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不確定な環境における市場予測と遂行的実践

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不確定な環境における市場予測と遂行的実践
Japan Marketing Academy
★
論文
不確定な環境における市場予測と遂行的実践
∼株式会社伊藤園 飲料化比率を参照点とした市場創造の事例∼
笊 ――― はじめに∼潜在的な市場機会への対応という問題∼
笆 ――― 「予測的アプローチ」と「遂行的アプローチ」
笳 ――― 新たなパラダイム
笘 ――― 遂行的アプローチにおける市場予測の役割
笙 ――― 株式会社伊藤園の事例
笞 ――― 考察
吉田 満梨
しなかった新たな関係性や環境の創発を積極
● 首都大学東京 社会科学研究科 助教
的に志向するものである。この新しいアプロ
ーチでは,事前の市場予測や合理的な戦略策
笊――― はじめに∼潜在的な市場
機会への対応という問題∼
定は重視されず,そのような市場認識は日々
の実践を通じて,事後的にのみ見出されると
考える。
市場環境が不確定である時,たとえば企業
本稿の目的は,概念的整理と実際の事例の
が,従来市場が存在しなかったような新しい
分析を通じて,これら 2 つのアプローチでそ
製品を発売しようとする時,経営者やマーケ
れぞれ重視される,市場予測と遂行的実践の
ターはいかにして未だ顕在化していない市場
関係性を検討し,不確定な市場環境における
機会に対処していくべきか。
マーケティングのための示唆を導くことであ
既存のマーケティング研究では,2 つの対
る。
照的なアプローチが提唱されてきたと言える。
笆―――「予測的アプローチ」と
「遂行的アプローチ」
第一に伝統的なアプローチは,まずマーケッ
トリサーチや競争分析によって市場環境を分
析し,それに基づき事業計画の策定,実行,
評価を行う。すなわち分析されたマーケティ
多くの教科書等で取り上げられるマーケテ
ング環境と外的一貫性を持つような,ターゲ
ィングアプローチは,消費者,競合企業,取
ット,コンセプト,ポジショニングの設定と
引相手といった,自社を取り巻く環境の十分
マーケティング・ミックス(4Ps : Product,
な理解を出発点としている。顧客が何を求め
Price, Place, Promotion)の策定が最初に行わ
ているのかを事業の起点とすることは,マー
れ,それを正しく実現することが重視される。
ケティングの基本である(Kelley and Lazer
これに対して近年有効性が主張されるもう 1
1958, 嶋口・石井 1995 など)。ただし,市場
つのアプローチがある。それは手近にある資
の構造が比較的安定しているならば,既存顧
源や入手可能な道具を出発点とし,当初予期
客の満足に焦点を当て,変化する顧客ウォン
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ツにすばやく反応することが持続的な関係構
る(Narver and Slater 1990, 南 2006, 嶋口・
築の基礎となるが,他社のイノベーションに
石井・黒岩・水越 2008)。
よって顧客の選好が変化し,自社の優位性が
このようにマーケティング研究の照準は,
無効化される可能性がある動態的な環境下で
単純な顧客志向からより広い市場志向へと拡
は,逆に自社も変革をしつづけることで環境
張され,その都度の環境変化を取り込みなが
変化に対応していかなければならない。その
ら,PDCA のサイクルを短縮し,環境変化に
ため企業の市場環境理解は,潜在的な顧客ニ
柔軟に対応していく学習志向のアプローチ 1)
ーズや競合の動向を含めた,より広い意味で
が提唱されてはいるものの,環境分析と計画
の市場理解,すなわち「市場知識(market
を実践に先行させる枠組みは,依然として維
intelligence)マーケット・インテリジェンス」
持されていると言える。Read, Dew, Saras-
の 創 造 で な け れ ば な ら な い ( Kohli and
vathy, Song and Wiltbank(2009)は,従来
Jaworski 1990)。特に 1990 年代以降のマーケ
支配的であったこのようなアプローチが前提
ティング研究では,単なる顧客志向ではない
と す る 論 理 を ,「 予 測 合 理 性 ( p r e d i c t i v e
「市場志向(market orientation)
」という旗印
rationality)」と呼ぶ。彼らは,起業経験をほ
の下,顧客,競合企業を含めた市場について
とんど持たないマネージャーと新事業の経験
の優れた情報を生み出し,さらにその市場情
が豊富な起業のプロフェッショナル,という
報を,組織内に浸透・共有化させ活用する能
2 つのグループを比較する言語プロトコル分
力が,収益性に結び付く組織の重要なケイパ
析を行い,前者のグループが予測合理性に従
ビリティとして重要視されるようになってい
っていることを指摘した。しかし一方で彼ら
■図―― 1
遂行的プロセスと予測的プロセスの相違
遂行的プロセス
ス
タ
ー
ト
資源のサイクルを拡大
手段を評価する
• 自分は何者か
• 何を知っているのか
• 誰を知っているのか
何が
できるか?
既知の/新た
に出会う
人々との
相互作用
新たな
手段
パートナーの
コミットメント
獲得
新たな
目的
制約のサイクルを集約
新たな企業、新たな製品、新たな市場
予測的プロセス
ス
タ
ー
ト
新しい
• 製品
• 企業
• 市場
の機会を特定
競争分析
の実施
事業計画
の策定
マーケットリサーチ
の実施
計画実施
のために
適切な資源と
利害関係者
を獲得
時間とともに
変化する
環境に
適応
(出典: Read et al. 2009)
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不確定な環境における市場予測と遂行的実践
は,後者の起業のプロフェショナルは,しば
ーチとして提唱されている。しかし市場環境
しばマネージャー達が用いる市場予測の分析
と企業行為との関係について,決定的に異な
技 法 を 用 い ず ,「 遂 行 性 ( e f f e c t u a t i o n )」
る前提に基づくため,区別することが重要で
(Sarasvathy 2001)と呼びうる別の論理に従
ある。そして,従来の予測的アプローチに対
っていることも明らかにした。両者の特徴は,
して,近年新たに遂行的プローチが注目され
図− 1 のように整理される。
るようになった背景には,それ故マーケティ
図− 1 に示されるとおり,予測合理的プロ
ング研究におけるパラダイムの転換が指摘さ
セスが,最初に特定の結果を所与と考え,そ
れている。
れを実現するための手段選択を重視するのに
マーケティングを行う企業にとって,市場
対し,遂行的プロセスでは,まず手段の集合
環境は 2 つの側面を持つ。一方でそれは自ら
が所与として存在し,それを用いて創造可能
に機会や脅威をもたらす外部の変数であり,
な結果が模索される(Sarasvathy 2001)。遂
企業が適応すべき対象である。他方で,市場
行的プロセスでは,プロセスの結果は本質的
環境は企業行為から完全に自律しているわけ
に多様で予測困難であり,かつフィードバッ
ではない。つまりある時点の市場分析を基に
クループを伴っているため,どのような機会
最適だと考えられた環境適応的な行為ですら,
にアプローチすべきかは,プロセスに先立つ
それを実践することによって顧客や競合等の
答えが存在しているわけではないと考える。
予期しない反応を創発し,結果的に最適な行
むしろ,行為を遂行する過程でどのような
為の前提とされていた市場環境が変化するこ
人々(消費者,競合,取引相手など)との関
とは十分にあり得る。マーケティングの本質
係が構築されるのか,そして彼らがどのよう
が「創造的な適応」と言われてきたのは 2),
な行為と目標を可能(あるいは困難)にする
まさにこの企業行為と市場環境との循環的な
のかによって変化すると考える。つまり遂行
関係,すなわち再帰性(reflexivity)に由来
的アプローチは,行為の結果や目的ですら,
する。
一連の行為の遂行過程で創発するものと看做
上述の 2 つのアプローチは,市場環境のど
されるのである。以降の議論では,Read らと
ちらの側面を重視するかにおいて,異なる立
同様に,環境分析とターゲット設定を出発点
場に基づくと言える。端的に言えば,予測的
とするアプローチを「予測的アプローチ」,プ
アプローチでは,市場環境が企業に及ぼす影
ロセスの中で創発する関係性を活かす新しい
響を重視し,環境変化は自らの行為とは比較
アプローチを「遂行的アプローチ」と呼ぶこ
的自立した変数であると考えるため,将来の
とにしよう。
環境変化を事前に予測することによって,そ
れをコントロールしようとする。対照的に遂
笳――― 新たなパラダイム
行的アプローチは,企業行為が市場環境に及
ぼす作用を重視し,自社と顧客や競合との関
これら 2 つの立場は,ともに不確定な環境
係,そしてそれら市場環境の変化は,自らの
に対処する上で有効なマーケティングアプロ
行為を通じてコントロールすべき対象であり,
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事前に環境変化を予測する必要はないと考え
重視するのである 4)。
る(Read et al. 2009)。むしろ積極的に環境
このような特徴を持つ遂行的アプローチは,
変化に関与し,自らにとって有利な「競争の
レヴィストロースが未開社会に見出した「ブ
場のルール」(石井 2003)をパートナーや投
リコラージュ(器用仕事, bricolage)」(Levi-
資家,顧客といったステークホルダーと共創
Strauss 1962)というルールにしばしば例え
(cocreate)しようとするのである。
られる(石井 2004, 吉田 2005, 水越 2007)
。ブ
従来のマーケティングの教科書の多くは,
リコルール(bricoleur, 器用人)は,仕事を
暗黙裡に予測的アプローチを重視としてきた
行う上で,個別の計画に即して考案され,購
と言える 。しかし日本では,20 年以上前か
入された材料や器具を用いるエンジニアとは
ら,商品自体の使用価値やターゲットが,企
違って,ありあわせの,すなわちその時の限
業行為と顧客や競合といった他者との相互作
られた道具と材料の集合で何とかするという
用を通じて,当初想定していたものから大き
ゲームの規則に従う 5)。ここでも「器用人の
く乖離することが,「競争的使用価値」(石原
用いる資源集合は,単に資源性(潜在的有用
1982, 石井 2004)の概念によって主張されて
性)によってのみ定義される」(邦訳 p.23)
きた。さらに近年では,Vargo and Lusch
ことが指摘され,手近な資材を出発点とし,
3)
(2004)によって,マーケティングが,価値が
またその用途を固定しないことで,多様な結
内在する対象物を個別的に取引するための活
果が生み出されていく遂行的な世界が描かれ
動から,価値を共創するための目に見えない
る。ただし,ブリコラージュが比較的閉じた
プロセスやスキル,顧客との関係性を重視す
資材の世界を想定する 6)のに対し, 図− 1 に
る活動,すなわち「サービス」を中心する新
示される遂行的プロセスでは,市場における
しいドミナント・ロジックへと移行している
新たな人々との関係性を通じて,当初は存在
ことが指摘された(Vargo and Lusch 2004,
しなかった外部の資材を呼び込むことを含ん
Gronroos 2006)。彼らの議論においても,競
でいると言える 8)。
争的使用価値の議論と同様に,価値は製品に
笘――― 遂行的アプローチにおける
市場予測の役割
内在的であるとは看做されず,他社や顧客と
の関係性を通じて「共創」されることが主張
される。さらに彼らは,企業が価値を生み出
本稿において検討したい問題は,2 つのア
すために用いる資源(resource)もまた,元
プローチがそれぞれ重視する,市場予測と遂
から“資源として存在する”わけではなく,
“資源になる”もの(Zimmerman 1951)であ
行的実践の関係性である。マーケティング研
る点を強調する。そして,これまで一般に資
究における上述の新しい議論は,市場におけ
源と呼ばれてきた生産要素等(operand
る他社や顧客との「関係性」や「共創」を重
resource)に働きかけ,資源になることを可
視する,遂行的な論理に基づく新しいパラダ
能にする,サービスやスキル,知識を,オペ
イムの到来を示唆しているようにも見える。
ラントリソース(operant resource)と呼び,
ならば,新しいマーケティングパラダイムに
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不確定な環境における市場予測と遂行的実践
基づく遂行的アプローチは,市場環境分析を
偵察隊が,隊員の一人が偶然に持っていた地
出発点とする従来の予測的アプローチを代替
図のおかげで,落ち着きを取り戻し,吹雪が
しうるものなのだろうか。それとも,市場予
止むのを待って,無事キャンプに帰還した。
測と遂行的実践の有用性は組織や環境の条件
このエピソードで重要なのは,キャンプに無
によって異なり,両者は使い分けられるべき
事辿りついた後に,部隊が頼りにした地図は
なのだろうか。
アルプスの地図ではなく,実はピレネー山脈
遂行的アプローチに問題がないわけではな
の地図だったことに気づいた,という点だ。
い。創発する新たな可能性を柔軟に取り込も
これは,地図すなわち元々の戦略の正しさが
うとする遂行的アプローチを徹底するならば,
重要なのではないことを示す逸話として,し
組織として行為する上でマネジメントの困難
ばしば引用されるが,もし偵察隊のメンバー
性に直面することは想像に難くない。手元の
が吹雪の中で地図の正しさを信じることがで
手段を出発点とし,目的すらプロセスの中で
きなければ,そもそも後の即興的な状況対応
創発させるアプローチでは,“行き当たりばっ
すら不可能であったこともまた,示唆してい
たり”という印象を与えかねない。そのため,
る。組織において新たな行為を導くためには,
比較的小規模で新規にビジネスを行う企業な
何らかの準拠点が必要である。
らば,柔軟な事業目的の変更も可能かもしれ
結論を先取りするが,本稿では 2 つのアプ
ないが,すでに多くの組織メンバーや利害関
ローチがそれぞれ重視する,市場予測と遂行
係者との関係を確立し,意志決定に正統性が
的実践は,代替的ではなく補完的な関係にあ
求められる大規模な組織ほど,将来の環境予
ることを主張したい。すなわち,市場におけ
測を伴わない活動は困難であると考えられる。
る即興や創発する新たな関係性を重視すれば
さらに,たとえ小規模で柔軟な組織であっ
こそ,将来の市場予測に基づく確信は,不可
ても,新たな関係性を構築しようとする局面
欠だと考える。
で,やはり困難性に直面する恐れがある。例
笙――― 株式会社伊藤園の事例研究 えば,資源と経験の両方を欠く新規事業にと
って,有能なサプライヤは,資金提供者以上
に大切な共創のパートナーとなるかもしれな
以降では,不確定で常に状況が変化し続け
いが,サプライヤにとってそのような新規事
る世界においてなお,自らの市場環境を予見
業は好ましいパートナーではない可能性が高
するということが持つ重要な意義について,
い(Read et al. 2009)。つまり,潜在的パー
具体的な事例を通じて理解を深めたい。取り
トナーと新しい関係性を構築することを志向
上げるのは,株式会社伊藤園(以下,伊藤園)
しても,そのための足場は必要になるだろう。
における「飲料化比率」9)という指標を中核と
した緑茶飲料市場形成の取り組みである。
遂行的な世界における市場予測の位置づけ
について,1 つの手がかりとなるのは,Karl
伊藤園の概要と緑茶飲料市場の成長
E. Weick(1995)の有名な逸話である。アル
茶葉及び飲料の製造・販売を事業とする伊
プス山脈で吹雪の中遭難したハンガリー軍の
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藤園は,日本の茶系飲料の歴史を切り拓いて
れば,上期も黒字なると考えて飲料化研究を
きた企業である。2009 年現在,緑茶飲料市場
開始した 14)。ところが緑茶の飲料化は困難を
の規模は 4000 億円を超えるが,日本で初めて
極めた。お茶にはタンニンが含まれており,
商業ベースで発売された緑茶飲料は,同社が
酸化して 4 ∼ 5 時間で変色してしまう(この
1985 年に発売した缶入りの「煎茶」であった。
酸化がお茶の「発酵」と呼ばれる)。また抽出
1989 年には,「お∼いお茶」へと商品名を変
した緑茶を熱殺菌する際に,茶葉に含まれる
更し,2009 年 1 月末で累計販売量 150 億本
成分が“イモ臭”と呼ばれるにおいを発する
(500ml 容器換算)を超える,伊藤園の代表的
という問題もあった 15)。このような問題に加
ブランドへと成長した。「お∼いお茶」は,大
え,当時副社長だった本庄八郎氏(現会長)
手飲料メーカーのブランドがひしめく緑茶飲
が,保存料などの添加物はもちろん,茶葉か
料市場においても,約 4 割の圧倒的なシェア
ら抽出したエキスさえも加えない自然飲料に
を誇っている 。
するよう厳命していたためだ 16)。最終的には
10)
今日だからこそ,われわれは日常的にペッ
缶の胴体にフタをはめ込む瞬間に内部に窒素
トボトルに入った緑茶飲料を購入し,それを
を噴射し酸素を取り除く「T-N ブロー製法」
携帯してあるいは自宅の冷蔵庫に入れて飲む
の開発と茶葉のブレンドを工夫することによ
のを自明に感じているが,緑茶飲料が市場に
って,緑茶の飲料化に伴う問題を克服するこ
登場した 1980 年代当時は緑茶飲料に限らず,
とに成功した。だがそれは,開発プロジェク
甘くない茶系飲料が売れることにすら懐疑的
トが頓挫しかけたこともあるほどの困難を極
な意見が大半であった 。まずは当時の状況
めながら,ようやく日の目を見るに至った製
を大まかに振り返ってみたい。
品であった。こうして伊藤園は,実に約 10 年
11)
の開発期間を経て,1985 年に「煎茶」という
日本で初めての緑茶飲料の開発
商品名で缶入りの緑茶飲料を発売した 17)。
1966 年静岡市において設立された茶葉の製
発売後の反応とブランド名の変更
造・販売会社,「フロンティア製茶㈱」を前身
ようやく発売に漕ぎ着けた缶入りの「煎茶」
とする伊藤園は,戦前には高級品だった煎茶
の一般家庭への普及を背景に,ルートセール
は,しかし「甘くないものに,100 円は出さ
スを主体とした営業によって,百貨店,スー
ない」と言われ,当初全く相手にされなかっ
パーマーケット等の量販店にパッケージ化し
たという 18)。当時伊藤園で緑茶飲料の開発を
た茶葉を販売し,売上を拡大してきた企業で
主導した社三雄氏(現常務取締役)は次のよ
ある 12)。ところが日本人の生活の豊かさとと
うに述べている。「あの頃は社内にさえ,それ
もに伸び続けていた茶葉の国内消費量が,
みたことかというムードがあったのも事実。
1975 年に頭打ちになる
。そこで伊藤園は,
そんなの売れっこないと。流通に持ち込んで
13)
飲料市場への参入を決断する。茶葉のビジネ
も,反応は似たようなものでした。発売当時
スは,5 月から 10 月までの上期は赤字で,下
日本人にとって,お茶はタダみたいなもの。
期に黒字になる。夏期にも売れる商品ができ
他に飲み物がいっぱいあるのに,わざわざお
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■図―― 2
緑茶飲料の市場規模と飲料化比率の推移
億円
%
30
5000
4470
4500
緑茶飲料市場全体の売上
伊藤園の緑茶飲料の売り上げ
4000
飲料化比率
3500
2685
2500
1461
1619
13.2
9.6
1133
15
14.8
12.5
1500
18.7
2792
2171
2000
4020 25
20.5 20.1 20.4 20.7
20
3094
3000
1013
6.6
875
5.7
758
663
4.7
4.4
505 588
3.5 3.7
386
259 291
1193
10
1430 1448
1303 1358
935
805 867
1000
571
500
4210 4150
4093
2.2
5
0
0
1993 1994 1995 1996 1997 1998 1999 2000 2001 2002 2003 2004 2005 2006 2007 2008
(出典:伊藤園資料をもとに筆者作成)
茶に 100 円投じる,そんな酔狂なやつはどこ
お茶」(1.5 リットル)を発売すると 24),市場
にもいないよと」19)20)。
は一層拡大した。1993 年には 571 億円の規模
実際に発売後の売れ行きは伸び悩んだ。伊
に成長した緑茶飲料市場は,翌 1994 年にさら
藤園の緑茶飲料がようやく好調な売れ行きを
に前年比 41 %売上を拡大し,805 億円に達し
示し始めたのは,消費者に馴染みがない
た。続く 1995 年,1996 年も約 8 %ずつ安定的
21)
「煎茶」という商品名を,当時伊藤園のテレビ
。
な成長を遂げている(図− 2 参照)
コマーシャルで使っていたセリフ「お∼いお
ただし,消費者の健康志向に後押しされ成
茶」へと変更し,リニューアルした 1989 年頃
長を続けていた茶系飲料で,当時圧倒的なシ
からだった。また当時は健康や美容への関心
ェアを誇っていたのは,1980 年代から市場を
が次第に高まっており,抗菌効果やビタミン
拡大してきたウーロン茶飲料であった。また
C が多く含まれるという特徴を持つ緑茶飲料
1993 年にコカ・コーラ「爽健美茶」とアサヒ
に対して,消費者が大いに関心を持ったとい
飲料「十六茶」のヒットをきっかけに形成さ
う追い風もあった 22)。こうして緑茶飲料が飲
れ,急速に売り上げを拡大していた「ブレン
まれるようになると,「茶葉」の消費量は依然
ド茶(混合茶)」という新しいカテゴリも,先
減少しているものの,「ドリンク」を含めた緑
行していた緑茶飲料よりも市場で大きなシェ
茶の一人当たり消費量は,1989 年頃いったん
アを占めていた。そのような状況下で,緑茶
底を打ち,再び増加し始めた 。翌 1990 年に
飲料が今日のように,茶系飲料で最大のシェ
伊藤園が初めてペットボトル入りの「お∼い
アを占める兆候は,未だ見えていなかったと
23)
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言える。
は緑茶のほうがはるかに高い。それでは消費
量も多く原料単価も高い緑茶よりも,なぜコ
飲料化比率という指標の開発
ーヒーの市場規模が大きいのか。
しかしこの緑茶飲料市場の黎明期に伊藤園
その時に気がついたのは,コーヒー市場 1
は,同社が圧倒的な強みを持つ緑茶飲料市場
兆 4000 億円あまりの売上のうち,3 分の 2 を
の成長可能性を可視化する指標として現在も
占める約 9000 億円は,缶コーヒーとして消費
用いられる,「飲料化比率」の基本となる考え
されている事実だった。つまり,レギュラー
方を生み出していったのである。
「飲料化比率」
コーヒーで飲むのか,缶などの飲料で飲むの
とは,緑茶の全消費量のうち,缶やペットボ
かという比率の問題が,付加価値を計る上で
トルなどに入った緑茶飲料として消費される
重要であるということに気がついたのである。
量の構成比を表す指標であり,次のような式
したがって緑茶で言えば,消費量のうち茶葉
で表わされる。
ではなく,缶飲料やペットボトル飲料の占め
飲料容量(kl)
飲料化比率 = × 100 飲料容量(kl)
+リーフ容量換算(kl)
る割合が大きくなるほど市場規模は拡大する
ことになる 25)。
そして 1996 年当時の緑茶の飲料化比率は,
伊藤園では,飲料化比率という指標を用い
茶葉の重量ベースで推計 4%程度であり,コー
ることで,リーフ(茶葉)として消費されて
ヒーや紅茶の 10 分の 1 にすぎなかった 26)。つ
いる緑茶には,缶やペットボトルの形態での
まり,茶葉も含めた緑茶全体の市場において,
消費の余地があること,すなわち緑茶飲料の
緑茶飲料がまだまだ成長する余地があること
潜在的な市場成長の可能性を明確に認識し,
を示していると考えた。
また社外に対しても示すことができるように
緑茶飲料の成長性への確信
なった。
こうした考えをもとに伊藤園では,飲料化
飲料化比率に着目したきっかけは次のよう
なものであった。当時,緑茶,ウーロン茶,
比率は市場規模と連動していること,緑茶飲
紅茶,コーヒーという 4 種類の飲み物の市場
料の飲料化比率は他の茶系飲料と比べて非常
規模を調べていた時のことである。消費量で
に低いこと,したがって緑茶飲料市場は今後
みると一番飲まれているのは緑茶で,次いで
まだまだ大きく成長するということを,説得
コーヒー,ウーロン茶,紅茶と続く。ところ
力を持って示すことができるようになった。
が金額で算出した市場規模では,コーヒーが
そして飲料化比率という指標に着目した伊
緑茶を圧倒的に上回っていた。この逆転の理
藤園は,漠然と思い描いていた緑茶飲料の将
由はどこから来るのか。原料であるコーヒー
来性,成長性に対し,将来的に緑茶の飲料化
豆が緑茶の茶葉よりも高いのか,と言えばそ
比率は 30 %以上に達するという,明確なビジ
うではない。100 グラムあたり,コーヒー豆
ョンを持つことができるようになったのであ
の価格がおよそ 300 ∼ 500 円であるのに対し,
る。その根拠は次のように説明された。ウー
茶葉はおよそ 600 ∼ 1000 円であり,原料単価
ロン茶の飲料化比率は 50 %前後,紅茶とコー
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不確定な環境における市場予測と遂行的実践
ヒーは約 30 %でほぼ安定している。伊藤園管
性を確信し,同社の強みであるルートセール
理本部副本部長の水野俊作氏によれば,これ
スによる営業を強化するだけでなく,新たな
らの飲料化比率の違いは,「止渇性」と「嗜好
飲み方を提案し,緑茶の飲用シーンを広げる
性」という飲料の 2 つの性格の違いに起因し
ような取り組みに注力していった。
ているという 。喉が渇いた時や食事の時に
例えば,1 リットル未満の小型ペットボト
飲まれることが多いウーロン茶飲料は,どち
ル入り飲料の販売を自粛する自主規制が撤廃
らかといえば「止渇性」の強い飲料であるの
された 1996 年には,伊藤園がいち早く 500ml
に対し,甘さや刺激,好き嫌いによって飲ま
ペットボトル入りの「お∼いお茶」を発売し
れることが多い紅茶とコーヒーは,「嗜好性」
ている。その結果,携帯していつでも飲むこ
の強い飲料だと言える。緑茶はと言えば,止
とができるようになった緑茶の飲用シーンは
渇性と嗜好性の両方の性格を持っていると考
大幅に拡大し,緑茶飲料が広く普及していく
えられ,したがって最終的に緑茶の飲料化比
ことになった。さらに 2000 年 11 月には,業
率は 30 ∼ 50 %の範囲に達すると予測された
界に先駆けホット専用のペットボトル入り緑
のだった。
茶飲料を発売した。緑茶飲料を温めると通常
27)
飲料化比率の伸びに比例して緑茶飲料の市
の数倍の速さで酸化し味が劣化してしまう問
場規模も拡大するという予測は,結果として
題があったが 29),伊藤園では容器メーカーと
大いに当たっていた。実際の数値を見てみる
共同で酸素を通しにくいペットボトルを開発
と,1996 年には飲料化比率がわずか 4.4 %で
し 30),また中身もホット専用の味づくりを徹
935 億円だった緑茶飲料市場は,飲料化比率
底して吟味する工夫によって,この壁を乗り
が 10 %に近づいた 2000 年には 2171 億円の市
越えていった。その結果,止渇を目的に夏を
場に成長しており,さらに 20 %に近づいた
中心に飲用される飲料だった緑茶飲料は,嗜
2004 年には 4000 億円強の市場となっている
好性を強めた冬の定番商品としての性格が加
(図− 2 参照)。つまり,飲料化比率が 10 %高
わり,冬場でも売上を落とすことなく,年間
まることが,結果として 2000 億円の市場規模
を通じた安定的な需要の創造を実現したので
の伸びと対応しているのである。したがって,
ある。翌年には,各社も一斉にホット専用ペ
緑茶の飲料比率が 30 ∼ 40 %に達する時には,
ットボトルの緑茶飲料の新製品を投入し,緑
緑茶飲料市場は 6000 ∼ 8000 億円の規模に成
茶飲料市場は一層の拡大を実現した。
長するという予測を持つことができる 。
こうして,当初伊藤園社内で開発され利用
28)
された飲料化比率は,やがて社外に対して緑
社内外への影響
茶飲料の将来のマーケットの成長可能性を示
こうして伊藤園の社内では,飲料化比率を
すためにも用いられていく。伊藤園は,1996
参照することによって,市場が実質的な成長
年 9 月に東京証券取引所の 2 部に上場を果た
期に入る以前から,緑茶飲料市場の将来性を
す。上場申請の際,同社の中心事業であった
見据えてマネジメントを行うことができるよ
緑茶飲料 31)の市場の将来性を説明するために
うになった。その結果,緑茶市場の成長可能
用いられたのも飲料化比率であった。その後
67
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★
論文
長期ビジョンに基づく新たな事業の展開
飲料化比率は,1997 年 9 月にアメリカの投資
家向けに作られた資料の中に言及され,国内
さらに飲料化比率という指標を採用した結
では 1998 年 4 月の IR 資料において,初めて
果,伊藤園では,長期的な緑茶飲料市場のビ
一般に公開された 。
ジョンに基づく新たな事業も可能になった 34)。
32)
飲料化比率から導かれる緑茶飲料の市場成
その一つが,2001 年にスタートした「茶産地
長予測が,どれほどの信憑性を持って投資家
育成事業」である。
や他の飲料メーカーに受け止められたかはわ
茶農家は就農者の高齢化や後継者問題のた
からないという。だが,カテゴリ間競争が激
め,就農人口,茶園面積ともに減少傾向にあ
しく,新たに形成されたカテゴリの長期的な
り,実際 2007 年の茶農家数は 15 年前の半分
成長予測が困難な清涼飲料市場において,飲
以下にまで減少している。現在の茶葉の国内
料化比率は,他の飲料メーカーにとっても有
消費量 11 万トンに対して,国産生産量は 9 万
用な指標であり,緑茶飲料の潜在的な市場機
トンである。他社はその不足分を中国など海
会の見通しを与えることに貢献したのではな
外から輸入した茶葉や抽出物でまかなってい
いかと考えられる。
るが,伊藤園は「お∼いお茶」の揺るぎない
実際,1990 年に清涼飲料市場全体のわずか
ブランド力の支柱として,あくまで信頼でき
0.5%を占めるに過ぎなかった緑茶飲料市場に
る「国産茶葉 100 %」にこだわりを持ってい
は,その後,大手飲料メーカーが次々に参入
た 35)。加えて,伊藤園が取り扱う緑茶の量は,
した。1997 年の緑茶飲料市場は前年比 21.2 %
国内の荒茶生産量の約 2 割に上っており,国
増,翌 1998 年にも 28.9%増という急速な成長
内での緑茶原料の安定調達と生産の効率化は,
を遂げた( 図− 1 参照)。そして 2000 年にキ
きわめて重要な課題であった。
リンビバレッジが発売した緑茶飲料「生茶」
そこで 2001 年から伊藤園では,国内外で大
が大ヒットしたことで,各メーカー間の競争
規模な生産農家の育成事業を展開している 36)。
はさらに激化し,2001 年には無糖茶飲料で最
生産者に対しては,スケールメリットを活か
大シェアの烏龍茶飲料市場を抜き,2003 年以
した大規模茶園経営と機械化による省力管理,
降は清涼飲料市場全体の 10%以上のシェアを
生産・加工に対する伊藤園独自の生産技術の
占める規模にまで成長した 。売上ベースで
導入を行い,そして安定した単価での全量取
市場規模を見てみると,1993 年には 571 億円
引を行うという契約を結ぶことによってサポ
であったが,1997 年に 1133 億円,「第一次緑
ートを行う。そのおかげで,新規造成した茶
茶戦争」と呼ばれた 2000 年に 2171 億円の規
園面積のうち実に 9 割をお茶づくりの経験の
模に成長し,さらに 2004 年のサントリーの伊
ない農業法人が経営をするという現状が可能
右衛門のヒットをきっかけとした「第二次緑
になっている。伊藤園は 2007 年までに九州 4
茶戦争」を経た 2005 年には 4470 億円規模へ
県 6 地区で 350ha の茶園を展開しており,
と躍進したのである(図− 2 参照)。
2014 年までに全国で 1000ha まで広げる計画
33)
である。
お茶の産地育成は,10 年単位の時間がかか
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不確定な環境における市場予測と遂行的実践
る事業であるが,伊藤園では何年先にどれ程
歴を特定できる。これは国産の原料にこだわ
の茶葉を仕入れるのかまで見越して投資を行
り,香料や添加物を一切用いない伊藤園の
っている。こうした取り組みの背景には,茶
「お∼いお茶」だからこそ実現できることであ
農家と茶園面積がともに減少傾向にあるのに
り,他社には容易に真似できない強みとなっ
対して,逆に緑茶飲料の消費量は増加が見込
ている。
まれ,供給と需要とのギャップは年々大きく
今後の展開
なるという市場予測がある。そして緑茶飲料
高い成長率を維持してきた緑茶飲料市場は,
市場のさらなる成長見通しに裏付けを与える
ものとして,ここでも飲料化比率が重要な役
今日ふたたび踊り場を迎えている。新たに開
割を果たしているのである 37)。
拓を始めた海外市場では,緑茶飲料は順調に
さらに,このような長期的なビジョンに基
売り上げを伸ばしているものの,2006 年に国
づき,お茶を畑から育てる伊藤園の姿勢は,
内の出荷量は,伊藤園が最初の緑茶飲料を世
安定的な茶葉の調達に限定されない,新たな
に出して以来,はじめてのマイナス成長を記
競争優位性の確保につながっている。それは,
録し,その後も市場規模は 4000 億円強,飲料
緑茶のトレーサビリティ(生産・流通におけ
。
化比率も 20 %台で推移している(図− 2 参照)
る履歴)の確立により,「自然」で「安全」な
しかし伊藤園の水野氏は,むしろ売上にし
お茶づくりをさらに推進できるようになった
て 1500 億円増加し,市場規模が 1.5 倍に拡大
ことである。
した 2003 ∼ 2005 年の期間こそが例外的な状
緑茶飲料「お∼いお茶」の原料には,およ
況であり,成長スピードが緩やかになった現
そ 400 ∼ 500 の契約農家で年間 4 回収穫され
状を市場が調整期に入った結果だと考えてい
る茶葉が用いられている。緑茶の濃縮液を用
る。飲料化比率が最終的に 30 %に達するとい
いれば,緑茶飲料の工業化は比較的容易であ
う予測に基づき,長期的な緑茶飲料市場の成
るが,お茶本来の自然な作り方にこだわる伊
長見通しを持つからこそ,伊藤園では,短期
藤園では,独自の茶葉ブレンド技術によって,
的な需要変動によって戦略がぶれることなく,
均一な味の大量の飲料生産を可能にしている。
全社が一貫した取り組みを推進しているので
たとえ同じ工場で同じ味わいに作られる「お
ある。
∼いお茶」であっても,1 週間ほどで原料と
笞――― 考察
して用いられる茶葉は全く異なるものとなる。
しかし伊藤園では,1 本 1 本のペットボトル
に使われている茶葉の生産・流通履歴を完全
本稿では,伊藤園の「飲料化比率」に焦点
にさかのぼることができる。例えば,ある消
を当て,それが緑茶飲料の長期的な市場成長
費者がコンビニの棚から手にとった緑茶飲料
を見据えた戦略やマネジメントを可能にする
が,どこの工場で作られ,400 ∼ 500 の農家
指標として参照されてきたことを見てきた。
のどこで作られた茶葉を用いており,さらに
さらに,それによって緑茶飲料市場の成長に
その農家がどんな農法を用いたのかまで,履
確信を持つことができたが故に,契約栽培や
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マーケティングジャーナル Vol.29 No.3(2010)
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★
論文
産地育成事業を通じて茶農家との新たな関係
(Vargo and Lusch 2004)に他ならない。本
構築が可能になり,結果として他の飲料メー
稿の事例においても,飲料化比率に基づく市
カーの緑茶飲料にはない独自性を伊藤園にも
場予測は,極めて重要なオペラントリソース
たらしたことを確認した。
であったことを,具体的に確認できたと考え
この事例を通じて,いくつかの示唆が得ら
ている。
れたと考えている。第一に,飲料化比率を媒
第二に,市場環境の再帰性を前提とするな
介とした将来市場の予測は,伊藤園の社員を
らば,市場予測に適合的な現実が実際に生み
含む利害関係者のコミットメントを引き出す
出される「予言の自己成就」が起こる可能性
ためのリソースとして,重要な役割を果たし
がある。Merton(1957)や Weick(1995)は,
たことである。飲料化比率によって緑茶飲料
われわれが何らかの手がかりに基づいて行う
市場の成長可能性が示されたが,だからとい
状況規定(予言または予測)が,その状況の
って市場拡大が必然であったのかと言えば決
構成部分となり,それに基づく新たな行為を
してそうではなかった。前述の水野氏が
導くことによって,結果としてその予言に符
38)
「そこに意志が入らなければ,マーケットは必
合するような実質を作りだすという現象を
ずしも大きくなるとは限らない。伊藤園の価
「予言の自己成就」と呼び,それが社会関係に
値というのはそこにあると思っています」と
おいてしばしば起こり得ることを指摘した。
述べるように,実際に市場拡大を実現したの
例えば,先述した今日の緑茶飲料市場のマイ
は,指標を参照しながら伊藤園が一貫して取
ナス成長を,市場の衰退期と看做せば,緑茶
り組んできた,緑茶飲料の普及,飲用シーン
飲料に配分していた資源を他の成長市場へと
の拡大のための様々な提案や価値の向上の取
振り分けるべきであろう。もし伊藤園や他の
実践であったことは,事例でも確認した。た
メーカーがそのように行為すれば,結果とし
だし,その困難な実践を推進する上で,組織
て実際に緑茶飲料市場は縮小を始めるであろ
メンバーを鼓舞し,また社外のパートナーと
う。しかし,さらなる成長を確信し,製品価
の関係を築くために,飲料化比率に基づく市
値を高める努力を続けるならば,再び市場規
場成長への確信は不可欠だったと言える。
模は拡大するだろう。実際に伊藤園は,幾度
Suchman(1987)は,すべての行為は,本
もそれを実現してきたのである。企業がどの
質的に物質的・社会的な周辺環境に依存した
ように将来市場を見据えるかによって,その
「状況的行為(situated action)」であること
後の市場に向けられたマーケティング行動が
を主張した上で,我々が日ごろ常識的に立て
変化し,それが結果として実際将来の市場環
るプランについて,人々が実際にどう行為す
境のありように影響を及ぼすのである。
べきかを思いめぐらす際に用いる「リソース」
以上 2 つの示唆から,第三に,予測的アプ
であると位置づける 。ここでリソースとは,
ローチと遂行的アプローチの関係性について
価値が内在的な具体的事物というよりも,他
は,2 つのアプローチは両立可能であり,か
の資源や人々に作用することで価値を生み出
つ補完的な関係にあると考えられる。
39)
す知識,すなわちオペラントリソース
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一方で従来の市場分析の多くは,予測的ア
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不確定な環境における市場予測と遂行的実践
プローチの立場から行われてきた。つまり,
他方の存在は“見えなくなる”ため,Such-
自らの行為とは独立に存在するものとして,
m a n ( 1 9 8 7 ) に よ れ ば ,「“ 手 元 で 使 え る
市場の機会や脅威が捉えられ,それらを発見
(ready-to-hand)”装置を使う時,その道具は
し,また変化を予測しようとしてきた。他方
“見えなくなる”」。例えば,目の見えない人に
で,企業行為が環境変化を促す側面を重視す
杖を持たせて,その属性を問えば,彼はその
る遂行的アプローチは,「将来の状況をコント
重さや長さ,手触りについて語ることができ
ロールできる範囲において,それを予測する
る(present-at-hand)。しかし彼が杖を使い始
必要がない」と考えてきた(Read et al. 2009)
。
めると,杖それ自体についての意識は失われ,
しかし,オペラントリソースとしての機能や,
彼は杖が触れる対象だけを意識するだろう。
予言の自己成就を考慮するならば,事前に将
(Suchman 1987, pp.52-53)同様に,特定の市
来の市場環境を予測することは,市場環境が
場予測に従っていることに,必ずしも実践者
新たな創発を伴う極めて不確定なものであっ
が自覚的ではないと考えられる。何らかの障
たとしても決して無意味なことではなく,む
害によって手元で使える状態が破綻した場合
しろ不可欠であるとさえ言える。なぜならば,
にのみ,道具としての市場予測は,目的に方
市場予測を通じて可視化された潜在的な機会
向づけられた活動として明確に表示されるよ
自体が,新たな関係性や実践を生み出し,結
うになるのである。このように考えるならば,
果的に予言を現実にするためのリソースとな
予測合理性と遂行性は,市場に向けられた一
るからである。すなわち,それは, 図− 1 に
連のプロセスの内の異なる局面を説明する論
おける「遂行的プロセス」の出発点となる手
理であると言える。必ずしも自覚されている
段の集合を評価する局面で不可欠な,オペラ
わけではないかもしれない。しかし,それで
ントリソースなのである。
も,安定的でありながらダイナミックな組織
今後は,ある時点で分析的に発見された市
的行為を可能にするために,両者は互いに不
場知識と,市場環境において新たな関係性を
可欠な機能を果たすと考えられる。
創発させていく実践との,相互構成的な関係
注
1)市場環境が変化しつづける動態的なものであるな
らば,それを継続的にモニタリングし,適応しつ
づけることが,優位性を維持するために重要な課
題となる。従来,計画段階が実行段階を規定する
という一方向的な関係を想定していたのに対し ,
むしろ当初の戦略の実行プロセスにおける意図と
は必ずしも一致しない結果から逆に積極的に学習
しようとすることで知識を蓄積し,次の企業活動
に生かすというフィードバックループを描く,組
織的学習のアプローチの有効性が,戦略論
(Mintzberg, Ahlstrand and Lampel 1998 など),
及びマーケティング論(Day 1994, Salter and
Narver1995 など)の研究群において指摘されてい
る。
の本質を理解するための,さらなる研究が必
要であると考える。予測的アプローチでは,
市場知識そのものに価値が置かれ,その発見
に注力がなされてきた。しかし,資源に価値
が内在的でないように,発見された市場知識
もまた,それに基づく実践をともなわなけれ
ば,価値を生み出すことはできない。同様に
オペラントリソースとしての市場知識を伴わ
なければ,手近な手段の有用性を定義できず,
新たな関係性の創発もままならない。市場予
測と遂行的な実践は,一方が前景化される時,
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論文
2)嶋口・石井・黒岩・水越(2008)。
3)Read ら(2009)は,その背景には,マーケティン
グ研究が長らく地位を確立した大規模企業のマー
ケティングを対象としてきたことが影響している
と指摘する。
4)図− 1 に示されているとおり,遂行的アプローチ
は,外部環境の分析ではなく手近な手段を行為の
出発点とする点で,戦略論における資源ベース理
論(RBV)と共通点を持つ。しかし,資源ベース
理論がそれ自体に価値が埋め込まれた実体として,
「資源」を想定する重視するのに対し,遂行的アプ
ローチは,資源の価値は,遂行者が手近な手段を
用いて何をするかによって,高くも低くもなると
看做している点で RBV とは決定的に異なっている。
5)Levi-Strauss (1962)
,邦訳 p.23。
6)Levi-Strauss (1962)
,邦訳 p.23。
8)水越(2007)においても,市場における意図しな
いマーケティングの成果を積極的に取り込んでい
くアプローチを,「ブリコラージュ」とは区別して,
「創発」と呼んでいる。
9)「飲料化比率」は伊藤園の登録商標である。
(商標
登録第 4292839 号)
10)
『日経流通新聞』,2009 年 2 月 8 日,15 ページ。
11)株式会社伊藤園 管理本部副本部長 水野俊作様
インタビュー,2009 年 6 月 9 日。
12)
「株式会社伊藤園 概要」
,
『証券』
,1996 年 11 月,
154 ∼ 156 ページ。
13)水野俊作(2004)「消費者が緑茶に感じる価値とは
茶葉で飲むか,ドリンクで飲むか?」『水の文化』
ミツカン水の文化センター,所収。
14)本庄八郎社長インタビュー,『産業新潮』,2003 年
5 月号,12 ∼ 18 ページ。
15)
「企業のヒット戦略 商品番号 06 お∼いお茶」
,
『地上』
,2004 年 6 月,109 ページ。
16)本庄氏は,飲料ビジネスへの参入にあたり「自然」
「安全」「健康」「良いデザイン」「おいしい」の 5
つを生存領域として明確化したのだった(本庄八
郎社長インタビュー,『産業新潮』,2003 年 5 月号,
12 ∼ 18 ページ。)
17)
「モノルポ 21 お∼いお茶!」『モノマガジン』
,
2002 年 1 月 2-16 日合併号,235 ∼ 239 ページ。
18)本庄八郎社長インタビュー,『産業新潮』,2003 年
5 月号,12 ∼ 18 ページ。
19)
「モノルポ 21 お∼いお茶!」『モノマガジン』
,
2002 年 1 月 2-16 日合併号,235 ∼ 239 ページ。
20)また当時社長だった本庄八郎氏も,缶入りの「煎
茶」を発売した際,年間 30 万ケースの販売目標を
新聞で発表したところ,社内では「そんなに売れ
● JAPAN MARKETING JOURNAL 115
マーケティングジャーナル Vol.29 No.3(2010)
るはずがない」と怒られた,とインタビューで語
っている(本庄八郎社長インタビュー,
『産業新潮』
,
2003 年 5 月号,12 ∼ 18 ページ)
21)お茶屋にとっては高級なイメージのある「煎茶」
という呼び名は一般の消費者には認知度が低く,
“まえちゃ”と読む人もいるほどで漢字自体が読め
ないという問い合わせが相次いでいたという。
(「ただいまヒット中!話題の商品モノ語り」,『特
選街』
,2005 年 7 月,163 ∼ 165 ページ)
22)
「モノルポ 21 お∼いお茶!」
『モノマガジン』,
2002 年 1 月 2-16 日合併号,235 ∼ 239 ページ。
23)水野俊作(2004)「消費者が緑茶に感じる価値とは
茶葉で飲むか,ドリンクで飲むか?」『水の文化』
ミツカン水の文化センター,所収。
24)伊藤園ホームページより。
(http://www.itoen.co.jp/jobs/history/1990y.html)
25)水野俊作(2004)「消費者が緑茶に感じる価値とは
茶葉で飲むか,ドリンクで飲むか?」『水の文化』
ミツカン水の文化センター,所収。
26)
『日経金融新聞』1997 年 3 月 27 日。
27)株式会社伊藤園 管理本部副本部長 水野俊作様
インタビュー,2009 年 6 月 9 日。
28)株式会社伊藤園 管理本部副本部長 水野俊作様
インタビュー,2009 年 6 月 9 日。
29)
「モノルポ 21 お∼いお茶!」
『モノマガジン』,
2002 年 1 月 2-16 日合併号,235 ∼ 239 ページ。
30)水野俊作(2004)「消費者が緑茶に感じる価値とは
茶葉で飲むか,ドリンクで飲むか?」『水の文化』
ミツカン水の文化センター,所収。
31)
「株式会社伊藤園 概要」,
『証券』
,1996 年 11 月,
154 ∼ 156 ページ。
32)株式会社伊藤園 管理本部副本部長 水野俊作様
インタビュー,2009 年 6 月 9 日。
33)
『酒類食品統計月報』
,日刊経済通信社,1990-2004
年。
34)株式会社伊藤園 管理本部副本部長 水野俊作様
インタビュー,2009 年 6 月 9 日。
35)
「農場パートナー企業の研究 第①回 ㈱伊藤園」
『農業経営者』
,2008 年 1 月号,50 ∼ 53 ページ。.
36)伊藤園ホームページより
(http://www.itoen.co.jp/csr/cultivate/index.html)
37)伊藤園ホームページより
(http://www.itoen.co.jp/csr/cultivate/background/index.html)
38)株式会社伊藤園 管理本部副本部長 水野俊作様
インタビュー,2009 年 6 月 9 日。
39)Suchman 1987, p.48。 また石原(2000)は,生産
者が構成する最終消費者市場についての推測的な
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不確定な環境における市場予測と遂行的実践
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イメージを「市場像」と呼び,同様の機能を見出
している。市場像はどこまでも自らが立ち向かう
市場に与えた仮説的なイメージを超えることはあ
りえないが,それでも市場像は,商品コンセプト
の形成に始まるすべての企業活動に仮説的な根拠
を与え,生産者の活動に対する市場の反応を生産
者自身が受け止めて解釈する際の根拠として不可
欠な機能を提供するのである。
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吉田 満梨(よしだ まり)
2003 年 立命館大学 国際関係学部 卒業
2009 年 神戸大学大学院 経営学研究科 博士後期課
程 修了,博士(商学)
2009 年 4 月より首都大学東京 社会科学研究科 経
営学専攻 助教
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http://www.j-mac.or.jp
JAPAN MARKETING JOURNAL 115 ●
マーケティングジャーナル Vol.29 No.3(2010)
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