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『東北文化月報』と満蒙文化協会

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『東北文化月報』と満蒙文化協会
『東北文化月報』と満蒙文化協会
― 中国人の対日認識の視角から見る ―
東京外国語大学 / 地域文化研究科 / 博士課程
高 紅梅
(gao hongmei)
富士ゼロックス株式会社 小林節太郎記念基金 2006 年度研究助成論文
謝
辞
論文を作成するにあたり、私の指導教官東京外国語大学の佐藤公彦先生のご指導を頂き、福間加容
さんのご協力を頂き、そして富士ゼロックス小林節太郎記念基金の助成を頂きました。ここで感謝の
意を申し上げます。
2007年10月
高
紅梅
(gao hongmei)
目
次
ページ
まえがき ................................................................................ 1
第1章: 『東北文化月報』の創刊 ........................................................... 2
第1節: 中国語雑誌『東北文化月報』の創刊とその立場 ..................................... 2
第2節: 主筆槖吾の見る満蒙文化協会 ..................................................... 3
第2章: 満蒙文化協会の真実 ............................................................... 5
第1節: 満蒙文化協会の成立と目的 ....................................................... 5
第2節: 日本語機関誌『満蒙之文化』 .................................................... 10
第3節: 満協に務める中国人――会務実行委員の傅立魚 .................................... 11
第3章: 『東北文化月報』の宣伝趣旨 ...................................................... 13
第1節: 国家概念の消滅 ................................................................ 13
第2節: 東洋文化の宣揚 ................................................................ 15
第3節: 槖吾辞職後の変化 .............................................................. 18
第4節: 『東北文化月報』と『新文化』の比較 ............................................ 19
第4章: 小結(あとがきの替わりに) ...................................................... 22
註 ..................................................................................... 24
参考文献 ............................................................................... 26
まえがき
日中関係の対立していた1920年代において、租借地として日本に支配されている大連で、中国人た
ちはどんな民族意識を持って中国内地の愛国運動、排日運動に対応したか、そして大連での日中関係
の実態が如何なるものだったかという問題について、私はこれまで大連での新文化運動、旅大回収運
動、「五・三〇」事件後援運動を中心に研究してきた。その結果、日本当局の許容範囲で、傅立魚を中
心とした大連中華青年会や、大連各団体有志連合会などの団体が、できる限り広範に愛国主義と新文
化を宣伝したこと、中国人としての民族独自性をある程度育てたことが明らかになった。他方、大連
中国人の思想も一枚岩盤のように新文化と愛国主義に集中していたわけではなかったことも分かって
きた。傅立魚グループ以外にどんな人物がいたか、特に日本の支配下の現実で、日本側の指導が中国
人の言論と運動に重い影を投げかけたことが感じ取られたが、従来の調査では、この日本側の指導機
関はどんなものだったか、日本側の植民地文化政策は如何なるものだったかについて、明確に把握で
きなかった。
平野健一郎氏は「1923年の満洲」1)で、「旅大回収運動」が東三省で燃え上がらなかった原因を探っ
て、「日本の満洲支配に、より根本的に対峙する方向が1923-24年に生まれた」と示した。「その新し
い抗日方法とは、一言でいえば、
『文化的な』対決の戦略であった。他方、日本側も、満洲の『自前』
による支配の永続を可能にする方法として、結局、
『文化的な』支配の戦略を一層強調するようになる」
と指摘した。そして「在満日本人の説く『文化』と中国人の抱懐する『文化』とが異なっていた」こ
とも指摘した。しかしこのような文化的な対峙の構造はどうやって形成されたか、日本側と中国人側
の「文化」はそれぞれどんな性格のものであったか、まだはっきり見えない。
しかしずっと閲覧できなかった『東北文化月報』が2006年6月に北京で復刻出版され、大連中国人の
研究に重要な一次資料が提供された。この雑誌は満蒙文化協会の中国語機関誌である。加えて同協会
の日本語機関誌『満蒙之文化』(1923年から『満蒙』と改題)も数年来不二出版によって、続々復刻出
版されて、ようやく近年に上述の問題についてより精緻な調査が可能になった。本論文はこの二つの
史料の分析を中心に、親日と思われた中国人知識人槖吾の論理と対日認識を再構成し、日本側の植民
地文化政策を明らかにするものである。
― 1 ―
第1章: 『東北文化月報』の創刊
第1節: 中国語雑誌『東北文化月報』の創刊とその立場
『東北文化月報』は大連初の中国語雑誌で(1920年代大連の中国語雑誌はこれと1923年創刊の『新
文化』
(翌年『青年翼』と改名)二誌しかなかった)
、1922年4月から満蒙文化協会の機関雑誌として発
行、満洲日日新聞社で印刷された。1928年9月、一度廃刊し、1929年から1932年までの間は『東北文化』
の名前で、中日文化協会(満蒙文化協会が1926年から改名した)によって出版され続けた。1932年、
満州国の成立に従って、同雑誌は『大同文化』と改名され、出版地を奉天、そのあと新京に移転し、
中日文化協会もその時期に満洲文化協会と改名した。1936年出版地が大連に戻った後に、まもなく廃
刊した。今現在閲覧できるのは、1923年第二巻4月号~1928年第七巻8月号の『東北文化月報』2)と1932
年の数冊の『大同文化』である。
『東北文化月報』の発行部数と範囲に関する資料は発見できなかった。しかし日本側当事者は「満
蒙を始め広く支那各地の識者に配付し以て支那側と緊密なる提携の楔子とする」3)ことを狙ったが、主
筆の槖吾は運営資金がきついことと、中国人から敵視と警戒を受けていることで悩んでいたことから
みれば、発行数がさほど多くなく、そして東三省を中心にしたのではないかと思われる(表1の1923年
予算表を参照)。出版社本部は大連で、奉天(瀋陽)に支部があった。
1920年7月1日は、二つの大きな文化団体が同日に成立された大連文化史上の特別な日と言える。つ
まり中国人団体の大連中華青年会と日本人団体の満蒙文化協会である。満蒙文化協会(以下満協と略
称)より同9月から機関雑誌として日本語の『満蒙之文化』を出版し始めた(1923年3月より『満蒙』
と改名)。このなかに英語欄を設けていたが、翌年1月から英語欄を独立させ、英語月刊『THE LIGHT OF
MANCHURIA』とした。さらに1922年4月から中国語機関誌『東北文化月報』が「鼓吹平和、宣伝文化」
を挙げて出版され始めた。
『東北文化月報』(以下『東』誌と略す)は編集者も投稿者も多くなかったと見え、主筆の槖吾一人
がほとんどの編集仕事を担当した。彼は巻頭の論説を書くだけではなく、自分の研究や小説を連載し
たり、空欄を補う「漫筆」、「余興」を書いたり自筆を多く発表しており、意気に燃えた奮闘の様子が
見られる。ニュースや研究資料が槖吾の方針にしたがって採用され、「平和、文化」の主題のものばか
りであることから、槖吾は独立性をもって編集していたと考えられる。1927年彼の辞職した後、この
仕事は李文権と高柳霧仙などに分担された。
槖吾は本名を楊成能といい、人名事典などには記載がなかったが、彼の文章から以下のことが判明
した。彼は浙江省銭塘周辺の人で、若いとき商売をやったことがあり、『東』誌に就任するまでに二十
数年中国各地の学校で教職員をした。1922年初ごろ、瀋陽高等師範学校で国文専任教員をしていたが、
教壇生活にかなり嫌気がさしていたときに、謝教育庁長と鎌田満鉄所長から主筆の仕事の紹介をうけ、
ついに転職の意が生じた。しかし初めは彼自身もこの日本人が発起した協会に疑惑を抱えていたので、
まず大連に行って各当事者と面会して、日本人の本意を探ったり、詳細を協議したりした。満協の事
業が「平和鼓吹」と「文化宣伝」の八文字に要約でき、漢文雑誌の内容もこの八文字を趣旨とするこ
とを会得した後、ようやく契約して正式に大連に移住してきた。当時五十代だった。
『東』誌は四六版で百頁前後ある。その内容の項目は主に挿絵、言論、専載、海外事情、遠東彙聞、
雑俎などある。挿絵は主に東三省と東蒙古の写真で毎号2~5枚掲載している。「専載」には満鉄調査資
― 2 ―
料の翻訳よりも、中国人の書いた研究成果がかなり多く登載されている。
「海外事情」と「遠東彙聞」
は主に教育、文化分野のニュースで、創刊初期に三割ぐらいの紙幅を占めたが、この二つの欄は1925
年ごろから消えた。雑俎は小説、漢詩、小話など文芸作品である。
「言論」は主筆槖吾などが文化と時
事の話題について、感想を書いたり、議論したりする欄である。議論の中心思想がその宣言の通り「平
和鼓吹」と「文化宣伝」の二点である。そして宣伝した文化は中国全土で嵐のように広がっている「新
文化」ではなく、むしろ儒教思想を根底とするいわゆる「東洋文化」である。その平和思想はまず日
中の親善により東亜の平和を保ち、それから人類の平和が可能になるという考え方で、その詳細な分
析は後述する。
第2節: 主筆槖吾の見る満蒙文化協会
『東』誌の趣旨は「平和鼓吹」と「文化宣伝」の八文字に要約できる、と槖吾は堂々と主張してい
た。しかし当時中国人は満協に対して疑わしい眼を向ける人が多かった。
「これは日本の対華侵略の新
政策である、これは日本政府の後援があるに違いない、これはきっと日本政府の意思に従って、武力
侵略を変えて文化侵略を為すものだ」4)、「これは満鉄の宣伝機関であり、満鉄はすなわち知られてい
る満蒙を侵略する東インド会社である」5)などと言われた。
1924年初、満協が奉天に支部を設立するにしたがって、『東』誌主筆の槖吾も彼の旧地奉天に帰った。
旧友たちからも満協についてたくさん質問された槖吾は、回答の煩いを省くため、「満蒙文化協会の実
況」という文章を書いて満協の歴史と現況を紹介し、このなかで彼は自身の立場をもう一回言明した
(発刊号で発表したものの重複だが、発刊号が紛失)
。
槖吾の要点をまとめると、1、人間は恩讐があるが、文化は恩讐がない。人性は公私があるが、文
化は公私がない。そして文化と侵略の二語は繋がって一つの名詞になることを出来ないだろう。もし
文化は侵略できるものならば、中国が仏教をあがめるのは、インドに侵略されたことになるだろう。
日本が儒教をあがめることは、中国に侵略されたことになるだろう。日本が満蒙の文化を宣伝するこ
とは、日本が満蒙に侵略されることを自ら求めていることになるだろう。これは理が通らないではな
いか。
2、時代が変わり、現在の満蒙人民は程度が高いので、当時のインドのように他国に侵略されたり
はしない。現在の世界情勢でも東インド会社のような他国を侵略する会社の存在は許されない。満鉄
の指導者たちは、欧米に留学した有能者ばかりで、見識がこれほど古いわけはない。その証拠として、
侵略者は常に知られることを恐れているが、満鉄はその経営する一切の事業を大いに紹介したばかり
でなく、自分の調査資料もできるだけ多く公表した。だから侵略の意図はないだろう。
3、武力侵略の汚点があるとしても、それを正すことができるから君子なら人の正しに期待すべき
である。満蒙文化協会は「文化の新しい運勢に乗じて、武力侵略の汚点を拭き消す」機関である。
4、最後に現実から見れば、中日の条約交渉はしばらく進歩しないし、中日間のトラブルも避けら
れない。このような至難の状況の中で、清々しい小道を探ってすこしでも挽回の余地を持てるように
なるだろう、他の道はどこにもないではないか。
5、満協が成立してから大連中国人のために利益を求めた、というが、
このような弁護で中国人が納得させられるか、かなり疑わしいであろう。まず「文化侵略」、「宣伝
機関」という非難は、文化の手段で侵略することを指して、その裏には必ず「国民意識の形成」、「国
― 3 ―
家主権」など近代的論理が潜んでいる。1922年から中国文化史上の重要な運動の一つの教育権回収運
動(あるいは非宗教運動)が行われ、その指導者たちはこの論理と中国の現実について盛んに議論し
ていた。しかし槖吾はこれを無視して、仏教、儒教の例を出して「文化は侵略できるものではない」
と短絡的に結論した。これは近代の論理的思考の訓練を受けたことのない旧式文人の思考方法であり、
彼は直覚にたよって結論している。
ほかに槖吾が無条件に日本を信用し、英米やロシアに対しては批判的で懐疑的な態度をとっていた
が、その論拠となったのは満鉄の公開した資料だけであった。いっぽう槖吾自身も知っているように、
満鉄の掌握している満蒙資料は数え切れず、満鉄調査課だけの資料でも、出版されたのは十分の一に
もならない。そして中国語に翻訳されて出版されたものは千分の一にもならない。彼はまた「中国の
有志者は、もし何かを調べたいなら、出版されたものか出版されてないものかを問わず、本協会は全
部閲覧させるように斡旋できる」というような幼稚すぎる考え方を持っていた。以下の満鉄資料は無
情にも槖吾の思いを裏切った。
「此一編ハ当地在住ノ中国人某有力者ガ吾ガ学事関係者ノ一人ニ物語ツタ「佯ラザル日本人観」ノ
手記デアル。此ノ忌憚ナク縦横論議シタ所、蓋シ在満同胞ガ聴イテ以テ反省スベキ点ガ多々アルト思
フ。之ヲ新聞雑誌等ニ登載センカ、此種中国有識者一部ノ思想ヲ一般中国人ニ知ラシメル懼アリ、或
ハ公表スベキ性質ノモノニハ非ザランモ、近来稀ニ観ル邦人ヘノ好キ苦言ナリト信ズルガ故ニ之ヲ謄
写ニ代エテ印刷ニ付シ、特ニ一部ノ有識者ニ頒ツテソノ一読ヲ請フ所以デアル。
」6)
つまり、日本側では槖吾のように「文化は公私がない」とは思っていなかった。
「公表」とはあくま
でも世界に自己弁解のためのことで、「公表」した資料もあくまでも公表してもいいと判断され、産業
関係を中心とした資料であった。日本はむしろ中国民衆の覚醒を恐れていたのだ。日本人を全然疑い
なく軽信することは、日中関係が複雑で敏感な時期で問題視されたであろう。この文章から槖吾は自
分の判断と願いに基づくだけで、論理性と国際関係知識が欠けていることが感じられるだろう。
槖吾がそのために弁護して尽力に務めた満蒙文化協会はどういうものか、その成立の契機と目的に
ついて槖吾はこのように認識している。
①当時は第一次世界大戦が終わり、ベルサイユ条約が締結された後で、ワシントン会議がまだ開催
されていない間であった。欧米人から見れば、日本人の戦時中での行動は、中国、特に満蒙を独占し
ようとするものであり、ひどい非難を浴びている。つまり日本が世界向けて自己弁明の必要がある。
②日本が国際勢力と国民経済において、いままで西洋に解決策を求めていたものが、大戦で大きな
打撃を受け、これから視線を転じて東アジアに向かなければならない。つまり満協は日本人の満蒙移
住や経営に務める。
③今度の世界大戦は西洋の物質文明の発達した結果である、したがって武力と経済ではなく、東方
文明の宣揚が戦争抑止の力を持つではないかと世界で認識されてきた。
この認識の一つ目は日本側に公に言明されたもので、他の二点は槖吾が自分の理解によって加えた
ものである。特に三つ目の東洋文化と戦争の関係について、誰に向けて宣伝するか、なぜ戦争抑止で
きるかは、もっと深く追究しなければならない問題だが、槖吾はここに止まって、深く考えなかった
ようだ。これこそ批判者たちとの分岐になる原因ではないかと考えられる。
― 4 ―
第2章: 満蒙文化協会の真実
第1節: 満蒙文化協会の成立と目的
満協の沿革は1913年に始めた旅順土曜会を発端とする。それは「在旅順有志者を以て組織し毎月一
回土曜日に会合して満蒙及び支那対策に関し意見を交換し各自の研究を発表する機関として不定期に
謄写版摺の会報を会員に頒布」7)という機関であった。
1915年いわゆる二十一か条の締結を契機に、日本が東北で多くの特権を獲得し、その「優越地位」
が保証されたと思い、在満日本人の満蒙開発の気運が盛り上がった。この時勢変化に応じて、同8月に
旅順土曜会が解散して、満蒙研究会になった。住所は同じ旅順にあった。
「此の機会に於て満蒙に対す
る宣伝鼓吹機関の実現するの必要を認め旅順土曜会の事業を拡大して満蒙研究会を創立せる」8)。同会
は関東庁の補助金を受けていて、1920年解散の時点に会員は千余名あった。
1920年2月、大連で新たに満蒙文化協会を成立して、満蒙研究会の会員が全員それに入会する形で、
満蒙研究会を満蒙文化協会に合併することが決定された。3月満鉄の運輸部長室で第一次準備会を開き、
6月組織が成立して、7月1日大連市役所の三階を借りて事務所として、会員を募集し、業務を開始した。
12月、予定の通りに元満蒙研究会の会所が満協旅順支部となった。1920年12月の時点で満協の会員数
は1540人いる。つまり大部分の会員は満蒙研究会の旧会員であっただろう。ちなみに1922年度会員数
日本人1737人、中国人789人いる9)という。1923年10月に総数3千余人になった。
1926年満蒙文化協会は日中文化協会と改名された。
そして満州国の成立に従って、それは1933年に日本人側のいわゆる日満文化協会(つまり中国人側
のいわゆる満日文化協会)として再編された。満日文化協会は「満州国」の文教部内に事務所設置、
四庫全書復刻、国立中央博物館、高句麗・遼など遺跡発掘調査、熱河史跡調査保存、図書館事業など
に関わる社会教育と文化財保全の機関になった。1937年から「方針転換」して、各文化団体に補助金
を出したり、入賞を選定したりして、文化芸術全般を指導する文化運動の中心となった10)。1946年5月
に協会が解散した。
この沿革から分かるように、在満日本官民が大陸での日本の勢力拡張をサポートするために絶えず
活動していた。彼等の団体は日本の勢力拡張に従って形式と名前を変えながら、組織を拡大し、役目
もますます重要になってきた。1920年代の満協はちょうど民間機関から国策機関に変わる段階にあり、
その役割もこの時期に大陸政策の研究、宣伝から、文化政策の創出、実行、指導する段階に変わって
いた。そしてこの時期に思想文化の面から中国人へ宣伝を始めたのである。
満協の役員メンバーには、大連の重要な人物がほとんど揃っている。総裁は初代満鉄総裁の後藤新
平(1918年外務大臣に転じ外交調査委員会幹事長、1919年拓殖大学学長、1920年10月東京市長)で、
顧問は山縣伊三郎(当時関東庁長官)、野村龍太郎(当時満鉄社長)、杉山四五郎の三名がいて、会長
は中西清一(当時満鉄副社長)、副会長は相生由太郎(大連商業会議所会長)と松本丞治で、理事は大
蔵公望(当時満鉄運輸部次長)、中川健蔵ら6名がいた。
満協の事業について、満蒙、東露に関する正確なる調査研究並びに発表。満蒙、東露の研究者並び
に企業者に対し資料の提供と指導。満蒙、東露の事情紹介並びに宣伝のため随時研究会講演会の開催
などが決められた。実際でも、講演会、旅行案内など各事業が続々展開されたが、最も重要なのは機
関雑誌の発行と調査資料の出版であった。
― 5 ―
満鉄は従来総務部調査課より発行してきた調査時報を今回満協の設立を機にその原稿全部を挙げて
『満蒙之文化』に発表させて、調査時報を同年8月限り廃刊することになった。そして既刊調査書籍の
残本も満協に譲り、販売させるようになった。これらは満協の重要な収入源となった。
満協は成立初期に民間であまり熱心を集められなかったようだ。もともと創立開始のとき、社会各
方面に特別募金活動を行って、その資金を基金として、基金の利息を協会の活動経費とするつもりで
あった。しかし募金が集められず、満鉄、関東庁、正金銀行、三井会社、朝鮮銀行、東拓など有力な
機関からの補助金に頼ることしかできなかった。しかし出版した図書が意外に売れて、1923年になる
と、図書販売と日本人会員の会費が総収入の三分の二を占めるようになり、補助金は三分の一しか占
めないようになった。中国人に関しては、たった4人が寄付金を出して賛助会員になっただけで、普通
会員からの会費収入はほんのわずかであった。
表1
大正12年度(1923年)収支予算表
内容
金額
内訳
満鉄
補助金
34,600
26,600
関東州 5,000
外務省 5,000
会費 *
23,600
邦文
19,200
漢文
1,400
邦文雑誌売上 3,000
邦文雑誌年契約 8,200
広告
8,200
同上臨時契約
漢文雑誌
書籍売上
30,000
貯金利息
300
貸間料
500
雑収入
1,000
合計
98,200
2,600
600
アジア歴史資料センター(Ref.B05016075100)より作成
* 会費について、「会員に対しては毎月一回会報を頒布す」という形で、
会費が雑誌代に代わるものであるため、内訳には邦人、中国人の表記
ではなく、「邦文」と「漢文」になったではないかと考えられる。
「邦
文雑誌売上」は恐らくばら売りのことを指すだろう。
槖吾はこのような満協の経済状況をよく分かっていたが、「(満協は)絶対に日本政府のすこしの援
助も得なかった」と断言している。これは非常に理解に苦しむ発言である。満鉄が日本の国策会社で
あることが今では通説だが、当時の時点でもこのことは多くの中国人に認識されていた。関東庁が日
本政府の出先機関であることは誰でも否認できなかったであろう。他に1923年から満協は奉天日本総
領事を経て外務省の補助金をもらっている。(表1 大正12年度収支予算表を参照)。
このような大規模な事業は槖吾の言ったように「一、二の書生の頓悟によって」請願して成立させ
られたものとは考えられない。満協はさらに遠大な目標を持っていた。
― 6 ―
『満蒙之文化』創刊号の「満蒙文化協会設立趣意書」は、同協会の成立目的と精神を以下のように
言明している。
「自然を征服し開拓して文化の淵叢と為すの努力は、人類に賦与された特権でありまた使
命である。思ふに此の努力の弛張如何は、人類発展の飛躍高騰と退歩逆転とを決定する唯一
の基調たるものである。世界の歴史は其の複雑錯綜せる幾多の事実を通じて、極めて雄弁に
此般の消息を語って居る。
」11)
ここで満協は自分の立脚点を日本と中国の対立を超越した「人類発展」の高さに置いて、巧妙に対
中国政策の不当性を避けた。そして自然を開発することは即ち「文化の淵叢」を作ることだから、し
たがって日本の「満蒙開発」は人類文化の発展に貢献することになった。
「文化」が人類共有のもので
あることを強調している。そして、
「吾人が満蒙の開発経営を為すに当って念とする所も、亦如上の意味に於て、満蒙文化発
展の終局の理想を実現するに在る。換言すれば、単に満蒙に貯蔵された物質的資源即ち経済
的産業的利源を開拓するに止まらず、其の一切の精神的文化即ち思想的科学的根底の培養に
努めて、両者の円満なる発達を期待せねばならない。
」
この部分は、
「精神的文化即ち思想的科学」の発展がもちろん満蒙開発の理想だが、しかしそれは「満
蒙文化発展の終局の理想」であり、今の段階での仕事はその「根底の培養に努め」ることである。明
白にいえば、
「満蒙の文化」は今現在に存在していない、これから作るものである。
「然るに我が満蒙の過去及現在の真相を知るものは、遺憾ながら頗る少数である……従っ
て此等の真相発表に関する権威ある統一的機関を設立せざりしに職由する。満蒙文化協会は
右の欠陥を補填せむが為に其の初声を挙げたのである。其の当面の使命は組織的統一的に満
蒙文化の真相を調査紹介するに在る。然り真相の調査紹介である」、「惟ふに満蒙の現状を知
る者は、満蒙が単に東洋の満蒙たるのみならず、既に世界の満蒙たる域に達しつゝあるを痛
感せざるを得まい、故に此の点より見て、満蒙文化の真相を日本支那のみに止まらず、広く
欧米各国民に徹底せしむるは、刻下の急務である。」
つまり、満蒙の過去と現在を調査、紹介することは同協会の文化の「根底の培養」をする方法と手
段であり、現段階の責務である。そしてこれによって、欧米各国が日本の行動を認めてくれると期待
している。
1920年は第一次世界大戦が終わり、ベルサイユ条約が締結された直後である。日本は大戦中、欧米
が欧州戦場に没頭した時機に乗じて、中国に「二十一か条要求」を押し付けた。そしてパリ講和会議
でドイツの在山東省特権を継承した。これに危機を感じた中国では挙国一致の愛国運動(五四運動)
が起こり、世界の注目を引いた。欧米人から見れば、日本人の行動は、中国、特に東三省を独占しよ
うとする以外のものではない。欧米の世論は中国に同情し、日本に対する非難に集まった。1922年に
― 7 ―
終わったワシントン会議で日本は青島の返還を承諾し、そして履行したことによって、やっと世界世
論を緩和させ、中国の排日運動も一応低潮になったが、しかしこの二つ会議の間の期間が、日本がもっ
とも国際社会に孤立され、中国でも立脚しがたい時期であった。この時、日本は武力の限界を意識し、
敏感に「文化」の政治的価値に気づいたのである。
日本はこの世界潮流に応じて、1919年に現役武官を都督とした関東都督府を廃止し、文官を長官と
する関東庁を設置した。そして「権威ある統一的」文化機関として満協を成立したのである。同年に
台湾でも総督の武官任命制を止め、文官任命制を採用したし、1921年に台湾文化協会の成立を許可し
たのである。
この背景で成立した満協は、国際社会からの非難を解消することをその急務に設定したのも当然で
あろう。
「満蒙文化協会が将来起こるべき一切の文化運動の先駆として、世界文化史上に新しき記
録を提供するに至らむことは、本協会終局の理想でありまた熱望である。
」
日本の「終局の理想」は、新しい満蒙の文化を創造することである。この事業が満協の指導によっ
て行うことで、満協がこの文化運動の主力でなければならない。
「満蒙文化協会設立趣意書」は満協が日本を代表して欧米諸国向けの自己弁解であり、堂々たる言
葉で人類へ貢献することを語っているが、同じ創刊号に掲載されている「満蒙文化協会に望む」12)は、
日本人向けの内輪の懇ろな話で、もっとも日本側の本音を言い出していると思う。つまり、
「満蒙文化協会が設立された事は我国の対支否対外政策上に特筆すべき事件であると思ふ、
今までの日本の対外政策は単に政治的又は経済的の立場からのみ思考されて、其の文化的意
義に就ては殆んど之を思慮に置かなかつた様である」、「即ち従来の日本国民の遣り方は唯彼
より利を奪ふに急であつて何等彼に与ふる処がない、此の如きは経済の原則に反し到底永続
すべきでない、彼我共に益する公明なる態度方法を以て彼に臨むべきであると云う様な議論
が頗る有力になつて来た様である、又更に進むで我対満蒙政策の如きは単に日支両国人の利
益なるのでなく、他の第三国人の為めにも亦裨益する処がなければならぬ」
この文章はまず、協会の成立が日本の対外政策であると述べている。つまり名目上は自発的に成立
した法人団体だが、本質は日本政府(関東州、満鉄)の支持に頼る国策組織であると日本人にも思わ
れていた。この文章の著者岩永裕吉氏13)は、当時満協での職務は不明だが、この文章は創刊号の14頁
に発表されたから、創立に関係した者たちの声だと考えても差し支えはないだろう。満協は「権威あ
る統一的機関」として成立されたものであり、在満日本人社会の支持を広範に求めなければならなかっ
た、したがって以下のように日本人に創立の理由をさらに明白に説明している。
「凡そ先進国民が後進の国に赴いて或る仕事をする時にも其の地の在来国民の手では到底
建設し得ざりし或る新しき文明が生まれなければならない筈である、単に物質的に其の地方
が開けたと云ふ丈けでは、甲の国民より乙の国民が裕富である事を示すのみで、必ずしも其
― 8 ―
れが他より先覚せる文明人であるとは云へないのである。(中略)。日本が満洲なり蒙古なり
で優越なる地位を占めた為めに単に在留民が幸福を得たのみではなく、支那人にはとても建
設し得ざりし文明が此の地に起つたと云ふのでなければ吾ゝは大きな顔をして満洲に居る訳
には行かないのである、即ち日本に満洲の優越権を与へたが為めに世界の文明がこれだけ進
むだと云ふ確証を人類一般に与へてこそ始めて我々は優越地位をエンタイトル(英語entitle,
資格、権利、地位を与える……筆者注)されるのである、換言すれば人類文明への配当が必
要なのである。」
つまり、満蒙に新しい文明を建設することによって、日本人が先覚なる文明人であることを証明し
て、これで日本の満蒙での優越的地位を確保するという狙いがあった。文明が人類共有のものなので、
満蒙の文明が人類への配当となり、世界から日本の優越地位が認められるはずだと考えていた。岩永
氏は、パリ講和会議のとき、ちょうどパリにいて、日本の対中国政策が世界の批判の標的となったと
き、もし日本が十年前からこの方面に努力をしていたならば「然らば我等は全然亜細亜大陸より手を
引くべし乍然人類の文明を如何にせんや」とすべての問題を解決することができるだろうと甚だ遺憾
に思ったことがあった。
1919年このような国際関係に関心を持ち、日本の挫折に不満な「書生」たちは、満蒙文化協会の成
立を提案し、このような利害関係を関東庁、満鉄に語ったため、満鉄や関東庁の同感を得て、協会を
成立させたのではないか。そして大連中国人の文化団体である大連中華青年会が同じ時期に創立許可を
日本側からもらった理由もこのことから頷ける。つまり「文化」の不在は日本にとって不利益である。
以上で分かるように、満協の目的は新しい文化の創造である、『東』誌主筆槖吾の理解した「平和を
鼓吹、
(東洋)文化の宣伝」ではなかった。そして、どんな文化を創造すべきか、今の段階ではまだ言
明していないが、日本の満蒙開発十数年来の業績を発表すること自身は文化の根底を培養することだ
というかなり遠回りの解釈だった。
では満協は中国人を引き入れることで何を期待していたか。岩永氏の同じ文章で、このように日本
人と中国人の役割を描いている。
「医学、地質学、地理学、動物学、植物学などの新研究が盛んに我国の学者に依って満洲
から世界に伝はる様にならなければならぬのである、其の時こそ我が民族は神より満洲の開
発を委された国民であると云ふ事が出来るのである、其他支那の研究に関する完全なる図書
館、研究所、試験所などを作って人類の智識の領分を拡げていくと云ふ事も吾人が満蒙に優
越権を維持する上に必要の条件である、更に進むで日本人の手によりて満洲蒙古に芸術が生
まれることは最も願わしき事である、満洲の農民に大豆の科学的耕作法を教へて其の製産品
を鉄道で輸送してやるに止まらず、彼らの田園生活を唱ふ詩が生まれ、彼等の簡素な而して
野趣ある風俗を描写する絵が出来てこそ、真に吾も確信を以て満蒙の優越権を堂々として世
界に要求し、又人も之を許すのである。
」
この構図の中では、日本人が優秀な頭脳の持つ民族で、開発と新研究が堪能で、もちろん指導者で
ある。他方中国人は日本人の指導に頼って農業耕作を従事する民族で、その芸術も簡素で原始的なも
― 9 ―
のしかありえない。重要なのは満州の農民は自分の生活に満足していて、生活を謳歌する必要があっ
たことである。これで日本側は満洲支配に正当性を主張することができるだろう。他に「支那」は研
究対象であり、古くて理解しがたいもののようなイメージであいまいに描かれている。
ここで分かるように日本側指導者の脳裏に浮かんでいる「満蒙之文化」は、実は植民地文化である。
つまり支配民族と被支配者民族がそれぞれ違う生活を送っていて、それぞれ違う文化を持っているの
である。日本人の文化は近代的で、新しく、エリート的なものだが、中国人の文化は原始的で、古く
て、満足的なものである。これを「東洋文化」と比較すれば、「東洋文化」は中国固有のもので、「簡
素な」
「野趣ある」のものではなくて、日本人の脳裏の理想的な中国人文化とは言えないが、しかし「東
洋文化」は古くて、満足的、謙譲的、平和的な性格を持っていて、日本人の望ましい中国人文化像と
合致していることも確かであろう。
そしてこの文化像はけっして岩永氏個人の理想の産物だけではない。下記で示したように『満蒙之
文化』の資料の採用がまったくこの通りに編集されていることから、これはこの雑誌の編集方針であ
り、満協が国際社会に描いて見せたい「満蒙像」だといえる。政治色の無い文化団体を語っていても、
満協は実は政治性の強い団体であり、つまり文化を政治の目的の達成手段としたものである。
第2節: 日本語機関誌『満蒙之文化』
『満蒙之文化』は菊版百頁以上の大型総合雑誌である。同雑誌社は、1935年にそれまで掲載した内
容の目次を纏めて出版しており14)、雑誌の内容が容易にはっきりと一覧することができる。それによ
ると、最も紙幅を占めているのは経済、交通や農、畜、水産、鉱、工など産業に関する調査と研究の
成果であった。つまり日本が満洲を独占するではないことを国際社会に弁解するために公表する資料
だともいえる。この部分は殆んど日本人の手によるもので、中国人の名前が殆んど見られない。総論
や政治、教育の分野では中国人により中国の実情を紹介する文章がたまに見られる。雑と文芸の分野
には中国人の作品と中国古典を翻訳したものが多い、そしてこの中に民俗や伝説、鬼怪小説など古い
イメージのものが特に多いことが特徴である。
『満蒙之文化』創刊最初の二年間、第1号(1920,9)~第24号(1922,8)に掲載した総論で、日中関
係と文化分野の文章を見てみると、以下の通りである。
第1号(1920,9)
「発辞」、「満蒙文化協会設立趣意書」、「満蒙文化協会発起宣言」(中国語)、
岩永裕吉「満蒙文化協会に望む」
第2号(1920,10)
石川鉄雄「満蒙に於ける文化政策の提唱」
第3号(1920,11)
中西清一「満蒙文化協会の使命」
、杉山四五郎「吾人の希望」
第5号(1921,1)
鶴見三三「衛生施設と満蒙の文化政策」
第6,7,8,9号
ウイロビー「米国教授の見たる『満蒙の利権』
」
第13号(1921,9)
巻頭語「一周年を迎へて」
第14号(1921,10)
飯河道雄「日支人の共同生活と満蒙文化開発案の提唱」
第17号(1922,1)
巻頭語「第三年の春を迎へて」
第18号(1922,2)
巻頭語「自衛より共存へ」
第19号(1922,3)
巻頭語「文化の創造力」
― 10 ―
第20号(1922,4)
巻頭語「国際友誼と国際自由」
第21号(1922,5)
巻頭語「現代支那の不安」
第22号(1922,6)
巻頭語「支那統一の前途」
満協の発起目的、使命などの文章を除けば、最初の一年間は「巻頭語」などの短文さえなく、直接
に調査内容を掲載した号が多い。しかし二年目からは「巻頭語」で中国政治を議論することが多くなっ
ている。これら「巻頭語」の内容は、テーマからも分かるように、殆んどは日本の満洲支配の正当性
を訴え、中国内地の暗黒動乱を指摘して、中国が満洲の平和を守る能力がないことを裏付けるもので
あった。当然ながら当時の中国の国内政治状況について若干の記述も必要だが、これが欧米人への宣
伝のために発刊した雑誌であることを思えば、創刊翌年からだんだん政治性が強くなってきたといえ
るだろう。つまり資料を公表して人類に貢献しただけではいけない、日本の政治主張も小売にしなけ
ればならないというわけである。また『満蒙之文化』には、東洋文化の宣伝と、平和鼓吹の意思はな
かったことにも注目される。
第3節: 満協に務める中国人――会務実行委員の傅立魚
成立当初の満協には中国人会員も役員もいなかった。1921年1月の満協役員会で、協会の会報が中国
語のものはないし、協会には中国人会員がいないことは、宣伝の趣旨と合わないと承認され、役員会
議で次の二点が決定された。1、協会の事業に関して中国側と共同連絡を保つべくこと。(奉天日本総
領事及び他の適当な人物を経て中国の有名人を勧誘して協会の役員にさせる)2、中国語雑誌を刊行
すること(前項が実行した後に行う)
。この後一年ぐらい遷延して、推選された中国名人はようやくそ
れぞれ職を就いた。東三省保安総司令の張作霖が名誉総裁に就き、代理奉天省長の王永江が顧問に、
奉天教育庁長の謝蔭昌が理事に、傅立魚が会務実行委員に、槖吾が主事に就任した。人事が決められ
た後、翌年の1922年4月に中国語雑誌の発刊となったのである。
張作霖など軍閥官僚を名誉職にしたのは、満協の権威と公正性を示し、日本側の大規模な陣営と張
り合えるようにして中国人の入会を勧誘しやすくするためだった。満協側に中国人が実際の会務に口
を挟むわけはないだろうという目算もあったであろう。会報から見れば、満協の会務実行委員になっ
て定期の役員会議に参加した中国人は、1920年代前半に傅立魚一人しかなかったようである。
傅立魚は1922年1月に会務実行委員になっている。大連唯一の中国人団体である新設の大連青年会の
会長として、彼は恐らく自身の意志と関係なく、就任するほかない立場にいたのだろう。傅立魚の満
協に関する言論は発見できなかったが、彼が行った日本人との共同活動をいくつか考察してみたい。
傅立魚は1923年冬の役員例会で在満中日人間人事相談所の成立を以下の通り提案していた。すなわ
ち、大連中国人と日本人の間にトラブルが起こった時、随時に同相談所に行って報告できる。同所は
時間を予約して両国の証人を招いて調査させ、解決の方法を薦めるが、もし訴訟をしなければならな
い場合は、その調査資料は官庁の参考にもなる。この提案の背景はおそらく大連では中国人が弱い立
場にあることだろう。「大概の所で日支人の喧嘩を見ると、七分の理屈は中国人の方に有る事が多い、
しかも(日本人が)ブンなぐって得たり顔で引き揚げる」15)。このような植民地都市風景は良心的な
日本人も恥ずかしく思うことだった。相談所の提案は大連での中日間の平和を促し、同時に中国人の
利益を守れるといえるだろう。残念ながらこの提案は実現できなかった。
― 11 ―
大連の日本人漢学者で吟詠が好きな人々は数年前から浩然吟社を組織していた。中国人の間でも
ずっと前から嚶鳴詩社という組織がある。新年や節句に両社が交歓し詩で唱和して、大連特有の風流
韻事となっていた。満鉄社長の川村竹治氏が大変漢詩がすきで、歴代の満鉄社長にはその以上はなかっ
た。1924年の新年前後に、傅立魚や槖吾など嚶鳴詩社連中数十人は、川村社長など浩然吟社十数人を
宴会に招いて、詩を作ることにした。傅立魚は嚶鳴詩社を代表して、以下のような発言をした。
中日の提携は、まず文化を重んじる。たとえば席を並べて詩を作ることは、即ち文化上の
相互連絡である。歴代満鉄社長に漢詩が得意なのは川村社長が第一人者である。漢詩が得意
なら必ず漢学に通じる、漢学に通じなら必ず中国の人情が分かり、中日間共同の幸福を謀る
に違いない。故に今日に亜州先生(川村氏の号)を歓迎するのは、満鉄の社長を歓迎するの
ではなく、本当に詩人の亜州先生個人を歓迎するのである。
この発言で、傅立魚は漢学を中日間の絆と見なしている。特に注目したいのは、彼は日本人側に中
国の人情を理解してもらうことに努めており、これこそ中日の共同幸福を図ることだと考えているこ
とである。
『満蒙之文化』には「中国の人物」という欄があり、始めは日本人が文章を書いたが、41号から傅
立魚16)が書くようになった。ここで彼は孫文、段祺瑞、曹錕、黎元洪、張謇、陳独秀、胡適、梅蘭芳、
呉昌碩など数多くの政界、財界、文化界、芸術界の名人を紹介した。特に政治界の人物が多かったの
で、彼の中国前途に対する関心を覗ける。この欄で、傅立魚は革命と新文化を宣伝し、軍閥を批判し
た。例えば彼は孫文を「民国創成の母であり、そして民本主義の守護神である」と熱烈に讃えて、「中
華人民にして一片国運隆昌を思ひ、均しく『共和同楽』の幸福を享へん事を望むの心あらば、此の保
護者の境地を支持し、最後の成功を得せしめる事が、最も賢明なる態度であらう」17)といって、混迷
な中国政局で、そして世界に向いて孫文のために支持を集めた。考えれば、転々と日本やアメリカな
ど各国を回して支持を求めている孫文に対しては、これは最高の革命の友情といえるだろう。
傅立魚は『東』誌への投稿は少なくない。翻訳「欧米外遊後之自覚」18)、翻訳「硯之研究」19)と「最
近期間之京津漫遊記」20)などがある。これら文章には個人の趣味愛好によるものもあるし、読んだも
のや自身の見聞で大変感銘を受け、多くの中国人に知ってもらいたくて翻訳または書いたものもある。
彼の投稿は孤軍奮闘している槖吾にとって大きな支持となったではないかと考えられる。
傅立魚の上記の言論を分析すると、彼は文化や思想を議論するより、もっと日中社会の現実に立脚
して、少しでも着実に日中民間の和親友好のために行動していることが特徴だといえよう。
― 12 ―
第3章: 『東北文化月報』の宣伝趣旨
第1節: 国家概念の消滅
前述で満協の趣旨と槖吾の理解との食い違いが判明したが、槖吾はどのように自分の論理を立てた
のだろうか。彼はこのように書いている。
「満蒙文化協会の趣旨について、このような宣言がある。『(前略)文化とは、人類だけに
賦与した特権である。平和の道で発展することは、人類が幸福を願う唯一の手段である。東
亜は、人類五千年の歴史を持っていて、その文化の進化累積が、全世界で最高となっている。
満蒙は東亜諸古国の交差点に位置して、東亜文化の発展に重要な責任を負っている。人類の
幸福を願うには、東亜の平和を求めなければならない、東亜の平和を求めるには、まず満蒙
文化の開発と断然たる関係がある。』
」
この引用について、まず指摘したいのは、『満洲之文化』に掲載された「発辞」や「満蒙文化協会設
立趣意書」
、「満蒙文化協会発起宣言」(中国語)など文章にはこのような東亜文化に関する記述はない
ことである。「発辞」と「満蒙文化協会設立趣意書」は日本語で、前文で紹介したが、「満蒙文化協会
発起宣言」は「満蒙文化協会設立趣意書」を概略して中国語に翻訳したもので、いずれも東亜文化や
平和を言及していないのである。槖吾の引用した「宣言」の原文はたぶん中国語の『東』誌に掲載さ
れてあるかもしれない(第一巻は残されていなくて確認できない)
。他に『東』誌の中に署名「満蒙文
化協会同人」の「啓示」には「平和鼓吹、文化宣伝」21)の言葉がある。これでも、東亜文化を宣伝す
る方針はあくまでも『東』誌の趣旨で、満協の趣旨とはいえないだろう。おそらく槖吾が最初に大連
にきて満協の当事者と主筆就任のことについて相談するとき、『東』誌がこの八文字方針で編集するこ
とを決めたから、これを満協全体の方針だと思い込んだだろう。このことから満協は日本人向けの趣
旨と中国人向けの趣旨という二通の宣伝方針を持っていることは確認できるだろう。
この二つの趣旨の相違点として、まず「満蒙」という土地には文化は存在するか及び文化の主人公
は誰かの問題がある。前述した日本側の定義によれば、今までの満蒙は文化的に「原始」の「荒野」
で、これを開発して、新しい文化を創造することこそ、日本人の世界への貢献である。この事業での
主人公は日本人であり、中国人は土地を耕作する農民で、あくまでも「簡素」な、「野趣ある」作品ぐ
らいが作れるという植民地文化のスケッチである。しかし『東』誌が全然反対な画像を描いた。つま
り東亜に既に世界最高の文化があって、満蒙はこれを発展させなければならない。この文化の主人公
について直接に言わなかったが(言う必要もないと思っただろう)
、中国人と日本人など東亜の人であ
るだろう。ここには、中国人の伝統文化に対する愛着心及び世界前途に重要な使命を負うという自尊
心、自己位置づけが含まれている。
もちろん、これは日本側の趣旨と比較して見えてくる中国人の内的自尊心であるが、もし中国内地
の雑誌と比較すれば、当時の新文化運動と思想啓蒙の普及する時期において、このような趣旨はやは
り「親日的」なものと批判されるかもしれない。
「日本の宣伝機関」と見なされ指摘できるところは少なくとも二つあると思う。まずは、「満蒙」と
いう名詞の位置づけに対して、「人類――東亜――満蒙」というようなかつてない妙なアイデンティ
― 13 ―
ティが提出された点である。これは中国内地の雑誌ではありえないことかと思われる。なぜなら、も
し通常の考え方で「人類――中国――満蒙」と定義すれば、満蒙の人が日本人と無関係のように見え
るから、満協の日本人に好まれないだろう。しかし「人類――日本――満蒙」になると日本と満蒙の
間に正当性が欠けており、そして世界に日本の満蒙独占の野心を証明してしまうので、このような宣
伝もよくないだろう。まん中を「東亜」に変えると、日本も中国も表に入るからこの式が正当的なも
ののように見えるが、しかし「人類――東亜――満蒙」というアイデンティティの宣伝は中国人にど
のような影響を与えられるか。つまり国家の概念を無くして、その代わりに「東亜」の概念を中国人
の脳裏に定着させれば、中国人の国民意識と民族意識が薄められ、
「東亜」あるいは人種意識が強まっ
ていくだろう。そうすると中国人は日本の侵略に抵抗する意志が無くなって、たとえナショナリズム
を持っていても、それを同文同種の日本には向けなくて、「東亜」以外の欧米に向くことになるだろう。
『東』誌にはこのような日本側の戦略を読み取ることができる。
『東』誌は東洋文化の宣揚を中心としたものだと自己宣伝した。しかし東洋文化のとても重要な人
生の意義に関する思想で、同時にアイデンティティの構造でもある「修身――斉家――治国――平天
下」(つまり人間の所属関係は個人――家族――国家――人類である)という構造から国家の概念を抜
いた。満協と『東』誌は自分に都合のいい変な倫理を作り出したのである。「満州国」はキメラと呼ば
れているが、満蒙文化協会はこの意味でこのキメラの胚胎に当たるものといえるだろうか。
「満蒙」という用語自身も1920年代に中国人に排斥されていたものである。これは範囲不確定の政
治地理的名詞で、二十一か条要求で日本がこれを条約名詞として使用するとすぐ中国政府に警戒され、
断固にこの言い方が否定されている22)。この言葉には中国から東三省と東蒙古を分割して、日本勢力
の下におく企図が含まれていると中国側に思われていた。もし民間で「満蒙」の概念を定着させると、
東三省中国人がアイデンティティを改造される恐れがあると考えられる。
もう一つ注目すべきなのは、文化と平和の因果関係が肯定されていることである。満協がこの認識
を持っていれば、日本語雑誌で日本人に支配者意識を育てて、中国語雑誌での中国人へ「東洋文化」
を宣揚することは、中国古典に特有の順従、無為、無争思想を利用して、中国国民、とりわけ「満蒙」
中国人を抵抗しない国民に教育する意図も伺うことができる。
このように違う視角から『東』誌の趣旨の違う側面を読み取ることができる。この趣旨は恐らく日
本人と槖吾らと協議しながら作ったものと思われる。中国人に読ませる雑誌である以上、日本語の趣
旨をそのまま使うのは中国人からの反感、批判を招く恐れがあるので、得策ではなかったはずで、そ
の結果、この「キメラ」のような趣旨が作り出されたと思われる。
『東』誌の目録では、これら特徴を容易に読み取ることができる。雑誌には主に挿絵、言論、専載、
海外事情、遠東彙聞、雑俎など項目がある。その材料範囲の設定と言葉使いは以下のように分析され
る。すなわち、挿絵は主に東三省と東蒙古の写真で毎号2~5枚掲載している。東亜印書協会の撮影を
多く使っている。「専載」には満鉄の資料を翻訳・公表するものなら、地名がほとんど「満洲」、
「南満
洲」、「満蒙」の言い方をそのまま使った。中国人が書いた研究成果なら、それがほとんど「東三省」、
「東省」、
「東北」の概念が使われた。「海外事情」は欧米を中心に世界各国のニュースを紹介する一方、
「遠東彙聞」は主に中国各地のニュースが掲載されているが、日本やロシア、蒙古のこともここに混
じっている。この編集方法は大連で刊行されている他の中国語新聞雑誌23)のニュースの分類方法とは
違っている。他の各新聞ではいずれも海外――国内――東三省――大連のようにニュースはを分類さ
― 14 ―
れていた。
ここで分かるように、『東』誌の編集は最初に決めた方針に従って、満蒙―東亜―世界の位置づけを
採用していた。それは中国人を「満洲」、
「満蒙」、東亜(遠東)の概念に馴染ませるものであった。ア
ンダーソンは、国民とは「イメージとして心に描かれた想像の政治共同体」24)としたが、1920年代の
中国の新知識人たちも国民意識と文化と政治との密接な関係に気づいたのである。
辛亥革命後、中国の前途に憂慮する革命家と新式知識人たちは、民衆の民族意識、国家意識が薄い
ことこそ、中国民主革命の失敗の原因であると認識して、民衆の国民意識を喚起、養成することを目
的とした新文化運動を起こしたのである。「愛国」、「救国」は当時の知識人のもっとも流行の言葉に
なった。そして当時「文化侵略」、「奴化」など言葉が現れ、傅立魚は1919年の文章ですでに日本側の
大連中国人に対する教育が「日本の忠臣孝子」を養成するための「驢馬でもない馬でもない」25)(無
理につなぎ合わせた)「愚民政策」的な教育であると非難した。1922年に奉天省で始めた教育権回収運
動が全国に広がっていた。これらのことから、当時の新式中国知識人はすでに文化と侵略の関係を認
識していたことが分かる。つまり文化は国民のナショナリズムの養成にかかわる問題であり、政治的
侵略に無関係なものではなく、むしろ非常に有効で、深いかかわりのあるものだった。1920年前後の
国際関係の複雑で敏感な時期において、文化の政治性が特に中国知識人に重要視されていたと思われ
る。
『東』誌の「満蒙人アイデンティティ」の創造作業は疑いもなく中国の利益に反するものであり、中
国文化発展の主流と反対するものであろう。槖吾が文化を「国境なし公私なし」のものと思ったのは、
彼が中国の置かれた境地、新文化運動の意図に対する無理解、無関心をもの語ったほかないだろう。
実は槖吾自身も「満蒙」という言葉の不適当を認識していた。1922年2月槖吾が初めて協会に入って
『東』誌の発刊を準備するとき、協会名が「満蒙」であるから、雑誌名も日本語雑誌と同じように『満
蒙』と名づければいいと提案した人がいた。槖吾は「期期以為不可」(うまく表現できないが、不可で
あることは思っている)
。その理由は「満洲の人々自身はすでに満洲の名前を使っていないのに、我々
はわざとこの捨てられた名詞をとって、無理に指定することは、人に喜ばせないだろう」、「これは人
情に関わる事で、普通の情理である」26)、ということであった。彼の主張により、雑誌名が「東北」
を使うようになった。その後彼自身の文章ではずっと「東北」の名詞を使っていた。しかし他人の文
章において用語が統一されなかった。このように槖吾は直覚によって言葉使いの民族感情が分りはす
るが、民族問題と国際政治には無頓着であったことが分かる。
第2節: 東洋文化の宣揚
『東』誌は最初からその刊行趣旨を「平和鼓吹」と「文化宣伝」の二点に絞った。ここで宣伝した
文化は思想の啓蒙、国民性の養成を目指す新思想、新文化ではなく、日本側の言うところの「東洋文
化」であった。新文化が普及され、儒教思想が批判されている1920年代において、あえて「東洋文化」
を宣伝するには、平和への貢献という理屈が必要であった。槖吾は「争と譲」27)という言論でこのよ
うに説明している。
「中国の学説は、流派が多いけれども、その趣旨の帰結するところは自制であり、調和で
ある。自制したら争おうとしない、調和したら争っても激しくにならない。西洋の学説も流
― 15 ―
派が多いけれども、その基本とするものは自由であり、平等である。自由したら必ず争いに
なる、平等したら譲ろうとしない。……これは軍国主義、経済政策、及び科学万能主義が変
遷進展させられてきた原因であり、最近数年間の欧州大戦の起こされた原点でもある。幸い
なのは西洋の明達が今度の痛手を経て、今までの非を悟り、どんどん東方先哲の学説を学ん
で救済策としているのである」。
これは『東』誌趣旨の東洋文化と世界平和の関係を裏付けるものでもあった。実はこの観点は槖吾
の発想ではない。1920年前後に、中国思想界には新文化運動に対する反動が現れた。
梁啓超など一部の知識人は新思潮が嵐のように中国に吹き込んだのを大いに驚いて、1918年末パリ
講和会議観察団を組織して欧州に行ったとき、欧州の哲学家たちに中国文化のこれからの発展方向に
ついて教わったことである。このとき第一次世界大戦が終わったばかりで、戦火の無惨な被害を受け
た欧州では、悲観的な情緒が知識人の間で広がっていた。彼らはこの壊滅的な愚かな行動は物質的、
科学的文明によるものだと思った。そして平和主義と見なされた東方文明、特に中国文明とインド文
明は、世界を救う助け舟だと西洋の哲学家が思った。彼らが梁啓超たちに渡した答えには、戦争が西
洋文明の破綻を宣告したのであり、彼らが中国の遺産から知恵を得て自分の文明の欠陥を矯正したい
という趣旨が述べてあった。1919年3月から梁啓超は一連の文章を書いて、国内にこの観点を伝えた。
彼は、
「欧州人は科学万能の夢を見ていた。しかし今は科学の破綻を叫んでいる。これは現在世界の転
換点である」28)と断言した。彼はまた、中国が世界文明の建て直しに重大な責任を持っており、中国
青年は自分の文化を愛し、尊敬すべきであるといった。しかし当時中国人の関心はパリ講和会議の進
展に集まっていたため、梁啓超のこれら文章はすぐに注目されなかった。1923年2月になって、同じパ
リ会議観察団員の王君劯の清華大学で行ったこの観点についての講演が、中国で大きな反響を呼び、
東西文化問題の論争が盛り上がったのである。
槖吾は素早くこの観点を受け入れたと思われる。槖吾は二十数年間国文教師をしてきた、儒教教育
を受け儒教思想を崇めている旧式文人だった。しかし新文化運動が始まると「打倒孔家店」のスロー
ガンが高らかに響き渡り、古い倫理道徳がことごとく否定されてきた。特に各学校の学生が新思想に
惹かれ、古い伝統を批判する主力になった。槖吾の失意は想像できる。彼は教職を嫌がって、辞める
ことさえ考えていた。このとき出現した梁啓超の論理はすぐ受け入れることができたであろう。彼に
とって大きな心の支えとなり、さらに、この時点で来た満協機関誌の主筆にする話は、彼にとって有
り難いチャンスだったであろう。彼は「所謂囚はれた役人風の環境を脱して、専ら筆墨に親しむ生活」
29)
をすることが出来るようになった。彼はこの仕事に対して感謝し、満足しており、意気満々と梁啓
超の論理と儒教文化を宣伝しようとしたのであった。そして日本側の指示がなくても自ら日本の立場
を配慮していたようだった。
他方で、梁啓超らのこの理論はすぐに胡適など新文化運動の指導者たちに以下のように激しく批判
されたことも見過ごすべきではない。すなわち、梁啓超らの論理それ自体は間違いとはいえないが、
各国がそれぞれ自制して、侵略を放棄することはあくまでも人類の最高理想であり、現実的ではない。
列強や他の国家が他国を統治しようとするその思想と侵略的な政策を放棄しない限り、中国伝統の消
極的な、服従の倫理は、中国国民の国家独立を求めている闘争において全然役立たない。
つまり「五四」時期前後に、ばらばらな砂のような中国が民族国家に統治され、侵略性に富んでい
― 16 ―
る現実世界に直面しているこの時に当たって、若い知識人たちは絶対にこのような観点を受け入れる
ことができなかったのである。そこで槖吾はためらわずに梁啓超らの観点を受け入れたと考えられる。
このように大連における「東洋文化」の宣伝は「人類の平和」という高い見地に立って成立した論
理であった。
中国伝統の中庸、調和思想は槖吾の価値観や道徳倫理に染み込んでおり、彼は時事を議論するとき
さえも、同思想に基づいてそれを行った。1923年に大連旅順の25年間租借期間が満了したため、同年
春から秋まで全国で旅大回収運動が盛り上がった30)。この運動はまず大連の住民によって火蓋が切ら
れたが、大連では言うまでもなく回収運動を展開することは不可能であった。各中国語新聞はニュー
スの欄で各地の運動状況を盛んに紹介して、大連中国人の関心を示しただけで、あえて社説を発表し
て自らの主張を言明した新聞雑誌は殆んどなかった31)。その中で、槖吾の長文論説「如是我観」は中
国人が大連で発表した回収問題を議論する稀にみる文章である。
この文章の中国語原文は恐らく『東』誌の1923年3月号に発表されたものだと思われるが、同雑誌の
欠号が多いため確認できない。今閲覧できるのは日本語に翻訳され、『満蒙』33号に掲載されたもので
ある。『満蒙』の編集者はこのために書いた前書きで次のように述べている。「所謂二十一箇条並びに
旅大問題は国際信義の上から観て既に論議の余地なき問題である。今北京国会は之れに対して廃棄を
声明し返還を要求するのも月に吠えると同様である。吾々は之れが為めに両国親善の基礎に何等の動
揺を与えらるゝ事なきと確信する。本稿筆者楊氏は温厚篤学の中国人として平常吾らの推服措かざる
の士である。今俗論を超越して旅大問題に対して公明と真実とを披瀝した本論の如きは本誌の読者に
対し他山の石たるを得ば幸ひである」。
槖吾は、まず日本の一部人士の断然拒絶の主張と中国人の無条件回収主張などを「皆自分勝手の議
論であって何等誠意ある意見と云ふことは出来ない」と蔑んで、自分の公正中立を強調してこのよう
に述べた。
「我文化協会の同人等はこの種の政治的手段を厭ふものであり、又此の文化的機関の力に
依って大に国際的平和を考究し且つ活動しつゝあるものである。不肖は所謂囚はれた役人風
の環境を脱して専ら筆墨に親しむ生活をしてをるものであるから、この種の政治問題に関し
ては全く没交渉なものである。(中略)本協会の存在する所、たまゝ大連の地にある関係上、
此の問題の惹起により目下日支人間の平和促進上に少なからざる一種の障害を与へつゝある
のは事実である。而してこの障害が一掃されない限り、唯漫然として平和を論じ、或は慷慨
的態度に出て、徒に親善を談じておつた処で労力徒に多くして、其効果は到底挙げられない
のである茲にこの一大障害を一掃すべき策として左に述ぶる私の所論に対しては願くば私の
胸にある至誠の迸りである事を先づ諒とされ冷静な第三者の立場からして日支の両立場を述
べて見たいのである。」
ここで槖吾は「此の問題の惹起」への大変な不満を表明している。もともと中国の旧式文人は利益
と政治を見下す傾向があったが、昔の文人はあくまでも自身の利益を捨てて隠遁して、詩や画の世界
で「筆墨に親しむ生活」をしたものであった。それは槖吾のとった態度とは全然違ったものである。
槖吾の立場によると、国際的平和を考究することは何よりも重要なことであり、政治の手段を利用し
― 17 ―
て自国の利益を求めることは嫌われることである。回収問題の提起は中日の平和推進上の障害物に
なった。だから此の話題を一掃しなければならない。槖吾の主張に従えば、「目下日支人間の平和」を
守るために、中国は国家の利益と主権を犠牲にして「此の問題」を提起すべきではないことになる。
少なくとも命を惜しまずに回収運動に身を投じた熱血青年たちから見れば、槖吾は売国賊ほかならな
かったであろう。
槖吾のいわゆる「冷静な第三者」の立場は、つまり日中「双方の論ずる処何れも理由のある事で、(中
略)、斯種の問題は単に法律眼でのみ是非すべきものではなく他に円満なる解決の方法を講ぜねばなら
ぬ」というものであった。彼は日本が旅大を租借継続の必要があるか否か、中国が回収後の責任を負
えるかどうかを分析して、次のように議論を展開している。
彼はまず日本側のために画策して、軍事、経済、移民について分析し、日本はすでに旅順大連を継
続租借する必要がなくなると彼は結論した。次に中国側について考えて、中国は回収するための一時
金も出せないだろうし、回収後大連の繁栄も維持できないだろと、中国に対しする絶望な気持ちを表
した。
第3節: 槖吾辞職後の変化
1927年7月から、槖吾が「遠出のため」、主筆役を辞めた。後任の主筆者は決定されず、李文権と高
柳霧仙が主要な編集者となった。これに伴い、雑誌の編集にも変化が起こっている。表紙は1927年ま
では楼閣や砂漠らくだなど中国風のデザインだったが、1928年から「日本鏡」に変わった。小説欄に
も、日本童話や、日本忠臣蔵など歴史題材のものが増えてきた。さらに記事「済南事件之如是我聞」
(署
名三角洲)は、完全に日本の立場に立ち、日本軍の適当な処置を語って、中国軍の「不信」、「無誠」、
「残虐」を非難する文章である。論説「対于改正中日条約之意見」
(高柳霧仙)は、中国人が日本人に
謙恭の態度を持たないことを非難し、これが今まで日本が中国を侵略した理由の一つとされた。この
ような宣伝が増えたのは、この時期から、『東』誌の編集権が日本人に握られ、あからさまな日本の宣
伝道具になったからだと思われる。
李文権の言論は、文中に難字や古典が少なく、槖吾の文章より分かりやすく、その論調は槖吾以上
に親日的なものであった。下記の「吾人応宣伝中国文化」32)の議論方法は、典型的な論説であった。
「日本人の文化宣伝は、あくまでも日本人が西洋人の代わりに西洋文化を宣伝するに過ぎ
ない。私は敢えてこの種の宣伝に反対することはできないが、しかし努力に宣伝しても中日
の国交に役立たないと思う。なぜかというと日本人が西洋人の代わりに西洋文化を宣伝する
と、その結果は中国人に西洋人と親善を促進させるだけで、けっして中国人に日本と親善さ
せることができない。これで中国と日本の間では、中日親善を促進する機会がなくなるばか
りか、更に両国に互いに好ましくない感情を生じさせるかもしれない。中日親善を願わなけ
れば別だが、もし中日親善を願うなら、中国文化を宣伝しなければならない。日本の旧文化
は、すなわち中国文化であり、いわゆる東洋文化というものである」。
「中国人は宣伝が苦手で、古代の文物が日に日に埋もれている。日本人は宣伝が得意で、
もし中国との親善を実現する心があれば、文化の提携から着手しなければならない、そして
古い文化の提携から着手しなければならない」
。
― 18 ―
このような李文権の考え方は、文化の宣伝は自国の実情と必要によって選ぶのではなく、中日親善
を前提としその他一切を不問に付するものである。しかし、もし世界平和のために東洋文化を宣揚す
るのならば、なぜ中国人は西洋各国より、日本と特別に親善しなければならないのだろうか、さらに
理解できないのは、日本側が日本人に向かって西洋文化を宣伝するのに、中国人に向かって「東洋文
化」を宣伝している矛盾を、李文権は指摘したにもかかわらず、その原因と結果は究明せずに、ただ
単純に日本人に「東方文化」を欧米に宣伝するように要求した。彼によると、そうすれば「日本が第
一の功労者になれる、中国と共存共栄できる、その後東方文化を世界に普及させる」という「三つの
良いところがある」という。
ここには、槖吾が苦労して築いた「文化が公私なし」、「世界平和のため」の論理も全部崩され、中
国人としての自尊心の跡形も見えない。またその論理性の欠如は一目瞭然だろう。
一方、日本人は東洋文化というものをどう捉えていたのだろうか。この問題については数多くの先
行研究がある。安藤彦太郎氏によれば、徳川時代には朱子学が唯一の官許の学で、中国の文献を読む
ことがイコール学問で世界認識の学問であった。しかしアヘン戦争での中国の惨敗により、文明の根
幹をなす儒学への不信が生まれた。そして東洋の人々の紐帯と目されていた価値観や道徳をささえる
はずの儒学さえ空疎なものとみなされ始めた。同時に西洋を夷狄視して、その科学・技術の摂取を拒
絶してきた清朝を頑迷固陋とみる意識も広がっていった。明治になって洋学が学術の主流になると、
当然ながら、封建教学としての朱子学は世界認識の学問たる資格は失ってしまった。しかし、それは
明治の絶対主義教学として、漢文教育を足がかりに、漢学として再編成され、生き残った。しかし、
古典世界の中国については尊崇し、現在の中国についてはそれとは無関係に軽視する、という二分状
況が生まれたのである33)。それと反対に西洋文明を勉強するの文明開化が強調されていた。
大連の日本人社会をみれば、古典世界の中国に対する尊崇は個人の漢詩や古典への趣味愛好に留
まっていたようだ。しかし同時代の中国を軽蔑する意識は大連日本人の行動によって普遍な現象と
なっていた。満協は成立早々、大連で日本人啓発運動を行い、民間日本人の露骨な中国人に対する圧
迫的行動を注意した。例えば、日本人は勝手に中国人の住居に飛び込むことがよくあって、中国人社
会から大変不満な声があがっていた。満協はこのために何回も注意書を印刷して、このような行動を
無くすように呼びかけた。露骨な民族差別をすることは1920年代の国際社会では「文明人」の資格が
ないと見なされ、日本は面目を失ったことも理由だが、このような運動はもちろん中国人の利益を守っ
たことで、中国人社会に歓迎されただろう。一方日本人の識者は欧米人の中国人啓発事業をも研究、
公表し、ライバル意識を持っていたようである。
また、満協には日本人向けに「東洋文化」の道徳倫理を宣伝する文章は全然見られず、それを宣伝
する意思が毛頭もなかったことは確かである。
第4節: 『東北文化月報』と『新文化』の比較
初期の『東』誌は時事的総合雑誌で、ニュースの「海外事情」と「遠東彙聞」が毎号90数頁の中で、
合わせて30~50頁を占めており、各コーナーで40~50件のニュースが紹介された。1925年に入ると急
にニュースの数が減り、同年7月号からこの二つの欄が完全に消えている。1920年代前半の中国と言え
ば、もっとも重要な事件は、おそらく学生運動と排日運動、内戦と統一問題であろう。
『東』誌は不思
議にも、学生運動と排日運動、内戦と統一問題のニュースを一件も取り扱わなかった。日本と関係が
― 19 ―
あるから回避したか、あるいは槖吾が政治に無関心でこの問題を軽視したか、推測しかできない。
当時中国メディアのもう一つの主題は新文化の宣伝であった。『東』誌は教育問題を中心とした雑誌
だったが、槖吾が関心を示しているのは教育方法や、中国各大学や図書館の建設と設置についてであ
る。新思想、新制度についてはほとんど紹介されなかった。その一方で詳しく追跡報告されたのは義
和団賠償金の返還問題である。特に日本の国会審議や名人発言などで、進展があれば日中親善の実例
として大いに宣伝された。
槖吾はあえて新文化、新思想を否定することもしなかった。彼の観点は、
「中華民族は対外に器量が
大きくて、古くから外来文化に対して強い吸収力を持っている。しかし急ぐなら返って達せない。多
く欲せば凶悪な結果を招く。この言葉をもって文化運動に従事する人々に勧めたい」34)という迂回な
表現によるものであった。
これは槖吾自身の累積した知識と政治関心に関係があろうが、新文化運動に対する反動だったでも
ある。槖吾にはほかに「戒縦侈以救乱亡論」
、「望治之言」など命題作文式の読みにくい文章が多数あっ
た。彼はこれらの文章で中国の動乱、暗黒を指摘したあと、廉潔な人材を養成することを希望してい
る。
一方、傅立魚は1921年から、大連中華青年会の会務に専念するため『泰東日報』の主筆を辞めた。
しかし「時事を見ると、喉に魚の骨がつかえているように、
(言いたい事を)吐き出さないと我慢でき
ない」35)と思い、やっとのことで『新文化』の発刊(1923年2月)にこぎつけた。
大連中華青年会は明確に愛国主義の旗職を挙げていた。『新文化』の「発刊辞」で、傅立魚は「東三
省の人民は中華民国の人民である、東三省の土地は中華民国の領土である」とはっきりと強調し、東
三省人民のアイデンティティを再建しようとした。そして傅立魚は世界平和、南北統一、東西文化、
社会改良、経済均衡、労資関係など問題を提出して、雑誌の主張としたが、東西文化の問題について
は、「中国固有文化の精神を発揮し、西洋文化の精粋を吸収して、東西文化の結合を図る」と主張した。
そして『新青年』の紙面をみると、新思想、新文化の内容が圧倒的に多いことは別稿36)で述べた。
『新青年』は一年後に『青年翼』と改名した。しかしそれは方針が変わったのではない。改名の際
に改めて「宣言」37)が出され、趣旨が言明されている。
「もともと文化というものは、新しい文化だけ価値を持っている。なぜなのか、文化の意
義は、いかに解釈されていても、その内実は人類の生活様式に過ぎない。つまり現代生活に
ふさわしい生活様式である。それを普通は「新文化」と呼ぶ。現代の人々は皆これを歓迎す
べきである。あれら過去の時代の生活様式、即ち所謂旧文化は、博物館送りにし、研究され
るしかない」とはっきり言明した。
そして整理国故について、このように理解している。つまり,
「実は国故なのに整理といったのは、無理に古いものを新世界に搬入するのではなく、た
だたくさんの古いものの山から、精粋を絞って、面目を変わらせるので、性質、形式ともに
昔と大に違ってくる。それは一種の新しい生命を持っているから、昔のものとはいえない。
そもそも新しい文化というのは、必ずしも従来の一切を絶対に徹底に拭掃するわけではない」
。
改名の理由については、
「空洞に『宣伝新文化』なにかを説くより、着実に旗幟鮮明に現代青年の真摯で誠意な友
― 20 ―
達になるほうがいい。なぜなら我々が付き合いたいのはあれら生き生きとした新青年しかな
い――勿論年齢だけをいうわけではない」と述べている。
最後に雑誌が改名したあとでも、
「けっして方向を変更していない、範囲を縮小していない、言い換えれば、その立脚点を
やはり「新文化」を宣伝することに建築している」と改めて強調した。
『新文化』はその創刊から、『東』誌の観点を矯正することが念頭にあり、青年を新文化の方向に導
く意図があったではないか、と考えられる。
― 21 ―
第4章: 小結(あとがきの替わりに)
大連の中国人言論界は、1910年代では傅立魚を中心とした『泰東日報』一社独占の時代であったが、
1920年代に入ると、中国語新聞が3社に増えて、雑誌が2誌になった。編集はそれぞれの特徴があるが、
なかでも『東』誌と『新文化』はもっとも方針や目標が対立していると思われる。『東』誌の創刊と方
針には大連日本当局の対中国人文化指導の性格があり、大連中国人のアイデンティティの確立に重大
な影響を及ぼすものである以上、その主筆の採用は言うまでもなく重要であろう。そこでなぜ奉天か
ら槖吾のような人物を招聘してきたか、これについて中国人の対日認識の側面から分析してみたい。
1880年代、黄遵憲が『日本国志』を書いて、初めて中国人に日本を系統的に紹介したとき、薛福成
はこの本に序を書いて、次のように予言した。
「これから(中国と日本は)、領土が近いせいで子々孫々
仇敵になり、呉国と越国のように憎みあうか、或いは同盟して互いに欠かせない存在となり、呉国と
蜀国のように助け合うようになるか、時勢が変幻極まりなしで、敢えてはかり知ることはできない」38)
と日中関係の二つの相反する発展方向を予想した。
「日本に対して、羨望と警戒の態度を読み取ることができるが、それは当時の中国知識人の基本的
な日本認識であった。(中略)この二重性を呈する日本記述は、またこれに続く時代の教科書の基礎と
して引き継がれるのである」と徐氷氏は清末中国最初の近代的教科書を分析している。つまり「国民
国家の建設を目指すなら、日本はもっとも適した模倣の対象となった。中国の青年は日本に思想的資
源を求めながらも、独立のために日本を脱離しなければならない。こうした矛盾は近代以来の日中関
係を方向付け、中国の青年と知識人を苦しませた。」39)と指摘した。(もちろんこれは呉稚輝のような
新式知識人を限っていったのである)
。このように薛福成が眺めていた将来像が20年の後、中国知識人
の身近な重要問題となった。
孫文など革命家は日本を中国民衆の友達にさせるために大アジア主義を掲げ、力を尽くした。しか
し現実では当然、警戒感のほうが圧倒的に強くなり、それが排日運動に発展したのである。
大連の言説の特徴は、日本に対する羨望だけは宣伝できたが、共存した、日本を警戒する言論は全
く許されなかったことである。そしてもちろんもともと全然警戒心を持たないことが日本にとっての
理想であっただろう。日本に対し警戒心を持たなかったのは槖吾のような政治に無関心な旧式文人で
あった。
傅立魚は救国、民衆の啓蒙を自分の責任とした革命者で、時局の発展に強い関心を持っていた。彼
は日本が中国の友好隣国になれるという希望を最後までも捨てなかったが、しかし警戒心は持たな
かったわけではない。その警戒心は言い表してはいけないから、単純な「愛国」という表現しかでき
なかった。彼は大連中華青年会を成立してから「私と同志者は毎日も悪戦苦闘してきた」状態であっ
た。しかし誰と戦ったかは言明できないから、それを「環境」との戦いと言い表し、「我等同志は固く
方針を抱いて対応すべく。環境を利用して環境に縛られない。慎重にして随時に危機意識を持ちなが
ら、一歩一歩勇猛に直進すべきである」40)と述べた。
一方旧式文人の槖吾は、彼自身の言ったように「政治問題に関しては全く没交渉な者である」41)。
だから彼の大連での編集生活は「所謂囚はれた役人風の環境を脱して、専ら筆墨に親しむ生活」なの
であった。彼が編集した『東』誌は生活を楽しむのんびりした雰囲気が漂っている。
以上の分析から、新式知識人と旧式文人の大きな違いは、次の点にあると言えよう。すなわち、新
― 22 ―
式知識人は中国の現実に対して深刻な危機感を持っていて、
「救国」を自分の責務と考えている。しか
し旧式文人はずっと古典の中に生きていて、中国の現実を目を瞑って見ない。彼らは論理的思考の訓
練を受けたことがないため、自分の直覚のみで判断し結論しており、古典や史書から事例を引っ張っ
てきて、その結論のために恣意的に用いて命題作文式の文章しか作れない。
1920年代の大連において日本側が植民地的な満洲文化なるものを創出するには、満洲の統治を成功
させる目的と国際社会に日本の軍事行動の正当性を弁解する目的があった。そのために、日本側は、
当時中国の知識人の間に存在した新旧世代の大きな思想的特質の違いを巧妙に利用したことが判明し
た。日本側は槖吾のような古い人物を中国人へ宣伝する道具として利用していたのである。
― 23 ―
註
1) 平野健一郎「1923年」の満洲」平野健一郎編『近代日本とアジア――文化の交流と摩擦――』東京
大学出版会、1984年。
2) 全国図書館文献縮微複製中心『東北文化月報』2006年6月出版、北京。欠号ある。
3) 「会報」『満蒙之文化』19号P65。
4) 槖吾「満蒙文化協会の実況」『東北文化月報』1924年2月号。
5) 同上。
6) 満鉄地方部学務科編『華人ノ観タル日本人』1924年1月。
7) 『満蒙之文化』第二巻6号会報、1921年2月。
8) 同上。
9) 「満蒙文化協会現在役員」アジア歴史資料センター、Ref:B05016075100。
10) 石田卓生「
『満洲国』官僚『徐長吉』とアマチュア作家『古丁』」
「満州国」文学研究会2007年9月定
例研究会の研究報告。
11) 「満蒙文化協会設立趣意書」『満蒙之文化』創刊号、1920.9。同じ内容を中国語で「満蒙文化協会
発起宣言」の題目で次の頁に掲載されている。
12) 岩永裕吉「満蒙文化協会に望む」
『満蒙之文化』創刊号、1920.9。
13) 岩永裕吉とは、明治42年に京都大学法科卒、日本国際新聞連合通信社専務取締役で、学士会員。1928
年版『大正人名辞典』より。
14) 『「満蒙」総目次・執筆者索引』不二出版社より復刻出版、2003,8。
15) 坪川与吉「中国人教育を顧みて」
『南満教育』1926,11。
16) 傅立魚は風光台に建てた私宅を読秋楼と名づけたため、漢詩の署名などに「読秋楼主人」を使って
いた。
17) 「中国の人物」『満蒙之文化』41号、1923年12月。
18) 保ゝ隆矣著、傅立魚翻訳、
『東北文化月報』第三巻第1,2,3号、1924年1-3月。
19) 阪島茂蒼著、傅立魚翻訳、
『東北文化月報』第四巻第3-10号、1925年4-10月。
20) 署名は読秋楼主人で、『東北文化月報』第四巻第11号、1925年11月。
21) 『東北文化月報』第四巻3号、1925年4月。
22) 李毓澍『中日二十一条交渉』(1966年)第四章を参照。
23) 以下のことを指す。
『泰東日報』
(1908-1945)
、
『関東報』
(1920-1937)
、
『満洲報』
(1922-1937)
、
『新文化』
(1923,2-1928,7)
。これらと『東』誌を合わせて大連1920年代の三紙二誌と呼ばれていた。
24) ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体:ナショナリズムの起源と流行』1997年。
25) 傅立魚「対與大連華人教育問題之希望」
『泰東日報』1919,3,21社論。
26) 槖吾「本協会改易名称之意趣」『東方文化月報』第5巻11号、1926年11月。
27) 槖吾「争与譲」『東方文化月報』第2巻6号、1923年6月。
28) 梁啓超「欧遊心影録」『時事新報』1919年3月。『梁任公近著』23頁に所収。
29) 楊成能(槖吾)「如是我観」
『満蒙』33号、1923年4月。
30) 拙稿「1923年の大連と旅大回収運動」東京外国語大学大学院『言語・地域文化研究』第12号、2006,3。
― 24 ―
31) 『泰東日報』の記者安淮陰は回収を主張する言論を発表したため、関東庁の圧迫を受け、友人の助
けで大連から逃げ出したという記述がある(遼寧省社会科学院文学研究所『東北現代文学史料』第
三輯、1981,4)。しかしそれはどの文章であったか確認できなかった。
32) 李文権「吾人応宣伝中国文化」『東北文化月報』6巻8号 1927年8月。
33) 安藤彦太郎「近代日本人の中国像」『中央公論』1964年79-7。
34) 槖吾「中華民族器量之観察」『東北文化月報』第2巻5号、1923年5月。
35) 傅立魚「発刊辞」『新文化』1923年2月。
36) 拙稿「大連における傅立魚――ナショナリズムと植民地のはざまで――」東京外国語大学大学院『言
語・地域文化研究』第11号、2005,3。
37) 記者「宣言」
『青年翼』1924年2月。作者は傅立魚ではなく、言葉使いから見れば別の熱血な青年記
者である。しかし新文化の宣伝、青年の社会的責任、確実な効果を重視するなどの観点は傅立魚と
まったく同一である。
38) 陳錚編『黄遵憲全集』中華書局、下817頁。
39) 徐氷「清末の中国教科書に見る日本人像」『中国21』22号2005,6。
40) 傅立魚「感謝素日援助本会之諸大君子――並勗本会教職員及会員諸君」
『青年翼』第5巻、1926年6,7月。
41) 前掲「如是我観」。
― 25 ―
参考文献
安藤彦太郎「近代日本人の中国像」『中央公論』1964年79-7。
河原円「大蔵公望の対満国策論」
『歴史学研究』第786号
坂野潤治「明治日本の転換点――東洋盟主論から脱亜入欧論へ――」『歴史と人物』1973年7月。
山室信一「日本外交とアジア主義の交錯」日本政治学会年報『日本外交におけるアジア主義』岩波書
店1998年。
徐氷「清末の中国教科書に見る日本人像」『中国21』22号2005,6。
姜克実「
『満洲』幻想の成立過程――いわゆる『特殊感情』について」国際日本文化研究センター紀要
『日本研究』32 2006年3月。
劉建輝「
『満洲』幻想の成立とその射程」『アジア遊学』44 2002年10月。
周策縦『五四運動史』岳麓書社 1999年。
陳錚編『黄遵憲全集』中華書局。
李毓澍『中日二十一条交渉』1966年。
ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体:ナショナリズムの起源と流行』1997年。
― 26 ―
『東北文化月報』と満蒙文化協会
2008年3月
第1版第1刷発行
非売品
編集・発行 : 富士ゼロックス小林節太郎記念基金
〒107-0052 東京都港区赤坂9丁目7番3号
電話 03-6271-4368
Printed in Japan
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