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君はリングスを知っているか

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君はリングスを知っているか
君はリングスを知っているか
中村鉄也
タテ書き小説ネット Byヒナプロジェクト
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この小説の著作権は小説の作者にあります。そのため、作者また
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︻小説タイトル︼
君はリングスを知っているか
︻Nコード︼
N4281N
︻作者名︼
中村鉄也
︻あらすじ︼
今日の総合格闘技の発展には、かつて前田日明が旗揚げしたリン
グスの存在があった。
2010年10月に迫るリングス復活興行に先立ち、ふとしたきっ
かけでリングスにぞっこんとなった筆者が、リングスについて熱く
語る!⋮という駄文です。
1
※注意⋮筆者はリングスをリアルタイムで見ておりませんし、現代
の総合はむしろ低く見ています。
そのため、矛盾や偏見も入り混じることを、あらかじめご容赦下さ
いませ。
2
リングスの黎明
﹁総合格闘技﹂
このスポーツを一躍日本中に知らしめたのは、PRIDEであるこ
とは確かであろう。
しかし、総合格闘技の源泉を、あなたはご存知だろうか。
今や伝説の一戦と語り継がれる高田延彦対ヒクソン・グレイシー戦
から、遡ること七年余り。
1991年5月11日
格闘王と呼ばれた、前田日明が旗揚げした総合格闘技団体
ファイティング・ネットワーク・リングス
これこそが日本のスポーツに﹁総合格闘技﹂というジャンルを新た
に生み出したのである。
リングスの発足に至るには、幾分時を遡る。
3
1991年1月。前田をはじめ、高田や藤原喜明、船木誠勝に田村
潔司と今考えるととんでもない選手層を誇った旧UWFが解散。
その後、高田はUWFインターナショナル︵以後Uインターとする︶
、藤原は藤原組をそれぞれ旗揚げ。後に藤原組から離脱した船木が
鈴木実︵後の鈴木みのる︶とともにパンクラスを旗揚げさせる中、
前田は日本人選手が自分のみ︵その後長井満也が加入︶という状況
でリングスを旗揚げした。
前田にとって恵まれていたのが、旧UWF時代から親交を持つ、オ
ランダのクリス・ドールマンから、そして、開局間もないWOWO
Wから、それぞれ全面協力を受けたことだった。
特に、後者の協力は、前田の持つネットワーク構想に大きかった。
活動休止に至るまでに十ヶ国に支部をおき、それぞれの国での興行
も行われた。そしてネットワークを構築したことにより外国人選手
の招聘には困らなかった。
また、資金についても、Uインターや藤原組とは比較にならないく
らいに潤沢であった。
しかし、発足当初は選手不足、特に日本人選手が明かな駒不足だっ
た。旗揚げ直前にUインターから移籍した長井は力不足で、トップ
クラスの外国人とまともに渡り合えるのは前田ただ一人だった。
窮状の象徴が秋に開催予定の札幌大会を、負傷の影響で延期すると
いう事態に陥ったのである。
そんなリングスに頼もしい味方が現れた。
空手の正道会館である。
4
人気選手の佐竹雅昭と角田信朗かプロ選手としてデビューしリング
スを盛り上げた。
特に佐竹の活躍は目を見張るものがあり、多くの有力外国人をKO
に葬ったのである。
正道会館はリングスで興行のノウハウを学び、それが後のK−1に
繋がって行くのである。
余談だか、あのピーター・アーツの日本デビュー戦はこのリングス
で飾っている︵リングス・オランダの選手として出場︶。
5
戦場の狼、来たる
91年12月。
今日の総合格闘技の歴史において、その繁栄を約束する男が、崩壊
寸前のソ連から来日した。
その男、名をガムザトキノフ・マゴメットハン⋮
またの名を﹁ヴォルク・ハン﹂
千変万化、否、億変兆化の関節技でリングを色鮮やかに染め上げた、
コマンドサンボのエキスパート。
彼の来日により、従来のプロレスと大差のないサブミッションのバ
リエーションが桁違いに増えた。
クロスヒールホールドをはじめ、次々と新しい関節技を持ち込むハ
ンは、瞬くまにリングスを席巻した。
ほりまい・ともゆき
ハンの来日には、世界アマチュアサンボ連盟会長︵後にリングス審
議委員長︶の堀米奉文氏らの尽力があった。
当時のロシアは、ソ連の崩壊間もない頃で混乱期にあったために、
なかなかビザの発給に至らなかった。
やっとこさ発給したら、今度は日本が﹁旧ソ連の元軍人﹂というこ
とでなかなか入国を認めなかった。
6
仮にハンの来日が実現しなかったらどうなっていたか⋮⋮考えるだ
けで堀米氏の東奔西走ぶりには頭が上がらない。
明くる92年。リングス・ロシア、リングス・グルジア、リングス・
ブルガリアと着実にネットワークを拡大。それに対し新たな強豪達
が日本にやってきた。
その筆頭が、ロシアのアンドレィ・コピィロフである。
当時旋風を巻き起こしていたハンに対し、旧ソ連サンボ大会での直
接対決は3勝1敗と勝ち越し、残した戦績はハンを凌ぐといわれた。
その前評判通り、リングスでの地位を築きつつあったハンを撃破。
前田とも死闘を繰り広げたのである。
一方、ハンも92年あたりから本領を発揮しはじめる。
まず5月の広島大会で前田を破り、8月の横浜アリーナでは、人気
やまもとよしひさ
絶頂のフライと激闘の末逆転勝ち。その試合はメインの前田対コピ
ィロフを上回り盛り上がりだった。
またリングス・ジャパンにおいても明るい話題が。
なるせまさゆき
6月、有明コロシアムで開催された興行で、成瀬昌由と山本宣久の、
生え抜きの若手がデビューを飾った。
この頃からジャパン勢もようやく新戦力が台頭してきたのである。
7
92﹂
そして、10月。ついにリングスは初のトーナメントを開催する。
その名は﹁メガバトルトーナメント
8
前田、赤鬼に屈す
リングス初のトーナメントは、組み技系ブロックと打撃系ブロック
にそれぞれ8人ずつ、5ヶ国計16人が参戦。うち日本人は、リン
グス・ジャパンから前田と長井、正道会館から佐竹と角田が出場し
た。
前田は一回戦でハンと対決。ハイキックでKOに葬り二回戦進出。
二回戦では、ブルガリアのディミータ・ペトコフに勝利し、順当に
準決勝へと駒を進める。
ただ、前田以外の日本人はとうと、佐竹は一回戦で長井と激突。壮
絶な殴り合いの末KOで二回戦進出を果たすが、胸部骨折を理由に
棄権。勝てば前田戦が実現しただけに惜しまれた。
角田は運の悪いことにフライとの一回戦。体格、パワーの差はいか
んともしがたく、TKOに散った。
話を前田に戻す。準決勝に勝ち上がった前田は、﹁赤鬼﹂と恐れら
れた、オランダの総帥・ドールマンと激突。
リングスの発展、そして戴冠を目論む前田にとって是非勝ちたい一
戦だった。
しかし、ここで前田は不覚をとり、膝固めで敗れてしまい3位決定
戦にまわるはめに。佐竹の棄権で棚ぼたの準決勝進出となったヘル
マン・レンティングを下して3位にはなったものの、不満の残る結
果となった。
9
決勝戦はドールマンとフライのオランダ師弟対決となり、ドールマ
ンが貫禄の優勝を飾り、リングスの92年は幕を下ろしたのである。
10
前田不在
年が開けて93年。リングスはこのシーズンを﹁格闘新次元﹂と銘
打ってスタートした。
しかし、そこに前田はいなかった。左膝の手術のために長期欠場に
入ったのである。
旗揚げ二戦目を前に、道場で当時練習生の山本とのスパーリング中
に、左膝の十字靭帯を負傷。以後ニーブレスを着用しながらの満身
創痍でリングに上がりつづけていた。いや、上がらざるを得なかっ
た。旗揚げ当初、WOWOWとの契約で、放映料の支払いは前田出
場が前提だったためだ。
その穴を埋めたのがハンだった。
トーナメント終了後、リングスはランキングを導入。一回戦敗退の
ハンは、それまでの実績から10位にランクされて、この93年を
スタートさせた。
まず3月の尼崎で、ライバルのコピィロフにリベンジし、ランキン
グ5位にジャンプアップ。
フライとの再戦には敗れたが、リングス2周年興行の有明で、﹁熊
殺し﹂の異名をとる空手家、ウィリー・ウィリアムスに勝利。
そして横浜アリーナではトーナメント覇者であり、リングスマット
で無敗を続けていたドールマンに、アームロックで土をつけた。
前田不在を霞ませる活躍で、93年のリングスを引っ張ったのであ
11
る。
一方で日本人選手も、リングス・ジャパンの若手が光った。
まずナンバー2の長井が有力外国人との戦いで光った。特にハンと
の試合で下馬評を覆す善戦を見せ、必死にジャパン勢を引っ張った。
さらに、この年は成瀬が頭角を表す。
入団テストの規定︵身長180以上︶に満たない177cm︵後に
173︶という小柄ながら、その才能を認められた成瀬は、この年
から始まった﹁後楽園実験リーグ﹂で活躍する。
そして10月、リングス二度めのトーナメント﹁バトル・ディミン
ション・トーナメント93﹂の開催が近づく。
このトーナメントの一回戦から前田が復帰したのである。
そしてこのトーナメントは、リングス史上最初の分岐点となる。
12
ジャイアントロボと力道山
93年度のトーナメントは、前回の覇者ドールマンと準優勝のフラ
イがシードとなり、総勢14名の参戦となった。
前田の一回戦の対戦相手は、ブルガリアのソテル・ゴチェフ。
フリースタイルレスリングでブルガリア選手権三連覇。国情により
バルセロナ五輪に出場できず、﹁幻の五輪代表﹂とまで言われる程
の実力者。
グラウンドコントロールに定評を持ち、体格も似ているため、復帰
戦にはうってつけである。
試合は、ゴチェフのレスリングにやや翻弄されつつも、最後はグラ
ウンドでバックをとって逆片海老固めで、復活の凱歌をあげた。
このトーナメントの優勝候補は、シードの二人にハンや前田。そこ
に他のオランダ勢がどう絡むかだった。
だが、二回戦でその展望は砕け散った。
それをやってのけたのが、グルジアの極真空手家・ビターゼ・タリ
エルである。
前田が初めて見たとき﹁ジャイアントロボかと思った﹂というほど
の巨漢の空手家。今は亡きアンディ・フグと91年の極真世界大会
にて対戦したという経歴をもつ。
この試合、優位に運んでいたのはフライ。二度のダウンを奪い、グ
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ラウンドでも無知のタリエル相手に有利に展開したが、試合開始か
ら5分たとうかというときに⋮⋮
﹁グヤァッ﹂
フライの断末魔が響いた。
タリエルの縦拳が、フライの鳩尾に風穴を開けたのだ。
さらに二回戦では、この年のリングスを引っ張ったハンも散った。
破ったのは、同じロシアのニコライ・ズーエフ。ロシアはエカテリ
ンブルグでサンボの指導者として活動し、かの地では力道山クラス
の人気を誇る。ジャパン勢の若手達にもコーチするために来日した
ことがある。
ハン、コピィロフと同様、ズーエフもまた超一流のサンビスト。一、
二回戦でそのふたりを破り、ロシア勢の奥深さと底力を見せ付けた
のである。その後、準決勝では番狂わせを起こしたタリエルとズー
エフが対戦し、タリエルがズーエフをドクターストップに葬り、一
方で前田はドールマンにリベンジし、決勝は前田対タリエルという、
予想外の組み合わせとなった。
14
リングスルールについて
延々と書いておきながら、ルールについて全くはしょっていたので、
ここでそれを説明する。
試合は基本的に30分一本勝負。初参戦選手や打撃専門選手のため
に、初期には3分5ラウンドの形式もあった。
KO、TKO、ギブアップ、判定で勝敗をつける。
原則は素手にレガースの着用が必要。膝蹴りを出すには膝パッド、
肘打ちには肘パッドの着用がさらに必要となる。
グローブの着用は、片方がつける場合は、両者の合意のもと10オ
ンスのボクシング用グローブをつける。
そして、このリングス・ルールの象徴といえるのが﹁ロストポイン
ト制﹂である。
エスケープ︵関節技を極められているときに、ロープを掴んで強制
的にブレイクする方法︶1回でロストポイント1、エスケープ2回
でダウン1回に相当︵93年半ばまでは3回で1回︶。通算5ダウ
ンでTKOとなる。
いわゆるローブロー
主な反則としては、金的や目つぶし、グローブ未着用での顔面パン
チ︵張手、掌打はOK︶、パッド未着用の肘打ち及び膝蹴り。そし
てグラウンド状態︵片膝がマットに着いた状態︶では全面的に禁止
である。
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このロストポイントの功罪は、多少のミスが許されるために、より
アグレッシブかつ魅せる攻防を生む一方、技が極まっても逃げ道が
あるために長期戦となり、グダグダな凡戦も生んだ。
ハンはこのルールを最大限活用した選手の一人で﹁勝つことより、
楽しませることを重視していた﹂と語っている。
打撃に関しては、特に顔面への攻撃の制約が厳しいために、拳での
攻撃はボディが中心となり、いかに相手のガードを開けられるか、
いかにタイミングよく当てられるかが重要だった。
98年ごろにルールが変わり、時間は20分に短縮、ロストポイン
トは3ダウンでTKO︵6ロストポイント︶と削減され、グラウン
ドでの打撃も、両者がグラウンド状態の場合に限り、ボディのみ解
禁された。但しランキング戦は改正が1年遅れた。
後にバーリトゥードをアレンジしたKOKルールが導入されるが、
それは別の機会に話したい。
16
蘇った格闘王
1994年1月22日。
93年度トーナメントの決勝戦が日本武道館で開催された。
リングス2年目にして、初めて決勝の舞台に立った前田日明。
王座を争うのは、グルジアのビターゼ・タリエル。立ち技では、タ
リエルの破壊力に敵わないが、寝技に関しては相手は無知だ。いか
にグラウンドに持ち込むかが戦いの焦点であった。
タリエルの打撃がどれだけすごいのか。
例えるならボクシングで言えば、顔面を一切殴らず、ボディだけを
殴ってダウンを奪うというところだ。
特に、二回戦のフライを貫いた正拳は、がっちり固めたガードの、
僅かな隙間を打ち抜いた。破壊力はもちろんのこと、その精度も高
く、いかに前田であろうと、もろにくらえばダウンは必至である。
だがグラウンドに持ち込んだからといって、前田の絶対有利とも言
い切れない。ロープエスケープという﹁非常口﹂のあるリングスル
ールにおいて、タリエルの体格は逃げることにおいても有効だ。身
長2メーター丁度。リング中央であっても、体を動かせれば、少し
転がればロープに届く。
攻めも守りも、前田にとっては厄介な相手といえた。
だが試合は、前田のペースで進む。膝が万全なことに加え、関節技
で膝を攻められる心配がないため、積極的に技を仕掛け、とんとん
拍子にポイントを奪っていく。
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だがタリエルもさるもの、反撃をみせる。右のパンチで前田のレバ
ーを、左でボディを貫き、ダウンを奪い返す。苦悶の表情を浮かべ
膝をついた。
武道館を埋め尽くす前田コールの大合唱。
立ち上がった前田が会心のレッグロックで勝利した。
両コーナーに登って雄叫びを挙げる前田。ここに、格闘王・前田日
明が蘇った。
明けて94年度の新シーズンがスタート。前田が王者として歩んだ
この年は、メインイベントのランキング戦を戦い続ける。
だが、前田はやすやすと勝ち進む。3月の横浜でアンドレィ・コピ
ィロフ、4月の広島でピーター・ウラと中堅クラスを一蹴。5月の
仙台ではバルセロナ五輪、男子柔道の金メダリスト、ハハレイシビ
リ・ダビッドをも倒した。
6月の有明では、今やライバルと言っていい、ヴォルク・ハンとの
決戦にも勝利。
復活の前田に敵はいなかった。
そんな中、大阪で事件が起こった。
18
10年分キレる
リングスの歴史において、今なおその日は語り継がれている。
1994年7月14日。
場所は大阪府立体育会館。
前田にとっては、地元への凱旋興業であるが、この大阪は縁起がい
いとは言い難い。
思い出されるのは、91年のリングス旗揚げ第二戦。前田はこの地
でディック・フライにKO負けを喫している。
何の因果か。今回の相手もフライである。しかもフライは6月の有
明大会でビターゼ・タリエルからランキング3位を奪い取り、ナン
バー1の地位を狙わんとしている。この時点で、何かしら爆発の予
感はあった。
しかし今回の大阪大会は、オランダ勢か空気を掻き乱した。
まず、オランダキック界の実力者、レネ・ローゼが、グルジアの若
きボクサー、ゲオルギー・カンダラッキーと立ち技限定の試合をし
たが、反則連発のけだるい展開で出足をくじく。
そのあとは、成瀬とロシアのベキシェフとのダウン合戦、長井の久
々の勝利し、コピィロフと山本の師弟対決で盛り返すが、セミで行
われたハンとナイマンのランキング戦で再び空気が変わる。
この年から頭角を表したナイマンの猛攻に、想像以上の苦戦を強い
19
られたハン。
だか、途中、つま先蹴りでボディを貫かれたハンが場外に蹴り飛ば
した。特に処置は下されなかったが、再び空気が変わる。
そして問題のメインイベント。前田対フライを迎える。
この日のフライはいつも以上に積極果敢に攻めてくる。
⋮が、フライが放つ掌底は、全て指が立っており、前田の目つぶし
を狙っていた。
これに対し、前田は威嚇の為に、滅多に見せない掌底のラッシュで
ダウンを奪う。このとき既に前田の額と首筋には血管が浮き上がっ
ていた。
だがフライは目つぶし狙いは終わらない。
そしてついに前田はキレた。リング中央に引きずって、万全のレッ
グロック。ここまではいい。しかし、その後にフライを一喝したあ
と、うつぶせのフライの背中を踏んづけた。
これに両者のセコンドがリングに上がり乱闘に発展。ナイマンが前
田にボディブローをぶち込み、前田がリングにを去った後にフライ
がレフェリーに八つ当たり、大暴れするなど騒然となった。
試合後、前田は﹁10年分キレた﹂と言ったが、フライを踏み潰す
行為を猛省。
20
総合格闘技がようやく認知されつつあるなかでの事件だった。
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裏から表へ
この年のリングスにおいて、新たな力が台頭⋮というより、実力者
が本領を発揮した。
その名はハンス・ナイマン。
元々オランダのみならずヨーロッパの空手界においては指折りの実
力者であり、バックボーンで残した実績は、エース・フライを遥か
に凌ぎ、総帥・ドールマンにもひけをとらなかった。
だが、中々ルールに馴染めずはじめのうちは結果が出なかった。
しかし。この年5月の仙台大会でビターゼ・タリエルとのランキン
グ戦において、引き分けに終わったものの、3位タリエルの打撃を
凌ぎ、ダウンを奪ったことが評価されついにランキング入りを果た
す。
普段は﹁オランダ軍団の裏番長﹂と呼ばれていたが、この年から表
舞台に出てきたのだ。
ナイマンの凄さについては別の機会に述べるが、この年はオランダ
の転換期であった。
22
11月、有明にて行われた、トーナメント準々決勝においてフライ
対ナイマンという、オランダのエースの座をかけた一戦が行われた。
ナイマンがTKO負けまであと1ロストポイントまで追い込まれる
ものの、逆転のKO勝利。これ以降、ナイマンは優勝候補の常連と
なり、フライが2回戦すら突破することはなかった。
そして同じ有明で、リングスのみならず、総合格闘技の歴史におい
ても数少ない大金星が上がったのである。
あげた男の名は、山本宣久。
23
山本覚醒寸前
リングスネットワークが誕生してから4年。支部、選手層が、各国
厚みを増す中で、発起人の前田の傘下・リングスジャパンは慢性的
な選手不足を解消出来ずにいたがそれ以上に﹁前田に次ぐ存在﹂が
確立されずにいた。
前田不在の前年のリングスで健闘しつづけた長井は、肝心のトーナ
メントに出場できずノーランカーのまま。
成瀬はリングスで一、二を争う小柄の為にパワー不足に苦しんだ。
なかなか現れなかった第二の前田日明。この年、その殻を打ち破り
つつあったのが山本だった。この年の3月。横浜アリーナで、ロシ
アのナニエフ・オレッグで勝ちを収めると、そこから4連勝。7月
の大阪でコピィロフに黒星は喫したが、翌8月のウィリー・ピータ
ースとのランキング戦に勝利しランキング入り︵8位︶し、トーナ
メントのシード権を得る。
10月の福岡でのトーナメントでは、グルジアのグロム・ザザに逆
転勝ちを収めて、3回戦のドールマン戦と相成った。
試合は山本の猛ラッシュで始まった。2回戦で先輩の長井がドール
マンからダウンを奪っていたのを参考にしたのか、掌底ワンツーで
ペースを握ろうとする。
しかしドールマンもさるもの。右手を盾のように伸ばして自分の安
全圏を確保すると同時に、じわじわと山本にプレッシャーをかける。
ただドールマンとしては速く試合を片付けたかった。49歳という
24
年齢は老獪なテクニックを擁する半面、若い山本に付き合い続ける
スタミナはない。
試合は5分が分かれ目と言われた。
そして7分。その時がくる。
コーナーに押し込まれた山本が放った膝蹴りを掴んだドールマンは、
そのままリング中央に連れていき、引き倒してアキレス腱を取る。
だが倒された山本は逆にドールマンの足をとり、ヒールホールドを
仕掛ける。
数秒の我慢比べの末⋮
喚きながらマットを叩いたのは⋮⋮
⋮⋮⋮ドールマンだった。
その時、有明が揺れた⋮⋮
歓喜にわく山本サイド。セコンドのオランダ勢が呆然とするドール
マンサイド。
リングスに新たなる歴史が刻まれた瞬間だった。
25
ただ、これには﹁ドールマンはわざと負けた﹂という疑惑がある。
後にドールマンは、アントニオ猪木関連の著書のインタビューでこ
う答えている。
﹁あの時50近かった。対して山本は伸び盛りだったし、いいキャ
ラクターを持っていた。実力は勝てていたが、俺が勝ったら悪いと
思った。だからレッグロックで負けることにしたんだ﹂
ただ、どういう結果にしろ、ドールマンに勝ったという事実には変
わりない。
初の前田戦、翌年のヒクソン戦を経てリングスのエースとなる山本
にとって、その第一歩だったことは間違いない。
26
餓えた狼
日本のマットに旋風を巻き起こし、リングスで確固たる地位を築い
ているヴォルク・ハン。
ところが、過去2度のトーナメントでは、表彰台どころか、ベスト
8すらない。
これは、ハンが勝負弱いのではなく、つくづく相手に恵まれていな
いからだ。
前々回は1回戦でいきなり前田とぶつかりKO負け。前回は2回戦
で苦手ズーエフに惜敗。
勝利に対して誰よりも貪欲なハンにとって、今回のトーナメントは
優勝しか頭になかった。
トーナメント直前のランキングが2位だったため、1位の前田とと
もに1、2回戦を免除された。優勝する上で有利な条件が揃う中、
3回戦の有明を前に福岡のメインイベントで、ライバルのコピィロ
フと相まみえたのだが、結果はアームロックで逆転負けを喫し出鼻
をくじかれた恰好となった。
しかし、コピィロフへの敗北は、ハンにとっていい方向に働いた。
ハン自身この試合を、自分のコンディションのチェックとしており、
なにより精神的にリフレッシュ出来たことで、トーナメントは悠々
と決勝に駒を進めた。
そして迎えた前田との決勝戦。
両者コンディションは万全なのか、試合前のWOWOWのインタビ
27
ューでは笑顔を見せていた。
前田は気力が漲っているからか、﹁俺がハンに勝てないのは、ロシ
ア語ぐらいだよ﹂とジョークを飛ばした。
一方、ハンも笑顔で答えていたが、不気味な言葉を残した。
﹁膝を狙うときがきたら、ゴメンナサイだね﹂
試合が始まった。
試合前の二人がそのままリングでも暴れた。互角の展開が続くが、
前田がポイントで優位に立ち、ダウンも奪う。
だが、試合が9分を回った頃、ハンが勝つための戦いを始める。露
骨に前田の膝を狙いはじめたのだ。
絶叫する前田。ロープエスケープで逃げるが、明らかにダメージは
大きい。手術し、回復したと入っても完治したわけではない。ひざ
固めの集中砲火は前田を追い込んでいく。
そして14分ごろ、ハンはついに前田を追い詰める。武道館全体で
前田コールが沸き起こる中、懸命にひざ固めに耐える前田。だが、
痛みが我慢の限界に達したとき、苦痛の表情をうかべながら必死に
タップしていた。
勝利の決まった瞬間、ハンは歓喜のバンザイ。そのまま仰向けに倒
れた。
﹁戦場の狼﹂の、優勝への執念が実った瞬間だった。
28
29
新時代到来︵前書き︶
かなり間が空いてすいませんでした。
30
新時代到来
山本がブレイクの兆しを見せ、ナイマンが本領発揮。そしてハンの
戴冠。
多くの希望を生み出して94年が終わる。そして95年。リングス
においてひとつの時代が終わる。
2月。リングス初のオランダ興行において、クリス・ドールマンが
現役を退いた。新ランキングにおいて5位にランクインしていたド
ールマンであったが、﹁50歳になると、もうプロとしてやってい
くのは無理だよ﹂とファンからの質問にこう答えた。
赤鬼が一線を退いた一方で、リングスジャパンの陣容が少しずつ整
ってきた。
前の年からジャパン勢自前の若手選手がデビュー。高阪剛と坂田亘
である。
柔道出身の高阪は早い段階から連戦連勝。そのセンスは折り紙つき
で、文字通りスポンジのように技術を吸収していくのである。
一方、もう一人の若手・坂田は伸び悩んだ。もともと身長が入団規
定の180cmを下回っていた︵175cm︶ことや、格闘技の経
験が浅かったこと︵もともとは器械体操をしていて、空手を経て1
年間アニマル浜口のもとレスリングを学んだ︶もハンデとなったが、
しばらくは決め手にかける戦いが続き、試合後のインタビュー中に
前田に制裁︵ほぼ半殺し︶を受けたことはあまりにも有名である。
31
話はそれたが、この年からジャパン勢もようやく戦える頭数がそろ
ってきた。
前田を筆頭に、長井、山本、成瀬。そして若手2人。
その結果行われたのが史上初の団体戦である。
6月の有明で開催されたジャパン対ロシアの5対5の団体戦。この
日を迎えた前田は感慨深い様子だった。前田が旗揚げ当初に描いた
ネットワーク構想。その構想が生み出した産物だった。
個人のほうに目を向けると、ナイマンは相変わらずの快進撃でラン
キング3位を堅持。高阪は徐々に苦戦が続き、ブルガリアの2枚看
板であるソテル・ゴチェフ、ディミータ・ペトコフに連敗。念願の
1位を掴み取ったハンは毎度のようにランキング戦を行うが、悉く
返り打って君臨し続けた。
そして長井満也と山本の﹁ジャパンナンバー2﹂争いも、このころ
に本格化してきた。
かつて前田の長期欠場の際には、ハンとともにリングスを引っ張っ
た長井だが、93年のトーナメント出場を逃し、前年のトーナメン
トもドールマンからダウンを奪いながらネックロックに散った。
一方の山本は94年に4連勝を含む5勝1敗でトーナメント直前に
ランキング入り。そしてドールマンを破り上位ランカーとなり、前
田日明の後継者争いの最右翼に立っていた。
3月の有明大会においてこの二人は対決したが、20分を超える激
闘の末レッグロックで長井が先輩の面目を保った。5月には山本が
勝てなかったアンドレィ・コピィロフを撃沈するなど、立場を取替
えさんと結果を残した。だが、差は埋まるどころかますます広がっ
た。
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有明の試合から1ヵ月後、山本はあのヒクソン・グレイシーとバー
リトゥードジャパンで対戦し善戦して評価を上げると、以後柔術の
技を駆使して皮がむける。前述の国別対抗戦ではメインでハンと戦
って敗れたものの敢闘賞受賞。ディック・フライに連勝するなど、
トーナメント優勝の候補の一角に上げられるなどブレイクした。
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NKの大波乱︵前書き︶
一気に2話書きました。これでどうかご勘弁。
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NKの大波乱
10年余りのリングスの歴史において、もっとも荒れた試合として
記憶に残るのは94年7月の大阪である。だがあれは試合後の乱闘
で荒れたのであって、ルールの中で荒れた試合となると馴染みのフ
ァンはこの大会を思い出すのではないか。
95年8月27日。2年8ヶ月ぶりにリングスの試合が開催された、
今はなき東京ベイNKホールのライジングシリーズ︵この年のリン
グス興行のシリーズ名︶葉月ではないだろうか。
この大会はどんな大会だったかというと、高阪がペトコフに首を絞
められ、長井がナイマンに逆片えびをくらい、後に主力の常連選手
となるオーストラリアのクリストファー・ヘイズマンがデビュー。
山本が喧嘩屋レンティングを三角締めで一蹴し、フライは相手の負
傷で消化不良に終わった。
何が起こったのかというと、ランキング2位の前田がランキング圏
外のコピィロフに逆転負けを喫し、1位のハンが8位タリエルの剛
拳に散ったのだった。
まず前田対コピィロフ。
試合前、コピィロフは﹁前田の攻撃の時にできる一瞬の隙。それに
集中する﹂と語り、前田は﹁正直怖い相手だが、よほどのことがな
い限り負けないだろう﹂と言った。戦跡は前田の2戦2勝。多くの
ファンもいつもどおりの熱戦を展開した後前田が勝つだろうと踏ん
でいた。
しかし開始早々、コピィロフがアームロックで前田からエスケープ
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を奪うと、それまでの2戦にはないロストポイントの奪い合いとな
る。コピィロフがダウン含む7ロストポイント、前田が腕をとられ
続けての5ロストポイントの末迎えた9分半ば。前田がコピィロフ
に巴投げをかけたとき、コピィロフが投げられている間に前田の右
足に絡みつき靭帯を伸ばす。投げ終えた後、コピィロフの﹁イテテ
テテテっ!!!﹂という叫び声が聞こえたが、そのとき前田は必死
の形相でタップ。
会場は一瞬の沈黙の後、悔しがってマットを叩く前田と、コピィロ
フの雄たけびで番狂わせが起こったことを知った。
続いてハン対タリエル。
94年4月に二人は対戦しており、当時はハンが7位でタリエルが
2位。ハンがタリエルアキレス腱を固めて2位を奪った。今回は立
場を逆転してのランキング戦。しかもタリエルは勝てばリングス参
戦後初の頂点となる。
試合はハンが冷静さを欠き、タリエルが気迫十分の試合を見せた。
グラウンドで脚を取られても長身を生かしてすぐにロープに逃げ、
時には腕十字を耐え抜いて腕を引っこ抜く。そしてハンのボディー
を徹底して殴りまくり、最後は渾身の中段突きでハンを貫いた。そ
の瞬間、NKの観衆はスタンディングオベーション。
このとき、放送のゲストに招かれていたつのだ☆ひろはこう総括し
た。
﹁リングスの上位選手は誰が一位になってもおかしくない﹂
それを体現した大会だった。
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弱小ブルガリア︵前書き︶
ここ最近立て続けに感想を頂いたので久方ぶりに進めました。
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弱小ブルガリア
リングス旗揚げから5年たった中で、各国が勢力を伸ばしつつあ
るなか、後の休止に至るまで存在感が薄いままの古参勢力があった。
リングス・ブルガリアである。
レスリングをバックボーンとする選手が多く、それの基礎技術に
は見るものがあった。
ブルガリア勢の看板選手として挙がるのは﹁ブルガリアのマンモ
ス﹂と呼ばれた巨漢、ディミータ・ペトコフだ。
一番の特徴はその体重だ。特に93年以降は計量不可と言われ明
らかにそれ以上に重そうなのに150キロで統一されていた。あの
タリエルよりも重いのである。
初陣は92年10月の第1回メガバトルトーナメント。持ち前の
巨体とそれに似合わぬ細かなテクニックで一回戦を突破。二回戦で
前田と対戦し敗れはしたが善戦を見せた。
もう一枚の看板は、幻の五輪代表と謡われたソテル・ゴチェフ。
グラウンドコントロールは病み上がりとはいえ前田を苦しめたほど。
以後も日本人選手にとっては試験官的存在として立ちはだかり、若
き日の高阪剛、坂田亘を破った。
負けん気の強さではレスリング、柔道、サンボで実績のあるトド
ール・トドロフも捨てがたい。何せ成瀬昌由とは熱い試合を見せた
し、ヘルマン・レンティングの反則技にもめげずに戦う姿が印象的
だった。
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ただ、惜しむらくは彼らの技量が優勝を狙うほどのトップランカ
ー相手にはまるで歯が立たなかったことだ。
挙げた三人はいずれも打撃に弱く、グラウンドにおけるサブミッ
ションのバリエーションも多くはなかった。ゴチェフはハンやコピ
ィロフとも戦ったがグラウンドの過程では互角でも決め手の部分で
雲泥の差があった。勝ち星を奪った相手も成瀬、高阪、坂田の三人
に片寄っていて、体格差によるハンデ付き勝利の印象も拭えなかっ
た。
一方で打撃系格闘技をバックボーンにする選手の戦績は、はっき
り言えば雑魚同然だった。9戦全敗のミハイル・シーモフを筆頭に、
複数回参戦した選手のもいたが、ほとんどが白星を上げることなく
再来日することはなかった。︵この事は前田も頭を痛めていて、ネ
ットワーク支部強化を図って多くの選手を呼びたかったが、興行と
して考えた場合はどうしてもハン、フライ、ナイマンら人気選手を
優先せざるを得ず、思うようにできないことを漏らしていた︶
その中にあって、ペトコフはかなり善戦した方だ。95年のメガ
バトルトーナメントはブルガリア唯一のエントリー選手として、ラ
ンキング一位のタリエルと激突。リングス最重量の巨漢とタリエル
にはないグラウンドテクニックをもって一時はポイントでリード。
しかも担ぎ上げてタリエルをぶん投げたのだから会場の福岡国際セ
ンターがどよめく。結局みぞおちに回し蹴りを喰らってテンカウン
トを聞いたものの、ブルガリアのプライドを保った意味でファンの
記憶に残っている、はず⋮。
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万全の弟子、不安の師匠︵前書き︶
おそらくここ以外で出てくることはない、懐かしのマニア外国人選
手がチラホラ出てきます︵笑︶。
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万全の弟子、不安の師匠
95年のメガバトルトーナメントは、久方ぶりにネットワーク内
の選手だけが出場。ジャパン3、ロシア4、オランダ3、グルジア
5、ブルガリア1の計16選手がエントリーした。
これまでよりも人数が少ない分、一回戦突破で翌年のランキング
入りが確定するだけに、これまでなかなかそれに縁のなかった選手
たちは大いに張り切った。ただ、大会自体は大きな波乱なく優勝候
補がトントン拍子に勝ち上がっていった。過去3大会ではどこかし
らで波乱が起きていただけに、語弊があるが特に一回戦に関しては
拍子抜け感が否めなかった。
ただその中にあって前田日明はその4日前に肘の軟骨除去手術を
受けての出場。リングドクターの安藤氏曰く﹁選手生活で最悪のコ
ンディション﹂と漏らすほど。初戦のディック・フライ戦は蹴り足
をとってのレッグロックで逆転勝ちしたものの、ダウンはとられ、
タックルにキレはなく、フライがもう少し試合巧者ならば初戦敗退
もあり得ていた。この幸運は二回戦も続いた。次はランキング一位
のビターゼ・タリエルであったが、タリエルはインターバル中に出
場した極心空手の世界大会で手を負傷し、得意の正拳や掌底を使え
ない。前田と同様、もしくはそれ以上に戦えない状態のタリエルを
前田は労せずして仕留め、辛うじて準決勝に駒を進めた。
一方で愛弟子の山本宣久は磐石の戦いぶりだった。
一回戦でタリエルの弟ビターゼ・アミランを瞬殺すると、二回戦
では先輩の長井満也と8カ月ぶりのリターンマッチ。互いに維持を
ぶつけ合う好勝負は﹁なんとしても頂点に立つ!﹂と決意する山本
が、長井が一回戦で痛めていた膝を狙い打ったアキレス腱固めでリ
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ベンジ。安定した戦いぶりで準決勝に進出した。
そして前年覇者のヴォルク・ハン、躍進目覚ましいハンス・ナイ
マンも期待通りの勝ちっぷり。ハンは一回戦で格下ピーター・ウラ
の腕をひしぎ、二回戦でライバルのアンドレィ・コピィロフの膝を
固めた。ナイマンは約2年間欠場していたグルジアのブザリアシビ
リ・ラマジをラッシュで追い詰めて戦意を奪い、二回戦ではニコラ
イ・ズーエフを破って赤丸急上昇のイリューヒン・ミーシャを関節
をとられるかわりにボコりにボコってTKO。ベスト4は去年と同
じ面子になり、山本はハン、前田はナイマンと戦うことになった。
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PDF小説ネット発足にあたって
http://ncode.syosetu.com/n4281n/
君はリングスを知っているか
2016年7月15日07時25分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。
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