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変遷する逸話︱小紫権八並びに幡随院長兵衛︱

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変遷する逸話︱小紫権八並びに幡随院長兵衛︱
︻研究ノート︼
変遷する逸話︱小紫権八並びに幡随院長兵衛︱
︱ KOMURASAKI, GONPACHI and BANZUI
︱
Transition of Anecdote
青楼
及川季江
OYOKAWA Tokie
要旨
安永五年︵一七七六︶に吉原から刊行された読本﹃ 奇事烟花清談﹄︵作者は葦原駿守中、板元は蔦屋重三郎︶の第二巻第五話﹁三浦や
小紫貞操之事 付リ平井氏悪逆 并比翼塚及八重梅之事﹂は、小紫権八と幡随院長兵衛の逸話をもとにしたと思われる話である。本論は、この話
を取上げ、小紫権八と幡随院長兵衛の逸話が流布し変遷していく中で、板本である﹃烟花清談﹄で語られる逸話がどの位置に属するのか、
他の逸話とどのような関係にあるのかを明らかにしようとするものである。
原の京町一丁目三浦屋に小紫という遊女がいた。平井氏という男が
人を討ち、中国筋の国を立ち退いて江戸へ逃げ下ってくる。この平
の写本を典拠としている話がいくつかある。本論では、その一つで
安永五年︵一七七六︶に吉原から刊行された読本﹃ 奇事烟花清談﹄
︵以下﹃烟花清談﹄︶には、講釈師馬場文耕の実録や考証随筆など
う。幡随院長兵衛が平井の遺骸を目黒の寺に葬ると、初七日に小紫
切り殺し、三百両盗むが終には捕えられ、鈴ヶ森で処刑されてしま
が、平井が金につまり、強盗をするようになる。ある日、絹売りを
一、はじめに
あると考えられる﹃烟花清談﹄第二巻第五話﹁三浦や小紫貞操之事
がやってきて、随川和尚に香と金子を差し出し、平井の墓の前で自
井という男は美少年であり、幡随院長兵衛という男と因み弟分とな
平井氏悪逆 并比翼塚及八重梅之事﹂を取り上げ、小紫権八と幡随
害する。長兵衛は二人を一つ所に葬り、比翼塚と名付ける。其頃流
この話は小紫の貞淑さを主題に置いた創作と捉えるには話が入り
り、仲間と吉原を訪れた際、小紫を見初める。二人は馴染みになる
院長兵衛の逸話が流布し変遷していく中で、﹃烟花清談﹄で語られ
行した八重梅という唄は平井と小紫が唄いだしたものである、とい
青楼
る逸話がどの位置に属するのか、他の逸話とどのような関係にある
う話である。
付リ
のかを明らかにしたい。
﹃ 烟 花 清 談 ﹄ 第 二 巻 第 五 話 の 梗 概 は 以 下 の よ う に な っ て い る。 吉
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人文社会科学研究 第 23 号
で 明 ら か に さ れ て い な い と い う こ と、 出 身 地 が は っ き り せ ず 人 を
を以て塗たり此碑などはいかにもふるく苔むしたるをこそ称美
小紫白井権八が事蹟は写本石井明道志に出たり
寛政の末の頃三馬二三子と共に目黒なる梵論寺に至りて比翼
塚を見たりしに墳碑に比翼塚と鐫ありしをあらたに磨きて銅箔
組んでおり、不自然な点が多くみられる。物語を構成する主要な人
討った理由も述べられていないこと、美少年であり幡随院長兵衛と
もすれ磨きたるはいかにぞや当住の心裡あまりに無雅にて歎は
物の一人であるにもかかわらず﹁平井氏﹂という男の名前が最後ま
ちなむ必要があるのかということ、平井が最後に殺したのが﹁絹売
し今はいかゞなりしや知らず ︵2︶
となった人物であり、鳥取藩士で、本庄助太夫を殺して江戸に逐電、
の項によると、平井権八は歌舞伎などに登場する白井権八のモデル
権八﹂であると書かれている。﹃日本国語大辞典﹄第二版﹁平井権八﹂
﹃北 女 閭 起 原﹄ で は 幡 随 院 長 兵 衛 は 登 場 せ ず 平 井 と 小 紫 の こ と の
み記されているが、内容は﹃烟花清談﹄と一致する。平井は﹁平井
り﹂であるということが特筆すべきことであるのかということ、平
井の名前が明かされないのにもかかわらず葬られた寺や住職を随川
和尚と具体的に記す必要があるのかということなどである。
小紫と平井という男についての逸話が、天明の頃﹃洞房語園﹄を
増補したといわれる﹃北女閭起原﹄という書にもみられる。
遊女とて操の正しきあり後年三浦や四郎左衛門が抱に濃紫と
は何気なき風情に苦界してある豪夫に親しみ終に請出されぬ濃
其遺骸を目黒の里に葬りて一堆の主と成しぬしかせし後、濃紫
る。
﹁小紫﹂の項をひいてみると、明暦︵一六五五∼一六五七︶頃
の項には、幡随院長兵衛との交流があったという記事が加わってい
れていないので、
何に拠った記事であるかはわからない。﹁白井権八﹂
遊女小紫と深い仲になって、小紫のもとに通うため悪事を重ね、延
紫はその請出されし夜にそこなる宿を抜け出目黒へ行き権八が
の江戸吉原三浦屋の遊女であり、強盗を働いて刑死した情夫白井権
宝七年︵一六七九︶に処刑されたということである。出典はあげら
墓前にて自殺したり自殺の後所にて其趣意を知れる者不便がり
八のあとを追って自殺したということが書かれており、出典には安
︶
云 へ る 遊 女 三 代 有 り、 二 代 目 の 濃 む ら さ き 賊 平 井 権 八 ︵1に
逢
て、権八が墳に双て葬りたり是を目黒の比翼塚とて世に能く知
永八年︵一七七九︶七月、江戸豊竹肥前座上演の浄瑠璃﹁驪山比翼
馴しか権八悪事露顕有りて被召捕御仕置に被仰付しが由緒の者
る所なり賊とは知れど連理の誓をうしなはず死を以て報ず遊女
塚﹂と、文化十三年︵一八一六︶正月、江戸中村座上演の浄瑠璃﹁其
どこまでが史実でどこからが創作なのかということは定かではな
院長兵衛との交流があったか、そもそも小紫は実在したのかなど、
平井権八は実在していたようであるが、本当に本庄助太夫なるも
のを殺したのか、強盗を働いたのは小紫のためであったのか、幡随
小唄夢廓﹂が挙げられている。
の貞操このかぎりにはあらねども因に爰に記
八重梅
我は野に咲つゝじの花よ折てみたれちらぬ間に我は野にすむ
蛍の虫よ土手の松明火ともす逢た見たさは飛たつばかり籠の鳥
かやうらめしき
平井権八と小紫事をその頃此歌をうたふ号て八重梅の唄と云
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変遷する逸話(及川)
らかにされていないのは、平井権八にまつわる実際に起った事件を
い。しかし、これらのことから﹃烟花清談﹄で﹁平井﹂の名前が明
たとは考えられない。
える。しかし、
﹁平 井 権 八 物﹂ が 最 初 か ら こ の よ う な か た ち で あ っ
また、平井権八についての早い資料に﹃玉滴隠見﹄︵写本。元禄
以前の成立とされる︶巻第三十三がある。
とあり、疑う見方もある。
中に所縁の人あるよしなり ︵4︶
平井権八と申者、世間に申は妄説なり。本家鳥取の家中にさ
やうの者なし。しかし人は慥にありたる事か。水野出羽候の家
題材にした実録がもととなっていることが理由だと考えられ、その 平井権八に関する資料がいくつかある。
他の逸話にも何らかの典拠があるということが考えられるのである。 平 井 権 八 が 鳥 取 藩 の 藩 士 で あ っ た か と い う こ と に つ い て は 随 筆
﹃百草﹄︵3︶巻六に、
二、平井権八物
﹃烟 花 清 談﹄ は 吉 原 を 舞 台 に 遊 女 を 扱 っ た も の で あ る た め か 省 略
が著しく、小紫に焦点が当てられているが、
﹁平 井﹂ と い う 男 は 実
在した盗賊﹁平井権八﹂のことであり、いわゆる﹁平井権八物﹂と
呼ばれ、実録のみならず、歌舞伎、浄瑠璃、黄表紙、読本などの様々
延宝七年十一月六日ニ内藤加兵衛ト窪寺小左衛門右両人ヘ銀子
をうける。本庄助七・助八兄弟を返討にし、吉原の遊女小紫に
鳥取藩の美男の若衆平井権八郎は、飼犬の喧嘩から本庄助太
夫を討ち遁走。悪事で旅金を得て、江戸の幡随院長兵衛に庇護
﹃日本古典文学大辞典﹄の中村幸彦氏による﹁平井権八物﹂の説
明は左記の通りである。
義ハ其難所ヲモ凌キヌケテ若狭ノ小濱ニ所縁ノ者ノ有ケルヲ尋
ナラスシテ十方ニクレテ在シ所ヲ其辺ノ在所ノ者召捕之権八郎
ヘカゝリ立退申候ニ付道ニ踏迷ヒ沼ニハマリ一足モ引取ルコト
宮ト云所ノ頭ニシテ江戸ヨリ上方ニ罷登ル小刀売ヲ白昼ニ切殺
なジャンルで取上げられた題材である。
馴染む。そのため、辻斬りや絹商人を殺して金を奪う。一旦武
テ罷リタル由其時聞ヘ有シ故則後内藤ト窪寺ヲ被遣候之処ニ召
十枚充被下之其子細ハ去ル比平井権八ト云徒モノ木曽街道ノ大
家奉公をしたがそのため浪々。目黒の虚無僧寺に入って、追わ
捕小濱ヨリ長途ノ旅ヲ異事ナク召列参候ニ付テ為御褒義右ノ白
れる身で諸国流浪。大坂で自首し、また逃走し、末に江戸で八
銀被下之
節権八郎装束等成誥構ニシテ下ニハ白羽二重両面ノヲ着シタリ
コトハ其随一ノ頭故数日御詮議有テ後ニ只川ニ於テ被掛磔畢其
ノ町ヤツコノ博奕打共ト云シ彼等ニ人ハ其砌罪ニ被仰付権八郎
右権八郎義ハ井上左兵衛殿家来トナリ相共ナフ両輩ハ江戸ニテ
シ金子三百両余奪取テ逐電ス此時同類ニ人アリ其等類共ハ脇道
重梅なる小唄をうたいながら処刑。貞享元年︵一六八四︶九月
二十七日であった。小紫は跡を追って自害、比翼塚にまつられ
る。
これがおそらく﹁平井権八物﹂の逸話の全ての要素が入ったもの
であろう。これらの要素が﹃烟花清談﹄には全て含まれているとい
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人文社会科学研究 第 23 号
扨カレカ死骸ヲ二三日有テ何者ヤラン盗之トリタリト云云 ︵5︶
権八が﹁絹売り﹂ではなく﹁小刀売り﹂を殺して三百両盗み逃亡
するが捕まり、磔になった次第が書かれている。権八の死骸が、磔
の二三日後に何者かによって盗まれたことが記されている。
にこの﹃玉滴隠見﹄
︵6︶
なお、明和八年︵一七七一︶﹃禁書目録﹄
の名が見られる。
﹃兎園小説余禄﹄
権八の刑書については、﹃一話一言﹄﹃甲子夜話﹄
に写されている。
○
﹃一話一言﹄巻二十六
﹁南氏令府簿書﹂
一
平井権八年不知、此者武州於大宮原小刀売を切殺し金銀取
候者、於品川磔
札文言
此者追はぎの本人、其上宿次之証文たばかり取、剰手鎖を
はづし欠落仕に付て如此行ふもの也
︵7︶
十一月
○
﹃甲子夜話﹄巻八十九
延宝七未年十一月三日
平井権八
此もの儀、武州大宮原におゐて小刀売を切殺、金銀奪取、其
上追 二剥之 一、本人 并宿次之證文たばかり取、剰手鎖を外し、欠
落致候段、重々不届至極に付、於 二品川 一磔申 付
之 一。
二
延宝七年十一月三日行、
︹割註︺年不 レ知。
﹂是は無宿浪人、
一、平井権八、
一 小刀売を切殺、金銀取候者、品川
此もの儀、武州於 二大宮原 、
において磔、
札文言
此者、追剥の本人、其上、宿次の証文たばかり取、剰手鎖を外
︵9︶
し欠落仕候に付、如 レ
此におこのふもの也。
十一月
ほぼ同文であり、いずれも権八が﹁絹売り﹂ではなく、﹁小刀売り﹂
を切り殺して金を奪い、
磔にあったことが書かれている。﹃甲子夜話﹄
の刑書の前には著者の見解が述べられている。
世俗に伝ふ。白井権八とて美少年の手利者あり。人を害し、
且濃紫と云游女眷恋の状、又権八刑せられし後その妓貞節のこ
と、都下晋く識らざるはなし。所謂豊後謡等の淫辞に妄作せし
より起れり。亦町奉行所記録の文を視て、始てその実を知る。
又世の妄説流布せしをも観つべし
小紫との話は創作であるとしているのである。確かに奉行所の記
録を見ると、権八が強盗を働いて磔になったことのみが書かれてい
るため、小紫との情話や、幡随院長兵衛は登場しない。そもそも、
﹃武江年表﹄によると、慶安三年︵一六五〇︶四月十三日に幡随院
長兵衛が死んだという記事があることから、権八が処刑された延宝
八と幡随院長兵衛との交流、特に権八の遺体を引き取ったというこ
七年︵一六七九︶より三十年も前にこの世になかったので、平井権
延 宝 七 年 は 厳 廟 の 御 世 に て 、 今 に 逮 て 百 四 十 八 年 ︹ 文 政 丙
戌︺。︵8︶
いたかどうか怪しいということはすでに指摘される通りである。こ
とについては、時代が明らかに合わず、幡随院長兵衛自体存在して
○
﹃兎園小説余録﹄
平井権八刑書写
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変遷する逸話(及川)
のことから、小紫と幡随院長兵衛についてはあとから付け加えられ
た逸話であるということになる。
では、平井権八以外のことが創作であるならば、それらはいつぐ
らいからどのようにして創られていったのであろうか。
﹁平 井 権 八
物﹂の変遷をたどってみる。
﹁平井権八物﹂で文献で残っているものでは、享保・宝暦頃成立
︶
の両説 ︵ が
あるものの、かなり古いものとして﹃関東血気物語﹄︵ ︶
11
がある。作者未詳で写本で伝わり、承応・明暦頃から元禄初年にか
けて江戸で出現した旗本奴・男伊達と称される人々と、その行為を
述べた書である。この巻之十﹁平井権八が事﹂に、絹売り殺しの原
話ともとれる話がある。権八が、小刀売りが絹の仕入れに行くといっ
細見﹄
︵大正十五年
第一書房︶によると、﹃極附幡随長兵衛﹄が初
めて幡随院長兵衛が小紫権八から独立して脚色された作品であると
いう。つまり、それまでは、小紫権八の逸話と幡随院長兵衛の逸話
は常に共に語られていたのである。
幡随院長兵衛の歌舞伎初出は、延享元年︵一七四四︶春、江戸中
村座の﹁礫末広源氏﹂の二番目であるが、小紫権八がからむのは、
安永八年︵一七七九︶正月、江戸森田座﹁江戸名所縁曽我﹂が最初
で あ り、 そ の 趣 向 を 取 り 入 れ た の が 浄 瑠 璃﹁ 驪 山 比 翼 塚 ﹂ で あ
︶
る︵ 。
歌舞伎や浄瑠璃の世界で、小紫権八と幡随院長兵衛が組み合わさ
れるのは、
﹃烟花清談﹄よりも後ということになる。
小二田誠二氏は﹁実際のところ、長兵衛についての小説類は、以
外に少なく、殆んどは〝権八小紫物〟に付いている。〝権八小紫物〟
て百両を持っているところを仲間と待ち伏せて襲うという所であ
る。﹃玉滴隠見﹄や刑書には﹁小刀売り﹂とあるのに、
﹃烟花清談﹄
には、およそ近世文芸の全てのジャンルに及ぶと思われる大量の作
︶
品が存在したのと対照的である﹂︵ と
述べる。
では﹁絹売り﹂となっているのは、﹁絹を仕入れに行った小刀売り﹂
が語られるうちに﹁絹売り﹂となったとすれば、それほど大きな変
化とはいえず、不自然ではない。しかし、ここに幡随院長兵衛と小
紫は登場しない。
幡随院長兵衛については、同じく﹃関東血気物語﹄の巻之一﹁水
野十郎左衛門殿の事﹂に記事が見られ、水野十郎左衛門と争い、水
では、文献の上で、小紫権八と幡随院長兵衛が組み合わされるの
はいつぐらいなのであろうか。
三、小紫権八と幡随院長兵衛
︵ ︶
﹃久夢日記﹄という資料がある。写本で伝わり 、編者、成立期
未詳である。翻刻が収められる﹃近世風俗見聞集﹄第一巻︵大正元
ざれど、文中文化三寅年云々とあれば、当時の編なるや明かなり﹂
年
﹁延 宝 年 間 よ り 貞 享 年 間 に 至 る 三 都
国書刊行会︶の解題には、
の巷談を、後人古書を渉猟し編纂せしものにして、遍者未だ詳なら
14
野邸に招かれ、切り殺されるという話がのる。幡随院長兵衛単独の
逸話としてはこれが有名で、明治十四年︵一八八一︶春木座で﹃極
附幡随長兵衛﹄が上演され、長兵衛が水野邸の湯殿で突き殺された
ことから、通称﹁湯殿の長兵衛﹂とよばれる。
平井権八と幡随院長兵衛の時代が合わないということについては
先に述べた通りであるが、それにも関わらず、飯塚友一郎﹃歌舞伎
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人文社会科学研究 第 23 号
とあることから、文化三年︵一八〇六︶頃の成立かと思われる。
この資料には、幡随院長兵衛の記事と小紫権八の話が並べて載せ
られている。
水野十郎左衛門、大小神祇組、幡随院長兵衛に遺恨ありて、
○
たばかりころしぬ、長兵衛子分ども、十郎左衛門殿を吉原の土
ねども因に爰に記す、
このころもつばらうとふ、
平井権八と濃紫が事を歌に作りて、
号は八重梅、
八重梅
我は野に咲つゝじの花よ、とられちらぬ間に、我は野にすむ
蛍の虫よ、土手の松明火ともす、逢た見たさは飛たつばかり、
小紫権八の話は明らかに﹃北女閭起原﹄を書写したと思われる。
幡隋院長兵衛と小紫権八の話はあくまでも独立している。これが小
手にてさいなまれ、屋敷帰り御しおきになりぬ、
○幡随院長兵衛︵下谷幡随院境内に住す︶
六法組、よき男なり、花房大膳殿もの、浪人してみじかきあ
い口に大刀さし、名高き男達なり、寛文五 已巳年より十八年の
夢日記﹄の成立年が文化三年︵一八〇六︶年であったとしても、こ
︶
間男達をし、一度もひけをとらざるところ、水野十郎
左衛門
いこんあるゆへよびよせ、いろくちそういたし、大酒いださせ
の記事がいつ書かれたのかは不明であるので、何ともいえない。
紫権八と幡随院長兵衛が組み合わされた嚆矢とはいえないし、
﹃久
籠の鳥かやうらめしき、さんざよしなきおもひ ︵
こゝろをゆるさせ、大勢にて切ころしぬ、時に天和二 壬戌年の
して、ある豪夫に親しみ、ついに請出されぬ、濃紫はその請出
の主となしぬ、しかせし後こむらさきは、何気なき風情に苦界
のその遺骸を、目黒の里こもそう寺昌東寺にほうむりて、一堆
てめしとられ、品川におゐて御仕置に仰付られしが、由緒のも
のこむらさき、賊平井権八にあいなれしが、権八悪事露顕あり
丁
巳 年、 遊 女 と て 操 の 正 し き 誣 べ か ら ず、 爰 に 新 吉 原
○
延宝五
三浦屋四郎左衛門がかゝゑに、濃紫といへる三代あり、二代目
井権八の咄が挿話として入っている。そこだけがことに講釈師調に
︶
らつけ加えられたものではないかとしている ︵ 。
中村幸彦氏は、
﹁平
しそれも、前後とのつながりから見て不自然な点があるため、後か
八一代記が最も早く見られる﹁平井権八もの﹂だと指摘する。しか
写 本 で 伝 わ る。 小 二 田 氏 は、 そ の 中 の 挿 話 と し て 出 て く る 平 井 権
敵討の実録である。宝暦︵一七五一∼一七七五︶頃の成立とされ、
は、
﹃石井明道士﹄のことであり、望月高信による石井兄弟亀山の
ことなり、長兵衛三十六歳にて、水野がために横死す、
されし夜に、そこなる宿をぬけ出目黒へ行、権八が墓前にて自
︶
なっていて、後に加えたことがよくわかる﹂︵ と
述べている。
ここで冒頭に挙げた﹃北女閭起原﹄に戻ってみる。﹁小紫白井権
八が事蹟は写本石井明道志に出たり﹂
と書かれている。﹁石井明道志﹂
殺したり、自殺の後ところにて、その意趣をしれるものふびん
て、世によくしるところなり、賊とはしれど、連理の誓ひをう
道士﹄の挿話から独立した﹁平井権八一代物語﹂等が出、幕末に﹁平
中村幸彦氏によると、﹃近世実録全書﹄第十巻︵昭和三年
早稲
田大学出版部︶にも収められる﹁幡随院長兵衛一代記﹂は﹃石井明
66
15
しなわず、死をもつて報ず、遊女の貞操、このかぎりにはあら
がりて、権八が墳に双てほうむりたり、これを目黒の比翼塚と
16
17
変遷する逸話(及川)
井権八一代記﹂等の増補作が現れ、これが、そのまま取り入れられ
たと言う。
﹃石井明道士﹄に現れた﹁権八一代記﹂の要素を七
小二田氏は、
つに整理している。
︶ 本庄兄弟の敵討
︵一 ︵二︶ 幡随院長兵衛との因
︶ 小紫との情話
︵三 ︶ 絹売弥市殺し
︵四 ︶ 官権による逮捕・処罰
︵五 ︶ 随仙和尚の援助
︵六 ︶ 辻斬り・強盗などの犯罪行為
︵七 四、おわりに
﹃烟花清談﹄には、小二田氏のまとめた﹁権八一代記﹂の要素が
すべて含まれている。しかも、
﹃烟花清談﹄は、吉原を舞台にする
ことが前提となっているためか、小紫に重点が置かれており、権八
の遍歴譚的な一代記にはなっておらず、幡隋院長兵衛・随川和尚・
絹売り殺しを自然に取り入れている。﹃烟花清談﹄がこれらの話を
︶
創作したとはいえないであろう ︵ が
、典拠となった資料が現時点
で発見されていないので、﹁権八一代記﹂の要素となる話を盛り込
んで、かつ平井権八の一代記になっていないものとしては、板本は
おり、中心人物、出会う人物︵事件︶
、繋ぎによって構成されてい
あげるというようなものではなく、権八の遍歴譚的な構成になって
布黒鍬谷﹄という書を使用し考証している。この﹃麻布黒鍬谷﹄に
では﹃北女閭起原﹄の説を引用して書いているが、もう一つ、﹃麻
文化十四年︵一八一七︶の﹃北里見聞録﹄巻六﹁三浦屋濃紫が事﹂
には、ほぼ出来上がった権八一代記がのせられる。
﹃北 里 見 聞 録﹄
おろか写本と比べても早い例であるし、珍しいことといえる。
ると指摘する。つまり、これらの要素が異なる出自をもっていると
ついては未詳であり、どのような書であったかはわからない。
小二田氏は、これらの要素が︵一︶︵二︶、︵三︶、︵四︶∼︵六︶
の三つに大きく別れ、それらが複雑に絡み合って一つの作品を作り
いうことである。
ある。
﹃烟花清談﹄では、何故平井権八
ここでもうひとつ問題なのは、
の出身地や名前が明らかにされなかったのであろうかということで
いはっきりした形跡もないことから、安永九年から﹃北女閭起原﹄
﹃兎園小説余録﹄の目次に、
あがっていたのかはわからないが、小紫権八譚が増補されていたの
であろう。
ともかく、どの要素がどこで組み合わされたのかは、新たな資料
が見つからない限り、特定するのは困難なようである。
しも拘らず。世に殺伐の事なるも、亦勧懲の為なれば、捨ずし
て録したり。されば憚るべきすぢ多かれば、叨に人の見ること
67
19
此小説は、官府の事又は殺伐の事などは、しるすまじきとて、
初より社友と定めたれども、別集以下独撰に至りては、それに
の成る天明頃までに書写された﹃石井明道士﹄には、どの程度でき
﹃石 井 明 道 士﹄ で 年 記 の あ る 最 も 古 い 写 本 で あ る 天 理 図 書 館 蔵 本
︶
︵安永九年︵一七八〇︶
︶には権八の記事がなく ︵ 、
省略したらし
18
人文社会科学研究 第 23 号
をゆるさで、いよゝ帳中の秘となすのみ。あなかしこく。壬辰
その作品において作者や板元の意思で、逸話は固定するのである。
とはあるが、むろんそれは本文を変えるということにはならない。
権八物﹂を扱った板本や歌舞伎などいわゆる事実を元にした創作物
て出板当時流布していた状態を知ることができる。そして、
﹁平 井
ら、
時系列で追うことは困難であるが、﹃烟花清談﹄などの板本によっ
﹁平 井 権 八 物﹂ の す べ て の 要 素 が 実 録 に 含 ま れ る よ う に な る の は
いつからかということは、実録が写本で流布する性質を持つことか
いうことでもある。
﹃ 烟 花 清 談 ﹄ が 板 本 と し て 出 さ れ る と い う こ と は、 流 動 的 で あ っ
た遊女の逸話・実録をその時点で流布していた状態で固定させると
閨月中院
と書かれている。当時、出板物で、実際の事件の人名を書くことは
禁止されおり、厳しい処罰の対象となっていた。そのため、実録な
どは写本でのみ流布していた。刑書の写しなどはもっての外で、
﹃兎
園小説余録﹄は写本であるにも関わらず、書くのをためらっている
のが窺える。
平井権八一代記の中では、実在したとはっきりいえるのは平井権
八のみである。そして、本稿であげた﹁平井権八﹂と明記してある
資料はすべて写本である。
るため、板本が実録を典拠としていたというだけではなく、実録も
68
が出る以前の実録と、以後の実録では内容に明らかに異なる点があ
﹃ 烟 花 清 談 ﹄ が 板 本 に な る に あ た り、 こ う い っ た 規 制 も 当 然 考 慮
されていたはずである。遊女である小紫や幡随院長兵衛は実在した
板本の影響を受けていた可能性があるということの一端を見て取る
注
︵1︶以下引用の傍線は筆者による。
︵2︶﹁ 旧増本補洞房語園﹂︵﹁北女閭起原﹂︶﹃珍書刊行会叢書﹄第一巻︵昭和五〇年
歴史図書社︶より引用。
︵3︶成立年未詳。風俗・故事・他の抄書が載せられる。巻六には足代弘訓の
随筆伊勢の家苞を収載する。
︵4︶﹁百草﹂﹃日本随筆大成﹄第三期第五巻︵昭和四年 日本随筆大成刊行会︶
より引用。
︵5︶﹁玉滴隠見﹂﹃内閣文庫所蔵史跡叢刊﹄ ︵昭和六〇年
汲古書院︶より
引用。
︵6︶
﹃日本書目大成﹄第四巻︵昭和五十四年
汲 古 書 院︶ に 影 印 板 が 収 録 さ
れる。
︵7︶﹁一話一言﹂﹃日本随筆大成﹄新装版
別巻四︵平成八年
吉川弘文館︶
より引用。
ことができる。
︶
のかしないのかわからない伝説ともいえる人物 ︵ で
あ り、 出 板 を
はばかる必要がなかったのであろうが、権八については、刑書まで
残っている。故に権八の名は伏されたのであろう。実録・考証随筆
からかような手続きを経て読本﹃烟花清談﹄は成立している。
また、実録︵実録体小説︶は、実在の人物・事件について書かれ
ているために写本で伝わるのだが、写本で伝わるということは、本
文が増補され、改変されていくということを意味している。
﹁実録﹂
と銘打っておきながら、虚構化が進んでいくのも、写本という形態
であることが原因であると思われる。それは、実録に限らず写本の
逸話や考証随筆においても同じことがいえる。写本であるかぎり、
変化しつづけるという運命を背負っているのである。一方、板本は
作者や板元以外本文を変えることはできない。本になったものに読
者が筆を入れたり、紛失などによって本文が欠けたりしてしまうこ
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変遷する逸話(及川)
︵8︶
﹁甲子夜話﹂六﹃東洋文庫﹄ ︵昭和五十三年 平凡社︶より引用。
︵9︶
﹁兎園小説余録﹂
﹃日本随筆大成﹄第二期第五巻︵平成六年
吉川弘文館︶
より引用。
︵ ︶享保説は山崎美成、宝暦説は三田村鳶魚が唱えている。
︵ ︶
﹃ 関 東 潔 競 伝 ﹄ と し て 三 田 村 鳶 魚 編﹃ 未 刊 随 筆 百 種 ﹄ 第 六 巻︵ 昭 和
五十二年 中央公論社︶に収められる。
︵ ︶飯塚友一郎﹃歌舞伎細見﹄
︵大正十五年 第一書房︶参照。
﹃学 習 院 大 学
︵ ︶
﹁
〝湯 殿 の 長 兵 衛〟 ま で ︱ 江 戸 文 芸 に お け る 事 実 ︱﹂
国語
国文学会誌﹄第三十号︵昭和六十二年三月 学習院大学国語国文学会︶より
引用。
︵ ︶
﹃日 本 古 典 文 学 大 辞 典﹄
︵昭 和 五 十 八 年
﹁久 夢 日 記﹂ の 項 を
岩 波 書 店︶
執筆する吉原健一郎氏によると、国会図書館所蔵本が唯一の伝本であり、ほ
かに、東大史料編纂所蔵の写本︵三冊︶、東京都公文書館所蔵の写本︵二冊︶
があるが、いずれも国会図書館本からの写しであるという。
︵ ︶
﹃近世風俗見聞集﹄第一巻︵大正元年
国書刊行会︶所収﹁久夢日記﹂
より引用。
︵ ︶
﹁平井権八伝説と実録・読本﹂
﹃日本文学﹄
︵平成六年二月 日本文学協会︶
︵ ︶﹁実録研究綱領﹂綱領五﹃中村幸彦著述集﹄第十巻︵昭和五十八年
中
央公論社︶所収。
︵ ︶国立国会図書館蔵本﹃石井明道士﹄では完成した権八一代記が挿入され
る。
︵ ︶内田保廣氏は﹁馬琴と権八小紫﹂﹃近世文藝﹄二十九︵昭和五十三年六
月 日本近世文学会︶において、
﹃烟 花 清 談 ﹄ に よ っ て 権 八 譚 が 流 布 し て い た
ことを知ることができる、と述べている。
︵ ︶﹃武江年表﹄︵﹃底本武江年表﹄上
平成十五年
筑 摩 書 房 所 収︶ の 幡 随
院長兵衛の死亡記事には、
﹁其 伝 人 口 に 膾 炙 す と い へ ど も 、 紛 々 と し て 定 か な
らず。墳墓は今も浅草源空寺にあり、歌舞伎もの、年回を吊へり﹂とあり、
その存在の曖昧さを物語っている。
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