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半世紀近く続いた 「冷戦」 の時代には、 アメリカ合衆国とソ連が世界の二

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半世紀近く続いた 「冷戦」 の時代には、 アメリカ合衆国とソ連が世界の二
る ﹁スプ ー ト ニク ・
ック ﹂ を も た ら
した ︵
古矢旬 ﹃
アメリカ ニズ ムし。
もち ろん、 ソ連 およ び ﹁
現存す る ︵
今
であ る。
した こと は、 そ の影響を今 日ど のよう に
地上最初 の社会主義国 = ﹁ソ連﹂ と い
う国 の登場 が世界中 に大きな影響 を及 ぼ
いと いう 欲求 が作 用す るせ いだ ろう か。
一面的 に図式化 した形 で捉 え て安 心した
るがゆえ に、 かえ って忘れ去りた いと か、
な はず だ が、な ぜかあま り指摘 され る こ
と がな い。 ﹁
近 い過去﹂と いう時代 は、今
日 のわれわれ にあま りにも近 いも のであ
の時代を歴史 とし て振 り返る上 で不 可欠
主独立 派な どと分 かれ、国 際共産主義 運
世界各国 の共産党 は ソ連派 ・中国 派 ・自
展 開され、部 分的 には実行 に移さ れよう
とした。ま た、中 ソ論争を契機 とし て、
欧諸国 では ソ連 以上 に活発な改革 論議 が
めるう ね り が生ま れる契機 とな った。東
それを 超え たよ リ ラデ ィカ ルな改革を求
れ自体 とし ては中途半端なも のだ った が、
ルシチ ョフによ る スターリ ン批判 は、 そ
却を求 める動 き が、徐 々に始ま った。 フ
そ の残した社会 の様 々な ひず みから の脱
ター リ ンが 一九 二三年 に世を 去 った後 、
他方、 ソ連 の中 では、 強烈な独裁者 ス
チ ェコス ロヴ ァキ アで繰 り広 げられた広
ま た各種 の改革論 が広ま った。六 八年 に
様 々な蛮行 が広く 知れ渡 るよう にな り、
批判 の影響 で相 対的な自由と活性化を経
一九六〇年代 のソ連言論界 は スターリ ン
を含 め て世界中 に大きな衝撃を与え た。
ンガリー事件 であ り、 この両事件 は 日本
党大会 で の ﹁
秘密報 告し およ び同年 の ハ
フによ る スターリ ン批判 ︵
第 二十 回共産 ゛
なき っかけは、
一九五 六年 のフルシチ ョ
プを踏 ん で徐 々に浸透 した。最初 の大 き
主義﹂ への批判的態度 は 一挙 に広 ま った
と いう わ け ではなく、 いく つか のステ ッ
から振 り返 って いえば、現存 した︶社会
評価す るかは別 とし て、
一つの歴史的事
動 の多 元化 が明白 にな った。 そう した中
で、西欧諸国 や 日本 でも、マルク ス主義 ・
間 の顔を した社会主義 ﹂と いうも のだ っ
た︶ は多く の人 の共感を集 めた が、 それ
プ ラ ハの春 ﹂ヘ
● スタ ーリ ン批 判 から ﹁
実 であ る。特 に 一九 二〇年代 の世界大 不
社会主義を ソ連 の正統教義 にとらわれ る
だけに、 それ が軍事 的 に圧殺された こと
範な改革運動 ︵
そ の主 要 ス ローガ ンは ﹁
人
の西欧 。日本 に見 られ た社会主義 の影響
の知的威信 は世界的 に低落した。 七九年
こう し て 一九 七〇年代 以降、社会主義
● ﹁ソ連﹂と社会主義 の実験
況 は、欧米諸国 でも市場 メカ ニズ ム ヘの
ことなく、 種 々の新し い観点 から検 討し
に伴う 落 胆と 幻滅 も大 き か った。
験 した が、 そ の中 で、 スター リ ン時代 の
信頼を動揺 さ せたし、第 二次世界大戦 が
直 そう とす る動 き が広 が った。
一九五 〇
と の死闘 に勝ち抜 いた。 こう し て、戦後
は、 こう いう わ け で、単純 に ソ連体制 の
● ア フガ ン侵攻 とポ ー ラ ンド の﹁
連帯 ﹂
初期くら いま で の時期 には、 ソ連 およ び
美化と か模倣 と か に尽きるも のではなく 、
しろ ﹁
反面教 師﹂ ︱︱ 社会主義 建 設 の失
敗例 ︱︱ とし て の意味をもち、 そう した
だ った ︵
も はや、 ﹁
人間 の顔を した社会主
﹁
連帯﹂の運動 は、 六八年 のチ ェコス ロヴ
ァキ アに比 べて社会主義 離れ がより顕著
ラ ンド で大衆 的 に展 開した自主労働 組合
れ に拍車を かけた。 八〇︱八 一年 のポ ー
に始ま る ソ連 のア フガ ニスタ ン侵攻 はそ
か の形 で受 けとめなく てはならな いと い
も のとし て関心 の対象 とな って いた。 ヒ
いいかえ るな ら、当時 の ﹁
左 翼 ﹂知識
人 のかな り の部 分 にと って、 ソ連 は ﹁
模
社会主義 の知的威信 がかな り高ま った。
も っとも、 ソ連 の﹁
社会主義 的 工業化﹂
は、あま り にも大 きな犠牲を伴う も のだ
ったし、 そ の ﹁
成果﹂ の度合 いはしばし
ば誇張され て いた。 だ が、 それ でも、当
う意識 は、社会主義 への賛否 に関わ りな
義 ﹂と いう ス ロー ガ ンが掲げられ る こと
。そ の ﹁
もな か った︶
連帯﹂運動も戒厳令
によ って後 退を余儀なくされた後、社会
主義イ デオ ロギー ヘのシ ニカ ルな態 度 が
はイ デオ ロギ ー の儀 礼化 ・空洞化 が進 み、
さら に広 ま った。 ブ レジネ フ期 のソ連 で
ブ ルジ ョア的 近代﹂ への追 随 ︱︱ そ
ろ ﹁
れも 下手な追 随 ︱︱ とな った ことなど が
統治 エリート の間 でさえも、信念 の欠如
く共通 のも のだ った。 ヨー ロッパに代 わ
って戦後 世界 の 一方 の旗頭 とな った アメ
リカ が ソ連 と の対抗を 強烈 に意識 した の
も当然 であ る。
一九五 七年 に ソ連.
が世界
最初 の人 工衛星を打ち上げた ことは、 ア
真珠湾 以上 の衝撃﹂と いわれ
メリカ に ﹁
次第 に広 く 認識 さ れ るよう にな ったから
ュー マニズ ム理念 から の逸脱、自由 の抑
圧、 ﹁
近代 を超え る﹂志 向 ︵
あ る意 味 では
﹁
ポ スト モダ ン﹂的発想 ︶が現実 にはむし
時 の時代 状況 の中 では、 そ の衝撃 を何 ら
倣され る べき モデ ル﹂ と いう よりも、 む
も っと幅広 い性格をも って いた。
年代後 半 から 七〇年代 くら いま で の時期
﹁ファシズ ム S
V民主主義﹂と いう 対抗 図式
で戦われ る中 で、 ソ連 は ﹁
民主主義 ﹂陣
営 の 一翼 と位置 づけられ、 ナチ ・ドイ ツ
こう した複雑 さを確認す る ことは、 そ
●冷戦・
ソ連 ・
社会主義
必孟嚢
半世紀近く続 いた ﹁
冷戦﹂ の時代 には、
アメリカ合衆 国 と ソ連 が世界 の二大陣営
を代表す る 二 つの ﹁
超大国﹂と みなさ れ、
日本を含 む諸国 の中 にも そう した対抗 関
係 が投影され て いた。も っとも、 だ から
と い って、世界全体 にせよ 日本 にせよ、
﹁アメリカ派﹂と ﹁ソ連派﹂に単 純 に三分
されたと いう わ け ではな い。両陣営 のど
ちら かに帰属さ せられ る のを拒 み、 そう
した対抗 図式 そ のも のを超えよう とす る
人たちも いたし、ま た ﹁ソ連陣営 ﹂ は、
そ の外観的な ﹁一枚岩﹂ のイ メー ジにも
かかわらず、実 際 には決 し て 一枚岩 では
な か った。
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頑
AFP=時 事
市内に侵攻 したソ連軍 と戦車 を取 り囲む市民。写真
1968年 8月 、 プラハ
AP/WWP
写真
が広範な 現象 とな った。 こう した状態 は、
八〇年代末 の体制転換 が意外な ほどあ っ
けなぐ進 み、 旧体制 エリート の多くも そ
れ ほど必死 に体制護持を試 みよう としな
か った こと の背景をなす。
のに比 べ、社会主義化 過程 が内発 的 だ っ
皮相なも のにとどま って いた東欧 諸国 の
体制転換 が極 め て短時 間 に急 速 に進 んだ
揺 らぎ だしたとき、各 種 の社会主義 改革
論 が勝 利す る のではなく、 それらを押 し
はな い。 そんな ことはとう の昔 に常識化
し て いた。 それよ りも むしろ、 旧体制 が
た ソ連 およ び ユー ゴ スラヴ ィアで は体制
の定着度 がより深く、 それだけ に転換過
流す よう な形 で脱社会主義 が 一挙 に進行
した こと こそ が、最も大 きな衝撃 だ った。
社会主義 圏 の崩壊 が日本 の言論界 ・イ デ
オ ロギー界 ・政界 に及 ぼした影響 が単 に
﹁
親 ソ派﹂の敗北 と いう にとどまらな い広
がりをも った ことも、 そう した事情 と関
係 し て いる。
こ のこと は冷戦 の終わ り方 とも 関係す
タワ).
も っとも、社会主義 の受容 が外発的 で
程も屈折した形を と った が、 それ にし て
も、イ デオ ロギー ヘの確信 は既 に掘 り崩
され て いた。
● ソ連解体 と脱社会主 義
ソ連 ・東欧 における こ のような経過 は、
それ 観察す る外部 人
の
た
ち
を
の間 にも、
次第 に幻滅感を広 め て いた。
一九二 〇年
る。 ゴ ルバチ ョフによる ペレスト ロイ カ
の前 半 ︵一九 八九年 の マルタ会 談ま で︶
的敗 退﹂ と いう 様相 が濃 くな った。冷戦
代 が世界的 に ﹁
市場 から計画 へ﹂ と いう
思潮 で特徴 づけられたとす るなら、 八〇
年代 の流 れは逆 に ﹁
計画 から市場 へ﹂ と
な った。 そ のよう な 長期的流 れ の中 で、
終焉 が ﹁
和 解﹂ではなく、 ヨ 方的勝利/
敗退﹂であ るなら、 ﹁
勝者 ナ ンバー ・ワン﹂
たる アメリカは自信を深 め、冷戦期 と同
には ﹁
和解﹂ とし て の冷戦終焉 が期待さ
れた が、 そ の後、急 速 に ﹁ソ連側 の 一方
ソ連体制 の矛盾 が明ら か にな った から で
ソ連 。
東欧圏 の解 体 は いわば ﹁
だ め押 し﹂
とも いう べきも のだ った。 こ のよう に考
え るなら、 ソ連解体 が衝撃 だ った のは、
様 のメシア的 ﹁
世界 の警察官﹂意識を ま
すます増 幅さ せる こと ができる。今 日わ
:‐ ンク トベ テル ブル ク)と 厳 冬 の 中 の ホーム レス
(モ ス
︵
塩川伸 明︶
れわれ の眼前 で展 開し て いる のは、ま さ
にそ のよう な 現実 であ る。
老朽 建 造物 を覆 い 隠す広 告
▲▼ 市場経 済 の 中の ロシ ア
)
「連帯」の ワ レサ議長 (1988年 8月
、ベル リンの壁崩壊 写真 Bilderberg/PPS
1989年 11月 9日
ー
‐11ニ ‐
■│■│■│■ │■■■■■
│
1‐
≧当
ソ連のアフガニスタン侵攻 1980年 撮影。79年 に始 まったア
フガ ン侵攻 は、88年 の撤退 まで、lo年 の長 きにわたった。
◎Keler Alain/Corbis Sygma/COrbis Japan
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