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研究論文
末代皇帝御書の機能と社会
−孝宗﹁太白名山碑﹂ ︵東福寺蔵︶ をめぐって
塚 本 麿 充
額等、歴代法帖﹂が著録されていることから、文和二年︵一三五三︶
までには他の宋柘碑本同様に東福寺にあったことがわかる。﹁太白
¶10−
︽キーワード︾三館秘閣六闇・天童山・阿育王山
一.はじめにー﹁太白名山碑﹂概要
名山碑﹂は、全体を筆でこするようにしてとられた髭蝋の拓本で、
日本に伝わる宋拓本の技術的基準作として知られ、また、雄渾な筆
法でかかれた﹁太白名山﹂ の四字は、南末の大字書法のありかたを
﹁宋孝宗御書太白名山四大字﹂ ︵東福寺蔵、図1、以下﹁太白名山
碑﹂︶ は、聖一国肺門爾弁円︵一二〇二∼一二八〇︶ が入末のおり嘉
伝える重要資料として、これまでも書法史上は重要視されてきた。
を以て進上し、少保右丞相永国公史浩︵二〇六∼一一九四︶ の奏
日来港﹂して累日去るに忍びなかったため、父孝宗へ ﹁太白山図﹂
︵一一四六∼一一八〇︶ は天童山景徳寺僧慈航了朴を気に入り﹁暇
閣記﹂などによって知ることができる。これによると、親王憧
の由来については、下に付された了朴自身の文や模鎗﹁天童山千悌
は、本碑が下賜された折江省天童山のことである。この御書碑下賜
之賓﹂印、その上に﹁賜天童山﹂ の文字が記される。﹁太白山﹂と
碑額に﹁御書﹂の二文字と雲龍瑞華紋、中央四文字のなかに﹁御書
縦一八七・九cm、横八四二一cmにもなるこの巨大な碑の拓本は、
禎元年︵一二三五、南末端平二年︶ 四月∼仁治二年︵一二四一、南
宋淳祐元年︶ 六月請来したとされる碑拓である。この碑拓について
は、東福寺普門院の蔵書目録に、多くの宋版書籍と並んで﹁径山善
図1「宋孝宗御書太白名山
四大字」(東福寺)
講を経て、淳興五年 ︵一一七八︶ 辰翰大書﹁太白名山﹂が下賜され
二.宋代皇帝御書の変遷と孝宗書風
﹁太白名山碑﹂は南宋二代皇帝孝宗 ︵一 二ヒ∼一九四、在位
たという ︵年表44︶。了朴は辰翰を賜ると寺門の上に ﹁雲章閣﹂を
建てこれを刻して掲げ、真蹟は方丈に別に一闇をなして保存した。
一六二∼一一八九︶ の御書である。両宋三百年間に見られる顕著
な特徴の一つに、皇帝が皆な書をよくすることが挙げられる。孝宗
現存する東福寺の ﹁太白名山碑﹂は石碑からの拓本であるため、御
書は真蹟の他に刻石され、そこから拓本がとられたものが本作であ
もそうした皇帝の一人であるが、宋代に書法をよくする皇帝が多く
生まれた理由には、上大夫の文化が皇室に及んで皇帝自らが文人化
ろう。
すでに北末の入宋僧成尋 ︵一〇二∼一〇八一︶ は、滞在してい
宋初の御書を特徴付けるのは飛白書である∩︶三皇帝︵太宗、真宗、
し、文化的自己表象の手段としての書法が重要視されたことが挙げ
の大きさであるが、それでも宋皇帝御書碑の巨大さとその気宇の大
仁宗︶ はみな飛白をよくし、それは唐代から続く皇帝を表象する機
た開封太平興国寺伝法院において太宗皇帝、真宗皇帝の御書碑を実
きさを伝えていると言えよう。では、このような御書の下賜と拓本
能を継承するものであった事はすでに指摘した。日本では空海に
られる。それは土大夫文化の成熟とともに、皇帝の書風が変化して
化は、末代においてどのような歴史的背景と意義をもって行われた
ょって飛自書 ︵図2︶ は嵯峨天皇に伝えられるが、この背景には大
見し、それが三階大開の中にそびえる高二丈の碑であたことを記録
のであろうか。従来の様式変遷中心の書法史や絵画史研究では、少
陸で、飛白が皇帝の書としての意味を持っていたことと関係がある。
いくことからも窺えよう。
数の解説をのぞいて、﹁太白名山碑﹂が南宋社会において果たして
その後日本で飛自書は変容を遂げつつ、その本来もっていた隷書の
11
している ︵年表26︶。これと較べると ﹁太白名山碑﹂は約三分の一
いた役割についてはほとんど議論されてこなかった。そこで本稿
では前半において、皇帝の御書の社会的機能について年表を中心に
詳しく考察し、後半に﹁太白名山碑﹂自体の問題を考察していきた
い。本作品が宋代社会において固有の意味と役割をもち、また日本
に講来されたことによって本来の南宋宮廷の意味を離れ、禅林墨跡
としての新しい意味を獲得していく過程を考察することが本稿の目
的である。それではまず﹁太白名山碑﹂ の書風を検討することから
始めたい。
図2 空海「真言七祖像賛」(善無
畏像、部分)(東寺)
図3 徴宗「瑞鶴図巻」並御書(遼寧省博物館)
筆法を失い、次第に装飾的になりながら、宮中の扁額を飾っていく
ことはよく知られている。ところがこれらの扁額が日本で成立する
十∼十一世紀ごろ、同時代の北宋の宮廷も、唐の皇帝を模倣する、
北宋皇帝自身による飛白書で飾られていたのであった。この時代は、
まさに飛白の時代とも言えよう。
このような宋初における飛白は、その工具の継承にも見られる。
太宗 ︵九三〇∼九九七、在位九七六∼九九七︶ が御書をなす筆は当
時から特殊なものであったようで、大中祥符二年 二〇〇九︶ には
その鍾文紅管筆が下賜され ︵年表7︶、同五年 ︵一〇﹂ ▲︶ にも近
臣がその筆を見ることを願っている ︵史料8︶。確かに飛自書を為
すには木へラのような特殊な工具が必要であり、このことは、真宗
︵九六八∼一〇二二、在位九九七∼▲“〇二 ▲︶ 崩御間もない乾興元
年 ︵一〇二一︶ 三月、仁宗 ︵一〇一〇∼一〇六三、在位一〇二三∼
一〇六三︶ が真宗霊御前に並べられた、おそらくは真宗遺愛の品で
あろう木皮﹁飛自筆﹂を執ると忽ちのうちに飛白書をなして分賜し、
そのことが仁宗一代の飛白書下賜の開頭となったという逸話からも
窺える ︵年表H︶。
このような皇帝飛白の製作は仁宗朝にピークを迎え、末代皇帝を
象徴するものとして遼興宗にも贈られている。次代の神宗 ︵▲〇四
八∼一〇八五、在位一〇六七∼一〇八#︶、哲宗 ︵J〇七六∼一一
〇〇、在位一〇八五∼一一〇〇︶ にも飛白の製作は確認できるがそ
の制作は次第に低調になり、次代の徴宗 ︵.〇八二∼ 三五、
在位一一〇〇∼一一二五︶ 朝に至って御書は痩金体へと変化する
︵図3︶。飛自体は荘厳であるけれども硬く装飾性に流れがちである
12
■■■
準
宴
図4 高宗「徴宗文集序」(個人)
のに対して、痩金体はより芸術性が高く、かつ士大夫書風のように
感情を完全に露出することもない。まさに新しい皇帝をあらわすの
にふさわしい書風であったと言えよう。
南末に至ると皇帝御書は再び変化する。南宋初代皇帝高宗趨構
︵一一〇七∼二八七、在位一一二七∼一六二︶ は徽宗の九男と
して生まれ、本来は帝位に就く予定はなかった。そのためか、若年
は徽宗のそれと同じく、文人文化に触れて書は黄庭堅を学び、自
由な文人尚意書風を吸収していた。しかし靖康の変の後ち擁立され
て急速即位すると、皇帝にふさわしく、かつ ﹁御筆相乱﹂をふせぐ
ためという理由で黄庭堅風を
、 ■ ・ ・
−13−
廃し、六朝の錘額に学ぶ典雅で
擬古的な書体を確立した ︵図
4︶。これらはいずれも見た目
が復古的で美しく、代筆しやす
いうえ、一見して特定の個人の
書風であることが分かり、また
線のかすれ等による微妙な感情
表現を伴わない。士大夫たちの
審美要求に適合しながらも皇帝
御書にふさわしい特徴を備えた
書体と言えよう。この御書体は
南末の新しい規範となり、以後
皇室に受け継がれていくことと
なるのである。
図5 孝宗「蓬箇睡起掛」(台北・故宮博物院)
高宗には子がなかったため、太祖七世の孫にあたる遭啓が選ば
れて禁中で育てられた。第二代孝宗である。その現存する作品は少
ないが、研究史上は、高宗と孝宗書風の差異が議論され、高宗書
風をやや豊かに丸みをおぴたものが、孝宗の書風と考えられている。
その書風は、﹁孝宗吾は家庭の法度あり﹂と言われ、幼年から過ご
した宮中において伝えられた高宗御書の書風を継承したものと言え
よう ︵図5︶。
このような宋代御書の伝統の上に孝宗書風は誕生したわけである
が、﹁太白名山碑﹂は大字であり、これらの書風とはまた異なった
特徴をもつ。ではその書風はどのように解すべきであろうか。中国
ー14仙
本土にはその他にも孝宗御書碑原石が現存している。今比較を行う
ことでそれらに共通する特徴を確認したい。
﹁韓世忠神道碑﹂︵現碑江蘇省呉県、図6︶は淳黙三年︵一一七六︶
に南末の名将であった韓世忠︵一〇八九∼一一五一︶墓所神道に賜
った孝宗御書碑である ︵年表聖。功臣に神道碑を賜うことは秦櫓
︵一〇九〇∼一一五五︶ の例︵年表翌を初めとして多く見受けら
れることであるが、死後二十年近く後になって御書神道碑を賜った
理由は、韓世忠が抗金主戦派であり、秦槍没後の孝宗朝に至ってよ
うやくその名誉を回復された為であろう。この碑には御書題額十字
の中央に孝宗御殿である﹁遺徳殿書﹂ の御璽が押されている。ま
た﹁石湖碑﹂ ︵現碑江蘇省呉県、図7︶ は、花成大 ︵一二一六∼一
一九三︶ に下賜されたものであるが、その由来は御書の下につけら
れた花成大自身による由来記によって明らかで、それによると故地
蘇州石湖に建てた別壁に、淳欧州十五年︵一一人八︶ に下賜され孝宗
図6「韓世忠神道碑」(江蘇省呉県)
図7「石湖碑」(江蘇省呉県)
御書二字を刊石したものであった︵年表49︶。中央には﹁御書之賓﹂
が押され、﹁太白名山碑﹂と同一印である。特徴のある左払いや横
画の角度などからは ﹁太白名山碑﹂と同じ工具と筆写者を予想さ
三.御書と宋代の社会
い皇帝の書体について、古代の書法とされた ﹁神南碑﹂ ︵または
ルを伝えるものであることが確認できる。花成大はこのような新し
名山碑﹂が確かに当時大量に下賜された孝宗御書碑の典型的スタイ
皇帝御書を ︵一︶ 親筆の墨蹟、︵二︶ 額棒、︵三︶ 拓本、に分けて論
と密接に結びついていた。今ここでは稿末に付した年表をもとに、
会で流通し、それは三館秘閣六閣とよばれる宮廷文物収蔵公開機関
群臣に示す活動が多く行われていることに気がつく。末代御書は社
末代の史書をひもとくと、皇帝の書を賜う、またはそれを展観し
﹁的峻碑﹂ ﹁丙碑﹂現存漸江紹興市禽稽山︶ との類似を述べており、
をすすめることとする。
せよう。またその立石のスタイルも共通し、このことからも﹁太白
起筆、終筆などの明確な筆法を使わず、筆の勢いで雄渾に描き出す
ことが理解される。この書体はそれまでの飛白や顔真卿書による大
顕彰する大々的な文化事業が行われる際などに、近臣や学士に下賜
御書は佳節や、功臣が罷職して帰郷する時、新進士の及第や先帝を
︵一︶ まず挙げなければならないのが皇帝の親筆である。皇帝の
字と大いに区別され、南宋の新しいスタイルとして、後の張即之や
された。その内容は古詩や臣下を讃える文句、また実用的なものと
ような本作のような書風が、当時の人にとって斬新な書体であった
無準師範の書風に受け継がれていくものと考えることが出来る。
るべきで、他の通例とも共通する形式を持っていることを確認した。
碑﹂が南宋社会にあっては、皇帝御書の生産という文脈で捉えられ
がその流れの中で生み出されたものであったこと、また ﹁太白名山
故事を多く下賜し、国土回復の意思を臣下に示したことにも挙げら
いる。また高宗は ﹁車攻詩﹂ ﹁遭売国伝﹂といった夷秋との戦いの
おいては ﹁太宗故事御書は皆な監戒﹂ であったという感想が残って
きながら勧戒の意を示す御書を賜うことが多く、真宗朝の観書会に
して新纂なった書物の序などがある。太宗は近臣にむけて故事をひ
ではこれらの御書は社会の中でどのような機能をもって流通し、立
れるように ︵年表31、33、34︶、御書の下賜はその時々の政治的課
以上のことから末代皇帝の御書が時代とともに変遷し、孝宗御書
石拓本化されたのであろうか。
題と皇帝の意思を宣示する手段でもあった。
一方御書を受けた臣下は、闇を建てそれを奉安する例が多くみら
れる。劉簿 ︵九七〇∼一〇三〇︶ が庭州に真宗御書を奉安する殿
を建てたこと ︵年表13︶ や仁宗御書闇を第中に建てた張士遜 ︵九六
四∼一〇四九︶ ︵年表14︶、また仁宗御書を得た文彦博 ︵一〇〇六∼
−15−
設によって、具体的な親宋政策を国内外に宣示する目的があったと
より友好的な関係を結ぶことを欲していた。毅宗は太宗御書闇の建
したという︵年表22︶。当時西夏は達との複雑な関係上も、北宋と
表して太宗の御製詩草、隷書石本を求め、書間を建てて宝蔵せんと
宗︵﹂〇四七∼.川〇六七、在位一〇凹八∼一〇六七︶は、仁宗に上
建設は国外においても行われ、例えば嘉祐七年二〇六二︶西夏毅
を建てることが流行した︵年表29︶。このような象徴的な御書闇の
閣が現存している︵図町︶。また特に徽宗朝以降には私第に御書闇
御書閣の建設で象徴的に顕示するものと言え、現在でも各地に御書
る。これらはすべて北朱の皇帝権とそれに連なる自身の正当性を、
▲〇九七︶は閲を建てそれを奉安した︵年表2
時事片幅、半紙屏扇の書などすべて表具して保存せよ﹂と言われ、
太宗崩御後の威平五年 ︵一〇〇二︶、真宗によって ﹁太宗の題記、
わたる御書が収集鑑賞されていることを知ることができる。まさに
政兵事手札御書﹂ などの御批を施した政治文書 に至るまで多岐に
また ﹁太宗皇帝南牙謝熊白状﹂ ﹁徴宗皇帝侍旨御批﹂ ﹁高宗皇帝馬
帝浄字御漠腰書﹂ ﹁神宗皇帝龍字御漢健吾﹂ などの臣下に賜う書、
皇帝古詩御書﹂ ﹁徴宗皇帝秋賦御書﹂ などの詩をはじめ、﹁仁宗皇
に著録されるが、そこに記された御書の内容をみてみると、﹁太宗
一﹁歴代帝王帖﹂ には宋太祖から寧宗に至る歴代皇帝御書が詳細
こととなる。南宋岳珂 ︵二八二∼一二三四︶ ﹃賓真療法書賛﹄ 巻
臨安に天章閣が建てられ、そこに北宋以来の諸闇は包括されていく
要な舞台として機能していった。南末になると紹興十年︵一一四〇︶
開封宮城の西辺の一画を占め、
と次々と建設された御書闇は、
宗 ︵徽猷閣︶、徴宗 ︵敷文閣︶
︵宝文閣︶、神宗 ︵顕講閣︶、哲
図閣︶、真宗 ︵天草閣︶、仁宗
宋未までに理念上、太宗 ︵龍
だ多い事が言われ、またこのような御書収集による価値上昇は、
間頃にはすでに収集の飽和状態を迎えたようで、御書献上がはなは
しかし真宗御書について言えば、皇帝崩御後約三十年を経た至和年
蔵されて伝えられ、その子孫から多く献上されていく ︵年表35︶。
た趨永徳に対して恩州刺史が与えられた ︵年表15︶。御書は家に雷
︵年表参照︶。例えば康定二年 ︵一〇四一︶ 真宗御書三十三軸を献じ
業であったから、献上した者には職官や銀絹が与えられていった
−16−
8︶こと等が挙げられ
言えるだろう。
諸州に太宗御書の献上が詔されたように ︵年表6︶、皇帝の親筆は
崩御後すべてが御書閣を中心に、収蔵と鑑賞の対象とされたのであ
る。
学士もおかれて、秘闇と並ん
民間において御書の売買の風潮までをも生んでいたらしい ︵年表
御書の収集と展示は次代皇帝の正当性を群臣に示す重大な文化事
で末代における文物公開の主
に作られた御書閥である。北
集、遺愛の品等を収めるため
▲方、皇帝崩御後その御書は収集の対象になった。この役割を担
ったのは歴代各皇帝の御書御
図8 山東省霊岩寺御書閣(重建)
できる。
価値を増大させながら、再び大量に宮廷に回流していく様子が想像
21︶。ここでは、一旦民間に下賜された御書が皇帝崩御後その付加
間に新収されたであろう古器や図画、名賢墨跡に加え、祖宗御書が
出する大規模な曝書会が開催され︵年表39︶、おそらくこの十五年
九年︵一一五九︶閏六月には、通常歳費の三倍以上の一千貫を支
力的に収集されていく ︵年表46、及び*参照︶。まさに南宋宮廷に
事業として太宗、真宗、仁宗、徽宗、欽宗など北宋皇帝御書が精
の御書は多く民間に流失し、それに呼応するように、復興期の文化
印のある ﹁真宗皇帝御製宋表御書﹂が著録されるように、宮廷旧蔵
省に幸すと、紹興十四年のごとくに曝書がおこなわれ、秘閣の東西
射監修国史たる秦槍であり、また淳配州五年︵一一七八︶孝宗が秘書
の成立を祝するように、百官を率いて高宗を奉迎したのは尚書左僕
かつて紹興十二年︵一一四二︶の岳飛の追放で安定をみた秦櫓体制
またその観者についてみてみると、紹興十四年秘書省曝書会では、
展示されている。
おいて最も熱心に集められた文物の一つは、図画、古器とともに、
壁に歴代御書、高宗︵光亮太上皇帝︶の琴賊を以って群臣に示し、
靖康の変を経た南朱では、前述 ﹃賓真療法書質﹄ に﹁天章閣﹂ の
北宋皇帝の御書であったと言ってもよいだろう。かくも精力的に御
さらに翌日御製詩を賜ったのは宰臣史浩︵一一〇六∼一一九四︶で
者は、皇帝であるとともに、それに列する宰相以下の士大夫たちの
苦が収集された理由は、それが宮廷文物展観の場である観書、曝書
観書会とは北宋初期からおこなわれ、三館秘閣六闇を中心に収集
集団であり、彼らが文物の展観と、それに伴う御書、詩文の応酬に
あった︵年表43︶。このように南宋曝書会における重要な文物の観
された文物を皇帝が群臣とともに観じ、宋朝の文化的権威を確認す
ょって、その官僚秩序を確認する場こそが曝書であったと言えよう。
会において、不可欠の展示物であったためである。
る活動のことである。中期以降には、より祝祭的な曝書会も行われ
︵二︶皇帝の御書は詩や文章だけでなく、額や題梓も、下賜され
このような文物展観の場において不可欠の展示物であり、その目的
例えば紹興十四年 ︵▲ ▲四囲︶、新秘書省の落成とともに行われ
ると同時に鑑賞される対象となった。開封宮廷における文教を司る
るようになり、全体で六十余回の記録を見ることが出来る。曝書会
た曝書会では ︵年表36、37︶ 高宗の来臨を仰ぎ、群臣が参加して歴
二大機関であった翰林学士院と崇文院秘闇にはそれぞれ太宗飛白
に最も適う展示物の一つが、収集された歴代皇帝の書法であったの
代御苦、御製、晋唐書画、三代古器を陳し、あわせて御書扇、筆墨
﹁玉堂之署﹂、﹁秘閣﹂額並びに序賛が下賜されている︵年表1、2︶。
は南末でも引き続き行われ、それは次第に国家の威信をかけた大規
などが下賜されたことが知られ左。この時高宗は﹁秘府の書籍尚
また国家祭祀を行う重要な殿闇、明堂には仁宗御書額が下賜された
である。
お少なし、宜しく広く求め訪ぬべし﹂と言い、この言葉に呼応する
︵年表19︶。これ以外にも、大中祥符七年︵一〇一四︶降臨した天書
模な活動となっていった。
ように、その後も南米復興秘閥の収集活動は続けられた。紹輿二十
−17−
歴代皇帝の神御をおさめる景霊官には仁宗御書が掲げられている
を納めるために作られた玉活昭応宮には真宗御書額が︵年表9︶、
﹁百本を以て近臣に分賜﹂されたことが知られる ︵年表3、4︶。ま
いずれも太宗三体書、賛、序などとあわせて刻石されて拓本となり、
この御書﹁玉堂之署﹂ ﹁秘閣﹂ ﹁明堂﹂ の開封宮城における最も重要
た仁宗の明堂御書額も畢刻されて近臣に分賜されている︵年表19︶。
8︶、
︵年表23︶。また宮廷外において建設された神御殿や御書閥にも皇帝
御書額が与えられた。太祖神御殿である太平興国寺開先殿︵年表1
いずれも拓本が作られ、さらに分配されたのであった。この碑本は
な殿閥の額は、実際に掲げられ、近臣に展覧されただけではなく、
相国寺御書閣︵年表1
宋室の南涯後、御書﹁秘閣﹂は福州から、﹁秘閣賛、序﹂ は安徽宣
真宗の神御殿である慈孝寺崇真殿︵年表12︶、太宗御書闇である大
額牌が下賜されている。これらは先帝を顕彰する宮廷内外の建造
州から探し出され、﹁明堂﹂ は進士黄朝美から南宋秘閥へと献上さ
6︶や五台山真容院︵年表17︶等に仁宗御書
物に現在の皇帝が額を与えることで、宋朝の歴史を二重に荘厳し、
れている ︵年表46、47、30︶。開封の宮城と元来の御書額自体は失
御書が限られた近臣のみならず、ひろく全国に下賜されことは、
その治世の記念する意義があったのだろう。また仁宗神御殿である
表25︶ように、先代皇帝の神御殿に今上皇帝が額を賜いそれを群臣
至道元年︵九九五︶ 蓑愈に命じて江南両断諸州に図書を尋訪させた
っても、拓本が分配されていたことによって、南末はかつての御書
に示すことは、皇帝権継承の意義も持っていたものとも考えられる。
際に、書籍や文物を献上した者に ﹁御書石本﹂を下賜し、太宗崩
孝厳殿には次代英宗によって御書牌がなされ︵年表24︶、英宗神御
注目すべきはこれらがいずれも事前の展観をともない、題額が建築
御後の至道三年 ︵九九七︶ 六月、太宗御書を﹁天下名山勝境﹂ に賜
額の担っていた栄光を取り戻すことができたのである。
に掲げられた後でも、碑本が保存され、観書や曝書会の場で繰り返
っていることからも窺える ︵年表5︶。宋初においてすでに御書は
殿である英徳殿にはその子神宗によって御書牌がなされている︵年
し展示されていく事である︵年表27等︶。このことは御書額が単な
ひろく江南にまで北末の権威を示すものとして下賜され、そのこと
歴代皇帝の御書は親筆墨本だけではなく、石刻して複製を作るこ
る書法や標識ではなく、宋朝の文化的持続力を宣示する重要な役割
観と下賜が行われるだけではなく、刻石とそれによる拓本によって
とで初めてその機能を十分に発揮した。例えば天草闇におさめられ
がくしくも南未において今は失われた北宋宮廷の御書収集に貢献し
複製が作られ、さらなる再配分が行われた。御書を効率的流通させ
た真宗御書が石本九十編に作られ ︵年表10︶、高宗が繰り返し下賜
を担っていたことを示している。
るため、忠実な複製である拓本は最善の方法であり、その特性が最
した御書﹁尚書﹂ ﹁詩経﹂ ﹁左伝﹂ ﹁大学﹂などの儒教経典が各地に
たとも言えよう。
も発揮された媒体であったと言えよう。
立石されていくこと、また紹興二十九年の南宋復興秘闇の曝書会
︵三︶最後に拓本についてみてみたい。額をふくめた御書は、展
宮廷御書額については、先述の翰林学士院、秘闇の太宗飛日額は
−18−
︵年表37︶ では、御書の展観とともに参加者に御書﹁秘閣﹂ ﹁石渠﹂
の碑拓も下賜されていること はその御書拓本の具体的な流通を示
すといえよう。また絹興二十九年、三十年には、高宗御書、﹁玉堂﹂
額を拳刻して曝書会において展示し、さらに石本を ﹁中外臣僚﹂
に分賜せんことが願われている。このことは御書が基本的に下賜
されることを前提に製作されるものであったことを示している。
ていったと言えよう。
四.﹁太白名山碑﹂と南宋禅院
孝宗﹁太白名山碑﹂ の御書碑拓としての性格にはこのような南宋
社会の御書が持っていた背景があったが、最後に本碑が天童山へ下
迎える ︵年表45︶。これは北宋秘闇における ﹁淳化閣法帖﹂と比す
︶ の秘書省による ﹁九朝御書法帖﹂ の制作によってその最高潮を
寺観の安定した存続や税制の優遇を認める機能があった。かつて察
によると末代勅額の下賜は、勅額のない寺観を淫両として廃絶し、
宋代寺院との賜額についてはすでに多くの成果があるが、それ
賜された意味を考えてみたい。
ことができるもので、南朱が約六十年にわたって収集してきた北宋
京の奏請で全国の州軍に作ら
という過程をたどって社会の中で流環していくことが分かった。そ
下賜、臣下による収蔵と宮廷への再収集、そして拓本による再分配
も掲げてあった。﹁支那禅剃図
浄慈寺にはその ﹁孝宗御書額﹂
行う道場として機能し、杭州
¶19−
このような挙動刊石による御書の再生産は、淳配州八年 ︵一一八
歴代皇帝御苦を整埋立刻したものである。これはその後淳麒十一年
れた ﹁崇寧寺観﹂ は南末にい
たって ﹁報恩光孝寺﹂ と改め
︵一了八州二 七月曝書会で群臣に展示分賜されたのであろう ︵年表
48︶。
れは宮廷の秘閣六閣を中心とする文物と意味の循環システムとも言
式﹂ ︵東福寺蔵、図9︶ には禅
られ、もっぱら徽宗の迫薦を
えよう。歴代皇帝は多く﹁朝政の暇に翰墨に意を遊ばせる﹂楽しみ
林に不可欠の要素として額の
これらのことによって末代においては御書が、皇帝による展観と
を述べるが、実際御書の性格はすでに自娯の範囲で捉えられるも
様子も描かれている。また孝
阿育王山の舎利を宮中に迎え、
のではない。皇帝御書は政権を彩り、君臣の関係を安定化させるた
書籍、古器、絵画等様々な物の収集と再生産をおこなったが、御書
翌正月には ﹁妙勝之殿﹂ 御書
宗は淳配二一年 ︵一一七五︶ に
はそのなかでもとりわけ重要な文物循環要素の一つであった。そし
額を下賜し、今も重刻された
めの不可欠の▲⊥具として機能した。宋朝は三館秘閥を中心に瑞物、
てこのような社会的需要こそが、歴代に書を善くする皇帝を産出し
図9 「支那禅剰図式」(東福寺)
ものが掲げられている︵年表40、図1
0︶。勅額はすべてが皇帝の御
書額ではないが、それだけに皇帝の御筆額の下賜は、寺院の経済
謙二−⋮養
鴬嬢二下妻 ■三轟︰
至言㍉ノ雪主謀
図11馬連「洞山涯水図」(東京国立博物館)、「清涼法眼禅師図」、「雲門大師図」(天龍寺)
的安定を約束する重要な指標であったと言えよう。ここではさらに
南末において皇帝御書額が多く禅院に下賜されていくことに注目し
たい。
すでに詳しい考察があるように、南宋仏教は孝宗朝から人きな変
化を遂げていく。孝宗は禅を好み、大慧宗呆二一〇七∼二六三︶
を宮廷に引き入れ、またその示寂後は、彼の後を継ぐ園悟克勤︵一
〇六三∼一一三五︶系統、楊岐派が躍進し、宮廷の儀礼には天台、
浄土、道教にかわり、次第に禅僧が深く関わるようになっていた。
塁崇塁 ■㌣項4 .−■㌔
−20W
この中で、次代の寧宗時代に制作されたのが、馬遠﹁禅宗祖師図幅﹂
五幅︵現存三幅、図日︶である。禅を五家にわけることは、唐末
から行われてきたが、それがはっきりと意識されるようになるのは、
柊も空足九、月 . ■−旨等
劇凍址畢噴泉
与え沓古ヰ永 二 抽
∴誉■:∴こ■■
図10 阿育王山舎利殿「妙勝之殿」御書額
臨済系の禅が大きく躍進した南宋中期からであり、これにあわせる
ように﹃人夫眼目﹄晦巌智昭編。淳麒十五年二一八八︶や﹃▲五家
書詩十七編を賜った懐漣が︵年表20︶、配苗丁三年二〇七〇︶阿青
山に震金閣を建てて奉安した時の記念碑が蘇拭﹁阿育王山廣利寺辰
杢閣碑﹂︵図13︶である。また紹興三年二二三一︶夏、南宋文化
復興期の御苦収集にあわせて、住持浄曇法師が辰杢闇にあった歴代
御書を朝廷に献上すると、それを喜んだ高宗が下賜したのが﹁明州
阿育土山価頂光明塔碑﹂︵図14︶であった。これらはいずれも、御
書閣の建設と、後代による御苦の献上、皇帝による再下賜という一
連の南宋御書の循環システムを示す碑拓であることがわかる。また
2、図15︶は孝宗が当時阿育土山に住していた
孝宗御書碑三件﹁賜問彿照祀師語拓本﹂、﹁賜価照祀師頒拓本﹂、﹁和
室隠長老偶﹂︵年衣4
−21−
彿照禅師徳光二二■∼二〇三︶に下賜した御書を刻石したも
ので、氾成人﹁贈彿照祀師詩碑﹂︵図16︶もまた徳光に贈った詩文
である。徳光は、大慧宗朱の法嗣で勅をうけて径山に住み、﹁彿照
禅師秦野録﹂にもあらわれるように、孝宗の顧問的禅僧であった。
ここからは宮廷を中心とする御書の下賜と献上の循環に、江南禅院
が参画していく過程が見て取れる。まさに東福寺御書碑拓は南宋禅
図13 蘇斌「阿育王山鹿利寺
震室閣碑」(宮内庁青
陵部、東福寺旧蔵)
正宗賛﹄希望紹曇撰。宝祐二年︵一二五E︶といった五家の教理的
区別を専門的に諭ずる書物も現れていく。馬遠﹁禅宗祖師図幅﹂は
それぞれ五家祖師大悟の場面を描き、﹁五家﹂を区別する明確な意
2︶の克明でかつ端厳な肖像表現は、宮廷で生産さ
識によって作品が構成されている。また円爾が将来したその師﹁無
準師範像﹂︵図1
れた肖像画とも近い作風を見せ、南宋禅林と宮廷のそれぞれの製作
者が近い所にいたことを予想させる。
孝宗第二皇子親王憶と天童寺僧慈航了朴の交流の結果下賜され
た﹁太白名山碑﹂は、このような南宋禅が宮廷に多くの支持者を獲
得する過程で行われた出来事であったと言えよう。さらに注目すべ
きは﹁太白名山碑﹂と同じく東福寺に伝来した宋碑拓の中に、皇
帝と江南禅院の関係を象徴する御書碑拓が多く含まれていることで
ある。このような御書碑柘がまとまって伝来するのは東福寺の顕著
な特徴であるが、例えば皇祐年間︵一〇四九∼一〇五三︶仁宗に御
図12 「無準師範像」(東福寺)
が宮廷において確固たる地位を占めるに至ったことを示す指標とし
ての役割を担っていたと言えよう。﹁太白名山碑﹂ はこのような象
徴的な意味を持って寺門におかれたのである。
五.おわり−﹁太白名山碑﹂の変容
以上のように南宋社会において ﹁太白名山碑﹂ は、強い政治的意
味をもって機能した御書であった。しかし南宋滅亡とそれに伴う江
南社会の変質に従って、その意味は変化していくようである。日本
にあって ﹁太白名山碑﹂ は、南宋のコンテキストにあった政治的標
識としての意義を失い、禅の墨蹟として鑑賞されていく。たとえば、
円爾坐化の翌々年に生をうけた大燈国師宗峰妙超 ︵一二八二∼二二
−22−
㌣∴
∴鱒
三七︶ ﹁開山﹂ ︵一三二九年、図17︶ の、雄渾で、線の変化を伴わず、
起筆の特徴的な墨蹟には、あきらかに﹁太白名山﹂碑の余韻が見ら
れ、また虎開師練 ︵一二七八∼一三四六︶ ﹁聯芳﹂ ︵正木美術館︶ や
﹁花屋号﹂ ︵三井記念美術館︶ など
の中央署款印章が押される形式
は、自身も住した東福寺で ﹁太白
名山碑﹂を実見したことによるも
のと思われる。すでに考察したと
おりこれは、南宋社会においては
皇帝御書の形式であった。このよ
うに南末にあっては極めて政治
的、実用的な持っていた ﹁太白名
図17 宗峰妙超「開山」(部分、妙心寺)
図14 高宗「明州阿育王山彿頂
光明塔碑」(宮内庁書陵
部、東福寺旧蔵)
図15 孝宗「和墓暖長老侶」
(東福寺)
図16 箔成大「贈彿照禅師詩碑」
(宮内庁書部)
山碑﹂ の御書書風が、日本では次第に禅世界の墨蹟へと意味が変容
していくと考えられよう。
以上、本稿では、南宋社会において皇帝御書が、下賜・展観 ︵宮
廷︶1収蔵︵臣下︶1再収集・再下賜︵宮廷︶1収蔵︵臣下︶ という
註
︵1︶ ﹁普門院経論章疏語録儒書目録﹂ ︵﹃東福寺誌﹄ 文和二年十一月条、思文閣出
版、一九三〇年︶
︵2︶ ﹁淳黙五年、孝宗皇帝親混墨、麗翰大書﹁太白名山﹂ 以賜天童山景徳寺。寺
之門甚雄、敵刻雲章尊閣其上。又於万丈専建一闇、以戒真跡。賓為碑林盛事、
前所未有也。﹂棲鎗﹁千彿閣記﹂ ﹃天童寺記﹄ 巻二、︵明文書局 ﹃中国彿寺志
彙刊﹄ 第一輯第十三冊、また ﹃攻娩集﹄ 巻五七 ︵﹃叢書集成初編﹄ 本、以下
同じ︶、所収︶。また﹁太白名山碑﹂は ﹁五年。御書太白名山。賜住山了朴繹
文物循環システムの重要な要素として機能していたこと、そして
﹁太白名山碑﹂ に代表される東福寺伝来の御書碑柘が、その中にあ
師 ︵師鍍慈杭︶﹂ ︵﹃彿祖統紀﹄ 巻第四十七、T49・429・b︶ や、﹁天書
︵3︶ ﹁太白名山碑﹂ についての従来までの主な研究は以下の通り。外山軍治﹁太
また慈航了朴については道融 ﹃叢林盛事﹄ ︵T86・691・a︶ を参照。
御製﹂ ︵﹃彿祖統紀﹄ 巻第五十一、T・452・a︶﹂ にも著録されている。
って、寺院と宮廷の安定した関係を示す役割を果たしていた事を指
摘した。末代皇帝の御書碑拓は、文献上には大量の記載があるもの
の、中国本土での現存例はほとんど確認できない。それは御書とい
白名山碑﹂解説 ︵﹃書道全集﹄ 宋Ⅱ、平凡社、一九五五年︶、中田勇次郎
﹁太白名山碑﹂解説 ︵﹃原色日本の美術請来美術 ︵絵画書︶﹄ 小学館、一九
うものが政治性と密接に関係し、社会の変化の中でその役割を終え
ていったからであろう。その意味で東福寺伝来の御書碑拓は、禅文
七一年︶、角井博﹁入宋僧の将来品﹂ ︵﹃日本の国宝﹄ 七一、一九九八年︶、同
た。
研究生論文蓉表禽 論文集﹄ 中央大学蛮術撃研究所、二〇〇四年︶ に詳論し
︵4︶ 拙稿﹁末代飛自書洩析−以宋初皇室飛白書的原貌輿其流俸為中心−﹂ ︵﹃談整
﹁太白名山碑﹂解説 ︵﹃世界美術大全集東洋南宋金﹄ 小学館、二〇〇〇年︶。
脈に入り込むことによって保存された稀有な例と言える。
末代は文物の収集と再生産が、宮廷秘闇を中心として、盛んに行
われた時代であった。末代がその後の中国史のなかで確固たる文化
地位を占めえたのも、このような文化機構の活発な働きと無縁では
︵5︶ 痩金体については荘厳﹁中国書法中的痩金饅﹂ ︵﹃山堂活話﹄ 国立故宮博物
院、一九八〇年︶、楊仁憶﹁宋徽宗趨倍書法整術填談﹂ ︵﹃書法叢談﹄第十四
ないように思われる。末代のモノの世界には三館秘閣六闇における
収蔵、下賜、展観活動が強く影響している。今回はそのなかでも特
韓、北京文物出版社、一九八八年︶、西川寧﹁宋徽宗の痩金吾千字文﹂ ︵﹃西
C已ぎrqQ3丸さmc已ぎrnO、七〇琵打払uHa∃ardUniくerSityPress︶N00の.
Bick才rd ed.鴎ヨ七篭O﹁和己NOPgPP丸い已m hSg CFぎ戸±訂⊥㌔恵と〇=鼠
Ebrey㌦Hui NOng㌦StOne lnscriptiOnS﹀︼︸PatriciaB一EbreyandMagg−e
川寧著作集﹄ 第二巻、二玄社、一九九一年︶ 等を参照。また、Patricia B.
に御書を中心に見てきたが、同じく盛んに製作され下賜されていっ
た絵画やその表現展開との関係は今回ほとんど触れることが出来な
かった。これらの課題については今後続けて考察していきたいと思
、つ○
︵6︶ 模鎗 ﹃攻塊集﹄ 巻六九。
︵7︶ 宋恵良﹁南宋皇室書法﹂ ︵﹃故宮学術季刊﹄ 第二巻民団七十四年第四期、一九
一23一
八五年︶、陳振涯﹁末代帝王的書法﹂ ︵﹃書譜﹄ 六〇、一九八四年︶。
出版社、一九九九年︶、宋願尉張公亮﹁斉州景徳壷岩寺記﹂︵﹃塞岩志略﹄
︵﹃長清輝誌﹄巻之末︵収於﹃長浦願誌﹄三、﹃中国方志叢書﹄第三六五被、
成文出版社、清道光十五年影印本︶︶を参照。
︵8︶ 徐邦達﹁孝宗趨青書題﹂ ︵﹃古書書一偽靴考排﹄ 江蘇古籍出版社、一九八四年︶、
同﹁俸宋高宗趨構孝宗趨奇書馬和之董︽毛詩︾巻考排﹂ ︵﹃故宮博物院院判﹄
︵17︶徴宗から賜った親製詔書御筆書画をおさめる為に作られた高麗の清誰閣・宝
文闇も、基本的に同じ機能を持つものといえる。このような北宋三館秘閥を
第二九期三、一九八五年︶。
︵9︶ ﹃書史禽要﹄ ︵上海書店、武進陶氏逸園景刊明洪武本影印本︶。
中心とする東アジアの文物交換については、拙稿﹁﹃海外書﹄小論−北宋三
︵8
1︶﹃賓真療法書賛﹄巻一︵中国学術名著第五輯牽術叢編第一集第二十四冊、世
一一五号、二〇〇六年︶に詳論した。
館秘闇の文物収集の史的意義と、美術外交についての一考察−﹂︵﹃大和文筆﹄
︵10︶ ﹃金石拳編﹄ 巻一三三宋二八 ︵台北国風出版社影印本︶。下賜の年代について
は王朝の考証を参考にした。
︵11︶ ﹃玉海﹄巻三四、﹃斉東野語﹄巻十﹁花公石湖﹂ ︵中華書局、唐宋史料筆記本︶、
﹃文献適者﹄ 第二四〇経籍六十七 ﹁石湖集一百三十六巻﹂ ︵中華書局本︶。
湖碑﹂ にみられるように、皇帝御書は明らかにそれと分かる特徴をもって創
輿内批不同﹂ ︵中華書局、唐宋史料筆記本︶︶。しかし ﹁太白名山碑﹂ と ﹁石
人や近臣によって代筆が行われていた ︵﹃建炎以来朝野雑記﹄ 巻十一﹁親筆
文研究﹄五五−二、二〇〇四年︶、徳永洋介﹁末代の御筆手詔﹂︵﹃東洋史研
九四年︶、﹁周必大﹃思陵録﹄・﹃奉詔録﹄から見た南宋初期の政治構造﹂︵﹃人
造試論−対と議を手掛かりとして1﹂︵﹃東洋史研究﹄第五二巻第四号、一九
︵9
1︶このような政治における御筆文書の機能については、平田茂樹﹁宋代政治構
界書局本︶。なおここに著録される﹁御漢腰﹂は飛白をさすと思われる。
出され、社会で流通した事に意味があるのである。よって本稿では、厳密に
究﹄第五七巻第三号、一九九八年︶を参照。
︵12︶ すでに李心博も述べるように、皇帝御書は皇帝本人の親筆とは限らない。夫
は代筆を含むものも、当時皇帝の書として認識されて機能した皇帝の書はす
︵20︶﹃長編﹄巻五三、﹃玉海﹄巻二七
︵21︶﹃宋含要﹄崇儒六−八
べて ﹁御書﹂ として扱い、一括してその歴史的背景を考察することにした
ヽ 0
︵22︶観書、曝書会の具体的な変遷については別稿を準備中である。
︵23︶﹃宋史﹄巻一一三、﹃玉海﹄巻二七、﹃宋合要﹄崇儒七1四六、﹃南宋館閣録﹄
︵13︶ 類似の概念に ﹁御集﹂ がある。御集は皇帝崩御後に一代の文集を編集したも
ので、ここでいう書法としての形態をとる御書御筆とは区別して論を進め
︵24︶﹃南宋館閣録﹄巻六
巻六、﹃続資治通鑑﹄巻二一六
︵14︶ ﹃宋含要﹄崇儒七−四〇、﹃玉海﹄巻三三
︵25︶この時孝宗が史浩に賜う詩は﹃混杢律髄﹄巻五昇平︵上海古籍出版社本︶に
る。
︵15︶ 高宗期の美術と政治性についてはJu−ia K.MurrayV竜Q訂NE白さ乳汁かも
RO−eOfとリーinSOuthern SungDynasticReまくa−∵浮き註:予診羞言責
︵26︶翰林学士院の空間については小川裕充﹁院中の名画1董羽・巨然・燕粛から
話総亀﹄後集巻一︵人民文学出版社本︶に所収されている。
ー記監守已訂諸員叶許へ虚OQか阜○軋謡、、﹀PrincetOnUniくerSityPressL等U..所
h収
Tさ
hれ
e、さらに呂視謙﹁恭和御製秋月幸秘書省近体詩﹂が同書および﹃詩
当≡当〓峯≡沈莞−00こ芸戸を参照。
年︶。
郭輿まで﹂︵﹃鈴木敬先生還暦記念中国絵画史論集﹄吉川弘文館、一九八一
閥である。当初の御書閥は金貞佑二年 ︵一二一四︶ の兵災で焼失してしまっ
︵27︶御書額が不断に下賜された景霊宮は歴代皇帝神御をおさめる重要な殿闇であ
︵16︶ 挿図は宋太宗、真宗、仁宗が山東長活霊岩寺に下賜した御書をおさめた御書
たが、重建されたものが現存する。宋王達﹁壷岩千彿殿記﹂ ︵﹃壷岩寺﹄ 文物
−24−
と宋太祖・仁宗坐像について−その東アジア世界的普遍性﹂ ︵﹃国華﹄ 二一五
る。その展開と東アジアへの影響については、小川裕充﹁北宋時代の神御殿
﹃印度学仏教学研究﹄ 第三一巻第一号、一九八二年︶。
国の五山十剃制度についてー大乗寺所蔵寺伝五山十剃図を中心として−﹂
の規模について﹂ ︵﹃禅研究所紀要﹄ 第十一号、一九八二年︶、石井修道﹁中
︵37︶一般には、州軍から勅額の奏請をうける詔をうけると、当該寺院が額牌をつ
寺志彙刊﹄ 第一輯第十一冊、以下同じ︶︶。
︵36︶ 釈従廓﹁阿育王山舎利宝塔記﹂ ︵﹃明州阿育王山志﹄ 巻三 ︵明文書局﹃中国彿
五号、二〇〇〇年︶。
︵墾 ﹃麟台﹄巻二 ﹃長編﹄巻三八、﹃宋舎要﹄崇儒四−四/一六、﹃玉海﹄巻三三
︵29︶ この過程については稿末年表、及び内藤乾吉﹁御書石経﹂ ︵﹃書道全集﹄宋Ⅱ、
平凡社、一九五五年︶、Ju−ia声Murray㌦Sung只a?tSungaSArtistand
PatrOn︰theTheme OfDynastic Reくi<巴﹀J Chu・tSingLi︸eく
d.
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大
ユ字
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鼓した後、その額牌を州府まではこんで検閲をうけ、額とし
﹁ご、、・こミ∵チ⋮︰チここ、ミニ、亨三、ミミ■士、⋮、︰十二≡、妄⊥ごこミ、、手Kた
コよ
・う
丁
で
ツ
ある ︵竺沙雅章﹁寺観の賜額について﹂前註 ︵34︶︶。
FOundatiOnDepartmentOfPJtHistOry︸UniくerSityOfKansasL簸
を
参井修道﹁孝宗︵南宋︶と禅宗−道元の南宋禅林観と関連して﹂ ︵﹃宗学研究﹄
︵準
墾
石
二四、一九八二年︶、竺沙雅章﹁末代宮廷の葬送と禅宗教団﹂、石井修道﹁南
宋禅をどうとらえるか﹂ ︵以上二編収於 ﹃宋代禅宗の社会的影響﹄ 山喜房彿
照。
︵30︶ ﹃南宋館閣録﹄巻六。
書林、二〇〇二年︶。
情雅致の世界−﹄根津美術館、二〇〇四年︶
︵39︶ 板倉聖暫﹁南宋文化における宮廷絵画1馬遠の誕生まで−﹂ ︵﹃南宋絵画−詩
︵31︶ ﹃宋曾要﹄崇儒六−三、﹃玉海﹄巻34、﹃南宋館閣録﹄巻六。
︵32︶ 莫家良﹁南宋刻帖文化管窺﹂ ︵﹃中国碑帖輿書法国際研討舎論文集﹄、香港中
文大学文物館、二〇〇.年︶。
二七、﹃長編﹄巻九六、仁宗は ﹃玉海﹄巻二七、高宗は ﹃宋合要﹄崇儒六−
形主体をめぐって﹂ ︵﹃大和文華﹄ 第二五号、二〇〇六年︶、また南宋画院
立墓湾大学美術史研究集刊﹄ 五、一九九八年︶、海老根聴郎﹁頂相墳談−造
︵40︶ 石守謙﹁古侍日本之南宋人物蓋的董史意義−兼論元代的一些相関問題﹂ ︵﹃国
十三/二〇、﹃玉海﹄ 巻三四、孝宗は ﹃宋舎要﹄崇儒六−二一、﹃玉海﹄巻三
の実態については、彰慧渾﹁丙宋宮廷弔画備戒制度之変−以秘陶力核心
︵33︶ 太宗については ﹃宋太宗実録﹄第三三、﹃玉海﹄巻三三、真宗は ﹃玉海﹄巻
四などにおいていずれも同内容の発言をしている。
料から−﹂ ︵野口織郎 [編] ﹃中国史における中央政治と地方社会﹄ 昭和60年
由”書一家十三科“談南宋宮廷蓋師之民間性﹂ ︵﹃蛮術史研究﹄第7韓、二〇〇
省舎耽制与画史想像﹂︵﹃故官学刊﹄第二韓、二〇〇五年︶、同﹁走出宮糖︰
的塩蔵机制研究﹂︵﹃故宮博物院院刊﹄ 二〇〇五年第一期︶、同﹁”南宋画院“之
度科学研究費補助金総合研究 ︵A︶ 研究成果報告書、一九八六年︶、竺沙雅
六年︶ を参照。
︵34︶ 松本浩一﹁末代の賜額・賜号について−主として ﹃宋舎要輯稿﹄ にみえる史
章﹁寺観の賜額について﹂︵﹃中国仏教社会史研究﹄同朋舎出版、一九八二年︶、
研究所紀要﹄ 第二四冊、一九九一年︶、須江隆﹁唐末期における詞廟の廟
童山景徳寺新僧堂記﹂ ﹁明覚大師伝﹂ ﹁日本国丞相藤原公捨経記﹂ ﹁仏鑑禅師
書 ︵大暑流金石︶﹂ ﹁孝宗御書 ︵釈迦仏入山︶﹂ ﹁孝宗御書 ︵床東一払子︶﹂ ﹁天
︵41︶ 普門院伝来南宋碑拓は現在分蔵される。﹁孝宗御書太白名山四大字﹂ ﹁孝宗御
額・封号の下賜について﹂ ︵﹃中国−社会と文化﹄ 九号、一九九四年︶、同
遺偶﹂ ︵以上東福寺︶、﹁明州天童山景徳禅寺天輪蔵記﹂蘇輯﹁阿育王山廣利
小島毅﹁正両と淫雨−福建地方の地方誌におけるー記述と論理﹂ ︵﹃東洋文化
﹁配州寧七年の詔−北宋神宗朝期の賜額・賜号﹂ ︵﹃東北大学東洋史論集﹄ 八号、
寺辰杢閣碑﹂花成大﹁贈彿照樺師詩碑﹂高宗﹁明州阿育王山彿頂光明塔碑﹂
︵以上宮内庁書陵部︶ である。
二〇〇一年︶。
︵35︶ 注記には﹁天寧寺額﹂とある。本図については、横山秀哉﹁末代天童寺伽藍
−25−
︵42︶ 神田喜一郎 ﹃書蹟名品叢刊一七一宋蘇東坂在室閣碑﹄ 二玄社、一九七七年、
﹃明州阿育王山志﹄ 巻四、﹃続志﹄ 巻十一。
︵43︶ 内藤乾吉 ﹁彿頂光明塔碑﹂ ︵﹃書道全集﹄ 宋Ⅱ、平凡社、一九五五年︶、親
王憶 ﹁供舎利金塔記﹂ ︵﹃明州阿育玉山志﹄巻三︶。
︵44︶ 外山軍治﹁御製和姦隙長老侶﹂ ︵﹃書道全集﹄宋Ⅱ、平凡社、一九五五年︶。
︵45︶ ﹃古尊宿語録﹄ 四十八 ︵中国儒教典籍選刊、中華書局本︶。
︵46︶ 南宋寺院への日本からの木材や財の送付は、人宋僧たちに南宋寺院が期待し
た役割の一つであったとも考えられる。このことと御書碑の請来、また東福
寺碑拓の請来者、請来時期については後考を侯ちたい。有馬嗣朗﹁入宋僧の
勧進活動について﹂ ︵﹃印度学仏教学研究﹄第四七巻第二号、一九九八年十二
月︶、藤田明良﹁南都の唐人−東アジア海域から中世日本を見る1﹂ ︵﹃奈良
歴史研究﹄第五四号、二〇〇〇年︶、佐藤秀孝﹁聖一派の入宋・入元僧につ
いて−円爾の東福寺僧団と宋元の禅宗﹂ ︵﹃印度学仏教学研究﹄ 第五三巻第二
号、二〇〇五年︶ 等を参考。
図1、15、17 ︵﹃原色日本の美術﹄ 二九、小学館、一九七一年︶、
︻図版出典︼
図2 ︵﹃日本美術全集﹄第八巻、一九九四年︶
図3、4、12、16 ︵﹃世界美術全集東洋編南宋・金﹄ 小学館、二〇〇〇年︶
図5 ︵﹃宋代書董冊頁名品特展﹄ 国立故宮博物院、一九九五年︶
図6、7 ︵ ﹃北京圃書館戒中国歴代石刻拓本彙編﹄ 四三巻、中州古籍出版社、
一九九〇年︶
図8、10 ︵筆者撮影︶
図13、14 ︵﹃書道全集﹄ 第十六巻宋Ⅱ、平凡社、一九五五年︶
図18 ︵﹃日本美術全集﹄ 第十四巻、学研、一九九四年︶
本稿は美術史研究会第六回総会 ︵平成十八年二月十七日、於神戸大学︶ での研
究発表を加筆修正したものである。同大学百橋明穂教授、宮下規久朗助教授には
始終ご指導賜った。末筆ながら記して感謝します。
なお本稿は平成十八年度科学研究費補助金 ︵若手研究B︶ による研究成果の一部
である。
塚本麿充 ︵つかもと・まろみつ︶
二〇〇一年 東北大学大学院文学研究科修了
二〇〇一年∼二〇〇三年 中華人民共和国政府奨学金留学生として南京師
範大学美術学院に留学。
二〇〇三年∼二〇〇四年 中華民国教育部奨学金給付生として囲立台湾大
学輩術史研究所に留学。
二〇〇五年 大和文華館学芸部部員
−26−
宋代御書の流通主要年表(異動のある場合は(『史料』:異動)で示した。)
皇 帝
年号
記 事
人 ニj‘
ご
988
人、
It 興 し玉l八 年
人 ニj ̄
ご
990
沖化元年
太宗
99 1
淳 化 二年
H j 翰 林 学 1二承 旨 蘇 易 肋 に 飛 l′措
人㍍
992
け二化 二勺ミ
J 川 人㌫
992
け 化 二隼
ノL Jj 飛 日 「秘 閣 」 二十 を 断 秘 l碁= 二賜 う ノ
史 料
.
紬 韓院 に 「
イ上二法 」 軒 を 卜腸 。
H
い り 御 製 秘 蔵 詮 、 秘 蔵 諸 錐 朕 、 彿 航 、 幽 l招.
律詩、懐」
l蕊
川 卜 ・巻 を 秘 閥 に 威 す 。 (帰
l’‘訓 諭 、 懐 恩 廻 文 Jl二七 .i な ど
削 :御 仁・
二Jj=詩 斗 苗 、 故 実 二紙 、 御 製 川 上 ・巻 )
本文引用
鮎 j 巻 2 3
F鱗 か 』 巻 1、 F 木 曾 要 』 職 ‘
17 18 −4 8 、 『1ミ海 』
巻 16 3 、 『長 編 』 巻 3 1 、 日 滴 り 巻 33
「に′
軋 之 署 」 川 人 ′ト を 賜 う 。
.
『長 編 』 巻 3 2 、 日 高 射 巻 3 3
親 隼吾 紅 稜 最 を 宰 棚 李 肪 ら に賜 う′
_
1
F lミ海 』 巻 3 3
旨
’末 命 要 』 職 17 18 −4 軋
陸 海
3 3 、 F麟 台 』 巻 1 /丸 首
】長 編
巷 16 3 、 巻
巻 33 、 ㌢■
告別翫
2
姐 R 巻3 1
『麟 f r域 本 j 巻 2 、『−;
沌 J軌 札 阜巻 3 1 、 (F 長 編 』
人㍍
992
け 化 二年
H j 繍用 語 †一丁 文 を 秘 陛=二付 す こ
、 李 乍 ら、 御 制 秘 閻 賛 牌 陰 に 軌 石 を .
汀i う し
太宗
992
け 化 エイト
H j 御 書二秘 閣 賛 、 李 や 表 、 お よ び 答 .
盲
で了の イⅠ本 を 近 H に 賜 う .
『に撤 月 巷 16 3
入試
996
至 近 二イ1二
f川 舟=司 、
ナ_三門 に 親 告 紬 を 賜 う ∵
『li i毎』 巻 3 3
人 ニjミ
99 6
皇 道 二年
ノ川 剰 上
1 書 二仁軸 を 宰 相 目 端 ら に 賜 う し
っ ま た 、 川 = ・軸 を 秘 府 に 蔵 す 。
用 人 ;甜
巻 3 3 :九 才日 、 『 に胤 月巻 3 3
3
4
『長 編 』 巻 4 0 、 (『宋 人 ニ;
ご実 録 』 第 7 8 、 『モ 海 」
巻 3 3 :f川
と 六 月 )、 『宋 昏 要 」 !三
三儒 6 − 4
『長 編 」 巻 4 1 、 『来 太 ;jミ実 録 』 第 8 0 、 『 【
ミ海 」
真宗
99 7
至 近 二句三
臥 、 六 日 太宗 倒 慨 虻 跡 を 大 卜名 山 勝 境 に 賜 う の 詔 あ り。
兵㍍
99 9
成 、
F 二年
真芯
10 0 1
成 、
1州牛
巨 ・jJ
l
ノt 示
真宗
10 0 2
成 平 正午
H j 龍 図日削 二人 ㌫ 御 膏 を 威 す 、
−
『長 編 j 巻 5 3 、 『一日 毎 巻 2 7
10 0 9
人 中 祥 符 二年
九 Jj 諸 州 に 太 宗 御 蕾 を 威 す る 音 は 、 悉 く こ れ を 献 ぜ よ こ
〕
F良編 j 巻 72
10 0 9
人小津符∴隼
「 ・日 巻 3 3 、 来 合 安 』 崇 儒 6 −5
5
『麟 台 j 巻 1 、 F 宋 啓 蒙 』 職 ‘
17 18 −5 1 、 『に
t J j 秘 閥 に 太 芯 の 異 蹄 を み て 佃 愴 ひ さ し 」
海 j 巻 27、 168、 F長 編 j 巻45
木骨 要
龍 開 聞 に 御 し 、 近 い と 人 宗 御 吾 (『 fi 海 』 :草二
行 飛 l′1 第 籍 ) と Ⅰ
十
f/ 名 画 を み る 。
職 官 7 − 1 3 、 崇 儒 7 −3 9 、 『仁海 」
巻 2 7 、 『宋 史 』 巻 1 1 3 、 『長 編 j 巻 5 0 、 F I三
海 j 巻 163
真宗
真芯
10 10
人 中 梓 符 二一
三牛
真 ;jミ
10 12
人中祥符_
正午
真㍍
10 13
大小 祥 符 六 年
真芯
10 14
人 lい祥 符 七 年
卜 一日 (按 :普 な 拓 本 か ?)、  ̄
Jl∴ ㌻詩 を 作 り 、 1ミリ_ら に 賜 う 。
太 宗 御 集 凡 卜正 郎 お よ び 御 .
雪二
法 裾∴㍉1
1ノ (巻 を 目 し て 輔 Ⅰ封 二′Jこす 、′ 人 ;i ̄
こ筆 を
見 る こ と を i請 う し
。
▲月 7
儒 6 −4
正t J■ 敵 対 閥 の 太 宗 御 一
方 お よ び 川 部 苦 熱 を 近 い と 耕 す 。 聖 製 会 兵 宮 鞘 、 ノL 人 ■
 ̄
i】命 大 尊 殿
銘、泰山_
馴修 聖像 碑
6
F 長 編 j 巻 7 2 、 『玉 海 j 巻 3 3 、 『宋 宙 要 j 崇
大 宗 御 製 、 御 苦 を 輔 H に 賜 う TJ ま た 人 芯 の 鍾 文 紅 管 筆 な ど 、 一人 一双 。
詣 州 勝 境 の か っ て 先 柳 の 御 製 iヰi二を 賜 っ た 音 、 入 試 ▲‡
三文 神 筆 蛾 を 則 石 す こ
■
ノ
F lミ海 j 巻 2 7
盲
’来 付 則
長 編 莞 儒 6 − 5 、 日 ミ海 j 巻 3 3
8
巻榊
l刺 j 文 武 百 官 同 一
f一監 に 人 ㌫ 御 −
il‡
二、 新 刻 彗■
土製 論 弁 を 観 る 。 (= 二i毎』 : 三日 ∴ 帝 の 祥 瑞 論
等 を 何 千 監 に 威 し 、 ま た 例 を 建 て て こ れ を 安 ず る こ と を こ う ∴ 稚 い 、 聖 製 を 閣  ̄
卜 に 刻 イ11
F J 三瓶 』 巻 2 7 、 r E 渥 』 巻 3 3 、 ㌢
1長 鮎 』 巻 8 2
す る こ と を 請 う 。)
兵宗
10 14
大中 祥 符 七 年
†川 J  ̄謂 、 _輔 細 胱 市 に 御 製 本 宮 碑 瑚 及 び 御 井 節 を 請 う 。 従 之 〈
二
『長 編 』 巻 8 2
真芯
10 14
人中祥粁七年
七 月 輔 に の 御 許 兵 遊 殿 額 を 請 う り 従 之 。
r 上海 』 巻 33
具
l 示
10 16
大中祥符九年
四 月 御 製 景 霊 常 賛 頒 刻 れ 。 (r上 海 』 :景 霊 宮 、 天 興 殿 、 保 寧 閣 )
『長 編 』 巷 86 、 F  ̄E 海 』 巻 3 3
良宗
10 2 1
大祓 ̄
打率
三J J
御 番 を 玉 活 昭 応宮 よ り天 壁 間 に奉 安 す )
川 上 ̄
J
真宗
10 2 1
大祓九年
大 帝 閣 な る 。 御 集 、 御 苔 を 大 村 各日二本 ‘
友す く
j (F 朱 骨 要 』 : 二月 に 功 準 、 眞 ㌫ 御 免
近 臣 館 閣  ̄三戸」京 府 宮 を 冒 し て 、 大 草 閲 に 御 書 を 観 る 。 し接 : 『 仁撤 j 巻 3 3 、 『朱 命
要 』 崇 儒 : 「御 薔 石 本 を 以 っ て 九 卜編 と な し 天 草 閥 に 蔵 す 」 と あ る こ と か ら 、 こ の 時 み
た の は こ の イ_
」
■本 御 書 か ?)
真芯
10 2 ユ
天晴九年
9
『長 編 』 巻 96 、 ㌢宋 昏 要 職 宮 7 − 1 1
『玉 海 』 巻 27 、 3 3 、 デ長 編 』 巻 9 6 、 F 朱 曾 安 』
職′
【
二r7 − 11
10
崇 儒 6 −6
八 ノ ̄
j 近 臣 、 天 下 名 山 寺 観 に 御 集 を 賜 う 。
『長 編 j 巻 9 7 、
∴リ j 群 riH こ飛 打 吉 各 ▲
軸 を 賜 う 。 仁 試 、 末 だ 飛 上′1奈 を み さ ざ る に 、 真 芯 ‘
霊 御 前 の 飛 Ⅰ′
J
『長 編 j 巻 9 8 、 栄 行 要 H
筆 を 取 り て 飛 白 を な し 、 分 賜 す 。 (r 架 合 装 』 :筆 は 木 皮 )
巻 34
i・
三橋 6 − 6 、 『 に海 』
10 2 2
乾興元年
仁宗
10 2 3
大 聖 ノ已年
八 月 嘗 て 一二欽 羞:に 飛 自 書 「上 欽 才一
f_
j ′
}:を 賜 う 。
『長 編 j 巻 10 1
仁宗
10 2 6
大聖四年
五 月 端 T に 中書 、枢 密 院 に御 書 飛 自 羅 扇 を 賜 う÷
〕
『玉 海 j 巷 3 4 、 ㌢宋 命 数 は ・
三保 6 − 6
仁宗
10 2 7
大聖二
丘年
九 月 感 孝 寺 真 宗 御 容 殿 に 飛 ‖ 番 勧 「崇 真 殿 」 を 賜 い 、 華 に 等 に 示 す っ
㌻朱 合 装 』 崇 儒 6 −6 、 F E 潅 』 巻 3 3
12
F 長 編 j 巻 10 6 、 日 調 別 巻 3 4
13
仁宗
仁宗
10 2 8
大聖六年
仁宗
10 3 0
天聖八年
仁宗
10 3 1
天や九年
仁宗
10 4 0
嬢定元年
仁宗
仁宗
10 4 1
康走∴午
10 4 2
慶暦二年
仁宗
10 4 4
慶暦四年
仁宗
10 4 5
慶暦五年
八 月 劉 琴 常 で 隠 州 に 在 り し と き 真 ;jミ御 書 閥 を な す 。 仁 宗 た め に チ
剛 1 番 「真 宗 聖 文 秘 奉
之 閣 」 を 賜 う 。  ̄三年 後 、 書 閥 に 卒 す 。
四 月 進 土 工鉄 ら厘 林 苑 に宴 を賜 う√
〕 例 話 お よ び 入 学 篇 を 賜 う 「ノ こ れ よ り 骨 第 者 は 必 ず
儒 行 、 中 庸 大 学 篤 を 賜 う 。 (接 :以 後 宜 元 元 年 、 慶 暦 六 年 、 嘉 祐 六 年 に あ り )
十 月 孫穴 の辞 す る に、 飛 山人 ′
亨:を 以 っ て 両 掛 こ賜 り 、 小 字 を 諸 や 土 に 賜 る 。 係 穴 と
鬼 週 は 人 小 字 を 兼 暢 さ る 。 (『_I三海 』 :川 昭 に 御 邦汀 】晋 を 陳 す 〔)
五 日 張 l二
遜 、 御 杏 飛 白 「千 歳 」 を 賜 う に 、 第 中 に 千 歳 党 を 建 て る (
。
六 月 題 永 徳 、 真 宗 御 製 御 斉 、 碑 銘 、 歌 詩 を L L 、 詔書し て 恩 州 利 便 を 領 ず 。 l・
・
川 11
旺 海 j 巻 33
r 長 編 j 巻 1 10 、 r 玉 藻 』 巻 2 7 、 3 4 、 16 4 、
『来 命 安 J ‡;
…儒 7 −4 2
二八 日
季 淑 に 飛 白 を 賜 う 。 敵 、 許 州 に 飛 r l智 草 記 庵 な し 、 イけ 卜目顔 に 巷 臥 す ′
J
『長 編 j 巻 12 7
14
『朱 曾 要 j ニj・
三儒 6 −7 、律 海 巻 3 4
15
止 月 大 相 関 謀 の 人 ㍍ 御 苦 殿 を 新 修 す 。 太 宗 御 一
香 寺 額 を 拳 イ∴ 仁 宗 飛 烏 で こ れ に 過 し 、宰
『長 編 .
妄 巻 13 5 、 日 壷 別 巻 3 4 、 『来 旨 要 』
相 H 夷 簡 挟 記 、 車 得 教 案 額 、枢 密 使 卓 殊 が 御 飛 日 記 を 接 す 。
.
tj三保 6 − 7
三月 潜 英 殿 に お い て 貝 宗 奉 迎 の 御 書 十  ̄三軸 を 出 す 。
16
膵 摘 む 巻 13 7 、『宋 命 安 j 職 ‘
正7 −12
卜二 月 貧 相 彿 閣 を 以 て 慈 尊 閥 と な し、 御 飛 〔l普 牌 を 賜 う 。 鳳 翔 附 し清 太 平 宮 、 了〔台 山
真 容 院 と 賓 章 聞 、 井 州 舎 利 間 と 春 先 資 福 院 と 観 音 殿 と 妙 法 院 と 11ミ覚 殿 、 景 等 宮 等 処 の 神
『_鋸 鋸
巻 34 、 『朱 命 要 j 崇 儒 6 − 7
17
御 殿 樺 、 み な 帝 の 飛 白 。 賜 う 毎 に 先 ず 侍 li ̄
ほ †イし て 観 ず 。
仁宗
10 4 6
慶暦六年
慶 暦 七 (遼 東
十二宗
10 4 7
黙 十 人 年)
八 月 大 平 興 同 寺 の 垂 修 太 祖 神 御 開 先 殿 な る 。 飛 「]吉 備 を 」二す 。
御 書 飛 自 「南 北 両 軸 , 永 適 和 好 」 の 対 聯 を 遼 興 宗 に お く る こ
、
−27 【
『長 編 j 巻 1 5 9 、bbt 海 』 巻 3 4
F老 勤 起筆 .
記 雀 7 、 『契 川 軋 ふて』 巻 8
18
皇 帝
仁㌫
記 事
年 号
1041∼
慶磨申
史料
「端 敏 」 二で 、飛 「
_
ト筆 一・を 太 J▲人博 一
上挙 止 に 賜 い 、 妹併 記見 なす r〕
F玉 海 』 巻34 、 閥 瑚 丈 別
本文引居
巻 11
48
仁※
1049
星椰ノ
亡牛
二月
九月
仁;
jて
1050
l古軋 二隼
イ
∴;
jこ
1050
皇祐
二隼
仁㍍
1052
lit祐
ミイ
巨
仁 Ljて
1〔
)
−
49∼
F l三海 』巻34、『宋 昏 安い ;
一
三
儒6 −8
飛 「1 「人件 」 字 を端 明 鮫 学 仁李 弧 に 賜 う。
御 簑 「明 常 」 二
字 、 飛 l_
11 「明 菅 之 門」 四 ㌧:を掲 げ る 。 (
『玉 海 』 :模 別 して
二
府及
『
長 編 』 巻 169 、 『上 海』 巻 34、、 『鋸 Ilは剋
び 近 作 に 娠 す 。 →紹 興 元 年 九 日、 進 上贋 軌 美 仁 ㍍ 御 書 明 骨 牌 碑 本 を L す 。)
巻 、 未 申 安 』 崇儒 6 −8
雲 台 観 道 二元 ・
享に 胤 と
1 「
清浄」‘
≠
:を貼 う。
.
旺 海 』 巻 34
用 :
八
郎去 二
√
テ:
を各 ・
賜 う。 趨 史民 、 榊 卜
lに 帰 りこ れ を 賜 う。 皇祐 以 後
H J 講 .
言
一 了に 剰 ’
19
『L i毎』 巻 33
の端′
1二
節 必 ず 飛 = 苫 局 を賜 うし
っ
皇 羅H l
偶 憤 漣 、化 成 殿 に fて対 し 親 苦加 詩 巨七 編 を賜 う。 炭 窯 l割を 建 て る。 蘇 拭 銘 す ニ
(本 文、 挿 図 13番fl勘
や和初年
Jl二
子日日真 容 院 修 殿 し、 ん ㍍ 真㍍ 御 書 を成 す 。
『Ⅰ
雄 鳥
巻 34
20
1053
仁㌫
1054
九日
故 知 明 州 慈 渓 県 巨利 川 の 女 、り
長氏 、 む帝
(
真㌫)御書脚 √
‡
を進む=
‥ 消 して l二度 に
『
朱昏要』:
j壬儒6 −8
イ二
㍍
1054
圭和ノ
亡i巨
仁ン
jて
1055
李 和 二年
∴パ
近 日 を 召 して 迎 陽 門 に て 、 飛 l′
=粧 J;
二
凪 翔 ト調刊 傍 を 観 る 。
『
11用 鋸 巻 27′34 、 『木 曾 安』 ミ
三
雄 汀 −44
仁二
六
1055
や和∴年
ブ川
閲 封 府 に 誹 して 、模 刻 御 杏′
テ
二を帯 売 す る もの は 重 く∧
ltす 。
『
宋命要」ニ
;
ミ儒6 −8
仁㌫
1055
賓和
二年
ノU 】 契 什 1三宗 真 や す 。;
iて上
一
t常 で鵜 雁 両 を献 じ、 仁 ㍍ 飛 = 書 で 答 う 。
イ二
二
jミ
ユ055
十和
二年
仁㌫
1057
嘉柵∴隼
ノ川
【
】
に て 御 膏肇 草 l為鰭 を観 る。 (H
迎l ー
仁㌫
1058
嘉 祐 二牛
J川
迎隙門にて鰍.
1;
=
捌 ・
卜
【
舎 利 閣 牌 を観 る「
ノ
四日
西 夏 毅 芯 、 五 ㍍ 御 製 請 革 、 隷 書=
イr本 を求 め 、 子‡
欄 を建 て て ‘
iさ
:
蔵 せ ん と す。 ま た馬
仁㌫
1062
嘉椰七年
卜班 投 付 、 _
−
_
三班 差 性 を ′
j・
う。
十 二日
放 翰 林 サ ト 1滴 偶 、孫 延 U の 蔵す る太 ぷ 皇帝 御 許詩 を 上す 〔 詔 して銭
一ノ
∴
御
21
『
長 編 』 巻 180
『
ユ
壱編 』 巻 181
詩 を 賜 う。
i毎
温 狙 :ノ
【
二
か 由 真 矧 堤鰭 も と も に観 る)
r lこ海 』 巻 27′
′
34 、 (
『仁和j 巻163 : 1日)
旺 海 』 巻 27
/
工卜疋 を 進 め 、 ノL程 、 唐 史 、 冊 府 ノ
亡亀 、 お よ び 本朝 正 坐断 裂 儀 を 求 む .
。 詔 して ノ
L程 を腸
Jl長 編 』 巻 196、 F宋 軋 訂
.巻485
22
い、その馬を還すご
仁㌫
1062
嘉祐七年
い 」 迎 l粘門 に て 御  ̄
苦 妙 法 院 汗二
う三股 鰭 を細 るn
ほ 海
仁ぷ
1062
嘉祐七年
九日
旺 海 』 巻 27
迎 陽 門 に て 景 霊‘
正 、 大 興奉 兵広 孝殿 の 御 チ
酎′
打 勝 を観 る 。
ト
二日内 申
_
二閲 に 幸 し、 皇 「稚 い 両別 ㍍ 圭 角 課 ′
汀 を召 して  ̄
二聖 御 書二
を 観 る 。 ま た智 文
仁宗
1062
嘉祐七年
仁㍍
1062
嘉 祐 ヒ隼
卜 二廿 灰 r 再 び 天 童 間 に 辛 し 、 従 H を召 して
こ
軌 端 物 卜 二柿 、 人 ㍍ 真 芯 御 集 を観 る〔
J
−
英ぷ
1063
嘉椰八年
卜二月
イ二
㍍ 御 il!
二
を′
古文 閥 に 蔵す 。 翰 林 学 仁 日刊 ・
二挟 .
記 立山 せ しむ 。
英誌
1064
治 平 ノ亡牛
1一
二
目
迎 l場門 に 召 し、 御 荘 景霊 H 孝厳 殿 牌 を観 る、
ノ
−
英㍍
1066
治ヤ∴隼
間 に 字 して 従 爪 に 飛 1′
橘 を 分 賜 し 、 卜は矧 削 寸に 圭 る。
巻 27
23
『
玉 海 』 を 27、 h ̄
■
朱 吏 』 巻 113、 F木 曾 安 』
崇 儒 7 −44/6 −9 、 職 ノ
良’
7 − 15、 F長 編 上 巻
197、 旺 海 』 巻 34
袖㍍
神に
1068
勲 寧 ノ己隼
1072
哩轡 /
1二
′
卜
197、『東点 .
氾車』巻 1
ノい J
ト日
F真一
忠、
恵 集 云 28
人 草、賓 文l半日二辛 し、 r■
1抑 fに 命 じて 仁廿 の .
17す る仁宗 御 .
簿イほUを観 る。
輪 目し 従 ノ
I■
lを 召 して 、迎 陽 l】
りに御 井 景霊 何 基徳 殿 碑 を観 る 。治 、
1㍉土牛 の 例 の 如 しrノ
H j 日本 僧 戌 尋 、 人 平 興 l ̄
け 存 法 院 で 太㌫ 真情 御 管 碑 石 、 真 読 星 帝 御 筆碑 文 をみ る。
1082
元豊−
た隼
ノい 】 二日 い † 崇 政 殿 に 御 し、 景霊 宮 御 薔 十
神㍍
ユ086
元 ㌍ ノく勺二
J ̄
斤∫▲
て
l′
ト
1090
ノ己祐 止隼
砦宗
1091
元 祐 ノ(隼
徴㍍
1113
政 和 三年
徴㍍
1115
政 和 行年
川
徽;
j ̄
:
1120
Tiニ
和
二
年
四 JJ
1・ ̄
二月
・
殿 榛 を観 る 。
文 彦 博 、 仁 ㍍ 皇帝 御 苦 を 功 徳 院 に送 り、 宝 勝 押 院 に安 世 す 。 制 を 建 て て 奉 安
す。
九月
應 英 l馴 二撤 lL 宰 相 、 執 政 、 購 読 、 .
記 け rに御 1雪
二各
▲
幅 を賜 う.
。後に姓名を親書
す。
川
し1人防 の 仁 ㍍ 御 一
【
書二
二トノく■
葬を 坐 隅 に 開 き観 覧 に 備 え ん こ と を請 う。 従 之 L〕 (
抜 :
慶暦四年 一
一
三日 真 宗 奉 迎 の 条 を 参黒目
この 年
F長編 』 巻 199、 F 出札』 巻34、 F朱 曾 要 』
崇 儒 6 −9
「
木 曾 要 』 崇 儒7 −44 、6 −9、 律 i毎云 巻34、
川■
宋曾要」
・:御 .
Ii=
孝厳 殿 冊 を観 る) り左 二英 徳 殿 (貯 ㌫ 神 御殿 ) が た だ しい 。)
神㍍
徴㍍
巨最軋月巻 27、『
宋 史』巻 113 、 r長 編 」 巻
鄭 居 中 、 賜 第 。 長輪 を 峨 す る 欄 を建 て 、そ の 栃 に 「勲 賢 承 訓」 を 賜 う。
24
F 玉海 』 巻 27、 『長 編 上
巻208
F未 申 安』 ÷
二
・
三
儒 7 ¶43 、 日吊別
巻 34
E‘
参 天子H l白 山 記 j 巻4
F宋 倉 袈』 tj一
三
儒6 − ?、 デ長編 .
月 巻329、 日 三
権』 巻34
F E 海 』 34、 ㌢朱 曾 要 」 :
;
ミ
儒 6 −10
25
26
27
28
『上海 』 34、 L’
来待要」
;崇儒 6 − 10
旺 海
巻 34 『宋 脅 安 』 巻6 −10
『
宋 伊一
要』 ㍍ 儒 6 −11
29
;
掛相 以 下 、 厘 林 に 官 を 賜 り、 「
龍 翔 池 瀦 楓 軋 」井 び に 題 序 を 甲骨 に宣 示 す 。
『画雛 』 巻 l
封
『
来 浄 安』 二
三
・
…
儒 6 −11
29
『
朱弁 別
 ̄
】
の 先 見 眺 雄 ら 、 私 家 衡 蕾 閥 に御 筆 名 「褒 勲 之 閣 」 を賜 う。
川 Jj 整 イ1 「
近 日人目および従官の御 .
li二
を 受 け る 昔 、 皆 な 閥 を建 つ 」 と i−
iう。 何 執 申、
1120
′
l■
it和
二年
実 情 6 −11
29
徴ニ
j ̄
こ
1120
‘
Ⅰ
て和
二
年
八 日
rW 川 一
、.
温存 府 私 ;
糾 二御  ̄
# 閲 を建 て、 「
御 荘醇 儒 之 閣 」 を 賜 う 。
『
来脅安.
い㍊ 儒 6 −12
29
徹;
;
ご
 ̄
1120
‘
■
‘
垂
:
和
二
年
八 JJ
余 深 私 節 の 御 許 閲 に 御 ぷ 「建 弼亮 功 之 閣」 牌
一
面 を賜 る r.
『
朱 命 安』 う
iミ儒 6 −12
29
徴㍍
1121
1’
細 工 隼
八日
梁
▲
芙私第に御.
引 卿 碑 「葦 英 之 閣」 を賜 う。
『
栄 行 要』 ミ
i‡儒 6 −12
29
御 il手間 †
■
褒忠顕功」を賜う。
二日
秘 i彗二
名 イ「文殿 に 辛 し、 机 ㌫ 謹 訓 、 建 隆 真 蹄 .
詩帖 紋 帽 、 太宗 、 真 ㌫ 、 仁 ※ の 翰 墨 、
徴㍍
徽㌫
1122
′
l■
j二
和川隼
〟器 等 を観 る .
1 また 御 −
ilトト
イ 文 、 卜体 書 、洛 楯 状 、 行 中二
近 詩 な らび に 御 曲 を ノ
l‘
i二
示 す.
:ま
学庵 乳龍
18 −21′
′
23、号 渥』巻2 7、日叶継 』巻 1
1−
二日
目叫 日
大 俸 土 鮎 の 私 節 に 御 Fli二
枚 藤 堂、 西 五
軒l;
i:
、移山宜、観光′
;
七、 名 山 堂 、栄
;
Ti二
利 JI二
年
いJノ
Jt
1131
紺 興 ノ己牛
九日
いり′
Jl
1131
糾興正午
H J
いいJt
1132
紺興
二年
七日
進
い〕′
J ̄
こ
1132
招興
二
年
八月
高㍍−
11二
‘
Jj二
の孝締、詩総、.
1掃射㌫ 章 を‘
、
iイ軌 に‘
貢二
示す。
恒J示
1133
紹 興 一二年
7川
将化 郎 謝 僕 、仁 宗 ■
;
痛 御 井矧 ′
h lf ▲
軸 を 1二
す 。銀 緋
ノ川 l
廣 利 古住 持 浄 曇 法 師 、法 華 閣歴 代 御 iI沌 献 ず 。応 ㌫ 「l冊 州呵育 1こ
し
圧怖 頂 光 明塔 碑 」
JHJ′
Jt
紹 興 二年
巻 1 、『
麟 克 輯 本』 巻1、『老
た 歳 や の 摸 す 所 の れ lh成 分 腸 す こ
、
1123
1133
憫 相川 l叢 .
鶴
観 眉 、 円 友 虎 、 隠 安 庵 の ノL牌 を 賜 う㌧
進 卜黄 則 夫 、 仁 ニ
j‘
津 摘朝蘭 .
L川 j′
て
こ
i二
牌 碑 本 を 上し、 秘 ili二
名に威す。
「超 允 回 転 」 を .
1宇し矧 碩 浩 以 下宰 臣 に賜 い、 墨 本 を以 っ て 中 外 に 賜 うrJ
二
占用 二
、 太 宗 皇 帝 御 富 を 卜す。
巻4、『
宋 軒別 :
i・
三
保;
6 − 12、職 ノ
ri’
虹
■
来 曾 要 』 崇 儒 6 −13
29
『
木 曾 安』 ÷
iミ価 6 −1∫
1
30
『仁海 』 巻 34
31
r来 付 則
*
崇 儒 6 −14
『
朱 倉 安』÷
j一
…
儒 6 −14、F■に海 』巻34
l ̄
匹1両を賜 う 。
を F 賜す。
一28−
来 命 要』 崇 儒 6 −15
*
(
本 文、 挿 図 12参 照 )
32
皇 帝
年 号
記 事
lHJン
Jて
1134
紺 興 l叫年
l.
7レ云
1135
鍬 興 rl二
年
lり′
J三
1135
紹 興 九年
卜H 「
i可′
J、
1136
御輿六年
川
r.
.
川t
1136
紹 興 ノく隼
ltもホ
1137
紹興七年
′
云
1137
招興七年
′
八
1139
紹興九年
史 料
八日
枚 韓 忠 彦 に 御 井 神 道碑 軸 「世済 厚 徳 之 碑 .
」 を賜 う。
本文引網
『米 倉安 j 崇 儒 6 −15
九月
新 及 第 汗 応 最 以 卜に 御 荘 か刻 Ii傭 筒 を賜 う。 廷 試 の 後 、 御 占二
を 賜 うは こ こ よ り始
F米 倉 安』 こ
‡
ミ儒 6 −15、 F I三海 』 巻3 4
ま る。
「車功 詩 」 を ‘
粧
超 拙 二賜 う。
『
朱 命劉
江 南 西 路 安撫 別 間 人使 兼知 洪 州 李 綱 、 家 蔵 の 道 君 御 筆 真 蛾 を 上す 「
,吏館 に 送 る。
:
j・
ミ
儒 6 −16、『1こ
海 』巻 34 33
『
宋 命 安 j lj−
三
橋 6 −16?
*
『に海 」 巻34、 来 育 安 土 崇 儒6 −16 *
卜
一Jj 放 翰 林 サ ト付 け 仁珠 の孫 列 楚 老 、 慶 暦 、 皇拓 の 御 節 、 f一
誹、チ
剛′
1な ど を 上 し、
銀、糀各々
イ日ノ
輔 jを 賜 るLl
ノL H 秦 解 に 「羊砧 列 †
云」、 沈 興 求 に 「ヰし攻 詩 、」 川 軌 狛 二 「楽 放 論 」、 171J√・
護 に 「孝綽
卜
二
月
劉 尤 世 に 臥 r;
=
蘭亭 帖 を賜 う。 (
桜 :托 道 止 侶 二/▲
劉 克仁 が進 め 、御 製蚊 を なす )
一月
興 化 隼 進 上薮秘 、 人㍍ 皇帝 御 書 を 上し、 束 H を 賜 う 。
州 j 親 従 勧外 指 揮 使 仁瑛 の 人ニ
H
l帝 倒昭二 lf川 二
、 仁 ㍍ 皇 帝 御 1【
;
二
飛 l′
=工
作 、徽 ン
iて勘 管制
「
.
i】
山王
1139
緋興九年
.
り′
J二
】
1139
椚興九年
l巨コ
′
六
1140
紹 興 卜隼
「
笥;
iミ
日41
舶興十
▲
隼
いり示
1142
紹 興 ‡ 二勺ミ
l■
り′
Jri
1143
椚興 巨
三
年
111
l一
戸
 ̄
J′
・
′
バ
1143
舶興 十 二
年
′
六
1143
紺 興 巨
二
年
′
云
1143
紬 興= ・i隼
御 .
隼 獅 即 侶 中 庸 丁稚 †
云を 人 卜州 ノ
ア=
に 頒 す。
.
1144
紹 興 目刺隼
ノ、日
新 建 秘 吉省 な る 。
隼一
三什 、 舷 成之 Y一
丁人ノ
ナ:
碑 文
一
本 を進 む こ
.
ノ川
ノ
、
机 上秦檜 、賜 う所 の 御 荘貞牒二
孝稗を金石に刺す。
/
川
軌 さ神 庸 篇 を 秦牌 に賜 い 、 「
リイl‘し墨 本 を 分 腸 す る こ
) (『に海」 :義之 楽 教 諭 を韓 指
『宋 曾 要 」
■二
三
・
三
帖6 −16 、 『仁刺
34
各34 35
『来 命 要 』 :
:
壬儒6 −17 *
「朱 命 安 』 誓紙た
言
6 − 17 *
『宋 曾 要 』 ÷
jj儒6 − 17 、『1こ海 j 巻34
_
■
1才に 賜 う )
ノ川
㌢未 申 紫 』 :
i三保 6 −16 、 ㌢Ⅰ
ミ海 』 巻34、 『
朱
史
・
郎 72 繭+.
氾」 を 賜 うく
′
ま た 、刊 石 し、 .
基本 は 以 っ て 諸 宰 執 、 入 婿 、 付 従 に 解す 。
一
『宋 曾 要 』 :
三
三
儒 6 − 17 、 『1ミ
海 』 巻 34
〃安 里整 傲 家 の 徽 ㍍ −
;
−
帝御筆 、
ン
二
人太ナ誹を進すご
二
.史蝕 に‘
▲
‘
√付 し、 実 矧 ;
完編 難 、 敢
文 閥 に威 す 。
l射 J
徽 州 学 生 超 惨 、徹 宗骨滴 ・
御杏
一
紙 を 卜す 。 親 十 匹 を賜 う。
川■
内 に 御 許左 氏 春 秋 、 史.
拙 棚 云を出 だ し、秘 吉省 に お いて 飾 恥 二′
J叶 。
六日
州 二御 掛周 易 を日 だ す 。 ノL月
御 杏 尚 蕾終 篇 を 許 川′
、
γ
二に刊 イト
ト ・
JJ
F宋 付 安 』崇 儒 6 − 17 *
『宋 命 要』 :
jr三
協 6 − 17 *
『宋 命 安J 芳…
儒 6 r l8、 『 ̄
に海 j 巻 34
従H に冗
示す 。
い j 秘 井省 に 麟 デー
の 放 出 二よ り、 毎 隼 曝 差 会 を 閃 く。
『朱 昏 安』 崇 儒 6 − 18、 『
、
玉刺
巻 34
F南 朱鮒 閣録 』 巻6故 実
往 海
36
巷34
『
来 史』 巻113、 圧 海 」
1 巻 27、34 、 『宋 命
回示
L H
甘 ㌫ 幸す 二
.
.
安」 喜一
き
儒 7 −46、 職 ‘
l■
r18 −28′
′
′
29 、 F南宋 館
37
阻 録』 巻六 故 実 、 『紋 賢 治 通 鑑 』 巻 126
七 日
二巨 ∴L] ノ
■
三
′
立教 郎 守 殿 中付 従御 史江 劫 の請 い に よ り、 親 ‘
/
j:
孝 種 を 刊 イf L 任 官 並 び
rGレ六
1144
梢牒=  ̄
四年
「
司ノ
云
1145
糾興 1  ̄
三年
H J
わ■
・
■
ノ
い】
′
バ
1146
糾 興 卜 三年
三日
処 州 学 1二
耽 世 l有、徴 ニ
iミ勘 紆御 筆 削 虹 三巻 を進 む 。 絹
二H I を 進 む。
.
Jt
1146
梢 興 巨六 隼
lち■
∫
▲
ノ
ドり′
」
ヾ
1146
船 興 1・二年
′
▲
丁
ノ
Jヽ
‖46
紹興 卜
雄
ノ
バ
1155
緋興
二仁正 午
いり′
Jt
1156
椚興
l 示
1159
純興
二1・
九咋
ノ(目
′
云
1159
紹興
二卜九 年
l呈レー
川
rr,
J′
長
1160
椚興
二l ̄
隼
/
H J
†「
1171
陀道 L 隼
111 1
卜六 年
に條 学 籍 .
㈲牛 に 賜 う 。
人 帥 泰 治 第 に 御 語 間 梯 「 一徳桁 大之 閣」 を賜 う。
修武郎張燕、太机■
こ
l帝 御 .
与
t巻 を 卜す 。 対日 ・
匹 を 賜 う〔
」
ノ川 l
徹惜 春 秋 ん 氏 伝 を 日 だ し 、 本省 離 職 に′
l■
モノ
J叶 。 また .
論語 、  ̄
.
£イ を 言
上
きし、 大学 首善
‡
鰯及 人 成 殿 の 後 二礼 一
i;
壬の廊 僻 に 立 イfす 。
陵州楽ヤ県進 H .
!
i孝 友、 仁 ㍍ 皇帝 飛 l′
†「風 水 」 二′
i:
を 卜すり 絹 卜匹 を賜 う。
l ̄ 1 日 川
卜 二月
故 大 師 秦槍 に御 吾川 追 伸 勧 「
決 策 J亡功 楕 忠 仝 徳之 欄 」 を 賜 う。
新和池川ゞ
 ̄
と池 打
.
し陸沈 、 ‘
に成 す る と ころ の 門 ㌫ l;
t帝 の 故外 川_
翰林 ノ
ア=巨顧 臥 二賜 う
とこ ろ 御 苦 車 .
謹 ・
軸 を 卜.
す.
J 誹 して 秘牒=二送 る =
処州細雲臼
.
を
進 卜朱逢 坂 の 仁 ※ 皇帝 御 井を轍 進 す r. ノ用 ;に 来 日 を僧 腸 せ しむ .
。
曝 非 会 を催 す 。
「に菅」
巻34
r朱 曾 安』 ÷
‡
・
…
儒 6 −19
四日
ノ川
『
来 曾 要』 :
‡
三保 6 −19、 ㍗吊 別
『
末 骨 安 』 告き
儒 6 −19 *
『
宋曾要よ:
i一
端;
6 −19 *
『
朱 命 要 』 i;
ミ儒6 −18 、 F に㈲ 』 巻34
F宋 曾 安 』 ※ 価6 −19 *
r来 合 安 』 崇 儒6 −ユ
9 38
『宋 命 安 』 ‡
‡
■
…
佃 「 20 *
宋命乳 用 −
…
嬬6 −20 汀
】
南 朱 飾 閣 録 』 巻3儲 蔵 、 巻6故 実
*
39
『木 曾 安 j 乞
;
−
き
儒 6 −20 、 日日射】 巻封 、 …
■
南
二
乍 親灘 は 鰯 を翰 苑 に 賜 うr⊃
宋 郎 閣 録」 巻6
御.
li二
部 麒 秋 Il卜半遠 詩 を宰 目顔 允 文 らに 賜 う′
。
f木 曾 要 』1i−
三
保 6 −21、旺 海 .
…巻34
春+ 大 仁皇帝 わ 行 草鳶 < 朱 王 「高 棒 状 」、 博 毅 「舞眠 」、 睡魔 「文賦 」、 枯 康 「琴 朕 」、 曹
孝※
1171
柁道−
L 隼
植 「洛 神 賦 」、 仁架 「
 ̄
登 楼 朕 」、 史 節 「放 −
1服 」、 陳 羽 r ■
l∴な .
津」、蘇 輯
「養 /
ト.
論」、 周 興
旺 池
巻3′
1
嗣 「†イ 文 …
> を宰 日 に宣 示 す 二
. 二日 ∴ ‖孝 ※躁 す るrノ
孝㍍
孝二
iて
孝二
;
ご
 ̄
1171
1171
1172
乾道 L イ
ト
乾道七年
乾道ノ
して
巨
ノく月
御−
.
雪二し けで 乱 心観 汀 寺な らび に 殿 碑 ⊂
九日
『木 曾 軋 1 :
三
三
一
相子
f)−21
故 少宰 、 観 文殿 学 上代 敵 の 凍 、 楠 、 欽 ;
j■
ニ旧 い却吉 ・lT 軸 を進 め る.
∴特 に 補 将 什 郎
_
を Ii え る。
L J
進 む。 特 に補 上州 文子 を リー
える.
、
二日
〔
1来 浄 要』 :
■
:
三
−
相 6 −21∴ 号 灘 .
1 巻3 4 *
「木 曾 劉
;
tj一
三
儒 6 −22、 『に海 .
月巻34 *
『
宋 命 軋 う:
iミ
†
誌i6 −22、 『1ミ海 」 巻34 *
,
ifiし て故 端 明 殿 学 巨贈 少 保 < 疑 :以 卜欠 文 > 親任 孫 毛 軋 、 鉄 芯 皇帝 御 井 ‥ 〃軸 を
.
沼 して 故 小 吉付 郎 陳 遇 庭 の 係 、 進 上述 、鉄 芯 偶情二日町 柚 を進 め る ,端 明 学 巨混 深
の曾 孫 什日長、 凋 潤 招 =ト ー軸 、 欽 ;
jこlこ
■砧 i召旨
一軸 を進 め る、
一
故 刑 部 倖 郎 柑 振 の 孫 、 匪州
孝1六
1173
陀 道 九年
孝に
117 5
淳憮
二
年
孝二
j三
1176
浮撫
三年
汗二日
孝㍍
日76
浮 麒 ∴隼
樺 伊∴■
虹尉 所 神 道 に 「中 興 作 命 定 囲 元軌 之 岬 」 を賜 うし
、
孝㌫
1177
淳無用隼
孝ぷ
1ユ
77
淳黙四年
郷 1■
i郡 、 靖 嬢 欄J筆 八 卜八 軸 、 飲 ※ li 帝 = 凋 沐 戊 に器 賦 l 「杵 市 川 描 」、 政 和 関 知 降す
るイⅠ
■
刻 御 筆 手詔 等
二川ほ 進 め る く
ノ
孝ン
jミ
JJ
ノ
囲 ;
(葉衡 奏 射、 太 い
帝歳 翰 上棟 、御 製抜 語 をノ
l■
t:
′
jこ、 勒 イけ る こ とを 乞 う:
.
舎利 奇瑞 に よっ て 阿 育 ‖ llには 翰 「妙 勝 之 殿 」 を賜 う−
.
フ
来 育 要J i▲
三
相;
(
;−22、 日掃 射
巻3′
1
(本 文、 挿 図 10参 †
!
く
り
40
(
本 文、 挿 図 (
;参 照 )
41
.日
加 臨 安 府 超 藤 老 、 太ヴ に 例 を建 て 、 太 上皇帝 御 .
董
;
=
イl‘
程を本‘
友 し、 碑 イ1■
は 閣 卜に 間
き、 ・
!き
■
本 は 閻 仁に 閃 き、 「尤尭 御 .
11二
イ播貴之 樹 」 をγ.とす し
っ
L H+ 体 照 神 仙 徳 光 、 ム 隼 仁 ・‖ 孝㍍ にl腸わ る 御 難 を 立イけ 、
。
117と
も
浮 黙り【
丼
九日
孝;
jこ
1178
桝 宰
相 二
年
大童山最徳 、
ナ慈航 丁朴 へ 歳 翰 「人 作 れ IJ」 を 卜賜 。
孝 宗 、 秘 吾 省 に 辛す し
.紺 興 日月隼 の ご と しこ
孝二
こ
て
1179
淳勲六年
首
■
栄 行劉
(本 文、 挿 図 ‖ 参 照 )
蘇轍 「
北 秋 論 」 准 び に御 謂=
扇 を 1二
部 作 郎 呉 淵 に 賜 う 、 ま た御 洋
二卜八将 †
∠
三
論 を粛
鹿に賜う。
−29
42
『
来 史」 巻 113、 日 三海 』 巻27 、 枚 資洋 適
劉
J川
:
j−
:
儒 6 −23
臥
16、 『r輔
館 F封棉 録 』巻 6故 冥
(
本 文、 挿 悍l l 参 照 )
『l三海 』 巻3 4
43
44
皇 帝
孝二
jミ
年 号
118 1
け黙八年
史 料
記事
二日
秘
省 に 命 じて 秘 終日二歳 す る とこ ろ の 累 軌御 苦 を摸 して 川イけ 。
l正
l史 と国 劇 曾 嬰 を 恭 覧 す る に 、 入試 皇帝 淳 麒
孝宗
1182
淳黙 ノ
L隼
旺 渦
巻34 、 『南朱 針目酢璃 録 j 巻3儲 成
本文引用
45
二
年 八 日 に 秘 l削 こ賜 う 斬 、 賛 序 あ りrノ今 、
人 lHH 二流存 す る も 末 だ獲 ず ÷
二
しか る に 国 史 別 冊 ・
l・超 汝 棍 「剰 ’
】
」
イ 硝 本 を州 浮川 1才 堂
『南 宋 館 閻 琉 録』 巻こ
き
f.
執成
′
16
「1歳胤 1 巻 34
47
よ り得 る。 知寧 国府 陳 躾 の 御 製 御 井賛 、 J闘 卑本 を ‖
臣;
日日に得 る。
孝㍍
1184
浮1隼 卜
隼
川
秘 書 省 少監 沈 揆 ら進 Ll!
_
し、 並び に 人 ㍍牒 汀 l 「秘 閥 」ノ
テ二
I掴 」
イ す るl−
四日
孝㍍
1184
け暦日 一 ・
年
孝二
i‘
ご
1184
淳麒 仁 ・
隼
「明 慶 之 閣 」 を 史浩 に賜 う。 後 、酢 ;
; 「輔 徳 明 課 之 閣 」 を 鄭 漸 二、 「悪 徳 人 勲 之
■
『仁i毎』 巻 34
閻 」 を 習 似 道 に賜 う〉)
川 IJ
光 点)
長翰 洛 神楓 、 ‘
↑軋 ∴慾 、 Tノi二
 ̄
、 臨 献 之 帖 、 J主軸 を 史子
:
lrに賜 う。
L H ‡会 。 秘 .
】
‡少 監沈 撲 、御 .
1川占卜巻、 ′
】
二卜六 段 、 太 1jて 「秘 隣り 「
秘 l湖蜂」 「
け」共
H凱 】
F lこ海 j 巻 34
『南宋 飾 閣 綿 録 』 巻3儲 蔵
孝㌫
1 184
淳麒 十
▲
隼
孝宗
・
1185
浮輿 巨
二年
孝㌫
1186
淳 黙 1■ 隼
川=
孝㍍
1186
淳 僻目 ‘ 隼
卜H 孝㍍
1187
淳鮭一
十川 年
孝宗
1188
孝宗
1188
孝;
;
:
■
1188
浮 鞋 1▲〟 Ii
十
二月
孝宗
1189
淳麒十六隼
71十日
御 門
.
二「帰 隠 」 二字 を 大人
 ̄
乍弥 陀 砧 興 院 に賜 う。
『
宋 倉 要j iiミ儒 6 −24
孝宗
1189
削 賃l ̄
六年
九月
『
宋 命安 j …
;
き儒 6 −24
寧宗
1210
威 定 二年
秘 閣 御 製 御 札 日録 を な す 。
F
理㌫
1235
端平
二年
l上
川
F ̄
−三
池 』 巻34
埋㌫
124 1
浮祐元年
御 方入 学
に
二軸 、 及 び ■
冊 川 lJ 御 杏 仁巻、 、
1仁び に装 演 L Itい)、 二l車樺 に つ く り lす (
,
二日
名賢.
鮎 緋 を 以 っ て膜 刻す 。
仁 甘 い 川 たし
−
ノ
装 鷹 川 本 、 小郡 省遊 進 。
海 』 巻 34 、 『南 朱針目瑚璃 録 』 巻 3f.
請蔵
ヨ 三
ノ
f:仁洪 遇 の 進 め る欽 宗 歳 輪 をイr刻 し 史館 に 付 す ∴
三
海 』 巻 34
【
F−淘 』 巻 34
八日
超 f一
接 の 係 、 太 上賜誹 二
を進 む。
『−海 』 巻 34
浮 勲 ト行年
ノ
川
 ̄
仁似 の √▲
、人 【
二奨 論定 翰 イ11刻
『 海 j 巻 34
浮 輿= J 隼
H J
陳 康 伯 の 孫 、 南 芯 の 誹 杏 を進 む。
朱 ㌶ 之 の 孫 、継 先 、 両断 御 井 を進 め る。
・
冊 を進 む。
*
『滴り
巻 34
(本 文、 挿 図 7参 照 )
「イ
ー
f測 」 二才 を 花成 大 に賜 う。
御 書 「弥 陀 興 福 院 」 六 才 を 、左 ん 僧 録 苦調 に賜 う。
学
48
二
真 徳 秀 に 御 吉 張 ノL齢遊 金鋭 事 を脂 う「
、
銘 を 輔 帖 二分 腸 す る(
〕
1
淘
49
巻34、 『南 宋 鮒 閣柏 録 』 巻3儲 蔵
土瓶』 巻34
参考文献
『資治通鑑長編』(中華書局本)、『麟墓故事校言登』(張富祥校言登、中華書局唐宋史料筆記本)、『宋曾要輯稿』(新文豊出
版公司影印本)、『玉海』(中文出版社影印本)、『皇朝類苑』(文海出版社武進董氏影印本)、『宋太宗賓録』(甘粛人民
出版社本)、『宋史』(中華書局本)、『契丹囲志』(廣文書局史料頼編本)、『老草庵筆記』(中華書局唐宋史料筆記本)、
『蘇拭文集』(中華書局中国古典文学基本叢書本)、『蹄田録』(中華書局唐宋史料筆記本)、『東蔚記事』(中華書局唐宋
史料筆記本)、『察恩恵集』(上海古籍出版社本)、『参天台五台山記』(大日本彿教全書本)、『揖長編拾補』(中華書局
本)、『董裾』(董史叢書本)、『鎖国山叢談』(中華書局唐宋史料筆記本)、『南宋館閤録緯録』(張富祥鮎校、中華書局
本)、『績資治通鑑』(中華書局本)
−30−
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