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84」 からの通し番号である。

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84」 からの通し番号である。
*
イギリスとアメリカの書評紙から
イギリス・T985
項目を示す数字およびアルファベットは﹃明治大学教養論集﹄
84﹂からの通し番号である。
l o C
10︾84∼8[﹂
ヒヒい
育n
一七六号所載﹁イギリスの書評紙から 10ゾ0◎9μ∼
栄
著者の序文つきで刊行された。﹃第十の男﹄がそれである。
舞台はナチス占領下のフランス。これという理由もなく三十人のフランス人が投獄されている監房ヘゲシュタポがやって
来て、レジスタンスへの報復として三人を処刑すると告げる。囚人たちは確率十分の一のクジ引きで犠牲者を決めることに
するが、バツ印つきの紙片を靴のなかから引き当てる男の一人に裕福な弁護士ルイ.シャヴェルがいる。恐怖におののいた
一 101一
大
グレアム・グリーンが四十年前に書き、そのまま忘れていた中編小説がアメリカの映画会社MGMの倉庫から発見され、’
F
彼は身代わりになってくれれば家と財産を全部やると言い出す。ジャンヴィエという若者がこの取引きにただちに応じ、母
と妹に家と財産を残すために銃口に身をさらす。
やがて戦争が終わり、シャヴェルはシャロルという偽名を使ってかつての自分の家へ行ってみる。そこにはジャンヴィエ
の妹テレーズがシャヴェルへの憎悪を片時も忘れずに暮らしているが、シャヴェルは下男としてなんとか住み込むことにな
る。ところが、事情を複雑にすることには、シャヴェルと同房だったカロッスという男がシャヴェルと名のって現われ、ほ
んもののシャヴェルと対決することになる。
贈
このようにこの作品では身元確認ゲームが演じられる。つまり、全財産と引き換えに命を買って﹁第十の男﹂の汚名を着
せられたシャヴェルは、コラボ︵対敵協力者︶狩りによる恐怖の戦後を偽名で生きて行くうちに、堂々とシャヴェルを名の
る悪魔的人物が登場し、身元の証明がまったく不可能になる。不条理といえば不条理なこの物語のなかで、罪、赦し、蹟い
といったカトリック的テーマが浮かび上がる仕組みになっている。
グリーンは序文でこの作品を﹃第三の男﹄よりも﹁高く評価する﹂と言っているが、これはいくらなんでも買いかぶりで
ある。ただ、作者自身が忘れていたにしてはこれは﹁立派な文学作品﹂であり、この発見は﹁今年の紛れもない文学的楽し
みのひとつ﹂だとするアントニイ・バージェスの意見︵﹃オブザーヴァi﹄3月10旧号︶に反対する理由はない。
O量訂BΩ吋Φo口o”臼ぎ寄ミ訣さ嵩︵嵩刈℃PbJo巳2国①巴卸﹀ロ昏o姥u
匿H
”り。。α︶邦訳﹃第十の男﹄︵宇野利泰訳、
勘J
9δ
り伊
早川書房、 ︼九入五年︶
目鈎ド㎝]≦碧∩FμOo。9
卜跨鷺謎Q♪=H≦費o﹃HOoo9
0曾ミ尊免♪目9≦鎚o﹃HOoQ㎝.
﹃隷き起さ誌§ミ覇b唱o幕沁ミ馬Q起”δ]≦費oF目Oo。窃゜
一102一
− ・ d
.ヘンギン・ブックスが出しているユニークな文芸誌﹃グランター7﹄にグレアム・グリーンの日記抄﹁戦争を待ちながら﹂
が掲載されている。 \
グリーンの日記好きは有名で、その一部はすでに﹃自伝﹄などで公表されているが、今回公表されたのは一九三七年十二
月から一九三八年宋までの一年一カ月分である。この時期がグリーンにとって特別な意味をもっていたというわけではな
い。今回の公表は﹃第十の男﹄出版をめぐる一連の出来事の副産物である。﹃第十の男﹄の﹁序にかえて﹂で書いているよ
うに、グリーン。はたまたまパリの旧宅を訪れた際、二九三七年とその翌年の日記帳﹂を見つけたのだった。しかもその日
記帳の一九三九年十二月二十六日の項にはのちに﹃第十の男﹄となるプロットの原案が記されていたのである。
﹁自分の周囲の生き生きとした生活についての念入りな覚え書き﹂としてのグリーンの日記は、興味深い伝記的事実に乏
しいかわりに、﹁戦争を待ちながら﹂と表題にあるとおり、戦前のロンドンのようすを彷彿とさせる記述が少なくない。ガ
スマスクを求める長い行列とか公園に設置された高射砲や斬壕などへの言及、あるいは当時の新聞から切り抜かれた男性用
ヘ ヘ カ
コルセットやコンドームの広告、離婚や家庭内殺人の記事などから、ミュンヘン条約のころの市民生活の裏表が伝わってく
る。
当時グリーンが読んでいた文学書からの引用はほとんどすべて憐欄とか赦しとかにかかわっている。宗教的観念が彼の主
要な関心事だったわけだが、宗教そのものについての彼の寸言がここにあるー﹁宗教は逃避だと人々は言う。永遠を信じる
ものはしばしば無神論への切実な憧憬を覚えるはずだ。そうやって気をらくにしたい欲求に駆られるのだが、そこにこそ真
の逃避がある﹂
一103一
管 Ω鑓げ餌ヨΩ話⑦g”.類ず二①≦巴け言σq閏9芝9”ヨ9・袋ミ斜
︵ZpH8隔ω.O潮勺Φ口σQ巳昌しごoo冨︶
梼 O富ミ,竃、e詮乞o<Φ8げ①さ笛Q。朝゜
00・ C
ロレンス・ダレルが一九七六年の﹃ムッシュー﹄以来書き継いできた﹁寳の五の目形小説﹂ ︵クィンカンクス︶が今度の
﹃クィンクス﹄で完結した。
完結編で強調されているのは﹁五﹂という数字の神秘的意味A口いある。この五部作を通してずっと探し求められていたテ
ンプル騎士団の宝物がついに発見されるのは、ある礼拝堂での重大な会議がきっかけとなる。神秘の隠し場所はガ!ル橋の
下の饗の五の目形をした洞穴と分かる。それというのも﹁建築において寒ハの五の目形は神のカの宿る場所と考えられてい
る﹂からである。この神秘の数秘学は秘教的エロティシズムとともにテンプル騎士団が東洋から持ち帰った貴重な獲物であ
ることが明らかにされる。 ’
もう一っ明らかになるのは、五部作の実質上のヒロインとしてのコンスタンスの役割である。彼女はエジプト人の恋人の
’
死︵﹃セバスチャン﹄︶にもめげず、﹃クィンクス﹄に至って初恋の小説家ブランフォードと結婚、﹁ヨガ的思考形式としての
人間的愛、すなわち愚者どもが乗る人間的船の舵﹂を操るようになる。彼らが達成するエクスタシーに必要なのは、猟犬に
引き裂かれる若いジプシー女とその赤ん坊の話のような、時折の残酷な挿話であり、このセックスと残酷の組み合わせに
﹁世紀末的頽廃﹂を読みとる評者もいる。﹃リスナー﹄の書評子ピータi・ケンプである。
一104一
柴 いpミH98∪霞賊①FO、馬画嵩きミ馬ぽ肉帖慧ミ、笥↓軋曳︵8口署弓司帥げ①び㎞。。°O伊H⑩。。α︶
菅 臼卜鈎ωμ同く︻蝉ざHOooα゜
O讐ミ嫡恥きトっ①囲≦⇔ざ同りoo切。
卜躇紺㌶軸♪Q◎Oζ餌ざHりQQα゜
N<旨bコoo袖肉Qミ鳴起層5ω①艮o§げ①5同りQ。q°
4 ・10
アラン・シリトーが﹃華麗なる門出﹄︵一九七〇︶の読編を書いた。﹃人生は続く﹄である。
父なし子の主人公マイケル・カレンはいまや密輸の罪による刑期を終え、実の父を見つけ出し、なかなかにけっこうな結
婚もして、ケンブリッジシャーの廃屋となった鉄道駅舎に住んでいる。しかし彼の周辺には大小の悪党やろくでなしがうよ
うよいることに変わりはない。薬物を密輸しているくせに最近貴族に列せられた大金持の大悪党クロード.モガーハンガー
卿、その娘ポリー、モガーハンガー帝国の宿敵グリーン・トウ・ギャング、ボクサーのジェリコ、貧しい百科事典セールス
マンのオールマナック・ジャックなどで、例によってこれらの登場人物たちはチョーサーの﹃カンタベリi物語﹄ふうに長
々と身の上ばなしを語る。
今回の作品では小説のなかにもうひとつの小説が書かれるという新たな工夫が凝らされている。カレンが作家の父親にな
り代わって小説を書くのである。彼の実父ギルバート・ブラスキンは高名な純文学作家だが、酒と女でたえず家計を圧迫
し、その埋め合わせにしぶしぶ筆名でスリラー小説も書いている。出版社との不本意な計画が守れずに困っている父親を見
@105 一一
一一一
て、学はないが世間は知っているカレンが助け舟を出したというわけである。その結果、カレンの書いた小説はベストセラ
ーとなり、﹁ウィンドラッシュ賞﹂にノミネートされる。
﹁﹃人生は続く﹄はかなりのぺ:スで走る長距離競争のような冒険談だが、ここには持久力がなく、シリートはゴールに到
達する前に息切れしてしまった感じがある﹂と評しているのは﹃TLS﹄の書評子である。
誓 ︾窮嵩ω籠帥80”卜心鮒Oミ隔O篭︵蟄刈℃㌘Ω建昌o匹斜拓PO伊 OooO︶
膚卜鈎①Uo8日げ霞︾目OQoα゜
[﹂ ・、0
マードックの新作﹃善良な徒弟﹄は一種の殺人事件で始まり、善と悪が問題にされるところから、﹃リスナー﹄の書評子
はこれを﹁モラル・スリラー﹂と呼んでいる。実際、この小説の冒頭にはスリラー風のアクションがぎっしり詰まってい
る。
私生児エドワードはちょっとした人体実験のつもりで友人にLSDを飲ませるが、﹁彼が目を離したすきに友人は高い窓か
ら飛び下りて自殺してしまう。友人の死は自分の責任だと感じるエドワードは罪をいかに償うべきかと悩み始める。彼の悩
みの椙談相手を買って出る精神科医トマスは妻を寝取られている男だが、その妻ミッジはエドワードの叔母であり、彼女の
浮気相手ハリー・クーノはエドワードの義父にあたる。この複雑に入り組んだ人間関係のなかから浮び上がるのは、殺人よ
りも重い罪である。
一106一
コキュの精神科医トマスは妻の不貞を知って、過去二年間の生活が一瞬のうちに灰色に変色する悲痛な思いを味わう。彼
が幸福だと思っていた瞬間は、妻にとっては﹁情熱的なきらきら輝く場所からいやいやながら戻って来た㍉退屈で憎むべき
日常﹂にすぎなかったのだ。人間的なものを抜き去った人間関係こそ殺人より重い罪だ、とマードックは言っているかのよ
うである。
結局、エドワードの精神は癒され、彼は人間の責任とはなにかを知る。つまり彼は善と悪を見分ける善良な徒弟として修
業を終えるわけである。
﹃海よ、海﹄以後、五百.へージ余りから成る小説をほぼ二年に一作の割合で書いているマードックだが、今回で四作目に
なる彼女の大作シリーズはどれを取ってもあまり変わりばえがしない、ヒという趣旨の批判を﹃オブザーバi﹄の書評子は書
いているが、それはこの作家への重大な警鐘だと思われる。
聾 日S鈎トっ刈QD①℃8日げ①び這◎。窃゜
於 Hユω]≦信aoo汀R、ミOoo匙ミ、、免ミ凡ミ︵認b⊃℃PO冨帥けρ隔り.㊤9δo。㎝︶
卜画設§馬きト⊃OGっ①冥oヨげ臼矯HゆQ。α゜
O騨ミ竃♪トっりQoo讐o旨げ霞”目㊤o。㎝。
7 ■ C
ゴールディングがノーベル賞受賞後のインタビューで明らかにしていた旅行記﹃エジプト日誌﹄がようやく出た。貸し切
りのモータークルーザーでナイル川を往復しながら見聞きしたエピソードがユーモアと皮肉をまじえて記録されている。た
一107 一
とえばアスワンハイダムの近くの村では今ではスタンド。ハイプが浄化水を供給している。川辺に集まって噂話に花を咲かせ
るヌビア人の女たちの伝統は消えてしまったのか。いや、と村長が笑って答える。ヌビアの女たちは集まって噂話をする場
所をいつでもどこかに見つけるものです。スタンドパイプのまわりとかコミュニティホールとかにね⋮⋮。
しかし、この旅行記の真の主役はモータークルーザー﹁ハニ﹂号とその乗組員である。ゴールディングは元海軍将校だ
が、いささか勝手の違う船上生活に閉口しながらも、なんら口出しできない。﹁ナイルの海を航行するものは忍耐という名
の帆をかかげなければならない﹂という諺を金科玉条とする老船長にすべてをまかせるしかない。
五人のエジプト人乗組員は昼でも夜でも好きな時に眠るが、逆にその気になれば昼夜を問わず働く。なにかの偶然で生じ
る不都合はなにかの偶然で解消されると考える彼らは、能率至上主義と正反対の立場にある。
ゴールディングはクルーザーが後方に吐き出す一条の黒煙にエジプトの象徴を見る。なるほどこのクル!ザーは性能のよ
さには無縁だが、必ずしも役立たずではなく、なまけているわけでもない。
こうしてさまざまなエピソードにエジプト数千年の歴史を垣間見るのである。
畳 芝崔6日Oo匡ぎσq 毎謡彗㌧縣登嵩きミ謡ミ︵b⊃O◎Q℃﹁遥 閃僧げo︻層 μbo°O㎝︶
卜鋳驚鳶笥♪b。り﹀自σq窃計δQ。9
芸 目鈎HZo<①日げ①びおo。㎝゜
0身ミ籠き曽旨三ざおQ。q°
一一 @108 一
00・ C
アントニイ・バージェスの新作﹃悪者たちの王国﹄は初期キリスト教時代を扱った一種の歴史小説である。表題は迫害者
としての皇帝たちの王国、つまりロー’マ帝国を意味し、これに対置されるのは使徒たちの﹁天上の王国﹂である。ドミティ
アヌス帝時代にアゾルの息子サドクなる人物が﹁通俗ギリシア語﹂で語った物語をバージェスが英訳したという結構で、作
者独得のユーモアに満ち盗れている。 .
サドクは復活とか永遠とか奇跡とかいう﹁ばかげた﹂ことは信じない。﹁品位、寛容、 ユーモラスな懐疑﹂の三つが大切
なもので、これこそキリスト教の神が象徴するものと考える。そういう彼の目を通して、豚肉食いや好色、同性愛や虐待、
暗殺や偽神崇拝といった﹁悪のあらゆる様態﹂が観察されるが、物語の最後でベスビオスが噴火し、すべての罪あるものを
埋めつくしてしまう。 ・
クラウディウス帝やパウロをはじめ、登場する悪帝たちや使徒たちはすべて人間的に描かれているが、しかしこの作品の
人間性を高めているのは、なによりも、シモン・マゴスやスパイのカレブ、百卒長ユリウスなどの脇役たちである。
﹁この美しくも呪われた世界﹂の終末に当たっての語り手サドクの最後の咳きはこうだー﹁偉大な思想が芽生え、花開き
そして死んだ﹂ ﹁ 一
菅 ﹀‘昏o⇔団bd母αQ8°・自、譜窓嵩伽q駄oミ亀.暮馬類時ぎ“︵ωお署己出暮oげぢ゜。op翫O°09巳゜。0︶
芸 目b鈎Q。目ζ9ざ巳Q。 ㎝ ゜
○町ミ籠きお]≦匹ざHOQ。9
﹂<KSb◎8隷肉恥ミ馬罎鳩bo卜⊃oっ①℃一〇ヨげ①び一〇〇。9
卜凡亀§馬、いδ]≦貸ざHOoo㎝.
一109一
11・b
宇宙を舞台にしたSF﹃キャノパス﹄シリ!ズを書きつづけていたドレス・レッシングが、リアリズムへ回帰しての新作
﹃お人好しのテロリスト﹄を発表した。
作家自身の談話によると、この作品を書く直接の動機となったのは、一九八三年十二月の百貨店ハロッズ爆破事件だった
という。
﹁この時、新聞はアマチュアの仕業だというふうに報道していたんです巾そこでわたしは、こんなことをしでかすのはど
んなアマチュアなんだろうと考えはじめたんです﹂︵﹃NYTブックレビュi﹄9月22日号︶ ° ︷
レッシンクレが掛き上げた﹁アマチュア﹂テロリストは三十六歳の女アリス・メリングズ。ハンプステッドの上流中産階
級出身で、政治学と経済学の学士号をもつ。ホモの男と性的関係のない結婚生活を営み、﹁夫﹂の留守中、自宅を過激派の
たまり場として提供している。アリスとその仲間たちは﹁コミュニスト・センタi・ユニオン﹂を名のり、IRAへの支援
活動を計画、がらくたを集めたり盗んだりして来ては、役所が取り壊そうとしている廃屋同然の家を修理し、要塞に変えよ
うと奮闘する。だが、時限爆弾ひとつ扱えない彼女らのすることは、所詮ままごと遊びにすぎない。
再びレッシングの自作解説を引用すれば、・この作品は﹁ある種の政治的人間ー豊かな社会にしか生まれないある種の自
称革命家1についての小説﹂であり、アリスは﹁周囲のものへ.の細やかな心遣いを示しながら、同時に大都会をいつでも
爆破する用意のある女﹂なのである。その矛盾した幼児的心情は作家がアイル、ランドで目撃したIRA崇拝者の少年たちに
似ているという。彼らは爆弾テロのニュースを聞くと小躍りして喜ぶのであり、そういう子供たちがよく考えもせずにふら
ふらとテロリストの一員になることは大いにありうる話だ、とレッシングは語っている。
一110一
管 Uo旨ピo■.i−ヨσq”↓ミ08翫寄こ,ミ,慧︵ω誤O
毛碧
弓ρ肋PαρおQ。㎝︶
斎 目鈎目ωωo讐o日げ①さμO°。窃゜
O寓ミ慧き嵩Qoε8ヨぴoび目Oc。9
卜篤蔑§ミ”ミOo8げ① ご ド O Q 。 ㎝ ゜
毫きo詠肉恥註ミ3bΩb∂ω①冥①導げoびH㊤c。朝゜
・12・b
ジョン・ファウルズが三年ぶりに発表した大作﹃幼虫﹄は﹃フランス軍中尉の女﹄ ︵一九六九︶の姉妹編とも言える、こ
の作家持有の実験的歴史小説でみる。十八世紀なかばにシェイカー教を起こし、キリストが女になって再来するという信仰
を広めたアン・リーの出生の秘密をフィクションに仕立てている。
一七三六年のメーデー前日、イギリスの高原地帯を旅する五人連れがいる。若い貴族、・口と耳の不自由な召使い、役者、
用心棒のウェールズ人、それに娼婦レベッカ・リーの五人だ。その夜、貴族は役者と用心棒をお払い箱にし、召使いとレベ
ッカだけを引き連れて、メーデi当日、どこかの洞穴での秘密の会合に臨む。しかしそこでなにが生じたかは、いっさい読
者に知らされない。明らかにされるのはただ、それから一.一、三日後に召使いが首吊り人となって森の中で見つかり、ほかの
四人はすべて行方不明になったということだけである。
そこまではほんの序幕で、小説の本体をなしているのは、この事件の調査を命じられた法廷弁護士ヘンリー・エイズコウ
が収集する各種の証言である。
一111 一
レベッカはとある鍛冶屋の貞淑な妻となっているところを見つけ出されるが、結婚した時はすでに他人の子をみこもって
いた。洞穴での出来事についての彼女の証言は曖昧模糊としている。三人の魔女と悪魔︵若い貴族︶の会合の場へ生贅とし
て連れて行かれ、悪魔の子を孕まされたと言ったり、母なる女神、娘なる女神、聖なる知恵の女神が三位一体となった、真
の女神を宿したのだと言ったりする。いずれにせよ、レベ゜ッカは宿命的なメーデーの旧から十カ月後に女児を生み、アンと
名づけるのである。
女嫌いの無神論者と標榜するファウルズはシェイカー教の教祖をフェミストの先駆者と見て、その出生の秘密に悪魔的な
宇宙を背景に地上の出来事を描き、愛
要素をからませたのではないかというのが大方の見方だが、ちなみに中世においては、悪魔は﹁虫﹂とあだ名されていた。
の展開を自然の進化論的運行に関係づけようとする意図が見られる。
一112一
芸 旨oぴ口勺o乱①。。u郎︾§寵ミ︵直①O矯PO岩ρ紡ρOρ一〇°。e
斎 目ド鈎卜⊃Oωo喝8ヨげ⑦ごμりo。㎝゜
O身ミ竃きト。b。QDΦ冥 o 旨 げ o が H O ° 。 9
卜帖亀§恥♪刈乞oく⑦ヨ傷oさHOQo9
冬起ざ簿肉ミ時竃”αOo8Bげoさ団OQ。α゜
笥8b口8瀞肉§蹄竃堵◎。ωo冥①日げoさHOQ。㎝゜
b
マギー・ジーの第三作﹃光の年﹄はこの作家の前二作と同様、実験的作品である。
17’
再婚して二年のハロルドはクリスマスを目前にして妻ロッティを見捨てる。直接の動機は二つあり、その一つーはロッティ
がハロルドへのプレゼントとして気まぐれに買った高価なシシザルだった。ハロルドはロッティがひどく見栄っぱりで軽薄
だと考える。その上、プールに住む年老いた母の見舞いに行こうと誘っても、ついて来ようともしない女だった。
家を飛び出したハロルドはサウス・コーストに滞在し、°ロッティのほうは連れ子の息子とともにロンドンにとどまる。そ
れからの一年間、二人は電話で罵り合ったり、互いに恋人を作ったり、パリへ遊びに行って偶然に相手を見かけたりする。
この間の月日の流れをまね、本書は十二部五十二章に分かれている。
ハロルドは天文学に凝り、しばしば金星を観察しながら、愛と惑星と時の経過について考える。一方、彼らの別離の結果
としてほったらかされたシシザルは死に、ハロルドの老母もやがて死ぬが、二入が最終的によりを戻すのはリージェント・
パークの動物園においてである。つまりこの﹁作品では星と動物が象徴として使われているわけで、二人が再会を祝して出か
けるところはプラネタリウムという念の入れようである。 ’
マギー・ジーの実験精神は単に才気走ったものでもなければ冷たいものでもなく、象徴の使いかたがやや重いとしても、
それを補うきびきびした文体となかなか気のきいたユーモアがある。たとえばロッティはハロルドのパンツを愛用している
が、別離のあとで彼女は、まだこんなものをはいていていいのかしらと思う。あるいはハロルドはパリへ連れて行く恋人が
腹具合をおかしくして必死に隠そうとするのを見ながら、﹁おなかが鳴ったとか鳴らないとかと楽しく言い合った﹂ ロッテ
ィをなつかしく思い出す。
﹃光の年﹄は全体として大変読みごたえがあるというのが、﹃リスナi﹄﹃TLS﹄﹃オブザーヴァー﹄の書評子の一致し
た意見である。
軸 罎おαq冨Ooo韓卜蒔ミ寄ミ偽︵ωαO弓q国9。山⑦び紡㊤。り㎝しり゜。㎝︶
一113一
○冒ミ竃♪b。りω昌8ヨげ霞”お゜。㎝゜
卜鋳慰ミ♪刈Zo<oヨ げ o び ド ㊤ o 。 9
↓卜鈎駆Oo8げ①びドΦ◎。㎝゜
モームが死んですでに二十年余になるが、﹃ロマンスの旅人﹄はいまなお根強い読者をもつこの作家の未収録作品集であ
る。 °
創作作品は表題作︵一九〇九︶を含め六編あるが、忘れ去られていたのもむりのない取るに足りない代物である。だが、
ここに集められた短い新聞記事や書評、序文、講演原稿の類はその限りではない。
たとえば第二次大戦中アメリカに住んでいたころモームが書いた新聞記事は、 アントニイ・バージェスの本書評 ︵﹃オブ
ザーヴァー﹄︶によれば、﹁すばらしいジャーナリズムであると同時に一級品のプロパガンダ﹂であった。﹁民主主義の未来
の最も確かな保険は・::一親が子に与える正常で健康的な家庭生活にある﹂といった平易な表現が、それらの新聞記事に限ら
ず、ここに収められた短文類の特徴となっている。それはまた、この作家の人気の秘密でもあった。
﹁小説家の適切な目標は⋮⋮登場人物たちをつくり出し、彼らを陳列できるような物語を編み出すことである﹂とモーム
は一九五〇年の講演で言っている。小説作法について彼はこのように平易に考えていたわけだが、これはあまりにも俗っぽ
いという批判がないわけではない。﹁気まぐれに混乱を招こうとするのではなく真理の探求のために晦渋な単語やねじくれ
たシンタックスを使う小説家もいるのだということは、彼には思いもよらなかったのだ﹂とバージェスは皮肉っている。
一114一
20
苦 ≦・ooo目①冨oe竃碧σq匿白”出寄自竃畿ミき沁oミ§聴ー9sN、象鷺賊きミ嵩αq笥N◎ON点℃◎へ︵︾口臣oξ国o巳”勘お。O㎝”おo。戯︶
菅 ○騨ミ尊Q♪嵩U①8日げ①ひμOc。心゜
21.a
一九八四年のブッカi賞作品、アニタ・ブルックナーの﹃ホテル・デュラック﹄は女性心理に主眼を置くラブストーリー
である。 ,
主人公の女流作家イーディス・ホープはスイスのホテルで自重自戒の日々を送っている。結婚式当日に花婿を振ってしま
った罪を悔い改めているのである。昔の男が忘れられず、分別くさい花婿に突然いやけがさしたのだった。ホテルには、七
十九歳でなお魅力的なピュージー夫人、その娘で官能的なジェファニi、傲慢なレディXなどがいる。
イーディスの前にネヴ不ル氏が求愛者として登場するが、やがてディヴィッドという青年との電撃的な恋が芽生え、出会
って二、三時間後には同金する。彼女は小説家として、宿命的な恋など信じないと公言していたのだが、実際はそれを信じ
ていた上に、そうした恋を実現してしまうのである。
ブルックナーの前作﹃摂理︵一九八二年︶の女主人公は﹃アドルフ﹄を論じて、﹁すべての創造的努力は作家自身の自伝
に浸透されることになる﹂と述べた。宿命の恋は作家ブルックナー自身の信念なのかも知れない。ただし、イーディスがデ
ィヴィッドと同金するにいたるまでの筆運びは粗すぎる、とバーバラ・バーディは﹃TLS﹄で苦言を呈している。
甚 ﹀艮9bdHoo犀器畳き馬ミ駄ミト§︵H°。駆署謡Oぞρ騰刈゜㊤㎝℃おo。膳︶
一1玉5一
目卜鈎=ω①冥①ヨげoがHOo。幽゜
卜跨鷺㌶馬♪心Oo8げOぴδQQら゜
○曾ミ嬢偽♪㊤ωo℃8旨げoぴH㊤oo躯゜
21.b
ブルックナーのブッカー賞受賞後第一作が出た。﹃家族と友人たち﹄という表題である。
これはアルバムをめくりながら語られる、ある家族の年代記である。とりたてて劇的とも言えない出来事が、すべて現在
形で書かれている。ヨーロッパからイギリスへ移住してきたユダヤ人ソフカ・ドーンと四人の子供たちが主要な登場人物で
ある。
若くして未亡人となったソフカの夫は女たらしのろくでなしだった。現在、工場収益で裕福に暮らしているドーン家のな
かで、ソフカはどちらかと言えば横暴な女家長である。長男フレデリックと次女ベティはそういう母親に激しく反発する。
結局はどの子供たちも単調な中年の日々に埋没して行く。
フレデリックの場合、持ちまえの美貌と軽薄さで、母親のいやがるプレイボーイとなるが、やがてホテル経営者の娘と結
婚し、イタリアのボルディゲーラでホテル管理にいそしむ身となる。
ベティの人生はやや波乱に富んでいる。踊り子になろうとパリへ家出し、そこで出会った若い映画監督と結婚、アメリカ
のベバリーヒルズに住むようになる。しかしそこで待ち受けていたのは、夫に苦情を並べたてるだけの退屈な日々である。
長女ミミは妹ベティを探しにパリへ出かけ一度だけ悲しい恋をする。しかしあとはずっと独身を守り通し、中年になって
一116一
から献身的な工場の雇人と結婚して人生の危機からなんとか救われる。
女家長ソフカに最も従順なのは末子のアルフレッドだが、それはこの若者が﹁なんにつけても母親の言いなりになる男は
めったにほかの女の称讃を勝ち取れない﹂という真理をまだ知らないからである。
作家A・N・ウィルソンは﹁これまでのブルックナーの小説で最高の作品﹂という賛辞を呈している︵﹃TLS﹄︶。
菅 ↓卜鈎①ωo℃8ヨげoびお゜。㎝゜
箭 ﹀三冨田8犀器H”津ミ暁⑤§匙寧軌§匙︵HQ。刈署‘O昌ρ陶Q。°O伊μO°。α︶
○穿ミ隠♪o。ωo℃8ヨげ①びお゜。α゜
一117一
卜軌論§ミ”㎝ω①讐①ヨびoさHO◎。9
Nく︽↓しロ8隷肉偽ミ鴨罎 ℃ H O 2 0 ︿ o 日 ぴ ① び お Q 。 0 1 °
﹁壊れた橋﹂は日本を舞台にした三編のうちのひとつで、日本人と日本で働く英米人との心情や価値観における食い違い
験は作品の舞台や登場人物の設定に生かされている。 7
あるがゆえに孤独なのだ﹂という若いころからの信念は彼が生まれ育った特権社会と無縁ではないだろうし、世界放浪の経
本を含む世界のあちこちで教鞭をとった。この育ちと経歴は彼の作品に色濃く影を落としている。﹁われわれはユニークで
プレップ・スクール、、パブリック・スクールの名門コースからケンブリッジに学んだトゥーイは、大学.卒業後、南米や日
寡作の作家フランク・トウーイの﹃短編集成﹄が評判になっている。
22
が日本人学生の自殺につながる話である。授業に臨んだ英国人教師は﹁強烈なまぎれもない不安﹂を覚えてこう述懐するー
﹁思うにこれは人種差別の始まりなのだ。わたしはひとりぼっちで、学生たちの顔はすべて善意に欠けている。これと同じ
出来事へのわたしたちの反応がこれからも同じかどうかは分からない。まったく分からない﹂
異国での孤独、不安、迷いはトゥーイの典型的な主題で、日本在住の英国人ばかりでなく、南米在住のポーランド人やド
イツ人、ロンドン近接諸州︵ホームカウンティーズ︶に住むギリシア人といった、亡命者風登場人物を通し、そうした主題
が鮮明に描き出されている。不必要に奇を街わず、それでいて正鵠を誤ることのない明喩主体の文体がまた称賛の的であ
る。たとえば深酒をした男の目は﹁車の窓から外を見る犬の目のようにちかちかぐらぐらする﹂という具合である。作品三
一118 一
十六編が収められている。
箭 卜凡蔑§ミ”卜o県蜜昌二四q”一〇c。㎝゜
苦 周冨爵↓き﹃男雪ぽOミ苛昏鷺駄曾ミ馬a︵自O℃℃°L≦90巨薮p勘一b⊃°8堵H⑩゜。心︶
、23
るぎ、法の支配が投げ捨てられ、インドが深く傷ついた時代である。ニューデリーではパイプカットのため市民が掻き集め
作品の時代北且凧はインディラ・ガンジーによる非常事態宜言︵一九七五︶以降で、近代化の名のもとに民主制の土台が揺
身が﹁上流の人々﹂の一員である。 、
一九八五年のシンクレア賞受賞作﹃上流の人々﹄の作者ナヤンタラ・サーガルはジャワハルラル・ネールの姪で、自分自
昌
られ、監獄ではマルキストとヒンズi教徒が仲良くなり、いっぽうでインディラ・ガンジー支持の群衆が官邸を包囲すると
いった事態がつづいた。 ﹁
作品には二人の女主人公が登場し、・二人とも混乱の時代の犠牲になる。産業省の女性高級官僚ソナリは炭酸飲料﹁ハッピ
ーオーラ﹂を造っている外国企業への包括輸入免許認可を拒否して降格される。外資導入が厳しかった政策がいつの間にか
変わっていたのだ。やがて炭酸飲料の荷箱の底に自動車部品が隠されている事件が発覚すると、深刻な腐敗にやっと気づい
たソナリはうんざりして辞職する。
もうひとりの女主人公は大立者ラム・スルヤの第二妻でロンドン育ちの白入ロ!ズ。彼女の場合、夫は卒中で廃人同然と
なり、代わって第一妻の息子デビが実権を握ってハッピーオーラ事件に一枚加わるということがあり、偽善やごまかしに厳
しいローズもしだいに孤立へと追い込まれて行く。
この作品は同じく非常事態宣言下のインドを扱ったサルマン・ラシュディの﹃真夜中の子供たち﹄に匹敵する傑作という
評判である。
層 圃S鈎Hb。冒一ざH㊤◎。㎝.
勢 乞醸き冨話ω聾αq既“肉詩︸ミ譜騨︵卜。㎝①署‘=①言①ヨ碧口導騰ρOρ一〇°。㎝︶ ・
︵︶寓ミ題♪卜⊃冒ロPH㊤゜。㎝
隠論§ミ噂二臼巳ざδ゜。㎝゜
一119一
一九八五年のブッカー賞にノミネートされたピーター・ケアリーの﹃イカサマ師﹄は所謂﹁魔術的リアリズム﹂の作品と
して高く評価されている。
﹁私の名前はハ!バート・バジャリー、百三十九歳。ひとかどの名士である﹂という書き出しで始まるこの作品は、表題
が暗示するように、ホラ話の色彩を冒頭から色濃く打ち出している。いかがわしげなこの古老の語り手が最初に持ち出すの
は、彼が三十三歳の時の一九一九年にーということは現在は二十一世紀となる計算だがーイギリスのレディングで教員とな
るための勉強をしていたアネット・ダヴィッドソンの物語である。彼女は教職の口を見つけてオーストラリアのロージング
へやって来るが、途中パリへ立ち寄って、うさん臭い画家に身をまかせる。この時のはかない恋は、その後のオーストラリ
ア暮らしのなかで片時も忘れられないものとなるが、逆に言えばアネットにとってオーストラリアでの生活はいやでたまら
ないのである。
こうして、いやいやながらオーストラリァへやって来たアネットの物語を皮切りとして、バジャリーは一種の流れ者たち
の物語を次から次へと語る。
ドイツ人、アイルランド人、中国人、ユダヤ人、ロシア人、アメリカ人、さらには日本人と、人種的に多彩で、しかもバ
ジャリーとなんらかの怪しげな関係をもつ登場人物たちのさまざまな身の上話から浮かび上がるのはオーストラリアという
国の過去である。国土の開発は昔からイギリス、アメリカ、あるいは日本といった﹁経済大国﹂にまかせきり、言わばよそ
者に国土を占領されつづけてきたオーストラリアこそ、この作品の真の主役だと指摘する書評子もいる。ともあれ、小さな
町での平凡な生活をめぐるヨタ話めいた物語が一国の歴史の縮図となるところに﹁魔術的﹂なからくりがある。
一120一
24
﹃オブザーヴァー﹄紙十二月一旧号でこれを﹂九八五年ρ﹁ブックス、オブ・ザ噂イヤー﹂に選んだサルマン.ラシュデ
ィは﹁歴史とイカサマ、あるいはイカサマとしての歴史を描いたすばらしい叙事詩的喜劇﹂だと激賞している。
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莞 ℃o叶費O貸醸”雨含罎ぎ寒ミ.︵OOO℃P閏ぎ⑦お獅り゜㊤9目O。。e
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一 121 一
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化を犠牲にする中年男のジョー。混血の中年女流画家で、作家の分身という役どころのケレウィン。難破した船からただひ
物語の中心には三人の人物がいる。マオリ族出身の工場労働者で、物質的に豊かな暮らしを確保するために祖先伝来の文
﹁骨人間﹂とはマオリ族が信仰する祖先の亡霊で、超自然の治癒力をもっている。
リカで出版され、日の目を見るこ乏となった。
て書いた実験的小説で、ニュージーランドではすでに一九八一.年に出版されていたが、ピ九八五年になってイギリスとアメ
ュージーランドの女流作家ケリi・ヒュームの﹃骨人間﹄に決定した。マオリ族の血を引く三十八歳の作家が十二年もかけ
一九八五年のブッカi賞はアイリス・マードックとドリス・レッシングが本命視されていたが、大方の予想を裏切ってニ
25
とり生き残り、浜辺へ打ち上げられる年少の唖者サイモン・ピータi。この三人は、家族から引き離されるとか、心の支え
るとなるはずの種族の文化遺産と絶縁するといった、痛々しい過去をだれもが隠しもっていて、物語が展開するにつれ、ひ
とりひとりの過去の秘密が徐々に明らかにされる。
ジョーがサイモンの養父となり、さらには﹁流れもの﹂のケレウィンまでをも引きとめていっしょに暮らし始める時、三
人は愛と苦しみの絆で結ばれた﹁三位︸体﹂となる。しかしながら三人の脆い絆は自虐的暴力のためにずたずたになり、三
人ともそろって死に思いを馳せ始める。そこへ現われるのが﹁骨人間﹂で、三人の心を癒し、再び生へと駆り立てるという
のが、物語の大筋である。
一122一
この作品は=一ユージーランド神話創造のための入念な試み﹂だと、受賞後のインタビューでヒュームは語っている︵﹃オ
ブザーヴァー﹄十一月十日号﹀。
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寡作な女流作家A・Sバイアットの第三作﹃静物﹄は、前作﹃庭園の処女﹄︵一九七八︶に引きつづき、今世紀中葉を時
26
代北且凧として、教育熱心なイギリス中産階級の一家族の悠長な歩みを丹念に追っている。
北ヨーークシャーの小さなパプリックスク﹁1勘で国語を教えるビル侮ポッタトには二人め娘と一人の息子がいる。前作で
は、上の娘ステファニーがケンブ﹂ッジのニューナム腎カレッジにせっかく入学しながら、がさつで文学趣味に無縁な若い
副牧師と結婚し、大学をやめるところまでが語られた。今回の﹃静物﹄は、‘姉の轍を踏むまいと決意しながら同じカレッジ
に入学する妹のフレデリカを中心に、ポッタi家のその後の四年間を扱っている。・ . ・
一面においてここには、平凡な主婦の生活に埋没する姉と、二九五〇年代のケンブリッジが優秀な若い女に提供していた
あらゆるものを、貧欲に吸収する妹フレデリカとが対照的に描かれているが、もうひとつの面では、、一九五Q年代のイギリ
スの雰囲気が確実に捉えられている。﹁緊縮経済かち高度成長へと移る過渡的な五十年代中頃の、静かで忘れられ毎ような
閉塞的時代﹂の手ざわりがそこにあるのだ。たとえばフレデリカは、﹂マ、ラルメの詩にうつつをぬかしながら、スエズ動乱で
世間がなぜ騒ぐのか分からないし、ステファニーに至っては育児に専念し、世界の情勢など意に介しない。
﹁平凡な家族が味わう喜怒哀楽という人間の条件を喚起している点で、.単なる歴史を超越しているすばらしい小説﹂・と,し
てこの作品を高く評価しているのはアントニイ・バTジエスである︵﹃オブザ4ヴァ雪﹄十二月÷日号︶9
菅 ﹃卜鈎・。。。冒p。Lo。。o・ ° 、
菅 ︾°ψじd巻5専ミ自謡︵°。αO噂PO訂穽o雪α芝ぎ含。。”勘Obα”目OQ。㎝︶
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一123一
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ー
ヘミングウェーが一九六一年に自殺する前に書き残していた長大な闘牛論は、﹃ライフ﹄に一部掲載されただけで、大部
分は未発表のままになっていたが、このほど縮約版の形で初めて本になった。﹃危険な夏﹄糊がそれである。ヘミングウェー
は祖国アメリカを除いてほかのどの国よりもスペインを愛したが、支持した人民戦線の敗北とフランコの勝利にこだわり、
なかなか再訪しようとしなかった。一九五三年にやっとその気になり、現地の敵意を懸念しながらス。ヘイン国境を越えた。
本書はその時のエピソードから始まるが、﹁あなたは作家ヘミングウェイの親戚なんですか?﹂と訊く国境の警察官は、彼
の小説をすべて読んでいて、敵意どころか温かい歓迎の気持ちを表明したのだった。
ヘミングウェイにとって、ス。ヘインとは闘牛にほかならない。本書でも彼は﹁闘牛から遠ざかっていた十四年間はまるで
投獄されているような気持ちだった﹂と、闘牛への飢餓感を訴え、ただちに闘牛場の話を始めている。かつては偉大な闘牛
士だったマノレーテのマネージャーたちが牛の角に細工していると知ると、彼はその卑劣さを非難しないではいられない。
一九五三年以後、ヘミングウェイは何度かスペインを訪れるが、表題にある﹁危険な夏﹂を経験するのは一九五九年のこ
とである。彼は二人のすばらしいマタドールを紹介している。﹃日はまた昇る﹄の闘牛士.ヘドロ・ロメロのモデルになった
カイェターノ・オルドニェスの息子アントニオと、その義兄弟ドミングインである。その年の夏を危険なものにするのは、
ほかならぬこの二入の激しいライバル意識であり、死を賭しての二人の戦いぶりのドキュメントが本書の主体をなしてい
る。
一124一
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﹃卜鈎同①︾口σQま♂目 O c 。 9
晩年の二十年間を精神に異常をきたしたまま送り、一九八三年に死んだテネシi・ウィリアムズの短編小説が一冊にまと
められた。﹃テネシー・ウィリアムズ短編全集﹄がそれである。ここには十七歳から六十三歳に至るまでのウィリアムズの
作品が年代順に収められ、彼の短編作家としての歩みが一望できる。初期の未発表習作は、時折示される才能のきらめきを
除外すれば、文字通りの習作にすぎず、そこに暗示された才能が開花するのは彼が身辺の現実を語りはじめる時である。彼
には夫婦仲の悪い両親や分裂症の妹ローズがいたし、数多くの不実な恋人たちがいた。一九三〇年代後半から一九四〇年初
めにかけてウィリアムズがとめどなく語りつづけたのは、そうした身のまわりの人々のことである。
ローズを扱ったこの時期の傑作のひとつ﹁ガラスのなかの女の肖像﹂−は、筋といい登場人物といい、﹃ガラスの動物園﹄
の完全な原型になっている。 ・
一九四〇年代中頃から一九五〇年代初めにかけてのウィリアムズは、個人的経験にこだわりながらも、ラテン・アメリカ
で創始されたとされる﹁魔術的リアリズム﹂に興味を示し、﹁片腕﹂とか﹁欲望と黒人マッサージ師﹂といった、とっぴな、
それでいてくそまじめな作品を書いた。しかしこの時期の傑作は、ミシシッピーやテネシーでの少年時代を描いた﹁サマー
一125一
2
・ゲームの三人の奏者たち﹂で、これは﹃熱いトタン屋根の上の猫﹄を予告している。
一九六〇年代に入ると、すでに狂気の影が忍び寄ってさすがに筆が乱れ、全盛時代の終焉が告げられる。
作品のよしあしはべつとして、ここにはテネシー・ウィリアムズの‘﹁完結した世界﹂があると言っているのは“﹃ニュー
ヨーク・タイムズ・ブックレヴュ!﹄の書評子レイノルズ・プライスである。
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一126一
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アン捜索騒ぎは、まずメンフィスの名士である父親を巻き込み、ついで許婚者キャロラインをも巻き込んで、しだいに大き
が、リー・アン・ディーハートという若い女が同乗していて、事故直後に姿をくらますことから﹁危機﹂が始まる。リi.
やかな結婚を前に、雪の降る日の午後、オーバートン公園で自動車事故を起こす。事故そのものは大したことはなかった
残の呼称。現在、そこはオーバートン公園の一部になっている。一九三七年、主人公ナットは名門の娘キャロラインとの華
表題作﹁古い森﹂は中年男が青春を回想する一人称小説で、古い森とは、かつてメンフィスの町を覆っていた原始林の名
危機を微細に描き、その結果としてさまざまな考えや価値観の渦巻く社会の縮図を示すことにある。
な家﹂に焦点を当てながら、この作家がフォークナーやオコーナーと異なるのは、メロドラマや極限状況を避けて日常的な
寡作な老作家ピ:タi・テイラia新短編集﹃古い森﹄申が大西洋の両側で静かな衝撃を呼び起こしている。同じ﹁南部的
3
くなる。リー・アンは﹁古い森﹂の魔物にさらわれたのかも知れないという不安は、人々にH森﹂にたいする記憶をよみが
えらせ、”そのことからメンフィスの町が背負っ.ている歴史までもが読者に伝わってくる仕掛けになっている。
テイラーの作家的力量の﹁絶頂﹂.と見られているこの作品を含め“﹃古い森﹄には十四の短編が収められている。
梼 ℃oけo目目昌δ緊﹃註Oミき、題舗︵ωαQ。娼P↓げΦU一亀℃目o°・ω\Ooロ甑①紆罵卸Oo日℃餌昌ざ齢H98︾おQ。α︶
卜跨燃§ミ響目﹀ロαq口゜。計H㊤Q。朝゜
一127一
芸 姦﹁bd8細肉Qミ恥罎り嵩閃①ぴロ︻窪ざ同ΦQ。9
の子のひとりレナ乏知り合い、子供を生ませる。
ヤ娘﹂だが、現実には正反対の女とばかり出会う。、ワルシャワのイディッシュ語作家クラブで、だれとでも寝るファンの女
青年時代のー・B・シンガーは女好きだ。初恋の女は二倍も年上の娼婦ジーナで、愛しかつ悩む。理想は﹁品のいいユダ
しみに黙っていたりできないところが、弟には小さい時からあった。
のー・J・シンガーは答える。あるのは自然だけで、自然は慈悲の情をまったく知らないのだ、と。神のつくった宇宙の苦
べての時代﹂の苦しみについての疑問へと広がる。.なぜ神はそれを許すのだろうか?神なんていないからだ、と十一歳年上
さな男の子﹂と題されたそのセクションでは、﹁馬には魂があるの、ママ?﹂という質問に始まり、﹁すべてのもの、⋮⋮す
ノーベル賞作家1・B・シンガーの回想録﹃愛と流浪﹄は、好奇心旺盛な子供のころのことから始まる。﹁神を求める小
4
一九三五年四月、彼は三カ月の観光ビザを取り、アメリカに住む兄を訪ねてそのまま住みつく。アメリカの市民権を手に
入れるためには未亡人ネーシャと結婚してもいいと思いはじめるが、永住ビザの交渉のためにトロントへ同行するのはべつ
の女ゾシアである。
こうしてここにはアイザック・バシェヴィス・シンガーの女遍歴が語られているが、﹁愛と流浪﹂という表題はその点を
端的に強調しているように思われる。
畳 H°。雷oごd⇔ω冨く冨Qり言σqo畳卜o慧合菩載肉聴翫馬︵ω㎝卜。℃℃°闇O昌p脇HgO♪お゜。㎝︶
一128一
些 目卜鈎ωH≦亀”HOo。9
は二人のならず者に襲われる。派手な立ち回りのすえ、マッドンはならず者を叩きのめすが、こうしたエピソードを通して
作中の最も典型的なエピソードは暴力の場面で、マリラァナ畑で見つけた生首を車に運び込もうとするティム・マッドン
結局、物語を支配しているのは恐怖、、欲望∵罪、’暴力と−い・ったヴ偏ラ諸.一流の固定観念である。
頻繁に脱線し、迂回路へ’まぎれこむ。’
ている。’そのうちに彼の秘密のマリフヴナ畑で女の生首がつぎつぎと発見され6。こうして始まるミステリーは装飾過剰で
主人公ティム・マドンは作家だが、麻薬密売の罪で三年の刑期を終えたばかりで、妻に逃げられ、酒びたりの毎日を送っ
ノーマン・メイラーの新作﹃タフ・ガイは踊らない﹄は一種の殺人ミステリーである。
5
メイラーは主人公の暴力性を正当化する。 マッドンの暴力が異なるものへのづ英雄的抵抗゜になっているからというばかりで
はない。むしろ暴力の発揮に示される生命のエネルギーは賛美されるべきものであり、そのエ、ネルギーを萎えさせるものす
べてに対する抵抗として、・ティムの暴力は正当化されるのである。気軽に読めるミステリーの体裁をとりながら、なかなか
気軽に読めないところがいかにもメイラーの作品と言えるだろう。
管 Zo肖日9ロ]≦巴﹃畳§ミαq︾Oミ笥bQ鳶、鴨b§亀︵卜。卜。O噂喝−図帥巳oヨ=o⊆ωP齢μ90伊目O。。心︶邦訳﹃タフ・ガイは踊らない﹄︵吉田誠
一訳、早川書房、 一九八五︶
* 寒蓬さ、心沁Q註恥罎鴇目﹀℃臣”HOQo㎝゜
一129一
Nく旨きo神肉馬聲鳶建植bδO匂三ざ昌OQo幽゜
﹃卜鈎目OOo8げoさ6Qo軽゜
ーサーからフロイト、オーデンにいたるまであらゆるものからさわりの部分を盗用された盗作被害詩人、神さまの旧友とし
者であり、無比の詩編作者だが、そればかりではない。生意気なユダヤ人の子供としてのダビデ、途方もない好色家、チョ
うことになっている。そこに描かれるダビデはイスラエ’ルの戦う王であり、穴テシバの夫、ソロモンの父、ゴリアテの殺害
表向きは一人称で語られるダビデ王の物語だが、実際は十一世紀フランろのユダヤ人解釈学者ラシの書いた聖書解釈とい
いる﹄を出した。
﹃キャッチ22﹄の作家ジョゼフ・・ヘラーが前作﹃グッド・アズ・ゴールド﹄以来五年ぶりに四作目の長編﹃神様は知って
6
てのダビデなど、これまで知られていないダビデ像が.ここに提供されている。﹁一 一 ゜ ゴ
つまりここには武勇と栄光ばかりでなく、欠点や罪もすべていっしょくたにして自分をさらけ出しているダビデが物語ら
れているわけで、’その結果として、成長と老い、男と女、父と息子、人間と神などをめぐる小説が出来あぶっている。
しかし、なによりもこの作品は喚笑の文学であり、滑稽な着想はとどまるころを知らないつとはいえ、そこに欠点がない
わけではなく、その点についてモデカイ・リッチラーはこう述べているー﹁作者は耳ざわりな同時代的調子をあまりにも
熱心に求めるあまり、時折安っぽい間に合わせの笑いで満足することがある。二日酔いのダビデ王がバテシバにファーネツ
トーーブランカを作ってくれと言ったり、アビシャグにタコスを用意させたりするのがその例だ﹂︵﹃NYTブックレヴュー﹄︶
一一 130 一
とはいえリッチラーは作品の出来ばえに拍手を惜しんでいるわけではない。
管 越↓b口8袖沁恥鼠恥霞℃トユωωo冥o旨げ①5H㊤Q。心。
斎 冒゜。o唱げ=巴冨賢Oo翫さg翁︵ω㎝G。賢㍗囚昌o嘗”齢δb伊HOo。膳︶
審罎ざ幕知偽ミ笥建”嵩﹀冥貫HOo。α゜
﹁どじな男﹂は書簡体の短編。主人公は楽理専攻の老教授で、血縁のものが犯した経済犯罪で身代わりに仕立てられ、カ
るのは、表題作のほか、﹁どんな一日だった?﹂﹁ゼットランド﹂﹁いとこたち﹂.﹁銀の血﹂,の、計五編である。、。 、
ノーベル賞作家ソール、ペローの最新作は短篇集で、、﹃どじな男その他の物語﹄という表題がついている。収録されてい
7
ナダからシカゴへ強制送還されようとしている。手紙のあて先は、主人公の生来の皮肉癖のために、その昔傷ついたことの
ある女性である。﹁小生が本当の偽善家でしたら、どじなことは決してしなかったでありましょう﹂と老教授は書いている。
﹁ど亙な︼日だった?﹂は僧己本位で放縦な思想家の一日の経験を扱う。あれやこれやの出来事のはてに浮かびあがるの
は、思想家として世間の注目を集めながらも、御し難く、しかも精神が衰弱しかかっている主人公の内面である。
晶
﹁ゼットランド﹂の若い主人公は﹃白鯨﹄に感動して妻にこう叫ぶー﹁この詩なくして人生なんてないに等しい。ああ
ロッティ、ぼくは象徴的論理忙飢えていたんだ∵
残りの二編はいずれもユダヤ人の血の絆を主題としているが、ユダヤ人作家としてのベローが示す種族や血のつながりへ
一131一
の異例なやさしさは、短編集全体に貫かれている。精神生活に魅せられた作家ベローが引き受けてきた責任は、アメリカ文
学に魂を回復することだとされるが、そうしたベロー文学の㌔粋﹂がここにあると見るのは、﹃NYTブックレヴュー﹄の
書評子シンシア・オジックである。
・ωp三bd。ぎヨ襲ミ葦ミ韓騎さ。縣腎ミ隔きミ潮キミ9∼ミ・物縣心・§︵卜。。慮p守ぢ窪禽即。ぎ齢一器㎝し。°。幽︶
○富ミ墓♪トひ心冒ロρ巳o 。 蔭 ゜
菅 竃﹃b◎8細肉馬ミ爲3卜δOζ鎚讐おG。幽’
フィリップ・ロスの﹃ザッカーマン・バウンド﹄は一九七九年以来の三部作︵﹃ゴーストライター﹄﹃解放されたザッカi
8
マン﹄﹃解剖学講義﹄︶にエピローグとして短編﹃プラハ・オージー﹄を加えて一本としたものである。
﹃解剖学講義﹄で大学病院に入院したザッカーマンは、二、三年後に元気な姿でプラハに現われる。ナチスに殺されたと
思われるイーディッシュ語作家シノフスキーの未刊行短編集を探すのが目的である。原稿は作家の弟の妻オルガが保管して
いたが、アルコール中毒で、おまけに欲深なオルガをまるめこんで原稿を手放させるには、多少の色仕掛けも必要となる。
シノフスキー作品はフローベールなみの一級品というのがザッカーマンの評価で、どうしても欲しい原稿だった。色仕掛け
には失敗するが、原稿は首尾よく手に入れる。しかし、喜びも束の間で、原稿はチェコスロバキア当局に没収され、ザッカ
ーマンは﹁シオニストの手先﹂としてアメリカへ強制送還というはめになる。
追放に腹を立てたザッカ!マンはチェコの偏執狂的な社会を嘆き、﹁歴史的不遇の苦しみは架空の犠牲者たちのなかにこ
ういう道化じみたかたちの人間的絶望を生んでいる﹂と考える。ザッカーマンのこの言葉はプラハへの決別の辞だが、同時
に作家ロスにとってはザッカーマンへの決別の辞ともなっている。
ハロルド.ブルームは﹃プラハ・オージー﹄を﹁これまでのロスのすべての小説の一種のコーダ︵終局部︶である﹂と評
している︵﹃NYTブックレヴュi﹄﹀。
勺臣冨℃ヵo臣”§簿ミ§額謎bロミ嵩栽︵刈Q。偽℃P閃⇔護讐︾oっ窪きω゜。脚Oマoロき鵠トっb⊃.㎝O層60。α︶
ミ﹃切8詠沁恥ミ恥起”お]≦陣ざHOc。9
0穿ミ貿免♪卜◎OOgoげoが這oQ伊
﹃卜鈎HQoOo8げ①5HO◎09
卜鋳鷺嵩鴨3ω目Oo8げoびHりoo9
寒軽寄、神肉偽ミQさ嘘=﹀嘆詳同りQ。9
一・一一 132 一
0σ・ a
、イーストウィ弘クはロードアイランド州にあるとされる架空の小さな臨で、三人の魔女が暮らしている。中産階級に属す
アップダイ久が新作﹃准L搾トウィッグの魔女たち﹄を発表レた。 ’
る、見かけはごく普通の彼女たちが魔女になったぎっかけは離婚である。離婚にょqて自由になり自分を取り戻した彼女た
ちは、陶器作りやもの書きなどの創作活動を始める一方、性的火遊びに熱中する。そこへ登場するのが、ヴァン・ホーンと
いう名の悪魔である。 ・“ ° .
色黒であまりハンサムでではないが神秘的なこのよそ者は、三人の魔女たちの最良の退屈しのぎになると同時に、、奪い合
いの的となる。これがもとで人が死に、作品は殺人ミステリーの様相を帯び始めるが、この殺人は悪意ある自然が引き起こ
したのであって、魔女たちのだれかかが手を下したわけではない。結局、ヴァン・ホーンは新参の若い魔女と結婚し、三人
の魔女たちもそれぞれ再婚して、現代版﹃オズの魔法使い﹄の話は終る。
アップダイクは作中で女を男の添えものにしているという批判がある。この作品は、学生時代からの魔女への関心のほか
に、そうした批判に応える意図もあるとされる。女は脅威と魔力と神秘にみちていると小学生のころから感じつづけてきた
この作家が、拡大するフェミニズムを遠景にして、本気で女を魔女と見た作品というのがもっぱらの評判である。
ミ﹃切8神沁偽鼠馬竃”Hω ︼ ≦ 餌 ざ H り Q 。 昏 ゜
幹 冒ゲ昌¢R涛o“目富ヨ嵜詳偽亀.肉霜論遷帖寒︵ωOごp≧h同巴﹀決8罫胡目9り㎝弘o°。艀︶
O曾ミ慧3Q。Oω①℃8日 げ 9 ℃ H o 。 o 。 心 ゜
一133一
0σ・b
アップダイクが一九八四年にアメリカで書かれた短編を集め、﹁序文﹂をつけて一冊にまとめた。﹃アメリカ短編傑作選﹄
がそれである。
アップダイクは﹁序文﹂で短編形式の衰退に触れ﹁短編小説の応分の原稿を払う雑誌は一ダースにも満たない﹂と述べ、
このうち芸術的実験を許容している雑誌は四誌にすぎないと指摘している。彼はまた作品二十編を選ぶに際し基準にしたと
いう、彼独自の短編小説論を披露している﹁最初の二、三行を読んだだけではっとして夢中にさせるような作品であるとと
もに、中ほどでは人間の営みについての知識を広げ、深め、鋭くしてくれ、さらに結末にいたって十分にまとまったメッセ
ージがここにあるという感銘を与えてくれるようなものが好ましい﹂というのがその要点である。
選ばれた作家のなかにはシンシア・オジック、J・C・オーツ、ライト・モリスなども入っているが、大半は無名の作家
であり、アップダイクが持,ち前の発掘精神を発揮して、確かに彼自身の目で選んだことを示している。それだけに﹁傑作
選﹂といってもアップダイクの好みが直接反映された選集となっていて、たとえば作品の半数以上が死を主題にしていると
いった偏りが見られる。
オジックの﹁ローザ﹂は第二次大戦中のナチスによる大虐殺から生き残ったものの目で死を描き、モリスの﹁もうひとつ
の国瞥見﹂はあの世から見たこの世の野蛮さと不思議ざをユγモラスに描くといった具合である。
これは単なる﹁傑作﹂の寄せ集めではなく、アップダイクどいう作家の仕事の一部と見なすべき短編集だと見られてい
る。
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一134 一
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一九六〇年代中葉のアメリカで熱狂的に崇拝された作家トマス・ピンチョンの初期短編集﹃覚えの悪い生徒﹄が出た。
収録された五編のうち四編までがコーネル大学在学中に書かれたもので、処女長編﹃V﹄の成立事情をうかがわせる興味
深い作品というばかりでなく、それぞれが独立した作品としての価値を失っていない。
﹁小雨﹂という短編は、大学出の若者が徴兵され、軍隊生活の活気のない日常をひたすら眠りこけることでやり過ごして
いるうちに、洪永が起こって否応なく死というものに触れる話である。このほか、幻想的作品としての﹁低地﹂や、自殺願
望と人生の混乱を対比させた﹁エントロピー﹂、﹃V﹄第三章の下書きにあたる﹁ばらの下で﹂、人生に目ざめる少年たちを
扱った﹁秘密の統一﹂が収められている。
冒頭の二十.へージは作家自身による﹁まえがき﹂で、これは今ごろになって初期短編集を出す弁明である。作品の欠点に
厳しいピンチョンの自嘲がここにこめられていることはもちろんだが、彼の真意はどうやら過ぎ去った青春の確認にあるら
しく、﹁若者たちの一番の魅力は変幻自在なところだ。’完成した性格のスチール写真でなく、映画そのもの、流動する魂だ﹂
と述べて、﹁まえがき﹂を結んでいる。
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一135 一
10
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﹃金曜日の本﹄はジョン・バース最初のエッセイ集である。
バースは週に四日だけフィクションを書き、五日目の金曜日は気分転換にノンフィクショrンの文章を書くという生活を二
十五年も続けてきた。その成果として集められた四十九編のエッセイ、講義や講演の原稿などがこの本の内容である。主題
は広範囲にわたり、たとえば﹁ほかのやりかたでのほかの物語でなく、ぼくのやりかたでぼくが語る物語をなぜぼくが書く
かについてのいくつかの理由﹂という長ったらしいタイトルの自伝的エッセイから、名高い﹃枯渇の文学﹄を補完するかっ
こうで書かれた﹁補充の文学﹂といを題のポストモダニズム論もある上いった具合である。’
この本で注目されるのはボスぷモダニズムにたいする著者の態度変更だろう。自らポストモダニズムの旗手でありなが
ら、一九六七年のエッセイでは﹁死んだはずの小説﹂の蘇生にと=かく絶望的だったのとはうって変わって、 一九八〇年の
﹁補充の文学﹂では、カルヴマーノ、ガルシヴ“マル汐スら才能豊かなポストモダニストの興隆に接したせいか、楽観的な
態度があらわになり、﹁理想のポストモダニス牛作家﹂の倒来を夢想し丁いる。﹁二十世紀のモダニストという両親や十九世
紀の祖父母を単に拒絶するのでもなければ、単に模倣すゐのでもない﹂ーつまり過法と現在のジンテーゼを提出できる作
家のことである。これは月曜から木曜までのバースが目ざす最終ゴールにほかならないだろう。
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一136一
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﹂・、C・オ!ツの新作﹃冬至﹄は女同士のすさまじ.い関係を容赦なく描ざ出しでいる。
暗い記憶だけを残しで八年間分結婚生活幡終止符を打ったモニカは、人生のやり直しを図惹ため寄宿学校に赴任する。と
ころがパーティで女流画家シfイラと出会うと、マゾヒスとのようにその言いなりの生活を始め、勧められるままにトラッ
ク運転手や自動車整備工と寝たりする。鷺潔そのもの・のように見えたモニ九を堕落の道へ引き込むシェイテは、彫刻家の夫
と死別したばかりだが、過去も世間の噂も気にしない。.そこがモニカには頼もしく見えたのだが、やがてシェイラの鼻もち
ならない本性が明らかになる。冬至が近づくと、,差レ迫った個展に出す作品がどへしても描けないシェイラは砥どくふさぎ
込み、八つ当たりしてモニカの盲目的儲頼を先引の℃み翫。狐気に陥った泌エ,承ラばモロッコへ旅立ち、一方のモニ、カは故
郷の両親を訪ねたりしながら精神のバランスを回復い、、過去を正視すると同時に学校社会や教え子たちになじんで行く。冬
至を境にして二人の女の立場は逆転したのである。
﹁﹃冬至﹄は女の本性についての数多い甘い考えを蹴散らすであろう﹂、と評ホ翫﹃NrTブックレヴュい﹄の書評子は、メ
アリー、マッカーシーの﹃グループ﹄そのほかの﹁女同士の闘係の文学﹂の唱冊にこの作品を加えている。
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一 137 一
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13
この四、五年、作家としての衰えが目立っていたカート・ヴォネガットが一九六〇年代から七〇年代にかけての活力を蘇
えらせた新作﹃ガラパゴス﹄を発表した。
一九一七年生まれのヴォネガットは戦前コーネル大学で生化学を勉強し、﹃屠畜場5﹄の素材となった戦争体験の後、シ
カゴ大学で人類学の修士号を取得するという学者であって、当然ダーウィンの業績についても詳しいのだが、そればかりで
なく、今回の作品のために四年前にガラパゴス諸島へ出かげ、そこでダーウィンと阿じく二週間を過ごしたのだった。、
例によってこの作品も、百万年後の時点から一九八六年の出来事を語るという、SF仕立てである。作家の分身としての
語り手レオン・トラウトは初期の作品に登場するキルゴア・ドラウトの息子。すでに死後の世界にあるという設定で、進化
と適者生存の結果、人類は二十世紀の現在に比べではるかに小さな脳と、ひれのような手、それに口ばしをもった奇妙な生
きものに変わっている。彼らはもはや﹁昔﹂のように手榴弾や機闘銃やナイフを操ることはできず、他人を拷問にかけたり
もできない。このような百万年後⑳人類の﹁租﹂になったのは、飢謹や経済危機、第三次世界大戦と人間の卵巣に侵入して
卵子を食い殺すビールスの蔓延などによる地疎0破澱貯際し、自然探訪航海に出かけていて生き残り、一九八六年にガラパ
ゴスへ漂着する有名無名の人々である。
垢抜けて現代的な文体ばかりでなく、文明批評的洞察によ.ってプロLティガン、ピンチョン、バーセルミーなどに影響を
与えてきたアメリカ現代文学のチャンピオンが引退寸前に強烈なパンチを炸裂させたような作品というのが大方の見方であ
る。
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一138一
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自由奔放な女イサドラ・ウィングを主人公とするエリカ・ジョングの連作小説第三作﹃パラシュートとキス﹄が出た。
第一作﹃飛ぶのが怖い﹄︵一九七三年粘での不サドラはすでに二十九歳で、二度目の夫にも飽き、薪しい恋人と駆け落ち
する。第二作.﹃思いきり生きたい﹄︵一九七七年︶でのイナドラは三十二歳。﹃カンディーダの告白﹄というベストセラーを
ものし、自分は結婚に付随する中産階級的美徳と自由への腰望に引き裂かれた女たちの典型だ、と二=印い切る。
そのイサドラも今度の新作では阻十歳に近く、三度目の結婚にも破れ、愛など煕どうでもいい﹁悪魔的な性欲﹂にとりつ
かれて、ディスクジョッキー、銀行家、作家、,不動産屋、.デビ、医学生など、手当だりしだいに男をあさる。四十女の孤独
をまぎらすセックスと、その合間の省察からこの小説はできているわけである。たとえばイサドラは三度失敗した結婚につ
いてこう考えるー﹁儀式としきたりが消えうせ、﹃わたしは欲しい。どうしても欲しい﹄というだけの強烈な欲求だけが
残っている世界では、おそらく結婚は不可能な0だ﹂ . 、
この第三作は必ずしも評判がいいわけではない。婦人雑誌の告白記事を読むようなものだという厳しい批判も出ている。
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一139 一
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ジョン・アーヴィングの新作﹃サイダーハウスのきまり﹄の主題は堕胎である。時代背景は米国で堕胎が合法化される一
九七三年直前までの約六十年間。主人公は二人いて、作品の前半を支配するのは独身男のドクター.ラーチ。二の医者は
﹁求められ、安全な場合には﹂堕胎にも手を貸す岱後半の主役は孤児ホーマー・ウェルズ。ラーチはこの若者を愛し、産婦
人外科の手ほどきをす6。
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物語の核となるのは、非合法な妊娠中絶をめぐって二人の主人公の間で深まって行く葛藤である。ラーチがウェル.ズ青年
を医者に仕立てようとした目的は、不本意にも妊娠した哀れな女たちを救ってやれる体制を自分の死後も確実に残したいた
めだった。しかし若いウェルズは堕胎手術にいやけがさし、ラーチの考えにも疑問を抱くと、精神的父親とも言うべきラー
チから離反し、二十代と三十代を海辺の農場で過ごす。
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﹁、 、窺㌦ ’コ ’ ・ 、、 ・ご . ・
ラーチが堕胎を是認する⑳は﹁胎児は生翫れた子ほどみじめでもないし、.わ紅われの助けを必要としてもいない﹂という
考えからだが、﹁胎児にも魂がある﹂とするウェルズを説得できない。
しかしながら、ウェルズはのちにサイダー工場の貧しい労働者たちを身近に観察して考えを変え、結局ドクター・ラーチ
の後継者となる。
﹃NYTブックレヴュー﹄の書評子はこの作品を﹃ガープの世界﹄などの旧作より高く買い、﹁ジョン・アーヴイングの
菅 冒ゲ”岸註話”↓註Oミミ寒婁恥勾ミ象︵α8唱罰≦一厳oヨ]≦o旨oき齢Ho。.㊤ρHOQ。㎝︶
初めてのほんとうに価値ある作品﹂と呼んでいる。
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一 140 一
15
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ボルチ刑アを舞台として幸福な家族や不幸な家族をこの二十年来描きつづけているアン・タイラーの八作目の小説が出
た。﹃偶然の旅行者﹄がそれである。
四十代初めのメイコン・リアリーは旅行嫌いのビジネスマンのための旅行案内書を書くのが仕事である。彼自身、知らな
いところへ行くのは嫌いで、よくなじんだ場所でのきまりきった生活を好んでいる。このような男が息子の死をきっかけに
妻にまで出て行かれ、ひとりっきりになるとどうなるか−ー作者がここで描こうとしているのはそのことである。
メイコンは几帳面な生活を懸命に維持しょうとするものの犬や猫までが新しい生活になじめず、彼もついに音をあげて祖
父母の家へ転がり込む。そこにはすでに離婚した二人の兄が転がり込んでいて、妹の世話を受けている。メイコン・リアリ
ーの兄弟姉妹はこうしてなにがしかの人生を経験したあとで肩を寄せ合うようにある種の巣へと帰って来る。この種の帰巣
本能はタイラーが一九六五年の処女作以来しばしば取り上げている主題である。
やがてメイコンはペットがとりもつ縁で犬の訓練士ミュリエルと知り合い、新しい家庭生活を営みはじめる。そこで彼が
気づくのは、最初の妻セアラとミュリエルの月とスッポンのような違いである。ミュリエルは活発で行動的な反面、真紅の
マニキュアを塗った手にピンクのゴム手袋をはめて皿を洗い、椅子の桟に足首をひっかけながらキッチンで雑誌のクイズを
一141一
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解いたりする。
こうして新しい生活が始まったところへ、まだ完全に離婚したわけではないセアラが舞い戻り、ミュリエルを相手にメイ
ロンの奪い合いを演じる。メイコンはうんざりし、日常的な生活での充足と不満は紙一重の差にすぎないと痛感しながら腹
を決めるのだが、﹁偶然の旅行者﹂というのはメイコン・リアリーの人生観の暗喩となるのである。
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17
ドン・デリロの八番目の小説﹃白いざわめき﹄は、中西部の小さな町で有毒ガス漏れ事故が発生し、そのために避難させ
られる一家の物語だが、出版当時の一九八四年十二年二日にたまたまインド・ボパールのユニオン・カーバイド社殺虫剤工
場で毒ガス事故があり、小説のタイムリーな内容が話題になった。しかし、﹃NYTブックレヴュi﹄での作家自身の弁明
によればh黙示録的渉説﹂を書くのが目的ではなく、﹁個人レベルでの死﹂について書きたかったのだという。
作品の語り手にして主人公のジャック・グラッドニーはヒトラー研究で知られる大学教授。妻のバベットとは再婚で、お
一142 一
詩がいの連れ子が四人いる。この家族を巻きこむ有毒がス流出事故は雪の日に近くの鉄道操車場で発生する。中西部の小さ
な町は大騒ぎになり、グラッドニー家のものたちを含む住民全員が町から逃げ出すが、避難の途中、ジャックは誤ってガス
を吸い込み、騒ぎが一段落したあとも死の恐怖におののく。そういう心境のジャックの目に映る家族関係や世界が作品の実
質を成すのである。
やがて妻バベットについての衝撃的な事実が発覚する。かねてから病的に死を恐れていたバベットは新聞広告に釣られ
て、死の恐怖を研究する小さな製薬会社の秘密調査に協力したことがあり、それがきっかけで製薬会社研究主任とモーテル
で定期的に会い、肉体と引き換えにある種の薬物を受け取るようになっていたのだった。これを知ったジャックは研究主任
を暗殺して問題の薬物を自らの手に入れようと計画し、事実、実行に移す。こうして物語の最後はドタバタ喜劇ふうな殺人
劇となる。 、
作家自身は﹃NYTブックレヴュー﹄のノツ汐ヴューでさらにこう弁明している ﹁ジャック・グラッドニーの強迫観
念的な死の恐怖−ごくありふれたものであ汐ながらめったに語られることのない恐怖−を吸収し中和できるだけの大きさ
と恐ろtさをもった存在はヒットラーしかい’ない﹂・
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一143一
ニューヨ:クのフラッシング・メドウで一九三九年に開かれた万国博覧会に胸を躍らせた少年の物語がユダヤ人作家E・
L・ドクトロウによって書かれた。その名も﹃万国博覧会﹄である。
自伝的色彩の濃いこの作品は主人公の少年エドガi・オールトシューラーの視点から語られる。少年の視点で一貫してい
るため、主人公を取り巻く重大な状況は、第二次世界大戦も父親の破産も両親のぎくしゃくした関係も、すべて背景へ押し
やられ、少年の生活の中心になっている学校の庭や公園、あるいは家の居間に物語の焦点が合わされている。
エドガーは頭がよく、冒険好きで、少しは見栄っぱりなところがあるが、世の中を観察することにかけてはだれよりも情
熱的である。そのような彼の目を通して、大不況から戦争にかけての時代のブロンクス界隈の生活の情景が生き生きと立ち
現われる。街頭で手押車の行商から焼きいもを買う無上の喜び、コウシャ・ブッチャi︵ユダヤ教の掟に適法な肉屋︶のよ
うす、イ4ディッシ訊語を話す祖母の老衰した姿など﹁はその﹂例である。
後半三分の一憶ニューヨーク万博を二度訪れるエドガ旨の観察記録だが、好奇心旺盛な少年の目には万博の高尚なユ﹂ト
ビ.ア的側面も俗悪なシヨ弓的側面あ等し︽すばらしいものとして映る。悦惚となつた少年に乏って博覧会は世界そのものと
なるのである。もともと世界の暗い状況から目をそむけさせることが万博の狙いだったが、少年はそれが幻想だとも知らず
に未来のユートピアを信じたのである。最後の場面でエドガーは万博をまねて自分自身のタイムカプセルをクレアモント公
園に埋める。どこかサリンジャーの﹃ライ麦畑で捕まえて﹄を思わせる作品である。
甚 国゜い﹁OogoHo≦二さ託叙、賜寄帖、︵卜⊃Q。o。唱P菊⇔昌山oヨ国o爵゜。ρ齢ミ゜OρHOo。0︶
芸 竃﹃bロoo神肉軸ミ馬軽ΨHO20<oヨσoびHOooα゜
一144一
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一九八四年の全米書評家サークル賞を受賞したルイーズ・アードリッチの処女作﹃愛の薬﹄は、ノースダコタ州西部のチ
ップワ族居留地で暮らすインディアンたちの物語である。著者自身がチップワ族の末爾である。
話は一九八一年のことから始まり、一九三四年にさかのぼって、そこからまた徐々に現代へ戻ってくる。多彩な登場人物
の織りなす数々の破滅的なエピソレドが、主として射的狭白の形式を借り、感覚的な文体で語射れる。
種族の特徴が鮮明に浮かび上がる。男たちは暇を見つけしだい飲んだくれ、乱暴になり、破滅的行為が自殺へつながった
りする。女たちは行きずまりのどんな男とでも親しくなり、時には悲劇を生む。
・唯二の例外はカシュポー家で、しっかり者の﹁グランマi﹂マリーのおかげで夫の﹁グランパー﹂ネクターはチップワ社
会の指導者的存在になる。
﹃愛の薬﹄はアル中と乱脈な性的関係で腐食した貧しく無気力な生活をリアルに描くことににって、もともと狩猟漁労民
であったチップワ族をノースダコタの平原に追いやって定着農民にしようとしたア凶リカ政府の政策にたいする論駁の余地
のない告発になっているが、しかし恨みの書といヶわけではない。インディアンが置かれている状況の悲惨さを相殺する、
﹁喜び、知恵、寛容な心﹂を叙情的文体で描いていて、﹃ニューヨーク・レヴュ⋮﹄の書評子ロバート・タワーズの評語を
ホ冨弓¢oド刃ぎo訂昌9。昌餌≦ぎ゜・8P苗Hω゜8”HOQ。ら︶
借りれば﹁構造上の問題と文体面の過剰にもかかわらず、評判どおり、確かに優れた作品﹂なのである。
差 い〇三こ。①国H畠ユoゲ”卜o超馬§匙時艦逼恥
斎 ↓卜鈎卜o卜⊃男oげロ話蔓”Hり◎。㎝゜
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冬さ楓o、沖肉馬ミミ3嵩﹀勺二一゜
アメリカ中西部の小さな町を描いた小説が一九八五年九月発売以来しばらくベストセラーのトップを走りつづけた。ガリ
ソン・キーラーの﹃レイク・ウオビゴンの日々﹄である。ラジオのパーソナリティレとして、また﹃ニューヨ;カー﹄の常
連エッセイセトとして人気のあるキーラーが書いた処女長編小説である。
ミネソタ州の架空の町レイク・ウォビゴンの歴史を辿るこの作品にはどこか滑稽な人物たちが次々と登場する。どの登場
人物にも共通しているのは、たまたま中西部へ流れて来てしま慨たが、いずれはなんとか東部へ帰りたいどいう欲求であ
る。
一八三〇年代にこの町の礎石を築いた人物たちのひとりに、ユニテリアン派の宣教師がいる。彼はボストンからここへ来
て、森と川しかないのを知り、すぐに引返そうとする。、しかしすでに日が暮れかかっていた上に、妻が足を傷めてしまった
ため、帰るに帰れないままずるずると居.すわることになる。このように、.だれもが好んでこの町に住みついたわけではな
い。
代々つづくこの抑圧された心理の影響は生活のすみずみ.に及び、たとえばモ、ーテルを経営するアトトという人物のよう
な、気が向かないと宿泊客にショットガンを突きつけて追い払ったりする変わり者を生み、あるいは極端な禁欲主義の風潮
を助長したりする。この町では眼鏡を買うにもなにかと気を遣わなければならず、ましてやエアコンなどを買おうものなら
一146一
20
大変なことになる。浪費は疑惑の種となるからで、ゴルフ場の経営などもここでは成功しない。
﹂共同体の核となる考えや経験が希釈されて、滑稽に映る動機となって行くありさまは、ウォビゴンの人々だけに限られ
た過程ではない。その点を鋭く見抜いているキーラー氏の仕事は一地域の歴史にとどまらず、アメリカの喜劇の系譜にもつ
ながっている﹂という﹃NYTブックレヴュi﹄書評子の評語はこの本の人気の秘密を語っているようである。
菅 竃﹃窪o趣肉偽ミ、馬霞鳩呂﹀目αq己ω﹂ドOo。㎝゜
一一 @147 一一
菅聖O舞ユ。。o昌図o崔9”卜騒神偽き簿鴫§bδ誌︵。。ω刈署“≦置ロ゜q”響﹃b㎝弘り゜。α︶
が並べられる。竜安寺では﹁ここは冥想のための神聖な庭園です﹂と拡声器でがなり立て、そのくせ﹁商業主義は皮相なも
はなにをしても冒濱にならないとか、借りもののアメリカニズムに赤面するものはだれもいないといった、もっともな観察
作品はこの三人の行動を追いながら随所に辛辣な観察をちりばめるのである。寺院はスーパーマーケット化して、日本で
来てもなんの感動も覚えず、精神的に疲れ切っている。
はどこでも同じという幻滅論者だ。もうひとりの若いアメリカ女キヤリーにとって旅は日常性から逃れる好機だが、日本へ
る。旅に出たアメリカ人の典型として彼はなにごとにも無邪気に驚くのだが、京都で出会う二十八歳の詩人グレイは、世界
作品の主人公は二十二歳のダニー・オット。ハーバード卒業前に世の中を知ろうと、一年間京都に滞在することに決め
数年の滞日経験がある詩人ブラッド・ライトハウザーの処女小説﹃等距離﹄は鋭い日本観察に満ちている。
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ので、われわれほど自然と美を愛する国民はいない﹂と誇らしげに言う。
主人公のダニーにとってこういう日本人はうそつきで不誠実だと映る。そびえ立つボウリングピンなど奇態なものが目に
つく日本は西洋から最悪のものを吸収した、というのがダニーの結論である。﹃NYTブックレヴュー﹄書評子に言わせれ
ば、この作品は﹁作者自身が日本についての態度を決めようとした試み﹂ということになる。
曇 切冨匹r9浮p臣①竺期ゆま額執b跨晋謡題︵撃ド℃劉︾匡H①傷﹀.〆昌o℃捨齢嵩﹁ゆ9δo。㎝︶
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菅 越﹃しds沖肉馬爵恥起︾①智ロ舞﹁ざ目OQ。9
もうひとりの中心人物ローラ・ポストは二十一歳の若さながらきわめて信心深い。自分は神の選良だと考え、神のメッセ
り、時間捻出の必要上から住み込みのベビー・シッターを雇う。 ‘ 隅
教えるために一年間留守になると、精神の空白を満たすために、:キャ﹂タライン%ワトソンという女流画家の研究に取りかか
大学教授の妻アン・フォスタ可は夫と子供たちを愛しながらマサチューセッツ州セルビーに住んでいる。夫がフランスで
本書の主題である。
がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鏡鉢と同じである﹂︵十三章一節︶という一節に見られる﹁愛﹂の観念が
臨
は﹃コリント人への第一の手紙﹄から取られている。﹁たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛
人間の内面、とりわけ倫理的問題を追求するカトリック作家メアリi・ゴードンの第二作﹃人々と御使たち﹄という表題
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iジに忠実に従おうとする。この危険なほどの独善性は不幸な生い立ちの所産で、 ローラには母親から愛された記憶がな
い。そういうローラをベビーシッターにするアンは最初からある種の危険を予感するが、好感をもてない柑手であっても愛
せなければ、ほんとうの﹁愛﹂ではないと考え、愛する子供たちの世話をローラに任せる。
入念に仕組まれたプロットのなかでアンとローラの緊張関係は深まって行き、セルビーの静かな家を血で洗う劇的なクラ
イマックスを迎える。
この種の家庭内悲劇を通して真の愛とはなにかという倫理的問題を追求する先輩格の女流にアリソン・リュアリーがいる
が、彼女らはアメリカ現代文学に一流派を形成しつつあると見るのは﹃オブザーヴァi﹄の書評子ジョナサン・キーツであ
る。
芸 竃Q曼Oo巳o﹃さ謡︾謡匙︾嵩晦鳥謙︵卜。ωり署゜や窓巳oヨ=o島ρ賃①゜㊤伊Hり。。㎝︶
畳 竃↓窪o神肉恥鼠馬遷博ω同ζ費o﹃曽ちQ。9
↓卜鈎卜Q釦Oo8げo♪らQ。9
卜跨措ミ♪刈Zoく①ヨげ o さ H ㊤ Q 。 ㎝ ゜
0富ミ隠きト⊃刈Oo8げ⑦びお◎。9
一149一
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