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バッジ収集
観戦の記念として配布されたり、企業の宣伝用として商品のおま バッジとの出会い ― 中国留学 けや懸賞の賞品になっていたりする。筆者は今回の北京オリンピ 気が付くともう20年もバッジ収集を続けている。そもそもは、 ックでは、あるスポンサー企業のHPをチェックし、その企業に 1988∼89年の中国留学時、出かけた先々に必ずと言ってよいほ 会員登録するという手間と個人情報の提供と引きかえに懸賞に応 ど観光・見学記念のバッジがあり、珍しさにその都度買ってはカ 募し、記念のピンズを手に入れたりもした。また、前の職場の時 バンやジャケットにつけていたことから始まる[1]。ある日、 には、バイトの学生さんにハンバーガーをおごったり、コーラ好 それを目にしたソ連の留学生が、自分の国の「ペレストロイカ」 きの同僚に何本も配ったりして、おまけに付くオリンピックやワ のバッジがあるからとプレゼントしてくれた[2] 。また、卓球 ールドカップのピンズ集めに精を出した[4] 。 仲間の北朝鮮の留学生もいくつかバッジをくれた[3] 。ベルリ 収集家の間での交換・売買も重要な入手方法である。長野オ ンの壁の崩壊前、まだ「東」と「西」が意識された時代、中国、ソ リンピックの際に筆者も一度経験した。テレビ報道で、海外か 連、北朝鮮のそれぞれのお国柄が出ていて、そして何やら共通し ら長野にやってきたピンズ収集家の様子を見て、世界レベルの て共産主義の雰囲気がただよう、そんなバッジを眺めながら、小 コレクションに接したいと思い、日帰りで長野に出かけた。期 さいバッジが表現する豊かな世界に魅せられるようになった。 待通り、関係者用のため入手のハードルが高いピンズや凝った 意匠のピンズの数々を見ることができた。私が持参したピンズ バッジ収集の世界 は、どうやらその「世界」では交換要員としては価値が低かっ 欧米、日本など世界各地にバッジ収集家は多数存在する。日本 た。それでも、相手の価値基準を探りながら、自分でも相応だ の場合、長野オリンピック、日韓サッカーワールドカップを契機 と思えるピンの交換を求めるという、バッジ交換の駆け引きは に収集家が増加した。バッジの中でも、日本では一般にピンバッ とても胸躍るものであった[5] 。 ジと呼ばれているpins収集が主流である。ちなみに上述の中国や ソ連のバッジは裏が安全ピンのような形になっている。 バッジを眺めて 収集家のHPを見ると、ある程度領域を絞って収集しているこ 筆者はこれまで、地域や文化を表象するもの、そして、さまざ とがわかる。例えばカテゴリーとして、オリンピック、サッカー まなイベントの記念バッジを好んで集めてきた[6∼9] 。ただ ワールドカップ、万博などがある。オリンピックのピンズは、 し広く浅くであり、あらためて自分のコレクションを振り返って 1980年のレークプラシッド冬季オリンピックでコレクターズア みると実に雑多である。こうしたバッジを一つ一つ眺めていると、 イテムとして注目を集めるようになったと言われる。このほか、 バッジを入手した頃の自分や旅の思い出、時には当時の世相まで ディズニーピン、ハードロックカフェなども、各地で、季節や記 も浮かんできたりする。そして海外のバッジにはその背後に広が 念日に合わせて配布・販売していることもあり、これに特化する る異文化の世界へと誘われ、またデザインにも目を惹かれるもの 収集家もいる。ピンズのもつ場所や時間の限定性、そして各カテ が多い。更に、ものによってはそこに刻まれている時代に思いを ゴリー内での種類の豊富さが魅力となっている。 馳せることもある[10、11] 。友人、知人からプレゼントされた バッジには一般販売されているものと非売品とがある。非売品 バッジも多く、収集の協力者の顔も浮かんでくる。これからの季 の入手には、運と努力( =情報収集やバッジのある場所への行動 節は、ジャケットやコートにアクセサリーとして日替わりでバッ 力)が必要である。非売品のバッジは、イベントへの参加や試合 ジを選ぶのが楽しみである。 バッジ収集 [7] [9] [8] [11] [4] [2] [3] [1] [5] バッジ収集 南 裕子 54 経済学研究科准教授 [10] [6]