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「古代共和政の墓標」から「共和国下剋上の記念碑」へ

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「古代共和政の墓標」から「共和国下剋上の記念碑」へ
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①
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③
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写真で語る世界史
「古代共和政の墓標」から
「共和国下剋上の記念碑」へ
−サン・マルコ大聖堂のテトラルキア記念碑−
入された。この改革により、ローマ共和政の伝統はほと
んど消滅した。ほぼ同じ姿で没個性な4皇帝の群像は、
中世の開始を示すものとも評されるが、
「古代共和政の
イタリアのヴェネツィアといえば、あらためて紹介す
墓標」といいうるであろうか。この像は、元来はディオ
るまでもない有名な観光地であるが、本稿では第4回十
クレティアヌス帝の本営都市ニコメディア(トルコのイ
字軍に関するひとつの文物に、焦点をあててみたい。
ズミット)に置かれていたのであろうが、330年にコン
ヴェネツィアは、今も船がおもな交通手段である。鉄
スタンティヌス1世が開都した「第2のローマ」コンス
道か自動車でヴェネツィアを訪れたなら、ローマ広場で
タンティノープルに、移された。「第2のローマ」を都と
水上バスなどに乗り換える。ジュデッカ運河をサン・マ
したビザンツ帝国では、
「市民(デーモス)
」は宮廷官吏
ルコ広場に向かって航行すると、鐘楼とパラッツォ・ド
と化していた。900年弱を経た13世紀初頭、そもそもは
ゥカーレ(総督宮殿)がまず目に入る(写真①)。広場
ビザンツ帝国の宗主下に成立したヴェネツィア共和国が、
と同じ守護聖人の名を冠したサン・マルコ大聖堂は、元
この像を略奪した。
来は総督の私的礼拝堂であり、総督宮殿と棟続きになっ
この後ヴェネツィア共和国は、レパント貿易によって
ている(写真②)。サン・マルコ大聖堂は、ビザンツ様
繁栄を恣にし、
「アドリア海の女王」とも称された。第
式教会建築の代表例とされるが、その正面入口(写真③)
4回十字軍とは、ヴェネツィア共和国のビザンツ帝国に
屋上の4頭の馬の銅像(現在置かれているのはレプリカ)
対する下剋上でもあったといえようか。テトラルキア記
は、第4回十字軍のコンスタンティノープルからの略奪
念像は、その下剋上の記念碑であるかの如く、4頭の馬
品として有名である。さらにこの大聖堂の正面から見て
の銅像とともに、サン・マルコ大聖堂を飾り立てている。
右側面の一角に、やはり第4回十字軍の略奪品のテトラ
ルキア(四分統治)記念像(写真④)がある。
テトラルキアは、3世紀末に、ディオクレティアヌス
帝によって、専制君主政(ドミナートゥス)とともに導
(山形県立山形南高等学校 高橋 徹)
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