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ドイツでの議論をきっかけとして

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ドイツでの議論をきっかけとして
─
松 島 雪 江
1 問題の視座
(1)
本稿は、ジェンダーの視点に基づいたポジティヴ・ア
(五一九)
題意識に収斂されるわけではない。元来ジェンダーの視
この視点を持つことは、ひとつジェンダー領域のみの問
を推進することは、現在国際的な目標ともなっているが、
ティヴな視点を持ち、ジェンダーメインストリーミング
議論の哲学的考察を目的としている。ジェンダーセンシ
クションの可否、中でもとりわけクォータ制導入を巡る
ドイツでの議論をきっかけとして
クォータ制を巡る諸考察
─
1 問題の視座
2 ポジティヴ・アクションの諸形態
3 政治領域、経済領域におけるクォータ制
4 クォータ制への反論と正当化
ポジティヴ・アクションは逆差別であるという批判
⑴ について
リベラリズム的要請から、一定の善の構想を支持で
⑵ きないことについて
⑶ 多元的社会の実現について
⑷ 一定の善の構想を国家が推進することについて
5 クォータ制導入とその後
クォータ制を巡る諸考察(松島)
二
二
二
(五二〇)
概観し、クォータ制がその中でどのように位置づけられ
日 本 法 学 第七十七巻第三号(二〇一一年十二月)
点は、あたかもそこには何もないかのように当然視され
るかを見ておく。次の
では、そのクォータ制でも、用
ていた空気のようなある一定の存在領域に対して、歴史
二
二
二
羅するべくもないが、ジェンダーの視点とは、そうした
ことを気づかせてくれる。むろんこの小論でそれらを網
らを尊重することこそが個々の生にとっても重要である
に対して、それが無視しえない存在であり、むしろそれ
や民族、宗教などに基づく社会的マイノリティーの存在
あるいは存在しないものとして扱われてきた少数の文化
要性とを示してくれた。これは、これまで見えないもの、
偏向の存在に目を向けさせ、それを直視する必要性と重
的、慣習的に形成され、いわば当然視されてきた社会的
結びつきが不可欠である。こうした一定の善を積極的に
ポジティヴ・アクションの施行には一定の善の構想との
することはできなくなる。しかしそれにもかかわらず、
正義観に基づくならば、なんらか一定の善の価値を優先
いても検討を加える。正と善とを分かつリベラリズム的
る根強い反論を概観し、また同時にその正当化事由につ
を受けての考察である。続く
る。この点は二〇一〇年にドイツで活発に行われた議論
ものか―によって異なる正当化事由があることを確認す
おけるものか、私的な秩序に基づく経済的領域における
いられる領域―それが公的な意思決定を行う政治領域に
では、クォータ制に対す
見えない存在を可視化させる力を持っており、それこそ
従来見えなかったものを可視化させた後には、そこで
そしてその善の構想は、私たちの基本的権利となるもの
取り上げるべきなのは、いかなる理由に基づくものか。
では、クォータ制を導入した場合に
見いだされた問題点をどのように是正すべきかが課題に
ションである。ポジティヴ・アクションと言われるもの
だろうか。最後に
4
な る。 そ し て そ の 課 題 に 応 え る の が ポ ジ テ ィ ヴ・ ア ク
(2)
が多元的な社会の存在基盤になると考えられる。
3
2 ポジティヴ・アクションの諸形態
留意すべきいくつかの事柄について考察を加えたい。
るための補完的役割を務めるものまで、さまざまな形態
一九九九(平成一一)年に公布・施行された男女共同
にも、効力の強い措置から、ジェンダー平等を推し進め
5
がある。本稿 ではポジティヴ・アクションの全体像を
2
を形成すること」(二条一号)とされる。さらに、機会
享受することができ、かつ、ともに責任を担うべき社会
男女が均等に政治的、経済的、社会的及び文化的利益を
る分野における活動に参画する機会が確保され、もって
対等な構成員として、自らの意思によって社会のあらゆ
要」とある。男女共同参画社会とは、「男女が、社会の
形成の促進に関する施策の推進を図っていくことが重
け、社会のあらゆる分野において、男女共同参画社会の
二十一世紀の我が国社会を決定する最重要課題と位置付
参画社会基本法によると、「男女共同参画社会の実現を
段のうち、分野や実施主体の特性に応じて、実効性のあ
ゴール・アンド・タイムテーブル方式など多種多様な手
ら ず、「 ク ォ ー タ 制( 割 当 制 ) や イ ン セ ン テ ィ ブ 付 与、
するという数値目標(二〇二〇年三〇%の目標)のみな
占める割合が、少なくとも三〇%程度になるよう期待」
分野において、二〇二〇年までに、指導的地位に女性が
年に男女共同参画推進本部の決定した「社会のあらゆる
措置の推進」が掲げられており、二〇〇三(平成一五)
き喫緊の課題として、第一に「実効性のある積極的改善
第三次男女共同参画基本計画によると、今後取り組むべ
用いられている。二〇一〇(平成二二)年に策定された
男女雇用機会均等法(雇用の分野における男女の均等
にかかわる男女間の格差を改善するための必要な措置と
な機会及び待遇の確保等に関する法律)では八条に「事
る積極的改善措置の推進」が不可欠である旨示されてい
ション)として位置付けている(二条二号)。そしてこ
る。
のポジティヴ・アクションを含め、男女共同参画社会の
業主が、雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇
して、「男女のいずれか一方に対し、当該機会を積極的
形成と促進に関する施策を総合的に策定、実施する責務
の確保の支障となっている事情を改善することを目的と
に提供すること」を積極的改善措置(ポジティヴ・アク
が国及び地方公共団体にあることが示されている(八条、
して女性労働者に関して行う措置を講ずることを妨げる
(五二一)
国際的には、日本が一九八五年に批准した女子差別撤
ものではない」とある。
(3)
九条)。
この基本法に基づく男女共同参画基本計画においても
「積極的改善措置(ポジティヴ・アクション)」の言葉が
クォータ制を巡る諸考察(松島)
二
二
二
日 本 法 学 第七十七巻第三号(二〇一一年十二月)
廃条約( Convention on the Elimination of All Forms of
一
) 四 条 に お い て、 以 下 の
Discrimination against Women
ようにポジティヴ・アクションが規定されている。
(五二二)
テ ィ ヴ・ ア ク シ ョ ン が 規 定 さ れ て い る。 ま た、 第 三 部
二一四条には男女労働者の平等が示されており、同条パ
ラグラフ四には、以下のようにポジティヴ・アクション
個の基準を維持し続けることとなってはならず、こ
結果としていかなる意味においても不平等な又は別
に定義する差別と解してはならない。ただし、その
いものとする。
利をあたえる措置を維持または採択することを妨げな
くは補償をより容易にするために、構成国が特定の有
の職業活動の遂行または職業経歴上の不利の防止もし
労働生活における男女の実際の完全な平等を確保す
るために、平等待遇の原則は、進出度の低い性別の者
が規定されている。
れらの措置は、機会及び待遇の平等の目的が達成さ
このように、ポジティヴ・アクションは国際的にもそ
の推進が明文化され、国内における男女共同参画社会基
ティヴ・アクションということになる。次にEU憲法条
こ こ で 挙 げ ら れ て い る「 暫 定 的 な 特 別 措 置 」 が ポ ジ
概観し、その中でクォータ制がどのように位置づけられ
はこうしたポジティヴ・アクションの具体的な全体像を
下に行われなければならない旨が定められている。まず
本法七条においても、こうした取り組みが国際的協調の
約を見てみると、第二部基本権憲章八三条で男女の平等
るかにつき、以下検討を加えていく。
「平等原則は、進出度の低い性別のために特定の有利を
則と最も抵触する可能性がある厳格なポジティヴ・アク
その手法がいくつかの形態に分類される。憲法の平等原
(4)
ポジティヴ・アクションは憲法適合性との関連から、
あたえる措置の維持または採択を妨げない」としてポジ
ての領域において」男女の平等が確保されねばならず、
が規定されており、「雇用、労働および報酬を含むすべ
は、差別と解してはならない。
二 締約国が母性を保護することを目的とする特別措
置(この条約に規定する措置を含む。)をとること
れた時に廃止されなければならない。
締約国が男女の事実上の平等を促進することを目
的とする暫定的な特別措置をとることは、この条約
二
二
二
るイギリスの女性単独名簿、議席そのものを割り当てる
の選挙区に限定して女性のみの候補者選定名簿を採用す
法律による候補者名簿割当制、小選挙区制において一定
例代表選挙制で男女交互名簿方式をとる北欧や、韓国の
いるのは、このクォータ制に該当する。諸外国では、比
の総数の十分の四未満であってはならない」と規定して
画会議の有識者議員の数が男女のいずれか一方で「議員
れる。男女参画社会基本法二五条三項において、男女参
域に対する人数や比率を割り当てたクォータ制が挙げら
があり、その代表例として、性別や人種を基準に一定領
ションには、あらかじめ一定の枠を法律で定めるタイプ
決や、女性に無条件かつ絶対的な優遇を与えるのでなけ
無効と判示した一九九五年の欧州司法裁判所カランケ判
ン州の女性優先雇用が、欧州男女均等待遇指令に違反し
則との適合性が争われることがある。ドイツ・ブレーメ
あることで機械的に優先されるとの懸念があり、平等原
スファクターとして重視するもの)においては、女性で
格・能力を持っている場合、進出が遅れている性をプラ
一方、ドイツにおけるプラスファクター方式(同等の資
とが多い領域で用いられていることもまた事実である。
う批判は免れない。ただし、その天井にさえ届かないこ
憲法との抵触は問題にされにくいが、ガラスの天井とい
消するという目的のために行われる努力目標であるため、
女性の登用に関する一定の努力目標を掲げる方式であ
左である。
のマーシャル判決などはこうした一連の議論の経過の証
れば、女性優遇措置は指令に反しないとした一九九七年
(5)
インドのリザーブ制などが、この施策に該当する。
れば、中庸なポジティヴ・アクションとして位置付けら
画推進本部の「二〇二〇年三〇%の目標」はこれに該当
ヴ・アクションの代表例である。先に挙げた男女共同参
ア ン ド・ タ イ ム テ ー ブ ル 方 式 は、 こ の 中 庸 な ポ ジ テ ィ
励、そのために必要な研修の実施、家庭と仕事との両立
ンとして位置付けられる。一定の地位に対する応募の奨
周辺条件を整える施策が、穏健なポジティヴ・アクショ
そして最後に、事実上の男女平等を推し進めるために
(6)
れる。ある時期までに一定の目標達成を示したゴール・
する。ゴール・アンド・タイムテーブル方式は、社会参
支援やそれに向けた環境整備などがこれに該当する。こ
(五二三)
画への機会に関して、必要な範囲内で男女間の格差を解
クォータ制を巡る諸考察(松島)
二
二
二
(五二四)
れらは男女共同参画社会基本法におけるポジティヴ・ア
平等を推し進めるために、この領域におけるクォータ制
とに鑑み、この私的領域たる経済領域への事実上の男女
日 本 法 学 第七十七巻第三号(二〇一一年十二月)
クションとは性質を異にすると考えられ、憲法の平等原
も検討されている。以下、この点について検討する。
には、こうした穏健なポジティヴ・アクションは不可欠
二〇一一年冬、ドイツでは何度目かの女性クォータ制
3 政治領域、経済領域におけるクォータ制
後の検討に回し、ここではもう一つの重要な特徴を確認
絡んで賛否論じられているところであるが、その議論は
そのあり方を巡っては憲法上の平等原則との抵触問題と
ションの中でも厳格な措置として位置付けられている。
以上概観したように、クォータ制はポジティヴ・アク
ける女性役員の割合を積極的に増やすべきと、現職の労
のは、この女性クォータを経済領域に導入して企業にお
てきたドイツである。今回それが一大トピックになった
ファクター方式を導入し、その是非を欧州裁判所で争っ
はこれまで幾度となく繰り返されてきたし、既にプラス
た。女性の権利に敏感なドイツにあって、この種の議論
についての議論にこれまでにない世論の注目が集められ
し て お き た い。 す な わ ち、 こ う し た ポ ジ テ ィ ヴ・ ア ク
働大臣( Ursula von der Leyen,
CDU)が発言したこ
とに端を発している。彼女は二〇一〇年春に当時の連邦
ル・アンド・タイムテーブル方式が多用されていること
済領域では中庸なポジティヴ・アクションとしてのゴー
アクションであるクォータ制などが採用され、私的な経
形でこの種の議論が形成されようとしていた。しかしそ
ドイツでは一〇年ほど前から私企業の自由連合という
治家家系の一員であり、また七人の子供の母親でもある。
大 統 領 Horst Köhler
が 突 然 辞 意 を 表 明 し た 後、 有 力 な
大統領後継候補として名が上がるほど著名な代々続く政
部門においては、選挙制度における厳格なポジティヴ・
が確認できた。しかし私的領域こそが生活領域であるこ
私的な経済領域とであるという事実である。公的な政治
(7)
ションが論じられているのは、主に公的な政治領域と、
を演じることになる。
であり、事実上社会構造を変化させるために大きな役割
かし、ポジティヴ・アクションを実効的に推進するため
則と抵触するというような問題も提起されていない。し
二
二
二
割合は国際的水準においてブラジルやロシアにも劣り、
役の九〇%が男性によって占められている。女性社長の
な い 状 況 に 陥 っ た、 と Von der Leyen
は 分 析 す る。
二〇一〇年現在で、ドイツ企業は取締役の九七%、監査
の基礎構築が失敗したことにより、女性は身動きが取れ
はいないことは現実の数字が示す通りであり、そのよう
実際の労働領域において彼女たちの思い通りにはなって
それに伴ってその後の将来も順風と信じ込んでしまうが、
を帯びるほどであった。五〇代の Von der Leyen
は、学
校教育の中で比較的良い成績を収めてきた若い女性達が、
見せなかったこともあり、一時は権力闘争としての様相
の導入、②これらが守られなかった場合の制裁措置、③
は、①男女双方の性別に適用されうる三〇%クォータ制
ことが重要というのが彼女の主張である。より具体的に
クォータ制について議論を開始し、コンセンサスを得る
子供の養育環境を社会が責任を持って担うようになれば、
ンが欠けていることに起因する、というのがそれである。
女性リーダーの欠如は、全日制の学校と子供の養育プラ
て、この種の経済的介入を批判する声もある。すなわち、
も女性が社会で活躍しうる社会環境が整っていないとし
こうした経済界への意図的なテコ入れに対し、そもそ
(8)
インドより僅かに多いに過ぎない。この時点で社会に劇
な見えない壁を超えるためにひとまずクォータ制の導入
)
的な構造変化を起こさないことには、ドイツの約半数に
は不可欠と主張し、賛否を呼んだ。
このクォータ制が、ドイツ国内全企業に対するものでは
当然に女性が社会で活躍する機会が増大すると、ここで
(
わたる能力を無視することに繋がる、よってそのために
なく、株式上場企業のみを対象とすること、の三点を軸
いて、教育を家庭の問題として閉じ込めることなく、社
(9)
として、五年以内にそれを実現化させる努力をすべき、
会的責任と考えるニーズはますます高まっており、これ
(五二五)
の 種 の 議 論 に は、「 そ も そ も 子 供 の 養 育 は 女 性 の 責 任 」
は考えられている。確かに、核家族化が進んだ現代にお
と の 趣 旨 で あ る。 こ の 発 案 は Von der Leyen
が以前か
ら温めていた構想の実現化でもあり、政府与党内のみな
)
らず経済界や広く一般の社会でも大きな波紋を呼ぶこと
(
)
が重要な論点の一つになることは間違いない。しかしこ
12
となった。これに対して同じ与党CDUの女性家族大臣
(
がこの種の議論を受け入れる姿勢を
Kristina Schröder
クォータ制を巡る諸考察(松島)
二
二
二
11
10
(五二六)
高まると言われるが、九七%男性主導という社会は、あ
うものは、均質化が進むほど誤った判断を犯すリスクが
停滞しているといわざるを得ない状況にある。集団とい
るジェンダー平等への変化はあまりに遅く、ここ数十年
の取り組みやこれまでの成果に比べて、経済領域におけ
然あるが、政治領域や社会領域におけるジェンダー平等
えるという穏健なポジティヴ・アクションの必要性は当
循環にある。子供の養育を社会的に担っていく環境を整
案せねばならないのであり、「卵が先か鶏が先か」の悪
べき女性リーダーの数が絶対的に欠如していることも勘
い。女性リーダーの数の少なさは、むしろお手本となる
ととは、それだけをもって必ずしも直結するものではな
で働きやすくなることと、女性リーダーの数が増えるこ
という暗黙のルールが前提とされており、女性が家庭外
エーションに通底している。今回提起された経済領域へ
由」、とりわけ「国家権力からの自由」がそれらヴァリ
ざまなヴァリエーションがあるとはいえ、「~からの自
の中から醸成されてきた思想形態であり、その中にさま
している。現代リベラリズムの源流もこうした市民社会
も国家権力による介入には馴染みにくいという経緯を有
的地位を占める私法領域であるため、この領域はそもそ
ける自由の概念を体現化したものが、近代法体系の中心
市民社会の基本原理に基づいている。この市民社会にお
自立を旨とした自由主義経済の成立を至上命題とした、
置づけられる。この近代法は、もともと国家権力からの
を体験したとはいえ、基本的には近代法の延長線上に位
会で用いられている法体系は、社会法という大きな変換
得ない特質を内包していたと言える。現代の資本主義社
の経済領域への適用という点で問題が先鋭化されざるを
日 本 法 学 第七十七巻第三号(二〇一一年十二月)
まりにそのリスクを背負いすぎていると言わざるを得な
政治領域ならびに経済領域への介入はそれぞれ異なる
であったがゆえの紛糾であることが窺える。
力の介入という、まさに近代私法の核心に踏み込むもの
のクォータ制導入という議論は、私的領域に対する公権
で
も取り上げた通り、これまで政治領域で用いられること
基 準 で 判 断 す べ し、 と の 議 論 が 存 在 す る。 二 重 の 基 準
られるような厳格な形態であるクォータ制は、本稿
ポジティヴ・アクション、中でも憲法との抵触が論じ
いであろう。
二
二
二
が殆どであった。今回ドイツで巻き起こった議論は、そ
2
なる。他方の経済的自由は、その保障程度が精神的自由
ず、それは民主主義的要請に基づくから、ということに
は(とりわけ国家権力から)より厳格に守られねばなら
ている。つまり、言論の自由をはじめとする精神的自由
り厳格な基準によって審査されなければならない、とし
基準は、精神的自由の規制立法については妥当せず、よ
も、経済的自由の規制立法に関して適用される合理性の
地位を占め、人権規制を行う法律の違憲審査にあたって
欠の権利であるから、それは経済的自由に比べて優越的
( double standard
)の理論によれば、人権のカタログの
中で、精神的自由は立憲民主制の政治過程にとって不可
い う 一 見 転 倒 し た か の よ う な 論 理 経 路 を も っ て、 逆 に
は、そこにおける精神的自由への介入を排除するためと
そしてこの、より聖域としての性質を帯びた政治領域に
り、そのための措置こそがクォータ制ということになる。
でに形成されてきた社会的バイアスを矯正する必要があ
を確保する必要があるというのであれば、まずはこれま
点はメスを入れ続けてきた。つまり、本当に言論の自由
な欺瞞を前提としてきた社会構造にも、ジェンダーの視
があたかも「理想的発話状況」を形成しているかのよう
民主制が充分有効に機能していないにも拘わらず、それ
何を意味しているのかを考える必要がある。現在の間接
る。しかし、その言論の自由の確保ということが事実上
い経済領域に対しては、過分な介入が行われないように
そがクォータ制と憲法との適合性が争われるゆえんであ
と全く異なった次元で設定されるのではないものの、仮
)
に経済的自由への侵害に直面したとしても、その事後補
クォータ制が必要とされるのに対して、それほどでもな
この議論が示唆しているのは、言論の自由を体現する
配慮されてきた、と見る方が現実に即していると言える
(
償も可能と考えられている。
政治領域の介入如何をより厳格に吟味し、他方で経済領
立性という鎧をまとった無関心とも共鳴しあっている。
この論理は、リベラリズム的価値観が依拠する価値中
であろう。
由を確保しうる政治領域に対して、クォータ制導入とい
(五二七)
しかしその無関心は、従来的価値観の消極的是認という
クォータ制を巡る諸考察(松島)
う形で介入することには慎重さが求められるし、それこ
くものでは実はないということである。確かに言論の自
域への介入は比較的容易に行われうる、という論理を導
13
二
二
二
日 本 法 学 第七十七巻第三号(二〇一一年十二月)
一定価値観の表明に他ならない。
4 クォータ制への反論と正当化
⑴ ポジティヴ・アクションは逆差別であるという批
判について
(五二八)
本であって、「平等の処遇」への権利はそこから派生す
るものとされる。もし「平等の処遇」への権利のみで平
等 を 捉 え る の で あ れ ば、 ク ォ ー タ を は じ め と す る ポ ジ
ティヴ・アクションには疑問の余地があるが、「平等な
者として処遇されること」への権利を根底に据えるので
あ れ ば、 そ れ を 実 効 的 に 実 現 す る 措 置 と し て ポ ジ テ ィ
ヴ・アクションやクォータは積極的に正当化されるし、
むしろそれなしにこの権利は充足され得ないとさえ言え
discrimination
(肯定的・積極的差別)の語が充てられている
positive
ように、それが一種の「差別」であるという批判がこの
誤解であるとしても、これがいずれか特定の性に対する
その批判対象となりやすい。たとえ「逆差別」の謂いが
が悪化するにもかかわらず、社会は総体として向上する
評価されるのであろうか。一つには、一定の成員の状態
ティヴ・アクションを導入した場合、それはどのように
次 に、 平 等 な 者 と し て 処 遇 さ れ る た め に 一 定 の ポ ジ
る。
特別措置である以上、他方の性への権利侵害との関係で、
)
)
場合、ある個人の状態が悪化しても社会福祉の平均的・
まずは「平等な扱い」という視点からの問題意識を考
(
)
想論的に向上したとする理解である。前者における功利
(
意味で理想的社会により接近するのであれば、それは理
あっても、社会がより正義に合致し、あるいは何らかの
な 議 論 で あ る。 た と え 平 均 的 福 祉 の 増 大 と は 無 関 係 で
たものと解することができる。もう一つは、より理想的
(
その限界が問題になりうることにも目を向けねばならな
)
総合的レベルが向上すれば、功利主義的な意味で向上し
(
い。
う。中でもクォータ制はその形式の厳格さゆえに、最も
種の議論に寄せられる最もオーソドックスな形態であろ
ポジティヴ・アクションにはフランスで
二
二
二
17
えてみたい。そもそも「平等の処遇( equal treatment
)」
への権利と、
「平等な者として処遇されること( treatment
)」への 権利と は別物で ある 。 Dworkin
によ
as an equal
れば、「平等な者として処遇されること」への権利が基
15
16
14
主義的意味での社会の向上というのはいささか危険な見
る議論から、善の構想を完全に切り離すことは不可能で
れて普遍的な正の追及を旨としているが、何が正かを巡
ベラリズムは正と善とを区別し、一定の善の構想から離
善の構想が含まれていることに留意せねばならない。リ
後者における理想論的意味での向上にあっても、一定の
してそれを積極的に把握していくことも可能であろう。
状態に留まっていることを悪化とはせず、異なる視点と
いる訳ではない。その状態になったこと、もしくはその
ティヴ・アクションにより他方の性の状態を悪化させて
である。また、「個人の状態が悪化」に関しては、ポジ
り、少数者の権利擁護はいつまでたっても覚束ないから
たか否かを判断しうるのは社会の多数派ということにな
構造や意識の上にいくら新しいものを積み上げようとし
徹底を個人の努力不足に帰する見解もあろうが、歪んだ
の取り除くべき要因が存在すると考えるのか。平等の不
いる側の努力不足に原因があると見るのか、それとも別
実上平等が達成されていない時、それは単に抑圧されて
で、歴史的に形成されてきた社会構造や意識によって事
れている。現在の法構造が人々に平等を要請している中
が担わなくてはならないのか、という問題意識も内包さ
に要請されるが、同時に過去の負の遺産をなぜ現在世代
て理解する場合、それは時限的な措置であることが当然
う捉え方である。ポジティヴ・アクションを必要悪とし
われる。必要悪としてのポジティヴ・アクション、とい
との認識が、昨今共有されるようになってきたように思
と文字通り解したとしても、そこには特定の措
positive
置を取らなければ社会的不公平を助長する可能性がある
discrimination
あろう。リベラリズムは社会構築にあたって一定の善の
ても、従来秩序を容易に打ち破ることはできないことを、
それにもかかわらず、たとえクォータ制を
構想から中立であることを目指すが、その試みが必ずし
これまでのジェンダー研究は示唆してきた。それゆえに、
解でもある。というのも、「社会が総体として向上」し
も成功しているとは言い難い。したがって、何が理想論
)
的社会であるかを明確にできない以上、ポジティヴ・ア
従来秩序の再構築を目的とした何らかのポジティヴ・ア
(
クションが理想に接近するための手法かどうかも定かに
クションが必要とされるわけだが、その措置が適用され
(五二九)
はならない。
クォータ制を巡る諸考察(松島)
二
二
二
18
(五三〇)
直接影響を被るのが、なぜ「今、ここにいる自分」でな
社会的不公正が認められたとしても、その是正によって
う申し立ては、枚挙に暇がない。たとえ過去に何らかの
ている間、それによって逆に不平等な扱いを被ったとい
ランスで男女の平等原則が導入される際に呼んだ議論と
ら個人を平等な者として処遇するというこの思想は、フ
一定の善の構想から離れたところで個人を設定し、それ
遍的正を実現する正当化事由になると考えるからである。
は多元的な価値観が重なり合う社会にあっても特定の普
断停止し、正の善に対する優先を旨とすることで、国家
日 本 法 学 第七十七巻第三号(二〇一一年十二月)
くてはならないのか、という問いである。「負荷なき個
同じ構造を持っている。
)
人」から構成されるリベラリズム社会において、前世代
う。しかし「位置ある個人」として社会の連続性の中に
定されていた「抽象的人間像」が変革を迫られた。市民
される際、平等な人間の理解を巡り、それまで当然に想
一九九九年にフランス憲法が改正されてパリテが導入
使用しないで記述できる」普遍的特徴を持った共通属性
)
⑵ リ
ベラリズム的要請から、一定の善の構想を支持
できないことについて
を持つ存在と前提される。この人間像に依拠した近代の
(
ポジティヴ・アクションによって自己の意思に反して
人権概念は、「人間がただ人間であるということのみに
)
一定の位置に留め置かれたとしても、それを悪化と捉え
基づいて当然に持っている権利」であり、「具体的な諸
の善の構想からも離れて存在する。このような個人から
(
るのではなく、異なる視点の獲得となる可能性があると
抽象的な個人である。この抽象的な個人像は、当然一定
事 情 の 違 い は 捨 象 さ れ、『 同 じ 状 況 』 に あ る と さ れ る 」
)
して、積極的に評価しうることを先に示唆した。しかし
ラリズムは積極的に判断を下すことができない。どのよ
構成される社会には「個人を超越する権威などなく、各
22
21
20
うな善の構想が望ましいのかについてリベラリズムは判
(
この異なる視点なるものが評価に値するかどうか、リベ
時空座標など、特定の対象や領域のみを支持する表現を
社 会 に お け る 人 間 は 歴 史 的 に、「 固 有 名 詞・ 確 定 記 述、
個人を位置づけるのであれば、この問いに対して積極的
(
の負の遺産を課されることへの説明は導きにくいであろ
二
二
二
な解答を提示することも可能になるであろう。
19
)
とりのアイデンティティの発揮を可能にする」ことが肝
人の善き生を各人が構想」した上で、「諸個人ひとりひ
かを認知する必要がある。ロールズが仮定した「無知の
提となり、そのためには現実にどのような実態があるの
すのであれば、正確な情報を等しく得ることも重要な前
とになる。民主主義の基本となる理想的発話状況を目指
(
要と考える。しかし普遍主義的市民概念に基づいて作り
)
出された「人一般」は、実際には存在しない。確かにこ
ヴェール」が、真実から目を背けるための謂いになって
(
の普遍主義は近代法の支柱となるものである。しかしそ
はならないであろう。
ではない。
正とは切り離されるものなのであろうか。コミュニタリ
ジェクトを遂行できると考えるわけだが、そもそも善と
前 提 と し て い る か ら こ そ、 普 遍 的 正 の 追 及 と い う プ ロ
理主義などが依然として人々を惹きつけることがあるよ
に思われる。むろん heterogeneous
であることが民主主
義社会の基盤でありながら、他方で民族主義や宗教的原
実のところその根拠はあまり明確にはされていないよう
)
アンのように語るのであれば、「善をカッコに入れて正
(
もまた事実であろう。一方で社会的寛容を口にしながら、
他 方 で 不 寛 容 に も 寛 容 で あ る よ う な 社 会 に お い て、
の措置としてポジティヴ・アクションは位置づけられて
これまでに構築されていた社会的偏差を是正するため
クォータ制はどのように評価され得るのであろうか。
つ者が当該事項に関心を持たない人々であるならば、そ
(五三一)
おり、その中でもクォータ制はより実効力の強い措置と
クォータ制を巡る諸考察(松島)
の事項は常にカッコに入れられたまま日の目を見ないこ
事柄を公的な事項として取り上げるか否かの決定権を持
コに入れておくことは可能なものである。しかし、ある
人間は、自分に関心のない事柄に関して、それをカッ
う。
うに、人々や社会が一定の同質化を好む傾向があること
構想とは、互いに結びついている。そのような抽象性を
このような近代法の普遍主義的要請とリベラリズムの
24
を構成することは可能か」という問いとして収斂されよ
⑶ 多元的社会の実現について
多元的社会への要請は昨今当然視されているようで、
のように抽象化された個人は、実際の生を営む主体など
23
25
二
二
二
日 本 法 学 第七十七巻第三号(二〇一一年十二月)
(五三二)
ムが推奨する個人単位での社会的責任遂行のためにも、
偶然性に対する一つの回答になる。これは、リベラリズ
るはずである。多元的社会を目指すという構想は、この
ヴェールという視点からも、最大限の尊重が引き出され
を受けることになる。この偶然性に対し、同様の無知の
自分がどのような属性・状況にあるかを選択できずに生
しとの理由からであった。私たちは、性別や人種など、
であってもそれを尊重する社会の構築を可能にさせるべ
いかなる状況にあるのか不明な時、いかなる属性・状況
知のヴェールを仮定したのは、自分がどのような属性で
も heterogeneous
な社会が担保されなくてはならないの
はいかなる理由に基づくものであろうか。ロールズが無
形でしか価値判断に関与していないとしても、そこでは
に価値中立的であろうとしても、そしてたとえ消極的な
や行動の正当性が疑問視される。しかし、たとえどんな
推奨するとなると、価値中立性の侵犯として国家の存在
自由であるが、国家という巨大権力組織が一定価値観を
値観を絶対的に否定・抑圧するのではない限りにおいて
が何らかの価値観を持つことには、その価値観が他の価
力と結合することによる弊害を防ぐことにある。各個人
定の善の構想を支持しないのは、その善の構想が国家権
を介在させることへの疑義であろう。リベラリズムが一
と仮定した場合、最後に残るのは、そこに国家的な権力
るとして、更にそれによって社会の多元性が確保される
前提としているにしてもそれが民主主義社会の要請であ
して多元的社会の実現を推進するものであるが、そもそ
不可欠の要因となる。つまり、一定の役割や集団に属さ
常に何らかの形での価値の選択がなされている。中立的
)
ずとも、個人として社会の成員であり社会的責任を果た
であろうとする態度は、従来的価値観の消極的是認とい
(
すという事実は、必然的に多様な生のあり方を受容する
う一定価値観の表明とならざるを得ないのである。
想を表明しているのであれば、クォータは一種の権利と
どのような形態であれ、国家が一定の価値観、善の構
ことに繋がる。その多様性を確保するための措置として、
⑷ 一定の善の構想を国家が推進することについて
クォータ制が逆差別ではなく、また一定の善の構想を
二
二
二
クォータを位置づけることができるであろう。
26
ン を 巡 る い く つ か の 議 論 に つ い て 考 察 を 加 え て き た。
以上、クォータをはじめとするポジティヴ・アクショ
5 クォータ制導入とその後
か。もしそうであるならば、それに相応する義務―たと
して数えられるものだろうか。クォータは、 Dworkin
の
言う「切り札としての権利」に該当するものなのだろう
えば国家による政策形成義務―が存在するのであろうか。
クォータは機会の平等ではなく、一足飛びに結果の平等
形でも是認しそれによって社会的影響を及ぼしている以
ならないことになる。しかし国家が一定の善を消極的な
集合的な利益達成のために安易に個人が犠牲にされては
ろう。クォータによって目指すべきは、男性中心的では
ものではないことを確認しておくことは非常に重要であ
ても、それは女性が男性並みに働く社会を目指している
的クォータを導入して女性リーダーの数を増やしたとし
な社会を私たちが望むか、という点である。たとえ経済
最も重要なのは、クォータを導入することでどのよう
て、いくつか挙げておきたい。
最後に、クォータが実際に導入された際の留意点につい
担保するための措置であることをこれまで確認してきた。
を目指すものとの批判があるが、あくまで機会の平等を
「切り札としての権利」をさらに進めた形で「権利の優
位 性 」 を 語 る Kumm
は、 反 パ ー フ ェ ク シ ョ ニ ズ ム
( antiperfectionism
)、反集合主義( anticollectivism
)、反
帰 結 主 義( anticonsequentialism
) を 意 図 し て お り、 そ
れによると何が個人の善き生き方かを国家が決定して個
上、それをより中立的な形にさせるための措置を講じる
ない生き方が存在するということ、そしてそれも生の遂
人に強制してはならず、個人の権利は集合的善に優先し、
ことも、国家によってこそなされなければならないはず
行に必要不可欠な要素であることを誰もが一個人として
)
である。そうであるならば、国家こそがクォータをはじ
認識し、かつそれを実行に移すことのできる社会を構築
(
めとするポジティヴ・アクションの主体たり得なければ
(五三三)
いことによる弊害を取り除こうとしてクォータを採用す
することである。もしも公的領域への女性の参画が少な
ならないことになるであろう。
クォータ制を巡る諸考察(松島)
二
二
二
27
日 本 法 学 第七十七巻第三号(二〇一一年十二月)
(
)
る の で あ れ ば、 同 様 に、 男 性 の 家 事 参 画 を 実 現 す る
いくために必要な労働が
(五三四)
(3) こ
こでは特定措置が女性労働者に限定されているこ
とに注意が必要である。双方の性に対してではなく、一
改 革 と ク ォ ー タ 制 の 合 憲 性 ―」 法 学 第 六 七 巻 第 五 号、
(4) こ の 点 の 分 類 整 理 に つ い て は 以 下 に 詳 しい。 辻村 み
よ子「ポジティヴ・アクションの手法と課題―諸国の法
る。
打ちを容認するガラスの天井問題も考慮する必要が生じ
こそ、ポジティヴ・アクションは、結果の平等ではなく
(1) Positive Action
は 積 極 的 改 善 措 置、 も し く は 積 極 的
格差是正措置と訳されるもので、元来ヨーロッパで多く
とが妥当であることになる。
方の性に対してのみクォータが課されると、事実上の頭
リティー性が見て取れる。
アップや意思決定などにおいて、明らかに女性のマイノ
と、そこには参画への入口、当該領域におけるステップ
し政治や企業における労働といった領域への参画となる
ティー/マイノリティーに分かれるものではない。しか
しれない。確かに人口比にみる男女の関係は、マジョリ
(2) 社 会 的 マ イ ノ リ テ ィ ー と い う 言 葉 を 用 いる 際、そ こ
にジェンダーを含めるのは、あるいは適切ではないかも
ととする。
で、本稿ではポジティヴ・アクションの語で統一するこ
ではポジティヴ・アクションの用語が用いられているの
いが、内閣府男女共同参画局をはじめとする日本の文脈
想起されることが多い。双方の指し示す内容に相違はな
学入学における人種的偏向を是正するための措置として
も同様の
用いられてきた用語である。 Affirmative Action
文脈で理解され、主にアメリカやカナダで使用され、大
二
二
二
あくまで機会の平等を担保するときにのみ用いられるこ
ている点を指摘しておかねばなるまい。そうであるから
てのクォータが、法化社会へと変換する危険性を内包し
そしてもう一つ、強力なポジティヴ・アクションとし
になろう。
のみにとどまらず、現行の年金制度にも敷衍される論点
るきっかけにもなる。こうした思考の変換は、家事責任
けるのであれば、それは個人単位で社会的責任を検討す
単位で法制度を組んできた従来のあり方に疑問を投げか
も同様であることを可視化させてくれるで
Unpaid work
あろう。個人主義を前提としているにも拘わらず、家族
の み で は な く、
Paid work
て機会均等原理を実質化することで、社会の中で生きて
クォータ導入もあって良いはずであろう。そのようにし
28
二 〇 〇 三 年。 同「 選 挙 制 度 と ク ォ ー タ 制 」 法 律 論 叢 第
『権利論(増補版)』木鐸社、二〇〇三
Univ, Press, 1977.
年、三〇五頁。
(
七 九 巻 第 四・ 五 合 併 号、 二 〇 〇 七 年。 同『 ポ ジ テ ィ ヴ・
ア ク シ ョ ン ―「 法 に よ る 平 等 」 の 技 法 』 岩 波 新 書、
) Op. cit.,
前掲書三一一頁。
二〇一一年。
( ) Op. cit.,
前掲書三一二頁。
( ) こ の 種 の 議 論 は、 リ ベ ラ ル・ コ ミ ュ ニ タ リ ア ン 論 争
で 展 開 さ れ て き た 通 り で あ る。 た と え ば Michael J.
(5) Eckhard Kalanke gegen Freie Hansestadt Bremen,
EuGH C450/93, 1995.
(6) Hellmut Marschall gegen Land Nordrhein-Westfalen,
Sandel, Liberalism and the limits of justice, Cambridge
Univ. Press, 1982.
) 例 え ば、 ア メ リ カ の 大 学 や ロ ー ス ク ー ルに お ける 一
連 の affirmative action
に 対 す る 異 議 申 し 立 て 訴 訟 は、 人
種を理由とするものの、同じ議論構造を持つ。注 カラ
(
ンケ判決、注
推進されているが、ここではポジティヴ・アクションの
施行が正当化される理由に鑑みて、政治領域と経済領域
EuGH C409/95, 1997.
(7) む ろ ん 行 政 部 門 に お け る ポ ジ テ ィ ヴ・ ア ク シ ョ ン も
とを対比させる。
) Kristina Schröder
は三二歳という若さで家族相とし
て入閣している。彼女の前任者は Von der Leyen
である。
(8) Der Spiegel, 20011.1.31, Nr.5, S.64.
(9) Ebd., S.65.
) Ebd., S.58ff.
(
(
18 17 16
19
のマーシャル判決は性を理由としたもの
5
(
) 糠
塚 康 江『 パ リ テ の 論 理 ― 男 女 共 同 参 画 の 技 法 ―』
信山社、二〇〇五年、一四九頁。
) 井
上 達 夫『 共 生 の 作 法 ― 会 話 と し て の 正 義 ―』 創 文
社、一九八六年、一〇九頁。
で、まさにこの事例として該当する。
6
(
20
( ) 高
橋 和 之『 立 憲 主 義 と 日 本 国 憲 法 』 日 本放 送 出版 協
会、二〇〇一年、七九頁。
(
(
(
( ) Der Spiegel, 20011.1.31, Nr.5, S.58ff, S.64ff.
( ) 芦
部 信 喜『 憲 法 』 第 三 版、 岩 波 書 店、 二 〇 〇 二 年、
一〇〇頁以下。
) Ronald Dworkin, Taking rights seriously, Harvard
第
号、二〇〇三年、一七七頁。
(
13 13
21
) 糠塚前掲書、一四九頁。
22
(五三五)
) John Rawls, A theory of justice, Harvard Univ.
『正義論』紀伊國屋書店、一九七一年。
Press, 1971.
) 樋口陽一『憲法』創文社、一九九八年、二〇一頁。
) Sandel, op. cit.
26 25 24 23
12 10
( ) 辻 村 み よ 子「 ポ ジ テ ィ ヴ・ ア ク シ ョ ン の 手 法 と 課 題
―諸国の法改革とクォータ制の合憲性―」法学第六七巻
(
クォータ制を巡る諸考察(松島)
二
二
二
5
14
15
(
(
日 本 法 学 第七十七巻第三号(二〇一一年十二月)
) ス ウ ェ ー デ ン で 実 施 さ れ て い る パ パ・ ク ォ ー タ 制 は
この一種である。
10, 2009.
Theory Research Paper Series, Working Paper no. 09-
York University, School of Law, Public Law & Legal
Proportionality and the Point of Judicial Review, New
) Mattias Kumm, Democracy is not enough: Rights,
27
28
(五三六)
二
二
二
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