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【高校の部】最優秀作品 真の愛の使徒、永井隆博士を御覧あれ

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【高校の部】最優秀作品 真の愛の使徒、永井隆博士を御覧あれ
【高校の部】最優秀作品
真の愛の使徒、永井隆博士を御覧あれ
『愛の歌・平和の歌――永井隆の生涯』を読んで
大邱カトリック大学校附属 舞鶴(ムハク)高等学校 3 年
李浩源(イ・ホウォン)ガブリエル
真の愛の使徒、永井隆博士へ
春とはいえ、まだ肌寒く桜も咲かない季節です。永井博士、ごきげんいかが
ですか? ふだんあまり手紙は書きませんが、博士宛てに書く手紙は前から知
っている人に書くようで不便さはありません。博士の生涯を編集した『愛の歌・
平和の歌』を読んだことと、
『長崎の鐘』を全部ではありませんがその一部を読
んだことによって、博士に対して気易くなれたように思います。また、こうし
て 2 冊の本を読むことになったのは神が私にくださった贈り物であると考えま
す。
博士は由緒ある家に生まれ、学生時代は成績も良く、当時、東京帝国大学に
入学できるほどの優秀な人材であったと聞きました。身を立て名を揚げる道が
保障されていましたが、それにもかかわらず長崎医大に進学し、だれもが皆が
避けたがる放射線医学者の道を歩みました。なぜそうしたのかについて博士は
何もおっしゃっていませんが、私は神が博士に対してあらかじめ計画し、早く
から準備していたことではないかと考えます。当時、放射線医学者として生き
るということは、いずれ合併症で苦しむことが心配される程の不幸な道だった
ということですね。その道は考えれば考えるほどイエス様の十字架の道に似て
いると感じました。
博士は、原子爆弾が落ちた長崎で余命が限られていながらも救護活動を行い、
原子病の研究を通じてわたしたちに戦争の残酷さを教えてくださいました。死
体がころがり、放射線汚染物質が残っている長崎は‘死のまち’と呼ばれ、だ
れもが行きたがらない所だったと思います。しかし、博士はそんなまちに自ら
入って行き、掘っ建て小屋を建てて活動なさいました。ただひたすら世界にこ
のような惨状を知らせ、平和を取り戻そうという信念で。そんな博士の姿を見
ると、イエス様が‘一粒の麦が地に落ちて死なないなら、ただ一粒のまま残る。
しかし、死ねば、多くの実を結ぶ’とおっしゃった言葉が思い浮かび、私もこ
の世の小さな麦となるために何ができるのだろうかと思い悩むきっかけにもな
りました。
ところが、博士はそんなにも残酷な状況にあっても神を依り所とされたと聞
いて、私は恥ずかしい思いを認めざるをえませんでした。私がもしそのような
状況に置かれたら、罪のない人々が死んでいく様相を前にして、神はどこにい
るのかと大地を叩いて恨むかも知れません。また、最近は、神に心から仕える
ことよりも、
‘ものごとがうまくいけば自分の優れた能力のため、うまくいかな
ければ神のせい’という人が多いです。そういう人々に博士が直面したような
状況が起こったら、彼らは必ず教えを捨て、さらには神の名をむやみに呼んで
は批判して回るでしょう。そんな私や世の中にとって、博士の犠牲的な生き方
は大きな模範になりました。
博士はまた親としての模範も示されたと思います。緑夫人が原爆で亡くなり、
博士も余命が限られているとの宣告を受けた中、博士にとって最も大きな心配
は残していく二人の子どもたちだったことでしょう。だれが幼い子らを育てて
くれるのか、またこの子らが道を誤ったりしないか…。しかし、博士はそんな
不安さえも神にささげられ、子どもたちがよく生きていけるように教育されま
した。間違ったことをしたら厳しく叱り、人間性についてはだれよりも厳しく
指導したと記憶しています。このような博士の愛し方は、子どもをまるで王様
であるかのように遇して盲目的に愛する今の時代の親たちに対して、子どもへ
の真の愛について大きな示唆を与えています。
何よりも一番感銘深かったのは、博士が死を‘花嫁’と呼んで恐れなかった
ことです。博士は余命が限られていながらも生と死を神の栄光となさいました。
現代においては神を信じる人であっても死を非常に恐れ、甚だしくは死後につ
いても疑う人が多いです。そのわけは死後に行くべき神の国と復活の神秘を信
じることができないからだと思います。その結果、人々は現世の富や名誉に執
着することになり、さらには多くの人々が死ぬ戦争までも引き起こして神に心
痛を与えています。
私は博士の生き方を見ながら、金寿煥(キム・スファン)枢機卿様(※ 2009
年帰天)と李テソク(イ・テソク)神父様のことが思い浮かびました。
‘あなた
と全ての人々のために’というスローガンのもと、隣人のために自分自身をさ
さげられた枢機卿様の生き方は信者でない人々にも感動を与えました。また、
李テソク神父様は医師としての名誉ある道を拒み、司祭として最も貧しく惨め
な人々の中で神による救いの事業に参加し、自分の全てをささげられました。
今、わたしはこの感想文を書きながら、この前の冬休みの時に見た映画「泣く
な、トンズ」で内戦によって傷ついたトンズを愛によって癒し、疎外されてい
るハンセン病者たちをひとりひとり捜し訪ね、彼らの脆くなった手を撫でさす
っていた李テソク神父様の姿が浮かびます。おそらく神の国で、永井博士、金
枢機卿、李神父は親友になっているだろうと思います。
私は一ヶ月に一回、大邱(テグ)にあるホームレスのための無料給食センタ
ーに食器洗いの奉仕をするために出かけます。また、毎日、夕食後、ロザリオ
の祈りの奉仕者としてグループのメンバーをリードしています。それで、私は
ふだんそれなりに奉仕を行っていると自負していました。しかし、読書後、人
のために生きることは特別なことではないことに気づきました。博士にとって
は、奉仕と犠牲は日常に過ぎませんでした。そのやり方も特別なものではなく、
単に‘あなたたちのうちで最も小さい者にしたことが私にしたことだ’という
イエス様の言葉を実践することでした。そんな姿を見て私は大いに反省しまし
た。これまでは心から善行を行うというよりも、他人の目に映る自分の姿を愛
していたのではないかという考えが私の心を締め付けます。博士の生き方と業
績を拝見したことによって、私の誤りが何であったかを悟り、今後は自分自身
のために生きるよりも多くの人々のために生きなければならないと強く決心し
ました。
博士! 写真で見た博士の2坪余りの‘如己堂’は全世界の多くの人々が訪
れる聖地となり、第2次世界大戦の終戦から 70 年余りが過ぎた今、長崎は廃
墟の中から日本の代表的な都市と再建されました。しかし、今でもアフリカや
中東では止むことのない内戦で多くの人々が亡くなっています。今後、そうい
う戦争が終わりを告げる報道が行われるように、まず私から努力するようにし
ます。その出発点は大きな事ではなく、私の周りの友人や先生方、後輩たちを
大事にし、まず自分のものを差し出すことから始めるつもりです。
もちろん、無制限の競争を強要するこの時代には多くの困難や嘲笑が待って
いるでしょうが、その都度、博士やイエス様を思いながら生きていきます。博
士は博士の意志を実践する人々のために大いに天国で祈ってください。最後に、
博士を知り、愛を実践する人々が増えていくよう心から祈りながら筆を置きま
す。
2012 年 5 月 6 日
翻訳;宮崎善信
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