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世界史のなかの日露戦争
世界史のなかの日本 世界史のなかの日露戦争 東京大学名誉教授 和田春樹 日露戦争は世界史的な現象であった。2005年に の」となったのだ。 「未来の諸国民の衝突はきわ 東京で日露戦争100年を記念した国際会議が開か めて血なまぐさいものとなるだろう」と彼は断言 れたが,その主催者たちはこの戦争のことを「世 した。現代の政治的不安定の最大の原因は欧州列 界戦争ゼロ」とよんだ。第一次世界大戦,第二次 国の軍備増強志向である。これからの戦争は全国 世界大戦の前にくる「世界戦争予告編」というわ 民が加わるものとなる。人類の運命は普仏戦争以 けである。世界大戦を20世紀の戦争と言いかえれ 後,過去の野蛮な世紀に逆転している。それが未 ば,まさに日露戦争は20世紀の戦争の開幕を告げ 来の海戦の原理に現れている。巨大な軍艦が強力 るものであり,20世紀の戦争の特徴はすべてこの な砲を撃ち合う海上戦争はとくに残酷なものとな 戦争のなかに現れたのである。 る。きたるべき戦争は多数の兵員と大量の物資を 動員し,住民の生活を破壊する。火器の威力の増 1 残酷な戦争,総力戦 大が戦争の性格を決定的にかえるだろう。ブリオ 19世紀の末,ヨーロッパは平静であった。ここ フは,20世紀の戦争が工業技術の発展と結びつき, でヨーロッパの強国どうしが戦争をしたのは1870 国の総力を動員する「総力戦」となることを最初 年の普仏戦争が最後であった。もっとも1877年に に分析した人物であった。彼はこのような戦争を は露土戦争があったのだが,これは強国どうしの なんとしても回避すべきだと主張したのである。 戦争とはいえなかった。 このブリオフの意見に耳を傾けた君主が現れた。 ヨーロッパが平静であったからといって,人々 ロシアの皇帝ニコライ二世である。皇帝と大臣た が将来に安心していたわけではない。19世紀の近 ちの話し合いから,万国平和軍縮会議の開催案が 代産業技術の発展は軍事的兵器の途方もない発展 生まれ,1898年8月28日には,ロシア外相が各国 をももたらしていた。その水準は戦争の残酷さと 政府に最初の提案を送付するにいたるのである。 被害の深刻さを想像する人々を慄然とさせていた。 この会議は9か月の準備を経て,1899年5月18日 1893年,ロシアの鉄道王で,大銀行家のイヴァン= にハーグで開催された。25か国,110人が参加した。 ブリオフ(ブロッホ)が雑誌に『未来の戦争』と 欧米の強国8か国にアジアから日本,清国,シャ いう警世の一文を発表した。5年後彼は最初の論 ム,トルコ,ペルシア,それにメキシコが加わっ 文を書き直して,『技術的,経済的,および政治 た。2か月続いた会議は,陸戦法規慣例条約など 的な側面における未来の戦争』全6巻を刊行した。 三つの条約と三つの宣言を採択した。海戦の被害 この本は各国語に翻訳され,全ヨーロッパの注目 を制限すること,窒素性ガスの使用,気球からの を集めるにいたった。 爆弾の投下などが禁止された。 このユダヤ人の経済人は,まず現代ヨーロッパ このようなきたるべき戦争の恐るべき被害を予 の社会生活,個人生活のなかに,はっきりと「戦 想し,それを少しでも抑制しようという国際的努 争の予感」が現れていると指摘した。過去数十年 力が始まっているもとで,世紀末に三つの戦争が 間に軍事技術においては革命的というべき重大な 起こった。第1は1898年に起こった米西(アメリ 変化が生じている。戦争は全国民の事業となり, カ−スペイン)戦争であり,第2は1899年に起こっ 銃砲の改良が進んで,戦争は「よりおそろしいも た南アフリカ戦争である。いずれもキューバや −2− フィリピン,そしてアフリカで戦われた戦争で, ワイ准州の上院議長を務めた医師ニコライ=ラッ 本格的な正規軍どうしの地上戦を伴わなかった。 セル(本名スジロフスキー)は,1905年日本に抑 その点で第3の戦争である日露戦争は,新興の帝 留されているロシア軍捕虜に革命宣伝をしに来た 国主義国日本と世界最大の大陸帝国ロシアとの戦 が,その際日本の陸軍省の許可を得た。彼がハワ 争であり,まさに20世紀の戦争の残酷さを世界に イの日本総領事に送った手紙には,ロシア人捕虜 示すことになったのである。 からロシアの自由のために戦う部隊をつくるのを 日露戦争の恐ろしさは,まず旅順要塞の攻略戦 認めてほしいと書いている。 に表れた。近代的な要塞を攻める戦闘で無数の死 日本からみれば,戦争に勝つためには,相手国 者が出た。3回の総攻撃で日本軍の死者は1万 のなかの革命運動,反体制運動,民族運動を援助 5390人,戦傷者は4万3941人,死傷者総計は5万 することが合目的的である。だから,日本の陸軍 9304人であった。第2の恐ろしい戦闘は日本海海 省としては,捕虜から革命軍をつくるのは許可で 戦である。海軍の艦船が被弾すれば,惨劇が起こ きなかったが,ラッセルが日本全土の捕虜収容所 る。完敗したロシア側の死者は5045人,日本側の で革命宣伝を行うことは認めたのである。 死者はわずか116人であった。 日本政府自身も,ロシア駐在武官であった明石 日本にとってこの戦争は国の総力をあげた「総 元二郎大佐がフィンランド人民族主義者シリアク 力戦」であった。ロシアにとっては,そのような スと組んで,ロシア国内で革命工作を行うことを 状態にはなりきっていなかった。次の世界戦争に 認めて,資金を提供していた。この明石工作は, おいては,交戦国の双方が「総力戦」を戦うこと のちの第一次世界大戦の際ドイツでとられた「革 になるのである。 命化政策」の先駆であった。明石の工作はレーニ ンのようなロシア人の革命団体にも注目したが, 2 戦争と革命の結びつき とくにロシア帝国内の被圧迫民族フィンランド人, 「総力戦」のなかでは,国内の革命運動,反体 ポーランド人,グルジア人,アルメニア人,ユダ 制運動,民族運動は国内の挙国一致の体制づくり ヤ人などの工作に手をのばしていた。 を妨げ,戦争の遂行を妨害する要因となる。当然 3 民族対立と戦争 ながら,敗戦は体制の権威を決定的に傷つけ,反 体制運動を力づける。戦争中に国内で革命運動を 日露戦争は,日露両帝国の間の戦争であった。 行うと敗戦を招きかねないが,それを気にせず, 帝国とは多民族が共生する空間である。そこには むしろ敗戦させたほうが真の革命に近づけると決 支配民族と被支配民族の矛盾が存在する。だから, めて, 行動する戦術をとる者が現れる。これは 「敗 戦争に勝とうとする帝国は相手の帝国のなかの被 戦主義」戦術とよばれる。 圧迫民族にはたらきかけるのである。 日露戦争において,ロシアの革命勢力の多くは この関係を世界に拡大してみると,世界は支配 そのような態度をとった。ボリシェヴィキのレー 的な帝国とそれに従属する国々と植民地からなっ ニンは旅順が陥落したとき,有名な論文を書いて, ている。だから,ヨーロッパの旧帝国ロシアとア 次のように述べた。 「すすんだ国と遅れた国との ジアの新興帝国日本の戦争では,世界の従属国と 戦争は,すでにいくたびか歴史上にあったように, 植民地の期待が日本の勝利に集まった。フランス こんども確実な革命的な役割を演じた。そして, の植民地であったベトナムやアメリカの植民地で 戦争……の仮借することのない敵であると自覚し あったフィリピンでは,日本の勝利を歓迎した。 たプロレタリアートは,専制を壊滅させた日本の ベトナムの独立運動家ファン=ボイチャウは日露 ブルジョアジーがはたしているこの革命的な任務 戦争後,日本に留学生を送るドンズー(東遊)運 に,目をふさぐことはできない」 。 動を組織した。イギリスの植民地であったインド アメリカ国籍をもつロシアの亡命者で,ハワイ では,少年時代のネルーが「日本の戦捷は私の熱 がアメリカに併合されたあとの選挙で当選し,ハ 狂を沸き立たせた」という経験をしている。 せんしょう −3− 兄弟なり,姉妹なり。断じて闘ふべきの理有るな 4 反戦平和の願い し。諸君の敵は日本人に非ず,実に今の所謂愛国 日露戦争は朝鮮の支配権をロシアに認めさせよ 主義也,軍国主義也。然り,愛国主義と軍国主義 うとする日本の戦争だった。日本の勝利は朝鮮が とは諸君と我等と共通の敵なり。世界万国の社会 日本に支配されるということになる。だから朝鮮 主義者が共通の敵なり。諸君と我等と全世界の社 人は日本の勝利を歓迎してはならなかった。それ 会主義者は此共通の敵に向かって,勇悍なる戦闘 でものちに伊藤博文を狙撃して,殺害した朝鮮の をなさざる可らず。而して,今日は,是れ其最要 民族主義者安重根も日露戦争における日本の勝利 時機にして亦実に其最好時機に非ずや」。 を当初は歓迎していた。それが間違いだったと彼 この手紙はマルトフらの新聞『イスクラ』5月 が気づくのにはさしたる時間はかからなかった。 14日号に翻訳紹介された。編集部の回答は,かつ いずれにしても, 世界の被圧迫民族がロシアに対す てリープクネヒトとべーベルがアルザス,ロレー る日本の勝利を歓迎したが,日本の支配を受ける ヌの併合に抗議して,投獄されたことを想起し, にいたる朝鮮民族だけは歓迎しなかったのである。 日本の同志の行動はそれ以上の貢献だとしている。 このことに最初から気づいていた人もいた。ロ 「彼らの声は,両国の排外主義の大合唱のただ中 シアの革命家のなかでレーニンらボリシェヴィキ で,さしあたりはまだ自覚したプロレタリアート と対立していたメンシェヴィキのマルトフは,日 の頭の中にしかないが,明日という日の現実にな 露戦争開戦直後の1904年3月にロシア社会民主労 るであろうところのよりよき世界のこだまのよう 働党の機関紙『イスクラ』に書いた。 「成熟した にひびいている」,「われわれは彼らにわれわれの 革命思想は,この素朴な親日主義とは無縁である。 熱烈なる挨拶をおくる。軍国主義打倒!国際社会 ロシアにおける専制官僚の山賊どもに対して軽蔑 主義万歳!」。 と憎悪を抱くからと言って,日本における資本主 幸徳秋水たちは日本のなかで孤立していた。し 義的搾取の海賊どもに対して欣喜雀躍しなければ かし,彼らは最後までふるえながら戦争反対を貫 きん き じゃくやく ならないということはない。ロシアの官僚の満州 いた。旅順が陥落したとき, 『平民新聞』は書いた。 『文明化』派に対する情熱は,ブルジョア日本の 「旅順開城せり。夫れ旅順の開城は言ふまでもな 朝鮮『文明化』派の弁護論とは何ら共通のものを く日本国家の名誉なるべし」 。だが,その戦いは もたない」 。 一日一夜のうちに数万の労働者の子を死なせたと マルトフは,勝利した日本の植民地となる朝鮮 いう。だから, 「吾人は旅順開城の報に接して,ホッ の人々のことを思えば, 「日本の勝利万歳」とい ト一息吐き流したり。然り,是れあるのみ」。 うようなことを社会主義者は叫んではならないと 幸徳たちの立場は,与謝野晶子の「君死にたも 主張したのである。彼がかわりに押し出すのは, うことなかれ」の詩にうたわれた感情と連なって 戦争反対,平和万歳というスローガンであった。 いる。秋水は韓国併合の際には,大逆事件の主犯 ここに戦争に反対する社会主義者の連帯,平和 として死刑判決を待つ身となるのだが,その気分 運動が出てくるのである。 日露戦争において, 戦っ は石川 ている国の社会主義者の連帯の意志表示が行われ ろう。 「地図の上 朝鮮国に 黒々と 墨を塗り たことが新しい世界史的現象であった。開戦直後 つつ 秋風を聴く」 。戦争と帝国主義に反対する の日本の社会主義者の新聞, 『平民新聞』3月13日 運動のはじまりも,日露戦争のなかで生まれた世 号は「与露国社会党書」を掲載した。幸徳秋水ら 界史的現象である。 が書いたその手紙には次のように述べられている。 「諸君よ今や日露両国の政府は各其帝国的欲望 を達せんが為めに濫りに兵火の端を開けり,然れ ども社会主義者の眼中には,人種の別なく地域の 別なく国籍の別なし。諸君と我等とは同志なり, 木の吟じた歌に通じるものがあったであ 【参考文献】 和田春樹『ニコライ・ラッセル─国境を越えるナロードニ キ 上』(中央公論社,1973年) 和田春樹『日露戦争 起源と開戦』(全2巻,岩波書店, 2009∼2010年) −4−