹂と返事しているけど、正直よく理解していない
ようだ。ただ、本棚の書籍が気になるようでちらちら見ている。そ
ういえば、こいつは変な妖怪図鑑とか見るのが好きみたいだ。
﹁今後、何かあるようだったら、相談にのるので、こちらに連絡し
て欲しい﹂
そう言って、アヒム兄さんは颯太郎に自分の名刺を差し出すと、
立ち上がった。
腕時計をちらちら見ている。
﹁ねえ、兄さん、今日はまだ仕事なの?﹂
こんな兄さんでも、愚兄よりずっと好きなので、せっかく久しぶ
りに会えたからそのまま帰られると寂しい。
﹁定時は五時だよ。休日出勤でもね﹂
そう言って、紅花の頭をぽんぽん叩く。
﹁そのあとなら時間が空くと思うけどね﹂
﹁うん!﹂
どうせ今日はそのまま外食だ。颯太郎も一緒でいいかな、いや、
紅花の命令は絶対だからついてきてもらうぞ、と思う。
アヒム兄さんはそのまま、休憩室を出て行った。
入れ替わるように、愚兄が検査を終えて入ってきたので、ものす
ごく嫌な顔をしてしまった。
268
アイス七キロパフェについて詳細は割愛させていただく。とりあ
えず前回から人員がプラスされた反応だと言っておく。
颯太郎少年はミントのアイスを苦手だった以外は、ごく普通に完
食した。
追加でミルクレープを注文したが、ホールで九つ出してもらった
ところで、﹁もう店には在庫がありません﹂と言われた。
しっとりと美味しかったのに残念だ。
ただ、気になったのは、若ママが颯太郎の家のことを細かく聞い
ていたことだった。
﹁ねえ、ひいおばあちゃん元気?﹂
﹁うん、まだ大学で教べんをとってます﹂
たしか、颯太郎のおばあちゃんと知り合いだって知ってたけど、
なんでひいおばあちゃんまで聞くんだろうと思った。
﹁ねえ、ひいおばあちゃん知ってるの?﹂
﹁うん、私のお母さんだもん﹂
若ママがにっこりと笑う。
颯太郎が目を丸くしている。
269
そういえば、昔、ここに住んでいたと言っていたし、それを聞く
と辻褄が合うと紅花はぽんと手を打つ。
対して愚兄が少しばつが悪そうにミルクレープを頬張っている。
﹁⋮⋮失礼ですが、おいくつですか?﹂
﹁今年、還暦かな。お兄ちゃん、いやおじいちゃん元気?﹂
つまり颯太郎の祖父が、若ママのおにいさんになるわけだ。
若ママは元々人間だって聞いていたので、紅花はそれほど違和感
はないが、颯太郎は目を白黒している。
﹁お若く見えますね﹂
﹁そうかなあ、お義母さんのほうが若く見られるんだけどね﹂
そのお義母さんというのは、紅花の実母である。たしか千歳をゆ
うに超えていたはずだ。お父さんになるとその二倍は軽く生きてい
るけど、それ以上前の記録が残っていないし、当人も忘れてしまっ
たので何歳かはっきりわからない。
不死王が不老不死だと言われるけど、本当に死なないかどうかわ
からないし、老いるかもわからないが、人間の基準で言うと実際、
そのようにしか感じないだろう。
若ママは颯太郎に家族のことをもっと聞きたいらしく、この後も
夕食に誘った。
﹁ちょっと義兄さんと義姉さんが来るけど、お夕食いかが?﹂
270
そう言っているが、もう予約済みなのは知っている。
﹁姉さんも来るんだ﹂
﹁うん、ちゃんと六名で予約したよ。せっかくだから皆に顔を見せ
ておかないと﹂
﹁⋮⋮六名﹂
紅花は指を折る。
ここにいる四人プラス兄さんと姉さん。
それで六名だろうけど。
﹁ねえ、ニート忘れていない?﹂
﹁⋮⋮﹂
紅花にはもう一人兄がいる。
ニートと呼ばれる兄は、そのままニートだ。
緊急時に電車賃すら払えないその男が、外食、しかもたかれると
思う案件に飛びつかないはずがない。
なのに数に入れてない。
﹁忘れてたけど、まあいいか﹂
﹁そうだね﹂
紅花も若ママに対して同意する。
﹁いいの?﹂
﹁いいんじゃないかな﹂
271
愚兄も同意する。
可哀そうと颯太郎は思っているようだが、それが我が家のもう一
人の兄に対しての態度である。
そんな男であるからして。
272
15、お食事へ行こう 後編
世の中奇跡というものがある。
偶然に偶然が重なりあってできるもの。それを奇跡と呼ぶか、偶
然と呼ぶかはその人の信仰の深さに起因すると思う。
ふうっと紅花は、ため息をついた。
きっと奇跡と正反対の偶然の重ね合わせがあるのは、もしかして
信仰心の薄さが原因かなと思わなくもない。
なんか明確な宗派持った方がいいのかもと思いつつ、紅花は目の
前の状況を白い目で見ていた。
テーブルの影に隠れて目の前に広がる銃撃戦を見る。
﹁なんか刑事ドラマみたいだね﹂
﹁だまらっしゃい﹂
わくわくしてはねた髪をぴくぴくさせている颯太郎。
どこをどう間違ったら、こんなに平和な島国国家でやくざの抗争
に巻き込まれるのかなと思いつつ、紅花はまだ切り分けられる前の
北京ダッグを手につかみ、かぶりついた。
時は一時間ほど前にさかのぼる。
273
﹁へえ、その子が颯太郎くんねえ﹂
黒い巻き毛に金色の目、メリハリのきいた服と体型をした女性が
言う。色彩でわかると思うが、姉さんだ。名前をオリガという。
﹁姉さん、あんまりいじらないように﹂
﹁わかっているわよ﹂
アヒム兄さんの忠告に、オリガ姉さんが口を尖らせて反応する。
アヒム兄さんはスーツ姿のままだけど、お洒落さんなので仕事用
のスーツとは別のものに着替えている。
ホンファ
オリガ、アヒム、不死男、紅花、名前が多国籍なのは気にしない
で貰いたい。あまりにくだらない理由でつけられているので、深く
語りたくない。
場所は、ホテルのエントランスにいた。シャンデリアがきらきら
して綺麗で、真っ赤な絨毯が敷き詰められている。颯太郎がほへー
と間抜けな面をしながら、周りを見ている。田舎者っぽくて恥ずか
しいからと、紅花は背中を叩き、おのぼりさんをやめるように言う。
若ママがけっこう有名なところの中華を予約していたのだが、オ
リガ姉さんが来たらなんかホテルマンの雰囲気が変わった。
支配人っぽい人がやってきて、
﹁山田さま。いらっしゃいませ﹂
274
﹁あら、ご無沙汰していたわね﹂
と、慣れた会話をしていた。
そして、若ママが予約していた席は、一階にある系列店のものだ
ったけど、なぜか最上階に向かうことになった。
たしか、予約していた店の本店で、お値段もさらにグレードアッ
プする。
VIP待遇という奴だろうか。直行のエレベーターに案内される。
﹁⋮⋮さすがだわ、オリガ義姉さん﹂
若ママが震えている。きっと、高級中華に期待しまくっているに
違いない。エレベーターに貼ってある、レストランの料理の写真を
見てごくりと喉を鳴らしている。
ああ、若ママの心の声が聞こえる。
義姉さんが一番年長だから、義姉さんのおごりよね、という声が
聞こえる。
この人数で、皆、暴食の腹を持っている。
颯太郎はちょっと尻込みしないかと心配だったが、お魚料理の写
真を見て涎を垂らしていた。
たぶん、遠慮なんてしないだろう。
エレベーターはガラス張りになっていて、高所恐怖症の人にはた
まらないようになっている。中庭とカフェテラスと日本庭園が見え
275
る。緑がなかなか目に優しい。人が豆粒みたいに見えて、これは落
ちたら即死だとわかる高さだ。
チーンという音がして、最上階につく。最上階は三つに分かれて
いて、中華料理以外はお洒落なバーとフレンチのお店が入っていた。
薄暗い照明のお店に入ると、奥の円卓に案内される。
まだ、時間が六時と早いこともあるけど、紅花たち以外お客さん
はいなかった。
通り過ぎたテーブルにたくさん予約と書かれてあるプレートがあ
ったのでそのせいだろう。
座った早々、チャイナ服を着たおねえさんたちが前菜をどんどん
運んできた。
前菜という割には、大皿一杯山盛りに持ってこられた。
﹁いつもありがとう﹂
オリガ姉さんが顔見知りらしい、チャイナ姉さんにいっている。
多分、我が家の胃袋事情をわかっているのだろう。
高級店というと格式高い感じがするけど、ここはそうでもないと
ころがうれしい。
ドレスコードなんてあったら困ったけど、それもないみたいだ。
紅花は普段着のワンピースだし、颯太郎はそのまま虫網を持ってカ
ブトムシでもとりに行ける格好だ。
中華にコース料理みたいな順番があるのかわからないけど、おか
ゆを最初から出してくれて助かった。一人鍋一つみたいに配られて、
276
味付けの濃い料理と一緒に食べると美味しい。
﹁お酒どうする?﹂
﹁お義姉さん、帰り車なんで﹂
﹁ええー、つまんなーい﹂
﹁オリガ姉さん、やめてください。貴方も車じゃないですか﹂
﹁アヒム送ってよ﹂
﹁嫌ですよ、遠いじゃないですか﹂
オリガ姉さんとアヒム兄さんは別のところに住んでいる。仕事場
が都内ということもあって通勤に便利らしい。
﹁じゃあ、泊めてー、いいでしょ由紀子ちゃーん﹂
﹁断る﹂
ぴしっと言ったのは、愚兄だ。愚兄の中では、これ以上、家の中
に若ママ以外の生き物を増やしたくないのだろう。
颯太郎と紅花はひたすらご飯を食べる。
パフェといった甘味も悪くないけど、しょっぱいものも美味しい。
颯太郎は、お魚がでてきて満足そうに頬張っている。
オリガ姉さんは颯太郎を少し複雑そうに見ていたけど、にっと唇
を弧にする。
﹁ほら、颯太郎くん。お魚好きなの? もっと注文追加しようか﹂
颯太郎は目を輝かせてオリガ姉さんの方を見ている。口にはいっ
ぱいお魚が入っているが、肯定の意は伝わっただろう。
277
オリガ姉さんがまるで居酒屋のオーダーみたいな感じで注文する。
やれやれといった風にチャイナ姉さんが注文を聞き届ける。
十九時を回ろうとしているくらいだろうか。
ようやく予約席の客が来たらしい。
屏風の向こう側が騒がしい。一応、間切りされているけど少し姿
勢をずらせば、どんな客が来ているかわかる。
常識あるアヒム兄さんが﹁静かにしてください﹂とオリガ姉さん
を止める。酒が入ってだいぶ出来上がっていた姉さんだが、それな
りに一般常識を持ち合わせているので、ちびちびとお酒を飲む方向
にかえる。
﹁そうだよ、お客さんに迷惑かけちゃだめだよ﹂
紅花もアヒム兄さんに同意したが、世の中、自分たちが気を付け
ていたところでどうしようもないことは多々ある。
やってきて団体客は、黒服の一団だった。
黒服、制服かな、修学旅行生かな、最近の学校はリッチねえ、と
会話が続くわけがない。
何人かはサングラスをしていた。
何人かはスキンヘッドだった。
これ以上わかりやすすぎて何も言えない一団だった。
﹁⋮⋮﹂
278
アヒム兄さんが怪訝な顔をする。
﹁なるほどー。自棄に愛想がいいわけだわー﹂
オリガ姉さんが納得したように言った。
﹁姉さん、そういう可能性があるなら最初から言っていただきたい
のですが﹂
﹁だって、普通こうくるって思わないじゃない。ふーん﹂
なにがどうなっているのかよくわからないけど、オリガ姉さんに
とっては珍しいことでもないらしい。
何か知らないけど、紅花にとってはチャイナのおねえさんが早く
北京ダッグを持ってきてくれないかと、そちらのほうにそわそわす
る。
鼻のいい紅花には、こんがりジューシーな焼けた鳥肉の匂いを感
じ取っていた。
黒い服の一団には、なぜか一人不似合な小さい人が混じっていた。
もさもさした髪をしていて、随分若く見えた。
﹁ああいう人たちがこういう場所使うのって、お店側大変じゃない
のかな﹂
颯太郎が率直に聞いてきた。
﹁店の事情もあるんだろうね﹂
279
そう答えたのは、若ママだった。
若ママは、ゆっくりと立ち上がると、なにやら周りを見渡す。そ
して、壁際に置いた椅子をいくつか持ってくると、屏風の後ろに置
いた。
なにをしているのか意味がわからないけど、大人たちはそのまま
会話を続ける。
きょうたろう
﹁そう言えば、恭太郎就職したって本当?﹂
恭太郎というのは我が家のニートのことだ。
﹁ええ、ちょっとした枠が空いたもので無理やり入れました﹂
﹁大丈夫なの? それ、相手方に迷惑かけない?﹂
﹁そうなんですね、大丈夫ですか? 本当に。どこの会社に迷惑か
けてるんですか?﹂
ニート、ニート酷いと思わるだろうが、直接血縁のない若ママが
こういう風にいう程度に駄目兄貴である。
颯太郎はちんぷんかんぷんになりながら、お魚を頬張っていた。
もう何匹食べているんだろう、紅花は野菜も喰えと、取り皿にサラ
ダをのせる。
﹁恭太郎っていうのは、前に言っていたニートのことよ﹂
﹁そうなんだ、ニートなんだね﹂
颯太郎は頷きながらサラダを食べる。
280
チャイナのおねえさんがようやくこんがりした北京ダッグを持っ
てきてくれた。
テーブルの上に置いて、切り分ける準備をする。
﹁それにしても、大丈夫かしら。そんな風に恭太郎働かせて、矢で
も降ってこないかしら?﹂
そんなときだった。
ズキューンと音が響いた。
冗談みたいにそれは屏風を貫通していた。そして、愚兄の眉間に
埋まっていた。
愚兄は額に手をやると、三本の指でめり込んだ弾をきゅぽんと引
き抜いた。
﹁頭がい骨で止まってるね。サイレンサー付で助かった﹂
﹁そうねえ、脳漿飛び散ると、さすがに食べる気無くすから﹂
そう言ってオリガ姉さんはエビチリと豚角煮の皿を手に取った。
それぞれ自分の好きな料理を手にする。紅花は北京ダッグを確保
する。
その瞬間、若ママがテーブルを蹴りあげていた。
蹴り上げたテーブルに屏風の向こうから弾が何発も撃ち込まれる。
素早く、颯太郎と紅花をテーブルの影に隠す。
先ほど用意した椅子がちょうどテーブルを支えるようになってい
281
る。
アヒム兄さんは泡をふいたチャイナ姉さんを壁の影に隠していた。
跳弾した弾が当たらないように、机を盾にして置く。
慣れたものだった。
そうだ、忘れかけていたが、これが日常だ。
別にフラグ体質者は紅花一人じゃない。
山田家は基本、死亡フラグを立てやすい家族だ。こうしてこれだ
け集まってなにかが起こらないというほうが不思議なのだ。
﹁ねえ、颯太郎。あんた、あいつの死亡フラグ見えなかったわけ?﹂
紅花が隣に座り込む颯太郎に聞いた。ちゃっかりお魚は確保して
いる。揚げた魚にあんかけをかけたものだ。
﹁僕のは見えるときと見えないときがあるし、例え見えても、あれ
が死人の顔に見えるわけないよ﹂
紅花がアレを見る時とはまた違った見え方なのだろう。
そう言われると、責めることもできない。
しかし、普通に魚を食らう姿を見て、こいつの肝はすわってやが
るなと感心する。
頭の上や横に銃弾がかすめる。
一体、何が起きたのだろうか。
282
﹁多分、抗争だろうね。ただ、本当は、片方は和解するつもりだっ
たんだろうけど、もう一方はそうでもなかった感じかな﹂
﹁どういうこと?﹂
﹁片方にサトリがいる。和解するつもりだったんだろう、サトリが
相手の本音を読まなきゃね﹂
そう言って颯太郎は髪の毛をぐしゃぐしゃにして見せた。たぶん、
あの中にいた妙に場違いな人がそれだろう。
﹁なんでわかるわけ?﹂
﹁うーん、匂いかな?﹂
そんなんでわかるなんて、やっぱ獣人なのかなと紅花は思う。
そういうわけで、北京ダッグをかじりながら今に至るというわけ
だ。
﹁跳弾には気をつけてね﹂
若ママが燕の巣スープを飲みながら言った。
﹁明日、ニュースになるわねえ。営業停止かあ。ここ、美味しいの
に﹂
オリガ姉さんが春巻きを食べている。
﹁由紀ちゃん、営業が再開したら、今度、ここのバーに行こうよ。
夜景とかきれいじゃないかな﹂
﹁悪くないけど、どうせならみんなでご飯がいいかな﹂
283
愚兄と若ママ、それぞれ角煮をつまんでいる。
﹁うーん、この後、おさまったとして、警察の事情聴取になるんで
しょうか。いや、時間外だから明日になるか。居酒屋でもとってお
きますか?﹂
﹁さんせーい。地酒あるところがいいわー﹂
大人組は慣れたものだ。
紅花とて初めてではないので、落ち着いている。
変かもしれないが、これが不死者の感覚だ。
おかしいかもしれないが、紅花が怖いのは死ぬことではなかった
りする。
死ぬことではなく、奪われること、すなわち食べられることが最
大の恐怖だ。
颯太郎は、こういう場面に慣れているのだろうか、本当に落ち着
き払っていた。ちょっと物足りなさそうに、お魚最後の一口を食べ
てしまう。
﹁すみませーん﹂
突如、颯太郎が挙手した。
﹁はい、颯太郎くん﹂
少し酔っぱらったオリガ姉さんが指す。本来、不死者はアルコー
ルもすぐさま分解してしまうそうなのだが、どうして酔うのか不思
284
議でたまらないというのが、アヒム兄さんの見解だ。
﹁トイレ行きたいです﹂
﹁それは、お店出てエレベーターの左にあるから﹂
﹁では行ってきます﹂
しゅたっと立ち上がり、颯太郎が歩く。
銃撃戦はこう着状態に入っているとはいえ、尋常じゃない精神だ。
てくてくと歩いていく颯太郎に何人かは唖然としていた。わざわ
ざ、撃とうとは思わないだけ親切だろう。
﹁あらーなかなか肝がすわった子ね﹂
﹁そうですね﹂
﹁⋮⋮﹂
オリガ姉さんとアヒム兄さんはのん気にいっているがそういう問
題じゃないと思う。元人間の若ママだけは、少し複雑な顔で颯太郎
を見ていた。
﹁私もトイレ行ってきていい?﹂
﹁はいはーい、いってらっしゃーい﹂
オリガ姉さんがケラケラ笑いながらいった。しかし、その手には
なぜかロープのようなものが握られている。
愚兄やアヒム兄さんも同じようなものを持っている。愚兄がさっ
きから静かだと思ったら、テーブルクロスを裂き、ロープを作って
いたからだ。
ふーん。
285
多分、これから先は、紅花もいないほうがいいようだ。止めよう
ともしないのはそのためだろう。
﹁じゃあ、行ってくるね﹂
颯太郎を追いかけるため、紅花は速足で店の中を抜けていった。
異変に気が付いたのは、エレベーターの前だった。
直行のエレベーターは一つだけ。そのスイッチ部分が見事に壊さ
れていた。割れたスイッチを押しても反応しない。
紅花はすぐさまトイレに向かう。
﹁颯太郎!﹂
返事はない。
そこに誰かの気配はなかった。恥かしながら他に誰もいないか確
認しながら男子トイレを見る。誰もいない、個室も閉まっていない。
﹁いない﹂
そんなに時間も空いてなかったし、すれ違うこともなかった。
どういうことだろうか。
286
エレベーターが使えないとなると非常階段か。
そう判断して、紅花は階段を探す。
トイレの横に通路がありそちらに行くと非常階段の入口があった。
そこに入るとなにやら、扉が閉まる音が聞こえた。上からだった。
紅花は上へと向かう。扉は施錠されていたようだが壊されていた。
南京錠が転がっている。
屋上は庭園になっていたはずだが、ここから出て見えるのはただ
の貧相な屋上だった。庭園部分はもっとずれていてこちら側にある
のは、貧相な柵くらいだ。
そして、その柵の前に誰かが二人いる。
一人は颯太郎、もう一人は黒服を着てもじゃもじゃの髪をした人
物だった。
颯太郎が﹃サトリ﹄といっていた人物だろうか。サトリの手には
拳銃らしきものが見える。もしかして、あれでエレベーターのスイ
ッチを壊したのだろうか。
サトリは男とも女ともわからない顔をしていた。子どものようで
あるが、妙に老成した表情をしている。
その銃口を颯太郎に向けている。
なんだか、外に出にくい雰囲気だった。
287
﹁どうするの? それで僕を撃つの?﹂
颯太郎は普段通りの声で言っている。
そして、一歩一歩近づいていく。
﹁近寄るな﹂
サトリの声は低かった。声の高さで判断すると、成人男性だろう
か。ただ、種族によって声が違うのかもしれない、そこのところは
わからない。
﹁そんなこと言っても近寄らないわけないじゃないか。そう聞こえ
るんでしょ、いや、聞こえてきたかな? 有効範囲は平均して五メ
ートルほどだっけ?﹂
そういってどんどん颯太郎は近づいていく。
﹁もう聞こえてるよね。僕がなにを言いたいのか?﹂
﹁うるさい!﹂
サトリの顔が真っ青になる。颯太郎に何を言われているのだろう。
ご丁寧にそれは、颯太郎の口によって説明される。
﹁君はここで隣のビルの非常階段に飛び移ろうとする。飛距離的に
は大丈夫、でも、落ちて死んじゃう。だって、怖くて身体が委縮し
てしまう、上手く飛べるわけがない。それはトマトみたいだよ。待
っていたとしてもすぐ追ってが来てゲームオーバー﹂
﹁うるさい﹂
288
﹁そして、それを知った君は、非常階段から降りようとする、でも、
遅い。下には君の裏切った黒服のおにいさんたちが待ち伏せにして
いる。これまで、君がたびたび嘘をついてきたことも発覚、ゲーム
オーバー﹂
﹁うるさい!﹂
颯太郎は中学生だ。背丈だけで言えば小学生と間違えられるだろ
う。
そんな彼に、おそらく成人であろうサトリはなにやら好き勝手に
言われている。気持ちいいわけがない。
だが、サトリの顔色の悪さを見る限り、颯太郎のいっていること
に心当たりがありすぎるようだ。
颯太郎はそれに付け込むように話す。さっきまで、ひたすら魚ば
かり食べていた猫少年はどこへ行ったと紅花は思う。
あのときに似ている。吸血鬼と対峙したとき、そこにいたのはご
く普通の猫又少年じゃなく、抜け目のない狩人の目をしていた。
﹁なにが目的だ?﹂
﹁目的? それはおにいさんを助けたいだけなんだけど。読めばわ
かるでしょ?﹂
サトリが黙る。黙って目を見開く。
﹁⋮⋮この通り、僕はおにいさんを助けたい、だって命は大事だも
の﹂
颯太郎はそう言ってサトリの前に立ち、拳銃を持った。どこから
289
か取り出したのか、手にはさっきのテーブルの上にあったナプキン
を手にしている。指紋がつかないようにだろうか。
﹁僕がおにいさんを助ける。だから、おにいさんも僕を助けてね。
それでギブアンドテイク完了じゃだめかなあ?﹂
そういうと、颯太郎はにっこりと笑った。
僕も助けてね。
紅花はその意味が分からず、呆然と半分空いた扉の前で立ち尽く
す。
﹁紅ちゃーん﹂
颯太郎が手を振る。
どうやら紅花がいることにはとうに気づいていたらしい。
﹁ちょっと手伝ってくれるー?﹂
颯太郎はそう笑いながら、サトリを小脇に抱えていた。
290
16、謎の用務員
何を考えているのかわからない。
改めて紅花は思った。
誰かといえば、いつも隣の席でクッションに顔を埋めている少年
に対してだ。
颯太郎はサトリを抱えてホテルを脱出した。
元々、獣人なので身体能力は高く、不死者として底上げされてい
た。サトリ一人抱えたところで、その脚力は落ちず、なんなく隣の
ビルに飛び降りた。
そして、残された紅花が手伝ってと言われたことと言えば。
ナプキンに包まれた拳銃を捨てることだった。どこにといえば、
下の中庭にある池だった。大きさ的には十分で外しはしないだろう
けど、万が一誰かに当たるかもと考えるとドキドキした。
ご丁寧に颯太郎は、サトリから上着をはぎ取って渡した。
﹁重みがもう少しある方がいいかな。砂糖とか塩とかの塊でも、氷
でもいいよ。でも、塩だったらお魚さん死んじゃうかな﹂
とりあえず水に溶けてなくなるものを言っている。偽装としては
浅はかだけど、少なくとも相手の気を引くことができるだろう。
291
﹁じゃあ、あとで隣に迎えに来てくれるとうれしい﹂
それだけ言って少年は慌てるサトリを押さえこんで飛び去った。
おかげで紅花は大変だった。
黒服たちに見つからないように、拳銃と服を捨てるため、中に倒
れた植木鉢の土を入れた。黒服で包むだけじゃこぼれそうなので、
トイレットペーパーを拝借してぐるぐる巻きにしてそのあと服で包
む。水に溶けるのですぐ溶けだすだろう。
それをまた屋上に上り、風と落下地点を少し頭に入れて落とした。
上手くいったと思ってようやく中華飯店に戻ったら、大体決着が
ついていた。
﹁あっ、おかえり﹂
オリガ姉さんたちが、武装集団をのしていた。
うん、想像できたことだった。
それでもそれが全員ではないらしく、他に仲間はいたようだ。
もし、あの場で颯太郎がサトリの前に現れなければ、その仲間が
サトリを始末していただろう。
颯太郎がサトリに頭の中でなにを伝えたのかはわからない。ただ、
サトリを黙らせるだけのなにかがあったはずだ。
その後、颯太郎を迎えに行くと、隣のビルで颯太郎はごく普通に
292
エントランスで待っていた。大きな段ボール一つ抱えて。
﹁ねえ、颯太郎くんって一体何者?﹂
真剣な顔をして聞いてくるオリガ姉さんに紅花はなんと答えれば
いいのだろうか。オリガ姉さんはすっぴんで、ネグリジェを着てい
る。結局、今日はうちにお泊りすることになった。
愚兄は大変不愉快そうだったが、さすがに断るまではしない。
部屋は余っているし、ベッドも備えつけのものがある。少し埃っ
ぽいので、今日は紅花の部屋で一緒に寝るのだ。
﹁猫又ハーフだけど﹂
ワーウルフ
先祖返りの人虎で、おばあちゃんの影響で死亡フラグが見える。
﹁それは聞いているわ﹂
﹁ならそれなんじゃない?﹂
﹁でも、それだけじゃないと思うのよね﹂
ベッドの上でごろんごろんしながらオリガ姉さんが悩む。
﹁アヒムも首を傾げていたわ﹂
颯太郎はサトリをアヒム兄さんに引き渡した。たぶん、それが一
293
番安全だと思うからだ。
アヒム兄さんはサトリを連れて帰り、残りはみんな居酒屋でご飯
の食べ直しをした。居酒屋さんのメニューってなんであんなに美味
しいんだろう。
﹁サトリは希少な種族だし、普通は人間に混じってそうそう見つか
るものじゃないのよね﹂
種族といっても、もう純血は存在しない。つまり、獣人と同じよ
うに先祖返りを起こしてその力を持った者が生まれるという。アヒ
ム兄さん曰く、一般的に超能力者でテレパシー能力を持っているも
のが、このサトリというものらしい。
﹁どうして見分けられたのかしら?﹂
﹁確か、お父さんが人外研究家で詳しいとか言ってたけど﹂
﹁そうなの?﹂
﹁うん、若ママの甥っ子に当たるのかな﹂
どんな人かは知らないけど、研究者というだけあって頭がいいの
かなって思う。
﹁日高家の血筋かあ、ならしっかりしているわけかなあ﹂
曖昧ながら納得してくれたオリガ姉さんはベッドの上でごろごろ
するのを止めた。
﹁電気消すよ。明日学校だから﹂
﹁はーい、どうぞー﹂
294
紅花はリモコンで照明を消すと、すぐさま緩やかな寝息を始めた。
一日が長く、とても疲れた。
翌日、学校に来ると、マイペース猫少年はクッションに顔を埋め
て、二度寝を楽しんでいた。
紅花は、スポーツバッグを後ろの棚に入れると、宿題のノートを
確認する。
クラスメイトたちはホームルーム前のおしゃべりに夢中だ。そし
て、嫌でもその内容が耳に入ってくる。
﹁それがさあ、今度入ってきた用務員さんがなんかすごく若いんだ
よ﹂
ちはる
たしか千春さんも言っていた気がする。かっこいいとかなんとか。
別にかっこよかろうが、若かろうがどっちでもいい。
それよりあの温室の世話はどうなっているのだろうか。
そちらのほうが気になった。
今日のお昼は温室に行ってみようかなと考える。
ふと、外の天気を眺めようとすると、隣で寝ていた颯太郎が顔を
295
上げていた。
なにか窓の外をじっと眺めている。小鳥でも飛んでいたのだろう
か。
ポクポクと足音が響いて先生が来たら、颯太郎は何ごともなかっ
たかのように、クッションに顔を埋めた。
そして、先生に蹄パンチを貰っていた。
織部先生の蹄パンチは体罰ではなく、一部ではご褒美らしいので
今のところ教育委員会にとやかく言われたことはないという。
紅花もちょっと受けてみたいと思った。
四時間目は美術の時間だった。芸術棟の美術室にいき、ひたすら
デッサンをする。先生の趣味なのだろうか、被写体は玉ねぎだった。
うん、玉ねぎだ。
なんだか見ているだけで目がしょぼしょぼする。
颯太郎を含めた何人かの獣人はひくひく鼻を動かし嫌な顔をして
いる。
犬や猫にとって、玉ねぎは猛毒なので嫌なのかもしれない。獣人
にまで毒かどうかはわかならいけれど。
ひたすら木炭でデッサンしていると、ちりっと首の後ろが焼ける
296
ような感覚がした。
ふと、外を見る。
誰もいない。
気のせいかとまた木炭を紙にのせる。
颯太郎は、飽きたのか消しゴム代わりの食パンを食べていて怒ら
れていた。
授業が終わり、教室に戻ろうとすると、ちょんと手をつつかれた。
颯太郎だった。
さすがに気配を感じなくても、慣れてきた。 ﹁なに?﹂
クラスメイトはさっさと教室に戻っている。美術室に残っている
のは足を止めた颯太郎と紅花だけだった。
紅花としては、クラスでは誰とも仲良くないことにしておきたい。
颯太郎ともまともに話すのは、温室にいるときくらいだ。
﹁なんか見られている気しない?﹂
﹁⋮⋮そうなんだ﹂
297
やっぱりと紅花は思う。
朝、颯太郎が外をじっと見ていたのはそれが気になったのだろう。
﹁一体誰が?﹂
﹁さあ?﹂
颯太郎がそう言いながら、教室とは反対方向の出口から出る。そ
のまま外の非常階段につながっており、よっと手すりの上に乗った。
高さは三階で打ち所が悪かったら死んでしまう。もちろん、颯太
郎が死ぬような身体ではなくなっているが、それでも普通足がすく
んでしまうだろう。
でも、颯太郎は幅の狭い手すりの上でも十分バランスをとって、
そこから学園中を見渡していた。
﹁すごいね。前は全然見えなかったのに、ずいぶん遠くまで見える﹂
前はあまり視力がよくなかったのだろうか、きらきらした目で眺
めている。
﹁不死者の視力の平均は4.0以上だから﹂
紅花はさらにいい。
眼鏡兄貴ことアヒム兄さんは眼鏡をかけているが、実際は伊達で
ある。いや、伊達というより視力が良すぎるため、それをおさえる
ために眼鏡をかけている。遠くを見るのに便利な能力だが、デスク
ワークだとかなりやりにくいらしい。
298
﹁ねえ、昼休み終わっちゃうけど﹂
颯太郎はじっと外を見回すだけだった。
なにがやりたいのだろうか。
ふと、颯太郎の尻尾がスラックスからはみ出た。ピンと立ち、ぶ
わっと太く広がっている。
﹁見つけた﹂
颯太郎はそう言うと、ぴょんと手すりから飛び降りた。階段に降
りたのではなく、地面へと飛び降りる。
﹁ちょ、ちょっと!﹂
くるりと回って四つん這いになって着地すると、獣のように走り
出す。両手は前脚にかわって地面を蹴っていた。
﹁ちょっと、いきなりなんなの!﹂
紅花は颯太郎を追う。
紅花とて、普通の人間とは違う身体だ。一般人とは比にならない
運動力を持つけど、彼に追いつけない。目の端にかろうじてうつる
のをなんとか追いかける。
中庭を抜け、部室棟を横切り、体育倉庫の前まで来たところで、
颯太郎は止まる。
﹁⋮⋮おかしいなあ﹂
299
颯太郎は四つん這いから二足歩行にきりかわると、大きな前脚の
土を払いながら言った。
﹁どうしたのよ、走りだしたりして﹂
紅花は少し肩で息をしながら言った。
﹁なんかここらへんで視線を感じたんだよね﹂
颯太郎は体育倉庫をぐるりと見回した。
﹁視線って何か見たわけじゃないの?﹂
﹁うん、なんかぞくってした感じなのこっちにあったから﹂
颯太郎の感覚はやっぱり野性的だ。
紅花は呆れたまま、颯太郎の頭をぽんと叩いた。
﹁言っとくけど、仮にここに誰かがいたとして、私たちが見えるわ
けないじゃない﹂
紅花はさっきまでいた芸術棟を指す。非常階段はかろうじて見え
るけど、とても誰がいるまで判別できない。この学園の敷地は広い。
それだけ離れている。
もし見えるとしたら、紅花たちを超える視力の持ち主または双眼
鏡でも使って見ていたことになる。
体育倉庫は人通りが少ないけど、休み時間を利用して球技をする
300
生徒はけっこういる。道具をとりに来て、双眼鏡で眺めているよう
な人がいたら即通報だろう。
﹁気のせいかなあ﹂
﹁気のせいよ。教室に戻るよ﹂
紅花は唸る颯太郎の首根っこを掴む。見た目より密度が高くずっ
しりしている。
﹁今、何キロ?﹂
﹁昨日、測ったときは九十八キロだったかな。紅ちゃんは?﹂
﹁うるさい﹂
颯太郎の身長は紅花と変わらないくらいだから百五十ほどだろう
か。勿論、人間で考えるとありえない重さだけど、不死者の比重は
重い。それでも、紅花が平均八十キロ、昨日は七十三キロだったこ
とを考えると、かなり重い方だろう。
獣人って元々比重が高いのかな?
紅花はそう思いながら、颯太郎を引きずっていった。
中学生というものは多感なお年頃だ。どんな小さなことでも色恋
に発展させてしまうし、話のタネになる対象を見つけたら、大騒ぎ
するものである。
301
そして、今現在、話題のネタとなっているのが、例の用務員だっ
た。紅花は見たことないが、クラスのほとんどの子、いやほとんど
の女子は見た、もしくは見学しに行ったらしい。
話を統合すると。
若い男らしい。
けっこう顔はいいらしい。
がたいも悪くないらしい。
ただ、見た目はけっこう軽く、中身も会話したものの話によると
軽いという。
別に、紅花が興味を引く対象ではないのだが、肝心の仕事ぶりに
ついては全然聞かない。
たぶん、仕事はあんまりやっていないのかな。
紅花は日に日に荒れていく温室を見ながら思った。
前は綺麗に花がらまでとってあった薔薇が、枯れたまま頭を下げ
ていた。紅花ははさみを手にすると、ぱちんと枝を落とす。
土いじりは汚れるから嫌いだけど、若ママの付き合いで慣れてい
た。
お昼を食べたあと、颯太郎も紅花と同じように庭園を綺麗にして
いる。こちらは紅花よりも手慣れたもので、手際よく草を引き抜い
ている。そして、集めた草を丁寧に乾かしているとおもったら、乾
302
いたものを一か所に集めて、上にどこからともなくシーツを取り出
して被せた。
﹁ふう、もうちょっとボリュームが必要だな﹂
そう言って横になった。
﹁⋮⋮﹂
うん、なんとなくそう思った。
隣で颯太郎だけごろごろしているのに、自分は枝の剪定をしてい
るのは妙に悔しいので、肉球柄のシーツをつかむと、思い切り引っ
ぺがした。
﹁ひどい、紅ちゃん﹂
﹁私だけ働かせるほうがひどいわ﹂
颯太郎に剪定ばさみを渡すと、紅花が干し草のベッドに横になる。
確かに、まだボリュームが少ない。
﹁紅ちゃんも手伝ってよ﹂
﹁私はあんたの監督﹂
横暴と言われようが知ったことじゃない、ちゃんとこういうとこ
ろで上下関係ははっきりさせておかないと。
なんのために、サッカーボールおにぎり作ってやってると思って
んだと、紅花はふんと鼻息を荒くする。
303
庭を綺麗にするのは紅花も颯太郎も義務じゃない。ただ、過ごし
やすい環境を作りたいだけだ。
前の用務員さん、戻ってこないかなーと思うのは贅沢だ。
そういえば。
﹁ねえ、颯太郎。新しく来た用務員さん見た?﹂
周りであんなに騒いでいたら、嫌でも気になる。もしかして、見
ていないのは紅花だけじゃないだろうかと勘繰る。
﹁見たことないよー﹂
颯太郎の言葉で少し安心した。
騒いでいるのは女子生徒だけだ。ゆるふわこと古床も、血清を打
って元気になったためかきゃーきゃーうるさく騒いでいる。颯太郎
をボウガンで撃ったことを微塵も覚えていないとは、都合がいいと
同時に、やるせない気分にもなる。
あの時の彼女はまだ、吸血鬼の催眠が抜け切れていなかったのだ
ろうか。
他の吸血鬼もどきの人間たちは、彼が気を失うと同時に気を失っ
ていたのに。
﹁あっ、でも﹂
颯太郎は何かを思い出したかのように、つぶやいた。ぱちりと伸
びすぎたいばらが落とさせる。
﹁変な視線感じるじようになったよね、最近﹂
304
﹁ええっと、気のせいだと思うんだけど﹂
それがどうしたというのだろうか。
﹁ちょうど用務員さんが入ったころくらいじゃないのかな?﹂
颯太郎のその言葉に、紅花の眉がぴくりと動いた。
聞き耳を立てた情報を合わせて見ると、用務員さんは放課後、校
内を一周回って、なにか不備がないか見回っているらしい。
掃除を終えた紅花たちは、学園の外周を回ることにした。
﹁ねえ、本当にやるの?﹂
﹁やるの﹂
颯太郎はあまり乗り気じゃない。多分、今日の午前中でおやつの
煮干しが切れて食べるものがないからだろう。
昼間、紅花が巨大おにぎりをあげたのに、まだ足りないのだ。
﹁お迎えはいいの?﹂
﹁まだ、時間あるから﹂
今日はまったくアレを見る気配はない。アレさえ見なければ、紅
花はそうそう怖いものはない。
305
颯太郎も渋りつつ、ついてくるのはそういう危ない感じがしない
からだろう。
むしろ、お腹さえ満たしていれば、乗り気になるかもしれない。
なにかを追いかけて捕まえようとする本能は強そうだ。
紅花は、スポーツバッグから食パンを一斤取り出す。行儀が悪い
かもしれないが、帰りの車の中で食べようととっていたものだ。そ
れを半分に千切る。
﹁はい﹂
﹁おおっ!﹂
颯太郎が目を輝かせる。
たかだが食パンだが、食べ盛りの颯太郎にとってはご馳走だろう。
チューブ式のバターを塗りたくって食べる。
もぐもぐと咀嚼しながら外壁の内側を歩く。用務員さんは、学校
の見回りが終わると一度、用務員室に立ち寄って日誌を書くらしい。
そう考えると、用務員室をスタート地点にして、紅花と颯太郎がそ
れぞれ反対側に歩いていけば出会えるだろう。
﹁なにかあったら連絡するのよ!﹂
﹁あいさー﹂
﹁携帯充電切れてないよね!﹂
﹁だいじょーぶ﹂
颯太郎が敬礼して壁にそって歩いていく。
紅花はどこか不安だなと思いつつ、反対側を歩く。
306
それにしても広いなあ。
元々、東都学園の生徒数はけっこうな数だし、初等部と高等部も
一緒だ。敷地面積も、どこかのドーム何個分と形容される広さだ。
もちろん、そんな広い場所を用務員さんが一人で回れるわけがな
いので、高等部と初等部には別の用務員さんがいる。だから、中等
部の敷地だけでいいけど、それでも広い。
ときおり、がさごそと音がする。多分、山が近いこともあり、小
動物が色々住み着いているんだろう。
不安と言えば不安だけど、恐怖までにはいかない。
もっと怖いものがたくさんあるって知っている。
五分ほど歩いた頃だろうか、なにか小さな影が見えた。
なんだろう。
体育倉庫の裏当たりだ。
四つん這いの生き物が数匹。
犬がいる。
そういえば、野犬がでるとか話で聞いていた。
もしかして、それがこんなところに集まっているのだろうか。
紅花は思わず走っていた。
307
その足音に特に耳のいい犬が、気が付いたらしい。驚いて一目散
に逃げる。他の犬も散り散りになる。
そして、そこにもう一つ影が見えた。
派手な金色の髪をしたつなぎの男の姿だ。
男もまた、紅花に気が付いたのか、その場を走って逃げ出す。
逃げたら追いかける。それが生き物の本能というものだろうか。
紅花は走る。
男と野犬たちがいた場所にはなにか食べ物が転がっていた。ドッ
グフードの類だとわかる。
だけど、そんなことはどうでもよくて追いかけるほうが先だ。
逃げるということは、それだけまずい行動をしているからだろう。
もしかして、紅花たちをずっと観察していたのかもしれない。
すぐに捕まるかと思ったけど、そうでもなかった。
相手の足は速い。紅花の足では追いかけるのに精いっぱいだ。
一般人の足じゃない。
紅花は追いかけながら、そろそろだと、男の向こう側を見る。
男は逃げる方向を間違えた。逃げるなら、校舎側に逃げるべきだ
った。学園の外壁に沿うように逃げるべきではない。
308
案の定、見慣れた影が視界の端に映った。
﹁颯太郎!﹂
電話をしなくても、聞こえるだろう。
﹁そいつを捕獲!﹂
その瞬間、颯太郎の目がきらんと光った。遠くからでもわかる目
の色の変わりようだ。
颯太郎は地面を蹴り、一瞬姿が消えたかと思った。
いや、消えたのではなく飛んだ。
飛んで、獲物を一発でおさえこんだ。
まさに猫の狩りだった。
颯太郎におさえこまれた影はばたついている。いきなり出てきた
伏兵に混乱しているのだろうか。
颯太郎がおさえているうちに紅花は、急いで走る。
そして︱︱。
﹁紅ちゃん、これでいい?﹂
颯太郎が目を細めて、上にのっかっている人物を肉球でぺたぺた
触った。
褒めて褒めてという顔は、猫というより犬っぽかった。
309
﹁上出来よ﹂
上出来だけど⋮⋮。
紅花は、おさえこまれた男の顔をみて眉を歪めた。
噂通り、チャラそうだけどまあまあかっこいいほうに入るんじゃ
ないかなという容姿だった。
おそらく、身内贔屓を抜いても。
﹁なんでここにあんたがいるの?﹂
﹁ひどくない? すげー、ひどくない?﹂
そこにいたのは、金髪で黒目の男だった。でも、本来の色彩は、
黒髪に金色の目だ。目はカラコンでもはめているのだろう。
﹁なにやってんのよ、ニート﹂
それは、紅花の兄だった。
ニートこと恭太郎だった。
310
17、ニートがニートたる理由
きょうたろう
﹁ええっと、紹介しようかな﹂
そうたろう
紅花は颯太郎と恭太郎の前で言った。
颯太郎はいきなり飛び掛かって押さえこんだ相手ということで、
悪い気がしたらしく地面の上に正座している。
そして、恭太郎といえばそれに対応して正座している。
それにしても、颯太郎と恭太郎は名前が似ているのでややこしい。
﹁颯太郎、こっちはうちのもう一人の兄で、ニートよ、恭太郎をや
っているわ﹂
﹁おい、待て、妹よ﹂
恭太郎、以下ニートがこちらを睨んでいる。 ﹁どうしたの? ニート﹂
﹁なんか間違ってないかい? 俺は今、このとおり職を得ているん
だが﹂
つなぎ姿をぽんぽん叩く。そういえば、就職したと聞いていたが、
ここだったなんて。アヒム兄さんは、無理やり枠に押し込んだと言
っていた。
紅花は顔を歪ませる。
ニートはなんで紅花から逃げていたのか、想像する。
311
﹁こんにちは、ニートさん。颯太郎と言います。恭太郎をやってい
るなんてすごいですね﹂
﹁うん、坊主。ちょっと、体育倉庫の裏に来てもらおうか﹂
ニートは、颯太郎に苦笑いを浮かべる。
紅花は腕を組んで半眼でニートを見る。
﹁ところで何してたの。野良犬集まってたじゃない?﹂
﹁それな、前にやってたおっさんの引き継ぎだよ。下手に餌やらな
くて餓えて人襲ったほうがまずいだろ?﹂
そう言ってニートはつなぎのポケットから、犬用のおやつを取り
出す。
﹁一応、上下関係叩き込めば言う事聞くって言われてな﹂
﹁あんたみたいなのボスとして認識するかしら?﹂
﹁おい、妹よ。お兄ちゃん、さすがに怒るよ!﹂
とはいえ、ニートが就職したことはとりあえず祝ってやるべきだ
ろうか。その過程が何であれ。
﹁ニート、あんたまだ用務員として新人よね﹂
﹁だな﹂
新人↓にいと↓ニート。
﹁結局ニートさんだね﹂
312
颯太郎が紅花の頭の中を読んだかのように言った。
﹁そうね。ニートね﹂
﹁おにいちゃん、泣いちゃうぞ﹂
ニートは情けない声を上げた。
紅花はこれくらいにしてやるかと、息を吐く。そろそろ若ママが
迎えに来るころだ。
﹁じゃあ、私帰るから。ちゃんと仕事しなさいよ﹂
﹁おっ、おい、ちょっと待て﹂
﹁なに?﹂
ニートが紅花を止めるのでなにかと思えば。
﹁俺もそっちの家に帰るから。たまには顔を出したほうがいいだろ
う?﹂
ふーん。
大体、考えは読めた。
﹁皿洗いくらいやりなさいよ﹂
夕飯代を浮かすためだろう。
313
ニートは以前も、この洋館に住んでいたようで慣れた感じで前に
使っていた部屋に入った。
埃っぽいが、オリガ姉さんと違ってそこまで気にするタイプでも
ないだろう。
若ママは、ニートが来たことに文句を言わなかったが、しっかり
雑用を押し付けていた。
﹁恭太郎さん、洗い物すんだら洗濯物たたんでおいて﹂
﹁わかりました。奥さま﹂
確か、ニートのほうが年上のはずだけどいいように扱われている。
紅花はリビングでテレビを見ている。愚兄も隣にいるが、今日は
我慢してやろう。ニートという邪魔者が増えて、内心むすっとして
いるに違いない。
ニートはすでに二週間ほど前からこの学校に入っていたようだ。
たしかに、変な視線を感じ始めていたころと一致しないこともない。
監視者はニートなのだろうか。
﹁⋮⋮﹂
紅花はふーんと、冷めた目でタオルを重ねるニートを見る。
たしかアヒム兄さんの手引きとか言っていた。それなら、あのと
きなんで紅花に説明してなかったのだろうか。
違う話にうつったから、言い忘れたといえば説明がつくかもしれ
314
ない。
でも、そうなると、ニートが逃げ回っていた理由はどうなる。そ
れに、もっと早く夕食をたかるためにこうやって家に来ていただろ
う。
紅花と、そして颯太郎の監視だろうと思う。
颯太郎が正気ではなかったとはいえ、無罪放免で彼を野放しにす
るほど山田家は甘くないと紅花は思っている。少なくとも、お花畑
で仲良しになるとは思いづらい。
紅花が知らないところで、大人たちがなにか画策しているのかも
しれない。ニートが髪の毛を染めて、カラーコンタクトレンズを入
れてるところをみると、隠そうとしていたのもわかる。もちろん、
顔を合わせた時点で見つかったけど。
オーガ
本当なら、颯太郎は食人鬼の一歩手前みたいなものだから。
監視程度で済むならまだ優しいほうだと、紅花は思う。
ニートだって一応大人で不死者だ。紅花がなにかあれば、すぐ駆
けつけられる利点もある。
紅花がこういう大人の考えに頭を悩ませるのは、正直無駄なこと
だろう。大人は大人なりに考えがあってやっていることである。
でも、それを理性的に納得できずに悶々としているのは、まだ幼
いからなのかなと思う。
そういうわけで、正座して洗濯物をたたむニートの後ろに立つと、
なんとなく蹴ってみた。
315
﹁おい、妹よ。何をする﹂
﹁気にしないで、八つ当たりだから。お風呂はいってくるねー﹂
﹁おい、なんだよ、それ。おい!﹂
ニートからタオルを奪うと、紅花はバスルームへと向かうのだっ
た。
ばれてしまったあとでは、ニートはどんどん図太くなっていった。
紅花が若ママに毎日送り迎えをしてもらっていることをいいこと
に、ニートが我が家に住みつき始めた。用務員さんには一応、専用
の宿舎が学校近くにあるらしいが、そこはあまり環境がよくないみ
たいだ。
そりゃそうだ。山田家なら部屋はあるし、食事はちゃんと出る。
正直言えば、例えニートがまともに就職しても、食費すらねん出
できないことはまだ世間に疎い紅花でもわかる。エンゲル係数とい
うものがあるらしいが、我が家はその数値が著しく高い。
紅花と同じく不死者であるニートの食費は軽く初任給をこえるだ
ろう。
それは可哀そうだけど、それとこれとは別だと考えるのが、山田
家の台所を預かる若ママだ。
316
お情けで、朝食と夕飯は出してあげてるが、お弁当まで作る義理
はない。
そういうわけで。
﹁ねえ、あんまりこっち凝視しないでくれる﹂
紅花は古びたベンチに座っていた。手には大きなおにぎりを持っ
ている。
颯太郎も同じくおにぎりを持っているが、こちらは少し歪な形だ。
場所は温室、天気がいいのでいつものごとく外で食べている。
紅花をじっと見つめているのはニートだった。
そこらへんに咲いていた花をつまんで口に咥えている。たぶん、
蜜を吸っているのだろうが腹の足しにもならない。
﹁ほら、仕事戻んなさい﹂
しっし、と追い払うがずっとこっちを見ている。
ぎゅるぎゅるぎゅるっと腹の音が鳴り響く。
紅花だって、恭太郎をニート扱いするのには理由がある。愚兄と
は違った意味で本当に駄目な男だ。
﹁いいのか、妹よ。このまま兄ちゃんを野放しにしても﹂
ニートはそう言って、新しい花に手を付ける。
317
﹁兄ちゃん、このあと犬たちにごはんをやるんだぜ?﹂
﹁それがどうしたっていうのよ﹂
紅花はタンブラーからお茶を飲む。
ニートはまるで花を煙草か何かのように口に咥えて、さらっと髪
の毛をかき上げる。
﹁餓えた兄ちゃんは、たとえドッグフードでもご馳走に見えてしま
う﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁むしろ、味はないが、スナックと同じ。いや、シリアルの一種だ
と思えば十分だ﹂
﹁⋮⋮ねえ、なんで味知ってるのよ﹂
ものすごく駄目なことを言っている。なんだこのニート。
﹁残念なのはキャットフードのほうがもっとカロリーがあるんだけ
ど、そっちの仕事は別の猫好きの先生に引き継がれてな﹂
﹁キャットフードはやっぱりウェットタイプがいいよね。カリカリ
はすぐ湿気るからなあ﹂
﹁颯太郎、あんたも何言っているの﹂
おにぎりを食べ終わった颯太郎は手の甲で顔を洗っている。眠た
そうな顔をしており、温室の中央の木によじ登り始めた。干し草の
ベッドは数日前に雨が降って使えないので今日は枝の上で眠る気だ。
﹁餓えた俺はなんでも食べるぜ﹂
318
ニートが強気に言ってのける。
﹁それがなんだっていうのよ﹂
紅花も強気に言い返す。
ニートは髪の毛をもう一度かき上げる。金色に染めた髪はもう根
元が黒くなっていた。
それでもって片目を大きく開いて見せる。本来、金色の目はカラ
コンによって黒く見える。
﹁最近の女の子たちはおませさんだねえ。名前とか携帯番号とか聞
いてくるわけよ﹂
﹁ちょっと待って﹂
紅花の背筋にさーっと寒気が走る。
﹁確かお前と同じクラスの子も話しかけてくるんだよな。この間も、
ドッグフード持っていたときにな﹂
﹁ちょっとまって﹂
ニートの名前は﹃山田恭太郎﹄、ごくありきたりな名前だ。
でも、黒髪に金目という特殊な色彩を持っていたら、大体の人間
は勘付くだろう。
﹁お腹が空いてたら、人目を気にせず食べちゃうかもなー、俺﹂
やめろ! やめやがれ!
ねえ、聞いた。あの用務員って、山田さんのお兄ちゃんなんだっ
319
て。
ええー、嘘! あの人、この間、ドッグフード食べてたけど!
本当、それってありえなくない? あっ、ねえ、私、山田さんが
お弁当食べているところ見たことないんだけど、もしかしてさあ、
ドッグフード食べてるんじゃない?
思春期の多感な時期である。紅花の妄想は、頭の中でクラスメイ
トの声に変換されて響き渡る。
それをニートがにやにやと見ている。
﹁紅花ちゃーん﹂
間延びした声に苛々しながら、紅花はスポーツバッグを開けた。
放課後の間食用にとっておいたバケットを掴む。
それを槍投げの要領で構えると力の限り投げた。
食べ物を無駄にするなといわれるかもしれないが、ちゃんとそれ
はニートの手に掴まれていた。
ニートは咥えていた花びらをぺっと吐きだすと、バケットにかぶ
りつく。
紅花は地団太を踏みたい気持ちを精いっぱい押し殺して、デザー
トのリンゴに手を付ける。
﹁いやー悪いね、昼からの業務が忙しくてね﹂
﹁黙れ﹂
﹁なんかジャムかなにかないか?﹂
320
﹁ないわよ、そんなもん﹂
ほんとはチューブ式のバターがあるけどやるもんかと鼻息を荒く
する。
それにしても、今日までよく野垂れ死ななかったなと思う。
ニートはバケットを半分ほど食べ終えたところで、思い出したか
のように紅花を見た。
﹁そういや、変な噂聞いたんだけど知ってるか?﹂
﹁噂? どんなの?﹂
紅花が耳にする噂なんて教室に一人でいるときに流れ込んでくる
周りの雑音くらいだ。昼休みもこうして出ているので、そんなに知
っているわけじゃない。
﹁最近、変な連続殺人事件があってるだろ?﹂
﹁よくニュースであるやつね﹂
何だったろうか。若い女性ばかり殺されているやつだ。しかも、
女性たちは皆、飾り付けられていることから猟奇殺人として扱われ
ている。
﹁ここの高等部の女子生徒がけっこう前から行方不明なんだけど﹂
﹁⋮⋮﹂
そこまで話を聞いたら、けっこう読めてきた。前に千春がいって
いた東都市七不思議にあった連続殺人事件、それに酷似した事件だ。
﹁予想通りの姿で見つかったようだな。世間体も考えて、公表は控
321
えているみたいだけど、マスコミが嗅ぎつけるのは遅くないと思う﹂
ごくんと紅花は喉を鳴らした。今、お茶を飲んだばかりなのに、
急激に喉が渇いてくる。
ニートが紅花に近づく。バケットを全部食べ終えて、指についた
粉を舐めとっている。そして、紅花が持っているタンブラーをとる
と、それをごくごく飲み干した。
﹁それでな﹂
潤した喉から低い声が聞こえる。内緒話みたいに紅花の耳元で囁
く。
﹁相手は殺人鬼じゃなくて、食人鬼の可能性がある﹂
タンブラーが紅花の手に戻される。もう中身は残っておらず、紅
花の乾いた喉は潤せない。
﹁飾り付けられたまでが、警察の公式発表。でも、飾り立てられた
服の中はな﹂
内臓がすべて奪われていたらしい。代わりにミイラのように綿を
つめ、縫合しなおしてから飾り立てられていた。
鳥肌が立つ。
寒気が全身を襲う。
なんでこんなことを言うんだよと紅花は悪態をつきたくなる。
322
それを感じ取ったのか、ニートはぽんと紅花の肩を叩く。
﹁オリガ姉やアヒム兄が何考えてるかわかんねえけど、俺としては
もう少しお前にオープンのほうがいいと思ってる。何も考え無しの
馬鹿じゃねえだろうから﹂
そういってニートは大きく伸びをした。
﹁あー、今日こそは絶対捕まえてやる﹂
野良犬の中でまだ去勢を済ませていないのがいたらしい。生徒に
害をなすなら処分だが、学校側の方針ではできるだけそういう殺処
分をしたくないという。手術費やドックフード代は学校側から出し
てもらえるらしい。
﹁じゃあ、仕事いってくる﹂
そう言ってニートは温室をあとにした。
木の枝の上で、颯太郎は薄く目を開いていたことに、ニートは気
づいただろうか。
わざとなのかな、それとも気づかずにやったのかな。
どちらでもいい。ただ、颯太郎はそれを聞いていたことは確かだ
ろう。
まだ、口の中が乾いている。タンブラーは空だ。
紅花は、乾いた喉を潤すために自販機に向かうことにした。
323
324
18、こわいもの、こわくないもの
放課後、ニートがいっていたことが紅花は気になっていた。
ネットで調べようと思ったけど、紅花の部屋にパソコンはない。
教育方針として持っていないのだ。
携帯で調べてもよかったけど、こういうときは詳しい人に聞くの
が一番だと思った。
﹁ふーん、やっぱそういうの興味あるのー﹂
千春さんがキーボードを打ちながら言った。
文芸部の部室は今日もガラガラだ。いつも昼休みに行っているか
ら、今日は誰か違う人もいるかもしれないと思っていたけど、そん
なことはなかった。
ちょっとほっとしている。
先日、あれだけ噂話をしてくれただけに、一言頼んだらすぐ調べ
てくれた。
﹁ちょっと気になって﹂
﹁ああ、わかってる。わかってるから。うんうん、そういうのって
気になるわよね﹂
何も言うな、お前は同志だ、と千春さんの目が輝いていた。おさ
げをばさっと蹄で書き上げると、カタカタとキーボードを鳴らす。
325
なんということだろうか、こうして目の前でどうやってキーボード
を打っているのか見ているのにまったく意味が分からない。どうや
って蹄で叩いているのだろう。
ちなみにマウスのクリックもよくわからない。
恐るべき山羊人間だ。
千春さんは、慣れた様子で検索画面にキーワードをのせていく。
﹃ビスクドール連続殺人事件﹄、巷ではそのように言われている
らしい。どこかで捜査情報が漏れたのか、殺された女性たちが着飾
られて、椅子に座っている様子がそれによく似ていることから言わ
れている。
マスコミの餌食になるにふさわしい題材だろう。
千春さんは、見た目は可愛い山羊さんなのに、なかなかエグいも
のを探してくれる。
﹁どうする? なんか再現した写真とかあるけど、そういうの苦手
?﹂
さすがに本物の写真ではないらしい。物好きな人が警察やマスコ
ミが流した情報を元に、こんなものではなかったのかと再現してい
るらしい。
たとえ、そういうものでも苦手な人も多いだろう。
でも、紅花はそういうもので怖がるタマではなく、なによりもっ
とひどい目にあっている。
326
﹁平気なので開いてください﹂
﹁はいはい﹂
そこには薄暗い写真が一枚あった。
女性がドレスを着せられて、椅子に座っている。
顔はうつむき、手はぶらんと下がっていた。
本当に人形みたいだ。
その上、服の内側では、内臓を抜き取られ、綿が詰められている
という。
オーガ
ニートは食人鬼の仕業かもしれないと言った。すなわち、それは
抜き取った内臓を食している可能性があることを示している。
んぐっと、胃液があがってくる。唾を飲みこんで押し流す。
今度の被害者は、高等部とはいえ同じ学校の生徒だ。紅花の先輩
だ。
紅花は自分がずるくて臆病だと思った。名前も顔も知らないその
先輩に対して、可哀そうだと思う。でも、それ以上に、自分はこう
なりたくないと思う。
この学校の生徒が被害者なら、その人の行動圏内に犯人がいると
いうことだ。東都学園の生徒はいろんな場所から来ている。その人
の行動範囲と紅花のそれが重ならないでほしいと願う。
ただ、そんな感情からふとこんなことが口にでていた。
327
﹁そういえば、千春さん。最近、高等部で学校に来ていない人とか
いませんか?﹂
中等部の彼女にこれを聞くことは間違っているし、変な勘ぐりを
させるだけだろう。
馬鹿な質問をしたと、頭を抱えたくなった。
﹁そう言われても﹂
情報通の千春さんだからだろうか、腕を組んでいる。
﹁わからなくもないけど﹂
えっ、と紅花は目を丸くする。
千春さんはそう言って、なにかパソコンをまたいじり始める。携
帯につないでいたネットワークを切り、なにやら別のネットワーク
に切り替えている。
﹁なにしてるんですか?﹂
﹁学校のネットにつないでるの。お父さんのパスワードで入れるか
ら﹂
﹁⋮⋮﹂
それっていいんだろうか、と紅花は思う。
織部先生は困らないのだろうかと、考えつつパソコン画面を覗き
込む。
千春さんはどこぞの共有ファイルに入っていた。そこには、名前
が羅列されており、一目で名簿とわかる。
328
中等部と高等部のネットワークが一緒で問題はないだろうか、と
いうかパスワード知っていたら簡単に入れるのか、セキュリティ甘
くないかといろいろ考えていたが、最低限のことはされているらし
い。
﹁うーん。わかるとしたら名前と出席簿くらいかな。それ以上細か
いのは個人情報だから、見つからないなあ。調べようと思えば、調
べられることしか入ってないわ﹂
うん、そのほうが安心する。
ぜひぜひ、セキュリティはもっと強化してくれと言いたくなる。
﹁とりあえず、ここのところ休んでる人の名前ピックアップしてお
くね。あと、事件の考察してるサイトあるけど、アドレス入れとく
?﹂
﹁ええっと、できればプリントアウトできませんか?﹂
ちょっと図々しいと思いつつ申し出る。
﹁はーい、わかった。ここのプリンタ古いから白黒しか出せないけ
どいい?﹂
﹁大丈夫です﹂
紅花は古びたプリンターの前に立つと、コンコンとノックする音
が聞こえた。
﹁どうぞー﹂
千春さんの返事とともに入ってきたのは、颯太郎だった。
329
﹁あっ、紅ちゃんもいたんだ﹂
颯太郎はそう言うと、足音をさせないまま千春さんの元に向かう。
﹁なーにー?﹂
﹁ちょっと聞きたいことあったんだ、千春姉﹂
颯太郎は千春さんに慣れた様子で話しかけていた。
ふーん、と紅花は思う。
颯太郎は紅花と同じくクラスでも浮いている。一日中、鰹節と煮
干しを食べて昼寝している奴だ。
普通に仲がいい人なんていないと決めつけていた。
知り合いなのかといえばそうだろう。
若ママたちの知り合いに織部先生と颯太郎のおばあちゃんがいる。
織部先生と颯太郎のおばあちゃんが知り合いの可能性もあるし、そ
の場合、千春さんと颯太郎にも接点があってもおかしくない。
なにより、獣人同士なので自然と話が合うのだろう。
紅花は、プリンターから印刷物がたらたらでてくるのを待つ。
﹁えー、あんたも同じこと聞くのね﹂
﹁同じこと?﹂
同じこと?
330
颯太郎がちらりと紅花を見る。
﹁ほら、そこ、プリンターからでているから、あんたは書き写しな
さい。ここ、印刷枚数制限あるのよ﹂
そう言って千春さんが紅花のほうへと蹄を向ける。
颯太郎が近づいてきて、紅花が持っていた印刷物を覗き込む。
ふわんとやわらかい猫っ毛が紅花の頬をかすめた。颯太郎は、ぱ
ちぱちと数回瞬きをした。まるで、カメラのシャッターを押したよ
うな動きだった。
﹁うん、わかった。千春姉、ありがとー﹂
﹁あいよー。今度、良い感じの葉っぱ持ってきてねー﹂
颯太郎はそのまま部室を出て行く。
紅花は自分が持っている印刷物を見る。
今さっき、千春さんにまとめてもらった名簿が一番上にあった。
欠席が多い生徒は十数名いるが、女子生徒は七名ほどだろうか。
暗記、早っ!
紅花はそう思いつつ、千春を見る。
﹁すみません。助かりました﹂
﹁うん、いいよー﹂
﹁また、なにかあったらお願いします﹂
331
そういって、部室をあとにした。
紅花は少し早足になる。いや、早足では間に合わないので、誰も
いないことを見計らって階段を飛び降りる。無駄に洒落た螺旋階段
の中心に身を乗り出す、ふわっとスカートが舞う。足をばねにして、
トンとつま先で着地する。少し勢いがついて前のめりになったが、
すぐ持ち直す。
三階から一気に一階へ。
無理やりなショートカットをした先に、目当ての人物がいた。
﹁颯太郎!﹂
﹁どしたの、紅ちゃん?﹂
紅花が三階から飛び降りようとも、平気な顔をしている。たぶん、
紅花より颯太郎のほうがもっと上手く着地できるだろう。たぶん、
一度くるんと宙返りをくわえる余裕があるはずだ。
紅花は颯太郎の前に行くと、人差し指を立てて彼の肩をつついた。
﹁どうするつもり?﹂
﹁どうするって、これから帰るつもりだけど﹂
嘘だ、と紅花は直感した。
332
猫みたいに目を細めて微笑んだ顔をしているがなんか胡散臭いと
思う。
﹁あんた、事件について調べるつもりでしょう?﹂
紅花はぐいっと指に力を入れてもう一度つつく。
﹁だから、今、千春さんのところに来たんでしょ?﹂
﹁それを言うなら、紅ちゃんもじゃないの?﹂
颯太郎は、首を傾げながら言った。
﹁紅ちゃんは危ないから、帰った方がいいよ﹂
﹁あんたも帰りなさいよ﹂
紅花はあくまで興味本位だった。正直、情報源がニートだ。本当
かどうか怪しい。だからこそ、つい調べてしまっただけだ。
もし、それが本当だとして、紅花がやるのは、その殺された人物
の行動範囲に入らないようにすることくらいだ。
殺人鬼だろうが食人鬼だろうが、会わないことにこしたことはな
い。
紅花は颯太郎の襟首を掴む。そのまま引きずる。よく、若ママが
愚兄にやっている運び方だ。
﹁今日は、送ってあげるから一緒に帰るよ。電車待たなくていいか
ら楽だよ、後部座席でいつものように寝てなよ﹂
333
﹁そういう気分じゃないから﹂
﹁言う事、聞きなさい。颯太郎の癖に﹂
まるでいじめっこみたいな言い方だ。でも仕方ない。颯太郎は、
紅花に借りがある。紅花の言う事は聞くべきなのだ。
颯太郎はずるずる引きずられながら、紅花を見る。
﹁紅ちゃん﹂
﹁何よ?﹂
紅花は機嫌悪そうに答える。
﹁食人鬼怖いでしょ?﹂
﹁⋮⋮なにいってんの?﹂
足が一瞬止まりそうになった。止まっていない、だから気づかな
いでほしい。
﹁食べられることは怖いでしょ?﹂
﹁誰だって、嫌じゃないそれ﹂
皆、好き好んで食べられる人なんていない。それは、死と直結す
ることだ。
﹁でも、怪我は怖くないみたい。それどころか、死ぬことも他の人
より怖がってない﹂
﹁⋮⋮何言ってるの?﹂
﹁だって、この間の食事の時、全然平気そうだった。井戸のときも
そうだったし、吸血鬼のときも。あれは、怖がるというより、ちょ
334
っと違うかんじだった。危険だと思っているけど、対処できる冷静
さはあった﹂
だけど、と颯太郎は付け加える。
﹁あの粘性生物のときと、⋮⋮僕のときはすごく怖がってたよね。
なにも動けなくなるくらいに﹂
足が止まる。
首筋がざわっとする。
大きな前脚で押さえつけられ、牙が食い込み、そのまま肉を引き
ちぎられる。
フラッシュバックする記憶の中で、そこにいる颯太郎は人ではな
かった。ただ、血に飢えた虎がそこにいた。
一瞬手が緩んだすきに、颯太郎はくるりと身体をひねって紅花の
手から逃れた。
夕日が窓から差し込み、影が伸びる。
赤い光に黒い影が立つ。それが獣の形にかわっていくように見え
た。
驚きで手が震える。それをおさえる手も震える。
﹁紅ちゃん優しいよね。普通許さないよ﹂
﹁なにが﹂
335
﹁許してくれたから、僕はここに正気でいるんでしょ﹂
颯太郎はにいっと笑う。唇から八重歯が小さくのぞく。
﹁大丈夫、僕はそんなにへまはしないから。だから、安心して縁側
で日向ぼっこでもして待ってればいいよ﹂
﹁うち、縁側ないもん﹂
﹁うちの貸そうか、日当たりいいよ﹂
軽口を叩くことはできる、でも、もう一度颯太郎を捕まえること
はできない。
颯太郎は廊下を足音も立てずに歩く。
ナイト
﹁紅ちゃんが優しいから、僕は騎士になれるんだよ。かっこよくな
い?﹂
﹁かっこよくない﹂
﹁ひどいなあ﹂
口では言い返せる、でも、身体は動かない。
颯太郎はどんどん離れていく。
﹁大丈夫、おうちでおにぎりでも作ってて。おかかとじゃこを混ぜ
たやつが好きだなあ﹂
﹁⋮⋮﹂
こいつ、誰が作っていたかわかっていたのか。
紅花は毒づきたくなった。
336
﹁じゃっ﹂
﹁ちょっと!﹂
颯太郎はそのまま走っていった。
体重を感じさせない走りに紅花は追いつけない。
追いかけようとも思わなかった。
颯太郎が完全に見えなくなった。
﹁さいあく﹂
大丈夫だと思ってたのに。
うまくいくって思っていたのに。
ばれていたみたいだ。
紅花は颯太郎が怖かった。
捕食者が怖かった。
337
19、ビスクドール事件
ニートの言ったことは本当だった。
七月に入ると、見慣れた学校の門がテレビに映し出されて、朝食
のカフェオレ吹きそうになった。
殺害された女性が、東都学園の高等部の三年生だってわかったら
しい。
おかげで、その日学校に行ったら、外壁に沿ってずらっと取材班
らしきバンがとまっていて大変だった。
ホンファ
紅花は若ママの車から降りるなり、マスコミにつかまった。
校門前は、先生の目が光っているので、こうして少し離れたとこ
ろで降りている紅花に目をつけたらしい。
紅花は、自分の生徒手帳を見せると、引き下がってくれた。生徒
手帳にはしっかり中等部と明記されている。
中学生と高校生を間違えるなよ、と思いながら、中等部の校門を
通る。
玄関で靴から上履きに履き替える際、見慣れた薄い色素の髪が目
に入った。
﹁おはよう﹂
﹁⋮⋮おはよ﹂
338
眠そうに髪の毛に寝癖をつけて、颯太郎は教室へと向かっていく。
紅花も同じ方向へと向かうが、その距離は微妙にあいている。
普段から、颯太郎と紅花はお昼のときくらいしか話さない。たと
え話したとしても、放課後とか周りに誰もいないときくらいだ。
だから、前からこんな風に距離をとっていたのに。
いつもより、一メートル紅花が後退している気がする。
なんだか、ムッとなった。
なんで私が、あいつの後ろにいるのよ!
紅花は小走りになって、欠伸をしている颯太郎を追い越した。
休み時間の話題は、皆、例の殺人事件についてだった。
高等部に身内がいる人間は、事細かにそれを話している。
紅花は引き出しに入ったクリアファイルをちらっと見る。
千春に印刷してもらった名簿と、事件の概要をまとめたものだ。
若い女性というが、その幅は広く十五歳から五十歳までをターゲ
ットにしていた。死体は椅子に座らされ、着飾られていたという。
五十歳で若いというのは変な感じだけど、たぶん、被害者の中に
339
人外が含まれていると紅花は思った。人間とそっくりな見た目で寿
命が違う種族はけっこういる。不死者や吸血鬼もそうだし、妖精や
人魚の類もいる。
見た目年齢が若ければ、それでいい。そっちのほうが大衆の興味
を引けるからだろう。
被害者は現在八名、この学園の生徒も含まれている。
ただ、印刷物には被害者の名前だけじゃなく顔写真と簡単なプロ
フィールもあった。
そこで、紅花は妙な違和感に気がついた。
写真は、学校のアルバムから引き抜いたものがあったが、何枚か
私服のものがあった。
みんなけっこうお洒落だなと紅花は思いつつ、凝視する。
もしかして⋮⋮。
それと同時に、もう一つ気になることがあった。
東都市七不思議にあった連続殺人事件、あれの関連性について考
察していたサイトもあった。
そこにも気になる表記がある。
こういうのって考える人すごいかも。
感心しながらも、そこで紅花が確かめる術はない。ただ、大人し
340
く何もせず、危険な目にあわないようにしていかないといけない。
颯太郎が言ったように。
紅花はクリアファイルを元に戻すと、隣の席を見る。
机には煮干しの袋が散らかっていて、颯太郎はクッションに顔を
埋めていた。
﹁⋮⋮﹂
あれから数日たつ。雨は降らず晴天が続いているが、温室でお昼
を食べるのはやめていた。
つまり、ここ数日ほとんど話していない。社交辞令の挨拶くらい
だ。
隣にいる少年はただのクラスメイトに過ぎない。
〇●〇
お刺身がお弁当に入っていたらなあ。
颯太郎はもぐもぐ口を動かしながら思う。今日のお弁当は巻き寿
司だ。酢飯に玉子とかんぴょうとカニカマとキュウリが巻かれてい
る。ちらちらと桜でんぷが舞っている。この色合いを好むのは母さ
んだろう。たぶん、家のお昼はかんぴょうの代わりにマグロが入っ
た巻き寿司があるに違いない。
341
ずるいなあ、母さん。
颯太郎の魚好きは母さん譲りだ。母さんも気が付けば、毎食お魚
料理だ。お肉が出るご飯はおばあちゃんかひいおばあちゃん、もし
くは時々父さんが作る。おじいちゃんは不器用なので何も作れない。
お弁当に生魚は駄目なのでお弁当には入れないというのもあるけ
ど、最近、高い食材を出し渋っている気がする。
颯太郎の食欲が半端ないレベルに来ているからかもしれない。元
々、けっこう食べるほうだったけど、今はその十倍以上食べている。
うちが農家でよかったと思う。一日三升のお米がなくなるから、
普通に買っていたらとんでもないことになる。
よく食べる理由はわかっているけど、家族はどんな反応をするか
ってけっこう、普通に受け入れてくれた。
母さんが一番驚いて、次に父さんがぴくりと眉を動かしたくらい
だろう。
おばあちゃんは理由を知っていたし、おじいちゃんとひいおばあ
ちゃんなにか勘付いているようだった。
後から聞いた話によると、おじいちゃんの妹が颯太郎と同じころ
に不死者になったらしい。それがお隣のおねえさんだということで、
ちょっと複雑なものを感じた。
けっこう普通に異常を受け入れる日高家では、来年から休耕して
いる田んぼでまた米を作ろうか話し合っていた。減反政策で休ませ
ている田んぼだけど、加工米として届けるとか具体的な案を出して
いて、やっぱり我が家は我が家だなあと思う。
342
起きたことに後悔するより、起きたあとのことをどう対処するか、
それを念頭に置く。颯太郎もそういう考え方で育てられてきたので、
ドライかといえばドライかもしれない。
だから、今もこうして普通に学校へ通っている。
颯太郎のしでかしたことは、大変なことだ。
でも、それを懺悔するだけじゃ何も前にすすめないことを知って
いる。もがいても、もがいてもなかなか変わらない未来があるのだ、
颯太郎は立ち止まってはいけないことを知っている。
颯太郎は食べ終えたお弁当を片付ける。三段重ねのファミリー用
お弁当箱に二リットルのペットボトルが一本、それと大きな水筒に
はわかめスープが入っていた。
すべて颯太郎の腹におさまったけど、まだ物足りない。
あと大きなおにぎりが一つあれば、颯太郎の腹は満足するのだが。
﹁⋮⋮﹂
颯太郎は、いつものように木に登ると太い枝の上で横になった。
そして、目を瞑る。
頭の中に地図が浮かぶ。
ここ数日で調べたこの学園の高等部の生徒の行動範囲だ。あらか
じめ絞られていた名前がテレビで映ったのは今朝のことだ。
343
被害者の家はこの学園から遠い、颯太郎の住んでいる町の隣の隣
の市だ。性格は大人しく、あまり外出しないタイプだったらしい。
手芸部に所属していたという。
そんな彼女が家に帰らないとなったら、心配されるものだが、体
面もあったのだろう、学校や警察にちゃんと届けを出されたのは先
週のことだったらしい。紅ちゃんのおにいさんであるニートさんが
話を聞いたのは、それから数日後だったと逆算できるので、死体発
見はその間ということになる。
颯太郎は寝転びながら携帯をいじる。ネットで調べた他の被害者
たちの家を頭の地図に入れ込む。
特に接点はない配置だ。若い、いや少なくとも若く見える以外の
接点はあるだろうかと颯太郎は考える。
被害者の中に若く見える人外が含まれていることを考えると、年
齢は何とも言えない感じになる。
ただ、気になったのは、死体発見現場についてだった。
被害者たちの住んでいる場所はともかく、死体発見現場は案外か
たまっていた。
六件が都内で発見され、残り二件は別の地方都市だ。
都内といっても広く、まったく同じ場所にあるわけじゃないので
これも何かの手がかりになるといったら難しい。
どういうことだろうか。
それに、もう一つ気になるのは、過去にそれに似た事件があった
344
ということだ。これは、ただの偶然だろうか、それとも関連性があ
るのか、もしくは模倣犯だろうか。
颯太郎は指先で携帯をいじる。
こういうのは千春姉が得意なんだよなあ。
織部先生の娘とは、颯太郎は幼馴染だ。おばあちゃんと織部先生
は同級生だし、獣人同士ということでいろいろ話があった。
紅ちゃんは今日もここにいないということは、千春姉のところに
いるのだろうか。
そんなことを考えながら、ネットを巡回する。
あれ?
颯太郎の指がとあるブログで止まる。事件被害者の顔写真が並ん
だとても趣味の悪いブログだ。
そこにある写真のいくつかに疑問を持つ。
もしかして⋮⋮。
颯太郎は、起き上がると木から飛び降りた。
そして、高等部へ向かっていた。
〇●〇
345
世の中理不尽なものだ。
散々悩んだものがあっけなく終わる。そういうことってけっこう
あると思う。
それが今、夕方のニュースであっている。
﹁やっと解決したのね﹂
若ママがどでかい寸胴鍋を振りながら言った。なかには大量の肉
じゃがが入っている。白滝とシイタケといんげんが入った薄口しょ
うゆ味の肉じゃがだ。
紅花がどんぶりをさしだすと、おたまですくってついでくれる。
味見なんだけど、正直味見の量じゃない。
﹁長かったわね。それで犯人は?﹂
あれほど、何度もワイドショーで特集されていたものだけあって、
どの番組もそればかりだった。
犯人が犯人だけに、話題も集まるのだろう。
﹁女の人だって。しかもお医者さんらしいよ﹂
食いつかずにいられないネタだろう。
紅花は行儀悪く頬杖をつきながら、じゃが芋を口に入れる。男爵
芋を使っているのだろうか、ほくほくして美味しい。少し煮崩れし
346
ているが、味が染みていて好きだ。
被害者は皆共通の趣味を持つ人たちだった。
きれいに着飾られていたというが、実際にはそうではなかったら
しい。元々、その被害者が着ていた服だった。
ゴシックロリータという系統の服だ。
なるほどと紅花は思った。
印刷してもらったサイトの写真に違和感を持ったわけだ。写真の
うち数人がその系統の服を着ていた。
話によると、そういう共通の趣味を持った人たちはどこかに集ま
るらしい。死体発見現場が都内に集中していたというがそういうこ
とだろう。被害者の住んでいる場所がばらばらなのも集会のために
集まっていただろう。
ただ、そんな接点がありながら、なんで今までわからなかったと
言えば。
﹁素性も名前も知らない相手と会う、ネットの闇ねえ﹂
使い古された文句だ。ネットのテレビ叩きが多いように、テレビ
はテレビでネット叩きがある。
ゴスロリとは、人によっては墓まで持って行く趣味のようで、被
害者は周りの人間にその趣味を隠している者が多かったようだ。
中には貸倉庫に服を隠し持っている人もいたらしい。
347
普段はそんなそぶりも見せない人が多い。素顔もゴスロリファッ
ションを決めているときとまったく違うだろう。
ほぼすっぴんな顔写真に名前も住んでいる場所も違えば、一緒に
お茶会を楽しんだ人も気づかないだろう。少なくとも、気づかない、
気づいていてもあえて口にださない人が集まっていたからこそ、こ
うして被害は広がっていたのかもしれない。
なんだよ、まったく人騒がせな。
紅花はなんだかむかついて、チャンネルを子ども向け教育番組に
かえる。
そして、紅花がむすっとしながら、どんぶりの中身を空にすると
呼び鈴の音が聞こえた。
愚兄はまだ帰ってくる時間でもないし、呼び鈴なんて鳴らさない。
﹁紅花ちゃん、でてくれる?﹂
﹁はーい﹂
ぱたぱたとスリッパの音を立てながら玄関を開けると、眼鏡の優
男が立っていた。いつもと同じ海外ブランドのスーツを着ているが、
少し乱れているように見えるのは気のせいだろうか。
﹁どうしたの? アヒム兄さん﹂
﹁紅花、ちょっと話があってね﹂
そういうアヒム兄さんの顔は青かった。
348
とりあえずスリッパを出して中に上がってもらう。
﹁どうしたんですか?﹂
ソファに座り込むなり、テレビのチャンネルを変えるアヒム兄さ
ん。たとえ、以前はこの家に住んでいたとしても、アヒム兄さんな
らそんな不作法な真似はしないだろう。ニートと違って。
よほど急いできたのか、若ママがお茶を出すと、一気に飲み干し
た。
アヒム兄さんは、テレビの特番を見る。
﹁この事件を知ってますよね﹂
﹁解決したからよかったわよね﹂
﹁うん﹂
若ママと紅花は顔を見合わせる。
しかし、アヒム兄さんは首を振る。
グール
﹁捕まった医師は、屍鬼だった。いや、屍鬼化していたというか﹂
﹁それって﹂
屍鬼は死体漁りをする食人鬼として知られている。広い意味では、
確実に息の根を止めて死体になったものを食べる食人鬼として使わ
れる。
被害者の腹に綿が詰められていたというのは、やはり奪った内臓
をつまり食べていたということだろう。
349
紅花と若ママは顔を歪める。
ある程度、予測の範囲内だが、それが本当だと言われるとやはり
気持ちの良いものではない。
そして、アヒム兄さんはさらに不安になる言葉をかける。
﹁その医師なんだが、実はこの事件の最初の被害者の司法解剖をし
た医師でもある﹂
﹁⋮⋮それって﹂
﹁その際、誤って遺体に素手で触れてしまい怪我をしたと﹂
怪我?
普通、遺体に触れるだけで怪我をするものだろうか。
﹁その時の話では、遺体が動いたなんてことを報告していたらしい。
上は過労として、処理したようです﹂
﹁それって⋮⋮﹂
かなりやばくない?
三人の表情が一致する。
もし、その報告が医師の言うとおりだとすれば、他の被害者はと
もかく最初の事件は別の犯人がいるのではないか。
その上︱︱。
﹁最初の事件は、医師は関与を否定しています﹂
350
つまりどういうことかといえば。
﹁最初の犠牲者は何らかの形で屍鬼の因子を持っていた上、まだ、
生きていた。一番考えられるのは、半不死の状態でしょうね﹂
つまり、紅花たち不死者と同じということだ。ただ、その力は弱
く、内臓を全部抜き取られることでほぼ死を迎えていた。かろうじ
て蘇ったが、再生する力が及ばずまた息絶えた。
﹁接触した医師は、その際、傷口から犠牲者の血が入ったと考えら
れます﹂
祝福ではなく呪縛として血を受けた医師は、その思考が屍鬼化し
た。呪縛を受けた者は、餓えとともにその呪縛の元になった血肉を
求めるようになる。ただ、少量のため餓えはほどほどに、嗜好が代
わり、一部を除き理性はそのままだった。
最初の事件が、昔あった事件に似ていたことから、それを元に連
続猟奇殺人に仕立て上げることにした。
獲物はネットかなにかで似たような人間が集まる場所で選び、食
事を終えたら事件として飾り立てる。
﹁じゃあ、最初の犠牲者ってうちの身内ってこと?﹂
警察関係者でもないアヒム兄さんがこれだけ詳しいというのは、
そういう流れで呼び出されたからだろう。
しかし、兄さんは首を振る。
351
﹁血族で欠けた者は誰もいません﹂
﹁じゃあ、どういう?﹂
紅花は質問しようとして、ふと止まった。
今日のアヒム兄さんはずいぶんおしゃべりだ。普段はオリガ姉さ
んとともに秘密主義で、たまにニートですらしびれを切らして紅花
に話してくれるくらいなのに。
アヒム兄さんの顔色は悪い。
﹁もしかして、まだ問題あるんですか?﹂
紅花にかわって、若ママが兄さんに質問した。
兄さんはばつが悪そうに紅花を見る。
﹁最後の犠牲者の遺体が消えた。いや、逃げた﹂
﹁⋮⋮今の聞かなかったことにしていい?﹂
﹁賛成﹂
若ママもあからさまに嫌な顔をする。
現実逃避に三つ頭にゃんこのミケにおやつを与え始めるくらいだ。
逃げたということは、遺体は遺体ではなかったと言える。内臓を
根こそぎとられて再生できる種族は限られる。
﹁元々そうだったか、それとも犯人の血をなんらかの形で受けて不
死化したかわからない。後者の可能性は著しく低いだろうけど﹂
352
できればそれであってほしいと、アヒム兄さんの顔が語っていた。
元々被害者が不死化していた場合、最初の犠牲者との接点も考え
る必要がある。
﹁警察になにか言われたようですね﹂
ミケを右手で撫でながら若ママが言った。左手は心を落ち着かせ
るためだろうか、肉球をぷにぷに押している。
﹁最初の犠牲者が不死者であった場合、僕たちの立場が危うくなり
ます。最悪、僕らが人外として与えられている人権も奪われる可能
性が出てきます﹂
不死者がそう簡単に相手を呪縛し、食人鬼を作るようであれば、
社会に害悪しかない。人外が現代社会で人権を得るには、一般人に
友好的な関係であることは必須事項だ。そんな病原菌みたいな存在
であってはいけない。
﹁もちろん、そう簡単にそうなるわけではないのですが、今、父さ
んも母さんも眠っています。向こう側がここ数年強気に出ているこ
とは、忘れてはいけないのです﹂
オリガ姉さんとアヒム兄さんは、お父さんたちにかわって不死者
を束ねている。世界中で百人もいない血族だけど、それでもいろい
ろあるのだ。
﹁捕まった犯人の血に残った因子だけでは、誰由来の血液かわから
ない。もし、証拠として必要だとすれば、今動き回っている被害者
を確保する必要があります﹂
﹁どうやって捕まえるの?﹂
353
﹁たとえ屍鬼化しても、過去に慣れ親しんだ場所に戻る性質があり
ます﹂
うん、嫌な予感がする。
﹁確か東都学園の生徒ですね﹂
うん、それ以上言わないでほしい。
紅花の特異体質はなんだったろうか。ある種の恐怖を感じると、
一部の人外や異形の生き物たちに強烈な飢えを感じさせるというけ
ったいなフェロモンを出してしまう。
紅花の表情を読み取ったのか、兄さんが肩をぽんと叩いた。
﹁だめです、アヒムさん。そんなの!﹂
若ママがミケを置いて、紅花とアヒム兄さんの間に入った。
﹁紅花ちゃんが今までどんな怖い思いをしてきたかわかってるんで
すか?﹂
﹁それはわかっています。でも、ここで僕たちとは無関係なことを
示しておかないと、今後、紅花だって困ることになります﹂
﹁でも﹂
若ママが紅花をぎゅっと抱きしめる。
アヒム兄さんは、深く息を吐くと、眼鏡をくいっと押し上げた。
﹁ならば、守ってあげればいいでしょう。学園側にはなんとかねじ
354
込みますから﹂
兄さんの考えは変わらない。たぶん、オリガ姉さんがいても同じ
態度をとるだろう。
若ママが顔をきゅっとさせていた。ほのかに顔が赤くなっている。
﹁それならいいんですか?﹂
﹁ええ、それなら可能です﹂
若ママの表情がさらに硬くなる。
紅花は若ママの手をぎゅっと掴む。
﹁若ママ、私大丈夫だから﹂
なんとか頑張るから。
若ママがそんな紅花に微笑む。
﹁⋮⋮大丈夫、たとえセーラー服でもブレザーでもこの齢で着よう
とも、紅花ちゃんは守るから﹂
﹁若ママ⋮⋮﹂
紅花は何とも言えない顔をしてしまった。
﹁生徒としてねじ込むとは言っていません﹂
眼鏡を押し上げながら、アヒム兄さんが言った。
355
若ママが地獄の底に突き落とされたような顔をしていた。
﹁もう、兄さんのせいだからね。若ママがああなると丸一日仕事手
に付かなくなるんだよ﹂
紅花はご飯と揚げの味噌汁をついでいた。おかずは肉じゃがの他
に、ほうれん草のおひたしと揚げだし豆腐だ。あと豚の生姜焼きが
付く予定だったけど、アヒム兄さんのせいで若ママが部屋に引きこ
もったので仕方ない。あとで焼こう。
﹁うん、悪かった﹂
兄さんは反省しているようだ。紅花から茶碗とみそ汁を受け取る
と、テーブルに並べる。せっかくなので夕飯を一緒に食べてもらう
ことにした。人数分あるのかと聞かれたから、ニートの分減らせば
大丈夫といったら、それもそうだと納得していた。
テレビを見ながらご飯はお行儀悪いけど、BGMくらいなら許し
てくれる。特に何も考えなくて良さそうなローカル番組にチャンネ
ルを変える。
もぐもぐ、黙々と食べていると、意外に口を開いたのは兄さんの
ほうだった。
﹁紅花﹂
﹁⋮⋮﹂
356
紅花は揚げ出し豆腐を口いっぱい入れているので無言のまま顔を
上げた。
﹁颯太郎くんだったな。彼はどうだ?﹂
紅花はごくんと飲み干すと、首を傾げる。
﹁どうと言われても﹂
いつも魚食べてるか、寝てるとしか言いようがない。
﹁頭はいいのか?﹂
﹁頭?﹂
授業態度は最悪だなって思う。成績は可も不可もない感じの答案
を机の上で広げていた。
成績という意味ではそこまで良くないと思う。
ただ。
﹁優等生じゃないけど、頭は回るかも﹂
妙に機転が回ったり、人外に関してはかなり知識を持っていると
思う。あと、どこか先を見て行動している感じがする。
﹁そうか﹂
﹁どうしたの?﹂
357
妙なことを聞くなあと紅花は思う。
﹁あの連続殺人事件、いきなり解決したと思わないか?﹂
﹁そうだねえ。拍子抜けした﹂
一年以上前から騒がしていて、警察は無能だと言われていた案件
だ。
﹁被害者たちの接点を当てたのは、颯太郎くんだ﹂
﹁⋮⋮マジで?﹂
﹁マジとか言わない﹂
アヒム兄さんが優雅に味噌汁を飲む。
﹁恭太郎を通じて僕に連絡があった。そういうわけで、僕が警察関
係者に軽く話を通したわけだが﹂
大当たりだったわけだ。
そして、不死者との関連を疑われる一層の要因になったと。
﹁どちらにしても、犯人がわかったら一度はこういう話になっただ
ろう﹂
遅かれ早かれの話だと兄さんはいう。
﹁それにしても⋮⋮﹂
獣人とは基本、単純な思考の者が多い。
358
﹁ハーフだからじゃない﹂
﹁かもな﹂
兄さんはそういって、肉じゃがに手を付けた。
紅花はほうれん草のおひたしを食べながら、おいしいと思った。
どうでもいいおまけを言うと、その後、愚兄が帰ってきて、若マ
マがいじけていると知るとひたすらアヒム兄さんにことあるごとに
蹴りを入れていた。
ニートが帰ってきたころには、夕飯は綺麗に片付けられていた。
359
20、新聞と鰹節のにおい
普段通り学校に行けばいい。
ホンファ
そうアヒム兄さんは言ったけど、紅花はそれほど割り切った性格
じゃない。
若ママはいつも通り送り迎えしてくれるけど、結局、学校へ来る
ことはなかった。勿論、セーラー服もブレザーも着ることはない。
若ママの見た目は二十歳そこそこに見えるのだが、やはりそうい
うのを着ている姿を想像すると違和感がありすぎる。若ママは紅花
が物心ついたときから若ママなので、同級生の格好をするのはどう
にも受入れがたい。
対して、愚兄といえば、その話をちょっと聞くなり、どこからか
セーラー服を持ってきて、引きこもっている若ママの部屋へと突入
し、全身複雑骨折になって廊下に放り出された。
とりあえず、見下しておいた。
かわりに違う者を派遣するということで終わったが、どうなるこ
とだろうか。
放課後、紅花は図書館に行くことにした。
﹁うちの学校の図書館はちょっとすごいよ﹂
360
ちはる
千春さんがそういうのだから、そうなのだろう。
芸術棟からけっこう離れている。図書館は高等部と中等部、どち
らからでもいけるように渡り廊下が繋がっている。
温室もそうだけど、この学園にはなかなかいい感じの建築物が多
い。
円柱の塔を短くしたような建物がそこにある。壁は煉瓦造りで外
側には蔦が生い茂っていた。半分緑で半分赤茶色、とても趣がある
雰囲気だ。屋根はドーム状になっており、異国のお城を思わせた。
中等部側と高等部側に入り口が分かれており、カウンターも二つ
あるが、中は一緒になっていた。
海外の図書館みたいだった。まるでファンタジー世界に迷い込ん
だみたいな不思議な構造をしている。一階は普通の図書館と同じよ
うにただ本棚が並べられている。半分はテーブルのスペースで残り
は本棚という配置だ。
ただ、その天井は高い。二階、三階と上層階の中央部分は吹き抜
けになっていて、二階より上の蔵書はすべて壁側に埋もれるように
本棚が配置されている。
いや、二階、三階というつくりとは少し違う。
壁にそって階段がらせん状にのびているのだ。それが本棚ととも
に上に上がっている。
正直、図書委員の皆々様は辟易とする造りだろう。本を大量に運
361
ぶためだろうか。通路の脇に小さなトロッコが付いている。電動式
であり、スイッチ一つで動いたり止まったりする。
趣味だろうな、この造り。
けっこう大きいけど、中心に柱がなくて大丈夫なのだろうか。上
がドーム状になっているから、うまく力を分散させているのだろう
か。
本棚は重くないだろうか、などと思う。
だが、機能性よりも遊び心いっぱいのそれを紅花は嫌いじゃない。
若ママとか大好きそうなつくりだ。
はっ、いかんいかん。
ついつい楽しくなってそのまま図書館内を探検しそうになる。
紅花がしたいのはそれではない。
壁にかかった館内図を見る。
資料室は一階の壁際にある。
紅花はそれらしき区画へと向かう。
そこには特に密に本が埋まっていた。紅花は本棚の側面について
いる札を確認する。そこには地方新聞の名前が書かれてあった。
新聞の縮小版、それがここに置いてある。
紅花はその中の一冊を引き抜くと、次に隣の棚にうつる。隣の棚
でも他の新聞の縮小版が置かれていて同じ年月のものを探して引き
362
抜く。
そうやって全種類の新聞の縮小版を手にすると紅花は一番近いテ
ーブルに座った。
まず全国紙のほうを手に取った。
たしか、三十年前の⋮⋮。
そのくらいの時期のこの近辺で謎の連続殺人事件が起きていた。
あの先日解決したビスクドール事件によく似たものだった。
若い女性が殺され、着飾られて放置されるという事件だ。
紅花が気になっていたのは、この事件の詳細だった。
ネットではだいぶ時間もたっているし、個人で書いたものなので、
どの程度信憑性があるのかわからない。
とりあえず正しい見識かどうかはさておき、その当時の資料とし
て一番見やすいものが新聞だった。
紅花は小さな文字で埋め尽くされた中で、キーワードを探してい
く。
三十年前の九月、それが最初に事件が世間に明るみになった日だ。
三面に、大きく物騒な見出しが書かれている。
﹃行方不明女性、東都市にて発見﹄
363
死亡推定時刻は、記事の日付より一週間前。時期を考えると夏場
ということもあり、だいぶよろしくなかっただろう。
いくら着飾られたとはいえ、腐敗は嫌でもすすむだろうから。
他の新聞も比べて見る。どれも大体、似たようなことが書かれて
いた。一紙だけ、全然関係なく野球の勝敗をでかでかと書いてある
ところがあったが、記事が間に合わなかったのだろうか。
それから、記事は数日続くが、特に目立った進展がないのか、数
日で下火になった。それから二か月ほどしてまた、新聞に新たな事
件がのっている。
大体、二か月周期、それが一年ほど続いたあと、事件は収束する。
読んでいるとメディアも犯人像を想像しているが、迷走している
のがわかる。若い男性が怪しいとか、地元に根付いたものが怪しい
とか、それだけならまだ理解できるが、こんなことをやるのは人外
しかいないなどと決めつけているものもあった。その翌日、一面に
謝罪文が入ったことから、どこぞの人権擁護団体に突っ込まれたの
だろうと想像できる。
紅花は、ふうっと息を吐いた。
ネットで書かれていることとほぼ同じだ。
見るだけ無駄だったかなと思って、地方紙の記事を眺める。
ん?
それは、小さな記事だった。犯人は見つからず、だいぶ読者が飽
364
きてきたと思われるとともに、その記事も小さくなる。
日々、犯人逮捕のためにがんばっております、という警察の発表
を記事にしていた。その中で、ちょっとした警察バッシングをくわ
えている。それだけなら普通の記事だろうが。
その後、気になる一文が入っていた。
被害者は、殺害される数か月前に病院にいっていたというものだ。
同じ病院に皆通っていたなら、それで接点は見つかるがそこまで
は書いてない。殺害された人たちの遺体は東都市で皆見つかったも
のの、被害者の出身地はばらばらだった。離れた場所では、飛行機
の距離に住んでいた人もいる。
なんなんだろうな。
新聞には着飾られた人の内臓が切り取られていたとか、そういう
話はなかった。
ただ、それも警察が発表していないだけで、今回の事件と同じ可
能性もある。
そう思ったのは。
ビスクドール事件、最初の殺人を容疑者が認めていないことだっ
た。容疑者が今更最初の事件だけ否定する理由はないし、なにより
屍鬼化した原因もはっきりしていないからだ。容疑者の言葉を信じ
れば、最初の遺体によって感染していたことになる。でも、その感
染源と思われる第一被害者はとうに火葬されている。
365
あくまで仮定だ。仮定として。
その最初の被害者イコール前にあった事件とつながっていたらと
いう紅花の考えがあった。
その理由として。
最初の被害者は、東都市の近辺にある町に住んでいたからだ。
結局、わけがわからないままだったと首を振り、新聞の縮小版を
戻す。
携帯の時計を見ると、五時になろうとしていた。課外授業を終え
た受験生たちが、続々図書館に入ってきて、紅花は居心地が悪くな
る。そういえば期末テストは来週あるのでそれで人が多いのかもし
れない。
みんな、真面目だなあ。
カツカツと筆記用具の音が聞こえる。
三つくらい前の学校だったろうか、そこはけっこう荒れていたこ
とを思い出した。図書館にお菓子を持ちこんで食べながら、文庫版
の漫画を読んでいた小学生がいた気がする。
ここはそんな真似をする生徒はいないみたいだ。
と思った矢先だった。
366
ふっと鼻先に香ばしい匂いがした気がした。磯の香りというか、
海産物の匂いというか。
普段かぎなれている匂いだった。
匂いの元をたどろうと、周りをキョロキョロ見回した。すると、
中等部側の出口から見慣れた顔がこちらを見ていた。金髪に首にタ
オルを巻き、つなぎ姿の男だ。
なんなのよ、もう。
紅花がゆっくりと出口に近づくと、それに合わせるように金髪の、
用務員は外に出る。
﹁おまえ、こんなところにいたのかよ﹂
周りに誰もいないことを確認して、用務員ことニートが言った。
﹁まだ、若ママ迎えに来ないから﹂
若ママだって忙しい。この学園に入り込んで、紅花を守るとはい
ったものの、それをやるには今まで仕事でやっていた責任を投げ出
すことに近い。自宅勤務とはいえ、若ママにはちゃんと雇用契約を
した会社があり、今日は定期の出社日だったはずだ。
﹁一応、人のいるところなら安全だと思うけどよ、そういうのはち
ゃんと伝えてもらいたい。俺が兄貴たちに怒られる﹂
﹁悪かったけど﹂
普段ならここまでがんじがらめにしないだろう。囮にするとは言
367
ったものの、アヒム兄さんは紅花が可愛くないわけじゃないと思う。
若ママが来ない替わりになにか手を打っているはずだし。
﹁もし、なんかあったら、いつものアレとやらが見えたらすぐ連絡
しろ。いいな。俺だって、いつも一緒にいられるわけじゃないから
な﹂
﹁うん﹂
いつも一緒なんて、同じクラスにでも転入してもらわないと無理
だろう。
若ママのセーラー服に続き、今度はニートの学ラン姿を想像する。
あれ、意外と合うかも。
見た目年齢は二人ともそう変わらないのにそう思ってしまうのは
やはり変な感じだ。
学ランを想像したけど、男子生徒は普通のブレザータイプの制服
だ。女子はなぜか、セーラー服とブレザーの二種があって、好きな
方を着ていいことになっている。
一緒のクラスかあ。
ふと、紅花はさっき図書館内で嗅いだ匂いを思い出した。
香ばしい磯の香りにも似た匂い。
隣でいつも貪っている奴がいる。おかげで一時期、臭い移りをか
なり気にしたものだ。
368
どくんと心臓が鳴った。
﹁おめーは一人じゃあぶねーからよ﹂
﹁残念、一人じゃなかったみたい﹂
﹁はあ?﹂
ニートが怪訝な表情を浮かべる中、紅花はなんとも言えない気分
になった。
唇が微妙な形に歪む。ほっぺたがちょっと赤くなって照れくさい
ような気がする。
怖いと今でも思う。けど、それと同時に頼りになるって感じてし
まう。
そういうのずるいなあって紅花は思った。
先ほどまで紅花は図書館にいた。
多分、颯太郎もいただろう。
中に鰹節の匂いがしたから。足音は消せても、臭いはなかなか消
えるもんじゃない。そうそう鰹節と煮干しの匂いをまき散らしてい
る中学生はいないだろう。
明日、言わなきゃ。
図書館では飲食禁止だと。
これで違うって言われたらかなり恥ずかしいなと紅花は思う。
369
でもそれでもいいかなって考える。
なんでもいいから、話しかける口実がないといけないと思う。
本当なら男の子から気を使うべきなのに。
紅花はそこが腑に落ちないと思いながら、ちょっとだけ顔がゆる
んでいた。
﹁おい、なんか顔きめーぞ﹂
﹁うっさい﹂
ニートの脛に蹴りを入れた。
ニートが片足を押さえてうずくまっていた。
370
幕間、山田家家族会議
山田家では定期的に会議を行う。
お父さんとお母さんがまだ眠る前なら、けっこう頻繁にやってい
たし、その頃は、オリガ姉さんやアヒム兄さんもちょくちょく家に
来ていた。
理由としては、お父さんがやらかす頻度がかなり高かったため、
家族ぐるみでいろいろ相談する回数が多かった。
そのころはまだ紅花が化け物たちを引き寄せることも今に比べて
少なかった。
そして、今回、なぜオリガ姉さんたちまで呼んでその会議が行わ
れたといえば。
﹁今回集まってもらった件ですが﹂
司会は若ママが取り仕切る。
うちの中であまり使われない広間に皆集まっている。天井にシャ
ンデリアがあり、アンティークの長テーブルがあるだけの簡素な部
屋だ。多分、近世あたりの貴族の会議室といえばなんとなく想像が
つくだろうか。
近代的なところといえば、若ママの前にはノートパソコンがあり、
ケーブルを通してプロジェクターとつながっている。白い壁はその
ままスクリーンのかわりになっている。
371
若ママが一番奥に、左側に紅花とオリガ姉さん、右側にアヒム兄
さんとニート、後ろにプロジェクターの微調整をしている愚兄がい
て、テーブルの真ん中にニャーベラスのミケが陣取っている。
﹁ゆゆしき事態です﹂
若ママが深刻な顔をする。
﹁家計が大変です﹂
間抜けに聞こえる台詞だった。
深刻そうな若ママの表情につられていた皆は顔をゆるませる。
﹁なんだ、そんなことなの由紀子ちゃん﹂
オリガ姉さんが、笑いながら言った。
しかし、それに対して若ママは渋い表情だ。
﹁そんなことじゃないんです。オリガさん﹂
若ママは手を上げて愚兄に指示を出す。
愚兄は調整していたプロジェクターを壁に合わせる。すると、若
ママがパソコンを操作して、壁に画面が映し出される。
﹁これを見てください﹂
そこには円グラフがあった。
372
﹁これは、我が家の収入を示したものです。現在、オリガさんとア
ヒムさんの分の収入も、この中に入っています﹂
大体、円の半分くらいが若ママたちの月収の合計で、四分の一が
不動産による利益、残りが雑収入だ。雑収入の中にはおそらく月に
一度の定期検査も含まれている。
兄さん、姉さんの分の収入まで若ママが管理しているのは変な感
じだけど、若ママが税理士免許を持っていて信用されているからだ
ろう。基本、二人の通帳は管理しているけど、お金には手をつけて
いないはずだ。
﹁それがどうしたっていうの?﹂
﹁はい、次が支出をあらわしたグラフです﹂
ぽんっとキーボードを叩くと、新しい画面に切り替わる。
﹃⋮⋮﹄
紅花は思う。我が家は裕福なほうだと。
だけど、そこには収入をこえる支出額が書かれてあった。
﹁はい、赤字です﹂
うん、赤字だ。しかも、けっこう大きく額が上回っている。
我が家にはニートをのぞき、高給取りが多いと思っていた。でも、
それをはるかにこえる支出があるなら、裕福と言えるのだろうか。
373
﹁実は、お義父さんが眠られてから、けっこう家計はぎりぎりだっ
たんです。それが、先月とうとう赤くなってしまいました﹂
お父さんは、けっこう文化的にも生物学的にも価値があるらしい。
その研究協力でかなり収入を得ていたと聞いた。
﹁一体なにが原因なの?﹂
﹁そうですね﹂
オリガ姉さんとアヒム兄さんが難しい顔をする。ニートはぽけー
っとしており、ミケの尻尾をつついてちょっかいをかけて噛みつか
れていた。
﹁まず、食費でしょうか﹂
新しいグラフがでてくる。
我が家の食費は半端ない。軽く普通の人の十倍は食べる。
よくテレビに出るフードファイターなんかあるけど、ああいう人
たちはけっこう胃下垂が多いんじゃないかって思う。毎食何キロも
食べているわけじゃないと思う。
でも我が家では、基礎代謝も半端ないわけで、もし減らそうもの
なら、普通に栄養失調になる。冗談ではない、本当に倒れる。
特に、大怪我をしたとき、もしくは死んで蘇ったとき、そのカロ
リー消費は半端ない。一時的にカロリーを補うために油脂を摂取す
るくらいだ。オリガ姉さんはバターを、アヒム兄さんはオリーブオ
374
イルを好む。
紅花は普通にチョコレートを食べる。バターとかオリーブオイル
は嫌すぎる。
﹁最近、会社厳しくなったんでしょうか、接待費落ちにくくなった
んじゃありませんか?﹂
図星なのかオリガ姉さんとアヒム兄さんが顔を歪める。
ニートだけはミケに猫パンチを食らっている。
紅花は自分がここにいる意味あるのかなあと思いつつ、とりあえ
ずいる。なんか参加しないとしないで妙に寂しいからだ。
﹁ということで、外食を控えてください。自炊を頑張ってください。
それでだいぶ節約できるはずです﹂
﹁ちょっ、ちょっと由紀子ちゃん! 自炊って﹂
オリガ姉さんが慌てる。
﹁オリガさん、お米は洗剤でとがないでください﹂
冷めた目で若ママが伝える。
オリガ姉さんはメシマズだ。
﹁ちょっと、それは難しいと思うの﹂
﹁うん、そう思う﹂
紅花が同意する。その部屋にいる者全員が同意する。
375
その程度にメシマズなのだ。
若ママはふうっと息を吐いた。
﹁そうなると、他のところで切り詰めるしかありませんよ﹂
若ママがオリガ姉さんの通帳を見る。
﹁オリガさん。先々月あたり、海外ブランドでなにか買物しません
でした?﹂
﹁ええっと、下着をいつものところで﹂
オリガ姉さんはお洒落さんで、全身は大体海外ものだ。
﹁今、円安って知ってますか?﹂
﹁えっ、ええ﹂
若ママの目がすわっている。
﹁海外旅行、いいですよね。出張のついでとか。ついつい旅先の気
分で多めに買っちゃうってことはありますけど。ちゃんと、円に換
算して買ってますか?﹂
若ママがじっとオリガ姉さんを睨む。
オリガ姉さんがたじろぐ。
﹁ブランドってあれですよね。現地でしか手に入らないとか、店舗
限定とか、そういうのって財布緩みますよね?﹂
﹁だって、限定よ! 国内じゃ手に入らないじゃない!﹂
376
身振り手振りを加えて力説するオリガ姉さんに、若ママは微笑む。
﹁自炊と浪費を切り詰める、どちらがいいですか?﹂
オリガ姉さんの金色の瞳に絶望が宿った。
知ってる、こういうときの若ママには敵わない。誰も敵わない。
﹁姉さんはいつもそうですよ。カードがあるとすぐそういう風に使
うんですから﹂
アヒム兄さんが眼鏡をくいっと上げながら言った。
しかし、家計切り詰めの鬼となった若ママは、アヒム兄さんにも
牙をむく。
﹁アヒムさんはちゃんと食事は自炊しているようですね﹂
﹁はい、今はパスタにはまっています﹂
﹁そうですか。パスタって、オリーブオイルたくさん使いますね﹂
﹁はい。必需品です﹂
﹁では、直輸入せずに量販店で買ってもらえません? オリーブオ
イル﹂
アヒム兄さんの顔がかたまる。
若ママの表情は変わらない。
﹁エクストラバージンオリーブオイルでしたら、普通にスーパーに
も売ってますよね。あっちのほうが安いんじゃないんですか?﹂
﹁それは、味が違うんですよ! 本場のものと一緒にしないでもら
377
いたいです﹂
﹁でも、同じオリーブオイルじゃないですか?﹂
若ママは笑っている、でも目は笑っていない。
﹁どこが違うんです? それと前から思っていたんですが、使い過
ぎじゃないでしょうか? 水の代わりに飲むって、普通に水じゃい
けないんですか? 最近の水道水は美味しいですよ﹂
紅花はご愁傷様と手を合わせるしかない。
しかし、アヒム兄さんとしても引き下がれない。
﹁水とオリーブオイルは成分が違います。いわば、食事の一種です。
これは減らすわけにはいきません! これだけは絶対引けないので
す!﹂
﹁そうですか⋮⋮﹂
若ママがそっと俯く。
アヒム兄さんは、言い過ぎたかと少し慌てた様子になる。
だが、甘い。
﹁では、かわりに一角獣教へのお布施の額を減らしてください﹂
言い切った。
たぶん、こちらが本命だろう。
アヒム兄さんは一角獣教の信者だ。一体、どんな宗教なのか一度
378
聞いてみたら、若ママにもオリガ姉さんにも嫌な顔をされたので、
あんまりよくないところだろう。信仰の自由として認めているけど、
そこにお金をたくさん入れるのはどうにもよくない。
オリガ姉さんに続いて、アヒム兄さんもがっくりと肩を落とす。
次に来るのは誰かと言えば。
﹁不死男くんって、無駄遣いしないよね﹂
﹁そうだよ。我が家に素敵な奥さんがいるのに寄り道なんてする必
要ないからね﹂
キリッとした顔で愚兄が言う。
﹁うん、お仕事で忙しいのに、休みの日もどこにも出かけないで家
にいるしね﹂
正直迷惑なくらいだ。会社の人とたまにゴルフとかキャバクラに
でもいって帰ってこなかったらいいのに。
﹁由紀ちゃんのためなら、僕はなんだってやれる﹂
﹁ありがとう、不死男くん。じゃあ、来月はあと残業百時間追加で
いけそうね﹂
笑う鬼がいると紅花は思った。
﹁不死男くんの事務所、人手不足なんだからしっかり働かないと悪
いよ。せっかく、残業代しっかり払ってくれるところなのに﹂
﹁由紀ちゃん、それ、労基にひっかるよ。過労死しちゃうよ﹂
379
労基、すなわち労働基準法である。
﹁不死男くん、不死身だから大丈夫よ﹂
若ママ怖い、本当に怖いと紅花は思った。
では、若ママはどこを切り詰めるのかといえば、それはないだろ
う。
現在、山田家の不動産収入は全体の四分の一である。それでもっ
て、その物件を所有し、運用しているのは若ママだということに触
れておく。
そうなると、最後に皆の視線が集まるのは、さっきからずっとミ
ケと遊んでいるニートに集まる。
﹁ん? なに?﹂
全員が呆れた顔をする。
最近、働き始めたとはいえ、こやつは元々無職だ。ここ数年、ち
ょくちょく変わる彼女の家に転がり込んでいたが、働きもしない大
飯食らいは捨てられる。
職をえたとしても、いつまで続くかわからない。
これは仕方ないと皆そういう目で見ている。
若ママだって慈愛の目で見る。
﹁恭太郎さん、月々の食費をいただきたいんですけど、それくらい
380
払ってくれますか?﹂
﹁ああ、そんくらいなら﹂
ニートとしても、兄弟の家とはいえ、転がり込んで食費すら払わ
ないというつもりはないらしい。
﹁それはよかった﹂
若ママはそっと金額を提示した紙を見せる。
﹁⋮⋮﹂
ニートの口があんぐりとあいて塞がらない。
﹁失礼ながら、手取りのお給料いくらもらえるか調べさせてもらい
ました。ちょっと、足りない分はあるけど、サービスしておきます
ね﹂
﹁ええっと、収入の九割持っていかれるんですけど﹂
山田家の食費は普通の家の十倍以上する。たとえ自炊で頑張って
も仕方ない。外食は定期検査のあとくらいしかとらないけど、それ
でもそのくらいする。
﹁本当なら、あと二割増しの金額なんですけど、毎月赤にするのは
悪くて。ボーナスが出たら、足りない分はそこから引きますね﹂
﹁ボーナス払いもあるの!﹂
ニートの悲壮な表情、たいして目は笑わないまま唇だけ笑みをた
たえる若ママ。
381
﹁はい、あります﹂
﹁ちょっと待って! 普通、家族ってそういうのもっと優しいもん
じゃない? ねえ。とっても、二万か三万が普通でしょ?﹂
﹁うちは普通じゃありませんし﹂
それに。
﹁月三万円なら、毎食パンの耳になりますけどいいですか?﹂
﹁高くない? パンの耳、高くない?﹂
ニートが何を言おうとも、決定事項だった。
﹁由紀子さん、これ、恭太郎の通帳です。振込になっているので﹂
﹁ありがとうございます﹂
﹁やめてーーー﹂
アヒム兄さんと当人をのぞいてやりとりする。
紅花はここにいても意味なかったな、と思いながらミケの肉球を
ぷにぷにと押さえた。
ただ、これでなんだかんだで若ママもニートに弁当を作るだろう。
そうしたら、わざわざニートが昼飯をたかりに紅花の元にくること
もなくなるし、ドッグフードがご馳走に見えなくなるだろう。
しっかり働け。
紅花は、落ち込んで膝をつくニートを見て思った。
382
21、野良犬と女子高生
﹁では、解散﹂
先生がジャージ姿のまま、言った。
ホンファ
今日の体育は、水泳で紅花は見学だ。女子生徒は他に数人見学を
していて、男子生徒より多い。空気を読めない男子生徒Aが﹁お前
ら、サボリかよ﹂とつっかかっていた。余計なお世話だろう。こう
いう奴は、数年後、自分がもてない理由がわからないに違いない。
一応、言っておく。
紅花は女の子特有の理由で見学というわけじゃない。不死者の体
質ゆえ、見学するのに望ましいと判断したためだ。
紅花は泳げない。正確には浮かべない。
呼吸は一般人より長く我慢することはできるけど、浮かべないの
でクロールもバタフライも平泳ぎもできない。潜水はできるように
見えるけど、正しくは水中匍匐前進だったりする。
皆が更衣室で濡れた水着に手間取っている間に、紅花はジャージ
からさっさと制服に着替えて戻る。
﹁山田さん﹂
後ろから声をかけられた。
383
ふるゆか
振り返ってみると、ゆるふわさんこと古床がいた。
﹁なんですか?﹂
基本、紅花はクラスメイトには敬語を使う。相手との間に壁を作
るためだ。
古床さんは、幸か不幸かあのときの記憶がない。正直、元は自分
の夜遊びが原因でああいう目にあったのだから、それくらい反省し
てもらいたいものだ。
現在、彼女は対吸血鬼用の抗体をうち日光アレルギーが治ってい
るはずだ。でも、紅花と一緒に体育を見学していた理由については、
女の子だからだろう。
なんだかもじもじしている。
正直、古床についてはあまりいい印象はない。けれど、一般的に
は可愛い部類じゃないかと思う。吸血鬼は餌に対して面食いなので、
その基準を満たす程度には可愛い。
だけど、すこぶる同性には嫌われる、そんなタイプだ。
﹁山田さんって、日高くんの隣の席よね﹂
﹁そうだけど﹂
それは見ればわかるだろう。何を今さら言うのだろうか。
﹁山田さんって視力いくつ?﹂
﹁2.0﹂
384
本当はその三倍くらいいいけど、嘘も方便だ。
﹁そうなの? でも、前の人が大きくてホワイトボード見にくいと
かない?﹂
﹁別に大丈夫です﹂
紅花はクラスでも小っちゃいほうだけど、偶然、前の席の人は紅
花よりも小さい男子生徒だったので問題ない。
古床の顔がやや引きつる。
ははーん。
紅花とて、多少は他人の機微についてわかる。
この少女はなんというか男好きのきらいがある。
少年Aはとうに見限ったと思ったら、今度は颯太郎を標的とした
か。
気が利く女の子だったら、そこで彼女の意を受け取り、都合のい
い返事をしたところだろう。だけど、紅花は妙にむかっときた。
たとえ、操られていたとしても、古床は颯太郎をボウガンで撃っ
て殺そうとした。それに対してまったく記憶がないうえ、さらにそ
う抜けぬけとこんなことを言い出すわけか。
﹁ごめんなさい。今の席気にいっているんです﹂
紅花は単刀直入に言った。
385
﹁はあ?﹂
ものすごく機嫌が悪そうな声がしたけど、それに付き合うつもり
はない。古床に背を向け、教室へと戻る。
後ろで、ぼそぼそと紅花の悪口を言っているようだが、丸聞こえ
だ。だからってそれをとやかくいうつもりはなく、さっさとお昼を
食べたかった。
スポーツバッグの中にはサッカーボール大の歪なおにぎりとお弁
当が入っている。
少しどきどきした気持ちで温室に向かうと、そこにいたのは、紅
花と同じお弁当を持ったニートだった。
﹁よっ﹂
ニートは紅花がいつも座っているベンチでもぐもぐおにぎりを食
べている。今月より、食費を山田家におさめることになったため、
若ママがお弁当を作ってくれている。
﹁なんであんたがここにいるの?﹂
﹁ひどくない? おにいちゃんにひどくない?﹂
ニートは米粒がくっついた指先を舐めながら言った。
﹁颯太郎少年ならまだ来てないぞ﹂
386
﹁別に聞いてないし﹂
紅花と違って颯太郎は水泳の授業を受けていた。達者とは言い難
いけど、沈むことなく泳げていたので紅花は感心した。
着替えに手間取っているのだろうか。
紅花は、弁当を片付け終わったニートをベンチから追い出して座
った。ニートは﹁段々、姉貴に似てきたな﹂と苦笑いをしていた。
失礼だと思う。オリガ姉さんなら、靴のヒールでニートの頭を殴
るくらいする。そんなに紅花は狂暴じゃない。
﹁ところで仕事はどうしたの? さぼり?﹂
﹁俺かてな、昼休みくらいあるわ。んでもって、これは仕事の一つ﹂
﹁なにそれ?﹂
ニート曰く、最近、入ってきた野良犬に手を焼いているようだ。
しかも、その野良犬に餌をやっている生徒もいるという。
学校側公認で餌をやるニートならともかく、他の生徒がそれを真
似されると困る。
﹁一応、去勢手術受けさせて、タグつけてんだよ。慣れたところで、
引き取り先探してんのに、勝手に餌やって仲間呼ばれて繁殖しちま
ったら意味ねえのに﹂
﹁へえ、ちゃんと仕事してんのね﹂
意外だあと紅花は思う。
別にニートは無能というわけじゃない。ある程度のことは器用に
387
やれるし、周りとの人間関係の築きかたは家族の中で一番上手いだ
ろう。アヒム兄さん曰く、山田家の血筋の中で一番人間に近い性格
だっていう。
でも、働きたくないらしい。
お父さんやお母さんが起きていた頃は、外を遊び歩いて、お金が
なくなったら家族にせびりにくるどうしようもない奴だった。
ゆえに、できるのにやらない、一番たちの悪い奴だった。
﹁そりゃしねえとな、最近いる野良犬がどうもでっかくてな﹂
下手に生徒に噛みついたら、今まで世話してきた意味がなくなる。
人に慣れた犬たちまで保健所に引き渡す羽目になる。
﹁つまり、ここらへんで野良犬探してるわけね﹂
﹁無断で餌やりしてる奴もな﹂
はふうっと息を吐くニート。
紅花はおにぎりを食む。
﹁そうだ、あんたここの庭園の手入れしてる?﹂
﹁んあ、ンな暇ねえよ﹂
だいぶ伸びてきた芝生の上に横になり欠伸をするニート。紅花は
立ち上がると、拾ってきた木の枝でニートをぐりぐりした。
﹁やめっ、いたい。地味にいたいから﹂
388
やっぱりオリガ姉さんに似てきたかもしれない。
お弁当を食べ終えて、しばらくしても颯太郎は来なかった。
紅花は一個だけ余ったおにぎりをどうしようかと思った。もう蒸
し暑い季節なのでずっと持っていたら悪くなる気がする。
すると、じーっとこちらを見る視線に気が付いた。
ニートがこちらを見ている。おにぎりを食べたそうにしている。
紅花はむうっと顔を歪めると、仕方なくニートの目の前に置いた。
﹁施しよ、それで餓えを満たしなさい﹂
﹁ねえ、妹よ。もっと可愛くいえないの?﹂
そう言いながらおにぎりをむさぼるニート。
﹁言うに値する相手ならそうする﹂
紅花はスポーツバッグを抱え、教室に戻ることにした。
いや、その前に。
もう少し昼休みは残っている。
ちょっと暑いので、どこかで涼んでいこうかと思ったら、図書館
が目に入った。あそこはけっこう快適な温度で保たれている。
あそこにするか。
389
紅花は足をすすめた。
図書館を裏側からまわって入口へと向かう。
そのまま、スルーすればいいものを、紅花の視界の端になにかが
うつる。視力6.0を恨まねばならない。木陰の隙間から見えた。
一般人なら気が付かない死角にある区画だ。
高等部の生徒がいた。
ここは中等部と高等部の間に位置するので、それがどうというわ
けじゃないけど。
女子生徒がいて、その生徒の前に大きな犬がいた。ご丁寧にお皿
を用意して、山盛りのドッグフードが盛られている。
紅花は額に手を置いた。
ニートがてこずっているのはあの人だろうか。
それにしても大きい。
紅花は犬をみる。確かに、あれに噛みつかれたら、ひとたまりも
ないし下手すれば死んじゃうかもしれない。
このまま無視していきたいところだけど、紅花はそっと近づいて
390
いった。一応、生徒の学年とクラス、できれば名前を確認できない
かと思った。
女子生徒はセーラー服を着ていた。この学園には女子生徒には二
種類制服がある。昔ながらのセーラー服と、有名なデザイナーさん
によるブレザーだ。セーラー服は、昔から愛着があるから変えない
でくれという要望が、制服を変えたあとに殺到したため継続してい
るらしい。
生徒は好きなものを着れるが、大体、セーラーとブレザーの割合
は三:七くらいだろか。
紅花は、二つとも持っていたが、転校初日にブレザーに粘性生物
の体液がかかってしまってから、あまり着ようと思わない。結果、
今日もセーラー服である。
そっと、相手に見つからないように覗き込んだつもりだった。
でも、女生徒はともかく、大型犬は反応した。紅花のほうを向き、
小さく﹁わん﹂と鳴いた。
女生徒はすかさず紅花を隠していた木の枝を跳ね除ける。
﹁⋮⋮こんにちは﹂
﹁こんにちは﹂
大人びた声だ。身長は百五十五センチくらいだろうか、そんなに
大きくない。色白で目がぱちくりして可愛い人だった。
﹁ええっと、犬に餌を⋮⋮﹂
391
なぜか紅花がしどろもどろになってしまう。
﹁見つかっちゃったか﹂
女生徒は悪気なさそうに言ってのけた。
大型犬は紅花に警戒しているのか鼻をひくひくさせている。雑種
だろうか、ハスキーに似ている気もするが、妙に小汚い色をしてい
る。これは、飼い主絶対見つからないわ、と思う。
﹁ごめんねえ、黙っておいてくれる? この子さあ、こんなに可愛
くないから用務員さんに追いかけまわされてるのよね﹂
﹁ああ、わかります﹂
ばっちいし、大きいし餌もよく食べる。大型犬は紅花をちらちら
見ながらお皿のドッグフードを貪っている。
﹁ほら、この子、不細工だけど、こんなに可愛いんだよ。ほら、お
手、お手﹂
女生徒が犬にむかって手を見せる。
犬が何か固まったかと思うと、その手のひらに右前脚を置いた。
紅花はじっとそれを見る。
﹁ほら、おかわり。ええっと、服従のポーズ﹂
犬はおかわりをしたあと、すごく緩慢とした動きでお腹を見せた。
ドッグフードを持つ女生徒には敵わないらしい。
392
女生徒はそのお腹を触る。
﹁かわいいでしょ?﹂
﹁うーん﹂
躾はされているようだけど、むき出しになった下半身をじっと見
る。雄だ。
﹁未去勢だから追いかけまわされてるんじゃないですか?﹂
﹁そうか。手術すれば問題ないわけね﹂
犬は話の内容がわかっているのだろうか、跳ね起きるとじっと女
生徒を見ている。
これがもっとつぶらな瞳の小型犬ならともかく、どうにもこの大
きな犬がやってもあんんまり可愛くない。
﹁手術して大人しいってわかれば、けっこう許容してもらえると思
うんですけど﹂
﹁そうかあ、女の子になりなよ、君﹂
ぽんっと大型犬の肩に手をのせる女生徒。大型犬はさすがに耐え
切れずにそのまま走り去ってしまった。
﹁逃げちゃいましたね﹂
﹁うん、残念。今度説得しておかないと﹂
残念だが、あの逃げ足の速さでは、ニートはしばらく捕まえられ
ないだろう。ご愁傷様と紅花は心の中で手を合わせる。
393
そんな感じでやっているうちに、五時間目の予鈴が鳴った。もう
昼休みは終わりだった。
﹁あっ、いけない。戻らないと。悪いけど、今の黙っていてくれる
とうれしいかな﹂
女子生徒は、そういってドッグフードの入った器を片付けて、高
等部の校舎の方へと向かっていった。
﹁えっ﹂
んなこと言われても、一応身内が用務員なのどうしようかと思う。
だけど、もう去ってしまった女子生徒が何年生なのかわからなか
った。制服につけるはずの襟章が見当たらなかったからだ。
あれ、よく付け忘れるんだよね。
ピンバッチのようになっているので、洗濯するたびに外さないと
いけない。
どうしようかと悩む暇はなく、さっさと教室に戻らないと紅花こ
そ授業に遅れてしまう。
とりあえず、高等部の生徒が餌をやっているみたい、とだけ報告
しておくか。
それが、紅花のできる譲歩だった。
394
教室のもどると紅花の席に、古床が座っていた。眠たそうにして
いる颯太郎にしきりに話しかけている。紅花の机に、古床のお弁当
箱が置きっぱなしになっているのを見ると、ずっとお昼の間、ここ
に座っていたと推測できた。
﹁⋮⋮﹂
紅花はスポーツバッグを少し乱暴に後ろの棚に入れると、古床と
颯太郎の間に入る。
﹁あっ、かえってきたんだ。山田さん﹂
﹁うん、ごめんなさいね﹂
ちらりと颯太郎を見る。
欠伸をしながら、煮干しを食べている。
机の上に置いてあるお弁当箱を見ると、いつも三段重ねなのに一
段しか置いてなかった。
たぶん、教室で食べることを強いられたので、食べる量を控えた
のだろう。いくら食べ盛りとはいえ、颯太郎の食べる量は半端ない。
﹁それにしても颯太郎くんってけっこう食べるんだね。私、その半
分も食べられなーい﹂
と、言われる程度に。
どけよ、と言いたくなるのを我慢して、机の隙間から教科書を取
395
り出す。ようやくそこで、古床がどいてくれた。
うん、そうだな、この子、嫌い。大嫌いって紅花は思う。
きっと紅花が同じ量を食べていたら、﹁信じられなーい、何? 胃袋、ブラックホールついてるのー﹂とでも言われそうだ。
﹁古床さん﹂
﹁えっ、なに? 颯太郎くん﹂
﹁先生来たよ﹂
颯太郎が無駄にいい笑顔で言った。古床がしぶしぶと自分の席に
戻っていく。
紅花は半眼になって、颯太郎を見るとやや乱暴に座った。
颯太郎はクッションにうずくまって寝息をたてはじめたけど、横
から顔が見えた。
猫って寝てるとき笑って見えるよな。
そんな表情をした寝顔だった。
それはそうと、やはりご飯って大切だと思う。
本当に思う。
授業中、響き渡る腹の音で何も集中できなかった。
396
22、猫の正しい撫で方
﹁うわー、まじかよ、それ﹂
ニートが頭をがしがし掻きながら言った。金色に染めた髪の根元
はだいぶ黒くなり、見事な逆プリンを作っている。カラコンだけは
まだちゃんと装着している。
ホンファ
学校へ来る前の通学途中。
紅花は助手席に座り、ニートが運転している。
ニートが学校に来る以上、若ママが送り迎えをする必要はない。
若ママにもいろいろ仕事がある。毎日、紅花を送り迎えしている
労力がなくなるだけで随分楽になるだろう。
若ママとしてはあまり乗り気ではないが、紅花の身辺警護にもう
一人人員をまわすと聞いて納得していた。
﹁そういえば、どんな人が来てるの? もう一人、学校に入ってる
んでしょ?﹂
﹁⋮⋮おまえは知らん方がいいぞ﹂
ニートは渋い顔をしている。
紅花は半眼になる。
397
﹁なに、それ? 私をばかにしてるの?﹂
﹁いや、違う。できるだけ接触しないほうがいいってことだ﹂
お前のためだぞ、とニートは言う。
ふーん、そうですか。
いつもそうだ、子ども扱いしている。
紅花はどこか家族の中でも蚊帳の外にされている。確かに、皆に
比べると半世紀も生きてないし、子どもなのは十分わかっている。
でも、それを理解するのと納得するのは別問題だ。
紅花は後部座席から、ニートの荷物を取り出す。ごそごそと中身
を漁り、五十センチほどのめんたいこバケットを取り出す。
﹁あっ、てめえ、それ食うなよ! 俺の弁当だぞ﹂
﹁ふあい、ふあい。⋮⋮前、見て、前見て運転してね﹂
﹁あっ、食うな! 食うな﹂
見た目はチャラ男な割に、ゴールドドライバーだ。しっかりよそ
見せず運転してくれた。
紅花は乾いたバケットをカフェオレで流し込みながら、呻くニー
トを横目で見た。
ふるゆか
教室に来てまず唖然としたのは、また紅花の席を陣取る古床の姿
398
だった。いつもふわふわな髪の毛に、今日は小さな三つ編みが何本
もついている。エクステの類だろうか。
そうたろう
制服もシャツにリボンの夏仕様で、スカートも腰の部分を折って
いるのか、規則よりずいぶん短めだ。
もちろん、そんな彼女が話しかけている相手は颯太郎だった。
颯太郎も颯太郎で、眠たそうな顔をしながらなんとか話に相槌を
打っている。基本、紅花と同じくクラスで単独行動をする側にいる
が、付き合い自体は悪くない奴だ。
﹁古床さん﹂
﹁あっ、山田さん、いたの?﹂
今、古床の舌打が聞こえた気がした。
面倒くさいなあという緩慢な動きで、ようやく席を立つ。
﹁じゃあ、颯太郎くんまたね﹂
またね、じゃねえだろ。
思わず口汚い言葉が頭に巡りながらも、声にはださないように気
を付ける。颯太郎は欠伸をしながら、ホームルームまでの時間を睡
眠に費やそうとする。
きっぱり、断りなさいよ。
紅花は少し乱暴な手つきで教科書を机の中に突っ込んだ。
399
休み時間になっても隣の席にやってきては、騒ぎまくる古床は大
変うるさかった。この学園では中休みという休み時間が二時間目と
三時間目にある。通常、十分の休み時間がに十分になったというも
のだ。
﹁またやってる﹂
ひそひそとクラスの女子生徒が騒いでいる。多分、初等部からの
知り合いだろうか。クラスメイトの半分くらいは、エスカレーター
式で中等部に入ってきた生徒だ。
﹁そのうち飽きるよね﹂
紅花としてはその、そのうちとやらがいつなのか知りたいところ
だ。
颯太郎少年はお昼寝もできず、おやつの煮干しも食べられず辟易
としていることがわかる。
嫌ならさっさと断ればいいのに、この優柔不断男が!
それを口に出そうとして、無理やり押し込める。
ただ、颯太郎にも限度があるようだ。
400
﹁颯太郎くんってさ、尻尾や肉球は良く出すけど、耳って見たこと
ないなあ﹂
﹁あんまり見せるものじゃないから﹂
颯太郎曰く恥じらいが出る部分だという。実際は、その耳の形を
見たら、皆驚くのもあるだろう。
﹁へえ、見たいなあ﹂
そう言って古床は颯太郎の頭に手を伸ばす。
それは⋮⋮。
パシッと教室に音が響いた。呆然とした古床と、しまったという
顔をする颯太郎がいた。
﹁ご、ごめんなさい﹂
あからさまな拒絶を受けて、古床の声が委縮する。
颯太郎は少しばつが悪そうに顔をそらす。普段通り、マイペース
にしていればいいのに、何だろうその態度は。
おかげで周りの視線が集まる。
古床が泣きそうな顔をしているところをみて、さっきまで古床の
悪口を言っていた女生徒たちが手のひらを返す。
﹁ねえ、日高くん、なにやったのよ﹂
大きく出たのは少女Aだった。あの神社のとき一緒についてきた
401
女の子だ。うん、名前はまだ覚えていない。
颯太郎はなにか口にしようとしたが、その前に少女Aがどんどん
喋る。
﹁古床さんがこんなに怯えてるじゃない﹂
こういう時怖いのは、妙な正義感だ。
こういう風に一人が誰かを責めると、女の子はそれに同調してし
まう。そういうわけで、少女Aに同調する女生徒がまた一人現れる。
﹁私見たよ、日高くんが古床さんの手を跳ね除けるところ﹂
﹁うそ? 叩いたの?﹂
ひそひそと話す声が良く聞こえる。不死者の聴力を舐めないで貰
いたい。紅花に聞こえるとなれば、颯太郎の耳にも聞こえているだ
ろう。
なんだろう、だんだん苛々してくる。
颯太郎も颯太郎で何も言わない、無言は非を認めたことになる。
バンッ!
気が付けば、紅花は机を思い切りたたいていた。
颯太郎と古床に集まっていた視線が一気に紅花のほうへと集まっ
ていく。
402
﹁ねえ、たしか獣人の耳って見せるものじゃないと聞いたんですけ
ど﹂
ミノタウロス
颯太郎ではなく、別のクラスメイトに聞く。確か牛鬼人だったは
ずだ。一際、身体が大きくそのため席は一番後ろに座っている。
いきなり振られたミノくんはたじたじしている。種族の割に随分
温厚な性格なのは、見ていてわかる。
﹁種族にもよるけど、偽耳を持つ奴は大体そうだったと思う﹂
髪の毛の隙間からぴくぴく牛っぽい耳が出ている。他の獣人もい
るけど、もし間違っていたら怖いので一応明らかに獣人っぽい彼に
聞いてみた。
﹁触るのは?﹂
﹁それは、アウト﹂
紅花はそのまま視線を古床に向ける。
﹁だって。私も聞いてたけど、そんなに駄目とは思わなかったから。
知らないと大変ですよね﹂
多分、このクラスで一番話した気がする。
ぽかーんとする少女Aと古床に対して、他の獣人らしき少年が声
を上げる。
﹁耳はアウトだろ? お前、それやっちゃいけないって。それで、
うちのおばさん、会社の上司をセクハラで訴えていたぞ﹂
﹁うん、だめよ、それ。痴女扱いされるから。私もとさか触られた
403
らアウトだわ﹂
同じく獣人らしき少女も同意する。
獣人はけっこう擬態が上手いのが多いので、本当に紅花もよくわ
からない。多分、少年はげっ歯類っぽくて、少女は鳥かなにかだろ
う。
そういうわけで今度は少女Aと古床に冷たい視線が集まる。
紅花はそのまま放置してもいいかなと思ったけど、動いたのは颯
太郎のほうだった。
はた
﹁ごめんね。いきなり叩いて。ちょっと耳は駄目なんだ。古床さん
もいきなり脇とかくすぐられると駄目とかない?﹂
颯太郎はほんわかする笑顔で言った。
﹁ごめんなさい。こっちこそ﹂
そうやって古床が謝るとなると、居心地が悪いのは少女Aだろう。
しかし、都合がいいことに休み時間も終わり、次の授業に入る。
ふうっと紅花は息を吐き、長い中休みだった思った。
昼休みになって、温室に向かうと颯太郎がいた。四時間目が体育
404
だったため、さっさと教室に戻ってこちらに来たのだろう。一応、
古床につかまるのを避けたのかもしれない。
颯太郎は紅花を見て、一瞬目を見開いたが、また普通にお弁当を
食べ始めた。
紅花は少し居心地が悪い顔をするが、いつもどおり古いベンチに
座る。
﹁ニートはいないの?﹂
スポーツバッグから重箱を取り出しながら聞いた。
﹁うん、ニートさんは、なんかさっきまでいたけど、携帯で呼び出
されてどっか行っちゃった﹂
そういえばアヒム兄さんの斡旋というのだから、ここの上司はニ
ートの扱いにも慣れているのかもしれない。
﹁ふーん﹂
紅花はお弁当を食べながらやる気ない相槌を打った。 颯太郎はさっさとお弁当を食べ終えている。
紅花はスポーツバッグに入っているおにぎりをじっとみる。バッ
グの中は保冷仕様に改造していて、中には保冷剤が入っている。お
にぎりに触れるとひんやりする。
紅花は口を歪ませると、ちらりと颯太郎を見る。颯太郎は少し物
405
足りなそうにお弁当箱を片付けて、二リットル入りのペットボトル
を直飲みしている。
口をぎざぎざに歪めたまま、紅花が立ち上がる。そして、颯太郎
の前に立つと、軽く投げつけるようにおにぎりを置いた。
﹁食べていいの?﹂
﹁ダイエット中なの!﹂
﹁⋮⋮﹂
颯太郎の無言になにか感じるものがあるが、黙っておくだけ賢い
だろう。
紅花は颯太郎から一人分開けて横に座る。むっと、口を尖らせた
まま、目は半眼だ。
﹁いただきます﹂
もしゃもしゃと大きなおにぎりは颯太郎の腹の中に消えていく。
おかかとひじきをまんべんなくかき混ぜたご飯を丸めたそれは、い
つも通り歪な形をしている。どうしたら、若ママみたいに上手くサ
ッカーボールができるのか不思議に思う。
五分足らずでさくっと食べ終えると、颯太郎は指先を舐めていた。
紅花は、そっと紙おしぼりを渡す。
﹁ありがとう﹂
﹁そのくらい別にいいけど。余りものだし﹂
﹁違うよ、休み時間のこと﹂
ふんっと紅花は鼻を鳴らした。
406
﹁ちゃんと、ああいうのははっきり言っておかないと相手の思うつ
ぼでしょ。そういうのはしっかり言えると思ってたのに﹂
颯太郎は紙おしぼりを丸めてごみを入れているビニールに詰めな
がら笑った。
﹁うん、意外だなって僕も思った﹂
そういって、颯太郎は芝生の上に転がった。
木漏れ日がちらちらと颯太郎の顔を照らす。
﹁小さい頃はそうでもなかったけど、これってやっぱり猫耳とは違
うっぽい?﹂
そんなことを言うか。
﹁私に聞かないでよ﹂
﹁ごめん﹂
﹁謝らないでよ!﹂
颯太郎といるといつも怒ってばっかりな気がする。
怒られた猫は少ししゅんとなっているのか、愛用のクッションに
半分顔を埋めていた。
大体、紅花が颯太郎の耳を見たのは一回きりだ。
あのときは全身が毛だらけになっていて、本当に獣という姿だっ
た。
牙が長くのび、それが首に突き刺さる。頸動脈を一気に引きちぎ
407
られ、そこでおそらく絶命したと思う。
もっとひどい目にあいながら殺されたことは何回かあった。でも、
食べられたことは初めてで、しかもさっきまで味方だと思っていた
相手からだった。
もしかしたら、また次の瞬間、颯太郎は紅花に牙をむくかもしれ
ない。
でも、それを怖がるより、もっと違う感情が大きくなっていた。
少し意地悪してやろう。
紅花は颯太郎の顔をのぞきこむ。
﹁ふーん、謝るくらいなら、誠意を見せてもらおうかな﹂
﹁なんか、チンピラっぽい台詞だね﹂
﹁うっさい﹂
そんなに言うんなら、かなり性格悪いことを言ってやる。
﹁耳触らせてくれたら、許すけど﹂
﹁⋮⋮﹂
颯太郎がクッションから半分だけ顔を出して紅花を見る。
目が猫っぽく、なっている。明るく晴れているので瞳の大きさが
線みたいに細くなっている。
どうだ、できまい。
紅花はタンブラーに口をつける。カフェオレの氷は完全に溶けて
408
いて、ちょっと味が薄い。さっき自販機でカップ入りのものを詰替
えたのだ。
﹁はい﹂
いきなり頭を突き出されて、カフェオレが鼻から吹き出しそうに
なった。
げほげほとむせながら、涙目で颯太郎を見る。
﹁大丈夫?﹂
﹁大丈夫じゃないから! なに、無防備に頭だしてんの!﹂
﹁触らせろって言ったのは紅ちゃんじゃないか﹂
心外だと言わんばかりに颯太郎が言った。
紅花は顔をハンカチでおさえながら、颯太郎の頭を見る。髪の毛
が浮いてぴくぴくしている。たぶん、この下に本物の耳があるのだ
ろう。
触っていいのだろうか。
すごく気になる。
しかし、こうして触れと頭を突き出されたら、触るのが筋という
ものではなかろうか。
﹁あんまり強く引っ張らないでね。あと大声はつらいから。急所の
一つみたいなもんなの﹂
﹁急所ねえ﹂
409
そう言われたら納得する。隠す理由にもなろう。
紅花はゆっくり手を伸ばした。色素の薄い猫っ毛の中に指を入れ
る。頭皮を撫でるように指を滑らせると、もふっとした部分に指先
が当たる。
柔らかいしあったかい。
普段耳を隠しているせいだろうか、生まれつきだろうか。そこだ
け、頭がい骨が凹んでいるようで、そこに隠れるように耳が埋まっ
ている。紅花が振れたことで、耳がピクリと動くのがわかる。
片耳だけではバランスが悪いので、もう一方の手も颯太郎の頭に
触れる。
丸いなあ。
あと厚いなあ。
家にいるミケとは違う耳だ。確かに、猫又で知られているのに、
この耳がクラスメイトにばれたら面倒だろう。
薄いミケの耳にくらべ分厚く柔らかい。でも、毛先はけっこう固
い。
両手を同じ動きで耳をつまむ。ぴくぴくと耳が動く。
手触りはミケとはまた違った趣があり、思わずずっと触れていた
くなる。
410
﹁ちょ、ちょっと﹂
颯太郎が言った。
なにがちょっとなのかわからないけど、気が付けば目の前にゆら
ゆらと白黒の縞模様の尻尾が揺れていた。
耳に触れられたことで反応したのだろうか。
さらに、好奇心が涌いてしまう。
﹁尻尾も触っていい?﹂
﹁えっと、尻尾も?﹂
﹁うん﹂
颯太郎は少し唸っていたけど、紅花は黙認という形で受け取った。
右手を伸ばし、長い尻尾を掴む。
ぴくっと颯太郎が動く。
ぴんと立った尻尾、こちらは大きさこそ違えどミケとよく似た感
触だった。あんまりべたべた触ると、帰ったらミケにそっぽをむか
れるかもしれない。でも、一度触り始めたら抗えない魅力がある。
すごく意地悪しているだろうなと紅花は思う。別に力を入れてい
るわけじゃないけど、たまに颯太郎がぴくって動く。
たぶん、くすぐられているような感じがするのだろう。
ミケも嫌がってただろうか。
411
ちょっとは許してくれるけどあんまりしすぎると怒る。そのあと
は、ご機嫌とりに大変だ。いつも、尻尾の付け根を叩いて満足する
までやめられないのである。
紅花は、颯太郎の尻尾の付け根を見る。ちょうど腰のあたりだろ
うか、そこをぽんぽん叩いてみた。
颯太郎は最初びっくりしたのか、全身の毛を逆立てたが、次第に
身体が緩んでいるように思えた。
身体がゆっくり下がっていき、香箱を組むみたいな体勢になって
いる。
これがいいのか。
紅花は少し強めに叩いてみる。すると、尻尾をピンと立ててまた
次第に下がっていく。
こう見えて、紅花はテクニシャンだ。ニャーベラスのミケ、三つ
の頭がそれぞれ満足できる猫ドラムを毎回やらされている。そう考
えると、颯太郎一匹お手の物だ。
颯太郎は顔をクッションに埋めたままだが、満足しているだろう。
ふふふっと、高笑いしたくなったときだった。
がさがさっと、温室の裏側からつなぎの男がやってきた。ニート
だった。
﹁ちくしょう、野良犬が見つかったって聞いたのに﹂
412
吐き捨てながら、大きな網を持っている。正直、その網でもあの
犬は捕まらないだろう。
﹁また、逃がしたんだ﹂
﹁ああ、お前らなにやってんだ?﹂
﹁猫ドラム﹂
ニートが網を置き、プリン頭を掻き上げる。
そして、ふうっと息を吐いた。
﹁そろそろやめてやれ、その叩いてるとこ。猫でいう性感帯だぞ﹂
﹁⋮⋮せいかんたい?﹂
紅花はそっと視線を颯太郎に下ろした。颯太郎はクッションに顔
を埋め、身体をぷるぷるさせていた。
よくわからない紅花が、携帯でどういう言葉か検索したところで、
颯太郎を思い切り放り投げたのは言うまでもなかった。
投げ捨てられた颯太郎をニートが肩をぽんぽん叩いて慰めていた
が、紅花には知ったことではなかった。
413
23、校内写生大会
ホンファ
世の中、災難なんていくらでも降りかかってくるものだ。
それはもう仕方ないこととして受け止めるしかなく、紅花だって
わかっている。
でもなあ。
何も十三歳の誕生日にこんな目に遭わなくても。
そう思いつつ、目の前の化け物と対峙していて思った。
逃げようと思ったら逃げられたはずなのに。
どうしてこんな目に。
紅花は右手に抱えたクラスメイト古床を憎々しげに見て思った。
時は、その日の午前中にさかのぼる。
414
芸術の授業って好き嫌い大きいと思う。
校内で写生大会とか、ありえないと思う。
テスト週間前なので、大人しく教室で実習とかのほうがよっぽど
堅実ではなかろうか。
﹁⋮⋮﹂
ホンファ
紅花は気づいた。今、背後でなにも言わずに立ち去っている者が
いることを。
紅花の前にある画板には、ごく普通によくある風景が描かれてい
るはずだ。紅花の前には古びた趣のある図書館とそれを際立たせる
木々、青い空にはぽっかりと白い雲が浮いている。
デザインとしてはそのまま切り取って額縁に飾ってもおかしくな
い、おかしくないはずだけど。
画用紙の上にあるのは、歪な楕円形の何かとシュークリームに棒
を突き立てた何か、それとぐしゃぐしゃと紙を握りつぶして丸めた
ような何かだった。
一点透視図法、二点透視図法、知識としては習ったけど、そこに
ある地平は現代アートのようにカクカクとしている。わかっている、
見る限り地平はゆるやかなほぼ直線だということくらい。
しかし、紅花が持つ右手の鉛筆は見たものを独自のフィルターに
かけて線を描いていく。
結果、誰かが通るたびに足を止めて二度見する作品が出来上がっ
ている。
415
場所変えようかな。
図書館はみんなも気になる題材のようで、けっこう周りに人がい
る。ここ以外に人気とすれば、校庭のほうだろう。まったく面白み
もないただのグラウンドが広がっていて、地面と空に二分すれば写
生はほぼ九割完成だ。
それでも、紅花の手は前衛アートを描き出すだろうけど。
生まれる時代が早すぎた。
前の学校で、先生がくれた評価だった。
その割に通知表では評価されなかったところをみると、基準は一
般向けらしい。
どうしようかな。
紅花は画板を持つと辺りを見回す。
校内で他にいい場所はあるだろうか。
温室とかいいんだろうけど。
だめだ、絶対に颯太郎とかぶる。
かぶった上に颯太郎のほうが確実に上手い。それが問題だ。
紅花は画板を持ったままふらふら歩く。時計を見るとまだ一時間
目の半分も終わっていない。
これが半日続くなんて苦行に違いない。それなのに、皆、なに和
416
気藹々としているのか不思議でたまらない。
と言いたいところだけど、わからなくもない。
女の子たちは数人ごとに仲良くおしゃべりしながら、描いている。
絵の上手い子の周りにいっぱい人が集まっている。
たぶん、ああやって仲がいい子がいれば楽しいのだろう。
残念ながら紅花にはいない。
慣れたと思っていたけど、遠足といったこういう行事があるたび
に寂しく思わなくもない。
ここもやめとこ。
紅花は自然と人が少ないほうへと行った。
それでもまばらに人がいて、その中に見覚えのある影を見つけた。
ふるゆか
ぽつんと絵を描くわけでもなく、ぼんやりしているのは古床だっ
た。
ひとけ
目があうとなんだか気まずい気がした。
こういう人気のない場所にいる人たちは、大体一人が多い。
理由はいうまでもなく、和気藹々とした雰囲気が居たたまれない
からだ。
いっそ颯太郎くらい単独行動が堂に入っていると、問題ないのだ
が、思春期の少女というとそういうわけにもいかない。
417
元々、同性受けが悪い上、先日颯太郎の件でごたごたあった。少
女Aはあれについて恥をかかされたと思っているようで、いじめと
いうほどではないがクラスの女子になにやら働きかけているようだ
った。
生憎、紅花のほうまでその伝言は届かなかったけど。
ある意味、自業自得といえばそうだし、ちょっとかわいそうだと
いえばそうかもしれない。だからといって、あまり立場の変わらな
い紅花なので、自分から話しかけるという気まで起きない。
彼女に気づかなかったふりをして、紅花はそこを通り過ぎる。
誰にも見られないような場所、どこがいいだろうか。
だけど、まったく誰もいないのは落ち着かない。
ふと、紅花の目に一本の木が目についた。
前庭にある木で、もさもさと葉っぱが生い茂っている。下には校
訓が書かれた石碑があり、玄関にあるにふさわしい堂々とした大き
な木だ。
紅花はふとその根元に行く。周りにはツツジが生えていて、座り
込むと周りから見えなくなるだろう。
ちらちらと周りを確かめる。
うろ
誰も見ていないよね。紅花は画板を背負った。
紅花は地面を蹴ると、幹につかまった。洞に手をかけてそのまま
身体を浮かせると、木の上を駆けあがる。
418
葉っぱに覆われた大きな枝を探すと、そこに跨った。
葉っぱの隙間から外を見る。
学園はちょっと高台にあるので、木に登るとかなり眺めがいい。
紅花は幹によりかかると画板を膝の上にのせる。
実にいい景色だ。
これなら少しはまともな絵が描けそうだと、鉛筆を持った。
いい景色を題材にしても、いい絵が描けることが実証されないこ
とを痛感した頃、紅花はそれを見つけた。
校内にはうじゃうじゃとたくさんの生徒たちがいる。それでも、
目についたのは、そこにある影が見覚えのあるものだった。
学校の側道にでようとしている。多分、生垣の隙間から身を乗り
出しているのだろう。学園は基本、ぐるりと塀に囲まれているけど、
そういう抜け出せる場所も無きにしも非ず。
さぼりかな。
画板の上に肘を立てて、紅花はそれを他人事のように眺める。実
際、他人事だ。
419
誰も見ていないと思ってやっているんだろう。
残念でした、ここに木登りしていてなおかつ視力がやたら高いの
がいますよ、と。
学校の近くはけっこう閑散としているが、何もないわけじゃない。
田舎には田舎なりにお店はあるし、少なくとも校内で居心地が悪い
古床にとってはそのまま帰るという手立てもあろう。
鞄はどうするのかねえ。
紅花は携帯を見る。時間は二時間目を終ったところで、あと写生
大会が終わるまで半分ある。
どう見ても学校側は時間配分を間違っている。
上から見ると、絵を描くのに飽きて駄弁ったり、昼寝をする生徒
がたくさんいる。
二時間目くらいでやめておいて、あとは帰宅すればいいのに。
そうだったらうれしい。今日は紅花の誕生日だ。若ママがケーキ
を買ってきてくれる。
朝からケーキ屋さんを回って、ホールケーキを根こそぎ買うのだ。
紅花だけでなく、若ママや愚兄、今年はちゃっかりニートもいる
ので、一人三ホールとして、十二個は買わないといけない。
毎年、近隣の同じ誕生日の人たちには迷惑をかけている。申し訳
ないと思うけどやめる気はない。
ちなみに、テスト前とのことで、今日は午前中で授業が終わる。
お弁当もいつもの半分しか持ってきていない。
420
紅花もそろそろ自分の絵に見切りをつけようかと悩むところだ。
不思議だ。美意識はごく普通のものを持っているはずなのに、その
右手はなぜシュールレアリズムの世界を描き出すのだろうか。
﹁⋮⋮﹂
ここでそのまま目蓋を閉じ、静かな眠りにつけばそれでよかった
だろう。無駄なあがきとしてもう一度、周りの景色と画用紙の絵を
見比べるなんて不毛な行為をしなければよかっただろう。
現在、紅花はすごく後悔している。
なかったことにして、目を瞑るという手もあったはずだ。
それができないのがもどかしかった。
一体、何を見たかといえば⋮⋮。
先ほど、古床が学校を抜け出した生垣に颯太郎がいた。そして、
颯太郎は同じように学校の外に出て行った。
猫のような彼の気まぐれだと決めつけたい。
決めつけたいのだけど、そうもいかない。
颯太郎なら、あの生垣じゃなくても、もっと簡単に他の場所から
学校を抜けられただろう。
古床は誰にも見つからずに学校の外に出て行ったつもりだろう。
紅花のように、高いところから異常な視力を持って眺めていない
限り見つからないと。
421
颯太郎は、何はともあれ、多少なりとも不死者化している。虎ベ
ースとして考えても、尋常ではない視力を持ち合わせているだろう。
プラスして、颯太郎は十中八九今までの時間昼寝、もしくはそれ
に準ずる行為をしていたはずだ。颯太郎の寝床は八割が木の上であ
る。
そんな彼が、大切な昼寝の時間を惜しんで、学校の外に出る理由
といえば。
見たんだろうな。
死亡フラグを。
なんだろう、古床って子は。
自業自得の面が強いとはいえ、どんだけ死亡フラグが付きまとっ
ているわけだろうか。
もしかして、紅花と同類だろうか。
彼女がどうなろうと紅花にとっては痛くもかゆくもない。
むしろ面倒事がなくなるはずだ。
はずなのに。
颯太郎が追いかけたということは、そのフラグをぶち壊すための
はずだ。
なら彼に任せてしまおう。それがいい。それが賢明だ。それが簡
単である。
422
そう思いつつ、紅花は頭を抱え、幹の上でごろごろする。ごろご
ろしすぎて落ちそうになり、慌てて木の枝にしがみつく。
ぜーぜーと息を吐きながら、真っ青な顔をして、なんとか息を整
える。
颯太郎はフラグを折っていく。でも、彼一人でなんでもできるわ
けじゃない。
それがこの間わかったじゃないか。
颯太郎は厄介事に首をつっこむ。けど、そこに自分の心配はない
んだろうか。
しかも、相手は古床だ。たとえ操られていたとして、一度殺され
かけたことを忘れたといは言わせない。
今は不死化しているから、前みたいなことでは簡単に死なない。
それは紅花だってわかっている。わかっているけど。
紅花は前髪をかき上げる。頭皮に爪を立てる。いらいらしてその
まま髪を掻きむしる。
これは思春期だ、思春期だからと紅花は思う。
大人が作っている社会ですら、不条理に満ち溢れているのだから、
未成年の紅花がそうであったって仕方ない。
別に、古床が心配っていうわけじゃない。
423
颯太郎が心配っていうわけじゃない。
どちらがいなくたって、紅花は困らない。困らないはずだ。
いや、困るかもしれない。颯太郎は紅花の下僕だ。颯太郎は紅花
に借りがある。まだ、紅花は返してもらっていない。
それって損じゃないか。
でも、気が付けば紅花は木の下に飛び降りていた。たまたま近く
を通りかかった生徒が目を丸くして紅花を見ている。
それがちょうどクラスメイトだったので、これ幸いにと紅花はも
っていた画板を通りかかった彼に渡す。
﹁ごめんなさい。ちょっと早退するから、これ、かわりに片付けて
おいて﹂
﹁えっ、えっ!?﹂
意味がわからないという顔をする少年を後目に、紅花は生垣を目
指して走り出した。
424
24、白い家 前編
ホンファ
たしかここらへんだったはず。
紅花は木の上から見た記憶を頼りに、生垣まで来た。低い塀を補
うように二メートルほどの木が並んでいる。
飛び越えようと思えば飛び越えられる。
でもそれはちょっとやめておいた方がいいだろう。今日は半日授
業なのでいつもほど荷物はないから楽にいけるけど、見つかるとや
ばい。
木と木の隙間は案外狭い。どこから古床たちは出て行ったのだろ
うかと目をこらす。
﹁おい、何をしている?﹂
生垣のところでもぞもぞしていると、後ろから声をかけられて驚
いた。
紅花はハッとなり、振り向く。
いつのまに後ろにいたのだろうか、そこには初老の男が立ってい
た。
白髪交じりの髪に、けだるそうか顔をした男は猫背でどこか引き
こもりのイメージがした。
なにをしていると言われても。
425
﹁そ、早退しようと思って﹂
うん、正直が一番だ、堂々としていればいい。
胡乱な目で男が紅花を見る。
﹁早退か、なら、ここで近道するな。ちゃんと校門から出ろ﹂
﹁は、はい﹂
男はこの生垣に抜け道があることを知っているらしい。
そして、他にも使う生徒がいるようだ。
けっこう、物わかりのいい人なのか。
紅花はほっとしながら、校門へと向かった。
学校の塀をくるりと周り、紅花は生垣の外側に立った。
学校の外に出たのはいいがこれからどうしようか。
こういうとき、愚兄だったら。
愚兄は家族の中で無駄に鼻がいい。犬並、いやそれ以上の嗅覚を
持っている。古床の匂いをたどり、それを追いかけることくらいや
ってのける変態だ。
426
紅花は、生垣の隙間を発見する。おそらくここから、出てきたの
だろう。
くんくんと鼻をならして、そこの部分を嗅いでみる。
うん、わからん。
葉っぱの匂いと土の匂いを強く感じるがそれまでだ。いや、ほん
のわずかであるが、魚臭かった。これは颯太郎のものだろう。
颯太郎ならもう古床に追いついているかもしれない。
颯太郎の匂いをたどれば、と思って地面を嗅いでみるけど、残念
ながらそこから先はまったく匂いがわからなかった。
﹁⋮⋮﹂
近くに誰もとおっていなくてよかった。紅花は素知らぬふりをし
て、四つん這いからたちあがると、制服のスカートを叩いた。
本当に周りに誰もとおっていなくてよかった⋮⋮と思ったときだ
った。
鋭い眼光と目があった。
生垣の隙間からそれはのぞいていた。
痩せた貧相な犬が、じっと紅花を見ていた。
﹁⋮⋮なんだあんたか﹂
427
紅花はふうっと息を吐いた。
大きな身体が隙間から這い出ると、紅花の前にちょこんと座った。
ニートから逃げ回っているあの大きな犬だった。どこかばっちい毛
並のあの犬である。
犬はじっと紅花を見ている。くんくん鼻を鳴らしている。
そうだ。
紅花は、しゃがみこんで﹁チチチッ﹂と舌を鳴らして、おいでお
いでする。
これでくるかな、と思ったら犬は警戒してやってこない。
むむっと紅花は眉を寄せる。
ならば、こうだ、と鞄の中を漁る。ちょうど、小魚パックが入っ
ていた。颯太郎餌付け用おやつだ。
犬がぴくりと反応する。
紅花は、犬に一歩近づいて小魚パックを振る。
﹁ほれほれ、食べたいか?﹂
紅花はにやりと笑って犬に見せる。犬の口からだらだら涎がこぼ
れている。
﹁ほら、あげよう。食べるならお食べ﹂
紅花はパックを開けて、小魚を手にのせる。
428
犬はおそるおそる紅花に近づいた。そして、躊躇いながら小魚を
ぱくりと口にする。
紅花はにやりと笑う、笑って犬の頭に手をのせる。
﹁たーべたねー﹂
犬の顔があからさまに﹁しまった﹂というものに変わった。
しかし、もう遅い。
﹁たべたら働かないといけないってうちのニートだって知ってるよ
ー﹂
頭を撫でながら、紅花は犬に言い聞かせる。
犬に何を言ってもわからないだろうが、犬にはこれくらいわかる
だろう。
どっちが上で、どっちが下なのかってことくらい。
犬が目をそらそうとしているので、無理やり視線を合わせる。
﹁ねー、ちょっと手伝ってもらいたいことあるんだけどな﹂
言ってもわからないだろうけど、そこは根性でなんとか押し切る。
ちらちらともうひとつ小魚パックを見せながら言い聞かせる。
﹁これと同じ匂いをした男の子見つけてもらいたいんだけど、でき
るかなー。できたら、これもあげるんだけどなー﹂
古床の匂いはわからないけど、颯太郎の匂いならまだたどれるよ
429
うな気がした。
﹁⋮⋮﹂
伝われ、この思い!
﹁⋮⋮くぅーーん﹂
犬は怯えるだけだった。
うん、無理だな。犬に頼むのもあれだし、人通りが少ないとはい
え、誰かに話しかけられているのを見られたら、危ない子に見られ
てしまう。
仕方ないなあ、と紅花は立ち上がる。小魚は犬にあげてしまおう
と開封して、鼻先に持って行った。
すると、犬はくんくんと紅花の手を嗅いだ。小魚のにおいを嗅い
で、そして、地面をくんくんする。そして、においをたどっていく。
これは⋮⋮。
どうやら、熱意が通じたようだ。
犬は数歩進むと、ついてこいと言わんばかりに、紅花のほうを見
る。そして、においを嗅いでは走り、またにおいを嗅ぐ。
紅花はぐっと手を握りしめると、犬の後を追いかけた。
430
犬は学園から一キロほど離れたところで止まった。途中、路地裏
を通ったり、民家を横切ったりするところは、いかにも颯太郎の通
った道筋っぽい。
けど、紅花は本当にこっちでいいのかと疑問に思う。
颯太郎はともかく、古床がこんな場所まで来るのか。
この犬、からかってんじゃないよね?
紅花はじっと犬を見たけど犬は、そのあんまり可愛くない鼻をつ
ーんとある方向へと向けた。
緑に囲まれた古い家が一軒建っていた。周りを塀で囲まれていて、
それをさらに覆い隠すように木と蔦が這っている。なんだか雰囲気
は、学園の図書館に似ている。
塀の中は民家のようだが、古い建物の割に小洒落た雰囲気が漂っ
ている。海辺に似合いそうな白い家だった。
ただ、その表札はなんだか大きくて、白く塗りつぶされている。
誰かいるかな。
なんとなく電柱に隠れながら、窺う紅花。
付近は、昔は閑静な住宅街を目指してつくられた場所だろうが、
今の雰囲気は閑散というものにふさわしい。
犬は座り込んで尻尾を揺らしている。
431
ふと、街燈に目がいった。街燈の下に、﹃矢坂部医院﹄と書かれ
た看板がある。少し、緑がかっていて古びた感じがする。
ああ、なるほど。
塀に囲まれた家は元々病院だったのだろうか。
白く塗りつぶされているのは、医院の看板だろう。
紅花は犬に小魚をあげる。犬はそれをぱくぱく食べると、そのま
まどこかへ行ってしまった。
無責任な犬だ。
犬だから仕方ないか。
本当にいるかわからないけど、ここまで来てなにもしないわけに
はいかないので意を決して、門の前に立つ。そして、中を覗き込む
と︱︱。
﹁なにか用?﹂
後ろからいきなり声をかけられて、紅花はびっくりした。
仰け反ったまま振り返ると、セーラー服を着た女生徒が立ってい
た。
この人は⋮⋮。
見たことがあると思ったら、この間、犬に餌をやっていた人だっ
432
た。
手に紙袋を持っていて、中にたくさん食材が入っている。
セロリやパプリカ、リンゴやバナナがのぞいていて、野菜たっぷ
りヘルシーそうな食生活を思わせる。
﹁い、いえ。あの学校にいた犬追いかけてきたら、その⋮⋮﹂
﹁ああ、あの子ね。ふふ、ご飯が欲しくて来たのかな?﹂
女生徒は門を開けて中に入る。古びた感じだけど、庭は綺麗にし
てあり、本当にお洒落だった。
食材を見たせいだろうか、紅花の腹がきゅーっと鳴った。
恥ずかしくてお腹をおさえてそっと相手を窺う。
﹁お腹すいたの? ふふ、これ、食べる?﹂
そういって女学生は紙袋からリンゴをとりだした。
﹁い、いえ。大丈夫です。お気遣いなく!﹂
﹁そう? でも大丈夫、学校は?﹂
その質問をされるとつらい。早退しましたといったところで、そ
の理由が犬を追いかけるためとは格好がつかない。
口籠もる紅花に対して女子学生は察したようにため息をついた。
﹁んー、まあ、そういうのもあるよね。若いってことだし﹂
若いって⋮⋮。
433
いや、あなたも高校生だろうがと紅花は思いながら、とりあえず
不問にしていくれたことを感謝する。
高等部のこの人もここにいるのは、テスト前だからだろうか。う
ちの学園では、高校二年生の半ばまでに三年の勉強を終了し、残り
は受験に向けてそれ中心のスケジュールをとる。
襟章はつけていないけど、たぶん三年生だろうなと紅花は思う。
﹁あんまりここらへんうろつかないほうがいいかもよ﹂
﹁どうしてですか?﹂
﹁それは⋮⋮﹂
すると、急に紅花の手が引っ張られた。ぐいっと身体が近づけら
れ、門の内側に入る。そして、門の裏に隠すように身体を押し込め
られる。
﹁えっ、えっ?﹂
﹁しーっ﹂
わけがわからないまま、紅花は地面に座り込んだ。困ったことに、
木々に覆われた庭の地面は湿っていて、スカート越しに嫌な湿気が
伝わってきた。
すると、足音が近づいてくるのが聞こえた。
﹁こんにちはー﹂
女子学生が挨拶をする。
434
﹁ああ﹂
低い声が聞こえてきた。
おじいさんだろうか、声質から不機嫌さが伝わってくる。
﹁いい天気ですね﹂
﹁いい天気かい、そうだね。あんたはご機嫌そうでいいね﹂
いかにも不機嫌そうにおじいさんらしき人が言ってのける。
﹁あんた、最近、また野良犬に餌でもやってるんだろ? ここらへ
んに住みついたら困るんだ、夜中に鳴き声もするしね﹂
﹁すみません。別にやっているわけじゃないんですけど。なんか、
遠くから最近住み着いたのがいるみたいで﹂
﹁やめてくれよ。ごみの日とか荒らされたら困るんだよ。ごみ袋破
れたら片付けもだけど、臭いがひどいってわかってるだろ﹂
ぐちぐちとおじいさんは言うだけ言って、また去っていった。
足音が聞こえなくなったところで、いいよ、と女子生徒が紅花を
見る。
﹁ごめんね。近所の人なんだけど、あれこれうるさくてさ。ここに
引っ越してきてからずっとなの﹂
﹁そうなんですか﹂
紅花は湿ったおしりをちょっと憂鬱になって撫でながら言った。
﹁わっ、ごめん。さっきのせいで濡れた? もう、ここの庭、いっ
435
つもじめじめしてるのよ﹂
﹁いえ、それよりなんか面倒くさそうな人だったみたいで﹂
どんな顔かわからないけど、とりあえず面倒くさそうな人に違い
ない。
﹁うん、私、この間、なに学校さぼってやがるって言われたの。多
分、中学生なら意気揚々と学校に連絡するわよ﹂
﹁それは﹂
それは困る。実際、さぼりだから仕方ないけど困る。
﹁ずっとここに住んでいるみたいだけど、ちょっとね。いちいちこ
ちらに突っかかってくるのは寂しいのかしら?﹂
﹁そういう人って世の中にたくさんいますから﹂
可哀そうかもしれないけど、ほっておくのが一番簡単な対処法だ。
﹁仕方ないと諦めるしかないわ﹂
ふうっと女子学生が息を吐く。
﹁そうだ、そのままの格好で帰るのもなんじゃない? ちょっとう
ちの中で乾かしていかない?﹂
﹁えっと、そんな﹂
﹁いいの、いいの、はいはい、こっちにきて﹂
そう言って、ぐいぐいと紅花の手を引っ張っていった。
紅花はなすがまま、家の中に入った。
436
中は見た目通り、お洒落な内装だった。地下室もあるらしく、上
り階段と下り階段がある。
﹁はい、こっちね﹂
案内されたのは広いリビングだった。
お洒落なテーブルと椅子が二脚ならんでいて、棚には写真立てが
たくさん並んでいた。
﹁はい、これ使って﹂
﹁ありがとうございます﹂
紅花は渡されたタオルを受け取る。
そして、濡れたおしりあたりをおさえる。
﹁ドライヤー持ってくるから。着替えのサイズはどうする﹂
﹁いえ、ドライヤーだけ貸してください﹂
﹁わかった﹂
なんか申し訳ない気持ちになりながら、紅花は写真を眺めた。
セーラー服を着た女子学生ともう一人男子学生がいた。男子学生
は学ランを着ていた。
他校の生徒かな。
ここらへんで学ランなんて珍しい。
437
なんだか微笑ましいなって思いながら、他の写真を見る。五歳く
らいの二人の写真だろうか。たぶん、顔立ちから制服の二人と同一
人物だろう。どこか面影がある。
こちらの写真はデジタルフレームで時間ごとに画像が入れ替わる
みたいだ。
まな
その写真の端っこになにか書いてあるので、じっと見る。
すぐる
﹃駿、真奈、五歳﹄
親の字だろうか、少し古ぼけて見える。
いや、字だけじゃなくて写真は少し画像が悪かった。
たぶん、デジカメじゃなくて、写真をスキャナーか何かで取り込
んだのだろうか。はしっこにぼやけた日付が見える。少し画像を縮
小しているのか、ちょっと読み取れない。
他の写真も同様で、左端にどれも日付があった。
﹁やだ、写真見てる?﹂
ドライヤーを持ってきた、おそらく真奈さんという名前の女子高
生が言った。
﹁あっ、ごめんなさい﹂
﹁いいのいいの、そんだけ飾ってたら、見えちゃうもんね﹂
紅花はフレームを棚に戻すと、ドライヤーを受け取る。コンセン
トをつなぐと、スカートの前後をずらして、温風を当てる。
438
﹁けっこうかっこいいでしょ?﹂
これはのろけだろうか、その場合、どのような反応すればいいだ
ろうか。
﹁は、はい、かっこいいです。お似合いです﹂
嘘じゃない、けっこう格好良かったと思う。
そう言うと、真奈さんはぷっと吹き出し、ゲラゲラと笑いだした。
紅花は、えっ、えっ? と慌てながら、彼女を見る。
﹁あっ、ごめん。それ、彼氏じゃないから、それ、兄さんだから﹂
腹を抱えながら真奈さんが答える。
﹁そうなんですか﹂
﹁うん、それでね、ちょっと悪いけどご飯の準備してるね。なにか
いる?﹂
紙袋からまたリンゴを取り出しながら、真奈さんが言った。
﹁いいえ、気にしないでください。乾いたらすぐ帰ります﹂
﹁そうなの。もっとゆっくりしていけばいいのに﹂
そういって、真奈さんは奥へと行く。キッチンになっているよう
で、水音がしたと思ったら、とんとんと包丁の音が聞こえてきた。
439
紅花はスカートに温風を当てながらもう一度、写真を眺める。
たしかに改めて見ると、二人は似ている気がする。年齢を考える
と双子だろうか。
紅花は兄弟はいるけど、年が離れすぎてそういう実感がわかない
ので、見ていると新鮮だった。
いや、こんなことしている場合じゃない。
ふと、古床のことを思い出して、ドライヤーを切って棚の上に置
こうとしたときだった。
デジタルフレームの写真が切り替わった。二人がうつっているの
は変わらないが、そこはベッドの上だった。二人ともパジャマを着
ている。点滴をさしたまま移動する真奈さんと、ベッドに横になっ
ている駿さん。高校生くらいのころだろうか、そうなると最近にな
る。
元気になれてよかったね、と思ったときだった。
﹁⋮⋮﹂
紅花はドライヤーを置くと、フォトフレームの左端を見た。
ぼやけた日付は、八月となっている。それは問題ない。
だが。
年号は今から三十年以上前を示していた。
カメラの設定間違えたのかな⋮⋮。
440
そう思って他の写真立てをとる。
フレームを外し、写真の左端を確認する。
その日付もまた三十年以上前だった。
そういえば、東都学園の男子制服はブレザーだ。けれど、昔は学
ランもあった。女子の制服と違い、残ることはなかった。
じんわりと汗がにじみだす。
視界の端に、いつものアレがうつっている。なんだよ、これ、本
当にどうなっているのと言いたい。
まだ間に合う。ここで何事もないように逃げれば問題ない。
とんとんとんとん、包丁の音が響く。
﹁せっかくだから、お昼一緒に食べましょう。兄さんも本当に喜ぶ
から﹂
﹁⋮⋮いえ、おかまいなく﹂
ごくんと唾を飲み込む。
身体にうっすらとうねうねとしたアレが巻き付いてくる。まだ、
力は弱い。こんなのもの無視しようと思えばできるし、振り払える。
さっき、紅花は真奈さんになんなく引っ張られてきた。
近所の人に見つかるからと、紅花をおさえこんだ。
441
ははははっ。
なんで気づかなかったんだろう。
紅花は不死者だ。その体重は人の二倍近い。
そんな人間を軽々と引っ張っていく、たとえ引っ張れたとしても
違和感があるものを。
紅花はそっとキッチンの方を見た。
お洒落なシステムキッチンは綺麗に片付けられていた。
きれいなお皿が並び、さぞや美味しい料理が作られるのだろうと
思う。
いや、思った。
キッチンの隅っこに、ぐったりした古床を見つけるまでは⋮⋮。
ジャガイモやニンジンと一緒に、食材のように転がされていた。
真奈という女は到底、普通の人間ではなかった。
その瞬間、うねうねとしたアレ、死亡フラグは紅花の周りを取り
囲み、不気味な口を開けてその餓えを満たそうとしていた。
442
ホンファ
25、白い家 中編
フラグが紅花の全身にからみつこうとする。紅花は思わず両手を
振り払う仕草をする。
﹁あら? どうしたの? なにか虫でもいた?﹂
﹁ええっ、ちょっと蚊がいて﹂
﹁そうなの。嫌な季節よね。すぐ食材も腐ってしまうし﹂
真奈は憂鬱そうに言った。
食材という言葉に紅花はぞくっとする。
ふるゆか
なんで古床がここにいるのか。なぜ、あんなところに転がされて
いるのか。
それは︱︱。
オーガ
真奈という女が食人鬼だということだろう。
こんな偶然あっていいものなわけ?
そう言いたいところだが、それは紅花が持つ因果律というものだ。
偶然なわけない。紅花がここに来たのも、元々、古床を探してい
たからだ。その古床を探した理由も、颯太郎がおっていたからだ。
颯太郎が追うということは、古床の死亡フラグが見えたことであ
443
り︱︱。
あの犬は駄犬ではなかったようだ。
そうなると、颯太郎はこの家の近くにいることになるけど。
どうしようか。
颯太郎のことだ、また美味しいところをかっさらいにくるかもし
れない。
それなら、紅花はそのままここから離れたほうがいいに決まって
いる。
それなら、きっとこの身体にまとわりつくフラグもそのうち消え
るはずだ。
消えるはずなのに。
お人よしだと思う。
なんでここにいるのかなって思う。
馬鹿としか言いようがないと思う。
とんとんと包丁の音が止まり、野菜が切り終わったことを示す。
床に転がされたままの古床をどうにかして助け出さなければ。彼
女は普通の人間だ。紅花のように不死身に近い身体ではない。
もちろん、紅花だって完全な不死身なわけじゃない。身体を喰わ
れたらそこは欠損してしまい、簡単に回復しない。
死んでも無限に生き返るわけでなく、身体に傷を受けるごとに身
444
体を再生する細胞は減っていく。それがゼロになったとき、もう次
はない。
どうしよう。
なにかしなければ、このままだと古床が調理されてしまう。どく
どくと心臓の音が大きくなり、頭がぐるぐる回る。目まで回りそう
なほど考えたのは、ごく単純な方法だった。
紅花は棚の上にある写真たてを一つとると、そのまま床へと落と
した。フローリングに落ち、一回バウンドするとともにバラバラに
なった。
﹁す、すみません。手が当たったみたいで﹂
﹁あっ、そのままで﹂
ぱたぱたとスリッパの音をたてながら、真奈がこちらに近づいて
くる。
しゃがみ込んで、割れた写真立てを手に取る。
紅花はその隙にキッチンのほうへと向かうが︱︱。
居間に若い男が入ってきた。ゆるゆるのTシャツにこれまただぼ
だぼのハーフパンツをはいている。
すぐる
確か、写真に写っていたもう一人の人物、駿という男だ。
真奈によく似ているが、しかしその肌色は青白かった。
445
﹁兄さん、こんなところまで来て。寝てなきゃだめでしょ?﹂
優しい声で真奈が言う。
駿は黙ったまま、その虚ろな目を紅花のほうへと向けていた。
﹁もう、なによ。お腹が空いたの?﹂
駿はずっと紅花を見ていた。
全身に巻き付くフラグが一層強くなる。
だらだらと汗が毛穴中から吹き出してくる。
まるで腹でも殴られたかのように、胃液がこみ上げてくる。口の
中が苦くて酸っぱい。
駿の身体から、独特の薬の匂いがした。それに混じって、なにか
が腐った臭いが混じる。
﹁ふふ、仕方ないなあ﹂
真奈が笑いながら立ち上がる。
そのとき、ぼたっという音がした。
床にどろっとしたものが落ちている。なんだと思い、視線を上げ
ると、そこには歯茎がむき出しになった駿がいた。顎から左頬にか
けての肉が落ち、まるで骸骨のようになっていた。
﹁あー、兄さん。薬忘れたらだめでしょ。もう﹂
446
そういって真奈は、当たり前のようにそのどろどろした物体を手
に取り、それを駿の顎にくっつける。ぶよぶよとした塊は、粘性生
物のように蠢くと、駿の頬になんとか癒着した。
皮膚はまだ再生できず、赤い筋肉がむき出しになっている。理科
室の人体模型を思い出す。
真奈は近くの棚から注射器を取り出すと、小さな瓶に突き刺した。
それを無造作に駿の首に突き刺して、中の薬剤を注入した。
すると、無理やり引っ付いた肉片が蠢きだし、赤くただれた部分
に皮膜ができるたと思うと、元の人の形をした何者かに戻った。
駿が徐に手を上げる。そして、何をするかと思ったら、真奈の頭
を叩いた。ごりっと何かが折れて砕ける音がして、真奈の頭がぶら
んとあらぬ方法にぶら下がっている。
真奈の口からよだれがこぼれた。ぴくぴくと痙攣しながら、持っ
ていた注射器を自分の首に刺す。残った薬剤を注入し終えるととも
に、折れた首がぴくぴくと動き、自然に元の位置に戻っていく。
完全に戻ったところで、真奈は﹁あーあー﹂と声の調子を整える。
そして、何事もなかったかのように
﹁ふふ。ごめんなさい。驚いた? 兄さんは前に病気になってね、
ちょっと人見知りなの。なんかそのせいで怒られちゃった。本当は
優しいんだけどね﹂
ちょっとどころではない。
あれは人間じゃない。 447
思考回路がパンクしそうになる、動こうにも動かない。
だけど、一秒でも早くこいつらから逃げ出さねばならない。
駿はじっと紅花を見ている。
濁った寒天を思わせる眼球がぎょろぎょろ動き、紅花を値踏みす
る。
元は、整った造形であろうとも、この視線と先ほどの光景を見た
ら、何を思うか明白だった。
逃げなきゃ。
自分の足をからめとろうとする黒いうねうね。
それを振りきり、紅花はキッチンへと走る。猿ぐつわをして縄に
まかれた古床を担ぐと裏口のドアを開けようとした。
しかし、ガチャガチャとノブを回しても動かない。鍵を開けても
開かない。
﹁開かないよー﹂
ゆっくり真奈が近づいてくる。その後をのっそりと駿が続く。
紅花はコンロの上にかけてあるミルクパンをとると、窓を叩き割
ろうとした。ガラス製のそれはミルクパンをはじき返した。
﹁それ、ガラスに見えるけど、特殊な樹脂なんだよ﹂
448
にへらーと笑いながら真奈が来る。
紅花は歯ぎしりをすると、右手に持ったミルクパンを思いきり振
った。
ごきっと手に嫌な感触が伝わる。それでも、もう一度振るう。一
度、折れた首がさらに打ち付けられ、皮一枚でつながっている。
﹁⋮⋮っ⋮⋮﹂
手に持っていたミルクパンが凹んでしまった。それを捨てて、紅
花はもう一つあった大きなフライパンを持つ。
躊躇なんてしておられず、もう一度、真奈を殴る。膝を狙い、関
節を砕く。
駿にも同じようにくらわせる。
やれ、やらなければやられる。
心臓をバクバクさせて、紅花はフライパンと古床を両手に持った
まま部屋を出る。
玄関へと向かい、鍵を開けようとするが、まったく開かない。ドア
の上を見てみると別に鍵がかかっており鎖と南京錠でぐるぐる巻き
になっていた。
紅花は手を伸ばし、フライパンで叩くが壊れる様子もない。
扉を蹴り破ろうにも、蹴りつけたところで足がじーんと響いた。
外観にこだわってか、木の扉に見えるけど、なかにしっかり金属が
入っている。
449
はやくはやく。
その間に真奈たちが回復していく。床に何かが這いずり回ってい
る音が紅花の耳には聞こえる。
ここじゃだめだ。
どこか出る場所を、この家から一刻も早く出なければならない。
廊下を走り、見かけた窓という窓を叩いていく。どれも弾力があ
り、跳ね返される。壁を蹴り破ろうにも無理がある。
どこか、どこか逃げる場所へ。
紅花は階段を駆け上がる。
早く早く、なにかないのか。
しかし、二階に上がったところで紅花は呆然とした。
そこにはなにもなかった。
壁は真っ白に塗りつぶされ、壁は取り外されていた。一面、真っ
白になったフロアはにはところどころ黒い服が置いてあった。
古びたドレス、アンティークものばかりだ。
元は上等なものであっただろうに、それはだいぶ色あせていた。
いや、ところどころに綺麗なものもある。
ビスクドール事件、その言葉を思い出す。
450
数十年前に起きた事件、写真にあった時期と一致する。
窓があった部分には鉄板がはめられていて、丁寧に溶接されてい
た。がんがん叩いても、フライパンが凹むだけだった。
ただ一か所だけある四角いものは、換気口だろうか。
どうにかしてのぼれないだろうか。
しかし、古床を抱えたまま、あそこを突破できるだろうか。
考えをぐるぐるさせたところで、長考する暇はなかった。
階段を上る音が聞こえる。スリッパのぱたぱたという音がこれほ
ど不気味だと感じたことはない。
紅花は一番大きな柱の影に隠れる。
壁にそっと古床を立てかけ、そっと階段を窺う。
﹁ヴぃどいなあ、いぎなり殴るなんで﹂
声帯が完全に治っていないのか低く濁った声が響く。
本人の動きはまるで、ロボットのようにカクカクしていた。まだ、
膝の治りが悪いらしく、片足を引きずっている。
真奈の目は完全に見開いていた。
それでいて、首を四十五度傾けてかちかちと歯を鳴らしている。
451
真奈は首に手をやると傾いた首を真正面に戻す。そして、もう一
度声の調子を見る。
﹁おてんばさんだって言われなかった?﹂
くすりと上品に笑いながら、その手には大きな鉈を持っていた。
﹁ここって昔は病院だったんだよ。個人経営の小さな病院﹂
ぽつりと真奈が言う。
﹁ここらへんはまだその時もう少し人口も多くて病院も近くにあっ
たから、そこそこ繁盛していたんだけどね。ある日、突然閉院した
んだ﹂
白い壁を擦りながら、真奈が言う。
﹁兄さんと私が病気になったの。ここ、うちの両親が経営していた
とこだったんだ﹂
ぽつぽつ漏らしていく。
両親は子どもたちのために、より良い医療施設を探そうと躍起に
なった。海外の病院を回ったけど、どんな病気なのかさえわからな
いもので、似た症例もほとんどなかった。
そのうち、たくわえていた貯金も尽きて、どうしようもなくなっ
たころ、救いの手が差し伸べられた。
452
真奈がセーラー服の裾を持ち上げて見せる。白い肌があらわにな
る。
そこには細い赤い線のようなものが浮いてみえた。
﹁聖痕っていうのかな。どんな傷でも治っちゃうのに、興奮すると
浮いてくるんだ﹂
藁をも掴むつもりで、真奈たちの両親が探してきた療法は移植手
術だった。
内臓をごっそり入れ替えることで、その病の元がなくなるという
いかにもなもので、医者でありながらそんな危険で確証もない方法
に手をつけたのは、長年の治療で疲れていたのだろう。
﹁成功したよ、だから、私はこうしている﹂
でもね。
﹁兄さんには少し合わなかったみたい﹂
定期的に薬剤を与えることでしか、身体を保つことができない。
異常なまでの再生能力と力を手に入れた一方で、ひたすら脆い身体
になってしまった。
﹁あともう二つ、困ったことがあったの﹂
なぜか年を取らなくなってしまったこと。それと。
﹁移植した胃袋が悪かったのかしら。すごく食いしん坊さんになっ
て﹂
453
ちょっと変わったものを好むようになったと。
お父さんもお母さんも、そんなわけでいなくなったと。
﹁私は別に食べたいとは思わないけど、兄さんのこと好きだし、美
味しいもの食べさせてあげたいよね﹂
だから⋮⋮。
﹁ねえ、あなたの内臓を頂戴? 代わりに綺麗なドレスをあげるわ﹂
床に落ちたドレスを拾い、真奈はにっこりと笑った。
やばいやばいやばいやばいやばいやばい。
逃げたい、早く逃げたい。でも、古床を放置するわけにはいかな
い。
馬鹿だ、本当に馬鹿だ。
いくらでも逃げられたものを。
その回避する可能性を捨ててきた結果がそれだ。
紅花の周りにまとわりつくフラグ、このままじゃだめだ。
相手は二人がかり、だけど。
紅花は、ぎゅっと唇を噛み、フライパンを握りしめる。
454
大丈夫、落ち着こう。
二人を無効化すればなんとかなる。
落ち着けばいけるはずだ。
そう思っていたときだった。無視しようとしていた、フラグが足
にからまり付いていた。いや、違う、肉の塊が蠢いて紅花の足によ
じ登ろうとしていた。
古床にもまとわりついていて、慌てて紅花ははらおうと座り込ん
だ。
﹁!?﹂
激痛が足から全身に伝わる。
思わず身体をくの字にして足をおさえる。
そこには脛から先の足首がなかった。
紅花は慌てて自分の足を探す。血だまりにあったそれを見つける
と、急いでくっつける。
ふしゅうっと血が沸騰するような感覚がする。血だまりは生き物
のように、紅花の傷口に集まり、すべてが戻ったところで皮膚が癒
着する。
倦怠感が一気に身体をめぐる。
修復のため、全身にたくわえられたカロリーが一気に消費され、
一種の飢餓状態に陥る。
455
﹁あは、ははははは﹂
紅花の前に真奈が立っていた。血糊がついた鉈、それが先ほど紅
花の足を切断したのだろう。
﹁ふふふふ、これでもう大丈夫。もう餌はいらない。ちゃんとちゃ
んとまともになれる﹂
そう言って真奈は自分の腹を撫でる。
﹁まがいものじゃない、まともなものを移植すれば⋮⋮﹂
﹁ふざけないで!﹂
思わず紅花は叫んだ。
なんだそれは⋮⋮。
食われるのも、パーツとして利用されるのも嫌だ。
そんなの断固断る。
フライパンで攻撃しようとしたら、真奈はにやりと笑って、その
鉈を振り下ろす、古床へと。
﹁!?﹂
その刃先は、彼女の前で寸止めになった。
古床はまだ起きない。もしかして薬でも嗅がされているのではな
いのか。
なんてことだもう、本当にありえない。
456
﹁貴方、不死者よね?﹂
﹁⋮⋮﹂
沈黙したところでさっきの再生能力を見たらわかることだけど。
﹁ねえ、お願い。私たちに祝福を頂戴﹂
そう、真奈は古床に鉈を突き付けながら言った。
457
ふるゆか
26、白い家 後編
まな
真奈は軽々と古床を抱えていた。
ホンファ
すぐる
紅花はそれについていく。
後ろには駿がいる。目はうつろで、口の端からよだれが垂れてい
た。
真奈が案内した場所は地下室だった。重々しい扉を開ける。
消毒液とさびの臭いが鼻についた。
中は思った以上に明るく、清潔だった。ただ、銀のトレイの上に
並んだメスが黄色い光に反射して不気味に光っていた。
あれに自分が突き刺され、中身をとりのぞかれるのかと思うとぞ
くっとした。
逃げたい、逃げ出せない。
真奈は古床を下ろすと、奥にあるベッドを指さす。普通の眠るた
めのそれではない、手術のオペで使うようなものだ。
﹁そこに横になって。大丈夫、すぐ終わるわ﹂
すぐ終わる?
紅花を切り刻み、その内臓を移植する。すぐ終わるわけじゃない。
458
それに⋮⋮。
紅花はベッドに横たわる。するとすかさず、真奈ががちゃりと紅
花の手首に枷をはめる。
﹁これは!﹂
﹁だって、動いたら危ないでしょ?﹂
そう言って足にもはめようとする。
紅花は手でそれを振り払った。
﹁あら? 動いちゃうじゃない﹂
真奈の表情に変化はない。唇だけ歪めて笑みを浮かべたままだ。
﹁!?﹂
すぐる
紅花は言い返そうとしたが、それよりも目に入ったものに気を取
られた。気絶したままの古床に、駿が近づいている。その虚ろな目
のまま、すんすんと鼻を動かしている。
﹁古床さんに手をださないで﹂
しかし、真奈は一瞬それに目をやり、また視線を戻す。かちゃか
ちゃと鋼鉄の枷をもてあそんでいる。
﹁にいさーん、食べちゃ駄目よー﹂
﹁早くとめてよ!﹂
紅花がいらいらしながら、ベッドから起き上がる。
459
﹁ちゃんと寝て。メスの手もとが狂っちゃう﹂
﹁古床さんの安全が先よ!﹂
どんっ、とベッドを叩いた。ベッドはよほど丈夫にできているら
しい、紅花の手がしびれるほど叩いたのに、壊れるようなことはな
かった。
ああ、ここで。
ここで、真奈も駿も内臓を入れ替えているのだ。動かないように
固定して、きっと麻酔もきかない身体だろう。
でも、それとこれとは別だ。
真奈たちには同情してしまう。好きで病気になる生き物なんてい
ない。生きながらえるために尽力するのは間違いじゃない。
でも、それは紅花だって一緒だ。
やってられるか。
逃げる算段はまだつかめない。でも、ここにいてどうなる? 真
奈もそうだが駿はなにをやらかすかわからない。
紅花は枷がはめられた右手でその鎖を掴んだ。力を入れる。手の
甲に腕に血管が浮き上がる。筋肉が一瞬膨れ上がるとともにその腕
を持ち上げた。
がこっと間抜けなくらいあっけなく鎖がはずれた。紅花の手の枷
は取れていない。床にセメントで埋められた部分が根こそぎ引っこ
460
抜かれている。
紅花の周りにはあのうねうねが漂っている。気持ち悪い舌を伸ば
し、紅花を食らおうとする。
怖くないといったら嘘だ。
でも、そこで怖がっていたところで、ただ餌になるだけだ。
餌、はは、笑わせる。
﹁うそ?﹂
間抜けに目を見開く真奈に紅花は、セメント付の鎖を投げつけた。
モーニングスターの形状をしたそれは、真奈の肩にぶち当たる。骨
が砕ける音がする。
本当に笑わせる。
いつもそうだ、怖がり動けなくなりそのせいで襲われる。
よくよく考えてみればいい。
誰の方が強く、誰の方が生態系の上に立つかを。
無理やり引き抜いたせいで、紅花の手首は擦れて血がにじんでい
た。でもそれは一瞬で、元通りになる。
不死者、今現在、知られている人外の中でもっとも強者と言われ
る一族。
461
﹁ねえ、約束をたがえる気?﹂
﹁そんなものする気もないでしょ。私の中身、手に入れたら用済み
なんでしょ﹂
きっと食らわれるだろう。その血肉に不死身の能力が宿っている。
私の血は私のものだ。
私の肉は私のものだ。
どうしてこいつらにやる義理がある。
﹁なら、あの子はどうなってもいいの?﹂
﹁今、それを無視してことをすすめようとした相手がいう言葉には
思えない﹂
古床のほうを見るな。
考え方を冷静にしろ。
﹁それに、弱い人間かばっても何の役に立つのかな﹂
﹁さっきはあたふたしてたじゃない?﹂
﹁だってクラスメイトだよ。消えちゃうといろいろ面倒じゃない?﹂
古床はどうなってもいい、自分さえ助かればいい。
そう見えるといい。
紅花が真奈に逆らえないのは古床がいるから。逆に古床さえいな
くなれば、力で負けることはない。相手が二人いることさえ気を付
ければ大丈夫なはず。
462
ただ問題は消耗戦になることと、ここが真奈の家であることだ。
扉はあかない、窓もあかない。
どこから逃げ出せばいい。真奈から家の鍵を奪い取ればいいだろ
うか。
いや。
紅花は走った。手に枷を持ったまま、セメント片を振り回す。
横目で駿と古床の横を通り過ぎる。
今、古床を助けるわけにはいかない。
ごめん。
頭の中で両手を合わせながら走り去る。無情な人外になりきろう。
最初からそうすればよかった。
あいつらの狙いは紅花だ。紅花を捕まえることが最優先で、古床
のことは二の次のはずだ。
地下室を抜け、台所に向かう。椅子を一脚もつと二階の階段を上
る。
何もない、アンティークドレスが散らかっただけの部屋に向かう。
紅花は右手の枷を見る。その右手を左手で握り、そのまま潰す。
骨が砕ける音が気持ち悪い。だらんとした右手が再生する前に、枷
463
から手を引き抜いた。
鎖の長さは一メートルほど。紅花の身長は百五十くらい。
椅子を使えば足りる。
二階の部屋の隅っこに向かう。そこには空調用に換気扇がとりつ
けてある。そこに、セメント片がついた鎖を引っかける。
そして、そのまま引っこ抜いた。頑丈にとりつけられたそれを物
理のみで引っこ抜く。
外側のケースがはがれた。まだ羽とその奥についている。
紅花はもう一度鎖を引っかけて引き抜こうとする。
だが、背中にずどん、ずどんと衝撃を感じた。
﹁兄さん、ごめんね。ちょっと味が落ちるかもしれないけど、ミン
チにするわ﹂
背中が熱い。散弾が埋まっている。制服が血まみれで、ぼろぼろ
に破れている。沸騰するような感覚とともに散弾が紅花の皮膚から
ぽろぽろと落ちてくる。
紅花はそれを無視して、換気扇の羽を引き抜く。外から光がこぼ
れてくる。
﹁いいなあ、その再生力。本当にうらやましい﹂
464
うっとりした声がする。その後ろで奇妙な歯ぎしりとも何とも言
えない音がする。真奈だけでなく駿も来ている。
ならば、遠慮なくここから逃げ出すだけだ。
羽を引きちぎりもう一度というところで、がしゃんと音がしてま
た背中に衝撃を受ける。今度は後頭部にもあたる。
脳の損傷はきつい。再生に時間がかかる。
二日酔いに似ていると言われる頭痛がする。急激な飢餓感と倦怠
感、その場で蹲りたくなる。でも、それではいけない。
近づいてくる。その前に引き抜かなければ。
しかし、鎖を引っかけようにもうまく引っ掛かる部分がない。も
う一枚引きはがせば、紅花が抜けられる穴ができるはずだ。
痛い、頭が痛い。
がちゃんと音がする。また弾を込めている。
再生が間に合わない。それでもやる。また、背中が熱くなる。
本当にミンチにする気だ。
内臓なんて入れ替えなくても、不死者の祝福を受ければ問題ない。
だけど、紅花は彼女たちに祝福を与えるつもりはない。たとえ一瞬
同情したとしても、それは彼らを許しうる材料に足らない。
465
それに、もう紅花は別の奴に祝福を与えている。
紅花はそう何人も抱え込めるほど、心が広くない。
なにやってんのよ。
耳鳴りがする。銃弾を受けた身体が震える。
なにもかもが遠くに聞こえ、視界もぼやけていく。それでもやら
なくちゃ。
紅花が外に逃げて助けを求める。そうするだけでいい。
姉さんたちを呼んだらすぐ来てくれる。
そしたら、古床も助け出せる。
換気扇がとれないなら破壊する。
力を込める。鎖を思い切り振り回し、換気扇を壊しにかかった。
そのときだった。
ばこっと、間抜けなほど簡単に換気扇は外れた。外側から力がか
かり、家の内側にそれが落ちる。紅花が振り上げた鎖はその換気扇
をすり抜けて、猫っ毛の人物に当たった。
﹁あっ!﹂
側頭部をセメント付の鎖に殴られるのは、颯太郎だった。間抜け
なくらい吹っ飛び、そのまま部屋の内側に落ちた。
466
この上なくかっこ悪い登場だった。
467
27、少年だったもの、少女だったもの
﹁大丈夫?﹂
颯太郎少年は、床に顔面をへばりつかせ、腰だけが間抜けに浮い
た状態で言った。
﹁それ、そのままお返しする﹂
紅花は呆れた声で言った。なんか、ごめんとかいうべきことかも
しれないけど、なんとなく謝る気になれなかった。
来るの遅い!
それが言いたいところだけど、よく考えると勝手に首を突っ込ん
だのは紅花だ。颯太郎を責める資格はない。
﹁なんか変なの増えたわね﹂
散弾銃の弾をいれかえながら真奈が言った。その目を細めてじっ
と颯太郎を見る。
颯太郎少年もまた、真奈を見る。
ホン
﹁ねえ、紅ちゃん﹂
颯太郎少年の目が変わっていた。薄茶の目が今は金色に輝いてい
る。その中で瞳孔が大きくなったり小さくなったりする。
468
金色になるのは不死者の特徴だ。感情の高ぶりや、不死者として
の能力を使うと紅花も琥珀色からその色へと変わる。
颯太郎のふわふわの猫っ毛が静電気を帯びたようにばちばちと逆
立っている。
﹁あれらって、人間?﹂
人間?
その確認にぞくっとする。
あれらとは真奈と駿のことだろう。そして、ここでいう人間とは
⋮⋮。
紅花は首を横に振る。
﹁じゃあ、人外?﹂
人外、ここでいう人外とは⋮⋮。
紅花は真奈と駿を見る。
人としてのなりを保っているが、その生命力は人間のそれではな
い。だからといって不死者には及ばない。
そして、それを補うために、手段を選ばない。
﹁⋮⋮そいつらは﹂
469
紅花は歯がみしながらいった。
オーガ
﹁食人鬼よ﹂
古床を食料としか見ない。紅花をパーツとしてとらえる。
たしかに、可哀そうな面もある。だけど、それを理由にやってい
いことの限度をこえている。
﹁わかった﹂
颯太郎少年は、その瞬間消えた。
消えたように見えた。
足のばねをいかし、一瞬で真奈に迫る。真奈は思わず散弾銃を構
えるが間に合わない。
べちゃ。
何の悪戯をしたんだと一瞬思った。颯太郎少年は懐から取り出し
たマヨネーズの容器ににたものの中身を真奈にかけた。
どろっとしたゼリー状のものが彼女の背中にべったりついた。
そして。
懐から、ライターを取り出した。煙草に火をつけるタイプじゃな
くて、バーベキューに使うような先が長いものだ。
それを使い躊躇いなく真奈に火をつけた。
﹁きゃあああああ!﹂
470
勢いよく彼女の身体は火だるまになる。彼女は床に這いつくばり、
転がり必死に火を消そうとする。
あのマヨネーズ容器の中身は液体燃料みたいだ。注意書きに書か
れる絶対使っちゃいけない方法を颯太郎は躊躇いなく使っている。
颯太郎少年はその間に真奈が落とした散弾銃を拾い、そのトリガ
ーをへし折った。本来、へし折れるような構造ではない。でも、獣
人であり不死化した颯太郎の力はそれくらい簡単にやってのける。
駿はのたうちまわる真奈に近づくが何をすればいいのかわからず
ただ止まっている。
颯太郎は彼にも容赦なかった。真奈と同じように火だるまになる。
肉と髪の毛が焦げる臭いが部屋に充満する。床に火がうつり、落
ちていたアンティークドレスにも燃え移っていく。
﹁紅ちゃん!﹂
がしっと颯太郎少年が紅花の手を掴んだ。
﹁逃げるよ!﹂
颯太郎の言葉に紅花は頷く。しかし、目線は焼けて苦しむ二人に
向いたままだ。
﹁人じゃないんでしょ?﹂
ぼそっと言った颯太郎の言葉に、紅花はびくっとする。人じゃな
い、だから颯太郎は躊躇いなくこんなことをやってのけた。
471
紅花は床を蹴る。
﹁下に、地下に古床さんがいるの﹂
﹁無事?﹂
﹁たぶん、でも、下は窓もなにもかも封鎖されているから﹂
今、颯太郎が入ってきた換気口から出るべきか。
いや、思った以上に火の勢いが強い。
紅花と颯太郎だけならともかく生身の人間だと皮膚がただれてし
まう。
階段を下り、颯太郎は正面の玄関に向かう。鉄板が埋め込まれた
頑丈な扉に、いくつも錠前がかかっている。
﹁どうするの?﹂
﹁大丈夫、それより古床さん連れてきて﹂
﹁わかった﹂
紅花は地下へ通じる階段を駆け下りる。開けっ放しの地下室には
横たわった古床がいる。強く掴まれたあとが身体に残っている、で
もそれ以外、外傷らしきものはない。
ただ、一瞬、吸血鬼の一件を思い出した。あのときみたいになに
か暗示がかかっていることはないか、そう思ったが、考え込んでい
る暇はない。
紅花は古床を肩に抱える。とても女の子らしい持ち方とはいえな
472
いけど、これが楽だから仕方ない。
階段を駆け上がろうとした瞬間、壁際にある棚に目がいった。無
地のラベルが貼られた茶色の瓶と、注射器が並んでいる。
﹁⋮⋮﹂
紅花は棚に空いた手をかけると、そのまま引き倒した。がしゃん
と激しい音がするとともに、液体が床ににじんでいく。
まだ地下室にはおぞましいものがたくさんあるが、壊して回る暇
はない。そのまま颯太郎少年の元に戻る。
﹁紅ちゃん、もうちょっと待って﹂
そういう颯太郎は、どこからか取り出したドライバーを手にして
いた。そして、扉の蝶番のネジを外している。
そういうことか。
さすがに、ネジ部分を溶接することはしなかったようだ。
器用にネジを外していくが、さすがにきつくしめられているため
か、回すごとにネジが潰れていく。それで手間取っているようだ。
早く、早く。
急かしたい気持ちはある、二階からの熱い空気が混じっている。
煙は高いところにいくが、あの勢いだと床が落ちてくるのは時間の
問題だろう。
473
念のため、紅花はポケットからハンカチを取り出しておこうと思
った。古床に悪い空気を吸わせないためだったが、そこでようやく
気付く。
﹁!?﹂
﹁僕のベスト使う?﹂
紅花の心を読んだかのように、颯太郎が器用にベストを投げてよ
こす。思わず頭を殴りたくなった。でも、そんな暇ないので我慢す
る。
﹁しましまって紅ちゃんの趣味?﹂
やっぱり殴った。
散弾銃で撃たれた傷は再生したが、服は別だ。紅花の制服の上は
背中が丸開きになり、スカートは金具が外れていつのまにかずり落
ちていた。せめて下着が無事なだけマシと思うべきか。
ベストを腰に巻き付けたが、颯太郎の作業はまだ終わらない。
﹁しまったなあ。先が丈夫な奴にしたからいけなかったか﹂
ネジがドライバーに負けて潰れている、回そうに回せない。
わかっているがそれが腹立たしい。まだ、一つなら引きはがせる
のだろうが、上下一つずつ潰れている。
熱気が上からどんどん漂ってくる。それとともに、肉と髪の毛が
474
焼ける臭いが混じっている。
﹁!?﹂
﹁び、どいわ⋮⋮いぎなり﹂
濁った声とともに、ずるずるとした影が二階から降りてくる。
焦げた肉と溶けた肉、それがはりつき蠢いている。手すりにより
かかり、ゆっくりと降りてくる真奈。
そのおぞましさに、紅花はぞくっとする。全身が粟立ち、足元か
らぬめぬめとしたあの感触がのぼってくる。
﹁やっぱまだ生きてるか﹂
平然と言ったのは颯太郎だった。ようやくネジがとれたらしく扉
ががくっと斜めになる。
このまま隙間に手を入れて引きはがせばすぐ逃げられそうなのに、
颯太郎は振り返ると真奈を見る。
真奈の後ろには同じく、スプラッタホラーゲームにでてくるよう
な姿の駿がいる。
紅花はスプラッタになれているけど、治りが遅く、そこに苦しみ
をはらんだ二人の姿に目をそらしたくなる。
ひゅうひゅうと喉から息が抜ける。
﹁⋮⋮死なないわ﹂
475
真奈の手には注射器が見えた。
きっとそれでなんとか形を保っているのだろう。
﹁ねえ、なんで私⋮⋮たちは、こんなに苦しまなきゃ、⋮⋮いけな
いの? 生きるのは⋮⋮それだけ罪なの?﹂
突き刺さる言葉だ。真奈のまだ再生しきっていない目から涙がこ
ぼれる。目蓋がないその姿はグロテスクという他ない。
﹁それになんで⋮⋮こんなに生殺しにするの?﹂
その言葉に紅花は颯太郎を見る。金色の目が細く冷たく真奈を見
ている。
﹁普通なら死んでるはずだけど﹂
躊躇いなく颯太郎は口にする。
﹁貴方たちがどうしてそんな身体になったのかわからない。けど、
その再生の仕方だと不死者属性を持っているようだね。都合がよか
った﹂
不死者は火に弱い。細胞が熱変性すると再生しなくなる。叩いた
り斬ったりするより有効な手段だと言われている。
﹁ひどい、びどいぃ﹂
声を濁らせながら真奈が手を伸ばす。
颯太郎は、冷めた目線のまま一歩前に出る。
476
﹁ひどくないよ。だって、君たちは生き残るために他を捕食してた
んでしょ?﹂
捕食という言葉に紅花はハッとなる。
﹁そして、紅ちゃんも食べようとしていた﹂
﹁食べない、てづだっでもらうだけ⋮⋮﹂
颯太郎は無表情のまま、首を傾げる。その猫を思わせる口元だけ
は愛嬌よく形作っている。
﹁そりゃ、死なないけど、食べないわけじゃない。きっと君たちは、
それじゃあ満足しない。紅ちゃんが許し続ける限り、貪り続けるん
だ﹂
目をさらに細めて歪に笑う颯太郎。
﹁ねえ、自分に害がある蚊を叩き潰さない理由って慈悲以外の何だ
と思う?﹂
紅花はぞくっとした。
颯太郎は真奈に手を伸ばす。
﹁君は叩き潰されたいの?﹂
そこには大きな隔たりがあった。
猫が鼠を弄ぶような、でも、その鼠はいくら危機になっても猫を
477
噛みつくことはないだろう。それだけ心が折られていた。
真奈は床に崩れ落ちた。ぼろっと炭化した皮膚が剥げ落ち、生々
しい赤い肌が見える。ゆっくりだが再生はする。まだ、死ぬことは
ない。
すうっと、紅花の足元にまとわりついていた亡霊だちが消えてい
く。
彼女が折られ、完全に殺意がなくなったことを示していた。駿も
また、階段の手すりにすがりつき、ただ息を荒くしている。
彼の衰弱は激しく、こちらは風前の灯なのだろう。
薬はさっき紅花が棚ごと割ってしまった。たとえ無事なものを使
ったとしても、どれだけ生きながらえるかわからない。
外で激しいサイレンの音がする。
二階の火に気が付いて近隣の住人が通報したのだろうか。あの野
良犬とごみ出しで文句を言っていたおじいさんなのかもしれない。
ごみからすごい臭いがすると言っていたけど、その臭いの正体が
人間だとわかったらどういう顔をするだろうか。
﹁紅ちゃん﹂
﹁⋮⋮なに﹂
颯太郎がさっきまでの肉食獣の目とは違った表情で紅花を見る。
478
﹁悪いけど、先に出ることを優先してもいいかな。すぐ人が集まっ
ちゃう﹂
逃げることを優先する、つまり真奈と駿はそのままにしておくと
いうことだろうか。相手は殺人鬼だ、ここで止めを刺しておいたほ
うがいいに決まっている。でも、一方でこの二人にはもう何もでき
ない、わざわざ手を汚す理由はないし、それによって逆に罰せられ
ることもあるかもしれない。
人外と食人鬼の境目は難しい。今回の場合、正当防衛と認められ
るか過剰防衛ととられるかわからない。
それに颯太郎が火をつけたことが原因で今この騒ぎだ。彼にも罰
が下る可能性がある。
﹁逃げよ﹂
紅花は颯太郎に古床を渡す。半分ずれた扉を持つと、その蝶番部
分を千切るようにとってしまう。
颯太郎が火を使った理由を考える。
一つはそれが相手に有効だと思ったから。
もう一つは⋮⋮。
火事でなあなあにすることで、相手にとどめを刺すことを逃れよ
うと思ったから⋮⋮。
と思うのは紅花の考えが甘いからだろうか。
479
そうとは限らないけど、なんとなく紅花はそんな気がした。そう
思うようにした。そうなると、紅花がやることは一つだった。
﹁逃げるわよ、あんなのほっておいても平気だから﹂
﹁⋮⋮うん﹂
颯太郎は内心は止めをさしたほうが、面倒がなくていいと思って
いるかもしれない。紅花が命令すればきっとやってくれるだろう。
そんな真似はさせたくなかった。
﹁わかった﹂
颯太郎はすかさずリビングに入ると、紅花の荷物を持ってくる。
﹁じゃあ行こうか﹂
そういって、玄関をけ破った。
〇●〇
はあはあはあ。
熱い、痛い、苦しい。
くすぶる空気の中、真奈は階段を這いつくばりながら下りていく。
焦げた髪が臭い、炭化した皮膚が汚い、むき出しの皮膚が汚らしい。
480
再生が遅い。だめだ、薬を。薬を。
ようやく地下室に入ると、そこには倒れた薬棚があった。
ひっくり返そうにも、力が足りない。中の薬瓶は割れているらし
く床にしみ出ていた。
あいつらがやったのか。
そこに怒りはない、怒りが涌く以上に恐怖が上塗りされる。
あの小娘だけなら可能だった。その能力は真奈たち二人の力を有
にこえるが、その中身は脆い。どこか甘く情を捨てられず、まだ精
神が子どもだった。ゆっくり切り崩していけば、食らうこともでき
ただろう。
でも、あの少年は何だろう。
最初から躊躇というものが感じられなかった。きっと初手で焼き
殺す気だった。そして、証拠隠滅を兼ねて屋敷を全焼させるつもり
でいたのかもしれない。
おそらく獣人の血が混じっている。不死者の少女を守ろうとする
ところから、その祝福を受けているのかもしれない。
その余りある力に嫉妬が芽生えそうになるが、またしても恐怖で
上書きされる。
生かされただけ幸運だった。
481
そうかもしれない。
たとえ、こぼれた薬液を犬のようにぺちゃぺちゃとすすりながら
も。
数口すすって、ようやく炭化した部分が皮膚に生まれ変わろうと
する。真奈は床にこぼれた薬液を口に入るだけすする。
そして、階段を上っていく。
兄さん。
ひゅうひゅうと息をする兄を見つける。その肉はところどころ禿
げ、筋肉どころか骨がむき出しになっている。
真奈は崩れかけた兄の頭を持ち上げると、その口にさっきすすっ
た薬液を流し込んだ。兄の舌が真奈の中に入っていく。栄養を、身
体を修復するために求めているのだろうとわかる。
口の中がからからになっても、兄は追加の薬液を望んだ。でも、
もう真奈の口の中にも、地下室の床にも残っていない。
﹁兄さん、ごめん。もうない﹂
だが、兄にはわからない。
真奈にすがりつき、餌を求める子犬のように顔を近づける。
ないの、もうないの。
でもわからない。
482
もう一度口が近づく、真奈の唇に兄の唇が触れ、そして︱︱。
噛み千切られた。
皮膚の再生でさっきの薬の効果は使い果たした。じゅくじゅくと
緩やかな再生はあるがそれ以上の勢いで、自分の身体がかけていく。
ああ、そうだった。
なんで、自分が父や母を犠牲にしたのか。
何人もの少女たちを犠牲にして、兄を活かし続けてきたのか。
その理由は︱︱。
自分が食べられたくなかったからだ。
咀嚼する兄の皮膚が再生していく。
肩を、首を、胸をかじりとられていく。
ずっと憎んでいただろう。同じ日に、同じ胎から生まれた妹を。
同じ病気にかかり、同じ手術を受けながら、兄と違い成功した妹を
⋮⋮。
手術は実験だった。そんなの最初からわかっていた。成功体とし
て存在する真奈は、失敗した兄を慰める手が思いつかなかった。
ただ、肉を与え、餓えを紛らわすことしか。
483
自分が食われないために。
はははは、なんでそんなことを思ったのだろう。今になって真奈
は笑えてきた。笑い過ぎて、涙が浮かんでくる。
あれだけ苦しそうだった兄の顔が安らいでいる。小さなころ、大
好きなプリンを食べているときのような幸せそうな顔だ。
ずっとこれが見たかった。
こんなに簡単な方法だったなんて。
もっと早く食べさせてあげたらよかった。
咀嚼音が続く、どんどん自分の体積が減る変わりに、兄の崩れた
顔が戻っていく。
前よりもっとかっこよくなったんじゃない?
そう思いながら、真奈は目を瞑った。
484
幕間、野良犬と美青年
犬は見ていた。
白い家が燃えているのを見ていた。
塀と庭木に囲まれたその家に、どこからともなく人間たちが集ま
ってくる。
それを見ていた。
煙に混じって血の臭いがするのを皆わかっているだろうか。
髪が焦げる臭いも混じっている。
でも、不思議なほど肉の焼ける臭いは薄かった。
犬は待っていた。
そこから出てくるものを待っていた。
この家には隠し通路がある。家の中にある到底一般家庭にあるは
ずないものはここから運んできた。
犬は知っている。
それが何に使われ、どういう結果を起こすのか。
それを確かめるのも犬の仕事だった。何か起こったとき、それが
どうなるのか見届けるのも犬に与えられた仕事だった。
485
集まってきた人ごみにも、消化活動をする消防士たちにも気づか
れず、それはやってきた。
端正な顔立ちをした青年だった。長い前髪をかき上げながら近づ
いてくる。年のころは二十歳くらいだろうか。
犬は首を傾げたくなった。ここに来るはずの者はそんな特徴はな
いはずだ。
なにかあったらここから出てくるであろう者は、二人。どちらも
十代半ばに見える人型の生き物だ。
しかし、犬の嗅覚は知っている。
この男から血と肉の臭いがする。そしてかすかにラベンダーの香
りがするシャンプーの匂い。
いつもドッグフードをくれる少女はいない。生臭い内臓の臭いを
消しながら、図書館の裏にいた少女はいない。
青年は犬を見ると笑う。
微笑といってもいい、知性が感じられるちょっと皮肉が混じった
笑い。
端正な顔立ちだ。その異様な格好を見なければ、異性を引き付け
てやまない容姿である。
痩せ型の体躯には、申し訳程度に衣服がはりついているにすぎな
い。それも、半分以上焼け焦げ、その残りを腰に巻きつけているよ
486
うな粗末すぎるものだ。そんな野生児と変わらぬ格好で、文化的な
顔をしているものだから異様としか言いようがない。
﹁名前はなんていうんだっけ? 僕は知らなくてさ﹂
その言葉ははっきりしていた。犬の嗅覚を信じるなら、この男は
双子の兄のほうだ。知性の欠片もない、ただ食らうことにしか興味
がない少年だ。確かに正気だったころの面影は少し残っている。
犬は、妹はどうしたと目を細める。
﹁ごめん、なにが言いたいのかわからないけど。妹ならここだよ﹂
青年は、自分の腹をおさえる。
そういうことか。
犬は理解した。
少年に知性が芽生えた、いや知性を取り戻した理由を。
その肉体が成長した理由を。
妹から祝福を貰ったのだろう。
実験の成功者として、不死者になった妹から祝福を貰うことで、
失敗作の食人鬼は不死者の力を手に入れる。
その餓えを妹の祝福で上書きし、失敗作から成功例に変わったの
だ。
これは面白い事例だと言われるだろう。
487
モルモットを見るようなあの男の顔を思い出す。
犬は草むらに顔を突っ込む。そこにはボストンバッグがあり、現
金と衣服が入っている。
﹁気が利くなあ﹂
青年は口笛でも吹きそうな口調で言った。
妹を代償にして手に入れた祝福、それに対して罪悪感は見られな
い。
青年は衣服を着替えた。ぼろぼろの服は犬が地面に穴を掘り、そ
こに埋めた。
﹁君も大変だねえ。そんな姿になって﹂
にっと笑う青年に対し、犬は唸りたくなった。いや、唸るのでは
ない。
﹃黙れ﹄
犬の声帯から人語が漏れた。
﹁へえ、最初から喋ってよ﹂
青年はボストンバッグを持つと、がさがさと草むらの奥にある獣
道に入っていった。
488
﹃知るか﹄
犬、いや人狼のヴォルフは舌うちしたくなる気持ちを必死におさ
えながら青年の後ろについていった。
胸糞が悪くてしかたない。でもそうするのが仕事だから仕方ない。
あー、早く家でごろごろテレビ見ながらピザでも食いてえ。
それができるのは、まだしばらく先で、今日のディナーも乾いた
ドッグフードだろう。
人狼というが、完全な狼になるには体力を要する。満月の晩に狼
に変身するというが、それもあながち嘘じゃない。一番感情が獣に
近くなる満月の夜は狼への変化に抵抗はない。また、一度その姿に
なると、そう何度も簡単に入れ替わるものではない。狼になって戻
る力を使うだけで、再び変化するには、ひと月は要する。
ゆえにこのまま仕事を続けるしかない。
顔にメスを入れたくがないためにそれをやるヴォルフだったが。
毎日、用務員に去勢手術のために追い回されるのなら、まだその
ほうがましだったかもしれない。
大事なものちょん切られるくらいなら、いっそ整形のほうがまし
だろうな、と現在の状況にため息をつきながら、青年の後ろについ
ていった。
489
28、誕生日とベニバナ
何回死んだんだろう?
紅花はベッドの上で、自分の手のひらを見ながら思った。
あのあと、兄さんがすぐ駆けつけてくれた。その隣には意外な人
物がいた。
学校を抜け出すとき会った初老の男だ。憂鬱そうな表情のまま、
兄さんの隣に座っていた。
誰と聞くと、兄さんは少し遠い目をした。
﹁一姫の孫だ﹂
一姫、それは紅花にとって姪にあたる人物だ。姪だが、年齢は二
百近く年上である。
姪ということだが、兄さんたちに子どもはいない。
理由を聞いたら、昔、長兄がいて各地に子孫作りまくったという
最低の話を聞いた。
そいつはもういないらしいが、もし目の前に現れたら愚兄と同じ
くらい冷ややかな目で見てやることだろう。
しんのすけ
ニートだけでは不安だと、一姫の孫、新之助をつけてくれたとい
う。
490
老けているのは、人外としてではなく人間として生きているから
だという。それでも、実年齢は八十近いとのことで、老化はゆるや
かなようだ。
紅花たちは、二人に連れられて隠れるように燃え上がる家をあと
にした。
そして、今に至る。
緊張の糸が切れたのか、紅花は準備された車に乗り込むとそのま
ま気を失った。
起きたら、部屋のベッドの上で、輸血されていた。
血液のラベルに書かれてある名前を見て、すごく嫌な顔をしながら
も、それを受け入れるしかない。お父さんがいない今、一番、家族
で力が強いのは愚兄だ。同じ兄弟でも、不死者としての能力に違い
がある。愚兄の見た目は、お父さんにそっくりだ。お父さんに打算
と偏愛とオープンスケベを足したら、大体、愚兄になると思う。
紅花は枕元を探る。目覚まし時計を見つけると、そのデジタル表
記を確認する。
﹁⋮⋮﹂
最悪だ。最悪すぎる。
そこにある日付は、紅花の誕生日からちょうど一週間がたってい
た。しかも、午後の六時である。
491
写生大会の日、あの白い家に行った日、紅花の誕生日だった。
﹁十三歳、おめでとう﹂
乾いた笑いを浮かべながら、セルフで祝福してしまう。
なんで、首を突っ込んじゃうんだか。
あー、馬鹿だ、馬鹿だ、馬鹿だ。
おかげでケーキ食べ損ねた。なにやってんだ、一体。
頭を抱え、ごろごろとベッドの上を左右に転がる。転がり過ぎて、
ベッドから落ちかけ、点滴を横だおしにする。慌ててそれを支える
が今度は、手に付いていた針が抜けてしまった。
﹁なにやってるの?﹂
そして、一番見られて気まずい奴に見つかるのまでがお約束だ。
﹁⋮⋮﹂
紅花はノックもせずに入ってきた気まずい奴こと愚兄を見る。
﹁なにもやってないわよ!﹂
﹁うん、血の染みはオキシドールで消えるから﹂
﹁アンタの血でしょ! 自分で片付けなさいよ!﹂
針が外れて、こぼれた血が絨毯についている。
492
むーっと、口を尖らせる。
﹁救急箱は?﹂
﹁うちにあると思う?﹂
不死者のうちにそんなものない。擦り傷なら一瞬で治るので必要
ない。
﹁オキシないじゃない!﹂
﹁だよね﹂
愚兄は、そう言って部屋を出る。
あー、むかつく。
紅花は、ティッシュを何枚も掴みとると、ベッドわきに置いてあ
ったポットを手に取って濡らした。
そして、ぽんぽん叩いて血の染みを落とす。
しばらくして、あわただしい足音が聞こえてきた。息を切らした
若ママが、ばたんと部屋のドアを開ける。勢いがつきすぎて蝶番が
外れ、吹っ飛んだドアが後ろにいた愚兄に当たる。
いい気味だ、と思う間もなく、紅花は若ママに抱きすくめられた。
﹁怖かった? 怖かったでしょ?﹂
しきりに聞いてくる若ママに、紅花は自然と笑いかけていた。
﹁大丈夫﹂
493
一応、頼りない騎士がいたから。
ぎりぎり助かったから。
そう思いながら、若ママの背中をぽんぽん叩いた。
ちょっと、苦しいかも。
紅花はお腹をさすりながら、テラスへと出た。
一週間ぶりの食事はごちそうだった。
若ママはちゃんと紅花が起きてから誕生日を祝おうと毎日、ごち
そうをじゅんびしてくれたらしい。
すごかった。
リビングに入るなり、目に入ったのは、ウェディングケーキ三つ
だった。
テーブルには鳥の丸焼きが一ダースと、豚が三頭、ステーキがパ
ンケーキみたいに積み重なっていた。
テーブルだけじゃ足りなくて、横にワゴンが置いてある。ポリバ
ケツみたいな寸胴が三つあって、クリームシチュー、カレー、コン
ソメスープが入っている。
494
ペットボトルは六本入りの箱が見えるだけで七つある。
相撲部屋で使うような大きな炊飯器は三つ、それも一度焚いてい
るらしく、大皿に山のような炒飯が盛ってある。
サラダは野菜が山盛りになって、ボール五個分。今回は肉中心に、
とこれでも減らしたほうだろう。
他にも紅花が好きなカニの足が、野菜スティックのようにジョッ
キに飾られていたり、フルーツカービングされた果物がオブジェの
ように並んでいたりした。
そして、極めつけに天井からニートが逆さ吊りにされていた。た
ぶん、つまみ食いした報いだろう。
部屋に置ききれなかった料理や、途中で作り足す材料はキッチン
においてあった。
何食分なんて生ぬるいものではなく、一般家庭何カ月ぶんの食事
だと表記すべき量である。
そういうわけで、さすがの紅花もおなかいっぱい食べることがで
きた。
食べ過ぎて苦しいくらいだ。
若ママは紅花がしっかり食べたのを確認してから、シャンデリア
の横に並んでいたニートを下ろした。
ニートは残り物を泣きながら貪っている。
495
でも、たぶん足りないだろう。うん、つまみ食いしたのが悪い。
紅花がいつ起きるかわからないから、毎日作り直してくれてたん
だと思うと、とてもうれしい。おかげで、度が過ぎた食べ方をして
しまった。
テラスの椅子に座って、夜風に当たる。
星空が綺麗だ。
ちょっとロマンチックな風景なのに、紅花のおなかはぎゅるぎゅ
るなる。さっきお腹いっぱいだったのが、こうして急激に消化して
いく。
質量保存の法則を無視したような、ブラックホール胃袋はこの異
常な消化速度が特徴だ。人間の二倍近い密度を持つその肉体は、維
持に大量のエネルギーを使う。
前に、若ママに不死者の数はなんで他の種族に比べて少ないのか
聞いたことがあった。増やそうと思えば増やせる。そう、紅花が颯
太郎にしたように。
若ママはその質問に、食物連鎖の話で返してくれた。
小さいころは意味がわからなくて、首をかしげていたけど、今な
らわかる。
異常なんだよな。
この不死に近い身体を維持するために必要とするエネルギーが。
496
基礎代謝で成人男性の十倍のカロリーを必要とする。それが激し
い運動や肉体の欠損が増えると、その量は跳ね上がる。
そんな生き物が増えすぎたら、蝗と同じ扱いを受けるだろう。蝗
害、バッタが畑を食べつくすように、不死者もまた食べつくす。そ
して、その力が他種族の比ではない。
でも、その異常な食欲を代償としてでも、不死身の肉体を欲しが
る人はたくさんいる。
それが、今回の事件だった。
食べながらで失礼だったけど、紅花は兄さんに電話した。事の詳
細を聞くのに、一番適しているからだ。
颯太郎は元気みたいだ。メールに何回か入っていた。とりあえず、
面倒なのでスタンプ一つくっつけて返してやった。
古床も元気のようだ。前回と同じように、記憶の処理は終わって
いるらしい。むしろ、記憶に残しておいて、二度と危ないことに関
わらないでほしい。
それにしても、紅花ほどでないにしても、なかなか悪運の強い子
だ。
白い家は全焼した。
そこで見つかったのは、古い骨だけだった。焼けて骨になったも
のとは違い、元から骨だったという。だいぶ傷んでいるが、調べた
結果、中年の男女の骨ということが推定された。
497
それが誰の骨なのか、紅花は想像がついた。
そして、それを苦く思いながら、他に遺体が見つからなかったこ
とをほっとしていた。
ぎゅるぎゅるという腹の音がおさまった頃、紅花は少し身体を慣
らそうと庭にでた。サンダルを履き、軽く家を一周しようと思った。
﹁?﹂
すると、目の端に赤い何かが見えた。
庭の端っこ、煉瓦でできたアーチの横に置いてある。
﹁花?﹂
アザミに似ているが、色はオレンジだ。
﹁⋮⋮﹂
紅花はその名前を知っている。自分の名前の由来が気になって、
ネットで検索してでてきた花だ。
正直、その地味さと、﹃末摘花﹄という異名にがっかりした。
そう、ベニバナだ。
しかし、このベニバナは可愛らしく小さなブーケになっている。
地味に見えたそれもこうやって見れば悪くないと思った。
498
ここいらでは道端に生えているものではなく、花屋でも売ってい
るものじゃない。
どうやって手に入れたのか。
花びらに触れるとまだみずみずしい。
もしかして、紅花の目覚めに合わせておいてくれたのではないだ
ろうか。
ここはリビングからよく見える場所だ。たとえ食事に夢中でも、
五感が人間離れした山田家の住人に気づかれないとは大したものだ。
そして、そんな人物に紅花は一人心当たりがあった。
﹁ふふっ﹂
仕方ない、もらってやるか。
紅花はブーケから一輪、ベニバナを引き抜くと耳にかけた。
そして、少しにやにやしながら、リビングに戻っていくのだった。
499
29、期末テストとスケッチブック
転校して二回め、また休んでしまった。
学校へ来るなり、先生に呼び出され何を言われたかというと。
﹁悪いが、夏休みは補習だ﹂
とのことだ。
うん、わかってた。わかっていたんだ。
ちょうど、休んだ間は期末テストの期間で、それでもって紅花は
それも受けなくてはいけない。
そして、放課後、テストを受けさせられた。
本来なら、他の生徒とは違う問題をつくってからやるらしいのだ
が、紅花に親しい友だちがいないことを理由に、そのままのテスト
問題を配られた。
うん、確かにそうだけど、腹が立つ。
それでもって、普通に休むことなく来ていた古床を見て、恨みた
くなった。
一週間ぶりに入ったお風呂で、ぽろぽろと散弾銃の弾の破片がこ
ぼれ落ちた身にもなってもらいたい。
500
テストも放課後だけじゃ間に合わず、休日返上になった身にもな
ってもらいたい。それでもって監督の先生、ごめんなさい。土曜日、
お世話になります。
憂鬱な気持ちで顔をあげる。
半分くらい勘で書いたテストの答案を先生に渡した。
やっと帰れる。
先生に﹁さようなら﹂と頭を下げて、靴箱へと向かう。まだ、日
は高いので、外では運動部が部活をしていた。
靴に履き替え、つま先をとんとん打ち付けていると⋮⋮。
﹁紅ちゃん﹂
﹁うわっ!﹂
お約束のように、いつのまに颯太郎が立っていた。
﹁心臓が止まるからそんな風に出てくるのやめてくれる?﹂
﹁止まらないでしょ﹂
うん、止まらない。
しかし、むかつくのでぺしっとおでこを叩いておいた。
﹁テスト終った?﹂
﹁明日、あるの﹂
501
﹁教えようか?﹂
﹁やめて﹂
別に勉強は好きじゃないけど、そんなズルをすると、絶対若ママ
が怒るのでやらない。
若ママが迎えに来るまで少し時間がある。
﹁⋮⋮ねえ、あのあとどうなったか教えてくれない?﹂
紅花は気を失ってあれからの記憶がない。兄さんたちにあらまし
を聞いたけど、一番詳しいのは颯太郎だと思う。
﹁⋮⋮逃げたんじゃないかな﹂
ちょっと言い淀んで颯太郎が口を開いた。
颯太郎が話してくれたのはほとんど兄さんが言ったことと一緒だ
った。ただ一つ付け加えることがあった。
﹁あの家の近所におじいさんが住んでるんだけど﹂
ごみ出しとか文句を言っていた偏屈そうな人のことだろうか。
﹁たぶん、あの人がいたおかげで、被害者はあれでも減ったほうだ
と思う﹂
﹁⋮⋮どういうこと?﹂
﹁知ってたんじゃないかな。あの家の住人がおかしいことに﹂
あの一帯は、再開発が失敗したとかで急激に過疎化が進んでいた。
502
でも、何十年も前にいた兄妹のことを覚えている人が残っていた
のだと。
﹁⋮⋮﹂
いっそ一週間前に戻りたい。
そうして、学校をさぼることなく、写生大会にがんばるのだ。た
とえ、現代アートと言われようとも、甘んじて受け入れよう。
そうすれば、きっと紅花は何も知らずに平和に過ごしたのだろう。
颯太郎は一人でもうまくやってくれて、はた迷惑な古床は無事助
け出されるだろう。
﹁⋮⋮紅ちゃん﹂
﹁なに?﹂
颯太郎が少し俯いていった。
﹁僕は、紅ちゃんほど、他人のために身体をはれないよ﹂
﹁!?﹂
紅花の思考を読み取ったかのような台詞だった。
﹁で、でも﹂
井戸でみんなを助けたときは⋮⋮。
﹁骨くらいすぐくっつく。そういう構造だから。でも、紅ちゃんみ
503
たいに死ぬことを前提とした消耗戦はできない﹂
颯太郎の目は、いつものアーモンド形のくりくりとしたものでは
なく、瞳孔が縮まっていた。ゆえにより獣のように見える。
﹁助けられたら助ける。でも、そこに順位があるんだ﹂
可愛い顔して、現実的なことを口にする。
それくらいわかっている。颯太郎にできることとできないことが
あるのだってわかる。彼だって撃たれたら死ぬ、それは十二分にわ
かっていたはずだ。
紅花の血で不死者になろうとも、その不死身の効力は与えた血肉
に比例したものだ。怪我して再生するほどに、その血肉は消費され
ていく。
それなのに、勝手にショックを受けるのは、紅花の身勝手だろう。
﹁⋮⋮ねえ。なら聞いてもいい?﹂
﹁なに?﹂
﹁それなら、最初から誰も助けなきゃいいじゃない? 危ないし、
誰かに感謝されるものなの?﹂
井戸のときといい、吸血鬼のときといい、白い家のときといい、
颯太郎に利益が生まれることはない。肝心の助けられた本人は忘れ
ているくらいだ。
颯太郎はそれに対して、くすっと笑う。
504
﹁それ、知りたい?﹂
﹁なによ、教えなさいよ﹂
余裕の表情をした颯太郎に、紅花はむっとした腕組みをして、つ
ま先をかつかつ鳴らす。
そのとき、携帯が震えた。
着信を見ると、若ママからだった。もうすぐ到着するという連絡
だ。
﹁お迎え?﹂
颯太郎は、首を傾げながら靴を履きかえる。そして、玄関をでて
いく。
﹁ちょっと!﹂
﹁明日、テストが終わったら、うちに来てよ。そしたら、教えてあ
げるね﹂
颯太郎は目を細めると、さっさと出て行ってしまった。
なんなのよ。
そんなのここで言ってしまえば、早いのに。
紅花はむっとしながら、いつもの待ち合わせ場所に向かうことに
した。
505
翌日、テストが終わったのは、午後三時を過ぎたころで、家に帰
りついたのは四時過ぎだった。
﹁ちょっと、お隣さん行ってくる﹂
若ママにそう伝えて紅花は、日高家を目指す。ニャーベラスのミ
ケも散歩に付き合うといわんばかりに、一緒に外に出た。
猫の外飼いはよくないと言われているけど、少なくともミケが他
の獣に襲われたりすることはない。たぶん、クマくらいなら一匹で
倒せるらしい。
ご近所に迷惑をかけているようなら却下だけど、生憎、ここらの
ご近所は日高さんちが一番近く、その次の家までミケの縄張りじゃ
ないから大丈夫だろう。
日高家に向かうと、車は一台もなかった。
猫耳の颯太郎ママは、買い物にでもでかけているのだろうか。他
の家族も帰っていないようだ。
呼び鈴を鳴らすと、颯太郎がシャツに短パンといった実にリラッ
クスした格好ででてきた。
向こうがそんな格好なら、紅花も制服のままで行けばよかったか
なと思った。着替えてしまったものは仕方ない。
﹁紅ちゃん、あそこ。前に土とりに来たときのはなれわかる?﹂
﹁うん﹂
506
﹁外からまわって、ちょっと持ってくるものがあるから﹂
わかった、と紅花は外からまわっていく。
庭には前と変わらずのどかに鶏が草をついばんでいた。
そういえば。
一昨日の鶏の丸焼きを提供してくれたのは、日高家だと聞いた。
﹁やっぱ若鶏は美味しいわ﹂
若ママがおいしそうに食べているのを思い出すが、もしかして、
こいつらの仲間じゃないだろうか、と紅花は思わず観察してしまっ
た。
そういえば、数減っているような⋮⋮。
いや、気にしないでおこうと、離れに急ぐ。
颯太郎は、勝手口から出て来たらしく、サンダルを履いていた。
その手にはスケッチブックを挟んでいる。
﹁ちょっとこっちに上がってて﹂
﹁わかった﹂
颯太郎は、スケッチブックを離れに置くと、一度母屋に戻り、麦
茶とえびせんべいを持ってきた。一応、おもてなしする気持ちがあ
ると、受け取っておこう。
507
﹁それで何なの?﹂
紅花は離れに上がり、座布団の上に座る。
﹁まず、これを見て﹂
颯太郎からスケッチブックを受け取った。
﹁意味わかんないんだけど﹂
そういってぺらぺらとめくる。
最初の一枚は、黒いクレヨンでぐちゃぐちゃになにか描かれてい
た。
次の頁は、クレヨン画だけど、なにか手足のようなものが描いて
ある、動物だろうか。
その次は、クレヨンから鉛筆に進化していた。それでも、何の動
物かまだ判別できない。
一枚、一枚絵が上達しているのがわかった。
絵の下に、日付が小さく描かれていて、そこだけ颯太郎が書いた
ものじゃないとわかる。
三つくらいのころから始まり、それが年に数回の頻度で描かれて
いる。
絵の上達とともに、それが何の動物であるかわかった。
508
﹁これって、虎?﹂
﹁わからない﹂
白い虎だ。いや、実際は白いかどうかわからないけど、少なくと
も白黒以外の色がないため、黄色いかどうかもわからない。
白い虎と思ったのは、おそらく颯太郎のことを無意識に思い出し
たからだろう。
絵はどんどん写実的になっていく。
﹁虎だけど、虎じゃない﹂
二足歩行だ。その骨格は獣のそれと違う。
﹁獣人?﹂
﹁近いと思う。でも⋮⋮﹂
もう一枚頁をめくる。そこには、肉を引き裂かれた人間の姿があ
った。下手に絵が上達しているだけに、妙におどろおどろしい。絵
に恐怖がにじみ出ている。
どこかで見たような気がした。どこでだっただろうか、と紅花は
首を傾げる。
﹁こんな大きな獣人は今のところ見たことない﹂
﹃人﹄というには大きすぎる。引き裂かれた人間を対比して考え
ると、四メートルを軽くこえている。
509
﹃巨人﹄と言われる人たちでさえ、紅花の知る限りでは成人で三
メートルほどだ。
﹁これが何なの?﹂
﹁これが、いつか僕を殺す獣だよ﹂
颯太郎は淡々と言った。
﹁引き裂かれているのは僕、場所や日時、それはまちまちだけど、
僕の最後はすべてこの虎に殺される。これでは、食われて終わる﹂
﹁⋮⋮嘘?﹂
﹁ほんと﹂
何度も夢で見た。
夢で見るたびに、それを描きとめた。
自分がどんな生き物に殺されるか、確認するために。
﹁おばあちゃんがそうしろって言ったんだ。なにか、なにか糸口が
あれば、それを覆すことができるかもって。嫌だけど、夢を見た日
はこうやって忘れないように絵に描くんだ﹂
﹁ちょ、ちょっと待ってよ! アンタも獣人でしょ! それに、半
分くらい不死者なんだから、そう簡単に⋮⋮﹂
それを聞いて、紅花はハッとなった。
いま、颯太郎は﹁食われて終わる﹂といった。
510
それは⋮⋮。
﹁安心して。殺されることには変わりない。食われて終わるように
なったのは、この日からだよ﹂
そう言って日付を見せる。
日付は、紅花が颯太郎を不死者にした翌日だった。
﹁この日の夢で、ようやくこの虎に傷をつけることができた。それ
でも、致命傷には程遠かったけど﹂
﹁⋮⋮﹂
紅花はスケッチブックの最初の一枚を見る。
こんな小さいときから、彼は自分が殺される恐怖と戦っていたの
だろう。
﹁最初は怖くて仕方なかったよ。だから、おばあちゃんに相談した
んだ﹂
﹁うん﹂
﹁そしたら、なんでもいいから手がかりを探せって。助かることに
最善を尽くせって﹂
﹁うん﹂
紅花は同意した。同情じゃない。紅花もまた、彼と少し違う形で
自分の死期を悟ることができる。そこに、自分が不死者である要素
があるぶん、いくらかマシだろうが。でなきゃ、発狂していただろ
う。
﹁この虎が何なのか探すけど、見つからない。お父さんの書斎の中
511
にそれらしきものはないんだ。母さんだって知らない﹂
そう言って、颯太郎は床に置いてある本をめくった。﹃虎人﹄と
書いてある頁を開くが、颯太郎の絵とはかなり雰囲気が違う。
あれ?
これって?
﹁⋮⋮獣王﹂
ふと口にした。
以前、一度だけ定期健診の際、見た絵に似ていることを思い出し
た。
﹁獣王?﹂
﹁えっと、知らない?﹂
﹁うん、それっぽいのはあったとおもうけど﹂
そういえば、どこか遠回しに言っていた気がする。誰だったろう
か、あのとき、教えてくれた研修医は。
﹁⋮⋮めん﹂
紅花が首をぶんぶん振りながら、思い出そうとすると、ぼそりと
小さな声が聞こえた。
﹁なに?﹂
﹁⋮⋮ごめん﹂
512
なぜ颯太郎が謝るのだろうと紅花は思う。
﹁なんで?﹂
﹁だって、僕がやっているのは、結局打算だから﹂
人助けじゃない。それを助けることで、自分の経験値が増える。
未来を変える要素を増やしているだけにすぎないと。
﹁だから?﹂
﹁だからって言われても。紅ちゃん、僕のこと助けてくれたのも⋮
⋮﹂
﹁いや、あれはあれ﹂
別に、助けなくていいならしたくなかったけど、仕方なかった。
しなかったら、それはそれで後悔していただろう。
彼が言いたいのは、彼が善人だから紅花が助けてくれたのではと
いうことだろう。
﹁⋮⋮ねえ、私が善人しか助けないとかいうタイプだったら、古床
さん、もう三回死んでるんだけど﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁そういうのやめてくれる? らしくなくて気持ち悪いわ。いつも
どおり小魚かじってなさい﹂
そういって紅花は麦茶を飲んで、えびせんべいを颯太郎の口に突
っ込んだ。
﹁そんなに罪悪感あるなら、もっと私を敬いなさいよ。私、麦茶よ
り紅茶が好きだし、おせんべいよりクッキーが好きなの﹂
513
﹁⋮⋮えんひょひまふ︵善処します︶﹂
口いっぱいにえびせんべいをつっこまれたまま颯太郎が言った。
﹁それから、あんまりいきなり後ろから現れないで。びっくりする
から﹂
﹁了解﹂
﹁それと⋮⋮﹂
紅花は少しにやっと笑う。
﹁ちょっと、耳触らせて﹂
そう言って、紅花は颯太郎の身体を倒すと、ふにふにの耳を触っ
た。
それでもって。
﹁⋮⋮う﹂
﹁なに?﹂
﹁なんでもないから!﹂
耳を引っ張ると、颯太郎は大人しくなった。
紅花はふんっと鼻を鳴らすと、庭の端っこを見た。
そこにはほんの少しだけ、申し訳程度にベニバナが植えてあった。
514
PDF小説ネット発足にあたって
http://ncode.syosetu.com/n2012cq/
獣王の息子
2016年7月12日11時51分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。
515
Fly UP