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永瀬さん、さようなら
永瀬さん、さようなら 佐藤 方哉 (帝京大学文学部心理学科長) 永瀬さん、あなたは突然、逝ってしまった。残された私たちは呆然とするばかりです。あま りのショックで言葉を失ってしまい筆が進みません・・・ あなたに最初にお会いしたのは、慶應義塾大学で私どもがお預かりしていた日本基礎心理学 会の事務局が、帝京大学に移転し、あなたが幹事になられたときのことでした。今から 20 年 近く昔のことです。あの時はあなたと同僚になることになろうとは思ってもいませんでした。 今、真っ先に思い出すのは、2004 年に帝京大学で日本行動分析学会第 22 回年次大会を開催 したときのことです。あなたに実行委員会の事務局長をお願いすると、「学会は大嫌いでかか わりたくないのですが、佐藤さんのためならお手伝いします」と人によっては恩着せがましく 聞こえるかもしれない言葉を、あなたはいかにもあなたらしくきっぱりと言ってくださったこ とをはっきりと憶えております。基礎心理学会の幹事時代に、あなたにとって許しがたいほど 不愉快なことがあったことをそれとなく耳にしていましたので、それがきっかけで学会嫌いに なられたのだろうと思います。あなたのお骨折りのおかげで、参会者にも好評裏に無事に学会 を終わることができました。 あなたは、研究においても教育においても非常に熱心で手堅く、多くの優れた業績を残され、 何人ものしっかりした研究者を育て上げられました。あなたの書かれた論文は多いとはいえま せんが、それは、あなたが自分で充分に納得されるまでは筆を執られなかったからで、研究を なされなかったからではありません。ゴミのような論文を量産する研究者(このような者は研 究者とよぶに値しませんが)の掃いて捨てるほどいる現代において、あなたのような真の研究 者は稀有というべきでしょう。あなたがおられるかぎり帝京大学の心理学科は磐石だと常々考 えておりましたのに、何ということでしょう。 あなたは、今年出版された大山正先生が編集された『実験心理学』に学習の章を執筆され、 私が 1976 年に出した『行動理論への招待』を、「オペラント条件づけの魅力を教えてくれる入 門書。その内容はいまだ新しい。 」と、参考図書に挙げてくださいました。そのお礼を申し上 げた時があなたとゆっくりお話した最後になってしまいました。 この歳になると、友人、知人の訃報に接することが少なくありませんが、若い友人に先立た れることほど辛く悲しいことはありません。あなたはそんな悲しみを味わうことがなかったの だと思うのがせめてもの慰めかもしれません。 1 弔 辞 春日 喬 (帝京大学大学院主任教授) どこからか金木犀の香りが漂ってくる。花の在りかはわからない。2007 年、長い酷暑の夏 がやっと終わりに近づく頃、永瀬さんは突然、逝ってしまった。一陣の風が吹き去るように、 何の前触れもなくたった独りで逝ってしまった。渡り鳥が群れをなして遠く飛んで行くのを見 る。鳥でさえ仲間と一緒に渡って行くのに。永瀬さんは渡り鳥だからですよというかもしれな い。そう、確かに永瀬さんは、通俗的慣習に従って他人と群れるということがなかった。私自 身は今、もうこの世に永瀬さんが存在しないのだという事実をどのように自分に納得させるか という永遠に解不能の数式の解を見つけようとしている。 永瀬さんは、帝京大学に心理学科が創設されて以来勤続していた唯一のスタッフで、創設期 の先駆者が、次々に帝京大学を去った後も、心理学科の地下の動物実験室を守り続けてきた。 今年は、やっと大学当局も地下の心理学実験室の改修を認め、基礎心理学が新しく動きだそう とする矢先に、永瀬さんは不帰の人となった。心理学者としての永瀬さんは、自分が納得する までは、安易にペーパーにして発表することを抑制する世俗的打算を排した純粋さがあった。 真理を求める青年のように澄んだ純粋さは、それを感知する学生や仲間を惹きつけてやまな かった。 2000 年という年は、かって日本基礎心理学会の事務局のあった帝京大学心理学科にとって 激動の年となった。この年に大学院臨床心理学専攻が新しく設置されたからである。この設置 に絡んで私は帝京大学の心理学科に赴任したのであったが、それ以来、基礎と臨床をどう統合 するかが学科の基本課題となった。私は、 「基礎と臨床は車の両輪」という表現でこれを共存 のための相互理解の大前提としたのである。忘れもしないある日の心理学科の学科会議で、あ まり出席回数が多いといえなく、出てきてもいつも寡黙な永瀬さんが、突然発言して、「基礎 と臨床は車の両輪」という表現はとても良いと思うと「ぼそっと述べて」、私の立場を積極的 に支持してくれたのを決して忘れない。私は、これを永瀬さんが我々に遺した遺言と受け止め ている。永瀬さん亡きあと、 (やがて、私自身もいずれは、帝京大学を去る日がくるが)、学科 の全員が常にこの統一テーマを守り心理学科が発展して行くことを願ってやまない。 永瀬さんとの個人的な思い出を話せばきりがないが、たった 7 年間であったが、酒を飲みな がら、本音で個人的なことを語り合える何十年間も共に過ごしたように思える友人であった。 最後に永瀬さんに会ったのは、帝京大学の例の迷路のような廊下で、右側から突然永瀬さんが 現れて、私が、 「やあ、元気?」と聞くと、 「ええ、まあ」と例によって、少しはにかんだ表情 で答え、そこは、挨拶だけですれちがったのだが、その後少し行ってから永瀬さんが戻ってき て、後ろから声を掛けて私を呼びもどし、 「今度飲みませんか」という。そこで、その計画を 私が立てることになっていた。電話をしよう、しようと毎日思いながら雑務に追われているう ちに、永瀬さんは待ちきれずに不帰の旅に出てしまった。無念悔泣。 永瀬さん、しばらくの間、さようなら。私がそっちへ行ったら、また飲みましょう。 2 永瀬英司君をおくる 鹿取 廣人 (東京大学名誉教授・元帝京大学文学部心理学科長) 2007 年 10 月 1 日の朝刊、 「むさしの」版の左下にふと目をやると、 「帝京大学准教授事故死」 の記事、 そして君の名前が、 眼に飛び込んできた。情報によると、9 月 30 日午前 11 時 35 分ごろ、 山梨県上野原市大椚(おおくぬぎ)の中央自動車道上り線で、乗用車が横転、君は病院に搬送 されたが、午後 1 時過ぎに外傷性脳出血で死亡、同乗の聡子夫人も軽傷を負ったとのこと。県 警高速隊の調べによると、君の車は、緩い下り坂で右カーブの追い越し車線を走行中、道路左 側に飛び出してのり面と衝突、横転したという。 休日には、畑仕事をやりに度々山梨に行くことは聞いていたので、おそらく君にとっては、 通い慣れた道であったに違いない。君の運転で、数人の仲間と山梨の日向山の山麓まで車で行 き、真っ白い花崗岩の山頂まで歩いたことを思い出す。その時は、私たち数人の同乗者がいた ためか、なかなか慎重な運転であったことを憶えている。事故当時、強い雨のためスリップし たのか、突然のパンクによるのか?。君は、もともと何事にも慎重な性格であったように思う。 しかし、人生には、ふとしたことで注意力が抜け落ちる魔の瞬間がある。まさにそうした魔の 時間にとらわれたのか? 君の専門は、 学習の基礎過程であったと思う。私の専門領域とは必ずしも重なっていないが、 君の修士論文は、地道な実験にもとづきながら、ロジックの組み立てが緻密で、見事な出来映 えであったことを思い出す。その後、しばらく研究の方向づけにかなり苦闘していたようだ。 帝京大学の心理学科発足にあたって、 君にはそこの初代助手として赴任してもらった(助手: 1988 年 4 月 1 日、講師:1991 年 4 月 1 日、助教授:1997 年 4 月 1 日)。創設期の学科だった ので雑用も多かった。帝京大学の心理学科では、同時に日本基礎心理学会の事務局を引き受け ることになり、君にその幹事役をお願いした。日本基礎心理学会も、まだ創設期で、事務的な システムも整っておらず、その整備には、君の努力に負うとことが多かった。論文審査、経理 処理、委員会の準備など、面倒な仕事を労苦を厭わずこなしてくれ、日本基礎心理学会の組織 の基礎固めに尽力してもらった。助手着任早々で、かなりの負担を君に掛けていたのではない かと、今更ながら、申し訳ない気がする。 その事務処理の間に、帝京大学文学部心理学科紀要に、『効果の法則について−マッチング の法則をめぐって』 (帝京大学文学部紀要第 1 号)(1991)と『強化スケジュールで強化される 「反応」− V1 強化スケジュールと VR 強化スケジュールをめぐって』(帝京大学文学部心理学 科紀要第 4 号) (1997)の論文を単著で発表している。 君は、いささか寡作であったことは否めない。脇から眺めていた私にとっては、地道で緻密 に論理を組み立てていくといった君の仕事の特徴が、自由な発想と、飛躍的な論理に遊ぶこと を妨げていたように思われるが、どうだったのだろうか?若いうちは、往々にしてさまざまな 考えに束縛されて、ストリクトに自己規制が働くものだ。 50 歳を過ぎ、これからこそ、君の知的の厳密さに自由な発想が加わって、さらなる発展を 期待していたのだが‥‥‥。いまは、心からご冥福を祈るのみ。 3 永瀬英司君の逝去を悼む 馬場 久志 (埼玉大学教育学部・元帝京大学文学部) 永瀬英司君は秀才だった。たまたま東大心理学科同期となった我々の学年は出来の悪い学生 が多く、私などその最たるものであったが、そうした中で永瀬君は傑出していた。院生たちの 議論に加わることができ、心理学の知識をいち早く摂取していた彼の優秀さは、誰の目にも明 らかだった。4 年次を終えて、彼は当然のように大学院に進学し、私など劣等生は当然のよう に留年した。ややごつい感じのフレームの眼鏡をかけ、低めの響きのある声で語る彼の知的な 風貌は、いまだに眼裏に残っている。 その後、私は教育の分野に進み、永瀬君との交渉は途絶えたが、彼は博士課程の後に帝京大 学心理学科創設期のスタッフとして加わったということを、風の便りに聞いていた。 それが意外にも 1992 年、縁あって帝京大学心理学科に赴任することとなった私は、約 10 年 ぶりに永瀬君と再会した。だが、同級生とはいえ非凡な優等生だった彼と同僚になったことに は、懐かしさ以上に気恥ずかしさすら感じたものである。 帝京大学心理学科での永瀬君は、奔放に見える言動の陰で、堅い仕事をしていた。 11 号館地下にある彼の研究室と実験室の一帯は、独特の学術的エネルギーに満ちていた。 ゼミの学生たちは、太く強固な師弟関係の絆を形成していた。学生たちは、永瀬君からよく学 び、また永瀬君を気遣いいろいろと手伝っていた。研究生活を地でいく雰囲気が色濃く漂う永 瀬ゼミは、 傍目に見てもかなり魅力的であった。ゼミの学生に対してだけではない。授業でも、 妥協せず学生を指導していた。学生に発表をさせる授業では、授業での発表前に呼んで予行を させていたこともある。永瀬先生を前にしての予行を成功させたいということで、私を相手に 練習をした学生がいたほど、永瀬君は教育的な壁を演じていた。講義でも、内容は難解であっ ただろうと思う。だが懇切丁寧な説明で、難しいけれどよくわかったという感想を多くの学生 たちが述べていたことが、印象に残っている。 研究者としての永瀬君は、心理学が時流に乗り変節してしまうことをくい止めようとしてい た。 彼は、心理学が科学として積み上げてきた方法論の重みを、人一倍感じていたのだと思う。 だから、心理学が個人の経験説や名人芸となってしまうような俗流化の気配に対しては、強い 批判姿勢をとり続けた。それは、時代の風化に耐え得る心理学を担いたいという研究者の姿勢 であり、永瀬君の美学といえるものであった。学生指導においても、このことは貫かれていた。 彼が頑固に守り続けていた心理学のアカデミズムは、きっちりと訓練を受けた彼の門下生たち に受け継がれているに違いないと思う。 だがそれにしても、今、永瀬君を失うことの痛手は、わが心理学科においてもこの社会にとっ ても大きい。俗説や空虚な言辞に満ちた現代に心理学が科学としてどう切り込めるか、試行錯 誤を続ける我々にとって、 彼の掲げる一貫性は有意義な緊張をつくってくれていたように思う。 アカデミズムの旗手を失い、残された我々は、永瀬君の志に照らしながら、進むべき科学の方 向を見定めていく他はないのだろうか。永瀬君の早過ぎる逝去を悼みつつ、冥福を祈る。 4 永瀬先生を偲んで 菊地 学 (帝京大学大学院文学研究科臨床心理学専攻) 「いつか自分は死ぬんだということを思い出しながら生活をしなさい」そうアドバイスして くださった永瀬先生は 9 月の終わりに逝ってしまわれました。私がこの言葉を頂いたのは、先 生のゼミに正式に入った 3 年の初めの頃、確か「どのように研究をしていけばいいのか」と飲 みの席で聞いた時だったと思います。先生とは大学に入学してすぐにお世話になっていました が、学問のこと以外で先生と長い時間を過ごしたのはこの時が初めてでした。TA として 2 年 生の頃から先生の近くにいたのに、この時初めて先生の意外な一面を見た気がしました。 多分、多くの学生が持つ「永瀬先生」のイメージは、怖くて近寄りがたく、そしてどこにい るのかよくわからない、動物の話しかしない先生ではないでしょうか。私も同じような印象を 持っていました。他人にも自分にも厳しい先生、いつもコンピュータを睨んでいる先生、口調 が厳しい先生。しかし、ゼミ生として先生の下で研究をしていくにつれ、学生に対して気を使 い、学生のためになることを考え続けている「永瀬先生」に変わっていきました。「学生に強 く言い過ぎたかもしれないと言ってるんですよ。それにゼミ生の皆さんのこともいつも気にし ているんですよ」と、先生のご自宅で開かれた飲みの席で、奥様より聞いたときは思わず笑っ てしまいました。 私は問題の多い学生の一人で、なにかと先生に心配をかけてしまい、そのたびお声をかけて くださいました。先生の専門外の研究でも「面白いから、やってみなさい」「何か必要なもの があればすぐに言いなさい」と言ってくださり、また、私の趣味が研究内容に近いことを気に なさって「コンピュータ以外の趣味を持ちなさい」とも助言いただきました。その先生の趣味 は自転車で、ご自宅には数台の自転車が並べられ、また参加した大会の写真を見せていただき ました。その写真には、普段の先生ではなく青いスポーツウェアーを纏った、大学では見たこ とのない先生がいました。 学生に気を使い、ゼミ生を常に見守り、心配し続けた先生。ご自宅での飲み会では必ず餃子 を出す先生。タバコは良くないと言いつつも喫み続けていた先生。研究室にインスタントコー ヒーを常備していた先生。研究室の扉を叩くといつも不機嫌そうに返事をしていた先生。酔う とすぐに寝てしまう先生。そしてスポーツマンだった先生。 訃報を聞いた翌日、私は先生の研究室の前に立っていました。扉を叩けば、あの不機嫌そう な声で出迎えてくれるのではないか、そう思えてなりませんでした。先生と最後に交わした会 話は、その扉の向こうで、いつもと同じようにたわいもないことを話しました。 「また来ます」 「いつでもどうぞ」 何度となくお邪魔した、暗い廊下の先にある研究室、あのタバコとコーヒーの匂いのする研 究室は、今でも私の大切な思い出の場所です。 ご冥福を心よりお祈りいたします。 5 永瀬英司先生略歴 1957 年 3 月 19 日生 1975 年 3 月 県立岐阜高等学校卒業 1977 年 4 月 東京大学教養学部文科Ⅲ類入学 1981 年 3 月 東京大学文学部心理学科卒業 1981 年 4 月 東京大学大学院人文科学研究科修士課程進学(心理学専攻) 1984 年 3 月 東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了(心理学専攻) 1984 年 4 月 東京大学大学院人文科学研究科博士課程進学(心理学専攻) 1988 年 3 月 東京大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得退学(心理学専攻) 永瀬英司先生職歴 1988 年 4 月 帝京大学文学部心理学科助手 1991 年 4 月 帝京大学文学部心理学科常勤講師 1997 年 4 月 帝京大学文学部心理学科助教授 2007 年 4 月 帝京大学文学部心理学科准教授 1986 年 4 月 群馬法律専門学校非常勤講師(1988 年 3 月まで) 1989 年 4 月 国立身体障害者リハビリテーションセンター非常勤講師(1995 年 3 月まで) 1989 年 4 月 明治学院大学非常勤講師(1991 年 3 月まで) また、1988 年から 10 年以上にわたり基礎心理学会幹事を務められた。さらに、2004 年には 日本行動分析学会第 22 回年次大会実行委員会事務局長を務められた。 6 永瀬先生研究業績 論文 1989 年 主観的輪郭形成のメカニズム,基礎心理学研究,第 8 巻第 1 号,17 − 32. 1990 年 乳児期発達についての新知見,青少年問題,第 37 巻第 1 号,4 − 12. 1991 年 非行原因に関する総合的調査研究(第 2 回)報告書,総務庁青少年対策本部, 第 3 章「非行化と友人」48 − 62. 1992 年 オペラント学習における効果の法則の検討――マッチング法則をめぐって――, 帝京大学文学部紀要,心理学第 1 号. 1997 年 オペラント強化スケジュールにおける「反応」――反応そして反応の間――, 帝京大学文学部紀要,心理学第 4 号. 2007 年 ハトの単一オペラント事態における双曲線関数モデルの適合性と反応水準の関係 ――セッション内手続きを用いて――,立教大学心理学研究第 49 号,13 − 18 学会発表 1986 年 遅延強化後の局所的反応率について,動物心理学年報,第 36 巻第 2 号,135. 1987 年 Schedule induced running is schedule induced ,日本心理学会第 51 回大会発 表論文集,278. 2006 年 除去されたオペラント反応の文脈変化による再出現―― ABA 復元効果および AAB 復元効果の検討――,行動療法学会第 32 回大会発表論文集,310 − 311. 2006 年 ハトの数的能力の検討(共同発表),動物心理学会第 66 回大会発表論文集,35. 翻訳・著書 1988 年 本能に導かれた学習(翻訳) ,J.L.,グールド,P.,マーラー著,サイエンス, 第 17 巻第 3 号,78 − 91. 2000 年 比較心理学を知る(共訳) ,N. ,ヘイズ著,ブレーン出版, 第 1 章 比較心理学と進化 担当. 2004 年 心理学の新しい形 第 4 巻,実験心理学の新しい形(共著),清信書房, 第 6 章 学習心理学の過去・現在・未来 担当. 2007 年 コンパクト新心理学ライブラリ,実験心理学(共著),サイエンス社, 第 6 章 学習心理学担当. 7