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利根川水系の特徴的な魚たち プロファ設計株式会社 環境部 斉藤裕也

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利根川水系の特徴的な魚たち プロファ設計株式会社 環境部 斉藤裕也
利根川水系の特徴的な魚たち
プロファ設計株式会社
環境部
斉藤裕也
利根川は大きな川である。関東地方の神奈川県を除く 1 都 5 県が流域に含まれ、群馬県
のほぼ全てが利根川水系に属している。日本では最も大きな川と言い切ってよいほどの規
模を持つ川であり、この利根川の魚や水生生物を調べ始めてすでに 25 年以上を経て、色々
と気づいた点があるので、この機会に少し利根川の特徴的な魚の特に在来種に絞って思う
所をまとめてみた次第である。
①固有種はいるのか?
大雑把に見て日本列島の淡水魚は、大陸に近い西もしくは琵琶湖周辺に固有種が多く、
そこから離れるほど固有種は減る傾向がある。利根川という日本で最も流域面積が広く、
流程も 2 番目という水系であっても固有種と言える魚は存在していない。しいてあげれば
関東地方だけに生息するミヤコタナゴとムサシトミヨがそれに近い存在であるが、両種と
もかつては群馬県にも生息していたようではあるが現在は生息していない。群馬県内のミ
ヤコタナゴは昭和 22 年に館林市の城沼で記録されたのが最後である。ミヤコタナゴは主に
湧水起源の小さな流れで他のタナゴ類の少ないか、いない場所に限って生息していること
から他のタナゴ類との競争で、常に弱い存在らしいことがわかってきている。現在、日本
中のタナゴ類全体の減少が著しく、ミヤコタナゴのような弱い種の生息適地は、本来の分
布域の中ではほとんど無くなってしまっている。ムサシトミヨについては玉村町にトゲウ
オと記述された記録があるだけである。これは烏川対岸の埼玉県上里町にある忍保川や本
庄市若泉にムサシトミヨの生息記録があることと、他にこの水域でトゲウオと呼ばれるよ
うな魚がいないことから、玉村町にも充分生息の可能性があったと推定したものである。
ムサシトミヨはミヤコタナゴよりもさらに前に、正式な採取記録も無い戦前のうちに絶滅
している。この種は平野部の冷水の流れにしか生息できない。もともと湧水近くの水温の
低い極めて限られた水域にしか棲めず、本州の太平洋側では孤立したように生息する貴重
な種であった。さらにもう少し範囲を広くして東北地方と関東地方に生息したシナイモツ
ゴは、とうに関東地方では絶滅しているが、群馬県には昭和 26 年まで記録が残されている
だけである。ここにあげた 3 種ともに、生息記録は戦後まもなくの時期までで絶えている
ことから、群馬県内にはすでにこの頃、平野部では大きな環境改変が始まっていたとみる
ことができる。このような淡水魚は、当時はいてもいなくても気にもされない存在で、害
にならず食用にもならないので、人知れず絶滅していったのであろう。
②生息の限界の魚たち
もうひとつ利根川の魚で取り上げなければならないのが、分布の南や北の限界となって
いる種のことである。一生を川や湖で生活する純淡水魚ではタナゴの仲間のアカヒレタビ
ラのみが該当するが、海と川を行き来する魚ではカワヤツメ、ニシン、ワカサギ、サケな
どがある。現在、カワヤツメは極まれにしか見られない。利根川にニシンがいたのかと疑
問に持つ人もいるかもしれないが、正式な記録が存在しているし、昭和 50 年代までは茨城
県の涸沼に少数生息していた。すでに利根川も涸沼のニシンも絶滅しているようだけれど、
サケは最近増加傾向にある。これらの種はいずれも分布の南の限界が利根川であり、利根
川はどうも寒い地方の生き物の南の限界という要素が強いことが、魚の種の構成や分布か
ら推察できることがわかってくる。ここではサケを取り上げたい。
③利根川のサケ
サケは北日本に広く生息し、春先に雪代水に乗って川を下り、北洋を数年回遊して成長
し、60∼80cm、稀には 1m にも達する大きな魚で、秋に生まれた川を遡ってほぼ自分の生
まれた場所まで戻って産卵して一生を終える。
一生の間に回遊する距離は 1 万 km を超え、
地球規模の環境がなければ生活環を真っ当できない、スケ−ルの大きな環境を必要として
いる。このサケが利根川を母なる川として増えてきている。サケの遡る川は国内では北に
多く、東北地方や北海道では水産資源として厳重に管理されているが、南に向かうにつれ
て数が限られるようになって水産資源としての意味合いは薄くなってくる。日本海側では
福井県や京都府あたりの河川まで毎年確実に遡るが、最も西は北九州の河川にまで遡るこ
とがある。一方、太平洋側は黒潮に遮られて利根川が実質的な限界となっている。
利根川は本州の太平洋側でサケの遡上する最も南の川(南限河川)となっている訳だが、利根
川を遡るサケにも実は二つの群れがある。もともとは鬼怒川を遡るサケがいた。江戸時代
以前の利根川は今の江戸川の筋を流れて東京湾に注いでいたからサケの遡上はなかった筈
で、徳川の世になって利根川を鬼怒川と合流させて銚子へと向けて流れるようにした(利根
川の東遷)結果、従来から鬼怒川に遡上していたサケが、群馬県内の利根川へも遡上するよ
うになったと推定されている。人が行った河川の付け替え工事によって、産業的に価値の
ある魚の生息域が変更された、最も古いものではないだろうか。
この利根川の東遷の結果もたらされたサケも、昭和 40 年代の利根大堰の建設によって危機
を迎えた。戦時中には 18 トン(1 尾 2kg として 9000 尾)も漁獲されて出荷もされていたサケ
が昭和 40∼50 年代にはほとんど取れなくなってしまったのだ。群馬県の利根川でサケが全
くといってよいほど見られない時期が 10 年以上続いた後、昭和 56 年より群馬県がサケの
稚魚の放流を始め、翌昭和 57 年から埼玉県もサケ稚魚の放流を行った。そして昭和 58 年
から水資源開発公団(現 水資源機構)の利根大堰の管理所によって、利根大堰の魚道に入っ
たサケの調査が始められた。この調査は 10 月 1 日から 12 月 25 日まで、毎日遡上してくる
サケを計数して記録するものであった。当初は 1 シ−ズン 20 尾程度だったものが、放流数
の増加に伴って利根川に回帰するサケも少しは増え、さらに魚道の改修と 2 本の魚道の追
加もあって遡上数は増え始め、昭和 62 年に 120 尾、平成 8 年にはついに 600 尾を超し、
念願の 1000 尾を突破したのは平成 14 年で、埼玉県の放流中止も遡上数にはほとんど影響
がみられなかったようで、順調に遡上数は増え、平成 15 年には 1500 尾にもなっている。
利根大堰を越えたサケは産卵の場を求めてさらに遡上する。その産卵場は烏川の合流点か
ら上武大橋下手付近までの広い水域が中心と推定される。このあたりの利根川は大きな川
なので、70∼90cm あるサケほど大きな魚でも、早々その姿を見るのは容易なことではない。
この利根川を遡るサケがどのようにして川を遡り、どのあたりで産卵しているか平成 13 年
に発信器を用いて追跡調査を行ったことがある。(詳しくは水試だより第 32 号を参照
http://www.pref.gunma.jp/e/04/suisi)産卵場の中心と推定されるのは上武大橋から坂東大
橋付近で河口から 170∼180km と推定された。また、時には県庁(200km)や上毛大橋
(210km)付近まで溯り、新聞記事になったりする個体もいて、群馬の地にいながら、はるか
銚子の河口や北洋にまで思いをめぐらす機会がある。
サケは古来から日本では多く利用されてきた魚で、国を東西に分ける言い方のひとつにサ
ケ文化圏とブリ文化圏と言われるものがある。おおむねフォッサマグナと呼ばれる糸魚川
−静岡構造線付近を境界としており、それより東がサケ文化圏、西がブリ文化圏と言われ
ている。この日本を代表するほど利用価値の高いサケが、北洋を成長の場とし、産卵のた
めに母なる川へと回帰するが、その最も南の限界とはいえ河口の銚子から 200km 近くも遡
上して群馬の地まで溯ってくるのである。国内でこれだけの距離をサケが遡上できるのは、
最上川、北上川、石狩川程度しかなく、ましてや利根川のサケは南の限界という宿命を背
負って長い距離を溯る。その逞しさにあらためて驚きを覚えるのである。
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