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叙景詩と詩跡: 朱熹の武夷山を詠む詩を手掛かりにして
Hirosaki University Repository for Academic Resources Title Author(s) Citation Issue Date URL 叙景詩と詩跡 : 朱熹の武夷山を詠む詩を手掛かりに して 李, 梁 人文社会論叢. 人文科学編. 27, 2012, p.65-82 2012-02-29 http://hdl.handle.net/10129/4591 Rights Text version publisher http://repository.ul.hirosaki-u.ac.jp/dspace/ 叙景詩と詩跡 ―朱熹の武夷山を詠む詩を手掛かりにして― 李 梁 一、はじめに―唐詩と宋詩の特徴について 中古以降、唐詩に次いで、宋詞、元曲、明清小説、 そして「文学革命」の洗礼を受 けた五四新文学、 これが中国文学史における大きな流れである。周知のように、中 国文学、とりわけ古典文学において、詩歌の占める比重の大きさは、世界的にみても 類例がない。なかでも、様々な意味で、中国詩歌の頂点に立ったのが、唐詩であるこ とは改めて言う必要はない。だが、常に唐詩と対蹠的位置を占めるのは、宋詞ではなく、 宋詩である。いわゆる「詩分唐宋」とは、その表われである。ところで、なぜ豊饒な唐詩を 生んだ唐代に次いで、両宋時代では、対句や韻律という詩法を重んじる詩よりも、唐 代に民謡から興った詞の方が発達したのか。これについては、従来、必ずしも明確な説 明がなされてきたとは言えない1。言い換えれば、『全宋詩』の総量は『全唐詩』を遥 かに超えていたにもかかわらず、文学史上、宋詩が唐詩ほどに重視されてこなかった のは否めない事実である2。確かに厳格な韻律、句法に従いながら、湧き出るような感 情、情趣または豊かな想像力をもつ唐詩の特質に比べれば、一般に、宋詩は詩法軽 視のほかに、叙述的、説明的な理屈っぽさが目立つと言われる。かつて吉川幸次郎 (1904~1980)は、 これについて、次のように述べている。「簡単に比喩すれば、唐詩 は酒のごとくであり、宋詩は茶のごとくである。唐詩は、酒客のみが知る酒中の天地の ように、特殊な詩人的才能のみがいだき得る特殊な感情、またそうした感情を興奮さ せ得べき題材、 それを歌おうとする。少なくともそうであることを理想とする。宋詩はそ うでない。だれでもがいだき得る感情、またふれ得べき題材を、詩に造型しようとする。 唐詩の興奮はない。あるいはわざと避けられている。しかし沈静、熟視、内省の美しさが、 宋の詩にはある3」、 と。中国文学研究の老大家ならではの、実に正鵠を射た炯眼だと 1 詞(填詞、詩余、長短句ともいう)とは、唐代に起こって宋代に隆盛を極めた韻文形式の詩型のひとつで ある。詩と異なって、詞は楽曲に合せて歌妓が謡うことを目的にしたものであったため、女性的な柔らかさ (いわゆる“婉約”)を特徴としたが、蘇軾(1036~1101)や辛棄疾(1140~1207)などは詞に男性的な気風 を取り入れ、豪放さを創り出している。宋元文学研究会編『朱子絶句全譯注』(1、汲古書院、平成三年) 解説、中原健二「宋代の詞」(鑑賞中国の古典.『宋代詩詞』[角川書店、昭和六十三年])など参照。 2 唐宋詩の優劣論について、明代以降、侃々諤々の議論に沸いたが、其の発端は南宋時代にすでに現われた という。銭鍾書『談藝錄』(中華書局、1984年版)「詩分唐宋」篇に「唐宋詩之争、南宋已燃、不自明起」 (4頁)とみえる。銭氏は、また唐詩を「詩人の詩」、宋詩を「学人の詩」と分けて特徴づけている。銭鍾 書著、宋代詩文研究会訳注『宋詩選注』(1、2、平凡社、2004年)の銭氏による長文の「序」、および内山 精也による同書の解説「銭鍾書と『宋詩選注』」を参照。なお、四万数千首の『全唐詩』に対し、『全宋 詩』(北京大学古文献研究所編、1998年)は全72冊3785巻、収録詩の数は数十万首に上る。一方、詩人にし ても、両宋あわせて三千八百十二人に対し、全唐詩の作者が二千二百余人である。吉川幸次郎『宋詩概説』 (岩波文庫版、2006年、19頁、『吉川幸次郎全集』(筑摩書房、昭和四十四年)13巻、8頁。 3 吉川幸次郎「宋詩随筆」、前出『宋代詩詞』所収、427頁、また『吉川幸次郎全集』13巻、208頁参照。 65 言わざるをえない。たとえば、同じく廬山を詠む詩にしても、酒による高揚感は、李白 (701~762)の七言絶句「廬山の瀑布を望む」 (其の二) 日照香炉生紫烟 日は香炉を照らして 紫烟を生じ 遥看瀑布挂長川 遥かに看る 瀑布の長川を挂くるを 飛流直下三千尺 飛流 直下 三千尺 疑是銀河落九天 疑うらくは是れ 銀河の九天より落つるかと という気宇壮大さを歌いあげても、蘇軾(1036~1101)の七言絶句「西林の壁に題す」 れい かたわら ほう 横看成嶺側成峰 横に看れば嶺と成り側よりは峰と成る いつ 遠近高低無一同 遠近 高低 一も同じき無し 不識廬山真面目 廬山の真面目を識らざるは よ 只縁身在此山中 只だ 身の此の山中に在るに縁る という茶道のような哲学的冷静さ、つまり「内省の美しさ」を創り出せない。とにかく、吉 川がいうように、宋詩の叙述性、詩人の義務となる社会的連帯感は唐詩には乏しい。 それから日常生活への密着さ、殊にあらわに、直接に、大量に哲学を語ろうとする姿 勢も唐詩には普遍的にはみられない。だが、それよりもまして、最も大きい違いは、や はり悲哀の止揚の有無という点である4。ここでは、 それについての詳論は避けるが、 およそ詩文を含めた文学作品が最も鋭敏に世相を現わすものであるとすれば、酒のよ うな唐詩から、茶のような宋詩への変遷も世相の移り変わりとそのわけを表わしていると 考えられる。そこには、むろん様々な要因があるが、詩に限っていえば、やはり清代 の四庫学者の言明は説得力があるようである。 はじ いま 班固、詠史詩を作りてより、始めて論宗を兆む。東方朔、子を誡しむる詩を作りて、 わた くだ いや 始めて理路に渉る。沿りて北宋に及び、唐人の道を知らざるを鄙しみ、是に於て 論理を以て本と為し、修詞を以て末と為す。而して詩格は是に於て大いに変わる。 此の集は其の尤も著しき者なり5。 と。後漢班固の「詠史詩」、前漢東方朔の「誡子詩」より端緒を開いた歴史故事から教 訓理屈を求める詩風は、宋代に至って、「論理を以て本と為し、修詞を以て末と為す」 ようになった。両宋社会の実情に従って言えば、 いわゆる「重道軽文」へと一変したの 4 前出『宋詩概説』(全集版)32~33頁。 「自班固作詠史詩、始兆論宗。東方朔作誡子詩、始渉理路。沿及北宋、鄙唐人之不知道、於是以論理為 本、以修詞為末、而詩格於是乎大変、此集其尤著者也」。『四庫全書総目』下、巻一五三、集部(別集類 六)『撃壌集』提要、中華書局、1965年、1322頁。 5 66 である。勿論、それは宋代の文治主義、なかんずく程朱理学の興起と無関係ではない が、常に北方の異民族(遼、金、西夏、モンゴル)からの軍事的圧迫という危機的な時 代状況も見落としてはならない。それはともかく、両宋時代、実際に王安石(1021~ 1086) 、蘇軾、黄庭堅(1045~1105) 、陸游(1125~1210)などの大詩人だけでなく、南 宋後期になると、浙江温州の「永嘉四霊」、臨安の書肆の小店主陳起を中心とする江湖 派など市井の小詩人たちの活躍も目立つようになった6。それは、士大夫文化の庶民 階層への拡大、または内藤湖南(1866~1934)のいう市民の台頭による中国「近世」の到 来として注目すべき事象である。いずれにせよ、以上のことからみて、宋詩もまた、 文学史上、重要な一頁を占めることは改めて言う必要はなかろう。 一般に、宋代の理学派は、大抵 「重道軽文」 派に属し、唐人のように詩文への執着を潔 しとしなかった。たとえ時おり詩作に手を染めても、彼らは、好んで詩に道学臭さをもつ「性 理」を説く一方、詩法や韻律に拘らず、かつまた典故を踏まず、つとめて平易素朴さや 道理を求めていた。ただ、詩文軽視の度合いによって、かれらは二分される。すなわち、 「作詩妨事」、「作文害道」 を唱える程顥(明道、1032~1085)、程頤(伊川、1033~1107) 兄弟を代表とする完全否定派、および邵雍(康節、1011~1077)、朱熹、陸九淵(象山、 1139~1192)らの部分否定派が、それである7。 ところで、宋代理学の集大成者としての朱熹は、思想的に北宋五子(周敦頤<濂渓、 1017~1073>、張載<横渠、1020~1077>、邵雍、二程兄弟)の流れを汲み、詩文の見 解においても、上述した二程兄弟と通底しているものの、かれらのように、道理を重視 するあまり、詩文を頭から抹殺しようとする態度をとらなかった。それどころか、朱子 はまた、自ら大量の詩作を試みたほかに、『詩集伝』 、『楚辞集注』といったすぐれた詩 (1908~2004) は、朱 論関係の専門書も著わしている8。中国思想研究の大家、岡田武彦 子の学問とその詩を高く評価して、次のように述べている。 朱子は宋学の大成者で、その学問の精緻宏博、道徳教化の高明顕著なるは、 孔孟後ただ一人であると云っても過言ではあるまい。また父の素質を稟けて詩 を善くし、壮年の頃には詩人として名を馳せ、四十一歳の時には詩人として上 に推擧されたことさえあった。殊にその五言は宋一代に傑出するばかりでなく、 感興詩などは唐の陳子昂を凌駕するとさえ云われた。詩は概ね王孟韋柳の流 を汲む。文は韓欧曾の古文に沿うが、理を説くの精微に至ってはこの三家を 凌駕している9。 6 南宋の十三世紀初頭に活躍した四人の詩人を指す。四人とも永嘉(浙江省永嘉県)の人で、字号に霊の 字を含むことから永嘉四霊と称された。すなわち、徐照(?‐1211、字は霊暉)、徐璣(1162‐1214、号は 霊淵)、翁巻(生没年不明、字は霊舒)、趙師秀(?‐1219?、号は霊秀)の四人である。なお、江湖派と は、陳起が同時代の詩人百九人の詩を叢書として刊行し、『江湖詩集』と名付けたことから言われるように なったのである。『宋詩概説』第六章第二節、第三節参照。 7 両派主張の異同に関する考察は、袁行霈ほか著『中国詩学通論』(安徽教育出版社、1994年)559~579頁 に詳しい。 8 朱熹の詩作数は1213首、詞も十数首ある。多作の宋代詩人の中でそれほど多くはなかったが、理学家とし ては多い方である。前出『宋詩概説』、『朱子絶句全譯注』解説参照。 9 岡田武彦「晦庵先生朱文公文集解題」『校点朱子大全』上、書光学術資料社、発行年無し。 67 と。つまり、理学の集大成者の朱子は、その思想の精緻さ、完成度の高さ、および体系 性からみて、孔孟以後天下一の存在であったが、詩文においても、 いわゆる「唐宋八 大家」の序列にこそ入らなかったものの、その流れを汲むか、またかれらと拮抗し、凌 駕する力をもっていた、 といわんばかりである。前述したように、朱子自ら編集に携わっ た『朱文公文集』に収められた詩は七百四十五篇、延べ一二一三首、他にまた、詞十七 篇、延べ十八首ある。宋代の理学家の中では、詩作数が抜きん出ているとみてよか ろう。では、朱熹の詩の質はどうだったであろうか。実はこれには、従来、衆目一致した 評論がまだ確立されていないようである。例えば、日本でも江戸時代から朱熹の詩へ の評価はさほど高くない。吉川の『宋詩概説』でも、詩人としての朱熹に全く触れてい ないのは、それを表しているように思われる。 確かに、朱熹の詩は、三十歳頃を境に前、後期に分けられる。前期では、禅宗、道 家の影響もあって、寂寥たる孤独感または彷徨不安な心情を歌うものが多く、たいて い取るに足らないという10。後期では、識見経歴の増長、学問思想の成熟に従い、朱 熹の詩は、幾つかの詩作の高潮期をへて、「春日11」、「観書有感12」のように、宋代の 理学家の中で最も道学的臭気が少なく、一種の自然清新な趣向を漂わせ、練り上げ られた詩句を通して日常の生活から思想性、哲理を剔出するようになった。要するに、 朱熹の詩に対する褒貶があるものの、前述のように、平易自然な詩句を用いて味わい 深い道理を呈示させる点からみて、朱熹の詩が量、質ともに宋代屈指の存在という評 価は概ね妥当であろう。 本稿は、以上のことを念頭に、朱子の詩文観に対する確認の作業を通して、さらに、 朱子の武夷山を詠む詩を手掛かりに、朱子の叙景詩(感興詩)と詩跡の関係を検討し てみたいと思う。 二、朱子とその詩文観 東アジアのトマス・アクィナス(Thomas Aquinas、1225~1274)と言われた朱熹 (1130~1200) は、従来、程朱理学の集大成者としての思想家、哲学者の素顔があま りにも強かったため、彼の詩文造詣の深さ、 ないし詩文観の斬新さは、却ってあまり論じ られず、それほど知られていないというのが実状である。しかし、前述した岡田の高い評 価を持ち出すまでもなく、朱子は、実践的な哲学の思考に深く沈潜し(格物致知)、理 先気後論、性即理、理一分殊といった思想を打ち出した思想家だけでなく、詩情豊か で気品のある詩人でもあった。言うまでもなく、それは、朱熹天賦の才能、資質のほか、 10 郭斎箋注『朱熹詩詞編年箋注』(巴蜀書社、2000年)前言、22頁。 「春日」勝日尋芳泗水浜、無辺光景一時新。等閑識得東風面、万紫千紅総是春。 12 「観書有感 二首其一」半畝方塘一鑑開、天光雲影共徘徊。問渠那得清如許?為有源頭活水来。 11 68 彼の生い立ちと密接な関係があったようである。 朱熹は、字は元晦、 または仲晦、号は晦翁、遯翁などを用いた。原籍は徽州婺源 (現在江西省婺源県)、南宋の高宗建炎四年(1130)九月十五日、南剣尤渓(現在福 建省尤渓県)に生まれる。 『宋史』 「朱熹伝13」に描かれたその神童ぶりは、むろん誇大に 吹聴されている点が多々あるが、それらを差し引いても、朱熹が、幼い時より好奇心が強 くて聡明好学の児童であったことは疑いないであろう。 朱熹の学問の経歴は、およそ次の三期に分けられる。すなわち、幼い時から学識、 人格ともに優れている詩人、官僚学者でもあった父 朱松(1097~1143)の指導のも とで、『孟子』 『論語』 などの経書を読破し、十四歳の時に、父が病死した後は、遺言に より、胡憲二劉(劉勉之、劉子翬)に師事するまでを第一期とし、二十四歳の時、父 の同門であった李侗(延平先生、1093~1163)と出会い、「道学」の真髄を悟り、「逃 禅帰儒 14」の契機をつくったのを第二期とし、さらに四十歳の時に「『中庸』未発已発 之義」 が氷解した後を第三期とする15。つまり、朱熹は、幼い頃より、父および諸名師の 教えのうえ、道、仏の影響をも受けて濃厚な自然趣向をもつようになった。とくに、彼 の二十歳前後の詩作が、濃厚な禅味道風を帯びているのはそれを裏付けている 16。こ れらのことはまた自ずと、彼の詩文観に色濃く投影されている。 朱熹の詩文観は、主として 『詩集伝』、『楚辞集注』 および 『朱子語類』 (巻130、巻 137、巻139~140) などに散見される。後に朱子後裔の朱玉がそれらを一巻に集録し て『清邃閣論詩』と称し、『朱子文集大全類編』の中に収めている17。煎じ詰めていえ ば、朱熹の詩文観は以下の三点に集約できる。すなわち、一、詩による「言志」、 「明 理」の強調、二、自然趣向、漢魏古詩の重視、並びに律詩軽視、修飾彫琢の反対、三、 むな 、と 二程兄弟、楊簡ほど口調は激しくないが、同じく作詩は「枉しく工夫(時間)を費す」 いうことである18。朱熹は、「詩言志、歌永言、声依永、律和声19」という伝統的詩文観 に基づき、詩を人間の主観的意志と客観的存在との自然融合による産物だとみなして いる。たとえば、詩の発生について、彼は「詩集伝序」で、次のように披瀝している。 なん す おこ 或るひと予に問うこと有りて曰く、「詩は何為れぞ作るや」と。予、之に応えて曰く、 「人生まれて静かなるは、天の性なり。物に感じて動くは、性の欲なり。夫れ既 に欲有れば、則ち思い無きこと能わず。既に思い有れば、則ち言無きこと能わ し さ えいたん ず。既に言有れば、則ち言の尽くす能わざるところにして、咨 嗟詠 嘆の余りに いんきょうせつ そう や おこ 発する者は、必ず自然の音 響 節族有りて已む能わず。此れ詩の作る所以なり」 13 『宋史』巻429に「熹幼穎悟。甫能言、父指天示之曰:「天也」。熹問曰:「天之上何物」?松異之。就 傅、授以『孝経』。一閲、題其上曰:「不若是、非人也」。嘗従群児戯沙上、独端坐以指画沙、視之、八卦 也」とある。束景南 『朱熹年譜長編』巻下「附録」収録。 14 それについて、岩山泰三「朱子の仏教離脱について」(前出『朱子絶句全譯注』第四冊、46~49頁)に詳 しい。 15 民国学術経典文庫8 陳鍾凡『両宋思想述評』(東方出版社、1996年)196~200頁。 16 金春峰『朱熹哲学思想』(東大図書公司、中華民国八十七年)第十三章「朱熹詩与仏禅」参照。 17 郭紹虞『宋詩話考』(中華書局、1979年)「清邃閣論詩」条、178~181頁をみよ。 18 前出『中国詩学通論』、560頁。 19 『尚書』舜典。 69 と。20 朱子の詩の起源説とでもいうべきこの論述は非常に有名である。それを一言でいえ ば、つまり、詩は、人間による感情の自然発露であるため、字句の彫琢や典故を踏む というやりかたは、 むしろ禁ずべき無用な作為である。「詩は須らく是れ平易にして力を 21 」とか、「詩は須らく力を費 費さず、句法混成すべし(詩須是平易不費力、句法混成) はじめ さずして方て好かるべし(詩須不費力方好)22」というのは、いずれもその証左である。 なお、上の詩の起源に続いて、詩の「教化」としての機能について、 曰く、 「然らば則ち其の教うる所以の者は何ぞや」と。曰く、 「詩とは人心の物に あらわ 感じて言に形るるの余りなり。心の感ずる所に邪正有り、故に言の形るる所に た 是非有り。惟だ聖人 上に在れば、則ち其の感ずる所は正ならざる無くして、 まじ 其の言は皆な以て教えと為すに足る。其れ或いは之を感ずるの雑りて、発する 所は択ぶべき者無きこと能わざれば、則ち上の人は必ず自ら反みる所以を思 いて、因りて以て之を勧懲すること有り。是れも亦た教えと為す所以なり23。 と述べている。これを読む限り、「存天理、去人欲24」を声高く唱導する理学家の朱子 は、「人欲」それ自体を完全に否定している訳でなく、「道」や「理」に合う「人欲」は人 間による情の自然発露としてむしろ肯定すべきものである。朱熹からみれば、天理と人 したが 欲は、「只だ是れ一人の心なり。道理に合うのは是れ天理、情欲に徇うのは是れ人欲、 え 当に其の分界の処に於て理会すべし。五峰が云う『天理人欲、同行異情』は説い得て 、という。つまり、性、理、情、欲の間に絶対的な境界があるというわけでな 最も好し25」 く、それらはみな人間内面における合理的存在である。問題は、道理の規制を受けず に情欲の発するままに任せることであり、 それこそ否定すべき人欲である。こうして朱熹 は、 いわゆる「文以載道」と詩文の抒情的性質との矛盾を解消し、自分の詩文創作の 立脚点を見出しただけでなく、 さらに「詩道合一」という主張も打ち出すようになっ たのである。朱熹の詩文観が二程兄弟ほどラジカルにならなかった原因も、まさにそ こにあると言えよう。 20 「或有問於予曰:「詩何為而作也」?予応之曰:「人生而静、天之性也。感於物而動、性之欲也。夫既有 欲矣、則不能無思。既有思矣、則不能無言。既有言矣、則言之所不能尽、而発於咨嗟詠嘆之余者、必有自然 之音響節族而不能已矣。此詩之所以作也」。『晦庵先生朱文公文集』巻七十六。 21 (宋)黎靖徳編、王星賢點校『朱子語類』(中華書局、1994年)第八冊所収巻140「論文下 詩」。 22 同上 23 「曰:「然則其所以教者何也」?曰:「詩者人心之感物而形於言之余也。心之所感有邪正、故言之所形有 是非。惟聖人在上、則其所感者無不正、而其言皆足以為教。其或感之之雑、而所発不能無可択者、則上之人 必思所以自反而因有以勧懲之、是亦所以為教也」。出典同注20。 24 朱熹は「天理人欲是交界処、不是両箇。 (中略)須是在天理則存天理、在人欲則去人欲」とする。『朱子語 類』巻78、第2015頁。 25 同上。原文:「只是一人之心、合道理底是天理、徇情欲底是人欲、正当於其分界処理会。五峰云『天理人 欲、同行異情』、説得最好」。 70 三、朱子と武夷山 黄山、桂林と並ぶ山水の名勝地としての武夷山は、福建省にある黄崗山(海抜 2,158メートル)を中心とする山系の総称である。武夷山脈は、中国東南地域の江西 省と福建省の県境に跨り、北は仙霞嶺山脈に、南は九連山に接し、東北から西南方 向に伸びている。全長は約550キロメートル、海抜は1,000メートル前後である。長江 水系の贛江、撫河、信江と、福建省に流れる閩江などの大河の分水嶺でもある。 武夷山は、主として赤い砂礫岩からなる低山丘陵地帯である。長年の雨水浸食によ って渓谷、岸壁、峻峰、岩洞などが複雑に組み合わさって変化に富む地勢を形成して いる。それに温暖湿潤な亜熱帯気候により、四季折々の美しい景観を作り出して、古く から道士僧侶や文人騒客は勿論のこと、歴代の官民にとっても、旅の聖地として憧憬 の対象となってきた。 朱熹の武夷山滞在期間については、四十年説、五十年説、 ないし十年説など諸説 紛々であるが、かれが生涯の大半にわたって武夷山またはその周辺地域で過したこと は、紛れもない事実である26。要するに、武夷山の独特な地勢による山水の絶景、とり わけ唐末五代以降、武夷山が仏、道教の聖地化による仏道文化の隆盛、 さらに戦乱 を忌避する北方の士家大族がそろって南逃した際、入閩の玄関口となったため、北宋 以降、武夷山とその周辺に多数の文士騒客が寄り集まって、濃厚な文化的香りが漂う 地域となったのである。北宋以降、閩北地域における刻書印刷業の発達はそれを物 語っているであろう27。上述のように、朱子の思想とその学問体系の完成にとって、武 夷山またはその周辺ほど恰好の場所はなかったと言えよう。事実、朱子の性理学思想 の集大成を象徴する代表作『論語集注』 、『孟子集注』は、淳煕四年(1177) 、武夷山冲佑 観の提挙の任上で完成された。淳煕十年から紹興元年(1183~1190)まで、朱熹は、自 ら創設した武夷精舎(後の紫陽書院)に住み込み、弟子の教育に専念する一方、朱子 理学の根本的概念である「理先気後説」の提出、『中庸或問』、『中庸章句序』 、『大学 章句』 、『大学或問』の完成に示されるように、まさに学問体系の完成、思想が完熟の域 に達した時期である。これと同時に、彼による最も多く (五十首以上) 、最もすぐれた叙 とう 景詩(例えば、「武夷十櫂」つまり「九曲櫂歌」)も、武夷山で創られていた。こうした ことからみれば、武夷山が、朱子という文化巨人の出現にとって如何に重要な役割を果 たしていたかは、もはや贅言を要しない28。 26 陳其芬の「朱熹与武夷山」は、「朱熹一生七十一歳、有五十多年時間住在武夷山及武夷山所在的閩北」と している。前出『朱熹与中国文化』所収163頁。 宋代では、閩北建陽の麻沙と崇化が「図書之府」と称えられている。明嘉靖『建陽県志』に建陽は「五経 四書澤満天下、人称小鄒魯」とある。将仁ほか「朱熹学術在閩北産生的条件」、前出『朱熹与中国文化』、 159頁。 28 2010年9月9日から11日にかけて、筆者は、植木久行教授を団長とする「中国詩跡調査団」の一員として武 夷山を尋ね、武夷精舎、武夷宮などの文化遺跡見学のほか、朱熹の追体験とでもいうべき九曲渓下りを行っ た。とくに武夷山から百数十キロ離れた建陽唐石里(黄坑鎮)までタクシーをチャーターして朱熹の墓参り を敢行したのは、旅のクライマックスだと言えよう。こうした体験は、朱熹の詩のみならず、その学問思想 の理解にも役立つものだと思われる。 27 71 図1.武夷名勝全図。清・董天工『武夷山志』 (方志出版社、2007年)による。 四、朱子の武夷山を詠む詩と詩跡 朱子の武夷山に関する名文として、まず「武夷山図序」と「武夷精舎序」をあげること ができる。そのほかに、「観妙堂跋」 ・ 「幔亭記」も、武夷山の景観風致をきめ細かく描き 出している。だが、朱子の自然への美意識と情趣とを最も鮮明に現しているのは、 ほか ならぬ武夷山を詠む詩作群である。例えば、「武夷七詠」、「行視武夷精舎」一首、「大 隠屏」一首、「宿武夷観妙堂」二首、「武夷漫題」一首、「冲佑観」一首、「昇真観」一首、 しゅん 「仙鶴岩」一首、「大小藏峰」一首、「笋 洲」一首、「遊武夷答袁枢」一首、「復用前韻別 袁枢」一首、「詠清虚堂」二首、「陪機仲泛舟九曲」六首、「同呉公済遊武夷」一首、 「 答 友 人 武 夷 精 舎 詩 」一 首 、「 在 武 夷 山 謝 劉 子 澄 」一 首 、「 武 夷 精 舎 雑 詠 」十 二 首 、 「清虚堂」二首、「又武夷精舎詩」二首、「次韻武傅丈武夷道中」五首五絶句など、延 べ五十首を越える武夷山を詠む詩歌は、 どれも詩情豊かで自然の色彩と季節の躍動 感に満ち溢れている。いわば、彼の叙景詩(感興詩)の最高峰を示している。それのみ ならず、そのどれも詩跡の概念要件―すなわち「名詩」と「場所」―を満たしている29。 29 「詩跡とは歴代の詩人たちに読みつがれて著名になり、詩歌の新しい創造に点火して表現の核となりう る力をたたえた地名[古典詩語]。詩歌との緊密な一体感[詩歌によってうみだされた独特の連想作用―特定の 景物・情趣・発想・テーマ・語彙など]を伴って認識・理解される場所[宮殿・高楼・橋・亭・関所・祠廟・ 72 写真1.朱熹彫像と武夷精舎(紫陽書院)の正面。2010年9月、筆者撮影 とう その中で、「九曲櫂歌」は、武夷九曲の全景を十首の七言絶句で歌いきって、 まさ に「千古の絶唱」といわれる名詩中の名詩である。図1、図2および写真1で示される ように、九曲渓は、黄崗山の関坪に源流を発し、大源山馬月岩を出て、さらに星村を へて武夷山に入り、九度曲って武夷宮に至ってから崇陽渓に合流する全長十キロメー トルあまりの渓流である。 とりあえず詩跡化の典型として、「九曲櫂歌」 を例に、朱子の叙景詩と詩跡との関係 を検討してみたい。まず、「九曲櫂歌30」を示しておこう。 旧宅・墳墓・寺院などを含む]で、単なる名勝古跡とは異なる、詩歌を主体とした概念」である。植木久行 「中国歴代の地理総誌にみる詩跡の著録とその展開」、参考文献24所収、また同氏「中国における詩跡の存 在とその概念―近年の研究史を踏まえて―」(『村山吉廣教授古稀記念 中国古典学論集』汲古書院、2000 年)、松尾幸忠「中国における『詩跡』形成についての試論―日本の『歌枕』との比較考察から―」(『日 本中国学会報』第51集、1999年)、寺尾剛「『詩跡』研究の意義について」(『中唐文学会報』第七号、 2000年)、拙稿「景観形成における詩跡の位相」(参考文献24所収)など参照。 30 「九曲櫂歌」の読み下し、現代語訳および注解は、植木久行教授のご教示に負うところが大きい。また、 本稿の表現、漢文原典の読み下し、および出典についても、植木教授による細心のチェック、教示を受け た。山田史生教授にも一部分の漢文読み下し文をみてもらった。なお、前出『書林と書苑』、『朱熹文学研 究』、『朱熹詩歌編年箋注』、『中国詩学通論』の関係論述をも参照した。 73 図2.武夷山九曲渓流図。福本 写真2.九曲渓流下りの情景。2010年9月、筆者撮影。 雅一『書林と詩苑 其四』 (藝文 書院、2004年)による。 「淳熙甲辰中春、精舎間居、戯作武夷櫂歌十首、呈諸同遊、相与一笑」 (九曲櫂歌) とう まず櫂歌は、船乗りの歌で、朱熹が民謡の調式に従い、淳煕十一年 (1184)二月仲 春の時、友人を伴って九曲渓流を遡上する船旅の中で詠まれた十首の七言絶句であ る。 一、武夷山上有仙霊 武夷山上 仙霊有り 山下寒流曲曲清 山下の寒流 曲曲清し こ こ 欲識箇中奇絶処 箇中の奇絶の処を織らんと欲すれば ふなうた 櫂歌閑聴両三声 櫂歌 閑に聴く 両三声 武夷山上には神仙がいて、 山下の一曲一曲に澄んだ冷たい流れ。 此の山の奇絶の処を知りたいのなら、 棹歌を二声三声のんびり聞けばよい。 これは、武夷九曲渓流全景描写の導入部である。 「武夷山上 仙霊有り」とは、『史 記』、『漢書』に記載される武夷山の仙人武夷君である。『史記』巻二十八、封禅書の 注(索隠)に、「顧氏案、『地理志』云建安有武夷山、渓有仙人葬処、即 『漢書』所謂武 74 夷君」とある。清の銭謙益「呉門送福清公還閩八首」其の七に「払衣帰揖武夷君、九 曲仙山帝許分」というのも、武夷山の仙人である武夷君を指している。詩の冒頭にい きなり武夷君が武夷山で郷人を招宴する伝説を書き入れ、詩の全体に一種の神秘的 な雰囲気を賦与するように工夫されている。 一曲 二、一曲渓辺上釣船 一曲の渓辺 釣船に上れば ひた 幔亭峰影蘸清川 幔亭の峰影 晴川に蘸る 虹橋一断無消息 虹橋 一たび断えて 消息無し ばんがく せんがん とざ 万壑千巌鎖翠煙 万壑 千巌 翠煙に鎖さる 一曲の渓谷ぞいで釣り舟にのれば、 幔亭峰の影が晴れた川に沈んでいる。 虹の橋がとだえてからは消息もなく、 いわ 数知れぬ谷や巌は翠のもやの中にとざされている。 幔亭峰は、大王峰の東にある(図2参照)。伝説中の武夷君がここに幔亭(幔幕で囲 んだ亭)を設け、郷人を招宴したという。虹橋云々とは、秦の始皇帝二年の八月十五 日、武夷君が峰頂に郷人を饗宴に招いたとき、空中に虹の橋を架けて二千余人を渡 したが、にわかに暴風雨がその橋を吹き飛ばしてしまった故事に因んだ表現であり、 武夷山の歴史の古さを強調している。ちなみに、起句の「渓辺」は「寒渓」にも作る。 二曲 三、二曲亭亭玉女峰 二曲 亭亭たる 玉女峰 た かたちづく 挿花臨水為誰容 花を挿し 水に臨みて 誰が為にか容 る 道人不作陽台夢 道人は作なさず 陽台の夢 みどりいくちょう 興入前山翠幾重 興は入る 前山の翠幾重に 二曲には亭々とそびえたつ玉女峰、 花を髪に飾り水に映して、誰のために化粧しているのか。 高徳の人は陽台の夢など見ず、 こころ 前方の山々の重れる翠に興がひかれる。 玉女峯は、海抜313メートルほどの岩山で、武夷山のシンボルともなる。伝説では、 昔、ある白衣の少女が峰の頂上で、仙人が植えた木の実を摘み取って食べた瞬間、 剣の舞に興じるようになり、上下左右に振るう剣の風によって削られた山がたちまち険 しい崖となって、遠くからみると、 あたかも楚々たる少女が立っているように見えることか 75 ら、名づけられたという。道人(高徳の人、有道の士)は、ここでは朱熹自身のことをいう。 また陽台夢は、楚の懐王が夢の中で巫山の神女に逢って契りを結んだ故事に因み、 男女交歓の夢をいう。朱熹は巫山の雲雨伝説を借りて、男女情愛のことをヒューモアに あふれた筆致で描いており、道学家の臭気が全く見られず、寧ろある種の自嘲ともとれ る遊び心が詩句の行間にただよっている。なお、「不作」はまた「不復」にも作る。 三曲 かがく 四、三曲君看架壑船 三曲 君は看る 架壑の船を かい とど いくばく 不知停櫂幾何年 知らず 櫂を停めて 幾何の年なるかを かく 桑田海水今如許 桑田 海水 今 許の如し みず 泡沫風灯敢自憐 泡沫 風灯 敢て自から憐む ごらん、あの三曲の断崖にかかる船を、 (その船が)棹をとめて、いったいどれほどたつのであろうか。 桑畑に海水が流れて、今やこのようになった。 水中の泡や風前の灯(のようなはかない命)を、自から悲しまねばなるまい。 たに か 三曲の小蔵峰はまた仙船岩ともいう。架壑船(壑に架かる船)は、 その東壁に縦横に ひつ ぎ 木板を差し込み、その上に置かれた船形の棺木のこと。朱熹は、それが中国西南の古 越人の風習としての懸棺葬であることを最初に突き止めている。桑田海水は、東晋の 葛洪撰『神仙伝』巻三、王遠の条にみえる、女仙麻姑が、東海が三たび桑田に変ずるの を見た故事であり、泡沫風灯は、仏教典故に由来する語であり、 ともに流転の世相、 人生のはかなさをいう。 『金剛経』応化非真分に「一切有為法、如幻夢泡影」とあり、 『座禅三昧経』巻上に「比如風中灯、不知滅時節」とある。 四曲 五、四曲東西両石巌 四曲 東西 両石巌 巌花垂露碧 みどりらんさん 巌花 露を垂れて 碧 きん けい や 金𨿸叫罷無人見 金𨿸 叫び罷んで 人の見る無く たん 月満空山水満潭 月は空山に満ち 水は潭に満つ 四曲は東西二つの岩の峰にはさまれ、 いわ ま 岩間の花が露をおとし、草木の碧が垂れて乱れる。 金𨿸は鳴きやんだが、見る人もなく、 ふち 月光は人けのない山にあふれ、水は深い潭にあふれる。 両石巌は、四曲東岸にある大蔵峰と対岸の仙釣台をさす。 76 は散乱して垂れるさ まを表す畳韻の語、 ここでは、草木が乱れなびくさまをいう。金𨿸は、四曲にある金𨿸洞 を指す。伝説では、そこに棲む金𨿸が啼くという。 五曲 六、五曲山高雲気深 五曲 山高くして 雲気深く 長時煙雨暗平林 長時の煙雨 平林暗し 林間有客無人識 林間に客有るも 人の識る無く あいだい 欸乃声中万古心 欸乃たる声中 万古の心 五曲のあたり、山が高くて、雲も濃く深く、 長くつづく霧雨に、平林は暗い。 林の中に人がいても誰も気づかず、 櫓をこぐ音がひびくなか、心は永遠とかよいあう。 平林は、五曲にある平林渡と朱子祠のあたりを指す。欸乃は擬音語、舟をこぐ櫓の きしる音、舟をこぐ時のかけ声、転じて舟歌をもいう。唐の元結「欸乃曲」 ( 「系楽府十二 首」の一)の題下自注に「棹舡之声」とある。また唐の柳宗元「漁翁」に「煙銷日出不見 人、欸乃一声山水緑」、清の黄遵憲「夜宿潮州城下」に「櫓声催欸乃、既有暁行船」と 見える。なお、舟歌の意味に転じた例として、南宋の陸游 「南定楼遇急雨」に「人語朱 離逢峒 、棹歌欸乃下呉舟」 とある。ちなみに、結句は、「茅屋蒼苔魏闕心」 (茅屋 ぎけつ 蒼苔 魏闕の心)にも作る。 六曲 そうへい めぐ 七、六曲蒼屏繞碧灣 六曲 蒼屏 碧湾を繞り ぼう し おお 茆茨終日掩柴関 茆茨 終日 柴関を掩う かい 客来倚櫂巌花落 客来りて 櫂に倚れば 巌花落ち 猿鳥不驚春意閑 猿鳥 驚かず 春意閑なり あお 六曲の蒼い屏風岩は碧の入り江をめぐり、 茅ぶきの家は終日柴の戸を閉じている。 棹さして人が訪れ、岩の花は散り落ちる、 猿も鳥も驚かず、春のけはいはのどか。 かや 蒼屏は、六曲にある蒼屏峰のこと、屏風のように聳え立つ。茆は茅、茨は茅で屋根 をふくこと。茅屋をいう。なお、承句の「終日」は「鎮日」、結句の末字「閑」は「還」 にも作る。 77 七曲 へきたん 八、七曲移舟上碧灘 七曲 舟を移して 碧灘を上り 隱屏仙掌更回看 隠屏 仙掌 更に回看す かけい 人言此處無佳景 人は言う 此の処 佳景無く、 くうすい 只有石堂空翠寒 只だ石堂 空翠の寒き有るのみと 七曲に舟を移して碧の早瀬をさかのぼり、 隠屏峰や仙掌峰を、再びふり返る。 人はいう、ここには美しい景色はなく たださむざむとした山の澄明な緑につつまれて、石の堂屋があるだけだと。 隱屏は峰の名、大隱屏とも称し、五曲にある。朱熹が創った武夷精舎はその麓にあ った。仙掌は、仙掌峰(巌)のこと、六曲にある。後半の二句は、「却憐昨夜峰頭雨、添 得飛泉幾道寒(却って憐む 昨夜 峰頭の雨、添え得たり 飛泉 幾道の寒きを)」にも 作る。 八曲 九、八曲風煙勢欲開 八曲 風煙 勢い開かんと欲し えいかい 鼓楼巌下水瀠洄 鼓楼巌下 水瀠洄す 莫言此処無佳景 言う莫かれ 此の処 佳景無しと おのず のぼ きた 自是遊人不上来 自から是れ 遊人 上り来らず もや 八曲では風と煙は晴れそうな勢い、 鼓楼巌の下を、水がめぐり流れる。 この地には美しい景色はないと言ってはならない、 もともと遊覧の人が上ってこないのだ。 鼓楼巌は、八曲にある。 九曲 まさ かつぜん 十、九曲将窮眼豁然 九曲 将に窮まらんとして 眼は豁然 桑麻雨露見平川 桑麻 雨露 平川に見る もと 漁郎更覓桃源路 漁郎 更に覓む 桃源の路 じんかん 除是人間別有天 是の人間を除きて 別に天有り 九曲が尽きようとすると、眼前がぱっと開け、 雨露にうるおう桑と麻が平地に見える。 漁夫は更に桃源への路をさがし求める、 この世間のほかに別に天地があろうと。 78 豁然は、明るくさっと開けるさまは、転じて迷妄または疑惑がにわかに解けるさまを いう。桃源は、陶淵明の「桃花源記」に描かれた理想郷のこと。ここでは、道に迷った 漁夫が行き着いたところをいう。人間は世の中、俗世間の意。ちなみに、結句の「除是 人間別有天」は道学反対の勢力から、朱熹が現朝廷を無視して、新たな朝廷作りを企 てていると中傷され、最晩年における彼の一連の不遇の発端となったのは、まさに歴 史の皮肉としか言いようがないのである。 この「九曲櫂歌」は、忽ち人口に膾炙し、淳煕十五年(1188)、九曲渓畔の各曲の 崖のうえに刻まれ、八百年の歳月をへて、今日もなお旅人の目と心とを楽しませて いる。「九曲櫂歌」は、理屈っぽさ、議論好きという宋詩の特徴が全くみえず、自然の 絶景による純真な情趣が平易かつ精錬された詩句によってみごとに再現されている。 それは、恰も一幅のパノラマ写真のように、神話伝説から実景描写に到るまで、武夷 山九曲渓畔の山光水色を描ききっている。かくして名詩と場所という、叙景詩の詩跡化 を見事に実現させ、南宋の方岳、明の劉偉・張時敏・黄仲昭・鄭善夫・馬豹蔚・江以達、 清の倀坦・来謙鳴・僧明欽・王復礼・董天工らの「九曲櫂歌」次韻詩を生んだのである。 五、結びに代えて 中国思想文化の宝庫のひとつである武夷山は、見事な自然景観と豊富な人文遺産 のおかげで、1999年12月、ユネスコ世界遺産委員会から「世界自然遺産と文化遺 産」として正式登録された。これは、武夷山が孕んだとでもいうべき世界的文化巨人朱 熹とその学問思想の存在に負うところが非常に大きい。 朱子と武夷山とその周辺地域との関係の究明は、朱子の武夷山を詠む詩と詩跡化 との問題の解明だけでなく、彼の理学思想の理解にとっても欠かせない作業である。 すでに触れたように、本稿の狙いは、主として朱熹の武夷山を詠む詩を手掛かりに、 それらの詩跡化の問題を解明することにあり、朱熹の生い立ちや詩の解釈に関しては、 多くの先行研究を踏まえて叙述し、筆者独自の読みや解釈は多くない。今後の課題と して、宋代理学の興起と宋代詩風の改変との関係を究明する一方法として、朱熹の武 夷山を詠む詩を中心に、必要に応じて他の詩作―例えば清の乾隆十六年(1751)に なる董天工『武夷山志』に収める武夷山の詩―をも俎上に載せて、より正確な読解を 通して詩跡化の問題を多角に究明したいと思う。 79 附録 朱熹武夷山関係詩數首 1、題武夷卜居 一首 卜居屏山下 俯仰三十秋 終愁村墟近 未愜心期幽 近聞武夷西 深谷開平畴 茆茨十数家 清川通行舟 風俗頗淳朴 曠古非難求 誓捐三逕資 徃遂一壑謀 伐木南山邊 結廬北山頭 耕田東渓岸 濯足西渓流 客來聊共懽 客去仍孤遊 静有山水楽 而無身世憂 著書俟來哲 補過希前修 茲焉畢暮景 何必営莬裘 2、武夷泛舟得瑤字 相期拾瑤草為韻一首 秋聲入庭戸 残暑不復驕 起趂汗漫期 両袂天風飄 眷言此家山 名號列九霄 相與一来集 曠然心朗寥 棲息共雲屋 追尋喚漁船 一水屢縈回 千峯鬱岧峣 蒼然大隱屏 林端聳孤標 下有雲一壑 僊人久相招 授我黄素書 贈我英瓊瑤 茅茨幾時見 自此遣紛囂 3、武夷書堂十二詠 1)精舎 琴書四十年 歳作三中客 一日茅棟成 居然我泉石 2)仁智堂 我慙仁智心 偶自愛山水 蒼崖無古今 碧澗日千里 3)隱求齋 晨窻林影開 夜枕山泉響 隱去復何求 無言道心長 4)觀善齋 諸友所居取相觀而善之義 負笈何方來 今朝同此席 日用無餘功 相看倶努力 5)寒栖館 道流所居取眞 寒栖道人之語 竹間彼何人 抱甕靡遺力 遥夜更不眠 焚香坐看壁 6)晩對亭 靣直大隱屏取杜詩翠屏宜晩對 倚筇前山顛 郤立有晩對 蒼峭倚寒空 落日明彩翠 7)鐡笛亭 何人轟鐡笛 噴薄両崖開 聲斷留餘響 猶疑笙鶴來 8)釣磯 削成蒼石稜 倒影寒潭碧 永日静垂竿 茲心竟誰識 9)茶竈 水心巨石上有自然石鼎四靣水極深 仙翁遺石竈 宛在水中泱 飯罷方舟去 茶煙裊細香 10)漁艇 出載長煙重 歸装片月軽 千巖猿鶴友 愁絶棹歌聲 11)止宿寮 改觀善齋為之 故人肯相尋 共寄一茅宇 山水為留行 無労具鶏黍 12)石門 朝開雲氣擁 暮掩薜蘿深 自咲晨門者 那知孔氏心 4、武夷分題七詠 1)天柱峰 屹然天一柱 雄鎮斡維東 只説乾坤大 誰知立極功 2)洞天 絶壁上千尋 隱約巌栖処 笙鶴去不還 人間自今古 3)畫鶴 誰寫青田質 高超鷹鶩羣 長疑風月夜 清唳九霄聞 4)仰高堂 靣勢来空翠 哦詩獨好仁 懐人今已矣 誰遣棟梁新 80 5)趨真亭 危亭久已傾 只有頽基在 何事徃来人 不知容鬢改 6)大小蔵厳 蔵室岌相望 塵編何莽鹵 欲問伯陽翁 風煙迷処所 7)丹竈 僊人推卦節 煉火守金丹 一上煙霄路 千年亦不還 5、遊武夷書堂 蓬莱清淺今幾年 武夷突兀還蒼然 但忻丹籍有期運 不悟翠壁無寅縁 鼎中龍虎應浪語 紙上爻 非真傳 明朝猿叫三峡路 一葉徑上滄浪船 6、和少傳陳公題武夷韻 一首 野性知公適俗踈 山中活計不應無 故怜絶壑開茆宇 便遣名章作畫圖 裴令物情非緑野 魯狂心事只風雩 蒲輪過日須迎侯 恰有流霞酒一壺 7、行視武夷精舎作 神山九折渓、沿泝此中半。水深波浪闊、浮緑春渙渙。 上有蒼石屏、百仞聳雄觀。嶄巖路垠 、突兀倚霄漢。 淺麓下縈迴、深林久叢灌。胡然閟千載、逮此開一旦? 我乗新村船、輟棹青草岸。榛莽喜誅鉏、面勢窮考按。 居然一環堵、妙處豈輪奐。左右矗奇峰、躊躇極佳玩。 是時芳節闌、紅緑紛有爛。好鳥時一鳴、王孫遠相喚。 暫遊意已愜、獨往身猶絆。珍重舎瑟人、重來足幽伴。 8、宿武夷觀妙堂二首 陰靄除已盡、山深夜還冷。獨臥一齋空、不眠思耿耿。 閑來生道心、妄遣慕真境。稽首仰高靈、塵縁誓當屏。 清晨叩高殿、緩歩遶虚廊。齋心啓真祕、焚香散十方。 出門戀仙境、仰首雲峰蒼。躊躇野水際、頓将塵慮忘。 9、次韻傳丈武夷道中五絶句 地久天長歳不留、坐來念念失蔵舟。回看萬法皆児戯、還直先生一笑不? 分符擁節幾経年、聞道方成屋數椽。只恐未容高枕臥、却須持槖聴鳴鞭。 勳業今従鏡裏休、篋中空有敝貂裘。死灰那復飛揚意?恵許深慚不易酬。 常記桐城十載前、幾回風雨對床眠。他年空憶今年事、却説黄亭共惘然。 諸郎歩武各駸駸、季子尤憐産萬金。衣鉢相傳自端的、老生無用與安心。 81 参考文献 1.岡田武彦解題、佐藤仁索引『校点朱子大全』上下、書光学術資料社。 2.王雲五主編『晦庵先生文集』 (1-6、7-13)、四部叢刊三編、台湾商務印書館。 3. 『四書章句集注』新編諸子集成(第一輯)、中華書局、1983年。 4.黎靖徳編、王星賢点校『朱子語類』 (1-8冊)、中華書局、1994年。 5.王懋竑撰、何忠禮点校『朱子年譜』年譜叢刊、中華書局、1998年。 6.莫礪峰『朱熹文学研究』、南京大学出版社、2000年。 7.張立文『朱熹思想研究』、中国社会科学出版社、1994年。 8.金春峰『朱熹哲学思想』、東大図書公司、中華民国八十七年。 9.陳 来『朱熹哲学研究』、中国社会科学出版社、1987年。 10.武夷山朱熹研究中心編『朱熹与中国文化』、学林出版社、1989年。 11.余英時『朱熹的歴史世界』上下、北京三聯書店、2004年。 12.銭 穆『朱子新学案』、『銭賓四先生全集』11-15冊、台湾聯経出版、 13.荒木見悟責任編集『朱子 王陽明』世界の名著、中央公論社、1978年。 14.束 景南『朱熹研究』、人民出版社、2008年。 15.同 『朱熹年譜長編』上、下巻、華東師範大学出版社、2001年。 16.宋元文学研究会編『朱子絶句全譯注』1-4冊、汲古書院、平成三年~平成二十年。 17.郭斎箋注『朱熹詩詞編年箋注』 (上、下)、巴蜀書社、2000年。 18.山田慶児『朱子の自然学』、岩波書店、1978年。 19.郭 紹虞『宋詩話考』、中華書局、1979年。 20.郭 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