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バージョン変化に応じた市場獲得

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バージョン変化に応じた市場獲得
Japan Marketing Academy
マーケティング・エクセレンスを求めて
バージョン変化に応じた市場獲得
シリーズ
●
第83回
〔日鉱金属株式会社〕
渋谷 義行
恩藏 直人
●早稲田大学大学院 商学研究科 博士後期課程
●早稲田大学 商学学術院 教授
日鉱金属 磯原工場
http://www.j-mac.or.jp
マーケティングジャーナル Vol.29 No.4(2010)
Japan Marketing Academy
★ マーケティング・エクセレンスを求めて
粡
①
性をベースに,技術や市場のバージョン変化
はじめに
に応じてすぐれたマーケティングを展開して
きたことによると考えられる。以下,日鉱金
われわれが毎日のように使っているパソコ
属の薄膜材料事業の歴史とともにそのマーケ
ンなど電子機器や電機機器の心臓部には,半
ティング・エクセレンスを探っていきたい。
導体と呼ばれる電子部品が組み込まれている。
②
新日鉱グループおよび
日鉱金属の概要と沿革
半導体の代表的なメーカーとしては,アメリ
カのインテル,AMD,韓国のサムスン電子,
台湾の TSMC,日本のエルピーダメモリなど
が挙げられる。
半導体の製造工程では,板状をした基板の
新日鉱グループ(旧日本鉱業株式会社)は
上に何層も重ねられた銅などの金属の薄い膜
100 年以上の歴史を持つ最大手の総合資源・
を形成させる。このような金属の薄膜の形成
エネルギー企業であり,純粋持ち株会社であ
には,後で述べるスパッタリングと呼ばれる
る新日鉱ホールディング株式会社のもと,石
方法が利用されることが多い。スパッタリン
油事業(株式会社ジャパンエナジー)と金属
グで半導体の基板に薄膜を形成させるための
事業(日鉱金属株式会社)を二大中核事業と
材料がスパッタリング・ターゲットであり,
している(図表− 1)。ジャパンエナジーは石
薄膜(はくまく)材料とも呼ばれている。半
油資源開発,石油精製,石油化学などの事業,
導体の製造にとって薄膜材料は欠かせないも
日鉱金属は資源,製錬,電材加工などの事業
のである。
をそれぞれ展開している(新日鉱グループは
2010 年 4 月,新日本石油株式会社と経営統合
日鉱金属は,薄膜材料の主要製品であるス
する計画である)。
パッタリング・ターゲットで圧倒的な市場シ
ェアを維持し,世界および日本でトップシェ
日鉱金属(旧日本鉱業)は,1905 年に創業
アを誇っている。日鉱金属のスパッタリン
された非鉄金属の最大手企業である。同社は
グ・ターゲットは世界で約 6 割という高いシ
日立鉱山などの鉱山事業,および国内鉱山か
ェアを占めており,同社が扱っていないアル
■図表―― 1
ミ材料を含めてもシェアは約 40 %である。ま
新日鉱グループの組織図
た,日本国内では 8 割という圧倒的なシェア
を占めており,アルミ材料を含めてもシェア
は約 60 %に達している。
日鉱金属が薄膜材料のスパッタリング・タ
ーゲット市場で,このような高いシェアを獲
得し続けることができるのは,同社が長年蓄
積してきた金属の高純度化技術における優位
● JAPAN MARKETING JOURNAL 116
マーケティングジャーナル Vol.29 No.4(2010)
出典:新日鉱ホールディングス株式会社ホームページ。
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バージョン変化に応じた市場獲得
ら産出される鉱石を処理し銅などの非鉄金属
鉱ホールディングス株式会社『有価証券報告
地金を生産する製錬事業からスタートした。
書』2008)が,薄膜材料の売上はこの半分程
創業以来日鉱金属の事業は,国内外の資源開
度の 600 億円前後であったと推定される。日
発および鉱山運営や製錬事業という上流およ
鉱金属の電子材料(銅箔および薄膜材料)に
び中流を領域としていたが,1950 年に金属加
おける売上が 2001 年度以降急速に伸びてきて
工事業を開始するとともに,1980 年代には銅
おり(図表− 2),薄膜材料事業の成長が電子
箔および薄膜材料事業に参入し,下流への本
材料売上の伸びに大きく寄与していると推測
格進出を果たした。本稿でとりあげる薄膜材
できる。また,日鉱金属の薄膜材料は,国内
料については,1985 年茨城県に磯原工場を開
では磯原工場(茨城県),戸田工場(埼玉県),
設し,本格的に事業を開始した。
海外ではアメリカ,台湾,韓国で生産されて
いる。
現在日鉱金属は,新日鉱グループのなかで
金属事業を担当する中核企業として,銅を中
③
スパッタリングと
スパッタリング・ターゲット
心に上流の資源事業から,中流の製錬事業,
および下流の電材加工事業,環境リサイクル
事業までの幅広い事業領域を持つ総合非鉄メ
ーカーである。日鉱金属の下流に属する電材
加工事業は,加工,銅箔,および本稿でとり
上で述べたように,半導体の製造ではスパ
あげる薄膜材料の各部門から構成されている
ッタリングと呼ばれる方法で板状をした基板
(図表− 3)に薄膜を形成させる。スパッタリ
(日鉱金属の組織図は添付資料参照)。
2007 年度における電子材料(銅箔および薄
ングとは,真空のチャンバー(反応容器)内
膜材料)の売上高は 1213 億円であった(新日
に基板とスパッタリング・ターゲットと呼ば
■図表―― 2
日鉱金属における電子材料の売上推移
注:電子材料の売上は銅箔部門と薄膜材料部門の売上の合計を指す。
出典:2007 年度までは新日鉱ホールディングス株式会社(2002 ; 2003 ; 2004 ; 2005 ; 2006 ; 2007 ; 2008)の有価証券報告書,およ
び 2008 年度は推定により筆者作成。
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■図表―― 3
れる円盤状の金属板(図表− 4)とを対向させ,
シリコン基板
電圧をかけることにより,生成したイオンが
ターゲットをたたき,ターゲット成分が飛び
出すことで対向した基板に成膜させる方法で
ある(図表− 5)。この原理を利用して,基板
にオングストローム(百億分の 1 メートル)
単位からミクロン(百万分 1 メートル)単位
までの薄膜を形成させる。
④
日鉱金属の薄膜材料事業への
参入と半導体市場
■図表―― 4
銅のスパッタリング・ターゲット
日鉱金属が薄膜材料事業に参入したのは,
1980 年にある顧客の研究所からスパッタリン
グ・ターゲットとして,高純度モリブデンの
供給を依頼されたことがきっかけである。薄
膜材料事業への参入のためには金属の高純度
精製技術が必要であるが,日鉱金属は非鉄金
属製錬のトップ企業であったことから,金属
■図表―― 5
の高純度精製についての専門技術を持ってい
スパッタリングのイメージ図
た。日鉱金属が金属製錬事業で長年蓄積した
高純度精製技術が薄膜材料の技術開発をもた
らし,薄膜材料事業への参入を可能にしたの
である。当初は研究所での小規模生産であっ
たが,日鉱金属は 1985 年磯原工場を開設し,
本格的に薄膜材料事業に参入した。
日鉱金属が薄膜材料事業に参入した 1980 年
代は,NEC や東芝,日立など日本の半導体メ
ーカーが技術的にも市場シェアの面でも世界
をリードしていた。また,当時の半導体市場
は,日本やアメリカなど地域別の棲み分けが
できており,グローバル競争という点ではい
わば無風状態であったといえる。
出典:株式会社ビースパッタ,ホームページ。
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当時半導体向けのスパッタリング・ターゲ
顧客に技術的な問題が発生した時は,たとえ
ットの主要メーカーはハネウエル(アメリカ),
日鉱金属の製品が原因でないと考えられる場
プ ラ ッ ク ス エ ア ( ア メ リ カ ), ト ー ソ ー ・
合でも,駆けつけて迅速に対応した。
SMD(アメリカ)などであった。強力な競合
なかでも,日鉱金属の参入の成功で特筆す
企業が存在するなか,日鉱金属がスパッタリ
べきなのは,同社が持つ金属の高純度精製技
ング・ターゲット分野での薄膜材料事業に参
術,装置メーカーとタイアップした顧客への
入することができたのは,次の理由によるも
アプローチの二つであると考えられる。日鉱
のと考えられる。第一には上述のように,金
金属は,優れた技術力とマーケティング力で
属の高純度精製技術を持っていたことである。
薄膜材料事業への参入に成功し,その後も市
日鉱金属の高純度精製技術は,シックス・ナ
場シェアを拡大していったのである。
イン(99.9999 %)水準での精製が可能であり,
⑤
半導体市場と半導体製造技術の変化
技術力が顧客から高く評価されたのである。
第二には,代理店を使わない直接販売方式を
採用したことである。この直接販売方式によ
り,同社の技術力を顧客に直接アピールする
1990 年代に入って半導体業界は,いわゆる
とともに,顧客ニーズや顧客情報の把握が可
シリコンサイクルの波による不況に陥った。
能となり,顧客対応の迅速化につながったの
半導体メーカー各社の利益が落ち込み,半導
である。
体市場は大きな転換期を迎える。それまで半
第三には,顧客と同時に装置メーカーにア
導体業界をリードしてきた日本の半導体メー
プローチし,装置メーカーの推薦を得たこと
カーの生産規模が縮小し,それに代るインテ
である。半導体メーカーにとって装置の設備
ル,サムスン電子,TSMC などアメリカ,韓
投資は,投資額が数千億円という高額であり,
国,台湾のメーカーが生産規模を拡大して半
大きな意思決定である。一方,装置メーカー
導体のマーケット・シェアを大きく伸ばした。
はターゲット材料などのデータ付きで装置を
80 年代一時 50 %を超えていた日本メーカー
半導体メーカーに販売することが求められて
のシェアは,90 年代前半にアメリカに抜かれ,
いる。すなわち,スパッタリング・ターゲッ
90 年代後半には 30 %を割り込んだ(株式会
トの推薦を装置メーカーから得ることは,顧
社日本政策投資銀行 2002)。売上高で上位
客(半導体メーカー)および装置メーカー双
の半導体メーカーを見ると,80 年代には日本
方のニーズにも合っていたのである。さらに
の半導体メーカーが上位を占めていたが,90
第四には,優れた顧客サービスが顧客満足を
年代以降アメリカや韓国のメーカーが上位を
もたらしたことである。日鉱金属は顧客に対
占めるようになってきている(図表− 6)。こ
する「クイック・レスポンス」を重要視して
のような半導体市場の激変により,80 年代に
おり,例えば顧客が必要であれば,わずかな
日本やアメリカなど地域別に棲み分けが行わ
量の製品でも飛行機を使って届ける。また,
れていたターゲット市場はグローバル化が進
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■図表―― 6
ある(図表− 7)。第二には,基板の材料であ
半導体メーカーの売上高トップ 10
るウエハの規格が 8 インチ径から 12 インチ径
に変更された点である。ウエハの規格変更に
より,半導体メーカーは新しい製造装置を導
入する必要があった。スパッタリング・ター
ゲットを製造販売している日鉱金属は,材料
の転換やウエハの規格変更という技術的な変
革に対応しなければならなかった。しかし,
一方で日鉱金属にとっては,このようなバー
ジョン変化をビジネスチャンスに結びつける
注:Fairchild: Fairchild Semiconductor 社,NS: National
Semiconductor 社,Philips: Philips Electronics 社,ST:
STMicroelectronics 社。
機会ともなったのである。
さらに,当時薄膜形成に関連する半導体製
出典:株式会社日経 BP(2006)を一部改訂。
造の前工程の分野で技術的課題があった。ス
み,世界規模での競争の場となった。しかし,
パッタリングは物理的な方式で成膜させるの
日本の半導体メーカーはシェアを落としたが,
で Physical Vapor Deposition(PVD)と呼ば
日本のメーカーによって築き上げられた半導
れるが,化学的な方式で成膜させる Chemical
体の技術や規格が世界のメーカーに移転した。
Vapor Deposition(CVD)との間で主導権争
また,2000 年に入ると技術面でバージョン
いが激化していた。半導体製造の工程でどち
変化ともいうべき大きな変革が発生していた。
らの方式が採用されるかは,スパッタリン
その第一は,ターゲット材料が半導体の高度
グ・ターゲットの販売への影響を通じて,日
化に伴い,チタン,アルミ,シリサイド(タ
鉱金属における薄膜材料事業の今後を大きく
ングステンとシリコンの化合物)から銅,タ
左右すると考えられた。
ンタルという新しい材料にシフトしたことで
⑥
海外市場への挑戦
■図表―― 7
ターゲット材料の種類別市場規模の変化
日鉱金属は,日本の半導体メーカーの縮小
および半導体市場のグローバル化に対応を迫
られ,海外市場への参入を余儀なくされるこ
とになった。このため,同社は 1990 年にアメ
リカに設立した生産工場を拠点として,市場
のリーダーとなったアメリカの半導体メーカ
ーにアプローチを開始した。
日鉱金属のアメリカ半導体メーカーへのマ
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ーケティングはゼロからのスタートであった
の品質は,競合他社との差別化要因になって
が,キーポイントとなったのは同社の高純度
いる。
精製技術に裏打ちされた製品品質であった。
Physical Vapor Deposition(PVD)と
上述のように,当時ターゲット材料の転換が
Chemical Vapor Deposition(CVD)との主
あり,銅,タンタルが採用された。新たにタ
導権争いが,PVD 方式によるスパッタリン
ーゲット材料になった銅について競合他社は,
グ・ターゲットを製造販売する日鉱金属にと
純度ファイブ・ナイン(99.999 %)の製品を
って,重要な技術的課題であったことは既に
販売していたが,日鉱金属は純度シックス・
述べた。スパッタリングによる成膜法である
ナイン(99.9999 %)の製品を顧客に推奨した。
PVD は,イオンがターゲットをたたく方式で
シックス・ナインの製品はファイブ・ナイン
あるため,ゴミが出やすいという欠点がある
の製品に比べ価格が高いので顧客には当初迷
とされた。しかし,CVD は有毒ガスを発生す
いがあった。しかし,スパッタリング中にゴ
るという問題のほか,PVD よりもコストが高
ミの発生量が五分の一または六分の一と非常
いということもあり,現在では PVD 方式が
に少なく,顧客の半導体製造における歩留ま
大勢を占めており,当面は代替する新方式の
りが大きく改善されることがわかった。この
導入も難しいと予想されている。
ため,当初迷っていた顧客もシックス・ナイ
日鉱金属によるアメリカ半導体メーカーへ
ンの製品をいったん使用すると,高価格にも
のマーケティングで特筆されるのは,顧客で
かかわらず高品質を評価し使用し続けること
ある半導体メーカーと同時に半導体装置メー
が多くなり,シックス・ナインの製品は顧客
カーにもアプローチを行ったことである。日
に受け入れられるようになった。
鉱金属が日本のマーケットに参入した時,半
日鉱金属の金属製錬部門はかつてオーディ
導体装置メーカーへのアプローチを活用した
オ機器向けに,エイト・ナイン(99.999999%)
ことは既に述べたが,アメリカ市場において
の銅を供給したことがある。オーディオ製品
このマーケティング方式がさらに効果をあげ
においては,使用される部品の純度が上がる
た。上述のように,当時半導体メーカーでは
ほど音のノイズが少なくなるからである。こ
ウエハ(基板の材料)の規格が変更されたと
のような日鉱金属の持つ高純度化技術はスパ
ころであり,新しい装置の導入が必要であっ
ッタリング・ターゲットの生産にも活かされ
た。半導体メーカーは高価な装置導入の意思
ている。競合他社のなかには,日鉱金属と金
決定を迫られており,一方半導体装置メーカ
属製錬事業で競合する大手非鉄メーカーから
ーはターゲットなどに関するデータ付きで装
素材を購入し,シックス・ナインのターゲッ
置を半導体メーカーに売り込まなければなら
ト材を供給している企業もあるが,日鉱金属
なかった。そこで日鉱金属はアメリカのアプ
の強みは,自ら高純度精製した素材をベース
ライドマテリアルなどの大手装置メーカーに
にスパッタリング・ターゲットを生産できる
アプローチし,自社製品の品質について高い
点である。日鉱金属の高純度化技術力と製品
評価を得,装置メーカーの推薦を勝ち取るこ
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とに成功した。このように日鉱金属は,ウエ
味は,顧客にとって最初の売り手になるとい
ハの規格の変更というバージョン変化を利用
う点である。スパッタリング・ターゲットの
し,日鉱金属のターゲット材料に対する半導
マーケティングでは,顧客が設備を新設また
体メーカーの高い評価に加え,装置メーカー
は拡張するとき,競合する売り手のなかで通
の推薦を得ることにより,アメリカにおいて
常一社の製品が採用される。設備投資後しば
マーケティングの成功を収めることができた
らくすると,二社目,三社目の製品が採用さ
のである。
れるが,最初は一社のみの採用となる。した
さらに,顧客重視の姿勢も日鉱金属のアメ
がって,設備の新設時や拡張時に採用される
リカにおけるマーケティングの強みとなった。
という点が非常に重要であり,日鉱金属は顧
同社は顧客に対する「クイック・レスポンス」
客が設備投資を行うタイミングに狙いを絞っ
を重視しており,顧客の要望があれば,わず
てマーケティングを展開している。一社目と
かな量の製品でも飛行機を使って届けている。
して採用されることに成功すれば,二社目,
日鉱金属はこれを「突貫工事」と呼んで重要
三社目となる競合他社は,顧客側で標準とな
視しているが,顧客ニーズへの迅速な対応に
っている日鉱金属の製品仕様や販売方式に合
より,顧客の信頼を獲得することができた。
わせなければならない。これは,当該顧客に
顧客重視の姿勢については,次のような例も
対する競合企業との競争で日鉱金属が優位に
ある。顧客で半導体製造の前工程を担当して
立っていることを意味している。また,顧客
いるエンジニアから,スパッタリングでゴミ
は製品開発や問題解決などについて,最初の
がたくさん出て困っているので何とかしてほ
供給者である日鉱金属に相談をもちかける。
しいとの連絡があった。通常このようなケー
日鉱金属は顧客のニーズや今後の計画などに
スでは,材料が問題である確率は低いことが
ついて最初に情報を入手できるようになり,
多いが,すぐ飛んで行って顧客の要望に対応
この点でもマーケティングで優位に立つこと
した。たとえ,問題の原因が日鉱金属の製品
ができる。
でないと考えられる場合でも,即座に対応す
「ファースト・ベンダー」戦略のもうひと
ることが顧客の信頼獲得につながっている。
つの意味は,顧客の設備新設時や設備拡張時
日鉱金属は顧客とのリレーションシップとい
に最初で唯一の供給者になることにより,当
う点でも差別化に成功している。
該顧客の No.1 サプライヤーになるという点で
ある。顧客の No.1 サプライヤーになれれば,
上に述べた当該顧客への販売における標準と
⑦
「ファースト・ベンダー」戦略
なることの優位性や,顧客情報の入手におけ
るメリットも継続的に享受できるのである。
日鉱金属は,薄膜材料のマーケティングに
ただし,No.1 サプライヤーとしてのコストも
おいて「ファースト・ベンダー」になること
ある。No.1 を維持するには,顧客の需要に応
をテーマに掲げている。この戦略の第一の意
えるために生産,販売体制を常に備えておく
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必要がある。常時設備に余力を持っていなけ
しており,競合他社に対する有効な差別化要
ればならず,必然的に投資額は大きくなる。
因として機能している。また,スパッタリン
しかしながら,このような追加コストを考慮
グ・ターゲットに求められる高い技術力と厳
したとしても,No.1 サプライヤーとなること
しい品質水準は,この分野での新規参入に対
によるビジネス上のメリットは大きいと考え
する障壁が極めて高いことを意味している。
られる。
最近では,半導体が高度化し配線が細くな
ってきているため,低い抵抗のターゲット材
料が求められる傾向にある。日鉱金属にとっ
⑧
まとめと今後の課題
ては,技術的な難しさが増す一方,きめ細か
い対応で顧客に対する信頼を高めるチャンス
本ケースでは,日鉱金属の薄膜材料事業を
でもあるともいえる。
とりあげ,マーケティングという視点からそ
日鉱金属のマーケティング・エクセレンス
のエクセレンスの解明を試みた。同社のエク
は,バージョン変化に応じた市場獲得にある。
セレンスは,突き詰めると技術力の優位性を
アメリカ市場に参入した時,ウエハ(基板の
ベースにバージョン変化に応じたマーケティ
材料)の規格変更を利用し,装置メーカーの
ングを展開し,市場の獲得に成功した点にあ
推薦を得ることにより,半導体メーカーへの
ると考えられる。
売り込みに成功したのはその一例である。半
技術力については,これまでも触れたよう
導体メーカーにとって高額な装置への投資は
に,金属製錬事業で築き上げた金属の高純度
重要な意思決定であり,一方,装置メーカー
精製技術が同社の薄膜材料事業を支えている。
はターゲット材などについてデータ付きで販
競合他社のなかにも同様な高純度のターゲッ
売しなければならない点に着目したのである。
ト材を供給している企業も数社あるが,日鉱
また,設備の新設または拡張という顧客の変
金属の強みは自社内で製品の原料となる高純
化を利用し,最初で唯一の供給者(「ファー
度素材を生産できる能力を持っているという
スト・ベンダー」)になるという戦略も市場
点である。顧客である半導体メーカーにとっ
獲得に有効であった。日鉱金属が世界で圧倒
ては,ターゲット材における純度の高さだけ
的なリーダーとなることができたのは,市場
ではなく,不純物の動向も重要である。たと
や技術の変化に対応した同社のこうした市場
え,不純物の品位が規格内に入っていたとし
獲得力によるところが大きい。
ても,その品位が変動すると半導体製品にネ
日鉱金属の薄膜材料事業には課題もある。
ガティブな影響を与える。このため,規格内
それは,スパッタリング・ターゲット市場に
であっても顧客は不純物品位の安定性を求め
おけるコモディティ化への対応である。「フ
るのである。日鉱金属が自社内で高純度素材
ァースト・ベンダー」として顧客に独占的に
を供給できる能力を持っていることは,安定
供給していたり,あるいは顧客でトップシェ
した品質を求める顧客に技術的信頼をもたら
アを持っていたとしても,競合他社とのシェ
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粡
グ論理』有斐閣。
Porter, Michael E.(1980), Competitive Strategy,
Free Press(土岐坤,中辻萬治,服部照夫訳『競
争の戦略』ダイヤモンド社,1982 年).
新日鉱ホールディングス株式会社(2006)『新日鉱グ
ループの百年』。
新日鉱ホールディングス株式会社(2002 ; 2003 ; 2004 ;
2005 ; 2006 ; 2007 ; 2008)
『有価証券報告書』
。
ア争いが激化し,価格も下がる傾向にある。
グローバルな競争のなかで,日鉱金属の技術
や品質の強さをもってしても,コモディティ
化の流れは避けられない状況にある。コモデ
ィティ化への対応としては,技術力をベース
とした品質の優位性を維持するとともに,デ
参考サイト
株式会社ビースパッタ HP.
http://www.be-sputter.co.jp/web/gaiyou.html
日鉱金属株式会社 HP.
http://www.nikko-metal.co.jp/
新日鉱ホールディングス株式会社 HP.
http://www.shinnikko-hd.co.jp/index.php
リバリーや技術面のきめ細かなサービスによ
り,顧客とのリレーションシップの強みを活
かしていくことが重要であると考えられる。
すなわち,顧客の獲得を目的とする「取引マ
ーケティング」より,むしろ,営業部門や生
産部門,技術部門などが一体となって長期的
顧客価値の創造を目指す「リレーションシッ
渋谷 義行(しぶや よしゆき)
プ・マーケティング」へのシフトが重要にな
一橋大学商学部卒業。現在早稲田大学大学院商学研
ってきているのである。
究科博士後期課程在学中。
専攻はマーケティング戦略。
謝辞
主な業績に「生産的マーケティングにおけるサプラ
本稿の作成にあたっては,日鉱金属株式会
イヤー選択基準の時代的変化」『早稲田大学大学院
社執行役員・電材加工事業本部薄膜材料事業
商業研究科概要』第 69 号(2009)などがある。
部長である澤村一郎氏,電材加工事業本部薄
膜材料事業部半導体ユニット長である細谷一
恩藏 直人(おんぞう なおと)
彦氏,執行役員・電材加工事業本部銅箔事業
早稲田大学商学部卒業。同大学院商学研究科を経て,
部長である井形信一氏に多大なるご協力をい
現在,早稲田大学商学学術院教授。専攻はマーケテ
ただいた。ここに記して,心より感謝申し上
ィング戦略。
げたい。
参考文献
株式会社日本政策投資銀行(2002)『調査』第 42 号,16
∼ 24 ページ。
株式会社日経 BP(2006)「半導体に見る日本メーカー
の凋落―信念と執念を持った企業のみが生き残る
ー」『日経エレクトロニクス』7 月 17 日付, 158 ∼
159 ページ。
日鉱金属株式会社(2002)『日鉱金属 10 年史』
。
日本鉱業株式会社(1989)『日本鉱業株式会社社史
(1956 − 1985)
』
。
恩蔵直人(2007)『コモディティ市場のマーケティン
● JAPAN MARKETING JOURNAL 116
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Japan Marketing Academy
バージョン変化に応じた市場獲得
■添付資料 日鉱金属の組織図
出典:日鉱金属株式会社ホームページ
95
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