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中国自動車産業における「自主技術」 丸川知雄 本報告では、2004 年

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中国自動車産業における「自主技術」 丸川知雄 本報告では、2004 年
中国自動車産業における「自主技術」
丸川知雄
本報告では、2004 年以来中国の産業界で吹き荒れている「自主」という概念について考
察する。話題はもっぱら自動車産業に絞るが、それは中国で「自主」という言葉が最初に
公式の産業政策に登場したのが自動車産業であり、この産業から産業界全体に「自主」ブ
ームが広がっていったという経緯があるからである。
1.「自主」の発端
なぜ中国の政府や産業界はにわかに「自主開発」や「自主ブランド」を強調するよう
になったのだろうか。自動車の例からその経緯をたどってみる。改革・開放の初期の中
国の自動車市場は「自主ブランド」一色であった。だが、当時の中国の自動車技術のレ
ベルは世界から優に 25 年も遅れており(丸川[2007])、自主開発にこだわったことの弊
害は顕著であった。外国資本を導入し、技術を移転してもらう以外に世界とのギャップ
を埋める手段はないと思われた。
外資導入による技術移転という基本的な方向は維持しながらも、そこに中国側の主体
性を保つ歯止めを設けようと試みたのが 1994 年の「自動車工業産業政策」だった。自動
車産業界に詳しい中国の研究者はこの政策を「中国の自動車産業は外国の付属物になら
ない決意を示した」ものだと解釈していた。この政策の第一の眼目は、乗用車と小型ト
ラックへの新規参入を規制することで既存の企業を大きく育てようという点にあったが、
同時に外国自動車メーカーを制約する項目、たとえば外資側の出資比率の規制、進出件
数の規制、部品国産化率の引き上げ、新規進出外資に対する研究開発拠点の設置を義務
づけるという条項が含まれていた。
新規参入を規制したこの産業政策は、結局競争を制限する結果をもたらしたため、期
待していたマイカー需要の停滞を招き、需要開拓を通じた産業の拡大という産業政策本
来の目的の達成をかえって阻害することになった。はっきりと効果を挙げたのは部品国
産化だった。多くの自動車部品が内外の企業によって中国国内で生産することになった
ことで、あとから参入する自動車メーカーは格段に容易に中国での現地生産が着手でき
るようになった。産業政策はそれが有効であった時期には成果が上がらなかったが、2002
年以降中国の自動車生産が急成長する基礎を作ったという意義は否定できない。
「自主」という概念が初めて中国の産業政策のなかに記された政策として 2004 年の「自
動車産業発展政策」は注目される。これは WTO 加盟によって実質的に効力を失っていた
1994 年の「自動車工業産業政策」の産業集約化、部品国産化の方針を何とか再確認しよ
うとするところに一つの目的があったが、同時に「積極的に自主的知的財産権を持つ製
品を開発する」(第 3 条)という目標が掲げられていた。
「自主的知的財産権」という見
慣れないことが何を指しているかというと、それは「企業が知的財産権を持っているこ
とをいう」という説明にもならない説明が注記されている。非公式には、外資軽自動車
メーカーが中国に研究開発拠点をおいて開発したような自動車も「自主」の範疇に入る
という説明が当局者よりなされたが、中国のマスメディアでの論じられ方をみると、自
主とはすなわち中国系メーカー1が独自ブランドで生産する自動車のみを指しているよう
だ。
肝心な意味内容は曖昧なまま、「自主」の概念は国全体の経済政策を定める第 11 次 5
カ年計画(2006∼2010 年)でも採用されることになり、そこでは「自主イノベーション
能力を強化」するため「研究開発費の対 GDP 比率を2%に」まで引き上げるという形で
使われている。
2.産業政策のフライング?
その一方で、自動車産業を管轄する政府部門ではさらに野心的な「自主」拡大の目標
が打ち上げられるようになった。すなわち、「自動車工業第11次5カ年発展計画」(討
論稿)では、「自主ブランドの乗用車の国内シェアを 50%以上とする」「外資との合弁メ
ーカーにも自主ブランドの自動車を生産させる」という内容が盛り込まれているのであ
る。この「計画」案は 2006 年の早い時期にすでに存在したが、2007 年 9 月現在に至る
まで正式に公布されるに至っていない。外国自動車メーカーなどからの反対があるため
であろう。ただ、仮に公布に至らなくてもこの計画案は政府の意向を示すと言う意味で
はすでに十分な効果があったと言ってよいだろう。奇瑞や吉利など中国系メーカーを鼓
舞する一方、広州ホンダが研究開発拠点の設立を表明するなど外資系メーカーでもこの
計画案に対応しようとする動きがあった。自動車関連のメディアや研究機関も「自主ブ
ランド」の自動車に注目するようになり、下記のような統計も作られている。
表1
乗用車生産の内訳(万台)
自主ブランド
合弁ブランド
自主ブランド率
2001
17.6
63.8
21.7%
2002
30.0
99.0
23.3%
2003
51.0
169.1
23.2%
2004
54.0
197.1
21.5%
2005
80.2
238.1
25.2%
2006 2007.1-6
112.6
78.8
310.1
177.7
26.6%
30.7%
(出所)国家信息中心
3.足踏みする「自主ブランド」
2006 年には、新興の乗用車メーカー奇瑞が乗用車を 30 万台余り生産し、乗用車の市
場では先行していた数々の外資系企業を抜いて第4位に入ったことは「自主」を奨励す
る政府やメディアを大いに勇気づけたはずである。民営メーカーの吉利が第 9 位に入っ
たことも、中国企業の可能性を示した。これまで政府はもっぱら第一汽車、東風汽車、
上海汽車の「3大メーカー」を優遇し、資金面でも支援して、この3社が中国自動車産
1
公式には外資系企業である華晨金杯もここでは「自主ブランド」に含まれている。
業の雄となることを期待していた。だが、3社ともよい外国メーカーと合弁を組んで利
潤を拡大することにばかり注力していて、いっこうに合弁相手から自立する気配を見せ
ていなかった。奇瑞と吉利の躍進は、国有メーカー中心だったこれまでの産業育成策の
あり方を見直すきっかけとなった。
2007 年上半期には、奇瑞が上海 GM、上海 VW、一汽 VW の上位3社に生産台数であ
と1万台ほどに迫る 21 万台を記録し、この勢いでは年内にトップ3に食い込むかとも思
われたが、7 月以降奇瑞の勢いに急ブレーキがかかっている。
奇瑞以外の「自主ブランド」乗用車メーカーをみると、天津一汽夏利と哈飛は生産台
数が減少傾向にある。華晨金杯は 2007 年に乗用車生産台数が 10 万台の大台に乗りそう
な勢いだが、ドイツ ADAC(全ドイツ自動車クラブ)による検査で「中華」の衝突安全
性の弱さを指摘された2ことが今後販売に影響してくる可能性がある。上海汽車、第一汽
車、南京汽車なども自主ブランド車を出し始めているが、どれも年産数万台のレベルに
とどまっている。
4.自主開発と部品国産化の関係
中国での「自主」の風潮を高める上で貢献した研究として路風(2006)がある。
「自主
自動車工業を持つ必要性があると主張するのはなぜか?
中国は自動車工業を発展させ
ないわけには行かないから。それは余りに重要だから。自主的知的財産権なしでは中国
の自動車工業は生存できない。」といういささか乱暴な論理に基づいて展開される本書で
は、1990 年代の部品国産化政策は完全に誤りだったと論じられている。
すなわち、部品国産化の努力と、製品開発において習得すべきことは無縁であり、国
産化をいくら進めても自主開発の自動車はできない、と論じる。製品開発能力は、開発
の経験を通じてのみ獲得できるのであり、生産技術や現場管理能力はもはや自動車産業
の競争力を決定する要素ではない、と主張する。外資との合弁を続けるばかりでは、い
くら中国側が開発に参与しても最終的決定権は外国側にある。自主開発能力なくしては、
「中国の企業と中国の工業はなくなり、中国の工場はすべて多国籍企業の付属物にな
る。」まさに、一連の「自主」をめぐる政策の根底にある考えを明確な形で述べている点
で路風(2006)は貴重な資料である。ただ、部品国産化、合弁を通じた生産技術や現場管理
ノウハウの移転と、自主開発とを対立的にとらえるのは正しくない。1990 年代の一連の
努力があってこそ、奇瑞や吉利の成長も可能になったのである。
(参考文献)
丸川知雄「自動車産業の高度化」(今井健一・丁可編『中国 高度化の潮流−産業と企業
の変革』アジア経済研究所、2007 年)
路風『走向自主創新―尋求中国力量的源泉』広西師範大学出版社、2006 年
華晨金杯が欧州輸出を目指していた Brilliance BS6 に対して1つ星を獲得。ちなみにヒ
ュンダイ・ソナタと起亜 Magentis など同じ価格帯の競合車は4つ星を獲得。
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