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〈随想・医学史点描・連載(4)〉 島峯 徹とその時代(三)
村上 徹
初出・群馬縣歯科医学会雑誌 第17巻69-101
絶好の研究環境
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ドイツにおける島峰の生活は、順調そのものである。一時体調を崩して入院した事があ
るが、これも大事に至らず回復した。
島峯はさらに研究者としての幸運を手にすることになる。
?々言及する島峰伝中の閲歴には、大正元年9月の項目に、「杉村全権大使並ニ文部省ト
ノ了解ノ下ニ満一箇年ノ契約ヲ以テ伯林大学歯科医学科ニ創設ノ学術研究科ノ主任トシテ
傭聘ニ応ジ保存療法科ニ所属(年俸ハ千五百馬克)従ッテ文部省ヨリ更ニ一箇年留学延期
ヲ命ゼラル」という記述がある。留学はここでさらに延長することになった。しかも今度
獲得した立場は、ベルリン大学歯科医学科に新設された学術研究科の主任研究員という
華々しいものだ。島峰は留学生の給費のほかに、年俸1500マルクという収入を得る事と
なった。これは後に増額されてゆく。
明治45年の末で、島峰の留学は、もう5年も続いている。これは常識から言って少し長す
ぎる。普通の留学生は2∼3年が精々で、特別の命令があった場合に1年延長される事が
あるが、私費留学で内藤久寛から資金の提供を受けてドイツに赴いた島峰が、幾ら途中で
官費に切り替わったからといって、これは少し長すぎるのじゃないだろうか。内藤は不審
に思ったに違いない。島峯の身辺に何かあるのではないか。病気だという も耳にする。
内藤は明治45年ドイツに視察旅行に出向くことになった長岡病院院長の谷口吉太郎に、
島峯徹の身辺に関する調査を依頼した。
谷口は東大医学部卒の長岡人であることは前に書いた。
彼は明治33年以来一貫して長岡病院に勤務していた内科医で、乾電池王といわれた屋井
洗蔵は彼の従兄弟である。屋井は石黒忠悳の書生という立場から立身したことも既に書い
た。
谷口が内藤にあてた報告1)によれば、ドイツにおける当時の島峯は
同氏ノ当地ニオケル位置ハ助手ニ有之、年俸二千五百マルク(約千二百五十円)、専
ラ歯科ノ学術研究ヲ担任、ソレニ要スル設備ハ言フガ儘ニ支出サレル、当大学へ傭ハレシ
ハ全ク自働的デナク他働的デ是非ニト云フ事デ、日本政府ノ承認ヲ得テ就職シタ、尚研鑽
怠ラザレバ世界的学者ノ位置ニ進ム望ハ充分ナリ(以下略) とある。
この文面から推測すると、この時点では、島峰は一向に日本に帰る意思がなかったらし
い。谷口はこうも書いている。
(略)同氏目下ノ位置、信用上将来[ドイツで]開業シテモ立派ニ生活デキル筈デアル
シ、又却ッテウルサイコトノナキダケ、日本ノ大学へ帰ルヨリモ良イカモ知レヌガ、ソレ
デハ日本歯科医教育ノタメ塾考ヲ要スル次第、徒ニ身ノ安逸ヲ求メル為ノミ申ス訳ニハイ
カヌト思ハレマスノデ、結局ハ帰朝ノ外アルマイト思ヒマス。?デ一寸御耳ニ入レテオキ
タイコトハ、入沢達吉氏ハ島峰氏ニ対シ好意ヲモタヌ由デ、[帝大の]教授会デモ種々ノ
コトデ反対シイル由ナリ、入沢氏ハ表面ハ如才ナキ人故好意的ニ申シイルモ、裏面ハ甚ダ
面白カラヌ行動ヲスル由、コノ点ハ御注意願マス、
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この「二千五百マルク」という数字は、前に書いた「島峯徹先生閲歴」中の「一千五百
マルク」とかなりちがうが、どちらが正しいのかよくかわらない。「閲歴」の著者が島峯
の原文に依拠したとすればこれを信用したくなるが、谷口報告のなかの二千五百マルクと
いう数字にはわざわざ括弧して約千二百五十円と説明がついているので、そうすると、こ
ちらの方が信憑性がありそうである。ことによると、就任当初から大幅な増俸があったの
かもしれない。
しかし、それにしては、この2500マルクが約1250円というのも少し怪 な思いを拭え
ない。このレートでは1円=2マルクになる。
そもそも日本の円という通貨は、明治新政府が明治4年に「新通貨条例」で定めた本位
通貨の「1円金貨=純金1.5グラム=1ドル」を基本とする2)。一方、ドイツでは、ドイ
ツ帝国成立以前の分立した多くの領邦がターラーやグルテンなどの通貨を通用させてお
り、マルクで統一して唯一の法定通貨としたのは1878年(明治11)であった。金マルク
は、2790マルクで金1kgと等価とした。従って1マルクは、純金358㎎とほぼ等価である
3)。ここから換算すると1マルク=2.09円になる。その計算では、島峰の閲歴中の年俸
の1500マルクは3000円程度に、谷口報告の中の2500マルクでは5000円程度ということ
になる。これは学者の年俸として非常な高額である。ちなみに、良精伝によれば、東大教
授としての小金井良精の年俸は、教授在職25周年をむかえた明治41年1月から本俸職務俸
を含めて3100円になった。良精は医科大学学長(今の医学部長)経験者だったが、それ
までは2700円だった。彼の場合は、日記という確実な証拠がある。
ここで明治末の日本の物価について少し考察してみる。
明治40年の高等文官試験に合格した高級公務員の諸手当を含まない初任給は月50円であ
り、大正7年の小学校教員の諸手当を含まない初任給は月12∼20円だった。少し横道にそ
れるが、夏目漱石は明治28年に28歳で松山中学へ英語教師で赴任したが、その月給は80
円だった。漱石というといつも貧乏がついて回ったような印象があるが、坊ちゃんの作者
は帝大出で、校長以上の高給取りだった。明治35年に死んだ正岡子規が、自分の墓碑銘
に 月給四十円 と刻ませたのはあまりにも有名である。ちなみに、明治43年の総理大臣
の年俸は12000円だった4)。
経済の史書を繙くと、明治末から大正期にかけては相当円安の傾向が続いていたようで
ある。そうすると1マルク=約2円というレートも、実勢とは随分異なっていたのにちが
いない。しかし、確実なことは、今ではどう調べてもよくわからない。
したがって上記の考察は、金本位制下の通貨の純金の価値からの1マルク=2.09円と
しての換算であり、あくまで紙の上での計算であるが、一方、この報告書を書いた谷口は
当時実際にドイツでマルクを使って生活しており、マルクと円の交換レートは現実の感覚
として経験していたという強みがある。そうなると、後は長尾の転記の筆に誤りがなかっ
たかどうかになるが、島峯伝は長尾が80歳をすぎてからの著作なので、所々にあきらか
なミスが少なからずある。また、これは、この伝を出版した社の編集者が、医書とはちが
う歴史的著作の編集に不慣れだったせいもあったのであろう。長尾は再三再四、自分には
伝記作者としての能力がないことを断っているが、それにしても作品は発表してしまえば
結果がすべてである。島峰伝の読者はここは注意する必要がある。
もう少し、円とマルクにこだわって話を続ける。
日銀関係の資料によると、明治政権は、明治の初頭から英ポンド、仏フラン、米ドル、清
テール(両)には公定レートを定めていたが、独マルクに対してそれが定まるのは昭和も
10年代に入ってからのようである。これが何を意味するのかは経済には全く暗い私には
わからないが、明治期のかなり早い段階から軍事や医学で始まったドイツ一辺倒の国策に
照らし合わせると、このことは、色々つっぱって考えこんでいた私の精神のつっかえ棒が
ヒョイと外されたような感じにとらわれる。そうすると、?外ら明治期の日本の気負い込
んだ留学生たちは、一体どこでどんなふうに円をマルクに交換していたのだろうか。彼ら
が円安だの円高だので一喜一憂していたとはどうしても考えられないので、つい余計な想
像力が働くのだが、たまにはこんな想像で息を抜くのも一興かもしれない。
閑話休題──。またマルクと円に戻るが、私という素人にとっては、為替レートについ
てこの程度の考察をするだけで夥しい時間がかかった。もう、これ以上は手に負えない。
いずれにしても島峰が、ベルリン大学から、日本人留学生としては破格といえる厚遇を受
けていたという事実だけは確かめることができた。島峰は留学時代には、日本からの医学
留学生とは極力交際しないようにしたといわれているが、これは島峰が、日本人独特の湿
った人間関係を嫌い、やっかみを受けるのが厭だったのもその一因と思われる。
島峯の帰国後、第一次大戦に敗れたドイツのマルクは大暴落し、兌換通貨の金マルクは
廃止され、ただの紙マルクになる。周知のとおりドイツは天文学的なインフレに見舞われ
たのであるが、島峯はドイツマルクが最後の光輝を放っていた頃に、予想もしなかった幸
福な研究生活を送ることができた。幼いときから窮乏した生活しか知らなかった彼にとっ
ては、この時期が、生涯で唯一のベルエポックだったのではないだろうか。島峰は高等歯
科医学校校長として名をなした後も、ドイツへ行く機会がある毎に恩師たちを訪ね旧歓を
温めているが、ドイツでの青春の記憶は、その後もながく島峰の心を支え続けたのにちが
いない。
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夢のようなよろこび
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ドイツにあって孤独な奮闘を続けていた島峰を喜ばせたのは、順調な環境で研究の成果が
次々とあがっていった事だけではない。なにより彼を喜ばせたのは、次弟の 正 が医師開
業試験にパスしたことだった。しかし、同時に、次第に明らかとなる末弟 恂 の出来の悪
さが、この喜びを相殺するように島峰の顔を曇らせた。島峯伝に全文が掲載されている次
弟正あてのブレスロウよりの手紙(手紙四・明治42年2月17日づけ)5)は、この間の島
峰の心情をいかんなく物語っている。その所々を引用する。
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一月廿九日御認めの手紙本日落手拝見仕候、先以慶賀の至りなるは、其許本年一月の
実地試験ニ首尾よく合格を致候事に候、如何ばかり余は此万里の波濤を距だてし独逸国に
おいて、かくも思ひがけなき芽出度汝が報知に接せんとは実ニ夢の如き心地に候、誠に嬉
しく、何となく余は重荷をおろせし心地致候、母上の喜びまた遥かにおもひやられ候、
(略)扨て其許が今度医士となりしニついては、余の論文が通過せしよりも、何となく余
ハ肩身が広き心地せられ候、余は?に大に祝ふと同時にまた、今後の研学の方針ニつき其
許が一層医学界の広き且つ責任ある舞台ニ於て益々奮闘せん事を希望仕候
この文章に続けて同じ手紙ながら徹はガラリと文体を変えて次のように続ける。仮名づ
かいが新旧入り交じっているが、これは島峰の原文を長尾が転記しているうちにそうなっ
てしまったのだろう。昭和20年2月に物故した島峰が、敗戦の産物である新仮名づかいな
ど知っている筈がない。以下長尾の原典どおりに引用する。
正が立派なお医者様になった、お祝いをしようと思ふて、今何を贈らふか考察中だ、其
内に御贈りしましょう、どうも近頃は非常に忙しい、朝の九時より夜の九時までたちつづ
けの有様、恂が此秋期の試験より陣頭ニ立つそうだが、それはとてもだめだからよした方
がよろしかろう、此間の試験の成績ではどうも、おれもがっかりして、何も恂には望みを
ぞくする点がない、恂の頭に、恂が朝から夕まで何を考へておるか、それがおれにはは
(わ?)からぬ、おれは恂のことを思ひ出すと、もうムカムカして自然歯ギシリがでる、
恂は恂の頭から虚栄心をとり去らなければ、到底学問は出来ぬ、恂の頭は終日朝から夕
、人をだまそうだまそうという方針に働いておるのだ、即ち自分の価値を人ニ知らしめ
まい知らしめまいと働いておるのだ、即ち実価以上に人より信じて貰いたい貰いたいとお
もふておるのだ、そこでウソをはく、丁度よいようのことをいふて、話の調子を合せる、
(略)
要するに忍耐がナイのだね、よくいえばあきらめがよいのだね、一寸考へてみてわから
ぬと、それからそれへと考へる事が面倒くさくて、──否面倒臭いのでない、なんだか、
自分でも到底これはわからぬらしいものらしいからやめた、そしてわかった様な風に人に
知らしめる方法を講じた方が得策だという方に考へがするのだ、そういふ方法を講じるこ
とはお手の内故巧みにその方便をふりまわすのだ、(略)???ああ面倒臭いもうやめた、
きりがない
芽出度御祝の手紙におもしろくもない事をかいた、もう時計は一時を報じる、ねむいか
らねやう、(以下、略)
文体がたいぶ乱れているのは、末弟を思う感情がそのまま表に出たものと理解すべきだ
ろう。この手紙を出した5年後の大正3年6月には、次のような手紙(手紙七)6)をベル
リンより正に送っている。この年の12月に徹は帰国することになる。
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(略)恂の予定通りの失敗は実ニ痛心ニ御座候。(略)本人左様のだらくニ候へば之
も なき事と存じ候。第一写真ニより貯髯致す根性を見ては、我事万事了れり候。はじめ
より其許に申候通り留守宅の所置一際独権を以て主宰致す様依頼致候ニ付き此後とも同様
最早余ハ恂の事ニつきてハ絶望ニつき、此後の処置如何とも其許考へ通り断行被致べく
候。
只?ニ申度ハ、恂として将来技工手として養成致す事ハ余ハ断然不賛成ニ付きむしろ他
の職業、労働者なりなになりニなし被下度候、なまかじりの無許可歯科医ハ国家を害する
のみにて其益無之、且又余が将来斯様の道具を使用致す等の事ハ余の資格として到底出来
難く候。(略)歯科技工手でなければ飯が食へぬといふ事無之、むしろ独立した生活すべ
き労働者なりニ致す方が本人の為と存候、労働者ニなる事がいやなら、百姓ニなるべし、
田舎に引きこめ、之ニより歯科技工手養成は余は断じて執らず、孔明涙を揮って馬謖を斬
る、嗚呼悲哉。(以下、略)
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このときは、正は眼科医になっていた。恂の出来の悪さがますますはっきりとし、医師な
どとても無理だからどこかの歯科医の書生にして技工手にしたらどうかと兄に相談したも
のとみえる。徹はこれをはねつけている。徹は日本での歯科医の生態など具体的なことは
何一つ知らぬままドイツに留学した筈である。しかし、東大の石原の歯科でも、技工にあ
たる無資格者が堂々と患者の治療にあたっていたという長尾の記事は、以前に引用したと
おりである。歯科の従来家など、免許の上では問題はなくとも実力は殆ど無資格者と変わ
りはない。これが当時の歯科医療のレベルだった。ドイツでもニセ医者が横行して社会問
題となっていた。徹は「無許可歯科医ハ国家を害するのみにて其益無之」と断じている。
それにしても恂は哀れである。彼は幼時より温かい家庭というものを知らない。兄二人
はともに刻苦して長兄は最高学府を出、次兄は検定合格してともに医師になったが、恂に
はその気骨も知力も全くなかったらしい。島峰が建立した父恂斎の記念碑の碑文の一節に
はこうある。
[恂斎は]長谷川氏ヲ配セラレテ、三子孺人之ヲ育テ、皆ヨク其ノ業ヲ成ス。長徹東京
大学ヲ卒業シ、独国ニ遊ブ。益々進ンデ医学博士トナリ、歯科ヲ大学ニ講ズル。次正眼科
ヲ専攻ス。 (原文漢文・孺人とは子供というほどの意味であろう。)
三子と書かれ、皆よくその業をなしたと書かれ、徹と正については名とともにその業績
まで記されながら、恂については名も業も一切の記述がない。おそらく徹から恂は義絶同
様に扱われたのであろう。不甲斐ない恂のことを考えると、島峰は八年ぶりに日本の土を
踏むのもさぞ気が重かったにちがいない。
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帰朝して東大に復帰した島峰をとりまいたのは、個人的状況とは別な、もう一つの不快
な現実であった。石原久という先任教授の存在である。まもなく徹は講師となり、博士号
を獲得するまでは順調だったが、この学位取得は、教授である石原の先を越すことになっ
た。もちろん、石原が不愉快だったのはいうまでもあるまいが、大学も少し面食らったの
だろう。石原はおそらく、派閥のボスである佐藤三吉に泣きついたものと思われる。しか
し、石原には学位に値する論文がない。東大は島峰が学位を獲得した2年後の大正5年に
石原にも博士号を与えたが、これは提出論文の審査によったのではなく、大学の推薦だっ
た。
ドイツと余りにちがう帝大の歯科学教室の粗末な現状への失望と燻りだした石原との確
執。その結果の永楽病院への転出、またそこでの月給50円という待遇。夏目漱石の28歳
での松山中学での英語教師の初任給の80円(明治28年)と比べても、ドイツの歯科医学
科で、研究科の主任研究員までつとめた徹に対してこれはちと冷たすぎる処遇だといえそ
うである。しかもこの永楽病院への就職も、多少の軋轢がなかったわけではなさそうであ
る。
石原久が佐藤外科の助手から歯科学教室の主任に抜 され、助教授の地位についたこと
は前に記した。この石原の歯科の外来で治療をとりしきったのが、 雇い という地位にあ
った高橋直太郎という歯科医師であることも既述した。
高橋は慶応3年(1867)の生まれであるから、島峰からみれば10歳の年長である。彼
は明治23年に試験に合格し、193号で歯科医籍に登録されている7)。
明治38年(1905)には、佐藤運雄がこの教室に入局している。前稿で書いたように、
佐藤は、府立一中から歯科医師をめざして高山歯科学院を卒業したあと渡米し、シカゴの
レーキフォレスト大学の歯科を卒業してDDSの学位を得たあと、シカゴ大学医学部ラッ
シュ医科大学3年に編入学し、明治36年(1901)8月そこを卒業してMDの学位を受けて
いる。これは医学的にいえば、島峰に匹敵する学歴であるといわなければならない。ただ
残念ながら、日本における旧制高校卒の学歴がないので、帝大出とは同等と見做されな
い。
佐藤は在米中、ドイツからの帰国の途次アメリカを回った石原と知り合い、その縁で石
原の傘下に加わったものと思われるが、帝大での身分は他の歯科医師と同じ 傍観生 とい
う屈辱的なものであり、のちに講師に格上げされたものの、帝大における歯科医師の前途
には望みを失ったものと思われる。明治41年(1908)南満州鉄道の大連病院の医長に赴
任したあと、東大とは縁をきったような形で、東洋歯科医学校(大正5年)から日本大学
の専門部歯科への創設に突き進むことになる。
このような日本での歯科の状況を、島峰がどの程度把握していたのかはよくわからない
が、いずれにしても、ドイツで、ベルリン大学歯学科の主任研究員として厚遇されてきた
島峰が、改めて日本の人間関係の陰湿さと、歯科の遅れぶりに愕然としたのは確かであろ
う。しかし逆境こそ島峰徹の常態だった。これが徹の持ち前の烈しい闘争心に再び火をつ
けたことは容易に想像できる。
島峰が歯科学教室を出てからこの教室がどうなったのかは、すでに書いたとおりであ
る。9人の学士教室員は、一人また一人と総退局し、教室は空中分解のような状態になっ
た。そればかりか、これは島峰とは無関係だが、退局した教室員から石原は連名で教授退
職勧告状を突きつけられたのである。こんなスキャンダルは東大医学部はじまって以来の
ことだったにちがいない。石原の面目は丸潰れとなったわけだが、それでも石原はやめな
かった。
東大歯科の教授交代 石原から都築へ
医局長以下9人の医局員がやめた後、東大歯科は教室としておそらく機能不全に近い状
態になったものと思われる。それでも石原は教授である以上、学生に対して歯科の講義は
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していたにちがいないが、それを聴いて歯科学に興味をもち歯科に入局する卒業生など殆
どいなかったのではないだろうか。昭和15年発行の「歯科医事衛生史(前巻)」8)に
は、明治時代の歯科界の主立った指導者の一人一人について、その履歴とともに門下生の
氏名が克明に列挙されているのだが、石原久の項にそれが一人もいないのは、暗にこの間
の事情を物語っているのではないかと思われる。
それでも丹念に諸書を調べてみると、石原の教室から出た口腔外科医に、入戸野賢二
9)、福島尚雄10)、荒井千代之助11)等の名があげられるようであるが、彼らについて医学
史のうえで伝えるような記事は殆ど見い出せない。東大の歯科が、多少とも他の臨床諸科
と比べられる患者数を集め存在感を示すようになったのは、大正14年12月16日づけ12)
で、都築正男が、石原教室の助教授に就任してからである。都築は佐藤三吉の第二外科を
継承した塩田広重の門下生である。 塩田 は、正確には 鹽田 と旧字体で書かねばならな
いが、以下、塩田として稿を進める。
都築は明治25年(1892)兵庫県姫路市に生まれ、大正6年(1917)に東大医学部卒。
海軍に進み、海軍軍医学校の選科生として塩田外科に入局した。塩田は佐藤三吉の門下生
で、佐藤が定年退官した後の外科学第二講座の教授であった。
歯科学教室は佐藤の肝 りで創設された教室なので、石原が佐藤外科の助手から歯科の
主任助教授に転出したように、都築は塩田の慫慂で石原教室の助教授に就任したものと思
われる。彼は学識、人物、健康の三拍子とも文句のつけようがない学究で、この就任は、
石原の後継者になる含みがあったものと思われる。都築は助教授就任後ただちにアメリカ
に留学した。おそらく、口腔外科を中心に勉強したのだろうと思われるが、それを確証す
る資料は見当たらない。
先に述べた東京大学医学部百年史の口腔外科の項目を見ると、
昭和2年1月7日 石原久教授退職
昭和4年2月6日 都築正男教授に就任
とあり、続けて
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口腔外科としての、あるいは日本の本当の意味の口腔外科としての仕事が多く行わ
れ、昭和6年を中心に当教室からの研究発表が当時の歯科医学の最尖端を行き、本邦の口
腔外科ことに顎部外科の進歩に大きな役割をはたした。
とある。
しかし、業績集等の資料からそれを確かめようとしても、歯科の業績集そのものが存在
しないので、確認のしようがない。確かに先の百年史には、歯科の教室の「論文目録、論
文集」などとして「東京帝国大学医学部歯科学教室業績集」昭和六という文献が示されて
いるが、どこをどう検索してもこの文献はヒットしてこない。そこで東大医学部図書館に
直接メールして問合わせてみると、東京大学医学図書館情報サービス係から丁寧な回答が
あり、この文献は当館でも所蔵しておらず、おそらく「歯科学教室にて研究活動に資する
ため、刊行・配布はしない形態の業績集・目録を独自に作られていたのではないかと思わ
れます」という返事があった。古い時代の医学の資料に関しては、日本で東大医学部図書
館の右に出るものはない。第一、学外のユーザーに対して、こんな丁寧な応対をしてくだ
さる医学部図書館も、そう多くはないのである。
先の医学部百年史の「口腔外科としての云々」の文言は、裏を返せば、石原時代がいか
にダメだったということを暗黙のうちに語っているものであるが、それを裏付ける一つの
資料がある。それは同書に収められている統計資料で、そこには臨床各科の患者の年毎の
実数と延数が、細かい数字で記録されている。その歯科の数値を年代順に並べてみると、
石原時代の歯科が如何に振るわなかったかが一目瞭然である。石原時代を通じて患者の実
数が年間3桁に達した年は一つもない。2桁、それも35とか20とかいう目を疑いたくなる
ような数字があからさまに連なっているのである。これは歯科で扱った患者の数が、年間
35人とか20人とかであったという事を示す以外には考えられない。年間で20人しか患者
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長与又郎と都築正男
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がこない東大病院の講座がある診療科というのが考えられるだろうか。その少なさ、実に
驚くべき数値といわなければならない。
大正9年ころ、島峰が官立の歯科医学校の創設を思い立って官庁各方面に活発に働きか
け始めた時、関係者から官立の歯科なんてダメだという評判が既に定着しているという話
をさんざ聞かされた事を長尾は記録しているが、当時は歯科教育では、明治40年に専門
学校に昇格した東京歯科医専、日本歯科医専の私立2校が東京で鎬を削って競争してお
り、大正5年には、そこに新に佐藤運雄が創立した東洋歯科(後の日本大学専門部歯科)
が加わっていたのだからいたのだから、歯科に関する限り、世間の評判は全くそのとおり
だったにちがいない。
ところが、都築が歯科で活躍しはじめた昭和3年から数字は一挙に3ケタとなり、その後
第二次世界大戦の戦中戦後をつうじて昭和37年まで、2ケタに落ちた年は一つもない。都
築は昭和9年に、塩田広重の後任者として外科学の教授に転出するが、統計数値が残って
いる大正4年から、都築が退任した昭和9年までの数値を切り出してグラフにしたものが
図1である。
都築が歯科学教授に就任するに際しては、東大医学部教授会には、歯科のありようをめ
ぐって相当な議論があったらしい。長与又郎は日記にその辺の事情をかなり詳細に書きと
めている。又郎は父の専斎から子供のころ日記をつけることを奨励され実行したが、ここ
まで詳しい日記13)を残すとは、まさか専斎も予想だにしなかったにちがいない。お蔭で
我々は当時の東大医学部に関して一級史料が入手できるのであるが、評論家立花隆氏の浩
瀚な歴史ノンフィクション「天皇と東大」にも、医学部に関する叙述が全くない以上、こ
の日記はかけがえのない文化財といわねばならない。以下、歯科に関係する部分を抜粋し
て引用する。
【昭和2年1月15日】土
大学、教授会、論文審査の外、石原久教授停年退職に付、歯科後任教授の選定時期に就
き議論、結局次回候補者を推挙するに決す。
【昭和2年2月6日】日
入戸野賢二君来る。大学歯科後任は[歯科助教授の]都築氏に決定せんこと、及びその
[留学からの]帰朝 は石原前教授を臨時講師として、同氏より直接に都築氏に引渡
されたしと依頼なり。 (ルビ、村上)
入戸野賢二は当時は歯科の講師だったが、石原の後任問題がもちあがった時点で、はや
くも都築を教授にする依頼でわざわざ日曜日に長与を訪問したことがここで判る。彼はそ
の後都築教室で助教授となり、千葉医専の初代の口腔外科教授となった人物である。
【昭和2年2月12日】土
教授会。学位審査の後、歯科教授後任を選挙、助教授都築正男22、島峰 徹4にて、都
築氏に決定、但しその任命は同氏今秋帰朝の後とす。それまでの期間、講座担任者を誰に
すべきかに付、議論紛々。島峰を推して現状改革を希望する者(林、真鍋等)ありたれど
も、結局余の提案に基づき、石原[久]前教授に一時講師を嘱託し、現状維持の儘、之を
都築氏に渡し、歯科の改革昂上は全部之を挙げて都築氏に委任するの説、多数となりて之
に決す。(以下、略)
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当時の又郎は東大では中堅どころの病理学教授で、医学部長になるのは、6年後の昭和
8年であるが、16年間東大の医学部長をつとめた青山胤通が 死の際に、自己亡きあと
東大医学部の中心となるのは入沢、その後は長与だと断言していた逸足である。
歯科の講師だった入戸野がなんで長与を、それもわざわざ日曜日に自宅に訪ねて都築の
教授実現に協力を要請したのかよくわからないが、かねて長与は島峰と懇意だったことか
ら、ひょっとして同級生の真鍋(嘉一郎)らに与して、長与が島峰の教授実現に賛成でも
したら困ると思ってでの事だったのかも知れない。かねて石原は、島峰には俺の後は絶対
に継がせないと公言していたので、石原の意を受けての行動だったということも考えられ
る。
真鍋嘉一郎は長与の同級生で、島峰の一級上。秀才中の秀才で、どんな試験でも一番に
なるので驍名を馳せていた。クラスではいつも真鍋が1番長与が2番で、卒業試験の総合
成績もそうだったが、長与又郎伝14)によれば、その差は1点とはなかったという。島
峰とほぼ同時期にアメリカに留学。新橋へ帰朝した時は、アメリカ経由の島峰と一緒だっ
た。島峰と同様手腕家で、帰朝後彼が東大に創設した物理療法研究所を教授会が四番目の
内科の講座にする意思をみせなかったので、その所長で講師だった真鍋は、教授会を無視
して文部省に直接働きかけ、文部省からの鶴の一声的な新講座設置案を疾風のように教授
会に承認させ、物療内科学教室をつくりあげその教授に就任した(大正15年)。松山中
学では夏目漱石の教え子で、漱石の主治医の一人となった。
島峰が、自分が石原の後任の歯科学教授の候補になったことを知っていたのかどうかは
不明である。島峰にしてみれば、もう東大の歯科とは一切縁を切った気でおり、年齢も
50歳になっている。それにこの頃は、文部省歯科病院が官立で最初の高等歯科医学校へ
と実現しかかっている最中で、これには多方面の官僚が関与していたので、こんな話はむ
しろ迷惑だったにちがいない。この間の事情を長尾は次のように述べている。長尾は島峰
が、石原の後任の教授候補になっていた事は知っていなかったようである。
東大の石原久先生には、昭和2年1月停年退職されたにつき、誰を後任にするかに付
物色した由だが、大正初期の東大歯科医局に就いての[長尾のこの]追憶記を読まれた
方々は、既に想像せらるるであろう通り、石原対島峯の不和につき、かなりゆき渡った
が拡がり、それがいつとはなしに真実のように思われていた──これは全く外からの想像
に過ぎないので、その原因は当時の吾々医局の者達の罪であったのは、記述の通りだ──
このような現実が、かもしだされていた時、石原先生の後任問題が起きた。然るに東大出
身者で歯科をやっている者、例えば、北村、宮原、安沢、私[長尾]、金森、等は皆石原
先生桂冠問題に関係しているし、外から見れば島峯側の者のみである。従って石原先生後
任問題を決定するに際し、(略)吾々は無関心でいた有様であった。所が突然都築正男助
教授が、後任に擬せられ、直ちに米国ペンシルバニア大学に留学する由の発表があったの
である。当時の吾々の心境は、東大も全く窮余の策を取ったなと思ったに過ぎなかった。
また当方では、昭和2年といえば、学校建設の議も定まっていた時期で(略)、歯科医学
というものを、東大の名をかりて変な方向に押しすすめては困るが、などの(略)考えを
抱いて眺めていたのであった。 15)
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難航する都築正男の後任者えらび
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島峰ばかりではない。長尾も母校の東大とは縁を切っていた気持ちだったのである。彼
らがそこまで追い込まれたのも、歯科の教授に、無分別無気力な石原がながねん居すわっ
ていたせいである。両者は口にも筆にもしていないが、故郷を見捨てるようなかなり辛い
思いをしていたにちがいない。
しかし、都築は、その後東大の歯科学教室を立てなおした。口腔顎顔面の手術と積極的
に取り組むことで東大の歯科の名を挙げたのである。図1に示される患者実数の急激な増
加を見ればその一半は推測できよう。事態の推移を冷眼に見ていた長尾ですら、やや辛口
ながら次のように書いている。「同君の歯科界、否口腔外科界における活動は、同君の才
能によって、ある程度の評価を得たようだ(略)」。15)
「歯科界」と一度書いてそれを否定し、わざわざ「口腔外科界」と言い直している所に
長尾の思いが籠められている。口腔外科は歯科の一分野にすぎない。歯科というからに
は、他の分野をも総合したものでなければならない。これが長尾が言外に言おうとした所
だ。東大の歯科は果たして歯科学の教室なのか。
これは医科と歯科とが二元に別れ、免許が別々になっている限り、永遠に答えが出てこ
ない。だから現在まで、口腔外科は、医科と歯科との境界、換言すれば、医師法と歯科医
師法のいわば国境線をめぐる最前線でありつづけ、常に軋轢があり、その境界は未解決の
ままである。ちなみに現在の東大医学部では、かつて歯科学教室だった名称が「東京大学
大学院医学系研究科 感覚・運動機能医学講座口腔外科学分野」と変わり、附属病院での
診療科名は「東京大学医学部附属病院顎口腔外科・歯科矯正歯科」16)となっている。
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ところが歯科学教授在任6年で、都築の一身上に大きな変化が起った。都築を歯科に送り
出した外科学第二講座の塩田広重が定年退官し、教授が空席となったのだが、この空席が
なかなか埋まらなかったのである。候補者は何人もいるが、東大の花形講座、ましてや大
きな業績がっあた塩田の後任者となると、色々と細かい注文がでる。長与又郎は、次のよ
うに記している。このとき又郎は医学部長の要職にあった。今度は新任教授決定の直接的
な責任者になっている。
【昭和9年1月13日】土
塩田曰。[色々な候補者が]考えに浮かぶも、或いは既に先が短く、或いは人格不十分。
都築教授を[歯科から]外科に転ずること(その場合 長尾を歯科教授とすること)が出
来れば最上なり。(以下略、ルビ村上)
【昭和9年1月20日】土
大学。食後 塩田後任銓衡委員会を開く。[候補者]11氏につき隔意所感を披露し、人
格、識見、伎倆<量>、健康等に重点を置きて(年齢)観察す。多くの人々は資格に欠
け、残る四人(略)の内、斎藤は派手な手腕家の観あるも人物面白からず、(略)熊野御
堂も全般的に見て不足未知(悪い所はないが)。中田は新潟教授にして人物も好く相当の
男(略)なるも、健康は充分ならぬ様なり。(略)
都築[正男]は人物 学識 健康三拍子 いたる稀に見る良候補なり。余も塩田も期せず
して、その外科に転ずることを希望し居たるが、この日の懇談会にても皆同意見なるが、
唯 都築氏は永く外科一般より離れ居たれば、さらに外科教授として立つことは非常に重
荷にして気の毒なり。この点さえよければ異存なしとの考えに一致す。会後塩田は都築に
優る者なしと再言す。余も同感なり。(略)
【昭和9年1月24日】水 晴
大学。橋田、三田両氏来る。塩田後任に付協議。
食後都築教授の来室を乞い、外科教授に転任の件を懇請して承諾を得たり。数年間稽古の
積りにて寛大に見て呉れるなら御引受すべし。勿論それにて結構なればと話は一決す。歯
科後任としては島峯門下の長尾、金森の外に檜垣麟三あり。この男最も若く適任(大正
七)なりと。(略)
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こんな経緯のあと都築のほか2名を銓衡委員会で絞った正式の候補者としてあげ、1月27
日の教授会で投票により最終決定した。出席29名のうち27名が都築に投票した。重荷を
下ろしたかのように長与は記している。「斯くして、最も人選難を気遣われたる外科後任
は大多数を以て都築に決定し、外科学の将来大いに有望となりしは喜ぶべし。」
長与の予測は確かだった。都築はその後権威ある外科学教授となり、敗戦後の広島・長
崎の原爆症患者の研究と治療では、世界に先駆けた存在となった。( 原爆症 という病名
を考えて患者につけたのも、都築である。)しかし、彼の研究が、容赦なく原爆の放射線
による障害を明らかにするものとなったため、放射線による障害という事実を隠 したい
アメリカの逆鱗にふれて公職追放され(昭和21)、強制的に退官させられてしまった
17)。
この事は大抵の日本人は今ではもう忘れているらしいが、都築正男は、日本が世界に誇
るべき医学者である事は忘れてはならない。こういう事を医学史が抹殺して平気でいるよ
うでは、日本の医学も歯学にもろくな未来はあるまい59)、とそんな事を考えているうち
に、3・11の福島原発の大惨事が勃発した。この災害がもたらす放射能の影響はおぞまし
い限りであるが、早くも原子力関係学者らが、自己保存のため、臆面もなく放射能の健康
影響について、戦後のGHQと同じ態度を取りはじめた事を目にさせられると、人間が歴
史から学ぶという事がいかに難しい事なのかをつくづくと痛感させられる。(ついでに記
しておくと、生涯独身で通した島峰徹の養嗣子となった島峰徹郎(正の実子、徹の甥)
は、東大の学生だった頃に都築教授の原爆災害調査チームの一員として広島、長崎に長く
滞在して調査に当たつた18)。その経験から彼は血液の病理学を専攻するようになり、
後に東京医科歯科大学教授をへて東大教授になった。)
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また話が少し脇にそれた。もとへ戻そう。
こんな成り行きを島峰はどう見ていたのかわからないが、彼の直弟子として高等歯科で島
峰を扶けていた長尾は、冷やかに次のように書いている。昭和9年といえば高等歯科の第
一回生、二回生が卒業し、学校の鼎の軽重が問われ出した頃である。
[都築教授は]在任 か6カ年足らずで、塩田教授の後任として、再び古巣である外科
学教室をひきいることとなった。歯科医学に専念していた吾々としては、人の配在の為と
はいえ、何だか歯学をもてあそばされたような気がしたのは、当時の吾々の偽らざる心境
だったということが出来る(下線村上)。 15)
この文章の中で長尾は歯科医学とまず書き、次に下線で示したように、これを歯学と言い
直している。なんでもない事のようだが、ここには、一度この教室に籍を置いたもののそ
の教室から家出のように飛び出さざるを得なかった医局員の母教室に対するアンビヴァレ
ンスな感情が滲んでいる。
いうまでもなく都築の後任問題が起こった時には、 歯学 という言葉は日本にはまだな
かった。あったとすれば、その用語は、筋学や骨学や 帯学というように、歯を解剖学的
に研究する学という意味で使われただけである。長尾がここでこの言葉にこめている意味
は、もちろん、それとはちがう。臨床歯科学を中心に、それに必要な周辺諸学科を綜合し
た、医学から半ば独立したもう一つの医学の体系というほどの意味である。医学から半ば
独立したもう一つの医学の体系という言葉など語義矛盾としか言えないような表現である
が、現今の 歯学 とは、私見では、こんな矛盾した学問体系でしかないのであるが、そこ
を論じるのは本稿の主題ではないので別の機会に譲ることにして、ここではあくまで昭和
9年の長尾に話を戻さなければならない。
長尾は、まさか自分が、都築の後任者として東大の教授候補になっていることなど夢想
もしていなかったにちがいない。一方、東大も真剣だった。何とかして都築の後を埋め歯
科という講座を存続させねばならない。長与又郎日記はこのあたりの事情を克明に綴って
いる。
【昭和9年3月3日】土 雪
一時 居室にて島薗、青山、高木、増田、都築五銓衡委員と都築氏後任について懇談二時
間に及ぶ。候補として挙げられたる数氏中、金森は健康の点において資格なき如く、結局
長尾、檜垣、田中(大連、京大出)三氏中に於いて銓衡すること適当なりとの意見に落付
たり。この際外科の若き優秀なる人材を歯科に仕立てることは上策に非ず。田中は京大出
なるも相当の人物なる如し。長尾は人物として最も宜しきも稍老いたり。比較的将来ある
は檜垣ならんか。
その内時機を見て、余が島峯と胸襟を披いて懇談、同氏の意見を聞き置くことは問題を円
滑に進行せしむる一手段なるべきを以て、之を一同に謀りその同意を得たるを以てこの日
はこの程度にて会議を終り、来たる十四日第二回会合を約して散会す。(以下略、ルビ村
上)
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やや老いたりと評された長尾はこの時47歳だった。東大教授は60歳が定年で、少なくと
も在職15年程度の活躍が期待されるので、確かにやや老いているといえば言える。金森
は長尾より卒業年次で3年下、檜垣は5年下である。この頃、京大では滝川事件が起こっ
て、 苦悶するデモクラシー の時代に突入しかけていたが、東大ではまだ激しい動きは起
こっていない。
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【昭和9年3月8日】木 曇
*帝大歯科教授銓衡の根本問題
2時約によりて島峯徹君と学士会館に会合し、都築氏の後任に関し、余の意見と希望とを
述べ、同氏の諒解を求む。島峯、従来大学と高等歯科医専との関係 角面白からざりし
も、余の態度方針を聞きたる以上、一切を水に流し、好意を以て協力熟考すべしとて、十
六日頃再会を約す。(略)結局同氏は帝大の歯科教授は大学出身たるを要すという点に於
て一致し、島峯門下よりすれば、長尾、金森、檜垣の外 中村(平尾)なり、その他なら
大阪の弓倉19)は極めて適任なり、この外にて絶対に東大教授として推薦し得るものは
なし、田中以下皆駄目なり、云々。
余は大阪より呼ぶを好まず。長尾以下三氏の内を是非割愛せんことを望んで訣れたり。
この頃東大ではちょうど各科の教授が交代する時期にあたっていたとみえ、長与の日記
には様々な教授候補の選考経過がびっしりと記録されている。3月10日には東龍太郎が薬
理学の教授に決まった。これも懸案の一つだった。東の記事に続けて長与は次のように書
く。「次の歯科教授の後任も多少の紆余曲折を経るとしても、結局島峯氏の好意により、
余の態度次第にては無事に適当の候補者を得ることとならん[と]信ず。余としてはその
決心にて飽く 素直に胸襟を披きて交渉する考えなり。」
松香の残り香
素直に胸襟を披いて交渉するというところに長与又郎の人格者としての真骨頂がある。こ
の誠実さは、松香と号した父専斎ゆずりといっていいかもしれない。
又郎は専斎が宰領するこの上なく恵まれたハイカラな家庭で成長した。その家は麻布の
内田山という高台の3千余坪の大名屋敷の跡地にあった。邸内には巨木や滾々と湧く泉な
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どがあり、時には雉や狸が出た。専斎は庭の大部分を芝生にし、子供たちが駆けずりまわ
れるようにした。彼はこの家から2頭牽きの馬車で役所に通った。
専斎は男女8人の子に恵まれ、又郎は第5子の三男だった。男が続けて生まれたので、
「又、男か」というので又郎と名付けられた。幼時から兄弟の中の出来物といわれていた
が、16歳の時、一緒に海水浴をしていた1歳下の妹藤子が 死するという事故があった。
大波に足をすくわれ深みに流されたのである。藤子は、又郎が伸ばした手先をかすめてみ
るみる沖に流され、やがて水没した。子供たちには車夫がついて監視していたのである
が、その車夫すらやっと救いあげられたという始末だった。
妹は三日のちに、水ぶくれして見るも無惨な姿で浮き上がった。花園のような一家はこ
の惨事で真っ暗になった。又郎はこの妹を非常に可愛がっていた。彼は悲嘆と自責の念に
かられ、再起が危ぶまれるほど衰弱した。両親である専斎夫婦も、この事件があってから
ガックリと老けた。又郎の末弟の善郎はのちに白樺派の作家になったが、自伝的小説
20)のなかで、この頃の又郎を、何時も眉間に皺を寄せている痩せぎすで寡黙な少年と
して描いている。
専斎は早くから、自分の志を継ぐ者は又郎だと思っていた。しかし又郎は、海軍の軍人
か政治家を志し、一高では最初文科に入った。しかし、専斎は軍人や政治家になることに
賛成せず、最も崇高な職業はコッホのような医学者になって公衆に貢献することだと言
い、医学に進んで生理学か病理学を専攻するよう又郎を説得した。この経験は島峰と似通
った所がある。
父に従順だった又郎は文科から理科に転じた。このため一度一高を退学している。
「噫、儘ならざる哉、人生」と又郎が祕かに日記に記し、父親への鬱懐をもらしていたと
は善郎の言である。この頃、何を考えたか、又郎は一高の野球部に入り、勉強はあまりせ
ずこのスポーツにのめり込み、キャップテンまでつとめあげた。この間に彼は徐々に健康
と快活さを取り戻したらしい。(後に東大の野球部長に就任し、幾つかの逸話を残してい
る。この頃は、まだ六大学のリーグ戦などはなかった。)
東大では医学部に進み、卒業後山極勝三郎の門下生となって病理学を専攻した。山極は
周囲の陰口をものともせずウサギの耳にコールタールを塗り続け、世界で初めて化学物質
の刺激による人工癌を作ることに成功した大学者で、ノーベル賞候補に4回推されたが、
人種差別からか受賞されなかった。「癌出来つ、意気昂然と二歩三歩」という山極の句
は、私たちの年代の医学生なら誰でも一度は聞かされた覚えがある。
又郎は明治42年にドイツ留学より帰朝、ただちに講師になり、その半年後に助教授に
なった。この頃から明晰な頭脳と絶倫な活力で学内で一目おかれる存在になった。生来音
楽や絵画を好み、帰朝の際には「カルメン」など日本では珍しいレコードを沢山持って帰
った。毎朝それを蓄音機で鳴らしてハイカラーにネクタイを結びキビキビと出勤してゆく
気鋭な様子は、寡黙で暗鬱な少年時代とは別人のようである。(ちなみに記しておく。又
郎の留学は私費による自由なもので、その費用は、わが国で初めての胃腸病院を麹町に開
設して隆盛をきわめていた12歳上の長兄称吉の援助によった。称吉は東大を中退して17
歳でスイスに語学留学し、続いてドイツのミュンヘン大学医学部を卒業して医師となった
ドクトル・メディツィーネで、留学するときは?外と同船だった。称吉は万事派手好きで
その生涯は数々の逸話で飾られているが、当代きっての名医として盛名は世間に鳴りひび
いていた。
明治43年、修善寺で大吐血して 死に陥った夏目漱石のため医師を修善寺に派遣し、
帰京した漱石が直ちに収容されたのも彼の病院で、称吉は獅子奮迅の働きをみせていた
が、漱石の入院中突然44歳で他界してしまった。漱石は「思ひ出す事など」というエッ
セイで、看病してもらった医師が死に、死にかけた自分が生き残ったというしんみりした
心境を語っている。
さて、話を続けるのは、その弟の又郎についてである。
又郎は明治44年11月に33歳で病理学第二講座の教授となったが、翌45年7月に思っても
みなかった急性腎炎に罹患し、半年ほどの療養生活を余儀なくされた。これまでの何不自
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又郎、伝研所長となる
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由ない生活と周囲からの期待が大きかっただけに、この病気や兄称吉の死が又郎に与えた
挫折感は深刻で、闘病を機にトルストイに親しむなどして、彼の心の襞は一段と深く刻ま
れていったようである。
大正3年には、北里柴三郎が所長をしていた伝染病研究所が突然内務省から文部省へと
移管されたことによる大紛争に巻きこまれ、医科大学長だった青山胤通と、父専斎以来昵
懇だった北里柴三郎という二人の大先輩の板挟みになり、神経をすり減らした。この移管
は、北里を排斥していた大学派の総帥ともいうべき青山胤通が、時の総理大臣大隈重信を
動かして、その権力で北里を排除しようとした策謀によるものというのが世間での専らの
だった。青山は大隈の主治医だった。
この問題は、ただ医学界という専門家の業界で問題になっただけではなく、当時のジャ
ーナリズムを巻き込む大騒動に発展した。又郎としては、とんでもない苦境がいきなり天
から降りかかってきたようなものであるが、その間の彼の誠実かつ思慮深い挙動は、ただ
見事の一言に尽きる。島峰がドイツ留学から帰朝したのはこの年の12月である。
一方、島峰は、これまで何度も書いてきたように、長与とは比較にもならぬ極貧の底か
ら い出して、内藤久寛の援助でやっと東大が卒業できたような育ちである。あまりにも
異なった育ちから両者のソリが合わなくても一向不思議はなかったが、若い時からこの二
人の仲がよかったのは、まるで奇跡のようにさえ思われる。しかし、よく考えてみると、
これは奇跡でも何でもない。又郎は、父専斎の若年のおりの苦闘をよく心に刻んでいた。
私は、又郎は島峰のうちに、若い時の父の姿を重ねて見ていたのではないかと思ってい
る。卒業は長与が一級上だったが、年齢は島峰の方が一歳上である。
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長与は大正8年6月に41歳で、病理学教授と兼任して伝研所長になった。
かねて伝研側では、この件を青山らによる北里潰しの策謀ととっており、北里を敬慕する
北島多一、志賀潔らの 技師 と呼ばれる幹部所員が抗議のため一斉に退職し、北里は彼ら
を擁して新たに私立北里研究所を設立(大正4年)し、活発な事業活動を展開していた。
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北里はその昔、明治22年に、衛生学教授緒方正規の脚気菌説を批判したことがある。
北里は緒方とは郷里の熊本医学校で同輩だったが、様々の事情から東大入学が遅れ、卒業
したのは緒方の3年後の明治16年30歳の時で、晩学だった。緒方は卒業後良精と一緒にド
イツへ留学し、明治17年にコッホの元から帰朝して衛生学の初代教授となったことは前
に述べた。
北里は卒業後は内務省に勤め、衛生局東京試験所で緒方から細菌学の手ほどきを受け、
その後内務省からドイツへ留学した。その際に、北里は緒方からコッホのもとで研究でき
るよう懇切な紹介状をもらっていた。いわば、緒方は北里の同輩ながら師匠すじに当たる
といえる。この北里が論文で緒方の学説を批判した。そのため北里は、東大の有力な学者
から総攻撃を受けることになる。「師弟の道を解せざる者」(東大総理・加藤弘之)。こ
れが東大の総意であり、北里に押された焼印である。森?外は北里非難の急先鋒の一人だ
った。
今になってみれば、?外の心が如何に科学的精神とは遠いものであり、師匠のコッホす
らその学才を称賛し、筆頭弟子として待遇した細菌学者北里柴三郎の姿勢が、科学的真実
に立ち向かう上で誰もが具備すべき科学精神(批判精神)の発露だったことがよくわかる
のであるが、当時の東大という組織は、科学研究のうえでは研究者とともにまだ未熟で、
あくまで先進国に追いつくための富国強兵策の一つとして創られた官僚養成所にすぎなか
った。ただ、大学の講座という機構に所属する官僚は、専ら研究や後代の教育という職分
にあたっていたところが一般の事務職とはちがっていたというにすぎない。だから当然の
事のように上司の批判は、(仮令それが学説であっても)許されない。(私は?外の科学
的評論まで称賛する?外崇拝家たちの文章をみるたびに、思わず苦笑したくなる。)
東大が北里を排斥するようになった原因には、もうひとつ明治23年(1890)にコッホ
が発表したツベルクリンをめぐる日本での騒ぎがあるが、この悶着は様々な書物で伝えら
れ、今ではインターネット上にもいい記事21)があるので、本稿では省略する。そんな
こんなで北里は、母校の東大から排斥され続けた。
北里が育てあげた伝研は、ドイツから名声を博して帰朝したものの東大からは冷遇され
続けている北里を見かねた福澤諭吉が、私費を投じて芝公園内に作ってくれた十余坪のご
く粗末な私立伝染病研究所がその発端であるのは前に述べた。その後諭吉と親しい長与専
斎や長谷川泰らの尽力で内務省の公的な助成金が受けられ、やがて内務省管轄の官立研究
所となって、次々と世界的な業績をあげていた。
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専斎は諭吉の3歳年下で、適塾の塾頭だった諭吉が江戸に出るため退塾したあと塾頭に
なった。諭吉と専斎は、緒方洪庵の門下生として生涯にわたって親友でありつづけた。
専斎は17歳で適塾に入門した。
彼の祖父長与俊達は、肥前大村藩の声望ある漢方の藩医だったが、「解体新書」を読んで
豁然と悟り、蘭学に目覚め漢方を捨てた。当時蘭学は国禁の学である。そのため俊達は典
医から外され、20石の扶持を全部召し上げられた。このため長与家は急に困窮するよう
になったが、俊達は不撓不屈で、この悲運にも屈せずに勉学を続けた。専斎の父中庵は、
この俊達が見込んで養嗣子にした漢方医で、この頃は江戸で法印多喜楽真院一門の塾頭を
していたが、養父に同調して郷里に戻り、漢方を捨てた。父子は机を並べて蘭学に励んだ
が、貧乏な中で勉強しすぎたためか中庵は喀血し、34歳で4歳の専斎を残して若死してし
まった。
俊達は大いに いたが、それでも挫けない。ある時、藩公の子息が病気になった。漢方
の藩医連中は「水腫」とみたてて治療を施したが、一向によくならない。そこで俊達が呼
ばれた。俊達はこれを「回虫」と診断し施薬すると、患者はたちまち快方に向かった。藩
は改めて俊達の実力を認め、元どおり扶持を回復した。
扶持が戻ったので、俊達は残されたたった一人の男孫の専斎に望みを託して専ら教育に
あたり、9歳のとき彼を養嗣子にし、17歳になったとき、生き別れ覚悟でこの孫を大阪の
緒方洪庵にあずけ適塾に入門させた。はたしてこれが二人の永訣になった。
それからの専斎については自伝がよく伝えている。彼のどこか 口一葉の文体とも響き
合う雅文で綴られた「松香私志」22)は、「福翁自伝」とならぶ自伝の傑作であるが、
文語文は御免という向きには、末子の善郎が書いた「長与専斎」23)がよろしかろう。
専斎はながく内務省衛生局長の職にあった。
彼は北里にドイツ留学の辞令を与えた恩人である。この年の内務省の留学生の枠は1名し
かなく、その1名も、ジョン万次郎の息子中浜東一郎で既に決まっていた24)。どうして
もこれは動かすことができない。だがコレラ等の伝染病を防治する行政当局として、内務
省は何としても北里のドイツ留学を実現させ、正統的な細菌学者を省内の手中に収めてお
く必用があった。当時、北里の名望は、国内でも高まりつつあったのである。
専斎の上司である時の内務 は山県有朋で、決済が冷厳なことで鳴り響いていた。専斎
の直属の部下である次長は石黒忠悳だった。石黒は専斎の7歳年下であるが、緻密だがど
こか線が細い専斎を補佐せしめるため、山県が軍医から抜 して、兼務としてこの位置に
据えていたのである。
石黒の官界での遊泳術は、この頃はすでに名人級になっている。専斎が石黒に、なんと
かして中浜のほかに北里の留学も実現させたいものだがと意中を漏らすと、石黒は慎重に
ツテを って山県を動かすことに成功し、北里の留学が実現した。このため、北里は石黒
とも結ばれることになる。後に石黒らが大日本医学会を創立した際に、北里が東大派こと
に?外の攻撃をものともせず、第二回目の大会会頭を務めたのは前に書いたとおりである
が、その背後にはこれだけの事情があったことは知っておきたい。
緒方洪庵が諭吉や専斎を育てたように、諭吉と専斎は北里の大成に力を貸した。こんな
ことから北里は専斎の家族とも親しく、又郎は北里に媒酌人をつとめてもらっていた。又
郎の伝研所長就任披露宴に果たして北里が出席するのか。こんな話題が新聞を賑わすほ
ど、伝研の移管をめぐる北里と東大の対立は世間の注目を浴びていた。
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この頃の島峰は、石原との確執から、東大歯科の講師をやめるのやめないのというしご
く冴えない立場に置かれていたのであったが、又郎は島峰を就任披露宴に招待した。帝国
ホテルで行われたこの会には、医学界政界の大物ばかりか、北里の後を追って一斉に伝研
を退職した北島以下の北里研究所の幹部所員も連なっていた。61名がきら星のように居
並んでいたこの会に、又郎に比べれば殆ど無名にちかい島峰がどんな思いで列席していた
のか想像してみてもわるくない。
席上でスピーチを乞われた北里は、又郎の所長就任を慶祝する堂々たる挨拶を行い満堂
を感銘させた。又郎の所長就任は絶大の効果があった。この時以来、北里一門の東大に対
する積年の怨念は消失していったと伝えられている。
この後北里は、大正6(1917)年慶応義塾医学科の初代科長となり、大正9年に義塾が大
学に昇格すると初代医学部長になった。また、大正12年(1923)に日本医師会が創設さ
れると、初代会長に就任した事はよく知られている。(ちなみに北里の後任の慶大医学部
2代目医学部長および日本医師会2代目の会長は、いずれも北里の高弟の北島多一が就任
した。北島は東大医学部を首席で卒業した人であるが、北里を敬慕して終始北里と行を共
にし、二度と東大には戻らなかった。赤痢菌の発見者として著名な志賀潔も同じだっ
た。)
医科大学長の青山胤通は、伝研が東大に所属することになったため一斉に退職した伝研
の研究員の後を埋める人事に心を悩ませていた。又郎が所長に決まる前のことである。伝
研の事業は研究だけではなかった。研究とともにワクチンの製造という、もう一つの大き
な事業を抱えていた。この事業は実際的技術を必要とし、知識だけでは解決できない。
北里一門の最高弟は北島多一であるが、北島は北里とちがって、別に東大から憎まれて
はいない。彼は東大の首席卒業者である。首席で卒業したという事は、当時の東大にあっ
ては、どの教室に進もうと、同級生のうちで真っ先に手をあげる権利があるという事であ
り、教授となるのはほぼ約束されているようなものである。
青山は伝研が所管がえになっても、北島を筆頭とする研究者らは、大学でのポストを用
意さえすれば組織に残るとふんでいた。ここらあたりが青山という豪傑の脇の甘さであ
る。しかし彼の読みに反して、一門は終始北里と行動を共にした。
又郎は青山とは逆の読みをしていた。
青山も北里も、部下には容赦なく雷を落とす。この点両者はドイツ仕込みで同じである。
しかし、青山の権威主義的な雰囲気が浸透しだした大学とちがって、北里の伝研には、教
授と教室員という講座特有の陰湿な権力関係とはちがうカラリとした空気があり、所員一
同が嬉々として北里に従っていることを、又郎は敏感に察知していたのである。こういう
柔軟な感受性が、又郎という医学者に、単なる秀才教授とはちがう品格と奥行きをもたら
している。
伝研の人材を探し求めているうちに、青山は島峰に目をつけたらしい。何しろ細菌学が
最高に高揚していた時代である。島峰は細菌学の専門家でこそなかったが、梅毒の原因菌
であるトレポネーマ・パリダの純粋培養に成功したという赫々たる業績がある。長尾はこ
んなエピソードを伝えている。
伝研に有能な学者を集めるに、苦心されていた青山先生は、スピロヘータ純粋培養
で、独乙学界に名高い徹先生を迎えようと考え、まず将を射んためには馬のたぐいであっ
たか、当時実業界に雄飛していた日本石油内藤久寛氏を説き、島峯をくれぬかと、話を進
められたよしだが、内藤氏は『島峯は最初から歯科をやらすことにして留学させたのだか
ら、折角だが伝研には差上げられない』とお断りしたと聞いている。 15)
内藤と青山が懇意だったことは様々な資料からあきらかであるが、この挿話は、内藤の
自伝にも青山側の資料にも残っていない。
また話が外れた。又郎の日記へと戻らねばならない。
【昭和9年3月14日】水 晴
午後一時、歯科後任教授銓考[銓衡]委員会第二回。島峯との会談の状況を報告し、
種々意見の交換の結果、長尾、金森、檜垣の三名の内一人を島峯が割愛し、今後大学と提
携を希望するとの誠意を認め、且つこの三氏は銓考委員会にても最初候補に上りたる者な
れば、十六日島峯の帰京を俟ち、余会談の上第一第二候補位を定めることの全権を委任
す。二十三日第三回委員会を開き、その席に於て委員会案を決定することとす。
19日には、定年退官した3人の教授の退官(賜)金に関して文部省と大学との間に意見
の開きがあり、教授らのために文部省と増額交渉をし、かなりの好条件を獲得してい
る。 又郎は多忙を極めている。癌研究所の会頭・所長にも就任し、この組織を改組して
先進国の癌研究施設にも劣らぬ研究所にし、附属病院(康楽病院)を作るため一瞬の時間
をも惜しみ畢生の情熱を傾けている最中である。しかし、だからといって歯科の教授選考
にも瑕疵があってはならない。ここらあたりの誠実さが又郎の真骨頂である。
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【昭和9年3月20日】火 晴
十時、御茶の水歯科高等医専に島峯校長を訪い懇談時余。島峯曰く。先般来の会見にて余
が従来の関係を一掃し虚心坦懐の態度にて大学歯科講座と歯科医専との学術的提携を希望
し、之が正道なり、従来が変則なりしとの見解に共鳴して、大学側の希望を容るることに
決心し、この旨を腹心三教授長尾、金森、檜垣の三氏にも打明けたる由にて、島峯は結
局、推薦する以上責任を以て大学教授として最適の人物を推すべし、檜垣はまだ弱く、他
の二者内、金森は学者として長尾より上にして且つ人物も教授に適せり、金森を推したし
と述べたり。
余は金森の健康充分ならずと聞きたり。この点如何と念を押したるに、一時胆石症に罹り
たるも爾来健康に復し日々出勤精励しおれり。その方の心配は無からんと云う。余は健康
さえ良ければ金森を第一に推したる人も銓考[銓衡]委員中にありし位なれば、それにて
結構なるべし。さらに銓考委員会を開き、その上にて教授会に諮る順序をとることを約し
て訣れたり。
一時帰宅。午後四時、再び大学に赴き、余の居室にて歯科講座後任銓考委員会を開く。
(略)余の今朝島峯と会見の状況を委曲(略)報告し、意見を求めたる所、何れも金森に
落着することに異議なし。大学と医専と提携するに至りしは誠に慶賀すべきことなり。都
築氏は特にこの事を述べたり。但し金森の現今の健康状態を一応取調べる方万全なれば、
島薗、都築両氏、夫々金森の動静を詳[らか]にせる方面に於て調査することとす。大し
た故障起らざる限り来る二十四日には金森を第一候補として教授会に報告することに決
す。 (下線、村上)
長与が書いているように、島峰は長尾と金森に東大教授に就任する意思があるかどうか
打診した。長尾は即座に断っている。「先生のお側において頂きたい」これが長尾の答え
であった。「それでは金森をやるより仕方あるまい」島峰はそう呟いたという。しかし、
又郎の日記に記されているとおり、島峰の本意は最初から金森にあったと見てまちがいな
い。金森は島峰の慫慂を受けいれた。これはただちに島峰から長与に伝えられただろう。
しかし、これで一件落着とはゆかなかった。
金森にはかねて病弱だという があった。長与はこれにこだわった。ここには、自分が
病理学教授に就任した直後に腎炎に罹患し長期休職したことや、昭和5年から6年にかけ
て胃潰瘍で大手術を受けなければならなかった苦い経験が反映している。
【昭和9年3月22日】木
大学。島薗 都築と懇談の結果、金森のGalllenstein[胆嚢結石]は一昨年より昨年に
かけて両三回の発作あり(長きは三週)。その後は健康にして日々精勤し居る由。併しな
がら乍ら健康問題は重大なるを以て之を二十四日の教授会に提出するを中止し、来学期ま
で延期し一層慎重に調査することとす。
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確かに金森は教授就任の内意を承諾した。しかし、自分の病弱説が東大に広まっている
ことに、金森は頑固に抵抗した。たしかに2年前胆石で3週間ほど療養しはしたが、病気
したのはその時だけだ。しかもその後は一向に支障なく勤務に励んでいる。
選考委員の一人だった島薗順次郎(内科学教授)は長与の同級生で島峰とも親しく、何
回か金森に接触して彼を診察しようとしたが、金森は頑固なまでに承諾しなかった。この
ためだろうか、歯科教授選考問題は前進せず、又郎の日記にこの件に関する記述が現れて
くるのは20日あまりたってからである。
金森がなぜ島薗の診察に対して頑固に抵抗したのか、その理由はわからない。かつて彼
は島峰に入門したあと、石原教室の医局長北村一郎や先輩医局員だった長尾らの驥尾に附
して、石原に送付した桂冠状(退職勧告状)に署名したことは前に述べた。この事件への
わだかまりが(長尾ほど強烈ではなかったとしても)、金森の心中に尾を曳いていなかっ
たとはいえない。長与らはもちろん、そんな歯科の教室員だった者の細かい心理の事情ま
では承知していない。しかし何時までもグズグズしてはいられない。
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【昭和9年4月13日】金 晴
三時、歯科銓考[銓衡]委員会(第三回)を余の居室に開く。島薗、青山、増田、都築四
氏、高木は病気欠席。
島薗より塩谷卓爾、石川一佐その他諸氏に就て聞き正したる金森の健康状態に就き報告
あり。何れも昭和七年十月最後の軽き発作ありし以来胆石症の症候なく金森自身の言う所
も同様なれば、之以上調査の要なく、大体の形勢より帰結して金森を第一候補者として報
告することに議一決す。長尾、檜垣両氏も之と同時に候補者として報告することに決す。
理由
一、大学歯科教授は医学士たるこ[と]可とす。この点島峯の持論と合す。 一、歯科医師は候補者たる資格なしとせば、都築後任たるものは島峯の東京高等歯科医
学校より採用することが自然なり。(略)
【昭和9年4月14日】土 晴
(略)歯科講座担任教授選挙
歯科銓考[銓衡]委員会の方針及び協議の経過より、島峯との交渉経緯を委細説明し、
結論として金森を第一候補として報告する旨を述ぶ。島薗より金森の健康状態に就き、都
築より業績に就て報告あり。竹内(賛成、同郷)、永井(長尾説)等あり。論議も尽きた
れば投票を行う。出席二十五 金森二十二 長尾三 金森虎男と決定す。電話にて島峯に
報ぜんとするも居所不明。金森に決定の旨を報じ、当分発表を差控えておくを希望す。
【昭和9年4月18日】水 晴
島峯と電話にて金森採用待遇條件を議し決定す。三等八級(現在は二級)。
高等歯科では当時の金森の待遇は三等二級だった。東大教授に転出したことで、金森は
却って減俸になった。これは彼には意外だったようで、後年彼は、東大教授に栄転したと
たん減給になったと随筆でグチをこぼしている。ともあれ、塩田の定年退官に伴う都築の
外科教授への転出、それに伴う歯科教授の後任問題はすべて落着した。以後、歯科の問題
は長与の日記からは姿を消す。長与自身この年の12月には小野塚喜平次25)の後任の総
長に選出され、猖獗する軍部の教育行政への介入が露骨になってゆく中で、主として経済
学部に巻き起こったマルクス主義をめぐる激しい思想闘争に端を発する派閥抗争に巻き込
まれ、心労を強いられてゆくのである。
金森虎男を東大に割愛したことは、島峰にとっては辛い決断の一つだった。
しかし、一専門学校にすぎない高等歯科が、いつまでも東大医学部と不仲でいることは何
とかして改善しなければならない。文部省会計課長として予算折衝などで島峰と浅からぬ
関係にあった河原春作26)は次のように回想している。
東京医科歯科大学の今日あるを得しめるまで、島峰さんの苦心は並大ていのものでは
無い。而し、島峰さんを輔けた両翼の一、長尾優さんを学校内に残し、他の一、金森虎男
さんを東大教授として東大歯科の主任たらしめた時の心のなやみは、島峰さんの幾多の苦
心中、最も大きなものであったかも知れない。
島峰をよく知る人の言というべきであろう。
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しかし、長与は後になって、東大が島峰から受けたこの恩恵に充分なお返しをした。昭
和14年5月、高等歯科の微生物学教授だった長谷川秀治27)が東大伝研の教授として転出
した後任者に、自分の女婿(長女桃子の夫)の清水文彦が、伝研技手から高等歯科の教授
に転任することを認めたのである。長与はこれを「長谷川教授外数教授の推薦に基づき島
峰校長の決断に依るものにして抜 の任命なり」と日記に記しているが、光彩陸離たる長
与一族の将来性ある細菌学者で、しかも既に将来が約束されている田宮猛郎の義弟だった
清水が、歯科の専門学校の教授になることがはたしてそんなに抜 だったかどうか、私に
はよくわからない。しかし、清水の東大入学は昭和3年だから、教授に就任するには非常
に若かったことも確かであり、当時島峰が心魂を傾けてこの学校に集めていた基礎医学者
は、当時の日本の医学界でも最高レベルの人材ばかりだったことを思えば、この長与の言
も頷けないことはない。清水は後に当時をふり返って、「お前もとうとう入歯学校の先生
になるのか」と口の悪い同僚から冷やかされたと記している28)。清水はのちに島峰の
出世論文であるスピロヘータ・パリダの純粋培養研究の論文に関してやや詳しい説明文
29)を残しているが、島峰の細菌学的業績について専門学者が残した唯一の解説であ
る。このことについては後述する。
島峯の苦心、基礎医学者あつめ
話がすこし進み過ぎた。ここで再び10年ほど時間を らせてみなければならない。
高等歯科医学校の発足は既述したように昭和3年であるが、この建学以来清水文彦が微生
物学教授として赴任するまでの凡そ10年間に、島峰が苦心して招聘した基礎医学の優秀
な人材について述べておく必要がある。
歯科医師の養成にあたって基礎医学を重視することは、島峰のかねてからの方針であっ
た。今日の常識を以て見れば、このことは至極当然のようにしか思われないが、当時は
「歯科の学校に基礎医学の教室を置くのは沙漠に種を撒くと一般で永久に芽を出す事はあ
るまい」と部外者がいうばかりか、「内の生徒の間にも歯科を出て基礎医学をやるのは身
の程知らぬ邪道だ」30)といわれていた頃である。このこと一つをとってみても島峰の
先見性と苦心のほどがわかる。それはともかく、長尾の労作1)35頁に列挙されている各
基礎医学の教授名と括弧内に示した就任日時を見ると次のようになっている。坂本嶋嶺
(生理学・大正15年5月)、藤田恒太郎(解剖学・昭和4年4月)、岡田正弘(薬理学・昭
和4年6月)、長谷川秀治(昭和7年6月)、宮崎吉夫(昭和7年12月)、寺田正一(生化
学・昭和9年6月)。これらの人材の供給源はいずれも東大だった。だが、この記述に
は、どういうわけか巌真教のことが抜け落ちている。
巌は大正15年東大医学部卒業であり、卒業と同時に歯科医師試験附屬病院(通称・文
部省歯科病院)助手となった医学士で、卒業年次は岡田正弘の一年上である。同じ大正
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15年に同病院助手になった者に坂本嶋嶺がいる。坂本は大正7年の東大卒業だから、巌や
岡田よりかなり上である。彼らはそれぞれ将来を嘱望されていた者で、別に東大で不遇を
託っていたわけではない。
岡田によれば、巌は、「われわれが高校に入った年には、全国の高校といっても一高か
ら八高までしかなかったが全く同じ問題で、(略)この入試で全国中の最高点だったのが
巌君で、当時の受験雑誌などで日本一の秀才として騒がれた」32)人である。そんな巌
がなぜ卒業してから東大の教室を選ばず、直に島峰門下に馳せ参じたのか理由はわからな
いが、彼は高等歯科発足とほぼ同時に講師(昭和4年4月)、から助教授(同年5月)を経
て教授(昭和6年3月)33)になっている。ただし、その専攻科目は臨床ではなく、医学
とは全く無関係な金屬等の歯科材料の理論と応用を研究する歯科理工学であり、その後の
巌は、学会の会長には就任しても、専門学校や大学の学生という、生意気盛りの青年を相
手にする歯学部長等の管理職には生涯就くことなく終わった。その風貌も講義ぶりも、医
学部卒業の学者とはとても思えない禅僧のようであり、学生だった私は今でもよく覚えて
いるが、気体、液体、個体の物質の3態についての講義など、コチコチの理論ずくめにな
って当然の話が、まるで長閑な南画でも見ているような話ぶりだった。
一方、坂本嶋嶺は巌や岡田らに比べればはるかに年長で、大正7年の帝大医科の卒業で
あるが、卒業後ただちに生理学教室研究員となり、同11年には助手に任用され、13年に
は千葉医大の講師になっている。それがどういうわけか、15年に千葉医大講師より一格
下の文部省歯科病院の助手になるのである。おそらくこの人事の背後には、関東大震災で
東大の殆どの施設が壊滅した事と、ドイツ留学という条件が、島峰から坂本の上司であっ
た橋田邦彦に提示されたのではないかというのが、私の推測である。事実坂本は、学校が
発足する前の昭和2年4月に文部省在外研究員としてドイツに向かい、橋田直系の電気生
理学の研究を行い、昭和4年4月に帰朝と同時に同日づけで高等歯科医学校講師に就任、
翌5月に教授に就任している35)。生化学の寺田に関しては前記の長尾の労作1)中の同頁
にかなり細かい記述があるので、ここでの説明は省くことにする。
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これら基礎医学の教授陣の人集めでの島峰の苦心は、一通りではなかったらしい。
島峰は昼食は必ず東大の各科の主任教授らが昼食を食べにくる山上御殿でとるようにし
て、教授たちとの雑談の間に、人材に関する様々な情報を蒐集しては高等歯科にもって帰
り、夜遅くまで長尾、金森らの腹心と相談しては候補者の所在とその人物を確かめ、彼ら
の主任教授の諒解を求めて機敏に立ち働いた。島峰の行動力や人物を見る眼識が最も光彩
を放ったのは、こういう局面だっただろう。こうして確保した高等歯科の上記の諸教授の
うち、坂本嶋嶺、藤田恒太郎、長谷川秀治、宮崎吉夫の四人はその後東大教授に転任して
斯学の権威者となり、ただ岡田と巌だけがその後もながく高等歯科、医学歯学専門学校、
医科歯科大学と変遷する中で生え抜きの教授として勤続し、特に岡田は、長尾のあとの三
代目の学長に就任したが、彼はその間に、歯科の学校でなければなし難い「硬組織の生理
及び薬理の研究」で学士院恩賜賞を受賞した。この事実一つをみても、島峰の人事が如何
に周到であり成功を収めたものかがわかろう。岡田の研究は、その第1報は昭和13年の日
本医学会総会の薬理学会で発表したものであるが、昭和37年に学長に就任して実験室を
離れる時に、ちょうど第100報に達した長年月にわたる大研究だった。上記諸教授らを第
一世代とすれば、清水文彦は第二世代の教授陣の一人という事になろうか。
歯科技工をさせられた基礎医学者たち
島峰は、こうして集めた基礎医学の諸教授に、まず最初に、歯科の学生たちが学ぶ歯科
の技工の実習を命令した。長尾や金森は歯科の臨床に従事する以上、技工操作を習得する
のは当然といえるが、文献を読んでは実験し、それを基に思索して講義や論文を書くのを
主な仕事とする基礎医学の教官に歯科技工の修得を義務づけた所はいかにも島峰らしい。
島峰もドイツでの歯科学の履修の過程で、歯科技工の習得には苦労したものと思われ
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東大以上の研究施設 坂本嶋嶺の空前の接地工事
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る。 当時は歯科技工士という職種の技術者は、まだ制度のうえで法制化されていなかっ
た。歯科医師は免許を受けて一歩社会に出れば、夜遅くまで、昼間診察した患者の義歯や
人工歯冠やブリッジの製作のため歯科技工をするのは当たり前だった。それが厭なら歯科
医師をやめるか、技工の徒弟を雇いこれを仕込んで自分の半身とするより他はなかった。
こんな職人仕事の経験のない大学出の医学士たち特に基礎医学者には、これはかなり辛か
ったにちがいない。
技工をする上で何より必要なのは先ず精妙に手先を動かすことであり、金屬や石膏等の
材料の物性に慣れることであり、鋳造や鑞着等に必要な火炎や、熔けた金屬の色からその
温度を読み取るなどの経験をつむ事である。これは陶芸家が土を捏ねて形にした壺や茶碗
の原型を、釉薬を塗って窯の中で火炎の色を読みながら陶器に仕上げてゆくような完全な
職人仕事である。こういう点、歯科の学生は、全員が技工の修得を義務づけられる限り何
時までも職人的であり続けざるをえない。その分だけ外国語で論文を読み書きし、最新の
情報に接して知力や想像力を鍛え、未知の領域を開拓し、批判力を養って国民の福祉に貢
献する事には疎くならざるをえない。(これは歯科の専門学校が大学院大学になり、歯科
技工士が法的に整備され、その養成学校が全国に普及した今日でも本質的には変わりはな
い。)
高等歯科は、皆こういう宿命に置かれた歯科医師を養成する学校である。それが理解で
きなければ、歯科の学校の教官にはふさわしくない。これがこんな命令を下した島峰の方
針だったのだろう。特に手先が不器用だったらしい金森は、歯科の臨床家になる以上技工
でも歯科医師には負けてはいられぬと、自宅の土間を技工室に改造して、病院から帰ると
銅冠や銀冠の作成に夜遅くまで自ら特訓したことをエッセイに書き残している。そしてそ
の分だけ、東大に転任して技工から解放された金森は、歯科医師養成制度の現状に厳しい
視線を放つようになる。一方こうした金森に、あくまで現状の二元制を奉じる長尾は、か
つての盟友である金森に対して、異和感と対抗心を感じてゆくようになる。
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こんな事を義務化する一方、島峰は基礎医学者らを極力優遇した。特に学校発足当時の
バラック校舎から 本館 と呼ばれる4階建ての本建築が昭和9年9月に始まると、島峰はそ
こに収容する各基礎医学者らの要望を極力取り入れてそれぞれ理想的な実験室を作り上げ
た。特に坂本嶋嶺の生理学の実験室の接地とシールドの工事は要求がうるさかった。
そもそもアースとは、使用する電気器具と大地との電位差がゼロに近ければ近いほど理
想的である。そのためには、その機器と大地を繋ぐ導線の電気抵抗ができるだけ小さい事
が必要になる。当時はまだエレクトロニクスの発達が未熟で、電線ひとつをとってもそん
なに抵抗の小さな理想的なものはない。そこで坂本は、コンクリートの鉄筋に直接アース
線を熔接する事を要求し、それが要求通り施行されているかどうか毎日監督した。そのた
め工事の職人から嫌われること一通りではなく、「あのうるさい奴、コンクリートの中へ
埋めてしまえ」といわれた程だったが、ごく微細な電位や電流を測定する電気生理学の実
験では、接地や電磁波の遮 すなわちシールドや機器の絶縁がいい加減ならば、それで測
定される結果などに何一つ信頼する事ができず、研究の信頼性はごく低いものにしかなり
えない。ただ、当時の日本では、まだそこまでの精密な電気生理学的実験をなし得る環境
が少なく、どこの大学にもそこまでの要求を充たした実験室が少なかっただけの話であ
る。まして建築工事の関係者など、アースなどは感電を防ぐため水道管に繋げておけばよ
いだろうという程度の知識しかない。
坂本は電気生理学を専攻した。これは彼の兄弟子にして師ともいえる橋田邦彦が、ドイ
ツで学んできた科学であった。橋田は今日でいう生理学とは、生命の機序に関する学とい
う意味で「生機学」ととらえ、生化学(Biochemistry)と生物理学(Biophysics)とを包含
するものと考えていたらしい。この場合の「機」とは「はたらき」というほどの意味で、
古い漢籍にしっかりした語源がある。彼に従えば、狭い意味での生理学とは、生命の機序
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を物理学的に解明しようとする学問なのであった。そのために欧文の「Journal of
Biophysics」を自費で刊行し、坂本はその編集を手伝った34)。
今でこそ脳・神経・筋の生理学は、その 刺激 の殆ども、その反応である 興奮 は全て
を電気的変化として捉えるので、生理学は全て電気生理学みたいなものであるが、日本で
この学問を始めたのは、大正11年(1922)に東大生理学教授となった橋田邦彦だといわれ
ている。坂本が生理学教室に入った時は、橋田はまだ助教授だったが、坂本はその橋田か
ら直接指導を受け、助教授からテーマをもらったというので周囲に笑われた34)。時の主
任教授は、東大の生理学初代教授の大沢謙二だったが、橋田は大沢に私淑する事一通りで
はなく、それに私心というものが全くなかった人なのでこんな事も許されたのだろう。現
今の大学ではとてもあり得そうもない。
その後橋田は教授になり、坂本は橋田の門下生となってこの学問を継承した。今でこそ
電位差や電流の測定にブラウン管オッシロスコープを用い、二次元の波形としてとらえる
のは普通の技術だが、当時そんな便利な器具はなく、あったとしてもオッシロといえば陰
極線オッシロスコープで、これは陰極に3万ボルト位の電圧をかけるというとんでもなく
扱いにくい代物で、東大では橋田だけが特別あつらえのこの機器で、二次元の波形を辛う
じて写真に写していた。ふつうはガルバノメーターという電流計を覗いてその針の動きか
ら微細な電位差の変化を読み取るのであった。
橋田や坂本の生理学は、一口に 刺激生理学 と呼ばれる。これは、なぜ、神経や筋にと
って電気が刺激になり、それに応じて組織に 興奮 なる電気的現象が起こり、それが信号
としてどのように神経繊維を伝わってゆくのかという事を研究の対象とする。その電位の
変化は10ミリ秒内外というごく短時間で終始し、またごく微弱である。その上これらの
変化は、いくら顕微鏡で標本をながめても目には見えない。筋肉の場合には繊維が短縮す
るからそれとわかるが、神経となると全くわからない。上記のアースもシールドも、その
ときとらえた電気的な数値を確実と言い切るための設備である。こうした学問を研究する
以上、これらの設備は必須なものなのである。
もと東北大学学長の本川弘一は橋田門下の生理学者で坂本の弟弟子だったが、この頃の
坂本をふりかえって「東京高等歯科医学校の教授として基礎医学の教室の建築について、
シールドその他の電気関係の観点から相当むずかしい注文をつけられて、当時の島峯徹校
長を困らしておられた樣子であった。私はこの話をきいて先生を尊敬こそすれ、うるさい
人だなどとは感じなかった。」36)と記している。
坂本は橋田が、昭和15年に、第二次近衛内閣を組織した総理大臣近衛文麿の要請に応
じて文部大臣に就任するため退官したあと、その後任として東大教授に転任したが、高等
歯科の研究室を離れることは最後まで心残りに思っていたらしい。すさがにそのアースま
では東大に持ってゆけなかったが、難解な方程式を解くために彼が日常愛用していた電動
計算機は彼と共に東大に移った。
橋田は近衛内閣の後の東条英機内閣でも文相を務めたが、別に文部省に特別な人脈があ
ってそうなったというわけではない。そもそも、橋田がなんで文部大臣などという政治の
世界に身を投じることになったのかは、門下生の誰もが、一人として今だに納得していな
い。文相に就任する前、橋田は一高校長に就任しているが、この時の橋田は、校長に就任
するため生理学の研究をやめなければならない事には相当の抵抗を示し、どうしてもとい
うなら、一高に生理学の実験室を作ってもらうとまで言い切っていた。そのため、校長は
東大生理学教授との兼任という形になっていた。それなのに、研究を諦め、教授を退官し
てまでの文相就任とは?これは現在まで依然として大きな として残っている。
橋田は秘書官として、門下生の内山孝一(後の日大教授)をたった一人秘書官として連
れただけで、親しい者の殆どいない文部省という役所に乗り込むような破目になったので
ある。その内山によれば、近衛文麿から首相を引き継いだ東条英機とは、「事局は外交に
よって解決する。総理大臣も企画院も文部行政には干渉しない」という約束ができ、留任
を乞われたので、その言を信じた だという。しかし、その橋田さえ、12月8日の真珠湾
攻撃については、予め何一つ知らされていなかった。当日の急な閣議の召集に「今日は何
の閣議だろう」と秘書官の内山に いたくらいである。そこで初めて、橋田は閣僚とし
て、開戦の詔書に副署することを求められた。
統帥権が天皇にあり、その天皇が開戦を決断した形になっている以上、一閣僚がこれを
拒むのは、自らその場で腹をかっ割いて諫死でもしない限り不可能である。「輔弼の任」
とは如何にも尤もらしい漢語であるが、内実は責任の所在をあいまいにする日本独特のも
たれ合い構造の外面を、ただ美々しく飾った空語にすぎない。しかし橋田は、この空語を
そのままにしてはおけなかった。この空語に自ら断った自己の命を充填することで、これ
が厳しい意味をもつ実語である事を世人に示した。この人としての誠実さを、自殺しそこ
なっておめおめ東京裁判に引き出された東条英機などと比較してみなければ、戦争責任論
など何一つ説得力をもたぬ詭弁の羅列でしかありえない。
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山極一三、日本初の脳波研究者
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橋田が文相に留任するに当たっての東条との約束は、確かに内山孝一が述べたとおりで
あったかもしれない。しかし全ての学生を戦争に狩り出すための学年短縮の勅令などが出
たため、科学教育の振興を主張する橋田と東条の間の溝は深くなり、閣議で不一致があれ
ば内閣は瓦壊することになるので、橋田は辞表を提出した。ある新聞は、橋田は内閣から
追放されたようなものだと報道したが57)、それが真実だったのだろう。代々木原で学徒
出陣の閲兵式が挙行されたのは、橋田の辞職後である。
橋田の言動や残っている著作のどこをみても、国民を戦争に駆り立てるような論調はど
こにもない。ただ文相として、戦場に赴く学徒を激励するような言葉を述べたのが、敢え
てそれだと言えば言えるくらいである。それなのに、敗戦でGHQから戦犯に指定された
のを知ると、橋田は従容として自らの命を断った。
橋田は教授に就任する前から道元に傾倒した仏教研究家としても著名で、何冊もの仏教
関係の著作を残しており、正法眼蔵の解釈などは仏教学者すら一目おく精密なものだと言
われているが、その思想は、私などの凡骨にはとても理解できない。
坂本はこの橋田の後を引き継いで、橋田門下の優秀な生理学者を戦後皆大きく育てあげ
た。
坂本に代わって高等歯科の生理学教授に赴任したのは、山極一三である。山極は大正
13年帝大医科の卒業で、卒業後直ちに橋田の門下生となり、昭和6年12月から橋田教室の
助教授を勤めていた。橋田、坂本と続く刺激生理学を研究テーマとし、橋田門下で最優秀
の学者だといわれていた。昭和8年∼11年まで主としてケンブリッジ大学のエイドリアン
教授の下に留学した。エイドリアン教授は、山極が留学した前年に、神経細胞の機能に関
する発見によりノーベル賞を受賞していた。
ケンブリッジで開催されたその年の生理学会で、山極は不思議な示説を見た。なんとエ
イドリアン教授が頭を繃帯でグルグル巻きにして演壇に登壇したのである。ハテこれは?
と思ってよく見ると、その頭からはコードが延びて増幅器に繋がれており、そのアンプの
先に「インク書きオッシロスコープ」がつながれていた。そのペンの動きと、それによっ
て描かれる波形がスクリーンに拡大して映写されるような仕掛けになっている。繃帯は頭
皮につけた電極を固定するためのものだった。エイドリアン教授が被験者、同僚のマシュ
ウス教授が験者の役を務めた。
マ教授が「目を閉じて」と言うとエ教授が目を閉じる。「目を開けて」と言うと目を開
ける。その度に不思議な波形が描かれた。最後にマ教授が「13の3乗はいくつ?」と く
と、エ教授は首をひねって暗算しだす。と、波の凹凸はたちまち消えて直線状になった。
「ダメだ、できない」。エ教授がそういうとまた波が現れた。満場は爆笑して拍手喝采し
た。これがドイツの精神科医ハンス・ベルガーが発見したベルガーリズム(脳波)のα波
の、運動による発現と思考による消失の示説なのであった。
マ教授とエ教授は、その後様々な人間を被験者にして調べたが、見事なα波が出るのは
エ教授と山極だけだった。マ教授は、「君は素晴らしい頭脳をもっているな」と山極をほ
めたが、山極は、「これは飽くまでα波の発現と消失に関しての事だけで、エイドリアン
教授と私とでは頭の程度は月とスッポン。α波では頭のよしあしの判定はできない」と書
いている37)。これが機縁になって山極はエ教授らと共同で脳波研究を行ったが、日本
人で脳波研究を行ったのは山極のこれが最初である。しかし帰朝後山極は、脳波の研究に
は一切手を出さなかった。
恩師の自決
山極が高等歯科に赴任したのは、日米開戦の直前である昭和16年7月であった。その後
日本がどんなふうになったかは改めて書くまでもないだろう。
その年の12月8日、山極ら高等歯科の教職員と生徒らは全員校庭に集められ、庭に据え
られたスピーカーから日米開戦の大本営発表を聞かされた。この大ニュースがNHKのラ
ジオで全国放送されたのは午前7時の臨時ニュースが最初だったから、山極らが聞いたの
は再放送だったのだろう。そのときの模様について山極は次のような一文を残している。
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そのときの光景は決して単純ではありませんでした。その中で一つ強く心に刻まれ
て堅いしこりとなっていることがあります。それは奇襲成功を報ずる一語一語に聴衆の大
部分が湧き立って、万雷の拍手が巻き起った事実であります。
この事実は吾々の学校だけに起こった特別の出来事とは考えられません。そう考える
理由が一つもないのです。恐らくそれは当時の日本全体の大体の姿であったと観るべきで
ありましょう。而も吾々は事の真相を知りませんでした。真相も知らずに只訳もなく勝報
に酔った事実、此処に誡心すべき最大の禍根が潜んでいたのではないでしょうか。(略)
(傍点ママ) 38)
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この記事は、昭和31年に物故したかつての高等歯科で同僚教授だった病理学者宮崎吉
夫東大教授を追悼した文の一節であるが、紙背には、山極が、この放送を聞いた4年後の
敗戦で、恩師橋田邦彦を自決で失ったという事実がわだかまっている。万雷の拍手の中に
は、おそらく山極の拍手も交じっていたにちがいないが、もしそうなら、この時の山極
も、政治的には、浮薄な大衆の一人にすぎなかった事を示している。「誡心すべき最大の
禍根が潜んでいた」という言葉が、もし多少とも国民に反省を促す意味があるなら、その
白刃はまず己自身にこそ向けられねばならない。ごく少数とはいえ当時の日本の若者の中
には、この大ニュースを聞いても何の歓喜も興奮もせず、ただ自分らの前途に暗いものを
見ていた鮎川信夫らの一群の詩人がいたのだから。彼らの多くは大学や専門学校の中退組
で、勤勉を要求される歯科や医科の学生に比べれば、一見グウタラで怠惰な暇人にすぎな
かったが、日本という炭鉱の大崩落を予告する貴重なカナリヤたちだった。
彼らもやがて戦争にとられ、ある者は北支で白骨となり、ある者は南溟で傷痍軍人とな
って生き残り、敗残した仲間が集まって「荒地」という名の詩誌を出す。そして今で
は 戦後詩 と呼ばれる難解な詩や激越な戦争責任論を世に出すことになるが、それを述べ
るのは本稿の主題ではない。ただここで軽く触れておくだけである。
真珠湾の奇襲が成功したのは、一に連合艦隊司令長官山本五十六と、その幕僚がたてた
作戦が図に当たったからである。
軍人として山本は常に日米開戦には反対の立場をとって陸軍と対立を続け、海軍内で
も、日本海海戦の英雄だった東郷平八郎を巨魁とする大艦巨砲主義者らの時代錯誤な主張
に反対し続けたが、このまま海軍省に次官として置いておくと、やがて陸軍のために誅殺
されかねないという海軍大臣米内光政の配慮で海上勤務に転出された。連合艦隊司令長官
とは名誉ある顕職であるが、山本の本意ではなかっただろう。それ以後の山本は、真珠湾
作戦をたてたのを最後に、大局的判断を欠いた凡庸な司令長官になり終わり、出張先の暗
号を読まれて待ち伏せされた米軍機に撃墜されて戦死する。彼は軍政家としては非凡な冴
えを見せたが、現場をあずかる海軍の総指揮官としては凡将にすぎない。勿論これは、山
本一人の責任ではない。
この頃の海軍は、かつて山本権兵衛が自由に手腕をふるえた日露戦争当時の海軍とは著
しく違ったものになっていた。国家そのものが、非常時に適材を抜 して適所に配偶する
ことができない硬直した体制に陥って了っていたのである。これはその後民族的欠陥のよ
うにこの国の一大宿痾となる。軍人を含めてこの官僚の中枢に座っている者らは、ただ試
験で優秀な成績を収めたということだけが取り柄の学校秀才たちである。成績が下だった
者は、上だった者に対しては殆ど発言権がない。甲乙丙丁にそれ程の意味をもたせて何の
利があるのか。これは今日でも全く同じだといえるだろう。
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島峰は同じ長岡藩の士族として山本とは昵懇だったはずで、山本が大佐でワシントンの
日本大使館に駐在武官として勤務していた頃、大正15年7月に第7回万国歯科医学大会
(FDI)がアメリカのフィラデルフィアで開催された際に政府代表として出席のためアメ
リカに出張した島峰は、同年8月に、山本にワシントン市内を案内してもらっている
58)。当然山本の日米関係における考えは知っていた筈であるが、この真珠湾の奇襲を
どう思ったのだろうか。何の資料もないのでただ推測するだけであるが、昭和13年5月に
第一次近衛内閣で文相に就任した陸軍皇道派の重鎮荒木貞夫大将(橋田の前任者)には徹
底的にニラまれ、危うくその立場を追われかねない程だったという資料39)などと考え
併せると、そう能天気に拍手喝采していたとは思えない。しかし、島峰も、山本と同様、
真珠湾以後はどこか言動が鈍くなり、書道などに没頭して老衰してゆく。だがここでの話
の焦点は、あくまで山極一三に絞らねばならない。
敗戦後山極は橋田の自決を予想していた。もちろん橋田は、そんな事はおくびにも出さ
ない。既に島峰は昭和20年2月に死去しており、その後の校長には長尾優が就任してい
た。高等歯科に赴任するまで、山極は東大で橋田の助教授だったことは前に述べた。昭和
20年9月12日に橋田が戦犯に指定されたニュースがラジオで報道されると、その後なにが
起こるかを山極は一瞬ですべて悟った。
橋田の家には実子がいず、夫婦ふたりきりだった。山極は、同門の杉靖三郎と交代で、
橋田の身辺から離れないようにした。幸い、橋田の家と山極の家は近くにあった。戦犯と
して召喚される所はGHQなのか、それともいきなり監獄なのか。また、何時、どんな手
段によるのか。何一つ知らされないまま時が過ぎた。山極はあらゆる人脈をたぐって情報
を集めたが、何一つわからない。そのうちに警察から、「14日の朝9時にお迎えに参上す
る」という通知があった。しかし、その日になると、早朝、山極のもとに、橋田家から
「都合によって召喚は延期され、目下のところ何時になるか不明だ」という通知が警察か
らあったという知らせが届いた。
9月14日の午後、山極は、情報収集の上である有力な手づるを思いついて二時間ほど橋
田の身辺から離れて外出した。皮肉なことにその間に、警察の署長がただ一人自動車で橋
田を迎えにきた。橋田は悠然とうなづいて国民服に着替えた。そして小用を足すといって
便所に入り、そこで青酸カリを口にした。出てきた橋田は何事もなかったように靴を こ
うとしたが、そのままどうと倒れて不帰の客となった。3時55分頃と伝えられている。山
極が外から戻ってきた時には、遺骸は座敷に横たえられ、顔に白布がかけられていた。
(その前日の午後11時半ごろ、橋田の同僚だった厚生大臣小泉親彦が割腹自殺をしてい
たが、橋田や山極がこの事実を知っていたかどうかは不明である。小泉は大学で橋田の同
級生で、陸軍軍醫総監・医務局長をへて第三次近衛内閣の時から厚生大臣に就任してい
た。)
この事件が山極に与えた衝撃は、私の想像をはるかに超えるものがある。この事件が、
おそらく彼の健康を著しく損ねた、という事だけは容易に理解できる。彼は自決後の橋田
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に関する雑務を一手にひきうけ、恩師を弔った。その後数年が過ぎ、日本の独立が回復し
て、さぁこれからという時に、山極は大病にかかり、長期間の療養を余儀なくされる。橋
田の法事や追悼会にも出席できない事が多くなった。
その間に高等歯科は専門学校から旧制大学に昇格し、さらに新制大学へとかわっていっ
たが、昭和35年の退職までの彼の略歴37)には、「療養」、「療養より復帰」、「再び
療養」、「復帰」の文字が繰り返される。最後に「療養より復帰」という文字が現れるの
は昭和30年3月であるが、昭和31年入学、33年に学部へと進学した私どもが生理学の講
義を受けた33年には、山極教授の講義は最初の一回だけで、後の講義はすべて小西喜久
治講師(後の日本医科大学教授)が担当した。助教授の市岡正道は留学中だった。その後
の退官まで、山極の姿を学内で見た者は、ごく一部の関係者だけだったのではないだろう
か。
それにしても、山極のこの最初の講義の印象は、今だに私の記憶には強烈に残ってい
る。病気やつれの小躯ながら眼光炯々として、開口一番「残念ながら歯科の学生はバカば
かりだ。それなのに私は長い間脳膜炎を患って、諸君と話ができないのは痛恨の至りだ。
私が歯科の者で、これはできると思った男は、松本(政雄)だけだ。彼は今、群馬大学で
教授をしている。」と言われたのには一愕した。
今、古本で探しあてた山極の著作を読むと、この人は痛快なまでに率直で、その精神が
稀に見る知的誠実さに れているのがわかる。この知的誠実さこそ、その後の日本の知識
人が、高度成長に まれるかのように、ひとしなみに失って了った精神的財産である。尊
敬する兄弟子である坂本の日本語の論文や講話を評して、それが分かりにくいのは日本語
の表現が下手だからで、ドイツ語の論文は皆わかりがいいというような事を平気で書けた
のは山極くらいのものだったろう。橋田と坂本の学と人についての最高の理解者は、おそ
らく山極だったろう。そしてこの山極の就任までが、恐らく島峰の人事の最後だったので
はないだろうか。それにしても、山極一三という学究ほど不運な教授生活を送った者は、
そう多くはいないのではないだろうか。
山極の最晩年の学生で、生活苦と暗鬱な心を抱えて講義など眼中になかった私は、それ
こそバカ学生の見本のような者であった。そんな私が、山極が歯科でたった一人「できる
男」と認めた松本政雄先生(群馬大学医学部第一生理学教室主任教授)に卒業後入門して
終生師事し、 刺激生理学 のはしくれを齧るような事になるとは夢にも考えていなかっ
た。
一方、坂本は東大を昭和27年に定年退官した後その年に順天堂大学医学部生理学教授
に就任したが、ここでも四階の実験室に1.5Ωのアース線やシールド装置の設置のためび
っくりするような出費を大学に要請した。坂本は順天堂大では教授と同時に理事にも就任
しているが、私立大でのこの出費の要請にも少しのためらいもなかったらしい。(坂本の
妻の母は元陸軍軍医総監、男爵佐藤進の養女だったから、坂本は佐藤泰然にはじまる鬱然
たる順天堂人脈の最後の一人ということができるかもしれない。)
坂本の就任で同大の生理学教室はその後めざましい存在となる。坂本は教育者としても
超一流の教授だった。高等歯科ではさきに書いた第一回卒業生の松本政雄を生理学の専門
研究者に育てあげ、医学士ならぬ得業士としては未曾有の、母校以外の国立大学医学部の
基礎医学の教授に就任せしめ、その後東大に転任してからは、その教室から、戦後の日本
の生理学や脳科学を担うキラ星のような人材を輩出させている。敗戦前から戦後にかけて
の苦難を極めた時代に、栄養失調でヨロヨロしながら、坂本は出征のため教室員が誰もい
なくなった東大の生理学教室を守り抜いた。その間に尊敬すべき兄弟子であり師でさえも
ある橋田邦彦が自決したのはさきに書いた。
幸福な事例、岡田正弘
基礎医学者に関する島峰の人事に山極のような不運な事例があるかと思えば、薬理学の
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宮本 璋
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岡田正弘の場合のような万人が羨むような幸福な例もある。
既述のように、岡田は大正14年帝大卒の新進の学徒で志を薬理学に決めていたが、そ
の頃の教室の決まり事で最初は臨床(内科)と基礎とを行ったり来たりしていた。その間
に主任教授だった林春雄が定年でやめ、田村憲造が助教授から教授に昇格した。田村は一
高東大の首席卒業者だったが、両校での学生生活を通じて同級の長尾優とは特に親しかっ
た所から長尾が岡田に目をつけて島峰に話をし、島峰を通じて話が進んだらしい。岡田は
昭和3年から昭和医専の薬理学教授をしていた。昭和5年に岡田は高等歯科の初代薬理学
教授に任官された。それまで岡田は、水銀、砒素、鉛など歯科に関係ある薬物の実験をし
ていたので、それではということになったのだろう。
ある時、ひょんな事から、岡田は、ウサギに鉛塩を静注すると、成長を続ける歯や骨に
注射時刻を描記できるという事実を発見した。この事実を島峯に告げると、喜んだ島峯
は、東大の薬理学教室にもない偏向顕微鏡やX線 折装置など、岡田の言うままに買って
与えた。そして実験室に内外の学者を連れてきて、顕微鏡を覗かせては自慢した。岡田の
この研究は、やがてその進展とともに数々の賞を受け、最後に学士院恩賜賞を受賞したの
は既述したとおりである。岡田の教室からも、東大薬理学教授になった酒井文徳をはじめ
斯学の重要な人材が何人も出ている。岡田の教授就任は、島峯が決めた人事のうちの最も
幸福な一例だったといえるだろう。
岡田は文化人としても知られ、東大皮膚科学教授太田正雄(木下杢太郎)と並ぶ?外崇
拝者で岩波の?外全集の編集委員にも名を連ねているが、古来、悲運挫折を経験しない者
に文学がわからないという鉄案に背かず、彼のエッセイに散見する?外論は浅薄で切れ味
が悪く、精読には堪えない。医学者にとって余技の著作などどうでもよい事かもしれず、
その上、東京医科歯科大学学長、医学士岡田正弘の名で卒業証書を受けた学生としてこん
な贅言は無礼かもしれないが、前稿で私が言及した?外の「傍観機関」に関する彼の発言
には私は賛成しかねるので一言した。
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ここで話が、また少し り、脇へそれる。
清水文彦が東大医学部に入学した昭和の初頭に、東大の生化学教室に、宮本璋という豪邁
な気性の助教授がいた。宮本は帝大医科の卒業が大正11年だから、さきの山極より2年先
輩ということなる。大正15年∼昭和2年まで講師、昭和2年∼15年まで13年間助教授とし
て在任し、その間昭和11年から2年5か月、ドイツのカイザー・ウィルヘルム研究所の物
理学のピーター・デバイ教授のもとに初の外国人留学生として留学した。デバイは生化学
者ではなく物理化学の専門家だから、医学部の生化学者の留学先としてはやや異例であ
る。しかし、ここら辺りが宮本が余人とちがう所で、宮本はかねがね俺が師事するのはベ
ルリンのデバイ先生をおいては他にはないと言っていたらしい。デバイへの紹介状は、東
大理学部の水島三一郎教授(化学科)が書いてくれた。
デバイは、昭和11年に宮本がこの研究所で研究を開始し、それが軌道に乗り始めた頃
ノーベル賞を受賞し、宮本は一教室員として、恩師を含めた所属研究室の思わぬ慶事を経
験した。水島は、デバイが、この時の授与式の講演の中でも言及したくらい高く評価して
いた学者だった。
宮本は、勤勉と頭脳の優秀さで、このデバイ教授には非常に信任されたらしい。当時は
室温を一定に設定することなどはとてもできなかった時代で、室温が実験中の化学変化に
最適になるには只じっと待っているよりしようがない。このため朝の4∼5時になってや
っとよい結果が出るというようなことが再三ならずあったらしい。こんな事もあって、璋
が教授からもらったテーマは中々思うようなデータが得られなかったが、帰国の前日にな
ってやっと満足できる結果が出た。これはデバイを大いに喜ばせた。
もともと璋は神田区小川町一丁目一番地生まれというチャキチャキの東京っ子で、じっ
と事態の変化を待つというような粘り強さには生得欠けていたが、高師附属中の後半か
ら、仙台の二高での青春時代を通じて山野を跋渉する登山熱にとりつかれ、近代的な登山
用具もろくにない明治の40年代に、手製のリュックザックと草鞋履きで、槍だ穂高だと
北アルプスの高峰の縦走に熱中しているうちに、浮薄な都会人的性格を、粘り強い野性児
的な自己へと鍛え直していったらしい。昭和37年に定年退官した時に、宮本璋は、教授
としてこんなエッセイを後輩たちに残している。
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元来生まれが神田のド真ン中で、ヤッチャ場のアンチャンなどの間で育ったのですか
ら、「寿し食ひねー」の オあにいサン になって了ったって一寸も不思議はないのです
が、それでも高師の附属小学校に入ったのだから多少は品もよくなる筈でした。
(略)ところが中学に進んでからは、もういけませんや。教室では騒ぐ。(略)先生に
アダ名はつける、──下町ッ子は山ノ手子よりアダ名のつけ方は一段とうまい、フットと
ボ
ボールをわざと窓にけってガラスは壊す、人の弁当は食ってしまふ。(略)まったく手の
つけられない悪童の一人になってしまひました。
しかもあの学校は子供をノビノビ育てるのがモットーだとかで、あまり叱られなかった
のも誠に有難いことでした。あの中学はその当時として珍しくボート部があったので明治
四十二年から隅田川で漕いで居ました(略)がボート部といふのは、昔から先輩が妙に威
張るところなので、たうとう同志相かたらって、山岳部を作ってしまひました。
こんなに騷いでゐたから、とても一高などに一辺で 入れる筈もなく、一高を落第した
から、その次は二高を受けました。ここでまた落第したらその次は三高をと、ホン気で考
へて居たのです(略)。
幸ひ二高にヒッかかったものの三年の間暇さへあれば松島で漕いだり、山へ出かけてい
ったりしてゐました。当時入学当初から満足にボートが漕げるのは、附属と開成の出身者
しかなかったので、随分こわい先輩から脅かされたがソコは口から先に生まれた おあに
いさん だからたうとう部に入らなかったのでバック台の労苦もまぬがれ、その代りここ
でもまた山岳会を作って北アルプスにばかりとっついて居ました。
この仙台の三年間の生活は、(略)それ 東京に育って、しかも少なくとも当時として
は多少なりとも貴族的なニュアンスのある中学で教育されたものが、急に東北の荒々しい
風物のなかにはふり込まれたのですから、その影響が大きくない筈はありません。そして
私はここで妙に図太い野生を骨の髄まで叩きこまれたやうな気がしますし、同時に悪く言
へば頑固で、妥協性に乏しく、よくいへばドンナ苦しい状態に追ひ込まれても黙ってこれ
をはねのけて行く、あの粘液質のネバネバした東北人の気質がすっかり血のなかに
[入]ってしまったやうです。 40)
璋が北アルプスに熱をあげていた頃、ウエストンがよく上高地の大野屋に泊っていたと
璋はある随筆に書いているが、北アルプスをヨーロッパに紹介し、日本に近代登山をもた
らしたウォルター・ウエストンが最後に来日したのは明治44年12月で、離日が大正4年1
月41)だから、これは璋が17∼20歳あたりにかけてという事になる。璋は日本山岳会の古
参会員の一人でもあった。しかし、璋は大学に入ると、岩壁に取りつくような登山からは
退き、草木虫魚とくに高山植物の採集と栽培、雑魚やイモリや田螺などの飼育に方向を転
換した。この趣味は生涯続いた。この転換の背後には、岩登りなどという危険なスポーツ
に対する父母の心配がなみではなかった事が察せられる。璋は、夫人の達子が追悼文の冒
頭に「主人は親孝行な人でした」42)と書いたくらい、親を思いやる息子だった。 一方璋の恩師デバイの方も、璋がその研究室を去った後、米国のコーネル大学の教授に
招聘されて渡米し(1939)、1950年までその職にあり、その間にアメリカに帰化して了
った。デバイはオランダ人、その妻はドイツ人であるが、ことによるとユダヤ系だったの
かもしれない。璋の所へは、デバイが物故するまで毎年クリスマスカードが届いた、と達
子が同じ一文の中で記している。デバイにとっても、宮本は記憶に残る日本人だったのだ
ろう。
宮本璋の周囲の人、柿内三郎と渋沢敬三
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璋が助教授として仕えた当時の東大医学部の生化学教室の主任教授は柿内三郎(18821967)である。柿内の生年は明治15年だから、島峰徹の5歳下ということになる。非常な
秀才で、明治40年医学部を首席で卒業して恩賜の銀時計を拝領し、その年に理学部学化
学科に入学、43年にそこも首席で卒業した。
柿内はすべてが絵に描いたような秀才タイプで、 Journal of Biochemistry を私費で
刊行し、日本生化学学会を創設するなど東大教授として少なからぬ功績を残したが、どこ
か心が狭く、思いつめるタイプの人だったようである。小金井良精の長女田鶴と結婚した
良精の女婿であるが、ともに医学部首席の卒業者ながら、岳父のような雄渾なタイプと人
柄がちがっている。
彼は挫折という人生の苦渋を一生知らなかった人のようである。彼の教室には秀才以外
は入れないというのが学生の評価だった。(?外の長男森於莵は、医学部を卒業したあと
父?外の強い奨めで化学を専攻するため理学部も卒業した人で、その後は当然柿内の教室
に進むものと思われていたが、秀才ではなかったために懊惱しているうちに化学そのもの
にも気が向かなくなり、見かねた叔父の良精が、「於莵ちゃん、オレの教室にこいよ。オ
レの所なら、秀才じゃなくてもつとまるよ」という言葉に従って良精の解剖学教室に入
り、解剖学者となった経緯がある。於莵と長尾優とは同級で、長尾の自記43)による
と、卒業時の成績の序列は於莵が40番長尾が41番で、長尾は近藤外科が志望だった。し
かし、4つある近藤外科の席のうち、於莵までで既に3つが埋まっていた。しかし、長尾
は、於莵が理科に行くのを知っていたので自分がその最後の席に滑り込めるものと思って
安 していると、どういうわけか於莵がこの席に手をあげ、長尾の志望は打ち砕かれた。
於莵は序列がより下のある同級生に頼まれて、その席の確保に利用されたらしい。外科な
らまだ佐藤外科の席が空いていたが、長尾はこの教室の空気にはなじめないものを感じて
いた。そこで長与又郎教授に前後の事情を話して病理学教室に入れてもらい、そこから更
に石原久の歯科学教室に転じるという曲折ある人生を ることになった。)
柿内は、関東大震災後の日本をどう立てなおしたらよいかという文部省の論文募集に応
じて、 朝鮮遷都論 を主旨とする「皇国日本の進むべき道」44)という論文を提出し
た。これは、神武天皇の東征に倣い、震災で壊滅しかかった日本の首都の東京を、併合し
て10年たっている朝鮮の平壌に遷都し、併せて大量の日本人を大陸に侵出定住させると
ともに、食料難の本国の人口を減少させ、それによって皇国を世界に振起させよという論
である。この、いかにも秀才が机上で思いつめたような考えは、政治家や知識人はおろか
世間から一顧もされなかっため、不本意に思った柿内は、これを「東京帝国大学教授・柿
内三郎」の名で私家版として印刷し、各界に配布した。(この論文は、没後遺族が編纂し
た彼の遺稿集45)には収載されていない。)
また、柿内は定年退官後には自ら創設した日本生化学会には一切出席しなくなった。実
験をやめた者が他人の仕事に関してアレコレ言うのはよくない。会に出れば、どうしても
何か発言したくなる。これが理由だった。そして幼児教育にうちこみ、ある幼稚園の園長
になった。帝大のそれも基礎医学の教授だった者が幼稚園の園長になったのは、けだし空
前にして、おそらく絶後だろう。
一方、彼に助教授として仕える宮本璋は、既に書いたように、様々な事に興味をもつ好
事家タイプで、高師附属小・中学校から仙台の二高、東大まで学校が一緒だった渋沢敬三
(日銀総裁や大蔵大臣を歴任)や、少し年上ながら同じ神田育ちの俳人で、昭和医専の初
代産婦人科教授になった水原秋桜子とは生涯の親友だったのをみても判るとおり、ボート
父、宮本仲 u
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や登山、民俗学や草木虫魚、俳句や随筆などじつに様々な方面に旺盛な興味を抱いてい
た。高師の附属中を卒業した江戸っ子の璋が、一高にゆかずに仙台の二高に行ったのは、
悪ガキの度がすぎて一高を一度失敗したからなのは、先に引用した璋のエッセイからも明
らかであるが、東北の荒々しい風物は、それまで東京を離れたことのない都会暮らしの中
で眠っていた璋の野生を呼び覚ました。
渋沢敬三は渋沢財閥をつくりあげた子爵渋沢栄一の長男篤二の長男で、もともと生物学
が志望だったが、父篤二が祖父栄一から廃嫡されるという事が起こり、栄一から懇願され
て渋沢家を相続し財界人となることを承諾したという経緯があり、若い時から柳田国男に
傾倒して民俗学者としても大きな業績を残した事はよく知られている。小中学校時代から
動植物の標本、化石、郷土玩具などを収集するうえで、璋と敬三はこよなき友人だったら
しい。
多趣味の璋は、物理化学には特に興味を抱き、医学部に入学すると一年生の頃から生化
学教室に入り浸り、そのため臨床の講義などは極力サボり続けた。早くから基礎医学者を
志望し、卒業しても医師登録はしなかった。また、生涯博士号を取得しなかった(これは
前に述べた岡田正弘も同じである)。医師として登録すると、必要が生じた場合、患者を
診察しなければならぬ義務が課せられる。それはボクにはできない。これが理由だった。
また博士号の件では、「ボクの研究を理解できる教授は東大にはいないよ」と言っていた
とも伝えられる。こうした言葉には、受取りようによってはどこか傲岸不 ともとれる響
きがあるが、宮本の精神は闊大で、他人がどう思うかなどは一切眼中にないのである。
生化学を専門とするようになっても璋の多趣味ぶりは相変わらずで、「寺田[寅彦]先
生の本当の弟子はボクだよ」とよく言っていたらしい。ある日、医学部一年生の岡田が生
化学の尿の分析の実習で実習室に行くと、金ボタンの制服姿の四年生の璋が片隅で悠々と
何か実験しており、岡田らを見ると、つとチョークを取って黒板に「春雲日」と大書した
思い出を書いている。春雲日とはドイツ語で「ハルン・ターク(尿の日)」訓ませる洒落
である。この岡田や宮崎、山極や清水ら東大出の高等歯科の教授たちが、昭和17年に定
年をむかえる柿内の後任の席を目前にしながら、柿内と衝突して東大を飛び出し、ジャカ
ルタ医科大学に赴任して敗戦で戦地からひき上げてきた宮本を、医学科が併設された医学
歯学専門学校の教授に引っ張ってくるために大きな役割を演ずることになるが、それは後
の話である。
璋には父である小児科医宮本仲と、仲が生涯をかけてその伝記を完成した仲の故郷信州
松代の英傑佐久間象山の影響がはっきりと認められる。
仲は明治8年(1875)年満19歳の時に松代から出京してドイツ語を壬申義塾に学び東
大医学部に入学したが、喀血したため翌年退学して帰郷。療養して明治10年には東大別
課に再入学し、明治14年に卒業している。その年に樫村内科の助手に任命され、明治17
年∼19年までドイツに留学。小児科を専攻し、帰国した年に30歳で神田雉子町(現・小
川町一丁目)に宮本医院を開業した46)。小児の内科(後の小児科)の専門医家として
はわが国で最も最初の人である。ちなみに東大で小児科の講義が開始されたのは明治21
年の6、7月頃で、同年4月にドイツから帰朝した広田長によってである47)。
前稿に書いたとおり、明治39年に、医界の医師法制定運動に対処する手段もわからぬ
まま混迷する歯科界を奇貨として急遽歯科医師法をでっちあげた川上元治郎は、はるか後
代の歯科医師である私などが資料から推測する限り、政治と言論活動が甚だ好きな眼科の
開業医というふうにしか思われないが、仲にとって川上は同学の後輩である。川上は東大
医学部別課の入学が明治14年で卒業が同18年だから48)、仲は大先輩にあたる。川上は
在学中から、迷いが生じるとよく仲には相談にのってもらっていたらしい。
しかし、仲には、川上とちがって、政治的な興味は殆どなかったようである。後に彼は
神田区会議員や日本医師会副会長などの役職についているが、これは著名な開業医家とし
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て払わねばならぬ名誉税的な職だったのであろう。彼は専ら患者の診察に励み、彼の趣味
といえば、佐久間象山関係の資料を鑑定か、囲碁書画骨董などだった。
仲は若いとき悲痛な経験をしている。
彼が明治8年に入学した東大医学部本科を喀血のため翌年退学し、このため本科より早く
卒業できる別課に明治10年に再入学したことは前に述べた。これは仲にとって最初の挫
折だったようである。本科生から別課生がどのよう扱われるかについては、前稿でくわし
く述べた。(ちなみに、彼の実弟の 叔 は本科に入学して青山胤通に師事し、順調に学を
進めて臨床伝染病学の権威者となり、東京市立駒込病院長をながく勤め、東大教授になっ
ている。)
仲は明治17年1月に、東京女子師範学校(後の御茶の水女子大学)出の幸子と結婚し
た。幸子は非常な才媛だったらしい。卒業後彼女は高師附属小学校の訓導(現在の教諭)
になった。明治中期の女高師出の訓導といえば、女性の職業としてこれ以上は望めない身
分である。しかし、新婚まもなく仲にドイツへ留学する機会がおとずれた。このとき幸子
は妊娠して悪阻で苦しんでいた。仲は留学を中止しようとしたが、幸子は仲を励まし、
「大丈夫の学は大成を期すべしというではありませんか。妾の体調は今はいささか不十分
ですが、どうかお気に留めないで下さいまし。この機会を逸してはならないと存じま
す。」49)といい、ドイツへの留学を励ました。その留守中の5月に、この若妻は脳膜炎
を併発して病死してしまったのである。
仲はこの悲報を異国で受け取った。「余在海外接訃音憾不得自管表事今将祭其霊立石墓
上以表其平生」という、明治24年に仲が多摩霊園に建立した幸子の墓碑銘には、このと
きの悲痛な思いがにじみ出ている。
その後に仲は 楽 という、これも女高師出の後妻を迎えた。(「楽」は「よし」と訓む
らしい。残っている宮本家文書の尺牘には「楽」とあるだけだが、仲の墓誌には「良し」
の字が使われている)。
この妻との間に長男、次男と次々に子が生まれたが、長男は5歳で、三男は生後20日で
夭折してしまった。女子は無事に成人したが、残った男子は次男と四男の璋だけである。
しかし、璋が宮本家の当主となっていることを考えると、次男は長男が夭折する前に、養
子として別の家を継ぐ等の事情があったのかもしれない。仲夫妻が璋に託した思いの深さ
は容易に想像できるだろう。
璋もこの両親を終生大切にし、敬意を払いつづけた。璋が仲の死を見納めるまで留学し
なかったのは、晩年になって失明した父の臨終にも立ち会えぬ悲哀が何をもたらすか、十
分知り抜いていたからであろう。
正岡子規の主治医
話は少しさかのぼる。
神田雉子町の宮本仲の医院の隣に小さな新聞社があった。名称を日本新聞社といった。こ
の社の社長兼主筆を、陸羯南がつとめていた。(雉子町は後に「小川町一丁目」という町
名に変更された。)
仲の生年は安政3年(1856)46)で羯南の1歳上であるが、隣人として顔を合わせてい
るうちに、羯南と彼は懇意になった。仲はドイツ留学までした新進の医者ながら、文人の
素質が濃厚にある。世馴れて人あしらいがうまく金稼ぎにたけた医者のことを、明治時代
には半ば悪意をこめて 長袖流 と表現する言葉があったが、仲はそういう存在からは最も
縁遠い医者であった。(尤も、従来家がなお多数いた当時の医療レベルからいえば、仲は
とび抜けて秀でた存在であり、そのため患者の数は、非常に多かったらしい。順番を待つ
患者のために行商の 屋が店を出したという、今では嘘のようにしか受け取れない話も、
いかにも明治の小児科医院の光景らしい。)
仲の父(璋の祖父)は宮本慎助といい、信州松代藩で御勘定役をしていた藩士で、仲は
慎助の三男であるが、兄二人が戊辰戦争等で若死にしたため、家督を相続した。宮本家は
代々同藩に和算を以て仕えた家柄である。武や儒を以て仕えるというのは武家として一般
的であるが、和算を以て仕える家柄というのは、如何にも珍しいといえるだろう。尤も宮
本家は文武両道で、槍術の師範代までつとめた人も出ている。後に「象山」という雅号で
幕末史の傑出した存在になる天才児「啓之助」を生んだ佐久間家とは、同町内の隣組で、
代々、文や武を互いに教授し合う関係にあった。文の神童といわれた啓之助は朱子学を目
指して修行していたが、早くから数理を重んじ、殊に数学を重視していた事が、やがて象
山をしてこの時代の知識人として比類のない存在たらしめる。十露盤などは商人の技とし
て軽 されていたのが当時である。この事が後に象山を蘭学に向かわせる駆動力になる。
啓之助(後に修理)が雅号にした「象山」とは、その形が象に似ているところからそう
呼ばれている松代近辺の丘陵で、その一帯は宮本家の所有地で、明治になってからは仲の
所有になっていた。後に大東亜戦争の敗色が濃厚になった頃、軍はこの山に地下壕を掘っ
て大本営を移転させようとし、今ではその跡が観光名所になっている。
仲は、その著「佐久間象山」50)のなかで、「著者は先天的に象山先生を崇敬するも
のである。先天的崇敬とは寔に変な言辞であるが(略)」といい、佐久間・宮本両家の関
係を詳述している。彼自身、嬰児の頃から象山には頭を撫でられて育ち、彼の幼い記憶の
底には、象山のイメージが残っていた。それにしても先天的という言葉を使う所などが、
如何にも医者らしくていい。
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佐久間象山が幕末におけるわが国の最大の先駆者であることは言うまでもない。ある歴
史家の言によると、幕末とは文久2年以後を斤していうのが一般的らしいが、本稿ではも
っと漠然と、江戸幕府が、世界史的な帝国主義の激浪に巻き込まれて衰亡の兆しを見せは
じめた頃という意味で使っている。
勝海舟や坂本竜馬、吉田松陰や小林虎三郎、橋本左内、河井継之助などは、すべて象山
の門弟である。象山は当時老中になった藩主真田幸貫の知恵袋でもあった。維新後も松代
は、象山を偉人として誇りにした。
仲は医師として活動のほか象山の研究者としても知られ、彼の「佐久間象山」は、今で
も象山研究の一等史料となっている。また、仲の実弟(槙助4男)叔は東大医学部を卒業
後、青山内科の助手から助教授になり、ホンコンでペストが流行した時に、恐怖で震えあ
がった政府が急遽現地に派遣した青山胤通と北里柴三郎に従ってホンコンでペスト研究に
従事した。この時に、素手に近い状態で何体も屍体を解剖した青山がペストに感染して重
態に陥り、奇跡的に 復した事実は医学史のエピソードとしてあまりにも有名である。叔
はその後伝染病の専門家になり、東京市立駒込病院長から東大教授になった。青山内科の
オンケル(叔父さん的存在という意味の医師間の隠語)として、同科に難題が生じた時に
はみな叔の意見に従った言われるほど青山一門で重きをなしたが、青山胤通の後継の教授
候補三人のうちの一人に挙げられた時は、蒲柳の質を理由に、最年長だったにも係わらず
自ら辞退している51)。これが宮本家の気風だったらしい。
叔は兄仲の象山研究をもよく助けるとともに、鼠髯と号する虚子門の俳人でもあった。
いう もなく虚子は子規の筆頭弟子で、これは兄仲が、子規にとっては伯父さんのような
存在の主治医だったということと濃厚な関係がある。
陸羯南が正岡子規の大庇護者であった事は、司馬遼太郎の大ベストセラー小説「坂の上
の雲」で余りにも有名になった。子規は大学退学後給料のよい朝日新聞を断ってまで羯南
の日本新聞社に入り、脊椎カリエスという死病と痛烈に闘いつつ、俳句と短歌の革新に残
余の生命を燃焼させ、かつ「病床六尺」などの、いまだかつて日本の文界には現れたこと
のない散文の名作を残した事情はこの小説に余すところなく描かれているが、子規のそう
した創作活動が、彼の主治医である仲が投与したモルヒネによる激痛の緩和にの間になさ
れたということは、全くといっていいほど省かれている。仲はこのため一日に何回も子規
を往診するのを厭わなかった。
小説のほかにも司馬は別のエッセイで、子規の病に関して次のような記述を残してい
る。以下、その部分を引用する。
正岡子規の生涯は、三十五年間しかない。
再末期の六年は、病者であった。当時、脊椎カリエスは不治で、なおる見込みがないこと
を子規自身、知っていた。
明治二十九年(1896)子規二十九歳の二月、左腰が腫れて痛く、以後、根岸の借家の六
畳に寝たきりになった。三月はじめて医者に診せ、不治の病名を告げられる。(略)骨
が、結核菌によって腐ってゆく。やがて膿で穴があき、死ぬまで激痛をともなう。(略)
子規が子規であることへ出発したのは、このときからといっていい。(略) 52)
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子規の病歴
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この医者は、仲以外にはありえない。だとすると、この記述には少し疑問が残る。
司馬遼太郎はこの一文を小説ではなくノンフョクションとして記しているのだが、省筆と
誇張が強く、そのため印象的な一文にはなっているが、史実とは違っているようである。
司馬は子規を、自己の子規観にひきつけすぎて書く癖があり、そのため史実とすべき事象
とはちがってしまうことがある。
仲は、子規の没後かなり経った昭和9年、俳句の専門誌に、「私の観た子規」53)と題
して、結核患者だった子規との邂逅の詳細を口述筆記させている。
このころ仲翁は、昭和7年に岩波書店から出版した自著の「佐久間象山」に、その後発
見された資料等で不備が生じてきたことを知り、増補改訂版を出版すべく最後の気力をふ
りしぼっていた。それは昭和10年12月に脱稿したが、その版第2刷の凡例で、翁は、最近
になって眼疾が進み筆をとることができなくなったので、「口述して男、璋をして之を筆
記せしめたり」と記した。そして作業が終了すると翌11年1月に、81歳の生涯を閉じたの
である。殆ど失明に近かったらしい。男、璋とは、当時東大医学部生化学教室の助教授だ
った宮本璋であることはいうまでもない。
以下、仲の「私の観た子規」により、仲翁と子規との医師−患者関係のあらすじを記
す。この全文は子規全集54)にも採録されているから、入手は容易である。
明治22年の頃、子規は根岸に住んでいた。陸羯南が隣にいて、陸は子規の伯父の加藤
恒忠(拓川)の親友だった。この加藤はベルギーに全権公使として赴くことになり、親友
の陸に、自分は西洋に行かねばならぬため[甥である]子規の世話ができなくなったから
といって子規の修行を託した。以下は原文である。漢字は新字体に直してある。
その当時はつまり、子規が大学へ入る保証人になって貰ったり、監督を頼んだりして
行った。この陸さんの家の直ぐ側で、背中合せに子規庵があった。その当時陸さんに取っ
て見れば、子規はあずかった子供といった程度であった。そんな訳で に角子規は文科大
学に入った。矢張り祖父の血を受けて学問が好きで入ったのだらうと思ふ。さうして子規
が一年生の時だったと覚えてゐるが初めて血を吐いた。
陸君と私は懇意で始終会って居るものだから、陸君が子規を見てやって呉れと云ふの
で、血を吐いた翌朝行ってみると、未だ盛んに吐いて居る。早速適当の手当を加へて血は
止まったが、学校を続ける事はどうも無理だ。そこで陸君にその話をすると非常に心配し
て、あづかって居る責任上何とかしてなほし度い。学校をよす事を話して呉れと云ふので
話をしたところが、どうもやめたくないと云ふ。そこで私はやめろと言ったって何も一生
やめろと云ふのぢやない。養生をして良くなったら行けばいゝぢやないか。俺も大学に入
った許りに喀血して方向に迷った事がある。その時に養生をしろ、学問をやめろと言はれ
て医者や親が情けない様に思って怒った事もあったけれども、養生をしてこんなに丈夫に
なって、西洋に行ってきても一向血を吐く様な事がない。振返って見ると一年や二年何で
もない。先ず身体を丈夫にしてから又やったらどうか、と云ふと、子規も私の体験談を大
いに信じて、その学期に試験を受けずに止めた。
それが一年生の時で、それから又二年生の時に血を吐いた。そこで私が、一度で止ま
る様なら良いけれども、二度と繰返す様ぢやもう駄目だ。一層の事文科大学を止めたらど
うかと云ったら大変残念がって、とに角試験が迫って居るのだから受けるだけ受けて見る
と云ってきかない。それで受けたのだが、試験がみな終わらない内に倒れてしまった。だ
からあれは落第したのぢやなく、止めたのだと思って居る。
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ここらあたりの記述を、司馬の小説「坂の上の雲」の該当する部分や、先に引いた一文
などと比較すると、作家が如何に(ときに史実を曲げてまで)話を面白く創るものかがよ
く判る。
さらに仲翁の原文を引く。
(略)日清戦争の当時の子規は可なり身体が丈夫になって居て、私は丁度御用で宇品
の方へ行って居た。(略)何月か一寸忘れたが私が宇品から広島へ人力車でやつて来る
と、向こうから子規によく似た男がやつて来る。よく似てる思つてゐると果たして子規
だ。洋服に日本刀を一本背負込んで、兵隊の着る様なマントを背中に、ズボンに脚絆をは
いてやつてくる。私は驚いて「おいおいそんな恰好で君は一体どうしたんだ」と云ふと、
「僕は従軍記者で直ぐもう出帆するんだ」「冗談ぢやない。君の身体で、とても従軍記者
なんて行けるものぢやない」と云つたのだが、ところが、「もう陸とも相談して来たし今
生の想出に是非行くのだ」と云ふ。
果たして子規は戦地に着くとすぐ病気が悪化し、従軍どころか帰国させられ、神戸で入
院する破目になる。その後郷里の松山で加養し、東京に戻ってくる。以下、仲の原文。
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その年の暮頃東京へ帰つてからは矢張り私が終始見て居つた。(略)その頃はまだ病
気は今で謂ふ肺尖カタルでその後子規がカリエスになったのは自然々々に起こつたも
ので脊髄の第五腰椎──腰の骨がカリエスを起し、それから座骨神経の痛みを起して始
終痛い痛いと苦しむようになった。その頃の日記を[関東大震災で]焼いてしまって明瞭
に分からないが、病人としての子規は決して身体を粗末にした人ではない。よくあゝいふ
人達には医者の言ふ事を聞かないで不養生をする人があるが、子規はその点よくきいた。
(略)
正岡と云ふ人はまことに洵に仕合せな人であって、家庭の円満、温かい家庭と云ふもの
が業をなした一つの原素になつて居る。即ちお母さんが最良の慈母であつたと云ふ事、尚
ほその上に妹の律子と云ふ人が又お母さん以上に親切で(略)内顧の患ひと言ふものを少
しも子規に感ぜしめなかった。(略)
子規は決して我儘な事を言はず、よく耐へて居つた。長い病人はよく癇癪を起したり、我
儘になるものだが、子規はその様な事はなかった。子規は律子さんを非常に気の毒がつて
居た様だ。
もう、これ以上の引用は無用だろう。世間には、よく、司馬遼太郎の作品を読んで歴史
を勉強したと思い込んでいるらしい人をみかけるが、彼の作品は、あくまで読者を楽しま
せる上等な娯楽作品であり、その記述をそのまま史実と受け取るのは、時々、眉に唾して
かかる必要があるようである。 司馬史観 という言葉を目にすることも多いが、少し大袈
裟すぎるようだ。
拙稿のこのあたりは、話が宮本仲・璋父子に偏っているきらいがあるかもしれない。も
う暫くお許し願いたい。
偏るのは、宮本璋こそ、高等歯科の後身である東京医科歯科大学の学術レベルを、専門
学校から大学に相応しいレベルにまで高からしめた教授陣の主柱であり、陸士海兵予科練
がえりの学生がゴロゴロしていた敗戦後のすさんだ医・歯の学生の心を、時に同情慰撫し
時に叱咤してしっかりとつかみ取って医学から興味を放擲させず、この大学を、教育の組
織体として、60年安保騒動を頂点とするイデオロギー闘争の時代の激浪から無事守り抜
いた教官陣の大黒柱だったからである。そればかりか、劣悪なわが国の農村の保健衛生環
境を向上させるべく、農村厚生医学施設という、一見生化学とは無関係な研究施設55)を
創ったのも、璋がドイツ留学から帰朝した後の昭和14年あたりの東大助教授時代に、彼
が多数の学生の主導者となって実践活動を始めた「農村厚生運動」と深い繋がりがあるた
め、簡略な説明では済ますことができないのである。
もう一つ理由として、私の璋先生への断ちがたい私情がある。
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私は宮本璋先生が、私の母校である東京医科歯科大学に、医歯両学部兼任の生化学教
授・医学部長・学生新聞部顧問としておられたからこそ、困窮のどん底でのたうちまわっ
ていた学生時代から76歳の今日まで、歯科医師として、あるいは社会人、家庭人として
生き長らえることができた者で、学生の頃、もし先生に邂逅することがなかったなら、お
そらくどこかの過程で人生をみずから絶っていたにちがいない。その経緯をかつて私は書
いたことがあるので、ここでは繰り返さない。興味がある方は脚注56)に収載した原文を
ご覽頂きたい。
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璋がドイツに出発したのは、昭和11年4月である。留学の発令は10年11月に下りてい
たが、父仲の原稿の手伝いと、その完成およびそれにひき続く仲の死去が11年1月だった
ので、出発を延していたのにちがいない。この時璋は40歳である。基礎医学の研究者と
して、この年齢での留学はいかにも遅い。
それまで彼は留学しなかった。これはおそらく日本を留守にしている間に、高齢の父が
物故するのを案じていたからだろうと思われる。父が前妻幸子と留学中に死別していたた
め、若妻の死に目にもあえなかった無念さを璋はよく知っていたのであろう。父の葬儀を
すませると、璋はただちにドイツに発ち、ベルリンのP・デバイ教授に入門したことは既
述した。
仲の死の翌月の2月26日から2月29日にかけて、2・26事件として知られる陸軍青年将校
らによる軍事的反乱という大事件が起こっていたが、この事件が璋の留学に何の影響も残
さなかったらしいのは、璋がいかに非政治的人間であったかを物語っている。璋はあきら
かに象 の塔の住人であった。しかし、こんな彼をドイツ留学が一変させ、その後の璋の
人生を波瀾に富んだものにさせるのは、まだ璋は予想もしていない。
当時のドイツはヒットラーが政権を握り、第一次大戦の敗北による苛酷なヴェルサイユ
条約を破棄して再軍備を宣言し、国民は上下復讐心に燃えて臥薪嘗胆を誓っていた。ヒッ
トラーは次々と経済政策を成功させて破滅しかかったドイツの経済を立て直し、次の戦争
に備えて科学・技術の振興にあらゆる力を傾注した。そのためドイツの科学技術は、ヨー
ロッパの他国に比して瞠目すべき躍進ぶりを示していた。璋の目には、その様相は、ただ
悲愴の一言につきるもののように映った。
璋の留学経験は高等歯科に医学科が併設された敗戦後の東京医学歯学専門学校に大きな
影響を与える事になるが、東京大空襲も知らずに死去した島峰がそんなこと勿論知るはず
がない。璋がドイツに出立したあたりから日本は破滅に向かって一直線に傾斜してゆく
が、ちょうどこの時代に生まれた者が私の世代になる。
(続く)
謝辞
本稿の執筆にあたり、参考資料の蒐集では、群馬県立図書館二階の調査相談室の方々に
大変お世話になった。方々は、稀な文献の探索と、相互貸借やコピー依頼の手続き等煩雑
を厭わず協力して下さった。また、これらの要請に応じて、蔵書を貸し出してくれた国会
図書館、福島県立医科大学図書館、新潟大学医歯学部図書館、東京大学医学部図書館、慶
応大学医学部図書館、日本大学医学部および歯学部図書館、東京歯科大学図書館、群馬大
学図書館医学分館、神戸学院大学附属図書館にお礼を申し上げたい。
最後になったが、長野市松代町にある真田宝物館は、私の申請を許可して貴重な「宮本
家文書」を公開してくれたばかりか、長時間の写真撮影まで許可して下さった。これら諸
機関の協力がなければ、老残の私には、とてもこれだけの文献にあたる事はできなかった
であろう。併せて厚くお礼を申し上げる。
脚注および文献
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1) 長尾優:一筋の歯学への道普請75頁・医歯薬出版株式会社・昭和41年
2) 山田秀樹(前北海道大学公共政策学連携研究部附属公共政策学研究センター教授):
為替レートと通貨についての考察・PRI Discussin Paper Series (No.07A-12)・2007年8
月
3)金マルク・
Wikipedia:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%AF
(平成24年7月1日現在)
4) 飯沢匡:総理大臣の月給・値段の明治大正昭和風俗史(上)朝日文庫・昭和62年。
5) 長尾優:島峯徹先生36-40頁(手紙四)・医歯薬出版株式会社・昭和43年
6) 文献5)44-47頁(手紙七)
7) 原悠紀田郎:歯記列伝・91-94頁・クインテッセンス出版・1995
8) 歯科医事衛生史前巻:日本歯科医師会発行(編集兼発行・小川正一郎)・昭和15年
(非売品)
9) 入戸野賢二(にっとの・けんじ)・千葉医専の口腔外科および日本大学歯学部口腔外
科の創設者とされる。京都帝国大学福岡医科大学卒。工藤逸郎氏らの「入戸野賢二先生と
その著書について」・日本歯科医学史学会々誌26(1)10-28(平成17)に詳しい。
10) 福島尚雄・東京帝大歯科および東京歯科医専講師
11) 荒井千代之助・東京帝大歯科の出身で、明治41∼42年頃日本歯科医専で始めて口
腔外科を講じた人とされているが、確かな資料はない。
12) 東京大学医学部百年史編集委員会:東京大学医学部百年史444頁・昭和42年
13) 小高 健(編):長與又郎日記(上)(下)・学会出版センター・2001年
14) 長与又郎博士記念会:長與又郎傳・日新書院・昭和19
15) 文献5)23-24頁・
16) 東京大学医学部附属病院顎口腔外科・歯科矯正歯科のホームページ
http://plaza.umin.ac.jp/ oralsurg/message.html(2010年9月17日現在)
17)ウィキペディア・都築正男・
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%BD%E7%AF%89%E6%AD%A3%E7%94%B7#.E7.94.9F.E6.B6.AF(平
成24年6月18日現在)
18) 飯島宗一(元名古屋大学学長):核時代における医師・医学者の役割・
http://www.ask.ne.jp/ hankaku/html/iizima.html(平成22年10月1日現在)
19) 弓倉繁家(1891-1953)・大阪大学歯学部の開祖。大阪医科大学(阪大医学部の前
身)に歯科を設置するため耳鼻科から歯科に転じ、大正9年文部省歯科病院に国内留学し
て島峰に師事した。1926年大阪医科大学教授。1951年歯学部の創設時の初代歯学部長。
20) 長与善郎:わが心の遍歴・筑摩書房・昭和35
21) 感染症と反官学医学(1)
http://www3.wind.ne.jp/toccha/mushi/mushi_link/mushi_15.html (2010年 9月18
日現在)
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22) 長与専斎:松香私志・松本順自伝、長与専斎自伝・東洋文庫386・平凡社・1980に収
載
23) 長与善郎:長与専斎・父の映像(犬養 健他)93-111頁・筑摩書房1988
24) 山崎光夫:北里柴三郎(上)・中公文庫131-136頁・2007
25) 小野塚喜平次( おのづか・きへいじ・1871-1944)・長岡生れ。石黒忠悳の女婿で
長 岡人脈の一人。東大法学部教授でわが国最初の政治学者。大正3年(1928)東大総
長。対ロシア強硬策を主張した東大七博士の一人として有名。
26) 河原春作:思出話の二三・東京医科歯科大学二十五周年紀年誌115頁。河原は昭和5 年
から9年まで文部省会計課長。
27) 長谷川秀治・東京大学伝染病研究所所長(第8代、昭24-31年)、のち群馬大学学
長。
28) 清水文彦:島峯先生のお話・文献5)253頁に所載。清水は昭和7年東大医学部卒。東
大伝染病研究所技手より東京医科歯科大学教授(微生物学)、のちに同大学長。姉 佳子
は田宮猛郎(東大医学部長、日本医師会長、国立がんセンター総長)の妻。
29) 清水文彦:スピロヘータの純培養・文献5)245-249頁に所載。
30) 岡田正弘:基礎医学教室万歳・忙裡雑筆集224-228頁・桐門会・岩波ブックセンター
信山会・昭和58(非売品)
31) 文献1)35頁
32) 岡田正弘:五十四年春の東京十年会・文献30)132-135頁
33) 野本 直:巌 真教先生のご逝去を悼む・歯科材料・器械8(2)ⅰ・1989[村上
注・ この雑誌は昭和57年(1982)年4月に、「日本歯科材料器械学会」と「歯科理工学
会」 とが統合され,新たに「日本歯科理工学会」として誕生した学会が発行している学
術誌である。]
34) 橋田邦彦先生を語る(没後十年座談会)・追憶の橋田邦彦・26頁・東京大学医学部生
理学同窓会(編)・鷹書房・昭和51年
35) 坂本瀧子・真島英信編著:坂本嶋嶺先生略歴・坂本嶋嶺先生の追憶・1967年(非売
品)
36) 本川弘一:坂本嶋嶺先生の御業績と人となり・文献35)30-33頁
37) 山極一三:不空集(山極一三遺文集)・51-55頁「脳波を語る」より・(非売品)・
昭和46 年
38) 山極一三:宮崎君を偲ぶ・文献37)62頁・
39) 文献1)111頁
40) 宮本璋:思ひ出・ 医歯大新聞昭和37年3月20日号
[村上 ・医歯大新聞のもと記者として記しておく。宮本はエッセイの類は厳密な旧
かな遣いで通し、この一文のタイトルも新聞の見出しでは 思ひ出 となっている。しかし
本文となると、学生記者の校正が杜 で、新旧混在している。ここでは璋の本意に従っ
て、旧かなで統一した。] 41) ヴァレリー・R・ハミルトン:日本山岳会設立前史・日本山岳会百年史[続編・資料
編]73頁・茗渓堂・2007 42) 宮本達子:宮本璋先生追悼録1-2頁(表題なし)・昭和48年(非売品)
43) 文献1)5-6頁
44) 柿内三郎:皇国日本の進むべき道・昭和15(非売品)
45) 遺稿集 柿内三郎の生涯・発行者 志水禮子・2002年(非売品)
46) 北村典子:『佐久間象山』の著者宮本仲と「宮本家文書」・松代20号・36-49頁・
平 成19
子規全集をはじめ様々の書物が仲の生年を安政4年としているが、本稿では北村のこの研
究に依拠して3年とした。
47) 文献12)418頁
48) 堀江幸司:日本医学図書館・医学図書館32(3)290-297頁,1985
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49) 宮本仲が多摩霊園に建立した妻宮本幸子の墓碑銘(漢文)の一部を村上が抄訳し
た。
50) 宮本仲:佐久間象山[岩波版増訂第二刷]復刻版 前編緒言5頁・株式会社象山社・
昭和54年
51) 村山達三:宮本叔先生(二)・日本医事新報・第1459号25-27頁・昭和27年4月12
日 52) 司馬遼太郎:沈黙の五秒間・歴史のなかの邂逅7 正岡子規∼秋山好古・真之・中公
文庫184-188頁・中央公論新社・2011
53) 俳句研究・第一巻第七号 子規特輯・昭和9年9月1日 54) 子規全集・別巻三 回想の子規二・316-323頁・講談社・昭和53年3月
55) この施設の長は最初、生化学教授の宮本璋が兼任していたが、のちに千葉大学教授
から転任した柳沢文徳教授が専任となり、現在では「難治疾患の学理と応用」を目 的と
した 難治疾患 を標榜するわが国唯一の国立大学法人附置研究所となってい る。(参
考・http://www.tmd.ac.jp/mri/guide/index.html・平成24年6月1日現在)
56) 私(村上)はかって次のような一文を発表した。
(略)私は宮本先生には、学生時代に深い御恩を頂いた。
ふつう歯学部の学生は宮本[璋]先生には殆ど接する機会がない。(略)宮本先生の特別
講義を聴く機会はもうけられていたが、それも1∼2回程度であり、試験もなかった。学
生は先生の漫談のような講義に腹を抱えて笑っていればそれですんだのである。
私はそうではなかった。そのきっかけは、60年安保騒動の擾乱にあった。樺美智子氏
が死亡したあの夜の大騒動のことである。医歯大では医歯両学部とも学生は医学連に属
し、医学連は全学連に属していた。当時私は歯学部の3年生であり、この3年生が全ての
学生活動の中核をになっていた。(4年生になると臨床に進むため、学生活動から離れる
のである)。
私の政治思想的な心情はここでは語らないが、私は学生や労働者の大デモを冷眼で見て
いた。(略)当時、ノンポリ・ラディカルという言葉はなかったが、学資に苦しむあまり
一種アナーキーな心情を抱いていた私は、そんな立場に近かったろう。しかし、私が親し
くしていた友人は、殆どが反代々木系の活発な左翼だった。当時のマスコミ用語でいえ
ば、全学連反主流派、つまり、唐牛健太郎や現評論家の西部邁氏が指導していた"ブン
ト"である。医歯大のブントの連中はみなある程度裕福な家の子であり、私のように食う
ことで苦闘している学生は一人もいなかった。
その夜、ブントが指揮するデモ隊に警官が激しく襲いかかったらしい。多数のけが人と
逮捕者が出、東大の女子学生が一人死亡した。私はデモには行かず、アルバイト先から夜
になって大学に戻り、学生ホールで学祭の準備の雑用をしていた。確か夜10時頃だった
と記憶しているが、いきなりドヤドヤと血だらけ泥だらけになった学生がホールに駆け込
んできて、狭いホールは忽ち れるようになった。みな恐ろしく興奮している。
誰それが怪我して運ばれた、誰それが逮捕されたと、今までに経験したことのない混乱
ぶりである。満足な身なりの者は、その時デモに行かずにホールにいた数人の友人と私だ
けだった。
時間がたつにつれ、これは放っておけないということがわかってきた。デモに学生をか
り出した自治会の委員長ら幹部がのきなみ行方不明になってしまったからである。そのう
ち死者が出たという が流れた。医歯大のデモ隊は東大のすぐ後に続いていたらしい。あ
る男が泣きながら、丸茂(医学部3年生)さんが死んだようになって救急車でどこかに運
ばれたという事実を告げた。搬送先はどうも虎の門病院らしい。
その後の私の記憶は、すっぽりと抜けている。気がつくと私は電話機にかじりついてい
た。呼び出したのは宮本先生である。先生はもうおやすみになっておられた。深夜学生か
ら呼び出された先生はいささか不機嫌そうなお声をしておられたが、私は勇を奮って氏名
を名乗り、私以外にしかるべき学生がいないので、歯学部の学生ながら先生のご助力にお
すがりしたいというような事を喋った。事態が判明すると、先生からはたちまちテキパキ
した返事がもどってきた。虎の門病院ならMがいる。直ちに彼の家に連絡しろ。事務室が
閉まっていたって、学生ホールに同窓会の名簿があるだろ。都内の警察を学生をふりわけ
てなるべく多く回らせろ。必要なら、ぼくの名前を使っても一向に構わない。あ、それか
らな、今後何時でもいい。事態がわかったら逐一連絡しろ。
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幸い医歯大の学生から死者はでなかったが、丸茂君は脳底骨折で重体だった。警察の留
置場に留め置かれたある学生は、 を見て逃げだしてきたと興奮して喋っていた。私は夜
明けまでに何回か宮本先生に電話した。
我々は残った自治会の学生と相談して、翌日から全学ストを決行した。とにかく行方不
明者を救出しなければならない。そのうえ地方の大学の医学部からは続々と学生が集まっ
て、医歯大にねぐらを求めてきた。私は医歯大学生救援対策部長にされ、その後3日間一
睡もしなかった。臨時に自治会の委員長代行になった2年生のH君は、とうとう3日目に
なって卒倒した。(このH君もいまはある大学の名誉教授である)。
その翌日だったのか、数日たってからのことだったのか今ではよく思い出せない。とに
かく事態が一区切りついた所で私は宮本先生の教授室に伺い、報告とお礼を申し上げた。
なにしろ宮本先生は医歯大きっての大先生である。教授だって先生の前では緊張するとい
う話が伝わっている。先生の部屋は滅多に学生が近寄れる場所ではない。
先生はジロジロと私を眺めておられたが、
「キミがあの夜電話してきた学生かい」
と仰った。先生は生粋の江戸っ子で、出自が古い医家である。
「そうです。丸茂君は脳底骨折で、どうなるかわかりませんが、まだ生きています。警察
から追われているらしい自治会の委員長は、神経が高ぶっていますので、私が下宿にかく
まっています。」
「そうか。そいつはご苦労。脳底骨折とは重傷だが、まだ生きているならおそらく助かる
だろう。ところでな、ぼくはキミに感心したんだよ。話がとても要領がよかった。ナニ、
歯学部の学生だって。どうりで顔を知らないわけだ。」
そして横にいた秘書役の女性に向かって、
「キミ、この学生の顔と名前をよく覚えておいてくれ給え。ホラ、ぼくはすぐ人の名前を
忘れてしまうだろ。この学生の名前は忘れては困る。ぼくが、ホラあの学生といったら、
歯学部の村上君ですかという具合にな。」
これが宮本先生に私が直接お目にかかった端緒である。
昭和37年卒の私以前に歯学部を卒業した者がどれほどの数なのかしらないが、私ほど先
生に可愛がられた学生もいないであろう。もっとくわしく言えば、苦学にあえぐ学生の私
がこの大学で師と仰ぎ、尊敬できた教授は、宮本先生の他には誰もいないようになってし
まったのである。宮本先生は江戸っ子一流の諧謔で、平素から、歯学部で威張っている教
授諸公など頭から小馬鹿にしておられ、気安い者の前では医科歯科大学をウマシカ大学と
言うことすらあった。当然歯学部の教授の間では人気がなかった。私はますます孤独にな
った。
もう少し余談を続ける。
私には由木徹という医学部の親友がいたが、卒業して一年たってから彼の自殺に遭遇し
た。由木の父上は日本で有名な牧師で、賛美歌「聖しこの夜」の訳詩者として知られてい
る。私は由木にはあらゆる話ができた。由木もあらゆる話を私にした。一見恵まれた家庭
の子に見えた彼も、人知れず深刻な悩みに直面していたのだ。
彼の自殺で私は人生そのものを放棄したくなった。私の心の暗部を理解できる人間は、
もう誰もいなくなってしまったのだ。私はその苦衷をしばしば先生に手紙で訴えた。先生
は何も仰らずに、
寒ざれの孤高の笛は冴えしめよ
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という一句をしたため、私にくださった。
この一句は私のその後の人生を支える磁針になった。孤高か孤低かわからないが、独り
たらざるをえぬ人間がこの世にはいるのだ。どうやら私はそういう種類の人間らしい。そ
うした生き方の結果がどう出ようと、そういう人間は、そういう生き方を崩しては生きら
れない。モーツアルトの音楽が心にしみるのは、どうやら彼がそういう人間だったからら
しい。私は人に理解を求めるという考えを捨てた。人に理解されるのを求めることより、
理解し愛することの方がはるかに大切なのだ。(以下略) ・(村上 徹:追悼 高橋晄正
先生と私・フッ素研究第24号・2005年11月28-36頁より)
57) 若林勲:片影隻語・文献34)212-213頁
58) 今田見信:回顧することども・東京医科歯科大学創立二十五周年記念誌93-94
頁・ 昭和28(非売品)
59)本稿の投稿後、小高健著「日本近代医学史」(考古堂書店、2011)に都築正男につ
い て詳しい記述がある事を知ったので、校正に際して付記しておく。
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