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南陵高・校長室通信 第93号 7月31日(金)
南陵高・校長室通信 第99号 9月16日(水) 公開授業~南陵高校の授業⑯ 田上先生の世界史~隋の煬帝の授業を紹介します 7月1日(水)は4時間目、5時間目に公開授業を、6時間目 に学年PTAの交流会を実施しました。 公開授業では私も駆け足で各学年の授業を参観しました。そ の様子はこの『校長室通信 91~93 号』の中で紹介しています。 この日は 1 時間目小瀬木先生の英語(1 年 6 組)、2 時間目は喜多 村先生の国語(1 年 4 組)、3 時間目は田上先生の世界史(2 年 6 組)の授業もそれぞれ参観しました。 その中で田上先生の世界史の授業を紹介します。 ※ ※ ※ ☆ 生徒の答案用紙 私が 2 年 6 組の教室に入った時に田上先生は生徒に中間考査の解答用紙を返却していました。前時に間違いを正 して再提出させた解答用紙を返却していたのです。解答用紙の最後に次のような設問がありました。 設問 特別サービス設問 全部終了したら記入して下さい。札幌夏祭りに行きましたか。お祭りの思い出を自由に描いて下さい。 解答して時間に余裕のある生徒に対するボーナス問題です。 さて、授業の冒頭、次の発問がありました。 発問 はい、今、解答用紙を返却しました。皆さんの中でテストが好きな人いますか?手を挙げて下さい。 クラスのほとんどの生徒が挙手。笑い声あり。 説明 「テストを始めたのは皆さんの敵ですね。このおじさんで す。」と顔写真のコピーを黒板に貼り付ける。 「皆さん、この絵を皆さんの部屋に貼って、つぶやいて 下さい。よ う け ん なことしやがって・・・ 『楊堅』といいます。一人目は楊堅、少し親父ギャグが 入っていたけれど。もう一人の人物は『煬帝』。 隋は 581 年に興り、589 年に中国統一を果たし、それか ら 618 年に滅びるまで 29 年存続します。 発問 説明 ☆ 「楊堅」のカラー写真を掲示 煬帝。火偏です。後世の人々は「火であぶる残虐な奴」と言った。では何をやったのか? 「ここにもう一人の人物を貼ります。隋と言えばこの人は 誰ですか? 聖徳太子。最近の研究ではこの人物を聖徳 太子とは誰も言いません。知らないおじさんです。皆さ んは中学時代にどう習ったのかな? 校長先生も私もこ の人は聖徳太子と習ったけれど。その時代から怪しかっ た。」 「『笏』って何?カンニングやりやすくする物。帽子は 奈良時代のファッション。 もっと言えば、聖徳太子は存在 しなかったとも言われる。だけど一つだけ憶えてほし ☆ 続いて「煬帝」「聖徳太子(?)」 いのは 607 年に日本から隋に使者を送っている。小野妹子は存在する。」 (以下次号) 南陵高・校長室通信 第 100 号 9月16日(水) 公開授業~南陵高校の授業⑰ (前号より続く)「今日の授業のポイントは二つ」簡潔に「疑問形」で提示。 発問 説明 「日出ずる処の天子」って誰のことだろうか? 天皇? 「そう推古天皇。」 発問 それでは「日没する処の天子」って誰のことだろうか? 説明 「煬帝のことだ。さぁ、煬帝は怒った。小野妹子は殺され てもおかしくなかった。しかし、殺されないで戻って きた。」 ☆ 小さな工夫が施されている 発問 今日のポイントは二つ。1 つは煬帝はどんな残虐なことをやったか? 2つ目はなぜ小野妹子は 生きて戻ってくることが出来たか? 説明 「煬帝の前の楊堅は北朝の出身。均田制を受け継いだ。府兵制をひいた。戦争の時だけ兵士とな る。煬帝はその楊堅を殺して帝位を奪ったとされている。プリントの裏を見て下さい。」 説明 「中国には 3 つの大河がある。黄河、淮河、長江の 3 つだ。煬帝はこの 3 つを繋げたいと思った。そこ で 15 年で 1500 ㎞の大工事を行った。突貫工事であった。」 発問 なぜこんな工事をやったのだろうか? Aさん、南と北はどちらが豊かだろうか。 指名された生徒は「南」と答える。 豊かな南から北へ何を運ぼうとしたのだろうか? Bさん、どうだろう? 発問 生徒は「米を運ぼうとした」と答える。 発問 この運河は北から南へ流れていただろうか、南から北に流れていただろうか。どちらだろうか? 何人かの生徒は「南から北」と答える。 説明 「そうだ。では帰りはどうしたのだろう。帰りはみんな で北から南の方へ引っ張っていった。さぁ、そうする と煬帝がなぜ恨まれたのかがわかってくる。大運河の 建設のせいなんだ。」 説明 「もう一つ、煬帝はとんでもないことをした。黒板の地 図を見てほしい。中国のここら辺に高句麗という国が あり、そこと戦争をやった。高句麗へ隋は 100 万の兵 を送った。対する高句麗は賢かった。都のみ防御を ☆ 運河建設を地図で説明 固めた。補給路を断つ。隋の兵士は数万しか帰ってくることがなかった。煬帝は3回の兵を送る。民 衆は戦争に行きたくないから身体の一部を切り落とした。大変なことをやった。 発問 身体の一部とはどこだろうか?左手首の下を切り落としたんだ。それはなぜか? 生徒の一人が「武器を持てなくなるから」と答える。 (以下次号) 南陵高・校長室通信 第 101 号 9月16日(水) 公開授業~南陵高校の授業⑱ (前号より続く) 説明 臨場感のある語りで生徒の興味を引き付ける 「そうだ。残酷だけれど、槍をもてない。弓を引けない。だから戦いに行かなくて済む。若者は身体の一 部をこうして切り落としてしまった。それでも煬帝は戦争に行けという。すると若者はもう1カ所を切り 落としたという。右足首を切り落とす。これを『福手福足』と言った。これで、いかに煬帝が残虐な人 物と言われるか分かったと思う。」 説明 「さて、もう一つの疑問についても話を進めよう。これまでの説明から小野妹子はなぜ、殺されなかった のかが分かってくる。彼らが隋に行った時とはこのように大運河と高句麗出兵をやっている最中だった。 彼らは殺されずに、しかも隋からの使者を同行し、さらに土産までもらって日本に帰ってきた。煬帝と してもこれ以上、戦線を広げたくなかったのではないかと推測できる。遣隋使はこの後、遣唐使として 続き、多くの留学生が日本から中国に渡っていった。そのことを語るために当時中国で行われた科挙に ついてみてみよう。」 発問 当時の中国では娘の嫁入り道具に何を持たせただろうか? Bさん、何を持って行くだろうか? 生徒B「お金」と答える。他の生徒は「指輪」「タンス」「鏡」という。 発問 お金であればどの位の金額だろうか? 100 万円? 女の子だったら何を持って行くだろう? 包丁のような台所のもの? 説明 「実は鏡なんだ。もちろん鏡は何をするためか。身だ しなみを整えるためだ。プリントの写真を見てほし い。この鏡の裏には『五子登科』という文字が刻ま れている。ある願いが込められている。」 「『子宝に恵まれ、科挙に受かりますように』という ものだ。では科挙とはなにか。受かると書物の中か ら千石の米を得ることが出来るという。その他にもプ ☆ この鏡の裏には・・・ リントにあるように『黄金の家 車馬 玉のような美人』も手に入るという。」 指示 説明 当時どんな風潮だったのだろうか。科挙の試験に受かることが富、地位を得る近道ということ を理解しよう。ではプリントを読んでもらいます。 NとMさん (読む部分は省略) 「このように科挙とは受験制度のこと。様々な試験 が課せられる。問題が配られて、数日間かけて解 く。今日は疲れたな。すこし寝る。休む。それか らそろそろがんばるか。 好きな時間に解く。お 腹すいたら炊事の用意もできる。」 「その内、夜になる。試験場の中の明かりが見える と不安になって焦りだしてがんばる。中には気が 狂う、発狂する者もいたという。さらに言うと当 時も不正を行う者がいた。カンニングだ。カンニ ング防止のために身体検査も行われた。試験の倍 率は 100 倍にもなったという。」 ☆ 復元された科挙の受験会場の写真を提示 (以下次号) 南陵高・校長室通信 第 102 号 9月16日(水) 公開授業~南陵高校の授業⑲ (前号より続く)科挙に挑戦した日本人がいた 「科挙を受験するのは簡単。 暗記の得意な人であれば 発問 受かること出来る。この教科書を丸々暗記するんだ。D 君、何年がんばれば憶えられるだろうか? 生徒は「8 年・・・いや 1 年」と答えた。 説明 「ではどんな問題か。例えば『「教科書 89 ページの上か ら5行目の三つ目の言葉を答えよ。』というような問 題だ。もちろん的確な引用と自分の解釈も求められる。 ☆ 1 日 200 字憶えて、6 年かかる 暗記だけではダメだが 暗記できればこれほど強いものはない。」 「当時のテキストは四書五経。四書は、『大学』『中庸』『論語』『孟子』だ。五経は、『詩経』『書経』 『礼記』『易 経』『春秋』だ。 文字数にして 43 万 1286 字 1 日 200 字憶えても 6 年かかる。」 皆さんが 6 年前は何年生でしたか? 生徒は「小学生」「小学 5 年生」と答えた。 説明 「小学 5 年生、その時から今日まで 1 日 200 字ずつ憶えておかなければならない。中国では3歳から毎日 勉強して 21 才で最年少で合格したという例もあるそうだ。実は日本人でもこの最難関の試験に挑戦し、 合格した人がいる。この時から百年ほど後の唐の時代のことだ。阿倍仲麻呂が 19 才で遣唐使として唐へ 渡り、27 才で科挙試験に合格している。」 「中には何度も科挙の試験を受け続け、人生を無駄にしてしまうこともあったといわれている。今日はこ こまで」 編 集 後 記 ①田上先生は授業の際に、小道具を沢山持って行きます。まず、歴史上の人物の顔写真。しかもカラ ー写真です。今回は『楊堅』『煬帝』『聖徳太子』でした。 ②教科書や資料集にも同様の写真が掲載されていて、そのページ数を指摘するだけでもいいかもしれ ません。しかし、生徒にとっては、田川先生の話を聞きながら、黒板に顔写真が掲示される方が注 目度は高まります。わずかな違いかもしれませんが、その違いを軽視しないで準備に余念のない姿 勢に共感します。 ③同様に「日出ずる処の天子」「日没する処の天子」の言葉も貼り付けました。教科書に記載されて いる言葉です。黒板に貼られているので集中して見てしまう。「生徒の顔を下に向けさせない。教 師の話を顔を上げて聞いてほしい」そのために集中力を切らさないための工夫なのでしょう。 ④黒板の右側に白地図を吊しています。いつでも地理上の位置を確認できます。発問「北と南のどち らが豊かか」「運河は北から南に流れていたのか。」という発問も真剣に考えることができました。 ⑤とかく歴史の授業は歴史的事項を羅列しがちです。本時のポイントを分かりやすく2つに絞り込ん で提示しました。「1 つは煬帝はどんな残虐なことをやったか?」「2つ目はなぜ小野妹子は生き て戻って来たか?」疑問文の形なので生徒の興味は途切れません。原因と結果の関係、国内政治と 外交の関係がよく理解できるのではないでしょうか。 ⑥「科挙」のエピソードは臨場感と意外性に富む内容で私も引きこまれました『福手福足』の話しも 含め、歴史に翻弄される当時の人々の見方、考え方を知る上で興味が尽きない話です。教材研究の 深さを感じます。詳しく紹介できませんがプリントも工夫され構造化されていました。