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大八洲開拓を築いた女たち - 大八洲開拓農業協同組合

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大八洲開拓を築いた女たち - 大八洲開拓農業協同組合
大八洲開拓を築いた女たち
一、女が主体の再起の開拓
1集団入植の誓いを胸に
﹁どんなことをしてでも日本へ帰りたい﹂死線をさ迷いな
がらも執念のようなこの思いを胸に燃やし続けて大八洲開拓
団の人々は日本へ帰ってきた。佐藤孝治団長が引率する主力
グループ八十人が佐世保から東京に着き、上野の寛永寺に案
内されたのは昭和二十一年九月十二日だった。引揚援護局の
係員が今後のめいめいの落着先を直ぐ尋ねたが、上陸直後の
石原八重子
身寄の無い人もあるから勝手な行動は許さなかった。集団入
植のめどもついたので交代で郷里に挨拶に行ってもよい。身
寄もみんなの無事な姿を見て二、三日は喜んでくれるだろう
が、しばらくすれば裸の引揚者まで面倒を見切れないという
ことになる。仲間と入植する所があるということならむこう
も歓迎してくれると思う﹂といい、一週間以内の里帰りを許
可した。
は無理という意見であった。しかし、全員が一緒に入植する
省や拓務省に行って交渉したが、女子供の多い集団での入植
なり、そちらに移動した。団長はじめ主だった指導者が外務
所を頼り、日輪兵舎と生活用具を借りて入植先を探すことに
そこで、渡満のよりどころになった茨城県内原の義勇隊訓練
とに対しても身寄の中には﹁誰か一人残して行けばこんな時
いを隠さない家もあった。また、一家をあげて渡満した人び
わからない者に得心がいかないとか、裸同然の姿の嫁に戸惑
地の親に報告したカップルが多かったので、どこの馬の骨か
では、指導者のお膳立てでにわかに結婚式をあげ、事後に内
を訪ね、親兄妹の人びとに初対面の挨拶をした。大八洲開拓
満州の開拓地で団員と現地結婚した女たちはまず夫の生家
のでなければと三日も四日もねばり続け、ようやく茨城県の
死を共にしてきた仲間との落着き先があるという思いに支え
そんな口ぶりを聞いても、この人達に世話にならずとも生
困らなかったものを﹂とも言った。
事に日本に帰って一刻も早く親兄弟に会いたかったろうが、
に援農に行き食料を貰いながら食いつないでいた。団長は﹁無
菅生沼への目当てがついた。その間団員たちは内原周辺農家
ことで団長はじめ誰も入植先の見当がつくはずがなかった。
③
−48−
←▲』■
復員して団長の帰りを待機していた元団員弥栄開拓の仲間と
期待が大きく膨らみ勇んで内原に集まった。一方、奉天組や
思い出を語りあえた人びとの胸に、開拓で再起しようという
中夢にまで見た生れ故郷の変わらぬ山の景色に浸り、身寄と
られ、卑屈にならずに対応することができた。満州の逃避行
りるほどの寒気が迫った。
ャンプ生活と違い、十一月から冬場に向かう幕舎には霜が降
合わせに昼間の身仕度のままごろ寝した。夏の二、三日のキ
の中央に通路と囲炉裏を設けた。寝る時は通路をはさんで足
幕舎の床は草を敷きつめ、その上に荒むしろを敷いた。幕舎
と分かれた。女の一番奥に佐藤団長夫妻が用心棒に入った。
百人ほどの集団が移動したものの、衣、住、食をくり廻し
3すきっ腹かかえての土方仕事
も連絡がつきはじめ、共に入植を希望する人が内原へと集ま
った。
2菅生での天幕生活はじまる
の人たちは無気味な集団がやってきたと思っただろうと述懐
が吹き出したくなるような光景だったから、これを迎えた村
所に向かって歩いた。行列の中にいた遠藤きよのさんは自身
るもの、乞食の群が移動しているかのような一団が樽井集会
大鍋、小鍋、大鎌、鍬、鎌、毛布等を背負うもの、手に下げ
を手に手に持っての菅生入りだった。天幕、筵、盛、手桶、
った。内原の義勇軍用の生活用具を払い下げてもらい、それ
人々は三回に別れて引越してきた。当時鬼怒川は渡し船で渡
団長をはじめ五名がみんなの受入体制づくりに入り、あとの
下検分に行き入植を決めた。第一陣として十一月十日、佐藤
ずにまぜ返してみたが、さつま芋二、三本の朝食では十時頃
いを入れられ、﹁今日という日は十二時まであら−﹂と負け
男の人夫が出ていて﹁のろのろしないで早くやれ!﹂と気合
くるといった相当な力仕事だった。まわりの村からは頑丈な
た。砂をすくい込んだトロッコを押して行って、砂をあけて
村から出役している男の人にまざって女たちも土方仕事に出
世帯だったが、土方仕事は男のするものなどといっておれず、
夫として働けるようになった。入植世帯四十戸中十八戸は女
消え無一文のさまだった。幸い移住後三日目から堤防工事人
千円も帰郷の旅費の残も鱸金したほどだが、すべて食糧代に
新京から持ち帰った生活資金は無論のこと、上陸時支給の
ていく算段があったわけではなかった。
している。樽井の集会所が借りられ、そこに夫婦もの四組ほ
には空腹で眩量がしてきてよろよろとしか仕事ができなかつ
茨城県農業会が緊急開拓事業として始めた菅生沼に幹部が
どが入り、あとの人は二つの天幕に男の一人身、女の一人身
−49−
に米をぱらぱらと振り込んだ重湯のような食事では何時も空
﹁郷里から助けてもらって自分だけよい思いをしないで、こ
佐藤団長自身の生活は公平無私に徹しており、みんなにも
っでも分け合って食べるのが常だった。
きっ腹で﹁昼はまだか﹂﹁夕食はまだか﹂と食べることばか
この全員分送ってもらえ﹂と常に戒めていたから、一人よが
た。さつま芋に麸を練り込んだ団子やさつま芋と大根、それ
り考えていた。
い茂っていた。最初は大型トラクターもなく人力での開墾だ
ともあるが、堤防が見えない程河川敷に葦や柳、茨などが生
の人間ではない﹂と村の人は言っていたという。﹁全員が同
芋に塩汁に耐えながらの土方仕事を見て、﹁開拓の人は普通
真冬に素わらじ、下着一枚にモンペという薄着で、さつま
りの暮し方はできなかった。
った。ジャングル化した草を刈るのに大鎌が数丁あったが、
じ苦しさだからこんな乞食生活にも耐えられる。これでも満
開墾は流作から始まった。当時鬼怒川の土手が低かったこ
空きっ腹では鎌を持つ手がすぐに上らなくなってしまう。掘
洲で避難していた時よりずっとましだ﹂と女たちは心の底か
間も続くような中でも、天幕を吹き飛ばすほどの大笑いをし
り起した茨の根を焼くとカタツムリやバッタが食べ頃に焼け
があったり、正月には餅米や切り餅などを貰うなど一息つく
たり、喧嘩もとことんまでやり合って腹に一物も残さぬやり
ら思っていた。むしろみんな同じだったあの時が一番楽しか
こともあった。とにかく百人にものぼる人々の食糧の調達は
とりをして共同生活を成り立たせていた。女たちは、この大
ていたり、冬眠中の蛙や蛇をとって焼き、栄養補給をした。
並大抵ではなかった。食糧は借金で買うのだが、一食ごとに
八洲開拓以外に自分の生きる道はないと心に決めていたので、
ったとさえいう。着替え一枚なく、さつま芋の食事が十八日
農家を回っては食べ物を分けて貰い歩いても﹁今日はないわ﹂
共同生活を壊してしまうようなことはできなかった。
冬の野菜の少ない時期に地元の農家から干し葉の差し入れ
という返事ばかりの時もあった。土方仕事から待望の夕食に
4女としての悲しみ楽しみ
帰ってきても食料がまだ手に入らず、食糧係が必死になって
村々の家を探し歩いているような時もあったが、結果的には
﹁馬鹿野郎!﹂﹁こん畜生!﹂などと大声で叫ぶ声、泣き
ここに来てはじめての正月二日のことだった。この日はじ
ながら歌う声が松林に木霊した。
何がしか給食され−回も欠食したことはなかった。時には山
形の身寄から食物を送ってきたり、幕舎の中に貯蔵してある
種芋を盗み出して焼いたりしても、そこに居る仲間と少しず
−50−
ちがどぶろくでぐでんぐでんに酔っていくのを見ていた女た
とは自由時間だった。焚火やクリーム瓶のランプの明りでお
女は幕舎に帰れば炊事や風呂の心配はなく、食事をすればあ
ずして土方用の足袋やズボンなどに作りかえた。土方仕事の
ちの処へマッカー︵進駐軍のマッカーサーになぞらえた高橋
しゃべりをしながら縫い物や手紙を書くのが楽しみだった。
いさま︵佐藤団長のこと︶の年祝︵四十二才︶をした。男た
組合長のあだ名︶が来て、とって置きの配給の酒を一人づつ
女たちは、隠しだてをしたり見栄を張ったりしてもお互いに
いう。この頃の大八洲開拓では滝口氏のように当人同士が直
話があり、十一日に見合いをし、十九日に結婚式をしたいと
山形へ帰り結婚式をあげた。滝口シンさんは四月九日に結婚
て、十八日に天幕の中で行なった。これと同じ頃、滝口氏が
身の嫁さんと大場、井上、杉原、今井さんの花嫁を連れて来
この合同結婚式は高橋組合長が山形に花嫁を募集にいき、自
嫁がきて合同結婚式をあげたのを皮切りに次々に結婚した。
して大八洲入りしてきた。昭和二十二年に山形から五人の花
員してきた。元団員だけでなく、次三男の人々も開拓を希望
昭和二十三年∼二十五年ごろはシベリア抑留の男たちが復
5結婚その暮し
況が見られた。
は淫らな話がとび出すこともあり、再婚の時期至るという状
常に戻った。そして一部に男と女という関係も露呈し、時に
ヵ月ほどして精神的に安定したのか、女たちの体は次々に正
すぐ見破られてしまうので飾らず接しあった。入植後三、四
に注いで回った。女たちは折角の酒を断わってはと鼻をつま
んだり涙を流しながら飲んだ。ところが気分が悪くなるもの、
酒の勢いで大声でわめく者がでたりするほどハメをはずした。
女たちは満州での夫の召集に始まり、引揚げ、子供や親兄妹
の死、入植の苦労、未帰還の夫の安否、これからのことなど
の苦悩を心にたたみ込んで極力明るく振る舞ってきたが、こ
の日は酒の力をかりて思いっきり憂さを吐き出したのだ。こ
の頃には引揚げの頃には見られなかった一種の荒んだ空気が
男にも女にも感じたという人もいるが、それらを探知した指
導者が策したものと思われる。
翌一月三日も土方仕事は休みだった。一人身の女たち十八
人が高峰三枝子主演﹁純情二重奏﹂の映画を水海道に見に行
った。一人五十銭の小遣いでは欲しい衣類も買えず、買い食
いもできないので映画見物を楽しんだ。外食券を持ってでた
が使わずに、持っていった麸団子を河原の土手で食べて帰っ
た。夏は暑いため昼休みが長かったから、女たちは昼寝を惜
しんで洗濯物やつぎ物をしたり、麸の袋で下着を作ったりし
た。また義勇軍の布団皮は丈夫な布であったので、それをは
−51−
一
接会って結婚する機会が少なく、写真や話だけで決め、しか
も身寄も立会わずに結婚式をしてしまうものが多く、これは
満洲での開拓時代の花嫁募集の時そのままだった。
心づかいをしてくれた。
昭和二十四年に山形からきた高橋アヤ子さんは、嫁入り用
の布団を開拓に視察者用に提供したり、結婚前まで勤めてい
た郵便局の退職金までも組合へ隙金したという。再起の開拓
引揚げてきた一人身の女たちも、じいさまや高橋辰左ヱ門、
山形で娘時代を過ごした花嫁は物資の少ない時代とはいえ
われて大八洲開拓に来たという。合同結婚式をした人たちと
田中長次さんなどから再婚話をもちかけられ、つぎつぎ結婚
にかけた大八洲の人々の意気込みの中へ、嫁入った女たちも
共に組合事務所の二階に住むことになった。また大甕の製塩
した。相手の人は大八洲開拓の人であっても職場が違ったり、
嫁入りの日のために整えた衣類や日用品があった。滝口シン
作業へ行った組もあった。新婚組は二人づつ炊事当番に出て
山形から来たばかりの人であったりで話もしたことのないの
積極的に踏み込んでいったのがうかがえる。
共同炊事をした。麸団子や三食さつま芋の食事は初めてだっ
に﹁なあいいく、いいべ﹂とたたき込まれて、何も解らない
さんは手織り布を京都で染めた着物におたいこ姿で、夫に伴
た。山形の人はさつま芋が珍しかったので続けられたが、中
まま承知した人もあった。
墾で掘り出した葦や茨の根っこを焚いて炊事をするが、なか
の仲間が集まって祝った。ご馳走はその都度有り合せのもの
式も急に決まるので、郷里の身寄を呼ぶわけでもなく開拓
おおみか
には胸がやけて干いもにしないと食べられない人もいた。開
なか火がつかず苦心した。引揚げてきた女たちは何をするの
て、里芋や牛葵の大きな葉にのせて出した。祝い酒は一、二
で、茄でたえび蟹に、芹、じゃが芋、里芋など何でも料理し
皆が親切に手ほどきをしてくれたが、山形でのんびり暮し
升しか手に入らないので皆に酒がいきわたるように勝手元で
も手早く上手で、土方仕事もばりばりやるので驚いた。
てきた者はその気合いの入った女についていくのは命がけだ
は水でうすめて出したという。心のこもった﹁本当によかっ
たね﹂と誰もが思うような結婚式のお祝いをしたと結城良子
った。﹁夫の顔に泥をぬってはと思い頑張った﹂という。
大八洲では衣類の補給はなかなかつかず、引揚げた女は軍
夫は組合や加工所、大工、開墾など、妻は炊事、託児、病
さんはいう。
顔をしていた。山形から嫁入した女の着物を肩にかけ合った
人の世話、開墾などの仕事を割り当てられ、別々の職場で働
服にわらじ履きだったが、皆若いので化粧をしていて明るい
りしてふざけ、みんなの中に早く解け込めるように何くれと
−52−
一
いた。流作の開墾は幕舎から遠かったので、流作に仮小屋を
つくって寝泊りしたから、そこに行った妻は週に一度くらい
十ヘクタール近い田畑は一夜にして泥水の下にもぐってしま
うのだった。
の机で食べていたし、入浴も行った者順で男女、子供の区別
と思って、誰一人手を上げる者はなかった。こんなひどい水
手をあげろ﹂と言った。皆はじいさまの口癖がまた始まった
じぃさまは皆に﹁こんな水害の多い処にいる気のない者は
なく入り、夫婦が一緒に入浴するものならみんなに嗽された
害でもじいさまと一緒に居れば何かの方策を考えてくれるに
しか夫のところに帰らなかった。食事は男は男、女は女と別
りした。裸を人に見せるなど余り気にならず、夏は上半身裸
違いないという信頼があったからだ。心底では本当に困って
いたが、この集団を離れて自分の生きる道は到底見つからな
でいた人もいた。とにかく夫婦の間は淡々としたものだった
と女たちはいう。
昭和三十年溢流堤が完成した。ところが、これは洪水時に
かった。
が、無理矢理の夫婦の組み合わせや満洲以来の共同生活で個
利根川が危険水位に達すると開拓地に水を流し込む堤防であ
夫を持つ人、妻をなくした人への心くばりもあったようだ
より公益の考えが強く、集団の中では夫婦の結びつきはかす
それより女同士や佐藤団長への敬慕の気持ちが濃かったと
ばという切迫した雰囲気の中で、男たちは北海道かブラジル
流作の住宅は水浸しにあった。もう開拓の場所を変えなけれ
った。昭和三十四年にこの溢流堤が決壊し大水害に見舞われ、
もいう。満洲開拓の花嫁募集、合同結婚式、共同生活という
かなどと真剣に考えたむした。だが、女たちは、もう外国に
みがちだった。
スタイルが戦後の大八洲においても継承されていた。
思っていた。生命をおびやかされた引揚げの時のことを思え
は行きたくなかった。官分たちの住む場は流作以外にないと
6連続水害に見舞われる
ば、水害は体が無事なだけでもましだ。さつま芋を食べて開
墾をしてきたこの土地を離れられるかという気持ちだった。
菅生沼は利根川と鬼怒川の合流地点に近い水害常習地とい
われるところで、入植翌年の九月辛苦の末の稲の収穫を手に
男たちも次第に此処での再建を考えるようになった。
二、共同経営から個人経営へ
することなくカサリン台風の洗礼を受けた。その後も毎年し
かも梅雨期の集中豪雨と九月の台風と二度の水害に見舞われ
るという惨憎たるものだった。血みどろの努力で開墾した三
叩i
−53−
1個人経営へのスタート
大八洲開拓は昭和三十年十月で個人経営へと移行した。こ
れは全面共同を長く続けた苦悩の結果の成り行きであった。
中略
んのいうとおりなんだよ。よく考えてみると、ここに居れば
病気の時でも医者にはかかれるし特別食も作ってくれるんだ
から、欲をいわなければ安心な生活だったんだよなI﹂と佐
藤元組合長の厳としたしかも暖かい指導を思い起こして、そ
どいろいろな組み合わせの生活用具をもらい、新生活をスター
という。御飯茶碗、皿、鶏四十羽という家、子牛、鍬、鎌な
部落ごとの総意で配分しあった。大原ではくじ引きで分けた
ルが配分された。共同財産の飼養家畜や農具、食器などは各
底から力が湧きあがってくる感じだった﹂と皆いう。個人経
時代の十分の一にも足りない面積だったが、それでも﹁腹の
た。このことが働く励みになったのはいうまでもない。満洲
重要なことは自分の汗を流す農地が決まったということだっ
個人経営になったとはいえ農具も肥料も満足にない。ただ
ういった。
トさせた。住居はそれまで住んでいた幕舎や流木で建てた家
営に入ったら診療所の受診者数は激しく減った。それは診療
個人経営移行にあたって一戸宅地十アール、耕地百五十アー
に当分居る家族が多かったが、自分の畑に小屋を建てる家な
所なんか行っている時間を惜しむ程に働かなければという気
①旱ばつに泣く大地
2月の光の下で働きぬく
持ちの現われだった。
どもあった。長い共同生活の中で個人に属する財産のストッ
クは何もなかった。それは共同生活を円満に成立するために
﹁持てる者持たざる者﹂をつくらないという佐藤元組合長の
指導理念によるものであった。
滝口シンさんは﹁山形の実家に行って腹いっぱい御飯食べ
続くと赤土は灰のように舞いあがる。五、六センチぐらいし
素住台、大原の土は火山灰でごろごろしていたが、天気が
へ行って許可と旅費を出して貰わなくちゃならない。何のた
か表土を耕していないので何を蒔いても実らなかった。共同
てみてえと思ったことあるよ。そのためには事務所︵組合︶
めに山形に行くのかとさんざん聞かれたあげくに、おめえ一
の頃、畑地かんがい用に掘った深井戸は、旱ばつの解消には
亜麻など、土地が低く水が廻りそうな処に陸稲を蒔いた。小
余り役に立たなかった。畑には大麦、小麦、落花生、すいか、
人満腹になるんじゃなく、ここの人達全員が食べられるだけ
貰って来いと言われるに決まっている。だから山形に行くこ
となんかできなかった。実家の無い女もいるんだから団長さ
−54−
−
1
麦は地力がないので枯れてしまい、亜麻は一本一本収穫しな
冬場は男たちが東京方面へ土方仕事に出た。その行きがけ
土方仕事は残業をしても月一万円ぐらいにしかならなかっ
に守谷駅脇の共栄酪農に乳缶を持っていって貰うため、女た
量は十アールあたり四俵ぐらいだった。各戸で収穫したもの
た。それに乳代から五千円づっ組合からもらった。それでも
ければならず、手間がかかり過ぎ栽培を止めた。大麦は百アー
は一旦組合に出し、米麦を食料用に再配分された。主食は相
夫の煙草銭や定期代を出すのに苦労したものだ。駅まで通う
ちは四時起きで、夫の朝飯、弁当づくりをし、搾乳をした。
変らず大麦七米三の割合で、炊きあがってもボソボソだった。
自転車や鍋釜などみんな借金で買っていたので、盆暮れには
ルぐらい蒔いた。雨の多い年は草との戦いで、盆前までは月
その頃の大麦は丸麦だったから半日ぐらい水に浸して炊く
借金とりが来て、自転車を引あげるなどと脅かされた。子供
牛は一、二頭しか飼っていなかったが、家に残った女たちは
か、さつま芋を入れるなどしてなめらかに食べる工夫をした。
たちは、家に金がない時は給食費を忘れたと言いつづけ、時
の光の下で草とりをする程だった。麦刈りは手刈りで、夫婦
夏は九時過ぎないと畑や畜舎から家に帰らないので、幼い子
間稼ぎをしていたようだ。学校で大麦だらけの弁当や貧乏暮
粗飼料刈り、麦の手入れ、落花生の脱穀などよく働いた。
供たちは真黒い顔や手足のままでごろごろしていた。腹をす
らしを馬鹿にされながら、親たちと共に開拓の暮しに耐えて
−55−
で十日はかかった。雨模様の時は昼夜の区別なく刈った。収
かせて待ちこがれているのに、それから大麦を時間をかけて
育った。
昭和三十年、念願の堤防が完成したが、これは利根川が危
②頼りにならない堤防
炊くので夕食は遅くなった。
そんな働きづめの母親の苦労を見かねて、子供たちは小学
校に入る頃には風呂の水汲みやご飯炊き、弁当づくりなど一
険水位に達すると開拓地に水が流れ込む仕掛けで、﹁溢流堤﹂
いたのだが、誰もこの堤防のお蔭で二度と襲われることはあ
人前にこなした。そして、早く大人になって親がこんなに働
生活費は卵代をあてていた。二十羽ぐらい飼っていた鶏が
るまいと思った。個人になってから開田は一層進み、三年目
と呼んだ。したがって、開拓地は遊水地の役目を負わされて
一日一キログラム卵を産み、二百円から三百円に売れた。そ
頃は三十五ヘクタールに広がり、収量は四倍近く伸びた。.
かなくてもすむように助けたいと思っていたという。
れで醤油、さんまなどを買ったり、脱脂粉乳の給食代にあて
生懸命やればそれだけ自分に返ってくると思って﹂と斉藤い
’
た。
’
せよさんは当時を思いおこす。
田植機が入るまでは田植は共同作業で、各戸から二人ずつ
4おしよせる都市化の波省略
経営規模も拡大し投資も多かったので、この堤防の決壊は流
は軒先まで泥水につかり、子供らは一時組合に避難させた。
になったが、牛は鬼怒川の土手に引き出し、流作地区の家屋
るという大災害になり田畑は全滅した。牛舎も農具舎も駄目
穫寸前の稲が水につかった。翌年の八月にも溢流堤が決壊す
台風二十二号で利根川の水は堤防を越す大洪水をおこし、収
葬式、四十九日までの七日毎の墓参り、法事、嫁入り、娘の
安心なことはない﹂と庄司きいさんもいう。組合内の行事は、
気になっても金のことを心配しないで医者にかかれるぐれえ
の世話にならない年もあるが、いざという時は安心だよ。病
ら年五万円の賦課金を出してまかなっている。.回も共済
った﹂と仲野みよ子さんはいう。冠婚葬祭と医療費は各家か
﹁今落ちついて考えてみると共済制度を残しておいてよか
5居なおって暮してきた女たち
作・浅間山両地区の人たちを奈落の底へ突き落とした。とく
お別れパーティなど人生の節目を部落や開拓全戸の参加によ
出た。稲の刈り取りは戸別作業だった。昭和三十三年九月の
に男たちは先行きを案じ動揺が大きかった。
ちでいた。組合の幹部たちの必死の陳情で、国・県。町。開
きっ腹で拓いたこの土地を離れられるか﹂と開き直った気持
されたあの時よりもましだ。もう何処にも行きたくねえ、空
ないと仕事が間に合わないとみんなが考えて出掛ける。どの
は﹁打合せなんかせなくとも、今日の集まりには何時に行か
﹁面倒くせえから止めんくえ﹂という声は出ない。庄司さん
女たちの仕事である。年に一回でこりごりしそうな人数だが
って進めている。参加者総勢百五十人もの飲み食いの演出は
拓者組織などがあげて復旧の援助をしてくれ、男たちも次第
催しの時だって自分の家のことのようなつもりで一生懸命だ
そんな中で満洲から引揚げてきた女たちは﹁命をおびやか
に気をとり直し再建に立ち上りはじめた。この大災害によっ
よ﹂という。
買った物をポコンと出すのは簡単だけれど、それじゃあ誰も
してもらい、赤飯でも煮物、おひたしなんかおいしく作るよ。
だよ、お刺身と煮物の材料を買うが、米や野菜は各家から出
また、梅津ハルさんもこういう。﹁出すもんは全部手料理
て野放図に個人経営へと走るのではと案じられた人々も、大
同団結によってこそ大八洲で生きられることを確認する機会
になった。
3生産基盤躍進時代省略
−56−
食べないもの。皆で作らないと大八洲のご馳走じゃあないと
思っているから、金で見せかけだけを飾ろうという流れにの
らず、一人一人がしっかり考え、自信をもって大八洲の築い
た伝統を守っているのだ﹂﹁おれ、おまえでず1つとやって
きちゃったから、いい言葉なんか使えねえ﹂と自分の根っこ
のある世間を恥じたりせず、裸一貫で築いた共同生活の中か
ら真に生きる体験を深め、価値ある暮しを見抜いてきた女た
ち。底抜けに明るく、人にとり入らず、温かく接する女たち。
私たちはそんな女たちに出会ってただ敬服するばかりだ。
−57−
なお、大八洲開拓の指導者の一人であった佐藤すずさん︵佐
藤初代組合長夫人︶が昨冬十二月急逝されました。心からご
冥福をお祈 り し ま す 。
︵山崎農業研究所所報﹁耕﹂一九八三年九月号より抜粋︶
大八洲開拓婦人部の皆さん(一世の方達)
(昭和60年4月1日、つくば科学万博会場で)
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