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近松秋江論: 後期自然主義文学の発端

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近松秋江論: 後期自然主義文学の発端
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近松秋江論 : 後期自然主義文学の発端
和田, 謹吾
北海道大学人文科学論集, 6: 1-25
1968-07-05
DOI
Doc URL
http://hdl.handle.net/2115/34290
Right
Type
bulletin
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Information
6_PR1-25.pdf
Instructions for use
Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP
一、秋江論
の近代文学に
期自恭
はげしかっ
かつ大きい。
学の発端 11
はきわめて
にも拘らず、
国
は、見方によってはこんにちまで
したがって、
ながら文芸患潜としてはまだその時代合連えない時期のものを
ったと考えるの
i
百
パ
ρ
:
論
めて程期間
然
主
義
自然主義が
主流であり得た
かに挿んで、
。自
江
-総務⋮一一九・一 O)
て以来、
称の使用が厳
ろまだかなり乱れているといわ
る後期自然主義の時代区分は、
による用法と、こんにちにおける学問則的判断による用法とが潟夜し、
の用法についてはこんにちのと
一氏が
でに主流としての時期合過ぎた後のものを後期吉然主義文学と呼んだりするの
いているということもできよう。 しかし
その
る
さ
そ
の
前期自然主義文学と呼んだり、
瀬
カ1
日
手
秋
の発生以来の
されるようになったが、
ぃ。それは、この
つ上
てで
し、は;
松
である。 そのうち、 一。知的態自然主義い の名称に関しては、
ざる
なの
近
しかも学問上でも﹁接期﹂ という概念が安定していないためである。
検
たとえば、本開久雄氏が﹁読明治文学史・下巻﹂
1
和白
近松秋iI議前
人文科学論集
村抱月が明治四十一年一月の論文﹁文芸上の自然主義﹂(﹁早稲田文学﹂) において用いた用法をそのまま踏襲するもの
で、小杉天外などを代表とする前期に対して ﹁仮りに時を限れば島崎藤村氏の﹁破戒﹂国木田独歩氏の諸短篇等が世
の批評に上った頃を其の端緒﹂と見る抱月の後期自然主義の定義に従っている。しかし、抱月の場合は明治四十一年
という自然主義最盛期における概念規定であり、こんにち、完結した自然主義運動の総体を歴史的に捉え得る時点に
おいては、このような用語はすでに歴史的なものといわざるを得ないであろう。すなわち前述のように、自然主義の
最盛期を本期という捉え方をして、 それに対して前期、後期を考えるのが普通である。 したがって、本閲兵の用語は
﹂の用語の発生に対しては忠実な用語であるが、 こんにちとしてはその概念は一般性をもたないと云えるであろう。
それでは、自然主義本期に対する後期自然主義という用語からすれば、その後期自然主義とはどの範囲のものを指
すのかということになるが、 それが、本期を明治四十三年までとする説と明治末年までとする説とですでに上限が安
定しないし、 さらにはその後の自然主義的な文学の動向をさらに細分して考える方法もあって、その場合、 上限がも
これは吉田精一氏の編集により片岡良一氏の分担執筆になる項で、
っと時期的に下がる考え方もある。 たとえば久松潜一氏の編になる﹁日本文学史・近代﹂(至文堂・昭和三二・六)
﹁早稲田派と後期自然主義﹂ という項目がある。
その時代区分と名称と、が誰の意志であるかは必ずしも明瞭ではないが、その項の冒頭には、
﹁後期自然主義の人
大正中期以降の白鳥、秋声、藤村、花袋などにも叙述が及んでいて、右に掲げた定義が必ずしも厳密にその時期や範
で扱う内容は ﹁奇蹟﹂派の広津和郎、葛西善蔵、および{子野浩二などばかりでなく、嘉村磯多、牧野信一、さらには
々﹂と題されて同氏の自然主義論の重要な一章を構成しているから、片岡氏の説と理解してよいのであろうが、 そこ
と述べられている。 この稿は、 のちにほぼそのまま片岡良一氏の ﹁自然主義研究﹂ に収録され、
の中心をなしたのが、奇蹟派の人々や少し遅れて彼等と親しむようになった宇野浩二などであった。﹂
﹁﹁新思潮﹂派を中心とする新現実主義時代に、新しく頭を捧げて来た自然主義系統の人々│││つまり後期自然主義
t
主
2
︿
4}
って、
しているとは考えられない。 ま た 再 氏 編 の
して、
身辺雑記
の﹁残雪 L ハ一夜中爪制判門悶新潟﹂大正六
小 辞 典 ﹁ 日 本 文 学i 近代﹂には ぺ後期自然主義﹂
の訟統が後期'自然主綴だ﹂と解説し、
の
年九月、近松秋誌が寸疑惑﹂
たあとは、すでにその
﹁﹁疑惑いは
への歩みを必然としていたとも考え
大正七、 八年以降の時限会一課って後期自然主義と名付けなければならぬ
身近雑記化から私小説
のものを指すのだと述べている。
(﹁東京胡初日新開﹂大成いも・五i八
・
一 O﹀ な ど を ま ず 自 に つ
しての完成を示ずに至った一連の
のもの
るに ﹁後議良然主義いという概念はまだそれほど明確ではないし、
七
・
一
一
一
) や藤村の
の完成への
理由も特にはないのではないか会
に樹立されたのである。﹂とい
られるし、私小説に関しては平野謙氏に
形式は
いいのではないか。平野民もいうように
れ、突然それだけとしてあらわれたものではない﹂
送る手紙﹂
であるが、援の
の範囲は明治末鶏に
の続譲として
の大冊の
ハ以降七月まで﹁惨綴間同文学﹂
一、片岡良
まった
った時期か
それは当然作品としても呉
朗らかに詑袋らの自然主義の
の自然主義研究の上で誌とり残されて来た持家であり、
の下限と考えられる明治閤十⋮⋮
る作の出発点となった秋江の ﹁揺れた
に連載﹀
近松秋江は、
れなかっ
5
立
と
:
1
1
-
ヨ
側
議研究書中にも特に
方に花袋、議村などより註一時鎮ずれていることも明らか
藤村などと問時に論ずることは
ら、わたくしは明治四十三年、関らかに自然主義が文学史の主醸た
っていることになり、自然主義本期の
るし、 しかし
ら
の
の
、
- の
以上のよ
カ
ミ
その発端会近松秋江に求めることが、その持患の文学慨向を考察す
し
、
L、
没後期自然主義として捉えるこ
3
和問
近絞秋n:言語
人文科繁検事長
で最も選当だ
るのである。そこ
AVR
v
v
から、
﹂こには近松秋立の ﹁別れた
送る手紙﹂ から
に至る需
筆名の秩採は、現治三十四年島村誌
た農家徳田一度太
にとって文学とは伺だったのかを考えて・おくことが、彼の
﹁論翠聞い
ら英語塾に転じたのが明治十六年
ろから近松
うになり、か
秋江がこの時期に密
の途についたのが拐
だという。 夏目激石が大学
森鶴外がドイツ
であること
後の人間形成、患懇形成上にか
った
そのようなものによって静成され、以後の中等教育につい
せるが、それはや央を遠く離れた幾村ではむしろ
したというのもその
かったこと
ることを
か瀕水とかいふやうな風景が好きいだという
四日、関山県和気郡藤野村大字藤野学悶ケ
、
、
、
ノgよ74、品、
そのためには、
の開題を考え
L
、
目μ
学を解くよで大切なことであると思われる。
ニ、秋江における文学
近松秋江は燐治九年︿一八七六﹀
の開閉男として生まれた。秋江の本名は徳田丑太郎、間関治二十五年に
﹁秋の寂びた
のであり、以後篠田秋誌の筆名を用いたが、それが纏沼秋雨の門下のごとくに
めで読売新認に寄稿するようになっ
t
こ
て、近松私立を名乗るようになっ
まり、 しばらく徳泊秋江と翠用、
時期心辞したといわれる近松門左衛門にあやか
たわら、 巡回して漢学を教え
予備聞けを受験ずるために
十七年、島崎藤村が英語会ふやび始めて父が
の素読を受け仏閉めたということは、秋江の基礎教養の
の学業の
当誌であったのかも知れない。 とにかく秋江の
てはしば
の
きて、秋、正は明治十六年八歳の持、隣村の天台宗の寺︿出飢餓倫中さの出庫裡に設けられた小学校へ
たものらしい。
たといわれる。 そ の 時 期 は 十 四 年 ご ろ か
嫌い、かつ
のでみずからつ
月
の
てE
4
われる。 そ し て そ こ に ま ず 秋 江 に お け る 文 学 の 基 本 的 な 問 題 が あ っ た は ず で あ る 。 す な わ ち 、 秋 江 は 十 一 、 二 歳 ご ろ
から﹁日本外史﹄を愛読したというが、 それについて後に彼は次のように述べている。
﹁自分が日本外史を愛読する所以のものは、其の中に我が日本人中にあって最も高調なる感情生活に生活した蝉力に富む人聞が充満
してゐるからである。死生固より命あり、主口等は徒らに寿を貧ることのみ考へてはならぬ、古の武士時代は固よりさうであった。生命
の尊きことを知った今日と雛も、必ずしもさうでないとは言へない。(中略)
死は、その情状によって、常に人間の個性を飾る。死にして免るべからざるものとせば、吾人は、死によって如何に吾、が生活を飾るべ
きかを考へねばならぬ。併もそは飾らんが為に飾るにあらず、高調なる感情生活が偶々持来らす自然の結果である。さうして是等の武
人の忠死と治兵衛小春の如き情死とその動機と形式とに於て非常に相違してゐるかの如く見えてゐるが、その至誠の感情の徹底して其
(7)
処に到着した点に於ては二つながら相同じいと言はねばならぬ。山陽の如き近松の如きその芸術的感情によって、一つの高められたる
世界を造って見せてゐる。﹂
これは後年の文章だけに、初期の秋江の志向とのちのそれとを統一的に論じており、そこに秋江における文学の一側
面を見ることもできて興味深いのであるが、とにかく少年秋江がどのような態度で﹁日本外史﹂を耽読し、文学にな
にを求めていたかをここで注意しておくべきだろう。
そのような秋江は、高等小学までは首席で通したが、明治二十五年十七歳で岡山中学に入学後は、英原書を用いて
の授業に苦しんで翌年みずから退学、二十七年大阪市立商業を受験したが体質虚弱の理由で入学できず、その年の九
月に上京して慶応義塾に入学、十一月父死去のため帰郷退学、二十九年再度上京して神田の国民英学会で英語、麹町
の二松学舎で漢学を学んだが、三十年の五月以降は病気勝ちで自然に登校を廃し、帰郷・上京をくりかえして三十一
年九月四度目の上京で東京専門学校に入学、文学部歴史科から英語政治科、英文科と移って三十四年七月にその英文
科を卒業した。 さ き に 、 正 規 の 学 業 の 段 階 を 踏 ま な か っ た と 述 べ た の は 、 こ の よ う な 状 態 を い っ た の で 、 秋 江 は そ れ
5
和田
近松秋江論
人文科学言語災
セ叶疑惑﹂ のなかで ﹁ 自 分 の 中 学 校 を
﹂のよ
のような段階のなか
そこで、そのあとな辿って、
なかった為に
の宮治安踏み連へた後悔﹂というふうに述べている
られて来たものと患われる。
どのような方向会とろうとしていたか
、前述以外に、
雑誌としては前半に
と、玄、ず十
⋮はぼ読書傾向に対応した変化を示
ハ特に﹃にど与えれ。 などに及ん
など政治小説が多く、 父の苑ハ明治一一十七年
に書き留めてい
秋江がどのような読書歴をもち、それらによってどのような志向が
泉鏡花、樋口
﹁雪中梅﹂
動いていたかを検ベて晃ると、 家、ず彼がさ
には ﹁太平記い一
十一月﹀ 以捺は村井弦斎、
﹁関氏之友﹂﹁太陽﹂
している。そのような読書環
入るころには父
。 その
従わなかったとい Vう
なったが翌立離縁、
て、天台宗の寺に入ったが姉たちの一反対によって二丸
る
。
になることをすすめられたが、とも
ていたかについては、次のよ
められ、兄には
十七歳ハ明治ニ十一丸年)の三月には
ハ明治二十一年)の十月、 父のすすめに誕つ
月で実家に
るこ
しぬたい J官)
めたくはない。るといふことは壌え難い失望である。自分はたピ人間としての総銭安意義あら
にロを糊して通笠間に、何か人間関としての目的がなければ冷らぬ。人間関の存在はそもそ込何であるか。自分はたけム生活の為に今糊閥会修
定した職業の人間にならうとするよりも先づ人間になりたいといふ務総が旺盛であった。人間は、専門の睡械業合弁に潔得して生涯無嫌
ゐながらも形を兵へた目的のやうなものが有るやう役気剥がしてゐたのであった。それは医者とか磁気とか叉は家人とかいったやうな一
﹁それでは一体仰になるつもりかと反問必られて答ふる所会知ら々かった。けれども彼にはその時から、間分だけには、法漢として
﹂ろ秋江がなに
な
ど
iJ~
6
に制作えて
かいう内容は、
である。秋江は
他のいろいろの文競
れる。そ
﹁ただ自分はひたすら
ることであった
乙
、
︾
い7
政治に
り政治といふものに興味を持ちた
らんとする
に見た秋江の
、それはおそらく天下国家の
に通じていたは
﹂こで秋江が人間同として緯線ある存在と
と照らし合わぜて
秋江にとっては
したり。それとふもに十五、六歳の
しての価信を意義あらしめることと、
て入学
んにち風の
ったに違いないのである。 それは、 たとえば設が
も現われていよ
らん
も﹁小学校時代大阪朝日新
依然として硬派の
だから設は
には一指だも触れざりき。/ヤずの
る手紙﹂ のよう
て帰郷したま
W
文章家たらんこ
いている。
と釜高くのである。
ぺ別れた
つの問題点になるであ
十七年の父の死去のあたりを護にし
る上で、その
とは、 さきにも指繍したように、明治
うになったのはどういうことなのか。私立文学の
ここで一応注意しなければならない
ろ
﹀
つ
。
しかしそれならば、そのような秋紅が、清痴文学、遊蕩文学と呼ばれるよ
るにあり
の小説を読みたる外来だ嘗
払ってゐないやうな惑じ﹂をもったとい
すべき学校を選ぶ際に﹁早務自の文科は又あまりに経文学に狭められてゐて、彼の期待する人需としての教養に意な
なりたいということ℃はなく、政論家の
F
て文章による経設家を理想としていたこ
での
お
て紙、江の競議傾向が変わっていることである。それ弘前に援の
の
である。それではその後はどうであったか。究の役後、
鏡花などの軟文学に窺しんだという。そこには、
'
.
-
の
ととは、少年秋江にとって一つのことだったのである。だから、護が文章家になろうというのは、
し一
とは、すでに
さず、病既についた教江は弦斎、
7
、
J
し
L
り
。
ま
辛口問
近室長霊式江言動
人文科学論集
秋江の一つの挫折感が挿まっているだろう。彼の文学に対する態度なり意識なりに、そこで一つの屈折がおこったで
あろうことが考えられる。 し か し 、 秋 江 は 自 分 が 軟 文 学 に 親 し ん で 行 っ た 事 情 を 次 の よ う に 回 想 し て い る 。
﹁十四、五歳の頃から日本外史を読むことを教へられて、それを愛読することを覚えたり、可なり早くから八犬伝を愛読したり、矢
野文維の経国美欝に心酔してゐたりするにも係はらず、たけム名ばかり聞いてゐた尾崎紅葉の小説などを読まうとする心が何故か生じな
かった。然るに一度、文義倶楽部に発表された樋口一葉の﹃濁り江﹄といふ作を読んでから彼は今まで遂に心に経験しなかった、ある
深い人生といふものに出会ったやうな気がしたのであった。そして、今まで彼、が、誰れに教へられるともなく、何となしに戯作として
卑んでゐた小説であっても、一葉の如き深い人生を書表はすことが出来るものならば、小説も亦た有意義である。いっそ小説を書くこ
からか知ってゐた。それから叉治国平天下の文学といふことをも知ってゐた。自分は将来文章を以って身を立てるには、どうしても経
とを研究しゃうかといふ心が近頃になって崩してゐたのであった。彼はそれよりずっと前から、文章は経国の大事なりといふことを何
国といふことを以って念としなければならぬと思ってゐた。さういふ空想や希望を抱いて彼自身心密に誇ってゐた。・::(中略)
:・:自分は何処までも先づ人間になるべき学問を修養し、将来それを文章の上に発揮するのだぞと思って、動もすれば失望に沈み勝ち
な自己を引立てたり、或時は一人で意気軒昂となったりしてゐた。今の世の日本外史や八犬伝の著者にならうとするには、どういふ学
﹂れによって、彼がいわゆる軟文学
hかと思ったが、何処にも満足を与へさうな学校がなかった。それで、今度東京に行ったら樋口一葉を訪ねて小説を書
くことを習はうと思ってゐたのが彼の上京した目的の一つであった。﹂(日)
校へいったらい
これは、明治二十九年九月の、二度目の上京の際の心境を語った文章であるが、
に接近していったことにについても、彼の文学観の根本的な変質を認めることはできないように思う。方法として、
評論から小説へという移行の契機はなしたかも知れないが、彼が一葉のなかに発見したものはやはり﹁ある深い人
一葉には、﹁にごりえ﹂(﹁文芸倶楽部﹂明治二八・九)を発表する一年半ほど前の日
生﹂であり、﹁小説もまた有意義﹂ だ と い う こ と で あ り 、 ﹁ 今 の 世 の 日 本 外 史 や 八 犬 伝 の 著 者 ﹂ に な る た め に 一 葉 に 師
事しようということだったのである。
8
記に
﹁わがこ ふ
国家の大本にあり。﹂
t ろざしは、
という有名な記述があるが、 そ う い う も の が 秋 江 に ど こ か で 響 き 合
ったのでもあろうか。 不 幸 に し て 秋 江 の 上 京 後 二 カ 月 ほ ど し て 一 葉 は 没 し て し ま っ た の で 、 秋 江 は つ い に そ の 志 も 達
﹁何となく
することはできなかった。 そこに秋江の第二の挫折があったかも知れない。 お そ ら く 、 小 説 家 た ろ う と す る 彼 の 意 図
はそこで潰えている。 やがて ﹁何れと歴々指摘すべからざる人生の理想に悩惑して精神の疲労を﹂覚え、
一葉の死去によっても、
精神教育に於て一点最も肝要なるものを欠くるが如き感﹂(年譜)のあった東京専門学校に学ぶようになったのは、決
して彼の年来の理想を貫く道程ではなかったはずである。 しかし、父の死去によっても、
本意な早稲田への入学によっても、彼の文学に対する意識や人生に対する態度が基本的には少しも変わらなかったこ
と だ け は 確 認 で き る で あ ろ う 。 早 稲 田 を 卒 業 す る こ ろ の 秋 江 が ﹁蘇峯と樗牛との文章あれば、以って吾が読書慾を飽
満せしむるに足るとさへ﹂思っていたという事情も、右の推定を裏付けるものである。
そこで、秋江は早稲田を卒業する明治三十四年、島村抱月の誘いによって、 ま ず 読 売 新 聞 の 小 説 月 評 か ら 文 筆 生 活
に入ることになったが、彼が批評家としてまず登場したことは、彼が本来志していた文筆の仕事としては不本意なも
のではなかったと考えられる。秋、江は文学批評ということについて、次のような見解をもっていたからである。
る仕事のうちで、最も高尚な仕事であると思ふ。:(略):芸術を取り扱ふ人の頭は、権めて、実際的で、具象的である等だ。この実際
論といふのは、単に、小説戯曲の批評をするといふことではなくって、人生、社会の批評である。:人略)・:評論を書くことば、筆を執
い。けれども、評論を書くといふことは、更により上品な、貴族的なことではないかと思ふ。これは、私が時々言ふことであるが、評
﹁文学を、た Y単に小説戯曲を作ることのみ考へたくない。無論、小説戯曲を作るのも可なり、小説戯曲の創作必ずしも下品ではな
不
OKH)
的で具象的である頭を以て、硬派の評論をしたならば、よからうと思ふ。(略)・目つまり、文学者と政治家とを揚きをぜたやうな立場
から、評論をする人をほしいと思ふのである
9
和田
近松秋江論
人文科学殺さ長
{
日
﹀
ふ
I
して詳論家としての
ることに
、明治四十三年諮問九か
すなわち民年五月十三、 四日に、
る手紙﹂
るところではなかったということ
閥年以棒、明治問十一一年までは
の大業なり﹂ と い う こ と ば を 理 想 と し て 来 た 秋 江 に と っ て 、 評 論 に 従 う こ と
ったのである。そして、事実、
このような理解に克てば、 ﹁文章は
はきわめ
しも穫の
らもさらに明らかである。
つ秋江の小説の出甘い作﹁部れた
めたものであるが、その直後の
にとって、
しているのでるる。
そういうことは、
の対象の
なるでるろうひそれは、次のよ
い宇品ここ
に連載さ
﹁車全く例令してはようといふ気も知らぬけれども、さうかと言って、まさか死なれもせぬから、活きて行くには、兎も角も比絞的
に次のように書いているのである。
の
いうものに
ぬ 9さう息ふと、的だか、私は自己の好札口制加を生活の犠牲にしたやうな気がする J
その
﹂んにち、彼の小説の処女作は明治額十年十
うに援、じてい
ほど遡る。
その処女作
﹁早稲田文学一
﹂の時点
は吋新選近松秩託集 L一ハ昭和三年十月、改造社
なければならなかったのはその情明からということになるわ
J
j
の
いうもの会この
よりさらに一
ている。秋江が
ではそこで秋江は小説になにを播いていた
である
宇 れ ふU
字
、
唱
、
A
V
"
-
れ
た
めた時間期は、
い。喰、私には仰と九ばくさう忠はれる。弘は、理想を云へば矢凝り批評家でゐたい。は小説の創作をせねばなら
﹁A何故に創作、が、んは分の心を汚化ずるやうに思はれ、何故に評論が険分的り心を浄化するやうに怠はれるかは、一得度翁みても分らな
が、銭の少ないよりあ/いが好いから、評論は止して小説会}少し書いて見ょうかと思ってゐるよ
に身に叶った文筆に従ふより他に仕方がない。それには伺うしても小説を欝くのが比較的収入、が多い。私も驚沢をしようとて出来ない
ら
1
0
の青年が初めて女を知った時め
J
h-
t
ご}
}
で
のこの作が、
ろに、初期秋江文学の特色と性格と
の日﹂ハ﹁都地味﹂)の
十九年という年
なっていることは、 おそら
の明治一一十九年秋当時の経験
る
。
れるのは、
花袋のように
以後秋江
﹁別れたる
の融事実
して、そのほとんどが自己の体験上
人称の談話体で叙班ずる方法をとりなが
月に発表された
に、次のよ
るに
にとっては
の青年に誘われて初めて新宿あたり〆
つ詑意しておいてよいことは、明治
るという内容の、事笑を描く作品
に大きな反響な呼んぞいた月に当たる。
掛け﹀では﹁明治郎十年九丹作﹂ と註一記されている。 お そ ら く 白 誌 で あ ろ う 。 そ の 時 期 は ち ょ う ど 回 山 花 袋 の
が発表されて
にとっと、
れたものなのである。
、
ず
、 ず
などに影響されて、初めて女を知
て来た﹂ハ﹁ゆ胤︿公務﹂大正一二・九)によれば、秋江がその
︿花袋の ﹁器国﹂
中止軌、
花袋の
で載ったと
の体験の方がはるかに小説の種としては効薬的な素材であったはずであるに持らず、閉じ頃を素材に
安一知った間関なの
その
も友人の話をこの
に、持には
に送る手紙﹂ 交でに小口問をも人含めて十議議後の
会、結構を加えずに
明治四十一一
の
して嫉錯す
に書くということはほとんどなかったのである。そのことに関して
る手紙﹂発表の
M には、秋証自身がそデんである一雪間という人物が、
の Qい
﹀﹀。
t
3
、
刀
、7
﹁それが為めには私は身体が被せるまでに悲しみ悶えた ω併しながら、それが何ういふことであったか、比加加ではそれを滋ふまい。
)
,
7
"
"
"
!或は一生吾一向はないガが好いかも知れない。いや、ぎふべきことでないかも知れぬ。新じてF¥言ふべきことでない。何となれば自
の闘い においても賞かれている。 この作の
は雪岡とそ
スマ
1
1
己の私生援な然人環視の前に築寂して、それで飯そ食ふといふことが、何うして機へらおいよう/
て
、
の
判執は、まだ此の門?な織するが為めに貴重なる阪誌を売れソ品約にせねばならぬまでに浅ましく成り糸てたとは、自分でも総じられない。﹂
初期の
篭 」
は
の
手
口
問
近松秋波:言者
人文科学論集
という名で登場する秋江夫婦で、雪岡がスマの昔の男関係に嫉妬を感じていろいろと聞き出すという筋なのだが、そ
の嫉妬やら妻の前歴などを売り物にしていない。スマは米屋に育ち、兄嫁が来てから兄にないがしろに扱われて家に
いるのがいやになり、すすめられるままに嫁ぐが、その夫、が花札のかけに溺れるので、愛想をつかして飛び出して料
﹂れは、徳田秋声が、
﹁:・・・・私はもう大した慾はありま
一生何うか斯うかその日に困らぬようになりさへすれば好い。﹂というような女である。
理屋で働いていたという前歴の持ち主ということになっているが、 そのおスマは、
せん。
といわせているのに通ずるもので、 うき世の辛酸をなめ尽した女のあきら
﹁徽﹂(﹁東京朝日新聞﹂明治四四・八一一)のなかで、その妻お銀に﹁子供にも然う不自由をさせず、時々のものでも著
て行ければ私は他に何にも望みはない。﹂
めと、それに伴って、貧しくとも平凡な生活への望みを訴えるわびしい女の姿を客観的に描いた、 いかにも自然主義
的な作になっている。雪岡の、妻に対する嫉妬も﹁最早以前のやうに胸のわくわくすることはなかった。 それは何う
いふ理由であらう?愛が薄くなったのであらうか。それともまた愛の為めに其様なやくざな思ひがいつしか二人の仲
に融けて流れて了ったのであらうか。 分らない。﹂ という風に扱われていて、妻に対する嫉妬は作品においては二義
的なものになっている。
つまり、 ここまでの秋江は、評論を朱命とし、売文のために小説を書いて作品に自己周辺の事実は描いても、自己
を売りものにするというところはなかった。彼の文学観はそこまでは崩れていないのである。
そういう秋江が、その翌月の ﹁別れたる妻に送る手紙﹂ では、 かなりはっきり自己の痴情を売りものにするかの如
き作品を書くに至ったのはどういう事情であったのか。
﹁別れたる妻に送る手紙﹂から﹁疑惑﹂まで
﹁別れたる妻に送る手紙﹂ は、明治四十三年四月から七月まで ﹁早稲田文学﹂ に連載された作品である。 いま、前
1
2
述のような視点からこの作の性格を考えて見るについては、ここで従来見落とされて来た一つの事実を指摘しておか
なければならない。それは、 この作の連載の最後、明治四十三年七月号の作品の末尾には﹁前篇終り﹂ と記されてい
たのだが、その後篇を、 やや時聞をおいて、秋江はやはり﹁早稲田文学﹂ に 書 い て い た と い う こ と で あ る 。 そ れ は 大
正二年四月の ﹁執着﹂ と い う 作 品 で 、 そ れ に は サ ブ タ イ ト ル と し て ﹁別れたる妻に送る手紙﹂と書かれていた。 とこ
ろが、 のちの複刻の段階で、前者からは ﹁前篇終り﹂の記載が省略され、後者からはサブタイトルが脱落したために、
この正続の関係がこんにちまで軽んじられて来たのである。、もちろん、正続といっても、続篇の﹁執着﹂はその末尾
﹁(大正二年│註)(一二月十五日午前三時半認む)﹂ と 後 記 さ れ て い る 作 品 で 、 前 作 ﹁ 別 れ た る 妻 に 送 る 手 紙 ﹂ と の 間
には、この一連の作の素材となっている事実に関して、作者の心境の上に重大な変化をもたらす事実(それが次の﹁疑
惑﹂に扱われる事件)が起っているから、作品の質はかなり変化を見せており、それは本稿の考察を進めて行く上で間
題 に し な け れ ば な ら な い 重 要 な 点 で あ る が 、 そ れ は あ と に 廻 し て 、 まずここで注意したいのは、この続篇のなかで、
作者が前篇執筆の時の心境や事情を説明していることである。秋江はそこで前篇を発表した事情を次のように書いて
。
い
ヲ hv
じっ
﹁私の遺る瀬のない胸を打明けて静と聴いてもらはうと思った人聞は、東京にゐる私の目上の人達でもない、また故郷の悶や兄でも
ない、唯お前一人にだけ聴いてもらひたかったのだ。古いことだが知らぬが仏とはよく言ったものだ。私は何にも知らないから、あ Lし
て正直に、思ふことをお前に訴へたのだ。けれどもあの手紙は、お前の兄さんの処へ送ったから、そのま L留め置くか、反古にするか
秋江が妻に読ませたいがために書き、 逃 げ た 妻 が 立 ち 寄 る
して、お前は遂に見なかったさうである。もしあの時お前がそれを見たら、少しでもお前に良心があったなら、あまり好い心持ちでそ
れを読めなかっただらうと思ふ。﹂
﹂れによって、﹁別れたる妻に送る手紙﹂という作品は、
1
3
辛口回
近松秋江論
人文終当主面前線
だろ
の兄の許に
もし妻が良心なもってこの
この作における虫己の
ついては、
﹁執着﹂
に見せつけての効果の方を計算し
への直接的な効果
というよりは、
待をもっていたことがわかる。ぞれか
ずで
そのよ
の
﹁雪の日い
欝と矛盾しない
のような配慮
とになるはず
ったと考えなければならないは
は、それを作品として売りもの
めばおそらく悔悟するであろうという期
に
、
、自己の
に送る手紙﹂ における情痴の暴露的描笠?とはおそらくそうい
のもの
に送る手紙﹂
待合にい
︿秋江)が新開社にいる長田
﹁近松秋江︺
らも説明で
そのような効懇の
のにするのではないと
ら、もしさうだったら私から手紙執念巡っては済まぬ。とさへ、私は経へられない悲しみをじっとこらへて、務理念尽して惑いれん
であったよ
で
、
といっていることによっても明らかだし、申品
7hvhu
たとえば 寸崩れた
れていないが、
たら書上
A
社にゐないだら うから、
いてゐる。もう二、
時間がおくれる
は今此処
作中に、そのやった手紙がどんなものであったか
ったらいいの
いているのによれば、
で引替へに
も
り
の綴だって矢譲り頼りないに淡ひはないけれど、あの終円分は、あ三マ一口って、お前は、もう何加ぬかへ嫁いてゐるのかも知れぬと川川ゆったか
ご抑前は、って口説いても、少しも弘の心合くんでくれようとはしない。あの時分の頼りなさといふものはなかった。こ
の
は、単に妻に対する翠患だけのものではなく、以後の秋江文学の一つの性格として、次のよ
﹁別れた
の
︿﹁文芸﹂昭和二五・悶tムハ﹀のなかに
手紙をやる
それ
みと四
の
完成し
0)
L、
1
4
今この手紙を届けることにする。この使に七円ばかり渡してくれないだらうか。無論、必ず今夜のうちに原稿を社へ
届けて置く﹂ という意味のものだったという。それに対して、秋江の小説では、﹁主筆も編輯長もまだ出社せねば、そ
の金は渡すこと相成りがたく候﹂という長田(白鳥)の返事を受けとることになる(白鳥の小説では、﹁その金波 L難し。
必ず原稿引替へを要す。僕がゐなくても、六時頃までなら、 Sが社にゐるから、 S宛てで届けてくれ。 Sにさう一五って置く﹂という'志
味の返事をもたせたと書いている)。その白鳥の返事が秋江を憤慨させたことがこの作後半の一つの山になっているわけ
であるが、このような作品が発表されたことについて、正宗白鳥は右の作品のなかで次のように書いている。
﹁:::私は一驚を喫した。それは意外であったが、実は意外ではなかったので、彼は私などに対して憤怒を感ずることがあると、函
と向つては云はないで、小説のなかか雑文のなかにそれを書いて気哨しにすることがよくあった。これは、秋江だけではなく、いろ
/Lな作者のやりさうな事であったが、秋江のは、これが怨みを晴らしたぞと云った趣きが見え透いてゐた。私については幾度もそれ
をやられた。﹂
白鳥は ﹁私には人類のうちで、秋江一人だけは分ってゐるやうに思はれる﹂ とまで書いている、が、その白鳥の限をも
ってしでも﹁別れたる妻に送る手紙﹂の少なくとも後半の作意は、白鳥に対する憤滋を晴らすためのものであったと
理解している。このような発言から推しても、白鳥に関する部分をも含めて、秋江がこの作全体に、実用的な効果を
期待していたことが、より一層明らかになるであろう。
c
之には先に云った彼の功利
突は、 いち早く生方敏郎も秋、江を評して ﹁彼の胸には打算がある。彼は殆んど如何なる場合にも功利主義を離れ得
ぬ男、だ﹂ といい、﹁﹁別れたる妻に送る手紙﹂は別の意味から純粋な芸術品ではないのだ
主義が闘入してゐる。あたら芸術は功利主義の為に悲惨に採蹄されてゐるのである。::(略):::此頃彼の妻は何処
にか姿を隠してはゐたけれど、まだ独身でゐるものと秋江は思ってゐた。それ故若し自分が小説として書いた此悲し
1
5
和田
近松秋江諭
人文科学論集
い峨悔を、若しも女房が読むならば再び帰って来るだらうと、 さ う 思 っ て 彼 は 此 小 説 を 書 い た 。 そ れ 故 其 題 も 広 告 を
一眼見て、女房が直ちにそれと悟る様に長きを厭はず、﹁別れたる妻へ送る手紙﹂とした。﹂ と推定していたし、近く
は館岡俊之助氏も同じ趣旨の問題をこの作の後半に見出して ﹁男の報道する気持に不純なものが入って来て、見せっ
けるような邪心が感ぜられて、それがこの作品を濁ったものにしている﹂ と指摘していた。
むろん、作品が作品として公表されるものである以上は、前述のような理由のみで作品が成立することはできない
かも知れない。秋、江はこの作品をも含めたみずからの作品集に解説して次のようにいっている。
﹁この作者は何故に、自己の愚を、些一の差祉の念もなく曝露したかといふに、愚かなる人聞は、かういふことをも経験するもので
る特色があると信じたから、敢へて、自己の差耽に対して、暫く際目して、それを題材として創作の挙に出でたのであった。
L(却 )
ある、そこには偽らざる人間の真一があると思ったから、そして、その行動と、心理の状態には、描いて、もって一篇の小説にするに足
と批評しているが、
そもそ
それは秋江文学全体、
伊藤整局、が秋江のこの発言を受けて ﹁いささか芸術主上的な言葉である。小説を書くために材料として経験があり、
時によっては経験が教へてそのために作られるといふ可能性も生れる。﹂
とくに大正期以降については考え得ること
がた、
は送当
て紙
は
﹁だ
別れ
るに
妻に
る手
﹂ま ら な い こ と で あ る 。
もこの秋江の発言自体が自己の作品集の総体に対して回顧的に整理してなされたものであって、その発端に立つ
世家でも哲人でもやっぱり個人の生活を知らねばならぬ﹂と書きつけていることと照応して、秋江の人間認識の変わ
ることは興味深く、それはこの集の扉に ﹁人聞の真実を書き表はすことにどうして文学的価値がないといへょうか、経
利的な意図をかなり露骨に感じさせるものであゐ。 ただ、ここで秋江がみずからの行動を ﹁愚人の愚行﹂ といってい
れたる妻に送る手紙﹂ の作意をこの概括で説明することはできない。この作品は、芸術主上的というよりはもっと功
一
,
らざる根底をのぞかせるものである。愚かなる人間の愚かなる行ないを知ることは ﹁経世家でも哲人でも﹂必要だと
別
1
6
いう。このような意識は、すでに見て来たように秋江の幼少期から晩年に至るまであったものである。そのような秋
﹁文章は経国の大業﹂ と観じて成長し、 文筆を以てしか生計を立て得なかった秋
江であって見れば、彼がこの﹁別れたる妻に送る手紙﹂に托したものは、やはりこのような作に作家としての生命を賭
けることではなかったはずである。
江が、妻の逃亡によって精神的にも、評論で立てないことによって経済的にも、生活に窮した結果として、自然主義的
蒲
流行に乗って書いた、生活の糧であり、現実的効果を期したものであったはずである。そのような点で、花袋の ﹁
団﹂などとは、同じような自己暴露的なタイプの作品でありながら、かなり異質のものになっている。花袋の場合は、
(お)
とにかく事実を客観的に追求しようとする文学的意識が主であった。しかし秋江の場合、これは戯作だったのではな
いか。平野謙氏が﹁﹁別れたる妻に送る手紙﹂にはまだ作者の余裕みたいなもの、あそびみたいなものが感ぜられる﹂
と指摘したのは、 おそらくそういう事情と照応するであろう。 ただそれが、別れた妻に訴える愚痴を、あるいは妻を
嫉妬させるための自己の痴態を、主情的にさらけ出す姿勢をもっていたのだから、これを出世作とする秋江が、痴人
秋江らしい出発と評されたのもあるいはやむを得なかったのかも知れない。
﹁別れたる妻に送る手紙﹂が、秋、江にとって、小説に徹することよりは戯作的姿勢によって書かれたものであった
ことは、以上に検討して来た通りである。それならば、それから、私小説の典型と見られる﹁疑惑﹂に至るまでの秋
江の文学的展開はどうだつたのか。秋江はみずから自作年譜に﹁疑惑﹂を﹁﹁別れたる妻﹄の結篇とも見るベし﹂と
(叫)
いっているが、それはストオリイの上でそうであるとともに、秋江文学の道程としても一サイクルがそこで終ってい
るのであって、以降はその同じサイクルの反覆に過、ぎない。宇野浩二の整理によれば、秋江の作品には﹁別れた妻﹂
﹁疑惑﹂ までの過程に出来上がってしまっ
1
7
物、﹁大阪の遊女﹂物、﹁京都の遊女﹂物、﹁鎌倉の妾﹂物、﹁子の愛﹂物といった範障があるが、それらの作品群の展
聞の相は、どれもほとんど同型で、それは ﹁別れたる妻に送る手紙﹂
カ
ミ
ら
和E
E
I
近松秋江論
人文科学善命袋
(明日}
ているものである。それだけにその簡の秋江文学の展開は税議されなければならないし、本稿が手刷れた妻﹂ものに
をもってい
に手紙を書
前作に直轄するものであることが
﹁崎またしても私は、
送 る 手 紙 い に 続 く こ の 系 列 の 次 伶 は 、 す で に ふ れ た よ う に 大 正 二 年 昭 月 の 叶執着﹂(﹁字続問文学﹂﹀
焦点を絞って近松秩江論を試みたのもそのためである。
﹁部別れた
なる。﹂
に送る手紙﹂ というサブタイトルがあるとともに、
いてから、
である。これは ﹁別れた
く。先に長い
に下-宿していた学生と開壊してい
うと思ひ立ったことな半分しか響いてゐない。﹂ という患い
いた後に、その棄が自分のすぐ近くに、かつて岳分
切らかである。そして ﹁あの持の
と、あの
った憤りとが、この作の作密となっている。ただこの作たなした持、秋江は大畿にいたはずである。前年の
L、
と
どを発表していることによって明らかであろう。
の女﹂(﹁新潟﹂﹀な
ニ
コドレ一 、
千'UJμj
ったからである。その製作の秘密については平野謙氏の
そういう段階で、秋江がなぜ郡れた妻に対する悲みがましい
なれば、それはやはりこの時期が来なければ書けない
っそう深められるような性質を持っていたのを、私どもは知号待る。ここに秋江の恋愛と執繁のパタ iンがある。﹂(泌︺
企議くことができたのである。同時に、その品制裁や怨恨は女のガから行方をくらまし、その行方、そやみくも追跡ナることのなかに、い
は、前の女に対する執務から解き放たれたこと合滋妹、するが、そのときはじめて秩江は前の女に対する執着や怨波会綿々と惣える作品
﹁私江は新しい女を知ってから、はじめて前の女との関係をつぶさに議くという執筆態度をとったようである。新しい女合州知ること
次の指協摘が最も鋭く解明している。
三年も前のの統篇として
の遊女﹂ものの恋人公との額阿部が投じていることは、この作発表の翌々月、二年六月に
大正充年八月末に際問教浪の旅に出て以後、京甑各地、堺などを転々としていた時期であり、すでにいわゆる ﹁大阪
う
し
、
1
8
つまり、大阪の遊女との世界において、もはや別れた妻を失うことに対する不安は、現実的には消滅したことを意味
するのである。 だから、前の作を書く時には ﹁お前は、もう何処かへ嫁いてゐるのかも知れぬと思ったから、もしさ
うだったら私から手紙を遣つては済まぬ﹂(﹁執着﹂) という現実的配慮が大貫マスに対して働いていたのに対して、こ
の﹁執着﹂ は そ う い う 顧 慮 を 一 切 捨 て て マ ス の 侮 辱 的 行 為 に 対 す る 積 極 的 な 復 讐 心 に よ っ て 貫 か れ て い る 。 こ こ で
﹁別れたる妻に送る手紙﹂
﹁執着﹂ とにはそういう差
は、もはや、これを読ませることによってマスを手許に取り戻そうという意図は全くない。むしろ逆に、相手の破廉
恥を露骨にあばきたて、傷けることに比重がかかっている。
﹁執着﹂ という作品が一般には目に触れにくい作品であるとともに、次作﹁疑惑﹂ と内容的に関連するふ
そして、なんとかして出し抜けに踏み込んでやりたいと願うようになった。私はその後八月末から十一月初めまで塩
言葉を聞いた時、 プルス お前が篠田(自分の家に下宿させていた学生)とでもあいびきしているのではないかと思った。
ようになってゐるんだ。:貴下もさう。お雪もさうだ。::お話しにも何にも臨がい・・﹂といわれる。私はその
しんだりした。築士のお前の姉(およね)やその夫の新さん(椅子屋)を訪ねて行方を聞いても、﹁皆なが今、ちゃ狂気の
と聞いて、近くの警察に捜索を哀願して見たり、 またある時は長田がお前に会ったという話をたよりにお前をなつか
たといわれた。私はそれを信じ、もう諦めねばならぬかと、 いたたまれぬ思いだった。ある時は伝通院の近くにいる
共同生活をやめ、喜久井町の家から出る時に、 お前の母にお前の行方を聞くと、女の子一人ある年輩の人の所へ行つ
長田の弟(白鳥の弟、正宗得三郎)が私の下宿を訪ねて、妻は必ず戻るとなぐさめてくれた。やがて私はお前の母との
雪に︿お前 Vと呼びかけて書く書簡体の作品である。あの手紙(﹁別れたる妻に送る手紙﹂)を書いた明治四十三年七月、
しがあるので、そのあら筋を述べておく。作の主人公は、前作と同じ雪岡とお雪で、雪岡が︿私﹀という一人称でお
ここで、
が生じている。 しかし、両作がともにある現実的な効果や意図をもっていたという点では共通する。
と
原に行って、国民新聞の連載を書く用意をしていたが、新聞の都合でとり止めになり、十一月六日に東京に戻つで、
1
9
和田
近松秋江論
人文科学論集
またお前の姉の家をたずねた。そしてその近くに住むお前の母をも訪ねると、母はその妹と二人で暮していた。その
妹から、遠くへ行ったらしい話を聞いた。 前の手紙を書いてちょうど一年たった噴(四十四年四月)、こんどはその婆
さんから、三月末にお前たち夫婦が新吉のところへ来たという話を聞いた。私は何としても二人を探し出そうと思い、
執捕に追求すると、話のはしばしから、二人が去年の夏に日光へ遊びに行ったという事実を聞き出した。そういえ
ば、去年の秋ごろから新吉の家には日光土産の品物があった。それを入手すれば泊ったところもわかるかも知れない
と思って、何としてもそれを子に入れたいと思った。そして、お前を襲って、ピストルで一発に打ち殺してやりたい
という思いで夢にもなやまされるようになった。
﹁疑惑﹂とはまた一連の作だということが明らかになる。﹁疑惑﹂ の冒頭で、 いきなり警察に捜査願い
﹁執着﹂はそこで終っている。実はその終りの部分がそのまま次のこの系列の作品﹁疑惑﹂ の冒頭に続くのであっ
て、﹁執着﹂
﹁前の手紙にも言ったやうに、 私はどうかしてその新さんの処にある日
(幻)
﹁別れたる妻に送る手紙﹂ の続篇であるとともに ﹁疑惑﹂
は
の前篇でもある。 したがって、
れ
それでは ﹁執着﹂
﹁疑惑﹂ では問題をそこに絞って考え
﹁別れたる妻に送る手紙﹂と ﹁執着﹂ との性格の異同はさきに述べた通りであった。
﹁疑惑﹂との聞にはどのような違いが生じていたであろうか。
て見なければならないのだが、
の私小説﹂といわれる事情が起こって来ているはずなのである。 したがって、
がら、執筆の時期によって、秋江の作品に対する意図も動いているのである。その変化のなかに ﹁疑惑﹂が ﹁金無垢
にこの素材になったできごとと、それに対する秋江の態度とがかなり大きく動いているために同じ一連の作でありな
は一貫した一つの連作として見なければならぬ性質のものである。ただその連作の聞に三年の歳月が挿まり、その間
解がつく。 ﹁執着﹂
光の団扇か杯が見たいと思ったが、それは手に入らない。﹂ という﹁疑惑﹂ の突然の表現も、 ﹁執着﹂ を前におけば了
ので、連作として見れば自然である。 また、
を出す唐突さも、実は ﹁執着﹂ の結末でお雪夫婦が東京の近くにいるらしいという推測が成り立つことを受けている
と
と
2
0
近総秋江言語 和田
うに、妻のめ出つ
て宿岨統合
、すでによく知られているよ
一軒廻つては
もとの下宿人の学生克島欣次郎合
と泊りに来ている
にもなかったということである。寸腐れた
﹂こで注意しなければならない前作との決定的な
校時︿マになってい
ついに去年の
だり、
﹁新小説い に発表された作品で占める。この作品の
し当てるべく、 日光へ有って
見せてもらい、疲れ果ててあきらめかけた最後の
て、いったい秋江はなにか}得たの
m 名は﹁叫制緩いではお雲だったがこれ
ふれは﹁執務﹂では篠田凶となっており、一委 り
っきとめるとい
﹂のよ
て秩在として現実的な効果を期待し得ることは
﹁執着﹂にはそれがあった。 しかし﹁疑惑﹂ では、 逃げた妻の行設について確査をあげることによ
め得た自己満是にとどまるもので、結果的に
さらけ出す以外のなにものでもなかった。一平野謙氏は、
って相手を傷つけ、繍凱歌をあげたつもりでも、 それは
﹂れは自己の
﹁いやらしい自我の形骸が一ほとんど関説的とみえる協同ど、そこにはちつけ容れている一点にこそ、の金無垢の性格付か建議さ
れてあったのだ。なぜこのような慾かしい男の執念がかくも無恕に刻校されねばならぬか、ほとんどその無目的信な破廉恥に読者が当
もない。
の確認ということで秋江文学
ってしまっている。他になんの期
して、それで盤を食ふといふこ
に至ってはじめてかち得た世界であった。ここで秋誌は、
の私生濫を衆人環視
の作のうちで、
怒ずるほど、その8己刻扶の筆づかいは徴織にわたっているよ(鵠)
に送る手紙﹂
へられよう!い
おいてか
とは誼意しなければならないであろう。そして、そこに私小説と呼ばれるものの
さらけ出すとい
mwab といっていた衿持を、
という。まざにその点は、この
﹁別れた
師うし
到達し得たという
を
;
主
てを投げ棄てて、ただ自己の
が一つの
21
?
ま
人文科学論集
典型ができ上がったということは、後期自然主義文学の発端として重要な意味をもっていると思われる。
(昭和四十二年十二月稿﹀
精二、葛西善蔵らのかつての﹁奇蹟﹂派の人々を中心に、加能作次郎、宇野浩一一、加藤武雄、中村武羅夫、水守亀之助、岡田三郎、
て、編者の思惟する後期自然主義の作家とは、大正中期以降の藤村・花袋・秋声などのほか、近松秋江の愛児もの、広津和郎、谷崎
かではない。なお、同項目のなかには、谷崎潤一郎をも後期自然主義派に入れる橋爪健氏の説などもあることを紹介している。そし
凶これは編者没後に出版されたもので、猪野謙二、小田切秀雄、片岡態三氏の筆が加わっているので、どこまで編者の判断かは明ら
て来るのが早い例であろう。
しては田山花袋の﹁作者の主観(野の花の批評につきて)﹂(﹁新声﹂明治三四・八)に﹁前自然主義﹂﹁後自然主義﹂という区分が出
かで﹁我が自然主義にも前期後期の区劃を生ずるに至った o
﹂といっていることでも推察されるが、このようないい方をしたものと
同自然主義を前期と後期とにわけて考える考え方が当時すでにフランスなどについては考えられていたことは、抱月がこの論文のな
凶吉田精一﹃自然主義の研究﹄上巻序論(特に一三頁)。
ど動いていない。
前・戦後を通じて、自然主義時代を、日露戦争以後から明治四十三年まで、あるいは明治末年までと捉えるこつの考え方は、ほとん
自然主義文学の時代区分に関しては、右二氏の説がこんにちの標準になると考えられ、他の多くの文学史書を参照して見ても、戦
昭和三二・一二)もその秩序で組み立てられている。
であるとし、その前後を自然主義の、前期、分化期、成熟期、後期などの名称で説明している。同氏著﹃自然主義研究﹄︿筑摩書一房・
片岡良一一編﹃日本文学i 近代﹄(岩波小辞典・昭和三三・六﹀では自然主義運動を分析して﹁明治四O年前後の三、四年間が本期﹂
いる(下巻六頁)。
一一一・一)では﹁三十九年│四十五年の期間に於けるいはば自然主義時代を、自然主義運動研究の本来の対象と﹂する態度を示されて
思 潮 を 明 治 三 十 九 年 よ り 四 十 三 年 ま で と し て 叙 述 し 、 そ の 後 、 大 著 ﹃ 自 然 主 義 の 研 究 ﹄ ( 東 京 堂 ・ 上 昭 和 三0 ・一一、下i 昭和三
山こんにちの近代文学史の一つの礎石をなしたと考えられる吉田精一著﹃明治大正文学史﹄(修文館・昭和二ハ・一二)では、自然主義
註
2
2
水野仙子、下村千秋、嘉村議多らの作品だとしている。
附近松秋江﹃文垣コ一十年﹄(千倉窪田一房・昭和六・一)七五頁。
間﹁私小説の二律背友﹂(昭和二六・一 O ﹃文学読本・理論篇﹄所収、昭和三三・一﹃芸術と実生活﹄講談社所収)
。
問 問 右 二 七 六 頁 お よ び 二 八O 頁
附﹁私は生きて来た﹂(﹁中央公論﹂大正一一了九)。﹃新選近松秋江集﹄(改造社・昭和三・一 O) 所収、五七九頁。
秋江年譜はこれを底本としている。これは回想風に書き流した年譜で、こんにちのもののように編年体の整然たるものではないが、
間秋江は大正十四年五月、誕生五十年記念出版﹃恋から愛へ﹄を春陽堂から出した時に、その巻末に自作年譜十頁を附載した。以後、
ここに引用した部分はその四頁にある。
制註捌に同じ、五九一真。
間同右、五八七頁。
間﹃塵中につ記﹄(明治二十七年四月l 五月)。筑摩版﹃一葉全集﹄第四巻一四三頁。
凶﹁文学教育の欠陥﹂︿﹃文壇三十年﹄所収、四八t九頁)。
間﹁自分の見て来た明治三十年以後の文壇﹂(﹃文壇三十年﹄所収、七O頁
)
。
同秋江は明治三十四年四月二十二日の読売新聞に﹁鏡花の﹃註文帳﹄を評す﹂を執筆して以来、読売新聞、﹁早稲田文学﹂﹁新潮﹂な
どに多く批評の筆をとり、特に読売新聞日曜附録に連載した﹁文壇無駄話﹂は彼の文名を高からしめたものであるが、本稿は近松秋
は省略する。ただ、秋江が﹁別れたる妻に送る手紙﹂で小説家として文庫に登場するのに、彼のこの評論活動が間接的な役割を果た
江の小説、それも特に﹁別れたる妻に送る手紙﹂から﹁疑惑﹂までを考察することに重点をおくので、その評論の動向に関する考証
していることだけは、ここで注意しておいてよいかも知れない。なぜなら、この﹃文檀無駄話﹄は明治四十三年三月に光奉書房一から
れるからである。
出版され、その翌月から﹁別れたる妻に送る手紙﹂が﹁早稲田文学﹂に連載され、両・ 4相倹って彼の文壇的地位は確立されたと見ら
﹁彼は一昨年はじめて東京に来た時にも﹂という叙述があるが、秋江が初めて上京したのは明治二十七年の秋であり、この叙述に従
側秋江が初めて新宿の娼婦の宿に泊った時期は、﹁私は生きて来た﹂のなかの叙述が乱れていて、明確ではない。その場面のなかで、
えばそれは二十九年ということになる。しかし、﹁もう三月の中ごろのことで﹂ともあって、これに従えば、秋江は二十七年の秋か
ら二十九年の秋までは帰郷していたのだから、この﹁三月﹂というのは明治三十年ということになる。(ちなみに、秋江の﹁油屋の
お神さん│料理屋のお神さん﹂八﹁新潮﹂明治四三了六、﹁忘れ得ぬ人々﹂伺Vには、﹁私は中学校をよして、父の営業して居る庖に居つ
2
3
和田
近松秋江論
人文科学論集
た。其処で始めて私は或る人に連れられて女と云ふものを知った。﹂とある。それは明治二十七年のことである。)
ここにみることができる。﹂と説明しているのは、﹁雪の日﹂(﹁趣味﹂明治四三ニニ)と内容をとり違えた説明で、誤まりである。同
なお、この﹁食後﹂の内容について、﹃日本現代文学全集・必﹄(講談社・昭和四0 O﹀ 附 載 の ﹁ 近 松 秋 江 年 譜 ﹂ 明 治 四 十 年 の
一
・
項で、﹁同棲している女から、以前関係のあった男についての話を聞き、嫉婦に悩む心理を描いたもので、のちの情痴小説の蔚芽を
じ誤まりが館岡俊之助﹃自然主義作家ノ l ト﹄(泉文堂・昭和二九・一 O) の二三三頁にもある。
間﹁食後﹂以後﹁別れたる妻に送る手紙﹂までに発表された作品は、わたくしのメモによれば次のようなものがある。﹁人の影﹂ハ﹁新
金さん﹂(﹁文章世界﹂明治四二・二)、﹁一人娘﹂(﹁趣味﹂同年二ニ)、﹁田舎の友﹂(﹁新文林﹂同年・四)、﹁同級の人﹂(﹁早稲田文学﹂
潮﹂明治四了一)、﹁その一人﹂(﹁早稲田文学﹂同年・五﹀、﹁報知﹂(﹁趣味﹂同年・六﹀、﹁八月の末﹂(﹁早稲田文学﹂同年・一一)、﹁お
同年・五)、﹁鳩﹂(小品)(﹁文章世界﹂明治四三・二﹀、﹁雪の日﹂(﹁趣味﹂同年二二)。
ι
側この主人公夫婦の作中名は、以後この系列の作品に大体受け継がれているのだが、﹁別れたる妻に送る手紙﹂では妻の名がお雪に
﹁前者(﹁別れたる妻に送る手紙﹂ i 和 田 註 ) で は 、 主 人 公 た ち は 雪 岡 京 太 郎 、 お 雪 と い う や さ し げ な 名 前 が 与 え ら れ て い て 、 そ れ
なっている。その点について、平野謙氏は﹃日本現代文学全集・必﹄(前出)の﹁作品解説﹂で次のように述べている
だけで﹁つもる話は寝てとける﹂というような歌の文句を連想させる甘さがあるが、後者(﹁疑惑﹂)では、女の名前は本名をひつく
りかえしたスマという散文的な名になっている。この両者の相異は、妻の行方をもとめて日光の旅館を或つぶしにさがし、ついに妻
しかし、これはつ雪の日﹂にすでにスマ(当時の妻の本名は大貫マス)という使い方があるのだし、逆に日光の旅館を歩き廻った
の情事の確証をにぎった心の衝撃に由来している。﹂
明治四十四年以降のこの系列の作品﹁執着﹂(﹁早稲田文学﹂大正二・四)にもお雪となっている使い方があるので、平野氏のこの解
釈は当らない。
間生方敏郎﹁文壇のスヒンクス・徳田秋江﹂(﹁文章世界﹂大正二・七)、館岡俊之助﹃自然主義作家ノ l ト﹄(前出)。ただし、前者は
﹁執着﹂を読んだ上で構想されたものである。
倒﹃明治大正文学全集・第四十二巻﹄解説(春陽堂・昭和四・一 O)。
間伊藤整﹁近松秋江﹂(﹃近代日本文学研究大正文学作家論上﹄小学館・昭和一八・九)。
(金星堂・大正一二・六)にも﹁社会評論一束﹂として﹁予の労農主義﹂﹁文土の観たる普選運動波びに議会解散﹂﹁軍縮会議の一考
倒たとえば、﹃文壇無駄話﹄のなかにも、明治四十二年二月の文章として﹁文学者の見たる政治家﹂という政治論があり、﹃秋江随筆﹄
察﹂など、大正期の社会評論が集めてあり、昭和四年に政界人と往来して政局、政変、経済に関心を寄せたこと、昭和九年には反米
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円以ソ釣なジャiナリズムの紛糾織を憂えて松本教などに一書を送ったことなどは年譜上に間関らかにされている事突である。昭和十六年
いたことが紛らかである。
八月の短祭祭吋⋮⋮⋮悶千沙﹄なども川原なる時総翻訳笈ものではない。そこには、少なくとも公然的に秋江が経散家約九仙台隊識を生涯晶体って
鶴一平野総﹁解説﹂(﹃日本文学会後・お﹄新潮社・昭和⋮⋮⋮ふん・八﹀。
機的ナ料判枇同一一﹁解説﹂(吋近絞秋江像作選集﹄第三巻・中出火公総社・昭和⋮悶婦一 O ﹀八一氏。
列 に 入 ら な い 作 品 が 少 な く と も 数 篇 は あ る は ず で ふ る 。 そ の な か に は ﹁ 伊 年 の 界 間 企 Q太 隊 ﹂ 明 治 民 五 ・ 六 ) の ご と き 後 作 も 含 ま れ
州問﹁制刷れたる妻に送る手紙いから﹁疑惑﹂までの秋江の小説を後討することになれば、その間に、いたゆる﹁別れた叫淡いものの系
ている。しかし概してこの照のそれらの作品は、後の自然記後作家の作品とほとんど後らない、自然主義的な後線描写の小一裁で、務
印刷の間燦はない。しいてそれらのなかに秋江文学としての間穏を求めれば、それは⋮脱却れた妻﹂もののなかに議求できるのと問じ後
翁絡する。
貨の問絡でもある。それで、ここには論述の筋な閥的協織に?る意味で間関脱会{別れた黍﹂ものに限定し、繭附余の作品についての論及は
の遊女﹂もの々どの間関係の考察から似たもので、﹁執量一ぎについて述べられたものではないが、この作ロ臨め場合にもその公式で解け
勝平野謙﹁作品解緩い会日本現代文学金総・必"。。ただしこの平野氏の発言は、﹁疑惑いと竹大阪の遊女﹂もの、一疑惑﹂絞鋳と﹁京
るのでふる α
間 ﹁ 別 れ た 幾 ﹂ も の の 系 列 と し て は J﹂の﹁疑惑﹂のあとにもう⋮つ﹁愛羨の名残りい(﹁中央公論﹂大成問ウ一一)という作ぷが決めるの
これは彩服野綾氏刊か﹁司疑惑恥の州統綴をも歓江は品制緩している。いまその炎淡々丹、発表誌が不祭、た、が、制執の楼定をいえば、その的税務
は 大 正 凶 年 八 月 現 在 の 終 点 で 謬 か れ て い る よ Q m本薮代文学金祭・必"凶作時期解説)といっているもので、この作めは秋江の絞皆腕象
いるに違いないと想像するところで終っているが、この付税綴ではその岡山のかくれ祭会捜し当てて腕踏みこむ機簡を結末に、﹁別れた
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的恋から愛へ﹄(雌秒間機数・大正一四・双)に絞録される比吋﹁疑慾絞齢制いと改緩されたものマある。﹁疑惑﹂の結末は二人が脳向山に行って
草案﹂ものの後日 H潮岬夙にまと山りられた作品だが、﹁別れたあ裂に送る手紙﹂l ﹁品制緩﹂;﹁関紙議﹂ほど隣同綾な終淡関係はなく、むしろその
築成的なもので、作品としてはややだれた、あ与さわんちの私小説に墜している。ここぞ件付に二絞め作として考察を加えなければなら
ないほど緊密な同開館窓総なそこに求めるととはもはや不可能な作品になってレる。
州開設問に同じ。
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