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学習メモ
生への思索 経験の教えについて (全二回) 学習のポイント ① 頭括式の文章構造 ② イソップ物語の普遍性 ③ 「獅子の分け前」をどう読むか 森本哲郎 ① 設疑法 ② 自分を正しく認識すること、 「汝自身を知れ」 ③ 堂々巡りの中で生きる 理解を深めるために 高校講座「現代文」の時間では、これまでも評論の教材を取り上げてきました。 評論を読むには、文章の論理展開を捉えることが大切です。とはいっても、「論 理展開」とはどういうことでしょうか。この点をしっかりと意識しながら、『経 験の教えについて』を読んでみてください。 この文章の前半は、 経験の教えに学ぶことの重要さを述べ、 イソップ物語から「獅 子の分け前」を紹介して、他人の失敗に学ぶということを説明しています。そして、 文章の後半は、問いかけの形で展開します。経験に学ぶことが生きるうえで重要 であるにもかかわらず、なぜ私たちは経験に学ぶことができないか、経験に学ぶ ためには自分自身を正しく認識する必要があるにもかかわらず、なぜ私たちは自 分自身を正しく認識できないのか。そして最後に、経験から学ぶことと自己認識 の更新との不即不離の関係を浮き上がらせたうえで、経験と認識とが表裏一体と なって、自分の成長が可能になる、ということを述べる展開となっています。 このように論理を展開させていくうえで、筆者は、冒頭に結論を述べることで 読み手の関心をつかむ「頭括式」の書き方や、問いかけの形の文で読み手に考え させる「設疑法」など、さまざまな工夫をしています。つまり、受け手を意識し た書き方をしています。説得力のある文章を書くにはどうしたらいいかを、みな さんもこの機会に考えてみてください。 まず、 「頭括式」 「尾括式」 「設疑法」といった用語を、この文章を実例として しっかりと理解し、覚えておきましょう。ただし、用語を覚えることそのものが 重要なのではありません。みなさんが、ほかの文章を読むとき、あるいは、自分 で作文をするとき、発表をするときに、自分自身の能力として、これらを応用で きるようになるということ、それが大切です。 ひとつの教材から、多くのことを学んでほしいと思います。筆者は、他人の経 験、失敗の経験からさえも豊かに学ぶことができると述べています。同じように、 評論や小説など、文字で書かれた文章からも、私たちは多くを学ぶことができま すし、それを通して自分自身を向上させることができると思います。 (学習メモ執筆・佐藤 泉) − 129 − 佐藤 泉 第 57・58 回 第2回 講師 現代文 第1回 ▼ ラジオ学習メモ 経験の教えについて もりもとてつろう 森本哲郎 人は何より、経験に学ぶ。しかし、経験をどのように生かすか、その学び方次 0 0 0 0 0 0 0 第で、それぞれの人生は大きく変わる。だから、経験そのものが貴重なのではな く、そこから何を、どのように学ぶか、が肝要なのだ。 経験とは、何も自分の経験だけに限らない。「前車の覆るは後車の戒め」と中 国の故言にあり、 「 人 の ふ り 見 て 我 が ふ り 直 せ 」 と 日 本 の こ と わ ざ に も あ る。 そ ぐう わ れを動物の姿に託して、子供にもわかるように説いた「哲人」こそ、古代ギリシ アの寓話作家アイソポス、すなわち、イソップの名で知られる不思議な人物であ った。 不思議な人物と言ったが、それは、これほど有名な存在にかかわらず、彼の正 体が一向に定かでないからである。本当にいたのかどうかさえ、はっきりしてい ない。しかし、いずれにしても、イソップほど世界の人々に、生き方の知恵を授 けてくれた人物はいない。その何よりの証拠は、『イソップ物語』を持たない国 はないほど、彼の寓話が現代に至るまで愛読され続けてきたという事実である。 二千数百年も前の古代ギリシアに生きた人間の残した「教訓」が、洋の東西を問 わず、古今を通じて、少しも人気を失っていないという事実は、彼の「知恵」が、 いかに普遍性を持っているかを証して余りある。 0 0 0 0 0 0 0 0 イソップの残した数多くの寓話から、人はそれぞれに教訓を読み取ることがで たん きるが、物語全体を通して彼が説いたのは、経験を生かす知恵と言っていい。こ 0 0 0 0 こに語られているのは、ほとんどが、みじめで、愚かな失敗譚である。イソップ は、さまざまなしくじりを動物に託して列挙し、こうした経験に学べ、と教えて いるのだ。この意味で、私は『イソップ物語』を代表するのは、 「獅子の分け前」 として知られている有名な話だと思う。 改めて紹介するまでもないが、こんな寓話である。 ──ライオンとロバが狩りに出かけました。獲物が手に入ると、ライオンは それを三つに分けて、こう言いました。「まず、この一つはわしがもらう。 わしは百獣の王だからな。もう一つも、わしがおまえと協力して働いたのだ から、わしが取る。さて、残りの一つだが、もし、おまえが逃げないという なら、こいつはおまえに不幸をもたらすことになるだろう。」 この話は、とイソップは、こう「教訓」を垂れる。 「何事につけても、自分の力量を十分に自覚して、自分より強い者とつき − 130 − 合ったり、 協力したりしないほうがいいということを明らかにしています。」 と。 同工の寓話だが、 もう一つ、 彼はもっとはっきり、 生き方の知恵を教示している。 ──ある日、ライオンがロバとキツネを誘って猟に出かけました。たくさん 第 57・58 回 佐藤 泉 の獲物があったので、ライオンはロバに、それを分けるように命じました。 現代文 講師 ▼ ラジオ学習メモ ロバは苦心して三等分し、どうぞ、おあがりください、と言いました。する と、ライオンは怒ってロバに襲いかかり、食い殺してしまいました。それか らキツネに向かって、今度はおまえが分けてみろ、と命じました。そこでキ ツネは大半をライオンの分として差し出し、残りのわずかを取ったので、ラ イオンが、「ほう、誰がおまえにこんな分け方を教えたのかね。」とききま すと、キツネはこう答えました。 「ロバの災難です。 」 そして、 イソップは、 これには次のような「教訓」をつけ加えているのである。 「この話は、人間は他人の不幸を見て賢くなる、ということを明らかにし ています。 」 以上、二つの寓話は、 「獅子の分け前」という言葉が示しているように、日本 ふう い では、強者が弱者を働かせて、その成果を独り占めしてしまうたとえとして解さ れているようである。たしかに、そうした諷意がここにこめられている。すなわ ち、強者は力にものを言わせて、どんな横暴、勝手な振る舞いもできるのだ、と いう非道をなじったもの、というわけである。 しかし、イソップが、こうした話を語りながら、いつも頭に置いていたのは、 ことに後者の「教訓」にあるように、 経験に学べ、ということのように思われる。 むろん、この場合の「経験」とは、自分自身のそれではなく、他人の、つまり、 ロバの気の毒な身の破滅であるが、経験を生かす、とは、何も自分の経験だけに 限らない、他人の経験からも十分に学ぶことができる、とイソップは教えている のである。 ぎょく 古代の中国人は、それを「他山の石」と言った。『詩経』に収められているこ ささい の言葉の意味は、よその山の粗悪な石でも、自分の持っている玉を磨くのに役に 立つ、ということであり、どんな些細な出来事、自分には全く関係ないと思われ るような他人の経験からも、処世に役立ち、生き方の参考になるヒントは、いく らでも取り出すことができる、という教えである。 いや、生きる知恵とは、それ以外にないのだ。 ふち − 131 − だが、人間は他人の経験どころか、自分の苦い体験でさえ、なかなか生かすこ 第 57・58 回 とができない。よほど痛い目にあわない限り、経験のほとんどを忘却の淵へ投げ 込んでしまうのである。そこでイソップは、次から次へと、手ひどい目にあった 現代文 ▼ ラジオ学習メモ 動物たちの姿を語って聞かせる。成功したケースよりも、失敗し、みじめな結果 に終わる事例をつきつけるほうが、経験を生かすうえで、はるかに効果的だから である。 『イソップ物語』は、動物たちが失敗によって、こうならないように、 と身をもって戒める、生き方のカタログと言ってもいいだろう。 では、なぜ、人間は容易に経験に学ぶことができないのであろうか。 イソップはその秘密も、寓話によって、巧みに描き出している。身のほどを知 なんじ らぬ動物たちのさまざまな末路だ。古代ギリシアにおいて、神託の聖地とされて いたデルポイの神殿には「汝自身を知れ!」という言葉が掲げられていた。この 言葉こそ、ギリシア人のこの上ない英知と言っていいだろう。自分を正しく認識 すること、古代ギリシア人は、それを何より、生き方の根底に据えたのである。 ソクラテスが、この命題を彼の哲学の原点としたことは、よく知られている。 「寓話のソクラテス」と言われるイソップも、この言葉を生き方の指針とした。 だからこそ、 あの『イソップ物語』が生まれたのである。「イソップ寓話集」とは、 自分を知らざる者の悲喜劇、と言ってもよい。己を知らなければ、どうして経験 てん まつ を生かすことができようか。経験という学校で学ぶ者は、ほかならぬ自分自身な のであるから。 実際、 『イソップ物語』は、己を知らざる者の顚末集である。自分の「分」を 心得ぬ者の破滅集である。どのページを開いても、その悲喜劇が語られている。 たとえば、百獣の王ライオンの鼻を刺し、さんざん苦しめて降参させて得意にな った蚊が、クモの巣にひっかかって、初めて自分の本当の姿を思い知る話。 キリギリスのようにきれいな声で歌いたいと思ったロバが──ロバの鳴き声は 聞くに堪えないのである──キリギリスと同じ食物をとれば、いい声になると思 い、露ばかりすすったあげく、餓死してしまったという話。 自分の力を過信していたオリーブの木が、嵐に立ち向かって折れてしまい、風 になびいていたアシは生き残ったという話。 ワシのまねをして羊に襲いかかったカラスが、逆に羊の巻き毛に爪をとられて もがいているうち、羊番の子供につかまってしまう話……。 イソップが笑うのは、自分を正しく認識できない者、己について錯覚しか持ち ホモ・サピエンス 得ぬ者の愚かな行為なのである。 では、理性的動物と言われる人間が、どうして自分についての正しい認識を持 てないのか。 実は、経験に十分に学ばないためなのだ。そもそも、自分を知る、ということ は、経験を通じて知る以外に知りようがない。人生とは無数の経験の集積と言っ てよいが、そうした日々の経験、そして他人の経験を見聞することから、人間は それぞれに、自分についての意識を形成していくのである。だとすれば、その経 験を、どのように「自分」の中に取り入れるか、によって、当然自己認識は変わ 第 57・58 回 ってこよう。つまり、経験を十分に生かすことのできない人間は、決して正確な − 132 − 自分の姿をつかめないことになる。 と言えば、これは明らかに循環論証ではないか、と思えるかもしれない。人間 はなぜ経験に学ぶことができないのか、と問うて、それは人間が正しい自己認識 を持たないためだ、と言い、では、なにゆえ、人間は正確に自分を知ることがで 現代文 ▼ ラジオ学習メモ きないのか、という問いに、経験を十分に生かすことが不得手だから、と答えた のでは、たしかに堂々めぐりとしか思えまい。 しかし、 実を言うと、 人間は次のように、 この堂々めぐりの中で生きているのだ。 すなわち、人間はまず経験によって自分の意識を持ち始め、次いで、形作られ た自己意識をさらに経験によって修正し、あるいは確認し、あるいは変質させて いく。そして、その自我認識が再び経験による学び方を向上させる、というふう しんげん に、 自分を知ることと、 経験を生かすこととは、 不即不離の関係を保っているのだ。 だから、 「汝自身を知れ!」というデルポイの箴言と、『イソップ物語』とは、 表裏一体を成していると言っていいであろう。イソップが説いたのは、まさしく、 − 133 − 己の正体をはっきり見定めよ、という忠告であり、同時に、何より経験をしっか 第 57・58 回 りと生かせ、という戒めであったのだから。 ▼作者紹介▲ 森本哲郎(もりもと・てつろう)1925〜2014。東京都生まれ。 評論家。新聞記者を経て、世界各地を取材しながら歴史・文明論につい て論じ、著書に『日本語表と裏』『文明の旅』『ある通商国家の興亡ーカ ルタゴの遺書』など多数。本文は『森本哲郎 世界への旅第九巻』より。 現代文 ▼ ラジオ学習メモ