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Title Author(s) Citation Issue Date Type ロシアの伝統文化における女性 坂内, 徳明 一橋論叢, 108(4): 611-627 1992-10-01 Departmental Bulletin Paper Text Version publisher URL http://doi.org/10.15057/12380 Right Hitotsubashi University Repository ロシァの伝統文化における女性 坂 内 徳 明 う一枚岩的なタームで理解して安心しきっていたこと、 究がソビエトの杜会と文化という対象を全体主義とい けておかなけれぱなりません。それは、タイトルの中 いわぱ単眼的視点でしかとらえ、てこなかったことを自 一、私の話のタイトルにつきあらかじめ留保条件をつ の﹁ロシア﹂、﹁伝統﹂、﹁文化﹂、または、このワークシ 会の研究老は、﹃ゴルバチヨフ現象﹄︵一九八八年、日 であります。モーシュ・レーヴィンというソビェト杜 チ目ン.マークをつけなくてはならない、ということ 関してです。実は、これらすべての言葉には、クエス とになります。﹁プレジネフが眠っている間に﹂とい った言葉の限界性がはっきりと浮かぴあがってくるこ けですが、こういう際にこそ、﹁杜会﹂や﹁文化﹂とい 会の重層性を杜会学の立場から再考察しようとするわ ヴィンは、いま一度、一九三〇年代からのソビェト杜 己批判しております。そしてこの点から出発してレー ︵1︶ 本語版は﹃歴史としてのゴルバチヨフ﹄荒田洋訳、同 う箇所に、言葉・イメージと﹁実像﹂.とが知らず知ら ヨツプ全体のタイトルにある﹁杜会﹂といった言葉に 年、平凡杜︶という薯書で、﹁この国は、ブレジネフが ずの間にズレていったことが的確に表現されています。 われわれのソビエト杜会にたいするイメージがはっき 眠っている間に杜会革命をなしとげた﹂というあるジ ャーナリストの言葉を引いて、これまでのソビエト研 611 回シアの伝統文化における女性 (95〕 第108巻第4号 平成4隼(1992年)1O月号 (96 橋論叢 りと固定化し、その表象が﹁神話化﹂にまでおよんだ ものが、現実の進行の中でものの見事にくつがえされ、 そのすべてがわれわれの予想を裏切るはるかに急速な ケース・スタデイであります。 ︵1︶ かつて、一九二〇年代末における﹁集団化﹂を素 材としてソビエト杜会の﹁形成﹂の容態を記述したレ ーヴィン︵邦訳﹃ロシァ農民とソヴェト権力 集団 化の研究、一九二八−三〇﹄未来杜、一九七二年、原 著は、一九六六年︶であるからこそこうした視点が可 スビザドでもって破壊されつくされ、そしてその破壊 が今なお続行している現在の状態では、﹁伝統﹂とか、 能であったと思われる。 ﹃スラブ研究センタi研究報告シリーズニニ﹄︵一九九 亮平﹁親露と排露ーシャファレーヴィチを中心に﹂ ︵2︶ 親露と排露をめぐる最近の論争については、安井 ﹁ロシア的﹂などといったタームが安定したイメージ をもたらさないことは当然でしょう。ロシア的なるも ︵2︶ 集﹃交錯する言語﹄︵名薯普及会、一九九二年︶。 一年︶、同﹁親露と反露﹂新谷敬三郎教授古稀記念論文 の、をめぐって、ロシア人自身がはげしい議論をおこ しかもこのことは、つねに潜在化している問題である た意味をまったく持っておりません。むしろ、この女 せんが、女性史研究者ではない私にとっては、そうし 題は、通常は研究史のレベルの問題となるかもしれま まれなかったと言って間違いではありません。この問 いう意識そのものが、こく最近にいたるまでほとんど生 置くとするならば、ロシア・ソ連では、女性史研究と 二、女性史研究とは何か、という間題を便宜的に別に ないつつあることは、その十分な証拠となるものです。 ことを考慮しなけれぱならないと思います。 したがって、私のかかげたタイトルの中でただひと つ﹁明確﹂なのは女性だけであるということになりま すが、これも、﹁女性的﹂とか、﹁らしさ﹂とか、﹁女性 原理﹂といった文化的言説のレベルになれぱ、同様の 議論が必要となることは言うまでもありません。私の 話は、こうした点をふまえながら、﹁伝統﹂﹁伝統文化﹂ や﹁ロシア的﹂といったものが何なのかを考察するた めの、ロシア文化における女性を素材としたひとつの 612 性史研究が誕生しなかったという事実そのものの中に 存在する意味をまず最初に考えてみたいのです。 むろん、すぐ反論が予想されるので、指摘しておき ますが、例、んぱソビエト期にあっては、女性革命運動 家思想家を中心とした伝記的・思想的研究は数多くあ りましたし、これに比べれぱ絶対的に少数とは言え、 ︵1︶ 現実のソビエト杜会の中での﹁女性問題﹂を契機とし た反体制的な女性解放運動とそれをアビールする文書 も存在しました。さらに、回シア革命以前にさかのぼ ︵2︶ るならぱ、例えぱイヴァン・ザベーリンによる﹁日常 生活誌﹂の中で、階層としては皇族であれ女性に視点 を置いたモノグラフや、K・アヴデェーエヴァ、アグ ︵3︶ レネヴァ“スラヴヤーンスカヤ、アレクサンドラ.エ フィメーンコ、セミ目ーノヴァ咀チャン⋮シャーンス カヤといった自らも女性であった人々の﹁民族学・民 ^4︶ 俗学的﹂な仕事もありました。しかしながら、それら は、時期的にはばらつきを示しながらも、全体として は数も少なく、﹁女性史﹂の視点をもちえなかったこと は、。たんなる時代的制約の問題ではないと思われます。 ﹃ロシア文化概論﹄︵二二−一五世紀を扱った二巻︵一 さらには、モスクワ大学の責任編集によるシリーズ 九七〇年︶をはじめとして、一六世紀の二巻︵七七 年︶、一七世紀の二巻︵七九年︶、一八世紀の四巻︵八 五−九〇年︶︶は、ソビエトの歴史学研究の総力を結集 したとしても閻違いではなく、しかも﹁文化史﹂とい う問題設定ゆえにかなり﹁自由な﹂構想と成果を含む ものとして、たんなる概説・啓蒙書の枠を越えて注目 すべき仕事ですが、ここには、章として﹁女性文化﹂ が立てられていないのはやむをえないとしても、全体 ︵5︶ として女性への視点がきわめて稀薄なのです。このこ とは、歴史学から民族学・民俗学へと視野を移してみ ても、あまり変化はありません。本来、対象として家 族や女性.子供に多くの注目を向けるべきこれら分野 でも、最近まで、﹁公式的な﹂家族理論と男女関係論の 中で、﹁女性文化﹂への基本的視角を持つモノグラフは ︵6︶ ほとんど存在しないといった状況でありました。 こうしたロシア.ソビエトの状態にたいして、それ にあたかも反比例した形で、アメリカにおけるロシ 613 ロシアの伝統文化における女性 {97〕 橋論叢 第108巻 第4号 平成4年(1992年)10月号 {98 ア・ソビエト女性史研究の動向は実に活発で、華麗で さえあります。それは一九七五年にスタンフォード大 学で、翌一九七六年にイリノイ大学で開催されたシン ポジウムに起点をみることができます。これらのシン ポジウムの成果は、それぞれ﹃ロシアにおける女性﹄ ︵スタンフォード、一九七七年︶と﹃帝政ロシアの家 族﹄︵イリノイ、一九七八年︶と題された論文集にまと められましたが、例えば前書の編者のひとりである D・アトキンソンによる巻頭論文が、きわめて広範な 視野と多様な問題を提起していることが示すとおり、 まさしくひとつの時代の幕開け宣言として考えること ができるものです。ここで、アメリカの研究史を詳し ︵7︶ くフォローはできませんが、このシンポジウム以降ご く最近のB・クレメンツ他の編になる﹃ロシアの女 性﹄︵カリフォルニア大学出版、一九九一年。 一九八八 年のアクロン、ケント大学でのシンポジウムの成果で ある︶までの展開には、羨望さえ感じさせる勢いがあ ります。杜会史・家族史的な視点からのD.ランセル ﹃苦難の母親。ロシアにおける孤児﹄︵プリンストン、 一九八八年︶やC・ウォロベツク﹃農民のロシア。農 奴解放後の家族とコミュニティ﹄︵プリンストン、一九 九一年︶、神話学・民俗学的な女性論としてσJ.フ ヅブス﹃母なるロシア。ロシア文化における女性神 話﹄︵ブルーミングトン、 一九八八年︶などをあげれ ぱ、そこでいかに多くの問題の展開がなされているか が十分納得できます。 そして、おそらく部分的には、こうしたアメリカ、 ならびに西欧でのロシア女性史研究の動きに触発され た形で、あるいは、それとはあまり関わりなく本源的 な発生とみえる形で“例えば、N・プーシュカレヴァ ﹃中世ロシアの女性たち﹄︵モスクワ、 一九八九年︶や T・ベルンシュターム﹃一九−二〇世紀初頭ロシア農 村共同体の儀礼的生活における若老﹄︵レニングラー ド、一九八八年︶、M・グロムィーコ﹃シベリアのロシ ァ農民の労働伝統﹄︵ノヴォシビールスク、一九七五 年︶や﹃一九世紀ロシア農民の伝統的な行動のノルマ と交際の形式﹄︵モスクワ、 一九八六年︶、N.、、、ネー ンコ﹃西シベリアのロシア農民家族﹄︵ノヴォシビール 614 スク、 一九七九年︶にみられるような、以前のロシア 研究にはなかった新しい視点の提起がロシアでおこな われつつあることも指摘しておかねぱなりません。 しかし、話をもとにもどして、ロシア・ソビエトに あってはごく最近にいたるまで﹁女性史﹂をめぐる間 ったことそれ自体が、ロシア文化における女性にたい 題の所在が自覚されず、その研究伝統が形成されなか する視点をめぐるひとつの間題となっていると思われ るのです。そのことの意味をいくつかの具体例をとり あげてみて私なりに考えてみたいというのが、今日の 話です。 ︵1︶ この点での最近の集大成的モノグラフは、R・ス ︵2︶ T・マモーノヴァ他編﹃女性とロシアーソ連の しい側面をみせてくれるはずである。 女性解放運動﹄︵亜紀書房、一九八二年︶。日本人のリ ポiトとして、鴨川和子﹃ソ連の女たち﹄︵すずさわ書 草脅房、一九八三年︶。ただし、マモーノヴァには﹃ロ 店、一九八O年︶、秋山洋子﹃女たちのモスクワ﹄︵動 シア女性研究﹄︵オクスフォード、一九八九年︶と題さ れたエッセー集があり、いわぱ、解放運動と女性文化 の﹁撤退﹂、﹁転向﹂だろうか? 史との﹁架橋的﹂仕事と考えられるが、これはひとつ 庭生活﹄︵モスクワ、一八六九年︶、また、N・コスト ︵3︶ 1・ザベーリン﹃ニハー一七世紀ロシア皇后の家 マーロフ﹃ニハー一七世紀大ロシア人の家庭生活と習 俗概観﹄︵ペテルブルグ、一八六〇年︶にみられるよう に、一八六〇年代にいわぱ﹁生活史﹂﹁風俗史﹂的な視 ︵4︶ K・アヴデェーエヴァ﹃新旧ロシア風俗覚書﹄︵ペ 点が生まれたことは注目すぺきである。 ズム、ニヒリズム、ボリシェヴィズム、 一八六01一 テルブルグ、一八四二年︶。0・アグレネヴァ・スラ ヴヤーンスカヤ﹃ロシア婚礼の記述﹄︵モスクワ、一八 タイテス﹃ロシアにおける女性解放運動−フェミニ 九三〇年﹄︵プリンストン、一九七八年︶。また旧来の 五〇1六〇年代のロシアにおける女性問題﹄︵レニン グラード、一九八四年︶のような総括的な仕事が生ま 八七−八九年︶、A・エフィメーンコ﹃民衆生活研究﹄ ﹁女性史﹂としてソビエトでもG・チーシュキン﹃一八 れている。両老とも﹁伝統的﹂なアプローチをとって ルグ、一九〇七年︶。 ン・シャーンスカヤ﹃”イヴァン“の生活﹄︵ペテルブ ︵モスクワ、一八八四年︶、0・セミ目ーノヴァ・チャ いるが、後述のように、読み方次第によって問題が新 615 ロシアの伝統文化における女性 (99〕 平成4年(1992年)10月号 (100〕 第108巻第4号 一橋論叢 ︵5︶ ただし、B・ロマーノフ﹃中世ロシアの人々と習 俗﹄︵モスクワ、一九四七年︶には、例外的に、女性へ の視点がきわめて明確なかたちで現われている。 ︵6︶ むろん、K・チストーフ﹁一九世紀農民家族研究 の運営法、家庭経営のノウハウをまとめたものとして 貴重な資料です。革命後は永らく刊行されませんでし たが、最近、ロシアでもテキストの校訂も新たにされ て出版されていますし、﹃ロシアの家庭訓﹄というタイ ︵1︶ トルで日本語訳︵新読書杜刊︶もあります。一五−一 の資料としての北ロシアの泣き歌﹂︵一九七七年︶、同 ﹃イリーナ・アンドレェヴナ・フェドソーヴァー文 六世紀に、おそらくは男性聖職老が編んだとされるこ や料理、交際の仕方などといった生活倫理の指針を詳 の信仰の在り方にはじまり、日々の家事全般、しつけ の家政書は、同時期の都市住民、特に中流階層の人々 化史的概観﹄︵ぺトロザヴォツク、一九八八年︶といっ た民俗学的な仕事、V・アレクサーンドロフの﹃一八 −一九世紀初頭ロシアの農奴農村の慣習法﹄︵モスク ワ、一九八四年︶や後述のミネーンコ、グロムィーコ 細に記したものです。そして、ここには、現代にまで ら﹁シベリア学派﹂による農民生活誌的仕事、さらに は、都市住民の生活誌として、L・セミ目ーヴァ︵一 そのまま受け継がれてきた、男女の関係、特に夫婦の は、料理、客のもてなし、使用人のしつけ、そして無 られてきました。すなわち、家庭にあって妻たるもの 在り方の原型が実に明確に描きだされている、と考え 九八二年︶やMニフビノーヴィチ︵一九七八、八八年︶ のモノグラフはあった。 ︵7︶ アメリカにおけるロシア女性史研究の動向につい ては、後述のプーシュカレヴァのモノグラフの第五章 論のこと、夫たるものへの態度においていかに考え、 =一、一五世紀からニハ世紀にかけての時期に成立した が、パンの焼き方、ジャムなどの保存食の製造法、家 ものぞいて、こらんになれぱ、すぐお分かりと思います であるというのです。具体的には、そのどのぺージで に詳しい。 と考えられている﹃ドモストロイ﹄は、文字どおり、 行動すべきか、という精神論・行動論の厳格な要求書 その表題が示しているように、中世ロシアの家.家庭 616 ます。一例をあげます。しかもこれは、最もシ目ヅキ まごまと指南の言葉が全編にわたって並べたててあり の中の掃除や整理整頓、手芸や裁縫の仕方など実にこ に私自身の観察でもうなづけることであります。夫婦 文学のさまざまな描写、最近の杜会学的な調査、それ に寛容に許し、男性に﹁仕えてきた﹂ことは、ロシア とらえかたがこれまで一般的に通用してきました。 女性観として近代から現代へと展開してきた、という 生して固定し、これが﹁中世的な﹂ロシアの男女関係、 り、貞淑で柔順に仕えるロシァ女性の原像がここで誕 像の提唱の書である、いわばロシア版﹁女犬学﹂であ イ﹄とは、男性の側からの理想的家庭像、良妻・賢母 したがって、こうした記述をもって、﹃ドモストロ らな い 、 と さ れ て い ま す 。 とを聞かぬ時には夫がこれを打ちこらしめなけれぱな い子供や召使はこれを妻・母が打つべし、妻が言うこ とについてであります。そこでは、言うことを聞かな くにはどうすべきか﹂に記された、妻を殴るというこ す。それは、第三八章﹁家の中を清潔に、整頓してお の縁の下の女性の力でしか成立してこなかった、とい ア.ソビエト杜会は、まさしく女性のふんばりで、そ カに次ぐ第二の離婚大国になってきたとはいえ、ロシ とんどが女性の側からの異議申し立てによってアメリ 悲鳴を必然的に生み出してきたとはいえ、そして、ほ 六九年一一月号︶に痛切に描かれているような女性の 二年。ソ連での発表は﹃ノーヴィ・ミール﹄誌の一九 スカヤの﹃一週問は一週問として﹄︵自馬書房、一九七 もちろん、そのことが、例えばナターリヤ・バラーン ﹁英雄的﹂としか呼ぴようのないものでもあります。 のしつけや教育に関心をうしなわない姿は、ほとんど け、乏しい材料を最大限の工夫で見事に調理し、子供 ながら、台所をぴかぴかにし、家の中をきちんと片付 目に、しかもますます﹁女性化﹂していく夫を背負い 共稼ぎの中で、家事にはほとんど期待できない夫を後 たしかに、近代・現代のロシア女性が、男性からの うのが、私の素朴ながらも直観であります。とすれぱ ングに思えるものですので、あえてあげてみたいので 過剰としか恩えないような要求と甘えを無制限なまで 617 ロシアの伝統文化における女性 (101〕 平成4年(1992年)10月号 (102 第108巻第4号 橋論叢 そのがんぱりのルーツはどこにあったのか、と問う時 これを﹃ドモストロイ﹄の全ぺージにみちあふれた、 自分は、そして自分と同世代の友人にだってできるは に尽くしてもらいたいのはやまやまだけれども、あま ﹁封建的﹂だ、となりますし、男性ならぱ、こういう風 ずない、だから、こうした要求をするロシアの男は その説明をもとめることは、一般に歴史的説明が持つ りにそれにこだわれぱ嫌われる、まあ、現代はもう少 念仏の、ことく繰りかえされる﹁期待される女性像﹂に 説得力ゆえに、そのまま受け入れられるかのようにみ し﹁民主的﹂であってもいいか、といったことになる でしょう。こうした反応が実感的であることはやむを えます。 ︵1︶ ﹃ドモストロイ﹄の最近の版は、V.コーレソフ編 えないかもしれませんが、﹃ドモストロイ﹄をひとつの たり読む老にとっては異文化のものと考えられます︶ けではありません。本来、テキストとはそれを享受し 異文化テキスト︵ロシアだから異文化といっているわ による二つのものがある︵﹁ソビエト・ロシア﹂社、一 九九〇年、﹁芸術文学﹂杜、一九九一年。前老には現代 語訳が付いている︶。さらには、現在の﹁混乱﹂の中で として読み返すならば、先に紹介したような分かりや ひとつの﹁救い﹂をここに求めようとするV.ピロポ フ﹃ドモストロイは間違っていたのか?﹄︵モスクワ、 度ていねいに考え直してみなければいけません。﹃ド の中でひとつの犬きなモチーフとして存在してきたも つは、この﹁妻を殴る夫﹂という問題は、ロシア文化 ﹁妻を殴る夫﹂について少し考えてみたいのです。じ そのひとつの例証として、やはりさきほどあげた すい歴史的説明では説得力を持ち得ないと思います。 一九九二年︶のような小冊子も出版されている。 四、しかしながらそうした説明は、非常に素朴にわれ モストロイ﹄に連綿と続けて述べ立てられる﹁すべき のであります︵この﹁野蛮な﹂風習は古代スラヴ以来 われ後世の者の感覚にはいってくるからこそ、もう一 こと﹂は、ただちに時代と文化を越えて、現代日本の あったもので、タタールの支配下でさらにこの粗暴さ 、 、 、 、 女性の読者ならば、こんなにたいそうできつい二とは 618 1103) ロシアの伝統文化における女性 が妻を懲らしめる光景も、昔話で、そしてまたルボー 時に﹁意地悪な﹂妻を﹁教え導く﹂かのように、男性 らに昔話に定着してきました。そしてこの﹁愚かな﹂、 特に後老は、主として風刺的・世俗的文学作品に、さ 的に﹁愚かな妻﹂のイメージとが広く登場しますが、 世文学作品には、﹁賢い妻﹂のイメージと、それと対照 が助長されたといった乱暴な一説すらあります︶。中 なった、というものであります︵S・ヘルベルシュタ みてきぴしく折橿したところ、夫婦仲はますますよく に叩かれたことがないからだという。そこで、折りを もたらした、その訳はというと、結婚以来、一度も夫 ていたが、妻は夫の愛情がまだまだ足りないと苦情を シアの女と結婚をした、いたって仲むつまじく暮らし それによると、モスクワに住むドイツ人の鍛冶屋がロ してすますことのできぬ側面があるように思えます。 文脈からみますと、この記事の著老は、ロシアの女性 イン﹃モスコーヴィヤ覚書﹄一五四九年︶。その前後の クと呼ぱれる民衆版画で好まれて描かれてきました。 こうした光景は、そのひとつひとつのイメージの中味 とその時代的変遷をていねいに点検していかねぱいけ ほどやわらかくなり、妻は叩けぱ叩くほどやさしくな る打郵にまつわる諺には、﹁毛皮の外套は叩けぱ叩く 主観的意図を越えて、女性が殴打を愛情の表現として てこの一節を書いたと言えます。しかし、その薯者の な﹂境遇にあることを書き記したいという意図でもっ たちが﹁粗暴で野蛮な﹂ロシア男性に支配され、﹁悲惨 る﹂﹁女房はなぐると、それだけスープはおいしくな いることは、この記事のコノテーシヨンをより深いも ないのですが、ひとつの事例として、この妻にたいす る﹂とあり、そのままストレートに読めば、あるいは のとしていると考えることができます。殴打は即﹁封 じつは、﹃ドモストロイ﹄の﹁叩け﹂としている箇所 のではないでしょうか。 建的﹂﹁野蛮﹂という図式をいったん壊さねぱならない 聞けぱ、どうも、殴ることを正当化するかのようで、 ロシァ男性の形勢はますます不利になるようにもみえ ます。しかしながら、ある外国人が紹介するひとつの エピソードには、単純に、殴ることイコール封建的と 619 平成4年(1992年)10月号 {104〕 第108巻第4号 一橋論叢 には、くりかえし言葉でもって諭せ﹂、そして、叩く際 ﹁罰する前には、事前にくわしく調査せよ﹂、﹁罰した後 責任感を発揮していることは、むしろ驚異的なのであ からすれぱ、これほど家庭と杜会の全体に目配りをし、 女性が行動することになるわけでしょうが、男性の側 執行面では、男性の意思に﹁服従した﹂かっこうで、 い関心は、どのように説明されるでしょうか。現実の には細心の注意でもっておこなえ、打つ場合は鉄や木 ります。 にもどってその前後をていねいに再読してみると、 のものではいけない、叩く場所についても耳や目はダ の巻としての﹁男大学﹂ではなかったのか、と思われ その監視項目のチェヅクリストとして、女性指導の虎 は言うまでもありません︶にたいする、家事ならびに の書がいかなる読老を想定したものか、が大事なこと いのです。それは、もう一〇年以上も前にはじめてソ あえて偏見を恐れずに自分の観察の様を紹介してみた の口実だと罵られるかもしれません。しかしながら、 は男性ゆえの合理化だ、自身の願望を正当化するため えていたとしても﹁強かった﹂と述べたならぱ、それ 五、ロシアの女性は、たとえ、夫に殴られてじっと耐 については論じられていない。 な資料を提供してくれるものの、ここで提起した側面 裁判例をていねいに検討していて、この問題への貴重 演技老か?﹂︵一九九一年︶。ただし、一九世紀後半の 才ロベソクの前掲書、さらに、同じ彼女の﹁犠牲老か ︵1︶ この﹁妻の殴打﹂の問題を論じたものとして、ウ メ、心臓のあたりはダメ、足蹴はいけないというかた ちできわめて厳しく指定しているのです。﹁愛と誠実 さをもって﹂とあるのは編老の主観的な願望であると しても、くりかえして、言葉で納得しあうよう最善の 努力をするように、とあることは、この文化テキスト ^1︶ を読む際にきわめて重要な点であります。 この指南書は﹁女大学﹂だとされてきた、とさきほ るのです。そうでなければ﹃ドモストロイ﹄における ど言いました。しかし、むしろ私には、男性読者︵こ 家事のこまごました細目にたいするあれほどまでに強 620 連へ行った際の素朴な印象です。モスクワの地下鉄の 座席にすわって前の席にすわっているロシア人たちを じろじろ眺めた時、ここはやはり、女性の国だなと直 観しました︵じつは、今回の話をしようと決断したの もその時の直観が思いかえされたためなのです︶。日 本の同様な場面では、通勤で疲れているとはいえ、何 といっても﹁繁栄﹂をもたらした﹁自信にあふれる﹂ 男性と、その﹁庇護﹂のもとで﹁余裕ある﹂女性とい う像が生まれるとすれぱ、ロシアでは、自信なくうち しおれた男性と、それをにらみつけるかのように厳し く硬い表清の女性たち、という光景が目の前にありま した。彼女たちは、じっと空をみつめるか、または、 分厚い本の活字に目を食い入らせているか、いずれに しても、唇をかみしめている姿は、悲壮な感さえ与え るといったならぱ、言い過ぎでしょうか。しかし、そ れは同時に、自分の信念を貫きとおそうという﹁強さ﹂ を強烈に印象づけるのです。 こうした女性の強さは、一方では異教的な﹁母なる 湿った大地﹂という言葉に示される大地信仰と、他方 では、キリスト教的な聖母マリヤ崇拝︵それは、﹁聖母 が︶とによりながら、ロシアの文化史の大きな背景を の地獄巡り﹂と題された外典での信仰も含むのです 形作ってきました。このことは、また、ロシァの﹁魔 女﹂の存在を考えてみますと納得できるものと思いま す。ロシアの魔女と言えば、昔話でよく知られたバー バ.ヤガー︵ヤガー婆さん︶がおります。鶏の足の上 に立つ小屋に住み、骨の一本足で、ホウキならぬ臼に 乗って空を飛ぴ、森を行く人々に悪戯をしたり、助言 を与える存在です。その生ポ生きした活動ぶりとさま ざまなイメージ、人々との関わり方についてはここで 詳しく述べることができませんが、ここでこうした表 象を生み出した源泉となったであろう﹁実際の魔女﹂ について興味深いデータがあるので紹介したいのです。 ﹁魔女狩り﹂裁判に関する事例を、古文書の詳細な調査 一それは、アメリカのV・キベルソンという歴史家が によって明らかにしたものです︵これは、先程紹介し た一九九一年に刊行された論文集﹃ロシアの女性た ち﹄に収録されています︶。そのデータによりますと、 621 ロシアの伝統文化における女性 (ユ05) 1106〕 橋論叢 第108巻 第4号 平成4年(1992年)10月号 呪術師のレッテルを張られて裁判にかけられた老の中 での女性の割合は、ロシアでは三〇バーセント台でし た。具体的に言いますと、一六二二−一七〇〇年の ﹁ロシア﹂の事例では、九三人対四三人で女性は三ニバ ーセント、モスクワの北東三〇〇キロメートルの町ル フの一六五四−六〇年の事例では、一六人対九人で、 女性は三六バーセントとなります。そしてこれは、ヨ ーロッバの場合の平均値と大きく異なっているという のです。もちろん、ロシアでも地方差や時代差があり、 このことは、ヨーロヅバについても同様でしょう。し かし、もしこのデータをそのまま使わせてもらうなら ば、ロシアでは﹁魔女狩り﹂が発達しなかったと言え ないでしょうか。女性のバワーの残存が二のことを生 んだのか、それとも逆に、﹁魔女狩り﹂が発達しなかっ たから﹁強い﹂女性の文化が伝統として形成されてい くことになったのか、にわかには判断しにくいのです が、私としては後老であると考えます。森に代表され る自然が中世以降、近世まで残り、それがヤガー婆さ んの小屋を残し続け、そこに住む魔女は、たとえ恐怖 の対象になることがあったとしても、根本的な敵とし て捕縛されたり、抹殺されたりすることはありません でした。森にたいする自然崇拝的感情と、そして大地 への地母神的崇拝と畏敬の念が長い間そこなわれなか ったロシアでは、そうした心性が魔女に代表されるグ レート・マザーたるロシアの女性たちにバワーをもた ^1︶ らし続けてきたのではないでしょうか。 ︵1︶ この間題にふれたものとして、中井久夫﹁ロシア という現象﹂﹃分裂病と人類﹄︵東大出版会、一九九二 年︶。 六、こうした中世から近世にかけての﹁強い﹂女性の 文化がいかに、いつ頃、変容していったのか、それは 大きなテーマなので、私の仮説だけ述べておきます。 それが犬きく転換していくのは、おそらくは、一八世 紀後半から末にかけての時期であったと思います。ひ とつだけ、例をお話するならぱ、ニコライ.カラムジ ーンという作家の﹁哀れなリーザ﹂︵一七九二年︶とい う短編小説があります。ロシアでおそらく最初の散文 622 小説として記念碑的な作品です。筋書きは、リーザと いう百姓娘が貴族の若者と恋仲になるが、裏切られて、 池に身投げする、といった、こく単純な悲恋物語です。 センチメンタリズムの宣言的な代表作品として、また、 一般庶民の悲哀を正面から扱ったものとして、さまざ まな評価が可能でしょうが、私はここに、女性を﹁哀 れな﹂弱老として見るというひとつの﹁近代的﹂な観 点が成立したのではないかと考えております。カラム ジーン自身は、むしろ﹁開明派﹂で、言葉についても ﹁平易な﹂﹁わかりやすい﹂ロシア語が彼の作品を生み 出しました。しかし、彼のロシア語﹁平準化﹂が、女 性の言葉への﹁蔑視﹂を含んでいたことは重要です。 同時代人で彼とは立場を異にする、例えぱノヴィコー フのような﹁啓蒙主義的リアリスト﹂が、﹁民衆語﹂へ もどろうとする女性たちにたいして﹁ロシァ語をだめ にする﹂と非難していたことを考えあわせると、ひと つの時代としての一八世紀末にかけて、女性観にとっ て犬きな転換が生じたのではないでしょうか。 そして、この時期から約半世紀をかけて、一八五〇 −六〇年代になって女性﹁問題﹂が発生していくこと になるのです。弱者として﹁哀れむべき﹂女性が、い わば沈黙を迫られていったかにみえる時代状況は、こ の一八世紀末から一九世紀半ぱまでのロシア文学の誕 生期に、いわゆる女性作家がほとんど登場しなかった ︵1︶ ことにひとつの根拠が求められています。しかし、は たしてそうでしょうか。文学という概念それ自体をき わめて狭いものとした場合には、そうした言い方はで きるでしょうが、制度としての文学がいまだ確立しえ ていなかったその時代には、もう少し広い文学像を考 えねばならないでしょう。口承文学の作者・演者とし ての女性が﹁発見﹂されはじめていったのがこの時期 であったことは、たんなる偶然ではありません。﹁民 衆作家﹂たる女性の存在の確認は、﹁強い﹂女性像の再 発見のプロセスであった・かもしれません。 性作家﹄︵レニングラiド、一九八九年︶のような仕事 ︵1︶ M.フアインシユテーイン﹃プーシキン時代の女 も生まれている。また、B・ヘルト﹃恐ろしき完成 −女性とロシァ文学﹄︵ブルーミングトン、インディ 623 ロシアの伝統文化における女性 {107〕 平成4年(1992年)1O月号 (108 第108巻第4号 橋論叢 アナポリス、一九八七年︶ も参照。 七、一般に昔話や民謡に代表される口承文学作品の伝 承老に女性が多いことはよく知られています。そのこ との意味は別にすれば、ロシアでもこのことは同様に 言えるのですが、そうした女性伝承老の中でも、フェ ドソーヴァというひとりの泣き女はある意味で特異な 位置を占めております。 ロシアには、口承文学の作品の中に泣き歌という一 ジャンルがあります。葬式、婚礼、そして、徴兵とい った三つの別離・人生サイクルでの重大な節目の移行 を歌うものとして、北と南で若干の特徴の違いはある のですが、広くロシアで発達しました。泣き歌という と、ただ泣きわめくための断片的なものを想像される かもしれませんが、大叙事詩を思わせる長犬な歌詞を ともなうのが特徴で、現代の民俗学老の算定によれぱ、 テキストによっては、歌い終わるためには早口でも二 時間、普通の速さではその二、三倍の時間が必要なも のもあると言います。歴史的には、文献上で一八世紀 末にそのテキストが断片的に記録されていますが、間 接的資料によると、中世のかなり初期に存在していた ことが分かっています。一二世紀の﹃イーゴリ軍記﹄ に登場するヤロスラーヴナの﹁嘆き﹂にその証拠を見 る研究者もおりますし、死老を悼んで泣くという、一と で言えば、さらに時代をスラヴの古代にまでさかのぼ ることも可能でしょう。いずれにせよ、長い歴史の中 でひとつのジャンルとしての形式と内容を備えて一九 世紀後半に民俗学老や一部の注目の対象となって文献 の上でその存在が確定されることとなります。ついで に言えぱ、今世紀にはいっても、例えぱレーニンの死 の際にこの泣き歌が作られ、歌われていますし、北ロ シアでは一九六〇年代までこの歌の伝統が確実に残っ ておりました。 . こうした泣き歌の歴史にとってフェドソーヴァの存 在、あるいは、彼女の存在を見出だし、その作品と才 能を確認したことの意味は絶大なものがあります。お そらくは、彼女の泣き歌が記録されなかったとしたら、 このジャンルそのものが自立したものとならなかった 624 (109〕 ロシアの伝統文化における女性 歌を覚えて人前で披露していたといいます。もっとも、 記憶力が良かったので、二一、三歳の頃には、多数の 女として幼い時から働き、文字は読めませんでしたが、 三一年に、現在のカレリヤ共和国の一寒村で、二二人 ^1︶ からなる大家族の農家に生まれました。四人兄弟の長 イリーナ.アンドレェヴナ・フェドソーヴァは一八 といっても過言ではありません。 ブルが次々に設立されていくブームが起こっていたの で開催されたり、合唱団や楽器演奏・舞踊のアンサン 年代には、いわゆるフォークロア伝承者の公演が都市 り、ロシア各地で公演することになります。一八七〇 を完成したのです。これによって、彼女の名声は広ま 二四のテキストを採集し、全三巻からなる﹃泣き歌集﹄ のない拙会いによってでした。彼は三年をかけて、一 スビレーシ冨ンを得て自分の作品にそれを利用したの ですが、その中で彼女も三〇回ほどの公演したとされ 方々からお声がかかって出掛けていた、ただし、それ です︵例えぱ、歌手のシャリャーピンは彼女の公演を その土地ではこうしたことはごく一般的で、若い女性 は婚礼のみで、葬式と兵士送りには自分の意志で行っ 実際に聞き、回想記にそのことを記していますし、リ ています。泣き歌の存在は同時代のインテリに圧倒的 た、と彼女は語っています。おそらく、そのままでは ームスキイ・コールサコフは歌を聞き取って採符して の﹁たしなみ﹂だったようです。彼女のレバートリイ 彼女の存在は土地の歴史の中で忘却されてしまったか、 います︶。彼女の家庭生活について言いますと、一九 な衝撃をもたらしました。文学者や音楽家の多くが実 記憶されたとしても、その地方の﹁ローカリテイ﹂の の時、六〇歳の寡夫と結婚、二二年の結婚生活のあと には、泣き歌も含まれていて、﹁泣き女﹂としての名声 中にしかとどまりえなかったでしょう。彼女が﹁泣き 死別、翌年再婚、この二番目の大工だった夫とも二〇 際に彼女の歌を聞いたり、歌の言葉や歌う場面にイン 女﹂として﹁中央﹂に知られるのは、一八六五年、E・ 年の生活後の一八八四年に死別しております。出産の はその郷里とその周囲では早くから広まっていました。 バールソフというひとりの人物との偶然としか言い様 625 平成4年(1992年)1O月号 (110 第108巻第4号 橋論叢 す。すなわち、両者の対決と衝突、そして長の逮捕、 民の代表として立ち上がる長との確執を歌ったもので 亡くなりました。 投獄、釈放と死といった事件の連続を描いたものです。 経験はありませんでした。彼女自身は、一八九九年に ︵1︶ 彼女の生涯とその時代的背景、さらには、泣き歌 あるいは、﹁村の書記にかんする泣き歌﹂では、一八六 歌われていますし、﹁稲妻に打たれて死んだ老の泣き ﹁黒いカラス﹂が﹁疫病神﹂として舞い上がった光景が 〇年代後半の北ロシアを襲った飢饅の中で、地中から の収集作業とそのテキストをめぐる諸間題については、 ロシアの民俗学者キリル・チストーフの仕事︵民衆詩 人フェドソーヴァ﹄一九五五年、ならびに前掲書︶に 詳しく論じられている。 めて激しいかたちで描き出されております。こういっ 歌﹂では、歌い手が持つひとつの天罰.運命論がきわ た例はじつに多いのですが、これを非常に皮相な意味 での﹁風刺﹂と考えるのでは不十分であると思われま 八、彼女の生涯のごく簡単な概観によっても、それが す。むしろ、女性という、ある意味でほとんど完全に ロシアの農家の﹁典型的な﹂女性のものであったとい うことがわかります。特にここで問題としたいのは、 そ、見ることが可能であるような農村共同体の変質と ﹁杜会﹂から取り残され、放逐された老であるからこ 彼女の歌った泣き歌におけるひとつの特徴のことであ 表現できるものです。具体例をあげましょう。 崩壌の過程を表現しえた、その意味ですぐれた﹁杜会 ります。それは、;冒で言うならぱ、﹁杜会性﹂とでも バールソフが一八六七年に聞き取り、一八七〇年に 性﹂を獲得したのではないか、と私は考えるのです。 りました。しかも、一八−一九世紀の徴兵制の完備の 民女性は文字文学とはまったく無縁な生涯を送ってお フェドソーヴァがそうであったように、ロシアの農 雑誌に発表した作品として﹁村の長にかんする泣き 歌﹂と題されたものがあります。これは、当時、農奴 解放後の﹁新たな﹂農民管理と支配のために、調停の 名目で中央から派遣された役人と、それにたいして農 626 下では、夫ないし男は兵役に出掛けれぱ、終身、ない し二五、一五年は戻つてこない︵一八七四年以降、六 年となった︶状況では、取り残された女性は、たんな る労働力としてぱかりではなくて、村共同依の生その ものにとって欠かせぬ存在として﹁強く﹂ならざるを えなかったのでした。そうした、﹁残された﹂老たちだ ︷1︶ けがその村コ、、、ユニティの事件や出来事を記憶・記録 し、証言し、場合によっては告発しなけれぱならなか iソフの﹃デカブリストの妻﹄、そして、アンナ・アフ マートヴァの﹁レクイエム﹂、回想の形式を取っている とはいえ、アンナ.ラーリナの﹃夫ブハーリンの思い 出﹄︵和田あき子訳、岩波書店、一九九〇年︶、ナデェ ジタ.マンデリシュターム﹃流刑の詩人マンデリシュ ターム﹄︵木村浩、川崎隆司訳、新潮杜、一九八O年︶ は、はっきりとひとつの系譜を形作っているのです。 ︵1︶ 兵士の妻ないし寡婦のフォークロアというテーマ は、この意味で、きわめて重要である。B・ファーン ズワース﹁兵士の妻−フォークロアと裁判記録﹂﹃ス ったのです。そして、そうすることでかろうじて支え られている人々の関係こそが﹁杜会﹂として再確認さ ラヴィヅク・レビュー﹄四九−一︵一九九〇年︶、R・ ︵一橋犬学教授︶ 論文集﹃ロシアの女性たち﹄︵一九九一年︶に収録。 ボナツク﹁寡婦とロシアの農奴コミュニテイ﹂、後者は れるものであるはずですし、その際に﹁伝統﹂がひと つの試金石となるはずだと思うのです。 その意味で、ロシアの文学にはいかに多くの﹁取り ﹃イーゴリ軍記﹄のヤロスラーヴナにはじまり・ネクラ 残された女性﹂の声がみちみちていることでしょうか。 627 ロシアの伝統文化における女性 (111)