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中世の日本で流通した銭貨 -渡来銭

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中世の日本で流通した銭貨 -渡来銭
【中世の日本で流通した銭貨
-渡来銭-】
中世の日本で流通していた貨幣は、中国から流入してきた銭貨「渡来銭」でした。
中世の遺跡の発掘調査などにより、その実態が明らかになってきています。
●大量出土銭からみる中世の銭貨
中世の遺跡から発見される大量出土銭は、中世の日本にどのような銭貨が存在していたのか
を知る うえ で重要な手掛かりとなります。
上 位 20 位 の 銭 貨 の
名称と発行王朝名
※数字は順位をあらわす
1
2
3
4
5
6
7
8
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19
20
皇宋通宝
元豊通宝
熙寧元宝
元祐通宝
開元通宝
永楽通宝
天聖元宝
紹聖元宝
政和通宝
聖宋元宝
洪武通宝
祥符元宝
景徳元宝
天禧通宝
嘉祐通宝
咸平元宝
治平元宝
祥符通宝
至道元宝
元符通宝
北宋
北宋
北宋
北宋
唐
明
北宋
北宋
北宋
北宋
明
北宋
北宋
北宋
北宋
北宋
北宋
北宋
北宋
北宋
大 量 出 土 銭 に お け る 上 位 20 位 の 銭 種
( 鈴 木 公 雄 『 出 土 銭 貨 の 研 究 』〈 東 京 大 学 出 版 会 、 1 9 99 年 〉 を 参 照 )
◆大量出土銭の定義
大量出土銭とは、大量の銭貨がまとまって出土したものを指します。多くは甕や壺などに入れら
れ て 発 見 さ れ ま す 。鈴 木 公 雄 氏 は 自 身 の 研 究 の 中 で 、1,000 枚 以 上 が 一 括 し て 出 土 す る 事 例 に 限 定 し
て大量出土銭の呼称を用いています。
遺 跡 か ら 出 土 す る 銭 貨 の 呼 称 は 、備 蓄 銭 、埋 納 銭 な ど 埋 め た 理 由 を 想 起 さ せ る 呼 称 や 、一 括 出 土 銭 、
窖蔵銭など纏まって埋まっていたことのみを示す呼称などが使われています。
日 本 の 大 量 出 土 銭 は 、 13 世 紀 後 期 か ら 16 世 紀 後 期 ま で 継 続 的 に み ら れ ま す 。
◆大量出土銭のなかの銭種構成
中 世 の 日 本 の 遺 跡 か ら 出 土 す る 銭 貨 を 出 土 点 数 の 多 い 順 序 に 並 べ る と 、上 位 に は 北 宋 銭 が 並 ん で い
ます。中世の日本では、時代・地域を越えて、北宋銭が広く浸透していたことがわかります。
ま た 、15 世 紀 に 明 銭 が 流 入 し て く る 以 前 に お い て は 、年 代 ・ 地 域 に か か わ ら ず 、大 量 出 土 銭 の
銭 種 構 成 比 や 出 土 数 の 多 い 銭 貨 の 種 類 が ほ ぼ 一 致 す る こ と か ら 、銭 貨 流 通 は 全 国 的 に 同 様 で あ っ た と
の指摘もあります。明銭流入以降になると、明銭の出土割合が多い地域が出てくるなど、地域差
がみられるようになりました。
◆なぜ、大量出土銭は埋められたの?
大量の銭を一括して埋める理由ははっきりとはわかって
い ま せ ん 。貯 蔵・貯 蓄 、戦 争 や 天 災 な ど に 際 し て の 緊 急 避 難 、
まじないなどの宗教的な意味合いといったさまざまな説が
あります。
10
『 一 遍 上 人 絵 伝 』 (清 浄 光 寺 蔵 )の
屋敷の溝から銭を掘り出す場面
◆個別出土銭の出土状況
何 ら か の 意 図 に よ り 1 箇 所 に 纏 め て 埋 め ら れ た 大 量 出 土 銭 に 比 べ て 、中 世 の 遺 跡 内 か ら 個 別 に 出 土
する銭貨は当時の銭貨流通の実態をより反映していると考えられています。
近 年 、博 多 ・ 堺 ・ 一 乗 谷 ・ 大 友 府 内 町 な ど の 中 世 都 市 遺 跡 に お け る 個 別 出 土 銭 の 調 査 ・ 報 告 が な さ
れ 、出 土 銭 種 の 上 位 は 大 量 出 土 銭 と お お よ そ 一 致 し て い る こ と が 分 か っ て き ま し た 。こ れ は 、大 量 出
土銭の銭貨が、当時流通していた銭貨をほぼ反映したものである可能性を示唆するものです。
渡来銭はいつ頃、日本に渡ってくるようになったのでしょう?
渡来銭の流入開始時期は、①北宋の時期、②北宋滅亡後の南宋の時期、③南宋滅亡後の元の時期が
候補として考えられてきました。日本の初期の大量出土銭は、北宋銭のみではなく必ず南宋銭を含む
こ と や 、 日 本 の 初 期 ( 13 世 紀 後 半 ~ 14 世 紀 中 頃 ) の 大 量 出 土 銭 の 銭 種 構 成 と 中 国 ( 金 ・ 南 宋 〈 1 2 世 紀
前 半 ~ 13 世 紀 前 半 〉) の 窖 蔵 銭 の 銭 種 構 成 が 近 い と の 指 摘 な ど か ら 、 ② の 時 期 が 有 力 と さ れ て い ま す 。
なお、同時期に日本と同じく渡来銭を受け入れる立場にあった遼、西夏と日本の初期の大量出土銭
と の 比 較 か ら 、日 本 の 初 期 の 大 量 出 土 銭 は 1 2 世 紀 前 半 に 滅 亡 し た 遼 の 事 例 と は 遠 く 、1 3 世 紀 前 半 に
滅 亡 し た 西 夏 の 事 例 に 近 い と い う 指 摘 が あ り 、 日 本 へ の 渡 来 銭 流 入 時 期 を 、 遼 滅 亡 の 12 世 紀 前 半 よ り
遅 く 、 西 夏 滅 亡 の 13 世 紀 前 半 よ り 早 い 時 期 と す る 説 も あ り ま す 。
日本・中国における銭貨の出土状況の違い
-大銭と鉄銭-
日 本 と 中 国 の 大 量 出 土 銭 の 大 き な 違 い は 、日 本 の 出 土 銭 に
は大銭と鉄銭がほとんどないことです。
日 本 で は 、大 銭 の 周 辺 を 切 り 取 り 、通 常 流 通 す る 1 文 銭 の
大 き さ に 合 わ せ た も の も 発 見 さ れ て い る こ と か ら 、日 本 で 流 通
し た 銭 貨 の 条 件 は「 銅 製 の 1 文 銭 」で あ っ た と 考 え ら れ ま す 。
崇 寧 通 宝 (当 十 銭 )
世界各地で流通した貝のお金
北宋
元祐通宝鉄銭(折二銭) 北宋
-貝貨-
中国銭が東アジアに広がったのとほぼ同じころ、中国の雲南地方、インド、タイなどでは子安貝
が 貨 幣 と し て 流 通 し 、こ の 貝 の 多 く が モ ル デ ィ ブ 周 辺 で 産 出 し た と み ら れ て い ま す 。明 の 時 代 の 書
物 (馬 歡『 瀛 涯 勝 覧 』)に は 、溜 山 (モ ル デ ィ ブ 周 辺 の 地 域 )の 原 住 民 が 山 の よ う に 海 貝 を 採 っ て 、ベ ン ガ
ルやタイに転売し、買い取った国では貨幣としていると記しています。
こ の モ ル デ ィ ブ 産 の 貝 は 、 15 世 紀 後 半 頃 に は ヨ ー ロ ッ パ を 経 由 し て 西 ア フ リ カ に 到 達 し 、 ギ ニ ア
湾 周 辺 の 国 々 で 貨 幣 と し て 使 用 さ れ て い ま し た 。西 ア フ リ カ に 進 出 し た ヨ ー ロ ッ パ の 国 々 は 、人 身 売 買
の対価としてモルディブ産の貝の確保を争ったとされます。
貝貨は、インドでは高額貨幣の銀に対する小額貨幣、アフリカでは高額貨
幣の金に対する小額貨幣として、主に小口の取引に利用される貨幣として流
通しました。また、インド周辺で流通した貨幣が国や地域を越えて、西アフ
リ カ で も 同 じ よ う に 貨 幣 と し て 流 通 し た こ と な ど 、東 ア ジ ア に お け る 銭 貨 と 同 様
の役割を果たしたといえます。
子安貝イメージ
11
【多様な銭貨と撰銭令】
中世の日本で流通した銭貨は、中国の王朝でつくられたものと、それを真似て国内外でつ
く ら れ た も の が あ り ま し た 。そ の た め 同 じ 文 字 を 持 つ 銭 貨 で も 、つ く り に 違 い が 生 じ ま し た 。
そのつくりの違いや中国国内でも評判の悪かった明銭の流入など多様な銭貨の流通が、
15 世 紀 後 半 以 降 「 撰 銭 」 を 引 き 起 こ す 要 因 と な り ま し た 。 円 形 方 孔 で 表 面 に 文 字 の よ う な も
の が あ れ ば 「 1 枚 = 1 文 」 で 通 用 す る 、 と い う そ れ ま で の 原則を崩していきました。
●撰銭令
鎌倉時代の撰銭
鎌倉時代にも撰銭行為自体はみられま
し た 。た だ し こ れ は 、長 期 の 使 用 に よ り 摩
耗した渡来銭に対するものだったと考え
られます。
「撰銭」行為に対し、中国地方の大内氏や室町幕
府は 15 世 紀 後 半か ら 16 世 紀前 半 に か け て、 た びた
禁制
一 銭 を えら ふ事
段 銭 の事 ハ、わう この例 たる上 ハ、えら ふへき事 も ち ろんた
り といへとも 、地 下 仁 ゆう めんの儀 として、百 文 に永 楽 ・宣
徳 の間 廿 文 あてくハへて、可 収 納 也
一 り 銭 并 はい
銭事
上 下 大 小 をいはす 、ゑいら く ・せんとく においてハ、えら ふへ
なわ切
から す 、さかひ銭 とこう ふ銭 の事 也・う ち ひら め、此 三 いろ
をはえら ふへし、但 如 此 相 定 ら るゝ
とて、永 楽 ・せんとく は
かり を 用 へから す 、百 文 の内 ニゑいら く ・せんとく を 卅 文
く ハへてつかふへし
ような粗悪な銭貨に対する「撰銭」は認める一方、
しかし慢性的な銭貨不足から、粗悪な銭も流通
か ら 完 全 に 排 除 す る こ と は で き ず 、民 間 で は 2 枚
で 1 文、5 枚で 1 文のような交換比率のもとで粗
.
十
地域や時期によって異なりました。
撰 銭 令 な ど の 史 料 に は「 悪 銭 」
「 並 銭 」な ど さ ま
ざ ま な 銭 貨 の 名 前 が 出 て き ま す が 、実 際 に ど の よ
う な 銭 貨 に 該 当 す る か は 、地 域 や 時 期 に よ っ て も
異なると考えられ、特定は困難です。
しかしその一方で、発掘調査などから地域ごと
の特徴が明らかになってきました。
.
どのような銭がどの程度の価値で通用するかは、
明 応 九
悪な銭の使用が続けられました。
室町幕府最初
とされる撰銭令
「日本新鋳料足」を排除し、
永楽・洪武・宣徳通宝の通用
を命じています。
織 田 信 長 撰 銭 令 一 五 六 九 (永 禄 十 二 )年
定精選條々 天王寺境内
一 ころ せんとく や け 銭 下 々 の古 銭 以 一 倍 用 之
一 ゑ ミ や う お ほか け わ れ す り 以 五 増 倍 用 之
一 う ち ひら め な ん き ん 以 十 増 倍 用 之
此外不可撰事
下、此外諸商買如 有来、時の相場をもて、定の代とりかはすへ
一 段 銭 、地 子 銭 、公 事 銭 并 金 銀 、唐 物 、絹 布 、質 物 、五 穀 以
12
し、 付物 、高こ直と をに精な 銭す にへかよ らセ、さ諸る商事買、
ま た 同 じ 15 世 紀 中 頃 に 特 定 の 種 類・書 体 の 銭 貨
を集めた銭緡が出土しており、この時期に人々が
銭種(銭名)を意識しはじめたことのあらわれと
考えられます。
挨拶にまかすへき事
北宋銭が約半分を占めますが、和同開珎も含ま
れ「一万貫ニ一種也」と注記が書かれており、日
本古代銭貨も希少ながら流通し、また珍しいもの
として意識されていたことがわかります。配列に
規則性は見いだせず、尋尊の周りにあった(ある
いは見聞きした)銭貨を書き留めたと考えられま
す。
明銭である永楽通宝・宣徳通宝・洪武
通宝が撰銭の対象となっています。同
時期の中国でも明銭が撰銭の対象と
なっていることが注目されています。
一諸事のとりかハし、精銭と増銭と半分宛たるへし、此外ハ其者の
1458 年 、奈 良 の 興 福 寺 大 乗 院 門 跡 尋 尊 は 、
「料足
名 」と 題 し 40 枚 の 銭 貨 の 図 を 銭 名 と と も に 書 き 留
め て い ま す (『 大 乗 院 寺 社 雑 事 記 』( 長 禄 2[ 1 45 8] 年 春
記 末 尾 )。
最初の撰銭令として知られる
一 悪 銭 賈 買 かた く 停 止 事
一 精 選 未 決 の間 に、其 場 へ押 入 、於 狼 藉 者 、其 所 の人 として相
支 、可 令 注 進 、若 見 除 の輩 に至 てハ、可 為 同 罪 事 、
右 条 々 、若 有 違 犯 之 輩 者 、速 可 被 處 厳 科 之 由 候
也 、仍 所 被 定 置 如 件
永禄十二年三月一日
弾 正 忠 判在
15 世 紀 半 ば の 銭 種 区 別 の 意 識
―大乗院尋尊の銭貨一覧表―
く
た。
室 町 幕 府 撰 銭 令 一 五 〇 〇 (明 応 九 )年
あくまでも1枚=1文で使わせようとするものでし
一 商売輩以下撰銭事
近 年 恣 撰 銭 之 段 、太 不 可 然 、所 詮 於 日 本 新 鋳 料
足 者 、堅 可 撰 之 、至 根 本 渡 唐 銭 永宣 楽徳 洪 武等 者 、向 後
可 取 渡 之 、 銭但 如可 自相 余交 之若 有 違 背 之 族 者 、速 可 被 処 厳
科矣
それ以外の銭貨は、混入できる上限を定めた上で、
大 内 氏 撰 銭 令 一 四 八 五 (文 明 十 七 )年
び撰銭令を出します。その内容は、流通を阻害する
織田信長の撰銭令
それまでの撰銭令では排除されていた銭貨の流通を
容認するとともに、銭貨間の価格差の存在を認め、
さまざまな流通銭貨の価格差を公定しようとしたも
のです。
「悪銭」の売買
撰 銭 令 の 中 に 、「 悪 銭 売 買 か た く 停 止 事 」( 信 長 の 撰 銭 令 < 前 頁 > ) と い っ た 「 悪 銭 」 の 売 買 を 禁 止
す る 条 文 が み ら れ ま す 。「 悪 銭 」 の 受 領 を 拒 否 す る 動 き が あ る 一 方 で 、 銭 貨 不 足 の な か で 「 悪 銭 」
だけで取引を行おうとする動きがありました。
商 人 た ち に と っ て は 、良 質 な 銭 貨 が 不 足 し そ れ に よ る 取 引 が 困 難 と な る な か で は 、悪 銭 で あ っ て
もその量が豊富であれば悪銭で取引を行わざるを得なかったといえます。
●さまざまな中世の銭貨
◆鋳写銭
中国銭(あるいはその私鋳銭)をもとにつくられ
た銭貨です。
鋳写し(コピー)が繰り返されたことなどから、
文字が不鮮明で、もとの銭貨よりも小型で薄く、
軽いといった粗悪なものが多いことが特徴です
(口絵 2 参照)
。
鋳写銭 中国・日本どちらでつくられた?
その区別は困難ですが、日本国内でつくられた鋳写銭は、
銅の割合が高いことが指摘されています。また中国でつ
くられた鋳写銭と比べて、鋳造時に銅の流れが悪く文字
が不鮮明になりやすく、色が異なると言われています。
「びた銭」
「 び た 銭 」( 江 戸 時 代 以 降 に 「 鐚 銭 」) は 、 こ の 写 真 に み ら れ
るような質の悪い銭を指すものとされてきました。
し か し 、近 年 の 研 究 に よ り 、中 世 末 ~ 近 世 初 期 の 史 料 に 出 て く る
「 び た 銭 」が 指 す も の は 、時 期 や 地 域 に よ り 異 な り 、必 ず し も 質 の
悪い銭貨を指すわけではないことがわかってきました。
同じ地域で史料上「びた」と記される銭貨が、当初は価値の
低かったものが、銭の希少化により価値が上昇し、主要銭貨と
なっている事例が、広範囲でみられます。
中世に流通した質の悪い銭貨
「島銭」
稚 拙 で 、独 特 な 書 体 を 持 つ 銭 貨 で 詳 細 は 不 明 で す が 、
「和開通宝」
「 和 開 珎 宝 」 と い っ た 文 字 が 見 ら れ る も の も あ り 、 国 内 で 14 世 紀
頃 に つ く ら れ た と す る 説 が 有 力 で す 。銭 文 は 文 字 の 体 を な し て い な
い も の も あ り 、多 種 多 様 で す 。成 分 分 析 に よ り 、原 材 料 の う ち 鉛 は
主に中国産であることがわかっています。
「島銭」
出 土 事 例 は 14 世 紀 頃 に 多 く 、 15 世 紀 に は 急 減 し ま す 。 九 州 で の
発掘が多いとされます。人々が銭文を意識し出すようになったた
め 、こ の よ う な 独 特 な 銭 貨 が 排 除 さ れ る よ う に な っ た の で は な い か
と 考 え る 説 も あ り ま す ( 口 絵 3 参 照 )。
【国内での銭貨鋳造】
室 町 幕 府 は 、 1500( 明 応 9) 年 の 撰 銭 令 の 中 で 、 日 本 で つ く ら れ た 銭 貨 を 「 日 本 新 鋳 料 足 」
と 呼 ん で い ま し た 。こ れ ま で も 国 内 で 銭 貨 が つ く ら れ て い た こ と は 知 ら れ て い ま し た が 、近 年
それを考古学的に裏付ける銭貨の鋳型などが発掘されるようになりました。
13
●日本でつくられた中国銭
遺跡からみる銭貨の生産実態
銭 貨 へ の 需 要 は 高 く 、量 が 不 足 し て い た た め 、日
本 国 内 で も 中 国 銭 を 写 し た 銭 貨( 模 鋳 銭 )が つ く ら
れ、中国からの銭貨と共に使われました。
中世の銭貨鋳造は、発掘事例により、古代
日本と同じく粘土質の鋳型による生産で、砂
型での生産になるのは近世に入ってからとみ
られています。
◆日本での銭貨鋳造を示す
考古資料(鋳型など)の発掘場所
生産者の実態は不明ですが、例えば京都の
銭貨鋳造遺物が発掘された辺りには、番匠・
薄屋・金屋などさまざまな職人が住んでいた
ことが史料より明らかで、鏡・仏具・刀装具
など多様な製品の鋳型も見つかっています。
・京都市平安京左京八条三坊
… 13 世 紀 後 半 ~ 14 世 紀
・ 鎌 倉 市 今 小 路 西 遺 跡 … 15 世 紀 初 頭
・博多遺跡群
… 15~ 16 世 紀 初 頭
・堺環濠都市遺跡
… 16 世 紀 半 ば ~ 後 半
京都・鎌倉・博多では、仏具などの銅製品
をつくる職人たちが、小規模に銭貨をつくっ
ていたと考えられています。
これに対し、堺ではやや大きな規模で銭貨
をつくっていたと考えられています。
●無文銭の鋳型と無文銭
複製、大阪府堺市出土、16世紀半ば~後半の遺構より出土
堺 環 濠 都 市 遺 跡 で は 、文 字 を 持 た な い 無 文 銭 や そ の 鋳
型 が 多 数 出 土 し て い ま す 。北 宋 銭 を 中 心 と し た 中 国 銭 の
鋳 型 も 同 じ 場 所 か ら 出 土 し て お り 、中 国 銭 を 写 し て つ く
る 技 術 を 持 ち な が ら 、敢 え て 無 文 銭 を つ く っ て い た こ と
になります。
無 文 銭 は 全 国 の 広 い 範 囲 で 出 土 し て お り 、一 目 見 て 私 鋳
銭とわかる銭貨が全国的に流通していたことを示してい
ます。
直径は 21mm 前後
のものが大多数
(複製製作協力:堺市立埋蔵文化財センター)
堺や博多で出土する無文銭は銅の成分の割合
が高いことが明らかになっています。
無文銭は全国で出土しますが、特に青森県や岩
手県などの東北地方、沖縄県、島根県や南九州な
どでの出土事例の多さが注目されています。
撰 銭 令 で は 無 文 銭 が 排 除 の 対 象 と さ れ て い ま す が( 例 え
ば 浅 井 氏 撰 銭 令 「 う ち ひ ら め 、 文 字 の な き 」)、 こ の 時 期 、
無 文 銭 を 民 間 で 生 産 し 、流 通 さ せ る 必 要 性 が 生 じ 、銭 貨 不
足のなかで取引を支える役割を果たしていたと言えます。
な お 、堺 で 出 土 ( 1 6 世 紀 半 ば ~ 後 半 の 遺 構 ) し た 鋳 型 は 無
文銭が 8 割以上を占めますが、銭文があるものは、開
元通宝が最も多く、それ以外は北宋銭がほとんどとな
っています。
●永楽通宝の枝銭
製 塩 遺 跡 「 村 松 白 根 遺 跡 」( 茨 城 県 ) か ら 出 土 し た 「 永 楽 通 宝 」
の枝銭です。
港 に 近 い こ と か ら 他 か ら 運 ば れ た 可 能 性 も 否 定 で き ず 、は っ き り
したことは不明ですが、金属組成は銅成分が 9 割以上であり、日
本産の銅銭の特徴を示しています。
こ の 枝 銭 は 、 関 東 で 永 楽 通 宝 が 多 く 使 用 さ れ て い た 16 世 紀 頃 に 、
永楽通宝が日本でもつくられていたことを示すものと考えられます。
(複製製作協力:東海村教育委員会)
複製、茨城県東海村
15~16 世紀の遺構より出土
東国で好まれた永楽通宝
明 銭 の 永 楽 通 宝 は 、 15 世 紀 よ り 日 明 貿 易 に よ っ て 大 量 に 持 ち 込 ま れ ま し た が 、 明 国 内 で は 嫌 わ れ
て撰銭の対象となったことなどもあり、日本国内でも通用価値が宋銭より低く、撰銭の対象となっ
たことが撰銭令などの史料からわかっています。
と こ ろ が 後 北 条 氏 の 領 国 を は じ め と す る 東 国 で は 、16 世 紀 半 ば 以 降 、課 税 額 を 永 楽 通 宝 で 示 す「 永
高 」が み ら れ る ほ か 、出 土 事 例 も 関 東 を 中 心 に 16 世 紀 後 半 の 遺 構 か ら 多 く み ら れ 、東 国( 関 東 ・ 東
海)で永楽通宝が好まれるようになったことを示しています。
関東では永楽通宝は精銭(宋銭を中心とする中国渡来銭)の2~3 倍で取り引きされていた事例もあり
ま す 。 ま た 16 世 紀 末 の 秀 吉 の 朱 印 状 で は 永 楽 銭 1 に 対 し び た 銭 3 と 定 め ら れ て い ま す 。
なお、日本では永楽通宝は出土銭貨の中で上位にくる銭種ですが、中国ではほとんど出土してい
ません。
14
【九州・琉球の銭貨】
詳 細 は は っ き り し ま せ ん が 、中 世 に は 九 州 や 琉 球 で も 銭 貨 が つ く ら れ て い た と 考 え ら れ て い ま す 。
●九州の銭貨「加治木銭」
中世末期から近世初期にかけて、九州・島津氏領内の
大隅加治木郷(鹿児島県)でつくられたといわれます。
裏面に加・治・木のいずれかの文字を持つものが多い
のが特徴です。なかでも「治」のものが多くみられます。
銭文は明銭の銘である「洪武通宝」がほとんどです。
渡 来 し た「 洪 武 通 宝 」を も と に つ く ら れ て い る た め 、大 き
さがひとまわり小さくなっています。
(表 )
加
治
木
(裏 )
「加治木銭」
原材料の成分分析により、鉄をやや多く含み、鉛は主
に日本産であることがわかっています。
九州で好まれた洪武通宝
九 州 南 部 で は 洪 武 通 宝 の 出 土 比 率 が 高 い こ と が 明 ら か と な っ て い る ほ か 、『 毛 吹 草 』( 1638 年 ) に 洪 武 通 宝 は
「ころ銭」と呼ばれ薩摩の名物として記されるなど、文献からも九州での洪武通宝の広がりが確認できます。
●琉球の銭貨
琉 球 で も 大 陸 か ら の 渡 来 銭 が 流 通 し た と み ら れ ま す 。発 掘 調 査 な ど か ら 大 量 の 銭 貨 を 蓄 蔵 す る 慣
習 は な い こ と 、ま た 南 宋 や 明 で 発 行 さ れ た 大 銭( 大 型 銭 )が 使 わ れ た こ と な ど が 明 ら か と な っ て き
ています。
琉 球 で つ く ら れ た 銭 貨 に 関 し て は 不 明 な 点 が 多 い で す が 、数 種 類 の 銭 貨 の 存 在 が 知 ら れ て い ま す 。
琉 球 で 銭 貨 が つ く ら れ た と さ れ る 時 期 (15~ 16 世 紀 )は 、 中 国 か ら の 銭 貨 流 入 が 減 少 し た 時 期 と 考
えられています。
これらの銭貨は、沖縄のほか九州でも多く出土しています。
◆「鳩目銭」と緡「封印銭」
「鳩目銭」は、鳩の目のような形をした小型の無文
銭 で 、 16 世 紀 頃 か ら 使 わ れ た と 考 え ら れ 、「 当 間 銭 」
「 輪 銭 」「 リ ン グ 銭 」 な ど と も 呼 ば れ ま す 。
鳩 目 銭 に は 、400~ 1,000 枚 を 一 連 と し て 細 縄 を 通
し 、結 び 目 に 封 を し た 緡 状 の も の が あ り 、そ れ ら は
「封印銭」と呼ばれています。
「鳩目銭」は形状に大小があり、封印銭は使う銭
の 大 き さ を 揃 え て い ま す ( 口 絵 5 参 照 )。
「鳩目銭」
「封印銭」
◆大世通宝・世高通宝
「 大 世 」 は 琉 球 の 統 一 王 朝 ( 第 一 尚 氏 ) の 6 代 王 尚 泰 久 (在 位
1454~ 1460)を 、
「 世 高 」は 7 代 王 尚 徳 (在 位 1461~ 1469)を 指 す と
言 わ れ 、そ の 頃 の 鋳 造 と も 考 え ら れ ま す が 、は っ き り と し た こ と
はわかっていません。
その多くは「永楽通宝」の「永楽」の文字を削り、型取りに用
いる銭貨を製作したと考えられています。
「大世通宝」 「世高通宝」
◆中山通宝
「 中 山 」は 、「 中 山 」王 (琉 球 国 王 )尚 真( 在 位 1477~ 1526)の
時代のものとされていますが、記録がなくはっきりしたことは
わかりません。軽量で薄い銭貨です。
朝鮮半島の貨幣
「中山通宝」
ベトナムの貨幣
朝 鮮 半 島 ( 高 麗 ・ 李 氏 朝 鮮 ) で は 10 世 紀 末 か ら
銭貨がつくられました。ただ、民間で流通してい
た貨幣は主に布や銀などでした。
ベトナムでは、日本が銭貨鋳造をしなくなった
10 世 紀 後 半 に 銭 貨 発 行 を 開 始 し ま す 。1 2 世 紀 以 降 、
日本と同様に中国銭が使われていくようになりま
す 。 た だ 13 ・ 1 4 世 紀 に な る と 再 び 銭 貨 が つ く ら れ 、
15 世 紀 初 に は 紙 幣 も 発 行 さ れ ま し た 。
李 氏 朝 鮮 の 朝 鮮 通 宝 ( 15 世 紀 初 ) は 日 本 に も 大 量
に輸入されました。高麗末・朝鮮初期には紙幣も
発行されています。
15
【銭貨使用と人々の生きぬく知恵】
中世社会は、一族の生活を自分自身の力で守らねばならない「自力救済」の社会であっ
たといわれています。このような社会において、銭貨は自らの生活・身分や生命を守る重
要な手段となりました。
●大金の使い方
◆芋頭を食べ続けた僧侶
◆贈り物となる銭貨
― 『 徒 然 草 』 第 60 段 よ り ―
中世は、贈り物(贈与)によって任官や訴
訟の結果が左右した時代といわれています。
贈り物として、馬や太刀などの現物のほか、
銭貨も利用されました。
当時、手元の贈り物を換金することが行わ
れており、銭貨は換金の必要が無い便利な贈
り物として受け入れられました。
貧 し い 僧 盛 親 は 、師 匠 か ら 銭 200 貫 と 坊 舎 を 譲
ら れ ま す 。 盛 親 は 、 坊 舎 を 100 貫 で 売 り 、 合 計
300 貫 文 (現 在 の 価 値 で 約 3000~ 6000 万 円 程 度 )
を京都の知人に預けました。
そ し て 大 好 物 の 芋 頭( サ ト イ モ の 親 芋 )を 買 う
た め だ け に 10 貫( 現 在 の 100~ 200 万 円 程 度 )ず
つ取り寄せ、全て芋頭の代金にしたそうです。
◆銭貨で官位を買う
中世の役人は、官職と位階(官位)で序列
が つ け ら れ 、上 下 関 係 が 厳 格 で し た 。し か し 、
お金を出せば官位を買うこともでき、仲介料
な ど を 含 め て 10 貫 文 程 度( 現 在 の 価 値 で 100
~ 200 万 円 程 度 )で 手 に 入 れ ら れ た よ う で す 。
銭 1 貫 文 = 1000 文 っ て 今 の い く ら ?
―昔のお金の現在価値―
誰もが知りたいと思うこの質問ですが、
社会のあり方が現在と異なるため簡単に
は比較できません。
た だ 1 貫 文 = 10 万 円 ~ 20 万 円 と い う 説
が あ り 、 そ れ に よ れ ば 1 文 = 100~ 200 円
となります。
【 官 職 の 値 段 の 事 例 -1245( 寛 元 3) 年 -】
木工寮・大炊寮の允*
左右馬寮の允*
民部の丞*
左右衛門尉*
2~ 2.5 貫 文
3 貫文
6~ 7 貫 文
7~ 8 貫 文
*
1貫文=米で換算
=お酒で換算
=大工の賃金で換算
7 万5千円
15 万 円
30 万 円
允・丞・尉=三等官
参 考 )田 中 浩 司「 日 本 中 世 に お け る 銭 の 社 会 的 機 能 に つ い て 」
(能ヶ谷出土銭調査会・町田市教育委員会編
『 能 ヶ 谷 出 土 銭 調 査 報 告 書 』 所 収 、 1996 年 )
●武士と銭貨-銭貨の浸透-
鎌倉幕府の評定衆・青砥藤綱が滑
川 に 落 と し た 10 文 を 拾 う た め 、 50
文で松明を買い、従者に探させる場
面が描かれています。
青 砥 藤 綱 は 10 文 を 取 り 戻 し ま す
が 、 あ る 人 は 10 文 の た め に 50 文 を
払った藤綱を笑いました。
しかし、藤綱は、
「50 銅 (50 文 ) は 自 分 の損 だ が他 人 の
益 になる。10 銅 (10 文 )は わずかである
が永 く天 下 の貨 幣 を失 うことは惜 しまれ
る。」
詞書
と答えたことが詞書に記されていま
す。
青砥藤綱の実在は不明ですが、鎌
倉時代に銭貨が浸透していたことを
うかがわせるエピソードです。
錦絵「教導立志基 青砥藤綱」
井上探景作 明治初期
(口絵 4 参照)
16
家紋として用いられた銭貨
当時、銭貨をモティーフにした家紋もありました。家紋は武家にとって自分の名字を
補完し、家を象徴するもので、戦場で掲げる旗印として絵巻などにも描かれています。
真田家の家紋として有名な「六連銭」は、三途
の川の渡り賃として死者の棺に銭6文を入れる
「六道銭」に由来するとされています。真田一族
の死の覚悟を示すものとも言われています。
永楽通宝は、織田信長が家紋として使っ
た こ と が 知 ら れ て い ま す 。『 長 篠 合 戦 図 屏
風』には、織田家の旗印として永楽通宝が
描かれています。
●漂着した中国船と鎌倉公方の対応
1403( 応 永 10) 年 、 財 宝 や
「 唐 銭 数 百 万 貫 」を 積 ん だ「 唐
船 」( 中 国 船 ) が 相 模 三 浦 に 漂
着 し 、「 鎌 倉 公 方 足 利 満 兼 」 が
財宝等は留め置き、食料や燃
料を与えて帰したことが記さ
れています。
同じような話は、
『新編相模
風 土 記 稿 』( 巻 111「 武 家 盛 衰
記 」) に も 記 さ れ て い ま す 。
●輸出される銅と利益
『 国 家 金 銀 銭 譜 』( 写 本 ) 青 木 敦 書 著
1746( 延 享 3) 年 初 版
(前 略 )
唐 糸 一 斤 二 百 五 十 目 な り 。日 本 代 五 貫
文 な り 。西 国 備 前 備 中 にお いて 、銅 一 駄
の 代 十 貫 文 な り 。唐 土 明 州・雲 州 に お い
成 るも のな り と云 々 。又 金 一 棹 十 両 は三
て糸に之を替えれば、四十貫五十貫に
十 貫 文 な り 。糸 に成 さ ば百 二 十 貫 或 いは
百 五 十 貫 に成 るな り 。
(後 略 )
文明十二年十二月二十一日条より
『大乗院寺社雑事記』
中世には、中国から大量の銭貨が輸入さ
れ ま し た が 、 15 世 紀 に な る と 日 本 の 銅 山 が
再開発され、日本の銅が輸出されるように
なりました。
室 町 時 代 の 史 料 『 大 乗 院 寺 社 雑 事 記 』( 文
明 12[1480]年 12 月 21 日 条 ) に は 、 日 本 で
は 銅 1 駄 は 銭 10 貫 文 で 、 そ れ を 中 国 に 輸 出
し 、 糸 に 替 え る と 銭 40~ 50 貫 文 に な っ た 、
と記されています。
中 世 の 銭 の 単 位 「 疋 」 ~ 1 疋 = 銭 10 文 ~
「 疋 」は 、本 来 准 絹( 官 物 徴 収 の 際 に 換 算 基 準 を 絹 と し た も の )の 単 位 と し て 用 い ら れ ま し た が 、銭 貨
の 流 通 に よ っ て 13 世 紀 半 ば 以 降 、 銭 貨 の 単 位 と し て 使 わ れ る よ う に な り ま し た 。
17
鎌倉幕府と朝廷が銭貨使用を認めるまで
12 世 紀 半 ば 以 降 、 日 本 へ 宋 銭 が 大 量 に も た ら さ れ 、 人 々 の 間 で 銭 貨 の 使 用 が 普 及 し ま す が 、 朝 廷
は 12 世 紀 後 半 に 銭 貨 の 使 用 を 禁 止 し ま し た 。幕 府 も 朝 廷 に 従 っ た よ う で す が 、1 3 世 紀 前 半 に な る と 、
銭貨の使用を認めました。
11 79 ( 治 承 3 ) 年 、 朝 廷 で は
「近日万物の沽価、殊に以て違法」
と物価の混乱を議論していました。
(『 玉 葉 』 治 承 3 年 7 月 2 5 日 条 )
そ の 原 因 は 売 買 に「 唐 土 よ り 渡 る の 銭 」
を使用することとして、
「私鋳銭は八虐に
処す、たとえ私に鋳せずといえども、所
行の旨、私鋳銭に同じ」と銭貨による売
買行為を八虐の重刑とみなし、銭貨使用
禁止を議論していました。
(『 玉 葉 』 治 承 3 年 7 月 2 7 日 条 )
1180~ 1190 年 代 :
・朝廷による銭貨使用禁止の宣旨
朝 廷 で は 11 87 ( 文 治 3 ) 年 ご ろ か ら
再び議論され、銭の使用が社会経済を
混 乱 さ せ る と し て 11 92( 建 久 3 ) 年 1 2
月 、銭 貨 の 使 用 停 止 が 宣 下 さ れ ま し た 。
(『 吾 妻 鏡 』 建 久 4 年 正 月 2 6 日 条 )。
その旨が伝達された幕府内でも、議
論され、朝廷の意向が尊重されたよう
です。
(『吾 妻 鏡 』建 久 四 年 正 月 二 十 六 日 条 )
・朝廷内での使用禁止をめぐる議論
去 年 十 二 月 卅 日 、停 止 銭 貨 之
由 、有 其 沙 汰 之 旨 、一 條 殿 被 申 送
之 云 々。
1170 年 代 末 :
(『 吾 妻 鏡 』 建 久 4 年 2 月 2 6 日 、 2 9 日 条 )
(『中 世 法 制 史 料 集 1』追 加 法 一 七 条 )
・幕府の年貢が准布から銭貨へ
12 26 ( 嘉 禄 2 ) 年 、 鎌 倉 幕 府 は 准 布 ( 徴 収 の 基 準 で
あ る 布 )の 貨 幣 的 使 用 を 禁 じ 、 銭 貨 を 使 用 す る よ う 命
じる法令を出しました。
一 、可 禁 断 私 出 挙 利 過 一 倍 、并
挙銭利過半倍事
右 、同 状 稱 、出 挙 之 利 、令 格
相 存 、而 下 民 之 輩 、至 于 過 期 、
廻 利 為 本 、過 責 為 先 、未 経 幾
歳 、忽 及 数 倍 、(中 略 )且 仰 京 畿
諸 国 等 、且 任 弘 仁 建 久 格 、雖 過
四 百 八 十 日 、不 得 過 一 倍 、於 挙
銭 者 、宜 限 一 年 、収 半 倍 利 、縦
雖 積 年 紀 、莫 令 加 増 、縦 雖 出 証
文 、 莫 令 叙 用 、 (後 略 )
(『 中 世 法 制 史 料 集 1 』 第 2 部 追 加 法 1 7 条
1 2 2 6 ( 嘉 禄 2 ) 年 正 月 2 6 日 「 陸 奥 国 郡 郷 所 当 事 」)
今 日 、止 准 布 可 用 銅 銭 之 由 、
被 仰 下 、武 州 殊 令 申 沙 汰 給 云
云。
・幕府、挙銭の利息の上限を定める
鎌 倉 幕 府 は 私 出 挙 ( 民 間 で 富 裕 層 が 行 う 稲 銭 の 貸 付〈 出 挙 〉) の
利 息 は「 一 倍 」( 2 倍 の 意 )、挙 銭 ( 銭 貨 で 行 わ れ た 貸 付 。 出 挙 銭 )
の 利 息 は 「 半 倍 」( 1 倍 の 意 ) を 超 え て は な ら な い と す る 法
令を出しました。
(『吾 妻 鏡 』嘉 禄 二 年 八 月 一 日 条 )
1220 年 代 :
(『 吾 妻 鏡 』 1 2 2 6 ( 嘉 禄 2 ) 年 8 月 1 日 条 )
一 陸奥国郡郷所当事
以 被 止 准 布 之 例 、沙 汰 人
百 姓 等 、私 忘 本 色 之 備 、
好 銭 貨 所 済 之 間 、年 貢 絹
布 追 年 不 法 之 條 、只 非 自
由 之 企 、已 公 損 之 基 也 、
自 今 以 後 、白 河 関 以 東 者 、
可 令 停 止 銭 流 布 也 、且 於
下 向 之 輩 所 持 者 、商 人 以
下 慥 可 禁 断 、但 至 上 洛 之
族 所 持 者 、不 及 禁 断 、
(中 略 )
暦仁二年正月廿二日
(以 下 略 )
(『 中 世 法 制 史 料 集 1 』 第 2 部 追 加 法 9 9 条
1 2 3 9 ( 暦 仁 2 ) 年 正 月 2 2 日 「 陸 奥 国 郡 郷 所 当 事 」)
追加法九九条)
・銭貨の浸透(陸奥でも銭納が好まれる)
鎌倉幕府は、陸奥国沙汰人百姓らが現物
絹布による年貢納入を忌避して銭納を好む
事を戒め、白河関以北への銭貨の持ち出し
を禁止し、逆に白河関以北から以南への持
ち出しを許容しました。
(『中 世 法 制 史 料 集 1』
1230 年 代 :
銭 緡 100 文 の 枚 数 は ?
中世の銭貨の特徴は1枚=1文であることが特徴です。しかし、紐を通して銭
緡 と し た 場 合 、 銭 貨 97 枚 で 100 文 と 見 な し て 使 用 さ れ た よ う で す 。
草 戸 千 軒 町 遺 跡 で 出 土 し た 銭 緡 は 5 割 以 上 の 緡 が 銭 97 枚 で 、こ う し た 銭 緡 が あ
る程度、一般化していたと考えられます。
では 3 文分は何でしょうか。緡にする紐や手間賃や数え賃が付加されたという
説がありますが、まだ明らかになっていません.
( こ の 方 法 に つ い て は 、 詳 し く は 2 4 ペ ー ジ 「 中 国 の 短 佰 慣 行 」 を ご 覧 く だ さ い 。)
18
【中世の市と商業】
●備前福岡の市のにぎわい
『 一 遍 上 人 絵 伝 』( 13 世 紀 末 ) に 描 か れ た 福 岡 の 市 ( 現 岡 山 県 瀬 戸 内 市 ) の 様 子 は 、 鎌 倉 時 代 後 期 ~
末 期 に か け て の 地 方 の 定 期 市 を 示 す 好 例 で す 。こ の 市 は 、備 前 国 東 部 を 北 か ら 南 へ 流 れ る 吉 井 川 と 山 陽
道 が 交 わ る 場 所 に 立 っ て い ま し た 。人 々 で に ぎ わ う 市 に は 、布 や 米 、魚 や は き も の な ど の 日 用 品 が 取 引
され、銭緡で布を買おうとする様子や、銭さしを数える商人の姿がみられます。
はきものの売買
銭さしを数える女性
米の量り売り
魚の売買
一遍
銭緡で
布を買う男性
備前焼の大きい甕
『一 遍 上 人 絵 伝 』
(清 浄 光 寺 蔵 )
吉井川と船着場
馬で米俵を運ぶ男性
『 道 ゆ き ぶ り 』( 14 世 紀 後 半 ) ~ そ の 後 の 福 岡 ~
今 川 貞 世 ( 了 俊 ) が 13 71 ( 応 安 4 ) 年 に 著 し た 道 中 記 『 道 ゆ き ぶ り 』 に は 、 貞 世 が 九 州 探 題 と し て 下
向する途中に立ち寄った福岡の様子が記されています。
「其 日 はふく 岡 につきぬ。 家 ど も軒 をならべ て 民 のかまどにぎ はひつつ、まこ とに名 にしお ひ た り」
と あ り 、1 4 世 紀 後 半 、福 岡 の 市 を 中 心 に 都 市 的 な 商 業 集 落 が 出 来 、繁 栄 し て い た こ と が う か が わ れ ま す 。
19
●史料にみる各地の特産物とその多様性
古 代 の 貢 納 物 を 記 し た 史 料 『 新 猿 楽 記 』( 11 世 紀 ) と 中 世 の 商 品 を 記 し た 史 料 『 庭 訓 往 来 』 を 比 較
す る と 、古 代 か ら 中 世 、近 世 へ と 引 き 継 が れ る 地 域 産 業 の あ り 方 を 読 み 取 る こ と が で き 、ま た 、貢 納 物
だ っ た 特 産 物 が 商 品 と し て 流 通 し て い く 様 子 も わ か り ま す 。中 世 前 期 に 浸 透 し た「 代 銭 納 」の 普 及 に よ
り、それまで貢納の対象であった各地の生産物は商品として市で活発に取引されるようになりました。
『新猿楽記』と『庭訓往来』に
古 代 から安 定 的 に生 産 された特 産 物 です。
記された特産物
・特 に 美 濃 の 絹 、紀 伊 の 絹 、甲 斐 の 布 、能 登
の 釜 は 、古 代 の 貢 納 物 に も 中 世 の 荘 園 年 貢
に も み ら れ る 安 定 し た 特 産 物 で す 。こ れ ら
が『 庭 訓 往 来 』に 記 さ れ て い る こ と か ら も
中世に商品として扱われていたことがわ
かります。
・『 新 猿 楽 記 』 の み に 記 さ れ た 特 産 物
美 濃 の柿 、淡 路 の墨 、播 磨 の針 、備 中 の刀 、河 内 の味 噌 、
備 後 の鉄 、陸 奥 の檀 紙 、信 濃 の梨 、丹 波 の栗 、山 城 の茄 子 、
大 和 の瓜 な ど
・『 新 猿 楽 記 』 と 『 庭 訓 往 来 』 に 記 さ れ た 特 産 物
美 濃 の絹 、紀 伊 の絹 、甲 斐 の布 、能 登 の釜
常 陸 の絹 (綾 ・紬 )、武 蔵 の鐙 、伊 予 の簾 、長 門 の牛 、越 後 の鮭 、
隠 岐 の鮑 、周 防 の鯖 、近 江 の鮒 、河 内 の鍋 、陸 奥 の漆 など
・ 河 内 鍋 や 近 江 鮒 は 、燈 爐 供 御 人 ・ 粟 津 橋 本
供御人らによって商品としても運ばれて
いたと考えられます。
<中世の年貢>
・『 庭 訓 往 来 』 に は じ め て 登 場 す る 特 産 物
加 賀 の絹 、土 佐 の材 木 、和 泉 の酢 、備 前 の刀 、
播 磨 の杉 原 紙 、阿 波 の藍 など
(京近郊の特産物)
綾 、染 物 、染 物 、絹 、烏 帽 子 、土 器 、扇 子 、針 など
西 日 本 ・・ ・ 米 中 心 、 東 日 本 ・・ ・ 繊 維 製 品 中 心
畿 内 では、全 国 の特 産 物 と同 様 のものが生 産 されるようになり、銭
貨 さえあれば、畿 内 周 辺 で物 資 を調 達 できるようになりました。
<代銭納の米建てと銭建ての違い>
・ 米 建 て (「 和 市 の 法 」)
:領 主 が 納 め る 年 貢 銭 は そ の と き ど き の 米 の
相場により変動
・ 銭 建 て (「 請 切 」)
:領 主 が 納 め る 年 貢 銭 は 米 の 相 場 に 関 係 な く
一定
関東下知状案
14 世 紀 以 降 、荘 園 経 営 の 実 務 を 地 頭 な ど が 領 主
か ら 請 負 う「 請 負 代 官 制 」が 広 ま っ て い き ま し た 。
高野山蓮華乗院雑掌真算
与紀伊国南部庄地頭藤原
氏( 代) 憲 長 相 論 両 條
(鎌倉遺文一三三四〇・
高野山文書寶簡集二十四)
和市とは、中世の市で生産物を売却する際の売
買価格や相場のことです。代銭納が進むと、人々
はたえず和市の変動に気を配るようになりまし
た。また、荘園領主は年貢を納めるにあたり、京
都と地方の和市の地域間格差や輸送コストを加味
し、代銭納と現物納で有利な方を選択しました。
(前略)
一、 色代分減少事
右、雑掌即色代分二百
石、以和市法、可受請
取之由申之、地頭亦任
先地頭之済例、可為八
十貫之旨陳之、
(後略)
●荘園経営と和市
《この他の主な年貢》
瀬戸内海島しょ部の塩
山陽道・山陰道諸国の鉄、但馬の紙、
長門の牛、陸奥の金、
陸奥・出羽・下野の馬など
「 米 建 て 」「 銭 建 て 」 の 争 い
高野山領紀伊国南部荘は、地頭請所となり年貢は
見 米( 現 米 納 )300 石 と 色 代( 代 銭 納 )2 00 石 で し た 。
そ の う ち 、 代 銭 納 分 の 2 00 石 分 に つ い て 、 高 野 山
側 は 米 建 て の 「和 市 の法 」に よ る と 主 張 し 、 一 方 、 地
頭 側 は 80 貫 の 銭 建 て の「 請 切 」を 主 張 し 、双 方 が 対
立 し ま し た 。 結 局 、 12 7 8 ( 弘 安 元 ) 年 1 2 月 27 日 、
幕府は寺家の言い分を認めました。
当時、荘園経営にとって和市が重要であったこと
を示す史料です。
『 兵 庫 北 関 入 船 納 帳 』( 15 世 紀 半 ば )
『 兵 庫 北 関 入 船 納 帳 』 は 14 45 ( 文 安 2 )年 1 月 ~ 翌 年 1 月 に 東 大 寺 が 領 有 し て い た 兵 庫 北 関 に 入 港 し た
船から徴収した関税などを詳細に記録した帳簿です。
船 籍 地 は 、瀬 戸 内 海 を 中 心 に 東 は 摂 津 堺 、西 は 豊 前 門 司 、南 は 土 佐 前 浜 に 至 る 広 範 囲 に 及 び 、塩 ・ 米 ・
木材や各地の特産物をはじめ膨大な商品が運ばれました。中世の流通の実態を示すこの史料は、データ
の質や量の点からも世界的にも稀有な史料として知られています。
この史料からは、米が収穫期に関係なく 1 年を通して取引され、価格安定のため売り手による出荷量
の調整があったことが見いだせるなど、中世における物価や通関量の変動などの流通実態が明らかとな
ってきています。
中 世 の 地 域 産 業 の 特 産 物 と し て 注 目 さ れ る 備 前 焼 は 、1 4 ~ 1 5 世 紀 前 半
に か け て 急 速 に 生 産 量 を 伸 ば し ま し た 。『 兵 庫 北 関 入 船 納 帳 』 の な か で
は 、1 4 4 5( 文 安 2 )年 に 1 2 1 5 個 も の 備 前 焼 の 壺 が 兵 庫 北 関 を 通 過 し た こ
とが記されています。
福岡の市に描かれた備前焼の壺
『一 遍 上 人 絵 伝 』(清 浄 光 寺 蔵 )
20
【中世のモノの値段】
商業の発達した中世では、どんなモノがいくらで取り引きされたのでしょうか。
●中世の商人
中世に活躍した商人・職能民は朝廷や大きな寺
社 と 結 び つ い た 者 が 多 く 、 彼 ら は 「 供 御 人 」・「 神
人」という特権的な立場を与えられました。
彼らは朝廷や寺社に製品などを納めること(座
役)によって、通行の自由(関銭・津料の免除)
や市場などで独占的にモノを売る特権を認めら
れ、広い範囲にわたって活動しました。
中世初期から廻船などにより全国に商圏を広げ
ていた鋳物師(蔵人所燈炉供御)や、大山崎(京
都府)の油神人(油座)などが有名です。
鎌倉時代に描かれたこの絵巻には女性が
魚を売る姿が描かれています。
『橘 直 幹 申 文 絵 巻 』(出 光 美 術 館 蔵 )
すみやき(炭焼き)
おひうり(帯売り)
をはらめ(大原女)
大原女とは大原
で焼いた炭や薪
を頭に乗せて京
都で売り歩いた
女性の商人です。
帯1本 150 文
薪 1 荷 150 文(15 世紀後半 炭 1 荷 160 文
(15 世紀後半の事例)
但し奈良の事例)
をうり(苧売り)
苧 1 両 17 文
(15 世紀後半の事例)
白ぬのうり(白布売り)
(15 世紀後半の事例)
(16 世紀初の事例)
中世のモノの値段の事例
ひたヽれうり(直垂売り)
薫き物うり
くすりうり(薬売り)
平胃散 279 文
烏帽子 1 つ 100 文
(16 世紀初の事例)
食べ物
わたうり(綿売り)
はまくりうり(蛤売り)
いおうり(魚売り)
(15 世紀後半の事例)
(16 世紀半ばの事例)
扇1本 10 文~30 文
(15 世紀後半の事例)
木綿半疋 950 文
鯛 1 尾 15 文
ゑほしおり(烏帽子折)
室 町 時 代 に 原 本 が 成 立 し た『 七 十 一 番 職 人 歌 合 』に は 、
さまざまな職人や商人の姿が描かれています。それらと
ともに、当時の物価の事例をご紹介します。
あふきうり(扇売り)
●商人と物価
みかん 2 個
1文
桃 1個
胡桃 1 個
瓜 1個
鰹 1尾
鰺 1尾
3
5
7
12
2
文
文
文
文
文
15 世紀前半
〃
〃
〃
〃
〃
雑貨
竹箒 1 本
草履 1 足
蝋燭 1 本
3文
3文
10 文
15 世紀後半
1,000 文
2,000 文
15 世紀後半
〃
16 世紀半ば
家畜
牛 1頭
馬 1頭
〃
香料 1000 文
(16 世紀前半の事例)
直垂1 人分 700 文
(15 世紀後半の事例)
白布 1 反 300 文
(15 世紀後半の事例)
ここで紹介した値段の事例は、ある場所・ある時点・ある品質での事例です。商業が
発展し、さまざまな地域の特産物が市場で売買されるようになると、同じ品物でも特定
の産地のものがブランド化し値段が差別化されます。
例示した炭の値段は、需要に応じ夏季には下落し、冬季には上昇しました。また農作物
価格は収穫期には下落するなど、季節的な変動を示したのは、今と変わりがありません。
ここに挙げた烏帽子は、原材料の 1 つである漆が希少品であったことから、大規模造
営などで漆の需要が増加すると漆価格の急騰の影響を受け、価格が上昇しました。
21
・本ページの中世の物価の事例は全て国立歴
史民俗博物館「古代・中世都市生活史(物
価)データベース」に依っています。(物
価と『七十一番職人歌合』とは関係ありま
せん。)
・『七十一番職人歌合』・模本(江戸時代・東京国立博物
館蔵)
●「一服一銭」―中世の喫茶店―
この絵は一服の抹茶を銭 1 文で売っている姿を描い
ています。
中世後期の京都の様子を描いた絵画には寺社の祭礼
の際の仮設の茶屋や、常設の茶屋などさまざまな形態
の茶屋が見られます。
銭 1文
こうした茶屋を中心とする喫茶文化は、モノやサー
ビスを売り買いする貨幣経済の浸透につれて、都市の
中から生まれてきました。
これは、この時代に完成されていく利休などによる
茶の湯(侘茶)とは対照的な在り方でした。
『七十一番職人歌合』模本(東京国立博物館蔵)
●大工の賃金
中世を通じて大工(番匠)の標準的な賃金は季節を
問 わ ず 1 日 100 文 ~ 110 文 で 安 定 し て い ま し た 。
ただ、労働時間は日の出から日の入りまでであるた
め 、時 間 当 た り で み た 大 工 の 賃 金 は 日 が 長 い 夏 季 に 下
落し、冬季に上昇したことになります。夏季に建築工
事が集中していた事例も見いだせます。
『松 崎 天 神 縁 起 絵 巻 』(防 府 天 満 宮 蔵 )
●1 泊 2 食
24 文
―中世の旅とサービスー
こ の 文 書 は 、 京 都 の 僧 侶 と 推 定 さ れ る 者 が 1563( 永 禄 6)年 9 月 に 京 都 を 旅 立 ち 、 越 後 ・ 関 東 ・ 南
東 北 へ の 旅 を 行 い 翌 年 10 月 に 京 都 へ 帰 る ま で の 旅 の 支 出 を 記 録 し た 帳 簿 で す 。 掲 げ た 写 真 の 7 カ 所
に 「 四 十 八 文 ハ タ コ ( 銭 )」 と い う 文 字 が 見 え ま す 。
2人旅であったと考えられる
こ と か ら 、「 四 十 八 文 ハ タ コ
( 銭 )」 は 1 人 1 泊 2 食 24 文 で
した。前後をみると出発後、滋
賀県石寺に泊まったところから、
越前・越中・越後の最初までは
一 律「 48 文 」と 記 録 さ れ て お り 、
サービス価格が一定であったこ
とがわかります。
「永 禄 六 年 北 国 下 り遣 足 帳 」より(国 立 歴 史 民 俗 博 物 館 蔵 )
ただ越後から東や帰路は異なった
値もみられ、どのような事情が旅籠
代の価格に影響を及ぼしていたのか、
まだ解明されていない点もあります。
また川を渡る時の船賃は2人で8
文 、 昼 食 ( = 「 昼 休 」) は 2 人 で 17
文 あ る い は 20 文 と い っ た 記 事 も 見
られ、銭さえあればさまざまなサー
ビスの提供を受けられたことを示し
ています。
22
10~16 世紀中国の流通貨幣
中世の日本では中国から流入した「渡来銭」が、貨幣として流通しました。この時期には、
日 本 だ け で は な く 、広 く 東 ア ジ ア の 国 々 に お い て 、中 国 の 銭 貨 が 貨 幣 と し て 流 通 し て い ま し た 。
東 ア ジ ア で 中 国 の 銭 貨 が 流 通 し た こ の 時 期 、中 国 国 内 の 主 要 な 貨 幣 は 、す で に 銭 貨 か ら 紙 幣 へ 、
さ ら に 紙 幣 か ら 銀 へ と 移 り 変 わ り 、こ の 変 化 が 中 国 国 外 へ 銭 貨 が 流 出 す る 原 因 と も な り ま し た 。
こ こ で は 、中 世 の 日 本 に 渡 来 銭 が 流 入 す る 背 景 と な っ た 、中 国 の 流 通 貨 幣 の 変 化 を み て い き
ます。
【銭貨流通と鋳造の最盛期
-北宋-】
10 世 紀 中 頃 ~ 12 世 紀 前 期
中 国 で は 、 秦 ( B C 221~ 206) に よ る 中 国 統 一 か ら 宋 (960~ 1127)ま で 1000 年 以 上 に わ た
り、流通貨幣の主役は銅製の銭貨でした。
北宋は、中国の歴史上、最も多くの銭貨が鋳造された時代でした。一方で、軍事・経済面
で の 貨 幣 需 要 を 銭 貨 だ け で は 満 た し き れ ず 、紙 幣 や 銀 が 貨 幣 と し て 流 通 す る よ う に な っ た
時代でもありました。
●種類も豊富な北宋銭
-年号銭の登場-
北 宋 の 銭 貨 は 、2 代 太 宗 の 時 か ら 、
「 年 号 」と「 通 宝・元 宝 」
が 表 示 さ れ ま し た 。こ れ に よ り 、年 号 が か わ る ご と に 新 し い
名前の銭貨がつくられることになりました。
太平通宝
淳化元宝
至道元宝
990 年
995 年
976 年
また、北宋では、1 人の皇帝の在位中に何度も年号をかえ
る こ と も あ っ た た め 、多 く の 種 類 の 銭 貨 が つ く ら れ る こ と に
なりました。
2 代太宗が発行した銭貨
銭貨は、銭名が異なっても 1 枚=1 文で流通しました。
◆年号銭以前の銭貨
北宋を建国した太祖は、宋一代の銭貨として、
宋 通元宝を発行しました。これは、唐の開元通宝や
後周の周元通宝の制度に倣ったものでした。
宋通元宝
周元通宝
開元通宝
960 年
唐
621 年
後周
955~ 58 年 頃
年号銭以前の銭貨
◆周辺諸国での銭貨鋳造
北 宋 の 時 代 の 中 国 周 辺 に は 、遼 (契 丹 )・ 西 夏・ 金 な
どの異民族国家が存在し ま し た 。 こ れ ら の 国 々 は 、
独 立 王 朝 と し て 高い意識を持ち、独自の銭貨を発行
しました。
天賛通宝
遼
乾祐通宝
922~ 25 年 頃
西夏
1171~93 年頃
大定通宝
金
周辺諸国で発行された銭貨
◆地域を限定して流通した鉄銭
北宋時代の流通貨幣は、銅製の銭貨を基本と
しますが、四川・陝西・河東の地域では鉄製の
銭貨(鉄銭)が流通しました。
銅銭と鉄銭の流通地域は厳格に分けられ、
四川は鉄銭のみ、陝西・河東は銅銭と鉄銭の
併用地域とされ、その他の地域では鉄銭の使用
は禁止されました。
慶暦重宝
1045 年
銅銭
鉄大銭
熙寧重宝
1073 年
23
鉄銭
銅銭
1178~89 年頃
単位:億枚
●北宋の銭貨
北宋の 年間銭貨鋳造量
60
◆北宋の銭貨鋳造量
北 宋 は 、清 (1636~ 1912)と 並
び、中国史上でも多くの銭
貨を鋳造した時代で し た 。 鋳
造 量 は 100 年 以 上 に わ た り 高
水準を維持しました。
同銘の銭貨の銅銭と鉄銭
5 0 .6
50
40
※前漢は前 118 年から元始年間(後 1~
5 年)までの平均鋳造量(参考値)
※唐は天宝年間(742~755 年)
※南宋初は 1127~28 年
※南宋初以降は 1156 年
※明は 1372 年
※清は 1656 年。但し、洋式の銅元(打
刻硬貨)を製造する 19 世紀以降は年
間100 億枚を超えることもあったが、
鋳造した銅銭ではないため、ここで
は除く。
3 7 .3
2 8 .9
30
30
26
1 8 .3
20
17
1 4 .6
1 2 .5
1 2 .5
1 0 .5
8
1 0 .5
10
10
2
◆北宋の銭貨需要の背景
0
995年頃 1000年
1007年
1015年
1021年 1030年頃1050年頃 1065年頃 1077年
1080年
1105年 1119年
前漢
3 .2
唐
2 .3
南宋初 南宋初以降
2 .2
明
清
太枠内は北宋以外の鋳造量
北宋では、なぜ大量の銭貨が必要だったのでしょうか?
その理由は、商工業の発達と軍事費の増大が主な理由であったと考えられています。
★商工業の発達
北宋の時代には、長江流域を中心に農業革命が起こり、農業生産量の増大と生産余剰を産
み出すようになります。南方の余剰生産物は、市場で盛んに取引され、また隋唐代に整備さ
れた大運河を通って、黄河流域へ運ばれ、商業の発達を促しました。こうした商取引の拡大
によって多くの銭貨が必要となりました。
★軍事
北 宋 の 国 境 周 辺 に は 、 遼 (契 丹 )・ 西 夏 ・ 金 な ど の 異 民 族 が 存 在 し 、 そ の 侵 攻 に 備 え る た め 、
常 に 軍 備 を 整 え て お く 必 要 が あ り ま し た 。 ま た 、 中 国 北 方 の 燕 雲 十 六 州 (現 在 の 北 京 を 含 む 古 代
の 政 治 の 中 心 地 )は 、 五 代 十 国 時 代 か ら 遼 に 占 領 さ れ た ま ま に な っ て お り 、 こ の 地 の 奪 回 の た め
にも多くの軍事費が費やされました。兵士への給料支給などには銭貨が使用されたため、軍事費
の増大は銭貨需要の増大へと直結しました。
★その他の要因-王安石の新法との関係-
北 宋 で は ほ ぼ 年 間 10 億 枚 以 上 の 銭 貨 を 鋳 造 し ま し た が 、 特 に 1065 年 か ら 1077 年 の 間
に 鋳 造 量 が 急 増 し て い ま す 。 こ の 時 期 は 王 安 石 に よ っ て 新 法 (北 宋 の 軍 事 ・ 財 政 面 の 建 て 直 し
を め ざ し た 政 治 改 革 )が 行 わ れ た 時 期 で し た 。
王 安 石 の 新 法 の 時 期 に は 、農 民 層 に 至 る ま で 銭 貨 使 用 を 促 す 政 策 が と ら れ た こ と の ほ か に 、
銭 禁 (海 外 へ の 銭 貨 の 持 ち 出 し の 禁 止 )と 銅 禁 (銅 の 私 売 買 の 禁 止 )を 解 除 し た た め 、 銭 荒
と よばれる深刻な銭貨不足を招き、銭貨の大量鋳造が必要となったと考えられています。
50 文 で も 100 文 ! ?
中国の短陌慣行
短 陌 と は 、実 際 に は 10 0 枚 に 満 た な い 枚 数 の 銭 貨 を 、名 目 10 0 文 と み な し て 使 用 す る 慣 行 を い い ま
す 。 銭 貨 は 1 0 0 文 と み な さ れ る 枚 数 で ま と め ら れ 、 こ の ま と ま り で 使 用 す る 限 り は 1 00 文 と し て 使 用
できました。
北 宋 の 時 代 に は 、7 7 枚 を 1 0 0 文 と す る 公 定 の 数 値 の ほ か に 、民 間 の 市 な ど で は 業 種 ・ 商 品 ご と に
異 な る 枚 数 の 短 陌 が 存 在 し て い ま し た 。孟 元 老『 東 京 夢 家 録 』に は 、北 宋 の 都 開 封 に 存 在 し た さ ま ざ ま な
短陌が記されています。
77( 官 用 )、 7 5( 街 市 通 用 )、 72( 魚 ・ 肉 ・ 菜 〈 魚 ・ 肉 ・ 野 菜 の 店 〉)、 74( 金 銀 〈 貴 金 属 店 〉)、 68( 珠
珍 ・ 雇 婢 ( 女 + 尼 )・ 買 虫 蟻 〈 宝 石 店 や 女 中 の 雇 い 入 れ 、 動 物 の 買 入 れ 〉)、 56( 文 字 〈 書 籍 店 〉)
短 陌 制 度 は 、 中 国 だ け で は な く 、 そ の 他 の 国 々 で も み る こ と が で き ま す 。 ベ ト ナ ム で は 13 世 紀 前
半 に 陳 朝 が 成 立 し た 直 後 、「 私 的 貿 易 に は 6 9 枚 、 公 貿 易 に は 7 0 枚 」 と の 法 令 が 出 さ れ て お り 、 ま た
出 土 資 料 か ら は 67 枚 前 後 に ま と め ら れ た も の が 多 い こ と が 確 認 さ れ て い ま す 。
24
【紙幣流通の時代
- 元 ・ 明 - 】 13 世 紀 後 半 ~ 15 世 紀 前 半
元・明初の時代は、国家の発行する紙幣(鈔)が流通貨幣の中心となりました。紙幣の
流通促進のため、銭貨の使用はたびたび禁止されました。
●元の紙幣政策
◆元王朝の紙幣流通の前提としての金王朝の紙幣流通
元 が 金 王 朝 を 滅 ぼ し 中 国 北 部 を 支 配 し た 13 世 紀 前 半 、 中 国 北 部 で は 金 ・ 銀 ・ 絲 ( 生 糸 )・ 絹 ・ 米
などの現物が貨幣として流通していました。これは、金王朝末期に行われた紙幣の大量発行により
紙幣が信用を失い流通しなくなっていたこと、それまで中国の主要貨幣であった銭貨も金王朝での
使用禁止、蓄蔵制限により多くが国外流出や鋳潰しを受け数量が激減していたこと、などが理由と
されます。
◆元の紙幣政策
13 世 紀 中 頃 、建 国 当 初 の 元 で は 、 銀 や 絲
(生糸)などの現物貨幣のほか、鈔とよばれる
紙 幣 が 流 通 し て い ま し た が 、こ の 紙 幣 は ま だ 全 国
統一の紙幣ではありませんでした。
フ ビ ラ イ ・ ハ ン は は じ め に 中 統 鈔 (中 統 元 宝
交 鈔 )、 そ の 後 至 元 鈔 ( 至 元 通 行 宝 鈔 ) を 発 行
し 、国 家 が 発 行 す る 紙 幣 を 唯 一 の 紙 幣 と し ま し た 。
また、元は金・銀・銭貨などを貨幣として
使 用 す る こ と を 禁 止 し 、紙 幣 の み を 流 通 さ せ る
貨幣政策を進めていきました。
◆マルコ・ポーロのみた元の紙幣流通
原版からつくった
イメージ
「至元通行宝鈔」
の印刷原版
1287 年 発 行 開 始
『東方見聞録』には、元の時代の紙幣流通の様子が記されています。
紙 幣 が で き あ が る と 、カ ー ン( 元 の 皇 帝 フ ビ ラ イ・ハ ン )は い っ さ い の 支 払 い を こ れ で 済 ま せ 、
治下の全領域・全王国にこれを通用せしめる。
( 中 略 )ど の 地 方 で も ど ん な 人 で も 、い や し く も カ ー ン の 臣 民 た る 者 な ら だ れ で も 快 く こ の 紙 幣 で
の支払いを受け取る。それというのも、彼らはどこへ行こうとこの紙幣で万事の支払 いが できる 。
つ ま り 真 珠 ・ 宝 石 ・ 金 銀 よ り 以 下 あ ら ゆ る 品 物 が こ れ で 買 う こ と が で き る か ら で あ る 。彼 ら は 欲 し い
ものをなんでも買い求め、さて支払いの段にはこの紙幣を用いるのである。
愛宕松男訳注
東 洋 文 庫 158『 東 方 見 聞 録 1』 (平 凡 社 、 1970 年 )よ り 抜 粋
★紙幣の回収策
紙幣の価値を安定させるためには、その流通量を適正に管理する必要があります。元では、国家の専売
品であった塩の購入代金を紙幣で支払うことを義務付けることにより、一定量の紙幣を国家が回収できる
ようになっていました。
★古くなった紙幣の交換
元 の 紙 幣 は 紙 質 が 悪 く 、傷 ん で 使 用 で き な く な る こ と が 多 か っ た と い わ れ て い ま す 。紙 幣 が 傷 ん だ 時 は 、
公 の 機 関 に 持 参 し 、 一 定 の 手 数 料 (数 % )を 払 う こ と で 、 新 し い 紙 幣 と 交 換 で き ま し た 。
●元末の銭貨鋳造
元は、発行・流通量を調整することで、紙幣価値の安定を保ってい
ま し た が 、14 世 紀 中 頃 に な る と 、紙 幣 の 大 量 発 行 が 行 わ れ る よ う に な り
ました。また、各地での反乱が相次ぎ、元の国家的信用が薄れたことも
あり、紙幣の価値は急激に下落していきました。
元は紙幣価値を安定させるため、紙幣よりも価値が安定した銭貨を
発行し、銭貨と紙幣の交換比率を国家が定め、銭貨の価値により紙幣
の価値を保証する政策をとりました。
しかし、民間では紙幣よりも銭貨が好まれたため、公定の交換比率
は守られず、銭貨に対する紙幣の価値は下落を続けていきました。
25
至大通宝
至正通宝
1310 年
1350 年
元末の銭貨
●明の貨幣政策
建国当初の明は、銭貨を唯一の貨幣とすることを目指しましたが、銅原料の不足で実現せず、
紙幣を発行しました。しかし、紙幣も流通量増大によって価値が下落し、流通の中心は銀となって
いきました。
◆明初の銭貨
建国当初の明は、銭貨を唯一の貨幣とし、複数の額面
の銭貨を発行しました。額 面 は 「 両 」「 銭 」 と い う 銀
の単位で表示されたものもありました。
しかし、銅原料の不足のため、銭貨の鋳造量は
少なく、明の流通貨幣の中で、銭貨が主役となる
ことはありませんでした。
◆明の紙幣
大明通行宝鈔
大中通宝
洪武通宝
1361 年
1368 年
明初の銭貨
1375 年 発 行 開 始
「 大 明 通 行 宝 鈔 」 は 明 政 府 が 発 行 し た 唯 一 の 紙 幣 で す 。 額 面 は 「 1 貫 」 か ら 小 額 面 の 「 10 文 」
ま で あ り ま す 。 宋 ・ 元 と は 異 な り 、 明 政 府 は 紙 幣 の 回 収 策 を 設 け な か っ た た め 、 当初、紙幣 1 貫
= 銭 貨 1 貫 ( 1,000 文 ) で あ っ た 銭 貨 に 対 す る 紙 幣 の 価 値 は 、 20 年 ほ ど で 約 1/6 の 、 紙 幣 1 貫 = 銭 貨
160 文 ま で 低 下 し ま し た 。 こ の た め 、 流 通 貨 幣 の 中 心 は 徐 々 に 紙 幣 か ら 銀 へ と 移 っ て い き ま す 。
「壹貫」は紙幣の額面。
発行開始当初、大明通行
宝 鈔 1 貫 は 銅 銭 1 ,0 00 文
(枚)と同価値でした。
この紙幣の名前
「 大 明 通 行 宝 鈔 」と
記されています。
「 壹 貫 」の 文 字 の 下 に は 、
1 貫 の 銭 緡 (1 00 文 ず つ で
ま と め ら れ た 銭 貨 が 10 個 )
の図柄が描かれています。
紙幣を発行した年が
洪武年間であったこ
とがわかります。
大明通行宝鈔と銅
銭を併せて流通さ
せることが記され
ています。
紙幣の偽造防止文言
大 明 通 行 宝 鈔 に は 、「 偽 造 し た 紙 幣 を 使 用 し た も の
は 斬 首 」 と の 文 言 が 書 か れ て い ま す 。 ま た 、「 は じ め
に 偽 造 を 密 告 し た も の に は 銀 弐 佰 五 拾 両 ( 銀 25 0 両 <
約 1 0 kg >) を 賞 す る 」 と い う 内 容 も 書 か れ て い ま す 。
偽 造 を 密 告 ( 通 報 ) し た 者 へ の 褒 賞 は 、元 の「 至 元 通
行 宝 鈔 」で は 銀 5 錠 と 記 さ れ て い ま し た 。元 で は 銀 50
両( 約 1.9 kg)を 銀 1 錠 と 呼 ん だ た め 、銀 5 錠 と は 銀 250
両のことで、元・明ともに同じ金額であったことがわか
ります。
26
元の銀 1 錠
(銀 錠 50 両 )
至元鈔の密告者
への褒賞文言
【中国で流通した銀】
銀は、宋代以降、中国南方の長江流域を中心に貨幣として流通するようになりました。
銀は地金の重さに応じた価値で流通し、秤で重さを計測して使用しました。
銭貨と紙幣は国家が発行した貨幣でしたが、銀は民間主導で流通するようになりました。
●さまざまな銀錠
中国の銀は、一定の重量・
品位につくられたインゴット
( 銀 塊 )の か た ち で 流 通 し ま
した。これを銀錠といいます。
銀 錠 に は 発 行 者・発行地・
発 行 年 な ど が 刻 まれ 、その 信 用
により価値を保証されまし
た。
銀 錠 50 両
南宋
<資 料 は 右 表 の NO.1>
NO
分類・保管番号
1
2
3
4
5
6
7
8
9
ⅡB チウ m2 113(2)
宋
約 1.97kg
ⅡB チウ m2 113(3)
宋
約 2.4kg
ⅡB チウ n1 39(1)
元
約 1.99kg
ⅡB チウ m2 113(1)
宋
約 0.18 ㎏
ⅡB チウ m5 11(1)
金
約 0.35 ㎏
ⅡB チウ n1 39(2)
元
約 0.38 ㎏
ⅡB チウ n1 39(3)
元
約 0.46 ㎏
ⅡB チウ n1 39(4)
元
約 0.35 ㎏
ⅡB チウ n1 39(5)
元
約 0.35 ㎏
口 絵 7~ 9 銀 錠 リ ス ト
年代
資料重量
◆南方で盛んであった銀流通
宋代以降の中国では、政治の中心であった北方の黄河流域では国家が発行した銭貨、海外との
交易が盛んであった南方の長江流域では交易にも使われる銀が貨幣として流通するようになりま
した。
●海外から中国へ流入した銀
中 国 で は 、 14 世 紀 後 半 か ら 15 世 紀 初 に 明 の
銭・紙幣併用の貨幣政策が破綻すると、流通
貨幣の中心は銀となります。中国国内での銀
の 生 産 量 は 少 な か っ た た め 、 15 世 紀 後 半 か ら
16 世 紀 に か け て 、 日 本 や ア メ リ カ 大 陸 の 銀 が
中国へもたらされました。
石州銀(日本)
16 世 紀
タ ー レ ル 銀 貨( ボ ヘ ミ ア )
16 世 紀
中国の銀経済化-明代の銀需要の増大と外国銀-
★中国国内の銀経済化
1 5 世 紀 の 中 国 で は 、紙 幣 ・ 銭 貨 は 流 通 貨 幣 の 中 心 的 地 位 を 失 い 、徐 々 に 銀 の 重 要 性 が 増 し て い き ま し
た 。 紙 幣 は 14 世 紀 後 期 か ら 史 料 の な か に 「 不 通 」 の 記 事 が 頻 繁 に み え 、 紙 幣 価 値 を 切 り 下 げ ( 減 価 ) な
がら流通している状態で、銭貨も銅原料の不足などのため十分な流通量を供給することができず、どち
らも主要な貨幣とはなりえませんでした。
一 方 、銀 は 15 世 紀 中 頃 に は 江 南 地 方 の 一 部 で 納 税 を 銀 納 化( 江 南 折 糧 銀 )し 、ま た 北 方 へ の 糧 食 の 現
物 納 を 条 件 に 塩 商 に 与 え ら れ て い た 塩 の 売 買 権( 塩 引 )が 15 世 紀 後 期 に は 銀 納 化 さ れ る な ど 、さ ま ざ ま
な面で銀需要の高まりをみることができます。
★海外からの銀流入
1 6 世 紀 に な る と 、さ ま ざ ま な 国 か ら 中 国 に 銀 が 流 入 す る よ う に な り ま す 。こ れ は 、世 界 各 地 で 人 気 の
あった中国製の絹製品や陶磁器などの「唐物」の対価として持ち込まれたものです。
ま ず は 、 16 世 紀 初 こ ろ 、 唐 物 ブ ー ム の 起 こ っ た 朝 鮮 半 島 か ら 銀 が 盛 ん に 流 入 す る よ う に な り ま す 。
朝 鮮 半 島 で は 自 国 で の 生 産 で 不 足 す る 銀 を 日 本 か ら 輸 入 し 、16 世 紀 前 期 の 日 本 銀 は 朝 鮮 半 島 経 由 で 中 国
へと流入していきます。
次 に 15 10 年 代 に マ ラ ッ カ を 占 領 し た ポ ル ト ガ ル は 、中 国 と の 貿 易 の 対 価 と し て ヨ ー ロ ッ パ の 銀 を 持 ち
こ み ま す 。 1 5 40 年 代 以 降 、 ポ ル ト ガ ル が 日 本 と 中 国 の 間 に 入 り 、 日 本 銀 を 中 国 へ と 持 ち 込 み ま す 。
日 本 か ら 中 国 へ 密 貿 易 に よ り 銀 を 持 ち 込 む ル ー ト も あ っ た と 考 え ら れ て い ま す が 、1 56 7 年 に 明 政 府 に
より倭寇の拠点が掃討されてからは、下火になったと考えられています。
15 70 年 代 に な る と 中 国 へ の 銀 流 入 は 画 期 を 迎 え ま す 。 南 米 ・ ポ ト シ 銀 山 の 増 産 に よ り 得 ら れ た 大 量 の
銀が、スペインによって中国へと流入するようになります。その量の膨大さは、それまで私鋳銭を鋳造
し流通させていた中国の東南地方で小額取引にまで銀が使用されるようになり、私鋳銭の鋳造自体を
停止させてしまうほどでした。
27
【日本と中国の海上交易】
中世日本に流入した大量の銭貨は、中国から日本へ海上の道を通って運ばれてきました。
中国東南の沿海部は経済的に後進地域
で し た が 、8 世 紀 頃 に イ ス ラ ム 地 域 か ら 大
型 船 (ジ ャ ン ク 船 )の 製造技術が伝わると
海上交易で栄えていきました。
北宋末に羅針盤の使用などによる航海
技術の飛躍的な発達があり、遠洋の航海
が安全かつ安定的に行えるようになると、
多くの船が大量の物資を積んで、中国と
日本や朝鮮半島の間を往来しました。
南宋では、日本・高麗との窓口となっ
た寧波、後にマルコ・ポーロによって世
界2大貿易港の1つと評された泉州など
港市が繁栄し、世界中の船が中国へと来
航しました。
こ の 時 期 、日 本 へ は 陶 磁 器 、銭 貨 、香 料 、
薬 種 、皮 革 類 、唐 織 物 、書 籍 、経 典 な ど が
運 ば れ 、日 本 か ら は 金・銀 ・硫 黄・水 銀 な
どの鉱産物などが運ばれたとされます。
モンゴル
西遼
金
西夏
高麗
大理
南宋
大越
13 世 紀
東アジア情勢地図
『 中 国 歴 史 地 図 集 』 第 6 冊 (宋 遼 金 時 期 )よ り 作 図
元 は 南 宋 を 滅 ぼ し た 際 に 、そ の 海 運 力 と 共 に
海 外 貿 易 の 制 度 を 引 き 継 ぎ ま す 。港 市 に 置 い た
市舶司という官庁により海外貿易を管理しま
す が 、基 本 的 に は 一 定 の 関 税 を 払 え ば 自 由 交 易
が可能でした。
13 世 紀 後 半 の 元 寇 に よ り 、 日 本 と 元 は 政 治
的 に は 緊 張 し た 状 況 と な り ま し た が 、 14 世 紀
初 に は 貿 易 を 再 開 し て い ま す 。こ の 時 期 、日 本
か ら は 砂 金 、刀 剣 、扇 、螺 鈿 、蒔 絵 、硫 黄 、銅
などが運ばれたとされます。
韓国新安沖から引き上げられた新安沈船は
元 の 時 代 ( 14 世 紀 前 半 ) に 、 寧 波 を 出 航 し 、
日 本 へ と 向 か う 途 中 で 沈 没 し た 船 で す 。こ の 船
の 積 荷 に は 、約 800 万 枚 の 銭 貨 、2 万 点 以 上 の
陶 磁 器 、香 炉 な ど の 金 属 製 品 、漆 器・紫 檀 な ど
の 香 木 類 な ど が 発 見 さ れ 、当 時 中 国 か ら 日 本 へ
の輸出品目の一端を知ることができます。
開城
新安沈船
博多
杭州
寧波
福州
泉州
14 世 紀
東アジア沿海部の主要都市
『 中 国 歴 史 地 図 集 』 第 7 冊 (元 明 時 期 )等 よ り 作 図
日本との貿易港
- 寧 波 (慶 元 、 明 州 )-
寧波は中国浙江省にあった港市で、時代により慶元、明州などとも呼ばれました。北宋
の 時 代 に 日 本 ・ 朝 鮮 半 島 を 対 象 と し た 市 舶 司 ( 海 外 貿 易 を 司 る 官 庁 ) が 置 か れ 、 14 世 紀 ま
で日本からの貿易船を多く受け入れました。
日本と中国の貿易が国家同士の朝貢貿易に限定される明の時代についても、寧波は唯一
の 日 本 船 の 受 け 入 れ 港 に 指 定 さ れ 、 16 世 紀 に 至 る ま で 日 本 と 関 係 の 深 い 港 市 で し た 。
28
14 世 紀 後 半 、明 は 海 禁 政 策 を 実 施
し 、海 外 と の 私 貿易 を 厳 し く 取り 締 ま
り まし た 。16 世 紀 ま で の 間 、 中 国 へ
の外国船の往来は原則禁止され、往
来を許されるのは国家間での朝貢
貿 易 に 限 ら れ ま し た 。15 世 紀 初 を 例
にとると、日本からは硫黄、蘇木、
銅、刀剣・扇・漆器などの工芸品が
献進物として運ばれ、明からは絹、
織 物 、鈔 、銭 な ど が 下 賜 さ れ ま し た 。
14 世 紀 後 半 以 降 、琉 球 で は 明 へ の
朝貢を開始し、使節を泉州、福州へ
と派遣して積極的に貿易をおこな
いました。明の時代、日本から寧波
へ の 遣 明 船 が 17 回 で あ っ た の に 対
し 、琉 球 は 171 回 に も 及 ん で い ま す 。
琉球は中国と東アジア各地を結ぶ
中継貿易で栄えました。
朝鮮半島
(李氏朝鮮)
日本
イラン
中 国 (明 )
サウジ
アラビア
イエメン
沖 縄 (琉 球 )
オマーン
インド
カンボジア
マレーシア
スリランカ
ケニア
タンザニア
インドネシア
※
は 朝 貢 を 求 め る 中 国 船 (鄭 和 の 艦 隊 )が 寄 港 し た と さ れ る 都 市
15 世 紀
明が朝貢の使者を派遣した主な国々
『東アジアの海とシルクロードの拠点
16 世 紀 に な る と 、 ヨ ー ロ ッ パ に よ る 中 国 進
出 が は じ ま り 、ポ ル ト ガ ル は マ ラ ッ カ・マ カ オ 、
スペインはマニラを拠点として、中国の商品
(唐 物 )を ヨ ー ロ ッ パ に 運 び 、対 価 と し て 大 量 の
銀を中国へともたらしました。
16 世 紀 前 半 、日 本 で は 石 見 銀 山 が 開 発 さ れ 、
石 見 銀 は 朝 鮮 半 島 、マ カ オ な ど を 経 由 し て 中 国
へともたらされました。
中 国 の 福 建 省 で は 、海 禁 政 策 に よ り 衰 退 し た
泉州にかわり、月港が私貿易で栄えました。
中 国 東 南 部 (福 建 省 、浙 江 省 )で 盛 ん に つ く ら れ た
と さ れ る 私 鋳 銭 は 、こ の 月 港 か ら 日 本 へ と 運 ば
れたとされています。
石見
博多
福州
泉州
マカオ
福建』掲載図面より作図
堺
寧波
琉球
月港
マニラ
マラッカ
16 世 紀
東アジア情勢地図
『 中 国 歴 史 地 図 集 』 第 7 冊 (元 明 時 期 )等 よ り 作 図
中世の貿易都市
博多
博多は、中世の日本における海外貿易の窓口となった都市でした。博多には日宋貿易の頃から中国
の 商 人 (博 多 綱 首 )た ち が 住 み つ き 、 唐 坊 と い う 中 国 人 街 を 形 成 し ま し た 。 16 世 紀 後 半 に 至 る ま で 、 中
国と日本との貿易は彼らが中心となって行いました。
中世博多の遺跡からは、中国との交易を示す資料が数多く出土しています。特に、博多は銭貨流入
の 窓 口 と も な っ て い た よ う で 、 九 州 ・ 沖 縄 の 個 別 出 土 銭 (1 箇 所 か ら 1, 0 00 枚 以 下 の 銭 貨 が 発 見 さ れ た
も の )の 約 半 数 が 博 多 か ら の 出 土 と さ れ ま す 。ま た 、中 国 で は 流 通 し な が ら 日 本 で は ほ と ん ど 出 土 例 の
ない大銭が博多からは多く出土しており、中国との交易が盛んであった博多では大銭が流通していた
可能性が指摘されています。
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