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建設現場から大工が伝えたいこと
「建設現場 か ら大 工が伝 えたい こ と」 高橋 雅春 論文要 旨 初 めに 、私 が全 建 総連公募 論文 に応 募 させ て い ただ い た動 機 を述 べ る。 それ は私 が 大 工 で 、全 建 愛知 の組合員 で あ るか らだ。 そ して このたび の公 募 にお い て 、 た とえば建 築 史 を研 究 してお られ る方 が 第 二 者 的 に 、公 平 、 中立 な視 点 で 持 論 を展 開 され る こ とは あ っ て も、職 人 が 自分 た ち の業界 の こ とを論 ず る こ と は 、 まず 、 な い だ ろ うと思 っ たか らだ 。 しか し、建設 現場 を一 番 よ く知 っ て い る職 人 が応募 す るこ とには十分 に意 義 が あ るはず 、 と私 は考 える。 建 設 職 人 以外 の方 の 時事判 断 の方 が 実相 に近 い で あろ う し、将来 の 展望 につ い て も優 れ た提 言 が な され る こ とだ ろ う。 そ こで 私 は 、重複 しない で あ ろ うと 思 われ る別 の切 り口か ら、私 た ち の現場 の描写 を試 み た。 私 は雲 の上 の既 得 権益 な どは知 らな い 。 また 、それ を ここで 論 ず る こ とは場 違 い で あ ろ う。 反 封 に業界 の底辺 の こ とは 、少 しは知 っ てい るつ も りだ。蟹 工 船 とま で は い か な く とも、資本 家 に よる労働者 か らの搾 取 とい つ た こ とと同様 の こ とも確 か にあ る。 私 が伝 えたい こ とは 、 しか しそ うい うこ とで もな く、大 工 技 能 の継 承 につ い て 現役 の大 工 が どの よ うに考 えてい る のか 、 とい うこ とだ。 宮 大 工 の世界 を知 らな い 私 には僣 越 な こ とだが 、少 な く とも江戸 時代 以 降 の規 矩術 と象矢 上 の 技 能 の継 承 に 、現在 黄信 号 が灯 つて い る事態 を、 ジ ャ ンル ② の 「日本 の建設 労働 (建 設 労働 者 。職 人)の 軌跡 と今 後 の 展望 」 にお い て 、 なん とか 言語 化 して み よ うと考 えた。 百年 に一 度 とい われ る この大不況 の 中、職人 が どの よ うに して食 っ て い くか 、 とい うこ とも切 実 な問題 で あ る。 技能 の継 承 には 、安 定 した生 活 が 前提 で あ る べ きだ。少 数 派 か も しれ な い が 、私 の 仲 間 の 大 工 さんた ちは 、私 と似 た よ うな 考 え を持 っ てい る。 全建 総連 に 関 わ る人 の 中 で も、職 人 以外 の 方 に も是 非 、理 解 してい ただ きた い 。 昨年 11月 29日 付朝刊 記者 の視 点 にお い て 、伝 統木造構法 につ い て 素晴 らし い 記事一 ① を掲載 され た朝 日新 聞社 の方 た ちに も知 っ て い ただ きた い。私 の組 合 仲 間 が一 生懸 命 、誠 実 に仕事 を して い るそ の 実情 を 、 きちん と調 査 され た上 で それ で も尚、 中建 国保 につ いて 主張 したい こ とがお あ りな らそ うされれ ば い い。 あ の記 事 の よ うな、公 正 な取材 を期待 す る。 私 に文 才 が あれ ば所期 の 目的 を達す る こ とが 出来 る の だ ろ うが 、 な にぶ ん無 学 な大 工 な ので 、思 うこ との 半分 も文字 と して 表 現す る こ とが 出来 なか っ た。 この稿 を読 まれ る方 に 、私 の本意 をお 察 しいただ け るこ とを祈 る。 目次 は じめに ・ Pl 規 矩準縄 P3 四千年 前 の貫穴 P7 帰化人 と建 築 の意 匠 P ll 日本 の建設 産業 の未 来 P15 不器 用 の一心 と 「皮膚 兎」現象 ● ● ● ● ● 0● 三 階建 て木造住宅倒壊 実験 ● 0● 職人 の 自立 と後糸 匹者 の育成 ● ● ● ● ● ● ● ● ●P24 最後 に ●●●●●●●●O ● ●P18 ●●●●●O P22 P29 参 考 文 献 目次 論 文要 旨 ● ● ● ● ● ● ● ● ●P31 規 矩準縄 ● ● ● ● ● ● ● ● ●P31 四千 年前 の貫 穴 ● ● ● ● ● 0● 帰化人 と建 築 の意 匠 ● ● ● ● 0● 日本 の建設 産業 の未 来 0● ● ● 0● 0● ● ● ● ● ● ● ●P41 ● ● ●P36 0● ●P39 職 人 の 自立 と後継者 の育成 0 0 4 4 P P 不器 用 の一 心 と 「皮膚 兎」現象 最後 に ● ●P33 は じめに 昨年 の 10月 18日 、静 岡県湖 西 市 にあ る 日蓮宗別 格本 山妙 立 寺 にお い て 、鬼 子母神祭 が あ つ た 日の こ と。 お寺 に母 を迎 えに行 っ たが 早過 ぎた らしく、本 堂 か ら読経 の 声 が 聞 こえて くる。 私 は鐘 楼 脇 の長椅子 に座 って 、鬼子母神祭 が 終 わ る の を待 つ こ とに した。 ご年 配 の農 夫 風 の 方 が 来 て こん に ちは と隣 に座 り、「あ なた は技術者 で しょ う ?」 と話 しか けて きた。 私 は 、「技術者 とい うよ り、技 能者 です。職 人 で す か ら。 」と答 えたのだが 、何故 そ う思 われ た の か興 味 がわいたので 、率直 に質 問 し てみ た。 す る と、顔 に出て い る と仰 る。「あなた は 、 いい 顔 して るね え― 。 」も ちろんお世辞 だ とは思 う。 技術 (技 能)者 の顔 とい うものが どん な顔 な のか 、私 は知 らな い 。 自分 がそ の 意 味 でいい 顔 な のか ど うか も当然 判 らな い 。 しか し、大 工 とな っ て三 十年経 つ と、大 工 の よ うな顔 にな っ て くる もの な の だ ろ うか。 こ う して 自然 に会 話 が 始 ま り、鬼子母神 祭 が 終 わ るま での 四十分程 、それ は 続 い た。 そ の方 は あ る 目的 が あ つ て 、 全 国 の社 寺 を調 べ てお られ る との こ と。 そ の こ とと関係 は な い が 、 四 国 人 十 人 ヶ所 は 、全 て 歩 い て巡 られ たそ うだ。 日 本史 につ い て造 詣 が深 く、そ の他 話題 は多 岐 に亘 り、私 は母 を迎 えに来 た こ と も忘れ そ うにな るほ ど、そ の方 の お話 に聴 き入 つて しま っ た。 今 度 はそ の 方 自身 に興 味 がわい た ので 、 どん なお 仕 事 を され ていた のか 聞 い てみ た の だ が 、初 めにお 百姓 と思 っ た の は私 の 思 い 違 い で あ っ た。 以前 は大 学 の先 生 、東京 大学や 防衛 大学 で も教鞭 を とられ たそ うで 、退官後 現在 は 、道徳 教 育 につ い て文 科省 か ら依頼 され て い る仕事 がお あ りだそ うだ。 お名 前 は 、松 平 さん。 松 平家 の 末裔 で あ る こ とに誇 りを持 つ てお られ る と、 私 は素直 にそ う感 じて しま った。 この妙 立 寺 は松 平家 との縁 が深 く、永禄 11年 (西 暦 1568年 、以 下西暦 略)、 酒 井 忠次 に よっ て今川 氏 の宇 津 山城 が落城 した戦 い にお い て は 、松平元康 (家 康 )の 本 陣 が置 かれ た。銅 板葺 き の本 堂 の軒先 には 、 三 つ 葉奏 の 紋 が並 んで い る。徳川 家 の家 紋 が二 つ 葉葵 とな っ た 経緯 も教 えて い ただ い た。 松 平 さん が仰 っ た こ とで 、 た い へ ん勉 強 にな っ た こ とが あ る。 うま く言葉 で 表現 出来 な い が 、“現場原 理 主 義 "と で もい える もので あ った。どん な仕 事 で も、 現場 が一 番 重 要 だ とい うこ と。 教 育既場 も建 設 現場 も同様 、机 の上 で 考 え る よ り、 とにか く現場 に 出 る。 現在 、松 平 さん の現場 は 日本 全 国 の社 寺 で あ る。 ご 自身 の仕 事 には 、 スー ツ は必 要 な い とい うこ とだ。 私 は 、本 当 には現場 を知 ら な い 現場 監督 や 、評 論 家 の よ うな設 計者 を何 人 も見 て きた の で 、 全 くそ の通 り だ と思 い なが ら聴 い ていた。 私 はごく普通 の象笑 土で、中学卒業後五年間、親方 の家 に住み込んで修行 し た。年季 が明けてか ら、い くつ かの建築屋で勉 強 し、一人親方 も経験 した。今 は地元 の工務店に社員大工 として勤務 してい る。三十四年前に建築 の門をたた い たが、その門に入 ったか ど うかの ところにいる。未だ堂 には上がれてはいな い。 この全建総連公募論文 のテーマ は『 明 日の建設産業』 とい う、私 にとって非 常に難解 なものである。それ で も私は大 工であるので、一人 の大工が現場を通 して思い得 たものを、 ここに論 じていきたい。 規矩準縄 私 た ちが造 っ て い る建物 の起源 は 、 どん な ものだ っ た の だ ろ うか。 漢字研 究 家 伊東信 夫先生 の『 白川 静 著『 宇統』 『字通』準拠 成 り立 ちで知 る漢 字 の お も しろ世 界』 よ り、家 に 関係 す る漢字 か ら見 てみ よ う。― ① 占 (ベ ン) 「占 」 は 日本 で は 「 うかんむ り」 と言 われ るが 、 これ は 両屋根 の あ る建 物 の形。多 くは祖 霊 を祀 る宗廟 (み たま や )を あ らわす 。 つ ま り、 これ は普通 一 般 の住居 をあ ら わす もので は な い。 庁 (ゲ ン) 断崖 につ く られ た穴思 住 宅 。 そ の 崖 にか け られ た 片屋 根 の形。 古 くはそ の よ うな所 も聖屋 で あ った。 穴 (ケ ツ) 断崖 に掘 っ た横 穴 の 穴居住宅 の入 り口の形。なお、「入 」 も住居 の入 り口の形 で ある。 (カ ン・ ゲ ン) 「 山 の崖や水辺 の岸 の形。 そ の崖 に横 穴 を掘 って 、そ こ に穴居 住 宅 を つ くる。「穴」 はそ の 住 居 の入 り回の形 。 なお 、「○・ 顔 。①」 な どの 「F」 の部分 は人 間 の額 を あ らわす 。 (難 解 な字 もあ り、変換 出来 な い字 は○ とした) 「占 」 を使 つ た字 で一 つ だ け、「安 」 とい う宇。 安 (ア ン) 「安 」 は 「占 」 と 「女 」 の組 み合 わせ 。「卜 」 は祖 先 の 霊 を祀 る廟舎 (み たまや )の 屋根 の形。「安 」 は 、嫁 い で きた新妻 が 夫 の 家 の祖 廟 にお参 りす る形 。 そ の こ とに よって 、新 妻 の 生 活 が 平穏 で 安 泰 (や す らか)で あ る こ とが保証されるのである。一② 白サ│1静 先 生 の研 究 に よ り、考古学 と 白川 文字 学 とが相倹 つて 、古代 中国 の建 物 につ い て 考察す る こ とが可 能 とな っ た。 そ して 当時 の 人 々 の 生活 が祈 りと共 にあ つ た とい うこ とも理 解 出来 る。 古代 ギ リシャの歴史家ヘ ロ ドトスの『 歴史』に、エ ジプ トはナイルの賜物 と い う意味の記述 がある。一③ 川 を制す るものは世界を制す ともいわれた。政治 の治 めるとい う漢字 がさん ずい なのは、政治 がまず治水 か ら始まってい るか らだ、 とい う考 え方 もある。 『 字統』で、治 とい う字を調べ てみる。 【 治】 形声 声符 は台 。 台 に春 の声 が あ る。 台 は雑 の形 で あ るム に祝詞 を収 め る器 の形 で あるU(さ い )を 加 え、 相 を祓 い 清 め る儀 礼 を示 す。 治 は水 を治 め る儀礼 を い う字 で あ ろ う。 〔 説 文〕十一上に川 の名 とす るが 、 も と治水 の 義 で 、 それ よ り 理 治 の意 とな り、 官治 、政治 の意 とな っ た。一 ④ メ ゾポ タ ミアな どで約 二 千 五 百年 前 に出現 した 青銅 器 が東漸 、それ か ら二 千 年 後 に ヒ ッタイ トで生 まれ た鉄 器 が 青銅 器 を追 うよ うに急速 に伝 播 す る。鉄器 が青銅器 に取 つて 代 わ るまでが青銅器 時代。東洋 史学者 宮崎希茫先 生 の『 中国 古代 史論 』 に よる と、東 に行 くにつ れ 青銅 器 時代 は短 くな り、 日本 には 、それ らは ほぼ同時 に伝 わ っ た。一 ⑤ 金 属製 の農 具 は農 作業 よ りも、 む しろ治水 に威 力 を発 揮 したで あ ろ う。 治水 が 成 功すれ ば農 業 生産 高 は飛 躍 的 に上 が り、余 rllが 生 まれ る。 もち ろん人 口 も 増 加 し、次第 に原 始共 同社 会 が形 成 され てい く。 余茉J生 産物 を交換 しあ うこ と で 、経 済 。流通 の原 型 が 出来 る。 私 の 岳父 の趣 味 は縄 文遺跡 な どの発 掘 で あ る が 、発 掘 現場 か ら、そ の地域 には絶 姑 にな い 物 が 出土す る とい う話 を聞 く こ と もあ る とい う。 日本 の建 設 労働 につ い て 考 え る前 に 、 日本 の建 築 に影 響 を与 えた 古代 中国 の 土木 ・建設 につ い て 、少 しだ け考察 して み た い。 夏 王 朝 の始祖 とい われ る高 は 、帝 舜 か ら司空 (日 本 の 国 土交通 相 か)に 任 ぜ ら れ 、洪 水 を治 めた とされ てい る。 漢 字 が生 まれ る以前 、古代 中国 の 青銅 器 時代 初期 で あ る。 私 は古代 中国 の 帝 と治水 につ い て 、以下 の よ うに考 えて い る。 治水 に携 わ った者 の 中で 、 よ り力 の 強 い者 が一 つ のム ラの お 山の 大将 とな り、 数個 のム ラ の発 展 、衝 突 、 さ らに発 展 を経 て クニ らしくな ってい く。 そ こで 何 人 か の お 山 の大 将 が淘 汰 され る。 もち ろん 、 お 山 の大 将 の一 例 と して 、邪 馬 台 国 の女 王 卑 弥 呼 の よ うな、 シ ャー マ ン的能力 の あ る人物 もい たか も しれ な い 。 そ して ク ニ 同 士 の発 展 、衝 突 、発 展 が進 む うち、 よ り大 きなお 山 の 大将 の 交替 が 、規模 が大 き くな りつつ 繰 り返 され てい っ たのでは な いか 、 と。 古 代 中国 で は 、人望 の あ る土 木 技術者 が 次第 に強 い 権 力 を持 ち、周 囲 の クニ を併呑 して つ い には 帝 にな っ た 、 とい うこ とが しば しば あ っ た の で は な い だ ろ うか 。 そ の記 憶 が後 に帝 の禅 譲 と して理 想 化 され 、史書 に記 録 され た ので はな い か 。禅 譲 とは名 ばか りで 、実態 は放伐 だ っ たか も しれ な い 。 私 は 、夏 王 朝 に 至 って政権 が安 定 し、帝位 は世襲 とな っ た 、 と考 えてい る。 司馬遷 の 史記 に よる と、 高 の 父親 蘇 は帝尭 の 時代 に治水 工 事 に失敗 して 舜 に 殺 され て しま う。 そ して天 下 の 人 々 が 舜 の行 為 を是 と した とあ る。一 ⑥ 史記 編纂 の た めの取材 にお い て 、司馬遷 が読 んだで あろ うどこかの史料 に 、 “ 是 "と わ ざわ ざ記録 され て い た。 これ は 、 か えって 何 らか の政変 ・ 権 力争 い と関係 が あ る とい う想 像 を持 たせ て しま うよ うに も考 え られ る。 舜 は尭 の禅 譲 に よ り、 次 の 帝 となってい る。 そ の 次 の帝 が 高 で あ るが、司馬遷 の描 く萬 は 「・・・ 準 縄 を左 に し、規矩 を右 に し、四時 を載 ひ 、以 て九州 を開 き、九道 を通 じ、九澤 を 践 し、 九 山を提 る。・・ ・ 」― ⑦ とあ り、 これ はま さに、土木 ・ 測量技術者 、若 し くは、土方 の親 方 の 姿 で はな い か。 (「 」 内は引用部 分 、以下 同様 ) 規 矩 準縄 を正す とい う、大 工 の心 構 え と して の言葉 が あ る。 そ の規 矩 準縄 の 出典 は孟子 の よ うだ が 、「・ ・・聖人既 に 目の力 を掲 く し、 之 に継 ぐに規矩準縄 を以 てす 、以て牙 薗学置 を蒲 る こ と、用 うるに勝 うべ か らず 。・ 。・ 」一 ① の聖 人 を、 高 の こ とと解 して も、意 味 は通 る。 夏 王 朝 は伝 説 の王 朝 と考 え られ てい る し、実在 した と して も、 とて も帝 国 とい え る よ うな もの で は なか っ たはず で あ る。一 ③ しか し伝 説 とは い え土方 の親 方 が天 下 を取 り、後 には孟子 に聖 人 と称 え られ てい るか も しれ な いの だ。 近 年 の 中国社会 科学 院考 古研 究所 と西 安 市文 物保護 考 古研 究 所 の 阿房 宮考 古 チ ー ムの発 掘調 査 に よる と、阿房 宮 の前殿 遺 跡 の版 築基礎 部分 の規模 は 、東 西 1270メ ー トル 、南北 426メ ー トル 、面積 は 54万 1020平 方 メー トル あ る。また、 阿房 宮 の前殿 遺跡 20万 平方 メー トル の調 査 では 、焼 土 の遺跡 は数 ヶ所 しか発 見 されず 大火 に よる延 焼 は なか っ た よ うで 、秦 王 朝 を滅 ば した 項 羽 が 焼 き尽 く し た の は阿房 宮 ではな く、成 陽宮 だ っ た よ うで あ る。一 ⑩ 史記 に よる と、秦 の 始 皇 帝 は 自身 の 陵 の工 事 と阿房 宮 (未 完 に 終 わ っ た ら し い)の 工事 にお い て 、七 十 万人余 の刑 徒 らを二 手 に分 けて労役 させ た。阿房 宮前 殿 の殿 上 には一 万人 が座 る こ とが 出来 る、殿 下 には工丈 の旗 を立 て る こ とが 出 来 る とい う記述 もあ る。 始 皇帝 はそ の他 に成 陽宮 を改 築 、春秋 ・戦 国期 の諸侯 がそれ ぞれ 造 つ た長 城 を補 強 して 繋 ざ、 さ らに 中国全 土 を結 ぶ 道 路網 等 を造 っ た。一① 成陽には三百七十の宮殿 があった、項羽軍が秦の宮室に放 った火は、 三 ヶ月にわたって燃 え続けた、 とい う記録 もある。一⑫ 成 陽宮は、 とてつ も なく大規模な建造物だつた。二千年前の中国には、高度な建設技術を持つ工人 たちがいたよ うだ。 そ して先秦時代 の 中国では、春秋 ・戦国期 の諸侯 が同時期に都市国家を形成 していた一⑬ ことか ら、城郭な どを造 る工匠 (墨 子 もその一人か)が 、す でに数 多 くの グル ー プを形成 していた と考えられ る。春秋 ・戦国や漢楚 の動乱期には 政治的、あるいは経済的理由で、その技術集 団の うち幾 つかが祖国を捨 てるこ ともあつたのではないだろ うか。正倉院御物 が渡 って来た海 上ル ー トは突然発 見 されたものではな く、 さらに何世紀 も前か ら存在 していた、 と考える方 が妥 当である。直接東 シナ海 を越 えて 日本へ渡 った人たちもいれば、あるい は朝鮮 半島に土着 した人たちもいたことだろ う。その一族 の末裔 が、半島か ら日本海 を渡って来たこともあったはずである。表民や、派棋実はそのような人たちか もしれない。 彼 らが、仁徳天皇陵な どの 巨大建造物を造 り得 る技術 を、 日本 にもた らした のではないだろ うか。 四千年 前 の貫 穴 日本 の建 設 産業 の始 ま りは いつ か 。 日本 でい ちばん古 い 建設 会社 は金 岡J組 、 世界 一 古 い 会社 で もある。四天 王 寺創建 は推 古天 皇元年 (593年 )、 金 岡J組 はそ の た めに聖 徳 太子 に よ り百 済 か ら招 聘 され た金 剛 、早水 、永 路 とい う二 人 の造 寺 工のひ と り、金 剛重光 が敏 達天皇 7年 (578年 )に 興 した とい われ てい る。一 ① 仮 に敏 達天 皇 7年 を 日本 の建設産 業 の始 ま りの年 とす る と、 日本 の建設 産業 の歴 史 は千 四百 年 以 上 とい うこ とにな る。 た だ し、それ 以前 か ら建設 を業 とす るよ うな人 た ちは い た の ではない だ ろ うか。 昭和 63年 、青森 県 の三 内丸 山遺跡 と同時 期 の 、宮 山県小 矢都 市 の桜 町遺跡 か ら出 土 した 高床 式建 物 の柱 とみ られ る材 か ら、貫 穴が確 認 され た 。― ② それ まで 高床 式建 物 は 、弥 生 時代 か らと 考 え られ ていた。 三 内丸 山 の 大型建 物や桜 町 の 貫構 法等 だ けで軽 々 し くは言 え な い が 、 四千 年 前 の 日本 にはす で に 、農繁期 以外 には土木 ・建設 を半 ば本 業 の よ うにす る人 た ちが い た のか も しれ な い。 三 内丸 山や桜 町 の 時代 か ら, 日本 人 が造 り続 け て きた もの は 、 どれ ほ どの も の だ ろ う。 巨大古墳 、 出雲大社や 法 隆寺 な どの社 寺。 そ して発 掘 され た もの は 吉野 ヶ里遺跡 に代表 され る弥生時代 の環濠集 落 、推 定面積 25平 方 キ ロメー トル に も及 ぶ 藤 原京 な どの都 城 、そ の都城 を造 る資材 調 達 の た めの運河― ③ な ど、 古代 の遺構 で 、確認 され た もの だ けで も膨 大 な もの だ。 「 日本 の建設 労働 (建 設 労働者 ・職人 )の 軌跡 と今後 の展望」 を論 じよ うと考 え たが 、私 は軌跡 につ い て は 、 あ る程度 時代 を特 定 しな けれ ば考 察 しきれ な い。 技術 的 には大 陸 。半 島 の影響 を受 け続 け、政 治 的 には建 設 そ の ものが 国家 に利 用 され ていた大 和 時代 か ら奈 良時代 を中心 に論 ず る こ ととす る。 二 十年位 前 、NHKの 『 歴 史 へ の招待』 とい う番組 で 、仁徳天 皇 陵 (大 仙 古墳 ) を当時 の 築造方 法 で 造 る とした ら現代 の お金 で どれ ほ どかか る のか とい う試 算 が紹介 され た。大林組 の試 算 ではお よそ 562億 円 で あ る。 昭和 60年 の 大林組 の 試 算 で は古代 工 法 は 796億 円、現代 工 法 で は 20億 円 とな ってい た。一 ④ 工 法 の工 事期 間や動員 人数 、総費用 な どは 、私 の長男 の教科書 (小 古代 6社 会科 )に も記載 され て い る。 番 組 で は 、 工 事 の試 算 の他 に も、興 味深 い考 察 が な され て い た。瀬 戸 内海 を 通 って きた外 国 か らの使 節 がい よい よ難 波 津 へ 上 陸 とい う時 、 この 巨大建造 物 を見 て驚 い たので は な い か 、 とい うこ とだ っ た と記 憶 してい る。 五 世紀初頭 の 日本 (倭 )は 、況代 よ りも切 実 に 、外 国 か らの侵 略 とい う脅威 に さ らされ てい た の だ ろ う。 日本 を半 ばな めて い る使 節 団 に 、「これ は ち ょつ と侮 れ な い ぞ」 とい う印象 を持 たせ るには 、仁徳 天 皇 陵 をそ の場 所 に造 る必 要 が あ つ た ので はな い だ ろ うか と。 仁徳天 皇 陵 の総容積 は 10tダ ンプ カ ー 25万 台分 で あ る。一 ⑤ とい うこ とは 当時 の 日本 にはす で に、かな り高 い 土木技術 (半 島 か らの渡来人 の 技術 は必 須 だ っ た はず )と 統 一 され た工事組 織 が あ っ た とい える。 とはい え現代 の お金 に して 796億 円 の工 事費 とい うの は 、当時 の 日本 の 国力 (人 口数 百万人 か)で は 、か な り の 高負担 で あろ う。 出雲大社 の造営 は斉 明天皇 5年 (659年 )、 現在 の本殿 は延 亨元年 (1744年 )の 建 築 で 高 さは 8丈 (24.2メ ー トル )あ る。古事記 に垂 仁 天皇 23年 (前 4年 )が 創 建 とい う記録 もあ り、一 ⑥ 中古 には本殿 の 高 さは 16丈 5メ ー トル )、 さ らに 、 上 古 には 32丈 (97メ ー トル )で あ っ た と社伝 にあ る。古事記 の記録 は鵜呑 み に 出 来 な い と して も、平成 11年 か ら始 ま っ た発掘 調査 で 、翌平成 12年 に 巨大 な柱 (48。 の根 元部分 が 見 つ か り、高 さ 16丈 説 が信 憑性 を帯び て くる。 祭神 は 、大 国 主命 の前 は筆 箋嶋導 だ っ た。 人 岐大 蛇 は人 本 の支 流 を持 つ 斐伊 川 を象 徴 してお り、素 義鳴尊 は斐 伊川 の 氾濫 と戦 っ た治水 の成 功者 だ っ た とい う説 もあ る。― ⑦ 素 表鳴尊 が人 岐 大蛇 か ら救 っ た 、彼 の妻 とな る女性 の名 は 寄箱 凸敦由。 私 は 、 日本 に も古代 中国 にお け る萬 の よ うな土方 の親 方 は い な い か と調 べ たが 、 この話 を見 つ けた時 は 、少 々興奮 した。 今年 は平 城遷都 か ら千三百 年 、 日本 の 首都 の変遷 を見 て み よ う。 皇極 天 皇 4 年 (大 化 元年 645年 )の 、 中大兄 皇子 (天 智天皇 )ら に よる蘇我入鹿 殺 害 が 乙巳の 変 の端緒 、そ の舞 台 とな っ た のが飛 鳥板 蓋宮。飛 鳥板蓋宮 か ら延暦 13年 (794年 ) の 平安遷都 まで 、百 五 十年 間 の 日本 の策 を ざっ と挙 げ て み る。 尋板蓋宮 飛′ 難 授長柄醤詩 督 (前 期難波 宮 ) k魔 管 後飛 :筑米 督 朝舗 装 鴬浮作i沫 督 藤原京 紫ざ薬 督 平城京 平城 京 長 岡京 近江大津京 パ仁煮 飛′ 鳥板蓋宮 嶋宮 飛′ 鳥川原 宮 飛′ 鳥岡本 宮 難 波京 (後 期難波 宮 ) 平安京 板 蓋 宮 とい うの は斉 明天皇元年 (655年 )に 、小墾 田に瓦葺 き の宮殿 を造 ろ うと したが材 を調 達 出来ず造れ なか っ た とい う記 録 が 日本 書紀 に見 え る の で 、屋根 が文字通 り板 蓋 だ つ た らしい 。 そ の年 は飛 鳥板 蓋 宮 の火 災 に よ り、飛 鳥川 原 宮 へ遷 宮 してい る。一 ③ 乙巳の変直後に飛鳥を離れ て、難波に京 を求めた孝徳天皇の難波長柄豊碕宮 (前 期難波宮)は 、 日本最初 の都城 と言 えるほどの、大規模 な京であった。一③ 百済復興 の前線基地なのか、朝倉橘広庭宮は今 日の福岡県朝倉市にあった とさ れ る。 そ の二つ は例外 と して 近 江大津京 へ 遷都 す るまで は、建 設費 に莫 大 な経 費 が 掛 か っ たわ けではなか っ た よ うに思 える。「飛 鳥京 」 内 の遷 宮 で あれ ば。 しか し、そ うではな い 。斉 明天 皇 4年 (658年 )の 有 間皇子 の変 では 、蘇義 宋 元 の命 令 を受 けた物都邪 弊ピ 鯖 が 、宮造 りの fを 率 い て有 間皇子 を捕 らえた と、 日本 書紀 に あ る。 そ の二 日前 、蘇我 赤兄 が 有 間皇子 を指 嗽す るた めか斉 明天 皇 の失 政 を三 つ 挙 げ てい るが 、 一 つ は重税 、他 の二つ は狂 心 の渠 な どと人 々 に謗 られ て い た大土 木 工事 (延 人員 十万人余)で あ つ た。 宮造 りの 丁 とい うの は 、 二 年 前 か ら始 ま っ た 後飛 鳥 岡本 宮 の建 設 工 事 に使役 され た人夫 た ちだ つ た の で あ ろ うか。 当時 は有事 の 際、彼 らも兵 士 とな っ て い 孝徳 天皇大 化 元年 ノ(月 の条 にあ る 仕 了 、大化 二 年 正 月 の 改新 の詔 に 見 え る仕 丁 とあ るのが そ うか も しれ な い 。一 ① ただ 、彼 らの 中 に造 寺 工 の よ た 。一 ⑩ うな技能者 が い た のか 、 また は彼 らの 中 か ら優 秀 な者 を選 んで 技能者 と してい た のか は、浅学 に して私 には分 か らな い。 弘文天皇 (大 友皇子)元 年 (天 武天皇元年 、672年 )の 壬 申の乱以 降 の飛 鳥浄作,原 宮 か ら約 百 二 十年 の 間 に人 回 の遷都 、平城 京 は合計約 七 十年 な の で 、それ 以外 はか な り短 期 間 の京 で あ る。 聖武天 皇 は藤原 広 嗣 の 乱 の影響 な のか何 回 も遷都 、 壬 申の乱 の とき の 大海 人 皇子 (天 武天 皇 )の 足跡 を辿 る よ うな動 きを見せ てい る。 ― ⑫ 大 仏造 立 の詔 が 発 せ られ た の は平城 京 で はな く、紫香楽宮 にお い てで あ る。 一 ⑬ 難 波長柄 豊碕 宮 (前 期 難 波 宮 )、 藤原 京 、長 岡京 が京 で あ っ た期 間は、そ の規 模 か らす る とかな り短 い もの で あ っ た。 現代 の私 た ちか ら見 る と、遷都 (宮 )の この 多 さは何 な のか 、疑 問 が生 じる。 千 三 百年 前 の平城遷都 で は 、平城 京東 北部 に外京 とよばれ る部 分 が あ り、そ こへ 興福 寺 と元興寺 (法 興 時)が 建 て られ る こ とにな る。 哲 学者 梅原 猛 先 生 の 『 塔 』 に よる と、それ には こん な理 由 も考 え られ る。 「・・ 。これ は 、長安 よ り合理 的 といわれ る世界 的首都 にふ さわ し くない 部分 で あ る。 けれ ど、私 は、 ここ に平 城 京建設 の 意 志 が あ っ た と思 う。 ま さに 、 こ の外 京 に 、 四大寺 の うち 二つ の 寺 が移 転 され た 。 そ して 、そ の 寺 の所有 にお い て 、藤原 氏 は 、他 の二 寺 を所 有す る天 皇 家 と対等 な立場 に立 っ た。 つ ま り、 こ の外京 と、外 京 にお け る寺 院 の配 置 には 、驚 くべ き政 治 的ね らいが あ っ た ので あ る。・・・ 」― ⑭ 「・ ・ 。この平和裏 にな され た遷 都 とい う事件 に よつ て 、不 比 等 は 、 自己 の 氏 寺 を四大 寺 の一つ に割 り込 ませ た ばか りか 、蘇 我 氏 の 寺 で あ る法興 時 を も 自己 の勢 力化 にお き、藤 原 氏 こそ蘇 我 氏 にか わ る仏教 の保 護者 であ る こ とを天 下 に 知 ら しめたので ある。・ ・・ 」一 ⑮ 梅原先生はたいへ ん深 い考察をされる方 で、法隆寺は聖徳太子 の怨霊を鎮魂、 そ して封 じ込めるために建立 された寺である、 とい う説 が発表 された『 隠 され た十字架』 の著者 として も知 られてい る。 しか し、法隆寺大工棟梁 の西岡一常 さんは、怨霊説 を明確 に否定 されていた。一⑩ 武澤秀 一 さんの著書『 法隆寺 の謎 を解 く』 では、問題 の法隆寺中門の真 ん 中の柱は ビテイ コツだ つた と、建 点か ら謎解きが試み られてい る。―① 築家 の視 ′ 白鳳文化研究会 の『 薬師寺 白鳳伽藍 の謎を解 く』か ら。 美術史家 杉山二郎先生によると、天智天皇による近江大津京へ の遷都 は、天 智天皇 2年 (663年 )の 白村江 の会戦で 日本水軍が唐・新羅連合軍に大敗 したこと が原因のよ うだ。 「天智天皇を中心 とする皇室及び豪族連合政府 が百済救援に失敗 して、半島ヘ の支配力 が失墜撤退 し、 白村江敗戦を契機 として唐新羅勢力 の影響 が吾 が国ヘ 及 んで きた。その影響は政治面 でいわば、その防衛態勢 の設備、すなわち北九 州、瀬戸内海 の水域 を中心 とす る軍備 と滋賀大津宮へ の遷都 にみ られ るであろ う。唐勢力 の波及 が玄界灘 か ら九州 、瀬戸内海、難波 のルー トが想定 され るの に対 して、 日本海 TRlの 島根 か ら能登半島へ の コースは、寒流 の リマ ン海流 と黒 潮海流 の合体 した北上海流 であって、今 日において も朝鮮半島か ら数時 間で容 易 に能登半島や若狭に達することがで きる。朝鮮 の新羅 と大 陸唐 の情報 の逐一 はこの コース を利用すれば、若狭 か ら琵琶湖 畔を縦断す る水路を利用 して滋賀 大津官に即亥J到 達できたはずである。大津宮遷都 の軍略的意味は軽視す ること はできまい。・・・」一⑬ 白村江 の会戦前後 の遷都には、当時 の国際情勢に よる軍事的理由に負 うとこ ろも大きか った と考 えられ る。当時 の表 日本は、ま さに 日本海狽1で あ り、唐や 朝鮮半島か らの影響 とい うものは、現代人 が想像する十倍以上 の ものであった よ うだ。都城 の建 設は 乙巳の変以降、藤原氏 が牛耳 り始 めた国家に よるデモン ス トレーシ ョンの手段、社寺建設す らその よ うである。そ して平城遷都 におけ る矩形か らはみ 出た外京には、天皇家 と藤原 氏 と他 の豪族 たちの複雑な利害関 係 が投影 されてい る。 狂心の渠 に加 えて 白村江 での敗戦や 壬 申の乱な ど、人民の疲弊はいかばか り であつたろ う。 そ の一方で、民衆が本 当に必要 とした土木 ・建設事業を推 し進 めた在野の僧、行基 (後 に大仏造営 の勧進役)の よ うな人 も現れた。 しか し “ 行 "と い えども土木技術者 が 自分一人であとは農民、では橋 は架けられな 基菩薩 い。彼 の もとに集 まった人 々の 中には、それ らの技術者 もかな りいたのではな いだろ うか。 10 帰化人 と建 築 の意匠 私 は数 年 に一 度 、奈 良 の 古寺 を見 る。 お寺 の 山門 を くぐる と、清澄 な心 とな つ た よ うに感 ず る。 堂 に入 り仏様 を観 る と、厳 粛 な気持 ち とな る。 私 の よ うな 俗人 がそ うな っ て しま うの は何 故 だ ろ うか。 も し、お寺 が 高層 マ ンシ ョンの よ うな建 物 だ つ た ら、私 はそ うはな らな い だ ろ う。建 築物 の意 匠 は 、人 の 心 に強 い影響 を与 えて い る。 建 築史家 大 岡 賞先 生 の『 日本 の建 築』 に、昭和 15年 頃、唐招提 寺金 堂 の扉 を開 け、本 尊 慮遮 那仏 を観 た ときの情景 の叙述 が あ る。 ま さに圧巻 で あ る。 「・ ・ 。そ こに居合 わせ た 四人 は 、思 わず 賛 嘆 の声 を発 した。 それ は夏 の快晴 の 日で あ つ たが 、扉 が全 開 され て 、 パ ッ と堂 内 に明 るい 光 が入 つて 慮遮 那仏 の 全容 が 照 らされ た ときの美 しさは 、今 まで 、 堂 内で見上 げて い た とき とは比 べ もの にな らな い もの で あ っ た。 金 箔 がか な りに薄れ て 、堂 内で は ヨ ゴ レが 目立 っ て い たが 、扉 の外 に離れ て 、 しか も明 るい 光 に照 らされ る と、 ヨ ゴ レを感 ず る どころか 、 キ ラキ ラ金 色 が 光 っ て 実 に美 しい 。 こ とに光脊 と仏体 との比 例 が す ば ら し く、光背 の 中 に静 ま りか えって 、鎮座 す る神 々 しい 姿 は何 ともいい よ うの な い も ので あ っ た。 とくに光背 の数 多 い 化 仏 が キ ラキ ラ光 って 、全 体 にた い して効果 的 にはた らい て い る情景 が 強 く印象 に残 ってい る。 思 い が けな い感 激 に 、 しば らく悦惚 と してい たが 、や がて扉 の近 くか ら離れ て 、基壇 の 端近 くま で さが っ た ときに 、 またび っ く りした。扉 の周 囲 の枠 が 、 額縁 の よ うにな っ て 、光背 をふ くめた本 尊 の全容 が 、 ぴ た りとそ の 中に、お さ ま ってい るでは な い か 。私 は よもや 、 ここまで 意 匠的 に考 え られ て い よ うとは 思 わ なか っ た。 ここ ろみ に両 脇侍 の扉 の 前 に立 って 見 た が 、 ま っ た く同様 で あ る。 もはや これ は偶 然 で は あ り得 な い。 しか しこれ は大変 な こ とで あ る。 仏像 の大 き さが きま り、 堂 の 大 き さが きま る と、扉 の部分 の 開 口部 の大 き さは 、 き め られ て しま うの で あ る。 もち ろん仏 像 の 関係 か らだ け を考 え るな ら、 開 口部 の大 き さの規制 され る の は何 で もな い 。 しか し、 この部分 の比例 が大 き く建 築 の造形 に 関係 す る ので あ って 、両者 を 関連 して 考 えな けれ ばな らな い ので あ る か ら、非 常 な苦 心 を しな けれ ば この よ うな総合 的意 匠 は成 立 しない。 私 はつ く づ く奈 良時代芸術 が 、 隅 の 隅 まで 総合 的 に考 慮 され てい た こ とに感 心 した の で ある。・・・」一① すでに奈良時代 の工人たちの技価は、平成 の私たちには想 像 もつ かない域にまで達 していたのだ。 私は ここを読んだ とき、時代 は前後す るが、飛鳥寺 に丈六 の仏像を納めた造 仏工 鞍搾鴬―② のこ とを思い出 した。法隆寺金 堂 の釈迦三尊像 の作者、でもあ る。そ して何故、鞍作′ 待が 「7の 工人等」に 「堂 の戸を祓 ちて納れむ」 とまで 言 わ しめ る大 きな像 を造 つ た の か 、 また 、推 古天 皇 が鞍 作鳥 に 「戸 を破 たず し て入 るる こ と葎。 ルヒ讐汝 が メ な り」 と、大仁 の位 を賜 つ た のか 、 ここ を読 んだ こ とで初 めて 、 それ らも理 解 出来 た。鞍 作鳥 は、大 岡 質先 生 のい う奈 良時代 芸 術 の 総合 的意 匠 を先 取 りして い た の か も しれ ず 、再 建 とは い え 、法 隆寺金 堂 に は飛 鳥 の総合 的意 匠 が成 立 してい るか も しれ な い。1昔 しい こ とに 、 『 日本 の建 築』 で は法 隆寺金 堂 につ い て は 、仏像 と堂 の 開 田部 の大 き さの比 例 には触 れ られ て い な い。 平成 の建 築史家 の方 々 にお け る、法 隆寺金堂 の調 査 に期待 した い。 『 日本 の建 築』 には 、 当時 の寺 院 の社会 的 な役割 につい て の説 明 もある。 「奈 良時代 の寺 院 は今 日の 寺院 とちが って 、根本 は 「法 隆学 問寺」 とい う名 称 が端 的 に しめ してい る よ うに、仏教 学 を勉 学 す る ところで あ るが 、 さ らに社 会 的活 動 も してい る の で あ って 、厚 生施 設 、 医療施設 もあ り、 当時 の文化活動 の 中心 と して 、数 多 い 各種 の建物 が建 て られ てい る。・・・ 」大衆 の た めの諸施設 〔 の あ る大衆 院、孤児 院や養 老 院 に相 当す るボ 由焼 、無料診 療所 に相 当す る諸施 設 で あ るた 業 暁 な どもあ つ た。 そ してそれ らを含 めた伽藍 の語源 。 「・ ・ 。以 上 が 奈 良時代 寺院 の規模 の 大体 で あ るが 、規模 全 体 を伽 藍 とい う。 これ は梵語 の sangah ramaの 訳 で あ る。」― ③ そ うな のか と思 って 広 辞苑 を引 くと、釈 迦 も如来 も、観 世音 も菩薩 も、梵語 の訳 であ つ た。一 ④ も う一 度 、 白鳳 文化研 究会 の『 薬 師寺 白鳳伽藍 の謎 を解 く』 か ら。 新 羅 で は 、奈 良 の薬 師寺 の よ うに東西 両塔 を持 つ 双塔 式 の 寺 院 (四 天 王 寺 )が 文武 王 の 19年 (679年 )、 慶州 に造 られ た。 そ して 四天 王 寺 の よ うな新羅 の双塔 式伽藍 と奈 良 の薬 師寺 の伽藍 は回廊 の位 置 な どがか な り違 うら し く、 も う一 つ 源 流 が あ っ た ので は な い か と、編者 らに よる座 談会 で発 言 が あ る。 さ らに 、 中 国 で は 隋 の 場帝 が 双 塔 式 寺 院 を造 つ た とい う記録 が あ る、 と。他 に も、鑑真 の 先 生 の先 生 の 、そ の また 先 生 に あた る智 首 とい う人 が双 塔 式寺 院 を造 っ た とい う記 録 が あ り、 これ は 朝鮮 半 島 に影 響 を及 ば したか も しれ な い とい う。 ただ 、 中国 の双塔式伽藍 の発 掘例 はまだな い よ うだ。― ⑤ 考 古学者 猪熊兼勝先 生 に よる と、天武 天皇 は、新羅 の文武 王 を意識 してい る。 「朝鮮 半 島 を統 一 した新羅 は 、文武 王 の 時代 にな る と、次 々 と記 念 的事 業 に着 手す る。 文武 王 14年 (674年 )、 慶州 月城 の王 宮 の東 に月 池 (雁 鳴地 )の 離 宮 を築 く。 これ を模 した の が 飛 鳥 浄御 原 宮 の 西 北 の苑 池 で 、天 武 14年 (685年 )の 白郭 後死 で あ る。 そ して 、何 よ りも新 都 の藤 原京 内で望 む聖 山 と して 畝傍 、香 具 、耳成 の三 山 の イ メ ー ジは 、新 羅京 内 にそび え る王 陵 だ っ た 。唐 の長安や 洛 陽 の都 市計 画 が 直接影 響 を与 えた の で は なか っ た。 国 を統 一 した記念 と して文 武 王 は 、京 内に仏 を護衛 す る四天 王 寺 を勅願 す る。 (中 略) 文武 王 の武 力 に よる 国家統 一 記 念 の 寺 院 と同 じよ うに、 か つ て聖 徳 太子 が物 のね 部守屋 との 戦 い の さなか戦 勝 を祈願 して 、 四天 王 寺 を発願 し、蘇我 馬子 も法興 寺 (飛 鳥 寺 )を 建 立 した。壬 申の乱 で勝利 した天武天 皇 も慶州 四天 王 寺 を模 して 、 これ まで の 伽藍 を一 新 した双 塔 伽藍 を建 立 計画 の途 中、皇后 が病 に伏 した。 天 武 天 皇 は皇后 の病気 平癒 を願 い 、薬 師如 来 を本 尊 とす る寺 院建 立 の 思 いが 、新 寺院 の寺名 とな っ た と思 い た い。・ ・・ 」― ⑥ 飛 鳥 の工 人 た ち の 中には、 自分 が 関わ る建設 工 事 そ の もの に政治 的 な意 図 を 感付 い て しま う者 もい た こ とだ ろ う。 しか し為政者 が聖 徳 太子 で あ ろ うと蘇 我 宗本 家 で あ ろ う と天 智天 皇 で あ ろ うと関係 な い。 自分 た ち の技術 、技能 を認 め て くれ る人 た ちが い て 、そ の技術 、技能 を存分 に発 揮 出来 る最 高 の舞 台 さえあ れ ば、満 足 していたので はな い だ ろ うか。 白村 江 で の敗 戦 に よ り、復興 に失敗 した 百済 か ら大量 の遺 民が 日本 へ 亡 命 し て 来 た。一 ⑦ そ の 中には建設 技術者 も多 くい た こ とだ ろ う。 約 百年前 に百 済 か ら 日本 に招 聘 され た造 寺 工た ちはす で に曾 孫 の世 代 、そ して 日本 人 の後継 者 もか な り育 ってい た。 そ こへ 彼 らが 合流 した とす る と、それ が 日本 の建 築 に ど の よ うな影 響 を与 えた のか 、大 い に興 味 の あ る ところで あ る。 それ とも別 々 の 道 を行 つ た の だ ろ うか。 寺 院 建 設 に限 らず 都 城 の建設 で も、 匠長 は初期 計 画 の 段 階 か ら、 た とえば後 の造 平城 京 司 の よ うな官 司 に参画 してい た こ とで あ ろ う。 半 島 の最新 の意 匠 を 知 る百 済 の亡命 技術者 も参画す る よ うにな っ た とすれ ば 、彼 らの意 見 はか な り 採 用 され た の で は な い か と考 え られ る。 推 定 の推 定 にな っ て しま うが 、そ の こ とで 、以前 か らい た百 済 か らの 帰化 技術者 グル ー プ と車し 靭 が生 じた か 、 それ と も、元 は 同 じ故郷 だ と融和 出来 た の だ ろ うか。 天武 朝 で は新 羅 の技術者 も重 用 され た こ とと考 え られ るが 、 そ うな る とさ ら に複雑 とな る。 法 隆寺 の造 営尺 は高由尺 、薬 師寺 は唐 尺 とい う。一 ③ 半 島 の 建 築 がい つ か ら唐 尺 を基 準 とす る よ うにな っ た のか 私 には分 か らな い が 、新 羅 の慶 州 四天 王 寺 は金 堂 の礎 石 が整 然 と残 つてい て 、 そ の 造 営尺 は唐 尺 の よ うで あ る。 一 ⑨ 日本 の工 人 の 多 くが 百済系 とす る と、帰化 人 の子孫 はなお さ ら、 百済 を滅 ば した新 羅 の 意 匠や唐 尺 を何 の抵 抗 もな く受 け入れ る こ とが 出来 た の か 、私 には 疑 問 で あ る。藤原京 に あ つ た 本薬 師寺 の 中門、回廊 は規模 も構 造 も 平城 薬 師寺 とは違 う。 しか し金 堂 の基壇 は平城薬 師寺金 堂 の基壇 とほば同規模 、 金 堂 には裳 階 もあ つ た とい う。 東 塔 の基 壇 は 平城 薬 師寺 の西塔 の基壇 とほぼ 同 規模 、塔 に も裳 階 は あ っ た よ うだ。一 ⑩ 平成 の今 日、奈 良 の (平 城 )薬 師寺 は 美 しい 。藤 原京 にあ つ た 本薬 師寺 も美 し くな か っ た はず が な い 。 百済 系 の工 人 の ジ レンマ と人 間 の大 き さを思 う。 後 にそ の唐 との 関係 が修復 され 、大 陸 の最新 の建設 技術 を学 んだ遣 唐使 が 帰 13 国す るたびに、彼 らはその技術 を 日本 の風土に合わせ試行錯誤 しなが ら改良 し ていったことで あろ う。造寺工 に限 らず造仏 工 もだ。やは り技術 (技 能)者 であ る以上、旧敵 国 とはい え唐 の技術 に刺激 を受 け、 日本独 自の新技術 が開発 され ていったことはあったので はないだろ うか。 まるで太平洋戦争後 の 日米関係 の よ うに。そ して後継者 がそれ をさらに発展 させ 、唐招提寺金堂 の よ うな建築 が 生まれていつた と、私 は考 えている。 14 日本 の建 設産業 の未来 文化財 専 門 の最後 の宮大 工 とい われ る 「技術者 の人 間国宝」、選 定保存 技術保 持者 の松 浦 昭次 さん の 著書『 宮大 工 と歩 く千年 の 古寺』 な どに よる と、今 日使 われ てい る規 矩術 は 、 中世 の規矩術 とは違 う。 中世 の 大 工 が規矩術 を秘密 に し ていて弟 子 に もな か なか教 えなか っ た こ ともあ り、後 の 時代 には忘れ られ て し ま っ た こ とも多 い とい う。 私 た ち のい う規 矩術 は 、 じつ は江 戸 時代 以 降 の規 矩 術 で あ る。 松 浦 さん は江戸 時代 に部材 の 規格化 が進 み 、 マ ニ ュ アル 書 が 出 て き たた め大 工 が 自分 の頭 で 考 える必 要 が な くな っ て しまったた め 、大 工 の腕 も落 ちて きた の で はな い か と考 えてお られ る。 一 ① す る と、 さ らに部材 の規格化 、 工 法 の マ ニ ュ アル 化 が進 む とこの先 ど うな る のか。 ど う して も悲観 的 な想 像 とな っ て しま う。 工 法 の全 てが マ ニ ュ アル 化 さ れ た 現場 で は 、熟 練 工 な ど必要 で はな い。 す で に 、そ うな りつ つ あ る。 この不 況 下 、 ゼ ネ コ ン、 ハ ウス メー カ ー ともに 、技術 的 な競争 とい うよ り実 質 的 な価 格競争 が さらに激 し くな る と、私 の仕 事イ 中間 も、皆 そ の よ うに考 えてい る。 3月 9日 付 毎 日新 聞朝刊第 2面 の『 公 共事業 は どこへ 』― ② の 中に、 二件 の ク レー ンの横 転事故 (一 件 は通 行人 1人 が死 亡 、 も う一 件 は作業 員 4人 が死 傷 ) の記事 が あ っ た。 賭焉内 の業者 は、入札価 格 の ダ ン ピン グ激化 を背景 と した現場 へ の工 期 短 縮圧 力 が影響 してい る可能性 を指摘す る。「一 番 の コス トカ ッ トは 工 期 短縮 。 資材 を早 く動 かそ うと、想 定 以 上 の重 さの物 をつ り上 げ させ な い 安全 装置 を解 除す る職 人 がい て もお か し くな い 」。 日本 ク レー ン協 会東海 支部 が 07 年 に行 つ た調 査 で は 、安全装置 を解 除 した こ とが あ る職 人 が 71%に 達 した。」そ して 「独 立行 政法人 ・ 労働 安全衛 生 総合研 究所 が 07年 に建 設業者約 3000社 に 行 つ た調 査 で も、安全衛 生活 動 を阻害す る要 因 の トップ に挙 げ られ たの は 「過 度 の安値 受注 に よる予 算縮減 」」 とい う。 続 い て 、「ダ ン ピン グは業者 の技術 力低 下 も招 いてい る。賃金 が 下 が つて 人材 離れ が深 亥J化 し、 中堅 ゼ ネ コ ンで ダ ム エ 事 に携 わ る社員 は 「昔 は新 入社員 が 作 業 を命 じて も、逆 に言 い負 かす 熟 練作 業員 がいた。今 は コ ン ク リー トに振動 を 与 え るバ イ ブ レー ター も満 足 に使 えない職 人 が い る」 と明かす。」 とい う記事 が あ る。何 かが狂 って は い な い だ ろ うか。 ハ ウス メ ー カ ー にお い て も、 コス トダ ウ ンの た め の工 期 の短縮 と、 そ の た め の都材 の規格 化 、 工 法 の マニ ュ アル 化 な どが よ り進 む で あろ う。 さ らに新 た な 工 法 の 開発 、それ はわが社独 自の技術 に よっ て 、とで も広告 に謳 うの だ ろ うか。 それ は本 当には技術 とい え る もの で はな い。 そ の よ うに して 造 られ た 家 は 、私 15 には家 とは思 えない。 家 とは物 語性 の あ る もの で はな い だ ろ うか。 施 主様 が 百 人 な らばそ の家 も百棟全部違 っ て 当た り前 の はず で あ る。 私 は約 二 年 間、 あ る大 手 ハ ウス メ ー カ ー の リフ ォ ー ム部 門 の 下請 け工 務 店 に 在籍 してい た こ とが あ る。 そ の ハ ウス メ ー カ ー が どの よ うな基 準 で 下請 けを選 ぶ の か全 く知 らな いが 、質 の 高 い 施 工 能力 を要 求 して は い なか っ た。 このハ ウ ス メ ー カ ー の 営業 の方 々 は建 築 の こ とな ど全 く解 らな い。 営業 の説 明通 りで は 収 ま らな い こ とが 多 い の だ。 現場 監督 は人 間的 には尊敬 出来 る人 だ つ たが 、 リ フ ォ ー ムの 現場 の 管 理 とい う面 にお い て は 甘 さが あ つ た。 実 際 に工事 す る下請 け工 務 店 の施 工 能力 が 高 けれ ばそれ で も何 とか な るの だが 、社長 も社員 (大 工) も仕 事 を知 らな い 。 た とえば 、和 室 の天丼 を張 る方 向を知 らな い の だ。 これ は 本 当 の話 で あ る。 私 が 担 当 してい たお 住 ま い の施 主様 が 、営業 の不誠 実 な説 明 に納 得 で きず 、 私 に 工 事 の 見積 り書 を見せ て くれ た こ とが あ っ た。 そ の 時私 は 、下請 け工 務店 に見積 りさせ た実行 予算 に 、 ハ ウス メ ー カ ー が どれ ほ どの粗利 益 を上乗せ す る のか ほば 見等 が付 い たが 、「一 流 のハ ウス メー カ ー だか らTVCMに 要す る費用 も含 め 、本 体 工 事 以外 の経 費 もかか るよ うです よ。」 と言 い逃れす る くらいの こ と しか 出来 なか っ た。元請 け の粗利益率 を施 主様 に言 えるわ けはな い。 昼 休 み 、私 が 整 を研 い で い た 際 に仕 上 げ砥石 の上 に難 が立 つ の を見 て 、そ の 工 務 店 の 大 工が吃 驚 してい た。 しか しこの よ うな こ とは 、何年 か研 ぎを練 習す れ ば普 通 に 出来 る こ とで あ っ て 、そ の く らい研 ざ込 んだ道 具 で な けれ ば 、 い い 仕 事 が 出来 るわ けはな い の だ 。 大 工 の基本 は研 ざな の だ とは 、 そ の工務 店 の社 長 に も一 度 言 つ た こ とが あ る。 返 つ て きた答 えは 「ほ う、す ごい ね 。― で 、 そ れ が ど う した の ?」 そ こ には 、規 矩準縄 を正 す とい う心 は見 られ なか っ た。職 人 に変 なプ ライ ドは い らな い らしい。 これ が 現 実 で あ る。 この よ うな経 営者 が増 えれ ば 、 日本 の建設 職 人 の質 は 、低 下 の一 途 を辿 る。 私 が知 り合 っ た 中小 、零 細 の工務 店 経 営者 の 半分 以 上 の方 は 、人件 費 と扱 い や す さの た めか 、社 員 大 工 の後継者 はダイ ロ クで い い と仰 る。 大 工 よ り、多能 工 が欲 しい と も、 よ く聞 く。仕 事 は速 けれ ば仕 上 が りはそ こそ こでい い 、施 主様 に きちん と挨拶 が 出来 て 、 いつ も現場 をきれ い に して い て くれ れ ば 、等。 日本 の建 築 の継 承 とい うこ とは 、念 頭 にはな い 。 施 主様 へ の挨拶 な どは 、社会 人 と して 当然 の はず 。 本 来 、大 工 の後継者 とはダイ ロ クで はな く、志 を持 って仕事 に取 り組 む若 者 の こ とをい うの ではな い だ ろ うか。 後進 の技 能 の育成 に心 を砕 く大 工棟 梁や 工務 店 経 営者 も、 まだ まだ 多 くお ら れ る とは思 うが 、 しか しそ うい う人 は概 して 営業 が不得 手 で 、それ が ど う した とい う台詞 を の た ま うよ うな考 え の人 た ちに仕 事 を取 られ て い く。 もち ろん 、 16 大 手 ハ ウス メー カ ー に も、営業面 で はか な うはず もな い 。 そ の 大手 ハ ウス メー カ ー の 中には、大 工 が工 事 につ い て施 主様 と直接話 し合 うこ とを禁 止 す るハ ウ ス メー カ ー もあ る。 しか し我 々 は 将棋 の駒 で はな い。 私 た ち大 工 が ハ ウス メ ー カ ー の 営業や現場 監督 の 考 えを付度 し、時 には彼 らの ミス を私 た ち の知恵 でカ バ ー した こ とが あ っ て も、大 工 や 左 官等 の職 人 の気持 ち を 、彼 らが少 しで も考 えて くれ た こ とが あ っ ただ ろ うか。 そ して五 十年後 、全建 総連 百周 年 に あた る年 には 、 ハ ウス メ ー カ ー の住 宅 を 造 る人 た ちは フ ァー ス トフー ドの 店員 さん の よ うな人 た ち とな り、 ほ とん どが 時給 800円 のアル バ イ ト、大学 生や パ ー トタイ ムの 主婦 まで い る、施 主様 へ の 挨 拶 に もマニ ュアル が あ る、 とい うこ とになってい るか も しれ な い。 松 浦 昭次 さんか ら見れ ば江戸 時代 以 降 の規 矩術 の 、それ もほん の一 部 しか理 解 してい な い今 の私 た ちで も、住 宅 の塁 付 け 、刻 み は 出来 る。 しか しマ ニ ュ ア ル 化 され た現場 では 、そ の よ うな大 工 は必要 ではな い。 いつ か 日本人 が本物 の家 とい うもの に気付 い た とき、「平成 時代 までは職 人 と よばれ る人 た ちが い て 、 この家 は最後期 の彼 らの建 て た 家 です。 次 の OO時 代 で職 人 がい な くな っ て しま っ た の は惜 しい こ とです ね。・ ・・」 と後悔 して くれ るか 、 または 、それ さえ気 付 かず忘れ去 られ て しま うのか。 西 岡常 一 さん は古代 の規矩術 はた とえば一つ の塔 を建 て るた めの算術 の よ う な もの では な く、伽藍 造 営 の計画 とい うよ うな、 よ り大 き い 意 味で使 われ てい た とい うよ うな こ とを語 つて お られ る。 た とえば 、飛 鳥建 築 は現代 の私 た ち の い う規矩術 を使 わず に建 立 され た。一 ③ これ はた いへ ん な こ とで あ る。 日本建 築 の伝 統技術 と技能 が連 綿 と受 け継 がれ て きた そ の先 に 、私 た ちが い る。 平成 の建設 産業 に携 わ る私 た ち職 人 の立 場 は 、元請 け のゼ ネ コ ンや ハ ウス メ ー カ ー に比 べ 、 明 らか に弱 い。 しか しそ れ で も私 た ちは 、古代 の工 人 (先 輩 ) た ちに対 して恥ず か し くな い仕 事 、次世 代 に 日本 建 築 の伝 統 を受 け継 い で も ら え るだ け の努 力 を しな けれ ばな らな い 。 時代 に消 され る と思 う前 に 、私 た ちは 職 人 として どの よ うに生 きて い るだ ろ うか。 17 不器用 の一 心 と 「皮膚兎」現象 5月 25日 に 、 NHKハ イ ビジ ョンで『 アイ ンシ ュ タイ ンの 眼 「寿 司 ∼ 驚異 の 手 が生む 世界 ∼ 』 の再放送 を見 た。 内容 は、浅草 の 「弁 天 山 美家 古寿 司」 の親 方 (内 田 正 さん)が 握 っ たお寿 司 の科 学的 な解 明だ つ た。 さす が に親 方 の話 には説 得 力 が あ る。 特 に私 が驚 い た の は 、親 方 の 手 の 温度 だ。親 方 が仕 事場 に入 る と手 の温度 が 下 が り始 め 、営業 時間には普段 の 30度 か ら、 16度 以下 にまで下 がつて しま った。賄 い を食 べ て い る時間だ けは、手 の 温 度 も普段 の温度 に戻 つてい る。 一 流 の寿 司職 人 は 、美 味 い お寿 司 を握 るた め に体温 さえ コ ン トロー ル 出来 る よ うにな る。 私 は大 工 職 人 と して 、そ の域 まで い け るだ ろ うか 、行 けな い だ ろ うとい うのが 、率直 な感想 だ っ た。 昭和 62年 、NHKの 水 曜 ドラマ で『 イ キ のい い奴』 とい う作 品が あ っ た。「神 田鶴 人 」 の先代 の親 方 (師 岡幸夫 さん )が 、「柳 橋 美 家 古寿 司」 で の修 行 時代 を 振 り返 つ て紹介 したお話 が TVド ラマ化 され た もの だ。 ドラマ の親 方 の言 い分 はいつ も極端 な の だが 、一 例 を挙 げ る と、「人権 なんて 一 人前 の人 間 の言 うこ とで あ つて 、お ま えは ゴ リラなんだ。」 とい うよ うな台詞 もあ つ た。 予 め断 つ てお きた い 。 これ か ら述 べ る こ とは組 合 の 考 え とは矛 盾 す るか も し れ な いが 、私 の本意 は経 営者側 の “ 搾 取 "を 助長 しよ うとす るもの で はな い。 労働 基準法 とい う法律 が あ る。 第 一 条 第 二 項 に よる と、 この基 準 とは建 築 基 準 法 同様 、最低 基 準 の こ と。 平均値 で はない。 基準 を下回 る と法 律 違反 とな る。 修行 とい うこ とでは 当時 の世 の 中 は皆 あ の よ うな もの だ っ たのだ ろ うが 、 『イ キ のいい 奴 』 を法律 の視 点 か ら見 る と、 あ の親 方 は弟 子 に告訴 され た ら、 た い へ ん な こ とにな る。 傷 害 の罪 も成 立 す る。 しか し労働 基 準法 を遵 守 して弟 子 を 育 てた と した ら、弟 子 は一 流 の鮨 職 人 ・ 親 方 に なれ ただ ろ うか。 なれ た として も、何年 か遅 れ た の ではな い か。 私 も、私 を育 て て くれ た親 方 の ところで住 み込 み で修 行 してい た 頃 は 、 これ は労働 基 準法違 反 で は な い のか な ?と 思 える よ うな こ とは多 々 あ っ た。親 方 は 労働 基 準法 な ど知 ろ うとも思 わ なか っ たで あ ろ う し、知 ってい た ところで守 る よ うな人 で は なか っ た 。 それ よ り、弟 子 を育 て る の に真剣 だ つ た はず だ。 何 を 言 い た い のか とい うと、労働 者 を守 るはず の 労働 基 準法 が 、 か えって若 い職 人 の成長 を阻 害 してい る可能性 が あ る とい うこ とだ 。一 ① お茶 や お花 の世界 の 弟子 は束 脩 。月謝 を納 め る。しか し職 人 の世界 の弟 子 は反対 に賃 金 を も らえる⑥ お稽 古事 と “労働 "は 違 うと言 われれ ばそれ ま でだ が 、極論すれ ば親 方 の家 に 18 住 み込 んで三 度 の飯 を食 わせ て も らい 、仕事 を教 えて も らい なが らお金 まで頂 け る立場 の もの を労働 者 とい え る のか。 あ の ドラマ の よ うに ゴ リラ と考 え る方 が 妥 当 か も しれ な い。 私 も今 思 うと、十分 な額 を頂 い て い た。 ただ 、 同級 生 で サ ラ リーマ ン にな っ た人 よ り少 なか っ た ので 、 当時 は大 い に不 満 で は あ っ た。 住 み込み な ので 自由 が無 いの も不満 だ っ た。 しか しか えってその 自由 の無 さが 、 うま く表 現 出来 な い が 自分 に とつ ては 良 か っ た と、今 は考 え られ る。 年 季 明 けまで五 年 として 、労働 基 準法 を遵守 して弟 子 を育 てて 間 に合 うの か。 まだ 体 が成長 して い る時 期 に真父1に 体 に覚 え込 んで も ら う方 が 、結 局 は本 人 の 利 益 とな る の だ。 本 人 に とって は辛 い こ とだが 、 あ る程度 の我 慢 、 自由 の制 限 とい うこ とは 、私 も経 験 を通 して必 要 だ と考 えて い る。一 ② 長 い人 生 の 中の ほん の数年 間、仕 事 以外 の こ とは何 も考 えず 、 一 心 不 乱 に修行 す る時期 が あ つ て いい。 守 っ て も ら う立 場 の 人 間 が この よ うな こ とを言 うの はお か しい か も しれ な い 。 しか し当時 は気 が付 か なか っ たが 、若 い 職 人 に とって の利 益 とい うこ とを考 え る と、私 の親方 は いい親 方 だ っ た。 私 の親 方 は厳 しか つ た が 、弟 子 の人 生 に責任 を持 と う と して くれ た 。 しか し 建設 業界 に限 らな い が 、先輩 の 中には本 当に意 地 の悪 い 人 もい る。 不 幸 に もそ うい う先輩 を持 っ て しま って 、 も う職 人 なんて辞 め よ うか 、 と思 つ て い る不器 用 な若 い 職 人 さん を よ く見 る。 実 際 、途 中で 辞 め る人 の 方 が 多 い。 そ の原 因 を 作 ってい る先 輩 は とい う と、職 人 と して の技価 には疑 問符 が付 く人 ばか りだ。 彼 らは 、 い い職 人 にな り得 る若者 の 芽 を摘 み続 ける こ とで 、 日本 の建設 産 業 の 衰退 に一役 買 つてい る。しか も 自分 自身 の行為 が後進 を減少 させ 、この不況 時、 真 っ先 に淘汰 さるべ き 自身 と自身 の生 活 を、結果 的 に守 ってい る こ と自体 、理 解 して は い ない。 若 い職 人 さん よ り少 し経験 の長 い 私 は 、そ の経験 か ら声 を大 に して 言 い た い。 ど うして も辞 め るの な ら、一 度 だ けそ の先輩 を見返 してか らに して くだ さい と。 二 十年 ほ ど前 にあ っ た こ とで あ る。 先輩 は 、 自分 の後輩 が 将来名 人 にな る とも 知 らず 、後輩 の不器 用 を衝 い て くる。侮 蔑 の言葉 を投 げ る。 それ で も一 心 に仕 事 を し続 けれ ば 、数年 後 にはそ の 先輩 が 後輩 に 、 た とえば 隅木 の収 ま りを教 え て ほ しい 、 と言 っ て くる。難 しい こ とは他 人任 せ の者 の仕 事 と、体 の成長 と共 に、 一 心 に体 で覚 えた仕 事 には 、歴 然 た る差 が あ る。 そ してそ の 頃 は 、そ の後 輩 を慕 う弟弟子 がい る。二 十年後 、そ の弟弟子 が 見 た こ とを ここに書 い て い る。 鵠工舎 前舎主の小川三夫 さんが、小川 さんの師、西岡常一 さんの 「不器用の 一心に勝 る名人はない」とい う言葉を、著書『棟梁』で紹介 している。―③ 私 も不器用だから、名人になれる素質だけはあるわけだ。若 い職人 さんを不器用 19 と決 め付 けて 申 しン 訳 な い が 、本 物 の職 人 は 、手 も、生 き方 も、不器 用 な の で は な い だ ろ うか。 私 が『 棟 梁』 で 一 番 よ く読 む の は最初 の 部分 、数 ペ ー ジの 写真 だ。 特 に 、若 い 日の 小川 三 夫 さんが西 岡常 一 棟 梁 と薬 師寺東塔 を実測 してい る写真 は 、 これ こそ が 師弟 の 関係 だ とい え るもので はなか ろ うか。 仕事 を体 で 覚 える とい うこ ととは直接 関係 な い か も しれ な いが 、 2月 16日 付 毎 日新 聞朝刊第 11面 に 、 この よ うな記事 が あ っ た。一 ④ 「不 思 議 な 「皮 膚 兎 」 現 象 道 具 を 介 して も 体 感 高知 工 科大 、東大 チ ー ム発 見」 「人 間 の皮膚 の上 で 、10セ ンチ ほ ど離れ た 2点 を連続 的 に刺激 す る と、2点 間 を小 さな ウサ ギが跳 ね て い くよ うな錯 覚 が生 じる「皮膚兎」と呼 ばれ る現象 が 、 手 に した道 具 上 で も起 こ る こ とを、高知 工 科 大 と東京 大 の研 究 チ ー ム が発 見 し た。 この仕組 み を解 明すれ ば 、体 にな じみや す い 義手 な ど福祉 装置 の 開発 や ロ ボ ッ トの遠 隔操 作技術 の発 展 に貢献 で きる と期待 され る。 宮崎真 。高知 工科 大准教授 (ネ 申経科 学)ら は 、男女 8人 (18∼ 23歳 )に 協力 を依 頼。人 さ し指 の上 に 、幅 5ミ リ、長 さ 10セ ンチ のアル ミ製 の板 (重 さ約 13グ ラ ム)を 置 い た。刺激 装置 を使 つ て 、皮膚兎 を起 こす の と同 じよ うな刺激 を、板 の 上 か ら左 の人 さ し指 に 0,8秒 間隔 で 2回 、そ の直後 に右 の人 さし指 に 1回 の計 3 回 の刺激 を与 えた。 そ の結果 、全 員 が 2回 目、3回 目の刺激 を両指 の 間 (約 8セ ンチ)の 板 上 に受 け た よ うに錯 覚 した。平均す る と、2回 目は刺激 を実際 に受 けた位 置 か ら約 3セ ン チ進 んだ位 置 、3回 目は、さ らに約 3.5セ ンチ進 んだ位 置 に感 じ、全 体 として板 上 を何 かが 駆 け抜 けた よ うに と らえて い た。 人 さ し指 それ ぞれ に正方形 の板 を 置 い て 同様 の刺激 を した場合 は 、錯 覚 は起 きなか っ た。 皮 膚 兎 が起 き る ときの脳 内 の神 経活動 はす で に解 明 され 、身体 だ け の現象 と 考 え られ て い た。 宮崎准 教授 は 「ヒ トの脳 は道 具 を体 の延 長 の よ うに認 識 す る とい う従 来 の 学説 の 直接 的 な証拠 とな る。 今 後 は 、道 具上 の皮 膚 兎 で は 、脳 内 の どこで どの よ うな神 経活動 が 起 こってい るか を解 明 したい 」 と話 してい る。 3 日付 け の 北米神 経科学学会誌 で発 表 した。 【 須田桃子】 」 この記 事 は 、私 た ち の よ うに道 具 を使 って仕 事 をす る職 人 に とっ て は 、 た い へ ん興 味深 い記 事 で あ る。 道 具 は 、手 な ど体 の延長 で あ る こ とが科 学 的 に証 明 され た 。今 回 の実験 の被 験者 は 18歳 ∼ 23歳 の 男女 8人 との こ とだが 、小 学生や 高齢 の方 た ちで も実験 して い ただ きた い。 20 現場 で既存 の梁 に柱穴を掘 るとき、私 はもちろんたた き撃を使 っているのだ が、梁材 の繊維や節 の感覚が撃を伝 って手に来る。そ して あたかも自分 の手で 柱穴を掘 っているかのよ うな錯覚が起 こることが、時々ある。 この 「皮膚兎」 凱象 と何 らかの関係 があるのか も しれない。それは材 の性質などと軽 の研 ぎと が うま くシンタロ した ときなのだろ う。毎 日道具を研 ぐ大 工 さんであれば、理 解 していただけると思 う。 この感覚を若 い大工 さんたちに伝 えられる人は、私 たちを措い て他 にはいないのだが、後進 の育成 とい う私たちの社会的責務にお いて、私たちはその責務 を果 た してはいない。余裕 がない とはいえ、 自身 の非 力を痛感する。 研 ざとは、もちろん道具を研 ぐことをい うのだが、大 工 は道具 と共に、神経 とい うか、心をも研 いでい るのだと また、「それが ど うした」 と言われ るかもしれない。 しか し、職人が路傍 の人 「それが ど うした」 と言われなが らも持 つてい る、職人 としての冷持を捨て て しまったら、職人 ではな くなって しま うのではないだろ うか。 1こ 21 三 階建 て木造住宅倒壊実験 私 は 2月 19日 に 、全建 愛知技術 対策部 主催 の技術研修会 に参加 した。 (富 山 県高 岡市 の勝興 寺第 二期保 存修 理 工事 と金屋 町 町並み見学 ) 勝興 寺 で は 、大林組 の 山本所長 と、一 昨年 の 同技術研修 会 にお い て 、瑞龍 寺 (前 田家建 立 仏殿 、法堂 、山門 は平成 9年 国宝 昇格 )な どの 見学 でお 世話 にな っ た 、職 藝 学 院教授 の上 野幸夫 先 生 (瑞 龍 寺復 元 の 責任者 )の ご案 内が あ り、私 た ち の理 解 は 、 よ り深 ま っ た。 質疑応答 時 の 山本所長 の ご説 明で は 、勝 興 寺 の保 存修 理 工 事 は建 築基準 法第 二 条 の適 用 除外 に該 当す るので 、建 築 基 準 法 に則 っ て工 事 が進 め られ てい るの で はな い との こ とだ っ た。 折角 、 また上 野先生 にお会 い 出来 た の だか ら、 あ の 時質 問 してお けば 良 か っ た の に と、今 思 うこ とが あ る。 それ は 、昨年 10月 にあ つた 、三 階建 て木造住 宅 倒壊 実験 の 実験結果 につ い て 、 上 野先 生 は どの よ うに考 えてお られ る のか 、 と い うこ とだ。 昨年 10月 27日 、兵庫 県 三 木 市 の三 木総合 防災公 園 内にあ る E― デ ィ フェ ン ス にお い て 、三 階建 て木造住 宅frl壊 実験 (一 般社 団法人『 木 を活 かす建 築推 進 協 議会ど、独 立行 政法人『 防災科 学技術研 究所』等 が主催 )が 行 われ た。 耐震診 断や耐震 改修 に 関 わ つ てお られ る大 工 さん 、そ して設 計屋 さん に とっ ては 、実験 結果 は意外 な もの だ っ た の で はな い だ ろ うか。 私 も意外 に思 っ た。 しか しそ れ と同時 に 、そ うな のか も しれ な い と、変 に納 得 して しま う自分 もい た。伝 統 工 法型 住 宅 を多 く手掛 けてお られ る方や 、建 築 士 資格 等 に 関 心 の な い 方 は 、意外 には思 われ なか っ たか も しれ な い。 実験 の 映像 を見 てお られ な い方 の た めに若 千 の説 明 をす る と、それ は 二棟 の 、 全 く同 じ構造 の三 階建 て木造住 宅 を同時 に揺 らす (耐 震 基準 の 1.8倍 の 強 さで 20 秒 間 短辺 方 向 の み)と い う実験 だ つ た。 うち一 棟 だ けは、柱頭 。柱脚 に強度 の 高 い 金物 を使 用 し、長期優 良住 宅 の認 定 を受 け られ るだ け の耐震基準 (耐 震 等級 2)を 満 た してい る。 結果 は、 い わ ゆ る長 期優 良住 宅 の方 だ けが倒 壊 し、弱 い は ず の建物 の方 はかろ うじて倒 壊 しなか っ た 、 とい うもの だ っ た。 主 催者 側 は 「実験 の 条件 に左 右 され た 面 もあ る と考 え られ 、基 準 の 見直 しに つ なが る もので はな い。Jと してい る。確 か に幾 つ かの条件 が重 な って あ の よ う な結果 とな っ て しま っ た とい うこ となのだ ろ う。 しか し施 主様 や耐震診 断 の依 頼者 に実 験 結果 の説 明 を求 め られ た 場合 、私 た ちは ど う答 えた らい い のか。 ほ とん どの 建 設 技術者 の 予想 と逆 の 結果 が 出 て しま っ た。 小規模 の住 宅 の 耐震性 能 さえ、 じつ は誰 も、何 も理解 して は い なか っ た とい うこ となのか。 それ が 露 呈 して しま っ た。 私 は畢 党 、それ が この 実験 の意 義 だ っ たか と、決 して皮 肉で 22 は な く、そ う考 えて い る。 もちろ ん建 築基 準法等 を勉 強す る こ とは必 要 だ。悪 法 も法 だ な どとは言 わな い が 、 しか し私 た ちはプ ロで あ る以上 、法 を守 っ た上 で金 物 に頼 らな い 仕 口や 倒 壊 しに くい架構 を考 えるこ とが 、 さ らに必要 な こ とな の で はな い だ ろ うか。 私 は十年 ほ ど前 、一 緒 に仕事 を した設 計屋 さんか ら、「建 築基 準法 の第 一 条 に は 、 ど うい うこ とが 書 かれ てい るか知 っ て い ます か ?」 とい う質 問 を受 けた こ とが あ る。 こん な こ とを聞 いて くる人 もなか なか い な い 。 そ の 時私 は 、 なん と か建 築 基 準法第 一 条 の 大意 を答 え る こ とが 出来 たが 、何 の た めに私 た ちが存在 す る のか 、 とい うこ とを考 え させ て くれ る質 問だ っ た。 建 築 基 準 法 とい え ども金科 玉 条 ではない 。何 回 も改 正 され て い る。 改 正 され た建 築 基 準法 は今度 こそ絶対 正 しいか とい うと、また改 正 され るか も しれ ない。 しか しそ の運用 に 当た って は 、金科 玉 条 の如 くで な けれ ばな らな い 。 しか も金 物補 強 した住 宅 の方 だ けが倒壊 して しま っ た事 実 を鑑 みれ ば 、現場 の 大 工 が ど の よ うな意識 で仕 事 に臨む のか 、そ の 姿勢 が よ り重要 にな っ て くる。拡大 解釈 す れ ば現 実 の建物 で も、耐震 等級 2を ギ リギ リで満 た したがた めに倒壊 して し ま う可能性 を内包 して い るか も しれ な い のだ。 監督 に指 示 され た通 りに施 工 し 検 査 さえ通れ ば 、 あ とは 実験 の よ うに地震 で倒 壊 して も、法律 的 には大 工 の責 任 ではないか も しれ な い。しか し道 義的責任 はあ る。や は リプ ロで あ るな らば、 建 築 (最 低)基 準法 の 求 めて い るもの よ り数 段 上 の基準 を、各 々 が持 つ べ きで は な い だ ろ うか。 今 回 の 実験 にお い てそ の結果 を意外 に思 っ た人 は 、私 もそ の一 人 だが 、反省 す べ きで あ る。 建 築 の勉 強 がい つ の 間 にか建 築 基 準法 の数値 の み を勉 強す る こ とにな って しま っ て い た ので は な い か。 マ ニ ュ アル 通 り、適 正 な金 物 を使 えば 大 丈 夫 だ と、 当た り前 の よ うに思 い込 ん で は い なか っ たか。 さ らには 、計算 式 通 りに算 出 した だ け の 、 も しかす る と本 当は誤 つてい るか も しれ な い数値 を、 N値 云 々 と仲 間 の 大 工 さん に偉 そ うに説 明 して は い なか っ た か。 建 築 の勉 強 は そ んな もので はな い 。頭 だ けで はな く、体全部 を使 つて勉 強す るもの だ。 23 職人 の 自立 と後継者 の育成 何 回 も振 動 実験 を繰 り返 してデ ー タを記録 してい けば、住宅 の耐震 性 能 だ け で な く、いずれ は工重塔 な どの構造 の原 理 が科学 的 に解 明 され るか も しれ ない。 技術者 は 、大学 で養 成 出来 る。 技能者 は 、現場 がな けれ ば育 て る こ とが 出来 な い 。 この こ とは 、西 岡常 一 さん が『 木 に学 べ 』 で語 っ てお られ た 。一 ① し か しそ の 現場 の大 半 は マ ニ ュ アル 化 され 、 もはや熟練 工 や 志 の あ る若 い 職 人 を 必 要 と して は い な い。 仮 に熟 練 工 が 高 い 施 工 能力 を要 求 され る一 棟 の建 物 を下 請 け出来 た と して 、次世代 を担 う若 い 大 工 を育成 しよ う と思 った と して も、予 算 を削 られ て 青 息 吐息 の暮 らしで は 、そ ん な余裕 な どな い のが 現状 だ。 しか も そ の よ うな仕事 は 、それ ほ ど続 けて あ るわ けでは な い 。 日本 人 は近 い 将来 、世 界 一 の超 高層 ビル は建 て る こ とが 出来 て も百坪 の伝 統 工 法型 住 宅 は建 て られ な くな って しま う、 とい うこ とにな りかね な い。 日本 には優れ た建 築材料 と して 、「木 」 が あ る。林業 の再生 は私 た ち同様 、若 い 方 た ちに期待 す る ところ も大 き い が。 景気 も、数 十年 後 には ゆ っ く りと回復 に向か うか も しれ な い 。 しか し一 度途絶 えた 手仕事 の技 を取 り戻す こ とは 困難 で あ る。建 設 産業 にお い て もそ の 産業 を成 り立 たせ て い る もの は 、最 終 的 には 「人 」 で あ る。 特 に 、 建設 産業 な る ものの底辺 で 、 日当一 万数 千 円、 あ るい は 一 万 円以 下 で働 い て い る職 人 た ちだ。 いい腕 を持 つ 職 人 はす で に高齢 の方 が 多 く、十年 もすれ ばか な りの方 が 引退 して しま う。 しか も次世代 を育 て る余 裕 な どな い 。 た とえ資源 と資本 が整 つ た として も、質 の 高 い 労働 力 (こ こで は 、職人 をひ と括 りに労働者 とす る)が 伴 わな けれ ば 、整 っ た とは い えそれ らは本来 の意 味 を成 しは しない 。 人 的 な意 味 にお い て も、 日本 の建設 産業 そ の ものが 、デ フ レスノくイ ラル に陥 りかか つてい る。 熟 練 工 の 高齢 化 を考 え る と残 され た時 間 は僅 かだ。 今 、私 た ちが行 動 を起 こ さな けれ ば 、 よ り、職 人 の技能 の低 下 、建設 産業 の衰 退 は加 速 され て い く。 それ で は 、 一 体 お ま えは ど う行 動 す る の だ と問われれ ば 、私 も ど う行動 して いい のか 、 じつ は よ く分 か らな い し、 同様 の危機 感 を持 つ 組 合 仲 間 を納 得 させ るだ け の知 恵 も実力 もな い。 ただ 、 三 つ だ け提案 が あ る。 一 世 代 以 上 の 時 間は かか るだ ろ う し、効果 はない か も しれ ない が。 私 は大 工 で あ るので 、 ど う して も大 工 さんた ちへ の提 案 とな って しま う。 大 工 が仕事 を施 主様 か ら直接 請負 うこ とが 出来れ ば 、 もち ろん横 の繋 が りで他 の 職 人 さんた ち の仕事 も、 当た り前 に派生す る とい う考 え もあ る。 一つ 目は 自分 が 元請 け させ て い た だ い た 仕事 だ けは、 プ レカ ッ トされ た材 で 建 て 前 をす るの はや めませ んか 、 とい う提案 で あ る。 もち ろんプ レカ ッ ト材 に 24 は い くつ も の利 点 が あ る の は承知 して い る。 広 い 作業場 も、大 きな材 を刻 む機 械 も、機 械 が な けれ ば 当然 、そ の メ ンテナ ンス も必要 な い。 とにか く予算 的 に 使 わ ざるを得 な い のか も しれ な い 。 しか し、 プ レカ ッ ト材 を使 用す るこ とに よ って 失 っ た もの は 、そ の利 点 よ りは るか に大 きい もの だ っ たので は な い だ ろ う か。 墨付 け 。刻 み の経 験者 がプ レカ ッ ト材 を使 うこ とと未 経験者 がプ レカ ッ ト材 を使 うこ とは 、施 主様 や 監督 な ど第 二 者 だ けで な く、大 工で あ るはず の未 経験 者 自身 に も理解 出来 な い で あ ろ う違 い が確 か に あ る。 そ の違 い につ い ては 、私 な どは半 ば諦 めの気 持 ちす らあ る。 自分 で架構 を考 え塁付 け したわ けで もない 、 自分 で研 い だ盤 で刻 ん だ わ けで もな い材 の集 ま りを、言葉 は過 ぎ るか も しれ な い がプ ラモ デ ル の 兄 貴 を組 み合 わせ られ た らそれ で一 人前 、 と思 っ た ら大 間違 い で ある。 ヨキや手斧を使つている人は、何%か ? 金輪 継 ぎや追 っ掛 け大栓 継 ぎな どを塁付 け した こ との あ る人 は ? たた き軽や 突 き撃 を使 つ て い る人 は ? 三 十代 以 下 の 大 工 さん で 、 これ らの うち一 つ で も普段仕事 で してい る とい う 人 は何 %だ ろ うか。経験 が あ る、とい うこ とで さえ、私 は 30%以 下 と推定 す る。 さ しがね を、単 に造 作材 に線 を引 く直角 定規 と してだ け使 つてい る人 もい るか も しれ な い。 た だ し、 これ は本人 の責任 で はな い はず だ。 墨付 けを しない た め 、大 工 が木 の癖 を読 む 機 会 の大 半 が奪 われ て しま っ た。 刻 み の工 程 が省 か れ て い るの で 、 たた き撃 や 突 き整 を、 ま してや ヨキや手 斧 等 は使 わな い か ら研 ぐ必 要 もな い 、 だか ら砥石 も要 らな い 。造作 の段 階 で大入れ 撃や飽 を使 うと して も近 頃 は替 刃式 の もの ま で あ る。何 か違 うので はな い か と 思 う私 は 、 間違 ってい る の だ ろ うか。 塁付 けは数 年 の研 ざ と、変Jみ と建 て 前 を 何 回 か 経験 した 後 で な けれ ば本 当には理 解 出来 な い もの だ。若 い 職 人 の 高学歴 化 も一 因だ ろ うが 、 そ の研 ぎ さえ満 足 に 出来 ていない 大 工が多過 ぎる。 そ してプ レカ ッ トを使 うこ との一 番 の 問題 は 、墨付 け ・刻 み の機 会 を失 うこ とに よって 、大 工 が建 物 を空 間 と して 捉 え られ な くな って しま うこ とと、段取 りを考 える能力 が衰 え る こ とで あ る。 墨 付 け の 時点 で大 工 は、 頭 の 中で全 て の 構造材 を組 み 、棟 上 げ が 済 んだ 状 態 と して の建 物 を完成 させ て い る。 大 工 がイ メー ジ して い る棟 上 げ修 了後 の建 物 を構 造材 。人 工 それ ぞれ の 足 し算 の解 とす る と、次 はそ こか ら逆 に 引 き算 を始 め る。 時 間 の経過 としては逆 (私 は人 工 を逆 か ら数 えて い た )と な るが 、逆 コマ 送 り的 な途 中 の計算結果 が一 日の仕事量 と し ての 作業結果 とな る よ うに段 取 りを考 え る。 す なわ ち、棟 上 げ修 了後 の建 物 か 25 ら桁 や梁 、柱 な どをバ ラバ ラに してい く、 い わ ば ビデ オ の逆 回 し映像 の よ うな もの とな っ て い て 、そ の ビデ オ を も う一 度 逆 回 しすれ ば墨付 け、刻 み 、建 て 前 とい う順 にな るわ けだ。 ほ とん どの大 工 さん は この よ うな考 え方 で はな い だ ろ 9か 。 建 物 は 平面 では な く上 下 ・ 四方 に広 が りを持 つ 立 体 な ので (当 た り前 だが)、 大 工 の仕 事 も立 体 とい う空 間 と しての仕 事 の はず で あ る。 しか し今 、 建 物 を造 る とい う仕 事 を空 間 の構 築 と して 考 え られ る若 い 大 工が どれ だ け い るだ ろ うか。 平面 の床 を張 り、平面 の天丼 を張 り、 これ また 平面 の壁 を張 っ て 、 は い 、出来 上 が り。 階段 は平 面 で はな い 。 そ の た めか 階段 を造 れ な い 大 工 が い る。 プ レカ ッ ト階段 な ら造れ る。 (全 てプ レカ ッ トのせ い だ とは私 も言 わな い 、大 工 個人 の 能力差 もあ り、プ レカ ッ ト材 の 出現前 か ら階段 を造れ な い大 工 は い た)床 の 間や 付 け書 院 も空 間 の構 築 とい う仕 事 にな ろ う。 もちろん、 これ も造れ な い 。 これ で大 工 とい えるのか。 具体 的 な事 例 を考 えて み る こ とにす る。 特 に問題 が深 亥Jな の は リフ ォ ー ム で あ る。新 築 な らば行 政 に よる法 (建 築基準法 が絶姑 正 しい か とい う議論 は ここで は措 く)的 なチ ェ ック が 出来 るが 、 リフォー ム もす べ て 出来 て い るか とい えば疑 問 で あ る。 た とえば営業 だ けは 上 手 な建 築 の 素人 の 寄 せ 集 め の工 務 店 が 、大空 間 を演 出 して み せ ま し ょ うと仕 事 を請 けた とす る。居 間 と台 所 を一 部屋 にす る た め 、塁付 け ・亥Jみ の 経験 の な い 大 工 が 営業 に言 われ るま ま構 造 的 に重 要 な一 階 の管柱 と壁 を抜 いて しま う。抜 かれ た管柱 が支 えてい た胴 差や梁 (三 階外縁部 の管柱 と壁 が乗 っ てい る、 さ らに庇屋根 の荷重 を受 けて い る梁 も架 か ってい る) は適 当に補 強 してお くな ど、 ち ょっ と待 て よ と言 い た くな る よ うな 工事 は 、全 国 で 日常 的 に行 われ て い るか も しれ な い。 もちろん行 政 の検査 な し。 しか も施 工 した大 工 本 人 は 、 この 家 が 将来 地震 で 潰れ る とは夢 に も思 わ な い 。仕 事 を空 間 の構 築 と して 考 え る経 験 が な い と、構 造材 と造 作材 の 区別 もつ け られ は しな い。 極 端 な例 を挙 げた が 、今 は墨 付 け ・亥」 み の経 験 が あ る大 工 もまだまだ い るの で 、 なん とか な っ て い る とは思 い た い 。 しか し、 あ と十年 も経 て ば こ うい う杜 撰 な 工 事 に待 つ た をか け られ る大 工 は 、 か な り少 な くな っ て しま う。皮 肉な こ とに 、俺 は職 人 だ とい うよ うな こ とは思 うな と言 わん ばか りの ハ ウス メー カ ー の仕 事 にお い て も、 リフ ォ ー ム につ い ては大 工 の 墨付 け 。亥Jみ の経 験 に頼 らざ るを得 な い 。 ハ ウス メ ー カ ー は職 人 を育成 して は い な い。 それ でい て 、職 人 の ス トックを消 費 し尽 く しつつ あ る。 しか も、職 人 が後継者 を育 て る余 裕 な ど与 えて は い ない の だ。 二つ 目の提案。ここでい う空 間 の構 築 とは 、軒 の反 りや床 の 間等 は別 と して 、 26 私 は意 匠的 な意 味 で述 べ て い るので はな く、構 造 的 な意 味 で述 べ て い る。 大 工 には意 匠的 セ ンス は必 要 か も しれ な い 。 しか し、構造 につ い て の理 解 は更 に重 要 で あ る。何故 な ら、私 た ち の造 る家 に住 む人 の命 がかか ってい るか らだ。 意 匠 を優 先 したた め構 造材 の収 ま りに若 干 の無理 が生 じた とい うので は、本 末 転倒 で は な い か。 梁成 を決 めた り、 梁 の架 構 を考 えた りす る の は 、皆 さんは 得 意 の はず 。 そ の物理 的 な (法 的 に も)根 拠 と して 、構造 につ い て の勉 強 を して い きま しょ うとい う提案 だ。 実 際 に桁 や 梁 な ど材 を担 ぎ、 自分 た ちが造 る建物 の重 量 を頭 で な く身体 で推 し量 り、地震や 台風 の 時 この よ うに揺れ るか も しれ な い と想 像 出来得 るの は誰 だ ろ うか。材 の重 さを知 る者 の こ とを建 設 技術者 と、本 来 は い うの で はな い だ ろ うか。 パ ソ コ ンのモ ニ ター に映 る図面上 の建 物 は 、風 雨 に曝 され は しない の だ 。 経年 劣化 もな い 。 しか し、私 た ちが設 計担 当者 や現 場 監督 の説 明 を疑 問 に 思 つ て も、彼 らの 出す 客観 的 な数 字 を理 解 出来 な けれ ば 、そ して こち らも、 客 観 的 な数 字 を出せ な けれ ば話 にな らな い 。 た とえば 、 N値 計算 に使 われ てい る 基 準値 や係 数 は本 当に適 正 な もの な のか 大 工 の 目で疑 つて み るの も一つ の勉 強 か も しれ な い。 最 後 に二 つ 目の提案。 職 人 は先 生 で は な い。 大 工 が設 計屋 さんた ち との 間 に 深 い 溝 を感 じる原 因 の一 つ は 、彼 らか ら私 た ちが低 く見 られ て い る、 とい うあ の 思 い だ。 私 た ちが先 生 とよぶ 設 計屋 さん は 、それ は あなた方 の 思 い過 ご しだ と言 うだ ろ うが 、そ うで もな い。 同 じ思 い を他 の 大 工 さん に持 たせ て は職 人 と して 失格 で あ る。 大 工 は職 人 の本 分 をはず してはな らな い 。 仕 口や継 ざ手 な ど の勉 強 をす る、 さ らに道 具 を研 ぎ こむ 。 自分 は これ だ けは 、他 の 大 工 に負 けな い と思 え る もの を、 一 つ だ けで も持 つ こ とが大 切 だ と、私 は考 え る。研 ぎ も満 足 に出来 な い 大 工 が構 造 の勉 強 な ど十年 早 い とい う思 い は 、 自戒 と して私 も持 つ て い る。 あ る工 務 店経 営者 か ら聞 い た話 が あ る。 そ の方 の知 り合 い で 、仕事 がない た めユ ニ ッ トバ スの施 工 ばか りして い る大 工 さんが い る。 そ の方 は削 ろ う会 の会 員 で 、常 に飽 が け の腕 を磨 い て い るそ うだ。 私 は この話 を聞 い た とき 、そ の よ うな大 工 さん ほ ど、 こだわ りが過 ぎて仕 事 をな く してい る の だ と、切 な くな っ た。 ただ 、 こ うい う職 人 もい る とい うこ とを 、私 の提案 の補 強 には逆 効果 とな るが、 こ こで紹介 してお きた い。 この程度 の提案 で 、組 合 仲 間 の 大 工 さん た ちが納 得 して くれ るはず もな い こ とは 、私 も分 か る。 こん な提 案 で飯 が食 え るか と。私 は 、焼 け石 に水 か も しれ な い が 、 どの道 この ま ま食 えな くな っ て い くので あれ ばそ の前 に 、焼 け石 に何 27 回 か水 をか けてみ よ うと考 えて い る。 住 宅 の着 工 戸数 が激減 してい る。 小 さなパ イ の 奪 い合 い とい う状況 で あ る。 常 に飽 が け の腕 を磨 い てい る人 で さえ仕 事 が な い。腕 を磨 い て い るか らこそ な い のか も しれ な い が 、それ は別 と して 、 こ ち らに も反省 す べ き点 は あ ろ う。現 場 の近 隣 の方 に ろ くに挨拶 もせ ず仕 事 を して は い なか っ たか。職 人 が 自らの腕 を鼻 にか け、 ご年 配 の施 主様 の場 合 は特 に 、傍 目には どち らがお 客様 か判 らな い よ うな こ とは なか っ ただ ろ うか。 一 服 の お茶 は 当た り前 、毎 日の お昼 ご飯 ま で ご馳走 にな っ て い た こ とはなか っ たか。 大 手 ハ ウス メー カ ー を成 長 させ た の は 、 じつ は私 た ち の勉 強不足 と尊大 さだ っ た ので はなか ろ うか。 確 か に現 実 は厳 しい が 、厳 し くな けれ ば初 めか ら私 も、後進 の育成 を真剣 に 考 えてお られ る人 た ちに 、私 の 考 えを聞 い て も らい た い と考 えは しない。 私 た ち の世代 で 日本 の伝 統 工 法 と、多少 問題 あ りと して も、そ の延 長線 上 にあ る在 来 工 法 を終 わ らせ て しまって は い けな い 。私 た ちが若 い 頃、 この 地松 の 丸太 を ど うや つて組 も うか と真剣 に悩 ん だ末 、収 め方 が た とえば真夜 中 に 、布 団 の 中 で突然 閃 くそ の感 動 を、今 の若 い 世代 の人 た ちに も、是非味わ っ て ほ しい。 私 た ちが生 き残 る こ とと、後継者 を育 ててい く こ とは 、 一 枚 のカー ドの表 と 裏 の 関係 な の だ。 28 最後 に 私 の夢 の一つ は 、住 宅産業 を牛 耳 つ て い るハ ウス メ ー カ ー か ら、私 た ち孫請 け の組合 仲 間 が仕 事 を取 り戻 す こ と。 そ の た めには 、文字通 り、血 の滲 む よ う な努 力 が必 要 だ。 営業 の勉 強 も馬鹿 には 出来 な い。 そ の た めに 自信 を持 って勧 め られ るもの を造 り得 るため の技術 的 な勉 強 は当然 の こ と。 これ は組 合 へ の提 案 とな るが、組 合員 の 中には、既 に何 らか の活 動 を してい る人 もお られ るか も しれ な い 。 そ の よ うな人 を講 師 と して招 き、組 合 支部 単位 での勉 強会 の場 が あ っ た らど うだ ろ うか 。 定期 的 に継 続 後 、支部横 断的 な報告 会 も、 いい刺激 にな るので は 、 とも考 える。 これ か ら暫 くは、朝 日新 聞社 な ど全 国紙 との 、本来 な らば い らぬ戦 い もあ る。 建設 職人 の 地 位 向上 も福利 厚 生 も大切 で あ る し、社会 に真 実 を訴 えて い く こ と も大切 で あろ う。 しか し第 一 に 、「本 気 で 仕事 を 自分 た ち の手 に取 り戻す 」 こ と、 これ か らの建 設組合 の レー ブンデ ー トル は、ま さに 、 ここに あ るので はな い だ ろ うか。 そ の こ とに よ リー 番 恩恵 を被 るの は 、消費者 (施 主様 )だ 。 ハ ウス メー カ ー の ピンハ ネ 分 が な くなれ ば 、 同 じ予算 で 、若 い 大 工 の 手刻 み に よる、 国産材 をふ んだ ん に使 っ た 家 が 出来 るはず 。 それ で も、 なお余 るか も しれ な い 。 も し余 っ たな ら、 そ の 時 は私 た ち も少 し恩恵 に与 りた い。 資金 が 出来 た ら実物大 の躯体 を造 り、振動 実験 を して み た い。 そ の 結果 を も とに 、 た とえば 田舎 の 小 学校 の校 舎 を地場 の木 を使 つて 木造 で造れ た ら、 とも 考 え る。 そ して 、志 を同 じ くす る仲 間 と一 緒 に 、 日本建 築 の 技術 と技 能 を後世 に伝 える こ とに 、 ほん の少 しで も貢 献 出来 た と した ら素 晴 ら しい。 で も最後 ま で未 だ夢 、 か なわ ぬ夢物語 、 だ ろ うけれ ど。 冒頭 で 登場 してい ただ い た松 平 さん は、最後 に こん な こ とを仰 っ た。「日本 は まだ まだ大丈 夫 、 き っ と甦 ります。」 そ の理 由がた い へ ん 面 白か つた の だが 、そ れ は次 の機 会 にお話 しす る。 あ の 日、松 平 さん に出会 つ た こ とで 、 自分 も非 力 なが ら何 か 行動 を起 こ して み よ う と思 い 、 この稿 を書 き始 めた 、 とい うこ とは あ るのか も しれ な い。 志 を持 つ て切 磋 琢 磨 してお られ る、組 合 仲 間 の大 工 さんた ちには迷 惑 な提 案 を したが 、 こ うい う莫 迦 な こ とを考 えてい る奴 もい るんだ なあ と苦笑 してい た だ けた ら、 こん な嬉 しい こ とはない 。 私 と同様 、「それ が ど う した」 と言 われ た組 合員 の方 も多 い と思 う。私 がその 29 こ とを思 い 返 す とき、す べ て を暗 唱 出来 て は い な いが 、 心 に浮 か べ て 自 らを慰 め る言 葉 が あ る。 文献 の 引用 とい う意 味 では な いが 、 ここで 、最後 に記 してお きた い。 「・・ 。彼 らの 多 くは辛抱 強 く年期奉公 を経 て 、腕 を磨 い て きた 工 人 た ちで あ ります 。そ の腕 前 には並 な らぬ修行 が控 えてい ます。どんなに平凡 に見 えて も、 誰 にで もす ぐ出来 る技 で は あ りませ ん。 それ に仕事 を凍 か に しない の は 、職 人 の気質 で さえあ りま した。 それ故彼 らに も仕事 へ の誇 りが あ るの で あ ります 。 で す が 自分 の名 を誇 ろ う とす る ので は な く、正 しい 品物 を作 るそ の こ とに 、 もつ と誇 りが あ る ので あ り ます。 いわば品物 が主で 自分は従なのであ ります。それ故壁 イ名 を記そ うとは 企てません。 こ うい う気持ち こそは、もつ と尊んでよいこ とではないで しょ う か。実 に多 くの職人 たちは、その名 を暫めずに この世を去って ゅきます。 しか し彼 らが親切 に諾 えた品物の 中に、彼 らがこの世 に活きていた意味が宿 ります。 彼 らは品物で勝負 をしてい るのであ ります。物 で残 ろ うとす るので、名 で残 ろ うとす るのではあ りません。 彼 らの多 くは教育 も乏 しく、見識 も若たない人たちであ りま しょ う。 しか し 正直な人 たちであ り信仰 の人 であることは出来 たのであ ります。 (中 略) この世 の美 しさは無名 な工人 たちに負 うていることが、如何に大 きいであ りま しょ う。」 柳 宗悦 『 手仕事 の 日本』 よリ ー① 以上 30 参考文献 論 文要 旨 朝 日新聞 2009年 11月 29日 付朝刊 筆者 論説委員 野呂雅之 発行所 朝 日新聞社 点 伝統木造構法 匠の知恵生かす設計法作れ ① 第 9面 記者 の視ッ 規矩準縄 白)‖ 静 著『宇統』 『字通』準拠 成 り立ちで知る漢字のおもしろ世界 道具 。家 。まち編 著者 伊藤信美 発行 所 株 式会 社 ス リー エ ー ネ ッ トワー ク 2007年 発行 ① 第 二 部 家 の漢字 P182∼ P183 ② 第 二 部 家 の漢字 P184 ヘ ロ ドトス 歴 史 (上 )(フ イ ド版 岩 波文庫 ) 訳者 松 平千秋 発行所 株 式 会社 岩 波 書店 2008年 発行 ③ 巻 二 (エ ウテル ペ の巻 )五 P188∼ P189 新訂 宇統 2004年 発行 著者 白川 静 発行所 株 式会社 平 凡社 治】P608 ④ 【 31 訳注 189-l P 478 中国古代史論 (平 凡社選書 125) 宮崎市定 著者 発行所 株式会社 平凡社 1988年 発行 まえがき P5 ⑨ ⑤① I 中国古代史概論 一 中国古代史 とは何 か P6∼ P7 P39∼ P55 ⑬ I 中国城郭 の起源異説 一∼九 Ⅱ 遊侠に就て 二 遊侠 の起源 (春 秋) ⑬ P253∼ P254 ―(本 紀)新 釈漢文大系 38 史記 二(本 紀)新 釈漢文大系 39(⑫ 項羽本紀第七のみ) 吉田賢抗 著者 発行所 株式会社 明治書院 1973年 発行 P73∼ P74 ⑥ 夏本紀第二 P75∼ P77 ⑦ 夏本紀第二 史記 ① 秦始皇本紀第六 P327∼ P329 ⑫ 秦始皇本紀第六 P352∼ P353 ⑫ 項羽本紀第七 P464 P349∼ P353 孟子 下 (岩 波文庫) 訳注者 河ヽ 林勝人 発行所 株式会社 岩波書店 1972年 発行 孟子 巻第七 ③ 離婁章句上 P7∼ P10 有縁ネ ッ ト :december2007 http//henmi42.coc010g― nifty.com 854中 国の三面記事を読む (274) ⑩ 項羽 が 「阿房宮を焼き払 つた」 とい う話 は歴史 の ウゾ 朝 日新 聞 2004年 3月 15日 付夕刊 裕 筆者 叢 ガヽ 発行所 朝 日新聞社 ⑩ 第 17面 阿房宮焼失に疑義、焼け土発掘 されず 32 中国 叢小裕 (海 外文化) 四 千年 前 の 貫 穴 会報 「商工 とやま」平成 22年 1月 号 http//wwwo ccis― toyama.or.」 p/toyama/magazine/h21_m/1001tks_2.html 富山商工会議所/会 報 「商工 とやま」/記 事 筆者 曽根秀一 ① 新春特別企画 。長寿企業 の家訓 に学ぶ 金剛組 の略史 史料 1 巨大建造物を復元する よみがえる古代 大建設時代 編著者 大林組プ ロジェク トチーム 発行所 東京書籍株式会社 2002年 発行 第一部 家 を建て始めた人び と 困定復元十三 内丸山縄文集落 と巨大建築 ② すす んでいた木 の加 工技術 P30 第二部 巨大土木 工事 と国の誕生 店定復元1仁 徳天皇陵の建設 ⑤ 立地 と土質 (高 橋逸夫京都大学教授 の試算による)P82 ④ 全工期 と総工費 P98 萬葉集 全注 巻第一 著者 伊藤 博 発行所 株式会社 有斐閣 1983年 発行 ③ 萬葉集 巻第-50藤 原 の宮の役民の作る歌 P197∼ P206 朝 日新聞 2008年 9月 25日 付朝刊 筆者 渡 義人 発行所 朝 日新聞社 ③ 第 37面 藤原宮に大規模運河 資材搬入、総延長 500メ ー トル 奈文研 が発表 朝 日新 聞 2009年 11月 28日 付朝刊 筆者 渡 義人 発行所 朝 日新聞社 ③ 第 34面 都 の造営、運河大活躍 「工程 わかる発見」奈良・藤原宮 に複数回 付け替え跡 【 大阪】 33 新編 新 しい社会 6上 著作者 佐 々木毅 。岩 田一彦 e谷 川彰英 ほか 40名 発行所 東京書籍株式会社 2010年 発行 1日 本 の歴史 ④ l米 づ くりのむ らか ら古墳 の くにへ P18 古事記 (新 編 日本古典文学全集 1) 校注 ・訳者 山 口佳紀 ・神野志 隆光 発行所 株式会社 河ヽ 学館 1997年 発行 ⑥ 中巻 垂仁天皇 (三 )本 牟智和気 の御子 P205∼ P209 かわ物語 ∼川にまつわ る昔物語∼ http//mvw.kkrt mlito go.jp/water/kawamonOgtarit html 水について考える近畿地域会議 のペ ー ジ 近畿 の水を考 えよ う 資料提供 財団法人河川管理財団 2003年 3月 16∼ 23日 世界水 フォー ラム より ⑦ かわ物語 ∼川 にまつ わる昔話 ∼ 人岐の大蛇 日本書紀 (四 )(フ イ ド版 岩 波文庫 ) 校注者 坂本太郎・ 家永二郎・ 井 上 光 貞 。大野 晋 発行所 株式会社 岩波書店 2003年 発行 巻第二十五 ① 孝徳天皇 大化元年人月 P248∼ P249 ① 孝徳天皇 大化二年正月 P260-P261 ⑨ 孝徳天皇 白雉二年 九月 P320-P321 巻第 二十六 ③ 斉明天皇 元年十月 ⑩ 斉 明天皇 二年是歳 ⑩ 斉明天皇 四年十一月 P332-P333 P334-P337 P342-P345 34 ‐ 藤原氏 の正体 著者 関 裕二 発行所 株式会社 新潮社 2008年 発行 ⑫ 藤原 の子 ・聖武天皇 の豹変 P235∼ P239 続 日本記 二 (新 日本古典文学大系 13) 校注者 青木和夫 。稲岡耕 二 。笹 山晴生・ 白藤稽幸 発行所 株式会社 岩波書店 1990年 発行 巻第十五 ⑬ 天平十五年十月 P430∼ P433 補注 14-十 四 P604∼ P605 補注 15-二 人 P610∼ P611 塔 (梅 原 猛 著作集 第九巻) 著者 梅原 猛 発行所 株式会社 集英社 1982年 発行 第二部 政事 と祭事 の相克 第五章 奈良遷都 と仏教 ⑭ 仏教政策 か ら見た遷都 の効用 P236 ⑮ 興福寺 の二つの金堂 P240 木に学べ 西岡常一 著者 発行所 株式会社 月ヽ 学館 1988年 発行 第二章 法隆寺 の木 ⑩ 飛プ 烏の工人 の知識 と技術 が、中門の美 しさに表現 されてい る P99∼ P100 法隆寺 の謎を解 く 武澤秀一 著者 発行所 株式会社 筑摩書房 2006年 発行 第二章 法隆寺は突然変異か ⑪ 5謎 の柱は ビテイ コツだつた P190∼ P201 35 薬師寺 白鳳伽藍 の謎 を解 く 白鳳文化研究会 編者 執筆者 鈴木嘉吉 。東野治 之・藤善員澄 王健岐・工博 (翻 訳)・ 猪熊兼勝 発行所 冨山房イ ンターナショナル 。杉 山二郎 。青山茂 。松久保秀胤 2008年 発行 薬師寺金堂薬師如来三尊考 ⑬ 元薬師寺 と天武持統朝 P l16 帰 化 人 と建 築 の 意 匠 日本 の建築 (芸 術選書) 大岡 費 著者 発行所 中央公論美術出版 1967年 発行 二 奈 良時代 の建 築美 ③ 3奈 良時代寺院の建 築的構成 P30∼ P31 二 寺院建築 の建築群 としての構成 P55∼ P56 ① 3奈 良時代芸術 の総合性 日本書紀 (四 )(フ イ ド版 岩波文庫) 校注者 坂本太郎 。家永二郎・井上光貞 。大野 晋 発行所 株式会社 岩波書店 2003年 発行 巻第 二十二 P106∼ P107 ② 推古天皇十三年 四月 ② 推古天皇十四年四月、工月 P106∼ P109 86 上 宮聖徳 法 王 帝説 (岩 波文庫 ) 證註 狩谷 望 之 補校 平子 尚 校訳 花 山信勝 ・家 永 二 郎 発行所 株 式会 社 岩波書店 1941年 発行 ② 佛 工 鞍 作鳥 P124∼ P127 ② 司馬鞍首止利佛師 P70∼ P72 広辞苑 第四版 編者 新村 出 著作権者代表 財団法人新村 出記念財団 発行所 株式会社 岩波書店 1991年 発行 P l187∼ P l188 ④ 女 日 来 tathagata P 1970 ④ 釈迦 S akya ④ 観世音 Avalokitesvara P 582 P 2357 ④ 初日 藍 sangharama P 549 ④ 菩薩 bodhisattva 薬師寺 白鳳伽藍 の謎 を解 く 白鳳文化研究会 編者 執筆者 鈴木嘉吉・東野治之・藤善員澄 ・杉山二郎・青山茂 王健岐・王博 (翻 訳)・ 猪熊兼勝 ・松久保秀胤 発行所 冨山房イ ンターナ シ ョナル 2008年 発行 発掘 か ら見た本薬師寺 ⑥ 天武天皇 のモデル は文武 王 にあつた P225 薬師寺 白鳳伽藍 の謎を解 く 座談会 ⑤ 薬師寺伽藍形式を巡 つて P377∼ P380 日本書紀 (工 )(フ イ ド版 岩波文庫) 校注者 坂本太郎・家永二郎・井 上光貞 。大野 晋 発行所 株 式会社 岩波書店 2003年 発行 巻第二十七 P34∼ P35 ⑦ 天智天皇 二年 九月 P28∼ P31 ⑦ 天智天皇 四年 ⑦ 天智天皇 五年是冬 P38∼ P39 ⑦ 天智天皇 五年是歳 P52∼ P53 37 斑鳩 の匠 宮大工三代 (平 凡社 ライブラリーoffシ リーズ) 西岡常― ・青山茂 著者 発行所 株式会社 平凡社 2003年 発行 (1977年 徳間書店刊行) 第五章 黛築用材 と工具 の話 ③ ス ミツボ、ス ミサ シ、サ シガネ のこ と P304 宮大工棟梁・西岡常― 「口伝」 の重み 西岡常一 著者 西岡常一棟梁 の遺徳 を語 り継 ぐ会 監修 発行所 日本経済新聞社 2005年 発行 第二章 一 ノミといえども、疎かにせ ず ③ 白鳳 の金堂 P104 韓国建 築史 テ 張星 著者 テ 張星・柳沢俊彦 訳者 発行所 丸善株式会社 1997年 発行 第十章 統一新羅宮殿お よび仏寺建築 二 仏寺建築 ⑨ (2)寺 址 P86 法隆寺 薬師寺 東大寺 論争の歩み 著者 大橋一筆 発行所 株式会社 グラフ社 2006年 発行 Ⅲ 薬師寺の創 立 と移転 をさぐる ⑩ 本薬師寺址 の発掘調査 P131∼ P135 38 日本 の 建 設 産 業 の 未 来 宮大工 と歩 く千年 の古寺 松浦昭次 著者 発行所 株式会社 祥伝社 2002年 発行 1章 法隆寺を歩 く ① 「支割 り」 か ら見えてくる中世 の奥深 さ P62 2章 華麗 なる平安時代 を歩 く ① マニュアル頼みでは、いい仕事 はできない P l19∼ P120 宮大 工 千年 の手 と技 松浦昭次 著者 発行所 株式会社 祥伝社 2001年 発行 5章 「苫 の匠」 の、飽 くなき美 の探究 ― 「よみがえつた金剛輪寺二重塔」 ① 「支割」に見 る、 Fの 大工のこだわ り P181∼ P182 毎 日新聞 2009年 3月 9日 付朝刊 発行所 毎 日新聞社 ② 第 2面 連載 公共事業は どこへ 斑鳩 の匠 宮大 工三代 (平 凡社 ライブラ リーoffシ リーズ) 西 岡常一 。青山茂 著者 発行所 株式会社 平凡社 2003年 発行 (1977年 徳間書店刊行) 第工章 建 築用材 と工具 の話 ③ 規矩術 な しに建てた飛′ 尋の伽藍 P307 39 不 器 用 の一 心 と 「皮 膚 兎 」 現 象 神 田鶴人ちょっと小粋な魚旨ばな し 著者 師岡幸夫 発行所 株式会社 草思社 2000年 発行 ① 辛抱す る木に花が咲 く P153∼ P154 ② 辛抱す る木に花が咲 く P155∼ P156 棟梁 技を伝え、人を育てる 小川三夫 著者 聞き書き 塩野米松 発行所 株式会社 文藝春秋 2008年 発行 第五章 不器用 ③ 器用は損や P120∼ P122 毎 日新聞 2月 16日 付朝刊 筆者 須 田桃子 発行所 毎 日新聞社 ④ 第 11面 不思議な 「皮膚兎」凱象 道具を介 して も体感 高知 工科大、東大チーム発見 職 人 の 自立 と後 継 者 の 育 成 木 に学べ 西岡常一 著者 発行所 株式会社 対ヽ 学館 1988年 発行 第六章 棟梁 の言 い分 ① 宮大工の技法は受け継 ぐことがで きるだろ うか P198∼ P206 第七章 宮大工の心構 えと口 ① P210∼ P212 40 最後 に 手仕事 の 日本 (ワ イ ド版 岩波文庫) 著者 柳 宗悦 発行所 株式会社 岩波書店 2003発 行 (1948年 株式会社 靖文社刊行) 第二章 品物 の性質 ① 職人 の功績 P228∼ P230 刀争