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近代イギリスの倫理 - 大阪大学大学院文学研究科・文学部

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近代イギリスの倫理 - 大阪大学大学院文学研究科・文学部
14/05/23
復習(1)
2014年1学期金2
倫理学基礎
Introduc1on to Ethics ー倫理学って何をするの? ー (6)近代イギリスの倫理
浜渦辰二 (文学研究科/倫理学・臨床哲学)
復習(2)
•  例えば、「脳死からの臓器移植」が議論さ
れた時、その背後には、デカルト的な心身
二元論が影を落としている、とも言われる •  つまり、人間の身体を、部品が取り替えの
きく機械(物体)として捉えている、と言う
のである •  デカルト的二元論をどう乗り越えるかは、
現代の課題でもある
•  デカルトがあらゆるものを懐疑にかけ、「心身分離」を語るのは、「真
理の探究」という学問的次元においてであり、「生活の行為」という日
常生活的次元においては同じことをするわけにはいかないと考え、
「心身合一」を事実として認めていた。 •  「真理の探究」のために「心身分離」の立場にたったデカルトが、自然
学をもって「心身合一」の問題に立ち返る時、脳髄・神経・動物精気・
松果腺といって生理学的概念によって「心身結合」が語られる。 •  にもかかわらず他方では、「日常生活と人々との交際を通じて初めて
理解できるようになる」と語られる「心身合一」の場面を考えている。 •  他人との交流も、「真理の探究」においては退けられるのに対して、
「生活の行為」においては大切にされていた。 •  認識という学問的次元では、他人はもっぱら生理学的考察の対象に
過ぎなかったが、行為という生活的次元においては生身の人間とし
て登場する。 •  デカルトの二元論とは、物と心の二元論というより、むしろ、認識(学
問的次元)と行為(生活的次元)の二元論と言うべきかもしれない。 皆さんの感想から一つだけ紹介
•  今日はデカルトの表面的な部分しか理解して
いなかったということがよくわかる講義でした。 •  数学や科学に興味を持ちながらも、その理
屈っぽさで哲学に新しい扉を開いた人だと
思っていましたが、代数と幾何学を結びつけ
たり、あらゆる自然現象を説明したり、彼が特
に有名である理由が少し分かった気がします。 •  ラテン語やフランス語で物体と身体が同じ語
なのは寝耳に水でした。 デカルト以後
大陸合理主義と英国経験主義
•  デカルト(1596-­‐1650)から少し後の17世紀生まれの世代に
•  デカルトが、「良識(bon sense)〔後で、理性(raison)とも言い換
えられる〕は、生まれつき、万人に等しく与えられている」
(『方法序説』)と述べて「理性(ラテン語ではra1o)」を重視し
た考えを、合理主義(ra1onalism)と呼び、 •  その考えを大なり小なり(温度差はあれ)継承した、パスカル
(?)、スピノザ、ライプニッツらを大陸合理主義と呼ぶ。 •  それに対し、(生まれつき与えられている)「理性」よりも(生ま
れてから蓄積されていく)「経験(experience)」を重視する考
えを経験主義(empirism)と呼び、 •  それを継承した、ロック(イングランド)、バークリー(アイルラ
ンド)、ヒューム(スコットランド)らを英国経験主義と呼ぶ。 •  この時代から、ドーヴァー海峡を挟んで、ヨーロッパ大陸系哲
学と英国系(その影響を受けた英語圏)哲学の対立が始まり、
現在に至るまで尾を引いている。
–  フランスのパスカル(1623-­‐1662)
–  オランダのスピノザ(1632-­‐1677)
–  ドイツのライプニッツ(1646-­‐1716) •  がいるが、時間の都合上、省略せざるをえない。 •  今日は「イギリスの倫理」ということで、「英国経験主義」とし
てまとめられる、 –  ジョン・ロック(イングランド、1632-­‐1704) –  ジョージ・バークリー(アイルランド、1685年-­‐1753)
–  デイヴィッド・ヒューム(スコットランド、1711-­‐1776) •  なかでも、時間の都合上、ロックだけに焦点を当てたい。 •  その前に、デカルト以後の「大陸合理主義」と呼ばれる流れ
とロック以後の「英国経験主義」の対比、およびロックに至
る時代背景について簡単に触れておきたい。 1
14/05/23
「イギリス」は “English”から “English”は、もともとは、 “England”の、という意味。 「英国」 「英吉利」という漢字表記から 正式名称は、 United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland グレートブリテン及び 北アイルランド連合王国 略号:UK 車のプレート:GB 英国の歴史
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紀元前9〜5世紀に、ケルト系民族が侵入し、ケルト系の部族国家が成立。 紀元前55年ローマ帝国が侵入・征服し、ケルト系住民の上にローマ人が支配層となる。 それも、スコットランドとアイルランドまでは至らず、そこではケルト系の部族社会が続く。 5世紀になって西ローマ帝国がゲルマン民族侵入の混乱で立ち去った後、ゲルマン人の
アングロ・サクソン部族が侵入し、イングランドにアングロサクソン七王国が成立するが、
それもウェールズ、スコットランド、アイルランドには至らず、その後、イングランド、スコット
ランド、ウェールズ、アイルランドがそれぞれの歴史を歩む。 1066年にフランスのノルマンディー公ウィリアムによってイングランドが征服され(The Norman Conquest of England)、イングランドはノルマン系フランス貴族に支配されることに
なった(その結果イングランドはフランス文化の影響を強く受けることになった)。 百年戦争(1337-­‐1453)は、フランス王国の王位継承をめぐるフランス王国とイングランド王
国の戦いで、現在のフランスとイギリスの国境線を決定。 大陸で15世紀初頭に始まった宗教改革運動が波及してきて、イングランドでは、イングラ
ンド国教会(Church of England)成立に至った。もともとはカトリック教会の一部であったが、
16世紀にローマ教皇庁から離れ、独立した教会となった。 スコットランドには16世紀になってカルヴァン派(プロテスタント)が持ち込まれ、アイルラン
ドはカトリックにとどまった。 16世紀から17世紀にイングランド国教会の中にカルヴァンの影響を受けた改革派の
ピューリタン(清教徒)が勢力を持つようになった。 ロック登場まで
•  1603年、スコットランド王ジェームズ6世(1566-­‐1625)が、イングランド王、
アイルランド王(ジェームズ1世)を兼ねる同君連合(王冠連合)体制となる。 •  ジェームズ1世は、自ら「グレートブリテン王」(King of Great Britain)と自称
し、新しい硬貨「ユナイト」(the Unite)を発行してイングランドとスコットラン
ドの両国に通用させ、イングランドのセント・ジョージ・クロスとスコットラン
ドのセント・アンドリュー・クロスを重ね合せたユニオン・フラッグを制定
(1606)、国王の命令によって翻訳された『欽定訳聖書』(King James Version / Authorized Version, 1611)を刊行。 •  イングランド王国、スコットランド王国、アイルランド王国はそれぞれの議
会を持っていた。 •  ジェームズ1世の死後、次男チャールズ1世(1600-­‐1649)が継承するが、
王権神授説を信奉し、議会と対立。課税には議会の承認を得ることを求
める「権利の請願」が提出されたが、翌年議会を解散、指導者を投獄し、
専制政治を行った。議会派と王党派の内戦が起こり、王党派は議会軍に
投降し、チャールズ1世は1649年に斬首された。→ロック17歳の原体験 市民革命
•  王権神授説:「王権は神から付与されたものであり、王は
神に対してのみ責任を負い、また王権は人民はもとより
ローマ教皇や神聖ローマ皇帝も含めた神以外の何人に
よっても拘束されることがなく、国王のなすことに対しては
人民はなんら反抗できない」 •  このイングランド・スコットランド・アイルランドで起きた内
戦・革命を、清教徒革命(1641-­‐1649)と呼ぶ。 •  その後、王政復古(1660)の後、チャールズ1世の次男
ジェームズ2世が継承していた王位から追放され、オラン
ダ総督ウィリアム3世がイングランド王位に即位したクーデ
ター事件を、名誉革命(1688-­‐1689)と呼び、清教徒革命と
あわせて「イギリス革命」(アメリカ独立戦争、フランス革命
と並ぶ「市民革命」)とも呼ばれる。 •  名誉革命により、「権利の章典」が成立し、イギリス国王は
「君臨すれども統治せず」の原則に従う立憲君主となった。 ジョン・ロック(1632-­‐1704) •  デカルト(1596-­‐1650)とニュート
ン(1642-­‐1727)の間に生きた。 •  英国経験主義(イギリス経験
論)の父。 •  『人間知性論』(1689)によって
経験主義的な認識論を展開。 •  『統治(市民政府)二論)』
(1689)の政治思想によって、名
誉革命を理論的に正当化し、社
会契約説や抵抗権の考えがア
メリカ独立宣言、フランス人権
宣言に大きな影響を与えた。 •  日本では明治時代、後者の翻
訳によって有名になった。
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ジョン・ロックの背景
•  父は清教徒革命の議会軍の騎兵隊長。当時通っていた学
校の校長は国教会の聖職位を持つ王党派→チャールズ1世
の斬首の原体験。 •  オックスフォード大学で哲学と医学を学んだ。 •  1667年シャフツベリ伯の私設秘書、主治医となる。 •  『解剖学』(1668)、『医術について』(1669)を刊行。 •  近代医学を通じて、経験と実験(ともに、ラテン語では、
experien1a)という経験主義的な考え方を学び取っていた。 •  1675年、フランスに旅行し、パリやモンペリエに滞在。 •  1682年、シャフツベリ伯が反逆罪に問われてオランダに亡
命したため、ロックもオランダに亡命、ユトレヒト、アムステル
ダム、ロッテルダムと転居しながら亡命生活。 •  名誉革命(1688)後に帰国し、前述の二著作を出版、『教育
論」(1693)も出版。 認識論から政治論
•  デカルトに劣らずロックにとっても、人間は生まれつき平等であるが、それ
は、われわれの心が、生まれつき「白紙(タブラ・ラサ)」の状態にあるとい
う点においてである、と主張。 •  観念はすべて「経験」によって後天的に獲得されるものであり、とすると、
経験が異なり、教育が異なれば、誰もが異なる観念を持つことになる。 •  ロックは、日本では『人間知性論』よりも『市民政府論』によって有名である
が、そこで展開された政治論上の考えも、このような認識論上の考えと密
接に結びついていた。 •  そのような生まれつき共有するものを持たず、バラバラに育って来た個人
が、「自然状態」では、それぞれが平等・公平に、生命(life)、健康(health)、
自由(liberty)、財産(possessions)の権利をもっている。 •  しかし、誰も自由なところで「社会状態」となると、社会が混沌としてしまう
ので、自然権をもった個々人の利害の対立を調停するシステムとして「合
意または契約」(社会契約)を基礎にした「政府(government)」が形成され
る、と考えた。 •  そこで出発点として考えられているのは、生まれつき祖先の遺産を背負っ
ているこのがない(すなわち、生得的観念をもたない)バラバラの個人で
あった。
つまり
•  ロックの認識論においては、およそ存在するもの
はすべて個別的であり、それらからの抽象に
よって初めて普遍的なもの(一般観念)が生じる。 •  まず、それぞれの個物がそれだけであり、それ
からの抽象によって普遍が形成されるという認
識論上の考えは、 •  まず、それぞれの個人がそれだけであり、彼ら
の契約によって政府(普遍的な共同体)が人為
的に形成されるという政治論上の考えが対応し
ている、と言えよう。
ロックの経験主義
•  ロックは、デカルトから影響を受けながらも、デカルトを批判。 •  デカルトは「私のうちにある観念(idea)」には、1)生得的観念、2)外来的
観念、3)創作的観念という、3種類があると考えた。 •  1)生得的観念は、「われわれとともにうまれたもの」として、「生まれつき
万人に備わっている」という「理性」の内実とも言えるが、ロックは、この生
得的観念を否定した(『人間知性論』の冒頭)。 •  当時、ヴァスコ・ダ・ガマ、コロンブス、マゼランらに始まる大航海時代(15
世紀半ば〜17世紀半ば)で、彼はオランダ滞在中に、非ヨーロッパ世界
を見て来た人々が書いた旅行記・冒険記を読み漁った。 •  ヨーロッパの人々が万人に等しく備わっているがゆえに「生得的」と考え
るような観念(特に、神の観念、道徳観念)が、ヨーロッパ以外の土地の
原住民達(ロックは子どもや白痴の例も挙げている)には見られないこと
をそこから学んだ。 •  それらの観念は「生得的」ではなく「後天的」であって、ヨーロッパ人にとっ
て万人が共有していると思われるのは、ヨーロッパにおける「教育」や「習
慣」といった「経験」のなかで獲得したものにすぎないと考えた。 原子=個人
•  ロックはもともと医師で、化学者ボイル(「近代化学の父」ドルト
ンを準備した先駆者)と親交があり、その「粒子哲学」(デカルト
の「粒子」説を展開)から影響を受けた。 •  ボイルの「粒子哲学」は、古代ギリシアにあった「原子(atom)」
論の復興 •  「atom」(ギリシア語):「これ以上分ける(tomein)ことのできない
(a-­‐)もの」 •  『市民政府論』の中心概念の一つは、 「個(individuum)」 •  「individuum」(ラテン語):「これ以上分ける(dividere)ことのでき
ない(in-­‐)もの」 •  つまり、語源的に二つは同じ意味で、 •  「個人」というのは、自然学における「原子」という考えを政治学
に応用したもの、と言える。 ロックの原体験
•  チャールズ1世の斬首は、王権は神から付与さ
れたものという考え(王権神授説)の否定であり、
議会による国の父たる王の殺害という象徴的な
出来事であった。 •  それによって、父と子ども達という縦の関係が断
ち切られ、父なき子ども達の横の関係がクロー
ズアップされてくることになった。 •  それがバラバラになった子ども達(市民)が、約
束(社会契約)によって政府(統治機関)を作ると
いう「社会契約論」のアイデアが生まれたと見る
こともできる。
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人間観をめぐる二つの伝統 •  ヨーロッパ哲学の歴史を遡って見れば、個体に先立つ普遍
(理性)を認める合理主義(デカルトからの伝統)と、個体から
出発して普遍を求める経験主義(ロックからの伝統)と、どち
らに立つかという対立は、 •  イデア論(理想主義 idealism)のプラトン主義と反イデア論
(現実主義 realism)のアリストテレス主義と、どちらに立つか
という対立に遡るものであり、 •  また、中世の普遍論争(普遍は実在するのか、名前に過ぎず
実在はしないのか)における実念論と唯名論との対立にも遡
るものでもあり、 •  さらには、個人から共同体へという道を選ぶか、それとも、共
同体から個人へという道を選ぶかという、人間観をめぐって
ギリシア以来の伝統をもつ対立であった。 「個人」という思想の登場
•  それは、ルネッサンス以降、自然科学における
原子論の復権、宗教改革における個人の信仰
の強調、市民社会の形成に伴う個人の人権の
政治的・法律的強調、中世的共同体からの個人
の経済的離脱、といったように、様々な分野にお
いて、「個に先立つ普遍」から「個の後にくる普
遍」という世界観の転換が徐々に行われたことを
背景にして登場したものであった。 •  ロックの経験主義によって、このような「個人」と
いう思想が、はっきりと姿を現したわけである。
哲学書の翻訳
•  このような一般用語だけでなく、多くの哲学用語は、この時代に欧
米の人文社会系の書物の翻訳のなかから作られた。 •  その際、いま挙げた一般用語と同様に、多くが漢字二文字の熟語
で訳された。 •  しかし、それら漢語風翻訳語は、従来の大和言葉からは遊離した
インテリ用の言葉だった(当時、漢文はインテリの素養であった)。 •  それにより、もとの欧米の哲学用語は、日常用語と繋がりを持って
いたのに、それを訳した翻訳語は、日本の日常用語との繋がりを
失ってしまった。 •  例えば、ドイツ語の “Begriff”は “begreifen”に由来し、これは “greifen”に由来するので、その繋がりが一般人にもよく分るが、そ
れを「概念」と訳してしまうと、「分かる」との繋がりも、「掴む」との
繋がりも見失われてしまう。 「共同体から個人へ」か 「個人から共同体へ」か
•  古代ギリシア哲学の伝統においては、基本的には、個体なるも
のは何らかの普遍への参与によってのみ存在を獲得すると考え
られており、アリストテレスですら、「人間は本性上、ポリス的動
物である」であって、人間は個人としてではなく、ポリスのなかで
初めて人間になることができると考えた。 •  そこには、そもそも「個人」という思想はなかったと言ってもよい。 •  他方、ヘレニズム時代に原子論を唱えたエピクロス学派におい
て初めて、「個人」という考えとともに、諸個人の「契約」によって
共同体が形成されるという考えが成立した。 •  しかし、この考えが日の目を見ることになるのは、近代における
市民社会の勃興を背景にして登場する唯名論的・経験主義的な
哲学においてである。 柳父 章『翻訳語成立事情 』(1982)
•  ちなみに、「個人」という日
本語は、「社会」「自然」「権
利」「自由」「恋愛」等ととも
に、明治時代(19世紀後
半)に翻訳語として成立し
たものである。 •  それ以前には、それに対応
する日本語はなかったわけ
で、対応する語がなかった
ということは、対応する考え
がなかったということ。 •  これは驚くべきことと言って
よい。 翻訳をめぐる問題
•  ギリシア語の “philosophia”(知を愛し求めること)を、ヨーロッパの言語は
いずれも訳していない。世界中で唯一日本だけが、その訳語「哲学」を
作った(今では、中国に逆輸入されている)。 •  もともとは、「希哲学」だったのを、3文字熟語は座りが悪いというので「哲
学」にしてしまったが、それによって意味の分からないものになってしまっ
た(本来の意味を汲めば「愛知」と訳した方がよかった)。 •  欧米では、文学者と哲学者の対話はそれほど難しくないのに、日本では
文学者と哲学者(西洋哲学の研究者)との対話は難しい(哲学者が日常
用語にない翻訳語を業界用語として使うから)。 •  日本では、古くから漢文訓読したり、漢字かな交じり文を使って来た(音
読みに対して訓読みはすでに翻訳といえる)。 •  明治時代以来、漢字を使わない運動(ローマ字運動も含め)がたびたび
現れるが、そのたびに反対の砲撃を浴びて、消えて行った(それに比べ、
韓国でも、昔は、漢字とハングル文字の混じり文だったのに、1970年から
始まった漢字廃止政策によって、一部例外を除いて漢字が使われなく
なった)。 •  日本語から漢字をなくすことは不可能なのか?
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