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報告書
第3号
第三回「水辺空間を探訪する会」を終わって
水辺空間を探訪する会
呼掛人代表
水
元
侃
本会も3回目を迎えて、前回の多数の意見により、少し遠出して一泊しながら、治水事
業に携わった者たちとして、自分たちの辿った足跡及びその時々のいろいろなエピソード
等を語り合おうと、こんな事をコンセプトにして探訪箇所を新冠川とした。
この川は昭和 30 年7月の豪雨により、地域としては史上最大の洪水被害を受け、当時と
しては希にみるほどの大規模な災害復旧助成事業により短期間で整備をした河川である。
総延長 25 ㎞を昭和 31 年から同 35 年までの5年間で概成させた実績を現実の姿としてこの
度現地を探訪し、「機械類の乏しい時代によくぞこれまで」と改めて諸先輩達の並々ならぬ
努力に敬服させられたのは参加者一同皆同じ思いか?
特に今回は、当時最初から事業を担当された齋藤省吾氏に特別参加いただき、色々な苦
労話などお伺い出来た事はこの会の目的の原点であり有意義なものであった。また、事業
所主任として計画面も含めて苦労された山田義見氏からも丁寧な寄稿をいただいた。本当
に感謝申し上げます。それにしても、ふと思う。もうかれこれ 40 年以上も前のことである。
よくぞこれ程鮮明に覚えていられるものだろうか?或いはそれほどまで異常であったとい
う事か。
当該災害復旧助成事業についての検証
イ)この事業に要した総工事費
C=1,176 百万円
これを現在ベースで再試算すると
C=6,481 百万円と算定される。(2,000 河川ハンドブックより)
ロ)整備総延長はL=25 ㎞なので
1㎞当たりの単価はa=6,481÷25=259 百万円と試算される。
この数字は現在の河川整備費として妥当なのか?
ハ)当時の被害の状況
・氾濫総面積
1,786 町歩
・被害耕地
1,642 町歩
・浸水戸数
573 戸(非住家含む)
・人的被害
死者 27 人、傷者 30 人、その他
・その他
家畜被害、土木施設被害等
当時、これらの総被害額を 10 億 5 千万円と試算している。
(工事竣工記念誌より)
これを現在ベースで再試算するとC=5,787 百万円と算定される。
ほぼ
以上のことから、被害額と投資額は略見合っており、竣工後現在迄 40 年以上に亘って
洪水氾濫被害が発生していない事でも有り、治水施設の減価償却は終わっている。
ニ)効果の判定
前記の通り、その後当河川での洪水氾濫事故は発生していない。従って助成事業の計
画として、基準地点の滑若橋でQ=1,300m3/sと設定しているが、この流量を評価する
とどの位になるのか?
計算手法及び雨量資料がないので判定することが出来ない。また、当時の土地利用現
況図がないので、年便益の算定も難しい。このような場合に事業効果を判定するにはど
うしたらいいのか、会員のどなたか智恵を授けてくれないでしょうか。
愚か者の世迷い言
改修による効果が事業投資額を超過したと考えた場合、それ以後の効果については事業
投資がゼロで新たに生産が発生したと考えて、その生産額を「治水事業の特定財源」とし
て別途確保するという考え方は成り立たないか?
しかし、どうもインチキくさい。どなたか暴論に冷水をあびせて下さい。
感謝の記
前回の勝納川でもそうであったが、今回は更に貴重な過去の日高地方における豪雨災害
記録を山花氏にまとめていただいた。本当に感謝申し上げる。また、前回のレポートを含
めて、当日の映像を金澤氏がCDに納めてくれた。これにも本当に感謝申し上げ、この会
が少しずつ充実して行く事に呼掛け人として喜びを禁じえない。
また一方で、今後の責任の重さに若干の不安を抱いているものである。
特別寄稿
新 冠 川 災 害 土 木 助 成 工 事
山
(初代
事業費
田
義
見
新冠川事業所主任技師)
諸元
災害費
助成費
合 計
785,061,000 円
391,104,000 円
1,176,165,000 円
(当時土工単価 360 円)
流域面積
流路延長
計画日雨量
計画高水流量
比流量
402.1 ㎞ 2
77.3 ㎞
244.0 ㎜
1,300 m3/s
3.23
(中小河川の諸元総覧)
1.洪水の状況
昭和 30 年 7 月 2~3 日の不連続線降雨(浦河海洋気象台観測日雨量 188 ㎜/d)は、新
冠川に激しい土砂流をもたらし、洪水となり、左右の台地に挟まれた延長約 25 キロメートル、平
ほぼ
均幅約2キロメートルの平地略全域に壊滅的な被害を及ぼした。
家屋は倒壊、流失し、田畑の決壊はもとより、その全面は土砂に埋没し流木に覆われ、
その除去に1年以上の労を要した。
特に悲惨であったのは、人的な被害であった。濁流に襲われた人は懸命の人々の救助の
努力も空しく命を失った。その数 27 名であった。
水害当時の人々の証言では、川にはとても近づけず、唯一安全と思った河口の鉄道橋の
上から、ロープや網をさしのべたが、橋桁に頭を打たれる人もおり、多くの人を失ったと
のことである。
助かったある人の話では、「濁流で逃げ場を失い木に登った、蛇が沢山、一緒に登ってき
たが、その気味悪さより、木がそのままであることを願った。」などの話があった。
この悲惨、甚大な被害は、中小河川災害としては恐らく道内では戦後最大のもので、戦
前の富良野川の泥流災害に比肩されるものであろう。
2.改修計画にあたり
災害直後から尾藤所長の指揮の下で室蘭土現総力を挙げて対策がなされた。本所では、
三階に寝具を持込み徹夜で作業が行われ、現地では、静内川事業所(主任:佐藤寅雄)を
中心としたチームが編成され、膨大な災害査定業務が遂行され、その年度内に災害復旧費
が確定した。工種の大部分は、災害の実情に合わせ、河道埋没土砂の除去であった。
改修にあたっては、災害土木助成工事としてその復旧に当たるとし、本格的な事業は昭
和 31 年から始められた。
改修計画では、当初、ダム計画が検討され、当時、河川課におられた小野
中さんの下
で立案されたが、土砂で埋没した河道の処理も併せ必要で、コスト面、あるいは災害工事
としての工期の点などから、通常の堤防方式とされたと考えられる。
ダム計画が検討されたのは、恐らく、
a.出水の状況から、計画高水流量が2千トン前後になる。此の為、堤防方式では、
堤間が大きくなり、狭小な平地の土地利用に問題が生ずる。
b.幸い、有望なダムサイトがある。
の考え方であったと思う。
3.計画、施行など
a.計画流量
前述の様に出水状況では2千トン前後の洪水量が流出したと見られる。これは、河口
部の鉄道橋の桁下に溢れた状況、また恐らくはこの時は、河床が大きく洗堀された状態
で河積が平時より大で、推測ではあるが、氾濫による出水のピーク低減を考慮すると、
この程度の出水があったと思われる。
しかし、河道が約 15 キロメートルにわたって異常に土砂埋没した実情から見て、これは上流
に大きな山腹崩壊があり、これが河流を堰止め湛水となり、その崩壊によりこの異常出
水となったと考えるのを合理的とした。
以上から、洪水痕跡によらず日雨量からの試算による計画高水量の決定とした。
b.河道計画
堤間は 170~250 メートルとし、法線は大体、従来の川の形状に従った。
埋塞土砂は堤防に流用する。
護岸は、連節ブロックを大部分に使用した。これは、蛇篭に比べ施行性がよく、また
大部分の河岸が砂利質で耐力があり、その欠点である背後土砂の流失が少ないと考えた
結果である。
一部の低い高水敷の箇所では栗石粗だ工を用い低水護岸を上部の保護工とした。
唯一の大きな湾曲部(姉去橋下流)では、牛枠水制を設置し、流れの補正を図ったが、
この水制は埋没した。しかし、埋没しても深掘れの防止など、多少の効用は果たしたと
考えている。
c.付帯工事
付帯工事の主なものは橋梁で、上流から御影橋、滑若橋、姉去橋などがあったが、橋
脚がコンクリートで残った姉去橋以外はすべて永久橋とし、姉去橋は従来の木製トラス
で復旧した。
この木製トラスの施行にあたっては、業者に経験技術者がいず、ベテランの木戸直之
さんが原寸起こしを行ったのが懐かしい思い出である。
d.直営施行
中流部の旭地区の工事施工は直営とした。担当責任者、齋藤省吾。
これは、当時土木の機械化が道内の一般業者の間では未成熟の段階で、漸くブルドー
ザーが普及し始めた頃であり、ダンプトラックが珍しい時代で、大土量を動かす河川工
事では各所で直営工事が行われていた。
新冠川では当然、全地区の直営は無理で、その一部を行う事としたのである。
導入機械はブルドーザー、ダンプトラック、トラック、パワーショベル、ドラッグラ
イン(八雲出張所から借入れ)、グレーダー、スクレーパーなどであった。
スクレーパーは 20 トンのブルで牽引されたが、土質が玉石で作業に苦しんだ。この選
択は無理であったかもしれない。
e.砂防工事
新冠川の災害は土石流災害であった。砂防工事が緊急に必要とされ、助成工事の着工
と略同時に、新冠川が峡谷から平地に出る地点の近くに、砂防ダムの施行が行われた。
担当者は齋藤省吾。
4.考察
新冠川の改修を終えて約 40 年の歳月が流れた。確率洪水年の期間は越えている。
昭和 30 年災害の実情を思う時、また、多くの河川改修が数十年の長期にわたり、夫々英
知を傾け、慎重に進められることを思えば、約5年の短期間に、そして当時の若かった技
術者達が無我夢中に、計画を立て工事の施行を行った経過を考えると、よくぞ此の川は災
害に耐えて来たと思料する。
技術上から問題点を整理して見ると、
a.計画流量と河川断面
もたら
新冠川流域は北東を日高山脈に囲まれた多雨地帯で、特に南西の風が 齎 す不連続線型
の降雨出水が多い。私が現場にいたある雨の日に、この川沿いの林道を車で走行し上流
の視察をしたが、山中の降雨強度が激しく、車の走行が難しい程であった。その時の私
の感じでは、山地の降雨強度は、平地に比し3割以上は強いと思った。
此のように、此の川は激しい降雨を受ける恐れのあることを考えると、他の中小河川
の比流量に比べ新冠川の比流量 3.23 は過小ではないかと考えられる。
しかし、此の川は 40 年間の出水に耐えてきた。
私は、この要因は河道にあると考えている。
イ.計画川床高は最深部を一応基準にしたが、深掘れ部ではその前後を考慮して余分
に低い計画川床とすることを避けた。
ロ.堤防法線は、フリーハンドで記入し定規間隔は最小の間隔とし、これに余裕をと
った。特に片側堤の場合はかなり河積に余裕がある計画とした。
ハ.河川断面は、自然形状を残し定規にかかる部分だけをカットする方式で、横断形
が不整になるため、略式ではあるが、不等流計算で高水位を定めた。
この場合、粗度係数は、低水敷 0.03、高水敷 0.05 とし、夫々の区分計算とし、万
全を計っている。
ニ.堤防の盛土は、河道内からの採取とした。採取土が不足の場合は、河道整理とし
て監督員の指導の下、高水敷からの採取が行われた。また、掘削土に余剰の生じた、
滑若地区、新栄地区などの上流地区では堤防捨土としその強化を計った所もある。
以上であるが、イ、ハは当然であるとして、洪水を安全に流下させる為重要であり、
最近見掛ける等値置換粗度係数を用いた低・高水敷の一括計算では、河川の状態をよく
勘案する必要があろう。例えば、計画高水に2割の余裕をとっても、流下計算に2割の
能力不足があれば同じである。
ロ、ニは余裕である。河川工事では、余裕が大切とされる。精密な計算は勿論大切で
あるが、その際もできるだけ安全側をとり、施行も流下能力を考えた臨機の対処が必要
と考える。
新冠川改修がその計画流量が少ないとされながら、溢水などの被害を免れてきたのは、
幸便とは申せ、河道に幾分か流下能力に余裕があったためと思う。
5.自然保護
新冠川では、地勢上から、河川法線は略、在来河川の姿に従った。此の為、大きなショ
ートカットがない為、落差工の設置の必要が無く、また、低水護岸、あるいは堤防腹付け
護岸の設置延長はかなり大きくなったが、その大部分はコンクリートブロックであり、そ
の空隙を通じて川岸と河水との接触があり、またコンクリートはややアルカリ性であるが、
材質は自然石に似たものであり、年月を経て自然になじんだこの護岸は、決して自然性を
損なうものではない。
また、低水路の河床勾配は在来の勾配と略、同一としているので低水は自然に形成され
た低々水路を在来の流速で流下することとなり、水性生物の環境は保持されていると存ず
る。
6.むすび
昭和 31 年 5 月に現地に入り、狭い民家の一部屋での作業、職員全員を5班に分けての測
量、作図、改修区間約 25 キロメートルについての全体計画作成(期間3ケ月)、工事の発注、実
施、また直営現場の体制整備のための人員募集、施行機械の機種選定、購入準備等、まさ
に阿鼻叫喚の様相であった。連日の徹夜作業にも超過手当は無かったが、職員は皆頑張っ
た。これには悲惨な災害を見た使命感があったからと思う。
当年の工事発注が秋になって行われ、当時、現地製作であった連節ブロックの多くは凍
害を受け、翌春、取り替えたブロック数が、数千個に及び業者に多大の迷惑をおかけした
思い出など多々ある。この様な次第で、多忙にまぎれ、工事についての技術的な報告書は
作れなかった。
此の一文は、今回、水元氏の依頼により、会の為作成したものである。
(文中敬称略)
第3回
水辺空間を探訪する会に参加して
池
田
博
この会が開催される度に、事務局並びに関係者の皆様には忙しい中、準備・資料作成に
ご苦労をかけ、厚くお礼申し上げます。
今回も事前に配布を受けた、山田義見先輩のレポートを参考にさせて頂きながら現地を
歩かせてもらい、先輩がレポートの中で自然保護について記載されている「長い年月を経
て自然になじんだ護岸は決して自然性を損なうものではない」と記載されておりましたが
まったく同感であります。
また、現地においては風邪のため掠れ声しか出せない齋藤省吾先輩が当時を思い出しな
がら、説明していた姿が印象的でした。
我々が技術屋として育った時代は、先輩とのコミュニケーションをとりながら仕事を教
わってきた当時を思い出し、また我々には手がけた現場が残っております。
今の自分を振り返って[技術屋]でよかったと自画自賛の気持ちを一段と強くさせられま
した。
現職の技術職員の方々にも、物をつくる楽しみや出来上がった感動の場を多く経験され、
技術職員としてプライドを、なお一層強く持てるように期待したいものです。
最後になりましたが、事務局は勿論、立派な資料を提供して頂いた㈱シン技術コンサル
の山花さん大変ありがとうございました。
新 冠 川 に 魅 せ ら れ て
橋
本
守
穂
勝納川につづき、今回で2回目の参加です。これまで北海道内の河川については、仕事
柄いろいろと見てきたつもりだったが、昭和 30 年 7 月豪雨により 1,700ha 余にわたり大氾
濫し、27 名の尊い命を奪った新冠川の改修現場にお目にかかる機会は、何故か一度もなか
った。それだけに今回の河川探訪には心が引かれた。
初代の新冠川事業所主任技師をされた山田義見さんの工事概要が事前に配付されていま
したので、現地の探訪には随分と役に立たせていただきました。
今回は改修延長が 25 ㎞もあるため、1㎞程の堤防散策と、数ポイントでの車による下車
探訪であったが、新冠川の一部を垣間見ることができたと思います。数箇所の橋梁の上か
ら上下流の河道を眺めれば、総じて河幅も広く適度に湾曲し、河床・河岸も安定感があり、
風格ある河川に思えた。また、川辺の樹木も程よく繁茂し、清流での釣り人も見受けられ、
その風情が一層景観を引き立てている。
堤防の散策は1㎞程であったが、当時担当された齋藤省吾さんの昔話を聞かせていただ
きながら、楽しく散策することができました。堤防には3m位の表小段があり、当時のま
まの姿で連結ブロックが残っている。それがしっかり機能している。施工後 40 年も経過し
ているので、所々にブロックが顔を見せる程度で、正に自然と共生した護岸そのものと言
えよう。
山田さんの概要書や当日配付いただいた「にいかっぷがわ竣功概要書」を拝見すると、
・現河道、現河床を尊重した河道計画である
・河道計画には随所に余裕を見込んでいる
・堤防は積極的に霞処理をとり入れている
・堤防護岸に重点をおき、低水路は河川の自由に任せて流下させている
このように優れた河川計画であったからこそ、これまで幾多の洪水をも乗り越え、無災
害でこれたのであろう。
今までここを訪れることが無かったのは、「氾濫による大災害が発生しなかった」、こん
なところにその理由の一つがあったのかも知れない、と回想している。
最後になりますが、シン技術コンサルの山花さんから貴重な資料提供をいただき、また、
事務局ほか皆さんには大変お世話になり感謝申し上げます。来年も楽しみにしております。
真
夏
の
夜
の
夢
苅
部 浩
也
かわいい女の子が若い母親に手を引かれて歩いている。この子もすぐに美少女に変わり、
年頃になって結婚、淑女で母親そしておばさんを経て熟女から上品な老女と変身するだろ
うなどと勝手に想像をめぐらす。女性の平均寿命は延びるばかりだからゴールドさんシル
バーさんの仲間入りをするかも知れない。とすると 22 世紀に存在する可能性が高いなどと
勝手な想像が膨らむ。しかし人生山あり谷あり、そう楽な人生は期待しない方がいいなど
と勝手な想像はますます大きく膨らむ。イヤ他人事ひとごとと暑いさなか僅かなワインと
発泡酒でウトウト‥‥‥‥‥
ハッと気づくとにこやかな美少女が何やら話しかけている。どこかで見た顔だと思った
らなんと先ほどの女の子だ。「ずいぶん大きく‥‥‥」と話しかけたら「いいえ私はその子
のひ孫です」という。まさかとカレンダーを見ると 2110 年 8 月とある。ここはどこかと訊
ねると、地下数十メートルの4LDKのリビングルームだという。そういえばエアコンで
ない涼しさが肌に心地よい。
それからの彼女との会話は何とも面白くかつ波瀾万丈のスリリングなものであった。
21 世紀の半ば「地球温暖化防止や淡水の保全は 21 世紀最大の環境問題となるが温暖化対
策は手遅れの可能性が高い」という国連環境計画(UNEP)の予言が現実となって海面
の上昇がはじまり、大渇水と大洪水が頻発するようになった。フィジーやパラオなどの島
国は水没回避が深刻な課題となり、オランダでは国土の3パーセントを温暖化水没に備え
て水吸収地帯として人造湖を建設したという。わが国も公共事業削減の大合唱の時代では
あったが、緊急の河川事業やダム事業の展開によって辛うじて大氾濫を免れ淡水の確保が
できたものの、いわゆるゼロメートル地帯は完全な水没を余儀なくされたという。この頃
から一般家屋や工場などの地下化がはじまり、今では地上に建物が見られなくなっている
という。
「地下の生活は不便でないか」との質問に「不便どころか快適で楽しい」という。なる
ほど紫外線を遮断するフィルターを通して太陽光が射し込み、地上と変わらない 24 時間が
展開する。気温はほぼ一定で四季を感じさせないが、地上で思う存分楽しむことができる。
地下通路は四通八達していて何の不自由もない。各家庭には小型UFOがあって国内なら
簡単に日帰り旅行ができるといい、旧新千歳空港付近には大型UFOが多く飛来し、月を
はじめ宇宙旅行などが楽しめるともいう。そういえば核廃棄物や産業廃棄物などといった
ごみの類は、超大型UFOもろとも太陽の黒点に放り込んですべて解決しているという。
人口は大分減ったが、いわゆる高齢社会は解消し、人口ピラミッドは正常に近くまで回
復している。農業は大型機械化ロボット化が進み、バイオマス技術の進歩と人口の減もあ
って自給率がほぼ 100 パーセントになっている。
思い立って地下の通路を歩いてみることにした。
かわいい女の子が若い母親に手を引かれて歩いている。この子もすぐに美少女に変わり、
年頃になって結婚、淑女で母親そしておばさんを経て熟女から上品な‥‥‥‥‥と考えた
あたりで電話のベルがけたたましく鳴り、「明日朝8時、新冠川に出発します」という声で
目が覚めた。
夢から覚めて
新冠川は静かに流れている。
昭和 30 年、あの大災害の後荒れ果てた河道や、その後その河道内を多くの重機類が轟音
を発して活動したであろうその有様を想像できるものは全くない。近自然工法などと思い
出す必要もなく全く自然の川となっている。
左様、川は復元力をもっている。河道は限られた範囲ながら自由に形成されている。破
壊されたはずの多くの植生も然るべき場所に立派に復元している。コンクリートの護岸や
根固ブロックなども全く自然にとけ込んでいるではないか。霞堤を含むなだらかな堤防法
線が堤内の豊かな牧場や牧舎と一体となって見事な景観を呈している。
河川には時に荒療治が必要でないかとすら考えさせられる。
過去最大級の降雨があったら全く安全な河川はあるのか。地球温暖化が進んで大渇水や
大洪水が起こったらどうなるのかなどと、またまた夢心地になっていた。
13.8.18
新冠川を訪れて
熊倉紹二
新冠川については、今回、説明の労をとられた斎藤省吾さんをはじめてとして、ご高名
の諸先輩が尽力されたことを噂には聞いていましたが、訪れたのは、はじめてである。
新冠川で、昭和 30 年 7 月の未曾有の洪水、山津波の発生により、数多くの人命や財産が
失われ、壊滅的な被害を受けたこと、また、耕地や家屋を覆い尽くした土砂の除去に一年
以上もかかったことなど、想像だにしていなかった。
そんな水害の歴史をおくびにも出さず、現在の新冠川は穏やかな表情をしている。
水際には鬱蒼と樹木が茂り、水量が豊かで清冽な感じがして、ふと心を和ませる。
いつも思うのだが、こころを和ませる風景の背後には、川(水)と、生き物たちの豊かな営
みがあると感じさせられる。
改修後、40 数年が経過した新冠川と水辺の自然の佇まい。
13.8.18
サラブレッドで名高い新冠町。ひと、馬、川のふれあいがある。
今回、自分の中で特に感動を覚えたのは、滑若橋の下流で地元の子供達が釣りや川遊び
を楽しんでいたことである。自分達がしばらく忘れていた、なんとも心が和む風景である。
昨今の川づくりで、子供達を見るのは、都市や農村部でも背後に公園などのある、いわゆ
る親水空間として整備した箇所である。釣りにしても、目にするのは大半が大人たちであ
る。
釣りや川遊びに興じる子供たち。「自然の風景」がそこにある。
13.8.18
(多自然とは、できるだけ手をかけないこと。同時に、川の良き理解者であること。)
新冠川の改修計画において、堤防法線は現況の河川成りに設定し、片堤区間では河積に
余裕を持たせた計画であると聞いた。
このような考え方は、いまの「多自然型川づくり」では、あたりまえと感じる人もいる
と思うが、なかなか実践するとなると難しいものがある。実践するためには、工学的な知
識はもちろんであるが、経験や体験に裏打ちされた知恵が必要となる。また、川を良く知
らなければならない。改修区間のみならず、上下流を歩いて、見て、違いや癖を感じなけ
ればならない。そして「川づくりに対する強い思い入れ」を持たなければならない。そう
感じている。いまの自分には足りないが,,
,,
新冠川の今を思うとき、そこには歴史や河道特性を理解し、そのうえで川を遊ばせて見
守ってやる、そんな強い意志と愛情をそこに感じてならない。
いまの川づくりに求められるのは、5年、10年先の評価を気にした川づくりではなく、
もっと長いスパンで、未来に引き継ぐ視点でじっくり時間をかけた計画をつくりあげるこ
とではないかと感じている。
(連節ブロックは素晴らしい)
堤防河川で、高水敷幅があまり広くない箇所に施工されいてる低水路護岸は連節ブロッ
ク(ひとつ穴の小型ブロック)。それが 40 年以上経過し、周辺の地山と一体化し、川の風景
にも見事に同化している。手を全くかけなくても、〇〇マットよりもはるかに多自然。
左岸水衝部の連節ブロック。背後の堤防を守りながら、地山になじんでいる。
13.8.18
(写真の箇所は毎年、地先で除草をしているようです。)
(おわりに)
斎藤さんの説明のほか、山花さんが用意していただいた貴重な資料や、山田義見さんの
資料を拝読させていただくなど、貴重な会でした。有難うございました。
また、新冠町では道の駅に隣接する「レコード館」では、レトロな蓄音機を目にするこ
とができ、またレコード鑑賞を楽しませていただきました。特に竹のレコード針でジャズ
系の音楽を聴くなど、貴重な体験が出来ました。
最後に、2日目に訪れた真歌公園からみた静内川の雄姿を一枚。
改修後、回復した河畔林が印象的。川と街並みの風景がマッチしているように感じる。
新 冠 川 を 探 訪 し て
小
原
隆
心配した天候も、昼食を済ませ現場に向かう頃には、雨も上がりまずまずの天候。
最初のポイント「姉去橋」で齋藤(省吾)さんから河川の計画、工事の施工状況など説
明を聞き、いよいよ出発。
次のポイントまで左岸堤防を2㎞程歩く。施工後 40 年も経ているが、ブロック護岸等、
河道の安定していることに驚いた。
その後は、車に分乗して各ポイントに寄り、新冠川の探訪を終えた。
私(昭和 29 年、網走土現に入所)、佐呂間別川災害土木助成工事(昭和 28 年~昭和 32
年?)を担当していた頃の記憶をたどると、
流域面積
計画日雨量
計画高水流量
比流量
新 冠 川
402.1 ㎞ 2
244.0 ㎜
1,300 m3/s
3.23
佐呂間別川
385.2 ㎞ 2(河口で)
100.0 ㎜
400 m3/s
1.30
備
考
2
316.1 ㎞ (助成工事起点)
(助成工事起点)
(助成工事起点)
(佐呂間別川の数値は私の記憶ですので‥‥‥)
先ず計画的なことは、日雨量等から考えてOK‥‥‥また築堤等について、この当時
は大土工が難しく、基準(計画)堤間、断面を守れば一定の堤間でなくても、土工量が少
なくなるよう地山の高い所を狙ってスムーズな線で結ぶ施工でした。
護岸工事は玉石による蛇籠護岸が主流であったが、この川には玉石が無く、遠くから玉
石を運んでいたため、昭和 30 年頃からコンクリートによる連節ブロック護岸が始まった。
佐呂間別川の連節ブロックも現地で製作され、直営か請負かは定かではないが、一部は事
務所の広場で造られた。
12 尺(3.64m)の板を 6 個位のブロックに仕切った型枠に、手練りのコンクリートを流
し込む方式だった。(品質については言わないことにします)
最近、環境保護等に対する考えから、コンクリートによる護岸工事は風あたりが強いが、
新冠川を見てホッとした。ブロックとブロックの間から自然木が生えガッチリとブロック
に食い込み、護岸の目的も損なうことなく自然が蘇っていた。
よどみ
また、40 年という年月は、河川がもつ「淵」や「 澱 」を造り、自然な河川が復元、改め
て自然の力に感動しました。
改修後、何回かの洪水に見まわれている筈だが、被災を受けた話もなく今日に至ってい
ることは、当時の改修に携わった諸先輩に敬意を表します。
今日は本当に楽しく有意義な一日でした。今日のために準備をして頂いた皆さんに感謝
いたします。
に い か っ ぷ が わ 探 訪
品
川
忠
豁
第三回となった水辺空間を探訪する会は初めての一泊旅行で新冠川となった。総勢 17 名
の大部隊となり、なつかしい顔に多く出会う。特に、学校を出て道に採用後、初めての現
場が新冠川災害助成工事となった齋藤(省吾)先輩には、声が出ない様な風邪をおして参
加された。思い出の多い現場と四十数年ぶりの再会をはたされた先輩の思い入れの深さを
感ずる。
全行程 40 ㎞の探訪は、事務局の事前調査とご苦心の結果、観察ポイントを全行程の内の
要点に決め、ポイント間の移動は車という段取りが図られた。
姉去橋(あねさりばし、何とも寂し気な名前だが、漢字をあててこうなったのか?)附
近を第1ポイントに、第2、第3‥‥‥と五箇所のポイントで、築堤、護岸、樋門、頭首
工など、工事成果を一つずつ確認し、往時を偲び探訪を続ける。すでにかなりの大きさに
柳が繁茂しているが、四十年の風雪に耐えて十分に使命を果たしている堅固な一連の土木
工事に、当時参加された数多くの先輩諸氏の技術力と熱意に頭の下がる思いがする。
昭和 30 年に始まった新冠川災害助成工事は、12 億円(当時)の巨費と6年の歳月を費や
し、今日見る堅固な改修の姿を見せているが、この姿を見るまでには幾度にもわたる甚大
な降雨災害の惨禍が長年にわたり繰り返されたことが記録されている。それによれば、大
雨の度に上流山地の崩壊が災害を大きくしているが、山地の荒廃が大きい要因として指摘
されている。このことは明治以来、日本の近代化に、あるいは戦争の遂行に、さらに太平
洋戦争後の経済復興に日高の木材が多大の貢献をしていることがあり、伐採後の植林が十
分になされたのか、伐採が山地の安全を考えてなされたのか、いずれにしても危険な状況
が人為的につくられたのではないかと言われている。
さらにまた、流域の平野部には多くの開拓の人々が生活の場として入植したが、ほとん
ど原始河川のまま農耕地の拡大が進み、このことも災害を大きくしている要因と言われる。
静かに清らかに流れる新冠川を探訪して、この土木工事が数多くの貴重な犠牲があって
なされたことを思い、鎮魂の思いを深くした。
夕刻、「レ・コードの湯」で汗を流し、節婦市街の旅館「宇喜世」に入り、楽しい懇親の
場を持った。
翌早朝、節婦漁港を散策する。やはり年齢のせいか多くのメンバーと埠頭で出会う。前
夜の盛り沢山で美味しかった魚貝類を思い出し、日高の山から流れ出す沢山の川が前浜を
豊かにしていることを思う。
この度の探訪も、いろいろと往時を偲び中味のあるものになったことを感謝します。今
回もまたまたシン技術の山花さんから貴重な資料の提供をいただいたことに厚く御礼申し
上げます。事務局の皆様ありがとうございました。次回も楽しみにしています。
新 冠 川 を 探 訪 し て
土
田
浩
治
この度、「水辺空間を探訪する会」に入会が認められた。新冠川探訪の前日は久しぶりに
多くの先輩の方々と宿で美味しい酒が飲める!遠足前夜のような心地よい興奮を覚えた。
新参者ゆえ、新冠川探訪の目的をよく理解しないまま参加したが、当時、担当者の齋藤
省吾さんの説明や山花剛さんが提供してくださった膨大な資料のおかげで納得々々。
被災当時、周辺は転石がごろごろしていたようであるが、布設された大型ブロックは草
の中に埋もれ、高水敷は樹木が生い茂り放牧地として利用されている。大小の樹木は種類
も多く、40 年間の年月の流れと自然の復元力の強さを感じさせ、豊かな緑を抱いた自然河
川を想わせる。
夜の懇親会で菊地昭憲さんから「然別川も災害復旧後 20 年経ち、川の様子がすっかり変
わった。」との紹介があった。十勝管内の然別川は昭和 56 年に災害を受け、急流河川のた
めその河床はコンクリートブロックで床固めされている。
8 月 23 日、然別川に行ってみた。あいにく台風 11 号による増水のため河床は見えなかっ
たが、新冠川に比べ樹高は一回り小さいが川の中には樹木がしっかりと繁茂しており、災
害復旧当時の面影はなかった。新冠・然別両河川の植生を通して 40 年間と 20 年間の歳月
を感じた思いであった。
大規模災害を受け、植生の復元時期がはっきりしている河川を見て、
1.樹齢の調査や航空写真を活用するなどして植生の生い立ち状況を把握
2.これからの 20 年あるいは 40 年後も河川の安全度を許容しながら、好ましい植生状況
を保ち続けさせる河川維持
3.全てに手を加えることなく特に植生などについては、時間をかけて自然の復元力に委
ねる余地を残した整備
が必要と思われた。
川辺を歩きながら、道路の法面に樹木を植生しても良いのではとの意見も出た。これま
でも先輩や土現の担当者によって試験的に取り組まれているが、まだ日も浅く大きな成果
を発表するに至っていないようである。今後、道路法面に樹木植生を積極的に取り入れる
技術基準の検討が深められることを期待する。
時を経るとともに表情を豊かに変化させ、周辺の景色にすっと融け込んでいる、そんな
作品を探し訪ねたいと思う。
特別寄稿
新
冠
川
齋
藤
省
吾
40 年ぶりに新冠川を訪れた。
新冠橋下流左岸にあった昔の事業所跡はいつの日か町営住宅が立ち並び、つわもの共の夢
の跡も今はない。
45 年前の昭和 31 年 7 月、この川の災害助成工事の着工と同時に赴任したが、道職員とし
てスターとしたばかりの私にとって思い出深い記念すべき工事であり、感慨深いものがあ
る。竣工後 40 年という月日が去ったが、なぜか今日までこの川を訪れる機会がなかったこ
とは意外であり、今回のお誘いに便乗することに決めた。
現場に入って二年目、道職員二年生の私にとって直営工事をまかされたことは大変な重
荷ではあったが、よくも耐えられたものだと振り返って思う。
そして直営と請負工事の設計監督をしながら着工から完成まで見届ける機会を得たこと
も、その後の仕事のために貴重な体験であった。
新車の建設機械を購入してまで直営施工をしたのも、今にして思えばこの現場が最初に
して最後であったようだが、直営現場に新鋭機械が勢揃いした姿はまさに百人力と見えた。
しかしこの重機集団も稼動するにつれて故障が続出して意外とてこずった。
工程がはかどらず、遂には隣の静内川事業所から機関車とトロを借用して急場をしのぐ
など、戦後まもない当時の国産建設機械は新車といえどもあてにならない苦労があった。
ところで、竣工後 40 年を経た新冠川の川面は昔のままの姿でひっそりと流れ続けていた
が、高水敷に天然林を思わせるうっそうとした樹木が生い茂り、今では竣工時の昔の面影
はなかった。堤防が見えないほど草や樹木におおわれた姿は人の手の入らない自然河川の
趣きすら感じられた。たぶん 30 年水害以前はこのような景色だったのかもしれない。
しかし、ひいき目に見て安定感のあるこのような景観を今に残しているということは、
1.完成後幸いにして 30 年災害に匹敵する降雨と出水がない。
2.河積に余裕をとった堤防(法線)計画。
3.ショートカット部分がない。あっても小範囲。
4.河道は在来河床勾配に近い計画。
5.上流に発電用ではあるがダムができている。
などの要因があったからと思われるが、現代に通ずる河川工学的手法を駆使した結果と考
えてみてはどうか。
当時この河川の全体計画を陣頭指揮した山田義見主任の、歴史に残る作品であるとの感
を強くした。
新冠川最大の思い出、それは連日連夜の測量と設計製図作業。今のような委託設計のな
い時代だから書いては消し、消しては書き、さらにはスミ入れの製図。スミを落としては
また書き直す。就業時間に終わりはなく、ひとつ屋根の下、職住近接だから夕食後も文句
をいいながらも設計、積算に明け暮れた。
この原動力はいったい何だったのだろうか。
「一刻も早く被災地を復旧する‥‥‥」格好いいがそんな思いはひとかけらもなかったし
考える暇もなかった、と今でも思う。
【事務局後記】
今年度の第2回、通算第3回を無事に終了することができました。特別参加の齋藤省吾さんを始め、今
回も諸先輩から貴重なお話を伺いました。お盆休みと前後する時期のため、多くの方にご参加いただける
かどうか心配もありましたが、お陰様で盛会となりました。寄稿いただいた山田義見さん、齋藤省吾さん、
会員各位並びに今回も貴重な資料をご提供いただいた山花さんに心から感謝申し上げます。
8 月 18 日の午前中に晴天の札幌を出発した時には想像もつきませんでしたが、苫小牧に近づくにつれて
雲行きが怪しくなり、新冠川を見て回っている間はずっと雨ということになってしまいました。前回の勝
納川に続いて今回も天候に恵まれませんでしたが、あまり高温になるよりは現場を見て回るにはちょうど
良い気温だったかも知れません。
翌日は朝から晴天の暑い一日となりました。皆さん早起きということもあって、札幌に向かう前に静内
川を見て帰ろうということで、車4台を連ねて「探訪する会パート2」になりました。
今回も探訪ルートを間違えるなど至らない事務局で申し訳ありませんが、会員の皆様には来年度以降も
ご指導のほどを宜しくお願いいたします。
(宇高)
表紙写真(新冠温泉レ・コードの湯にて、第3回参加者)
前列左から、竹下さん、池田さん、菊地さん、品川さん、齋藤さん、橋本さん。
後列左から、苅部さん、高間さん、土田さん、山花さん、山平さん、山水さん、熊倉さん、小原さん、
水元さん、金澤さん。
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