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ヘタレ武術修行者の日々

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ヘタレ武術修行者の日々
ヘタレ武術修行者の日々
木曜
タテ書き小説ネット Byヒナプロジェクト
http://pdfnovels.net/
注意事項
このPDFファイルは﹁小説家になろう﹂で掲載中の小説を﹁タ
テ書き小説ネット﹂のシステムが自動的にPDF化させたものです。
この小説の著作権は小説の作者にあります。そのため、作者また
は﹁小説家になろう﹂および﹁タテ書き小説ネット﹂を運営するヒ
ナプロジェクトに無断でこのPDFファイル及び小説を、引用の範
囲を超える形で転載、改変、再配布、販売することを一切禁止致し
ます。小説の紹介や個人用途での印刷および保存はご自由にどうぞ。
︻小説タイトル︼
ヘタレ武術修行者の日々
︻Nコード︼
N7690P
︻作者名︼
木曜
︻あらすじ︼
この現代日本の社会の中で、実際にに古武術・中国武術を修行
している者はどういう人々なのか。
どんな事があったりするのか。
実際やっているとこんな感じ。
⋮⋮と、いうことを気づいたら10年以上武術に関わってきてし
まった筆者の実体験や伝聞を元に書いてみる。
1
本文中に出る流派名、団体名、個人名はすべて現実に存在するも
のと関係があったりなかったりしますよ。
﹁あれのことかな﹂とか﹁あの人のことかな﹂などと心当たりが
あるような人はそっと心にしまっておくとみんなが幸せに。
某派のD流柔術とか、S式のT拳の流れの端っこにいるようない
ないような。
そういう風に出自を適当に濁す程度の、ヘタレな人間が好き勝手
断定的に書いております。
2
武術を志すのはどういった人々なのか︵独断と偏見︶︵前書き︶
これから書かれる内容に心当たりがあっても、具体的な人や事柄を
当てはめないで下さい
3
武術を志すのはどういった人々なのか︵独断と偏見︶
この現代において現代武道ではなく古武術や中国武術を志す人間
は、妙な縁か偶然によるか、弱さのコンプレックスからくるものか、
とってもイタい奴かのどれかだと思う。
それぞれをもうちょっと詳しく書いてみよう。
世間一般でいうまともな人、体力のある人というのは何かの幻想
に囚われたりはしないもので、探すのに手間のかかり、良し悪しが
分からない武術というものに手を出したりはしない。
こういう人はたまたま近所にあって小さな頃から習っていたとか、
大学にサークルがあったとか、不思議な奇縁があってそういう流れ
になった、という事でもない限り習おうとは思わない。
健康法に興味があるのは、本人が何かしらの面で不健康でそれを
解消するために健康法に手を出す。
同じように﹁武術による強さ﹂というものを、肉体面・精神面で
何かしらのコンプレックスがあるために求める人々がいる。
現代格闘技や武道でも強くなるではないか?
そう疑問におもわれる向きもあろうが、そこには自分より体力が
あり、根性もある、普通の人や元から体力のある人もいるのであっ
て、もはや入る前から自分とその人たちとの差がこれから先も埋ま
らないことは簡単に想像できる。
学校で、社会で、レジャーの中においても、体力や才能の差を実
感させられるのに、同じ延長線上で格闘技や武道に希望を抱けたり
4
はしないのである。
3つ目とも重なる部分であるが、非日常的なものを学ぶことによ
って、科学では説明できない神秘の力っぽいものが自分を高めてく
れるのではないだろうか。
あっちじゃ無理だけど、こっちじゃ何とかなるんではないか。
そういうものでもない限り、自分の弱さを覆せないのではないか、
そんなことを思いこんだりするのである。
最後は、イタい人である。ただし、イタい人はおおまかに2種類
いる。
まず、氣とかオーラとか秘伝とか発勁とか合気とか、なんか神秘
の力が人と違うことをもたらしてくれないものかと期待して始める
人々である。
彼らの理想は高い。
そしてマニアックでえり好みも激しい。
最初に知識から入るので情報過多であり、先入観も多く、その知
識のせいで逆に進めなくなったりする場合がある。
現在進行形で学んでいる武術と違う流派・門派の知識で判断する
という、いろんな意味で恐ろしいことも平気でやっちゃう。
もう一つは、アタマのねじが1本2本外れているイタくてヤバい
人々である。
真剣を振り回したり、木刀を本当に相手に当てちゃったり、練習
仲間をある種の実験台としか考えていない、何かのために武術を修
めるのではなく、武術を使うことそれ自体を目的にしちゃった人々
5
である。
冗談でもなんでもなく、人間の効果的な壊し方をウキウキしなが
らいつも考えていて、武術を使用することに躊躇がない。
大成すると孤高の達人とか呼ばれるかもしんない。
これまでの筆者の人生の中で、実際には一度ぐらいしか遭遇した
ことがなく伝聞がほとんどだが、ごくまれに本当にそういう人が存
在する。
話が少々脱線するが、このヤバいタイプの人は同じヤバい人と魅
かれあうので、大抵の場合は普通の武術修行者が出会ったりするこ
とはない。
ときどき体格が良かったり、体力がやたらあったり、筋がよかっ
たりするけど、精神的にはまともな人がこのヤバい人に目を付けら
れたりする不幸な事態が起こることがある。
あるいは別の流派で順調に実力を育てた人が、何かの拍子に目を
付けられるパターンもある。
その場合、向こうとしてはある種の親切、あるいは面白い交流の
つもりで人非人的な修練に付き合わされる事がある。この話に関し
ては、また別の機会に。
筆者は後の二つに該当する。
とてつもないヘタレで、かつ弱い方のイタい人間であった。
6
武術を志すのはどういった人々なのか︵独断と偏見︶︵後書き︶
※ご意見・ご感想をお待ちしております。
7
﹁老師﹂﹁師父﹂﹁師兄﹂﹁師妹﹂⋮⋮などと、現実に口にする
人っているの?
日本を舞台とした中国武術関連のフィクションでは、﹁老師﹂﹁
師兄﹂﹁師妹﹂などという単語を日本人の登場人物が会話で使う。
そういう単語が使われていると﹁なるほど中国武術っぽい﹂と読
者は雰囲気を感じやすいだろう。
しかし現実の話として、この日本で﹁老師﹂はちょっと聞いたこ
とがあるが、﹁師兄﹂とか﹁師妹﹂とか、まして﹁師伯﹂﹁師叔﹂
とか、リアルに耳にしたことはない。
文章上のやりとりでは、ある。
だがほとんどの場合、やはり﹁先生﹂や﹁師匠﹂で、あとは﹁兄
弟子の○○さんです。﹂とか﹁妹弟子の∼﹂というのが会話上での
やりとりである。
﹁師伯﹂であれば﹁先生の兄弟子﹂、﹁師叔﹂は﹁先生の弟弟子﹂
といった口での説明になるだろうか。
がっかりされる向きもあるかもしれないが、文字でみれば一発で
上下の関係が分かる単語ではあるのだが、日本人が日常で使わない
呼び名であるので、耳にしても頭の中で文字が変換されない事が一
番の理由であると思う。
﹁ロウシ﹂はともかく、﹁シケイ﹂とか﹁シメイ﹂といった音を
耳にして、タイムラグなしに文字が思い浮かぶ日本人はあんまりい
ないんじゃなかろうか。
もちろん、普通に使っている人々もいる。
8
何かしらの大会で模範演武を行なう場合の場内アナウンスで﹁次
は○○老師の表演です。○○老師は△省××のご出身で、幼少の幼
少の頃よりホニャララ拳を修められ∼﹂といった説明が流れている
のは何度も聴いた事がある。
教えている人が中国人である場合、このようにそのままの単語で
押し通す場合はそれなりにあるようだ。
先生が日本人、という事になるとかなり珍しい。
いくつかパターンはあると思う。
・年代的に日本の中国武術修行者の第一世代で、中国人の老師に教
わり、周囲に中国人の兄弟弟子ばかりだったので、そのまま﹁師兄﹂
という言葉を日常に使うことに違和感がない。
︵向こうでの日常生活で使っていたのでそういうものだと思ってい
る︶
・日本にも中国や海外にも師匠を同じくする友好団体があるので、
中国風に統一している。
・その辺の公民館で簡単に習える太極拳なんかと違うんだぜ! と
武術の本場で学んできたぜ的効果のために、入門しに来た人にその
ような単語を使うように指導している。
・映画やらマンガやら小説やらにいけない影響を受けてしまって、
周囲の人が誰も︵先生も︶使ってないのに、一人だけ老師とか師兄
とかたてまつって悦に入っている。
さすがに最後のパターンは今はそんなにいないと思うのだが、今
から10数年近く前、マンガの﹁拳児﹂であるとかゲームの﹁バー
チャファイター﹂であるとか、そういった所を入り口として入って
9
しまった人がぼつぼついたころ、ごくたまにそういう人がいると聴
いた事がある。
当時、筆者は雑誌に掲載されていたた某武術関係の講習会に通っ
ていたのだが、そういう所にはいろんな武術の講習会やらセミナー
やらをはしごしている、流浪の武術修行者︵というか趣味の人とい
うか︶が慣れた感じで会場の先頭に陣取っていた。
講習会終了後になんとなく講習会中に組んだ人同士が顔を合わせ、
﹁食事でもしましょうか﹂という流れになるのだが、そういう席で
どこそこは大した事なかったとか、あそこは先生の実力があるが出
入りしている常連がねえ、などという大変失礼な会話をしていたも
のであった。
そんな会話の中で、
﹁○○会だと﹃師兄﹄とか声に出して呼び合ってるらしいよ﹂
﹁雰囲気ありますなあ﹂
﹁日本でもそんな所があるんですねえ﹂
というような、のどかな会話を交わした記憶がある。
いい思い出である。
10
﹁老師﹂﹁師父﹂﹁師兄﹂﹁師妹﹂⋮⋮などと、現実に口にする
人っているの?︵後書き︶
※ご意見・ご感想をお待ちしております。
11
3年かけて良師を探せというけれど
﹁3年かけて良師を探せ﹂という文句は、最初の出典がどこなの
かは浅学にして不明であるが、今の時代に限らず、どこまで適用で
きる言葉なのかは何ともいいがたい。
小さな頃からころからキッズカンフー教室、あるいは地元の古武
術保存会に学校活動や地域活動で半強制的に参加させられた、大会
に出てレベルが分かっている、などというものでもない限り、良し
悪しが分かるような﹁基準﹂を持てるのかどうかすら分からない、
というのが実際のところではなかろうか。
成長期の子供が学ぶ内容は、特に体育的な要素が強いわけで、本
人の﹁やりたい﹂という意志以外の、先生であるとか保護者の意向
が関わってくるので、まず武術を武術と自覚してスタートをしてい
るわけではないだろう。
一方、高校生以上や社会人は、武術に対して動機の軽い重い︵単
なるレクリエーションから真剣に武を志向するものまで︶を別にし
て、最初からある程度自覚的に入門・入会する。
しかし、そういった人々は、何が良くて何が悪いか、先生・老師
の上手下手は判断できるのだろうか?
体育的な効果、すなわち体力をつけたい、高く跳べるようになり
たい、速い動きを身に付けたい、というのは大会や映像で判断する
事ができる。
カッコいい動きが出来るようになりたい、というのであれば、こ
れは完全に好みの問題なので、やはり映像や、あるいは許可されて
12
いるところならば体験入門して分かりやすく見かけで判断すればい
い。
入った先での本人が実際に上手くなるかどうかは別問題だが、そ
この教え手や所属する先輩に動きは似てくるものなので、自分がど
ういう方向性で上達するかの未来図はある程度予測できるだろう。
そして、教え手と別に上手いと思える生徒が何人かいた場合、そ
の先生だけの話ではなく、団体として上達のためのプログラムをあ
る程度持っていると判断できる。
同じ団体内で相談相手が何人もできる、という見当もつくだろう。
これが、﹁実戦的﹂︵色々な考え方があるのであくまで括弧つき
で書いておく︶なものを求める場合、何をもって良師とすべきか、
判断できる材料は格段に減る。
だいたいそういう所は、所属人数が少ない。
どのようなものが実戦的かどうか、果たしてド素人に判断する自
信があなたにあるだろうか?
そして日本人は特に場の空気に影響されやすく、﹁それって本当
に使えるんですか?﹂とか堂々と言える人はそうはいないのではな
いか。
当然ながら、筆者は純然たる気弱な日本人であったので、﹁これ
って本当に大したものなんじゃろうか﹂などと大変懐疑的な感想を
抱きつつ、ズルズルと継続する羽目に。
対外的な評判も、自分で見た判断も、﹁実力がある﹂と思える人
がいたとしよう。
そういう人の所は、生徒のレベルが高く、まずその先生の目に留
まるだけの実力があなたになければならない。
そうでなければ、その先生にとってはあなたは単なる月謝を運ん
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できてくれるだけの人であったり、自分の本当の弟子のための実験
材料︵肉体的な練習相手や、弟子の指導の練習に適当な人間である
場合がある︶にさせられたりする。 逆に実力があるのが分かるのに、生徒が少ないという所も要注意
である。
なぜなら、目利きがボンクラなあなたですら﹁明らかに実力があ
る﹂と思えたわけであるから、それまでにもあなたより素質が上だ
ったり下だったりした人が何人も入門していたに違いなく、それが
全部辞めていったと思って間違いない。
なにせもともと素質と才能と根性がある人が先生になった場合、
こっちが体を壊すようなレベルの練習内容を﹁普通﹂だと思ってや
らされたりする。
それを乗り切ったら、きっと後から心の底から良かったと思う日
も来るかもしれないが、途中で挫折してしまうと全てが無駄になる。
また、そのような所では良くも悪くも﹁濃い﹂人ばかりが残って
いるという可能性もあり、その中に新しく入って人間関係を作って
いくのは時間がかかるかもしれない。
以前知り合った、ヘタレな筆者よりはるかにハードな環境や体験
をされた方の話で、﹁師匠は選べるが兄弟子は選べない﹂というか
なり切実な一言を訊いた事がある。
級段制度や大会が無ければ、上達の実感が感じられにくく、挫折
や自然退会してしまいやすい。
それでもあきらめずに続けて、その団体・流派の中での実力をつ
けて、ようやく教えられた内容が判断でき、﹁本当に身になる指導
をしてくれたのだ﹂と思えたりするやもしれず、逆に﹁いつか辞め
ると思われて適当な指導をされていたのか﹂と別の実感を持つこと
になったりすることも往々にある。
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それはまた、その先生が良師であるのかの判断は、かなり時間が
経たないと無理だということを意味する。
広い意味での﹁良師﹂ではない。
﹁あなたにとって﹂という限定がついた上での良師である。
何年か経って、この先生でよかった、と思うときが来るだろう。
いくつもの団体を渡り歩いた後に、しまった、あそこの先生が一
番よかったと気づく時も来るだろう。
何年も経っても未だに﹁ここだ﹂という所が見つからない、と思
い続けているかもしれない。
実は﹁3年かけて良師を探せ﹂なんてのは、相当難しいことを要
求されているわけで、そんな事をしているうちに3年なんか平気で
経っちゃったりするのである。
最終的には﹁運﹂とか﹁縁﹂といった、偶然が大きく左右する。
15
3年かけて良師を探せというけれど︵後書き︶
なお、今回の話は元々才能のある人にはあまり該当せず、筆者の
ようなボンクラを基準とした内容である。
16
中国武術というものについて︵1︶︵前書き︶
﹁武術関係者のオタク率の高さについて﹂とか﹁入門後の人間関
係﹂とかを順序立てて書こうと思ったが、所詮趣味の文章なので思
いつくままに書いてみることにしました。
書いていく内容は個人的に取捨していった上での情報なので、あ
る程度のバイアスがかかったものとして話半分以下として読んでい
ただきたい。
で、それはそれとして中国武術関連資料以外に中国の歴史や体制
や、役人と宦官の腐敗と汚職や、秘密結社の歴史などを調べたり、
武侠小説︵カンフー小説みたいなもの。日本にもいくつか翻訳され
ている︶を読んでみると面白いよ。
17
中国武術というものについて︵1︶
まず、中国には﹁文武両道﹂という感覚がない。
文と武の重要度でいうと、歴史的に圧倒的に文が上で武は下であ
る。
もっと実も蓋も無いことをいってみると、代々一族で家伝の武術
を伝えているという人以外で、武術を自発的に行なうような人は、
はっきりいってヤクザやゴロツキやロクデナシ、乱暴者のたぐいと
思われていた。
逆に額に汗せず、肉体を使わず、馬鹿な民衆を支配し、適度に賄
賂︵中国では賄賂のことを﹁人情﹂と称する︶を受け取り、かつ汚
職で告発されない程度に民衆から搾り取り、教養があって学問がで
きる、というのは中国では理想の人間であり生き方なのだ。
日本のように武装勢力である武士が途中から政権をとった社会と
は、前提が全く違うので注意が必要である。
武術から少し離れた話になるが、中国における軍というものに少
しだけ触れる。
戦時中もそうだが、中国における平和な時の軍隊というのは、農
業や商業からはぐれた、腕っ節だけの乱暴者を食わせるために存在
していた。
なんでそんな危ない奴らを軍隊に入れるかというと、こいつらを
放置しておくと盗賊やら山賊になって、一般人を襲い始めちゃうの
である。
あるいはヤクザになって、集団になって、民衆はおろか役人に楯
突いちゃったりするようになるのである。
18
それぐらいだったらある程度の金と食い物を与え、お上がコント
ロールできるようにしておいた方がいい、という事で軍に引き入れ
る。
各王朝の初期は大体の場合、軍事勢力が前王朝を直接に打倒、あ
るいは前王朝を滅ぼした勢力を打倒して自分が新しい皇帝となる。
それだけを理由にはできないだろうが、新王朝になってしばらく
すると、かつて仲間だった軍人達がいつ自分や自分の一族を滅ぼさ
ないかと皇帝はおちおち安心して寝られなくなってしまう。
そこで、軍人の中で功績のあった将軍連中は貴族にして軍との関
係をぶったぎり、大半の軍人はある程度の金品を与えた後でばらば
らに分割するなどし、あるいは適度に処刑し、文官の下に組み込ん
で自分達の天下の安定のために弱める。
非常の時のほかは武をいやしめておかないと、俺達にも天下がと
れちゃう、と思われかねないのである。
外敵を退けた優秀な将軍が、戦争の後にしばしば無実の罪をきせ
られて処刑されるのもこの理由によるもので、いくさに勝てば勝つ
ほど将軍と部下の絆が強くなるが、皇帝の下で皇帝以上に軍に影響
力を持つ人間がいると都合が悪いのである。
なんか戦わせられてばっかりだけど、ほうびが少ねえ、よーし、
俺達の大将に天下を獲らせてみんなで幸せになろうぜ! と盛り上
がっちゃって大反乱、という事件は歴史上何度も起こっており、彼
らの恐怖も決してただのいいがかりではない。
体制にとって、軍隊というのはいいように命令を聞いてさえいれ
ば都合がよく、レベルの高い軍人が存在されると、逆に困るのであ
る。
あくまで、ごろつきに毛が生えた程度にとどまるのを、最初から
期待されている。 19
そんなレベルの連中なので、例えばどこかで盗賊団が現れて村を
襲った、ということになるとまともに働かない。
盗賊はまたしばらくしたらやってくるつもりなのでむやみやたら
に殺したりしないが、討伐隊は村にやってくると、適当な村の人間
を盗賊に仕立て上げて首を斬って﹁盗賊の首謀者を処刑した﹂など
と大いばりで帰って恩賞にあずかったりするのだ。
そんな馬鹿な話は無いと思うかもしれないが、地方の役所は﹁盗
賊が出た﹂ということになると中央の政府から怒られたり、長官の
首がとんだりするので、それが一番丸く収まることになってしまう
のである。
役所も軍隊も盗賊も困らず、ただ記録も残せず力も無い一般人民
だけが世に知られずひどい目にあう。
ちなみになぜこんな事が後世の研究者によって知られたかという
と、上記のようなちょっとした盗賊団が後に地方の大反乱に発展し
たり、大反乱の上に中央の皇帝が倒れちゃったりして、正式な記録
が残ってしまうケースがあるからである。
また、清朝以降は、実際に中国に外国人︵明治維新後の日本人含
む︶が入って、見聞きした記録がある。 さて、以上の話を読んだうえで。
お上の軍隊が信用できないのでどうするかというと、村々で自衛
のために武術を練習し、盗賊に備えるようになった。
一族に伝わる武術というものが伝わるのはこういった理由による。
有名な少林寺の武術も自衛や抵抗のために寺の僧兵達が伝えてい
たものが最初と思われる。
︵中国では、時々思い出したように道教やら神仙道やらにのめりこ
20
んで、仏像をぶっ壊したり、各地の寺が持っている土地を取り上げ
たりする皇帝が出現する︶
また、別方面の理由として、水争いや土地争い、一族の誰かが隣
村で喧嘩にまきこまれて大怪我したり死んだりした時などに、村と
村で戦争状態になる場合があり、これを械闘というが、そのような
場合にも武術は大活躍する。
ちなみに太極拳の源流とされる陳氏太極拳は陳氏拳だとか陳氏の
砲捶だとか言われていた、特定の一族の武術だった。
この﹁陳さんとこの武術﹂が﹁太極拳﹂になっちゃうまでの間に
は、隣村に伝わったのが発展して今の形の源流になったとか、金持
ちで教養があるが武術大好きな変わり者の兄弟がただの武術では馬
鹿にされるから名前を﹁太極拳﹂︵大宇宙根本拳法とでも名乗った
と思いねえ︶にしたとか、ついでに開祖が陳さんの一族だと外聞が
悪いので張三豊とかいう伝説上の仙人ということにしましたとか、
北京に出て有名になった後のスタイルが逆に元の陳さんとこの武術
に影響を与えたとか、だから陳氏拳は太極拳じゃねえとか、だった
らどこからが太極拳なのかとか、太極拳は諸説入り乱れて凄いこと
になっているので、興味のある人は自分で調べるように。
21
中国武術というものについて︵1︶︵後書き︶
械闘については国語辞典などで﹁革命前の中国で起きていた﹂な
どと説明されているが、おそろしいことに現代でも起きていて、た
まにニュースになっている。
しかもどういうわけか、どこかから横流しされた銃器が持ち出さ
れるケースもあるらしく、かなりシャレにならない事件になるらし
い。
さて、このテーマの話はまだ続く。
22
中国武術というものについて︵2︶︵前書き︶
つづき。
いよいよ怪しい話になってくるのだが、どうしよう・・・?
同時にまた、ちょっと香港カンフー映画に詳しい人には当然すぎ
る話でもあるわけですが。
23
中国武術というものについて︵2︶
突然だが、中国の秘密結社の話をしよう。
中国の秘密結社は天地会だの義和団だの青幇だのと清の時代のも
の以降が有名である。
反体制運動や密輸などのブラックなイメージがつきまとうが、古
くから続く秘密結社の流れは宗教的な内容を元にしたものがメイン
で、どこかに神仙が出現したり弥勒菩薩が降臨したりして、民衆を
救うために立ち上がって結束しちゃったりするのである。
この宗教系の秘密結社は、最初は祈祷であったり、ありがたいお
札を配ったり、構成員同士が困ったら助け合ったりと、お上が救っ
てくれない層を拾い上げるのだが、だんだん数が多くなってくると
必然的に反体制的になっちゃう。
何しろ、神仙だの弥勒菩薩だのと﹁皇帝陛下より偉い﹂方々なの
で、人数が増えて勢力が強くなると、こりゃあ正しい人間を頂点に
据えるために、天下をひっくり返すしかねえべえ、となってしまう。
。
もしくは、その勢力に驚いた時の朝廷に邪教認定をくらって弾圧
をされて、地下に潜って非合法活動を開始する。
当時の思想や科学なりに色々理論に一貫性のあるものもある一方、
天から将兵が降りてきて天下無敵の神兵が出現したり、孫悟空︵斉
天大聖︶が乗り移ってご神託を下されたりと、なにやら神懸りの怪
しげな体系を持った邪教認定されても仕方のない結社も多く存在し
た。
清朝の時代に過激なものが多いのは、社会不安や外国人排斥運動
を理由に、身を護るために体を鍛えることと宗教を信じることが一
24
緒になった宗教結社が多く出現したせいであるらしい。
宗教団体名と武術名が同じものがいくつも出現している。
最も有名なのは義和団の変で知られる﹁義和団﹂または﹁義和拳﹂
で、信仰したものには神通力が身について刀が通らない無敵の兵士
になると信じられた。
梅花拳、八卦拳、紅拳、陰陽拳、神拳なども、そういった結社と
強く関係があった。
ちなみにこの八卦拳は八卦教という宗教結社と関連があるが、同
じく八卦拳と呼ばれることもある現存の八卦掌という門派と直接関
連があるかどうかはよく分からない。
梅花拳は梅花○○拳・○○梅花拳、というように様々な門派でよ
く使われる単語だが、めでたい言葉であることや、梅の五枚の花び
らと五本の指を関連付けしている場合があるとか、返り血で紅くな
るのを梅の花の色に例えましたよみたいな話もどっかで聞いたこと
があるような、ひょっとすると現代にも由来が伝わっているのかも
しれないが、直接関連のあるものがあるかどうか筆者には不明であ
る。
知ってる人は教えておくれ。
と、ここまで書いてきて我に返ったのだが、こういうのはちょっ
としらべるとネットで簡単に検索できるので、詳しく知りたかった
らそういう所に頼るのが早いだろう。
︵いや、何しろこういうのを書き始めたら天地会やら三合会やら
まで話が飛びそうになるし︶
まあとにかく、こういう宗教由来、宗教関連の神がかった妙な武
術はそこかしこに存在した。
武術的な動作は全く外見だけで、目的は神懸りや神降ろしにあっ
たりするわけだが、トランス状態になった時に限界を越えた動きや
25
力が出ることに注目した人々もいて、一部門派の功法︵鍛錬法︶に
は、こっち系統の由来のものがあるような気がするが、うっかり人
前で話しちゃうと色々と怒られるので気のせいだよね!
この秘密結社的由来︵﹁的﹂であるので注意しよう︶を持つ武術
としては、有名な南の少林拳がある。
北の少林拳は、現在もある河南省鄭州市登封の嵩山少林寺とその
周辺の村の人々が伝承しており、出自も資料もはっきりしているの
だが、南の少林寺は清の時代に朝廷に焼き討ちで滅ぼされた伝説上
の福建少林寺から逃れた武術家が清朝への復讐を誓って伝えたとい
うことになっている。
具体的には詠春拳・白鶴拳・洪家拳・佛家拳などがそれにあたる
わけだが、どこまで信用できることなのかはっきりしない。
近年、福建少林寺らしき寺の跡が見つかったという情報が中国発
で公式に伝わったが、﹁少林十虎﹂とか﹁少林五老﹂とか、民間の
講釈師が語呂あわせで考えたような単語が飛び交う伝説なので、そ
の寺の存在は由来のきっかけに影響ぐらいは与えたであろうが直接
関係があるとは思われず、今のところ他は全て作り話だろう、とい
う事になっている。
ただし、この由来が由来のための清代の反社会的結社で学ぶもの
が多く、というかその結社の創始伝説を取り込んだんだろうという
話もあり、互いに影響を与え合って南派少林拳という独特の武術文
化︵功夫映画含む︶のようなものが存在している。
足場の安定しない場所、狭い場所で戦ったり、集団訓練に向いた
ものがあるように見えるので︵実際に練習されている人々にはまた
別の言い分もあると思うが︶、どうも河が多く、水運業者や水運業
者関連の結社連中が使っていた武術と考えられている。
26
南方は水運が発達しているのだが、当然それを襲う連中が居て、
それに抵抗するために修練していたのかもしれない。
また逆に、水運業者の結社の中には組織単位で塩や麻薬の密輸︵
清の時代、塩は専売制でかなり高い税がかけられていたので、安い
塩を売る闇塩業者が出現した︶を行なっていて、その連中の武装の
一環として使っていたという可能性もある。
27
中国武術というものについて︵2︶︵後書き︶
筆者の書いているのはただのヨタ話だが、少林寺伝説については
大変きちんとした資料サイトが存在しているので﹁電影王﹂で検索
すると幸せになれるかもよ?
そこの文章を読み始めるとオタクな筆者などは1時間や2時間で
は帰ってこれないけど。
あ、この話題はまだ続きます。
28
他流批判に気をつけようという話︵コーヒーブレイク︶︵前書き
︶
無駄に資料を引っ掻き回して時間がかかった上に結局一切利用せ
ず、やる気が激減しているので一回違う話をはさむ。
もともと手前勝手に書き散らす前提で書いており、モチベーショ
ンが筆者の無駄なやる気のみに基づいているだけなので、それが減
ると書くのがつらい。
なにか個人的に溜まりに溜まったストレスを発散させる話になる
のだが、ご容赦いただきたい。
29
他流批判に気をつけようという話︵コーヒーブレイク︶
今回は他派他流の批判・悪口はやめたほうがいいよ、という話で
ある。
世の中の人が武術をしている人に対してどう思っているのか、筆
者は学生の頃からそっち側に入っちゃったのでよく分かんねえ所が
あるのだが、大半が嫉妬深くてオタクで他流の悪口が大好きで口先
だけ、と思っている人がいるとしたらその人に言いたい。
あなたの想像はだいたい合ってる。
そしてそれは武術だけでなく、他の業界でもそうなのであって、
伝え教える内容がどれほど高度であってもそれを行なうのは人間で
あるのだから、一部の人格高潔者と大多数のボンクラという構図は
どこまでいっても変わらない。
人間関係的な事に言及すると、ピアノや茶道なんかのお稽古事の
一種と同じだと思えばよろしい。
きちんとした所は月謝、あるいは教授の謝礼は相応に高い。
金額の高さについては言いたいことがある人はいると思うが、こ
れに関してはいつか別に書くので今回は見送る。
お稽古事なので、金額相応の特別なことを習っているという妙な
プライドもあれば、あの子にだけ秘伝を教えるのね!? キーッく
やしいッ! みたいな話もあるし、その流派の美学みたいなものに
30
も相応に染まっていて、あそこはカッコ悪いよねー、という話もす
れば、あっちは宗家筋っていうけど実力で師範家になったウチのセ
ンセイと違って宗家の血筋ってだけだわ、、みたいな話もある。
そういえばとある女性の学習者が多い現代武道をしている友人の
話では、中年の女性同士の人間関係のこじれに、若いからというだ
けの理由で責任者やらされている男が間に入って止める役目にされ
るとマジで死ぬる、とかいう話も聞いた事がある。
あいつ最近、ストレスで太ってきたなあ。
まあ話を戻すと、流派が分かれ、会派が分かれ、道場が分かれる
と、あっちとこっちだと⋮⋮そりゃあこっちが上だよね? という
会話がありがちである。
近年、様々な書籍によって情報が公開されているのだが、まあい
い酒の肴になってしまうわけだ。
本や写真では分からない、全てを公開しているわけではない、と
いう人はいるだろうが、﹁剣術﹂であったり﹁柔術﹂であったりと、
とても広いカテゴリであってもで同じものを扱っていると、目に入
っちゃったものを論評してしまうのが人間の性というもので、それ
はいくらでもあげつらうことが出来る。
また、いい意味でも悪い意味でも﹁身体操作﹂とか﹁体術﹂とい
う、昔には無かった名称で説明する人々が出てきたため、違いを無
視して語れる雰囲気になってきたというのもある。
これが稽古仲間同士、先生弟子内で語られるのであれば、あくま
で内輪の話で済むのであって問題が無いのだが、道場にやってきた
初心者に講釈たれたり、武術のことを知らない家族であるとか友人
であるとか会社の同僚であるとかに、さわりだけでも話してしまっ
31
たりするのは問題である。
外側の人からしてみれば違いなんてないのだから、悪口を言って
いる目の前のあなたという人間を含めて武術関係者の世界はひどい
ところなのだと思われるのがオチである。
ちょっと話は飛ぶが、先ほどから﹁武術界﹂と書きそうになるた
びに﹁武術業界﹂とか﹁武術関係者﹂という風に意識して書いてい
る。
空手界とか剣道界とか武道界とか、あるいは中国であれば武術界
と書けるが、日本の武術に関しては﹁界﹂というにはあまりに関わ
る人口が少なく狭い業界なので、大げさすぎる気がして書くのをた
めらう。
たまに小説などのフィクションや雑誌記事で書いてあるのを見か
けるが、違和感がかなりある。
また、自分の先生が内輪だと思って口走った他派他流批判を、ネ
ット上での発言を含めて、弟子がうかつに外に広める場合があって、
先生本人の責任の取れないところで恨みを買ったりする。
発言には注意が必要である。
諸事情によって先生本人の発言を見逃されていても、事情も知ら
ずにその尻馬に乗って批判を行なう人間がいて、事情を知っている
当事者の片方が亡くなると歯止めが無くなって大問題になるのはど
う考えても明らかなのに、何なの? 馬鹿なの? という事態も、
まあ、ある。
筆者はとある武術でとある系統に属するが、別系統の有名な師範
がこちらの系統をほのめかし気味に批判していたことがある。
なんで直接ではなくてほのめかすのかというと、批判している本
人に色々後ろめたいことがあったからであり、こちらはそれを知っ
た上で、言われている先生ご本人が相手にしていないし、遠吠えみ
32
たいなものなのだからいいか、と思っているうちにその人が亡くな
り、色々あったが死んでしまえばみな仏様、広い意味での同門なん
だからご冥福を祈っておくか、と我々は割り切ったのである。
ところが、多分亡くなられた師範から都合のいい話しか聞いてい
ない弟子が、︵以下数行削除︶云々と抜かしやがりなさる事態が発
生しており、まだこちらの先生がニコニコして相手にしていないの
で関係者連中は青筋立てながらも我慢しているわけだが、高齢の先
生が亡くなられた後に追い討ちをかけるように繰り返しやがったら、
︵以下やはり数行削除︶じゃゃねえかこの野郎、と心に決めていた
りする。
どうだろう、読まれている方には他人事だろうが、書いているこ
の筆者自身を含めてなんて世界だといやあ∼な気持ちになってもら
えたであろうか。
﹁︵以下略︶﹂としたのは、怒りに任せて思わず書いてしまった
が、少し時間をおいてちょっと反省したので削った部分である。
※当然ながら筆者がとある武術のとある系統であるのはフィクショ
ンであり、そこに批判をしたという系統の会派の話はもう全く一点
の曇りのないほどの完全な作り話であるので、以上のようなトラブ
ルは現実には存在しないのであるということも当然であり、よくよ
く念を押しておきたい。
さてその上で、覚悟の無い批判はお互いに全く実りが無く、互い
に殺しあって結論を出すわけにも行かないのであるから、他派他流
について言及する時は、かなり気を使わなければならない。
また、どんな人にも﹁若い時のあやまち﹂的な話があって、なん
やかんやと他派他流を批判していた人のいる所に、そうそう、キミ
昔こんな事をやらかしてたよね、という人が出てくると、なんかも
う色々と面目丸つぶれになるので、我を誇らず、人をそしらず、と
33
いうのはもう本当に現実的な護身のあり方なのだ。
人を殺傷、制圧する技術のみが護身ではない。
古くから、様々な流派で﹁他流の悪口を言っちゃダメだゾ☆﹂と
いう一般道徳っぽい条項があったりするのは、そういう広い意味で
の流派自身の護身を兼ねているのである。
もう一つ、武術と関係の無い人がうかつに他の分野を貶める場合
があるが、とてもハラハラする場合がある。
全くの門外漢の人がフィクション作品に武術を登場させる時に、
主人公の所属流派を際立たせるために、他流の武術や、現代武道、
現代格闘技を低く低く書くが、あれは本当に気をつけた方がいいと
いつも思う。
この﹁なろう﹂で読んだり書いたりしている人であるならば、ヘ
イトやアンチを読まされて﹁このコ大丈夫?﹂と思う感覚にちかい
といえば通じるだろうか。
ちなみに中国武術漫画として有名な﹁〇〇﹂という作品があるが、
あの作品をいい思い出にしている人がいる一方で、﹁あの内容には
問題がありすぎる﹂と渋い顔をしていう人にも何人か会ったことが
ある。
やっぱり悪役の使っていた武術に現実に関わっている人は嫌な気
分になったという点もあるし、作品中に出ている理論がある団体が
発表している考えに基づいているために、ウチの生徒にいらん先入
観を与えられるのは困る、と話されていた人もいた。
時々世間でも、実在の人物や団体が登場する創作物に対して、関
係者からの抗議が入って自粛したり、無くなってしまったりするこ
とがある。
完全な外部の者は﹁フィクションなのに、ケツの穴が狭いなあ﹂
34
とか﹁別に本当にそうだと思うわけないのに、馬鹿じゃねえの?﹂
と思うだろうけど、そういう立場になると、嫌なものは嫌なんだか
らしょうがない、としかいえない。
35
他流批判に気をつけようという話︵コーヒーブレイク︶︵後書き
︶
元々一つだったものが、いくつもの会派になんで分かれちゃった
りするのか、という話なんかもまた別の機会に書く。
・・・先送りの話題がどんどん増えてるなあ。
36
中国武術というものについて︵3︶
︵2︶において、だらだらと秘密結社と武術について関連がある
ような無いような話を書いたが、一連の流れによって何がいいたか
ったかというと、つまり、武術が民間の側から起こってきたものが
多い。
官民︵支配者側と民衆側︶という点から見ると、武術を必要とし
てきたのは、官はない事もないが民の側が大部分を占める。
よく考えれば誰でも当たり前だと思うが、軍隊などの集団の場合、
誰か一人が突出して強いよりも、命令通りに集団が動く事の方が重
要である。
体力はいくらあっても困らないが、基本動作以上の多彩な技は、
無いよりもあった方がいい程度と思って構わない。
日本で武術がある種のステータスを持っていたのは、いくつかの
条件が重なっていたせいがあると思っている。
支配者が軍人︵武士︶の政権であったこと。
建前上でも将軍や藩主は武士であったために、一応は武芸を修め
ることとなっているので、たまに武術にドはまりする趣味人が結構
いた。
幕末から明治の貴人であれば、例えば徳川慶喜が維新後も手裏剣
を打っていたという話があるし、土佐藩主の山内容堂も若い頃に英
信流の居合をぶっ倒れるまで修練していたという話がある。
また、体制側への就職の口のひとつとしての武術があった。
もちろん、筆者の知識や見聞には相当偏りがあるので、まあそう
いう方面を見てとることが出来る、程度に受け取ってもらえばいい
37
わけだが。
で、まあ色々と回りくどく書いてきたが、そういう民間の立場の
弱者が強者に抵抗するための要求を強く感じる中国武術方面の技術
は、日本のものと比べてかなり悪辣であったり残虐であったりする
技法が多いような気がする。
というか、日本の江戸期は世界的に見てかなり治安がいいのだが、
ひるがえって中国はというと、清末民初に至るまでずっと民間の物
資の運送に対する護衛︵保鏢︶が職業として成立していたというの
だから、かなりの必要度である。
また、かなり即席でえぐい効果を上げやすいものも多い。
どのような門派のものかは書くつもりはないが、闇夜における忍
び寄りの方法などとセットの闇討ちの方法や、いかに効果的に急所
を組み合わせるかという要訣が存在しているのを知った時は、かな
りドン引きしたものである。
私の先生が学んだのは、今より数十年前の東南アジアの華僑経由
によるもので、それを中国武術全般のこととして一般化するのは話
が偏りすぎかもしれないが、民間で、その辺の人々が地味∼にこっ
そり伝承していった内容は、かなりそのようなものが多いようだ。
武術の抱えている本質には大きく二つ方向性があると筆者は考え
ているのだが、一つは生死の瞬間に自分の持てる全てを出し尽くす、
という部分で、これは体力向上や直感等の能力開発に関わっており、
世間にも受け入れられる効能であるために、現在では前面に押し出
されている。
もう一つは、とにかくどんな手段を使ってもいいから目の前の相
手の殺す、という実も蓋も無い部分だ。
現在の日本の武術でその事をきちんと前面に押し出しているもの
はほとんどなく、近年になって海外の軍隊格闘術のようなものがや
38
たらと日本に伝わってきてセミナーを開いているのは、実はみんな
無意識にその部分を求めているからではないかと思っている。
実は色々調べていくと、そういう暗黒面というかキ○ガイ面は日
本の武術にもしっかりあって、一切ためらわずにヒドイ事できるよ
うな精神状態になるための修練やら、実にエゲツナイ口伝の数々が
昔は色々あったらしいのだが、時代と共にどんどん薄れたり隠され
りしたようだ。
剣術流派が多数存在していたかのようなイメージがある江戸時代
も、なんのかんのいって平和な時代であったために、何度か幕府が
武芸奨励のお触れを出さねばならないほど衰退した時期がある。
そして、一番大きな要因として、戦後の日本ではよりいっそうそ
れらの技術がどんどん現実的ではなくなっていった、という事があ
ると思われる。
それはやはり現代に生きている筆者には良いか悪いか判断ができ
ないことなのだが、その点で、中国武術ではまだ地続きになってい
る部分があって、香港やら台湾やら海外の華僑やらの間で伝わった
所は、その部分が相当濃厚に残っている。
なんで大陸の中国以外の所には伝わったかということなのだが。
ぶっちゃけると、中国共産党の力の及ばない地域に渡った人々は
地元住民との勢力争いや暴力沙汰があり、あるいはヤクザ︵マフィ
ア︶が壊滅させられず残ったことがあって、反体制的でえげつなく
て非道な武術が残っちゃったのだ。
各地のチャイナタウンで、現地のヤクザと抗争をやってます、と
39
いうのがどうも現代の中国実戦武術の最前線らしく、チャイナタウ
ンの中でも特に治安の悪いところにいくと、そういう表に出れない
達人がいるらしいよ、という噂を聞いたことがある。
中国共産党が、というか毛沢東が行なった文化大革命は、確かに
古い文化や昔ながらの人々の繋がりを暴力で壊しまくったが、もう
一つの見方から言うと、中国共産党以外に忠誠を誓ったり闇に隠れ
あるいはヤクザ
て治安を乱すヤクザや秘密結社をぶっ潰す目的も確かにあったのだ。
中国共産党はいってみれば天下を獲った政治的秘密結社なので、
そうであるからには自分達以外の結社集団はぶっ潰さなければなら
ない。
共産党の上下秩序以外に、老師と弟子であるとか親分と子分であ
るとかいう集団はみな潜在的な敵である。
うーしゅう
そういうわけで大陸の中国では武術家というのは弾圧され、ある
意味では日本と似た断絶もある。
もちろん、現在では太極拳をはじめ、﹁武術﹂としてオリンピッ
ク競技に入れようとする動きはあるし、少林寺武僧団というものが
世界中で興行を行なって外貨を稼いでいるのだが、あの辺りの流れ
については、一度共産党政府の手が入って、武術が本来持っていた
暗黒面がけっこう抜かれた後のものだと思ってもらっていいと思う。
40
新古流の世界︵前書き︶
﹁るろうに剣心﹂という漫画に出てきた﹁真古流﹂ではないので注
意。
そしてまた、銀閣寺を本山とする﹁無雙真古流﹂という実在の生け
花流派があるのでさらなる注意が必要だ!
中国武術話はどうしたかというと、飽きた。
あ、いやいや、今頃になって﹁ひょっとして南派と北派の話をすべ
きなのだろうか⋮⋮いや、ウィキペディア見れば載ってるし⋮⋮し
かし、あの記述にもいくつも注釈が⋮⋮﹂とか悩んで次の話がなあ。
﹁なんじゃそりゃあ!﹂と筆者が衝撃を受けて調べて分かった、
アメリカのボンクラ黒人達のサブカル的カンフー文化の話とか、ど
の順番で出したらいいか分からない題材もあってなあ。
41
新古流の世界
まず最初にいっておくが、﹁新古流﹂などという言葉は存在しな
い。
筆者の勝手な用語である。
フィクションではなく実際にある用語として﹁新宗教﹂または﹁
新興宗教﹂という用語がある。︵念をおしておくが、本当にある︶
西洋では19世紀以降、日本では江戸後期以降に生まれた宗教の
ことで、もっと新しく1970年代以降のものを﹁新新宗教﹂とす
る分類もある。
特に深い考えがあるわけでもないが、筆者のなんとなくな分類で
日本の武術の場合にも明治維新後にできた﹁新古流﹂と、戦後の小
さなブームと再評価から出てきた﹁新新古流﹂があると思っている
のだ。
新しい古流って、馬鹿な事を書きやがってと思われると思うが、
明治維新後や近年成立した流派なのに、日本刀を持っていることが
前提だったり、袴はいているのが前提だったりする流派があるのだ。
そんでもって、明らかに俺たちは現代武道と違うぜ! という主
張なのだ。
まあ、近年に成立したものは色々と無理とか歪みがあるんだけど
︵と個人的には思っているんだけど︶、今回はその話はしない。
明治維新後の﹁新古流﹂の話だ。
42
幕末の各種剣術流派の隆盛から、いくつかのシンプルで実戦的な
流派の復権、テロの手段としての剣術、西洋の軍制の導入、剣術の
衰微、明治維新後の廃刀令、撃剣興行等の見世物への堕落、﹁体育﹂
としての柔道、とまあ、乱暴に簡単にまとめると剣から銃へ、武術
から体育という流れがあり、明治期にいくつもの武術が消えていっ
たのは事実だ。
ところが、一方でかなりの数の新流派の武術が出現しているのだ。
明治以降に活版印刷の普及によって世に出た様々な種類の書籍の
中や新聞記事を、今でも国会図書館やら一部趣味人用の復刻本で見
れるし、頑張って古書店を巡ればまだ資料そのものも見つける事が
できる。
これがまた、そろいもそろって出自が怪しい。
有名な流派と同時に聞いた事も無いような武術も学んでおり、ま
たそこから新たにミックスし、あるいは全く新しく生み出して新し
い流派を立ち上げるのだ。
今でも形や名前を変え、あるいはそのままの流派名で継続してい
る流派がいくつもあるが、こわいので名前は出さない。
なんというか、打ち捨てられ、一般にはかえりみられなくなった
はずの武術が、気合術やら霊術やら宗教やら大道芸やら近代物理や
ら大陸浪人やらテロリズムやらと融合やらミックスやら化学反応を
起こしまくって、後にも先にもこの時期にしかいなかったような﹁
野良武術家﹂とでもいうべき人々が出現するのだ。
いくつもの流派の伝書から拝借した、またはどこから流出したの
か分からない﹁秘伝﹂や﹁奥義﹂を持ち、大道芸の口上みたいなイ
ンチキくさい心理学を持ち出したり、海外でのぶっそうな人斬り経
験を堂々と語り、あるいは右翼的政治活動でとっ捕まって獄中で修
練した新流派を立ち上げたりとか。
43
その辺で一番有名なのは、もういろんな人が公刊書で書きまくっ
ているので隠す必要も無いから書いちゃうけど、大東流合気柔術で
あり、合気道であったりする。
44
宮本先生の素晴らしさについて︵前書き︶
大東流と合気道についてはまた次回以降に。
筆者は合気道の歴史や人物に関する話は大好きなのだが、それは表
に出て現代武道になった流派なので、武術関連・宗教関連・霊術関
連の補足資料も関係者証言もいっぱいあって、その思想や技術や変
遷に大いに興味も親近感も持てるし、戦前は一種の秘密武道だった
所とか、実はマンガの﹁空手バカ一代﹂で描かれた某空手団体の姿
に勝るとも劣らない、というか一部勝りすぎてて本気でシャレにな
らないようなバイオレンスな話があふれてたりとネタ的にも素晴ら
しかったりするが、その上で基本的には他人事だからである。
大東流はねえ∼筆者は一応ある系統の流れの端っこにいるのでなあ
∼冷静で客観的に書こうとしても、なんちゅーかその、筆が滑りそ
うで。
もう本当にどうしよう。
ちょっと整理する時間を下さい。
今回は一回クールダウンの巻。
45
宮本先生の素晴らしさについて
さて、宮本先生の話である。
宮本先生といえばフルネームは宮本武蔵玄信先生に決まっておる
のだが、井上雄彦の漫画﹁バガボンド﹂などで今も世に知られてい
る。
二刀流という、もうなんだかそれだけで世のキッズ達の心を震わ
せるものをメインで扱っている流派・二天一流の創始者であらせら
れる。
年取って号︵ペンネームとか芸名みたいなものと思ってくれい︶
した名前が﹁二天﹂で、その二天先生の一流派なので﹁二天一流﹂。
﹁バガボンド﹂の話は大半がフィクションであるし、筆者が感じ
ている宮本先生の素晴らしさをちっとも伝えていないので、以下、
その話はカケラもしない。
その生涯の勝負の話も実はどこからどこまでが本当なのかはっき
りしない話が本当に多くて、彼が伝えたという流派も二天一流とか
円明流とか武蔵円明流とか、さらに伝える師範の系統で野田派とか
山東派とか全く別々になっていて、そのそれぞれが俺んとこが一番
ムサシだとか、いやいや俺んとこの方がよりムサシだぜと思ってい
るわけで、そういう現在までに伝承されている型だとか技術につい
ても触れるつもりは無い。
筆者が素晴らしいと思っているのは宮本先生の著作である。
古めかしい文体にまどわされたり、現代の数々の研究書で思想が
なんたらとか人生哲学がなんたらとか書かれていて、読まずに色々
46
と先入観ばかり詰め込まれているせいなのかもしれないが、﹃五輪
書﹄などはあの時代を考えるとやたら具体的に書いてある。
**********
<大勢と戦うとき>
太刀、脇差の二本をそれぞれ左右に広く、刀の先を横に向けるよ
うに大きく構えましょう。
敵が周囲からかかってきても、一方向に敵を追い回すように意識
します。
全体を観察して相手の様子を見て、一番先頭になっている敵から
やっちゃいます。
左右の刀は交互に斬るのではなく、ハサミのように腕が互い違い
に一度で交差するように斬っては戻し、左右に構えているところか
ら最初に振る時は前の敵を、また左右に戻す時は横の敵を斬るよう
にします。
腕を交差したままの状態では止めないように注意しましょう。
魚の群れを一列に繋いだような状態に持ち込み、こちらから見て
敵が重なった状態になったら、すぐに斬り込みましょう。
あまり混んでいる所にむやみやたらに突っ込んでもうまくいきま
せん。
また、相手が出てくるごとにあっちを打ち、こっちを打ち、と待
つ体勢にならないように注意。
○ワンポイント
時々練習相手に大人数を用意して、どうやって追い込めばいいか
47
研究してみましょう。
<動揺させましょう>
動揺させるにも色々あります。
1︶ハラハラさせる
2︶﹁うわあ無理だ﹂と思わせる
3︶予想を外してドッキリさせる
大人数同士の合戦では、これは重要です。
相手の思っても見ない所を激しく攻めて慌てている間に、有利な
状況から先手先手で仕掛けるのが大切です。
1対1の場合も同じです。
ゆったり構えているように見せかけて、いきなり激しく打ちかか
り、落ち着く時間を一切与えないようにして勝ってしまうようにす
るのは大切です。
よく研究しておきましょう。 **********
他にも﹁肩で体当たりをぶちかますと効果的﹂とか﹁近い間合い
では相手の顔に突きをかましてのけぞらせれば体勢をくずせるゾ!﹂
などの親切なアドバイス満載である。
時間のある方は、一度きちんと読んでみるとなかなか面白いだろ
う。
ポイントとしては、あまり深読みせずにそのまんま読んでみるこ
と。
48
宮本先生の素晴らしさについて︵後書き︶
ちなみに﹁我、事において後悔せず﹂という言い切りの文章など
で有名な文章の﹃独行道﹄、そのタイトルを筆者の友人は超意訳し
て﹁ひとりでできるもん﹂と解釈しやがったことがある。
﹁恋慕の道思ひよる心なし﹂を﹁恋なんて興味ないんだから!﹂
などと意訳されたら武蔵先生も困るだろうが。
49
ド素人が武術を志した時のダメ話あれこれ︵個人史1︶︵前書き
︶
もう数回、ちょこちょこした話をはさんでみる。
ひょっとするとこっちの方が本来メインであるべきなのかもしれな
いが。
このなエッセイのタイトル通りの内容をお送りしてみる。
今回は実際に習いに行くまで。
50
ド素人が武術を志した時のダメ話あれこれ︵個人史1︶
凡人が、それももともと運動神経もよろしくない文化系の凡人が
妄想を逞しくして武術を学ぼうとするのは本当に大変だ。
筆者が何かしら武術というものを学んでみたいと思ったのは高校
時代から大学に入学するまでの間である。
一番最初に具体的な講習会に行けたのは大学1年の夏休みの頃の
話であり、それまでは妄想武術ライフを送らざるを得ない状況であ
った。
きっかけはもちろん漫画である。
同時代の人間は、中国武術マンガとして有名な﹃拳児﹄でファー
ストコンタクトを果たした人間が多い。
これは週刊少年サンデーに連載されていて、多くの人々の目にさ
らされていたからだろう。
筆者はややオタク気味の少年であったので、当時角川書店が出版
していた﹃comic Newtype﹄という、現在も出版が続
いているアニメ雑誌﹃Newtype﹄の増刊扱いのマンガ誌︵現
在はとっくに廃刊︶に連載されていた﹃セイバーキャッツ﹄という、
主人公が通背拳遣いの作品で目覚めた。
当時としてはかなり異端だと思われる。
このマンガは﹃拳児﹄と違って7∼8年ぐらい前のコミック文庫
のブーム時も、2∼3年ほど前にあったコンビニコミックブームの
ときも特に復刻されることも無く、一部の人々の記憶以外から消え
去ってしまった作品である︱︱︱が、今回は別にこのマンガの話を
するつもりはない。
さて、田舎の高校生というのは、武術を学びたいと思ってもどこ
51
にも習いに行く場所が無い。
当時、インターネットは存在せずパソコン通信であり、現在のパ
ケット定額制と違って電話代そのままの金額と通信料金がやたらか
かり、情報入手の手段は雑誌か口コミである。
身近な状況としては、市民講座や公民館での同好会、一部スポー
ツセンターで太極拳を教えていたような⋮⋮というレベルである。
うーしゅう
奇跡的に近所の本屋に一冊ずつだけ入っていた﹃武術﹄と﹃秘伝﹄
という武術雑誌は、それぞれ3ヶ月に1度と2ヶ月に1度の発行で
ある上に、そこに載っている道場・教室・セミナー・講習会の数は
少なく、さらに都市部が多かったので、高校生の身でそこに行こう
というのは不可能だった。
筆者は根性とか努力とか体力とかは人並みかそれ以下であること
は充分理解しており、一方で古武術や中国武術は何しろ﹁現代の格
闘技なぞとは違う﹂ので﹁この俺にも秘められた才能があるのかも
しれん!﹂とむやみやたらな希望を持っていたのである。
ゆえに、地元にあった柔道や空手や少林寺拳法といった所に行こ
うとは全く考えなかった。
その代わり、最初はマンガに載っている基本技、しばらくしてか
らは雑誌や本を買って写真解説を元に独学で練習を始めたのである。
見識の無い完全なド素人が我流で行なう練習ほど害のあるものは
無い。
しかもマンガ﹃拳児﹄の原作者でもあった、数少ない中国武術の
本格的な研究者であり紹介者であった松田隆智氏が日本の武術情報
のリードを行なっていた時期であったので、﹁震脚﹂というものを
行なうとスゲエ威力があるらしいよ? という偏った知識がダメ高
校生の頭には植え付けられていた。
52
足を踏み出すとき、あるいは踏み下ろす時に、足を激しく地面に
打ち付ける反動を利用する技術で、松田隆智氏はよりにもよって台
湾武壇という団体の系統の、やたらめったら震脚を行なう八極拳で
武術の体を作った人だったのである。
youtubeなどの動画サイトを利用できる昨今、﹁八極﹂あ
るいは﹁baji quan﹂と入力して検索すると、大量の八極
拳動画を観る事ができるが、武壇の八極拳は本当に﹃拳児﹄に出て
くる八極拳のそのままで︵検索語句に﹁武壇﹂﹁wutan﹂を加
えると出てくる︶、8年ぐらい後に初めて映像を見る事ができた時
には思わず笑ってしまった。
その時にはすでに全く別のものを学ぶ道に進んでいたので、うひ
ゃー俺こんなことができるようになりたかったのかー、と笑い話に
できたが、当時高校生の筆者にとっては笑い話ではない。
完全に本気である。
しかも正しいやり方を知らないのである。
ばっしんばっしんデカイ音が出ると、非常に﹁すごい威力が出て
いるぞ﹂感があり、現在言われるところの中二病的な優越感を得ら
れる効果があるのだが、写真から想像した思い込みの動きをド素人
の高校生がやると、どうなるかというと、足を壊す。
実際、踵の骨と足首を痛めてえらいことになった。
ちなみに震脚については
・震脚は必要だよ
a︶とにかくスキあらば震脚だよ︵震脚至上主義派︶
b︶いつもいつも震脚してるわけないじゃん必要な時だけだよ︵
震脚重視派︶
・震脚なんてエネルギーのロスだよ︵震脚否定派︶
・震脚なんて自然に起きるもんなんじゃないの?︵震脚自然主義派︶
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・震脚? 何それ喰えるの? ウチにそんなもんないよ︵震脚不要
派︶
などなどがあり、特に意識しない拳種はいっぱいある。
ただ、表演︵演武︶では見栄えするので、威力に全く関係なく行
なっている所はある。 また、﹁武術には内部のパワーを使う﹃内家拳﹄と、空手のよう
な外側を鍛えて破壊力を出す﹃外家拳﹄があり、内家拳の方が高級
である﹂という、空手の人とか内家以外の人にぶっ飛ばされそうな
言説を信じていたため、独学で気功に手を出し、一時期、体に変な
流れを感じたり、頭に血が上ってやたらのぼせるようになったりと、
﹁偏差﹂と呼ばれる症状の一部があらわれたりしてしまった。
ひどい偏差になると妄想が強化されたりと、精神病と変わらない
症状が出たりすることがあり、大変注意が必要である。
人間の意志の力はおそろしいもので、血流だとか心拍数だとかの
現実にかなり反映するのである。
現実に反映できなかった力はどこにいくかというと、行き場がな
いので自らの精神内に返ってきて作用するので、心のバランスを崩
したりする。
これまでの人生の中で二度ほど気功のひどい偏差で精神をおかし
くした人を見たことがあるが、本当にヤバイ。
頻繁に起きることではないが、独学や我流は全くおすすめできな
い。
そうして、八卦掌の本を手に入れて夜の小学校のグランドで、載
っているイラストと動きを示す矢印を頼りに、ものすごくいいかげ
んであやしい八卦掌を練習したり、﹁体当たりを使う凶暴な﹃心意
54
六合拳﹄という武術があるらしいぞ﹂というマンガと雑誌の解説写
真から家の壁や柱にいいかげんな知識でぶちかまして家族に心配さ
れたりと、間違った意味で充実したアタマの悪い妄想武術ライフを
送っていたわけである。
さすがに途中で実際に習いに行かないとどうにもならないことに
気づのだが、金もコネも時間も見識も無いわけで、結局大学進学後
までこのような日々が続く。
55
ド素人が武術を志した時のダメ話あれこれ︵個人史1︶︵後書き
︶
我ながら恥ずかしさのあまり憤死するような内容ですのう。
56
ド素人が武術を学び始めた時のダメ話あれこれ︵個人史2︶︵前
書き︶
学研から﹃中国武術 最強の必殺技FILE﹄という本が出ている。
そのタイトルってどうよ? と思って無視していたのだが、とある
人から結構いい本だと伝えられたので、試しに購入してみた。
⋮⋮予想を超えていい本だった。
しかも580円と驚異的に安い。
そして筆者のこれまでのグダグダうんちく話やこれから書いてみよ
うかと思っていた話と大部分がカブるので、本当にどうしようかと
思った。
しばらく書く意欲が一切湧かなかったなあ。
まあ、読んでいる人もそんなに居ないので、適当に書き散らしたと
ころで自己満足が得られたらケリをつけて終わろう、ということで
再開。
運悪く読んでしまった人には大変申し訳ないが、欲求を発散したら
削除するので勘弁して欲しい。
57
ド素人が武術を学び始めた時のダメ話あれこれ︵個人史2︶
さて、武術に実際に武術に触れた時のあれこれである。
世の中には、様々な武術・武道・格闘技を始めて、感動した記念
すべき日の事を話す人は数々いるだろう。
あるいは初めて触れたものを讃え、あるいは自分のこれまでの経
験と比較して感想を述べているかもしれない。
筆者のファーストコンタクトは、そういったものとはひと味違う。
考えてもみてほしい。
それまでほぼそういうものを体験した事がなく、近くで見たこと
すらもない。
一番そういうものに接近したのは小学校低学年の頃、わけも分か
らず親に入れさせられた地域の少年団の剣道︵全部で10名もいな
かった︶に所属していた頃、数少ない参加大会での開会式で高段者
らしきおじさんが居合っぽいものを演じていた時だろうか。
それを見た時の記憶を思い出すと、寒くて︵季節は冬だった︶、
眠くて︵人口過疎地域の少年団で集まって行なわれるので会場が遠
く、朝早くに出発させられた︶、ただひたすらつまらなかった。︵
﹁るろうに剣心﹂などという少年漫画が連載される10年近く前で
あり、居合というものが存在することすら知らず、以後も意識した
こともなかった︶
運動神経は大したことがない。
58
しかもそれまで参考にしていた資料はイラストや写真で、ビデオ
等の動画は観たことがない。
ふりかえってせいぜい、国営放送の健康太極拳講座の映像だとか、
香港カンフー映画で動きを観たぐらいである。
**********
どうでもいい話だが、十代の頃は気づかなかったがジャッキー・
チェン主演の﹃蛇拳﹄は本当に燃えるいい映画である。
あの映画の錬功シーンは実にいい。
筆者的には最後の格闘シーンを見なくてもいいぐらいである。
筆者も一時期、﹁ジャッキー・チェンよりもブルース・リーの方
が本物の武術家だから凄い。作品も凄い﹂ととても濁った曇った目
でジャッキーを評価しており、後に心の中で大変ごめんなさいした
わけであるが、年齢が一周して改めてリーの映画を見ると凄まじく
適当なストーリーと構成をしており、かなりの部分を時代のせいに
出来るとしても、なんであれを神聖視出来たのか全く分からぬ。
**********
閑話休題。
そのような人間が、武術を体験するとどうなるか?
簡単である。
何が何だかさっぱり分からないのである。
59
この点においては、逆に筆者はある程度以上の武道経験者やスポ
ーツ経験者が武術を体験したときに何を感じるのか全く分からない。
その人たちは元々行なってきた身体運動という基準があるので、
それを基に判断できると思うのだが、どうなのだろう?
まあとにかく、筆者は体験したことの何が凄くて何が凄くないの
か、さっぱり分からなかったのである。
体験させてくれる技法や招式がきれいに決まれば決まるほど、﹁
嘘みたい﹂に痛みもなくスパーンとやられるのである。
これは後から振り返ってありがたかったなあと思ったことだが、
その時の講師の先生は、講習会に参加した連中をビビらせようとか、
こいつらを強引に納得させようとか、派手な実力を見せ付けて屈服
させようとはしなかったので、かなり丁寧に加減して進行してくれ
ていた。
受身もろくに取れない人間を下手に投げるとあとあと大変である
し、逃げる方向が分かっていないのに技をかけると︵武術的にはそ
うさせるべきだが︶一番ダメージを受けてしまう方向に動いてしま
って、講習会を中断させないといけない羽目に陥る。
よくTVの体験VTRなんかで、単純で︵経験者にとって︶子供
だましのような痛めつけるための技を披露し、大げさにお笑い芸人
などが﹁イテテテテテ!﹂と声を上げている光景が流れ、それはも
う本当に観ている人間を低脳扱いしているような映像だと怒りを覚
えそうになる時もあるのだが、ある意味では痛いのが分かりやすく
て絵的に確実で、しかも加減がしやすくて色々な意味で安心なので
ある。
決定的な瞬間まで痛みを感じさせないヤバめの技で、カメラで横
からは撮りづらく、最終的には受け手の人間にしかその危険さがわ
60
からないようなものはどう考えてもNGであろう。
また、効果的であってもその武術を伝えている人間の人間性や正
気を疑われるようなものもあり、それはどう考えても他所の人に見
せてはいけないものなので、結局はそういう所に落ち着くしかない
のだ。
打撃においても、ダメージを受けずにその威力の深さが実感でき
るような練習をやらされたので、踏ん張っても吹っ飛ばされたり、
全く痛みを感じずに崩れ落ちたりするのだが、その時にド素人の筆
者が感じたのは、﹁あれ? ひょっとして、俺、何か騙されてね?﹂
という感覚である。
身体感覚が思いっきり騙されているので、ある意味ではその感想
は正しいのかもしれないのだが、何しろこちらは軽い打撃で血ヘド
を吐いて苦しむとか、体の小さな人間が体がでかくて体重もある人
間を一瞬でブチのめすようなフィクションに散々ひたってきた妄想
人間である。
え、いいの、こんな感じで? ってな浅い感想しか浮かばないの
である。
体験の講習会というのは、ある程度の時間である程度は出来るよ
うな内容にしなければならない。
全く出来ないと参加者はサギみたいな感想を持つし、とはいえ簡
単に出来てしまえば﹁こんな事が出来るようになった! 珍しい経
験をしたなあ! よかったよかった﹂で終わってしまうのだ。
あまり難しいことはさせられず、かといってレベルは落とさず、
ある程度は出来そうという感覚を持たせ︵錯覚だったりもするが︶、
しかも自分がまだまだである事を自覚させて、より興味を持たせな
ければならない。
61
そういう意味では筆者はあまりにもスタートのレベルが低すぎた
ため、
︵これってどうなのよ?︶
︵凄いの? 凄くないの?︶
︵俺は何か変わったの? 変わってないの?︶
︵何かがちょっと出来るようになったんだけど、これは何に繋が
るの?︶
という前よりもっとワケが分からない状態になったのである。
最終的に、何か騙されているような気がするが、一体これは価値
があるものなのか、このまま続けるべきなのか、その判断が出来る
実力が出来るまで参加してみよう! という、かなり低い志で継続
することになる。
しかも続けてよかったのだ、という確信を得たのは3年後だった。
62
意外なところでカンフー映画の影響を見つけた話︵前書き︶
忘れないうちに、以前書くといっておいたことを書いておく。
63
意外なところでカンフー映画の影響を見つけた話
筆者はラップ、HIPHOPの音楽的知識は全く無いのだが、と
ある愛聴しているラジオの番組の中で数回に渡ってきちんとしたジ
ャンルの歴史と、初心者におすすめの曲というのをまとまった形で
聴くことが出来た。
おかげで、オシャレ︵笑︶で暴力的でダジャレが多くてクドくて
歌で口ゲンカをしまくってたり家族や友人に感謝しまくったりする
Clan︶
変な音楽、という偏見はかなり解消され、なるほどこれはこれで面
白いものであるなあと納得したのであった。
さて、その中でウータン・クラン︵Wu−tang
という様々なスタイルの正体不明なラッパーによって構成された謎
clan
aint
n
のグループ︵少なくともデビューからしばらくの間は︶の曲を聴い
tang
﹂。
た時に、何か異様に魅かれるものを感じた。
その時に流れた曲は﹁wu
with
to
fuck
uthin
まあ曲についてはyoutubeにオフィシャルのものがあるの
で適当に探せばよろしい。
メソッドマン、ゴーストフェイス・キラー、インスペクター・デ
ックといった、耳から入ってくる各メンバーの名前の響きのアタマ
style......Tiger
style
の悪そうなカッコ良さもあったが、曲の出だしにサンプリングされ
た﹁Tiger
!!﹂という音声が、筆者の心の中の何かに触れまくったのである。
64
当初、全く気づかなかったのだが、﹁wu−tang﹂というつ
づりをどっかで見たことあるのだがどこだったっけ? という不思
議な想いが湧いてきた。
なんかyoutubeで検索したことがあるんだが⋮⋮?
そう思ってwikipediaを読んだり、wu−tangにつ
いて語られている記事を読んだところ、どうもこの﹁wu−tan
g﹂というのが武当山、武当派武術の﹁武当﹂の発音から取ってい
ることにようやく気付いた。︵ただし、実際の武当のアルファベッ
トのつづりは﹁wudang﹂なので注意︶
clanは家族とか一族の意味なので、それって﹁武当派﹂とい
うことか!? と思い当たって驚いた。
style﹂ってあんたカ
よく見ると、youtube上のPVの中で青龍刀っぽいものを
振り回したりしてたり、﹁Tiger
ンフー映画で出てくる﹁虎形拳﹂だかなんだかを英語吹替であてて
いる音声をまんまサンプリングしてるんじゃん、と後から理解する。
実は、アメリカのブラック・カルチャーの中にはカンフー映画が
かなり浸透しているようなのである。
かつてアメリカの映画、特にハリウッドの映画では、黒人は﹁陽
気な黒人﹂のような、非常に制限された形でしか出てこなかった。
または、いやに品行方正であったり、映画の主題が人種問題を扱
うような、非常に真面目な内容で出てくる。
これは黒人による人権活動や、それに対する白人層の反発が色々
65
と重なったのが原因の一部であるようだが、キャスティングの中の
人種の比率などによって抗議や脅迫を受けやすいため、どうしても
バランスを考えて配置せざるをえなかったようだ。
︵そうしてまた、そのように配慮しなければならないことすらも
一種の差別ではないかという議論がある︶
それらの範疇に収まらないものについては、ハリウッド以外のイ
ンデペンデンス︵独立︶系の映画会社の作品であることが多いと思
われる。
が、彼らだってもっとシンプルにやっていきたいわけである。
もっとこう、黒人が主人公で、白人黒人関係なくスカッとぶちの
めす、バイオレンスな映画を観たいと思っているのだ。
そんなわけでアメリカ黒人には、白人中心のハリウッド的アクシ
ョン映画を見るぐらいならまだアジア人のカンフー映画の方を観る
わ、というかむしろ大好きだわカンフー最高イヤッホウ、というボ
ンクラ層が昔からいっぱいいたらしい。
彼らにとってアジア人は、白人に比べるとだいぶ共感を感じるの
だそうな。
もちろん現在は黒人の黒人による黒人のための映画も撮影されて
いるらしいが、ある程度の範囲の世代のブラックの人々は、カンフ
ー映画に大変なじみがある。
いや、実はyoutubeを見るようになってから、たまにオリ
エンタルとか精神世界とかの白人インテリ層がかぶれそうな部分に
は一切興味のなさそうなB−boyスタイルのごっつい黒人さんが、
何ともいいがたい微妙な太極拳やら八卦掌やら洪家拳を打っている
66
動画を見る事が何度もあって、彼らだったら護身術として武術を習
うより銃を手に入れる方がよっぽど手っ取り早いはずなのに、あれ
って何なんだと思っていたのだ。
なるほど、あれはある種、筆者なんかと同じような趣味のミーハ
ーでオタクな人たちだったのかと大いに納得した。
武術は、同じ門派であっても、個人個人の体格の違いによって全
体のニュアンスが変わってくるのだが、面白いもので、国や人種で
もそういう違いは出てくる。
これを﹁風格﹂というが、例えば中国人から見ると、日本人の太
極拳は中国の太極拳とはかなり風格が異なるようだ。
また、日本の柔道や空手も海外に出て土着化すると、それぞれの
国や地域、人種によって変わってくる。
youtubeなどの世界的な動画サイトで武術の動画をあさる
と、色々な風格があふれているので見比べてみると面白い。
67
力を使わない武術︵笑︶︵前書き︶
突然だが、書こうと思っていた韓国武術ネタが、話の主軸となる
韓国合気武術﹁ハプキド﹂で絶賛行き詰まり中。
ちょっと調べなおしていて熱くなってくるので、クールダウンし
たいところ。
悪口を書いても仕方が無いので違う書き方をしたいのだが、なか
なかうまくまとまらないものです。
で、つい最近知人と話した一部﹁高度な技術︵笑︶﹂について書
いてみる。
脱力を利用した技術、力を使わないとされる技などは、インチキ、
こけおどしとしての批判はここ10年ほど拡散していると思う。
68
力を使わない武術︵笑︶
世の中には﹁力を使わない﹂といわれて紹介される技や技法があ
る。
数年前に一部で﹁古武術ブーム﹂というようなものがあり、実際
には古武術自体ではなく、研究家?紹介者?である甲野善紀氏の長
年の﹁一般メディアへの働きかけ﹂が実を結んだ成果だと思われる。
甲野氏に対して筆者自身は色々思うところがあるが、外部の武術
ファン・マニアの興味を引く話の運び、それっぽい例えや運動モデ
ルの提示、達人への憧れを上手くくすぐってくれる描写など、この
人の文章は面白い。︵本を何冊も出しているが、初期の頃のものは
読み物としてしっかりしている︶
メディアが武術を取材する時、凄いですねー素晴らしいですねー
神秘的ですねー面白かったですねー終了、で終わるが、甲野氏の場
合は何かちょっと﹁実はこうなんだぜ﹂と観た︵読んだ・聞いた︶
人が他の人に伝えたくなるような﹁おみやげ﹂があり、何か得をし
た気分になれたのが大きいと思う。
この時、実技として示す技の数々が、力を使わずに素人でもその
場で簡単にできる効果的なものが多かった。
その説明も素人が納得できる︵ような気がする︶ものであった。
これが後に、ふだん興味の無い人々を食いつかせるために効果的
だとメディアの側も学習したせいか、色んなところで似たような事
が行なわれることになる。
テレビなどの露出はごく一部だったが、それを見た人々の中で﹁
ひょっとして、こういう簡単で効果的なものがいっぱいあるのでは
69
?﹂と気付いた者が相当数出たようで、この部分の技術だけを追求
する人々が現れ、あまつさえネット上での公開を始める者も出てき
た。
パソコン通信時代の閉じた会議室からインターネット初期にかけ
て、つまり今から20∼15年前ぐらいの期間だが、それぞれの時
代で20歳代を中心に、ネットを通じての愛好者達の情報交換に新
鮮な興味を感じた世代がやたらめったらネット上で自分達の試行錯
誤やら、自分の所ではこうしているといった内部の事を話し始めて
いた。
そういった情報の共有があったせいか、この手の技術の知識だけ
はかなり流出していると思う。
ある程度以上の世代の人々が力を使わない技法なり脱力的な技法
を取り上げる際は、かなり力を入れた練習をガンガンやってきて、
もうこれ以上筋肉をつけるのも無理そうだし、これから歳をとって
体力は落ちていくのだけれどどうなの? という危機感がまずあっ
て、そこから追求を始めるような気がしている。
目標とする達人老人師匠みたいな人がいたとしても、実際には自
分より年上で修行年数もあるけれど自分と大してレベルが変わらな
いか、はっきりと自分より落ちる先輩がいた場合、自分がこれ以上
実力をつけられるのか、それとも衰えていくのかという切実な感情
は自然と出てくるものと思われる。
筆者もそうなのだが、ある時から筋肉痛が一日遅れて出るという
ような症状や、それがなかなか抜けなくなるという衰えを自覚する
ようになる。
男はいくつになっても心はガキのまま、なんていう詩的なフレー
ズがあるが、精神的な﹁老い﹂というのはなかなか自覚できないの
だが、肉体的な老いはかなりはっきり分かる。
筆者はずっと痩せ型でどんなに食っても太らない体質だったのだ
が、30代後半に入って突然ウエストに脂肪がつくようになって、
70
本当にびっくりした。
またこの脂肪が、体重を減らして筋肉量を増やしてもなかなか減
らないのよ。
途中から個人的な話になってしまったが、技術の方に話を戻すと。
そういった時代の一時期から出てきたものは情報が先行したため
か、最初から力が要らない、最初から脱力による技術を志向する人
が多くなる原因となったと思う。
若い頃にさんざん体を鍛え﹁力﹂を求めていた人々が、その力と
は別の次元の力にシフトしていくというのが旧来のパターンである
とすると、新しい世代は最初から後になって得られる力の獲得を目
指す、というものである。
これが昔の武術マニアとは違った知識先行の武術オタクを生み出
した面はあったのじゃなかろうか。
もちろん、ヘタレであった筆者は当然そういった武術オタクに属
する。
筆者のようなヘタレの思い込みの一つとして、力を使わない入れ
ない武術は、きっと修行が楽であろう、体力が無くてもついていけ
るだろうというものがあった。
ところが、そんな上手い話はそうそうない。
その誤解はとある練習時に二人一組となって互いに脱力した腕を
全力で振り回し、前腕をぶつけ合うという鍛錬で木っ端微塵にされ
たのである。
あまりの痛みに﹁ギャーッ!﹂という悲鳴が響き渡る。
途中からは腕の感覚が無くなって、死んだ魚のような目になって
互いの前腕をぶつけあう姿になっていく。
そうすると、練習会場を見回っている先生が﹁痛いのはまだ力が
71
入ってるから! 入ってないと痛くない!﹂と脱力した自分の腕を
打ち込んでくるのだが、これがまた骨の芯に突き通るような衝撃で、
新たな悲鳴が発生するのだ。
数時間後、練習会場の近くの電車の駅に、前腕が青紫色に内出血
で変色したうつろな目の集団︵筆者含む︶が出現することになるの
だが、このように脱力を利用する技法は﹁それ以上力をつけなくて
いい﹂というような現状維持ではない。
もっと積極的に、現在持っている力すらもどんどん抜いていくこ
とが求められる。
しかもここまでなら自分の意志で力を抜ける、という限界を強制
的にとっぱらうため、一時的にかなり無茶なことが必要になる。
小さい頃から学んでいる場合はもっと段階を踏んでいくし、一方
では正常な身体体力の成長育成も求められるので、このような荒療
治は必要ないらしい。
が、なにしろ筆者は途中からの編入組でそちらのカリキュラムは
体験していないのでよくは知らない。
十代後半以降、成長が止まってある程度出来上がってしまった肉
体を躾ける場合、元からの体の癖が根深いので、一度ぶっ壊さない
と進んでいくのが大変なのだ。
こういった限界突破させる質の脱力感覚の面白い所は、一度限界
を体験するとしばらくインターバルを置いても体が覚えている事で
ある。
しばらく脱力の鍛錬をしていない時期があっても、次に感覚を取
り戻す時はかなり期間が短縮される。 脱力を利用する具体的な技術については詳細を書く気は全く無い
72
が、次にこの力が抜けた状態で体を動かすにはどうするか、という
段階に進んでいく。
普通に考えたら当たり前だと思うが、真に全身の力を抜けば、当
然人間は地面に倒れてクラゲみたいにぐにゃぐにゃのたくってる状
態になってしまう。
で、あるからには、脱力のアドバンテージを維持したまま動くた
めに、脱力している部分とそうでない部分をちょうどいい状態で保
ったまま動くという、相応の体の使い方をしなければならなくなる。
肉体労働といった一般的な意味の﹁力仕事﹂をしていると、この
脱力状態を維持するのが大変で、なにやら昔から﹁力を使わない高
度な武術﹂︵ということになっている武術︶を身に着けた人物で達
人と呼ばれる人々の一部に学者や富豪がいたりするのはそういった
理由による。
現状持っている力も抜くためには、まずそれが﹁力﹂だと意識で
きなければならないわけで、別の方法論としては一度MAXまで力
を入れることを学んで、そこから力を捨てていくという方法論もあ
る。︵こっちの方がスタンダードかもしれない︶
もう一つ、気が遠くなる時間繰り返し同じ動作を行なうものがあ
る。
そちらは型︵形︶だけのお飾り武術・踊りと無用にけなされてい
る場合があるが、そういう所の話を聞くと一日6時間から8時間の
繰り返しを最低1ヶ月以上、という普通の人間がついていける範疇
を超えるのでこっちはこっちでかなり大変なんだそうな。
現代の日本で社会生活している人間には不可能に近い。
2、3日では意味が無く、短期で効果が得るためのプログラムが
﹁百日功夫﹂と言われるように、それはだいたい3ヶ月ぐらい継続
すると質が変化すると考えられている。
73
力を使わない武術︵笑︶︵後書き︶
無責任にも次回に続きます。
74
入れてはいけない︵前書き︶
読んでいる人に共感してもらえる気が全くしない。
力が必要ない、という技術と力を入れてはならない、という技術の
お話。
75
入れてはいけない
力が必要ない技術というが、正確には現状の筋力︱︱普段使って
いる程度の力︱︱でやっているというものが多く、厳密に言うと力
が必要ないわけではない。
この辺の技術の特徴として、﹁知っているだけで使える﹂という
点がある。
これを使っているのにこの技術の有利な理由を理解していない人
間がかなり多数いて、現状は相当悲惨になっていると思う。
それは何かというと、つまり、教えなければずっと有利でいられ
るのに、苦労せずに手に入れたので自慢げに他人に解説してしまい、
内容が流出してしまっていることである。
人間、苦労して会得したことは大事にするが、覚えてすぐ使える
技術はホイホイ人に見せてしまうので秘匿性が薄れやすい。
この手の技術はど素人がど素人に使って効果が分かる、という条
件が相当ゆるい技術であるのでかなり有用なはずなのだが、簡単に
できて簡単に効果が分かることを、大したことのないものとみなし
がちである。
しかし、実はそういう事こそ﹁秘伝﹂であったりする。
こんな簡単なことを隠して馬鹿じゃねえの、という人間がいるが、
そういう人間は自分がその簡単な事に全く気付かず、さらには知ら
なければ一生知らなかったであろう事を考えるべきである。
もっともこういう人間は平気で秘伝などを話のネタに使うので、
信用されない事が多い。
こういうある種の﹁秘伝﹂を本に書いたり人に教えたりして︵そ
れも値段もそんなに高くない本︶いるのを読んだり聞いたりするこ
とがあるが、内容が初歩のものや勘違いしたものが多く、多分その
76
流派では初期段階で信用されずに適当な所で放り出されたのがひし
ひしと伝わり、痛々しい気分になることがある。
そういった簡単に出来て効果が得られるものが広まらないように
するための対策で、昔からよく使われているものとしては、かなり
の高い金銭で教えるとか、修行が相当進んでから教える、というの
がオーソドックスな所だろうか。
あれだけの金を払ったのだから、少なくとも同じぐらいの金を出
さねえ奴に教えてなるものか、と思わせられれば流出はしないだろ
う。
もう一つの場合は、ここまで長くやってきてやっと教えてもらっ
たものなので、少なくとも自分ぐらいは苦労した奴じゃないと教え
られねえ、と思わせればいいわけである。
昔から技の内容が金次第、最後の奥義が高額だという批判を浴び
ている某流派があるが、筆者としては商売上のものもあればそうい
った流出の予防も面もあるのだから、ある程度責めても仕方がない
ことだよね、という気はする。
そう、この手の技術は武術という商売、売芸にも関連している⋮
場合もある。
本来これらは何かと引き換えとされるものである。
現在、雑誌などのメディア出ている人はそんな事ないのでは? と思う人がいるかもしれないが、それらの人々は﹁有名になるため﹂
﹁宣伝のため﹂それらの技術を公開する。
もう一つ、こちらはより厳密に力を入れてはいけない、という技
77
術がある。
力を入れずに済むならなんと楽なことだろう、と思うかもしれな
いが、しばらくこの技術のものを修練していくと、だんだん、こん
な事をしようという体系が正気と思えないものに感じられてくる。
人間は危機に直面したり緊張すると、筋肉が収縮する。
最終的には丸まるような姿勢、つまり内蔵などに衝撃が来ないよ
うにかばう姿勢になるわけだが、護身術を中心に考える団体では、
この自然に力が入ってしまう事を利用したフォームや対処が研究さ
れている。
本能的な反応なので、それを利用して、一部をチョイと整えると
立派な防御の構えになるというものだ。
大変自然な事である。
無理がない。
が、力を入れてはいけない系武術は、このような本能的な動作を
完全に解体する。
そういう緊張・緊縮とかけ離れた所に真の力が現れる、と彼らは
考えている。 脱力・リラックスによって得られる力。
リラックスすると対処できる、と教えている体系は数あれど、実
際に対処できるようになると考えるのには相当な無理がある。
こういう事を教えている人間は、全く実戦というものに触れてこ
なかった幸せな凡人か、ヤバイぐらい完全にアッチ側に行った人間
である。
よくよく考えて欲しい。
自分がぶっ殺されるか、相手をぶっ殺すかという状況で心身とも
にリラックス出来る、出来ているのは正気であろうか?
78
道場の稽古などで鍛錬を続け、限定状況では出来るようになった
ので有効だと考えている人がいるが、というか結構な数いるが、そ
れはあくまで経験したことのある状況まででしか試されていない、
と冷静に考えることは必要だ。
ところが一方、表沙汰になってないだけで散々他人をそういう目
に合わせてきた人間というものがあり、そういう人種でリラックス
を唱えている、力を決して入れてはいけないという体系を組んでい
る人間は、やばい。
﹁出来なかったら死ぬだけ﹂と言われたことがあるが、タカをく
くっているとか、自分は大丈夫だと思っているとか、そういうもの
では決してなく、いつだって一歩間違えたら自分が死んでたという
事を踏まえた言葉で、独特の迫力があった。
﹁あ、これは俺には無理な世界だ﹂と筆者は早々に自分を見切り、
一種の趣味でやる事を誓った。
自分が実際に実戦でどうとか、そういう幻想は以後やめようと考
えたものである。
79
入れてはいけない︵後書き︶
そんな人間がこれを書いてます。
80
拳脚は武器の縮短︵前書き︶
﹁武器は手足の延長﹂という文句がある。
だが、実際にはその逆と考えたほうが良いのでは? という事が
いくつもある。
あれこれ書いてみたい。
81
拳脚は武器の縮短
中国武術などでは﹁武器は手足の延長﹂と説明されることがある。
出典は不明だが、大変広く知られている言葉である。
長くて重いものほど扱いづらく、また短かったり小さくても特殊
な形状をしている場合は下手すると自分が怪我するおそれもあり、
素手の時とは緊張感が違ってくる。
そうすると素手で自由に動いている時と違い、制限が加わるため
に戸惑うこととなる。
その際、武器を体の一部のように違和感なく使わせるため、また
はその武器以外のその流派の体の応用として使わせるために、﹁武
器は手足がそのまま延長したもののように扱ってみろ﹂と伝える。
初心の頃には大変わかりやすい。
だが、素手の拳術と同時に武器術を伝えている体系の場合、しば
らくするとどうもこれは逆で、武器を使っている時のノウハウが素
手の技術にフィードバックされているのじゃなかろうか、と思える
ようになってくる。
人間を単なる動物として見た場合、その身体に特有の武器は何か
? と確認してみると、それは爪と歯だ。
どちらも相手の肌から筋肉にかけてを鋭く切り裂くことが出来る。
競技格闘技で噛みつきとひっかきがルールで禁止されているのは、
82
技術もへったくれもないとか、見た目が動物的で見苦しいというの
も当然あるが、根本は大変有効だからである。
噛みつきはともかくひっかかれてダメージがあるのか疑問な人は、
一切の躊躇なく強めに自分の腕なんかをひっかいてみれば分かるが、
かなりかんたんに皮膚がざっくり裂ける。︵もちろん本当にする必
要はないけれど︶
実は武術なんかで、爪でひっかく場所や方法、噛みつく時の力の
入れ方なんかを伝えている所もある。
誰が試したんだと正直ドンびきだが、絵ヅラはともかく︵ビジュ
アル的には狂人か悪人ぽい︶効果はかなりある。
ちなみに爪を使う場合は爪に毒を塗るというのがメジャーな方法
だ。
︵使う側は解毒薬を前もって飲んでおく︶
そこから考えると、素手の格闘術として﹁蹴る﹂であるとか﹁殴
る﹂という動作は、はるかに威力がない。
手も足も、何がしかの鍛錬や相手に当てる角度を練習しないと、
結構簡単に壊れてしまう。
また、手首も足首も細くて簡単に曲がる部分なので、軽い力であ
ればたいしたことにはならないが、興奮して力が入った状態で変な
角度で当ててしまうと痛めてしまうおそれがある。
最初に自然発生した相手を害するための技術は、多分、木の枝な
どの棒状のものを振り回す、または石を持って相手に叩きつけると
いう、自分の体に負担をかけないものであった可能性が高い。
そういった手軽な範囲で威力とリーチを考えると、やはり棒が最
83
初にくるのではないかと思われる。
ある程度の距離を加速させ、遠心力を利用して威力ある先端を相
手に叩きつける。
拳の場合は振り打ち︵圏捶︶などと言われる打ち方だが、これは
棒を振り回す、振り下ろすという打ち方から導かれたものだと思わ
れる。
形意拳という中国武術で、﹁劈拳﹂という最初に基本として徹底
的に仕込まれる技があるが、それは相手に向かって打ち下ろすよう
に掌を叩きつける型となっている。
現在は素手の拳術から修練するため、単純なパンチと比べて威力
が実感できないわ、まわりくどく打っているようにしか見えないわ、
なんでこんな動きで威力が得られると先生が言うのか、そしてその
原理を先生が説明してくれないわと、初心者が大変もだえる技であ
るが、実はその動作は両手で棒を持って相手に叩きつける動きその
ままであると理解すると、かなり早期に威力を実感することが出来
る。
そして﹁突き﹂。
空手にしろ中国武術にしろ、基本の突きの動作というのは、現代
のようにボクシングなどをよく目にしている人間にとっては、なん
でわざわざこんな大げさな動きなのか、片方の腕を前に突き出すと
同時にもう片方ははっきりわかるほど後方に引くのか、理解に苦し
むことが多いと思われる。
これも、実は棒を振り当てる動きが根本にあると考えると分かり
やすい。
両手の間隔を肩幅前後に開いて握った棒を、水平に近い高さで相
手に振り当てた際、片方は相手に突き出すように、片方は自分の胴
84
体に引き寄せるように動かすことで相手を打つ。
素手の突きについては相手に槍を突き刺すように突く、武器の中
段の突きを連想しやすいが、そういった動きでは引き手の説明がつ
かない。
空手に山突きという、両拳を違う高さで同時に突き出すという、
これを実際に使うシチュエーションが世の中に存在するのか的動作
があるが、あれも元は両手で長い棒を持った、下から振り上げるよ
うに打つ・払うという動作が元であると考えると理解できるのでは
ないかと思う。
ただし、これは空手の門外漢の意見であるということは断ってお
く。
85
拳脚は武器の縮短︵後書き︶
何となく久々に書いてみた。
いずれ文章を追加するかもしれないし、しないかもしれない。
86
技は隠されているか︵前書き︶
ユニークが2000を越えていたので書いてみた。
以前に途中まで書いていたネタが5つぐらいあったが、途中で放
り出したネタとか、改めて続きを書くのって面倒くさくないですか
?︵いいわけ︶
韓国武術ネタとか、なかなか愉快で一時期調べてたんだけど色々
韓国がらみのニュースが続き、シャレで笑い飛ばせない状況に。
うーん。
87
技は隠されているか
空手や中国武術には一人で演じるためのに複数の技を繋いで構成
した型・形・套路というものがある流派がある。
無いところもあるが、その話はまた。
が、何だか実際の使い方がよく分からない奇妙な動きをしていた
り、面白くもクソもないごくごく単純な動きを行なっていたりする。
今の日本は平和ないい時代だからか、見せないと生徒が来なくて
金にならないからか、見せてもどうせ出来ないからいいと思ってい
るからか。
とにかく理由は色々あるだろうが、かつては表に出てこなかった
具体的な技の使い方・かけ方の情報が、雑誌記事や映像やホームペ
ージ上で公開されることが多くなった。
見たまんまという技ももちろんあるが、ちょっとそれは解釈が強
引じゃないかとか、そんな手や足の動き入ってなかったやんという
ものや、実は実戦では足の移動が入るのでこの角度で使うとかいう
が普段は練習してないのにいきなり本番でそんな事できるんかいな、
というものが見られる。
その説明は絶対おかしい、というものもある。
こういう場合、秘密主義のために実際の技の使い方は固く隠され
ていたため、このような現象が起きるのだという話があるのだが、
今回はこの話について書く。
筆者が学んでいるものは型とか套路がほとんど重視されず、最初
88
から攻撃側と防御側を決めて二人で練習する相対のものを中心とし
ているのだが、はっきりした形の技を教示されることもある。
先生が誰かに直接指導している中で、﹁○×拳に××××という
技があるけど、この動作は本当はこうやるんだがね﹂とか﹁これは
実際はこの部分で打つ﹂というような形で、﹁君、じゃあやってみ
て﹂と一回見せられただけでやらされ、出来たらそれからいくつか
立て続けに応用を教わる場合もあるし、出来なくて﹁じゃあいいや﹂
と言われてそれっきりな場合がある。
いきなりパッと見せられてその場で出来なければ、基本的に二度
と同じものは教えてもらえないので、稽古後は喫茶店なんかに仲間
全員で集まってノートに必死に記録しあっているのだが、まあそれ
はいいとして。
そういうような方針で教わって気づいたこととして、型や套路が
あるととても便利、ということがある。
一部であれは踊りだの使えないだの、そういう批判もあるが︵今
はよく知らないが昔はあった︶、技のカタログとしてとても都合が
よろしい。
十二式だとか三十二式だとか六路だとか、質はともかくとりあえ
ず外形だけ覚えておけば、関連付けで技とその使い方を記憶できる。
またそうやって違う方向から考えていくうち、ものすごい特殊な
用法であるとか強引な解釈にみえる技の中に、とりあえず思いつい
たやり方があるが、独立した一個の技にするほどでもないので何か
体の使い方やら姿勢やらにちょっと共通点のある技に強引に関連付
けて残している、というようにしているものがあるようだ。
また、それなりに長くやってくると、一人で練習している時に、
最終的な技の形になる以前の掴むのだか打つのだか投げるのだか分
からない動作のものは、いちいち最後までやると打つ動きと投げる
動きを別々に分けて練習するのが大変面倒くさくて、そういう動き
89
に応用できると﹁自分だけ分かってりゃいいか﹂という感じに最後
を省略してしまう、という感覚が分かってくる。
武術というのはごく近年になって集団体育の考え方が入ってくる
までは、一度に大人数を教えるという形にはなっていなくて、長ら
く一人の師に数人の生徒がそれぞれのペースで教わるという形で細
々伝わったいたものが大半だ。
同じ一門の中でも宗家や一族以外では、だれだれはこの型を知ら
ないとか、この套路が伝わっていないというのはかなり普通にある。
この辺は伝承ということと関連しているのだが、実際に戦ってど
っちが上かという事とはまた別で、その流派の内容を全部知ってい
る先生の息子さんが、昔からその先生に学んでいるが一部の技は教
わっていない古い生徒に実力で圧倒的に劣る、ということは現代に
もよくある事である。︵そして宗家死後の後継者問題で揉めたりす
るわけだ︶
いや、また話がそれた。
つまり多くの人に分かりやすく教えるというように整理されてい
ない。 ごくごく内輪で伝えられていたので、基本的に教え方は親切とは
とても言い難く、効率的でもない。
日本の武術は江戸期に武士の教養の一部に入ったので武術を教え
るだけで生活していける人間がいたが、特に中国の場合はごく一部
のメジャーなものを除き、お金をすごく積むとか、物凄く熱意があ
るという人間がたまに寄ってくる以外、少人数で細々と伝えられた
ものがほとんどである。
人間関係の密な状態で、その空気の中で徐々に伝わって身につく
ものなので、外からちょっとのぞいて見ても分かるようになってい
ない。
大抵の場合、技は隠されているというロマンのある話はほとんど
90
なくて、その流派門派の内部に入って経験を積んでいくと、その体
系が抱えているコンセプトに従って全ての用法は構成されていて、
隠されているように見えたけど実は隠されていない、という不思議
な状態になる。
積極的に﹁隠す﹂というより、わざわざ親切に全部を見せる必要
もないのでやっていないという消極的な態度というか。
もちろんびっくりするような用法はあるし、これを思いついた人
間は天才だ、と思う技の使い方は存在するが、相手の全ての攻撃に
同じ形で対処できるわけでない以上、ピンポイントで凄くはあるが、
それだけを大事に抱えていてもあまり意味は無いし、そういう用法
はスペシャルなもので他のほとんどの用法ではそんなものは無い。
外から見ると︵理解できないので︶隠されているように見える、
という話である。
人前で見せる場合は、最後まで使い方を見せていない型や套路を
演じれば済むので、自然と技術を流出しない形になる。
もちろん、明らかに間違っているものが公開されている場合もあ
る。
理由はいくつかあるが、まず勝手に解釈して﹁こう使える﹂と書
く場合。
こういうことはよくある。
だいたい一昔前の教え方でもまだ、勝手に分かれ・勝手に強くな
れ・教えるものは教えたから後は自分でやれという傾向が残ってい
た。
実際にはいくつかの技で何通りかの使い方を示した以上は全く伝
えないということがあったので、十分強いと認められて独立が許さ
れた後も、よく分からない技がいくつも残っているということはあ
91
った。
何しろ40個か50個の技があったとして、大勢の前で何度も公
開試合をして敵に研究される危険もあまりない時代、ごくごくシン
プルな得意技のいくつかがあれば間に合ってしまう。
その得意技以外はあまり詳しくないのが大多数であった。
ところが今はそんな時代ではないので、教室などで生徒に聞かれ
て、とりあえず適当に考えてその場で勝手に作ってしまったりする
のだ。
これは悪いかというとそうでもなくて、昔はそれで間違いを指摘
されることもなく、なんとなく皆がそうなんだと納得して終わって
いた。
こいつが後に写真や記事で残ってしまって、後になってあいつ嘘
を教えたとか言われるのはちょっとかわいそうかもしれない。 一応そういう知らなかったり不得意なものを教える場合の解決法
として、同門の兄弟弟子であるとか自分の先生の関係者を探すと誰
か一人は得意な奴がいるので、そういう人を呼んで指導してもらっ
たりする。
昔はせいぜい隣村や近くの町ぐらいに行けばそういる流派の身内
がいたのだが、今は生活圏が広がってしまったので独立してしまう
と、おいそれと呼べない距離に住んでいるということが起きている。
次に、その人が先生に嘘を教えられている場合がある。
一昔前に日本人の中国武術修行者に起きたパターンがこれで、嘘
の技で金をぼったくられるケースがあった。
今でも中国人が日本人に本当の武術を教えることなんか滅多にな
い、と固く信じている人が上の世代にいるが、そういう人たちはこ
れに散々引っかかっている。
最後に、嘘と知っていて嘘の技の使い方を見せる場合がある。
92
こういう秘密主義のものは今はあまり見かけないけれど、筆者が
知り合った人で、﹁外部の者に見せる場合はここをこう変えて打つ﹂
﹁用法は間違ってるものに差し替える﹂とはっきりと﹁嘘のための
技﹂を伝えられている人がいた。
これは日本人中国人に関係なく、身内以外は絶対に信用しないと
いうものだ。
もっとも今はそういう時代ではないのでそんな極端な秘密主義は
取っていないとの事。
93
達人の逸話や伝説のあれやこれや︵前書き︶
正月でめでたいので書いてみた。
94
達人の逸話や伝説のあれやこれや
言い伝えの逸話が、よく捻くれ曲がる
武術や武道には様々な達人の逸話がある。
近年は活字記録も映像もあるので、有名な人であれば多数の証言
があり、動きの映像も残っている。
しかし、古い記録、何代にもわたってほぼ口伝てでのみ伝わって
いるような逸話については、事実を確認することは不可能である。
話している人の記憶にしか存在していない。
何人かの人がその話を聞いて、それぞれの人がまた別の人々に話
している間に、伝言ゲームのような事故が起こる。 で、まあ、実際の武術・武道の修行者にどういう事が起こってい
るかというと、その人の記憶やら性向やら、もっと生臭く個人の立
場の都合によって、元と違った意味で伝わったり、知っている人が
少ない話の場合ですら作り変わってしまったりする。
自分の所属する所に伝わっている内容と、とある道場に伝わって
いる内容とで、同じ系列団体なのに経緯が大分違ってしまっている
ことも良くある。
筆者の所属する流派だけでなく他流他派他門においても、世間的
な評価の高い人が実は不覚を取ってド素人にやられたが、あまりに
みっともない敗北だったので関係者全員が黙っている話とか、人格
高潔ということになっているある達人︵とされている人物︶が、も
のすごくイヤな人間であったとか、普通にある。
95
そのへんの会社とか学校とか地域社会に伝わる噂話とか都市伝説
に近い。
同じ団体内にいる者には、他派の人間がとても不快だった問題の
ある逸話が、﹁偏屈な達人﹂的な特別枠エピソードとして良さげな
味付けで公表されている場合もある。
とある達人とされる人が亡くなった後、そのお弟子さんが﹁実は
今まで黙っていたが、○○先生はかの有名な△△先生を打ち倒した
事があるのだ﹂などとどっちも亡くなっているので確認のしようが
ないことを書いた本を出していたりもする。
﹁ご本人の名誉のために今まで公表しなかった﹂ということをわ
ざわざ書いて出版しているのはどういうことだ、とまあ色々事情を
考えると味わい深いものがある。
今でさえそうなのだから、昔なんかは相当な事になってたと思わ
れる。
豪快な達人たちの話、超人的な逸話も、よくよく検証していくと
夢のない話が明らかになってくることはままある。
昔の拳豪が一撃で壁を崩した、という話の当時の状況を当時のそ
の地域の壁は土でできた壁で補強が大して入ってないものだったと
か。
垂直な塀を駆け上がった︵飛櫓走壁︶とか塀を飛び越えたという
逸話は、昔の塀はけっこう凸凹していてそこに足をかけて駆け上が
ることが出来たとか、塀がそんなに高くなかったとか。
10メートル以上吹っ飛ばされたという話が実際に宙を飛んだ距
96
離は1メートルかそこら、あとは着地してから足が踏ん張りきれず
に足をもつれさせてバタバタバタッと倒れるまで動いた距離を含め
て10メートルぐらいだとか。
旅の途中、一人で夜道を歩いていて襲われたので、軽く突いたら
全身から血を噴出して死んだとか、生き残った本人しか知らない光
景を誰が話したのか?というタイプの話もある。
19世紀の後半ぐらいから西洋的な活版印刷が日本や中国にも定
着した結果として、かつては内輪の人間を対象に執筆された武術家
本人の手による文章が、多くの人の目に触れる書籍という形で普及
するようになった。
その初期の頃は、深く関係の無い人々が勝手に広めた噂話を記録
したものや、本人や近しい人々が直接記録したもの、これを両方比
較することができて楽しい。
現代のものであると、同じ人が話している内容なのに繰り返して
いくうちに段々話が大きくなっていくものを目にすることができる。
筆者も達人の逸話が目の前で形成される瞬間を見たことがある。
酒の席だが、相手が武術とか武道とか格闘技とか、それどころか
スポーツにもあまり興味がなくて普通に話しても全然驚かなさそう
なタイプの人に、﹁凄さ﹂を無理やり分からせようと話しているう
ちに、カンフー映画のワンシーンみたいな話になっていた。
具体的にいつ・どこでがはっきりしない噂って、こうやって作ら
れるんだなあ⋮⋮としみじみ思い知った体験である。
人間、聞く方も話す方も面白い話のほうがいいにきまっているも
のねえ。
97
また、日本むかし話的なノリの﹁武術むかし話﹂みたいなものも
ある。
当たり前のことだが、初心者の頃は基礎の鍛錬法であるとか、そ
の場でただ突くだけの基本技であるとかは面白くもなんともない。
﹁なんの役に立つんですか?﹂とか﹁こんなことを続けていて本
当に強くなれるんですか?﹂とか聞き返すだろう。
さすがに先生に直接言えない、というヘタレは先輩や仲間に言う
だろう。
そして出てくるのが以下の有名な逸話である。
昔々、形意拳に尚雲祥という人がいた。
李存義というとても有名な形意拳家の弟子となった。
かれはとても不器用でドン臭かったので、一番基本の五行拳を覚
えることが出来ず、最初に教えられる劈拳が満足に打てないため、
一番単純な動作である崩拳だけを教えられた。
日々ひたすら崩拳を打つ彼を仲間たちはさげすみ笑いものにした
が、かれはくじけずにひたすら崩拳を練った。
師の李存義は各地を回って指導していたので、崩拳しかできない
尚雲祥は特に目にとまる事もなく3年近く放置されていたが、ある
時弟子全員が李存義の前でこれまで積んだ鍛錬の成果をお披露目す
るという機会があり、他の者が次々と自分の成果を見せる中、尚は
ただ崩拳だけを黙々と打った。
周囲のものがその芸のなさを嘲笑う中、李存義は立ち上がり﹁良
くぞここまで練り上げた!﹂と尚を賞賛した。
かれは唯一つの技を3年間練り上げたことにより、いくつもの技
を練習していた者よりもはるかに深い実力を得ることが出来たので
ある。
その後かれは李存義に次々と技を伝授されたが、すでに高い功夫
98
に達していたので、そのことごとくを身につけることができた。
後に数少ない高い実力のある形意拳家の一人として名をあげ、さ
らには崩拳を得意技として、ほとんどの相手を崩拳の一撃で降した
ことから﹁半歩崩拳遍く天下を打つ﹂と称された。
だから、単純でつまらない繰り返しの練習を続けるんだよ、とい
う流れになるお話である。
もちろん嘘である。
10年近く前、日本で尚雲祥の伝系の形意拳を修行されている方
とちょっとお話する機会があったのだが、
﹁なんでこんな﹃おはなし﹄が広がってるんですかね!?﹂
と大変お怒りであった。
とりあえず﹁いやーマンガの﹃○○﹄のせいじゃないですかー﹂
と当たり障りのない事を話したのだが。
Wikipediaを読めば書いてあるようなことなのだが、尚
雲祥は形意拳の門に入る前にすでに他の武術で相応の実力を身につ
けている。
また、形意拳で最初に教えられる劈拳ができないということは起
式から三体式にいたる形意拳の基本の構えの動作ができない︵共通
の動作が入っている︶ということであり、なおかつだから崩拳を教
えたということは、崩拳を﹁ただ中段突きを繰り返す単純な技﹂と
99
しか考えていない、ということでもある。
形意拳を練習されている人が、後輩に﹁劈拳より崩拳の方が威力
がつきやすくないですか?﹂と聞かれて﹁そう思えるんならお前は
根本的にまちがっとる﹂と話されている場に立ち会ったこともある
し、また別の人の話で﹁もしもどの技で攻撃したら分からないぐら
い困ったら、とりあえず何も考えず劈拳を打て!﹂と言われている
のも聞いたことがある。
筆者は形意拳はまともな形で教わったことはないが、劈拳という
振り上げ・打ち下ろす動作を最初に身に付けさせるのは、形意拳は
腰の縦回転︵これは誤解を招く表現だが何となくそうなのかと思っ
ておけばよろしい︶が重視されているからではないかと想像してい
る。
まあ要するに教える順番にも相応の理由があるのだということな
のだが、こういう武術むかし話は実際に修練している人にとっては
﹁いくらなんでも﹂というものが多い。
この手の単純な動作を我慢して続けたよエピソードとしては、同
じく形意拳の郭雲深が3年間牢屋で手枷をつけられて虎撲を練った
とか、その弟子の王向斉が3年ひたすら站樁︵この字は表示される
かなあ︶だけを練らされたとか、3年という期間がやたら好きなよ
うだ。
三年小成、という言葉があって色んな分野でひとつの目安として
使われるので、それにあやかっているのだと思うが、単純な練習を
嫌う初心者をだまくらかして黙らせたり、外部の無関係な人に感心
してもらうための話にしても、あまりに一般にそのウソ逸話が広ま
ると思わぬ迷惑をこうむるようである。
100
達人の逸話や伝説のあれやこれや︵後書き︶
中国人の話は誇張がひどいというたとえに中国唐代の詩人・李白
の﹁白髪三千丈﹂という表現があげつらわれることがあるが、中国
語で発音すると音の響きがキレイ、詩の中で読み上げると美しい、
というごくごく単純な理由がある。
似たような理由で七とか八とか九とか十三とかの数字が技や一連
の型の名前についていることがあり、どう考えても声に出すとかっ
こいいから、以外の理由が見つからないことがよくあるわけで、案
外馬鹿にできないものである。
101
どうしようもなく体の固い俺が、高い位置への蹴りというものに
ついて書いてみる。︵前書き︶
まず最初に。
柔軟性は大切である。
まだ十代の人、全然大丈夫!
どんなにきつくても回復力がある!
25越えてからは色々取り返しがつかないことになってくるから
⋮⋮。
筆者は体がとても固い。
さすがに何も対策をとらないのは体に良くないので、一応は立っ
た状態の前屈で両手の平が地面に着くぐらいまではあきらめずにや
ってみたが、この十数年それ以上の進展がない。
開脚前屈は絶望的である。
そもそも脚が開く角度が90度ぐらいなのである。
そして上体が前に倒れない。
脚を閉じれば足先が掴めるぐらい倒せる。
この程度の人間が高角度への蹴りについて語るのだ、ということ
を前提にして。
102
どうしようもなく体の固い俺が、高い位置への蹴りというものに
ついて書いてみる。
さてまず結論だけ言ってしまうと、高い蹴りは放てなくとも別に
問題はないようだ。
と、いうよりも高い位置への蹴りが威力を発揮する相手との距離
というのはかなり限定されていて、見た目がかっこいい割りに使い
どころがあんまり多くない、というのが実際のところのようだ。
当たり前だが上半身への攻撃は手で行なう方が確実で動きも速い。
筆者が体験したものの中にも、臍から上は手の領域、臍から下は
脚・足の領域で互いの界は絶対に犯さない、としているものもあっ
た。
じゃあこういう考えの武術は上半身への攻撃がないのか、という
と全くそんなことはなくて、発想の逆転で相手の腕や衣服をつかん
で上半身の位置を下げた所に蹴りをかますのである。
また、現代の日本では考えとして抜け落ちがちだが、相手か自分
がなにがしかの武器を持っている、というのが前提にあるようで、
相手の武器をかわす機動力の確保や、自分が存分に武器を振るうた
めには足を不用意に地面から離してはいかん、という考えが徹底し
ている。
相手の中心線に向かって蹴り込む中段蹴りが、威力としても確実
性としても一番有効、といっていた所もあって、まあそれはかなり
極端なのだが話は分からんでもない。
古いものは膝から下を踏むとか蹴るとか、そういうのが大層充実
している。
むかし足を踏み込む動き、振り出す動きは﹁暗腿﹂といって隠さ
103
れた蹴りを意味しているッ! とか書いてある本があって、純真︵
馬鹿で単純ともいう︶な筆者は
﹁ふっふっふ、そうか、特別なことを知ってしまったぞ!﹂
と得意げにニヤついていたのだが、今になって振り返るとわざわざ
広く出版されている本を読むまでそういう発想がなかったというの
はかなり鈍い人間だったと言わざるをえない⋮⋮。
現在は高い蹴りは空手にも中国武術にも見られ一般化しているが、
歴史的には相当新しいものだ、という話はよく言われている。
多分にテコンドーの影響が大きいのだと思われる。
近年、日本で嫌韓感情が高まったことによって韓国ではさまざま
な文化や学問を自分たちが起源だと主張している人々がいることが
知られ、その反論のための検証の中でテコンドーが近代以降の日本
の空手から発展したという歴史などが表に出てくるようになったが、
大きな回転運動を伴う高く大きく華麗な蹴りは、テコンドーが﹁発
明﹂して広まったのだと筆者は思っている。
テコンドーの創始者とみなされている人物は、韓国独自の武術と
して体系を作っていく中で、大きな回転運動を入れて加速すること
によって体重による威力の差を埋める、という発想に至った。
以後、韓国で生み出された武術や、﹁古くからあった﹂とされる
ホイジョンムスル
武術のほとんどが大きな回転運動や跳躍を動きに組み込んでいる。
古くて実戦的とされる
﹁回転武術﹂とかいうそのまんまの名前の武術さえある。
ちなみに脱線ついでに書いてしまうが、
武術の多くは地味で単純なものが多い。
104
中国武術はカンフー映画でイメージが固定されて、高い蹴りや跳
躍が多いように思われているが、今も映像が残っていて確認できる
1990年以前の中国本土の武術の映像を観るとそういうものは圧
倒的に少ないということがわかる。
中国は武術を新体操や器械体操みたいなスポーツにしてしまおう
という動きを強烈に推進しており、それと連動してやたら難度の高
い跳躍技が増えていったという歴史がある。︵当然、テコンドーや
空手からの表現の影響はある︶
テコンドーでのそれは、いきなり空手から入った人間が考えて生
み出したために起きたブレイクスルーではなかろうか。
日本の剣術において、江戸時代初期まで介者剣術という鎧を着け
ている前提での剣術があったのだが、平和な時代になってから素肌
剣術といわれるもの平時の服装を前提としたもののに内容が移り変
わっていった。
具体的に何が違うかというと、鎧や兜がないのでもっと自由に動
けるようになったのだ。
代表的なのは雷刀と呼ばれるもので、それより以前のものでは兜
が当たるので肩の前に刀を立てて構えるぐらいが斬り下ろし動作の
限界だったが、それが一気に頭上に刀を振りかぶれるようになった。
袈裟懸けの斜め軌道で振り下ろすことしかできなかったものが、
振りかぶって真っ直ぐ斬り下ろしたり斜めに斬り下ろしたり、向き
を変えたら横の相手にも斬り下ろしたりできるようになったわけだ。
テコンドーの場合、空手との関連性を断ち切るためだったのか彼
らが空手の武器術を学ばなかったのかは不明だが、武器を前提とし
た構えや動作から自由になることができたのではないかと思ってい
る。 で、捏造だなんだといわれる韓国武術であるが、テコンドーの元
105
になった、ということでむりやりテコンドーの歴史に組み込まれて
いるテッキョンという武術に関しては、案外これだけは昔からあっ
た武術ではないか、と思っている。 あくまで個人の印象だ、と断っておくが、まず地味である。
そして、他の武術と比べて独特のリズムとフットワークが特徴で、
踊りとも共通性がある。
何かの武術に対してあれは踊り︵ダンス︶だ、というと悪口とな
る場合が多いが、今はそういうことではなく、韓国の人々が独自に
持っている生活の中の動きに通じるテンポ、ということで、これは
日本の武術が独特のリズムを持ち、舞や踊りと共通点が語られるの
と同じ意味で述べている。
もっとも、それは今から10年∼20年ぐらい前の、70歳以上
のテッキョンの伝承者とされている人物の映像を観た時に抱いた感
想で、現在のテッキョンはテコンドーからの逆影響によるものか、
高い跳躍も回転運度も入りまくりで、はっきりいってしまえばほと
んどテコンドーと印象が変わらないものになっている。
まあ武術は生き物だから仕方がないが、実に残念だ。
地味∼で泥臭い動きのものは動きに大変味があって、それはそれ
で好みなのだが。
さて話を戻そう。
では高い蹴りは別に出来なくていいのかというと
そんなことは全くない。
むしろ出来る方が絶対にいい。
106
まず、股関節・膝・足首の柔軟性は高ければ高いほどいい。
固いと相手を攻撃した時の反作用が流せず、簡単に痛めてしまう。
そして、脚の柔軟性と弾力はフットワーク︵歩法︶に強く反映さ
れる。
上半身の動きが生きるために下半身との連動は必ず必要となるも
のであり、地面に直接接している足の粘りがなければ打撃に威力が
乗らない。
そして、この﹁なろう﹂を読むような人は年代が若い人が多いだ
ろうから全く実感がないかも知れないが、人間の老化・衰えは脚か
らやってくる。
膝が固くなる。
股が固くなる。
足首が悪くなる。
歩幅が狭くなる。
脚が上がらなくなる。
これらは全て若いときからどれだけ継続して柔軟性に取り組んだ
かによって、決定的に変わってくる。 また、生まれつき体の柔らかい人には分からないものかもしれな
いが、例えばすごく固い、直立しての前屈でやっと足首に手が届く
か程度の人間が、すごくがんばってどうにか床に両手がつくぐらい
になると、それだけでも本人の主観的には自分の実力が倍ぐらい上
がったかと感じるぐらい動きの変化が起こる。
こういうのはどうしたって本質的に柔らかい人に比べると差が出
てくるもので、散々苦労していやあ俺もだいぶん柔らかくなったと
喜んでいたら、自分で自分のかぶっている帽子を蹴って払い落とせ
るレベルの人を目の当たりにして、もう本当に素質とか才能って何
だろうと思ってしまうことはよくある。
107
だが、柔軟性が上がったことを実感した喜びも、動きの中で確か
なものとして感じる内部の、外見にはあらわれない本質的な意味で
の﹁柔﹂の感覚は決してかりそめのものではない。
昨日の自分よりも境地が進んだことを素直に喜ぶべきなのだろう。
また話はさらに戻って高い蹴りというものについて。
日々の地道な練習の中で高く蹴る訓練を繰り返すのは、柔軟性を
上げるという意味では大変重要であるという体作り的意義とはまた
別に、攻防の中で全く使えないかというと、実はそうではない。
何だか一度ひっくり返したことをまた戻しやがってと思われるか
もしれないが、多用するようなもんじゃない︵スタンダードではな
い︶ということであって、奇襲技・隠し技として使いどころを間違
えなければとても有効だ。
古い形を残す武術の中でも、ときどき秘密の実戦用法としてピン
ポイントで高い蹴り技があるものがある。
多分その流派の歴史の途中に、足がアホみたい自然に高く上がっ
て速く確実に蹴れる人が出現したのだろうと思う。
技が少なく秘密主義だった時代の武術は、よほどこれは使えると
思った人間が出てこないと技は残らない。
そして高い蹴りというものがありえなかった時代には予測できな
い攻撃として十分使えたのだろう。
ただしある一人の人間に対し、その相手の一生の中で一度使う技
としてである。
同じ相手に何度も使う必要がなかった時代である。
今でこそ広く知られてしまって簡単には決まらなくなっているが、
かつてテコンドー的な回転系・跳躍系の蹴り技が相当な脅威だった
108
時代がある。
20世紀後半のごく短い時期、空手のフルコンタクト競技化から
総合格闘技と呼ばれるものが出てくるまでの間だが、その一時期に
テコンドーの踵落しや上段回し蹴りが空手とは別の独特のタイミン
グと微妙に違う距離、技の組み立ての中で使っていたことによって
やたら決まっていたのだ。
記録され研究されたことによってその状況は数年で消えたが、そ
れは逆にいえば隠されていれば今でもなお有効な秘密技術としてこ
っそり通用していたかもしれない。
まあこれは広く伝える事が前提である現代武道・武術、多くの人
の前で見せる事が禁忌ではない競技格闘技ではそもそも不可能なの
だが⋮⋮。
過去の文章でも書いたと思うが、古流などで中心的な鍛錬や用法
とは別に﹁こういう技がある﹂﹁こういうコツがある﹂と脇道的に
教わるものには、本当にその場限り、サギみたいだけど有効で、知
られてしまうとその相手には二度と使えないものがあって、これを
隠して伝えるかどうかというのはみんな色々考えてしまう所だと思
う。
109
﹁柳生家の人は自分たちのことを柳生流とか柳生新陰流とはいわ
ないんだぜ﹂︵ドヤ顔︶︵前書き︶
なにやら数年前に書いていた文章を発見。
書いているうちに楽しくなって余計なものをつけ加えまくってい
た形跡があるが、その辺は適当に加筆修正しつつアップしてみる。
定年で仕事を辞めた後、暇つぶしに一族のルーツを調べ始めたら
はまりまくって自費出版で本まで作って身内に配り歩く人がいる、
という話を聞いたことがあるが、こういうのを書いているとその気
持ちが分かる気がする。
筆者は到底そんなレベルにいくつもりは無いが、いっさい自分に
関係ない流派の伝書を古書で買い漁ってしまうのはきっと楽しかろ
う。
110
﹁柳生家の人は自分たちのことを柳生流とか柳生新陰流とはいわ
ないんだぜ﹂︵ドヤ顔︶
﹁柳生家の人たち自身はあくまでただの﹃新陰流﹄と称するんだ
よ﹂
というウンチクを何かの活字作品で見て、え、そんなちょっと調
べたら分かる内容を一般には知られていないマニアック情報を知っ
たんですよ的に出して、行数を稼いでいいのか! と衝撃を受けた
のが10数年前。
今ではネットを検索するとWikipediaをはじめとしてい
くらでも載っている情報だが、確かまだWikiが影も形も無かっ
たか、ほとんど存在自体を知られてなかったかぐらいののどかな頃
の話である。
世の中は結構ヌルいぞ。
そう強く思ったことを今でも覚えているぐらいなのだが、そのヌ
ルさは適温であることを当時の筆者はよく分かっていなかった。
まさか武術とか武道を学んでいると言うのは一般の会話に出すと
説明が色々面倒くさいとか、休みを取るときに変な目で見られると
か、明らかに変な人扱いされるとか、世間様はそういうようによく
知らないことに不寛容であるとは思っていなかった⋮⋮。
現在、筆者が他県に泊りがけで学びに通うために使っている言葉
は﹁昔から健康に興味があって、太極拳みたいなのに通ってるんで
すよ!﹂である。
ちょっと変わった趣味の人扱いなのは気にしない。
111
そしてたまに言い訳した相手が実は太極拳をやったことのある人
だった時の、さらに言い分けが面倒くさくなるあの感じ。
一方で普通の武道を学んで週何日か地元で習ってる人の、﹁え、
何をわざわざ別の県に行ってるの?﹂というあの不思議そうな態度。
これからも強く生きていきたい。
いつものように話が脱線したが、さて今回のタイトルの話である。
柳生の話はいくつかの似たケースを思い出させる。
とある流派で異端と目されて××流○○派とされている人が﹁俺
が異端なんじゃなくて、他の連中が△△先生から教わった内容から
変化したんだ﹂とあくまで自分こそが○○流だと言っている人とか、
例えば正統○○流という、その名称が一部の人々に反感を抱かせる
原因にもなっている門派の創始者と目されている人が、自身の武術
についてはただ﹁○○流﹂としか名乗ってなかったとか。
そういった分かるような分かんないような事柄全体を説明するの
にちょうどいいメジャーな流派に日本の一刀流剣術がある。
この流派の歴史はなかなか面白い。
本当に面白いのでみんな自分で色々漁ってみよう。
一刀流の前身となる流派から今回のケースの話と絡んでくる。
まず、中条長秀さんという人がいて、それまで学んできた念流と
いう流派の技術に独自の工夫を加え、これははっきり独立している
中条流という流派がある。
中条さんちはお子さんが絶えたので弟子筋に伝わっていくのだが、
その過程で富田さんという一族が関わってきて、それがまた富田勢
源とかいう達人が出てきたせいで、富田さんち自体は中条流として
112
伝えているのに世間では富田流とか呼ばれるようになってしまう。
富田勢源に学んだ中に鐘捲自斎という人がいて、これが鐘捲流と
か鐘捲外他流とかいう流派を立てる。
鐘捲自斎は外田一刀斎とか戸田一刀斎と名乗っていたとか。
さっきから﹁とか﹂というとても適当な表現を使いまくっている
のは筆者がいい加減でいつも使っているせいもあるが、古い流派は
けっこう名称が適当で、正式な伝書などで文字がはっきり残ってれ
ばいいが、﹁トダ﹂という音が伝わればいいかと全く違う漢字をあ
てたり、ものによってはカタカナで流儀名が書いてあったりすると
いう豪快な場合がある。
今回の場合はこっちも、とにかく﹁トダ流﹂とか﹁トダ一刀斎﹂
と名乗ってたらしいよ、ということを把握しておけばよいのだろう。
この鐘捲自斎に学んだのが一刀流開祖の伊東一刀斎ということに
なるのだが、本人はどうも一刀流を称したことはなかったらしい。
じゃあ何だったのかというと、伊東一刀斎の弟子の一人である古
藤田俊直の古藤田一刀流︵別名・唯心一刀流︶系統の文書で、伊東
先生は﹁トダ︵外他︶流﹂でしたよとか書いてあったりするらしく、
どうやら﹁トダ流﹂と名乗ってたんじゃないかと思われる。
今はどうなっているのか知らないが、昔は本によって伊東一刀斎
が学んだものが﹁中条流﹂だとか﹁富田流﹂だとか﹁鐘捲流﹂だと
か別のことが書かれていて、どれも見方によっては本当のことなの
だが事情を知らないこちらは一方的に混乱させられたものである。
現在の時点で紹介するのには﹁中条流系統の剣術を学んだ﹂とい
うのが一番ややこしくないような気がする。
二代目が神子上典膳あらため小野忠明。
一応言い伝えでは善鬼という名前の兄弟子がいて、ある時一刀斎
が﹁よーし、二人で立ち会って生き残った方がワシの後継者だよー﹂
113
と鬼畜な事を言い出し、みごと善鬼をぶった斬って後継者の地位を
勝ち取ったこととなっている。
後継者の証しとして、一刀斎が10代で﹁鬼夜叉﹂と呼ばれてブ
イブイいわせていた時に、瓶ごと中に入っていた盗賊をたたっ斬っ
たので﹁瓶割﹂と名づけたという物騒な刀を譲られたそうな。
善鬼の姓が小野だったので供養のために神子上姓から小野姓にな
りました、という検証不能の伝説あるが、母方の姓を名乗ったとい
うのが一応まともな話らしい。
伊東一刀斎はその後どっかに行ったまま行方不明、という適当な
話があり、詳細は忘れたが誰かが神子上典膳が師匠の一刀斎と兄弟
子の善鬼を闇討ちしたというダークな小説を書いていて、まあそん
な話をつい書いてしまった人の気持ちは分からないでもない、と思
う。
一刀流を名乗るのはこの代からである。
三代目は小野忠明の弟だか子供だか資料によって異同があるので
分からないけどとにかく身内なのは分かっている伊藤忠也で、小野
忠明が﹁キミは一刀斎師匠よりすごいので伊藤姓を継いじゃおう﹂
ということになった。
本当にそんな話になったのかどうかは分からないが、忠也伝では
そういうことになっているのでそういうことにしておく。
あれ? 一刀斎は伊東じゃなかったっけ? と思うのだが、伊東
一刀斎も資料によって﹁伊東﹂と﹁伊藤﹂の表記がわかれ、﹁トダ
流﹂と同じで﹁とりあえず読みは﹃イトウ﹄さんっぽい﹂﹁﹃伊﹄
は共通するので使ってたかもしんない﹂というあたりで手を打って
おくのが吉。
有名な瓶割刀はこっちが継いでいるので、小野忠明の時の瓶割刀
を継いだのが後継者の証し、という話の流れで行くならばこれが一
刀流の正統後継者の流れということになるか。
忠也の後は弟子の中の一人が流派と伊藤姓を継いでる。
114
師匠と同じ姓はおそれおおい、という理由で﹁井藤﹂に改めて井
藤忠雄。
この人の辺りで瓶割刀がよく分からないことになっていて、この
井藤さんが小野家に戻したとか、紀州徳川に献上したとか、とにか
く不明。
将軍家指南の小野家は忠明の息子の小野忠常が継ぐ。
ここんちも自分の所は一刀流だと思っているのでただの一刀流な
のだが、小野家第四代・小野忠一に一刀流を学んだ中西子定が、
﹁俺の学んだのは将軍家指南の小野さんちの一刀流だから﹂
と、小野派一刀流と称する。
そんなわけで、小野さんちは相変わらず﹁一刀流﹂なのに、その
弟子筋の中西さんが何故か﹁小野派一刀流﹂を名乗る妙なことに。
直接中西さんちに学んだ人間は﹁小野派一刀流﹂を称していたら
しい。
ところが中西さんち以外で小野家から直接学んだ人たちも﹁小野
派一刀流﹂であり、中西さんちが竹刀稽古の発展等で特色が強くな
って他より突出して有名になってくると、まぎらわしいので区別の
ために﹁中西派一刀流﹂とされる。
この辺りまで、各派で伝えている伝書の上の表記は全部ただの﹁
一刀流﹂である。
しかも伝書の内容もだいたい同じなので、派でわけて呼ばれるほ
どの特色の出た所では色々変化が起きているのに、伝書には全く反
映されていないという困ったことが起こる。
一種の証明書類みたいなものとして扱っている人間には関係ない
が、伝書の内容を研究しようと思った人間が出てくると、今やって
いる内容と違いが大量に出てきて困る事態となったようだ。
幕末から明治にかけての剣豪として有名な山岡鉄舟が体験したの
115
がそれで、この中西派の高弟・浅利義明︵この人がまた世間から﹁
浅利派﹂と見られた︶に学ぶが、中西派内で伝わっている実際の技
術と、﹁一刀流﹂ということで伝書に書いてある内容が色々違うの
で、どーいうこっちゃと頭を悩ませることになる。
最終的に、小野家第十代の小野業雄の所に行って組太刀を見せて
もらって﹁なーんだ、そうだったんだ﹂と大いに納得。
で、ここでまた唐突に出てくる﹁瓶割刀﹂︵一刀斎以来のモノホ
ンかどうかは不明︶と呼ばれるものを継いだので、俺は一刀流の正
統なんだと﹁一刀正傳無刀流﹂を称する。
迷惑な事にこの突然出てきた瓶割刀は鉄舟没後にふたたび行方不
明になっちまうのだ。
ちなみに﹁一刀流﹂本体自体に宗家制度はないので、小野宗家と
か中西宗家とか、現代だったら笹森宗家とかあるが、あくまでそれ
ぞれの家伝の伝承、つまり﹁小野派﹂宗家・﹁中西派﹂宗家という
限定した範囲においての宗家らしい。
まぎらわしい。
﹁﹃一刀流﹄とはあるコンセプトを指す﹂と最初から考えられて
広まったとか想像すると、何かスゲエ壮大な気がしてくるがきっと
そんなことはないな。
今でこそ﹁御流儀の名前を間違える人間などいない!﹂と言って
いる人がいるようだが、この日本的な﹁流﹂とか﹁派﹂という概念
はまた独特で、﹁一刀斎さんの流れだよ﹂﹁一刀斎さんから小野さ
んの流れだよ﹂﹁一刀斎さんとこの流れの中でも中西さんちの流れ
だよ﹂というアバウトな捉え方があって、﹁流れを汲む﹂という言
葉そのままのゆるいくくりであるらしい。
一方では完全に﹁○○流﹂とがっちり固定したものもないわけで
はないが、そういうのはあまりメジャーな流派ではなくて分派がな
116
かったからではなかろうか。
冒頭であげた柳生流・柳生新陰流の話も、柳生家の弟子が﹁新陰
流でも柳生の流れ﹂という説明をするならともかく、柳生家の人が
﹁私は柳生の流れで﹂なんていうのはちょっとおかしいから、そり
ゃあ﹁私のところは新陰流です﹂というに決まってるだろう、と納
得できると思う。
新陰流系統は新陰流系統で、もともとあった陰流に対して﹁新・
陰流﹂というのが成立したのだが、そこは日本人、漢字は気分で変
えました的な大量の﹁シンカゲ流﹂が発生している。
新影流、神影流、神陰流、真新陰流、ちょっと変わったところで
直心影流⋮⋮と、もりだくさんである。
興味を持った人は自分で調べてみよう!
そしてどこかに書いて。
117
﹁柳生家の人は自分たちのことを柳生流とか柳生新陰流とはいわ
ないんだぜ﹂︵ドヤ顔︶︵後書き︶
ちなみに古藤田一刀流の古藤田俊直の弟子に﹁外他一刀流﹂を名
乗った外他俊勝というのとか﹁新外他流﹂を名乗った土屋清右衛門
がいたりと、さらに事態を色々ややこしくしている名称がある。
﹁陰流﹂に対する﹁新陰流﹂みたいな扱いなのかどうなのか。
さらに古藤田一刀流は唯心一刀流ともいうが、﹁古藤田さんちの
一刀流﹂に対して﹁﹃唯心一刀流﹄﹂というがっちりした流名なの
かというとそうではなくて、古藤田俊直さんは号が唯心なのでやっ
ぱり﹁唯心さんの一刀流﹂だという⋮⋮。
以前の回で書いたこともあるが、宮本武蔵の二天一流が﹁二天さ
んの流派﹂というのと同じである。
こういうのに比べると有名な北辰一刀流みたいに人の名前が関わ
っていない流名は独立心が強い方なのかもしれない。
唯心一刀流については異様に詳しい調べられているサイトさんが
あるので、googleで検索してみると吉。
※ご意見・ご感想をお待ちしております。
118
武術の練習場所についていろいろ苦労しているよという話︵前書
き︶
先日、某所で漫画のワンシーンで武術を練習している場面を書き
たいんだけど、どんな雰囲気なんですか? と聞いてきた人にこん
な感じですよとちょっと答える機会があった。
たまには、というか初期の執筆動機に戻ってこういう堅実なのを
書いてみようと思ったのでちょっとそういう方向で。
某武術とか某道とかについて書こうと資料を漁り始めたら、自分
だけが楽しくなって全然書けなくなる事に気づいたので、そちらは
ぼちぼち書いていきます。
何回か分をどんな所で練習しているの? お金とかどうなの? 教えている方の事情はどういった感じなの? という話題でいくつ
か。
今回は武術の練習場所の話。
119
武術の練習場所についていろいろ苦労しているよという話
中国武術や古武術などといってもこの現代、それっぽい練習場所
を確保するのも大変なのだ。
柔剣道場を借りられればよいが、ちょっと人口の多い所になると
少年団の柔道やら剣道やら空手やら少林寺拳法やらの予定がびっし
り入っていて、会場おさえるのも大変なのである。
道場スペースが半分で区切られていることもあるが、向こう半分
でお子さんたちが元気に空手やってて、こっちで怪しいおっさんた
ちが不審な動きをしたりしているのは、お子さんの情操教育とか、
お迎えの保護者の方の視線が痛かったりするのである。
我々だって空気は読みますよ。
畳にこだわらなければ床のタイプの体育施設がある。
大きな音を出しても大丈夫だし、変な部外者は入ってこないし、
何より入場料をとったり中で何かを売るような催事で無い限り、会
場費が圧倒的に安い。
ところが今は市民体育館どころか小中学校の体育館も案外人気で、
社会人バスケのサークルやらフットサルのチームやらの予定が入っ
ていたりするし、公民館も詩吟の会やら水彩教室やらお年よりも一
般市民の方が大変がんばってらっしゃるのである。
そんなことは多くはないが、武術を専業にして昼間の教授時間を
確保しているような人もいるわけだが、武術なんて荒事に興味のあ
る人は大抵が男性が多く、かつ年齢も高めなわけで、日中では生徒
のほうが集まらないから、激戦区の時間帯ので練習場所を確保しな
ければならない。
120
余談であるが、本門でないけれど﹁しのぎ﹂として、お年寄りや
主婦の方を相手に太極拳を教えて平日昼間を乗り切っている人も存
在する。
というか、昔はけっこういた。
本に載っている24式の簡化太極拳を見て覚えたとか、国営放送
の太極拳講座をビデオに録画してそれで形だけ覚えたというシロモ
ノで、昔はそれが通ったというのだからすさまじい話だ。
今は簡化の24式といえば、日本でのある大団体が公認技能検定
制度として級段制度を取り入れ、5級から始まって3段まで、全て
ストレートで一発合格したとして年数が3年、受験料と登録料に1
5万以上かかるという素晴らしい商売をやっていて、中国商人のぼ
ったくりも凄いが日本もなかなかやるじゃないかと大いに感心した
ものである。
中国の人が入り口として適当に3ヶ月ぐらい練習して48式なん
かに進んだり、お年寄りの運動不足解消の健康体操代わりに適当に
やってたりする程度のものに、3年もかけさせた上に使えなさそう
な用法︵※個人の感想です︶も丁寧に伝えてお金もいただく、しか
も中国本土とは一切関係ないその団体の資格なので向こうに上納金
を納めなくてもいいとか、頭いいね!
筆者には少しも魅力的には思えないが︵※個人の感想です︶、そ
の集金システムにあわてた中国が自分の国でも段位制度を導入した
ぐらいのすごい制度なんであります。
そういうわけで、本場中国で太極拳を学んで帰ってきたら、生徒
さんに﹁近所のフィットネスで教えている人は3段らしいんですけ
ど、先生は段をお持ちじゃないんですか⋮⋮﹂とがっかりされたと
いう心温まる話を7∼8年ぐらい前に聞いた。
今はどうだか知らぬ。
話がそれたついでに、バブル時代にフィットネスで太極拳教室や
っていた人にうかがった当時の太極拳バブルの話を書くが、数十分
121
一講座の指導で生徒数が20人以上、週に10コマぐらい受け持ち
で、一ヶ月の受講料が一人5千円として、だいたい月100万以上
のあがりがあったという夢のような時代だったそうな。
バブルやばい。
何か金額とか人数のスケールがだいぶ隔たった20年近く前の話
をしてしまったが、話を現代に戻す。
まあそんなこんなで、皆さん本業を別に持っている人が大半なわ
けであり、夕方以降や土日に練習会場を確保するために大変がんば
っているのだ。
学校施設や地元の体育施設は、適度に公的イベントや地元の公共
イベントや大会があって、その場合はそちらが優先されてしまうの
で、時期によっては﹁会場が使えないので今週はお休みです﹂が3
週続くような目にあう。
日曜祝日に外部の人を呼ぶ講習会でもやるかと、よーしがんばっ
て雑誌に告知出すぞー、と盛り上がって、他県の人も来るからと新
幹線駅が近くにあるような場所で会場を確保しようとすると、それ
なりの広さで大きな音が出ても大丈夫な公共施設が演劇サークルと
かコーラスの会なんかが3ヶ月以上前からずっと使用予約が入れて
いて、悶絶することがある。
畳のある座敷形式の会場を借りたときは、終わった後の掃除を念
入りにやって掃き集めたゴミも袋に入れて外で捨てるぐらいの気は
つかっておかないと、おたくが使った後は畳の減りが激しい、ケバ
が大量に出てる、もう使わせないといわれる事があるので注意が必
要である。︵仲間の実話︶
また、けっこう床が厚くて防音もしっかりしている会議場のよう
な場所でも、5人10人ぐらいだとそうでもないが、20人以上参
加の講習会を行なっていたら、途中で会場の事務所からでかい足音
が響くので止めて欲しいといわれ、その後利用禁止をくらったこと
122
がある。
その時は脱力した手足を床に打ち付けるような事を色々やってい
たのだが、いつもの練習︵10人以下︶では大丈夫だったので気に
してなかったところ、かなりの音が響いてしまったらしい。
数の力は偉大である。
お寺でイベントによっては会場として貸す準備があるところがあ
って、今でも落語の会なんかを引き受けているところがあるようだ
が、どこどこの寺で剣術を教えているなどというような話は昔は聞
いたことがあったが、今もそういうのはあるのだろうか?
新興宗教団体が自分たちの施設をご近所に開放していて、そこを
借りて武術を教えているような人の話もある。
新興宗教というとあやしげなカルトを連想する人もいるかもしれ
ないが、明治以降に生まれて今では新規に信者は入っていないが三
代前から入信しているので今もなんとなく続けている、ぐらいのゆ
るい団体はそこそこ数があって、けっこう地域密着型でその辺に色
々集会所があるものである。
信者なのでなんとかそこを借りてやってますとか、相当なレアケ
ースだがみんな会場とりに四苦八苦しない落ち着いた練習場所は欲
しい。
公園でやってらっしゃる団体もある。
しかし公園というのは市民の憩いの場であり、この頃は子供が野
球をやっていても近所のお年寄りから警察に﹁子供が騒いでいる﹂
と通報が入る世の中であるわけで、そんな所に怪しげないい歳した
男性が数人集まってエイヤエイヤと動いたり、相手の体を打ったり、
あまつさえ投げ飛ばしていたりすると、当然おまわりさんがやって
くるのである。
昔はおまわりさんに事情を話すと納得してくれたようだが、この
123
頃は苦情があるので控えてくれ、と言われたりすることもある。
とはいえ、都市に行けば市民に開放されたレクリエーション的な
広く芝も植えてある、人に優しい公園もあり、まだまだ公園で教え
ています、というところはある。
土手沿いの運動スペースは団体の練習場所というより、個人が練
習している場所として根強く残っていると思う。
やはり民家から距離があるのとないのとでは、おまわりさんとの
遭遇率が違う。
昔は公園といえば、ヤンキーや不良のたまり場というイメージが
あったが、この頃はそこそこ広い駐車場のような人がたむろできる
スペースがあってすぐ飲み物が買えて、年齢確認が厳しくなったが
酒もタバコもあって雑誌も読める! というコンビニが大人気のよ
うなので、案外そういうのが寄ってきたりはしない。
たまに付き合ってるんだか付き合ってないんだか分かんない感じ
の学校帰りの中高校生の男女が、公園に入るわけでもなく入り口付
近で親しげに笑いながら長時間会話していたりして、しかも時々聞
こえてないと思ってるようだが思い切り聞き取れる声で﹁なにあれ
ー﹂﹁さー?﹂とか言っていたりするという事案がある。
ああいうのはこちらも、﹁あの子たち、つきあってんのかねー﹂
﹁いやー部活の先輩後輩とかじゃないですかあ﹂とか聞こえるよう
に会話するべきなのであろうか。
武術などをやっている人で整体・整骨院であるとか、鍼灸院であ
るとかを仕事にしている人の率はそれなりに高いような印象がある
のだが︵※個人の印象です︶、そういう人で自分でスペースを借り
て営業している人は、閉院後に気功やらヨガやらの教室を開いてい
ることがある。
もちろん武術を教えていたりも。
雑居ビルなんかで、周囲の入居している事務所や店が閉まったり、
124
土日に休みを取るようなタイプのものであると、全く気兼ねせず集
まって練習ができて、なかなかよろしいそうな。
あまり大人数は無理のようだが、3人とか5人のぐらいの練習会
的な集まりでは特に問題がないようだ。
自前で道場や練習場を持っているところもある。
めずらしいが、大組織でなくともそういうところはごくたまにあ
る。
資産家であるとか土地持ちであるとか、代々持ってるというよう
な恵まれたタイプのもの。
20年ぐらい前だったか、鹿児島の示現流が代々持っている練習
場があるのだが宗家の東郷家が持っている個人資産なので、今の宗
家が亡くなったら相続税を払いきれずに手放すしかない、という事
態が起きたらしい。宗家が生きてる間に法人化しようという話を進
行していたら、その手続きの最中に当時の宗家が急逝され、えらい
こっちゃ道場存続の危機! という事態になったというニュースを
新聞で読んだことがある。
あれからどうしたのかと思って後に調べたら、どうにか道場を手
放さずにすんだらしい。
道場のようなものは個人が持ってたら持ってたで、維持費やら税
金やら、あるいは大人になったお子さんが﹁数人しか弟子がいない
んだから潰してアパートかマンション建てよう﹂と言い出すとか、
色々あるみたいですよ。
畳だって、定期的に新しいものに入れ替えないといけない。
ガレージや廃倉庫を安く買い取って、なんとか練習できる程度に
改造しましたとか、使ってない納屋を最低限改装しましたとか、そ
ういうレベルのものもある。
ただまあ、こういう﹁大人の秘密基地﹂的雰囲気の練習場所を用
125
意されているようなタイプは、大体おっさんの趣味的武術空間にな
りがちで、子供とか女性は入ってきたりしないので、団体としての
将来性があんまりないような⋮⋮。︵偏見︶
週に二回市民体育館で教えています、というのと、自宅のガレー
ジで教えています、というのとではたいぶ印象が違いますからな。
後はまあ、中国なんかであったりするが、拝師門徒といわれるよ
うな少数の内弟子を相手にするためにしか使わない場所を自宅に用
意されている所もある。
打ちっぱなしのコンクリートの空間で、四方の壁に体がぶつかっ
ても大丈夫な衝撃吸収用のマットを貼り付けてあるようなごくごく
殺風景なものとか。
あるいは床に太極図や八卦図が描いてあるのに、壁際にソファー
が置いてあって、弟子を指導している向こうで、お茶を飲んでる奥
さんとか、タバコ吸ってる息子さんがバリバリ目に入るという、シ
ュールな光景もある。
中国に留学したときに民間の武術家の所で学んだという人の話で
は、中国人というのは平気で練習の途中で入ってきて好きな時間に
出て行ったり、勝手に休憩取って飲み物を飲んだりタバコ吸ってた
りフリーダムだという事だった。
ただしダラダラしつつも、総練習時間は毎日3時間4時間とか平
気なのだが、日本は無駄に規律正しい練習を求めるくせに週に一回
1時間半や2時間とかいうのはなんなんだ、こんなの身につくわけ
ないだろ、などと言われたことがあるのだが、何しろ十数年前のこ
となので、今ではもうそんなゆるやかな時間感覚の練習はしていな
いかもしれない。
中国への武術留学は半ば観光ビジネスの一部となっている部分も
あり、中国のほうでもアジア大会競技程度ではうまみが少なく、や
はりオリンピック競技に引き上げたいと思っていたり、体育学院等
でビジネスにしたいと考えていたりするので、有名老師に直接あず
126
けるような事はなく、各地の体育学院やら武術学校やらの施設に直
行となっているようだ。
127
武術の練習場所についていろいろ苦労しているよという話︵後書
き︶
今回ちょっと書いたが、次回は武術とゼニカネの話をまとまって
書こうかと。
128
武術とお金の問題︵教わる側編︶︵前書き︶
タイトル直球。
ゼニや、ゼニが重要なんや!
さてみんな、先生におべんちゃらを言って流派の後継者を狙って
るいけすかない金持ちのおっさんがいて、古くから師事して実力も
一番の高弟が後継者から外れた、という話を聞いたことがあるかな?
一人の指導者が立ち上げたそれなりの大きさの団体で、後継者指
名があってお弟子さんが継いだのに、その指導者の死後、それまで
一切関わっていなかった家族がいきなり団体名の使用権についてゴ
ネはじめ、別のお弟子さんが新代表に名乗りを上げる、そんな話を
聞いたことが、あるかなー?
そういったもろもろの話も後半入ってくる、重要な金の話。
﹁武は実力﹂などというが、そんな霞を食っている人みたいなこ
とを言ってお金をあなどると色々と見誤るから気をつけよう。
むしろ武術を長く続ける、そしてなおかつ人より抜きん出た実力
を得たければ、お金があるとか安定した収入があるとか、お金をど
こからか引っ張ってくるとか、そういう才能がないと無理だよとい
う話をしてみよう。
前半は、教わる方のゼニが必要なんや、というお話。
129
武術とお金の問題︵教わる側編︶
さて、そもそも武術とか武道というのは色々きちんと長くやって
いこうとするとそれなりにお金がかかるものである。
学校の部活のような補助金も出る、もともと色々な便宜があるも
のは今は除外していくが、子供対象の武道でも月々の月謝というも
のがある。
子供向けのスポーツ少年団ぐらいですでに月5000円ぐらいは
かかるわけだが、子供に﹁強くなって欲しい﹂﹁礼儀を身につけて
欲しい﹂と漠然と考えて入会させたお母さんなんかは、最初はまあ
そんなものかしらと考える。
だが、道着だ防具だというとそれぞれにお金がかかる。
お子さんだと成長によって道着も防具も新しくしていかなくちゃ
ならない。
大会があれば大会参加費が発生する。
このごろは少子化だの、順位付けは子供を傷つけるだのという話
があり、すごいところは体重別・年齢別などで細かく参加クラス分
けをした上に、6位ぐらいまでは賞状なり記念盾なりが出るように
して、参加者が何かしら入賞できるようにするため、その記念品用
のお金が大会参加費に入ってくる。︵さすがにこれは極端な例だけ
ど︶
昇級・昇段審査だってタダじゃない。
帯の色が変われば新調しなくっちゃ。
︵これについては、級位者の場合は初心のモチベーション上げのた
め、細かくはげみになる目標を手の届くところに用意しておかない
と挫折しやすい、というきちんとした理由も書いておかないとフェ
アじゃないかもしれないが︶
130
そういった団体がらみで子供の合宿やキャンプがある、となった
らお金どころか人手として召集がかかったりもします。
時々大学生か高校生ぐらいの人間が、ネット上の掲示板なんかで
﹁強くなりたい﹂と希望を述べた後に﹁安いところを教えてくださ
い﹂と抜かしやがられているのを拝見するが、今日び子供の練習で
すら色々かかるのに、ちょっとバイトでもすれば出費が可能な金額
にひるんでいるのを見るとこれはきっと行かんな、行っても続かん
な、と思ったりするわけである。
情熱や熱意がある、などと口走っているのだが、武道武術以外の
自分が遊ぶ時間やゲームや漫画に費やす金を犠牲にしたくない、と
いう前提が思いっきりある時点でかなり浅い情熱だということは自
覚していただきたい。
いや、それが悪いといっているのではない。
単に客観的に見てどう考えても武術や武道に対する優先順位は低
い、﹁気の迷い﹂﹁若気の至り﹂レベルなのでよしたほうがいいい
よ、という事なのだ。
社会人になったら今度は経済的な余裕が発生するかわりに時間の
捻出に苦労するようになって、自然と縁が切れてしまう人が大量発
生するのだが、学生時代の暇な時間がかなりある時点ですら引っか
かっていると社会人になった時に当然のように脱落してしまう。
もっとも社会人になって改めて新しい距離感で武道武術に踏み出
す人もいるわけで、否定的な話ばかりではない。
学生時代は興味があっても全く踏み出せず、社会人になってよう
やく始められたという人だってある。
ただまあ、そんな人は多くない。
そういう話である。
とある大きな空手団体が社会人の入会金と月謝をそれぞれ1万円
131
やそれ以上取るようになってから、間口の広い加盟道場や教室の多
い団体でも、月謝をそれぐらい払わなければならない所が増えた。
すごく努力して低い金額でやってらっしゃる所もあるが、自前の
立派な施設を持っている所はそれなりに必要があるし、武術武道の
指導専業でそれなりの人数を食わせていこうということになったら
やっぱり先立つものが必要であって、月謝が高いから悪いという話
では決してない。
例えば某大手の中国武術団体でも武術クラスであれば1万円以上
の月謝となり、拝師しているような上級者はいつでも施設が利用で
きて師範クラスの指導を仰ぐことができる代わりに数万円の月謝が
いる、という話を所属されている方から聞く。
﹁本物﹂を求めて、中国や海外に学びに行く人もいる。
もはや中国にしか真の功夫は存在しない、という時代ではないが、
それでも未知のもの、自分が求めるものを追求して海を渡る人はい
る。
留学生として入り、その地で老師を探す、というのは難しくない。
そこからは直接人と人の繋がりであり、武術を学ぶのには確かに
熱意が必要だ、といっても良いだろう。
だが留学生期間が終わり、日本で仕事をしつつ師と弟子の関係を
続けるのは大変だ。
以後の渡航にもお金はかかる。
向こうにいる間の生活費もある。
当然、﹁おみやげ﹂は用意しなければならない。
素朴な人もいるが、商売っ気の強い人もいて、この辺はまあ日本
人とも変わらない。
ただし、田舎に行くとマジで日本人は基本的に悪人だと思ってい
るので、メジャーな門派で外国人が習いに来ることがあるような所
ならともかく、そうでないなら心許してもらうまでが大変。
132
︵日本人が中国人を刀でぶった切ってる悪鬼みたいな銅像が入り口
の門のそばに立っている、そんな小学校に通って育つということを
想像してみて欲しい︶
各地の武術学校に行くという手段もあるが、よほどの熱意︵お金
という目に見える熱意を含む︶か才能を見込まれ、そこで教えてい
る指導者やその人の老師に個人的な繋がりを持つ、という手段もあ
る。
中国的な時間・人間感覚に慣れるとなかなか快適ではあるらしい
が。
武器に手を出すと本当に大変。
もっともどんなスポーツだって道具にこだわり出すとお金がかか
るわけだから当然なのだが、肉体ひとつでなんとかなると思ってい
たら色々出費で、あれ・・・?ということになったりする。
模造刀だとか木刀だとか棒だとか棍だとかヌンチャクだとかなら
市販のものがいくらでもあるが、マイナーな特殊武器になると頑張
って自作するとか、図面持ち込んだら作ってくれるという工場に注
文するとか、色々手間もお金もかかります。
競技用の規格のあるものならともかく、その流派門派の特殊武器
になるとサイズは応相談ってやつである。
海外のサイトで通販という手はあるが、平気で鉄板のへりを研い
で刃にしました、みたいなものを送りつけてきやがるので、試しに
軽めの注文をいくつかやっておくのが無難である。
アジアのネット通販を日本のネット通販と同じと考えてはいけな
い。
といっても、今はだいぶマシになっているから大丈夫かもしれな
いが⋮⋮。
︵むかしは交渉中に平気で現地の業者が雲隠れしたりとか、何度も
まっとうな対応があったので信用していたら突然連絡がとれなくな
133
ったとか、何年も音信不通だと思っていたら商売復活したのでまた
注文をよこせとか︶
そんなわけで、みんな入会金と月謝と初期費用で武術や武道をや
ろうというのは別に悪くないが、
そしてなおかつ強くなりたい
というムシのいい願いを叶えるためには、お金はそれなりにあった
方がいいよ!
134
武術とお金の問題︵教わる側編︶︵後書き︶
日本のどこかで何かの武術を教えている人の所に、何かお話を聞
きたいなあ、ということがあるとしよう。
弟子になるわけではない場合。
まず封書で手紙を出す。
相手からの連絡を待つ。
返信が来る。
希望する日やらお聞きしたいことやらを書いて前もって伝えてお
く。
返事が来る。
おみやげ︵地方の銘菓とかいう手抜きをしてはならない︶を持参
して訪問する。
お話を聞く。
まとまった額の謝礼をお包みする。
帰ったら必ず御礼状。︵もちろん封書︶
こんだけ色々手順を踏む。
場合によっては賀状なんかの季節ごとのやりとりも入ったりする
が。
こういった前時代的なものはアホらしいと思うかもしれないが、
きちんとした大げさな手順を踏んで来られると、先方は﹁何この大
げさな人﹂と思いつつも、適当なこと言って帰すわけにはいかんな
あ、という気になってしまうものなのだ。
そういうのが狙い目。
だいたい、武道・武術を伝えている人間で大組織の役職付きとい
うクラスの人はあまりいないし、口先以上の敬意を払われた経験の
135
ある人、というのはほとんどいないといっていいだろう。
何やら世間では、真の武術家がどうのこうのとかいう作品がある
らしいが、そんな敬意をあらわしている奴になんか会ったことねえ、
というのが筆者の正直な感想である。
お子さんとかお孫さんに本当にカケラも敬意を払われていない宗
家の人とか、流派の代表の方とか、リアルに知ると本当に切ない。
136
武術とお金の問題︵教える側編︶と、その他いろいろの話︵前書
き︶
最近、特に連続して記事をアップしているわけでもないのに微妙
にアクセス数が増えていて大変不思議である。
どこから人が来るんだろう⋮⋮?
さて、こちらは後半となる教える側のお金の事情である。
教える側のゼニが必要なんや、というかあいつらはワシが善意だ
けで教えとると思っとるんかアホンダラ、というか誠意や熱意は﹁
金が全て﹂ではないが明らかに大きな部分を占めているというお話。
なに、人格?
人格じゃメシは食えん。
ついでに、書いているうちに後半が盛大に脱線して止まらなくな
ったのだが、分割するのもめんどくさいので﹁その他いろいろ﹂と
いうことでそのまま掲載する。
137
武術とお金の問題︵教える側編︶と、その他いろいろの話
さて前回、一例として今日び少年団の空手でも月謝が5千円はす
るわ、という話をした。
子供が30人もいれば月15万じゃないか! と思う人もいるか
もしれないが、施設利用の会場費︵大抵は申請書と一緒に数か月分
をまとめて払っていると思う︶、加盟費・登録費という名の組織へ
の上納金、団体で持っている消耗品や鍛錬道具なんかの雑費を差っ
引いて、指導する人間の頭数で割ったらまあだいたい小遣い程度で
ある。
団体によっては指導員研修みたいなことを定期的に受けさせられ
たり、上位組織のイベント事に手弁当で借り出されたりと、まあほ
ぼ無償に近いボランティアみたいなものなんである。
武術だけで食って行くために金を稼ごう、ということになったら
まず生徒を増やさないといけない。
そして生徒や教室を管理するために、当然組織的なものを作らな
いといけない。
大きく社会に認知されるような大会等を開きたければ、金のある
人や企業や団体から金を引っ張ってこないといけない。
これが進んで行くと、武術で食っていくという当初の目的からど
んどん外れ、武術で食っていくために武術以外の活動に力を入れて
行かなければならなくなってしまう。
そんな人間がいるのか、というとまあ案外かなりの数いるのだが、
みなさん自分の修練は以前ほどとれなくなって、ピーク時の実力を
キープすることや、さらに実力的に前進するという点があやしくな
ってくる。
138
そういうのこそ、雑兵の小の兵法ではなく、天下に通用する大の
平法となっている、というものなのかもしれないが、筆者はそうい
う人種の方々とは付き合いはなく、いちへっぽこ修行者としては単
純に武術寄りの人の方に好意を持つので、そういう人々の話題でい
きますよ。
話を進める上でひとまずここに、とある達人先生がいるとしよう。
自分が武術で食っていく上で武術以外にあんまりエネルギーを割
きたくない、となったら、雑事や経営で自分をバックアップしてく
れる奴を探してくるなり、決めたりして、そいつに任せていきたい、
というのが人情である。
だが、そんな便利な人間は自然発生しないので、自分の手近なと
ころで育てるなり発見するなりしていくしかない。
もし、率先してそういった雑事を引き受ける人間がいるとしたら、
そりゃあもう達人先生は頼りにしまくりである。
月謝を払っている人の多くは、基本的にお客さんである。
この人たちは別に生活があり、まあ一緒にお酒を飲んだりぐらい
は付き合ってくるかもしれないが、例えば先生の家の引越しの手伝
いであるとか、庭の掃除に呼べるほど尽くしてくれるかといえば、
かなり微妙だ。
なんで金を払ってそんな事をしなけりゃならないの? というの
はごく普通の人の感覚であるが、先生側の事情から言うと、その他
大勢の連中と同じぐらいの月謝で通っている奴が、たとえ才能があ
るとしても目をかけて育ててしまうものかというと、そうでない場
合が多い。
そいつは、いつかどっかにいってしまうか、基本は自分のことを
139
中心に考えている外部の人であって、決して﹁身内﹂ではない。
この、血族関係は無くても切っても切れない関係に進むのが内弟
子であるとか、拝師弟子であるとされているもので、ある種の擬似
家族関係となる。
武術に関する事柄においてはただの家族以上の繋がりを持つので、
その達人先生の死後に色々問題が起きたりするのだが、それは後述
する。
身内になると、単に指導している時間以外の、﹁達人﹂ではない
﹁人間﹂である先生との関係ができてしまうわけで、完全無欠の聖
人は普通存在しないため、武術的な身内となって以降のほうがはる
かに気を遣う。
人間としてちょっとどうかという部分も目にしてしまう。
先生だってまさか、自分が人間的に高等だからそいつが従ってい
るとは思ってない︵たまに思っている人がいるが︶わけで、自分が
武術的に何がしかの優位に立っている、そのただ一点のみがこの関
係を支えていることは知っている。
拝師とか内弟子という制度は昔からそれなりの長さ続けられてい
るので、それは﹁選ばれ限られた人間/後に流派を支える人材﹂的
に良くとらえている人もいるだろうが、その先生側から捉えると、
そいつはいつか自分に取って代わる人間である。
そうであるからには、そこにはちょっと特殊な緊張関係が生まれ
る。
この身内感覚の、ややこしい実態についてはいつか書くかもしれ
ないが、めんどくさいので今回はスルーする。
この師と弟子という緊張関係の段階を華麗にスキップするものと
して、金がある。
140
経済的なバックアップ関係と表現してもよろしい。
世の中にはたまに金も持っているが武術への興味や実力もある奇
特な人がいて、達人先生に金を、それも結構な金額を、せっせと出
して面倒を見てくれる人がいる、場合がある。
お寺や宗教や社会奉仕的な寄付というより、アイドルとかホステ
スとかプロスポーツの選手とか相撲取りに貢ぐ感覚に近いようなの
だが、そういう立場に立ったことがないので、正確なところはよく
分からん。
が、まあそれは達人先生にとっては大変ありがたい人である。
そういう自分がまだまだ強くありたい達人先生というのは、自分
の武術を深めるための調査もしたけりゃ資料も集めたい。
ある程度の金銭的な余裕のある武術家がなんでルーツ探しを始め
るかというと、自分の手の届く範囲は掘ってしまったので、新たな
インスピレーションを得るためである。
こういう達人先生がたまに他流の研究に手を出したり、全く別分
野の本を読み始めたり、よその流派の先生と互いを褒め合う気持ち
悪い関係に発展したりする︵この書き方は我ながらちょっとひどい
けど、本当にそう見えるときがある︶のは、立場上今さらだれかの
下に立つわけにいかないので、新たな刺激を求めるためである。
筆者程度のヘタレ修行者すらそういう事をやってしまうのだが、
そういう人たちはもっと徹底して求める。
だからお金と時間はどちらも必要で、金のために忙しくなるとそ
ういうわけにはいかないので、そこでポンと資金を出してくれるの
と両方の手間を省いてくれる。
普通は同門同士で寄り合って金を出し合ったり、どこかの出版社
やら体育振興の公共組織を丸め込んで金を出させたり︵不穏な表現︶
と、色々手間がかかるのである。
141
内弟子は自分の﹁財産﹂を継いでいく人間ではあるが、どこかで
その﹁財産﹂を根こそぎ奪った上で立場も取って代わるか、あるい
は奪って外部に出て行く可能性がある。
お金持ちさんは、同じ事をしたとしても、最終的に金は残る。
これはもう、特に家族もちの達人先生にとってはかなりの差であ
る。
家族はいくら理解があるといっても、武術的価値観は共有してく
れないので、﹁それは本当に必要なお金なの?﹂みたいなことを言
われるし、内弟子は内弟子で理解があって﹁分かりました、弟子一
同死ぬ気でお金を積み立てます!﹂みたいなことを言っても、達人
先生は﹁今﹂行きたい、﹁今﹂欲しいのであって、そんないつか行
けたらいいなでは萎えるのである。
ご家族の方でも、だんなさんとかお父さんの周囲に、何だか自分
たちとは世界観が違う連中が出入りしていて、自分たちからは良く
分からない理由で集まったり、どっか行ったり、金を持ち出したり
しているよりは、なんだかお金持ちの頼りになる人がいて、その人
もちょっと趣味がおかしいけれども、社会的に見ても成功していた
りそれなりの地位のある人で、おとーさんの道楽に金を出すどころ
か家族の生活の面倒もみてくれる、というのはかなりポイント高い。
武術で陰口を叩かれたりする、段位や免状の﹁義理許し﹂﹁金許
し﹂というのが生まれたり、政治家とか会社社長みたいなのが﹁顧
問﹂として名を連ねたりするのには、これらの理由がある。
追加で書くと、時々こういうのに大学の教授みたいなのが寄って
きたり、引き込まれたりするのは、この金が権威というのに変わっ
ているだけで、似たような事情である。
彼らは形式的には弟子であることがあるが、ある種﹁客分﹂の位
置である。
142
その達人先生の死後、俺は先生の生前に散々面倒見た人間だ、と
いう立場で流派内・団体内の後継者問題に入ってくると、たいそう
揉める。
そういう場合、ご家族は実際に生活や金銭的な面倒を見てくれて、
これから先も面倒を見てくれそうな、お金持ちさんを頼る。
法人とか商標問題とか、生前に弁護士を立ててきっちりしておか
ないと実に揉める。
達人先生が自分がどうありたいかによっては、生前でも揉めると
きがある。
実力第一番の弟子が後継者から外れたりするのだ。
その先生が、弟子を自分が受け継いだ武術的遺伝子を残す人物と
見るか、こいつは俺から全てを奪って俺を超えて行こうとしている
と見るかでは、対応が違ってしまう。
それを持っていかれるぐらいなら、ずっと客分扱いで金の面倒を
見てくれたこの人間を後継者ということにして、自分はその流派・
団体の歴史の中でずっと神格化された権威として残りたい、と思っ
てしまったりするようなのである。
大変ですよねー。
そんな事考えるならなんで弟子を持ったの? 育てたの? と思
う方もいるかもしれないが、みんなもRPGや育成シュミレーショ
ン、ポケモンのゲームで何かを育てたことがあるだろう?
あれは、楽しいじゃないか。
ただし、ゲームのキャラクターは自分の地位を脅かしたりはしな
いし、遊び手を上回ったりしないが、弟子は現実の自分を超えるこ
とがある。
本当にそんなぐらいの動機だから。
弟子や生徒の﹁いつか強くなりたい﹂はいつなのか分からないし、
本当に強くなれるのかすら分からないのと一緒で、先生の方も弟子
143
が本当に強くなってみて初めて、﹁しまった﹂とか﹁こいつに任せ
たい﹂と自分が思うことが判明するらしい。
盆栽の接木みたいで、色々試せて面白い、といったとある先生と
かいます。
﹁これが○○だ!﹂
と教えて生徒にやらせ、組み手で盛大に自爆したのを見て
﹁うーん、やっぱりこの技は使えんなあ﹂
と言っていたのを、とんでもねえジジイだったと回想した話を聴く
と、心温まりますなあ。
それ以外には、自分がコントロールできる色んなタイプの練習相
手が必要、というのもある。
自分が到達した境地を測るための目安は欲しいが、師匠はもう死
んでるし、立場上かつての兄弟弟子たち同士で試すわけにもいかん
となったら、自分で作り上げるしかない。
なにかもう、先生側のお金の問題を逸脱しているが、さらにちょ
っと書いてしまおう。
先生と弟子の関係が流派や団体の後継者の地点に及んだ時、これ
がよじれてしまう原因として、その先生自身が弟子であった時の師
との関係、どうやって強くなったかというのが、本人の性格とは別
に大きく反映していると思われる。
また、その先生と弟子の年齢的な開きも大きく関係する。
師匠の技を﹁盗む﹂ことによって強くなった人は、自分が掴んだ
ものを人に盗まれるのを徹底的に警戒する。
また、師はいても自力で組織や流派を大きくして成り上がった最
144
初の人間は、自力で築き上げたものが他人のものになることを、強
くおそれる。
公刊書などで立派な達人とされているある人物の話を一つの例と
して書くが、晩年になってようやく本当の技を教えたために弟子が
ようやく強くなれた、それまでの全ての弟子は全く先生に敵わなか
った、という話になっているのだが、筆者の見聞きした範囲ではそ
れは事実とは異なると思っている人々が、そこかしこにいる。
その先生がもう少し若かった頃、弟子であった中に実力のあるも
の、これはという才能のある人物が出現すると、だんだんと関係が
気まずくなって彼らがその道場を離れざるをえなくなった、という
ケースが何人もあった。
また、彼らはその先生と年齢の開きが親子ほどは離れていなかっ
たので、人生経験にそれほど差がなく、先生側ではあまり知られた
くない人間的な事が分かってしまう。
多分、彼らの方では気にしていなかったのだが、先生の方が知ら
れていることに耐えられなかったようで、どうしても疑ってしまっ
ていたようだ。
これまで自分がしてきた事が跳ね返ってくるのはそういう時で、
自分が師の技を盗んだことを隠していたことを思い出し、弟子を信
用できなくなってしまうのだ。
結局、その人が後継者としたのは孫ほど年齢の離れた、社会的な
地位もあった人物だった。
歴史上、いくつもの流派でも例があり、中国武術の世界で大先生
が最後に教えた弟子を﹁関門弟子﹂などといって特殊な扱いをする。
そういう最後の最後の弟子というのは、最初の弟子︵開門弟子︶
がその先生の一番元気だった頃の迫力を継ぐのに対し、年をとって
も残ったエッセンスを継いでいるとみなされる。
145
だが、筆者のそんなに広くない見聞の中でも、それぐらい年齢が
離れた人たちというのは、今俺が最後の最後に到達したこの境地を、
若くて可能性のある素材にいきなりぶち込むとどうなってしまうの
だろう、と楽しくなってしまうようだ。
流派の精髄を継いだというと聞こえはいいが、流派というよりも
その先生個人の一番﹃濃ゆい﹄部分を継がされてしまうようで、客
観的に見て、あれは異端といわれても仕方ないわーと思ってしまう
風格になっていることは、まあ、よくある。
これはもはや大師兄たちとも違う領域に入ってしまっているのだ
から、新しい武術とも言うべき! なんて決意をして新流派になっ
てしまったりすることがあるので、罪な話ではある。
達人が最後に獲得した地点からスタートしている俺たちこそが最
高の流派、なんてことをいう人々もいるらしいが、過去の先人の探
求の結晶である数学の公式を使っている中学生はみんな数学的に素
晴らしいかというとそうではないのと同様、過程をすっ飛ばして教
えられる境地には相応の問題が発生するので、最終的な手間はあん
まり変わらないように見える。
なんの話だったっけ。
そうそう、歳の離れた最後に近い弟子が継いでしまう、というこ
とだった。
年齢差が孫ほど離れて、すごい大先生だ! 的な尊敬のまなざし
の元気な人間でそれなりの実力があるのが寄ってくると、ともに長
い年月関わってきたというと聞こえがよろしいが、互いに新鮮味の
なくて、我慢は出来るがちょっと嫌なところも目につく古くからの
弟子なんかに継がせるより、こっちの神様みたいに崇めてくる若い
奴にまかせたいなあ、という考えが浮かんできたりしてしまうのも
分かると思いませんか。
146
今なら、彼の思い出の中ではとても素晴らしい先生として永遠に
残るわけだし。
もしそいつが本なんか書こうものなら、不世出の達人! と美し
い話になるわけだ。
先生だって人間なので、最終的に自分にとって一番良い最後を考
えてしまうのだ。
まあまあそんなわけで、みなさんも自分の先生や老師のご指導を
振り返って、相応の扱いをされているとか、過分に扱っていただい
ているとか、どう考えても見合ってねえ! というさまざまな事柄
を見つめなおしてみるのもいいかもしれない。
全く関係ねえな、という人は、そういうものかー、と酒の肴にで
もしていただきたい。
147
武術とお金の問題︵教える側編︶と、その他いろいろの話︵後書
き︶
知っている人はみんな知っている、そういう話を書いてしまった
ので新鮮味はないかも。
ものすごく具体的な、3つぐらいの流派・団体の話を中心にあれ
これお届けさせていただいた。
何かがスパークして思わず実団体名を書いてしまいそうになった
が、これは本当に修行しているか確認できないウェブ上の存在であ
る筆者の書くことであるので、まあそんなこともあるのかなー、程
度に適当にスルーしていただきたい。
148
﹁今後、お前はみだりに人を打ってはいかん﹂とかいう話︵前書
き︶
前回の何かの鬱屈がスパークした文章に少し反省したので、今回
は軽くメモしていたさらっとした話を。
究極のベストパフォーマンスって案外どうでもいい瞬間に出るよ
ね。
そんな話です。
149
﹁今後、お前はみだりに人を打ってはいかん﹂とかいう話
﹁この秘術を学んだからには、今後は人を不用意に打ってはならな
い﹂
そんな、中二ゴコロをくすぐられる言葉をかけられたことはあり
ませんか。
確か中国拳法漫画﹃拳児﹄でそんなシーンがあったような。
近い話ならば、筆者もある。
もちろん、もっと穏当な
﹁あ、そうそう、キミたち気をつけてね。
うっかり大変な事になることがあるから﹂
という緊張感のあまり感じられない言葉であったのだけれど。
武術をやっている人で、たまにうっかり大変なことになってしま
うことがある。
﹁人体は水なんだよ﹂
﹁それで?﹂
﹁中国武術ではその水に波を起こしてダメージを与えるのだっ﹂
﹁あ、なんかのマンガで読んだことがあるわ﹂
﹁いやいや、本当なんだって。まあ俺はちょっと打ち方を教わった
だけで、出来ないんだけど﹂
150
﹁⋮⋮なんだ、できないんじゃん﹂
﹁あー、いやー、まあその、意念で実際に衝撃の焦点を意識してだ
な、まるで本当に水袋を揺らすように、こー手のひらを、﹂
︵ポン!︶
﹁うッ﹂
﹁え?﹂
﹁うううううううううう⋮⋮、気持ち悪い﹂
﹁オイオイオイオイ、俺をからかうのはやめろよ。
そんなことあるわけねーだろ。
え? まじで?﹂
そんなことがありました。
後で平謝りをしましたが。
しかもその後しばらくして、もういっぺんだけと頼み込んで受け
てもらったが、再現できなかったという。
聞いた事がないだろうか。
飲み会で大笑いしながら、何気なく隣の稽古仲間の肩を叩いたら
骨にヒビが入っていたとか。
家の壁を足裏で蹴る鍛錬を始める前に、実際の当てる場所の確認
で、かるーく当てるつもりで振り出したら、壁が足型に抜けて家族
にものすごく怒られたとか。
稽古中、実力的に勝つことはほぼ不可能なレベルの人と組まされ、
もー無理だわー、適当に流してひどい目にあわされないようにしよ
ーっと、と何気なく拳を前に出したら、ちょっと入ってはいけない
151
感じのタイミングと角度で打撃が当たってしまって大騒ぎになった
とか。
というか、武道でもスポーツでも工芸でも、肉体を使う何かをや
っている人でもないだろうか。
何の気なしに軽くシュートしたら、とても美しい軌道を描いて、
リングにすら触れずにバスケットゴールのネットの輪に吸い込まれ
た、というようなことが。
しかも驚いてもう一度やろうとしても、同じようにきれいな入り
方を全く再現できないというようなことが。
こういう意図せずベストな結果が出てしまうことが一刀流の﹁夢
想剣﹂なんていうのものの範疇なのかもしれないが、完全など素人
には起きなくて、少なくともいくらかは鍛錬や経験がある人に起き
てしまうのだと考えている。
そして、だいたい本当に起きてほしいときには実現しない。
生死がかかっているというぐらいの究極のシチュエーションでは
起こるのかもしれないが、成功した人間からしか証言が得られない
ので、確率が検証できん。
人間には意識的な鍛錬で得られるリラックスを超えた、ちょうど
いい﹁抜け具合﹂、ほんの一瞬しか存在しない究極のリラックス状
態みたいなのがあるんではないだろうか、というのはあくまで推測
であるが、心当たりがある人間は結構いるんではないかと思ってい
る。
自信がないのでおっかなびっくりやるとか、最初から成功させよ
152
うとして強く意識して動くと逆に普通よりも駄目になるのは多くの
人に経験のあることだろう。
最初の話題に戻るが、﹁みだりに人を打つな﹂という警告は、今
後のお前の打撃の全てが危険、という緊急度ではなく、何かの拍子
にすごいことが実現する可能性をはらむものが肉体にぶち込まれち
ゃったけど、それは本人の意識に関わらずうっかり発動するおそれ
がある、という交通事故みたいなものへの注意ではないだろうか。
人間という生き物は想像を超えた頑丈さと、想像をはるかに下回
る脆弱さを同時に合わせ持っているため、この﹁うっかり究極打撃﹂
が、運悪く相手の弱いところに入ってしまった時は取り返しのつか
ないことがあるよ、そういうことなのでは。
ある時、市場でロバを連れた商人と口論になり、怒りのあまり思
わずロバをぶっ叩いたらロバがその一撃で昏倒して呼吸が止まって
しまった。
双方青くなってこのロバを買えだのそれは高いだの交渉していた
ら、ロバがよろよろと立ち上がってきたので何とかその場は収まっ
た。
という逸話はどこの高手の話だったろうか。
﹁鉄砂掌のおそるべき効果﹂という話で雑誌記事で読んだのだが、
いや何かそれ以前にもっと色々と問題とすべき点があるだろ、とツ
ッコんだ記憶がある。
153
﹁今後、お前はみだりに人を打ってはいかん﹂とかいう話︵後書
き︶
いろいろあって八卦掌についてちょっと書こう、そんなことを考
えていましたが、現在1500字ぐらいの時点で順調に行き詰って
おります。
そんなんばっかりですな。
154
知っている人は読まなくてもいい八卦掌の話︵前書き︶
次の回を読む前に、八卦掌や、日本で八卦掌がどう受容されてき
たかを知らない人にちょっと知識を入れてもらうために書きました。
一応そういうものだという共通認識が無いと、次の回で書く話の
内容が完全に意味不明になるので、前提の説明として書いておきま
す。
Wikipediaの八卦掌の項目ぐらいの内容は知ってる、と
いう人にはほぼ必要ないので飛ばして下さい。
先日、友人に﹁普通の人は太極拳以外の内家三拳について、全く
かけらも、本当に名前すら知らない﹂と指摘されて、そういえばそ
うだったと目が覚めました。
ヘタレヘタレと油断して生きてきたのですが、気づいたら20年
近くやってきたことになるわけで、特に質問も感想も受けないので
大体みんな知っているものとして考えてました。
そんなわけで、今回だけはちゃんとします。
155
知っている人は読まなくてもいい八卦掌の話
八卦掌という中国武術があります。
開祖の名前は董海川。
生誕は1797年説や1813年説といろいろ異説はありますが、
特に実生活上の関わりのないみなさんは1800年前後に生まれた
人物である、と考えておけばよいでしょう。
没年も1882年説や1889年説があります。
中国のwikiである百度百科では1797年̶1882年と書
いてあります。
北京に八卦掌の伝承者たちが寄り集まって立てた董海川の顕彰碑
があるので、そちらから判断したのかもしれません。
中国は清王朝の時代。
北京のすぐ近く、河北省文安県朱家村出身でした。
若い頃から人より武に優れていたらしいことはどの説でも有力で
すが、中国をさまざまに旅して武術を練り上げたとか、揉め事があ
って北京に入ったとか、宮刑によって宦官になったとか、北京以前
のことは良く分かっていません。
北京では紫禁城に勤めていたと主張している人たちもいますが、
ボディガード
粛親王府にいたという説が有力のようです。
職は護院。
紫禁城と粛親王府は互いに近いですが明らかに違う場所であり、
紫禁城は皇帝の宮殿、粛親王府は皇帝の親族の住まいです。
事歴がある程度はっきりしてくるのは、北京で宦官として登場し
て以後になります。 ちなみに、宦官であったことに全く触れない団体や、清朝に反抗
156
するレジスタンスのスパイとして宦官に化けて北京にもぐりこんだ
︵実際は宦官ではなかった︶と主張する人たちもいます。
その時の彼の年齢は50歳前後であったようです。
彼の実力がどのようにして知られたのか、という具体的な事件は
分かりません。
武術大会でお茶を運ぶ係をしていたが、いろいろあって会場内に
入れなかったので飛び上がって壁を乗り越えた所を偶然目撃、達人
であることが発覚したという伝説がありますが、信憑性はありませ
ん。
ただ、彼の実力がかなり高いものとして認知されたこと、既に他
の武術で名をなしていた人間が何人も門下に入ったことは知られて
います。
拳ではなく掌を用いること、相手を中心に自身が円を描くように
回る﹁走圏﹂と呼ばれる独特のフットワークを持つという特徴によ
って、よく知られています。
一周を八歩で歩き、足の場所はそれぞれ四正︵東西南北︶と四隅
︵北東・南東・南西・北西︶の八卦の方位を踏みます。
技は森羅万象をあらわす、易経の八卦の理論を基にしているとい
われています。
八大掌、八母掌、六十四手、七十二截腿といった八の倍数の技で
構成した套路︵形・型︶が各派に伝わっています。
日本では、1950年代に台湾より来日した王樹金が伝えたのが
最初ではないかといわれています。
彼は太極拳・形意拳・八卦掌の内家拳と呼ばれる三拳をまとめて
伝えているスタイルをとっていました。
ただし、佐藤金兵衛氏などのごく一部の人々が伝えていることが
知られているだけで、あまり八卦掌そのものの存在がアピールされ
157
たわけではありませんでした。
1970年代に現在は日本の中国武術研究の第一人者として知ら
れる松田隆智氏が台湾の武壇という組織の伝える八卦掌に触れ、ま
八卦掌入門﹄と一冊の本としてまと
とまった形で歴史やスタイルの情報が入ってくることになりました。
︵ただし、彼が﹃神秘の拳法
めるのは1980年代に入ってでした︶
それによって八卦掌が董海川が開祖である武術であること、八卦
掌の中でも二つの大きなスタイルに分かれていること、円周を回る
不思議な武術であることが知られていきます。
二つのスタイルというのは、尹派の牛舌掌と程派の龍爪掌のこと
です。
董海川の弟子の中でも、尹福の系譜の弟子が伝える掌を牛の舌の
ように指と指をくっつけて一枚の舌のようにするものが牛舌掌、程
廷華の系譜の弟子が伝えている龍の爪のように五指を開いているも
のが龍爪掌です。
のちに、さらに様々なスタイルがあることが伝わってきましたが、
最初に情報で入ってきたのはこの二派のものでした。
日本ではずっと台湾経由の中国武術情報が先行していましたが、
中華人民共和国︵以下、中国︶との国交正常化によって、徐々に大
陸の武術の人材や情報が入ってくるようになりました。
台湾と違い、中国では国家の方針として、労働者の体育としての
運動の見直し、国民体操の一環としての太極拳の制定・普及などが
ありました。
民間で八卦掌を伝えている人々は、清王朝のもとで広まったこと
が﹁反革命的﹂である、という取り上げられ方をされるおそれもあ
り、外部の日本人にも分かるような形で八卦掌が出てくるまでには、
ある程度の時間がありました。
158
董海川が清朝に対する抵抗勢力のスパイだった、という不思議な
話を伝える派があるのは、そういった時期に中国共産党を刺激した
くないと考えた人が生み出したのでしょう。
八卦掌には﹁海福寿山永 強毅定国基 昌明光大陸 道徳建無極﹂
という20文字が伝わっており、拝師したものは伝承者の代ごとに
一文字を受け取ります。
初代が董﹁海﹂川、二代目が伊﹁福﹂と、それぞれの名前に一字
が入っているのが分かるでしょうか?
八卦掌の伝承者は、最初から数えて自分が何番目の字を受けたか
によって、自分が開祖から第何代目であるかを知ることができます。
これを﹁字輩﹂といい、例えば三代目であれば﹁寿字輩﹂という
ように記録に残されます。
かつては秘密であったという話もありますが、現在は公表してい
る人も多く、八卦掌は今は六代目の強字輩の人々を中心とする世代
となっているようです。
八卦掌は別の流派である形意拳の人々と交流があったことや、さ
らに太極拳を学んだ人々、特に形意拳の達人として名高い清末民初
の人物・孫禄堂︵1860−1933︶が﹁内家三拳﹂というコン
セプトで他と一線を画すものとしてまとめたことから、太極拳の伝
播と同時にその概念が広く知られるようになりました。
他の武術と弊習する人も多いようです。
太極拳・形意拳・八卦掌の三拳を伝えているスタイルの所では、
だいたい最後に八卦掌を学ぶところが多いため、他の二拳に対して
特に高度であると思われていたり、逆に八卦掌だけでは闘えないの
ではないかと誤解されることもありますが、もちろん八卦掌単体で
教えているところはいくつも存在しています。 159
知っている人は読まなくてもいい八卦掌の話︵後書き︶
以上。
きっと漏れはないよね?
我ながら文体が嘘くさいなあ。
こういう情報を基にした上で、次の回を書きます。
八卦掌について適当にいじくり倒します。
タイトルは﹁数代で伝承者によって内容が大幅に違う謎の流派が
出現する件︵仮︶﹂。
ただし、一度説明なしに適当に書きなぐった文章があって、そい
つを再構成しなきゃならんので、今日明日には間に合わないかもし
れません。
ちなみに、何かの間違いでこの回から読んだ方。
いつもの文章はもっと﹁だ﹂﹁である﹂調の、超カンジ悪い文章
なので、次回はひどいですよ。
そして他の回もひどいですよ。
160
伝承者によって内容が大幅に違う謎の流派が出現する話︵前書き
︶
もう分かってると思うけど、八卦掌のことなんですがね。
別に大東流でも合気道でも太極拳でも沖縄空手でも○○拳でもい
いのだが、というか、つい最近○○拳で思いっきり似た話を聞かさ
れたことが動機なのだが、それはあまりにも狭い範囲で伝わった話
なので書くわけにはいかん。
そういうことで、ちょっと前に八卦掌関連でかなりの数の人たち
が、いっせいにカムアウトして、もうそれに当たり前のよう触れて
いることがあるので、今回採り上げてみる。
zhang﹂と
その前に、みんな八卦掌の動画を観たことあるかね?
youtubeで﹁八卦掌﹂とか﹁bagua
か打ち込むと、死ぬほど出てくるので浴びるほど観られるぞ。
中国の動画サイトであるyouku︵優酷網︶とか56.com
︵我楽網︶とかTudou︵土豆網︶とかなら﹁八卦掌﹂だけでイ
ケるけど、ウイルス対策は万全にな!
161
伝承者によって内容が大幅に違う謎の流派が出現する話
八卦掌の話である。
なんだかよく分からなかったり、分かったと思ったらそうでなく
なったりする謎の中国武術である。
いや、はっきりしているといえばしてはいるのだ。
成立した年代が19世紀とそれなりに新しい上に創始者も董海川
と分かっていて、生年も没年も諸説あるが、そういう人がいたこと
は確からしい。
その弟子の程廷華と尹福になると、これはもうはっきりと写真記
録も残っていて、義和団の変に話が出てきたりと、確実に﹁いた﹂
人たちである。
ブルース・リーが学んでいた世界的にメジャーな知名度の詠春拳
が、伝説上の南少林寺などという本当にあったかなかったか分から
ない寺が焼き討ちされて、そこを逃れた厳詠春とか方永春という名
前の尼さんが創始したとか、分かっている範囲でも伝承者は手の早
そうな男ばっかりで本当かいな、という、そういうのに比べるとと
てもはっきりしている。
しかし、伝わってくる話の周辺に奇怪なものが多い。
董海川は宦官だったとか、宮宝田は阿片中毒だったとか、普通は
あんまりおおっぴらにならない話もそれなりの大きさの情報で伝わ
ってきて、大丈夫かいなという気にされる。
一方で、前回も書いたように、宦官だったと言う話には一切触れ
ない団体もあれば、あれは宮廷に入り込んだレジスタンスのスパイ
だった! と主張している人もいる。
162
一般中国人の意識における宦官はたいてい悪人、それも極悪人の
イメージなので、開祖が宦官なのはちょっと色々⋮⋮、ということ
で何とか擁護する話を作ろうとする気持ちは分かる。
清代に乱を起こした宗教的秘密結社に八卦教というものがあるの
で、そこからの連想で生まれた説のような気がする。
︵八卦掌は用法が悪辣だったり、戦闘法が最大に効果的な状況が乱
戦とか狭い屋内戦っぽくて、どういうことか﹁実は暗殺拳だ!﹂と
いいだす人が多い。その辺からの連想もあるのかも︶
董海川は50歳過ぎて北京に出てきたとか、宮刑︵男性のペニス
を切断する刑罰︶に処されて宦官になったのはその後だとか、本当
は何の罪で宮刑になったのかはっきりしていないとか、官位が良く
分からんとか、しかも八卦掌の遣い手だとばれて周囲の人間に教え
だしたのはその北京以降の話なので、50を過ぎてから初めて教え
だしたことになるが本当かいなとか。
また、董海川が塀を軽く飛び越えた、という伝説をはじめとして、
軽身功という、忍者みたいにジャンプしたり高いところに飛び乗っ
たりする技術を使う人間の話がやたらある。
筆者も日本人なのでちょっと本当の所が理解できないところもあ
るが、こういう技術はどちらかというと﹁まっとうな﹂武術の感じ
がしないもののようである。
要するに、武侠とか盗賊とか、ダークなイメージがつきまってい
るもので、門派の歴史上、一人二人いるぐらいだとそうでもないが、
何人もいると怪しげになってしまうのである。
伝承者は今に至るまで途切れることなく続いている。
伝承者内部にとある一連の文字の順番が伝わっていて、どの字を
163
継いでいるかを知ることによって第何代の伝承者か互いが知ること
ができる﹁字輩﹂というものがある、という話を前回書いた。
が、秘密もなにも北京にある董海川の碑文に二十文字全部が堂々
と刻まれていて、みんな知っていることなのだ。
八卦掌業界では何十年かに一度、関係者が集まって董先生えらか
ったよね集会が開かれ、よっしゃ顕彰碑を建てようぜという動きが
出る。
それが光緒9年︵1883年︶の﹁董先生志銘﹂、光緒30年︵
1904年︶の﹁文安董公墓志﹂、民国19年︵1930年︶の﹁
董海川先生墓誌銘﹂なのだが、集まった連中やお金出した人たちが、
これが正しく伝えてる人だよ、と石碑に名前を刻まれることになっ
ている。
その石碑がまた、﹁とあることから中年になって宮刑を受けてし
まい、宦官にされた﹂的な、関係者全員知ってるから詳しくは書か
ないよ的文章で、どうしたものかという部分はあるのだが。
確か最後の1930年の時の話だったのではないかと思うのだが、
集まって、やあやあこんにちわ、よっしゃお互いに伝えるものを披
露しようか、という事になったときに、互いの伝えるものがあまり
に違うので衝撃が走ったとか。
そこで、この字輩を伝えるものが正しい伝人にすることにしよう、
とか、ちょっと伝える内容を統一しようという、話し合いがあった
ようだ。
この、﹁じゃあみんな、そういうことだから﹂的な、定期的な全
体同意が、最近になって日本の八卦掌業界であったように筆者は感
じている。
164
十数年ぐらい前に日本にもいろいろな八卦掌が渡ってきて、それ
ぞれが自分たちのことを公表しはじめたことや、中国に行って直接
八卦掌を学んだ日本人が、何人も帰国後に八卦掌を伝え始めたこと
が重なったのか、
﹁八卦掌が派によってかなり違う﹂
ということが、ぼろぼろ言われだした。
当時、現在雑誌﹃秘伝﹄を発行しているBABジャパンが同時に
中国武術専門誌﹃武藝﹄というのを出していた。
その記事だったような気がするのだが、笠尾恭二氏が1970年
代ぐらいの中国本土の武術の大交流大会映像を見た思い出記事か何
かで、﹁八卦掌は古いものほどみんなが思っているような八卦掌っ
うーしゅう
ぽくない﹂と書いていたような気がする。
︵福昌堂の雑誌﹃武術﹄も含めて、2000年ごろに一度全部処分
してしまって、手元に無いので﹁気がする﹂ばっかりで申し訳ない︶
そのあたりから、じわじわと﹁董海川は、生徒がもともと学んだ
武術をもとに指導した﹂﹁生徒によって全く違う内容を指導した﹂
﹁どうも八卦掌の型で一番古いのは単換掌・双換掌・順勢掌ぐらい
で、他は全部あとから加えたらしい﹂⋮⋮などと、それまである程
度固まっていた八卦掌像を否定する話がどんどん伝わってきていた。
さらには﹁まったく円周を回らず、直線を行ったり来たりするだ
けの直線套路の八卦掌があるらしい﹂などと八卦掌イメージの全て
をぶちこわす話も伝わってきた。
︵今振り返ると、劉徳寛系の八卦六十四手のことだったのだろう︶
165
この話の前の段階で、中国武術研究家の清水豊氏が自身の宮宝田
系︵伊派︶の八卦掌は陳氏の太極拳と同じで、激しい動きの八卦炮
捶があるだの、正しい八卦掌は羅漢拳︵少林拳︶が伝わっているよ
うだ、だのと学んだものがそうなので本人が悪いわけではないのだ
が、我々武術オタクを惑わせる記事を発表したりしていたり、とい
う一局面もあった。
また、あの当時ネット上で交流していた人たちが、だいたい八卦
掌の話題になるとごく初歩の話から先を話題にしようとすると、内
容がだんだん通じなくなって、ひどく手探り状態だったことを思い
出す。
日本はやっぱり太極拳をやっている人が一番多くて︵全体で見れ
ば八極拳も多めかも︶、その絡みで内家三拳を併習して学んでいる
人もそれなりの数がいるのだが、太極拳や形意拳は話題が進んでも、
八卦掌になるととたんにみんなの口が重くなる、という空気があっ
た。
そういう状況だったのだが、
﹁董海川という人は、特定の武術の形を教えたのではなく、もうす
でに何かを学んでいた人が、それを基に実力を高めるエッセンスの
ようなものを個々人別々に伝えたらしい﹂
そういう話がここ数年、どこの派でも普通に前面に出して言われ
てきている。
何年か前まではごく内輪で、﹁どうもそうらしいよ﹂ぐらいの調
子で話されていたのだが、先日気づいたら、日本の多くの団体の説
明にしれっと書かれていて驚いた。
ここでようやく今回の表題である﹁伝承者によって内容が大幅に
166
違う謎の流派﹂である所の八卦掌、の話をできる所まで来たね。
さて、こんな教授法は果たしてありえることなのだろうか?
ありえる。
筆者がこれまでの自分の経験や伝聞に照らし合わせて考えたこと
だが、というかあくまで自分の見聞きした範囲でのことなので、ヨ
タ話として読んで欲しいのだが、十分ありえそうだ。
董海川が教授を始めたのが50歳以降のことらしいのだが、当時
の50歳というのは今と違い、外見的・肉体的には現代の70歳代
とか80歳代ぐらいの感覚である。
60歳のことを還暦というのも、生まれ年の干支がちょうど60
歳のとき重なって﹁還る﹂とされている名称で、一生はここで一度
終わっているぐらいの扱いである。
現在存在している多くの流派、現代武道を想像して欲しいのだが、
80歳ぐらいの大先生が、全く最初の基本から生徒に教えるような
ものが存在しているだろうか?
滅多にないと思う。
普通、初心者は先輩格の人間が教える。
先輩は師範代に教わり、師範代や選ばれた弟子が大先生に教わる。
なぜなら、その流派の肉体作りのための基本の動きや鍛錬法は、
若い人間向けのものであり、はるか昔にそこを通過した大先生は自
分流にカスタマイズしてしまっていたり、わざわざそんな大きな動
作のものを行なわなくてもよくなってしまっているため、同じこと
167
が出来なくなっている。
ほんのちょっと先に進んでいる人間が教えると、その次の段階ま
での欠点や変化が分かりやすいが、一つの体系の中でレベル差が隔
絶していると、初心者の側からは全てが違っているので全く理解で
きず、大先生の側からはもはや出来ることが当たり前なので初心者
が理解しづらい。
しかも、董海川自身は学んだことや経験したこと、創造したもの
を自分の中では融合させているが、50過ぎまで人に伝えていなか
ったことを考えると、他人に教えられるレベルで体系化していたと
は考えられない。
︵董海川の生前には﹁八卦掌﹂という名称自体もなかったのではな
いかという説がある︶
単換掌・双換掌・順勢掌が最初にあったという話だが、本当にご
くごく一部でだが、董海川の生前にはそれすら今の形ではなかった
のではないか、と疑問を持っている人たちもいる。
基本とか基礎の身法というのは、ある地点に到達した人間が﹁今
の俺の境地までスムーズに上がってくるためには、何をどういう順
序で教えたらいいかな﹂と、現状から逆算して、要素を分割してい
って取り出し、組み上げるものなので、だいたい最後に作られたり
するからだ。
もっと極端な話だと、最大の特徴ともいえる走圏すら後から作っ
たんじゃないか⋮⋮という恐ろしい話もあるのだが、話が無駄に大
きくなるので、今回は無視する。
ずっとそれをしてこなかった人が、50歳を過ぎていきなり基本
から考え始める、というのはかなり無謀なことだ。
董海川の門下には、他門の武術を修めてすでに名を成している連
中が入ってきた︵既に他の芸を修めた人間がさらに師につくことを
168
﹁帯芸投師﹂などというらしい︶、というのは、もちろんその実力
の高さにもよるのだろうが、ど素人どころか中級クラスの人間も董
海川の指導についていけなかった、というのがあるのではないかと
思う。
筆者が八卦掌のこの話からまっさきに連想したのは、合気道と大
東流合気柔術のことである。
合気道の植芝盛平の教授法というのは、基本的には弟子が技をか
けられるか、誰か別の弟子が投げられているのを観察するしかなか
った。
各々の弟子が他所から鍛錬法を持ってきたり、植芝盛平の動きか
らこれを行なえば力がつくのではないかと、新たに基本の技法を作
り上げたことによって、今の合気道が出来たといわれる。
植芝盛平に大東流を教授した武田惣角はさらにもっと極端で一方
的な教授法であり、参加者を一通りブン投げたり固めたりするだけ、
というものであった。
しかも伝書として書いて与えたものの内容が、実際に伝えたもの
と違っているというおそるべきもので、結局、各々の弟子が自分の
掴んだ感覚を基に﹁合気﹂を追求したため、各派で技も内容も完全
にバラバラである。
︵共通しているのは﹁上げ手﹂といわれていたらしい、合気上げだ
けじゃなかろうか︶
これらも伝える人物によって内容が違う流派である。
ただ八卦掌と違うのは、証言がかなり残っているので変遷が分か
ること、そして個々人に指導したという董海川の教授と真逆で、恐
169
ろしく不親切だということだろうか︵笑︶。
ちなみに、ごくごく狭い範囲の話なので別に武術の歴史的なトピ
ックとして扱われないが、現代でも完全な我流で実力があるけど教
えるたびに内容が違う人とか、天才的な実力があるけど根本的に他
人に指導が出来ない人とか、自分が教えると伝書通りにならないの
で弟子を指導しない大先生とか、その流派の原理で自在に動けるの
で個々の技を忘れてしまい、演武会の直前に一夜漬けで型を覚えて
終わったらまた忘れる先生とか、そういういい加減な人たちは案外
いっぱいいます。
170
伝承者によって内容が大幅に違う謎の流派が出現する話︵後書き
︶
実際の八卦掌の技法について書くと果てしなく脱線するうえに、
だれかが興味を持つとは到底思えないのでこの稿では触れない。
また、郭雲深の唱えた明勁・暗勁・化勁の三層の功夫の最終段階
である﹁化﹂は、加齢や老化と関連があり、いったんそこに到達し
た人間は明勁や暗勁を示演しても根本的な質が違うため、全く別物
になってしまうのではないか? というここ数年疑問に思っていた
ことについても触れようかと思ったが、ひょっとしなくてもすでに
十分マニアックな内容なので割愛。
というか、書き上げてから誰がこれを読むんだろう、と今更後悔
しているのだが、書いてしまったのでアップしますよ。
わざわざ八卦掌の概要説明の回を前回書いたのに、合気道と大東
流には前説なしで書くというこの杜撰さ。
171
武術雑話 1 ﹁お約束﹂な名称︵前書き︶
いろいろ反省したとか、今週は週末に時間が無いとかといった諸
事情により軽い話題を。
最近初めて知ったのだが、ランキングというのはポイント数が反
映するんですな。
2月になって︵自分にとっては︶異様にアクセス数があると思っ
たら、どなたかが10ポイント以上入れてくださって、エッセイの
ランキングに載っていたせいだったのだと判明。
もっとも増えているのはアクセス数だけで、新規でお気に入りに
入れてくれた人は数人のみ。
以後は順調にアクセス数が減っておるので、3月になってジャン
ルのランキングから消滅した瞬間から、0か1の2進数の世界のよ
うなアクセス数に戻ることでしょう。
あれはは夢じゃ、夢でござる。︵by萬屋錦之助︶
そんな数少ない登録者の方々にお送りする。
172
武術雑話 1 ﹁お約束﹂な名称
中国武術のちょっとした雑知識を書いていきたい。
何か世の中の役に立つとか、創作のタネになるとか、そういうこ
とはあまりないので軽い気持ちで読んでみて欲しい。
中国で﹁覇王﹂といえばそれはすなわち項羽のことである。
司馬遼太郎の﹃項羽と劉邦﹄で知っている方とか、横山光輝の漫
画版で知っているとか、光栄というメーカーの三国志シミュレーシ
ョン・ゲームとの関連で漢の歴史知識があるという人は何を今更、
と思うかもしれないが、紀元前232年から前202年まで生きた
古代中国の人のことである。
漢の高祖︵劉邦︶と天下を争って敗れた人物なのだが、中国各地
につたわる﹁おはなし﹂を収集してまとめられたと思える部分がか
なりある歴史書﹃史記﹄の描写があまりにイカすので、基本的に昔
の中国人に人気︵?︶な人物である。
もとは滅びた国の将軍の子孫だが、腕っ節だけで成り上がって秦
の始皇帝を打ち倒すところまでいった事とか、性格が強烈で苛烈だ
ったとか、最期近くに虞美人とかいう愛妾と愁嘆場を演じたシーン
が記録に残ってたりとか、そういう人物である。
一種の﹁武侠﹂であるので、中国のそのスジっぽい人に人気であ
る。
日本人は﹁○○小覇王﹂といった中国的表現に、ちょっと凄い奴
程度の認識しか持たないかもしれないが、項羽のミニチュア版だと
考えると、ヤクザにしても一地方を荒らしまわる、かなり手をつけ
173
られないレベルの奴である。
だから、中国武術で﹁覇王挙鼎﹂などという名前のものがあると
かなえ
すると、その覇王はどっかその辺の覇王ではなく項羽のことであり、
項羽がばかでかい鍋上の祭器である鼎を軽々と持ち上げた、という
故事からつけられた名前である。
そんなわけで、日本のゲームや漫画や小説なんかの創作物で、登
場人物が﹁○○覇王拳﹂とか﹁覇王○○剣﹂とかいうのは﹁そりゃ
どこの覇王だ﹂というかなり奇妙な感覚のセンスなのである。
似たようなもので、﹁大聖﹂がつくと斉天大聖、すなわち﹃西遊
記﹄の孫悟空の事を指す。
﹁大聖○○拳﹂という武術があったら、まるで﹃北斗の拳﹄の南
斗六聖拳の一種みたいだが、世の中には﹁大聖劈掛拳﹂という武術
があったりする。
劈掛拳というと両腕を伸展させて豪快に振り回す技術の多い、や
っている人の腕が異様に長く見える河北省や山東省あたりの武術で
ある。
しかし大聖劈掛は少し離れた陝西省の武術で、動きが露骨に猿っ
ぽい。
嵩山少林寺の武術の流れを汲んでと主張する﹁二郎拳﹂というも
のもある。
某ラーメン屋みたいだが、これは﹃西遊記﹄や﹃封神演義﹄に出
てくる二郎真君からとった、由緒正しい﹁二郎﹂なんである。
八極拳か何かで﹁二郎担山﹂という技があったような気がするが、
二郎真君はかなり人気な武神様なので、けっこう色々な所で名前に
出てくる。
174
武術雑話 1 ﹁お約束﹂な名称︵後書き︶
今週末はブン投げたりブン投げられたり、打ったり打たれたりす
る予定なので、一回分一時間もかからず書いた短い雑話をいくつか
予約投稿しておきます。
ここ最近の個人の活動報告に、一回分ほどのネタでもねえなと見
送ったこういうタイプの短い雑話を何度か書いてたりするので、お
ヒマなら一読してみて下さいな。
175
武術雑話 2 若き日の達人はたいていDQN︵前書き︶
予約投稿その2。
176
武術雑話 2 若き日の達人はたいていDQN
﹁このあいだ酒飲んで女を抱いて、蚊帳の中で寝てたらさあ。
敵が襲ってきたわけよ。
ちょっと前にぶっ飛ばした連中でさあ。
トーゼン刀抜こうとするじゃん?
したら、女がそいつらの手先でさあ。
俺の刀、隠されちゃってるわけ。
さらに蚊帳を釣ってる紐も切られちゃって。
俺、網にかかった魚みたいになっちゃってるワケ。
絶体絶命じゃん?
さすがの俺ももうダメだと思ったんだけど、襲い掛かってくる相
手の刀を奪ってさあ。
かぶさってる蚊帳を払いのけるように刀振って、危機脱出なのよ。
マジすごいっしょ!
そんなワケで、この刀法を極意にしようと思ったワケ﹂
ある流派の達人がそんな事を言い出したら、どう思いますか?
その男の名は伊東一刀斎景久。
極意の名は﹃払捨刀﹄ですよ。
筆者は伊東一刀斎の逸話なんかを読み返していると、時々、こん
177
なヤバい奴が本当に実在したのか、架空の人物なんじゃねえの、と
思うときがある。
また、後継者決定後に行方不明になってるけど、あんまりヤバい
んで弟子の小野忠明が闇に葬ったんじゃねえの、と思うときもある。
これを読んでいる人が達人とか流派の開祖とかいう人たちにどう
いうイメージを持っているかは知らないが、自分で流派を立ち上げ
るぐらい才能のある人とか、ものすごい達人とかで、聖人君子とい
えるような人はあまりいないような気がする。
だいたい普通の人が持ってるエネルギー以上のものを武術に打ち
込んでまだ余ってるとか、十代の頃には並みの人間とは思えない異
能を発揮していたとか、そういうレベルの人が達人になるのである。
周囲の関係者が誰も実力で止められないので達人だった亡き祖父
の兄弟弟子に無理やり預けられたとか、不幸にして人を殺めてしま
ったので右翼の大物の所に預けたとか、シャレにならないぐらい異
常な力の持ち主だったので通りかかった達人が強制的に弟子にした
とか、フィクションでなく実話として存在しており、あんまり普通
の人間の基準で考えちゃいかんのである。
中国武術の中では、争いに武術を用いなかった達人たちを﹁武徳
がある﹂と表現したりするが、そういう人たちは若い頃は散々相手
を血ダルマにしていたりして、何かちょっと強いんだけど争いに武
術を使わないよ、というレベルではない。
その気になれば今でも相手をブッ飛ばせるけど、そんな事しなく
ても人は分かり合うことが出来るよねというのが武徳であって、た
だ非暴力で解決しようとするだけのものは単に﹁徳がある﹂という
のである。
178
それぐらい個性の強烈な人だったり、天才だったりすると、物事
の判断基準がいろいろおかしい。
自分には簡単に出来るので他人に見られたら盗まれる、と隠した
秘伝やら極意やらの内容に仰天することがある。
筆者は自分ではもちろん出来ないし、ほんの一部を知ってるかも
しんないぐらいのレベルだが、﹁こんなものを技として残しておけ
ば自分以外の人間にも出来る、と考えてたとか、確実にアタマおか
しい﹂と思ったことが何度かある。
古くから伝わる由緒正しい武術、なんてものに何かカッコよさで
あるとか、重厚さを感じる人はいるだろう。
もちろん、古さにともなった内容であるとか、ずっと多くの人に
伝承されてきただけの意味はある。
だが、そういう伝統武術というものの数を片っ端から見ていくと、
ちょっと目鼻が利いて才能もあるような人間は、とっとと自分の流
派を立ち上げて平気で﹁古い立派な流派﹂を飛び出す、または出て
行かざるを得なくなる、というケースが実に多い。
もっともレベルの高い人間ばかりではないかも知れない。
ちょっとインターネットを検索するだけでも、筆者も含めてやた
ら武術のことを勝手に調べている奴、勝手に他の体系の武術の見地
から自流を判断する奴、先生に黙って他流と交流する奴、ナントカ
会とかナントカ流とか大した腕前でもないのに立ち上げる奴。
その程度の連中が昔からいた。
そんなものなのかもしれない。
179
武術雑話 3 読んで出来たら俺のもの︵前書き︶
予約投稿はここまで。
180
武術雑話 3 読んで出来たら俺のもの
この世には﹁﹃原理は良く分からんが資料をちょっと見てやった
ら出来たので、もはやこの技は俺のもの﹄の法則﹂というものがあ
る。
いや、﹁ある﹂って、筆者が勝手にそういうのはあるなあ、と思
っているだけなのだが。
これは決して﹁パクリ﹂などというものではない。
もっと罪のない、カジュアルなものなんである。
日本のそのテの創作武術シーンはよく分からぬが、というか単純
にあんまり面白くないので追っかけていない、というのが正確なと
ころなのだが、中国武術であるとか海外の武術であるとかの人たち
は、実に気軽に他派他流の武術の技をつまんでいなさるのである。
もちろん悪質な、パクリと言われるような、ヨソの物を自分のも
ののように主張しているものもある。
だが一方でもっとシンプルに、ジャポンでこんなジュージツの技
があるらしいよ、写真で一部だけ載ってるよ、やってみたよ、何か
できたよ、ぐらいのレベルで悪気なくやっちまってる人であるとか
団体とか流派がかなり存在する。
中国武術系はもっと確信的にやる。
181
確かにこれは日本の柔術の技みたいだし、実際本で読んだものを
やっている。
だが、私は○○拳の身法で入り、○○拳の力の出し方で腕を抑え
ており、外形はかなり似ているといわざるを得ないがしかし、実際
に意識するポイントが違う、というものである。
あるいは、ここに効かせるアイディアはいただいたが、それ以外
は全部○○拳でやっている! というものである。
武術に正統とか邪道とかがあると思っている人には理解できない
かもしれないが、これは昔からあるやり方だ。
ある意味で真っ当な武術感覚ともいえる。
使える武器は転がっている石だって使うというのに、何でわざわ
ざ雑誌や動画で紹介してくれている上に、今やって出来たものを、
もともとは自分たちで考え出したものじゃないから使わない、なん
て変なこだわりで使わないわけ? 何か悪い?
ってなもんである。 もちろん基本的な肉体の鍛錬法であるとか、力の出し方が違うの
でフォルムが変わったりするが、平気で套路︵中国武術の一連の型
の動作︶の中の一つとしてぶちこむとか、まるまる一つの套路をそ
ういうので構成したりする。
あんまり表に出さないけど。
彼らの、こういうやり方が有効らしい、と思ったときに切り替え
方の現金さはすごい。
名前は出さないが日本のとある流派で、ある達人に一方的に技を
182
かけられるスタイルで伝授されたのだが、全くやり方が分からない。
ところが、全く教わっていない、自分で考え出したコツを併用す
ると、受けた流派の技っぽいかかり方を出来る。
ただし、そのものではないし、原理的に同じかはさっぱり分から
ない。
でもかかる。
と、いうことは、一見同じように見えるがこれらの技の全て自分
が見出してできるようになったもので、もともとかけられた技はヒ
ントにはなったが内容が連続しているとは思えない!
よって新流派を立ち上げました!
というものもある。
一部で強烈に悪口を言われていたりするが、筆者はその新流派の
初代宗家の言う事には一理あるな、と思っている。
183
快適な武術検索ライフを送るために
君たちはインターネットをきちんと活用しているかっ!!
こう確認したいのは、世間の人がどうも﹁ネット検索﹂というも
のの能力を追及しているとは思えないからである。
と、いうか、探せば知りたい武術の情報も、知らないほうが良か
ったんじゃないかという武術の情報も、手に入る!
まず、世界の大概の情報は英語になっておる。
次には中国語がくる。
君たちは、例えば世界的動画サイトであるところのyoutub
eに、﹁martial arts﹂とだけ打ち込んで、しかもそ
クンフー
れを日付順に並べて、定期的に新しいものから古いものへと片っ端
から目を通す、という功夫を積んでおるかな?
世界には様々な武術があることに無限の可能性を見出せ!
日々たゆまぬ努力を続けるべし。
なぜならyoutubeでは、日々愉快な人々が﹁俺のブジュツ﹂
の動画を、我々のような凡俗に公開してくださっているから!
キミはそこに﹁戦争流﹂だとか﹁歩哨流﹂だとか﹁九州流柔術﹂
だとか、名前だけで心躍る流派を見出すだろう。
九州流柔術は、ご本人のサイトに教わった日本人からの手紙が掲
184
載されていたりするのだが、日本語の文章で﹁貴殿には九州の武士
道を伝えた﹂︵多分﹁葉隠﹂武士道みたいなことを分かりやすく書
こうと思ったんじゃないか︶と書いてあるので、いったいどこで何
が間違ったのかという一大ミステリーを味わえるぞ。
そして技のはしばしにチラチラ出てくる、﹁こんなところにも八
光流が﹂感。 八光流というのは、合気道の母体となったといわれる大東流と関
係がある流派で、一番の特徴は、技に口伝やコツをつけまくって﹁
出来るようにさせる﹂という教伝体系を整理していること。
誰でも出来るようにさせられる︵もちろん上手い下手はある︶と
いうことはつまり、技や段階を教えるさじ加減が簡単ということで、
今は知らないが昔は相応の金銭を出して講習会に参加すれば師範に
なれた時期があったらしい。
金で技と段位を売る、というので批判があるのも分かるが、がっ
ちり武術の師弟の序列に取り込んで、上手くならなければ技も知ら
ず段位も無く一生武術関係は無為に生きる、という人が必然的に出
ることを考えると、相応の金銭であと腐れなく︵ちょっとあるけど︶
仕上げてリリースしてくれる、というのはかなり合理的ではある。
そんなわけで何気に八光流の技はリベラルに流通しまくっている
ので、世界の意外なところで﹁あ、八光流だ﹂ということは、まあ、
よくある。
筆者は昔はかなり批判的だったが、この歳になって色々と経験す
ると、時代から考えて相当先端的で合理的な考え方だったと認めら
れるようになってきた。
まあそこの流祖が出した本で﹁こいつもこいつも、流派の代表ヅ
ラしてるけど実は八光流を学んだから強くなれたんだよ﹂的な内容
とか、読者には無関係なふりして師匠筋の悪口を書いていたりする
のでそこは人間的評価に大幅マイナスだが、武術で飯食ってる人は
185
大なり小なりそういう所があるのでそういう意味では﹁普通﹂とは
言える。
批判も悪口も言わなくてなおかつ実力のある人って、本当に稀少
ですからな。
武術の世界で権威があって人格的に穏やかで、悟ったことをいっ
ている人はいっぱいいるようだが、そういう人は人間性が歪むほど
武術・武道に打ち込んでないとか、大した人生を送ってないとか、
実力が無いとかが大半である。
寺の坊主が言うようなありがたい話をそのまま場所を道場に変え
て言っているだけの人なので、﹁道徳的にいい事をいうなあ﹂と思
っておけばよろしい。
ちなみにyoutubeについては、筆者は一時期﹁aiki jujutsu﹂と打ち込んで検索結果に出てくる動画に片っ端か
ら目を通すという修行に打ち込んでおった︵ただの﹁aiki﹂だ
と大量の合気道動画が検出される︶のだが、南米の伝承経路がよく
分からんが日本武術をやっている人の動画に大東流の吉田幸太郎の
写真が突然出ていたりしてなかなかカオスではある。
︵雑誌でよく見かける写真なので、何の裏付けにもなってないのだ
が︶
何か日本で大東流系の人の技の写真解説記事が雑誌で出たり、D
VDがリリースされたりすると、かなり短い時間の間に似たような
技の示演動画が出たりするので、大変味わい深い。
閑話休題。
そんなこんなでyoutubeは素晴らしい文明の利器である。
186
日本の武術の動画が見つからないの、助けて! という時はとり
あえずローマ字綴りで流派名をぶちこんでみるのは最低限の対処法
である。
この程度のことすらできてない人間はおらんやろ、と思っていた
のだが、案外そういう人が某知恵袋なんかに大量にいて、いやさす
がに中学生とか高校生だと思うのだが、一応書いておく。
英語以外の各言語だとどう書くの? という疑問が出たらwik
ipediaである。
項目の横を見ると﹁他言語版﹂という部分があって、フランス語
だったりスペイン語だったりの項目を見ることが出来る。
まあヨーロッパ言語は大体アルファベット表記なんで、タイ語と
かアラビア語とかイスラエル語とか、案外くせ者のロシア語表記み
たいな通常と違う文字と綴りの国以外は大体ローマ字綴りでいける
し、情報も多い。
さすがにものすごいローカルなものは分からないが、世の中には
英語が使えて変な武術︵失礼︶が好きなやつはいっぱいいて、その
凄さをユニバーサルに広げようとすると、紹介サイトは作るし、動
画はアップロードする。
ロシアの特殊部隊が使っているということで数年前から日本でも
やたら紹介されるようになった﹁システマ﹂というものも、英語の
マーシャルアーツ︵武術・格闘技︶系の掲示板ではもっとずっと前
には話題になっていて、ミリオタ︵というか年齢的に軍事マニアと
いった方がいいのだろうか︶の友人にしばらくしてから
﹁お前が前に﹃システマ﹄ってのがあるって教えてくれたやつ、最
近軍事系の知り合い同士の会話で話題に出たわー﹂
と言われた時は、その情報のタイムラグの大きさにめまいがしたも
のである。
187
彼らは兵器のスペックであるとかは光速で翻訳して仲間内で語り
合うが、軍隊格闘技の技術の詳細にはあまり興味が無いので︵でも
ナイフ術とかは好きなようだが︶、名前だけ知っている程度だった
のだが、システマの動きが特異であったために話題になったようだ。
日本の武道・武術系で話題になったのはもっと後だった。
︵友人に言わせると、馬鹿みたいに体力のあるやつなら誰でも手軽
に覚えられて効果的に使えるのがいい軍事格闘術なのであって、あ
あいう出来る人は出来るという達人技っぽいのはちょっとなあ、と
いうことであった︶
イスラエルの12支族が伝えたという神話的な武術であるとか、
ルーン文字を基にした北欧の武術が調べたい?
よっしゃ、googleで﹁国名 + martial art
s﹂でイけるイける。
それだけで無理っぽかったら﹁ancient︵古代の︶﹂とか
﹁traditional︵伝統的な︶﹂を付け加えればだいたい
はオッケイ!
より詳細に知りたければ英語以外の言語に⋮⋮という時も、翻訳
サイトという心強い味方がいるので大丈夫だ!
イスラエル武術の伝承者が、韓国系の武術をアメリカでいくつか
やった後に国に帰って、突然﹁俺の家には代々イスラエルの古代の
武術が伝わった﹂とか言い出したとか、北欧ルーン文字の構えがど
うこう言っている人は、アメリカやら日本で合気道やら弓術なんか
を学んだ後に﹁実は一族に伝わる固有の武術が﹂なんて言い出した
とか、そういう詳しいことがわかるぞ!
ちなみに翻訳サイトは元の文章との相性で、かなり分かりやすか
ったり、文章があっちこっちに飛んだりするひどい翻訳になったり
するうえ、人名や称号といったものが壊滅的に訳せないので注意が
188
必要である。
また、ここまで読んだからには、他言語版のwikipedea
の関連項目と、紹介サイトのリンクページは片っ端から飛ばないよ
うな軟弱者は存在しないと信じている。
海外ではアニメの﹁NARUTO﹂が人気! などと聞いたこと
がある人もいるだろうが、忍者・忍術関連のサイトはかなり気合が
必要である。
日本ではボチボチだが海外で絶大な知名度を誇る、初見良昭氏の
武神館のNINJUTSUが広範囲で伝播しまくっているので、ち
ょっと新しいのを見かけても内容が武神館だったり、武神館のパク
リだったりする。
武神館は伝承を色々見ていくと、初見氏の師匠の高松寿嗣がアン
ダーグラウンドチックな技術も含めて一人で纏め上げたらしきもの
をさらに推し進めた感じなので﹁忍術というのはちょっとどうだろ
うか?﹂と思うわけだが、実力は文句なしにあるし、内容も矛盾な
く充実している。
しかし、亜流や傍流、インチキ捏造﹁NINJUTSU﹂をいっ
ぱい海外に出回らせるきっかけを作ったともいえるが、海の向こう
のあいつらはなんであんなにニンジャが好きなのか。
﹁黒竜忍術﹂というのに﹁うーん、コクリュウニンジュツとかよ
RYU
NINJUTSU︵黒い竜忍術︶﹂とな
くもまあ中学生みたいなネーミングを﹂と思ったら、続く音声表記
が﹁KUROI
っていて、これは辞書を引いて書いたな、という気配がありありだ
ったりするのである。
その黒竜さんとお付き合いのある所に﹁風間竜忍術﹂というのが
Fuma
Ryu
Ninjuts
あって、もうどこから突っ込んでいいのか分からないのだが、それ
とまた別に﹁British
189
u
Society﹂というのがありやがってそこのロゴマークに
は漢字で﹁英風魔流忍術会﹂と入っていたりと、ネットの広大さを
ひたすら実感できる。
ちょっとした調べたぐらいで、ネットには大した情報が無いとか、
ネットで書いているやつは本当のことを書かないとか、なめてはい
かん。
重要な情報はネットある!
問題は役に立たないだけだ!
そんなわけで、皆さんの充実した電脳生活を支援したい。
れっつ・いんたーねっつ!
※追記
いかん、中国関連の検索方法を忘れておった。
まずは中国の検索サイトでの情報や動画を探すための方法である。
中国語には簡体字と繁体字がある。
もともと使っていた漢字が繁体字で、これは日本の漢字とほぼ同
じ、また日本では旧字と呼ばれる画数の多い方の文字を使っている
ことがほとんどなので、検索にはあまり苦労しない。
台湾や香港の人々が使っている
へん
つくり
簡体字は中華人民共和国になってから、あまりに覚える漢字が多
いので略した簡単な書き方に変更したものなのだが、偏や旁といっ
190
た規則性をかなり無視した略し方で、﹁ここは線の本数が多いから
略そう﹂と無理に省略するという乱暴なものなので、シンプルな文
字なのに慣れないと逆に面倒くさい。
だが今なら﹁簡体字 繁体字 変換﹂と検索すると、日本漢字表
記も含めて全部変換表示してくれるサイトがいくつもあるので、出
てきたものをコピー&ペーストで貼っつけて、中国系の検索サイト
の入力窓に叩き込めば、あっちの検索は大体イける。
ありがとうインターネット!
英語圏の検索で中国の人名や武術名を検索する時には何が面倒く
さいかというと、発音がアルファベットで書かれているというひと
手間が入っていることである。
Lu−ch'
まあ大概は中国語の標準発音であるピンインから、発音記号を抜
いたただのアルファベットにしたものでいける。
例えば﹁楊露禅﹂であればピンインは﹁Yang
Luchan﹂や﹁Yang
発音﹂
chan﹂と姓と名でスペースを入れるか漢字一文字ずつ
an﹂、検索するときは﹁Yang
Lu
中国語
全部スペースで分割するかのどっちかで大概は大丈夫だ。
google先生で﹁○︵発音を確認したい字︶
と入力すれば、いくらでも出てくるので、まあ頑張れ!
武術の名前も同じ。
日本版wikipediaで人名や該当拳種を探して、そこから
英語版で確認するという手もある。
例外として、たまに客家語・広東語・福建語・上海語などの発音
で人名や武術名が表記されている場合があって、そうなるとお手上
げの場合がある。
まあしかし、英語圏で漢字文化圏の武術や武道をやっている人た
ちは、トップページのロゴとかに漢字を載っけてくれるので、大体
はそこからたどれるので無問題!
191
︵日本人だって団体ごとに武で文字で﹁○○拳﹂なんてデザイン文
字を入れて﹁カッコイイ感﹂出すよね︶
もういっこ面倒くさいのが、英語で書かれた人名を中国語の文字
に戻すという場合で、これはもう関連するワードをまとめて入れて、
Yuxiang taijiquan︵太極拳︶
Yuxiang﹂とは誰じゃいな、という状態に
余計なものが検索されないようにして絞り込むしかない。
例えば﹁Wu
なったら、﹁Wu
﹂などと打ち込んでおけば、武式太極拳の武禹襄が簡単に上位で出
てくるので、ああなんだこいつのことだったのか、と簡単に分かる。
︵まあしかし太極拳関連で英語サイト巡りしていて﹁wu﹂とか﹁
yang﹂とか﹁chen﹂に武とか楊とか陳とかいう字が思い浮
かばん人間もおらんだろ⋮⋮と思っていたらそうでもなかったりす
るんだよなあ︶
あとは情熱である!
そのうち大して読めもせんのに海外の書籍資料とか手に入れたり
するようになるが、そこまでは責任は取れん!
以上である。
192
JITSU
RYU
快適な武術検索ライフを送るために︵後書き︶
しかしオランダの﹁TAI
KURODA
IYA︵体術流 黒ダイヤ︶﹂とか、もう本当にどんな顔をして読
めばいいのか。
193
﹁殺気﹂とか﹁剣気﹂とか﹁隙がない﹂とかはどんな感じなのか
︵前書き︶
思いついて書きあがったものから出しているので、我ながら話題
の飛びっぷりがひどい。
定期的に﹁初心に返ろう﹂と思ったり、﹁前回と全く脈絡がない
けど、思いついたから書いちゃえ!﹂を繰り返しております。
そんな今回は﹁殺気!﹂とか﹁剣気を感じる﹂とか﹁むう、隙が
見当たらぬ⋮⋮﹂なんて事を表現でよく見るけど、そんな気配とか
はっきり分かるものなの? という話をお送りしますよ。
194
﹁殺気﹂とか﹁剣気﹂とか﹁隙がない﹂とかはどんな感じなのか
いつものことだが最初に結論だけを言うと、分かるよ!!
人間はそれなりに感覚があって、例えば後ろからガン見している
人に﹁誰か見てる?﹂と気づいたり、何気なく横を見たらこっちを
見ていた人と目が合ったりするが、あれがそうだ。
普通の人は特にその感覚を高めたりはしないのでいつも出来ると
は限らないわけだが、例えば相手と二人しかいない広くて静かな所
で後ろに立ってもらい、ある程度の時間見続けたり、視線をそらし
たりして感じ取ることを行なってみると、案外当てられる。
こっちを見た瞬間に分かるほど鋭くはないだろうしタイムラグも
あるだろうが、繰り返しているとそれなりに反応できる。
また、相手の攻撃意志の発動とその直前の瞬間も、なんとなく分
かる。
これもやっぱり周囲に誰もいない二人だけの静かな場所で、何度
か動いてもらうと﹁機﹂が高まって実際に相手が動くほんの少し前
に﹁?﹂という瞬間がある。
﹁動く/動かない﹂の意識が半々ぐらいになった時、どういうわ
けかこちらも﹁あれ? ひょっとして動くのかな?﹂と不思議な疑
問系の感覚がある。
この﹁?﹂から相手が実際に攻撃に移るまでの瞬間に両手をパチ
ンと叩く、いわゆる相撲の﹁猫騙し﹂をすると、相手がビクッと反
応して呼吸が一瞬止まり、動きが停止する。
もう一つ、﹁?﹂を感じて攻撃に移った動き出しの直後にこっち
195
が動くと、カウンターのタイミングになる。
ちょっと文章だけではタイミングを説明しづらいが。
早すぎても遅すぎてもダメだしタイミングに相手の個人差もある
が、何度もやっていると﹁どうもここっぽい﹂という瞬間が出てく
る。
その瞬間らしい所で待ちの方が﹁ええい、勘違いかもしんないけ
ど、動いちゃえ!﹂という勢いでやると、結構成功すると思う。
自信なさ気にやると、そこでほんの刹那の差が出るのかどうかは
分からないが、ほぼ失敗する。
これを﹁先の先﹂とか﹁後の先﹂と呼ぶかもしれないし、こうい
うのを感じるのが水月移写と言うのかもしれんし、言わないかもし
れん。
責任は持たん。
よその人には別の意見があるだろうから、まあそんな感じですよ、
と思ってくんねえ。
感じ取ろうと待ちの体勢になっている時は﹁無念無想﹂とかいう
高度そうな状態ではなく、軽く周囲全体にボーっと注意が拡散して
いる感じ、というのが一番当てはまる。
ここまで書いてなんだが、これらはあくまで攻撃意志であって、
﹁殺気﹂というのはちょっとあてはまらないだろう。
というか、普通に生活している筆者のような一般社会人で、殺気
を感じるような瞬間があってたまるか。
﹁剣気﹂というのはまあまあ表現としては当てはまるかも。
﹁やるぞやるぞ﹂って感覚で、こっちからすると﹁来るぞ来るぞ﹂
って感覚ですよ。
196
﹁機﹂が高まると書いたが、これが自分のものなのか相手のもの
なのか共鳴しているのか何ともいえないもので、こういう意識とタ
イミングが一緒になったものを﹁氣﹂とかする人たちがいて、日本
人的感覚の﹁氣﹂はこれだと思われる。
︵﹁呼吸﹂とも言うねえ︶
中国的な感覚の﹁氣﹂のとらえ方はもっと物質的で、原子みたい
な扱いで、こういうのは﹁意﹂と﹁氣﹂の複合作用とされてると考
えられるのだが、まあ、そんなうっとおしい話はどうでもよろしい。
あるタイミングで大声で気合をかけると相手がガクン、と力が抜
けたり吹っ飛んだりするのは、こういう何やらグレーな領域に働き
かけるものなのだが、それなりに色々理屈があるので追求し始める
と面白いらしい。
時々、肉体的鍛錬を追及していた人がうっかりあっち側にいって
しまって、﹁高度な技術﹂とか﹁達人技﹂とか言い出すことがある。
ものすごく単純化して分かりやすい攻撃意志のやりとりをしてい
るうちに、﹁あれ? この瞬間に働きかけられるんじゃね?﹂とタ
イミングを我流で掴み、やってみたら出来たので面白くなって試し
ているうちに、どんどん仮定の理屈を試すと出来ちゃって返ってこ
れなくなり、最終的にはその﹁氣﹂たらなんたらいう所から人に教
え始めちゃったりしてしまう。
この技術はかかりやすい人とかかりにくい人、かかりやすいシチ
ュエーションとそうでないシチュエーションがある。
一番最初に始めた人はいざとなれば元々の肉体的技術でかからな
い奴をぶん殴ればすむのだが、後からそっちの技術だけを教えられ
た人がうかつに試して、かからない状態にハマってひどい目に遭っ
たりする不幸が生じたりする。
中国武術で﹁凌空勁﹂などといって離れた状態から敵に働きかけ
197
る、というのがこの手のたぐいである。
確か日本で出ている書籍だと陳炎林の﹃太極拳総合教程﹄︵福昌
堂、たぶん絶版︶でも、﹁奥深いものではあるがあんまり追求すん
な﹂︵うろおぼえ︶と書かれていたはずである。
武術に絡めて書いたが、一般生活内のシチュエーションでも第三
者として横から二人の人物のやりとりを見ていたり、あるいは直接
自分がそのやりとりの場にいて、相手に対して﹁あ、これはキレる﹂
と思っていたら、案の定怒り出したという時があるだろう。
子供が泣き出しそうな瞬間であるとか。
こういうのは人生でよく遭遇する事態なので経験則的に﹁この感
覚はもうすぐ○○が起こるな﹂と察知するのだが、相手の攻撃意志
を感じ取るのも似たようなものだ。
この感覚は毎回同じ手順での攻防を練習する、相対の型稽古で養
成されやすい。
ただの決まりきった手順の攻防、と考えると型稽古は無味乾燥な
ものなのだが、ものすごく分かりやすい限定したシチュエーション
で一つ一つの攻撃の機を捉える、と意識しながらやっていくと、こ
ういう﹁あ、来る﹂というのが分かる。
ただ注意しておきたいのが、乱戦の中でもう相手も自分もスター
トしている状態でこの感覚をあてにするのはかなりの博打であるこ
とだ。
一対一だと顕著に現れるが、これが多人数であるとか、横入りが
あったりするとそういう細かい感覚よりも、全体の流れの中での勢
いの方が重要になる。
また、一対一でも試合ならば生かせるかというと、試合ではこの
タイミングの仕切りが横でごちゃごちゃ言ってくる審判︵意識して
198
いるかは知らないが、横から﹁はじめ﹂とか﹁待て﹂とかいって、
一番分かりやすい﹁機﹂の瞬間は全部審判が仕切ってる︶で、始ま
りであるとか攻撃意志の中断であるとかが何気に審判に丸投げして
あって、それに気づかないとあんまり意味が無い。
技の攻防の最中や一つの技をかけている中で、うっかり相手から
視線を外してしまうのを﹁目を切る﹂なんて表現するが、実際に切
れているのは視線ではなく意識なんである。
現在だと﹁待て﹂から﹁中央に戻って﹂なんて時には、特に何も
考えずに相手に背を向けて中央に戻っちゃったりするのだが、その
時にずっと相手から視線を外さずに動いていくと、意識が切れずに
ちょっと面白いことになる、かもしれない。
︵とはいえずっと相手を見続けていると、﹁睨んでる﹂というよう
に思われて審判の心象が悪くなるのだろうけど︶
﹁隙がない﹂というのにも、色々ある。
武器や手を前に差し出しているが攻撃する気配が全く無く、﹁待
ち﹂に入っているのは隙がないといえば隙がない。
ただし﹁隙がない﹂のレベルとしてはそんなに高いわけでもなく、
大怪我をしないように守りを固めているので外に向かう破綻が見ら
れない、という格下がするものなので、強引な力技で突破されたり
する。
いつでも変化に対応できるような柔らかさが感じられ、力みが全
く見られず、自分から仕掛けるとなんか簡単にしのがれそう、とい
う感じに溢れまくっているのが格上の﹁隙がない﹂というやつであ
る。
だいたいこういうのはもう最初の向かい合った時から主導権が相
手に握られていて、何をやってもだめそうなので、時代劇なんかで
よくある﹁参った﹂と声をかけてからの土下座↓命乞いの流れが美
199
しい。
ただまあ、実際に動き始めると﹁あれ?﹂っていう立ち姿が美し
いだけの人もいるので、案外最後まで勝負を投げないと意外なとこ
ろで破綻が出たりする。
こともあります。
責任は取らん。
道場ではそんな感じで無敵なのに、大きな大会ではプレッシャー
で負けたりする人もいます。
格上の実力であるというリラックスがもたらす余裕による境地で
あったりもするので、﹁身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ﹂というか
﹁死中に活あり﹂というか、自分の死命を賭け金にして完全な相打
ち狙いで突っ込むと、命惜しさに破綻が見られる。
こともあります。
やっぱり責任は取らん。
日本の武術流派で、秘伝に相討ち技があるとか、基本が相討ち狙
いの狂った流派が時たま出現するのは、死ぬか生きるかという一瞬
の迷いで相手に刃が届くか届かないかを分けたりする、それなんて
チキンゲーム? という理由からなのだが、薩摩の示現流系みたい
なちょっとやっていた人たちの倫理とか環境自体がおかしい所以外
は普通に命が惜しいのでなかなかその理屈どおりにはいかない。
最終的には勝つから命が賭けられる、という考えだとなぜか上手
くいかず、やっぱり完全に生死を度外視して突っ込める奴の方が生
き残ったりするようなので、なかなか難しいもんですな。
もいっちょ上の段階で﹁隙がない﹂を飛び越えて、﹁隙がないの
かあるのかよくわからん﹂というものがある。
本当に分からない。
相手をしていただくと負けるのだが、負け方が自分でも嘘くさい。
どう見てもそんなに動きが速くないのだが、向かい合っていると
200
武器の先端がいきなり予想外の所に入っていたり、拳がなんでそこ
にあるのか分からない所から入ってきたりする。
別の人が相手をしているのを横から見ていても嘘くさい。
お前わざと当たるところに体動かしてんじゃねえのと思ったり、
普通にかわせるだろと思ったりする。
この手の人は人間のネクストステージにいらっしゃる︵だいたい
高齢︶ので、土俵自体が違うようだ。
実際に体験しないと嘘っぽい、というか体験しても嘘っぽいので、
まあそんなこともあるらしいよ、と思っておいたらいいよ! 201
﹁殺気﹂とか﹁剣気﹂とか﹁隙がない﹂とかはどんな感じなのか
︵後書き︶
書いているときのテンションで、一回が長いときと短いときが極
端すぎますな。
202
今ごろ﹁発勁﹂の話1 ﹁日本での﹃発勁﹄という言葉の歴史﹂
︵前書き︶
今ごろ発勁の事を書くとは怠慢ですわ。︵動転のあまり、お嬢様
口調で︶
いや、本当に最初の頃に書いておくべきなんじゃないかしら、さ
っき気づいたけど。
傷は浅いぞしっかりしろ。
日本に﹁発勁﹂の情報が入ったとき、大変神秘のパゥワーみたい
な感じで入ってきてしまったので後々大変だったんのですわよ、と
いうそんな発勁のおはなし。
203
今ごろ﹁発勁﹂の話1 ﹁日本での﹃発勁﹄という言葉の歴史﹂
日本に﹁発勁﹂という言葉が入ってきたのはいつか、正確には良
く分からない。
日本人としては、戦前に北京で通背拳を学んだ武田煕氏は聞いた
ことがあったかもしれぬし、1950年代に台湾から日本に中国武
術の教授にやってきた王樹金が口にしたのを聞いた人間がいたかも
しれぬし、戦前から戦中にかけて王向斉の大成拳を学んだ太気至誠
拳法の澤井健一氏も耳にしていたかもしれぬ。
が、彼らは発勁という用語を特に採り上げることはなかった。
澤井健一氏は中国生活が長かった人だが、日本語で表現するとき
には﹁氣が出る﹂﹁氣が入る﹂と言っていたようであるから、発勁
︵あるいは発力︶は﹁ちから︵勁・力︶を発する﹂というように普
通の言葉として理解していて、ひとくくりの用語として意識してい
なかったものと思われる。
とにかく、広く日本人の中国武術修行者に何かすごいらしいよと
いう知識を植えつけたのが、70年代から研究の発表を始めた中国
武術研究家の松田隆智氏だということは、確実ではなかろうか。
松田氏は﹁勁﹂という用語を単なる﹁力﹂とは違うパワーがある
のよ、と区別しつつ○○勁、××勁と紹介していった。
そうしてこういう勁を打撃に用いる事を発勁として紹介したのだ
が、いくつかの受け手側の勘違いなどもあり、中国には﹁発勁﹂と
いう特殊な打撃があるように思われてしまった。
松田氏がそれに気付かなかったのか、自身が大きく勘違いをされ
204
ていたのか、中国武術を広めるために誤解に乗っちゃえ、と思った
のかはっきりしないが、とにかく日本では﹁発勁﹂というものが特
別に存在するのだということになってしまった。
打撃の距離に関する言葉として一尺の距離︵約30センチ、前腕
分ぐらいの長さ︶でも強力だよという﹁尺勁﹂、一寸の距離︵約3
センチ、指の関節一個分ぐらいの長さ︶でもすごいぜという﹁寸勁﹂
、後は触れるか触れないかぐらいの距離の﹁分勁﹂だとか﹁毫勁﹂
だとか完全に拳または掌が密着している﹁零勁﹂とかになるともう
細かくてどうでもいいレベルだが、そういう距離でも威力を発揮す
るもの、という用語として使われる。
日本でこれが﹁発勁﹂というものだとイメージされてしまってい
るのは、だいたい尺勁よりも短い距離の打撃だろうか。
拳一個分も相手から離していない、とても全力を出せると思えな
いような距離からの打撃で、人間が後ろに大きく吹っ飛ばされる。
多くの人が﹁これこそが発勁﹂として印象付けられているのはこ
ういう絵ヅラの写真である。
多分、最初は﹁勁ってのは力とは違うのよ﹂ということを分かり
やすく伝えるパフォーマンスの一つとして寸勁などが演じられ、写
真などで載せられたのだと思うのだが、それこそが、それだけが発
勁であると、けっこうな人数の人が信じてしまった。
また、いち早く松田氏は台湾の武壇と呼ばれる組織の﹁三大勁理
論﹂に触れており、それを日本に紹介してしまったので、発勁とは
全て沈墜勁・十字勁・纏絲勁の三つによって形成されているかのよ
うに思っちゃったりしたのである。
武壇の三大勁理論は︵厳密には違うのだが︶簡単かつ乱暴に説明
205
すると、重力方向に働く力、身体を中心に上下左右の十字方向に働
く力、螺旋状に働く力が組み合わさって、発勁というものが出来る
のよ、というやつである。
この武壇の三大勁理論の大きな特徴は、﹁とても分かりやすい﹂
そして﹁大抵の物がこの三つで説明できる﹂。
これである。
いやもう、松田氏が協力したマンガ作品﹃拳児﹄の影響もあって、
中学生にも分かりやすいので、多くの人がそういうもんだと信じた
のですよ。
もちろん筆者も長らく信じてましたよ、ええ。
後になって、あれは違ったなあ、というようなものについても、
当時生半可な知識で無理やり当てはめて説明しようとすると出来ち
ゃう便利な理論だったので、片っ端から全部三大勁で出来るのだと
思っていたのですよ。
そしてみんながそれぞれのレベルで﹁分かった﹂と思った。︵思
い込んだ︶
腰を落とすような体を沈める動き。
体を左右に開いたり上下に伸ばしたりする動き。
関節をひねったり回したりする動き。
あくまで原理を説明するための便法として、これが沈墜・十字・
纏絲なんだよと示されたとしても、受け取り手が積極的に誤解し、
それぞれの動作は俺にもできる、そうかこれを同時にやったら俺に
も発勁が、と単純に考えるのが人情ってもんですよ。
そうなると勝手に、自分でこれが発勁だと思った打撃を我流で始
める人が大量に発生するのが自然の流れというもの。
206
まあこんなアホウな事を試した人数が具体的にどのぐらいいたの
か、統計をとった人間はいないのであくまで推測ではある。
推測ではあるが、筆者が個人的に知っている範囲や、インターネ
ット初期に発勁について語っていたオタク共︵筆者含む︶はだいた
い三大勁理論で考察をしていたので、その数はそれなりの多数に上
ると思う。
まあ、ある程度以上のめり込んで武術を学んでいた人や、八極拳
や形意拳や陳氏の太極拳以外の武術に進んだ人は、それぞれの門派
の動きをやっていく上でいちいち沈墜だ十字だ纏絲だと強調される
分があまりないので、そんなにかぶれる事はなかったかも知れない
が。
さてもう一つ、松田氏というととにかく八極拳最強伝説を日本に
植えつけてしまった、どころか、逆輸入的に中国の方でも八極拳が
知られるようになった原因の人である。
︵ついでに言うと松田氏経由で、三大勁理論もちょっと大陸中国方
面に紹介されちゃったりしたらしい︶
そしてまた、以前にも書いたが台湾武壇の八極拳というのは、足
をばっしんどっしん打ち鳴らす﹁震脚﹂動作がこれでもかというぐ
らい特徴的で、これで沈墜勁が威力に加わってうんぬんという話に、
もう威力のある武術には激しい震脚が不可欠なのだと思い込むわけ
ですよ。
震脚のいらない武術でも震脚を加えようとするダメな人とか、震
脚がないから威力がないとか考えるアタマ悪い人とか、そんなひど
いレベルの人が出てくるわけですよ。
それらの責任を全部松田氏に負わせる気はないが、ひどかったで
すよということは言っておきたい。
武壇の理論なので、武壇の中の武術︵八極拳、八卦掌、劈掛掌、
207
形意拳、蟷螂拳、太極拳などが教授されている︶は全部が三大勁で
説明がつくのは当たり前のことではある。
が、武壇以外で同じ武術をやっている方の中では、教えて欲しい
と言ってくる生徒に三大勁で解釈しようとする馬鹿がやってくると
いう被害をこうむっていたようで、とある形意拳の先生は﹁形意の
﹃沈身﹄は決して﹃沈墜勁﹄なんてもんじゃねえ﹂と怒ってました
な。
なんでキミ、そんなに無駄に体をひねったり回したりすんの、と
いうのが来たりとか。
今でもこの辺の誤解が解けたかというとかなり怪しいのだが、そ
れは次回以降に。
208
今ごろ﹁発勁﹂の話1 ﹁日本での﹃発勁﹄という言葉の歴史﹂
︵後書き︶
思ったより長くなったので、続く。
209
今ごろ﹁発勁﹂の話2 ﹁一方で﹃発力﹄という言葉もあるのだ
が﹂︵前書き︶
会派や団体の公式サイト以外で発勁を語っているのはイタい人。
ばっかりに見えることに、我ながら先を続けるのが躊躇われる今
日この頃。
書いているうちに、昔の恨みをぶつけているような感じになって
きましたし。
個人的に色々出てくる情報に、思春期の私は振り回されまくりま
したから。
当時は﹁中二病﹂という言葉はなかったわけですし、﹁オタク﹂
という言葉も今のような汎用性はなく、ただただ﹁俺は人には理解
してもらえない趣味を突き進んでいるらしい﹂という自覚だけがあ
りました。
シンプルに武道が好きというのと言い切るには、方向性に歪みが
ありましたから。
︵自分で自分のことを﹁オタク﹂というのは、﹁社会不適合変態ゲ
ス野郎です﹂と宣言するに等しいものがありました。まさかこんな
に言葉として一般化するとは︶
設定だけ取り出すと虐げられていた人間が強さを志す、というよ
うに少年漫画の主人公要素がいろいろあるわけですが、根性とか隠
された才能とかヒロインとか、そういう重要な成長要素が無え。
そしてそういう少年漫画主人公はきっと持っていないであろう、
アニメとSFとサブカル全般にどっぷり漬かっているという設定が
210
てんこ盛りで⋮⋮。
そんないけない過去の扉が開いてきたのを、全力で目を背けつつ
お贈りする発勁の話。
今回は発勁の混乱話の別側面、﹁発力﹂という言葉について。
211
今ごろ﹁発勁﹂の話2 ﹁一方で﹃発力﹄という言葉もあるのだ
が﹂
日本では松田隆智氏の紹介・研究が大きな部分を占めつつ中国武
術の﹁勁﹂というものが知られてきたが、その﹁発勁﹂とは別に﹁
発力﹂という表現が入ってくるようになってきたのは戦後早くから
王向斉の大成拳︵意拳︶の流れである澤井健一氏の太氣至誠拳法が
あったからであろう。
ここから先の脱線は長いのだが、日本での武道メディアの中の武
術、というか打撃系格闘技関連情報では大成拳︵意拳︶・太氣至誠
拳法のウェイトはかなり大きかったので触れておかねばなるまい。
と、いう前提で筆者の趣味全開の説明が入るので、細かいことに
興味の無い人は前半は飛ばしてください。︵弱気︶
正式名称が長いので以後﹁太氣拳﹂という名称で書いていくが、
太氣拳は極真空手と︵互いに色々思惑があったのであろうが︶かな
り交流があり、空手系の雑誌メディアで極真側の人間が言及してい
たためもあって、日本での情報の露出は早くからあった。
もっとも澤井氏は実戦派といわれるところや他派交流のさかんな
団体や会派に片っ端から接触していたり︵試合や演武会の来賓名簿
にやたら名前がある︶、目についた若者に﹁私の所で学んでみない
か﹂と手当たりしだい声をかけまくっていたという証言が色んな人
の回想資料に登場している人である。
︵ある種の名物おじさん扱いだったのかもしれないが、さすがにリ
アルタイムを知らないので断言はしない︶
極真空手との交流だけが知名度がある理由とはいえないだろうが、
﹃空手バカ一代﹄みたいな漫画も含めたメディア露出が上手かった
212
団体との関係があったために﹁実戦派中国拳法の雄﹂、というイメ
ージはかなりあった。
そういうわけで、当初は通り一遍の、なんだか中国ですごい達人
だよ、といわれていた人が作った拳法の流れを汲むらしいよ、とい
う情報から、だんだんとこれの元となった意拳とか大成拳とか呼ば
れている武術はいったいどういうものなの? という情報が伝わっ
てくることになる。
中華人民共和国との国交回復の後にその意拳情報が徐々に入って
くることになったのだが、出だしはかなり遅い。
国交回復自体は70年代だが、文化交流でも中国は﹁おれたちの
見せたい中国文化﹂というものがあるわけで、武術としては太極拳
が一押しで、各派太極拳の著名老師は時々日本にやってきていたも
のの、中国共産党政府推薦の国家制定太極拳を中心に情報を伝える
ことになっていた。
それまで台湾︵中華民国︶の中国武術情報が先行していたのだが、
台湾には国民党政府の主導で設立したの国術館に関わっていた武術
家がわんさかいた。
で、彼らは国民党が追われるのと一緒に台湾に追われていた上に、
後に文化大革命のあおりを食らって香港経由で逃げてきた武術家も
合流していたわけで、そうなると﹁これはもう中国本土の武術は滅
んだに違いない﹂というような噂が飛んでいたようである。
実際には滅んでいなかったわけであるが、﹁文化的に高級な﹂武
術の情報は積極的に伝えてくれるが、実戦派の武術の情報なんても
のはなかなか中国側も伝える気がない。
日本の太氣拳も実戦派ということになっているが、中国の意拳も
方々の武術に押しかけては挑戦していたようで、昔は﹁喧嘩を売っ
て回っている武術﹂として評判が悪かったという話を聞いたことが
ある。
213
別方面で、とある大成拳の実戦派とよばれた人が、北京の武術家
の会合に参加したときに﹁北京には大した武術家はいませんな﹂と
発言し、それにとある有名な太極拳の人が﹁試してみますか?﹂と
立ち上がったので周囲があわてて止めた、という話があるのでその
辺が膨らんだの噂なのかもしれない。
80年代に入ると、中国で意拳を学んでいた孫立氏が日本で教え
るようになり、ある程度まとまった情報がもたらされる。
1988年に太氣拳の澤井健一氏が亡くなる前後からその弟子た
ちが中国本土の意拳関係者と連絡を取り合うようになり、死後はル
ーツ探しとしてより多くの情報が日本に入ってくるようになる。
さて、長く長く違う話をしてきたが、これらの情報の流入の中で、
意拳では日本人が﹁発勁﹂と思っているものを﹁発力﹂と呼んでい
るらしいよ、ということが知られてくる。
王向斉の武術は、当初は他称である﹁大成拳﹂の方が知られてい
たらしく、まあ要する流派を超えた集大成の拳法という意味でつけ
られたようだが、一応正式名称は意拳ということになっている。
ただし本人はどうも﹁拳学﹂という呼び方を好んでいたようだ。
筆者の個人的な感想なのであっているかは全く保証しないが、ち
らちらと著作の﹃意拳正軌﹄内の言説を見るに、実際に流派門派を
超えたコンセプトとして形を無くして力の原理原則を練る、科学的
なものを志向しようとしたらしい。
意拳と太氣拳の基本的な構成は、站椿︵太氣拳は立禅︶といわれ
る、力を養成する立ち方を基本に、その力を保ったまま打てるよう
な単純な打拳の繰り返し、力を保ったまま歩き打つ鍛錬、力を保っ
たまま相手をしばき倒し続けるための組手練習、ということになっ
ていて、いくつもの決まった形の技をセットにする形︵套路︶とい
うものがない、武術の構成要素をばらしてギリギリまでシェイプし
214
たものとなっている。
だから、﹁○○拳﹂というような、従来の門派にさらに新しいも
のが加わったというよりも、そういったもの全ての上に存在する学
問のつもりで、﹁﹃拳﹄学﹂としていたのかもしれない。
いやまあ、実際に内容が科学にのっとっているかというとあまり
そうでもないんであるが、革新的なものをぶち上げたという意識が
あったことは確かで、﹁矛盾力﹂だとか﹁争力﹂だとか﹁六面力﹂
などといった、力のベクトル図を想像しやすい用語を導入している。
日本は、東洋の中では西洋の物理や科学の用語を漢字として翻訳
しなおしていたため、同じく漢字使用国である中国は、日本の翻訳
用語をかなりの部分そのまんまの文字のまま、積極的に取り入れて
いた。
そのなかで、日本でも当時の中国でも、それまでの意味での﹁力
︵power﹂︶ではなく、物理化学用語として﹁力︵force︶
﹂を用い始めていたため、意拳でもそれを念頭に、学問的な表現と
して、﹁勁﹂ではなく﹁力﹂を用いたのかもしれない。
あくまで個人的な推測だけど。
まあほんでもって、そんな事情は知らない我々日本人は、中国武
術研究家の人は﹁勁は力と違うんだ﹂というんだけど、いったい﹁
力﹂というのと﹁勁﹂というのと、どっちをどう使うのが正しいの
? と思ったりするわけですよ。
だいたい筆者なんか頭の程度もそんなよろしくない学生だったし。
そんでもってさらに南派の拳術でも﹁発力﹂というらしい、とい
うのだから、もう訳わかんなくなっちゃうわけですよ。
215
で、まあこの混乱時期を色々経過した後、どうやらこの﹁勁﹂と
いうのは力ではない、というのではなく、﹁お前が思っていたり普
段使っていたりするような力じゃない﹂というのが、回りくどいが
正しい表現であろう、というのがわかってきたりするのである。
﹁力﹂を使っている門派も同じである。
区別をつけるためにいつも使っている方を﹁拙力﹂などと表現す
る。
さらに多くの情報が入ってくるにつれ、どうもこの勁とか力とい
うものは、定義が人によって違ういい加減なくくりらしいぞ、とい
うのが分かってくるのである。
そのあたりの、うわーいいかげーん、という話や、食らうとどん
な感じなの? 打つ方はどんな感じなの? という実感の話は次回
に。
216
今ごろ﹁発勁﹂の話2 ﹁一方で﹃発力﹄という言葉もあるのだ
が﹂︵後書き︶
異論歓迎。
そして補足。
意拳には複数の技をまとめて一本に構成した形︵套路︶が無い、
と書いたが、その一方で立ち方はおそろしく厳密であり、守らなけ
ればならない要求が数限りなく存在する。
﹁打つ﹂という究極の形を追求した結果、並の人間がくじけたり、
先の見えない鍛錬に心折れてしまう、シンプルだけど深みのありす
ぎる内容になってしまった。
また、技の種類をあまり作らなかった代わりに、力を養成するた
めの立ち方が何種類もあり、逆に色々面倒くさい、という状態も生
まれていたようである。
案外、形意拳に回帰するかのような人々や、教えるための都合上、
再び技や套路を構成して新門派となってしまった人々もおり、結局
は人間のやることであるから究極の拳法が出来たので終わり、とは
いかなかったようだ。
217
今ごろ﹁発勁﹂の話3 ﹁そもそも﹃勁﹄ってなんなのよ﹂︵前
書き︶
今回は、じゃあ﹁勁﹂ってなんなのよ?
という話を。
218
今ごろ﹁発勁﹂の話3 ﹁そもそも﹃勁﹄ってなんなのよ﹂
中国には様々な武術があるが、100年かそこら前にはほとんど
人間同士のつながりによる口語の情報が主であり、別に用語に厳密
な定義があったわけじゃないだろう、という事はおさえておきたい。
時々文字記録として拳譜︵日本の武術などでいう伝書みたいなも
の︶を書き始める人間が出て、後の人間がそれを書き写して伝える、
ということで繋がっていくのだが、大半の野郎どもは文字とか学問
にあまり強くなかったことを忘れてはいけない。
拳譜なんか、﹁譜﹂というだけあって、技の名前や伝人の名前が
ずらずら書いてあるだけ、というものもあるわけで、いってみれば
忘れないためのノートみたいなもので、たまに頭のいいヤツが理論
を書き加えていた程度かもしれないのである。
拳譜への関わり方も様々である。
この拳譜というのを穴が開くほど見つめて理論を突き詰めたて、
さらに文章を追加したものを後代に伝えた連中がいる。
もらったらあとは一回も見返さずに後継者にそのまま渡した︵人
によっては失くした︶というず太い人々もいる。
一文字も読めないがありがたいお守りみたいなものとして伝えた
人もいる。
文才が無かったけれど頑張って弟子用に書き写したけど、誤字が
ありまくったので後代の人間が理解に苦労する羽目になった、なん
て人もいた。
﹁中国武術には高度な理論が﹂なんてものは一部の話なんであり
ますよ。
以前、秘伝だとか隠されているとかいう件について、すごく狭い
219
範囲でだけ通用しているものは外から見るとさっぱり分からないと
いう部分もあるだろ、というものを書いたことがある。
それと同じで、○○勁などというのは基本的に内輪向けに分類し
て説明したものが多い。
あるいは外部向けに、これまできちんと定義していなかったもの
を﹁○○勁﹂として発表するとか。
どんな流派門派でも、最初から全部の技の名前や力の出し方があ
ったわけではない。
最初は﹁それ﹂は出来たやつだけのものなのである。
そいつは自分が判ってさえいればいいのだから、別に名前も説明
もいらない。
ところが人に説明しようとする時、教えようとする時になると言
葉が必要になるので、例えば﹁もっと波打つように体を使え!﹂な
どと言葉にし、文章にしてくれと言われるとじゃあ﹁波浪勁﹂で、
というような事態が起きるのだと思う。
こじつけみたいなものもあるが、自分が出来て初めて﹁名前の通
りだった!﹂と実感に感動することもあるし、普通に使ってる力と
違うんだよということを表現したいばっかりにわざわざ名前をつけ
てみました、というのもある。
筆者の経験から言うと、﹁なるほど、まさに﹃○○﹄勁! 名前
をつけた奴は天才や!﹂とその字を選んだことに感動したこともあ
るが、一方で﹁言いたいことはわかったけど、普通の人間はそれを
﹃○○﹄って言わないよな﹂と思ったこともかなりある。
また別の話として。
離れたところから相手を操るような︵気功のパフォーマンスで見
220
るようなもの︶ものを﹁空勁﹂と名づけた人が北京にいたとする。
そうではなくて仏教の一切﹁空﹂のような自分の力の感覚が全く
なくなるものを同じく﹁空勁﹂と名づけた人も上海にいたとしよう。
両者は全く別の武術をしていて、それぞれは別個に存在している
と思っていたら、いつの間にかどこかで謎の融合が起きて、両方は
同じもので自らが空となった時に触れずに人を打つことが出来る!
と﹁空勁﹂なんて言い出す人が香港で出てきちゃったりするので
ある。
︵その場で適当に思いついて書いた例としての名前なので、現実に
﹁波浪勁﹂﹁空勁﹂などというものがあったとしても一切無関係で
す︶
○○勁というものがあってこれがないと××拳とはいえない、と
大いばりで主張している人がいて、ほんじゃ○○勁ってのを見せて
くれろというと、その人しかやっていない動きを見せられ、﹁自分
の所だけが本物の××拳﹂って言いたいだけじゃない、ということ
はよくありますな。
勁の名前はある外部に見える現象であったり、主観的に感じる感
覚であったり、とにかくすごそうな単語を組み合わせたものであっ
たり、単に動作のことであったり、哲学的な意味があるものであっ
たり、その名前のつき方には基準がなく、その人なりその門派なり
で名づけたてんでバラバラのものが存在している。
共通しているのはただ一つ、﹁そのへんの普通の人が使っている
力とは違うもののことだよ﹂ってだけです。
そんなわけで、創作で﹁勁﹂という言葉を使うとき、どう使って
もOKだ!
案外適当についているぞ。
ただし現実にあるものと同じ名前にすると、色々突っ込まれるこ
221
とがあるので注意しよう。
また、筆者のように﹁あの作品の××勁ってのは実在しないんだ
よねー、あ、△△拳に@@勁っていう似たようなのがあるからあれ
が元ネタなんじゃねえのー?﹂などとムカつくしたり顔のゲスが湧
いてくることもあるが、有名税みたいなものと思ってあきらめよう。
次回は最初に戻って、世間で言われている中国武術特有の特殊な
打撃、という意味での﹁発勁﹂のことを書こうかどうしようか、と
いう予定。
一部書いていたが、気がつくと自派の技術について書いていて、
それはいくらなんでもまずいのでもっと一般的な内容で書くべく推
敲中。
文章量が稼げなかった場合は予定は自然消滅します。
222
今ごろ﹁発勁﹂の話3 ﹁そもそも﹃勁﹄ってなんなのよ﹂︵後
書き︶
﹁功夫﹂という言葉も﹁﹃時間﹄を意味し、武術においては鍛錬
によって作り上げられた力を指す﹂と色んな所でもっともらしくい
われるが、もっと分かりやすく言うと要するに﹁年季が入ってる﹂
ということである。
なんでそんな実力をつけることが出来たのか理由が分からないか
ら、とか、具体的にどうやってその実力をつけたのか言いたくない
ので、﹁とりあえず時間のせいにしてみました﹂という言葉でもあ
るので、もし同じようなものを身につけたいと思ったらそこで納得
せずに頑張って色々と食い下がってみよう。
同じ年月をかけてもそんなものを身につけられない連中がいっぱ
いいるのだから、何かその人だけが掴んだ特別なことはあるはずな
んである。
223
今ごろ﹁発勁﹂の話4 打ったり打たれたりする実感の話︵※個
人の感想です︶︵前書き︶
あんまり具体的に書くと、自分の所属の素性がなあ。
と思ったわけだが、てやんでいこんちくしょう。
よっく考えてみりゃあ、おいらも20年近くやってるわけよ。
なんでずっとそんなにやってんのかって言うと、教えてる人が面
白くて不思議で、やってる事が面白くて不思議で、この歳になって
も面白くて不思議だからよ。
だったらその、面白くて不思議なことは書いても支障あるめえ。
まあさすがに具体的な技を書くわけにはいかんし、どうせよく分
かんないのを分かっていながら細かく書くのはただ自慢でしかもつ
まらんのだから、そんなものぁ書かねえ。
食らったときの体感とかを書くよ。
ケチケチしみったれずに書いてやらあ。
どうせ匿名だし。︵小声︶
決して、筆者が文章に色々思い悩んで書けなかったところに、ア
ルコールを入れてみたらちょっといい具合になったとかではないん
でありますよ。
224
今ごろ﹁発勁﹂の話4 打ったり打たれたりする実感の話︵※個
人の感想です︶
さて、我々が一般に﹁これこそが発勁だ﹂と考えているものは、
一番最初の回に書いたが、尺勁から寸勁のことだろう。
または、故ブルース・リーがデモンストレーションで行なった﹁
ワンインチ・パンチ﹂というもののことなんであろう。
あとは、蟷螂拳や詠春拳のような、ボクシングなどとは見掛けの
ちょっと違う、高速のパンチも入るだろうか。
o
punch﹂と打ち込めば、そっこーで見れるの
Lee
ところでみんな、ブルース・リーのワンインチ・パンチがどんな
ものか見たことがあるかな?
inch
今は便利なもので、youtubeで﹁Bruce
ne
よ。
昔はインパクトの瞬間の写真の方だけが出回っていて、やたらめ
ったら想像力をかきたててくれたものなんですよ。
まあビデオなんかは出ていたのだが、﹁一部お見せしますよ﹂と
いう感じの編集で、まあこれだけのわけがないだろう、とみんな思
っていたのだ。
実際に見てみて、﹁すげー﹂と思った人はいるだろうか?
筆者の友人が見た後に言ったのは
﹁これってすごいの?﹂
225
まあ実際、そんな動画ですよ。
拳一個分離してるようなそうでないような距離から、腕を伸ばし
っぱなしで打つと相手が後ろに﹁少し﹂飛ばされて、置いてある椅
子に座り込む。
勢いあまって椅子ごと崩れたりもするが、まあビジュアル的には
その程度である。
横から見た様子は、上半身がけっこう分かりやすく相手側に突き
こむような体勢になっているわけである。
なんだ、押してるんじゃん。
そう思ってしまったら、もうその後にどれだけ威力がすごいとか
言っても無駄である。
だって、押してるんだからそりゃあ後ずさったりするじゃん、と
思えるのだから、言えばいうほど﹁大したことのないものを凄く見
せようとするとか、こいつ頭弱いんじゃないのwww﹂とか﹁そも
そもこいつ自身が洗脳されてんじゃねーのwww﹂と、話せば話す
ほど白ける態度に拍車をかけてしまうだろう。
これはそれまで﹁発勁﹂について語ってきた人たちにも責任があ
ると思う。
そういう人たちは発勁の優位性を語ろうとして、﹁チョンとつい
ただけで相手が吹っ飛ぶ﹂というような事をやたら強調するので、
﹁ぜんぜん﹃チョン﹄って感じじゃないじゃん﹂﹁それどころか明
らかに﹃押して﹄るじゃん﹂と気付かれると、それまでのことが全
部嘘っぽく思われてしまう。
さらに、そういって説得しようとするやつもその﹁ワンインチ・
パンチ﹂とやらが出来ないのはともかく、実際に食らったわけでは
226
ないのでたいそう信憑性に欠ける。
何年前のことだったか。
ボクシング漫画で﹃はじめの一歩﹄という今も連載が続いている
作品があるが、その中で拳一個分のスペースから全身のバネを使っ
て相手にパンチを叩き込む、というシーンがあった。
それからしばらく後まで、ネットの掲示板等の書き込みで、初心
者があれが発勁ですか? と訊いている文章だとか、あれが発勁だ
! と言っている人間とかがわらわら出現していたような気がする。
会ったことのある人で、実際にそう確認してきた人もいたし。
似たようなものでは発勁ってコークスクリュー・パンチのことで
すか? と訊いた人もいたなあ。
︵たぶん纏絲勁の螺旋状に力が云々、というのを分かる範囲のもの
に当てはめようとしたのだと思うのだが、あんな近距離で外から見
て分かるぐらい回転させると自分の手首の方がどうにかなるような
気がする︶
読者が多くて、みんなが見て分かるようにカッコよく表現できる
というのはいい漫画だと思うが、多方面にカン違い野郎が出たとい
う意味では罪な作品でもあるなあ。
いや、読者の側が悪いんだけど。
そういや当時のネットではきちんと漢字変換できてない人が大半
で、﹁ハッケイを打つ﹂とか﹁発頸が﹂というようなカタカナ表現
や完全な誤字が昔はすごく多かった。
筆者個人の出来たり食らったりした範囲では、ボクシングとは違
うんじゃないかなあ、というのが実感であるのだが、前回書いたみ
たいに勁にもいろいろありますからな。
227
ほんの少し拳を離した状態から一枚の板を割っているタイプの打
撃のものは、ボクシングでも空手でも、打撃の感覚のある人だった
らできるんじゃない、というものがあって、その辺は微妙。
ボクシングの人とは友好的に交流したけどお互いに手が合わなく
て双方?な感じであったし、空手の人との交流は古流がどうのこう
のっぽい人だったので普通にイメージする﹁空手﹂というのとは違
ったかもしれず、その程度の実体験から推察するのは無理があるか。
それよりも、人間相手に打ってみた時の相手のリアクションの区
別の方が重要かも。
打たれた相手の飛び方が、ラグビーのタックル食らってなぎ倒さ
れるように吹っ飛ばされる形ではなく、なんか妙な放物線を描いて
軽く浮き飛ぶ状態になっているもの、自分で止まれずに﹁おっとっ
とっと、あれ? あれ?﹂と長い距離をやたら後ずさったり人に受
け止められるバタバタしているもの。
または、打たれた相手の顔がすごくビックリしているものや、﹁
え、なんで俺こんなんで飛ばされてんの﹂という表情になっている
ものが、神秘的なイメージを持たせている方の発勁ではないかと思
われる。
食らうとどんな感じかというと。
びっくりしますよ。
再びそんな表現か、と思われるかもしれないけれど、いやほんと
に。
だいたい人間というのは、これぐらいの身長でこれぐらいの体重
の人がこんな感じで打ってきたらこんぐらいの衝撃があるかな? 228
という予測を無意識にしていると思うのだが、人間の腕で押される
んだと思っていたら車に突き飛ばされてました、というぐらいの差
がある。
車というのは大げさな表現だが、威力が通常の2倍とか3倍、と
いうようなじっくり比較できる感じではなく、目から入ってくる情
報と違う、急にすごく異質な押され方したよ! という感触で、ち
ょっと言葉にしがたい。
そういうのを横から見て、﹁押してるじゃん! チョンと軽く突
いてないじゃん!﹂と指摘するのは分かるし、実際にもそうなのだ
が、食らったほうの実感は﹁押される﹂というのと明らかに違う感
触で、いや押されてるんだけど⋮⋮そーいうのと違ってたのよ、と
いう感じになるんですな。
ニュアンス伝えづれえな!
えーと、双方ともに体重が70kgぐらいだとして、止まってい
るところに走ってきた相手がぶつかった場合、作用反作用の法則が
働いているので衝突の瞬間に相手にもある種の力の反発が返ってい
る感触がある。
︵試しに二人で向かい合って軽くポンポンと押すと、相手から一方
的に押されているだけでなく、向こうにもちょっと響きが返ってい
る感じがする︶
それが重さの感覚で、速度によって力の大きさは変わってくるん
だけど、大元になる質量は70kg相応のもの、人間の重さぐらい
のやつが押してんな、という感覚がある。
しかし今書いている打たれ方の場合、まあ時速10数km︵人の
歩く速度は時速4km程度︶ぐらいでこっちにむかっている軽トラ
ックに対して、大したスピードじゃないと思って正面に立ちふさが
ったら何かふっとばされましたよ、という感触というか。
⋮⋮かえって分からなくなるかな。 229
ちなみに打ってる方の感覚としては、なんでこんなに効いてんの?
という感じで、まったく圧力感がないわけではないが、俺の体を
スーパーパゥワァが通るぜ! というような感触もない。
︵でも、力の感触がある打ち方もあるのがややこしい所︶
このやり方でOK、というのを体ごとで納得できないうちは、本
当に周りの人全部が自分を盛大なドッキリにかけているような不安
感がある。
ちなみにこういうときに武器なんかを使ってみると、打撃や斬撃
の威力としてはっきり現われるので納得は早くなる。
相手を飛ばして後方に力を逃がさず、それだけの力を全部その場
所で集中させるためには、力の出し方ではなくて技術としての打ち
方︵当て方︶が必要になる。
そういうのを打訣などと言うらしいのでさりげなく文章なんかに
混ぜると﹁通﹂っぽいよ!
武器を使うと威力が、ってなことを書いたが実際問題として狭い
距離の打撃というのは素手よりも近距離で刃物や長物を使うときに
必要で、素手の打撃で使う方法は後付けだったんじゃねえのという
気配が濃厚にある。
だいたい胸と胸がくっつくような距離であっても、素手ならわざ
わざそんな特殊な力の出し方をしなくても、いくらでもぶん殴りよ
うがある。
ブルース・リーが学んでいたという詠春拳というものでも、八斬
刀という﹁でっかい包丁﹂的な刃物が存在していて、どう考えても
あそこの近距離の打法ってあれでぶった斬る方法から来てるじゃん、
230
という感じなんである。
以前にも書いたが中国武術の刀というのは、鉄板を叩いて伸ばし
てそのへりをそれなりに研いでみましたというおそるべき質のもの
が結構あって︵いやもちろんいい刀もあるよ︶、﹁日本刀は鋭利か
つ摩擦の方向が引き斬りなので、軽い力でも当ててスッと引けば相
手の手首の内側の血管を∼﹂なんて神経の細かい技術だのちまちま
した理屈はない。
文字通りナタみたいに叩っ斬る。
斬り飛ばす。
また、中国は刀と剣は別物で、剣のメインは刺突。
物によってはやたらめったら﹁しなる﹂のだが、あれが相手にぶ
つかって撓んで曲がるぐらいの勢いで相手に突き通す。
ブーーーーーー
人間相手に刺したことはないが、上に書いたような力の出し方で
突っ込むと﹁ズブッ﹂と刺さるというより﹁ズ ッッ﹂という感じで、相手に当たった後に表面の抵抗を突破した後
で一気に入っていくように刺さる。
なかなか夢でうなされる手ごたえなのでおススメ。
そっち方面に特化した力の出し方のような気がするですよねえ。
︵※個人の感想です︶
231
今ごろ﹁発勁﹂の話4 打ったり打たれたりする実感の話︵※個
人の感想です︶︵後書き︶
すいませんヘタレなのでやっぱりかなり削りました。
大人は嘘つきですね。
どうおもいましたか?
おうちのひととよくはなしあってみましょう。
いやさすがにアルコールが抜けて、胃のムカつきに一日悩まされ
たら多少はアタマ冷えますって。
毎回勢いで書いているわけですが、今回は書いたり削ったりが相
当ひどかったので、何日か経ったらかなり文章を変えたり、丸ごと
削ったりしているかも。
逆に追加の回があるかも。
一回でまとめきれないものを引きずって書いていくと、後になる
ほどグダグダになるなあ⋮⋮。
232
二次創作武術について︵前書き︶
何かを色々踏み越えているような気がするが、きっと気のせい。
﹁二次創作武術﹂と﹁二次創作武道﹂とでは、後者の方が語呂が
よいと思うのだが、皆さんはどう思われるだろうか?
今回のタイトル、内容としてはより広い範囲を含む﹁∼武術﹂を
選んだが、﹁∼武道﹂と続けた方が言葉の音声の流れとしては、耳
の触りが良いのではないだろうか、と思うんである。
そんな世界観の存在に関わる重要な苦悩の元にお送りする今回の
お話。
233
二次創作武術について
﹁なろう﹂を読んでいるような老若男女は、みなさん二次創作や
オタク系同人誌について大変ご理解のあるものと信じている。
特に説明は必要ではないだろうが一応書いておくと、オリジナル
な創作物を基にして、その設定やストーリーから派生して、オリジ
ナル創作者とは別の第三者が二次的に創作する小説や漫画・造形物
などを指す。
たとえば日本の中国武術少年漫画の金字塔﹃拳児﹄をもとにして、
パロディを作ったり、まったく原作にないサイドストーリーの小説
を書いたり、主人公の少年・剛拳児と日本編のヒロイン・風間晶が
隠れ逃げ込んだ横浜中華街の路地で強引にエロい行為に及ぶ漫画を
描いたり、香港編のヒロイン・閻勇花と九龍城の逃避行中におねい
さんがいたいけな少年にエロいことを教えてあげるという漫画を描
いたり、台湾編で武術家・蘇崑崙によるちょび髭ダンディおぢさん
の同性愛レッスンが行なわれるやおい漫画を描いたり、作品の最後
まで関わってくる悪役にしてライバルのトニー・譚と﹁拳児⋮⋮お
前を俺のものにしてやるぜ﹂﹁っ⋮⋮やめてくれ⋮⋮トニー⋮⋮あ
あそんなとこ﹂みたいな耽美筋肉質少年同性愛漫画を描いたりする
ような創作的活動による作品を作ったりすることである。
なお﹃拳児﹄を例にしたのはあくまで武術に何かしらの興味を持
っている人であれば、当然知っているメジャーな武術漫画作品を出
せば分かりやすいであろうという、真剣に読者のことを思ってのこ
とであり、何かちょっと思いついて書いてみたら楽しくなったので
最後までやりきってしまったということでは、決してない。
筆者の説得力かつ誠意あふるる澄んだ瞳をお見せできないのが大
234
変残念である。
なに? 分かりづらい?
すると、夏目漱石の﹃こころ﹄を例にとった方が分かりやすかっ
ただろうか?
もういいですかそうですか。
さて、二次創作物についてすでにご存知の方は、日本の代表的イ
ベントであるコミケ等の同人誌即売会や通販、あるいはインターネ
ット上のファンサイト等でも、様々な二次創作物を目にされている
ことと思う。
︵もちろん人目に触れない二次創作も存在するけど︶
それらの人々の中では、二次創作とは別に一次創作、つまりオリ
ジナルのものを製作し、後には商業誌で作品を発表していく者もい
るだろう。
そこで大きく羽ばたいて商業作家として順調に進まれる人もいる
だろうが、一方で﹁オリジナルになると面白くない﹂という人が出
てくることがある。
二次創作作品というのはある種いいとこどりであり、元々持って
いたものの魅力だけを取り出して、一番の盛り上がりの話を見据え
ていたり、その時には快感になっている設定を背景に話を展開する
ことが出来る。
オリジナル創作者が、主人公の成長のために短期的には盛り上が
らない話を地道に積み重ねていたり、あるいはよくある展開である
ために逆に避けてしまうような部分、またはそこに至るまでに用意
した前提を、平気でスキップし、踏み越え、共有し、話を作ること
235
が出来る。
もともと面白く人気のあるもの、メジャーではなくともファンが
魅力を感じているところを拡大し、利用することが出来る。
全くオリジナルと反する展開であっても、﹁一次作品を下敷きに﹂
二次創作で提示することが出来る。
ところが、完全にオリジナルだと全部最初から自分で担っていか
なければならない。
登場人物の行動の説得力も、その小道具が出てくるための世界観
も、ちくちくちくちく自分で加えていかなければならない。
キャラクターの名前も、服のセンスも、個人でやんなきゃならな
い。
比較して考えてみてください。
すんごい大変ですよ。
で。
ここで急に話は変わる。
想像と仮定の話だが。
あなたが何かちょっと武術的なコンセプトを思いついたとする。
こいつを基本の運動の基本としたり、まったくよそ様の技の理屈
の読み解きに使えるなあ、と思いついたと考えてみねえ。
さてそこで、一から全部体系を作っていくのは大変ですよね。
そして、基礎、応用、奥義、全体を貫く理念、そのコンセプトに
たどりつくまでの変遷、そして技や構えの名前。
236
全部を自分のセンスでまとめたとして、それは果たして自己満足
センスの域を超えることができるだろうか? という悩みは発生し
ないだろうか。
また、あなた個人が何か広く他人に訴えかける魅力のある人であ
るならともかく、あなたの思いついたコンセプトを縛るような流派
会派または人物の下に所属し、あるいはかつてしていたとか。
またはどれもこれも短期間で、ほとんどそのようなバックボーン
が無い場合。
裸一貫すべて自前で提示するものが、例えどんなに自信のあるも
のでも、他人に魅力的であったり、説得力を持ったりするだろうか。
うーん。
⋮⋮おや。
こんな所に、今は全く伝えている人がいないが、昔すげえ達人だ
ったよという人が書いた書物が。
親戚流派は残っているが、だいぶ昔に分派していてこの地域では
全く伝承者が存在しない武術の伝書が。
存在自体は消失しているが、資料だけはいっぱいある流派の名前
が。
古事記や日本書紀で、猛々しい神様がいたとか、それなりに名前
のある武人がいたという記述が。
驚愕! 現在の自分自身の姓が、有名な流派の剣豪と同じ!
またはまたは父系や母系を遡ったらどこかの時点で同じ姓の時期
が!
なにか伝説でこの地に古代アトランティスの子孫が辿り着き、色
んなものが伝わったという話のなかにほんのちょっと武術をにおわ
せる描写のある奇書が!
237
これを下支えに、または骨組みに、または技名などを含む世界観
を使うと、きれいに自分の思い描いている﹁あるべき流派﹂みたい
なものが出来上がるよ。
ああ、いやいや、違う。
断じて違う。
黙って使うわけではない。
きちんと公開する流派の沿革をよく読むと、そういったものにイ
ンスパイアして創作したんだよ、って書いてあるから。
まあでもこっちが後付けで加えたものまで、古くからあるもの、
これこそが古流、と無関係な人が誤解しても責任はとれないけれど。
また、勢いあまって﹁古流では﹂なんて現代武道を批判したりも
するけど。
そういうものが現代のこの社会の中に、ありませんか?
ありませんか?
一応念を押しておくが、筆者にそういうのを非難するつもりは全
くない。
ないというか、多分こういうようなことは歴史の中でずーーーー
ーーっとあってあり続けたことであって、何かそれを指摘して貶め
るとか、優越感に浸るとか、そういう態度をとっても何もいい事は
ないだろう。
ただし、知ると面白い。
238
世の中に一貫性のある人間が滅多に存在しないのと同じで、武術
だって人間の営みであるからには、突発的に出てくるし、グダるし、
思いもかけない変容を遂げる。
だから武術というのも、結局伝える人そのものであるし、生きて
変化し、あるいは消える事だってある。
だから面白くて魅力的なことでもあるんじゃないですかねえ。
と、いい話し風に一旦感動的に締めたところで、話を戻して続け
るが。
だいたいハイセンスな人間というのは世の中に滅多にいないので、
技の名前とか、読んだ人間が酔うようなリズムの文章というのはそ
んな簡単に生まれたりしない。
地域性丸出しの独特な名称がある場合もあるが、他に聞いたこと
もないようなカッコイイ名前というのを編み出すのは大変だし、見
た目または理屈と名称が一致していないと整理に困るし生徒が覚え
るのに納得が生まれないし、ゼロからってのは色々大変じゃなかろ
うか。
すごいものについては﹁すごい﹂と分かってもらわないとならな
い。
本当にいいものであっても、筆者もそうだが世の大半の人間はボ
ンクラなので、それなりに前置き︱︱歴史であるとか有名人である
とか偉い人の評価であるとか︱︱がついてないと、寄ってきてくれ
たりはしないんでありますよ。
10年もやれば素晴らしさが分かると自信があっても、実際に1
0年付き合ってくれるかどうかはまた別の話である。
その辺の無名の一般人で、爺さんがいいこと伝えていたといって
も話をきいちゃくれないが、自分が何かの権威であるとか、爺さん
じゃなくて戦国とか江戸とかの時代から代々伝わってきたのよ、と
239
いうのとでは説得力とか納得力が違う。
そういう善意であったり、自信であったりするものが、武術にお
ける二次創作的な何かを生み出していくこともあるのではないかし
ら。
まあそれはそれとして、小説のときはそこそこだった人気がアニ
メになったら爆発しましたとか、同人二次創作分野では大人気とか、
アニメと連動したお店に人がやってくるようになりましたとか、色
々おきかえるとなかなか興味深いものがあったりするかも。
240
先手必勝闇討ち上等・情け無用の中国的武術の話︵前書き︶
一部知っている範囲の話なんで、全体がそうとか言わないが。
みなさん、中国武術というものはどう戦うと思っているのだろう
か。
構えますか?
発勁で相手を打ちますか?
太極拳みたいに相手の力を利用して流れるように動きますか?
護身って、どういうことですか?
または、日本と中国の武術は前提がいろいろ違うよ。
以前に歴史的なことを絡めた中国武術話を書いたが、もっとあり
方そのものについて書いてみようかなと。
今回はそんな話ですよ。
241
先手必勝闇討ち上等・情け無用の中国的武術の話
筆者が学んだものの考え方が異質だからという人もいるかもしれ
ないが、どうも中国武術はこういうものみたいだなあ、と感じたこ
とをちょっと書いてみる。
基本的に先手必勝である。
この先手必勝というのは、相手が構えて自分も構えていて、お互
いに様子を見て先に手を出す、という先手必勝ではない。
相手が後ろを向いていてこっちに全く気付いていないので先に襲
い掛かる、というぐらいのレベルの先手必勝である。
基本的に中国人というのは身内には異様に親切な部分がある反面、
他人を信用していない。
むかし女神転生というゲームで属性をあらわす図というものがあ
って、縦軸がライト︵光︶とダーク︵闇︶、横軸がロー︵秩序︶と
カオス︵混沌︶、中央の縦と横が交差するところがニュートラル︵
中立︶というものである。
日本人であれば敵対関係にない外部、その辺を歩いている初対面
の他人は、よほどあやしげな風体でない限りは基本的にニュートラ
ルの周辺に位置すると思われる。
これは中国人の場合、身内以外の外部、敵でない第三者は基本的
にダークかつカオスの領域になる。
中国という大地がすでにカオスやんけ、という話もあるが古代か
ら延々と役人や軍隊の腐敗と不正がつきもの、すべてやったもん勝
ちという地域が育んだ意識というのは日本人の標準意識から考える
と、理解できないことがある。
近年になって中国がひどいとか悪辣だとか中国共産党がとかいう
242
話があるが、昔からひどい面では一貫してひどいし、多分今後も変
わらないので変わらない前提で上手くやっていくことを考えた方が
建設的だと思われる。
政治的な話はどうでもよろしい。
そういうわけで、身内以外の人間は潜在的な敵である。
大変自己中心的であるが、国に世界の中心を意味する﹁中華﹂と
いう名前をつける所のことであるから、自己中心的であることこそ
当たり前ともいえる。
そうなると彼らの価値観における護身にとって肝心なのは、いか
に主導権をとって先に手を出すか、ということになる。
相手が先に手を出してから、という考え方は存在しない。
日本の武道や武術を行なっている人は、﹁自分から相手に襲い掛
かる﹂ということを想定したことがあるだろうか。
ちなみに相手は別に悪人ではなく、単に自分と利害が対立する相
手であって、場合によっては自分が社会道徳的に悪の側である。
日本の武道には﹁活人剣﹂といって、元は仏教からきた言葉らし
いが、道徳的な意味では多くの人を救うために力を振るうこと、技
法的には相手を先に動かして戻れない所まで来た時点でカウンター
をかますことを意味するような言葉があるらしい。
筆者は日本人的な感覚からは﹁活人剣﹂とかいうのは馴染みもあ
るし美しい言葉だと思うのだが、中国武術的感覚でいくとものすご
く﹁しゃらくさい﹂。
まず大前提として、中国武術は武術に道徳を求めない。
ヤバい奴︵自分や身内に迷惑をかける可能性がある奴︶には教え
ないという選別はあるが、武術をやることによって心正しくなると
243
か、武術が礼儀や忠誠心を養成する、ということを信じていない。
人格者であることと、武術の達人であることはすっぱり切り離さ
れていて、そこを混同しない。
武術はすなわち暴力である。
武術は単に技芸であり、そこから天下の兵法という発想には至ら
ない。
大の兵法と小の兵法は別のものであり、武術をやっていたので相
手を効果的に脅せました、ということはあるが、武術で学んだ駆け
引きが交渉で生きました、という感覚が無い。
︵筆者は個人的に、昔の日本の武術も基本的に武術的境地と人間的
境地は混同しなかったと思っているのだが、どうなんだろうか?︶
先に述べたがあらゆる意味でも力が上の者が正義であるので、社
会的立場の強いものが相手を殺してしまった場合、賄賂やら人脈や
らを使うとそれなりにもみ消せる。
逆の場合、勝った者の言い分が正しくても罪に落とすことが可能
である。
︵現代でもかなりそういった状態であることが伝わっているだろう
が、昔からそう︶
であるため、死んだら死に損であり、基本的に徹底的に先手を取
る。
後の先などという、相手を観察し様子を見、打たせてその後をと
るなどという、そんな余裕のあるぬるくさい展開をほぼ考えていな
い。
日本では刀を持つのが武士階級で支配層で秩序の側であり全体の
合意というような統治のバランスをとるが、中国は地位か暴力を持
っているものがエゴを通すのが﹁秩序﹂であるので、勝つためには
仲間も呼べば後ろからでも襲い掛かる。
命が助かるならばいくらでも命乞いをするし、きちんと手打ちに
244
ならなければ、許した相手が後ろを向いた次の瞬間には襲い掛かる。
であるからには、一瞬でも早くこちらから相手に飛びかかって一
方的にボコボコにする、完全にブチのめすまでは手を止めない、と
いうのが戦闘法である。
相手に先に飛び掛られた場合は、一撃を耐えるなり、受けるなり、
カウンターを返すなりして主導権を取って一方的にボコボコにする。
こちらから素手で飛び掛らない場合というのはすなわち、近くに
ある椅子や机をブン投げる、武器になりそうなものが近くにあるの
でそれを取る、という場合である。
相手の殺気を感じて手を出すというのでは遅い。
正味な話、どれだけ相手より先にキレて先に手を出せるか、みた
いな領域になっている。
︵キレた瞬間には手が出る︶
日本の創作物なんかで、素手の争いで刃物を出すのがゲス扱いだ
が、むしろ先に出すべき、という勢いである。
一時期日本でタックルからマウントポジション︵馬乗り︶に対し
て、どう対処するか、対処できないものは格闘技失格みたいな風潮
があったが︵今もあるのかな?︶、当時筆者もどうするんですか?
と訊いたら間髪いれずに
﹁すぐ取り出せるところに刃物を身につけておけば大丈夫!﹂
と言われて、ドン引きした記憶がある。
タックルから馬乗りなんて状況は、一対一の喧嘩みたいな状況ぐ
らいでしか発生しないだろ、命まで取られる事は無いから安心しろ、
245
とも。
だいたい中国武術には寝技というものはない、心配なら習ってく
ればいいじゃないという、てなもんである。
そこまでの体勢に陥った所で﹁武術の身体操法で対抗する﹂とい
う必要を全く感じない、という感じであった。
ニュアンスを伝えられるかどうかわからないが、つまり武術に﹁
すべての技に対抗﹃出来なければならない﹄﹂というような、ある
種の万能性︵幻想・期待︶を全く持とうとしていない、という割り
切ったドライさを感じた。
むかし中国武術では武術家同士の試し合いで、互いの体を交互に
3回打ち合うという形式のものがあった。
これは、取り返しのつかない状況になって遺恨を残さない、互い
の体面をなるべく保つようにするためだったようだ。
ブルース・リーがアメリカに渡って現地の武術家と果し合いにな
り、途中までは普通に勝っていた。
ところが相手が道場中を逃げまわったので、リーも走って追いか
けることになり、最終的にかなりグダグダの状態で勝利することに
なる。
そこで何か中国武術っておかしいよね、体力とか機動力とか無い
と困るじゃん、と感じたのがジークンドーを生み出す動機になった
という話なのだが、裏を返すとそもそも果し合いであるとか試合で
あるとか素手の一対一の闘争をメインとする、という前提自体が無
かったってことじゃないの、と思える。
残っている古い試合動画を観るとグダグダなものが結構あるのだ
が、多分互いに距離を取ってペース配分して試合を行なう、という
感覚が根本的にわかっていなかったのだと考えている。
246
相手が何をやってくるか分からない、というのがまず大前提とし
てあって、一瞬で勝負がつくか、グダグダでドロドロの泥試合にな
ることが多かったようだ。
247
先手必勝闇討ち上等・情け無用の中国的武術の話︵後書き︶
太極拳などを中心に、中国武術にはタオの哲学がどうのこうの、
という深い思想が最初から内包されているように思わされているが、
筆者は多分そのように気功やら道教やらと混じったのはかなり新し
いと思っている。
長く見積もっても200年ぐらいなんじゃなかろうか。
易や太極の思想が、というのは深いことをいっているような気が
するかもしれないが、あれはつまり全ての物質は原子から構成され
ている、というのと似たようなことを言っているのであるからむや
みに感心するのは禁物である。
あ、そうそう、それと日本人と違って﹁負けから学ぶ﹂という感
覚が無いような気もする。
日本人は負けなら負けなりに妙味みたいなものを見出すが、彼ら
は克服は目指すが、その負けがどういう風に味わい深いものか、な
んて陶酔をしない。
248
クールジャパン!
日本の政府が、すでにある程度自然発生的に広まっている日本の
ポップカルチャーを、戦略的かつ効果的に広めようとしておるらし
い。
キーワードは﹁クールジャパン﹂。
ネット上での違法配信・違法頒布が中心のために日本の権利者に
金が入って来ねえ、かつ色々と幼女愛好文化だとか触手愛好文化だ
とか悪い方のイメージが強いのでなんとかしたいよ! ということ
なんであろう。
近年、韓国がアジア圏でK−POPだ韓流ドラマだとブイブイい
わせて成功したので、よーしこれはジャポン様も本気を出しゃあ上
Sty
手くやれるに決まってるぜ、と色気が出てきたんではないかと思っ
ている。
最近はPSYとかいうアーティストが﹃Gangnam
le︵江南スタイル︶﹄とかいう曲でyoutubeが何億再生、
といってるがあれは工作員の水増しにきまってらあ、という意見や、
あんなの大したことないぜ、日本にはもっとクールでクオリティが
高いものがあるぜ、と思うのはわからんでもない。
こっちだって負けていない、きゃりーぱみゅぱみゅってのがポッ
プで欧米で話題になったぜ!
初音ミクってバーチャルな電子の妖精をアイドルとして盛り上げ
てやるぜ!
まあ、キミちょっと待ちなさい。
249
分かってないかもしれないけど、韓国のPSYさんも日本のきゃ
りーさんも、向こうの人にとっては同じカテゴリなんやで?
ベクトルが違うだけで、ある認識の元に受容されとるで?
それは何かというと﹁ウチの国にない︵良くも悪くも︶変なもの﹂
枠である。
K−POPが欧米に鳴り物入りで進出して、現在ひっそりと撤退
中であるが、これを笑うことはできない。
本格的な実力というならばそれより先行すること10年近く前、
日本でも宇多田ヒカルがアメリカ進出をしているのだが、見事に失
敗している。
宇多田ヒカルの日本でのヒット中︵90年代末期︶筆者は当時大
学生であったが、進出当時の洋楽に強い友人の評価は﹁日本人離れ
した実力﹂というものであった。
彼の耳の感覚としては、﹁向こうの曲と比較して劣ってないよー﹂
という話だったのだが、全く売れなかった。
youtubeが盛り上がってきた2000年代初頭、確か彼女
のPVの再生数が突出していたが、それは使われているCGが明ら
かにアジアンテイストかつ歌が日本語であったからだ。
ひどい言い方だが、﹁美麗でハイテクなCGでかつジャパン﹂そ
して歌が上手いということが注目されたのであって、彼女がアメリ
カ進出時にとった現地のアーティストのようなPVで英語で歌って
いたら、再生数はちょっとよくてコメントは日本人のみという有様
だったと思う。︵というか実際CG使ってない他の曲はそうだった︶
国や出身地域が関係ない、ワールドワイドな実力がどうのとかい
うが、すでに欧米にある高品質なものと同じ土俵で真正面から競合
250
すると、わずかな差異で圧倒的に劣ったもの扱いされる。
手足が長く、黒人のようなリズム感と高いレベルのダンスという
ので戦えると思っていたら、向こうは﹁ウチの国にある黒人のダン
サーを見ればいいのであって、なんでわざわざアジアの同じものを
見なきゃいけないの?﹂ってことになっちゃうのである。
それで考えると、太ったアジアのおっさんが低音を強烈に効かせ
たパーティ系の音楽で踊りまくるというものや、保育園のおゆうぎ
ダンスを高度にした振り付けで欧米人にくらべるとガキっぽい体つ
きの女性アイドルがアニメキャラみたいな声で歌う、というのは自
分たちの文化の中にないマッドで魅力的なものである。
日本人には﹁おれたちの見せたいジャパン﹂があるのかもしれな
いが、一方で向こうは向こうで﹁オレタチの見たいジャパン﹂があ
る。
中国での北京オリンピックの開会式当時、筆者は会場を埋めつく
す少林寺武僧が映画﹃少林サッカー﹄の主題曲に合わせて一斉に棍
を振るい、人民服を着た国家主席が毛沢東語録を小脇に抱えつつ登
壇する、というマッドな演出が起きないかなーという妄想を抱いて
いたのであるが、実際にはCGも使用しつつ現代アート的演出に満
ちたものであった。
筆者が見たかったのは﹁自分の好きなものだけで固められた中国
的演出﹂であり、先方が見せたかったのは﹁中国の発展のさま﹂で
あったために完全に期待を裏切られてがっかりした記憶がある。
そういうことは武術においても起こっていると思う。
**********************
筆者は、日本の武術が海外に行って妙な方向に変質するのが大好
251
きで、アメリカで沖縄の空手を教えている新垣清という人が昔雑誌
に書いていた﹁アメリカン・カラテ﹂事情には心が躍ったものであ
る。
どういう内容だったかというと、例えば、日本で﹁誠心会空手﹂
というような名称のものがあったとして、悪い日本人が教えたのか、
道着の文字の刺繍が﹁精神科医空手﹂になっていたとか。
ある日本人の空手の先生が、アメリカの演武会で地味だけど奥深
い型をじっくり演じたが反応が今ひとつで、まあそんなもんかなと
思っていたら、会場が暗くなってスポットライトがついたと思った
ら照明の中心には黒い空手着に金の刺繍、蛍光塗料で光るトンファ
ー、そして掛け声が﹁キアイッ!﹂︵気合のことらしい︶で、こり
ゃあひどいと思っていたら会場大絶賛とか。
やっぱり会場が暗くなってスポットライトで照らされたら中央に
棺桶状の箱、蓋がずれるとドライアイスの煙とともに光るヌンチャ
クを持った人物が登場とか。
そしてそれを見た空手の先生が、次からは派手な原色系の空手着
に蛍光塗料を塗った棍をを使うようなったという話も。
さすがに現在はそういう人たちはいないというか、マテリアル・
アーツとかエクストリーム・マーシャル・アーツなどと言われて、
もっとアクロバティックかつクールなスタイルで完全に棲み分けら
れるようになっているようだ。
これは向こうの人たちが
﹁カッコいいと思ってカラーテやカンフーを始めたら、実際には地
味で面白くない⋮⋮よーし、それじゃあ﹃オレタチの考えるカッコ
いいカラーテ、テコンドー﹄を作るぜ!﹂
という動きを生み出していったという事情がある。
テコンドー、ハプキド、クックソールウォンなどのアクロバティ
252
ックな韓国武道がそういった欲求の受け皿になって広がっている部
分もあるが、何しろ韓国人以外には不要なほどナショナリスティッ
クな背景があって色々めんどくさいので、完全な創作武道パフォー
マンスであるエクストリーム系で健全に活動しているらしい。
︵この辺の事情についてはいつか別の機会に書いてみたいとたまに
思うのだが、めんどくさいのでたぶん書かない︶
その一方で、どっか変なんだけれど必要以上に忠実にやっている
人たちもいる。
筆者などは日本の武術が海外で面白い方向に変形したりしないか
しらと日々期待していて、ニューヨークなんかでどうにかなったの
が日本に逆輸入され、
﹁日本では絶滅した武術、﹃イットー﹄スタイルのマーシャル・ア
ーツを教えます! これがシークレット・アーツのガルゥーダ・ブ
レイドです!﹂
なんて感じで一刀流の金翅鳥王剣が演じられたり
﹁この丸太が転がるように激しく回りながら変化するというのが、
﹃ネオ・シャドウ﹄スタイルのログ・ブリッジ︵丸木橋︶の教えで
す!﹂
なんて感じで激しく何かが間違った新陰流の転︵まろばし・丸橋︶
の解説がされちゃったりする日が来ればいいのに、と無責任に願っ
てやまないのだが︵最低︶、あんまりそういう方向には行かないよ
うである。
しかし、それは国や人種を越えた価値を見出している、と素直に
信じきれないものがある。
もちろん真面目に本来の意味や奥深さに魅力を感じてを追求して
いる面もあるだろうが、コスチュームプレイみたいに様式に遊んで
253
いる部分があるんじゃないのかしら、と思うことが多々ある。
南アフリカの人が道着に袴姿で、﹁マエッ︵前︶!﹂﹁ウシロッ
︵後︶!﹂なんて言いながら居合︵たぶん全剣連の居合の﹁前﹂﹁
後﹂という技︶をやっていて、うーんこれはどうかな? なんて思
ってしまったことがあるのだが、みんな自分たちの言葉に直したり
せず、だいたい日本語名そのままである。
これは英語で﹁フロント﹂とか﹁リア﹂というのはきっと興ざめ
なんだろうなあ、と思うのだ。
ちょっと想像してみてほしいのだが、例えば日本人が太極拳の金
剛搗碓という技を﹁﹃たいじーちぇん﹄の﹃じんがんだおどい﹄!﹂
︵もちろんモロに日本語的発音︶なんてしゃべっていたりするのは、
世間一般の日本人から見てどんな感じだろう?
普通は日本的な読み方ができるので﹁こんごうとうすい﹂と読む
人のほうが多いと思うのだが、いやいや﹁じんがんだおどい﹂だと、
別にこちらに文句をつけたりはしないものの絶対にそこを譲らない
んである。
現実にはない極端な例だが、海外の人がしているのは同じような
質の行動ではないだろうか。
そこにはある種のコスプレ感であるとか、文化的異物の楽しみと
いう意識があって、そこに必要以上に入り込んでいる気がする。
もし、技術の外形ではなくその本質の理合に感銘を受けたという
のであれば、袴に日本刀というスタイルを離れ、もっと新たなもの、
現代にあったスタイルになってしかるべきだと思う。
それはブルース・リーにおけるジークンドーであったり、南米か
ら発生したグレーシー柔術であったり、いくつも存在している。
それでもやっぱり日本と同じ道具やスタイルで追求しているとい
254
うのならば、やっぱりそこには﹁オレのやりたいジャパンのサムラ
イ・アーツ﹂みたいなものがあると思う。
誤解のある人たちと外に出ている形は違うし、より日本に実際に
あるものに近いのだけれど、根本的な欲求の部分では同じじゃなか
ろうか。
現代の日本で古武術なんかをやっている日本人も、環境や文化が
連続性のあるより近い立場ではあるけれど、そういった部分では海
外の人と変わらないかもしれない。
古武術の技と称して、本来はそれだけを取り出して扱ったりはし
ないものを﹁本来の武術﹂なんて言い出したりしている人がいる。
現代の何かに対する批判の中で古武術を取り上げて﹁これが昔は
普通だった﹂なんていうのだが、そこには実際の武術ではなく発言
者の﹁こうであってほしい古武術﹂像が垣間見えるわけで、意地悪
な視点だけどそこはどうだろうと思うときがある。
その技術や理論・運動から、﹁古武術の﹂という前提を取っ払う
と、それ自体は持ち上げられるほどには魅力的なものじゃなかった
り、いってみれば普通の範囲の言説だったりするんじゃないですか
ねえ。
255
クールジャパン!︵後書き︶
という深い含蓄があるようなふりをした締め方をしてみた。
合気道の英語教本で天地投げの英語名が﹁ヘヴン・アンド・アー
ス・スロウ﹂という大変にファンクな連想が起きるものになってい
て、確かにそうなんだけど本当にそれでいいのかと思ったことがあ
る。
︵﹃アース・ウインド・アンド・ファイヤー﹄というファンク・バ
ンドがあるんですよという若い人には分からないネタ︶
256
武術雑話 4 同門他派のはなし︵前書き︶
外野として実際に体験した話。
まとまりがないので今回は雑話あつかいで投稿。
257
武術雑話 4 同門他派のはなし
先日、同じ流派の別会派同士の人のweb上のやりとりを見るこ
とがありまして。
︵というかその場の会話者のひとりとして参加してた︶
会話の立ち上がりは普通だったのだが、片方の人が提示した自派
の定義がなにかもうひとりの人の地雷を踏み抜いたらしく、突然す
さまじい非難と罵倒が始まってびっくりしましたよ。
いやあ何というか。
武術とか武道とか研究とか好みとかBLの組み合わせとか、遠く
て共通点のないものよりも、同じジャンルや同じ作品内の意見の相
違の方が激しくぶつかるのですな。
何やら最終的には貴様には地獄すら生ぬるいというレベルの所に
突入して、決裂して終わったわけですが。
筆者も同じ流派の違う会派について、他流派に対する態度よりも
はるかに激しく批判的になってしまうのだが、ああいうのは近くで
外部の人間が見聞きするとドン引きさせてしまうのだと大変実感し
た。
もっと心を広く持ちたい。
なあなあで済ませるのも問題があるのだろうけど、広い意味では
同門なんでそんなに攻撃することはないんじゃなかろうか、と外側
の視点で見れたのでありますよ。
その場にいた第三者として﹁うわあこの流派内ギスギスしてるわ﹂
と精神的耐久力をゴリゴリ削られました。
258
そのことがあって思い出したことだが、何年も前に某団体の人が
別の某団体の人に
﹁おうおう、お前のとこの正統○○流という名前、同じ流派のわし
らに喧嘩売っとるんか﹂
と絡まれてる場所に立ち会ってしまったことがある。
絡まれた人は自身の流派の成立についてよく知らないひとだった
ので、
﹁師伝がそうなんだからそんなこと言われても困る﹂
﹁知らんからといって許されると思っとるんか、無知を開き直るん
も傲慢だろ﹂
というどうしようもない水掛け論に終始して、これもまた最終的に
は最初にふっかけた方が捨て台詞と共に去るという結末に。
後から筆者が色々と事情を調べてみると、その流派全体は××派
○○流とか△△○○流とか○○流■■会といくつも分かれた上で、
それぞれが別個に独立して存在している所だった。
本家筋・宗家筋というか、代々伝えていた一族も別個に残ってい
るが、統一組織のようなものはない。
その中でとある師範が、伝えている技の相違によって分かれてし
まったが、そもそも○○流とは如何なるものだったのか、その○○
流を○○流たらしめている根源的なコンセプトとはなんだろうと研
究を積み重ねた結果、初期に分かれた重要な各派の技法をトータル
に見渡した上で、その後の各派の技法も含めつつ新たにひとつの形
に纏め上げた。
そうしてその人は、これが最初にその流派が成り立ったコンセプ
259
トを貫きつつも、現在の時代に即したブラッシュアップされたもの
であるとして、単に﹁○○流﹂と述べた。
新派を立てたつもりはなく、あくまで様々に分化する以前のもの
の核は見失わずに、その後の各派を統合する今日的な姿にしただけ
である、というのがその師範の見解であったようである。
良し悪しを全く考慮せずにいうならば、これは一つの主張ではあ
る。
しかし、その人がまとめあげた形とある特定の個人︵師範自身︶
だけがイコールでくっついている時は問題がないのだが、一つの団
体の内容として伝わってそのお弟子さんの代になると、さて俺が伝
えられた﹁○○流﹂とは名前の前後に何もついていないが明らかに
他派と違うよね、という問題が生じてくる。
組織を継続し、その内容を広めて行くにあたって、他派と比べて
一体いかなるポジションに位置するものであろう、ということを決
めにゃならんという時がくるわけですな。
開祖の血筋は別に存在しているし、先代はそこの直接の弟子でも
ない。
あくまで技術上の統合を、個人が主張したものである。
うーん、しかし先代は自分が創出したものこそが﹁○○流﹂だと
言っていたよなあ。
⋮⋮よし、じゃあ他と区別するために﹁正統○○流﹂と名乗って
みようか!
そんな経緯がありました。
これを知っていたら絡まれた人も別の対応の仕方があったかもし
れぬ。
260
ただ武術は、最終的には﹁武﹂術であるがために、
﹃ここに何かを主張する○○拳がある。
それとは別の主張をする○○拳がある。
お互いに戦って最後に立っていた奴が正しい。﹄
みたいなことを口走る過激でアルティメットな老師もいて、つい
でに口走るだけじゃなくて実際に実力行使で黙らせる人なんかも出
てくる。
それに比べれば議論のやりとりは平和的ではある。
ただし最終的には喧嘩別れして無視し合うことになるにしても、
自分たちがどこによって立っている存在なのかは大事なことなので、
ある程度知って自覚しておいた方がいいと思う。
知らなきゃ済むかというと、知らないことでかえって相手の怒り
に油をそそぐ場合だってある。
みんなで仲良くいきたいけどねえ。
*********************
関連した別のはなし。
特に知識もなく外部の人間の勝手に想像してしまうことの一つに、
××派○○流と名乗っている人たちは本家本流に対して﹁遠縁の親
戚﹂みたいな自覚があるのだろうと思ってしまうことはありません
か。
261
フィクションの中の金持ちや貴族の一族の話に出てくる、本家が
分家を下に見て、分家は本家に媚びへつらうという設定みたいなも
のが、流派の関係にもあると思ったりはしませんか?
現実の話として、そこに所属している人でそんなことを考えてい
る人間は存在しない。
よってうかつにそんなことを相手に口走ったりしてはならない。
そういう人々の中には﹁ウチの会派にはウチの会派なりのよさが
ある﹂と思っている奥ゆかしい人はたまにはいるが、基本的には﹁
本家が別にあっても一番強くてイカすのはウチの会派﹂と思ってい
る。
同じ流派の中で実戦派と呼ばれる会派があるような時も、それ以
外の会派の人はウチは実戦ではあそこより弱いと思っているかとい
うとやっぱりそんな事はない。
客観的な根拠は全くなくても、最終的には自分の会派こそが最後
に残ると思っている。
そういうものである。
だから﹁本当は何々流の宗家の所に入りたかったけど近所になか
ったので、仕方なく何とか会に入りました﹂というのは本当にそう
思っていても口にしちゃダメよ。
そこでずっと続けていればいつかあなたも﹁最初は仕方なく入っ
たけどここで良かった﹂と思うようになる日が来るのだから。
262
武術雑話 4 同門他派のはなし︵後書き︶
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PDF小説ネット発足にあたって
http://ncode.syosetu.com/n7690p/
ヘタレ武術修行者の日々
2016年7月14日23時07分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
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